伝統板・第二

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実相を観ずる~「神想観」④ - 伝統

2019/10/23 (Wed) 04:32:36

《情感の神想観》

     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月23日)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 (消滅)

   伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」(光明掲示板・第二) 」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7917883

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(3)光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21

(4)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461369

(5)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879320

(6)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673407

           <感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>

神想観の最高の方法は、実相の世界の妙なる有様を観ることである - 伝統

2019/10/27 (Sun) 04:47:00


    *「光明道中記」(10月27日《神に融け入る神想観をする日》)より 

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を
精神統一の世界から招び出して来るために、目的事物を強く念ずる人がある。
そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。

神想観の最高の方法は、
愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との
充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 令和元年10月27日 頓首再拝>

「今」すべてが成就していることを、讃嘆・礼拝・感謝するのが神想観である - 伝統

2019/10/28 (Mon) 04:56:42


    *「光明道中記」(10月28日《良き種を蒔く日》)より 

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                      『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和・・・等々
一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面に創造するのではなくして、
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が
既に成就していると云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 令和元年10月28日 頓首再拝>

《一度に沢山の事柄を祈っても宜しいか》 - 伝統

2019/11/14 (Thu) 04:58:36


          *「真理」第9巻生活篇(P269~270)より

神想観中に祈る事柄は一つに集中しなければならないか、
と尋ねる人がある。

私たちの想念がバラバラになり何事にも統一しないようでは
神の波長にピッタリ自分の心の波長を合わすことができないから、
一度の神想観に一つの事物を祈る方が一層よいのである。

併し、神の側(がわ)から言えば、神は無限であり、
「祈るに先立って無くてならぬものをすべて知り給い、
既に実相に於いてはすべての善きものを与え給うている」
のであるから、一度にいくら沢山祈っても、神にとっては
応え給うには余り多すぎると云うことはないのである。

だから私達が一度の神想観になるべく一事(じ)をお祈りするがよいと
云うのは人間側の理由によるのであって、神の側の理由によるのでは
ないのである。
「既に与えておられる神の恵み」の番組の放送に自分自身の心境の
波長を合わせ得(う)るならば、一度に幾ら多くの事柄を
祈っても差し支えない訳である。

           <感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>

『真の神我一体の聖境』 - 伝統

2019/11/29 (Fri) 04:45:10


         *『生長の家』(昭和6年5月 巻頭言)より

  釈迦が嘗て菩提樹下に精神統一して、
  今まさに成道(さとり)に近ずかんとせられたとき、
  悪魔波旬は釈迦の成道を妨げんがために多数の眷属をひきつれて
  百方手段をつくして誘惑を試みたのである。

  イエスも四十日四十夜荒野に断食静座して精神統一を行じて、
  『神の子』としての自覚に今将に入ろうとせられたとき、
  悪魔来たりて、またイエスを誘惑したのである。

  悪魔の誘惑とは何であるか。

  それは暗闇が光に照らし出されて将に消えんとする前の
  甲斐なきもがきが客観化したものである。

  それは消極的な力ではない。
  神想観中に起る『身体の霊動現象』もこの雑念の叢起と等しく
  迷いの自壊せんとするための最後のもがきにほかならない。

  されば神想観中に起る肉体の自動現象は、
  在来(これまで)の『心の迷い』が凝って肉体的障害となっていた部分の障りを
  自壊する方向に起るのである。

  自壊は自壊にまかせておけば好いので強いて止めるには及ばないのであるが、
  『迷い』の自壊したのちは、この自動現象は自然に止むべきものである。

  霊動必ずしも『神懸り』に非れば、霊動中は『神懸り』などと喜ばず、
  静かに『迷い』が自壊しつつあると観じてこの霊動状態を超克しなければならない。

  霊動を自慢にするのは外道である。

  最後に天眼通、天耳通等諸種の霊覚起るも、
  これらは殆ど悉く『迷い』であり、成道前の魔境である。

  魔境と云うのは『實相』以外の霊的波動、
  低級霊の宣託を感受するのであるからである。

  それは釈迦が悪魔を見た状態であり、
  悪魔が『若しひれ伏して我を拝せば、世の諸々の国と栄華とを与えん』と云って
  イエスを誘惑した状態である。

  霊覚を利用して栄達を望み成功を望む者は
  悪魔を拝して世の諸々の国と栄華を得んとする者である。

  釈迦もイエスもかかる場合は
  『悪魔よ、退け、主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ事うべし』
  と云うであろう。

  真の『神我一体』の聖境とは、
  ある異常の刹那に起る霊的現象に非ず、
  行住坐臥、常に絶え間なく、 神と共にありて、
  日常生活が自由自在に、
  流るる水のように、青空の雲のように、
  何のこだわりもなく行動し得る聖境である。

    ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17877178.html )

           <感謝合掌 令和元年11月29日 頓首再拝>

三種の神想観を怠ってはならない - 伝統

2019/12/13 (Fri) 04:49:58


      *「光明道中記」(12月13日《神の叡智につながる日》)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。

神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、
行ずる意志力を招び出だし、その行じ得させて頂く
その事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは
却って逆効果を呈することになる。


そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、

「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」

と観ずる神想観である。


実行の意志力を強めるところの神想観は、

「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」

と観ずる神想観である。



「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」

と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。


吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。

叡智なき行は崩れる。
行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

           <感謝合掌 令和元年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2019/12/24 (Tue) 04:52:34

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。
わたしは喜びそのものである。わたしは幸福そのものである。私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても心が統一し難いものである。
覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、
直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 令和元年12月24日 頓首再拝>

神想観なるかな、神想観なるかな。 - 伝統

2020/01/12 (Sun) 04:34:47


           *『生長の家』(昭和43年10月号)より

周囲の色々の意見に惑わされてはならないのである。 
私たちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。 
しかし盲従したり、色々の意見に振り廻されてはならないのである。 

色々の意見にはそれぞれの立場から見てそれ相応の美点がある。 
それらは全面的に排斥してはならないが、
また全面的に盲従してはならないのである。 

採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、
神想観によって実相のひびきを直感し、そのひびきに従って、
みずからの判断を最も正鵠なるものたらしめなければならないのである。

神想観なるかな。 神想観なるかな。

神想観によって実相のひびきを直感し、実相のひびきに融会合一するとき、
吾々は周囲の何ものにも煩わされることがなくなるのである。 
私たちは神想観を実修するのに特別の静寂なる環境を必要とすることはないのである。 
それは心の問題である。

喧噪な環境に於いて神想観を実修するときには、
それは人や機械や乗物が騒ぐと思わず、
それは天人が天鼓を撃って天楽を奏するのだと観じて神想観するがよい。 
少しも周囲の喧噪がさわりにならないで、神想観の妙境に入ることができるのである。

神想観の妙境に入り、神との一体感を得るとき、
死せずとも死せざる永遠の生命を自覚することができるのである。

神想観を毎日怠らず実修することによって私たちは、
それだけ “久遠不死の世界“ “永遠のいのちの世界” に
融合する程度を増すことができるのである。 

そして“永遠のいのちの世界” に融合する程度に従って、
私たちは其処からいのちの泉を汲出して来ることができるのである。

自分の抱えている問題に対して、実相の “いのちの泉” から汲み出して来た
叡智の一滴を加えるならば今までの問題の硬結もおのずから溶け去って、
難なく問題を解決することができるのである。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p5.html
07/29/13--18:58

              ・・・

この法語は、「人生の秘訣365章」(P214~216)に収載されております。

(1)実相のひびきを直感すること(P214)

(2)喧噪の中にも喧噪を見ず(P215)

(3)”久遠不死の世界”に入(い)ること(P215~216)

            <感謝合掌 令和2年1月12日 頓首再拝>

『祈り合い神想観』の功徳 - 伝統

2020/01/28 (Tue) 05:03:55


        *『光の泉』(昭和38年新年号) より

 汝らのうち病める者あらば、吾が教えの先達の許に来りて祈りを乞い神想観の指導を頼め。
 吾が教えの先達は吾がことばを受けたるものならば、彼の言葉汝を癒さん。・・・

 汝らのうちに病める者あらば互に祈り合うべし。
 互いに祈り合うとき、吾が力汝らの上に来らん。

 自己が癒されることを祈るはなお自己の利害にとらわれていることもあり、
 互に祈り合うとき愛の心あらわれ、神の霊波そのままに汝らの上に感ずべし。

 病める人のために、その人を訪れて、祈り、且つ神想観をなすべし。
 祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、
 いずれも神の霊波に波長の合わぬ波動なりと知れ。

 地方の信者たち互に団結して祈り合え。
 家族同士互に祈り合うべし。
 祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず。

 神の力なり。
 本(もと)を忘るべからず。
 愛をつくし合い、敬虔を竭し、誠を竭し合い、神を敬すべし。

 この世界は光と迷いの反影が交錯してあらわれている映画なれば、
 迷いを一日も早く消すが世の苦難を救う唯一の道なり。 

  (昭和七年八月十二日神示)


ただ自分だけが治して貰いたいつもりで、
「神の癒す力が流れ入っている」と念ずるのでは、
それは「自分が治して貰いたい」というだけですから、
一種のいわば利己主義の心が幾らか働くのであります。

これに反して、他の人々を治して上げたいという思いが、
その会合のグループから起こってくるとこれは全然利己主義じゃなくて、
純粋に愛他的でありますから、神の愛の心そのものに波長が合う
ということになりますから、

この 『祈り合い神想観』 をして、
プラス(+)とマイナス(-)と、「与える方」と「受ける方」とが
シックリ調和してつながり、電気の陰と陽との結びつきというような
神想観が其処に行われるということになるので功徳が多いのです。

神様の癒しの世界は純粋に愛他的な心が必要なのでありまして、
利己主義は、神と自分とを相隔てることになるのであります。だから

   『祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、
   いずれも神の霊波に波長の合わぬ迷いの波動なりと知れ』

と神示には仰せられているのであります。


「あなたの癒されるために祈って上げますから、幾らくれますか」と
欲張ってもいかぬし、「奉納金は幾ら要るのですか、
いや、あんなに取られたらかなわんな」と思ったりして
金を出し惜しむ心を出すのも、金を貰いたいと欲張る心を出すのもいかぬ。 

そういう心が働いたら神様に波長が合わないので効果は少ないのであります。
だから

   『祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、
   いずれも神の霊波に波長の合わぬ迷いの波動なりと知れ』

と教えられているのであります。また “懺悔の神示” には、

   『地方の信者たち互に団結して祈り合え、家族同士互に祈り合うべし。
    祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり』  と示されています。

「癒し」は皆、神りの力ですから、
「私があんたを治して上げたから私に御礼を寄しなさい」なんて言うのは、
神の御徳を自分に奪いとって神を冒涜することになるのです。

それは、病を癒し不幸を癒す力は人間にはないのであります。 
みんな神の生かす力、癒す力に依って、癒されているのであります。 

祈っても祈らなくても治るという事実があるのは、
神の力が常に働いていられるということである。


一例をあげれば、吾々が怪我をしても中から肉が上がってきて、
皮膚が出来てくるというのは、人間の力で出来るものではない。
それは神なる内部生命が、肉を盛り上げ皮膚を新たにこしらえて下さるのであります。 

ですから、どんな場合にも、儂が祈ってやったから治ったのだ、
儂が治してやったのであるから、御礼を私が貰うのは当り前だ
などと思うのは増上慢なのであります。それで神示には

  『祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり。本(もと)を忘るべからず』

と書かれているわけであります。 更に神示は訓えられます。


 『愛をつくし合い敬虔を竭し合い、誠を竭し合い、神を敬すべし。
  この世界は光と迷の反影が交錯してあらわれている映画なれば、
  迷いは一日も早く消すが、世の苦難を救う唯一の道なり』  と。


そういうわけでありますから、皆さんは神を本(もと)として、
真理の光を拡げることに依って「迷い」が消え、「迷い」が消えることによって
色々の苦難から人々が癒されるのであります。

しかし、癒されても自分が癒したと思っては神徳を自分に横取りすることになるのであって、  
「自分はただ天の使いとして、神様のお使いとして光を配達させてもらったのである。
自分が功徳を積まさして貰ったのである。有難うございます」  と、
そういう感謝の心になることが、

神様と人間との間の不導体である我欲を取り除き、
神様の御力を自分に発顕するための必須の条件になるのであります。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17804125.html)(消滅)

   (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/1ae182da84d7222b9779c7e00e90e231

            <感謝合掌 令和2年1月28日 頓首再拝>

祈りのある瞑想 『神想観』 - 伝統

2020/02/22 (Sat) 04:59:41


       *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2018-10-28)より

いま世界には、ヨーガや禅をはじめとして数多くの瞑想法があるが、
生長の家の瞑想法である 『神想観』 は、それらの瞑想法を
さらに完成するところのものである。

『神想観』 とは単に、生長の家創始者である谷口雅春先生が、
自ら考案されて我々に伝授されたといった種類のものではない。

また、これまで世界に現存する様々な瞑想法や祈りの中から、
谷口先生が比較検討して選び出されたものでもない。

それは、神御自身が、みずから谷口雅春先生を通して
全人類に伝えられた “神授の瞑想法” なのである。


『神想観』 は、正座、瞑目、合掌、呼吸という“外的な形式”と、
感謝、招神歌(かみよびうた)、気合、黙念、精神集中、暝視という
一連の“内的な形式”とが一つとなって構成されているが、

たとえばこの外的形式をみるだけでも、
それがこれまでの如何なる瞑想形態にも見られない独自のものであることがわかるであろう。

そこで、『神想観』 の本質とは何か?

それは「実相観であり、神を讚美する祈りである」と言うことが出来るのであろう。
即ち、『神想観』 は神との人格の交わりであるところの“祈り”と、
真理に裏付けられた“観法”とが一つに溶けあった瞑想法なのである。

具体的には、自分自らの心を、現象世界からクラッと転じて、
実相の世界に振り向け、神の無限の智慧、愛、生命、供給、悦び、調和に満たされて、
光明燦然と輝いている自分を、ひたすらなる精神統一の瞑目の内に観ずることにより、
神の創造せる完全な世界を現実にも招来する画期的な瞑想法なのである。

それ故に、この 『神想観』 の根本には

「この世界は神のみであって、一切の悪はない」

という唯神実相哲学が一大前提となっている。

唯神実相哲学とは

「実在するものは唯“神”と“神の生命または愛または智慧”の表現のみであって、
神は善であるから、実在するものは全て善ばかりである。
このことが、存在の“実相”すなわち“本当のスガタ”である」

という哲学であり、それはまた一種の実証哲学でもある。

つまり、そのような人生観を持つことによって、
実相の完全さが現象世界に写し出されて、幸福な世界があらわれてくるというのである。

従って、『神想観』 とは、心で善のみの世界を観ることと、
心の中で善のみの世界を言葉によって唱えることによって、
善のみが実在するところの「実相世界」 〈神の国〉 を現実化する最高の瞑想法であり、
混迷する現代を救済する、まさに神が人類に与え給うたところの、
“天与の瞑想法”ということが出来るのである。

https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/d4113401c5949a688c73ac0ae0e82b22

            <感謝合掌 令和2年2月22日 頓首再拝>

神想観についての心得書き  - 伝統

2020/03/08 (Sun) 04:29:18

      *『 光の泉 』 (昭和35年12月号)より 

セオソフィー(霊智学(れいちがく)と訳す)と云(い)うブラバッキー夫人と云う
ヒマラヤに住んでおった非常に霊能のある人が始めた宗教があります。

それとの医学的の関係を書いた本を私が最近(昭和三十四年)
『 靈智醫学(れいちいがく)と治病 』と云う翻訳書で出しましたけれども、
あのセオソフィーの一派の教祖さんでアメリカに居りました
アリス・A・ベーリー夫人と云うのがあります。

この人は一昨年死にましたけれども、この人は大変霊能の高い人でした。

それがこの“ 精神集中のために、必要なる練習の仕方としてあげた所の方法 ”は、
これが神想観の時にも非常に参考になるので、紹介いたします。


神想観の時にも斯(こ)う云うような気持でおやりになるが良いと思うのであります。

それで次に引用したわけであります。

(1)肉体を安らかに どこにも凝(こ)りのないように統制する

   「 凝りがない 」と云うことは、「 だらしない 」と云うことではありません。

   生長の家では、一番正しい坐り方にあることが、どこにも凝りのない姿勢であるとして、
   尻を後方に引き、前方にある膝(ひざ)と尻とで背骨を載せる三角の台たらしめ、
   其(そ)の上にちゃんと柱である背骨が立って、重心が一定の処(ところ)へ落ち着いて
   一番楽で長時間疲れない姿勢と云うのが、あの生長の家の神想観の正しい姿勢であります。

   普通西洋人はあの坐り方が出来ないものでありますから、
   椅子にかけて凭(もた)れても良いですけれども、
   日本人は『 詳説神想観 』に説明してあるようにして坐る方がよろしい。

   坐禅の姿勢などは、大体あれと同じ姿勢で尻を後方に引いて
   背骨を立てる姿勢でありますけれども、
   坐禅は印度(いんど)に発達した坐り方であります。

   印度はあんまり温かいから坐っている内に居眠りを催すことがある。

   だから居眠っても、坐禅の結跏趺坐(けっかふざ)という
   あの太股(ふともも)の上へ足先を挙げて
   組み合わし三角の座にする姿勢でいると、ひっくり返らないのであります。

   それですから、あの結跏趺坐の坐り方をします。

   しかし婦人があの姿勢をしていると熱帯国では蛇が往々婦人の要所に侵入して
   ちつをつきやぶることがあるので、半跏趺坐(はんかふざ)と言って
   一方の片先だけを太股の上にあげ、他方の足の踵(かかと)をもって
   要所をふさいで坐るとされています。

   日本的な神想観の坐り方は万全の坐り方で、どの点からも隙(すき)がありません。


(2)リズミカルな規則正しい呼吸をできるだけ静かにゆっくり行なう

   これは呼吸だけの調整でありますが、
   神想観では念ずる言葉と呼吸とをちゃんと調和 して、

   息を吸う時には、「 神の生命(いのち)流れ入る 」 と念じ、
   その息を吐くときには、徐々に吐くために腹部に力を入れて張り出 し
    「 満たされている 」 感じを誘導 し
   「 神の生命に満たされ、生かされている 」 と念じます。


(3)自分の肉体、感情体、及び精神体のすべてが自分の脳髄をアンテナとして
   宇宙霊の流れ入る所の流入口となり、わが想念によって全身心が浄められ、
   それによって支配されると感ずる。

   「 感情体 」 と云うのは、「 幽体 」のことであります。
   それから「 精神体 」と云うのも、やっぱり“ 想念の体 ”であって
   “ 幽体の表面 ”の方であります。

   “ 感情体 ”の方がもう一つその奥の方に在るのであります。

   我々の体(たい)は、大別すると肉体、エーテル体、幽体、霊体の
   綜合体(そうごうたい)で、その中心に本体と云う実相の、
   「 現象以前の本体 」があるので、各々の体は 本体の周辺に層を成している
   と考えてよろしい。

   もっと細(こまか)く分ければ いくらでも分類できますけれども、
   “ 感情体 ”及び“ 精神体 ”と云うのは“ 幽体 ”のそれぞれの層であります。

   そして肉体は現実的な感覚を司ります。
   その肉体と幽体との接着(つなぎ)のハタラキをするのが
   “ エーテル体 ”であります。

   その“ 幽体 ”は眠っているときなどに幽界に出遊することがあります。

   また、眼が覚めているときでも、多少一寸横へ寄ってズレている事がある。

   つまり肉体とピッタリ重なり合わないで、
   一寸(ちょっと)‘ だぶって ’いるように見える。
   そう云う所から、それを英語でダブル(double)と言います。

   肉体と二重写しのようになって見えるので、
   「 複体(ふくたい)」と日本語で名称づける場合も

   あるのであります。


   神想観の時には、この肉体および感情体並びに精神体が、
   自分の脳髄をアンテナとして、
   自分の全体に宇宙霊を流れ入らしめるように感ずるがよい。

   そうして宇宙霊によって自分の全存在が浄(きよ)められるように感ずるとよろしい。


(4)意志の力により、ある一定の言葉を心に念じて それに精神を集中する

   生長の家では、「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」 と云う語(ことば)が
   基本的な神想観に於ける念ずる言葉でありますが、それをじーっと念じて
   意識朦朧(もうろう)としたり、無念にならないで
   意識をはっきりとその言葉の意味に集中するのです。

   その時に唱える言葉を呪文みたいに無意味に繰返して無念無想になってしまって、
   何らかの霊に憑依(ひょうい)されるようなことになると、
   一種の呪術(じゅじゅつ)(まじない)になってしまって
   本当の神想観ではなくなってしまうのです。

   同じ念ずる語(ことば)を毎日繰返していると、それが習慣的になって、
   唱えていることばの意味を本当に想念しないことになると
   かえって効果が無いのであります。

   その言葉の意味を通して 真に神を想(おも)うところに効果が有るのです。

   また、あんまり習慣的に同じ言葉を唱えていると、
   心に余裕が出来てその言葉を心の一方で唱え乍(なが)ら、
   こころの他方では他の事を考えたりします。

   「 ああ今晩家へ帰って何を御馳走(ごちそう)こしらえようか 」なんて他方で思い乍ら、
   一方で「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」と念じているという事になる
   のですから、そこで、そういう事になってくると別の言葉で念ずるようにするのです。

   そうして、最初念じた言葉よりも、もっと深い意味を含んだ複雑な言葉を念じます。

   「 如意宝珠観(にょいほうじゅかん) 」 であるとか、
   「 四無量心(しむりょうしん)の神想観 」であるとか、
   「 観普賢菩薩行法(かんふげんぼさつぎょうほう)」 であるとか云う

   もっと複雑な念じ方の神想観をやって、
   複雑な相(すがた)を眼の裏に描いて観ずるようにします。

   その念ずる時に、例えば 「 流れ入る・・・ 」 と念ずれば、
   ある光体が流れ入るような有様を眼の裏に描いて、目を閉じているけれども
   その奥に在(あ)る「 心の眼 」で、じーっと それを見詰める気持ちになると、
   意識がハッキリしながら精神が統一し易いのであります。

   時には 次のように清浄化され精妙化され霊化されたる自分を念ずるのもよい
   のであります。


(5)かく精神を集中して念ずる所の言葉は大体次の通りである―

   「 吾が本体は、太陽よりも尚一そう光輝燦然(こうきさんぜん)として輝き、
   雪よりも尚一層清浄であり、エーテルよりも尚一そう精妙であり、
   これがわが中(うち)に宿る霊であって、それが本当の自分である 」



   セオソフィーのように斯(こ)う云うような意味を念ずると、
   一層自己が「 肉体 」ではなく「 霊化されたもの 」と云う自覚を得るに
   便(ベン)であります。

   併(しか)し、此(こ)の通りの言葉と云うように、
   そんな型に はまった念じ方でなければならぬと云うんじゃないのです。


   これを参考に、また『 私はこうして祈る 』の本にある祈り方をするとか、
   兎(と)も角(かく)、無意味な呪文を唱えるようなことにしないで、
   意識の中に意味がハッキリあれば良いのです。

   符号的な形式的な思念に流れないで、本当に想念を起しての言葉が必要なのです。

   「 如意宝珠観 」や「 観普賢菩薩行法 」などは『 詳説 神想観 』の本に
   詳しくやり方が説明してあります。



(6)その次の言葉に精神を集中するのもよい―

   「 神は今 吾を見つめてい給うのである 」

    これも同様に、言葉を念ずる時
    はっきりとその意味を思い浮べながら繰返すのであって、

    その想念がふらふらしてはならないのです。



(7)最後に次の意味の言葉を繰返して精神統一するのである―


   「 吾々は永遠の世界に住んでいる。吾が魂の中には
    言葉に言い表すことのできない、平和がみちみちているのである。
    今ここにすべてのものを新たならしめる所の力がある。

    今、自分は神と一体であるが故に
    その力は吾が中(うち)に生き動いているのである 」



以上はセオソフィーの行う精神統一の一端を紹介して、
神想観を行うときの参考に供したのでありますが、
アメリカの帰一協会“ ユニティー ”に於いても
それぞれ多少異なる所の神想観(meditation)の思念があるのですが、
それらは大体何(いず)れもその原理は同一であります。


そしてその根本は、この実相世界の完全さと実在する「 本当の自分 」の完全さを、
いかにアリアリと心に描いて、それに波長を合わせ現実界に実現するかと云うことで、
それが神想観の根本でありまして、

応用や変化は無数にありますが、あまり色々やらないで、
最初は基本的な神想観をミッチリ実修することがよいのであります。


神想観を自分だけやると悪霊につかれるおそれがあると言って
恐れてやらぬ人がありますがそれは意識にハッキリと、神の霊の流れ入る有様を描き、
念ずる言葉にハッキリ精神を集中しないで意識を朦朧(もうろう)とさせたりする
からであります。

又、神想観の始めに 「 招神歌(かみよびうた)」 をとなえて
「 守護の天使 」を呼び出しておけば、そんな恐れはありません。


また本部で允可(いんか)していない先生に、神想観を指導してもらうと
馮霊(ひょうれい)につかれる危険があると云うのは、
その指導者が往々にして人体磁気を修行者に送り 所謂(いわゆ)るマグネタイズして
恰(あたか)も催眠状態にならしめることがあるからです。

こんな場合は、指導者につくよりも、『 詳説 神想観 』に説明してある通り、
御自分だけで実修なさるが宜(よろ)しい。



<参照Web>                     

<愛国本流掲示板>
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa/mode=res&log=8615
日時:2019年02月13日 (水) 23時30分

☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f26c900142f01dbf141a05ff504639cf

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/mode=res&log=82

            <感謝合掌 令和2年3月8日 頓首再拝>

金剛不壊眞身観 - 伝統

2020/03/22 (Sun) 02:25:28


          *『 理想世界 』(昭和33年5月号)より

金剛不壊(こんごうふえ)眞身(しんしん)観

( 静かに息を吸いながら、神が自分に流れ入ると観じて )

神われを全領(ぜんりょう)したまえり
寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく、神われを全領したまえり
されば われ金剛不壊(こんごうふえ)の眞身(しんしん)を得(え)たり

( と念ずる。眼の裏に自分の全身に神氣が充満して、光明燦然と輝いている全身の
有様を瞑視する。次に静かに息を下腹部におとして、神光輝く自身を凝視しながら、)

四百兆(ひゃくちょう)の細胞、寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく
神が全領したまえるゆえ、どんな病菌もヴィールスも、どんな病気、迷(まよ)いの
霊(れい)も自分の全身の何(なに)ものにも存在の余地(よち)はないのである

( と念ずる。また静かに息を吸いて 前の思念を繰返す。 )

神われを全領(ぜんりょう)したまえり
寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく、神われを全領したまえり
されば われ金剛不壊(こんごうふえ)の眞身(しんしん)を得(え)たり

四百兆(ひゃくちょう)の細胞、寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく
神が全領したまえるゆえ、どんな病菌もヴィールスも、どんな病気、迷(まよ)い
の霊(れい)も自分の全身の何(なに)ものにも存在の余地(よち)はないのである

( 最後に次の如く念じて思念を終る。 )

あゝ われは健(すこ)やかなるかな、霊々(れいれ)妙々(みょうみょう)たり、
煌々(こうこう)たり、皎々(こうこう)たり、われ金剛不壊の眞身を得(え)、
一切の病脳(びょうのう)を超(こ)えたり

  (https://bbs7-imgs.fc2.com//bbs/img/_837600/837516/full/837516_1583450847.jpg

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【 四六時中 唱える言葉 】


吾(わ)が本体(ほんたい)は、金色(こんじき)に輝く神にして、
今(いま)現(げん)に絶対健康、完全円満なのである。

三尺(さんじゃく)四方(しほう)金色(こんじき)に輝くオーラに取りまかれているので、
如何(いか)なる病念波(びょうねんぱ)も悪念波(あくねんぱ)も、
如何なる 病菌もヴィールスも 我(わ)れを害(がい)する事は出来ないのである。


(愛国本流掲示板「金剛不壊(こんごうふえ)眞身(しんしん)観 (28619)
         日時:2020年03月03日 (火) 17時57分 名前:光明燦々
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa/mode=res&log=9430 )

            <感謝合掌 令和2年3月22日 頓首再拝>

常に、神想観を修し、実相完全の世界のみを自覚するようにつとめられよ。 - 伝統

2020/03/31 (Tue) 05:00:09


        *『希望を叶える365章』(P207~208)
          ~ 崩れない幸福の堅信

単に物質的処置によって、或る不幸な現象が終息したからとて、
それだけで永遠に 魂 の平安が得られるものではないのである。

魂の真の平安は、実相の本来円満完全なることを知り、
アラジンのランプのように、実相を念じて幸福を呼び出せば
何時(いつ)でも一切の不幸が滅してしまうと云う
自覚を通してのみ得られるのである。

現象の幸福をつかんでも、現象はうつり行く姿であるから、
常に遷(うつ)り行き、消え行く幸福を創造して慴(おび)えていなければならない。

現実の非実在を知り、ただ実相のみ実在であり、それは常に神に護られ、
完全円満なものであると云う自覚によって、崩れない幸福の堅信がうまれるのである。

常に『生命の實相』を読んで、円満完全の実相のみの存在に目覚め、
常に、怠らず神想観を修して、現象の夢幻性を知り、
実相完全の世界のみを自覚するようにつとめられよ。 

            <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2020/04/17 (Fri) 04:51:51


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、自分の周囲と内部、
悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも
周章狼狽することなく、必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

            <感謝合掌 令和2年4月17日 頓首再拝>

神想観三昧 - 伝統

2020/04/30 (Thu) 04:41:45


       *『生長の家』(昭和25年10月号)より
          ~生長の家本部講師  吉田 國太郎

時間空間の中には生命は生きていないのである。

時間空間の中に生命を観る者は、
無明(まよい)に堕ちて、虚と實とを顛倒しているのである。 

時空の中で何かを得ようとする者は、
無の中で實(み)を得ようとする者であって、
妄想に堕ちているのであるから、得ることは無いのである。
得たと思っても、中空(なかくう)である。

物質には力がない。
すべては心の力である、とは目覚めても、
時間空間の中から出る心では、物質と表裏一体である。 

物質が本来無いの如く、其の心も又“無い”。
其の“無い”心で神の生命に随順しても、
底の無い桶で水を汲み上げているにも等しい。

観念はめぐっても、實を得ることは出来ない。 
影は映じても實は無い。解っても生きない。 

何時も、神は面前にあって、相対である。
神に相対する其の心の無明である。 
神の周辺を堂々めぐりするばかりである。 

其の心で、神に素直と云うことを仮作(けさ)しないように、
其の心で、一切の動作をあらわしめないようにしなければならない。

 
時空を超えて今此処にある本当の生命を出して来ることから、
私達の生活は出発していなければならない。 
此の生命が、行々展開して行くのでなければならない。

時間空間を超えねば何も得られないのである。 
時間空間を超えれば、其処が、光明溢るる實在の天地であり、
神の生命が生きているのである。 

本当の自分が生きているのである。 
此の神の世界で、神の子が、自分自身の心だけに、一切をあらしめているのである。


何よりも先ず、己の住地が当然あるべきところに安定しなければならない。 
己の住する今此処が、時間空間を超えて、實相の世界でなければならないのである。 

此のことを判然としなければならないのである。 
無字の透過であり、三百六十度回転であり、十字架の成就であり、
神想観の端坐深行である。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18602339.html 消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月30日 頓首再拝>

神想観の本質について - 伝統

2020/05/11 (Mon) 04:55:52


       *「神と階に生きる真理365章」(P133~134)より

神想観というのは、迷いの煙の出る曇った現象世界を心で掴んでいたのを、
その心の向きを変向して神様の造り給うたすべてのものが善であるという
実の相(すがた)の世界に、心を振り向ける修法であります。

(中略~神さまと人間との関係)

神想観というのは、神さまの放送に完全に波長を合すための行事であります。

ラジオ・セットでも放送局に波長を合すためには、部分品を適当の位置に
組み立てたセットを使わなければならないのであります。

我々「人間ラジオ・セット」も我々の肉体の部分品である、
手とか足とか姿勢とかいうものを適当の位置において、
そして神様の放送の波長を受けるようにしなければならないのであります。

            <感謝合掌 令和2年5月11日 頓首再拝>

“ 無私の祈り ” としての神想観 - 伝統

2020/05/20 (Wed) 04:41:38


          *『 生長の家 』 (昭和46年3月号)
           ~「 実相世界と現象世界をつなぐ橋 」 29日の法語)

神想観は最も完全なる無私の祈りであるのである。

「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」とは、
「五官の世界」即ち「現象世界」の一切の意欲を去ることである。

意欲を去るだけではなく、現象世界の一切のものは、既に「五官の世界」を去った今は、
”自分の心”の中にないのであるから、現象世界の何ものをも求めないのである。

そして自分の欲望の願いも何もなく、
ひたすら心が“神”と“神の創造せる世界”(実相世界)に振り向いて、
実相世界の一切の善きものが自分を通して流入する無私のパイプとなることである。

このとき実相世界に吾々の生命が、直接対面するのである。

すると其処は、神の無限の智慧の海であり、神の無限の愛の海であり、無限の生命の海であり、
無限にゆたかなる供給の海であり、無限の歓喜の海であり、無限の調和の海であるのである。

それを心の眼をもってハッキリと観るのである。
観ることは既にあるものを受け容れることである。

それをハッキリと受け入れたとき、実相世界の天国状態が
ハッキリ現象世界にその姿を映し出して、此処に地上に、天国が現出することになるのである。

     ( http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12729823.html 消滅)

           <感謝合掌 令和2年5月20日 頓首再拝>

《神想観の注意》 - 伝統

2020/05/26 (Tue) 04:56:44


       *『 生長の家 』(昭和32年5月3日の法語)より

   神想観は先ず教えられた通りの基本的神想観のやり方から
   入って行かなければなりません。

   心がそれによって神との一体感に慣れて来ますと、
   危急の場合、神想観も祈りもする余裕がなくて、
   唯一言(ただひとこと)「神様 !!」と言っただけで、

   神との一体感を得、そのために自動車や汽車に
   撥ねとばされたが身に微傷だも
   受けなかったと云うような実例がでて来ます。

   毎日同じ言葉を念じていると退屈になり、
   却って雑念が浮かんで来て、精神統一が失われて来るような場合には、
   如意宝珠観や、普賢菩薩観や、浄円月観を行なうと
   不思議に精神が統一するものである。

   神想観を修するには、同一の言葉を念じても
   常に新鮮な感情を籠めて念ずるように心掛けなければならない。

   言葉がただ形式や、何の意味も感じも起らない
   呪文的繰り返しに陥らないように
   溌剌たる意味をもって念ずることが大切です。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P287>)

           <感謝合掌 令和2年5月26日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2020/05/28 (Thu) 04:16:51


        *「光明法語」(5月28日)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

           <感謝合掌 令和2年5月28日 頓首再拝>

《常に神想観を怠らないこと》 - 伝統

2020/05/30 (Sat) 04:34:50


         *『 生長の家 』(昭和32年5月4日の法語)より

   神想観は毎朝毎晩必ず実修する習慣をつけるが宜しい。
   朝は早く目が覚めず、すぐに仕事にかからなければならぬし、
   夜は、眠くて身体(からだ)がだるくて合掌するにも疲れていて
   仕方がないと言うような場合には、
   夜、床に入って仰臥したまま、ただ

   「神と我とは一体である。神は完全であるから我も完全である。
   神と我とは一体である。神は霊であるから我も霊である。
   霊は金剛不壊であるから我も金剛不壊である。金剛不壊であるから
   如何なる病菌にも気候の変化にも冒(おか)されない・・・」

   (これは健康を欲する場合の思念の例)と云う風に、
   一念その思いに心を集中して
   念じながら何時(いつ)の間にか眠ってしまうがよい。

   もっと簡単な”思念の言葉”としては、

   「神の生命(いのち)われに流れ入りてわが生命(いのち)となりたまう。
   われは無限智慧、無限愛、無限生命(せいめい)、無限健康」
   と繰り返しつつ眠るがよい。

   罪の観念や悔恨の観念が起って
   不安な感じがとれないと云うような場合には、

   自分の胸を自分の両手で抱きながら其の両手を
   「神の慈手(みて)」であると想像しつつ

   「神は我が罪をゆるしたまいてわれをその慈手(みて)に抱きたまう。
   われは完全に赦されたり」

   と念じながら眠るがよろしい。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P288~289>)

           <感謝合掌 令和2年5月30日 頓首再拝>

神想観は、実相を確認し肯定するための強き祈りである - 伝統

2020/06/03 (Wed) 04:29:11

         *「生長の家」(昭和26年5月6日の法語)より
          ~真の正しき祈りとは

神想観は、実相観であり、において全てのものが
既に与えられていることを確認し肯定するための強き祈りであり、
不足するものを認めて懇願するような祈りではないのである。

既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
ほめ讃(たた)え、感謝する祈りである。

現在、不完全な世界が与えられていることを認め、神に懇請することによって、
神がこれを修正し給うなどと考えるのは神を侮辱するものである。

現象の不完全さは、
実相を受信する「人間、ラジオセット」の心の波の不完全さで、
色々のものを混信しているからで、
吾が心を調べれば不完全さは消えるのである。

 (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

・・・

(1)「幸福を招く365章」第11項(P225)に収載

(2)昭和48年やまと新聞「新 一日一話」で紹介
   「伝統第二」(道産子さま投稿)2016/01/07
   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6676503

            <感謝合掌 令和2年6月3日 頓首再拝>

深く神想観を励む - 伝統

2020/06/14 (Sun) 04:14:48


        *「光明道中記」(6月14日《深く神想観を励む日》)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に行く手を照らす炬火(たいまつ)である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

            <感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2020/06/25 (Thu) 04:18:11


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

            <感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝>

《神想観は吾が全身真理となる行法なり~その1》 - 伝統

2020/07/18 (Sat) 04:58:04


         *「静思集詳」(P259)より


全身が天地の真理と一つなるなり。

全身が大地の真理と一つになるとき、既に全身なきなり。

天地の真理のみあり。そこに真理が顕現せるなり。

真理の全心身なり。この身このままが真理の顕現なるなり。

全身「真理」そのものとなるとき、
この一肉塊すでに肉塊にあらずして、宇宙にひろがるなり。

宇宙が一身につつみ込まれてあるなり。

全身が宇宙にひろがり、宇宙が一身につつみ込まれてあるが故に
全身に「一即多」を実現せるなり。

            <感謝合掌 令和2年7月18日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる神想観 - 伝統

2020/07/25 (Sat) 04:39:13


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月25日)より

今日はさらに、「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」
と念じよう。そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、その反映として
自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを心の底深く知るがゆえに、
感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 令和2年7月25日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2020/07/28 (Tue) 04:58:03


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                      (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人であったから、
雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。
汝らの面前になげ向(だ)す。灯台下暗しで判るまい。
判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを
知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
 自分の坐っている一点上の《此処》が即ち
 実相の世界であって、その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 令和2年7月28日 頓首再拝>

足を踏みしだくこと - 伝統

2020/08/01 (Sat) 04:20:27

          *「光明道中記」(8月はじめの言葉~P238)より

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。
先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。
心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

人々は姿勢を軽んずるが、まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に
上位をして完全に下位を下属せしめていることを実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)
ことには、到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が会陰部(えいんぶ)を下より覆い、
左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって下より覆い右足の足趾(ゆびさき)は
左足の外側踝(くるぶし)に稍々(やや)触れる位に重ね、足全体を完全に全身の下位
にあり、隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

         <感謝合掌 令和2年8月1日 頓首再拝>

「証上の修」 - 伝統

2020/08/08 (Sat) 03:27:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月8日)より抜粋

『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、
神そのままの分け”いのち”にて完全なることを知り、信仰的にそれを信ずるとも、
神想観を修しなければ、その実相の完全さが実現しないことがある。

道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。

真宗でも、どうしないでも救ってくださっている阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。

         <感謝合掌 令和2年8月8日 頓首再拝>

毎日一定時間に神想観を修すること - 伝統

2020/08/16 (Sun) 04:14:48


       *「生長の家」(昭和51年6月29日の法語)より

『人生を前進する』という本の第四十七章 には次のように書かれている。

「人間は神の自己実現である。最高の自己実現なのである。
 自己実現ということは坐して手を拱いていて”神の実現”が出て来るということではなく、
 日々の行持を通して 行動化してあらわれて来ることなのである。」

われわれは日々の行持を大切に実行しなければならないのである。
朝起きて洗顔を終った時、一定時間を定めて必ず神想観をすることによって、
自分の心を神の方向へ 向けかえてその日の出発をするがよいのである。

成就したい希望があるならば、神と一体感を得た心の状態に於いて、
その”希望”を心に唱え、その希望が ”心の世界”に於いて
既に成就したことを感謝するがよい。

その希望の成就が世のため人のためになると同時に、
自己の魂の向上に役立つもの あるならば、”心の世界”に於いて
既に受けて感謝したところのその事柄は屹度(きっと)現象界に投影して、
実現して来るに相違ないのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363 )

         <感謝合掌 令和2年8月16日 頓首再拝>

《神に対面することは如何に楽しいことか》 - 伝統

2020/08/22 (Sat) 04:37:11


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P177)より

毎日1回は神様と直接接触する時間をつくろうではありませんか。

あなたは毎日父母又は夫又は子供又は召使(めしつかい)又は
会社官庁の上役、同僚、又は下役に接触します。

しかし、神様に直接ふれる時間をお持ちにならないのはまことに
残念なことなのであります。

神想観は人間が意識的に神に接触する最も荘厳なる行事であり、
その時間こそ1日の内で最も神聖な楽しい時間でありますのに、
何故多くの人は、それを懶(だる)い、退屈な、面倒くさい時間などと
考えるのでありましょうか。

それは神想観を神と直接対面する荘厳な時間だと知らず、何か自分の心で
「物(もの)」を製造したり、現世利益を得るための方便だ位に考えて
いるからではないでしょうか。

恋人に逢うのが楽しい位なら、神に直接対面する時間が
楽しくない筈(はず)はないではありませんか。

         <感謝合掌 令和2年8月22日 頓首再拝>

般若波羅蜜多(「神想観」)を行ずる - 伝統

2020/10/10 (Sat) 04:35:06


        *「光明道中記」(10月10日般若波羅蜜多を行ずる日)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、
すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、
斯くして精神統一を得て一切に煩わされることなく
自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。

神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の毘盧舎那身(びるしゃなしん)
として観ずるのであるから、般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを
同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

・・・

<関連Web>

伝統板・第二「『般若心経』講義」(谷口雅春先生)
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6995626

         <感謝合掌 令和2年10月10日 頓首再拝>

(神想観により)《自己が霊的存在であることを瞑想せよ》 - 伝統

2020/10/19 (Mon) 05:02:48


       *『 生長の家 』(昭和25年7月10日の法語)より

   生命の真理を自覚する為には、
   自己が永遠の生命であり、不滅の生命であり、
   無限の智慧と愛と生命とにみたされている所の
   霊的存在であるということを、

   常に瞑想することが必要である。

   ダイヤモンドを磨くには
   ダイヤモンドを以(もっ)てしなければならないのである。

   心を磨くには、心を以てしなければならないのである。

   ダイヤモンドであるからこそ磨くのであって、
   石炭なら磨く必要はないのである。

   人間は 本来神の生命であるから磨く必要があるのである。

   道元禅師は これを 「 證上(しょうじょう)の修 」 すなわち、
   実相は 仏として既に證(さとり)をひらいている上での
   修行であるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 令和2年10月19日 頓首再拝>

《「ありがたい」情感の神想観》 - 伝統

2020/10/23 (Fri) 04:41:32


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月23日)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

         <感謝合掌 令和2年10月23日 頓首再拝>

実相の妙なる有様を観ることが、最高の神想観 - 伝統

2020/10/27 (Tue) 04:51:25


    *「光明道中記」(10月27日《神に融け入る神想観をする日》)より

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を
精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。

そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、
ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との充ち満ちてある
その妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 令和2年10月27日 頓首再拝>

神想観は讚嘆行、礼拝行、感謝行である - 伝統

2020/10/28 (Wed) 04:51:28


    *「光明道中記」(10月28日《良き種を蒔く日》)より

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和・・・等々
一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって
欲する事物を現象面に創造するのではなくして、

ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が
既に成就していると云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。

ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、

神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 令和2年10月28日 頓首再拝>

“祈り合い”の神想観 - 伝統

2020/11/13 (Fri) 05:06:16


        *「精神科学」(昭和45年7月号)
          ~昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部
     

実例をもって言えば生長の家の飛田給の道場でも、
「祈り合いの神想観」をする時間があるでしょう。

すなわち修行者を、”祈って貰う人”と”祈ってあげる人”と
二組に分けて互に向き合わせて、「祈って貰う側の人」は
「今この神想観により、神の癒しの霊光が自分の全身に流れ入って、
自分の全身を癒しの光明で満たして、もう既に病気は無いのである」
と繰返し念ずる。

そして「祈ってあげる側の人」は、積極的に、
「あなたは神の子であって、今、滔々と神の癒しの生命(いのち)が
ずーっと流れ入って、神の癒しのいのちが光明燦然と輝いて充ち満ちていて、
どこにも病気の状態(すがた)はなく、一点の曇りもない神そのままの
靈身である」ということを、繰返し念じて祈ってあげて、
絶対健康の相手の人の実相を観ずるんです。


 そうすると、癒して貰う人の心と癒してあげたいという人の心とが、
一つに融会(ゆうえ)して、それが恰度、陰陽の電気が、互いに触れると、
そこに、電気が流れるように、神の癒す力が流れ入って、
現実に病気が消える、ということが起って来るわけなのであります。

これは祈り合いの相互の念の感応によって癒るんですが、
自分の病を自分自身が一人念じても、神との一体感によって
矢張り癒らないことはないけれども、

キリスト教の聖書にも、「二人して祈れば、必ずその祈りは実現する」
とありますように、一人で祈るよりも、”祈って貰う人”と
”祈ってあげる人”と、“受ける人“と“与える人“とが、
陰陽相揃うて、祈る場合には、一層効果が多い、ということになるのであります。


http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672
道産子  2020/07/05 (Sun) 08:18:04

           <感謝合掌 令和2年11月13日 頓首再拝>

神想観の功徳 - 伝統

2020/11/28 (Sat) 04:54:10


          *「精神科学」(昭和45年9月号)より
           ~維摩経を語る―承前―    谷口雅春先生

《人間の脳髄には主体性なし》


今日の体験談の最初の一人の青年の方が神想観の功徳をお説きになった。

“神想観をして神と一体感を得ないと本当に正しい行動がとれないと
いう気がする”という話でありました。

それは何故かというと、人間の脳髄というものは、
極めて精巧に出来た電子計算機みたいなものであります。

人間の拵えた電子計算機よりはもっと複雑でもっと部分品が多く、
もっと巧妙に、デリケートに出来ているのであります。

しかし、此の肉体の脳髄は”四大和合して”と維摩経にありますように、
”四大“すなわち”地水火風”の元素の集合体である。

”地”とは固まりのあるもの、
“水”とは流れるもの、
“火”とは燃えるもの、
“風”とは空気のようにガス体のもの、

この四つを仏教では宇宙生成の根本元素として
「四大」といっているのであります。

脳髄というものは、その四大元素が集まって出来ているところの
電子計算機であります。


普通われわれは“頭で考える”と申しますが、
これは頭脳に“考える主体”があるのではなく、
われわれが電子計算機に問題を提出すると、解答が出て来るのと
同じように出来ているんです。

けれども、電子計算機というものは、あの天気予報でさえも間違うでしょう。

今日も昼御飯を食べる為に講習会場から自宅まで自動車で走っておりますと、
正月の一張羅の綺麗な着物着ている人が雨にかかって傘もなしに
歩いている気の毒な姿を見かけましたが、それは、何故かというと
電子計算機を使って天気予報をしながら、それが盛んに間違うという事です。


一九七〇年代は情報時代で、電子計算機が余り発達するので、
人間が逆に電子計算機に使われる事になるかも知れぬというような事が
問題になっているけれども、

どんなに精巧に此の脳髄の物質的構造が精巧に出来ておっても、
これは必ず間違うことが出て来るというのは記憶装置に過去のデータが
組み込んであるだけで、そのデータを基礎にして判断が出て来るので
それは全智ではないからであります。


《全智者たる神の叡智を受信せよ》

そこで私たちは全智なる神の智慧を、電子計算機に受信する装置を
造らなければいかん、という事になるのであります。

これが神想観であります。

単に過去のデータばかりを記憶装置に入れて、それに基づいて
計算をして答えを出すだけでは、常に新事実が追加される
現実世界に対処していくためには、足りないのであります。

これにはどうしても神様の智慧に導かれて”吾れ何を為すべきか”
という事を教えて頂かなければならないのであります。


維摩経に「此の身は主なし」と説いているところは、結局、
肉体というものには本当の“我(が)”はないという事です。
”ガ“というのは、”我(われ)“という字が書いてあるんですが、
”主体“の事です。

肉体は一種の電子計算機的装置でありますから、判断や解答を出しても、
それには主体たる「霊魂」はなく唯、機械的に解答を示すだけであります。

人間の主体は、“仏性”即ち“如来”なのでありますが、
肉体はその“如来”の唯の“容器(いれもの)”として、
或いはただの”道具”として、

「心の糸を組み合わせて肉体の繭を造り」
というように聖経『甘露の法雨』に示されてありますように、
”念波の糸“をもって、拵え上げた繭みたいなものであります。

すなわち蛹(さなぎ)が入っている繭みたいなもの、
蓑虫が入っている蓑(みの)みたいなものが肉体なのであります。

これはなかなか不自由なものである。



あのアポロ十一号がお月さんへ行った。
お月さんには空気はないものだから、空気の圧力の中に育っている
人間の肉体では圧力の差で出血して死んでしまうから、

肉体の内部圧力に抵抗する気圧を持った宇宙服というのを着て、
月に着陸して何かちょっと仕事をしましたけれども、地球の上で
自由に動いているような自由自在な働きは出来ないのであります。

そういうようにですね、吾々の霊が地球に生まれて来て、
こういうように肉体という宇宙服を着ているときには、霊だけが裸になって
純粋霊として動く時のような自由な活動が出来ないのであります。

だからどうしても肉体以上のはたらきを求めるためには、
神様の智慧を得て、神様の力の補充を得て仕事をしなければ、
充分のはたらきが出来ないという事になる訳であります。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594
道産子
2020/07/25 (Sat) 09:05:53
~2020/07/30 (Thu) 08:34:32

           <感謝合掌 令和2年11月28日 頓首再拝>

三種の神想観 - 伝統

2020/12/13 (Sun) 04:50:19


      *「光明道中記」(12月13日《神の叡智につながる日》)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

           <感謝合掌 令和2年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2020/12/24 (Thu) 05:04:13


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
 今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
 神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)が
 わたしである。わたしは喜びそのものである。
 わたしは幸福そのものである。私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても心が統一し難いものである。
覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、
直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 令和2年12月24日 頓首再拝>

《就眠前に神想観を実修せよ》 - 伝統

2021/01/13 (Wed) 03:05:18


       *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P305~306)より

心の力は一種の磁石的、又はラジオ的力である。

そして個人の潜在意識は、宇宙の潜在意識と相即相入していながら、
常に覚(さ)めている心であって、肉体が眠っている間も
常に働いているがゆえに、

磁石が常に鉄を引き寄せるが如く、
ラジオセットがラジオ波(は)を常に受信するが如く、
宇宙の何処からでも自己に類似のものを引きつけ、
且(か)つ受信しつつあるのである。

或る人は幸福のみを引き寄せ、或る人は悦びのみを受信する。

だからあなたは睡眠中にも幸福のみを悦びのみを
引寄せるところの心の波(なみ)を起す習慣性を
作らねばならないのである。

特に睡眠中は潜在意識の感受力が、
潜在意識の批判力によって妨げられずに、
開(あ)けっ放(ぱな)しになっているときであるから、
その受信する心の波長を浄めて置くことが必要である。

神想観を就眠前必ず実修なさいませ。
必ず心の波長が浄まり、幸福と健康とが集ってまいります。

            <感謝合掌 令和3年1月13日 頓首再拝>

《簡単なる就寝前の神想観実修法》 - 伝統

2021/01/30 (Sat) 05:00:40


    *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P306~307)より

静かに坐して、眼を瞑(つぶ)り、顔の前に合掌せよ。

「神の生命(いのち)流れ入りて」と念じつつ
鼻より息を吸いて、唇を紙一枚ほどひらいたその隙間より、
その息を出来るだけゆっくりと呼(は)き出しつつ、

「一切の不浄と悩みの心の憂(うれ)いはこの呼気と共に
 吐き出され一切の業は消えつつあるのである」

と念ぜよ。

この呼吸を数回繰返し、

「既にわが内なる不浄と業(ごう)とは完全に浄まりて、
 心はいとも静かにして神の導きを受ける準備ととのいたり」

と念ぜよ。

息を口より呼(は)くのは数回に止(と)めて、
あとは徐(しず)かにしずかに鼻にて呼吸しつつ、
あなたの希望を心に思い浮べて

「神よ、この希望を実現したまえ」

と十数回念ぜよ。

しかし既にそれが実現したりと信じ、
実現したる光景(ありさま)を心の中に思い浮べて
ハッキリとそれを瞑視(めいし)せよ。

最後に

「わが願いはきかれたり、有りがとうございます」

と感謝の念(ねん)を起して終るのである。

            <感謝合掌 令和3年1月30日 頓首再拝>

就寝前の神想観で恐怖の感情を取り除く - 伝統

2021/02/17 (Wed) 02:24:01


           *『生命の實相』第7巻(P113~114)より

ゲーツ教授は毎日1時間ないし1時間半を費やして、
心の最も楽しく幸福な愛他的な感情を喚起して
これを持続する勤行(ごんぎょう)をつづけよと言った。

「生長の家」では就寝前10分間、時間がゆるせば30分でも1時間でも、
合掌静坐瞑目(がっしょうせいざめいもく)して、この合掌をアンテナとして
大生命がわれに流れ入り、われがそれと一体なると観ずる修行をするのである。

この神想観によってわれらが最も深い境地に入るときは、
われらはこの世界の支配者(神)との無限の一致に到達するのである。

かくしてわれらが神との無限の一致に到達するときは
たとい外見がどう見えようとも、万事万物が自己を中心として、
自己を育ててくれるために運行しているという霊的実感が
たましいの底の深いところから湧きあがってくるのである。

この神秘な霊的実感に触れるとき、われらはわれらに触れるすべてを、
それが一見どんなに不幸な事実であろうとも、ただそこに自分をいっそう偉大に
育てようとしてのみ作用(はたら)いている摂理の慈手を感じて、
唯ありがたく拝ましていただくことができるようになるのである。

たとい人が自分に侮蔑(ぶべつ)や危害を加えようとも、
それが自分のたましいの花をひらかす温かい神の息(いぶ)きと感じられ、
おのずから合掌されるようになるのである。

この境地に達するとき、われらより恐怖の根本感情は除かれる。
われらはもはや怒りや嫉妬や憎悪の激情を抑えたり、怺えたりする
克己的修養(こっきてきしゅうよう)を超越してしまうのである。

われらは完全にそれらの悪感情から解脱する。
そしてあらゆるものがただありがたい、あらゆるものが感謝される。

「生長の家」の生き方はかくのごとくして、
あらゆる不幸も苦痛も追害も
ただ一つの「聖悦(せいえつ)の坩堝(るつぼ)」の中で
熔かしてこれを自己のたましいの生長の養分にかえてしまうのである。

            <感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>

眠る前十分間の神想観 - 伝統

2021/02/25 (Thu) 01:37:05


         *『生命の實相』第8巻観行篇(P6~7)より

眠る前十分間のうちに、心を破壊的な方向から建設的な方向に、
憎しみや恨みの心持から愛や慈しみの心持に、イライラ焦る心持から
落ちついた委せきった心持に、乱れた調わない気持から平和な調和した気持に、
その創造活動の方向転換をしておかねばなりません。

眠る前に肉体を入浴せしめて、垢を落として眠る人はおおいのでありますが、
心の沐浴できれいさっぱりすっかり心の垢をおとして眠る人が少ないのは、
人類全体の生長のためにははなはだ残念なことであります。

皆さんが、自己自身を「生長の人」たらしめ、
自己の家庭を「生長の家」たらしめられようと思われるならば、
何よりも就寝前にこの心の垢をあらい落とすことを忘れてはならないのであります。

憂鬱な暗い気分や怒りや、悲しみや嫉妬や恐怖を、
寝床につれ込むようなことをしてはなりません。

眉を伸ばし、顔に笑いを含み、嬉しい、ありがたい心持で
ねむりに入ることが必要であります。

それには、聖典または神誌『生長の家』に載っている「生長の家の歌」や
「生長の家の生き方」などを読んで、そこに書かれてある言葉の力で
心を浄めてから眠られるのもよいし、

鏡を見てできるだけ喜ばしい平和な表情をして眠られるのもよいし、

心教の品田俊平氏のやっていられるように、その日いち日お世話になった
自分の手足や身体の各部をさすって、自分の身体にお礼を述べ、
みんなのお世話になってありがたいという気持になり、
枕もとに「ありがたい」と書いた軸をかけて眠られるのも善い方法であります。


が、われわれ「生長の家」では就寝前に合掌正坐して
「神想観」の十分間修行をするのであります。

すなわちこの合掌を霊交のアンテナとして、
生きとし生けるものを生かし給える無限知、無限光明、無限生命と
一体となると観じ、

われの全身の細胞ことごとくを光明遍照の「神詰まります姿」で観、

あるいは阿弥陀仏の無量光に遍照されている姿で観

あるいは十字架より照射する霊光に全身の罪が洗い清められた姿で見、

わが五尺の身体(からだ)の力で生きるのではない、
無限知、無限愛、無限光明、無限生命、無限力で生かされているとの、
深い深い信頼と平和とありがたさとで心を充たしてから眠りに入るのであります。

            <感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝>

就眠前十分間の神想観の勧め - 伝統

2021/03/12 (Fri) 02:22:12


         *『生命の實相』第8巻観行篇(P66~68)より

本書 観行篇 第一章に 就眠前 十分間の神想観を勧めてありますが、
(*伝統註~上記「眠る前十分間の神想観」2021/02/25)

覚醒中は 吾々の「念(ねん)」が外界の事件の
移り代(かわ)りに気をとられて刻々変化 致しますので、
「 念 」 を常に一定傾向にとどめておくことは比較的難しいのでありますが、

睡眠前に 神想観をして、「 念 」を正しい傾向に向けておいてから眠りますと、
念の習慣性によりまして、「 正しい念 」 を習慣的に持続して、

類は類を招(よ)ぶ 「念の牽引力」 によりまして、
睡眠時間中 持続的に正しい念、栄えの念を招(よ)び寄せ、
その念の展開として、平和な事件、幸福な事件、繁栄の事件などを
引寄(ひきよ)せる事になるのであります。

神想観中の思念には 色々のやり方がありますが、本篇 第二章に述べてあるのは、
その基本的な形式でありまして、この形式で一、二ヵ月習熟して頂きましたら、
呼吸の方法は 習慣的に正しく静かになって来ますから、
その時には もう呼吸にとらわれず、「 実相 」 の完全円満な相(すがた)を
念ずるということにして頂くのであります。

その一方法としては 本篇の「 扉の頁(ぺーじ)」にある
「 実相を観ずる歌 」 の如く念じて頂くのであります。

            ・・・

【実相を観ずる歌】<「生命の實相」第8巻観行篇(P2)>


(一)
   神はすべてのすべて、
   神は完(また)き生命(いのち)、
   神は完(また)き英知(みちえ)、
   神は完(また)き聖愛(みあい)。
 
   すべてのものの内に、
   神の生命は生くる、
   神の英知は生くる、
   神の聖愛は生くる。

   神はすべてにして、
   すべて一体(ひとつ)なれば、
   よろずもの皆(みな)共通(ひとつ)の
   ちから是を生かせり。

   天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
   唯一つの神にませば、
   天地はただ一つに、
   いと妙に調和満つる。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。


(二)
   神は生命にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを生かし、
   すべては吾れを生かす。

   神は愛にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを愛し、
   すべては吾れを愛す。

   神は知恵にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを知り、
   全てのもの吾を知れり。

   神はすべてにして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れ祈れば天地(てんち)応え、
   吾れ動けば宇宙動く。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。

            ・・・

歌の文句の通り、又は 自己の素養(そよう)に従って、
自己に最もピッタリする言葉でそれと同(どう)意味の念をば
繰返し繰返し念じているうちに、

自己拡大の感(かん)が起(おこ)り、
「 実相(じっそう)即(そく)我(われ) 」
「 宇宙(うちゅう)即(そく)我(われ)」の境地に入(い)り、

小我(しょうが)なく、他我(たが)なく、
一切包容の大我(たいが)に帰入(きにゅう)した感じを味わう
に至(いた)るのであります。

神想観は 「 術(じゅつ) 」 ではなく、
「 徹底(てってい)祈り 」 でありますから、
信念が通ずれば、形式 又は 用語に捉われる必要はなくして
十分効果があるのであります。

            <感謝合掌 令和3年3月12日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2021/03/20 (Sat) 03:21:45


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、精神集中的に
起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

            <感謝合掌 令和3年3月20日 頓首再拝>

神想観は、實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好い - 伝統

2021/04/07 (Wed) 05:04:12


      *「光明法語」(4月7日《神と實相のみを愛せよ》)より

祈りも、神想観も、
結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ
行なえば好いのである。

神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

          <感謝合掌 令和3年4月7日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2021/04/17 (Sat) 04:36:50


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、自分の周囲と内部、
悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも
周章狼狽することなく、必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

          <感謝合掌 令和3年4月17日 頓首再拝>

神想観は日々の精神的糧 - 伝統

2021/05/04 (Tue) 04:40:49


         *「詳説 神想観」(P17~18)より

神想観は吾々にとって日々の精神的パンであります。
吾々の生活の生活には物質的パンも必要ではありますが、
精神的パンはなおさら必要であります。


人間は肉体ではない。
霊的実在である。
この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。

神を頭脳で知っただけでは、神が゛わがもの゛とはならないのである。
全心身をもって神の実在を体感体得しなければならない。
それをなすのが神想観である。

神想観を怠らず行ぜよ。

神想観を怠らず行じているうちに「人間神の子」の真理が、
頭脳的知識から、感情的な把握となり、
さらに進んで、全生命的な把握になってくるのである。

神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって、
自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、
私たちの生活は変貌しはじめるのである。


霊の選士であり神の子である諸君よ。

何よりも先ず神想観を修して毎日の出発をいたしましょう。

そこからこそ諸君の真の進歩と歓喜と
高邁なる理想実現とが生まれて来るのであります。

            <感謝合掌 令和3年5月4日 頓首再拝>

神想観をしているうちに自然と「実相」が分かる - 伝統

2021/05/19 (Wed) 04:54:12


         *「詳説 神想観」(P18)より

「神想観をして実相を観ずるといっても、
 実相を先ず知らして貰わないと実相が何だかわからぬから
 観ずるわけにはゆかない」

と、こういう質問をされた方がありました。

その人は、実相がわからないとそれを観ずるわけにゆかぬ、
こう言われたのでありますが、

私はその時、実相というものは、
吾々の内性(うち)に既にチャンとあるのですから、
予めこう言うものじゃと知らしてあげなくとも、
こういうふうにして実相を観じなさいと教えて貰った通りにして
観じたらそれで実相を観ずることができるのであると、
こうお答えしたのであります。


それはちょうど東京から大阪へ行くとして、
大阪が仮に実相であると喩(たと)えましたならば、

大阪をちゃんと、大阪というものはこういう形で
こういう具合になっているということを先ず習わなければ
大阪へ行くことはできないという訳のものではないでしょう。

大阪が本当にあるのだから、《あり》さえしたら
その大阪がわかるのは大阪へ行ったらわかるのだから、
大阪の方を向いてこうして汽車(現在では新幹線)に乗りなさいと、

切符さえ買って貰って汽車(新幹線)に乗ったら、
汽車(新幹線)が大阪へ着けば、
ここは大阪だということがわかると同じように行く方向さえ
聞かして貰って、その方向の汽車(新幹線)に乗れば良いのだから、

それでこういう具合に神想観をして実相の方へ向けば良い
と教えられたら、その通りにやれば好いのです。
その中にだんだん実相に到着して行きます。

            <感謝合掌 令和3年5月19日 頓首再拝>

「感謝の神想観」で、心の平和を得る - 伝統

2021/06/08 (Tue) 04:45:02


          *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P377~378)より
            ~ 問題を解決するための心の平和

問題が起って解決がつかないのは、
「解決がつかない」と心にその不解決を握っているからである。

すべての問題は、そして其の事件に関係している一切の人々は、
すべてあなたの魂を磨くための課題を提供してくれている
有難い存在であるのだから、それらに対して、
先ず感謝する神想観をするがよいのである。

神想観のやり方は、『静思集』と云う本や
『生命の實相』の第4巻に詳しく書かれているけれども、

簡単にその真髄を云えば眼を瞑(つむ)って

「神はすべてのすべてであるから悪いものは無い。
 この問題に関係している一切の人々に感謝します」

と繰り返し繰り返し心が落ち着くまで念ずれば好いのである。

すべての事物と人とに感謝するとき、
すべての問題を解決するに足る心の平和が得られるのである。

            <感謝合掌 令和3年6月8日 頓首再拝>

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