伝統板・第二

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神人一体 ② - 伝統

2019/10/08 (Tue) 04:25:37

    *伝統板・第二「神人一体」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7063440


神と共に静かに語れ

        *「光明法語(10月8日)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、
親子が静かに語る時間を持つと云う事であって
是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

            <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>

神とともに大活動しなければならない - 伝統

2019/10/29 (Tue) 03:13:04


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月29日)より

すでに与えられていることを自覚せよ ―― と言えば、
実際生活になんの努力もしないで「すでに与えられている」と
すこぶる甘い態度で生活している人も時には見出される。

そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、
”神の中に生きる”生活ではないのである。

われわれは小我を神の中に没却させてしまわねばならないが、
本当の我(われ)は「”神の中”」に生きなければならないのである。

「神は今に到るも働き給う」―― われらは小我を没し去ると同時に、
神とともに大活動しなければならないのである。

活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。

           <感謝合掌 令和元年10月29日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2019/11/05 (Tue) 04:28:44


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

           <感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>

吾らは神の生命の枝 - 伝統

2019/11/17 (Sun) 04:48:16


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

           <感謝合掌 令和元年11月17日 頓首再拝>

自他一体の自覚 - 伝統

2019/11/18 (Mon) 04:02:03


       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

           <感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2020/01/06 (Mon) 03:53:00


          *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。
神より悪なるものが来(く)ると考えることは神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。
その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、
わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

           <感謝合掌 令和2年1月6日 頓首再拝>

《神と一体となりて仕事をするには》 - 伝統

2020/04/09 (Thu) 02:15:37


        *『 生長の家 』(昭和26年4月9日の法語)より

   神にすべての仕事をゆだねよ。

   神にすべての仕事をゆだねると云っても
   自分が何事もなさないと云うことではないのである。

   自分が神の力の流れ出(い)ずる
   パイプとなり出口となると云うことである。

   何事をする前にも 「 神はわれを通して此の仕事を為(な)さしめ給う 」 と
   数回念じてからその仕事を、吾れに宿る神にまかせて行うような気持になれば、
   疲れることなくすべての仕事が順潮に運ぶのである。

   すべての仕事を課せられ強制されたる仕事であると考えてはならないのである。

   すべての仕事を神に導かれ為すところの
   自己向上の途(みち)であると思ってなせば
   楽しく好成績に順潮に運ぶのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12217093.html(消滅)

           <感謝合掌 令和2年4月9日 頓首再拝>

霊的進歩を遂げるには、是非とも神との一体感を深めなければなりません - 伝統

2020/05/25 (Mon) 04:49:06


        *『 生長の家 』(昭和32年五月2日の法語)より
          ~《肉体の習慣性に負けてはならない》

   祈りを伴わない実行は、時として失敗します。
   人間に於いてサカシキものも神の み前に於いては愚かなるものであります。

   霊的進歩をとげなければ、一時的の成功はあっても、
   永遠の勝利と云うことはありません。
   霊的進歩を遂げるには、是非とも神との一体感を深めなければなりません。

   そのためには神想観とか、祈りとか、坐禅とか、念仏三昧とか、
   名称は異なれども、宇宙の偉大なる実在と瞑合し融合する修行を行なうことが必要です。

   私たちの肉体は結局、物質として顕れていますから、それ自身に生命(せいめい)はなく、
   物質の動きは唯惰力によって与えられた方向に与えられた運動量だけ動くだけのもの
   ですから、結局「なまけ者」であります。

   それは成るべく努力しないで楽をしたがります。
   「神想観などしたくない、面倒くさい」と思うかもしれません。
   その面倒くささに打ち勝つのが霊の働きであります。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <286~287>)

           <感謝合掌 令和2年5月25日 頓首再拝>

【 吾れ神と共にあり、何を恐れんや 】 - 伝統

2020/05/27 (Wed) 04:35:33


       *『 生長の家 』(昭和25年5月4日の法語)より

まず吾々は今 眼の前にある状態を祝福しようではないか。

それが自分を害するものだという考えを捨てようではないか。

今 眼の前にあるものは、過去の想念の影であるのである。
それはある様に見えているが、過去のものにすぎないのである。

それはすでに ないのである。

ないものに心を捉えられるな。


そこから新しいものが、生まれて来ようとしているのである。

新しきものは 自分の掌中にあるのである。

自分の手に於いて 神が働き給うのである。


神は今日ここにましますのである、自分の中に。

されば吾は何を恐れんや。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和2年5月27日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2020/06/13 (Sat) 04:42:04


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、
幸福のほか与えることを知らぬ神が自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。
吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、取囲まれているのである。
それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、
善のみが出て来るし無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 令和2年6月13日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2020/06/17 (Wed) 04:53:19


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 令和2年6月17日 頓首再拝>

神我一如 - 伝統

2020/06/24 (Wed) 04:43:33


      *「光明道中記」(6月24日《神我一如となる日》)より 

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあるとエマソンは言った。
宇宙の心だ。宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、全宇宙がその人を護りたまう
のである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)う
ていることを私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

           <感謝合掌 令和2年6月24日 頓首再拝>

《常に神と偕にあることを自覚しましょう》 - 伝統

2020/07/13 (Mon) 04:50:04


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P390)より

あなたは現象的状態は如何にともあれ、実相を観なければなりません。
あなたの実相は常に神と偕にあるのです。
神と偕に生き、神と偕に生活しているのです。

あなたは上から離れようと思っても離れることができないのです。
何故なら神は、何時、何処にも在(まし)ますからであります。

祈りによって心の塵を吹き払い、心の曇りを浄めることによって
神からの直接の賜(たまもの)を受け取ることができるように致しましょう。
そのときあなたはあなたの生活の主人公となることができるのです。

あなたがあなたの生活の主人公となるとき、
あなたは初めて完全に自由であり、健康であり、幸福であり、
裕(ゆた)かであり得(う)るのです。

神と偕にあるとき、神と偕にあることを自覚しているとき、
どんな困難も快刀乱麻を断つが如く綺麗に解決されるのです。

           <感謝合掌 令和2年7月13日 頓首再拝>

神との一体を自覚せよ - 伝統

2020/08/26 (Wed) 04:56:33

         *『生長の家』(昭和25年6月5日の法語)より

神は常に吾とともにあり、吾を力づけ、
吾に必要なものを与え、
弱きをはげまして、勇気を与え給い、
凡ゆるものを豊かに恵み給うているのである。

神は吾々の生命の源泉であり、
智慧の源泉であり、
愛の源泉であり、
力と勇気の源泉であり給うのである。

生命と智慧と愛とは
神から来るのであるから、
決して それが亡(ほろ)びるということはないのである。


神の生命を自覚するものは 亡びず、
愛を行ずるものは 死せず、

智慧を実践するものは
永遠に星の如(ごと)くなりて輝くのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2 )

           <感謝合掌 令和2年8月26日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」称名の意義 - 伝統

2020/08/31 (Mon) 05:07:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」
とイエスは言った。

蓄音機のレコードのように
「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。

阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
 あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
 わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。
 今本当に融け込んでいるのです! 
 だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」

という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

           <感謝合掌 令和2年8月31日 頓首再拝>

吾れは宇宙を造れる力と一体なのである - 伝統

2020/10/09 (Fri) 03:55:13


      *『日々読誦三十章経』(九日の経言《自己を偉大にする言葉》)より

吾れは吾が心のうちに広大無辺なる宇宙を蔵する。
星をみつめて佇む吾れは見詰めらるる星よりもなお広大なのである。
吾れは吾れのうちに星を理解する類なき能力のある事を見出すのである。

吾れは空の星以上のものである。
何故なら吾れは彼等を理解すると同時に、自分をも理解するからである。

吾れは天に在(ましま)す神々の如くに造られたのである。
吾れは星の軌道を闊歩する偉大なるものなのだ。
吾れは主の如く永遠の道を歩む者なのだ。

吾れ心を有するが故に、吾れは世界の王者である。
いま吾れは吾が仕事の上に王者としての第一歩を踏むのである。

吾れは星よりも大なるが故に此の宇宙を造れる力と同じものなのである。
然り、吾れは宇宙を造れる力と一体なのである。

いま吾れは凡ゆる種類の恐怖と弱小と卑陋(ひろう)とを超越して生活する。
吾れは空の星に比肩せらるべきものである。

吾れは、大地をつくり、天空を支えたまう神が、
吾れを安固(あんこ)に保護したまうことを信ずるのである。
それ故に吾はこころ安らかである。

地の造り主、天の造り主と吾れは眞(まこと)に一体である。
御親神様に感謝いたします

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/1773
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65739346.html

           <感謝合掌 令和2年10月9日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2020/11/05 (Thu) 04:14:04


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

           <感謝合掌 令和2年11月5日 頓首再拝>

吾らは神の生命の枝 - 伝統

2020/11/17 (Tue) 04:51:05


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

           <感謝合掌 令和2年11月17日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2021/01/06 (Wed) 06:26:19


       *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。

神の救けを得ようと思ったら
天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。

神より悪なるものが来(く)ると考えることは
神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが
神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。

神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、
吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、
わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

           <感謝合掌 令和3年1月6日 頓首再拝>

内外両側に神様がいて、その両側で我々一人一人と繋がっている - 伝統

2021/01/24 (Sun) 02:53:08


     *Web:かんながら(2021年01月07)より

伊勢神宮で感じたことがあります。

老若男女、大勢の人たちが本宮に向かって歩いているのを見た時です。


そこにいたすべての人から見えない「ヘソの緒」が、
神様と繋がって上空に延びていました。

神様は我々の内側にも外側にもいるというイメージを持ちました。


究極的には内も外もないのですが、
それでも肉体を持っている以上は内外両側に神様がいて、
その両側で我々一人一人と繋がっているという感じです。

なんだか嬉しく思いました。

外見がどう見えようと、みんな同じように神様のアバターなのだと思いました。

全ての人の心が平穏でありますように。

https://abetoshiro.ti-da.net/e11789641.html

           <感謝合掌 令和3年1月24日 頓首再拝>

神と一体であるという中心善を認めよ - 伝統

2021/03/29 (Mon) 04:43:21


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P75~76)より

だからわれわれの目指すべき中心善はなんであるかといいますと、
イエスの口調を借りていえば、

「なんじら、まず神と一体であることを認めよ、これ大にして第一の誡命なり。
 まずこの中心善を認めよ、すべての善はおのずからなんじに整うべし」

であります。

われらが、「神と一体である」と認めることが
決して神を冒涜するゆえんにあらず、
かえって「神と一体である」と認めないことが
神を愛しないことになることがわかったでありましょう。


わたしはこの序論の冒頭に、

「人生の目的とは、要するにこの世に神の生命を顕現することにある。
 神がこの世にあらわれた生活を示現することである」

と書きましたが、

われわれがその本来相において「神と一体である」という《事実》を
肯定しなければ、われらはこの世に神の生命(せいめい)を顕現することもできず、
神がこの世にあらわれた生活を示現することもできないのであります。

ただ、神なるもののみ、神なる生命(せいめい)を
この世に示現することができるのであります。

本来、人が神でないならばいくら努力しても
神の生命(せいめい)をこの世に示現することはできない。

そして「神」のみが「善」であるから、
本来、神でない人間がもしありとすれば、
彼はいつまでも善に到達することはできないということになるのであります。

ところが幸いに、人間は本来神の子であり、その本性(ほんしょう)において
《神そのもの》であるがゆえに、

「本当の人間(リーアル・マン)」が生活されたならば、そこに
「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命(せいめい)がこの世に示現した」
ことになるのであります。

           <感謝合掌 令和3年3月29日 頓首再拝>

《神の愛と不可分一体であること》 - 伝統

2021/04/03 (Sat) 01:45:26


      *「光明法語」(4月2日)より

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して
 友好関係にあるのである。
 もう赦すと云うことさえなくなったのである。
 はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
 われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
 それより逃れることは出来ないのである」

            <感謝合掌 令和3年4月3日 頓首再拝>

《わが家を天国浄土にする祈り》 - 伝統

2021/04/09 (Fri) 03:00:04


         *『 生長の家 』(昭和49年4月9日の法語)より

   【 祈り 】

   【 わたしは今、静かに神の御前(みまえ)に座して神想観を修し、
   自己に宿り給う生命の本質が“ 神 ”であることを自覚するのである。

   神われに在り給い、われ神の内にあるのである。
   内外ともに神であり、私は神と一体なのである。

   神は善であり、全智であり、全能であり、無限愛であるから、
   愛に背くもの、智慧に背くもの、善に背くものは
   何一つ此の世に存在しないのである。

   神と一体である自分が今住んでいる我が家は
   まことに“神の国”であり、天国浄土である。 】


   あなたは平和を求めるとき、調和を求めるとき、
   そして一切の不調和を消し去って、
   自分の住む世界を天国浄土とならしめたい時、
   上のごとく念ずるがよいのである。

   そして自己の全生活と、全心身とを神の中に投げ入れ、
   没入させるがよいのである。

   更に自分の家族たちに何か不完全に見えることがあるにしても、
   人間的知恵をもって、
   その不完全の存在を認めてそれを匡(ただ)そうとしないで、

   神の叡智の導きにそのまま委(まか)せ切って、
   神のおはからいにその人間又は問題を完全にお預けするとき、
   神にまさる知恵はないのであるから、どんな問題もスラスラと解決し、
   どんな人間も、神の子の実相があらわれて善化するに至るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

            <感謝合掌 令和3年4月9日 頓首再拝>

天地の生命と一枚になりきる - 伝統

2021/04/19 (Mon) 03:14:05


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。
どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、
いろいろと人間の理屈で考える。

打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が
不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、
性欲が汚れたものに見えてくる。

            <感謝合掌 令和3年4月19日 頓首再拝>

神は常に吾がうちにありて働き給う - 伝統

2021/06/11 (Fri) 04:50:37


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月11日)より

今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。

神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、
あらゆる君の求めに応ずべく、働いていたまうのである。

今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。

何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。

        <感謝合掌 令和3年6月11日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2021/06/13 (Sun) 04:59:27


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、
幸福のほか与えることを知らぬ神が
自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。

吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、
取囲まれているのである。
それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、善のみが出て来るし
無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 令和3年6月13日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2021/06/17 (Thu) 04:40:38


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 令和3年6月17日 頓首再拝>

神我一如 - 伝統

2021/06/24 (Thu) 04:37:11


        *「光明道中記」(6月24日《神我一如となる日》)より

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがある
とエマソンは言った。
宇宙の心だ。

宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、
全宇宙がその人を護りたまうのである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。
利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)うていることを
私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

           <感謝合掌 令和3年6月24日 頓首再拝>

あなたが自分を空しくするとき、世界はあなたのもの - 伝統

2021/06/30 (Wed) 05:06:51


     *「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より抜粋

【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
          始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】

若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。

それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。

           <感謝合掌 令和3年6月30日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」称名の意義 - 伝統

2021/08/29 (Sun) 04:53:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」
とイエスは言った。

蓄音機のレコードのように
「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。

阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
 あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
 わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。
 今本当に融け込んでいるのです! 
 だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」

という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

           <感謝合掌 令和3年8月29日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2021/11/05 (Fri) 04:55:26


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

           <感謝合掌 令和3年11月5日 頓首再拝>

神に抱擁されている - 伝統

2021/11/15 (Mon) 05:00:09


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月15日)より

静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。

第一節二十回、終わりて第二節二十回、
それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。

心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。


   神はすべての渾(すべ)て
   神はまたきいのち
   神のいのち我(わ)れ
   健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
   病(や)まざるもの我(わ)れ
   死せざるもの我(わ)れ
   無限力なるもの我(わ)れ。


   神はすべてのすべて
   すべてのものに神ましまして 
     我(わ)れを導きたまう
   神は調和の叡智(みちえ)
   神は栄えの叡智(みちえ)
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう。


   神はすべてのすべて
   すべてのもののうちに神ましまして 
     我(わ)れを護りたまう
   神はまたき聖愛(みあい)
   神 我(わ)れを護りたまえば
     幸多き者われ、
     恐怖なき者われ。
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう

           <感謝合掌 令和3年11月15日 頓首再拝>

吾らは神の生命の枝 - 伝統

2021/11/17 (Wed) 04:52:44

       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

           <感謝合掌 令和3年11月17日 頓首再拝>

自他一体の自覚 - 伝統

2021/11/18 (Thu) 04:37:36


       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

           <感謝合掌 令和3年11月18日 頓首再拝>

われ祈れば天地応(こた)え、われ動けば宇宙動く - 伝統

2021/12/16 (Thu) 04:56:23


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より

決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

            <感謝合掌 令和3年12月16日 頓首再拝>

《宇宙の一切は霊的存在で渾然一体である》 - 伝統

2021/12/26 (Sun) 04:49:55


      *『理想世界』(昭和42年9月11日~12日の法語)より

私たちの“心”が物質をみとめ、物質界の一切の存在を知覚することが
できるのは、物質そのものが、普通の常識で考える如き無知性のものではなく、
知性の表現体であり、知性と知性とが相感応するために、吾々の”心”は
物質界をみとめ、外界の存在をみとめることができることを
あらわしているのである。

“感ずる者”と“感ぜられる物”とが一体であり、
本来同質のものであることをあらわしているのである。

”経験する者“と”経験される物“とは一体なのである。

この一体関係は全存在が、物質の如き、分子と分子との距離が
分子の直径の千倍も離れてバラバラであるような存在であるかぎり
あり得ない関係である。

即ち全存在は”霊的存在”であって、それは普遍する実質によって
成り立っており、現象的・外面的には、個々別々の存在のような外観を
呈するけれども、実相的・内面的には霊的存在として渾一なる全体として
つながっているのである。

<十二日のことば   外界と内界とを隔てるもの>

外界を内界にある”心”が感ずることができるのは、外界と内界とが
全然“別物”ではなく、内外打成一片(注。禅語)の原理又は実相が、
あらゆる存在の奥に貫いて存するからなのである。

しかし吾吾は肉体と顕われて、地球上に生活する便宜上”時間・空間”という
”認識の形式”をつくり出し、その枠内に於いてのみ作動する感覚器官を発達せしめて、
内と外とを区別し、物体を個々別々に区別し彼と我とを対立せしめて生活する。

時間・空間という着物を着て生活することが便利なために、直接には、
自分の“生命”の肌直接に、宇宙普遍の空気ともいうべき「渾然一体の霊的存在」
を体験することができなくなっているのである。

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7069750

            <感謝合掌 令和3年12月26日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2022/01/06 (Thu) 04:53:34


        *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら
天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。

神より悪なるものが来(く)ると考えることは神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、
わが呼吸器をもって呼吸したまい、わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

            <感謝合掌 令和4年1月6日 頓首再拝>

天地の法輪を聴く日 - 伝統

2022/01/11 (Tue) 04:48:19

           *「光明道中記」(1月11日)より

【全世界は如来の転ずる法輪である。大法輪が実在の宇宙である。
                      (『驀進日本の心と刀』)】

生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。

恰(あたか)も点のようなものであるが、
点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、

また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、
空間的広がりがないのであるからその
微粒子的小体も《ない》のであるから、
其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。

その一点にして無限なるものが、
「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。

「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。

大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。

神の心の波さながらに生きることを
法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。

「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、「永遠」を背負って立つなり、
無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

            <感謝合掌 令和4年1月11日 頓首再拝>

妙音囀(てん)ずる日 - 伝統

2022/01/24 (Mon) 04:35:59


           *「光明道中記」(1月24日)より

【「汝(な)と我(あ)と天(あめ)の御柱(みはしら)を行きめぐりて
  国生みなさんと思うは如何に?」と
  如何にも天地の《いのち》の交流の厳かさが見えるようではありませんか。
  これを誰も卑猥に感ずる者はない。(『生命の實相』第二十巻)】


鶯(うぐいす)が啼(な)いている。
実に澄んだ声で啼いている。玲朧(れいろう)たる声だ。
どこにも汚れの感じられない声である。

それは雌雄呼び交す声であるのに何の卑猥も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞えるのは何故であろう。
それは鶯には我(が)が無いからだ。天地の生命と一枚になっているからだ。

梅の花が香っている。清浄そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔とでも、浄厳とでも言いたいような花びら、
雌蕊雄蕊(めしべおしべ)の美しきには何らの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者はその花はやはり雌雄呼び交すための
装(よそおい)でしかないと教える。

人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずると云うのは、
人間には我(が)があって、天地の生命と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのは、アダムとイヴとが智慧の樹の果を食べたからだと云う。

天地の生命と一枚になり切らないで、色々と人間の理窟で考える、
打算で考える、欲で考える。
そこに純潔であるべき筈の恋愛が不浄なものとして感じられて来る。

         <感謝合掌 令和4年1月24日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2022/06/13 (Mon) 07:29:54


      *『光明法語』(6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、
幸福のほか与えることを知らぬ神が
自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、
現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。

吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、
取囲まれているのである。
それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、
善のみが出て来るし無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 令和4年6月13日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2022/06/17 (Fri) 07:19:16


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 令和4年6月17日 頓首再拝>

神我一如となる日 - 伝統

2022/06/24 (Fri) 07:23:44


      *「光明道中記」(6月24日)より

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがある
とエマソンは言った。

宇宙の心だ。
宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、
全宇宙がその人を護りたまうのである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。

公けなる喜びのみが自分の悦びである。
利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)うていることを
私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

           <感謝合掌 令和4年6月24日 頓首再拝>

《神を感ずるために》 - 伝統

2022/07/11 (Mon) 07:11:57


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より抜粋

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、

神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、
神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

静かに眼を瞑って、

「われはすべてを愛しすべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
 ―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。


神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

「神は生命(いのち)にして
 我は神の子なれば
 我はすべてを生かし、
 すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、
「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、
神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 令和4年7月11日 頓首再拝>

「南無阿弥陀仏」称名 - 伝統

2022/08/29 (Mon) 12:38:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」と
イエスは言った。

蓄音機のレコードのように「南無阿弥陀仏」と
機械的に称えるだけでは救われぬ。

阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
 あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
 わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。
 今本当に融け込んでいるのです! 
 だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」

という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

・・・

      *「光明道中記」(8月29日)より抜粋

聖書の『ヨハネ伝』には

「その名を信ぜし者には神の子となる種を与えたまえり」

と書かれている。

名号は実相であり、如来の名号の中に融け込むことは、
如来の実相の中に融け込むことである。

理窟があっては融け込むことは出来ない。
理窟を抜き、わたくしの考計(かんがえ)を脱(のが)れさって
ひたすら名号の中に融け込むことを要するのである。

            <感謝合掌 令和4年8月29日 頓首再拝>

小我を没し去り、神とともに大活動するところに悦びあり - 伝統

2022/10/29 (Sat) 09:00:43


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月29日)より

すでに与えられていることを自覚せよ ―― と言えば、実際生活になんの努力もしないで
「すでに与えられている」とすこぶる甘い態度で生活している人も時には見出される。

そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、”神の中に生きる”生活ではないのである。

われわれは小我を神の中に没却させてしまわねばならないが、
本当の我(われ)は「”神の中”」に生きなければならないのである。

「神は今に到るも働き給う」―― われらは小我を没し去ると同時に、
神とともに大活動しなければならないのである。

活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。

           <感謝合掌 令和4年10月29日 頓首再拝>

神人一体を行ぜよ - 伝統

2022/11/05 (Sat) 07:14:43


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

            <感謝合掌 令和4年11月5日 頓首再拝>

《神と一体の自覚》 - 伝統

2023/01/06 (Fri) 07:51:38


     *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら
天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。

神より悪なるものが来(く)ると考えることは
神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが
神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、
吾が目をもって見給い、わが耳をもって聴きたまい、
わが呼吸器をもって呼吸したまい、
わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

         <感謝合掌 令和5年1月6日 頓首再拝>

《神常に吾を生かし吾を導き給う》 - 伝統

2023/01/21 (Sat) 09:40:02


        *「光明法語」(1月21日)より

神のすべてを生かし給う生命、吾が内に吾が心の内に、吾が魂の内に、
すべての事件の内にあらわれて生かし給う。

この神の大いなるいのち、常に新しきいのち今もわが中に流れ入りて
常にわが組織を新たならしめ給い、健全ならして給うているのである。

今この瞬間このわが頭の先からわが爪先に到るまで
輝く神のいのちに満たされているのである。

もはやわが肉体は神の肉体である。
わが肺臓は神の肺臓である。
わが胃袋は神の胃袋である。
吾が全ての内臓は神の全ての内臓である。

完全に健康であるほかあり得ないのである。

         <感謝合掌 令和5年1月21日 頓首再拝>

《神の愛と不可分一体であること》 - 伝統

2023/04/02 (Sun) 05:04:54

         *「光明法語」(4月2日)より

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して友好関係にあるのである。
 もう赦すと云うことさえなくなったのである。
 はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
 われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
 それより逃れることは出来ないのである」

         <感謝合掌 令和5年4月2日 頓首再拝>

天地の生命と一枚になりきる - 伝統

2023/04/19 (Wed) 05:00:12


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。
実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。

どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、
いろいろと人間の理屈で考える。

打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が
不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、
性欲が汚れたものに見えてくる。

         <感謝合掌 令和5年4月19日 頓首再拝>

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