伝統板・第二

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常楽への道~吉田国太郎 ③ - 伝統

2019/10/06 (Sun) 04:17:10

光をみつめて~その1

           *「常樂への道」(P166~167)より

困ると云うこと、辛いと云うこと、落着けないと云うこと、
自分の無明が其処に転じているのであって、だれが悪いのでもなく自分が悪いのである。

(中略)

一切は己の無自覚に依るものであり、
全ての責任は負わなければならないのである。

三界はただ、己の心の転ずる処に過ぎないのである。
外にあると思い、外から来ると思って、己の心から切りはなして、
立ち向かうことをしてはならない。

外に認めて立ち向かった時、吾等は真理の外へ転落している自分を発見するのである。
現象に執(とらわ)れた時、吾々は、自分が神の子でなくなり、
現象以外に見られない自分に成り下がっている浅ましさに、只々
慙愧の涙を流せる自分でありたい。

批(う)つべきものは己の無自覚と云う其の一つをして他(ほか)に無いのである。
他(た)を批(う)てば己が深く地獄に落ちるばかりである。

執(とらわ)れた心で動くことをしてはならない。
動けば無明(むみょう)が転じますます地獄の混乱相が展開するばかり。

まず死すること。
まず己がかわること。

何時(いつ)もよく現象が放てると云うこと。 
何時(いつ)もよく実相にかえれると云うこと。

ここがすなわち恩師(谷口雅春)によって創(はじ)められた天国に至る通路である。
現象に執するとき、この通路は開(あ)かずの扉が閉ざされて、
吾が一身に憂い悲しみ煩いがつきまとってくる。

現象をよく放って何時もよく実相の見(けん)にかえる時
音立てて此の扉は開かれて行く。

人にふれ、物にふれ、事にふれての日々(にちにち)の心の動きの中に
此処が揺るがされずにしっかり生きているかどうか、
実に当たって折々(おりおり)に異なった心が動く様では、
神性は未(ま)だねむっている。

御教えは未(ま)だ、借り物である。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6620484

(2)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7220053

          <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>

光をみつめて~その2 - 伝統

2019/10/19 (Sat) 04:11:22

           *「常樂への道」(P167~169)より抜粋

(1)不幸とは現象に執(とら)えられることの別名。
   現象に執(とら)えられねば此の世は其の儘安らかな天地で或る。

(2)苦しい自分を如何にして平安に復するかと云うのが生長の家ではない。

   悩みの自分の中に今悩まない自分が立っている。
   この光に目覚めるのが生長の家の救いである。

(3)今の此の身の此の儘に新しい自分を、新しい父母を、
   新しい隣人を発見して行くのが釈迦の説いた道、
   キリストの説いた道であった。

   人間此の儘が神の子である。

(4)吾々生長の家の家族のすぎ行く行き方は、
   日に日に神想観にかえり、如何なる処に立たされていても、
   此処に、もう一人立っている自分、もう一人立っている相手、
   もう一つ立っている世界をみてゆく行き方である。

(5)此のもう一人立っている自分が、死なない自分病まない自分
   有難い自分、火に焼けず水に溺れぬ
   常(とこ)立ちの聖霊によって生まれ、聖霊によって生かされている
   肉体を出入りしたことのない自分である。

   吾らの自覚が回転して此処が成就される処から、
   神の一人子の幸福が誕生してくる。

   そして此処以外には全く道が無いのである。

          <感謝合掌 令和元年10月19日 頓首再拝>

光をみつめて~その3 - 伝統

2019/10/31 (Thu) 04:33:51


           *「常樂への道」(P170~172)より抜粋

(1)人は他(た)をだますことは出来ても、
   決して自分をだますことは出来ないものである。

   自分をだますことが出来ないと云うことは、
   神をだますことが出来ないと云うことである。

(2)内なる神の御声に忠実にならずにいて、
   神の心を泣かせていて、どうして其の人に
   平和と幸福とが来るのであろうか。

   心に痛くないこと、心のすっきりすること、
   心ががらりすること、総じて心の後味の良いことを
   ふんで行くのが神を粗末にしない人の生活である。

(3)わが願いによって生きることなく、
   神の願いによって生きてこそ吾が身の幸である。

(4)自分と云うものが定まり、本当の自分が自分の内で
   しっかりとしてくることから道が開けてくるのである。

(5)自分を本当に愛するとは、やはり死ぬことであり、
   《ぬぐ》ことであり、捨てることであると思わされている。

   此処が出来てはじめて自分を愛することが其の儘全世界の為であり、
   自分を粗末にしないことが其の儘全世界を大切にしている様な
   世界が開けて来る。

          <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>

光をみつめて~その4 - 伝統

2019/11/18 (Mon) 03:47:55


           *「常樂への道」(P172)より抜粋

(1)自分が零(ぜろ)である心。

   此の心で仕事に立ち、日を送っている時は楽であり、安からである。
   自分が零(ぜろ)になる所に、浮き上がる様に生まれ出て来るのが
   神の子の喜びである。

(2)自分が苦しいのは自分が零(ぜろ)でなくなり、
   何かを捉えているからである。

   此の世の好さがみえず、実相がみえず、人それぞれ物それぞれの
   よさがみえないのは自分が零(ぜろ)なっていないからである。

(3)零(ぜろ)にならないとき天地一切和解の心が動かないのである。

   何も無い零(ぜろ)の処には、神の心、仏の心、
   天地一切和解の心がおのずからに入っているのである。

   零(ぜろ)の処には色々なものが入っている。
   有難いもの、尊いもの、本当の自分の為になるものが
   限りなく含まれている。

          <感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>

光をみつめて~その5 - 伝統

2019/12/04 (Wed) 03:22:05

           *「常樂への道」(P173~175)より抜粋

(1)素直になれば、今自分が神の国に居り神のおはからいに
   一切がはからわれて自分の周囲を巡っていることに目が覚める。

(2)素直になる時、何時もよいものが待っている。

   素直になると云うことは、自分の内に
   神が喜び給うことなのであった。

   素直になる時、自分の内で神が喜び給うて安からに息し給う。
   其処から此の身の平安が神も喜びに照り返されて生まれてくる。

(3)此の世の諸々の響きが諸天の撃(う)つ天鼓(てんく)の
   響きであり、次々とめぐる周囲の風物の変転、環境の変遷、
   四季のめぐり、これらが全て雨ふり散ずる曼荼羅華の
   花弁(はなびら)であったのである。

(4)其の儘素直に有難いと云うお諭しの御言葉に、
   心の無理を感ぜられない朝である。

(5)悪魔とみえる処も一皮むいてみれば神であり、
   地獄とみえる処も一皮むいてみれば極楽である。

   剥(む)くのは己の心の一皮である。
   此の一皮をむく時が、天地が新たにされる時であり、
   吾等の救われる時である。

   かりにも他(た)を批(う)っていたことなどが
   申し訳なく思われ朝である。

(6)彼岸とみていた天地を、今此処に発見し、今の此処と
   みていた天地を念像の花にすぎないとみるのが、
   吾々生長の家家族の信仰であったのである。

(7)彼岸一元、神一元、彼岸の他(ほか)に何も無く
   神の他(ほか)には何もない。

   神のみ唯一の実在と、生命の實相には示されていた。

          <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>

光をみつめて~その6 - 伝統

2019/12/24 (Tue) 04:39:43


           *「常樂への道」(P175~177)より抜粋

(1)全宇宙は唯(ただ)一つの生命(せいめい)。

(2)今此処に吾に開いている此の生命(せいめい)は宇宙大に
   大いなる生命(せいめい)である。

(3)神に於いて我(われ)も無し、君(きみ)も無し、草も木も無し、
   河も無し、只(ただ)神の生命(せいめい)、
   吾とも君とも草とも木とも生きているのみ。

   それは一つであるから深い深い連(つら)なりがある。

(4)全宇宙に支えられ、そして全宇宙に開いて全宇宙を開いて
   全宇宙を支えている不思議な生命(せいめい)。

   これが只(ただ)当たり前に平凡に、
   其の日其の日を生きている神の子の生活である。

(5)此処にある生命(せいめい)が神そのものの生命(せいめい)である。
   大きな大きな生命(せいめい)である。

          <感謝合掌 令和元年12月24日 頓首再拝>

光をみつめて~その7 - 伝統

2020/01/11 (Sat) 03:40:30


           *「常樂への道」(P177~179)より

此の頃こう思うことしきりである。

拝めるようになる方法、実行出来るようになる方法などと、
方法を求めたり方法を尋ねたりしていることが、
どんなに空しいことかと云う事である。

感謝と云うことにしてからが、
感謝出来るようになる方法などを尋ね求めている限り、
決して感謝が出来たためしが無い。

方法など求めにかかる心であっては
決して本物を吾が身に戴(いただ)くことは出来ないものである。

感謝には方法は無い。
合掌にも方法は無い。
このことが解らされてこの頃私の生活は良い意味に於て簡単なものになってきた。

余計なものが頭の中や、心の中から脱落して行った感じである。
合掌にも方法は無い。
こうしてああしてなどと方法を尋ねて合掌した所に真の合掌は生きて来ない。

ただ素直にそのまま拝むこと、と云われて、
ハイと素直に掌を合せた処に誠の合掌は生きる。

ポンと中心に飛び込まず、方法などを尋ねているから目的が成就されない。

 
合掌するにはただ合掌する以外に道は無い。
感謝するにはただ感謝する以外に道は無い。

信ずることにしてからが、信じられるようになる道など求めずに、
信ずると云うなかへ素直に自分を入れて行かなければ、
信は成就されるものではない。

只(ただ)素直に其の中へ自分を入れて行く。
そこに道が顕れて来る。

ここに私達の『生命の實相』を繙(ひもと)く時の、
神の子としての繙き方がある。

法然に欺(だま)されて地獄へ堕ちても更に後悔申さずとて、
只(ただ)素直に法然の申されるが儘(まま)、
なすが儘(まま)に念仏申してゆかれた親鸞聖人の御心には、
只(ただ)頭が下るばかりである。

 
素直に其の中へ自分を入れて行く。
此処を失って、信じられるようになる道など求めにかかったならば、
吾等のうちに何時(いつ)の日にか信が生まれてくるであろうか。

感謝の心が欲しかったならば、
素直に感謝そのものの中に自分を入れて行くこと。

感謝も信も、人々具足すれども、素直にその中へ自分を入れずに、
外へ向って方法などを求めているから生きて生まれて来ないのである。

大通智勝仏が十劫と云う長い年月成仏することを得なかったのは、
彼が勝手に成仏せざりしためであったのである。
此の頃味い深く戴く御言葉である。

 
『汝等天地一切のものと和解せよ』
神の御言葉ははっきりと割り切れていて余りがない。

 
『和解せよ』である。
それ以上一語をも要しないのである。
受ける吾等は素直に入(はり)る。
それ以外には語るを要せずである。

此の割り切れ具合の鮮かさに、神様の神様としての尊さが生きている。
割り切れているか、いないか、聖凡(しょうぼん)二つの別れ道がここである。

 (十五年五月)

          <感謝合掌 令和2年1月11日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その1 - 伝統

2020/01/26 (Sun) 06:11:03

           *「常樂への道」(P180~182)より抜粋

無執無縛と云うこと

憑(つ)かれた人があり、憑かれていない人がある。

憑かれた人とは、言葉を変えれば、執(しゅう)した人、縛(ばく)せられた人、
又、凡夫と云うこと。

そして、無執無縛が独り神の子。


人はともすれば、何かに憑かれた人になっており、恐らくは世の大方の人々が、
此のうらぶれた姿を巷(ちまた)に曝(さら)しているのである。

特殊の使命のある人を除いては、憑かれた処の無くなった人は最早此の世に
生まれて来ることはないであろう。

此の世は、憑かれを追い、執(しゅう)から無執に、縛から無縛にかえる、
一つの道場に他(ほか)ならない。

此の無執を、無縛を、絶対の空所(くうしょ)とも云い、
《現象無し》とも呼ぶ。

(中略)

人は何と云っても、自分で気がつき、自分の目が内から覚めることが大切であって、
教えられただけでは何ともなるものではない。

(中略)

善に励んで善の虜となれば善中の悪、
神を願って神に縛(ばく)されれば神中の悪、
一切を放して放した姿に憑かれれば無中の有(う)。

無執無縛にて、神を想い、善事を励む、これ仏子現(げんじょう)の境涯。

(以下略)

          <感謝合掌 令和2年1月26日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その2 - 伝統

2020/02/10 (Mon) 02:35:01


           *「常樂への道」(P183~184)より抜粋

毎日の事柄に生きて動いている(自分の)心が、一歩ずつでもよい、
変っているか、しっかりした確かなものになって行っているか、
それとも固定して立ち止まっているか、此処を調べると、
自分が死んでいるか生きているかが判然として来る。


人は、相手に善くなって貰い、相手に自分が喜べるようにして貰っただけでは、
本当の幸福とは云えないのである。

相手に自分の満足の行くようにして貰ったり、させてみたりして、
そしてよしや自分が喜んでいたとて、その喜んでいる自分はどんなものかを
調べてみると、本当の自分は死んでしまって『我(が)』が
喜び躍っていることがある。


救われるとは、自分が良くなり、自分が開いてくること、
自分が拝める人間、自分が受け容(い)れられる人間になることであって。
周囲からよくして貰うことではないのである。

周囲からよくして貰った時、誰よりも一番深く救われたのは、
よくして貰った自分ではなく、よくしてくれた相手である。

          <感謝合掌 令和2年2月10日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その3 - 伝統

2020/02/29 (Sat) 04:24:45


           *「常樂への道」(P184~186)より抜粋

現実に生きて動いているものは其の人の人となりばかりであって、
知識でもなければまして他動的に知らされた理論でもない。

又、人為的にそんなものを持ち出してみたとて、
根のない花が躍り出たようなもので、所詮は空しいものである。

如何に真実めかしくみえようとも、
人為的なものから光が生まれたためしは無い。


単なる知識や理論などと言うものは、何時も影弁慶のような存在で、
何事も無いときに恰(あたか)も何事かがある様(よう)に仮定して
述べる時にのみ、まことしやかに生き生きと見えるだけであって、

本当に何事かの前に立たされたならば、へなへなと崩れて消えうせてしまうものである。

理論や説明 ―― 述べること、言い現すことなどは、
平時に戦場の事を語るようなものである。

(中略)

実際の問題に触れた場合、知識とか理論とか、思慮とか分別とか言うものが動く余地など
は無いのであって、そんなものが動ける余地が残されていると思っていることが
ひとつの錯覚なのである。

実際問題はどんな小さな事柄でも、もっと切羽詰っており、
もっと直(じか)に打ち当たっている。

途端(とたん)に触れて、途端に動いているのが此の生きた人生である。

          <感謝合掌 令和2年2月29日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その4 - 伝統

2020/03/13 (Fri) 04:19:11


           *「常樂への道」(P186~187)より抜粋

(1)素直になって全てを受ける。
   それで若しもどんな予期せぬ結果が生じたとしても、
   それは結局瞬時にして消えてしまうものであり、
   
   素直という光が出たことを考えれば、何にも増して
   大きな功徳が与えられたのである。

(2)素直に有難いと感謝する、其の時の最大の宝はその結果として
   生まれてくる現象のよろしさではなくて、有難いと感謝した
   其のこと自身がかけがえの無い尊い宝なのである。

   此の素直と云うもののうちには無量無辺の味わいがあり、
   それが次第次第に深く香ってくるようになることが
   望ましいことであり、有難いことである。

   その有難さ尊さに比べれば目に見える結果などは。
   太陽の前の星よりも遥(はる)かに儚(はかな)いものでしかない。

(3)時には躓き倒れることがある。
   しかし、有難いことに、躓いた時には必ず何かを拾うものがある。

   『転んだら拾った』と私は、何時も思うのである。

   躓いたら、せめて其処にある御光(みひかり)を拾うこと。
   此の光を拾った人は、其の時再び起き上がったのである。

   それを拾い得なければ、人は長い間臥せたきりの姿である。
   臥せた処は業の輪廻の中である。

          <感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その5 - 伝統

2020/03/25 (Wed) 04:44:30

           *「常樂への道」(P187~188)より

人間は隻手の声であること。

キリストは処女マリヤを母として誕生し、
釈迦は摩耶夫人(まやぶにん)の右脇(うきょう)より誕生している。

一は夫婦の結びによらず、
一は誕生の条件具備せざる処に生まれ出(で)ている。

これ、人の生命(せいめい)に隻手にしてなる生命(せいめい)である
ことを神が示した万人(ばんにん)への啓示に他(ほか)ならない。

人間は因縁和合して生きているのではない。
因縁和合して生きているならば、それは両掌(りょうて)を打って
鳴っているような音である。

両手が離れれば音は止(や)み、因縁和合が崩れれば人も亦無にかえる。
その音は鳴る如く耳朶(じだ)を打てども、音の無い音に過ぎず、
その人も亦有るかの如く見ゆれども本来無、無より出(い)でて無にかえる、
空無の転現にしか過ぎないものである。

摂氏何千万度の灼熱状態、生物存在の条件空無の中から人間は
誕生してきたのである。これ隻手の音が鳴ったのである。

隻手どころか、隻手もなしに音響く、空無の中に鳴る生命(いのち)。
これ神の生命(いのち)。開きて人の生命(いのち)。
此の世のあるがままの相(すがた)である。

隻手の声は無指(むし)にして立つ指(ゆび)。
此れを聴き、此れを観る。
これが神の子の発見である。

生長の家も今此処に、無指にして立ち、隻手にして鳴っている。

          <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その6 - 伝統

2020/04/12 (Sun) 03:22:10


           *「常樂への道」(P188~189)より

吾々は、もっともっと御教えを
尊厳あるものに拝まなければならないのである。

そして御教えの下(もと)に、もっと謙譲に、もっと真摯に。
自分を置いて行かなければならないのである。

吾々は御教えの高さに自分を置いたり、
御教えを踏んで自分が立っていたりしてはならないのである。

一人の人間の営みや悟りなどと云うものは、
御教えの広大無辺に比べれば何時も小さなものでしかない。


人間は神の子。

子は何時も親を尊び拝すべきであって
自分で自分を親の高さになど置くべきではないのである。
若しもそうした人があるならば、その人は最早人間としての品位を
失っているのである。

親の自覚と、子の自覚と、此の二つが融会する処にこそ
神の子の生命(せいめい)は生長して行く。

自分が大きくなったことによってお蔭の元を見失わないこと。
そして自己拡大と謙譲の美徳と此の二つが何時も平均を保って生きていること。

此処にこそ神の自覚に立つ神の子の生命(せいめい)が生きて行く。

或る学者が人間は普遍であって特殊、特殊であって普遍なものであると
云い、古(いにしえ)の聖(ひじり)が人間が無限であって有限、
有限であって無限であると観じたことが、全て生長の家の、神の子、
と云う此の一語に尽くされているのである。

神の子。

噛みしめれば誠にも限り無く奥深い御言葉である。

          <感謝合掌 令和2年4月12日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その7 - 伝統

2020/04/24 (Fri) 02:30:20

           *「常樂への道」(P189~191)より抜粋

(1)倦(う)まず、撓(たゆ)まずが、神の道。

(2)何が来てもよい。
   其処で倦まず、撓(たゆ)まず、神の生命(せいめい)を
   生かして行く者には、明日(あす)は必ず明るい世界である。

   良き実を得ようと思えば良き種子(たね)を蒔かねばならない。

(3)今の内(うち)に未来はあり、今の生命(せいめい)の生かし具合が
   明日の栄えを決めているのである。

   倦んで、撓(たゆ)んで、今に生命(いのち)を致すことを怠る者は、
   明日の世界に墓穴を掘る者である。

   吾等互いに、何時も、今、懸命でありたい。

(4)喜びあれども倦むことなく、悲しみあれども撓(たゆ)むことなく、
   誠にも神の子の栄光は、かく努むる者にのみ開かれる。

(5)釈尊が精進と云うことの尊さを高くかかげた心根(こころね)を
   深く噛みしめ味わってみたい。

   精進とは、倦まず撓(たゆ)まずと云うこと。
   途断(とだ)えないと云うこと。

   目にはみえない。
   然しこれが天と地をへだてる門の無い門の一つである。

(6)風が吹いてもよい。
   波が立ってもよい。
   足踏みしてもよい。

   何があってよい。

   只一つ、倦まずたゆまず中断せずに、
   此の一事(じ)を吾れ人(ひと)倶(とも)に祈ること切(せつ)である。
   
          <感謝合掌 令和2年4月24日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その8 - 伝統

2020/05/06 (Wed) 04:43:51


           *「常樂への道」(P191~193)より抜粋

(1)唯一の罪は、実相を忘れると言うことである。

   一切の不徳は、実相をくらましている所から生まれて来るのである。
   罪を消す唯一の道は実相にかえることである。

(2)この世にある一切の教えは全て実相にかえる道を指しているのである。

(3)元の相(すがた)、実相は、不動であって動かない。

   動かない不動が、動く不動に変じつつ生きて行く処こそ、
   本当の不動が光るのである。

(4)自分即ち世界がこの世の真理。
   自分は神の子であると受け容れた時に、
   自分はエデンの楽園に帰ったのである。

(5)只ひとつお互いに神の子を忘れぬことが大切な大切なことである。
   何と云っても此処に渾(すべ)てがあるのである。

          <感謝合掌 令和2年5月6日 頓首再拝>

無執無縄と云うこと~その9 - 伝統

2020/05/18 (Mon) 04:23:24


           *「常樂への道」(P193)より抜粋

極楽とは生命(せいめい)の進むのに障(さわり)の感じられない世界。
障の無い心が極楽の楽の心。

(中略)

何が来ても其の中から光をうけ 光をうける足場にかえて行ける人には、
暗(くらい)も不幸も、眼にみえて心にみえず、心にみえて生命(せいめい)に
ふれず、生命(せいめい)にふれる姿は、何時も、明るいもの、尊いものに、
内容が置き換えられている。

生長した人をみれば、誰も彼も此の心溢(あふ)るばかりである。

誠にも観られるものは観る通りの内容である。

吾々は外に障(さわり)のあることを嘆く前に、
極楽を観る心の少ないことをこそ嘆かなければならない。

観る心さえあれば、一切は此の儘(まま)に極楽ばかりの世界である。(十五・七)

          <感謝合掌 令和2年5月18日 頓首再拝>

幼な児のこころ~その1 - 伝統

2020/06/10 (Wed) 04:24:18

           *「常樂への道」(P194~203)より抜粋

(1)五官は惑わしであり、近眼であり、五官に立っている限り、
   此処の晦ましからのがれることが出来ないのであります。

(2)計算で行かず道で行く。
   これが人間としての正しい生き方であります。

(3)『生命の實相』を読むこと、神想観することと、
   なるほどと思ったことを出来る出来ないは別として、
   兎も角その日即座にちゃんと行事してゆこうとする、

   この3つを精進努力するということが定石であるわけです。

(4)自分の力で生きていると思っていたら、それは《うそ》であって、
   凧が風にあげられて其処にあるように、
   自分は神にあげられて今此処にあるのである。

   絶対他力である。

(5)考えて見ますに私たちは生命の實相を読むのは、
   本と読んでいるのではなくて、
   神さまから話をきかされているのでした。

   そう思ったならば只だまってひれ伏し、
   だまって受けとる心になれます。

(6)本来一つの神が様々な姿に現れてわたしたちが此処に生きて
   おりますのも自他一体を味わうため、人格的つながりを
   喜ぶためであるとみることも出来るのです。

(7)人格的つながりの姿で、神が親が 今 私に話をきかせてくれている、
   神の御言葉が 今 私に聞こえてきているのだと、そんな風に
   『生命の實相』をうけて読みますことは、嬉しいことであり
   有難いことであります。

          <感謝合掌 令和2年6月10日 頓首再拝>

幼な児のこころ~その2 - 伝統

2020/07/07 (Tue) 04:36:59

           *「常樂への道」(P203~205)より抜粋

(1)御教えの本は本当は本の形をしていても本と云う物質ではないのです。
   神の言葉、天地を開く鍵、神様なのです。

(2)どんなに精進を重ねましてもどれ程に『行』が出来ていましても、
   『教え』が自分に開かれて来ませんだら救いは成就されません。

(3)『七つの燈台の点燈者』の御教えこそ
   私達にとって天の岩戸の戸開きであります。

(4)この『生命の實相』の本を読んでいることが、
   生死(しょうじ)の鍵である。

   神の手にある巻物が開かれているわけでありますから、
   ただ読むだけが実に荘厳な行事だと云う事になります。

(5)現象意識にわかるわからないは、それは大した問題ではない。
   ただ黙って素直なって、無我になって読ましていただいて行くこと、
   それだけでよいわけであります。

   『無我』こそ玉手箱の中に封じられている生命(せいめい)の
   巻物を開くところの唯一の鍵であります。

          <感謝合掌 令和2年7月7日 頓首再拝>

幼な児のこころ~その3 - 伝統

2020/07/22 (Wed) 04:37:46


           *「常樂への道」(P205~214)より抜粋

(1)無我ということと素直ということはおなじひとつの真理であります。
   素直ということは何より一番大事なことなのであります。

(2)私たちは何も付け足すことも減らすことも要らない今の自分に
   御心のおはからいが来ているのですから、これを拝み、
   御教えに自分を絶対無条件に、渡し切り、御教えを受け切る、

   こう思って『生命の實相』の御教えをそのままうけ入れて
   まいりましたら、力も入れず、努力も重ねず、神が向こうから
   救って下さるのでありまして、

   何があろうとも今その儘で救われているのが見えてくる、
   これが本当の『生命の實相』のいただき方であろうと存じます。

(3)生長の家では何でも思う通りになると申します。
   思う通りになると云われたら
   『ハイそうですか思う通りになるのですか、有難うございます』、
   と受けたらそれでよいのです。

   それを、ただ思うだけでよいのだろうか、などと余計な分別の心を
   さしはさむ、これだけの一寸とした気持ちの相違が、実は本当に
   思う通りになるか、ならないかの天と地の岐(わか)れ道に
   なってまいるのであります。

(4)御教えを受けさえすれば其処に結果がちゃんと現れる。
   だから力を入れずに、努力もせずに、本当に七つの燈台の点燈者の
   御言葉の開かれている、その中にすっと私達は入って行ったら、
   力も入れず努力もせず自分がすっかり変わってしまう。

   生長の家はそういう救いであります。
   力の要らない救いであります。
   此処が生長の家の真面目であります。

(5)本当にこの世界は心ばかりが生きている世界で
   物質と云うものは無い世界であって心の内容通り、
   その通りに現れてくるのであります。

(6)御教えの中へすーっと自分を入れて行く、
   後(あと)は神が好いようにして下さいます。

   今此処に、本当に私達が全部無条件に救われるだけのものが
   開かれて、誰でも入(はい)れるように手をのべられているのです
   から、黙って私達はこの中に入って行ったら好い。

   後(あと)は神様が好くしてくださる。

   これが私達が神の子の喜びに入るか入らないかの鍵なのであります。

          <感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝>

幼な児のこころ~その4 - 伝統

2020/08/19 (Wed) 03:48:32


           *「常樂への道」(P214~217)より  

(1)『生命の實相』開巻第1頁の処に恩師がヨハネ黙示録の
   第1章12節~18節をのせて下さってあります。

   『我(われ)これを見しとき其の足下(あしもと)に倒れて
    死にたる者の如くなれり』とあります。

   これが非常に大切なのであります。

   これこそ教(おしえ)と云うものに触れます
   私たちの態度でなければならない。

   これが御教え入る、神の国に入る門であります。

(2)感心しても感心せんでも、判っても判らんでも、
   行じても、行事なくても、この門を通らなかったら何にもならない。

(3)これが実相と幾ら審(つまび)らかに判っても、
   さてそれを行じてゆこうとする其処へ自力が出てしまっては
   何の値打ちもない。

(4)自力が出る所から実相と現実とが一様になれない悩みが出る。

   其処を超えられるひとすじの道は、御教えに触れる始めに
   『我(われ)これを見しとき其の足下(あしもと)に倒れて
    死にたる者の如くなれり』と、此処に自分をおくことであります。

   何時も自分を此処に置く。
   此処に自分を置いた時、無我であります。

          <感謝合掌 令和2年8月19日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その1 - 伝統

2020/09/10 (Thu) 02:33:45


           *「常樂への道」(P218)より抜粋

『お前は今何の為に生きているのか』  
時折、此の問(とい)を厳粛に己に念じ、此の問に対して、
己の心中(しんちゅう)に生きている偽らざる姿を、
赤裸々に白日の下(もと)に曝(さら)してみることが大切である。


自分の今の心は、何を目的にし、何を目当てにして生きているか。
自分の心として恥ずかしくないだけのものが生きているかどうか。

此の心の正体が、神か、仏か、地獄の回し者か。
今、自分というものになって、自分の胸の此処で生きているものは、
神か、仏か、鬼か、蛇か。

脚下照顧が大切である。

生死(しょうじ)の鍵が此処にある。

盡天盡地一切の事柄が此処にある。

自分にとっての全世界が此処にある。

          <感謝合掌 令和2年9月10日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その2 - 伝統

2020/09/17 (Thu) 04:14:47

           *「常樂への道」(P219)より抜粋

晦(くら)まされずに、しっかり心の目を開いて、
じっと眺めてみることが大切である。

人は兎もすれば、自分に自分が晦まされて仕舞う。

其の心が色々誠(まこと)しやかなお面をかぶって躍(おど)り出す。

人類の為とか、兄弟の為とか、忠実とか、真剣とか、
此の心は、じーっと辺りを眺めては、自分の為になりそうなものを
手中に収めて、それを振り回す。

其処に咲く花は虚仮(こけ)の生命(せいめい)の花であって、
真実の自分は地に堕ちて死んでいる。
これは朽ちる生命(せいめい)の為の働きである。

私達は、此の晦(くらまし)に堕ちず、生命(せいめい)に迄到る
生命(せいめい)に立って生きなければならない。

其の心から、飯(めし)を食い、暖をとらなければならない。

          <感謝合掌 令和2年9月17日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その3 - 伝統

2020/09/25 (Fri) 03:00:46

           *「常樂への道」(P219~220)より抜粋

(1)自分、自分という其の自分は表面へは現れずに奥に潜んでいる。

(2)此の生業(なりわい)間違い無い、此の生活間違い無い、
   此の精進真剣である、此の求道真剣である、
   此の信心生命(いのち)懸けであると云うように、

   表面ばかりをしらべて、其処の点数で安心してはならないのである。

(3)此処がしっかりたしかなもののなって来なければならない。
   此処を御教えは、《自分は無い》、仰せられるのである。

(4)形は其の儘でありながら、
   神を中心にしてめぐるものに立って替えられてくる。

   此処にこそ、地が割れて天が開いた喜びが生まれてくる。

(5)喜びも人が作ったものではなく、天より下(くだ)ったものとなり、
   喜ぶ者は肉体人間ではなく神の子であり、
   喜びの其処に神と人とが共に居る喜びである。

(6)喜びと云う創(はじ)めからある絶対事実が
   其の儘に其処に花咲き現れた喜びである。
   
          <感謝合掌 令和2年9月25日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その4 - 伝統

2020/10/09 (Fri) 03:41:22


           *「常樂への道」(P220~221)より抜粋

(1)十字架は抹消であり、甦生(よりがえり)であるとは、
   生命の實相のお言葉である。

(2)十字架の十字の一点は、姿無く形無くして、
   なお内に一切を含む無一物無尽蔵の無。
   一切の中心、渾(すべ)ての渾(すべ)てなるスの御声と、
   恩師は説き給う。

(3)内に一切を含みて、なお姿(すがた)形を現さざる無。

(4)開けば十字となりて際涯無く、天地をこめて虚空一杯に
   満ち亙(わた)り、天(あま)翔(かけ)りて無限相の御光。
   この十字架の中心の一点に在るものこそ、
   生命(せいめい)の生命(せいめい)である。

   『無』であり、一切であり、光であり、
   更に限りなき實の《いのち》である。

(5)キリストが十字架に懸けられたとは、
   実相(じっそう)生命(せいめい)への帰命である。

   キリストが十字架に懸けられたとは、
   実相(じっそう)生命(せいめい)への生誕である。

   そして、偉大なる実相(じっそう)天地(てんち)の
   象徴である。

(6)十字架は抹消であり、甦生(よみがえり)である。
   五蘊皆空、色即是空、実相現成(げんじょう)、光明遍照。

   十字架は一切を説き示して余り無し。

          <感謝合掌 令和2年10月9日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その5 - 伝統

2020/10/23 (Fri) 04:25:34


           *「常樂への道」(P221~223)より抜粋

(1)釈尊は常恒なる世界を発見した。
   金剛不壊なる人間を発見して、それを説き示した。

   此の釈尊の正しい法脈は、生長の家によって伝えられている。

(2)花咲きて散る。
   然し眞(まこと)には散らず。

   散り行き、流れ去るは現れであって、
   其処に散らず、流れ去らない真実のものが生きているのである。

   咲きて散り行く其の一連の連なりの中に、
   花の生命(せいめい)が匂おうのである。

   咲きたるものが散るは、五官に映じたる幻。

(3)咲く中に久遠生命の匂いを宿す如く、
   散る様(さま)にも久遠生命の香(かおり)はこめられている。

   久遠生命の凱歌(がいか)である。

(4)唯(ただ)あるものは、生命(せいめい)生くるのみ。

          <感謝合掌 令和2年10月23日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その6 - 伝統

2020/11/08 (Sun) 04:07:48


           *「常樂への道」(P223~224)より抜粋

(1)生命(せいめい)は生(せい)につかず、死につかずして、
   唯(ただ)、生くるのみ。

   その生くる姿、現れて、生死(しょうじ)の二相を現ず。

(2)個別の存在は何も無く、唯(ただ)、生命(せいめい)生くるのみ。

(3)生も死も、咲くも散るも、生命(せいめい)の響(ひびき)、
   生命(せいめい)の生くる事実の現れである。

   生死(しょうじ)は生命(せいめい)に於いて一つである。

(4)生死(しょうじ)なき生命(せいめい)が、
   常恒(じょうこう)なるもの、流転せざるものが、
   此処に生きる。

(5)生死(しょうじ)無常、流転の現れをみせながら、
   生死(しょうじ)は生命(せいめい)に於いては、
   二つのものでなく、一如のものであり、

   而(しか)も生死(しょうじ)存するのではなく、
   生命(せいめい)の働きが其処に現れ、
   生命(せいめい)の影として其処に現れているのである。

          <感謝合掌 令和2年11月8日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その7 - 伝統

2020/11/21 (Sat) 04:30:16


           *「常樂への道」(P224~225)より抜粋

(1)生命(せいめい)の歩みの其の儘に心がついて行く。
   神の子とは唯(たた)これだけのことである。

(2)生命(せいめい)の歩みの其の儘に随い行けば、
   心はあるままで、心なし。

   唯(ただ)、生命(せいめい)のみ独立独歩の生活である。
   心が生命(せいめい)の影となったのである。

(3)主(しゅ)が主となり、影が影となる、
   此の至極当然な処に神の子が生きるのである。

(4)主なき心が、恰(あたか)も主ある如く生命(せいめい)と
   遊離して、あれこれと蠢(うごめ)くのが迷(まよい)である。

   影が躍(おど)って主がかくされる、
   天地逆転の相(すがた)である。


          <感謝合掌 令和2年11月21日 頓首再拝>

生命(せいめい)が生命(せいめい)する~その8 - 伝統

2020/12/08 (Tue) 04:29:43


           *「常樂への道」(P225)より抜粋

(1)心で歩まず、生命(せいめい)で歩む様になること。
   心が滅して、生命(せいめい)が誕生すること。

(2)生命(せいめい)が誕生するとは、
   生命(せいめい)が生きることであり、

   心が滅するとは、心を影として
   己が其処から立ち去ってしまうことであり、

   生命(せいめい)の影として、
   生命(せいめい)に行なわれて動き行く
   相(すがた)になることである。

(3)『生命(せいめい)生くるのみ』
   『生ける生命(せいめい)ひとつ此処にあり』

   生命の實相は此処を指(ゆび)さし示している。

(4)神想観するは凡夫が神を想うに非ず、
   神が神を想い、
   生命(せいめい)が生命(せいめい)を想い

   想う神と想われる神とが渾(ひと)つとして、   
   『生命(せいめい)生くるなり』
   『生ける生命(せいめい)一(ひとつ)此処にあり』
   の現成(げんじょう)である。

   (一六・四)

          <感謝合掌 令和2年12月8日 頓首再拝>

その儘の真理~その1 - 伝統

2020/12/30 (Wed) 04:47:48


           *「常樂への道」(P226~227)より抜粋

(1)自分は肉体に非ず、物質に非ず、自分は生命(せいめい)である。
   そして生命(せいめい)とは神様のいのちにてあれば、
   自分とは神様のいのちの他(ほか)には無いのである。

(2)されば神様に帰一する時、其処に生くる生命(せいめい)が
   誠の自分自身である。

(3)君を拝み、父母を拝み、師を拝み、兄弟仲よくする、
   これが神の国の行事であり、同時にそれが生命(せいめい)の
   自然である。

(4)此の世には唯(ただ)一本の道のみが立っている。
   唯(ただ)一道(どう)、唯一絶対の道である。
   一つしかない絶対の道、絶対の生命(せいめい)、

   これを立てたのが倶胝(ぐてい)和尚の一本の道である。

(5)個我は無い、物質は無い、その空無の中に立つ一本の指。
   神と神の顕れのみを示す一本の指。
   お蔭様のみの天地を示す一本の指。

   此の一本の指によってひらく。
   これが十字架の中心にきらめる御光(みひかり)、
   生長の家の御光(みひかり)のそれである。
   
          <感謝合掌 令和2年12月30日 頓首再拝>

その儘の真理~その2 - 伝統

2021/01/16 (Sat) 04:11:45


           *「常樂への道」(P228~230)より抜粋

(1)私達は自分の動き具合によって、神の子の生命(せいめい)が、
   或いは生き或いは死ぬのである。

(2)恩師の一本の指は示している。

  ①人の此の世に生まれ出(い)でたる使命は、
   神の生命(せいめい)を此処に実現するためであると。

  ②神の子の自然で行け、神の子の当たり前を生きよと。

(3)師の御心を穢(けが)さないように、
   此の本(もと)に立って末(すえ)は自ずから立つものである。
   
   これが渾(すべ)ての渾(すべ)てである。

(4)神様よりの花として咲き、神様よりの花として散った時のみ、
   生も死も、諸神(しょじん)諸仏倶(とも)に在(い)ます
   輝きである。

   噫々(ああ)、神様の御心の中に一切がある。

   神様の御心とは生命(せいめい)それ自体のこと、
   自分自身そのものなのである。

          <感謝合掌 令和3年1月15日 頓首再拝>

その儘の真理~その3 - 伝統

2021/02/24 (Wed) 03:27:08


           *「常樂への道」(P230~231)より抜粋

(1)『一(はじめ』の心を失わないのが大切である。
   『一(はじめ』とは私無きこと、個に立たざること、
   そして、何時(いつ)も第一歩にある心。

   これが神の子の心であり、神を観(み)、神を聴くことのできる心である。

(2)『はじめ』に立って聴き得るのが神の心、
   『はじめ』の内に成りますのが神の生命(せいめい)である。
   『はじめ』無ければ一切は無い。

   『はじめ』を失えば、自己も天地も空しく灰燼(かいじん)に帰するのみ。

(3)日がたつと人は兎(と)もすれば『はじめ』の心を失って、
   その経過の上にすわり、
   己(おの)が心の内に自分と云うものをつくり上げる。

   これが人生最大の強敵である。

(4)『はじめ』に立って与えられるのが、肉体無しの消息であり、
   生死(しょうじ)無き絶対生の生命(せいめい)である。

   一切の宗教は人をして此の『はじめ』に帰(かえ)す行事である。

          <感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>

その儘の真理~その4 - 伝統

2021/03/22 (Mon) 03:15:39


           *「常樂への道」(P231~232)より抜粋

咲きたる花の中に坐るべからず。
根の中にこそ坐るべし。

これに生命(せいめい)あり、
此の生命(せいめいは三世を照らす光である。

此の光と倶(とも)にある者は暗きを歩まず、
何時も神と倶(とも)にある故(ゆえ)にである。

かく花の中に根の生命(せいめい)を拝むのが神の子の誕生であり、
永遠(えいえん)の栄(さか)えに通ずる大道である。

道(みち)に立つとは、『はじめ』に帰り、
『はじめ』の生命(せいめい)が進むことである。

これに反し、花の中に坐(ざ)すれば、これ即ち亡びに到る門である。

されば『花無し、唯(ただ)根のみあり』と知ること大事中の大事である。

このことが即ち『はじめ』の心の誕生であり、
此の心によって花は其の儘 根と一如のものとなり、
其の儘 正法(しょうほう)現成(げんじょう)となる。

此の心に依(よ)って 
人は獣人(じゅうじん)より神人(しんじん)に帰り、
物質の天地は其の儘 霊光輝く天地に変わる。

          <感謝合掌 令和3年3月22日 頓首再拝>

その儘の真理~その5 - 伝統

2021/04/14 (Wed) 03:40:54

           *「常樂への道」(P233~234)より抜粋

真の功徳と云うことに就いて

(1)功徳とは現象の事ではない。
   現象に功徳を見る者は、
   又、同じ現象に功徳なき世界を観なければならない。

(2)現象は陽炎(かげろう)の如く儚(はかな)いものに過ぎない。
   得(う)るも無所得、得(え)ざるも無所得である。

   現象を追う者は、夢中に大象(たいぞう)を追うに等しい。

(3)問うて曰く

   『功徳とはこれ如何なるものぞ。』 

   答えて曰く

   『功徳とはこれ実相(じっそう)なり。』

   実相の功徳に甦(よみがえ)る。
   是(こ)れ、御教(みおしえ)の尊い所以(ゆえん)である。

   この功徳こそ永遠(えいえん)の甦りであり、
   常住の功徳である。

(4)功徳があったとか無かったとか、功徳が多いとか少ないとか、
   そうした言葉の出ないのが、
   実相(じっそう)の功徳と倶(とも)に居(お)る人の
   心根(こころね)である。

(5)遂に功徳と云う言葉を忘(ぼう)ず。
   其処に開かれる風光が、一切功徳の海原(うなばら)である。

   此の心に立つ時、今此処が、無限功徳の真中(まんなか)である。

   然(しか)しこれは実相(じっそう)の天地のことであって、
   現象のことではない。

   何事にてもあれ、現象だと思う時に
   其処が躓(つまづ)きの根である。

(6)金光教祖は

   『疑(うたがい)を放(はな)れて眞(まこと)の大道(たいどう)を
    開き見よ。吾等は神徳(しんとく)の中に生かされてあり。』

   と示し、

   イエス・キリストは

   『目をあげて畠(はたけ)を見よ。はや黄(き)ばみて
    刈入時(かりいれどき)になれり。』 

   と示していられる。

   『目をあげて』これが生命(せいめい)である。
   無明(むみょう)の戸(と)開きである。

   恩師が其の求道の旅の懺悔の果てに、
   『目をあげて』此の天地を御覧なされた時、
   此の世は、無明(むみょう)も無く無明のつくることもなく
   其の儘 神一元の世界であったのである。

(7)此の目を上げて観た風光を、
   コトバによって此の地上に開く、

   これが生長の家出現の使命であり、
   『生命の實相』の集大成である。

          <感謝合掌 令和3年4月14日 頓首再拝>

その儘の真理~その6 - 伝統

2021/04/29 (Thu) 04:04:24


           *「常樂への道」(P234~235)より

無我、大調和と云うことに就いて  ―― 

云いたいことは大いに云ってよろしい。

出したいものは大いに出してもよろしい。

然(しか)しそれは、自己を主張する為にではなく、
御(お)言葉を聴く為にである。

『かくの如くに存じますが如何なもので御座いましょうか』と、

自分を投げ出して御(お)言葉を待つ為にである。

其処に、こうと思ったからだ、
と云う様な一点の執着もあってはならない。

自分が融(と)けていなければならない、
無我とは実に此処の処がハッキリと
腹に据(す)わっていることである。

御(お)言葉と己(おの)が思いと相反する時、
一切を放下(ほうげ)して御(お)言葉の儘(まま)を
生きていく、これ無我であり神の子である。

其の時 形(かたち)は従いつつも思い切り悪く
己(おの)が思いを心に担(かつ)ぎ上げて、
心の中にて言挙(ことあげ)を続ける、これ凡夫の極(きょく)である。

                         (一六・五)

          <感謝合掌 令和3年4月29日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その1 - 伝統

2021/05/17 (Mon) 02:04:19


           *「常樂への道」(P236~237)より抜粋

(1)私たちは、神想観を致しました時に、
   尊い厳粛な気持ちが動きます。

(2)私たちの幸不幸と云うことは何処で決まるかというと、
   幸福とか不孝とかいうものは純然たる個中(こちゅう)の消息であって、
   本当のものが肚(はら)の中から動いている時以外に
   幸福はないのであります。

(3)吾々の日常生活の中に、神想観した時の生命(せいめい)でない
   ものが動いていたら、仮令(たとい)それが、常識の世界から見て、
   万点採(と)った生活であっても、それは決して
   幸福を味わえている生活ではありません。

(4)私たちが本当の幸福にして頂ける道が
   この神想観であると云うことに於いて間違いはありません。

          <感謝合掌 令和3年5月17日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その2 - 伝統

2021/07/21 (Wed) 04:43:49


           *「常樂への道」(P237~240)より抜粋

(1)吾々はこの広い大地の上に立っているから
   危ないとか危なくないと云うのではない。

   危ないとか危なくないととか云うのは、
   もっと深い生命(いのち)の問題であります。

(2)危ないと云うのは自分がざわめいていることなのです。

(3)信仰と云うものは、脚下照顧が一番大事であります。

(4)自分がざわめいた気持ちの中に若(も)しいたら、
   折角神の恵みの真っ只中いても気がつかない。
   龍宮の海にいながら難破している宝船みたいなものです。

   外にも内にも宝が一杯あるのに
   その人には安住の地がないのであります。

   心を開いて観る眼で見たら、
   この世界はこのまま龍宮で光り輝いているのです。

(5)私たちは自分の心の相(すがた)を振り返って見ることが
   非常に大切になってまいりますが、それには、神想観中に
   流れている有難い心持に帰って、それを始終持ちつづける
   ことが大切なのであります。

          <感謝合掌 令和3年7月21日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その3 - 伝統

2021/09/21 (Tue) 04:43:48


           *「常樂への道」(P240~242)より抜粋

(1)今まで『自分』だ『自分』だと思っていた『自分』は
   『本当の人間』でなくて偽物の人間だったのであります。

(2)『本当の人間』というものは神の子なんだ。
   本当の生命(せいめい)は此の『神の子』で、神の生命(いのち)に
   生かされていたのに、それに気づかずに偽物を自分だと思って来たのです。

(3)私たちが一番世の中を動かせる時は自分の生命(せいめい)を
   投げ出した時であります。

(4)古来本当に人類の生命(せいめい)を揺り動かして来た人は、
   自分を抛(な)げ出して死んだ人です。

(5)『自分』と云う『にせもの』が死に切ったときそこに動いて来るものが
   『神』の力であります。

   『自分』と云うものを投げ出さずには決して神の云うものは
   動く訳はございません。

          <感謝合掌 令和3年9月21日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その4 - 伝統

2021/10/05 (Tue) 04:44:27


           *「常樂への道」(P242~243)より抜粋

(1)教えを受ける身としては、自分の生命(せいめい)の全力を
   引き据えて、きちんと坐って、眼を睁(みは)って、

   師を敬(けい)し、道(みち)を尊び、ひたすら教えを受ける心で
   あってこそ其処に道が本当に悟れるのだと思います。

(2)『生命の實相』は
   『生命(いのち)』捧げた力によって書かれているものであり、

   又この中に本当に吾々の生命(いのち)を活(い)かし、
   死にかけたものをすら起(た)たしめた程の素晴らしい生命の実相の
   限りない素晴らしさが書かれており、

   私達がそれによって少しでも今まで導かれた尊い真理が書かれてる
   のだと云うことを考えた時に、

   吾々《あぐら》かいて読めますか。
   寝転んで読めますか。
   恐らく読めないと思います。

   こうした処にもお互いに教えを戴く立場には
   戴く立場としての心構えがあるわけであります。

(3)常住感謝の心を失わないこと ―― これを失ってしまったら、
   『生命の實相』の哲学的方面が、如何に理知的に理解されたとて
   それは何の値打ちもないのであります。

          <感謝合掌 令和3年10月5日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その5 - 伝統

2021/10/27 (Wed) 04:41:51


           *「常樂への道」(P244~246)より抜粋

(1)私たちがせねばならぬことは私たち神の子の純粋な願いである
   『無限の価値』――『神の生命(せいめい)』を生きていくことであります。

   この『神の生命(せいめい)』を生きていく事が
   何より一番好きなことにならねばならないのですが、
   神の子の一番好きなものを今の心で 嫌ってはいないか。これが重大です。

(2)私たちが本当に切実に神の生命(せいめい)を今生きる、
   これが一番私の好きな事だ、これが私にとっては一番嬉しいことだ
   と云うような気持であったならば、

   今眼の前にどんなつまらなく見える事があっても、困難なことがあっても、
   中途で挫折してしまうようなことは出てこない。

(3)生長の家は、善いと思うことを考え、これを宣(の)べ伝えていくことが、
   そしてこれを自分の身を以て生きていくことが、自分の生命(せいめい)
   よりも好きだと云うことになって、どのような苦しみも何でもなく、
   全生命が『使命感』の上にどっしり坐っていたからこそ
   途中で崩れなかったのだと思います。

(4)吾々は、神の子の生命(せいめい)を生きること、
   自他一体の生命(せいめい)を生きることが一番好きなのです、
   と云うところへ気持ちが坐れたならば、

   どんなことが出て来てもその中を貫いて行くことができるのです。
   この生き貫くと云うことが一番大事なのです。

          <感謝合掌 令和3年10月27日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その6 - 伝統

2021/11/10 (Wed) 04:29:52


           *「常樂への道」(P246~247)より抜粋

(1)私たちは『自分の生命(いのち)』以上に
   真理を愛さねばならぬ使命を持っている。

(2)神様の御生命(おんいのち)、父母(ふぼ)の生命(いのち)を、
   吾々は自分の生命(せいめい)よりももっと尊く大(おお)いなる
   生命(せいめい)と仰(あお)ぎ瞻(み)て、
   この生命(せいめい)を限りなく愛さなければならないのです。

(3)『自分の生命(いのち)』よりももっと、愛するものがある
    ―― そういう自覚が自分の心で間髪を容(い)れずに
   はっきり応答にあらわれて出(で)るようになった時に、
   初めて自分の生きている本当の喜びと云うものが解かって来る
   世界に吾々は立つのです。

(4)何時(いつ)も間髪を容(い)れずに、私の愛するものは、
   それこそ神様の御生命(おんいのち)だと、
   それこそ自分の父母(ふぼ)の生命(いのち)だと
    ―― 答えられたら、

   その人こそ『本当の自分』ニセモノならざる生命(いのち)
   『神の子の生命(いのち)』として立った人です。

(5)そんな人になったとき、その人の前には黙っていて
   神様の恵みの豊かな世界が開けてまいります。

          <感謝合掌 令和3年11月10日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その7 - 伝統

2021/12/08 (Wed) 04:49:36


           *「常樂への道」(P247~248) →略

           *「常樂への道」(P248~252)より抜粋

(1)『自分』が《ない》と云う事が解る事が第一で、
   そうして其の自分の《ない》生活を生活する事が
   一番大切なことであり、

   そこに神の子の生活が生きるのであります。

(2)『自分』と云うものを無くして本源(もと)の御恩と云うことを
   振り返って、日本人が昔から使ってきましたところの何があっても

   『お蔭さまです』『お蔭さまで生かさせて頂いております』
   『お蔭さまでこうならさせて頂いております』

   と云う生活習慣には深い意味の事が含まれています。

(3)夢のような無自覚な気持ちがさめて、この様に『お蔭さま』
   と云うことを感じたならば自分の生命(せいめい)はただ
   『お蔭さま』で生かされているから、自分のものではないと
   投げ出して深く切なる感謝の気持ちで生きて行く。

   この生活が私たちの魂に宿る美しさであり、
   これが私たちの栄えで行くところの底力(そこじから)で
   あると思うのであります。
   
          <感謝合掌 令和3年12月8日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その8 - 伝統

2021/12/31 (Fri) 03:33:49


           *「常樂への道」(P252~253)より抜粋

(1)『自分』もなければ『相手』もない。
   ただここに生きている神様の大生命ひとつが生きているだけで、
   本当は自分もなければ相手もない。

   そこに生きているのは、宇宙を貫き通っているところの
   神の生命(せいめい)である。

(2)自分達は我(が)の心の生活をしていないか、
   よく脚下を見極めなければならないのです。

   そして我(が)の心の無い明るい、本当の生命の実相の
   その奥底から湧く悦びの世界を打ち立てねばならないのであります。

          <感謝合掌 令和3年12月31日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その9 - 伝統

2022/01/31 (Mon) 04:38:25


           *「常樂への道」(P253~254)より

『自分』がない、『他人』もない。
ただ神の生命(せいめい)が生きているのだ、
たった一つの生命が生きているのだ
  ―― これをハッキリと説いているのが生長の家でございます。

これをハッキリさせて置きまして、さて『三界唯心所現』という
生長の家の横の真理をあらわす言葉に接するとき言葉が恐ろしい力を以て
私たちに迫ってまいります。

あれは決して、なんでも利己主義の事が心の思う通りになってくる、
というような薄っぺらなものではない。
あの唯心の『心』というのは素晴らしく大きなものなのです。

人間神の子、唯(ただ)一つの神の生命が生きているだけである
との生長の家の縦の真理と『三界は唯心の所現』と云う横の真理とは
これは切って離せないものであります。

縦とか横とか云いますけれど、
これは説明の便宜であって真理は二つない。

三界唯心所現と云う真理と人間神の子という真理と二つのものでございません。

裏から見たら三界唯心所現、
表から見たら人間神の子であると思わして戴いたら宜しゅうございましょう。

さうすると本当に此処にたった《一つの》神の生命(いのち)が生きているのだ、
ただ生命(いのち)が生きているだけである。

その生命(いのち)が今此処に生きているのだと知ったならば、
三界唯心所現と云っておった、その唯心の心は、決して個人の「念」
と云う様なちっぽけなものではない。

此処に如来蔵の心、自分の神性の心、たった一つきり生きていないその心、
それが此処にあり、ここに一切を現わしている。

此の如来蔵の心が三界唯心所現としてこの現実世界を動かしてゆく力である
となった時に、本当に自分の関する事一切、自分の見る限りの世界のこと一切が、
皆私の責任だという気持ちが湧いてまいります。 

皆私の責任だ本当に自分が到らないからこうなっているのだ、
申し訳がないと云えるのであります。

まことに心の眼を開いてみれば、本当に此の世界には
たった一つの生命(せいめい)が生きているのであって、
これが本当に判ったならば、みんな自分の責任だと判る。

決して相手に責任を持って参るような気持にはならないのです。
相手に責任を持って行きまして自己弁解するやうになりましたら、
自分の生命(いのち)の本当の喜びの根が止まってしまいます。

          <感謝合掌 令和4年1月31日 頓首再拝>

日々・神想観の心~その10 - 伝統

2022/02/15 (Tue) 04:17:15


           *「常樂への道」(P254~255)より

信仰と云うものは、要するに深く帰命する心でありますが、
生長の家の生き方は、深く『ひとつの生命(せいめい)に帰命する』
この一語に尽きると云えます。

深く帰依する魂を失って偽物(にせもの)の自分でやって行ったならば、
吾々の生活は、自力のあさはかな根の無い生活になってまいります。
玩具の生活になってしまいます。

本当に教えを受けたら神様に帰依し、父母に帰依し、教えに帰依し、
師に帰依しなければならない。

深く帰依し、深く生き、そうして自分の脚下を日々精進し生きて行く。

足らぬところがあったら気が着いた時、
直(す)ぐひれ伏して懴悔させて戴く。

このように生きて行く生活を深く神想観に帰依する処から
生きて行くのが私達生長の家の生活であります。

          <感謝合掌 令和4年2月15日 頓首再拝>

天地今ひらく~その1 - 伝統

2022/03/02 (Wed) 04:53:20


      *「常樂への道」(P256)より

吾が国は此の世の国に非ず ―― 

『吾が国は此の世の国に非ず』

此の言葉に生命(いのち)あり。

これは天国の内なる物語であって此の地上のものではない。
天国の内と云い外と云えども 
真(まこと)には天国の外があるのではない。

天国のみ《存在》なる故に天国の内外(ないがい)の別はない。

天国と地上の別はない。

天国の外(そと)無きに天国の外を仮作(けさ)する
肉体人間の雑念妄想の故である。

          <感謝合掌 令和4年3月2日 頓首再拝>

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