伝統板・第二

2517297
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

実相を観よ(Look into the reality) ③ - 伝統

2019/10/01 (Tue) 04:17:35

《相手の実相を観て和解するには》   

        *「真理」第9巻生活篇(P90)より

悪に抵抗するためにあなたの時間と精力をついやしてはならない。
あなたの時間と精力とを「善」を見るためにこそ費やすべきである。

敵と云うような者を神は決して造りたまわないのであるから、
敵と見える者も、その実相を観るならば、「神の子」であり
互いに兄弟であるから、本来仲の好いのが当然であるのである。

人間は誰でも、愛されたい、認められたい、理解されたい、尊敬されたいと云う
願いをもっているのであって、或る人があなたに敵対するならば、彼はあなたに
愛されたく、認められたく、理解されたく、尊敬されたく思っているのに、
あなたが愛せず認めず理解せず尊敬せねと思って、反抗心を掻き立てているからである。

あなたの愛と理解と尊敬とを相手にしっかりみとめられるように表現すれば相手は、
愛されている猫のように温和(おとな)しくなってしまうのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「実相を観よ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6922622

(2)伝統板・第二「実相を観よ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7669466

          <感謝合掌 令和元年10月1日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2019/10/09 (Wed) 04:23:18


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月9日)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。

實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>

実相は最大の力 - 伝統

2019/10/11 (Fri) 04:51:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月11日)より

実相は最大の力である。

それは「実」であるから、
いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。

一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えて
そこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。

暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 令和元年10月11日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を取り戻せ! - 伝統

2019/10/16 (Wed) 04:29:05


     *『生命の實相』幸福篇下 第三十八巻(10月16日)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。
「真実の完全自己」を想念せよ。
「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 令和元年10月16日 頓首再拝>

《相手に和解するとは、相手の実相の完全さを観ることです。》 - 伝統

2019/10/29 (Tue) 03:19:37


         *「真理」第9巻生活篇(P90~91)より

相手に和解すると云うことは、
相手に宿る神性・仏性こそ「本当の彼」そのものであって、
「本当の彼」が完全なることを心で見詰めて、
それを心で祝福するのである。

併し、「和解する」とは必ずしも相手のいだく考えや計画や要求に
言いなり放題に追従すると云うことではないのである。

意見の相違は充分検討し戦わしたら宜しい。

そして相手にやどる完全なる実相(神の子)をこちらがジッと心で見詰めれば、
今まで相手が頑張っていた意見が突然又は徐々に消えて、
調和した意見に変わってくるのである。

マーフィー博士著、中嶋逸平氏訳「信仰の魔術」には、
或る女にウルサク付きまとって迷惑きわまる男を、

”神の作りたる世界にはそんな人に迷惑をかける男は存在しない。
彼は神の子で善良な好い人だ”

と其の男の実相を見詰めることによって、
その男は地球が彼を呑みほしたように来なくなった実例をあげている。

この本は心に強く描くことが如何に実現するかについて皆さんの参考になるであろう。

           <感謝合掌 令和元年10月29日 頓首再拝>

《実相世界と現象世界との関係》 - 伝統

2019/11/15 (Fri) 04:56:20


           *「真理」第9巻生活篇(P112~113)より

身辺にあらわれたところの事象(病気をもひっくるめて)が、
すべて自分の心の映像(かげ)であるとするならば、
何処(どこ)に真実の実在があるのでしょうか。

肉眼に見える事物の背後に、感覚に感じられる状態の奥に、
「実相世界」があるのです。

神は、「霊」であるからそのつくり給うた世界は
「霊的世界」(実相世界)なのであります。

それは恰も映画を映写する時の光源の如く、煌々として眩しきばかりの
光ばかりの世界であって、少しも暗黒のない世界です。

映画にたとえれば其の光源に明暗交々(こもごも)の画像を描いた
フィルムを懸(か)けて回転させるでしょう。
するとスクリーンにフイルムの画像通りの有様(ありさま)があらわれるでしょう。

此のフィルムのたとえたところのものが、われわれの心に描いた姿でありまして、
心の姿の通りに現象界と云うスクリーンに色々の現象があらわれて来るのです。

だから階級闘争だとか国際対立だとか、心に闘争を描きながら
平和の世界を求めても平和の実現はむずかしいのであります。

           <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>

ラザロを復活させたイエス - 伝統

2019/11/25 (Mon) 04:09:46


       *「光明法語」(11月25日の法語)より

イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。

その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。

人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。

今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。

その時ラザロは復活した。

           <感謝合掌 令和元年11月25日 頓首再拝>

現象の奥に実相を見る日 - 伝統

2019/11/28 (Thu) 04:07:33


          *「光明道中記」(11月27日)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
                    (『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、
それを顕し、礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

           <感謝合掌 令和元年11月28日 頓首再拝>

「迷い」を見ず、「実相」を直視して、その力を引き出すのが真の宗教家の使命 - 伝統

2019/12/04 (Wed) 03:50:40


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、
自由思想家、むしろ無宗教家と言われている人の
側に真の宗教を体得した人々があるということができるのである。

真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、みずから真理の生活をいとなみ、
自己の生活に真理を実現し、神の智慧と愛と生活とを
具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、
ある人は家庭不調和に苦しむ。

真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって
一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人に
ただ「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、
一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。

倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

            <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>

《端坐して実相を観ぜよ》 - 伝統

2019/12/29 (Sun) 04:19:45


          *「真理」第9巻生活篇(P162~163)より

「懺悔せんと欲せば端坐して実相を観ぜよ、衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す」と
『観普賢菩薩行法経』であります。

懺悔とは罪を洗い清めると云う意味です。
「端坐して実相を観ずる」とは端(ただ)しく坐って、本来罪なく過ちなき
世界と人間の実相を観ずることです。

即ち善一元、光一元、悪なく、暗(やみ)なき完全世界を観じて、
一切の悪や罪や失敗を心の世界から放逐するのです。

神の愛(又は仏の慈悲)が自分の全身を貫き満ち、
一切の罪もなく、汚(けが)れもなく、影もなく、
霊々妙々完全円満なる相(すがた)を観ずるのです。

これが本当の懺悔であり、本当の神の赦しであります。

この行事を自分自身に於いて行なえば自分自身の罪を赦すことになりますし、
これを他(た)の人に対して観ずれば他(た)の人の罪を赦すことになるのです。

            <感謝合掌 令和元年12月29日 頓首再拝>

《「 心 」 の安静が 「 実相 」 の完全さを歪みなく現象する》 - 伝統

2020/01/16 (Thu) 04:58:38


        *『 生長の家 』(昭和26年4月23日の法語)より

   安静療法を必要とする病気もあるが、
   安静の内、もっとも大なる安静は 心の安静であるのである。

   心の安静のうち最も大なる安静は 神想観であるのである。

   瞑目(めいもく)して

   「 神の大いなる癒す力 全身に流れ入り、既にわれは癒されたのである 」
   と念ずるときほど心の安静を得ることは 他(ほか)にないのである。

   すべての癒す力の根元は 内部の 「 完全なる実相 」 である。

   その実相を完全に現象化する力は
   「 心 」 と云う歪(ゆが)みないレンズである。

   「 心 」 が平静を失えば、いくらあなたの実相が完全であっても、
   現象的には不完全にあらわれて来るのである。

   だから何よりも先ず 「 心 」 の安静を得ることが必要である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12235748.html (消滅)

            <感謝合掌 令和2年1月16日 頓首再拝>

《われ今日斯(か)く念ずる》 - 伝統

2020/01/29 (Wed) 04:37:11


          *『 生長の家 』(昭和25年4月28日の法語)より

   『 吾は 静かに目をつぶって実相の世界に入るのである。
   吾は すでに実相の世界にいるのである。
   今迄(まで)吾は 現象の世界のみをみていたのである。

   今や吾は 実相の世界の完全さのみをみるのである。
   
   吾は ここで神と直接対面するのである。

   吾は 神の無限の智慧(ちえ)を受けるのである。
   吾は 無限の愛 を受けるのである。
   吾は 無限の生命 をうけるのである。

   吾には 今後 如何なる不幸も悲しみも おそいかかって来ないのである。
   吾は 一切の悪と不幸を 自分の心の外に追放したのである。
   吾は ただ 善のみ を見、 幸福のみ を見て、神に感謝するのである。 』


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13853443.html (消滅)

            <感謝合掌 令和2年1月29日 頓首再拝>

《吾(われ)は常に平和と安静と明朗である》 - 伝統

2020/02/12 (Wed) 06:52:59


         *『 生長の家 』(昭和25年5月1日の法語)より

   外界に如何(いか)なる混乱状態が起って来ようとも、
   吾(わ)が内には 常に平和と安静と明朗とがあるのである。

   吾は今凡(あら)ゆる外界の混乱と不幸と心配とを
   自分の心から完全に捨てるのである。

   不幸も、混乱も、心配も、唯(ただ)現象の世界のものであって
   実相の世界には存在しないのである。

   そして実相のみが実在であるから、すべて不幸も心配も実相でないから、
   それはあるかのようにみえても存在しないのである。

   吾は如何なる場合にも神の方へ心を振り向け、
   現象界の不調和に心を捉(とら)えられるということをしないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和2年2月12日 頓首再拝>

《実相は金剛不壊完全である》 - 伝統

2020/02/29 (Sat) 04:37:34


          *『 生長の家 』(昭和26年5月5日の法語)より

   現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。
   実相は神によって造られ、
   神によってその存在が保たれているのであるから、

   それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。

   遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
   その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。

   吾々は真実在の完全さを時々見つめるために神想観をするのである。

   即ち 現象の不完全さ(五官の世界)に眼(め)を瞑(と)じて、
   神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、
   無限の歓喜(よろこび)、無限の調和の満つる世界を
   心の眼で凝視するのである。

   凝視が完全であれば 現象にも その完全さが現われる。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 令和2年2月29日 頓首再拝>

現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統

2020/03/13 (Fri) 04:32:36


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

            <感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>

《ただ善と円満のみ実在する》 - 伝統

2020/03/25 (Wed) 04:58:00


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P50~51)より

神は大生命であり、霊であり、霊は分割しがたきものであるから
神に於いてはすべて一体である。この一体感を「愛」と言うのです。

神には「私」もなければ「貴方」もなく、「他(た)」もなく「自(じ)」もなく、
すべてが兄弟であるから、すべてが平等に栄える世界が神の国(天国)であり
「実相の世界」である。

既に此の神の国は実在するのであるけれども、
心の迷いがその普遍平等の世界を分割して個々別々にみせているのは、
水に映る月がくだけてバラバラに見える如くです。

円満完全なのを「実相」言い、くだけたる影を「現象」と言う。

しかし本当は月はくだけていない如く、くだけたる月は無いが如く、
不完全なる現象は在りと見ゆれども無いのである。

その如く病気も不幸も在りとみゆれども無いのである。

            <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>

心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統

2020/03/27 (Fri) 05:01:35


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば全身は明るくなり、
健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。

            <感謝合掌 令和2年3月27日 頓首再拝>

《實相の完全さのみを観よ》 - 伝統

2020/04/06 (Mon) 02:03:23


         *「光明法語」(4月6日)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

            <感謝合掌 令和2年4月6日 頓首再拝>

《神と實相のみを愛せよ》 - 伝統

2020/04/07 (Tue) 02:14:24


         *「光明法語」(4月7日)より

祈りも、神想観も、結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好いのである。
神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

            <感謝合掌 令和2年4月7日 頓首再拝>

仮相(かりのすがた)には実相をもって相対せよ - 伝統

2020/04/22 (Wed) 04:34:56


       *『如意自在の生活365章』(P250)より

“悪”は本来“非存在”なのであるから、悪があらわれたとき、
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする必要はないのである。

心を鎮めて、静かに「そのような状態は存在しない」ことを念じ、
その見せかけの“悪”の奥に、慈悲の神、愛の神がましますことを瞑想し、
悪なる“見せかけ”が消えつつあり、すでに“善なる実相”が
あらわれて来つつあることを繰り返し念ずるがよい。

そのようにして心が落ちついた後に、自分の心に
「その問題をいかに処理するがよいか」について思い浮かんできた通りに
処理すればよいのである。

現象界の“悪と見える問題”を「なし」と考えるだけで、
それを手を拱(こまね)いて傍観し、「処理する必要はない」
というのではないのである。

その処理する場合に、まず心を平和にして
「実相のあらわれる智慧」を呼び出してきて処理すれば、
現象に対して現象智を出して処理するよりも、
現象に対して実相智を出して処理する方がすみやかに
現象が好転するからである。

聖経には「仮相(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ」
と示されているのである。

            <感謝合掌 令和2年4月22日 頓首再拝>

《人間には仮相と実相があります》 - 伝統

2020/05/04 (Mon) 04:21:41


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P62)より

あらゆる不幸からのがれる道は、実相の完全さを見ることであります。
「実相」とは、神の造りたまうた実(じつ)の相(すがた) ――
そのままの相(すがた)であります。

人間には実(じつ)の相(すがた)と仮(かり)のすがたとがあるのであります。

肉眼に見えるのは現象すなわち、現れて見える象(かたち)でありまして、
見る角度によって、どのようにも見えるのですから、
これは仮の相(すがた)であります。

その仮の相(すがた)がどのように見えましても、見えるそのままが
彼の実相ではありませんから、「そんな悪い相(すがた)は本来無い、
彼は本来は完全である」と悪を打ち消して、善なる実相(じっそう)を
みつめるようにするのです。

現象界には見る人の心の姿が反映するのですから、
如何に見るかと云うことで、人間の幸不幸が定(さだ)まるのです。

人間を霊的実在として、神の子として、本来完全であるとして見ることにし、
互いに拝み合うようにするとき、見られる通りの完全な世界と人間とが
あらわれて来るのです。

            <感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>

ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統

2020/05/14 (Thu) 05:00:04


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

           <感謝合掌 令和2年5月14日 頓首再拝>

吾(われ)は常に平和と安静と明朗である - 伝統

2020/05/22 (Fri) 04:38:40


        *「生長の家」(昭和25年5月1日の法語)より

外界に如何(いか)なる混乱状態が起って来ようとも、
吾(わ)が内には 常に平和と安静と明朗とがあるのである。

吾は今凡(あら)ゆる外界の混乱と不幸と心配とを
自分の心から完全に捨てるのである。

不幸も、混乱も、心配も、唯(ただ)現象の世界のものであって
実相の世界には存在しないのである。

そして実相のみが実在であるから、すべて不幸も心配も実相でないから、
それはあるかのようにみえても存在しないのである。

吾は如何なる場合にも神の方へ心を振り向け、
現象界の不調和に心を捉(とら)えられるということをしないのである。

           <感謝合掌 令和2年5月22日 頓首再拝>

実相は金剛不壊完全である - 伝統

2020/05/31 (Sun) 03:34:32


      *『 生長の家 』(昭和26年5月5日の法語)より

現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。

実相は神によって造られ、神によってその存在が保たれているのであるから、
それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。

遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。

吾々は真実在の完全さを時々見つめるために神想観をするのである。

即ち 現象の不完全さ(五官の世界)に眼(め)を瞑(と)じて、
神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓喜(よろこび)、
無限の調和の満つる世界を心の眼で凝視するのである。
凝視が完全であれば 現象にも その完全さが現われる。

           <感謝合掌 令和2年5月31日 頓首再拝>

宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処 - 伝統

2020/06/01 (Mon) 04:40:47


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、
 宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」と云う
『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから不調和なものばかりが現れて来るのである。

           <感謝合掌 令和2年6月1日 頓首再拝>

如何なる場合にも相手の仏性を見よ - 伝統

2020/06/12 (Fri) 04:47:57


       *『 生長の家 』(昭和26年5月14日の法語)より

人の表面の言葉や、行いで、其の人の愛を疑ってはならない。

現象を見て人を審判(さば)いてはならないのである。

どんな人にも仏性が宿っており、キリストが宿っているのである。

たとい誰かがあなたの感情を害することを云おうとも、また行おうとも、
相手に対して憤りの感情を起すよりも、

「 あの人が幸福になりますように 」 とか、

「 あの人の“ 神の子 ”さんがあらわれますように 」 とか祈ってやる気持になる方が、

自分の心に平和と幸福とが訪れて来るのである。


そして終(つい)には相手を感化して、
真に相手を深切な人に化することが出来るのである。

特に自分に病気のある場合は人を憎んではならないのである。

           <感謝合掌 令和2年6月12日 頓首再拝>

悪しき姿を否定し、神の子で完全円満であることを心の底深く礼拝する - 伝統

2020/06/19 (Fri) 05:02:15


       *『 生長の家 』(昭和26年5月20日の法語)より
        ~周囲の人々を完全にするには

あなたの家族や周囲の者が不愉快な習慣や癖(くせ)をもっているからと言って、
それを直せと云って忠告することが却って反抗心を唆(そそ)って
直すのに邪魔になる場合がある。

そう云う場合には神にそれを委ねる方が好いのである。

神は全能であり、神の支配下に全然それが委(ゆだ)ねられる時、
人間の我が偏りによってあらわれていた一切の悪習慣が消えるのである。


相手を、審判(さば)く心や、批難(ひなん)する心で眺めることを止め、
相手が如何(いか)に肉眼に見えようとも、
悪しき姿は自分の妄想の描いた虚像であるとして否定し、

「既に彼は神の子で、神の支配下にあるのであるから、
 神の像(すがた)そのままに完全円満である」

として心の底深く礼拝するのである。

           <感謝合掌 令和2年6月19日 頓首再拝>

実相を諦観せよ! - 伝統

2020/06/24 (Wed) 04:46:07


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、
未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり」    (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

            <感謝合掌 令和2年6月24日 頓首再拝>

《実相を観ずれば相手の善なる仏性が顕現する》 - 伝統

2020/07/01 (Wed) 05:01:49


        *『 生長の家 』(昭和44年12月27日の法語)より

   あなたが人に対する時には、常にその人が“神の子”であり、
   神の愛と智慧とがその人に宿っており、自分に好意をもっており、

   決して自分に災いを為す人ではない、
   この人は自分に祝福をもって来て下さったのだと信じて、
   その人の実相なる“神の子”を心に描いて
   礼拝し感謝する気持で応対するがよい。

   たといその人が、実は、こちらに対して悪意をもち、
   謀略をもって自分を陥れるためにやって来ていたにしても、

   あなたが真に相手の悪意のない
   完全な“神の子”の実相を拝んで相対するならば、

   相手の当初の悪意は消えてしまい、
   敵であった者がついに味方になってしまうのである。


   ここに実相を観ずる力の秘密があるのである。

   これが法華経にある常不軽菩薩の生き方である。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/1c19b3d5b7a0394769b3af6d1942ac80

            <感謝合掌 令和2年7月1日 頓首再拝>

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 - 伝統

2020/07/06 (Mon) 05:02:21


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、やはり金殿玉楼に
錦秋を纏うて眠っているということの事実を否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、万(よろず)の
よきものが充満している世界であるのだということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり・・・わが浄土は壊せざるに、
衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」とあるのを、

たいていの仏教者は、「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝
がいっぱい飾ってあるのも同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、いつも花降るような心境に
いられるのだ」というような意味に解釈しているのであるが、これはすこぶる浅い解釈だと
言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、その実相円満完全の表面に、
心頭を滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。
三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

            <感謝合掌 令和2年7月6日 頓首再拝>

《心の波長を「実相」に合わせましょう》 - 伝統

2020/07/20 (Mon) 03:57:40


       *『 生長の家 』(昭和32年5月30日の法語)より

   私達が色々の災禍から自然に避けるには、
   災禍と波長が合わない心の波を常に維持しなければなりません。

   そのためには私達は毎朝の生活を正しき「祈り」又は
   「神想観」によって始めるようにするが宜しい。

   その根本原理は、神に波長を合わすことなのです。
   又、従ってそれは各人の「内なる神」に波長を合わすことです。

   各人の実相は「神」であり、それに波長を合わせる事によって、
   各人の実相の「善さ」があらわれて来て、互いにその
   「善さ」と「善さ」とで調和した世界がひらかれて来るのです。

   各人の仮(か)りの姿に過ぎないところの「悪」に
   波長を合わしている限り、悪は尽きることなく、
   明るい世界、善なる世界はあらわれて来ません。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P313>に収載)

            <感謝合掌 令和2年7月20日 頓首再拝>

「実相」のみを実在として、その完全な相(すがた)のみを見るようにしてゆけばよい - 伝統

2020/07/26 (Sun) 04:36:19


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(P114)より抜粋

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。

マコトはミコトであり、コトバであり、
「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》
すなわち《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。

仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、
仮の相(すがた)であり、真実でないから、
それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

            <感謝合掌 令和2年7月26日 頓首再拝>

観の原点を「実相世界」に移すこと - 伝統

2020/07/29 (Wed) 04:49:06


     *「生長の家}(昭和51年6月15日の法語)より

「幸福新幹線」に乗り換えるというのは、 言葉はやさしいけれども、
一体、具体的に は、どうすればよいのであろうか。

人間の 住む世界は”心の世界”であるから、
”自分の 心”が不幸 ばかりの”暗い世界”を描いて、
その自分の描いた”暗い世界”に、”自分の 心”が今まで住んでいたのであるから、
そんな”暗い世界”か ら”自分の心”を呼び出せばよいのである。

「一躍超入実相地」ともい うべき境地に入るのである。
今まで”自分の 心”という”生活の 原点”が、”現象の脚場”の 上に立ち、
”現象 の周囲”を見廻して、その現象の暗さのみを見て、
暗いアイディアを積み重ねて来たために、そのアイディアの具象化としての
暗い世界ばかりがあらわれ ていたのであるから、

今度は、「われ今五官の世界を去って、実相の世界に入(い) る」と、
神想観実修の最初の「観の原点」 の転換をするために唱える言葉にある如く、
今まで”五官の世界”(現象界)に立って、現象界の暗い事象のみを眺めて来ていた
其の「観の原点」を、実相世界に移すのである。

そして新しき”観”がはじまる。
神 の無限に完全なる智慧が満ち、その、完全なる智慧によって
構図されたる無欠の実相世界が今ある。

其の万徳現前の世界を”観 る”のである。
”観る ”ことは、”既にある”ものを顕すことになるのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 令和2年7月29日 頓首再拝>

實相円満の相(すがた)を見よ - 伝統

2020/07/30 (Thu) 03:41:13


        *「光明法語」(7月29日~30日)より

七月ニ十九日の法語 超個人的精神上の観念

バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。

併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。

そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。

・・・

七月三十日の法語 實相円満の相(すがた)を見よ

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

            <感謝合掌 令和2年7月30日 頓首再拝>

《純粋世界は中心帰一の世界である》 - 伝統

2020/08/11 (Tue) 03:04:25


       *「理想世界」(昭和43年6月15日の法語)より

   ”宇宙のいのち”即ち宇宙大生命が展開している
   ”純粋世界”が“実相世界”である。

   ”純粋世界”は物質でないから肉眼には見えないのである。

   この“純粋世界”のことをキリストは”天”とか”天国”とか、
   ”神の国”とかいう語をもって語られた。

   キリストが

   「みくにを来らしめ給え、み心の”天”に成るが如く地にも成らせ給え」

   と祈れと訓えられたのは、

   この“純粋世界”の捨象として、純粋世界そのままの姿が、
   ”地”即ち現象世界に実現するように祈るように勧められたのである。

   この純粋世界は、神の創造になる世界であり、
   神の愛と叡智と生命力との展開せる世界であるから、

   神が唯一の中心であり、すべての生物、すべての存在悉く、
   秩序整然として一つの中心に帰一して、各々その天分に従って、
   互いに扶け合い、大調和せる生かし合いの世界であるのである。

   多元中心の世界の如きは、互いにその覇を争うために、
   権力闘争の世界を展開して永久に平和の世界を実現することは
   出来ないのである。

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7985459

            <感謝合掌 令和2年8月11日 頓首再拝>

神の根本業こそ本当の実在である - 伝統

2020/08/14 (Fri) 03:11:41


         *「生長の家」(昭和51年6月26日の法語)より

「根本業」とか「中間業」とか「未来 業」と か申しましたが、
”業”という字 は”わざ” と読む字で行動または行為を表現するのでありますが、
神は 「万物を想うということによって 創 造った」と仰せられているのであるが、
(『 神 真理を告げ給う』参 照)

”想う”という行為をするとは、何をするかと言いますと、
コトバ即ち アイディアを心の中に思い浮かべ、
それを心の中で唱えていることであります。

それは 心の中にコトバを唱 ていることでありますから、
意業で あると共に、口業であります。

それ だから”業”という字はわざと読む字でありますが、
業(鳴り)とも読まれる字であります 。

在原業平という 『伊勢物語』に出て来る有名な歌人もありましたが、
生活とか渡世とかいう 意味の語に「なりわい」(業生 い)という語もあります。

兎も角、
「元始(はじめ)にコトバあり、コ トバは神とともにあり、コトバは神なりき」
という『ヨハネ伝』 の冒頭の語は、神の”根本業 ”として
コトバ(アイディア)が業(わざ)となり行動となって、

”人間神の子”が創造された人間存在の根本業(根本運命)を示すのであって、
その根本業にくらべれば、中間業とし ての現在の不幸な運命の如きものは
浮雲のよう に間もなく消えて行くべきものであります。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 令和2年8月14日 頓首再拝>

《本当の愛国心について》 - 伝統

2020/08/21 (Fri) 04:53:09


        *『 理想世界 』(昭和43年6月17日の法語)より

   華厳経の尊さは、そして絶対価値があるのは、
   それが方便のための対機説法ではなく、悟りを開かれた真理を、
   そのままズバッと開講せられた真理であるからである。

   そしてその講話に、日本国を象徴する蓮華日宝王地によって、
   その世界の骨組みともいうべき金剛囲山が支えられている事である。

   もっともこれは大方広仏即ち”宇宙普遍の本体”たる如来の生命・
   愛・智慧の展開としての”純粋世界”のことである。

   肉眼で見える世界ではない。

   即ち「御こころの天に成れる世界」のことなのである。

   その世界を蓮華蔵世界海と”海”の接尾語がついているのは、
   此の世界を海に譬えたのであって、海は表面(現象)は波立ち騒いで
   始終遷り易るけれども、その深い底なる実相は不動にして
   変化することが無いという事になぞらえたのである。

   吾々は世界の表面の姿を見、「現象日本」の遷り変る有様を見て、
   日本国に愛想をつかし「愛せられる日本国なら愛し得るけれども、
   こんな醜い日本国は愛せられない」などと言って、
   日本の実相の尊さを、とかく見失いがちであるけれども、

   吾々は現象の浮動する波の姿を貫いて、その奥にある
   「理念日本」の実相を見、それに礼し敬し愛し、その実相の
   完全さを現実世界にあらわすように努力しなければならないのである。

   本当の愛国心とは単に「郷土であるから好きで愛する」というような
   単なる”身いびき”的なものではなく、真理として現象の奥にある
   「理念日本」の荘厳さを愛しなければならないのである。

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7985459

            <感謝合掌 令和2年8月21日 頓首再拝>

損失や、犠牲や、負債は実相においてはないのです - 伝統

2020/09/04 (Fri) 04:39:07


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P73<9月4日>)より

誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。

実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。

どこにも自分を害した者もないのである。

いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)は
まず心の世界で克服しなければならないのである。

心の世界でそれを消滅するとき、
損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。

            <感謝合掌 令和2年9月4日 頓首再拝>

「負債」無し、神の無限供給の現われ - 伝統

2020/09/05 (Sat) 04:04:16


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P74<9月5日>)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、どちらの側も「欠乏」という観念から
抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを「お蔭」(神からの供給)の
考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、
債務者の方からが、「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。神の無限の
供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、ありがとうございます」
と考えるがよい。

             <感謝合掌 令和2年9月5日 頓首再拝>

賢者は不調和な面を見ない - 伝統

2020/09/13 (Sun) 03:06:14


       *『 生長の家 』(昭和26年6月16日の法語)より

自己の人生に調和と健康と繁栄とを持来(もちきた)そうと思うならば、
この世界には、どんな混乱にも撹乱(かくらん)にも、

それに秩序と平和と健全さとを回復しようと云う
大いなる力が働いているのだと云う宇宙的な摂理(神)が存在する
と云うことを知らなければならない。

一寸(ちょっと)皮膚に傷をしても 内からそれを再生する力が
内部から催して来つつあるのである。

どんな埃(ほこり)が立ってもいつのまにか空気は澄み切るのである。

地上の塵芥(じんかい)が風雨によっていくら流し込まれても
暫(しばら)くのうちに大海原(おおうなばら)は澄み切ってしまうのである。

愚かなる者は、濁る方の現象を見て憂え、
賢者は一切を浄化する宇宙的な力に信頼して心は平和であるのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

             <感謝合掌 令和2年9月13日 頓首再拝>

《一切極微の世界にも満つる日の大神の生命(いのち)》 - 伝統

2020/09/18 (Fri) 05:00:25


       *『 理想世界 』(昭和43年6月22日の法語)より

   釈尊は、悟後最初の説法たる大方向仏華厳経にて、
   この宇宙の実相は中心に毘盧遮那仏即ち、”大日如来”即ち
   “日の大神”即ち天照大御神がましまし、

   蓮華日宝王地なる“日の大神”の宝座をなす王様の国土によって
   その存在が支えられている世界であり、

   その毘盧遮那仏の生命が、一切の微塵世界の極微の微塵
   (原子、素粒子その他の微視的世界)の中にも満ち、
   その各々の微視的世界の中に、依然として毘盧遮那仏を
   中心とする世界があり、

   すべての宗教の本尊 ―― 生命の本源等悉く、
   此の中心生命たる毘盧遮那仏のあらわれならざるはないとて、

   一仏一切仏、一生命一切生命、万象悉く日の大神の御徳の
   表現体であるという実相を説かれたのであって、

   単なる有耶無耶でハッキリわからないような
   空々漠々の真理をお説きになったのではなかった。

   しかし実相は現象の存在に執われている人の心には
   観ることが出来ないので、諸行無常の現象の空無を説いて、
   現象に執する心を鎮めてから、
   実相を見る眼を開かしめられたのである。

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767 )

             <感謝合掌 令和2年9月18日 頓首再拝>

《実相を観るということ》 - 伝統

2020/09/27 (Sun) 02:40:33


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P167)より

人を見るのに外見をもってしてはならない。

人間の実相を観ると云うのは、人間の肉体や衣服は仮りの相(すがた)であって、
「人そのもの」ではないと云うことを知り、
その奥に宿っているところの「神の生命(せいめい)」(仏教的に謂えば「仏性」)を
観ると云うことなのである。

何人(なんぴと)も神の自己顕現として、
自己の内に「神」を蔵しているのである。
これこそが「真の人間」であるのである。

そしてその「内部の自己」が「神」であることを自覚し、それを尊敬し、
その如く生きようと努力するとき、自分の性格も環境も健康も改まりはじめるのである。

そして他(た)の人の「内部の自己」が矢張り「神」であり、
完全であることを心で一心に観て、それを尊敬し合掌礼拝するようにするとき、
その「他(た)の人」が礼拝されるに相応わしい立派な人間となって顕れてくる。

             <感謝合掌 令和2年9月27日 頓首再拝>

実相のみが真実、諸君よ実相を観じよう。 - 伝統

2020/09/30 (Wed) 03:47:57


        *「光明道中記」(9月30日《大自在の日》)より抜粋 

【病気は無い! 物質は無い! 現象はない。実相のみ独在。(生命の實相第十巻)】

よくよく考えて見れば本当に人間には此の世のことの善も悪も本当には判らない。

此の「善をしたから救われる」と云うような
自力の判断は恥ずかしくて出来ないのである。

此の世のこと、善と言い悪と言い、併しそれはただ空言、妄言(たわごと)、
実相(まこと)ではないのである。

ただ念仏 ―― ただ神想観 ―― 
それは如来から廻施(えせ)せられたものであるから、
それのみが真実である。

諸君よ実相を観じよう。

             <感謝合掌 令和2年9月30日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2020/10/09 (Fri) 03:59:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月9日)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。
健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 令和2年10月9日 頓首再拝>

実相は最大の力 - 伝統

2020/10/11 (Sun) 04:14:24


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月11日)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、
いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えて
そこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。

暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 令和2年10月11日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を取り戻せ! - 伝統

2020/10/16 (Fri) 04:58:15


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月16日)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。
「真実の完全自己」を想念せよ。
「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 令和2年10月16日 頓首再拝>

「妙有の人間」「妙有の世界」今・此処にありと肯定せよ - 伝統

2020/10/25 (Sun) 04:56:01


    *「光明道中記」(10月25日《月一回の恩を返す日》)より 

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、
   現象肉体の人間よりも、尚一層具体的であり、尚一層金剛不壊であり、
   真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。


(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは
   現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。

   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、
   「妙有の世界」は現象世界が破壊すると見ゆるときにも
   「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と
   釈迦が「法華経」に於て説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が
   「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
   と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、
   斬っても斬れないと云うような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、
    諸天天鼓を打ち伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして
    大衆(だいしゅ)に散ず」

   と「法華経」の自我偈にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 令和2年10月25日 頓首再拝>

《ただ実相の完全さのみを心に観ぜよ》 - 伝統

2020/11/05 (Thu) 04:20:04


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P170~171)より

写真を撮影して、それを現像し出すまでには、
他(た)の光線に照らしてはならないのである。

それと同じく、実相を観じて、実相の完全な相(すがた)を観じて、
心にそれを印象したならば、それが現象界にあらわれるまでに、
他(た)の不完全な相(すがた)を印象せぬようにすることが必要である。

すなわち「既(すで)に自分は神の子で健康である」と神想観中に念じたならば、
その神想観を終ってからでも、

「自分はやはり病気が治っていないのではないか」
「もっと悪くなるかも知れない」

などと取越し苦労や、心配をしてはならない。

そんな取越し苦労や心配をすることは病気の念(こころ)の想(おもい)を、
あらためて二重写しにすることになるから、あらわれて来る現象の相(すがた)も、
健康と病気とが二重写しになっていて、やはり病気の相(すがた)が消えないのである。

           <感謝合掌 令和2年11月5日 頓首再拝>

《月が円満なるが如(ごと)く人間は円満なり》 - 伝統

2020/11/16 (Mon) 03:38:03


       *『 生長の家 』(昭和26年7月15日の法語)より

   この世界は 愛の神の造りたまえる世界であるから、
   そんなに争闘の満ちている世界ではないのである。

   吾々は 決して外界の誰とも戦っているのではないのである。
   吾々の戦っているのは 自分自身の心に対してである。

   自分自身の心を克服することによって 外界が克服されるのである。
   この世界は 神の創造し給(たま)える世界であるから
   悪いことは何一つ存在しないのである。


   それはたとえば円満なる満月の如くである。

   それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、
   雲が曇っているのを 月が曇っていると間違えているようなものである。

   実相は永遠に曇らないのに、
   人間の心が曇って 実相が曇ったように見えるに過ぎないのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0437d51f25999f55b68c183ace073cec

           <感謝合掌 令和2年11月16日 頓首再拝>

ラザロを復活させたイエス - 伝統

2020/11/25 (Wed) 06:20:41


       *「光明法語」(11月25日の法語)より

イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。

その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。

人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。

今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。

その時ラザロは復活した。

          <感謝合掌 令和2年11月25日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.