伝統板・第二

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神は愛なり⑤ - 伝統

2019/09/22 (Sun) 03:52:47

全てのものを愛せよ

       *「光明法語」(9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。
”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。


・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818

(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7691841

(4)伝統板・第二「神は愛なり④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817467

           <感謝合掌 令和元年9月22日 頓首再拝>

愛と執着とは異なる - 伝統

2019/09/23 (Mon) 04:28:07


       *「光明法語」(9月23日)より

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。
それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、
ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。

それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、
相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、
子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。

愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

           <感謝合掌 令和元年9月23日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力である》 - 伝統

2019/09/24 (Tue) 04:27:07


       *「生長の家」(昭和25年6月13日の法語)より

   吾が内に宿る愛を生きる時、
   吾は全世界で一番強き強者となるのである。

   愛はもっとも強き力である。

   愛は獄舎の門を開き、敵を味方に変え、
   不幸を喜びに変え、困難を感謝に変え、
   醜きものを美に変ずるのである。

   愛を汚す所のものは、
   この世の中には存在しないのである。

   愛は天下無敵である。

   愛のないことのみが愛を汚すのである。

   人を憎んでいる時、自分が苦しい時、
   自分が本当に愛を生きていたかを省り見よ。

   本当に純粋に愛のみを生きていたならば
   苦しむことはない筈(はず)である。

   苦しみは愛ならざるもの、 「 我 」 というものが
   ひそんでいたためにやって来たのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 令和元年9月24日 頓首再拝>

《神の愛は宇宙の到る処にみちみちている》 - 伝統

2019/09/28 (Sat) 04:54:19


         *『 生長の家 』(昭和25年3月27日の法語)より

   神の愛は 宇宙の到る処にみちみちていて 吾らを護り給うのである。
   吾々の一本の毛も悉(ことごと)く神の目から見逃される
   ということはないのである。

   そのことに吾々は信仰をもたなければならない。

   何か紛失物があったならば 静かに坐して
   「 神の愛の中には 見失われるものは何一つないのである。
   私のものは 私と一体にあるから必ず返って来るのである。

   神は すでに吾が祈りに応(こた)え給うたのである 」 と念じて
   静かに感謝の言葉を念ずるようにすると
   思いもうけぬ所からその紛失物が現われて来ることがある。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

           <感謝合掌 令和元年9月28日 頓首再拝>

受ける愛より与える愛の実践 - 伝統

2019/10/14 (Mon) 04:18:36


           *『幸福をひらく鍵』(P149)より

孝といふ字は老と子との合成である。
子が老を負んぶしている象(かたち)である。
 
これは親をいたわる象(かたち)でもあるが、
子は親の生命を背負って出現したといふ象(かたち)でもある。

子の生命(せいめい)の淵源が親であり、親子一体(おやこいったい)、
祖孫一体(そそんいったい)の愛を表現する文字(もんじ)である。
 
子が親につかへ、親が子をいつくしむ親子の愛情は、
その生命(せいめい)の淵源する一体の実相から來るのである。

子が親につかえ、親が子をいつくしむ親子の愛情は、
その生命の淵源する一体の實相から来るのである。


親の愛は、子供が“何をするから愛する”のではない。
子供との一体感において、純粋無条件に愛するのである。

母親の無条件の愛が徹底したとき、子供も無条件に母親を愛するのである。
愛は互いに反映するのである。


親が子を愛する場合には、自分の産んだすべての子を愛するのである。
一人だけを愛して他を顧みないということはないのである。

無論、その子供の性質や精神状態の如何によつては、
その愛情が稀薄になることはあるにしても、
根本に於てすべての子供を愛するということには変りはないのである。


ただ親から愛されている受動的の愛では、進歩がなく創造がないのである。

愛は受動的段階から創造的段階にまで進まなければならない。
ただ愛を受けるだけではなく、愛を与えるようににしなければならない。

受ける愛より興える愛に進むのである。

消極的愛より積極的愛へと向上するのである。

           <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>

《神の愛を 「 自己 」 を通して表現せよ》 - 伝統

2019/10/25 (Fri) 02:35:19


          *『 生長の家 』(昭和26年5月12日の法語)より

   周囲の人々が自分に対して悪意を抱いているように見えるときには、
   自分の方が周囲の人々に好意をもっていないか、冷淡であるか、
   敵意をもっているか、恐怖心をもっているかが、
   相手に映って、そう現れるのである。

   あなた自身が、  「 自己の内に神の愛が流れ入りて、
   私と云うパイプを通して神が彼等を愛し給うのである  」  
   と念じて、

   自由に神の愛の言葉を、そして行為をあなたを通して
   周囲に注ぎかけるならば、そのような敵意も恐怖も消えて
   周囲全体が調和ある状態に変化するのである。

   どんな困難な事態でも、
   真に神の愛が貴方(あなた)を通して実現するならば、
   調和が現れるほかはないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

           <感謝合掌 令和元年10月25日 頓首再拝>

愛の花咲くとき - 伝統

2019/11/06 (Wed) 04:59:49


         *『女性の幸福365章』(P37)より

愛は顔にあらわれて和顔となり
言葉にあらわれて愛語讃歎となる

顔にあらわれず 言葉にあらわれない愛は
恰も咲かぬ花の如きものである

花咲かぬ花樹は引き抜かれて捨てられる如く
言葉や表情にあらわされない愛は
人からみとめられないで誤解されて捨て去られる

本当の愛は肉眼で相手を見ないで 魂で相手を見る

肉眼で見て愛する愛は
相手の美が凋落するとともに衰退するが

魂で見て愛する愛は
肉体の美が衰えても衰退することがない

           <感謝合掌 令和元年11月6日 頓首再拝>

愛が神なのである - 伝統

2019/11/12 (Tue) 04:42:21


      *「光明道中記」(11月12日《人を審判(さば)かぬ日》)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに
「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、
ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、
音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、
挺身して人類の代贖者(みがわりもの)に
なろうと決意したイエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、
莞爾(かんじ)として微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 令和元年11月12日 頓首再拝>

神の愛の抱擁を思念せよ - 伝統

2019/11/22 (Fri) 04:19:48


          *「光明法語」(11月22日の法語)より

更に次の如く思念せよ。

「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな神の愛に触れているのである。
だからどんなイライラしさも、どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。

神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」

          <感謝合掌 令和元年11月22日 頓首再拝>

《神性には智慧と愛との二面がある》 - 伝統

2019/12/08 (Sun) 04:37:54


        *『真理』第九巻生活篇(P258)より

人間は肉体の仮面をかぶった「神性」であります。
その「神性」の一つのあらわれが「知性」であります。
併し頭脳智としてあらわれる「知性」は知性の一部分に過ぎないのです。

それにも拘らず頭脳智ばかりに頼っているところの
人間の「智」の行きづまりがあります。

「神性」は「知性」であると同時に「愛」でありますから、
愛をあらわさずして知性ばかりにたよりすぎると、
知性愈々発達して人間は狡猾となり、葛藤や闘争を
繰り返すようになるのであります。

わたしたちは「智」を発達させると同時に「愛」をあらわすように
つとめなければなりません。
「智」と「愛」は車の両輪のようなものであります。

「智」をはたらかせて、出来るかぎり最善の衛生の道を講じ、
予防医学の限りをつくしても、その生活が「愛」の道に
かなわなかったら病気になることがあります。

          <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>

《知識は愛に導かれて智慧となる》 - 伝統

2019/12/25 (Wed) 04:10:09


        *『真理』第九巻生活篇(P259)より

知識は愛によって導かれなかったら破壊する力となります。
知識は分析し分解しバラバラにしてしまう力であります。

科学的知識は原子力を発見して、
原爆水爆、大陸間弾道兵器等の貯蔵となって、
一触即発の世界破壊の危機を孕(はら)み出しているのであります。

原子力を平和的に利用し人類の利用厚生の道に使用するのは
人類の知識が愛によって導かれ、愛は自他一体の自覚であるから、
自他ともに総合的に生かされることに知識が志向されるとき、
知識は単なる分解や分析でバラバラに破壊することを止(や)め、
すべてを生かす知識となるのです。

自己中心に物事を遮二無二進めようとしますと、一時(じ)は
うまく進展するように見えてもやがてそれは行き詰まるときが来ます。

利己的な想念感情は、「全体の父」である神の大いなる力と波長が
合わないために、大生命の協力を得(う)ることができないからです。

          <感謝合掌 令和元年12月25日 頓首再拝>

《神は無限の愛であり給う》 - 伝統

2020/01/07 (Tue) 03:17:52


        *「光明法語」(1月7日)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。

神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、
吾等の全身を健全ならしめ給うのである。


          <感謝合掌 令和2年1月7日 頓首再拝>

《愛を行ずれば愛が来る》 - 伝統

2020/01/10 (Fri) 04:51:05


      *「生長の家」(昭和25年6月19日の法語)より

   吾々が愛行を行う際に
   それに伴う報酬を期待するならば
   それは本当に愛行ということはできない。

   よき行為によき結果が
   伴わないということはないのである。

   結果は期待しないでも、ただそれを行ずれば
   原因結果の法則で
   ただ自然にでて来るのである。

   もし報いを求めて愛を行ずれば、
   その愛は純粋でないから
   純粋でない結果が自分に返って来るのである。

   吾々は唯(ただ) 「 愛 」 を
   行ずればいいのである。

   吾々は愛を 唯 行ずればいいのであって、
   「 犠牲 」 になろうと考えることも又(また)不要であるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

          <感謝合掌 令和2年1月10日 頓首再拝>

《神の愛に満たされていると云うこと》 - 伝統

2020/01/13 (Mon) 05:01:23


         *『生長の家』(昭和24年11月3日の法語)より

   神の愛は 宇宙にみちてい給う。

   神の愛は 吾が内に宿ってもい給うのである。

   神の愛は み空にも地の下にも、凡ゆる方角に前後左右に、
   吾をとりまき、吾を包んで、内にも外にも
   みちみちていられるものである。

   吾は神の愛から逃れることはできないのである。
   されば 吾はどんな場合にも困るということはないのである。

   だから 自分は完全に自由であって、どんな苦悩も、
   重みも背負わされるということはないのである。

   神は 我を包んで常に守り給う。
   吾は又すべての人を愛し すべての人は吾を愛するのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

          <感謝合掌 令和2年1月13日 頓首再拝>

《愛は自己愛であってはならない》 - 伝統

2020/01/25 (Sat) 04:05:04


        *「真理」第9巻生活篇(P225~226)より

あなたの愛は神への愛にまで高まるとき、
もう自己の快感や利得を考えたりしないのである。

純粋の愛は「自分」の快楽や利得を考えない。
愛はよく自分の貧しさを耐えしのぶのである。
愛は人を悦ばすことだけを考えるのである。        

人悦ばすとき、自分が如何に悦ばしいかを知っているのが愛である。

愛は荒々しい言葉を使わない。
優しい言葉は怒っている人の心を和らげ、
争いを鎮め、世界に平和を持ち来すのである。

愛を自己に対してではなく、
人類に対して、世界に対して投げかけよう。

本当の愛は空想愛で自己満足するものであってはならない。
愛は実践しなければならない。

行動を伴わない信仰がカラ念仏であるように
実行を伴わい愛はガランドウである。

本当の愛は自分の欲望を棄てて
他(た)の人の幸福のために奉仕するのである。

          <感謝合掌 令和2年1月25日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力なり》 - 伝統

2020/01/30 (Thu) 03:46:35


         *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

          <感謝合掌 令和2年1月30日 頓首再拝>

《愛は全身を相手にまかせる》 - 伝統

2020/02/06 (Thu) 04:15:19


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』と言っていられる。
ここに言葉をききて素直に守ることが『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては何を求められても無条件に従いたくなるのである。

          <感謝合掌 令和2年2月6日 頓首再拝>

《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》 - 伝統

2020/02/10 (Mon) 02:44:36


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、
人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をすることを全然やめた時に、
自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために
神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は

「神と自分との間にある通路は、
實に何でもないとおろそかにする小事によって
塞がれてしまうことがある。

一寸したズルい行為。
一寸した不深切な嘲笑。
一寸した世間話。
一寸した酷評。

すべて一寸した愛にそむく行為によって」

と言っている。

          <感謝合掌 令和2年2月10日 頓首再拝>

報い求めぬ愛の日 - 伝統

2020/02/14 (Fri) 04:53:41


           *「光明道中記」(2月14日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と
不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

          <感謝合掌 令和2年2月14日 頓首再拝>

自己の尺度を捨てる日 - 伝統

2020/02/16 (Sun) 03:56:34


           *「光明道中記」(2月16日)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、相手を害(そこな)い、自分を害う。
                               (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、悉く異なって見えるものである。
争いは、見る立場は一つしかないと云う根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、或る人には斜めに見える。
もっと委(くわ)しく分けるならば、一つの顔でも全然同じように見えることは
あり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」と言ったが、
今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、己の欲する所も、彼は欲しないかも知れない
ことを知って、各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

          <感謝合掌 令和2年2月16日 頓首再拝>

《愛は永遠の価値です》 - 伝統

2020/03/04 (Wed) 04:29:50


          *「真理」第9巻生活篇(P30)より

たましいの美、愛、善意、深切、誠実・・・と云うような肉体が死んでからも
永遠に持ちつづけて行ける価値のみを増大する生活を送ろうではありませんか。

これらのものを犠牲にして、やがて捨てねばならぬ物質的なものを増大しようと
考えてはなりません。肉体の健康さえも、魂の美を実現する道具としてのみ
価値があるのです。

霊的目的をはなれた肉体の健康は、いくらそれが健康であるにせよ、
五十年百年にして捨てなければならぬ所有に過ぎません。

観を転換いたしましょう。
価値観を変更するのです。

物質にあまり執着する者には、霊的な性格の美しさが失われ勝(がち)であります。
永遠の価値への追及、これが新しき年を迎えた私たちの目標であらねばなりません。

愛は人を救うことにあります。
愛は永遠なる魂の属性です。

では出来るだけ多くの人たちに真理を弘めようではありませんか。

          <感謝合掌 令和2年3月4日 頓首再拝>

愛は繁昌の基(もとい)である - 伝統

2020/03/16 (Mon) 02:21:55


           *「光明法語」(3月16日)より抜粋

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

          <感謝合掌 令和2年3月16日 頓首再拝>

神の愛の霊波を受けるには - 伝統

2020/03/24 (Tue) 04:18:06


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

          <感謝合掌 令和2年3月24日 頓首再拝>

神と波長を合わすには - 伝統

2020/03/26 (Thu) 03:07:22


           *「光明法語」(3月26日)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

          <感謝合掌 令和2年3月26日 頓首再拝>

愛の展開が天国である - 伝統

2020/03/30 (Mon) 04:51:13


           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

          <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>

愛するとは實相を信ずること - 伝統

2020/03/31 (Tue) 04:54:53


           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

          <感謝合掌 令和2年3月31日 頓首再拝>

《神は慈悲の神、愛の神》 - 伝統

2020/04/01 (Wed) 04:52:02


           *「光明法語」(4月1日)より

先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

          <感謝合掌 令和2年4月1日 頓首再拝>

《神の愛と不可分一体であること》 - 伝統

2020/04/02 (Thu) 04:53:57


           *「光明法語」(4月2日)より

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して友好関係にあるのである。
もう赦すと云うことさえなくなったのである。
はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
それより逃れることは出来ないのである」

          <感謝合掌 令和2年4月2日 頓首再拝>

人間は愛するために生まれている - 伝統

2020/04/05 (Sun) 04:51:30


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、
相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 令和2年4月5日 頓首再拝>

《“ 神は愛なり ” の祈り》 - 伝統

2020/04/08 (Wed) 02:38:24


          *『 生長の家 』(昭和49年4月8日の法語)より

   【 祈り 】

   【 私は“ 神の子 ”である。神は愛である。
   私の内に神さまの愛を実現するセンターがあるのである。

   それ故に私はすべての人間に対して、常に愛行を怠らず、
   愛行を実践するたびに生き甲斐を感ずるのである。

   ありがとうございます。 】

   生き甲斐というものは、自分自身が本来の生命の姿そのままに、
   それを歪(ゆが)めることなく、曲げることなく、抑える事なく
   発顕(はつけん)せしめ得たときに感じられるところの
   内部的“ 自覚感情 ”である。

   『 生命の實相 』の“ 生活篇 ”の中に一国の王子に生まれて、
   物質的には何不自由なく、求めて得られざるものとてもない
   裕(ゆた)かなる環境条件の中で育ちながら幸福感が得られないで、
   いつも悒鬱(ゆううつ)な顔をしているので

   父王(ふおう)が心配して、

   この王子の心を幸福感に充たされ生き甲斐を感じるようになるように
   善き智慧をかしてくれたる者があったら、褒美(ほうび)の金は望み次第だと
   いう布令を出したら、色々の案をもって来る者があったが、いずれも落第で、

   最後に最高の案をもって来たのは一人の魔法使であったが、
   彼は一枚の「あぶり出し」の白紙を置いて去った。

   それを火の上にかざして炙(あぶ)ると、その白紙にあざやかに、
   「 毎日必ず誰かに深切を施せ 」 という文字(もんじ)があらわれて来た。

   王子はそのように実行すると、生き甲斐の悦びが感じられ、
   顔は幸福感に充たされて悦びに輝いて来たという
   例話(れいわ)が書かれている。

   「 深切を施す 」ということは“ 愛 ”を実践することであり、
   神は“ 愛 ”であり、“ 神の子 ”たる人間の本質も“ 愛 ”であるから、

   愛を生活に生きるようにしたとき、
   自己の生命の本質を完全に生きることになるから
   生き甲斐が感じられて来るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

            <感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>

《自分は愛を放射する》 - 伝統

2020/04/12 (Sun) 03:32:01


   神は自分に於いて最高に自己顕現し給うのである。
   神は愛である。
   自分は神が放射し出す愛の中心点であるのである。

   光の射(さ)す所が明るくなる様に、
   吾の行く所は 又 愛にみたされるのである。

   自分は愛を放射するが故に
   吾が周囲には 愛が自(おのず)から集って来るのである。

   吾は 神の愛が出現する為の出口であるのである。

   されば今日より後、私は決して人を憎まないのである。
   人をさばかないのである。

   唯 人を愛することのみを行ずるのである。
   人の幸福になるようにのみ実践するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13798311.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月12日 頓首再拝>

《身辺に天国浄土を実現するには》 - 伝統

2020/04/19 (Sun) 07:36:02


          *「真理」第9巻生活篇第2章(51~52)より

神は愛である。
そして吾々は神の子であり完全なる自由を許されている。
従って愛にそむく想念感情を出すことも出来る。

それは個々のラジオ・セットのダイヤルを何(ど)の位置に廻そうと自由であるが、
公共放送を五官の世界にあらわそうとすれば、公共放送に波長を合わさねばならぬ
と同じです。

民間放送の娯楽番組に波長を合わせば、
時としてエロテックな漫談が出てくるかも知れない。

それと同じように吾々は神の波長に想念を合わせば、
天国のプログラムが地上に実現するが、

民間の有象無象の怒ったり悲しんだりする感情に波長を合わせば、
憤(いきどお)るべき悲しむべき現象が自分の身辺にあらわれて来るのです。

心を調(ととの)えて神の波長に自分の波長を合わそうではありませんか。
そのために神想観を行ずるのは無論のこと、
「神は愛なり」ですから愛を実践し、つねに愛の感情を懐くことです。

            <感謝合掌 令和2年4月19日 頓首再拝>

《神の愛は放つ愛である》 - 伝統

2020/04/20 (Mon) 04:58:33


        *「光明法語」(4月20日)より

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

            <感謝合掌 令和2年4月20日 頓首再拝>

《われは神の愛を実践する》 - 伝統

2020/04/29 (Wed) 04:53:45


         *『 生長の家 』(昭和25年4月29日の法語)より

   吾は 今 すべての人の罪を赦したのである。
   すべての人をさばく心を捨て、赦す心にみたされているのである。

   神の愛が私の心を占領したのである。
   吾は 無条件に吾が全心身を明け渡して 神の愛に占領せしめたのである。
   吾は 決して神の愛にそむくような 如何なることをも行わないのである。

   吾は 人を憎まない。吾は 人と争わない。

   吾は 唯 幸福のみを見、光のみを見、美点のみを見、繁栄のみを見、
   すべての人に感謝し、すべての人を祝福するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13861952.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月29日 頓首再拝>

《愛深き峻厳が魂の進化せる特徴である》  - 伝統

2020/05/02 (Sat) 04:50:56


           *「光明法語」(5月2日)より  

「汝の如く汝の隣人を愛せよ」とは自分の実相を完全なる神の子であると信ずる如く、
汝の隣人をも完全なる神の子であると信じて敬することである。

敬のない惑溺(わくでき)は真の愛ではなくて肉欲の変形であったり、
自己憐憫の投影であったりするのである。

自己の苦痛を恐れる者のみが、他(ひと)の苦痛に同情するのである。
だから同情は、自己不完全の投影ですらある。

真の魂の生長せる者の特長は「愛深き峻厳」である。
愛深くして相手の実相の完全さを知るが故に猥(みだ)りに甘やかさず
峻厳であるのである。

            <感謝合掌 令和2年5月2日 頓首再拝>

愛の花咲くとき - 伝統

2020/05/12 (Tue) 04:33:58


         *「女性の幸福365章」(P37)より

愛は顔にあらわれて和顔となり
言葉にあらわれて愛語讃嘆となる。

顔にあらわれず 言葉にあらわれない愛は
恰(あたか)も咲かぬ花の如きものである。

花咲かぬ花樹(かじゅ)は引き抜かれて捨てられる如く
言葉や表情にあらわさない愛は
人からみとめられないで誤解されて捨てられる。

本当の愛は肉眼で相手を見ないで、魂で相手を見る。

肉眼で見て愛する愛は
相手の美が凋落するとともに衰退するが
魂で見て愛する愛は
肉体の美が衰えても衰退することはない。

            <感謝合掌 令和2年5月12日 頓首再拝>

今、既に神の愛に包まれている - 伝統

2020/05/21 (Thu) 04:42:57


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。
太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんなにも愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

           <感謝合掌 令和2年5月21日 頓首再拝>

《お蔭を本当に得るには》「霊的実在」(神の愛)を愛しなければならない - 伝統

2020/05/24 (Sun) 04:44:26


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P74)より
           《お蔭を本当に得るには》

神は普遍の霊であり、霊的価値の本体であります。

現象界のすべての「善さ」は、
神の霊的価値が現象界に影を映したものであります。

ですから物質化して現象界にあらわれている「物質」そのものを
愛してはならないのであって、その物質化の奥にある「霊的実在」(神の愛)
を愛しなければならないのです。

物質そのものを愛するのではなく、このように現わしたまうた神の愛を
感じ、それをみとめ、それに感謝するようにしなければなりません。

神は普遍の霊でありますから、電磁波よりも早く吾々の想念を
感ずることができるのであります。

「汝 呼ぶに先立ちてわれ答えん」と聖書に書かれている通りであります。

また「神は求むるに先立ちてなくてならぬものを知り給う」と
イエスは教えておられます。

併(しか)し神が与え給うものはどこまでも霊的賜物であります。

「霊を求めよ、その映像として物質も成就せん」であります。

           <感謝合掌 令和2年5月24日 頓首再拝>

《愛の神を凝視せよ》 - 伝統

2020/05/26 (Tue) 04:49:37


         *「光明法語」(5月26日)より

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」
と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

           <感謝合掌 令和2年5月26日 頓首再拝>

宇宙の修正力を観、神の愛を観る - 伝統

2020/06/05 (Fri) 04:18:31


       *「光明道中記」(6月5日《罪浄まる日》)より

【罪は本来無いから、それに心が捉えられなければ消えるのである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々の「念」そのままに此の世界が現じて来るものとすれば、
若し吾々の日々の憎しみの心の通りに、日々の悲しみの心の通りに、
日々の呟きの言葉の通りに、此の世の中の現象が悉く現れて来るものならば、
此の世界はもっと惨憺たる傷(いた)ましい状態を現出していただろう。

それは、若し吾々の春秋の大清潔法(おおそうじ)のとき
畳を叩くときの埃(ほこり)がいつまでも浄まらないで
空中に渦巻いているとしたならば、
吾等は到底生活に耐えないような環境を見出すだろう。

然るに、神は讃むべきかな、宇宙に浄化力を下ろしたまうて、
常に吾々の立騰(たちのぼ)らす塵埃を浄化して
環境を澄み切らして下さるのである。

それと同じように、吾々の心から立騰(たちのぼ)らす無数の「心の埃」が
その儘、具象化(かたちにか)するならば、それこそ大変であるのに、
神はそれを常に修正していたまうのである。

吾々が暗の中で攪(か)き濁(にご)す心の塵埃もいつの間にか、
神の光で、空中の大気のように浄まって了(しま)うのである。

茲(ここ)に私は宇宙の修正力を観、神の愛を観るのである。

業(ごう)は永遠の存在であり得ないのは此の宇宙の修正力によるのである。

           <感謝合掌 令和2年6月5日 頓首再拝>

神を愛せよ - 伝統

2020/06/06 (Sat) 04:36:40


        *『光明法語』(6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、
 凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。

愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。

「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

           <感謝合掌 令和2年6月6日 頓首再拝>

神の愛を 「 自己 」 を通して表現せよ - 伝統

2020/06/09 (Tue) 04:58:56


        *『 生長の家 』(昭和26年5月12日の法語)より

周囲の人々が自分に対して悪意を抱いているように見えるときには、
自分の方が周囲の人々に好意をもっていないか、冷淡であるか、
敵意をもっているか、恐怖心をもっているかが、
相手に映って、そう現れるのである。

あなた自身が、 

「 自己の内に神の愛が流れ入りて、私と云うパイプを通して神が彼等を愛し給うのである 」  

と念じて、

自由に神の愛の言葉を、そして行為をあなたを通して周囲に注ぎかけるならば、
そのような敵意も恐怖も消えて周囲全体が調和ある状態に変化するのである。

どんな困難な事態でも、真に神の愛が貴方(あなた)を通して実現するならば、
調和が現れるほかはないのである。

           <感謝合掌 令和2年6月9日 頓首再拝>

如何なる時にも相手の内に 「 愛 」 の心を見よ - 伝統

2020/06/11 (Thu) 04:15:29


       *『 生長の家 』(昭和26年5月13日の法語)より

真に幸福なる生活を送ろうと思うならば、
周囲の人々に対して絶対調和した心持でいなければならないのである。

周囲の人々に怒りや憎みや恐怖の感情をもっている限りは、
物質的に幾ら豊かな生活を送っていても
其人(そのひと)は幸福だと云うことは出来ないのである。

誰でも愛されたいのに、その相手がこちらを憎んでいるのは、
こちらが相手を愛してあげようが足りないからである。

憎みの言葉を相手がこちらに投げかけても、実はその人は

「 私はあなたに愛されたいのに、愛してくれないから、私は止むを得ず、
  やけくそに貴方に意地悪をするのよ 」

と心の中では言っているのである。

           <感謝合掌 令和2年6月11日 頓首再拝>

愛行の実践 - 伝統

2020/06/27 (Sat) 04:54:57


           *『白鳩』(昭和37年3月号)より

すべての愛は、神より出でたるものである。 
神は愛であるからである。

愛は“自他一体”又は“無我一体”の内的自覚より生ずる。

神は万物の本源であり、創造の唯一の本源者であるから、
神に於いては、すべてが「自」の展開であるから「他」は存在しないのである。

それを外見上「他」と見えるものを立てるとき、
その内在の一体を見て「自他一体」と称し、
その外見上の「彼」を立てるとき、
「彼我一体」と自覚するのである。

神は一切の生みの親であるから、すべての生物に対して
平等のやさしい愛をもっていられるのである。

若しあなたの心の内に、本当に「神の生命(いのち)」が
生きていることが自覚されるならば、すべての生物に対して、
やさしい愛の心が起って来る筈である。

「愛」が自分の心のうちに切実に起って来ない場合には、
愛行を実践することによって「愛の心」を喚び出して来ることができるのである。

 
それは、井戸の水を手押しポンプで汲み上げるのと同じことなのである。

井戸の水は汲み上げるのに従って無限に湧き出て来るけれども、
汲み上げなければ、そのまま静かで湧き出て来ないのである。

手押しポンプの把手(ハンドル)を動かしても水が上って来ないときは、
あまり「愛の水」を汲まずに放置しておいたために弁が乾き切っているからである。

あなたの心に「愛」が湧いて来ないならば、
愛を与えることを止めて長く放置して置いたからである。

しかし井戸の底には多量の水がたまっているように、
あなたの「実相」の底には「愛」の水が豊かに存在しているのである。 

あまり水を汲み上げないために弁が乾き切っていて
井戸の水が上って来ないときには「迎え水」をして
ハンドルを動かしていると水が上って来る。

それと同じく「愛の心」が湧き上って来ないときには、
はじめは努力して「迎え水」を与えるが如く隣人に「愛」を与え、
「愛行の実践」をもってハンドルを動かせば、本当に「愛の心」が湧き出て来て、
人々の幸福に奉仕することが、如何に楽しいことであるかがわかって来るのである。

 「われ人類を愛す」と念ぜよ。 
 「われ国を愛す」と念ぜよ。
 「われ家族を愛す」と念ぜよ。

このように念ずることによって、
自分の内に深く内在する「愛」を喚び出して来て、
それを実践するがよい。

「愛行」は最初実践しようと思うとき、
“面倒くさい”ような“きまりが悪い”ような抵抗を感ずるかも知れないけれども、
実践するに従って魂の悦びが感じられて来るのである。

何故なら人間の生命本質は「神」であり、「神」は「愛」であるからである。

内に「愛」をいだいていても、それを表現しなければ
「愛はない」かの如く誤解されることがあるものである。

「愛」は “善意” “同情” “忍耐” “布施” “奉仕” 
“善き言葉” “笑顔” “いたわり” “激励” “援助” 
“協力” “慰問” “善き手紙” ・・・ 等の形をもって表現される。

これらのうちの数項を必ず実践するようにしたいものである。

   (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/c8dd6344f71d665a42788883e7e4b207

          <感謝合掌 令和2年6月27日 頓首再拝>

情欲は愛に非ず、執着なしに愛せよ - 伝統

2020/06/30 (Tue) 04:40:50


       *「光明法語」(6月30日《自分と云う手垢をつけるな》)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。
如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>

真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である - 伝統

2020/07/07 (Tue) 04:53:53


         *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で「諸愛ことごとく解脱し」と書かれている
ように、仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

        <感謝合掌 令和2年7月7日 頓首再拝>

愛のみ生かす - 伝統

2020/07/15 (Wed) 04:41:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月15日)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。
時計は回るようにできており、時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、講演旅行などで携帯する
時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から
帰ってくると、本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。
知的に真理を理解したといっても、それだけでは時計の構造を理解したと同じである。
時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、真理も知的に理解しただけでは
生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば
時計は動く。それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、人を生かすことができるのである。

        <感謝合掌 令和2年7月15日 頓首再拝>

まず神を愛せよ - 伝統

2020/07/16 (Thu) 04:32:56


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、神をただ「無限供給の源泉」
として視るものは、神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。
われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を
捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

        <感謝合掌 令和2年7月16日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を - 伝統

2020/07/21 (Tue) 04:27:59


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月21日)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>

【欠点を含めてあるがままを愛する】 - 伝統

2020/07/25 (Sat) 04:09:56


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.07.03)より

   (ひろさちや氏の心に響く言葉より…)

   「愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け容れることだ」

   現代イタリアの劇作家ディエゴ・ファブリの言葉である。


   わたしは、この言葉は「愛のリトマス試験紙」になると思っている。

   恋人どうしの愛であれ、夫婦の愛であれ、親子の愛であれ、
   一度このリトマス試験紙によってテストしてみるとよい。

   そうすれば、それが本物の愛であるか否かが分かるであろう。

   たとえば、恋人どうしで、
   食事をするときの相手の食べ方がいやだと悩んでいる人がいる。

   どうしたら相手を変えることができるか…と質問されることが多いが、
   それのような質問が出てくるのは、その人が相手を愛していないからである。

   相手を支配しようとしているのであって、それは愛ではないのである。

   自分が変われないのであれば、その相手との恋はやがては冷めるであろう。


   夫婦のあいだも同じである。

   二人は夫婦になってしまったのだから、
   その結婚を解消したくないのであれば、
   互いに相手を変えようとしてはいけない。

   自分のほうが変わろうとすべきである。

   それが結婚をつづけさせるうまいやり方である。


   親子の関係だって、同じことがいえる。

   親は自分の希望を押しつけて、子どもを変えようとする。

   親から見た「いい子」にさせようとするのだが、
   それは親が子どもの支配者になろうとしていることである。


   真実の愛情を持った親であれば、
   あるがままの子どもを受け容れるのが、真の愛だかである。

   わが子の成績を一方的にしかる親は、所詮は支配者と知るべきである。

      <『捨てちゃえ、捨てちゃえ』PHP研究所>

           ・・・

ひろさちや氏は「欠点を含めてあるがままを愛する」ことが必要だという。

たとえば、こんなエピソードを紹介していた。

『「これで袴(はかま)をつくってくれ」と夫が妻に新しい布を渡した。

 「どのような袴がよろしいでしょうか」と聞く妻に、
 「いまはいているのと、同じにしてくれ」と、夫は言った。

 そして、妻がつくった新しい袴には、
 現在のとまったく同じに、つぎがあてられていた。

 中国古典の「韓非子」に出てくる話である。


 人間は矛盾した存在だ。

 いい面もあれば、悪い面もある。

 いや、長所・短所といったものは他人が見た勝手な評価であって、
 見る人が違えば理想が欠点になり、欠点が理想になるだろう。

 人間は理想と欠点をミックスした存在だ。

 理想の人物像を設定することは、
 欠点のない人間をつくろうとするようなものだ。

 それはまさに、新しい袴をつくるのと同じである。

 袴であれば、つぎのないものがつくれても、
 現実の人間は古い袴と同じで、あちこちに穴があり、つぎがあたっている。

 つぎのない新しい人間をつくることは、絶対にできないことである。

 欠点があってこそ、その人の長所がある。

 その人は、その人の生き方しかできないのだ。

 わたしたちは、現実にあるがままのその人を、
 しっかりと愛することを学ばなければならない。』


「あの人はすごい人だ」、と多くの人から思われ、尊敬され、
世間からも認められているような有名な人も、長年つき合い、
食事をプライベートでするくらい親しくなると、意外と欠点も見えてくるものだ。

その欠点が見えてきたとき、離れて行ってしまう人と、
今まで通りなんのくったくもなくおつき合いできる人もいる。


どんなに理想的な人であっても、人間である限り、必ず欠点はある。

あまりに正義感がありすぎると、相手を裁くようになる。

欠点を非難し、許さないのだ。


小林正観さんは、「ボーッとすること」「ピリピリしないこと」が大事だという。

禅に「閑古錐(かんこすい)」という言葉があるが、
まさにこの「ボーッとすること」を言う。

閑古錐とは、古くて先がまるくなり、使えなくなった錐(きり)のこと。

「鈍(どん)」の人だ。


この閑古錐の反対は、目から鼻に抜けるような鋭い人、「聡明才弁」の人だ。

聡明才弁とは、頭が切れて弁の立つ人のこと。



「欠点を含めてあるがままを愛する」

ボーッと生きることも時には必要だ。

         <感謝合掌 令和2年7月25日 頓首再拝>

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