伝統板・第二
悦び ③ - 伝統
2019/09/18 (Wed) 04:04:17
《神の生命の歓喜》
*「光明法語」(9月18日)より
神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。
美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、
梅花の孤峭(こしょう)なる・・・
数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、
「神の生命」そのものの発露であり表現であるのは「人間」である。
人間が喜べば神が喜ぶのである。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「悦び ①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6902660
(2)伝統板・第二「悦び ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7668104
<感謝合掌 令和元年9月18日 頓首再拝>
喜びは創造する力である - 伝統
2019/09/19 (Thu) 04:00:40
*「光明法語」(9月19日《歓喜の創造》)より
歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。
喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。
イザナギの神様は
「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と歓喜して世界を創造したのである。
イザナミの神様は
「あなにやし、好男(えおとこ)」と歓喜して世界を創造したのである。
喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。
<感謝合掌 令和元年9月19日 頓首再拝>
明るく前向きになって喜びも見つかる小学1年生の言葉 - 伝統
2019/09/25 (Wed) 04:29:35
*Web:今日も良いことがあるように(2019/04/08)より
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
でもね、全部好き!!
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
あるお母さん(Yukieさん)の小学1年生になったばかりの娘さんの言葉を紹介します。
私は、ふと忘れがちな大切なことをこの子から気づかせてもらいました。
どうもありがとう!
こんばんは(^^)
いつもはこの時間は夢の中にいるのですが、
今日は私が添い寝をする間もなく、子供たちが寝てしまったので、
少したまってしまっていた先生の【心の糧】を読んでいました。
そして、前から「投稿してみたいな~」と思っていたので、
勢いもあって、今、投稿メールのページにやってきた次第です。
でも、多くの人に読んでもらえなくてもいい、
中井先生に知ってもらえれば、それだけで十分と思い、話をさせてもらいます。
娘はこの4月に小学1年生になりました。
桜がこぼれんばかりに咲いた日に、入学式を迎えました。
この娘の話です。
少し寒さが和らいでいたのに、また冷たくなった日の私と娘の会話です。
私「あ~、お母さん寒いの苦手やねん!! 冬は嫌いやな~。」
娘「夏がいい!!プールは入れるもん!!」
私「そうだね~。プール好きやもんね~」
娘「あっ!!でもね、全部好き!!」
「1月はね、お正月があって楽しいし、
2月は雪が降ってそり遊びできるから楽しいし、
3月はおひなまつりがあって楽しい。
4月はお花がいっぱい咲いて首飾りとか作れて楽しいし、
5月はこいのぼりを作れるし、
6月はお誕生日があるし、
雨の日が多いからお部屋遊びもいっぱいできて楽しい!!
7月はかわいい服をいっぱい着れて嬉しいし、
8月はプールに入れて楽しいし、
9月はお月さまがきれいやし、お団子も食べれて楽しいし、
10月は運動会があって楽しい!!!
11月はどんぐりをいっぱい拾えて楽しいし、
12月はサンタさんが来てくれるから嬉しい!!!」
「だから、ずっとずっと、幸せやね~ん♪」
少し補足すると、娘は保育所に通っていました。
お天気なら保育所から外の公園などに連れて行ってもらっていました。
そこで、花の首飾りの作り方を教えてもらったり、虫や花を観察したり、
どんぐりなどの木の実を拾ったりしていました。
また、雛飾りやこいのぼりを作ったりして、
伝統行事にも触れさせていただいておりました。
7月の「かわいい服がいっぱい着れる」というのは、
汗をかくので1日何回も着替えるので、
お気に入りの服を他の時期よりたくさん着れて嬉しいと思っているようです。
実際夏服は価格も手ごろで、気がつくと衣装持ち!!になっていたのです。
そり遊びは、自宅から1時間ほど車を走らせると雪が積もっている地域に出ます。
スキー場などではなく、小高い丘のようなところで、そり遊びをします。
娘がどんな季節もどんな日も楽しいと思える心を持っていて、
とても嬉しく思いました。
今まで何度か旅行にも連れて行きましたが、
そういう「特別なこと」ではなくて、
季節の自然や行事を楽しいと思っていることが、嬉しかったです。
また、娘がこんなことも言って私を驚かせました。
「みんなが喜んでくれるようなことができる人になりたい!!」
自分のことでいっぱいいっぱいの私のほうが子供のようでした。
娘がこういう思いを抱くように様々な体験をさせてくださった
保育所の先生方にも感謝しています。
小学校へ入学して、まだドキドキしている娘。
これからどんなふうに育っていくのか、
その成長を見守ることができるこの娘の親になれて私も幸せです♪
娘の自慢をしてしまいました。
最後までお読みいただいてありがとうございました。
幼い子どもは、大人から見ればありふれた日常生活に楽しさや嬉しさを見つける天才です。
Yukieさんの娘さんはまさにそうですね。
この子が発した言葉を少し抽出してみましょう。
これらの言葉をよその子が言ったと思わずに、
自分の家族、あるいは自分の好きな人が言ったと思って読んでみましょう。
「○○がいい!」
「○○があって楽しい!」
「○○ができて嬉しい!」
「○○が作れて楽しい!」
「○○が着れて嬉しい!」
「○○が食べれて楽しい!」
「○○さんが来てくれるから嬉しい。」
「全部好き!!」
「だから、ずっと、ずっと幸せやね~ん♪」
なんて、明るくて前向きで言葉でしょう。
そして、うれしくなる言葉でしょう。
私たちも意識して、こんな言葉を使っていると、
自分の心が明るく前向きになってきます。
日常のありふれた生活にも、楽しさや嬉しさを見つけられるようになってきます。
この子は言っていますね。
「みんなが喜んでくれるようなことができる人になりたい!!」
でも、私はもしこの子に会ったら言うかもしれません。
「あのね、君はもうすでに、みんなが喜んでくれるようなことができる人だよ。
だって、君が言葉を発すことで、君がそこにいるだけで、
喜んでくれる人がいるんだから・・・
どうもありがとう。
君のおかげでなんだか嬉しくなってきたよ」
「みんなが喜んでくれるようなことができる人になりたい!!」
私たちも心から願っていれば、誰かに喜ばれる人になることができます。
いえ、実際は、すでに一人一人がそういう存在なんです。
( https://lucky.t-nakai.work/2019/04/08/word-47/ )
<感謝合掌 令和元年9月25日 頓首再拝>
この世の中は周りの人に喜ばれることしかないんです。 - 伝統
2019/10/08 (Tue) 04:14:07
*「斎藤一人「俺の人生」」(P22~24)より
不安な人って結局ね、神様を信じてないんです。
神様がいるんだってことを信じてない。
でも、この宇宙には歴然たる法則というのがあって、
人の悪口を言いながら幸せになるとか、不安なことを考えながら幸せになるとか、
そんなことはできないようになってるんだよ。
一人さんってね、下心なく人のことを褒めるんです。
それに、お弟子さんが困ってたり、お手伝いが必要だなって人がいたりすると、
私は飛んで行って手伝います。
それで一人さんに何かいいことあるんですかっていうと、
どういうことが起きるかまではわからないけど、必ずいいことがあるんです。
そういうものなんだよ。
ただ、もしごほうびがなかったとしても、
お手伝いをした人から喜ばれるだけでいいことだよね。
周りの人に喜ばれるだけで、私も幸せな気持ちになれるんです。
《この世の中っていうのはね、まずは自分の周囲、
簡単に言えば周り近所の人に喜ばれることしかない。》
私はいつも「自分も人もゆるそうね」って言うんだけど、
人をゆるしましょうって言ったって、
それはあなたの周り近所にいる人に対してだけなんです。
別に、ヒットラーをゆるせとか、そういう話じゃないよ。
だって、ヒットラーはあなたの側にいないでしょ。
あなたの側にいるのは、口うるさいお姑(しゅうとめ)さんだとか、
近所のおじさんくらいだよね(笑)。
<感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>
人生は楽しむためにある(一人息子と死別したNさんの話) - 伝統
2019/10/21 (Mon) 04:29:41
*Web:今日も良いことがあるように(2019/05/15)より
▼Nさんは、大切な息子をスキー事故で亡くしました。
若いときに大恋愛をして、実家との縁まで切って結婚し、
その後、離婚してしまった夫との間に生まれた、ただ一人の子、利夫くんです。
Nさんが一生懸命に働いて育て、幸い、利夫くんは、
豊かな才能に恵まれ、素直な優しい子として育っていきました。
東大を卒業し、ハーバード大学からケンブリッジ大学に移り、
さらに勉強を続けていました。
利夫くんは、どこにいても、
毎日のようにお母さんに手紙を書いてくれていたそうです。
▼ところが、スイスでおこなわれたスキーの大学対抗試合に
出場していた利夫くんは、突然、心臓麻痺を起こして、世を去ってしまったのです。
誰にでも親切で優しかった彼の早すぎる死を、多くの人が悼みました。
無論、Nさんの悼みは誰よりも深いものでした。
▼Nさんは、その後、一年間、息子のために買った大きな家に
一人きりで、誰にも会わずに暮らしました。
生きる意味も希望も、すべて失ってしまったと感じていたのです。
▼一年後、息子の死以来、初めて鏡を見ました。
廃屋のような家に、幽霊のような自分の姿を見て、Nさんは、ハッとしました。
これではダメだと感じます。
そして、利夫がいなくても、自分は利夫の母として、生きていこうと決意します。
▼一週間がかりで家を大掃除し、庭の雑草を抜き、美容院に行って、
荒れた髪をセットしてもらいました。
家に明るさが戻ると、次第に、人が訪ねてくるようになりました。
はじめはNさんを見舞ってくれるのですが、
逆にNさんが訪問客の悩みを聴いてあげることになりました。
訪れる人は、最初みんな同じことを聞きました。
「あんな優秀なお子さんを亡くされて、
よく、こんなに明るくしていらっしゃいますね」
▼Nさんはこう答えるのでした。
「生きるということは、『遊び』ですよ。
一瞬、一瞬を楽しむために、人は生きていると私は思うのです。
私はいつもゲームをしているのです。
いやなことや苦しいこと、つらいことにぶつかるたびに、
それをプラスに変えてしまうゲームをするのです」
「息子のことは、悲しめば、私の命取りになるでしょうが、
息子の死によって、こんなにも大勢の方々と
親しくしていただけるようになったのです。
不幸という形で何かが私に近づいて来る時、
私はそれを幸福に変えてしまうことにしています」
「だから、私は、毎朝、どんなゲームが待ち受けているのだろうかと
楽しくてたまりません。
私はとても自由で、そして楽しいのです。
生きていくことは、いつも楽しい挑戦ですよ。
子供の頃、没頭して遊んだあの気分ですね」
▼このお話は、ずいぶん前に読んだ、
鈴木秀子著『生の幸い、命の煌き』から要約して抜粋した実話です。
最愛の一人息子の死。
一年間の悲しみの日々の後に、
Nさんが悟った境地に、誰もが立てるわけではないと思います。
でも、この物語やNさんの言葉から何かを学ぶことはできるのではないでしょうか。
人生に降りかかる、辛い事や悲しい事を、プラスに変えるゲームをすること。
人生に、毎日毎日、喜びや楽しさを見出すこと。
人生に、喜びはいつも発見できます。
人生に、楽しさはいつもあるのです。
今日も、喜びを見つけましょう。(^.^)
【出典】鈴木秀子著『生の幸い、命の煌き』
(https://lucky.t-nakai.work/2019/05/15/story-68/ )
<感謝合掌 令和元年10月21日 頓首再拝>
人生はゲーム、喜べばポイントゲット - 伝統
2019/11/05 (Tue) 04:12:15
人生はゲーム、喜べばポイントゲット(映画『ライフ・イズ・ビューティフル』)
*Web:今日も良いことがあるように(2019/08/15)より
映画『ライフ・イズ・ビューティフル』、ご存じですか?
どんなに辛い状況でも、ゲームのように人生を楽しむ親子の物語です。
カンヌ映画祭で審査員グランプリ受賞した感動の名作です。
アカデミー賞では、イタリア映画でありながら、
作品賞を含む主要七部門にノミネートされ、見事3部門で受賞!
《幸福な家庭が戦争に巻き込まれる》
1939年、ユダヤ系イタリア人のグイドは、北イタリアの小さな町にやって来ました。
そこで彼は小学校教師のドーラに恋をします。
彼の純粋さとロマンチックな人柄は、彼女の心をとらえ、
困難の末、ふたりはめでたく結ばれます。
そして、息子が誕生し、親子3人の幸福な家庭を築くのでした。
しかし、戦争の色が濃くなり、幸せだった家族は、
ナチス・ドイツの強制収容所行きという過酷な運命に陥ります。
《人生は楽しいゲーム》
絶望と死の恐怖に支配された世界の中で、
グイドは家族を守るため、ある嘘を思いつきます。
幼い息子へ語りかけた言葉です。
「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら、減点。
いい子にしていれば点数をもらえて、千点たまったら勝ち」
「軍服を着た悪者に見つからないようにかくれんぼをするんだ」
「勝ったら本物の戦車に乗っておうちへ帰れるんだ」
そうして、明日をも知れない極限状態でも、
グイドは決して生きることをあきらめず、息子の前では明るくふるまいます。
ガス室にユダヤ人の子供たちが送られていく中で、
息子を自分のベッドに隠し通したり、
命がけで放送室に侵入しマイクで女子収容に送られた妻に愛を伝えたり、
その豊かな想像力と勇気ある行動で明るく懸命に家族を守り抜くのです。
幼い息子は最後までお父さんを信じて、
辛い収容所の中でも、人生というゲームを楽しみます。
そのラストはどうなるのか、ここには書きませんが、感涙必至の名シーンです。
主人公のグイドは常に陽気でいい加減なように見えることがあります。
しかし、妻や息子のことを一番に考えて、
どんな苦境に立たされても、家族の前では不安を見せずに
明るい笑顔でいる優しさをもつ男でした。
どんなに辛い状況でも、愛と勇気のこもった嘘を最後まで貫き通したのです。
人生はゲーム。悲しんでいれば、減点。
喜んでいれば、点数をもらえて、最後にすごいご褒美が待っている。
これは嘘でしょうか。
嘘だと言う人もいるでしょうが、
信じていれば、人生は楽しく充実したものになります。
人生はゲーム。愚痴や文句ばかりなら、減点。
愛のある言葉、笑顔を人にあげられたら、点数がもらえて、楽しいことがいっぱい。
このゲームを楽しむのは、あなたと私です。
・・・・・・・・・・・・・・・・
【出典】映画『ライフ・イズ・ビューティフル』(ロベルト・ベニーニ監督・主演 1997年)
(https://lucky.t-nakai.work/2019/08/15/story-88/ )
・・・
『ライフ・イズ・ビューティフル』感想・ネタバレ~何度観ても感動。
「人生の作り方」を教えてくれる名作~
→ https://hinemoto1231.com/eiga/life-is-beautiful
<感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>
喜び勇め - 伝統
2019/11/17 (Sun) 04:57:25
*「真理」第9巻生活篇(P268)より
~《心を明るく保つこと》
自分の心を神の光の波長に合わせて、神を自分に実現するには
心を明るくすべきである。
心暗きものは、神が内在していても、神を現実化するための
媒介を失ってしまうのである。
キリスト教では「喜び勇め」とイエスが教えているし、
天理教では「陽気ぐらし」と教えている。
黒住教では「陽気を吸う」ことが日常の行事となっている。
「神は喜びたまう、それゆえに私もまた喜ぶのである。
神の喜びがわが喜びと波長が合うがゆえに、神われに来りたまうて、
わが力となり給う」
この思念を毎日神想観中に繰り返し繰り返し念ずることにしなならば、
どんな暗い心でも次第に明るくなって来て、心が喜びに満たされて来、
それによって運命が好転してくる。
もう既に私は心が明るいのにどうして運が悪いのだろうと云うような
人は、表面は明るくとも潜在意識が暗いのであるから、
矢張りこの思念を行なうがよい。
<感謝合掌 令和元年11月17日 頓首再拝>
「ある」ものを数えると喜びがある - 伝統
2019/12/04 (Wed) 03:19:18
*Web:今日も良いことがあるように(2019/05/01)より
不満を口にする人は、たいてい「ない、ない、ない」と言います。
「時間がない」「お金がない」「才能がない」「もう若くない」
「やる気がない」「自分は悪くない」・・・
たぶんこういう人は、自分には「運がない」とも言っているでしょう。
それに対して、「ある」ものを数えようとする人がいます。
今日は、普通の人より「ない」状態にありながら、
「ある」ものを数えた人の話です。
三重苦のへレン・ケラーが「私より不幸な、そして偉大な人」
と語ったと伝えられる人をご存じでしょうか?
日本のへレン・ケラーとも言われた中村久子さんという人です。
久子さんは、明治時代、岐阜の貧しい田舎で生を受け、
3歳のときに、「脱疽」のため両手両足を切断するという
悲運に見舞われました。
7歳の時父を亡くし、10歳の時弟と生別、母の再婚など
苦労の生活が続きました。
食べるものにもこと欠く貧しさのなかで、
いずれ一人で生きていかねばなりません。
そのため、手足のない体で文字を書き、
縫い物、編み物をこなすことを懸命の努力を重ねて修得していきます。
口に針をくわえて、その口で糸を通す。
糸をつけた針で、布を時間をかけて縫いあげていく。
生きていくために、そうせざるを得なかったとはいえ、
想像を絶する努力の積み重ねだったでしょう。
その後、19歳のとき、娘盛りの久子さんは、
見世物小屋に身売りし「だるま娘」として、
人の目にさらされる生活を送ることになります。
そんな生活を送る中、1937年、41歳の時に、
東京日比谷公会堂でヘレンケラーと出会います。
その時、久子さんは、口で作った日本人形を贈りました。
ヘレンケラーは「私より不幸な、そして偉大な人」と言いながら、
久子さんをいつもでも抱きしめたといいます。
久子さんは50歳頃から、
執筆活動・講演活動・各施設の慰問活動を始め、
全国の健常者・身障者に大きな生きる力と光を与えました。
65歳の時、厚生大臣賞を受賞。72歳で亡くなりました。
久子さんは手足のない状態というのは、
泥のような状態だと考えていたそうです。
しかし、晩年にはこう語っています。
「泥は“悪”だとばかり思っていたが、そうではなかった。
泥があるおかげで、自分は蓮のように花開くことができたのだ」
そう、久子さんの人生は、みごとに花開いたのです!
また、久子さんは、晩年の自分の心境を
「ある ある ある」という詩に託して表現しています。
それは自分の自分の日常生活をかえりみて、
ごくささやかなことを喜んでいる詩です。
良人がいる
娘がいる
短いけれど、
なんでもしてくれる手がある
ある ある ある
みんな ある
さわやかな秋の朝(も ある)
このように久子さんは、その一つ一つを喜び、感謝しているのです。
わたしも、見習って自分にあるものを数えてみます。
ある ある ある
今日も、食べるものがある
今日も、着るものがある
今日も、寝るところがある
今日も、一日という時間がある
今日も、この命がある
今日も、地球があって太陽がある
ある、ある、ある
まだ、まだ、ある
今日も、きっと誰かの笑顔に出会えるのである
あるものを数えると、わたしたちも、
なんて恵まれているんだろうという感謝の気持ちがわいてきます。
自分に恵まれているものを1つ1つ見つけよう。
これもある、あれもある、いっぱいある、まだまだある。(^.^)
【出典】中村久子著『こころの手足―中村久子自伝』(春秋社)
(https://lucky.t-nakai.work/2019/05/01/thinking-56/ )
・・・
<参照Web>
Web:ねずさんのひとりごと (2013/06/15)
ヘレンケラーと中村久子
http://nezu3344.com/blog-entry-1921.html
<感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>
《自分の魂の喜び》 - 伝統
2019/12/09 (Mon) 04:09:24
*「光明法語」(12月9日)より
真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。
自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。
「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いであるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。
<感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>
監房で天国(喜びの世界)を見出した体験 - 伝統
2019/12/22 (Sun) 04:56:46
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より
某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似ているので
すこぶる興味がある話である。
「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
突然起ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。
私はこの福岡市のものでありまして、
この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、
一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
幸いにして私は中位で当選しました。
私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、
雑誌の名前を見たこともなかったので、実はあまり関心を持っていなかったのであります。
それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも関心は持っていなかったのであります。
ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。
実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、
前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたのでありまして、
実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。
私は特に皆様に申し上げたいことは私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、
そこに入っておりますと、何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。
どうも魂の慰めがありません。
そこで突然思い出したのが前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。
だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを見つけ出すには
どうしたらいいかという事の谷口先生のお話が載っておりました。
それは
『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
こういうようなことが書いてありました。
私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、ただ自由が束縛されている、
魂の糧に飢えている。
そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』ということを
知らされたのであります。
いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
その他の宗教の本なんか読んだのですが、すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ――
私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、今この獄中生活を、
もっと歓びをもって生きられる道はないものかと考えたものであります。
今時間がありませんから、早く申し上げますが、
何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。
あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。
それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。
そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
ともかく深切でないのです。
その雑役の囚人がお茶を持って来ます。それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、
貴様こぼすんじゃないか、と言って興奮して怒るんです。
みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、朝から非常に気持ちが悪いんです。
いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。
1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して試みに
『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。
お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、
『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、
『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、
『生命の實相』のは『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。
今まで私は増上慢といいますか、
ともかく自分では市会議員だなんて傲慢な気持ちがあったのでしょう。
その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだと気がついて、
お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、
『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』
と言って声をかけます。
私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
二日三日四日となると自然とちがってきました。
今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。
あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、
そういう時に向こうの方から方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで
余った水をわざわざ持って来て『Rさん要りませんか』と
深切に持って来てくれるようになりました。
始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』こういうのです。
『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』とこう言う。
そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』こんな返事をする。
監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。
平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。
私は初めて生長の家の教えというものが
いかに偉大なものであるかということをはっきり認識したのであります。
『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
本当に分ってきたように思います。
この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。
したがってわたしは未決監に入ったということが、私の人生、将来にとって
どのくらいよいことを教えてくれたかしれないと感謝しているのです。
わたしの審判はこれから公判をやるのですが、
判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。
わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。
実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして来(こ)ようじゃないか
というので、この四日から来ておりますが、ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、
その後の事情を見るかたがた上京して参ったのでありますが、
あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな奇跡に
逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
本日は時間がありませんから申し述べませんが、
ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、非常に朗らかであって、
今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に参上したのですが、
あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、皆さんにこんなつまらない、
恥ずかしいことを申し上げるという気持ちになったことで、
いかに私が救われて喜んでいるかということを御想像願いたいと思います。
私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。
電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、
わたしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を受けることと
思います。
日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」
道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。
そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。
<感謝合掌 令和元年12月22日 頓首再拝>
天国の喜び - 伝統
2019/12/30 (Mon) 04:17:55
*「光明道中記」(12月30日《讃える喜びの日》)より
【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】
他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。
人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。
天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。
人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。
ニセ者の我を征服する喜びである。
真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。
創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。
すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。
奪い合いのない幸福でなければならない。
5つのパンを5千人に分っても
尚(なお)籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。
<感謝合掌 令和元年12月30日 頓首再拝>
【喜び上手な人には運がやってくる】 - 伝統
2020/01/20 (Mon) 02:55:12
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.12.06)より
(天才コ〇ーライター、ひすいこたろう氏の心に響く言葉より…)
*〇:ピ
まわりの人から愛されて、楽しいことが
次々に起こる方法をお伝えしましょう。
これも見方道・家元・小林正観さんから教わったことなんですけどね。
まず、あなたのまわりで、
「この人が困っていたら、私はなんとしてでも助ける」という
友人を思い浮かべてください。
どうして、あなたはその友人を思い浮かべたのでしょうか?
その人のどんなところが、あなたを助けたくさせているんだと思いますか?
それがわかると、楽しいことが次々に起こる秘訣がわかります。
あなたが思い浮かべた友人は、ちょっとしたことでも、
とても喜んでくれる人ではありませんでしたか?
動物にはない人間だけの本能。
それは、「喜ばれるとうれしい」と感じることだそうです。
だから、喜んでくれる人は、愛されるのです。
喜ばれると、人はやる気になりますから。
ところで虹をよく見る人って、どういう人かわかりますか?
虹が大好きな人なんです。
茶柱が立つ人って、どんな人かわかりますか?
常日ごろ、茶柱が立つとうれしいって、強く思っている人なんです。
もし神様がいるとしたら、やっぱり、ちぃちゃなしあわせや、
ささいなことでも、喜んでくれる人のために働こうか、
と思うのではないでしょうか?
なにをしても、ブスッとしてる人。
ちょっとしたことでも、喜んでくれる人。
あなたはどちらを応援したくなりますか?
<『3秒でハッピーになる名言セラピー』ディスカヴァー>
・・・
たとえば、自分が読んで感動した本や、
見て感激した映画を誰かにすすめたとき、
「ああ、そうですか」と何も反応のないような人がいる。
反対に、すぐにメールや携帯で、
「あの本、メチャクチャよかった!ありがとう」と言う人もいる。
次に、どちらの人に情報を伝えたくなるのかは、言うまでもない。
こうやって、運やチャンスが、どんどん来る人と来ない人ができてしまう。
だから、喜び上手な人には運がやってくる。
たとえば、無料の講演会を開催したようなときも同じだ。
この人はきっと喜ばないだろうな、という人にはだんだんと知らせなくなる。
「箸(はし)が転んでもおかしい年頃」という言葉がある。
主に若い女性に使う言葉だが、
これは実は、男も女も、若い人も年配者にも必要な感性だ。
たわいもないことに「笑う」「おもしろがる」「喜ぶ」。
人は、喜んでくれる人には、もっと喜ぶようなことをしようと思う。
喜び上手な人でありたい。
<感謝合掌 令和2年1月20日 頓首再拝>
繁栄の気わが家に満つわが家は悦びの家 - 伝統
2020/01/30 (Thu) 03:49:06
*『生長の家』(昭和38年1月号)より
この世界は『唯心所現』の世界だと釈尊は教えられたのである。
心で想う通りに現れる世界なのである。
過去の年において、若し自分の家が繁栄しなかったり、
希望することが成就しなかったならば、それは、自分自身の心のうちに
《繁栄の気》が充分満ちていなかったからだといえるのである。
この世界は《心の波動》が形にあらわれた世界なのです。
それは映画が《光の波動》が銀幕に形となってあらわれ、
放送電波がテレビのブラウン管に形となってあらわれるのと同じようなものです。
先ず《心の世界》を浄めなければ、
現実世界に浄まった状態は現れて来ないのであります。
《心の世界》が先であるのに、《心の世界》をあとにして
《現実世界》の希望実現を先に努力するならば、動力である馬は、
宝の車の前につけなければならないのに、宝の車を前にして、
それを動かす馬を車の後につけるようなものです。
心が一切の形あるものに先行する動力であることを忘れてはなりません。
人には5つの根本的願いがあるのです。それは、
(1)みとめられたい
(2)ほめられたい
(3)愛されたい
(4)自由になりたい
(5)人のお役にたちたい
この5つの根本的願いが叶えられる人間は本当に生き甲斐を感じ、
『生きていてよかった』という自覚が涌いてまいります。
仕事をするのは決して、自分の肉体または能力を売買するのだと考えてはなりません。
それは『自分自身』を単なる『商品』にまで堕落させ、
自己軽蔑の第一歩に入ることになります。
自己を売買されたる商品と考えることは、自分を一種の『奴隷』と考えることであります。
奴隷に《生き甲斐》の生ずる訳もないのであります。
諸君は高き理想と使命感とをもち、
『われは、この仕事を神よりわが使命として与えられたのである。
われは神より選ばれたる天使である』との自覚と、仕事への尊敬感をもつとき、
本当に立派な仕事ができるのであります。
神は各人に対してその人でなければならない
特殊の『希望』や『理想』を与えていられるのである。
諸君は自分の懐く希望に対して、もっと自信をもつべきである。
吾々の心の中に、『本来無いもの』が浮かび上がってくることはないのである。
それは既に『現象以前の世界』に在るものを心が直感して、
それを思い浮かべ希望することになるのである。
それは恰も、隣室にあるものを自分の部屋に持って来るほどの容易さである。
『無いもの』を造りだすのならむつかしいかもしれぬが、
『在るもの』を持って来るのだから極めて容易である。
併し『無い』と思っていれば持って来ることはできないから、
先ず『それは既にある』と知ることが大切である。
併し、『知る』だけでは、隣室のものをこの部屋に移すことはできない。
《希望の世界》にあるものを《現象の世界》に移すためには、
心を明るくもって、その実現を堅く信じ、希望実現の努力を着々と
実践することが不可欠の行事である。
https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18440704.html (消滅)
<感謝合掌 令和2年1月30日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2020/02/04 (Tue) 04:49:55
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 令和2年2月4日 頓首再拝>
《希望は悦びの源泉である》 - 伝統
2020/02/15 (Sat) 04:31:17
*「光明法語」(2月15日)より
希望こそは人生の悦びの源泉である。
希望のあるものは老いないのである。
何故なら、希望は創造的感情であるからである。
希望は未来を創造する。
真に未来を創造するものは希望である。
希望のないものには百万円の富籤が当たっても、たいして有難くない。
死にぎわに百万円貰っても有難くないのは希望がないからである。
ガソリンがないのに自動車を貰っても別に有難くない。
フィルムがないのに写真機を貰っても別に有難くない。
希望がないからである。
尤もそれを売って何か他のものを買おうと思う希望があるなら有難い。
<感謝合掌 令和2年2月15日 頓首再拝>
【ただ、喜ばれる存在になること】 - 伝統
2020/03/05 (Thu) 03:32:50
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.01.05)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
《「思い」を持つことで悩んだり苦しんだりしたとき、
二つの方法が見えてくる。
一つ目は、努力し、頑張り、必死になって、
なんとしでも自分の思いを実現する、という方法。
二つ目は、「思い」をはじめから持たない、という方法。》
人間の悩み、苦しみ、煩悩(ぼんのう)というものは、
自分の「思い」を「実現させたい」と執着するところから
始まっているように思います。
その「思い」が簡単に実現するようなものであれば問題はありませんが、
それが高いところ、遠いところにあればあるほど、
それがよい目標であり、望ましいことであると人は考えがちです。
しかし、「それをなんとか実現させたい」と思うから、
人は苦しみ、それができなくて自己嫌悪になったり、落ちこんだりします。
それでも「目標を追う」というのは一つの解決方法ですが、
もう一つの解決方法は「思い」自体を持たないこと。
私たちは、教育の中で、目標を持つこと、そこに向かって努力し、
邁進(まいしん)することが人間の価値であり、
そうしないやつはクズだと言われてきました。
そうではない、と私は思います。
人間がこの世に生を受けた目的は、
自分の努力目標に向かってそれを達成することでなく、
ただ「喜ばれる存在になること」。
だとしたら、「思い」に引きずられるのではなく、
ただ「人から喜ばれる」ことに徹するだけでもいいのではありませんか。
<『心を軽くする言葉』イースト・プレス>
・・・
小林正観さんはよく、「頼まれごとの人生」という話をする。
自分から、「ああしたい」、「こうしたい」と夢や目標を持つのではなく、
人から頼まれたことを淡々とやっていく、という人生のことだ。
人から頼まれたことを嫌な顔をしないでニコニコしながらやれば、
「頼んだ人」は喜んでくれる。
すると、あの人は「頼みやすい人」という評判がなんとなく伝わり、
「頼まれごと」がどんどん増えてくる。
しかし、反対に、頼まれたときに嫌な顔をしたり、
一言皮肉や嫌みを言ったりすると、その人のところには
「頼まれごと」はやってこなくなる。
あの人は「頼みにくい人」という評判がなんとなく伝わるからだ。
「頼みやすい人」は、いつもニコニコして機嫌がよくて、頼みやすい顔をしている。
「頼みにくい人」は、いつも仏頂面で、不機嫌そうで、頼みにくい顔をしている。
「思いを持たない」で、「人から喜ばれる」ことだけをしている人は、
人相がよくなり、人が周りに集まり、人から好かれ、愛される雰囲気が
どんどん高まってくる。
「ただ、喜ばれる存在」を目指したい。
<感謝合掌 令和2年3月5日 頓首再拝>
自己に宿り給う神を悦ばすこと - 伝統
2020/03/20 (Fri) 02:50:46
*「神と偕に生きる真理365章」(P291~292)
人間は土を耕(たが)やし植物に肥料を与え水を灌(そそ)ぐ。
けれども、植物が本当に生する力は植物の内部にある「 生命力 」であって、
「 生命力 」がなくなってしまった植物にどんな肥料をやっても、
水をかけても生長しないのである。
その「 生命力 」が「 神 」であるのである。
自己の内部に生命力をいつまでも若々しく元気に保存して置こうと思ったならば、
自分の体から「生命力」即ち「神」が去ってしまわないようにしなければならない。
そのためには私たちは日常生活に、
その「 神 」を悦ばすような愛行と善行とをしなければならないのである。
・・・
初出は、『 生長の家 』(昭和40年3月28日の法語)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/mode=res&log=121
<感謝合掌 令和2年3月20日 頓首再拝>
真の悦びの源泉はただ霊より来る - 伝統
2020/04/04 (Sat) 02:03:58
*『静思集』より
~『神国実現への手紙』 九月の手紙
ついに吾々は悟らねばならぬ時に到達するのでございます。
まことの幸福は物質的環境の好転でもなければ、肉体の健康でもない。
それらはただ当り前のことが当り前にあるだけであって、
積極的な歓喜を与えるのは魂の喜びであって、
物質や肉体の満足のことではなかったのでございます。
真の悦びの源泉はただ霊より来るのでございます。
そして霊の悦びは愛より来るのでございます。
愛せよ、愛の悦びは捧げる悦びでございます。
御利益信心が行き詰るのは捧げる代りに奪い取る悦びであったからでございます。
奪いとる悦びは浅い、そして捧げる悦びは深いのでございます。
奪いとる悦びは地に貯える宝でございます。
どんなに貯蔵してもそれはいつか捨てねばならないのでございます。
キリストはこれを蠢魚食い銹び腐る富だと仰せられました。
そんな蠢魚食い銹び腐るものを追求致しますまい。
尤も自然に集ってくるのを避けるには及ばないのでございます。
天の倉に吾らは宝を貯えることに致したいのでございます。
憐れなる者に対する施し、小さなその日その日の隠れたる行事
―― すべて眼だたぬ善事こそ尊いのでございます。
これこそ天の倉に貯える富でございます。
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p9.html
08/31/13
<感謝合掌 令和2年4月4日 頓首再拝>
《後味のよい歓びを求めましょう》 - 伝統
2020/04/20 (Mon) 05:05:22
*「真理」第9巻生活篇第3章(P77)より
歓喜は生命(せいめい)そのものが本来あるべき姿にスクスクと伸びたときに
感じられるものであって、本来霊的なものであります。
それは清浄なものであり、後味(あとあじ)のよいものであり、
少しも後(うしろ)暗いところのないものであります。
快楽は本来肉体的なものであり、どこか不浄な感じがし、
後(うしろ)暗い感じがるものであります。
そしてそれは永続性を欠いております。
たとえば味覚の楽しみ、接触の快感、所有欲の満足 ――
一時(じ)は喜びでありますが、瘡蓋(かさぶた)をかけばかくほど、
あとは更にかゆくなるように、咽喉(のど)渇(かわ)きを塩水(しおみず)
をのむことによってうるほすときは、後(のち)に更に渇きの感じが
ひどくなるように、その楽しみを完(まっと)うしようとすればするほど
渇きの苦しみはひどくなるものであります。
では、永遠(えいえん)にかわらぬ霊的な歓びを求めようではありませんか。
<感謝合掌 令和2年4月20日 頓首再拝>
内部生命の悦びを感ずる - 伝統
2020/05/06 (Wed) 04:58:42
*『女性の幸福365章』(P58)より抜粋.
普遍の大生命があなたに宿って「あなた」となっているのである。
「あなた」は「個」にして「全」であるから、
本当はあなたは別に「他」より何ものをも求めることは要らない自全的存在である。
あなたは「個」の如くにして「全」であり、
「全」のうちには一切のものが宿っているから、
この真理を自覚するならば、他より何ものをも要求する必要はなくなるのである。
「全」は一切を其の中にもち、無限を包有するがゆえに
あなたは「与える」ことによってのみ内部生命の悦びを感ずるのである。
そして与えることによってのみ「無限」の循環が可能となり
生活の生き甲斐が感じられて来るのである。
<感謝合掌 令和2年5月6日 頓首再拝>
生かされている悦びを語ることは、悦びを増幅することになる - 伝統
2020/06/05 (Fri) 04:14:44
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より
生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。
天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。
人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、
言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。
黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。
<感謝合掌 令和2年6月5日 頓首再拝>
創造(つく)り出すことが喜び - 伝統
2020/06/09 (Tue) 04:48:54
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より
人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。
体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。
自分の持物が少ないといって嘆くことはない。
釈迦はあたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。
ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。
生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。
生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。
人間が神の子であるのは事実である
―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で「神の子」を生み出そうとするのである。
「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。
<感謝合掌 令和元年6月9日 頓首再拝>
神である実相を見て悦び、感謝する - 伝統
2020/06/11 (Thu) 03:55:34
*『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月11日)より
~神は常に吾がうちにありて働き給う
今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。
神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。
今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。
何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。
<感謝合掌 令和2年6月11日 頓首再拝>
《本当の魂の悦びは祈りから得られる》 - 伝統
2020/06/27 (Sat) 04:53:03
*「真理」第9巻生活篇第14章(P394~395)より
肉体や物質から得られる悦楽は永続的ななものではない。
それは或る程度を超えると退屈になり、
それを更に超えると苦痛に変ずる。
本当に永続的な悦楽は 魂 の悦びである。
魂 の悦びは自己放棄から得られ、
隣人を救(たす)ける愛行によって得られる。
一人(ひとり)の憐れなる人を救った体験は、
思い出すごとにいつでも、魂 の悦びとして
蘇生(よみがえ)って来るのである。
また 魂 の本当の悦びは神想観と祈りとによって得られる。
それは「仮りの自我」に接触する道である。
私たちは暇ある毎に祈らなければならないし、
一日一回乃至二回は一定の時間に神想観しなければならない。
「仮りの自我」が「本当の自我」に対面する瞬間は、
恋人同志が互いに接触する以上に、
魂 と 魂 とが接触する道なのである。
<感謝合掌 令和2年6月27日 頓首再拝>
すべての経験は、「神」を掘り出す喜びの作業 - 伝統
2020/07/03 (Fri) 04:54:08
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月3日)より
われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。
どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、
われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。
深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。
どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。
<感謝合掌 令和2年7月3日 頓首再拝>
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である - 伝統
2020/07/31 (Fri) 04:34:50
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月31日)より
人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。
人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。
他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。
<感謝合掌 令和2年7月31日 頓首再拝>
万物は神の喜びの表現である - 伝統
2020/08/15 (Sat) 04:56:17
*『生長の家』(昭和25年6月28日の法語)より
喜ぶことが、神の子の特権であるのである。
喜べ喜べ 喜ばないものは、伸びることができないのである。
神はこの世界を苦しむために造ったのではなく、
喜ぶために造ったのである。
日光の輝き、美しき空の色、妙なる鳥の囀(さえず)り、色とりどりの美しき花、
蝶は舞う、鳥は囀る、
すべての生きものは
喜びに舞踏(ぶとう)しているのである。
それだのに万物の霊長である人間が喜ばないで
一人憂鬱(ゆううつ)にかがみこんでいるとは、
又 万物の霊長である人間が恐しい闘争を心に描いているとは。
喜びと愛すること 人間のなすべきことは この二つである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2 )
<感謝合掌 令和2年8月15日 頓首再拝>
不幸があっても喜べ - 伝統
2020/08/27 (Thu) 04:56:30
*『生長の家』(昭和25年6月29日の法語)より
~厳寒に咲く花に学べ
予期しない不幸がやって来た時にも喜べ。
不幸があるから喜べというのではないのである。
不幸があっても喜ぶのである。
それは 過去のあやまれる想念の蓄積が
自壊するために現われた所の影にすぎないのである。
自壊した次には
新しき善きものが生まれて来るのである。
厳寒に咲く花は
最初は美しくない萼(がく)や苞(ほう)につつまれている所の
蕾(つぼみ)にすぎないのである。
蕾の萼が破れ 苞が破れて、
そこから美しき花が咲くのである。
くだけるのは
善きものが現われて来んがために くだけるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
<感謝合掌 令和2年8月27日 頓首再拝>
大生命の歓喜 - 伝統
2020/09/09 (Wed) 02:58:03
*「光明法語」(9月9日)より
大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。
それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に喜びを感ずるのと同様である。
大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを表現せんが為に造った。
<感謝合掌 令和2年9月9日 頓首再拝>
《たましいが悦びに満たされたら麻酔剤は要らない》 - 伝統
2020/09/16 (Wed) 04:12:38
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P171~172)より
人間は本来、アルコール飲料やモヒ剤やニコチン含有の煙草などを
必要としないのである。
これらを必要とするのは、心のうちに、愛されたい、心が平和でいたい、
喜びに満たされたい、賞められたい、認められたい、いたわられたいなどの
願いがあるのに、それが叶えられないから、自分の心を麻酔せしめようとして、
そのような麻酔剤や覚醒剤をもとめるのである。
覚醒剤も一種の麻酔剤であって、疲労や倦怠を感ずる脳中枢を麻酔させるから、
一時、心がハッキリして愉快に感ずるのである。
家庭の不和は最も多くアルコール飲料を求めしめる原因になるものである。
霊魂(たましい)が悦びに満たされているときには、霊は伸び伸びとしているから、
肉体の欲望の奴隷にはならないものである。
人間が肉体的快楽を異常に求めるようになった時、
その人は霊魂(たましい)が愛に飢え渇いているのである。
<感謝合掌 令和2年9月16日 頓首再拝>
すべては、神の生命の歓喜の発露である - 伝統
2020/09/18 (Fri) 04:50:56
*「光明法語」(9月18日《神の生命の歓喜》)より
神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。
美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、
梅花の孤峭(こしょう)なる・・・
数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、「神の生命」そのものの
発露であり表現であるのは「人間」である。
人間が喜べば神が喜ぶのである。
<感謝合掌 令和2年9月18日 頓首再拝>
喜びは、神の生命の発露 - 伝統
2020/09/19 (Sat) 04:29:33
*「光明法語」(9月19日《歓喜の創造》)より
歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。
喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。
イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と歓喜して世界を創造したのである。
イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と歓喜して世界を創造したのである。
喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。
<感謝合掌 令和2年9月19日 頓首再拝>
本当の自分を喜ばす - 伝統
2020/09/30 (Wed) 03:51:32
*『 生長の家 』(昭和25年7月3日の法語)より
~《五官の心を神にまで統制せよ》
本当の喜びは 五官の心を徹底的に自己統制して、
自分の生活の凡ゆる瞬間、如何なる小さき行動も、
如何なる小さき心の想いも
神にささげてしまった時にのみ得られるのである。
人生とは 「 ニセモノの自分 」 が 「 本物の自分 」 ( 神 ) に
徐々にささげて行く所の練習過程である。
早くささげきったもののみが本当の幸福に入り
永遠不滅の魂の喜びを味わうことができるのである。
番犬である五官の喜びを
「 自分 」 が 喜んでいるのだと思ってはならない。
肉体が喜ぶのは 番犬が喜んでいるのであって
「 本当の自分 」 は隠されているのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和2年9月30日 頓首再拝>
魂の喜びは、生命の真理を自覚することから得られる - 伝統
2020/10/17 (Sat) 04:41:36
*『 生長の家 』(昭和25年7月9日の法語)より
~《生命の真理を自覚する》
浮世の苦しみと悩みは、
結局人間が世俗的な名声や、地位や、富や、五官的な喜びを
追い求めた結果、生ずるのである。
かくの如き五官的な世俗的な喜びは
本来実相の喜びでないから、
あるが如く見えても存在しないのである。
だから かくの如きものを求めて
永遠の喜びを追求するのは
焔(ほのお)をのんで渇(かわ)きを癒(い)やさんとせるが
如きものである。
魂の喜びは焔をのむことによっては得られないのである。
キリストが 「 永遠にかわかぬ水 」 といった所の
生命の真理を自覚することである。
生命の真理を自覚することによってのみ
人間は魂の渇きは 永遠に癒されるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和2年10月17日 頓首再拝>
【心中常に喜神を含む】 - 伝統
2020/10/22 (Thu) 04:37:51
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020年10月17日)より
(藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)
楽其生 保其寿。(忠経より)
その生を楽しみその寿を保つ
…新井正明(住友生命保険・元社長・会長)氏は
この言葉を好まれ、よく口にされた。
その生を楽しむとは、自分の生業(なりわい)を楽しむということ。
仕事を楽しむことができれば、
自ずとその寿を保って長生きができる。
新井氏は言葉の意味をそう説明されていた。
事実、氏はこの言葉通りの人生を生きられた。
26歳の時、ノモンハン事変で負傷、右足切断、隻脚(せっきゃく)の身となられた。
「人より遅く来て早く帰ってよろしい」という
上司の言葉を有難く受け止めながらも、
人より早く出社し、人よりも遅くまで働き、
社長、会長としてすぐれたリーダーシップを発揮、
社を業界上位に躍進させ、92歳までその寿を保たれた。
その新井氏が生涯の心訓とされたのが
安岡正篤師の「健康の三原則」である。
曰く、
一、心中常に喜神を含む
どんなことにあっても、心の奥深いところにいつも喜ぶ心を持つ
二、心中絶えず感謝の念を含む
三、常に陰徳を志す
「その生を楽しみその寿を保つ」ために
忘れてはならない三原則といえよう。
この六文字について、新井氏には思い出がある。
氏が静岡支社長の時期、安岡師に二人の弟子がいた。
一人は農業をしている人。
日本は敗戦で混乱状態になったが、
こういう時だからこそ安岡師の教えを広めなければと、
自分も学び、人にも熱心に説いて回った。
もう一人は金物屋さん。
師の教えを学ぶことは熱心だが、
人に説くようなことはせず、一所懸命家業に打ち込んでいた。
これに対し、「商売ばかりやっていて、けしからんと」と
農業の人は腹を立てた。
人に師の教えを説くべきだ、というわけである。
安岡師は言った。
「金物屋さんはやはり金物屋さんとして
立派に商売をやらなければならない。
だから、金物屋の主人として
一所懸命にやるのは正しいことだ。
その上で道を求めるということが大切だ」
活学を説き続けた人の明快な言である。
古人のあとを求めず古人の求めたるところを求める
…松尾芭蕉の愛した南山大師の言葉である。
私たちもまた先人の求めたるところを求めて
人生を生きたいものである。
ドイツの大文豪ゲーテもまた、人生を楽しみ、82歳の寿を保った人である。
そのゲーテが「処世のおきて」と題し、
「気持ちのよい生活を作ろうと思うなら」
という前置きをつけて遺した言葉を記す。
済んだことをくよくよせぬこと
滅多なことに腹を立てぬこと
いつも現在を楽しむこと
とりわけ人を憎まぬこと
未来を神にまかせること
洋の東西を超えて、
人生の達人の言葉はシンプルで、深い。
<『小さな修養論』致知出版社 https://amzn.to/2FxkC1l >
・・・
安岡正篤師は「喜神を含む」について、こう解説している。
『喜神の神とは神社仏閣に祀ってある神ではなく、
精神の神(しん)、つまり心の最も奥深い部分を指す言葉です。
従って喜神を含むとは、どういう立場に立たされようと、
それに心を乱されることなく、心の奥深い部分に
いつも喜びの気持ちを抱いてことに当たれば、
どんな運勢でも開けないものはなく、
上昇気流に乗ったように開けていくという意味です。
これこそは人生の極意であり、
特に人の上に立つ者が身につけておかなければならない姿勢だと思います」
喜神を含んでものごとが実行できるためには、
どんなことであろうとも、甘んじて受けることが大切だ。
甘んじて受けることができるためには、自分の人生は天が導いている、
従ってどういうことが起きようとも、
それはよいことの兆しであって
悪いことは何もないという強い確信が必要である。
天へのこの深い信頼があるとき、
私たちは目先のことに動揺することなく、
一見トラブルにしか見えないことも甘んじて受け入れ、
誠心誠意改善に努力することができる。
人を非難することなく、
清々(すがすが)しい気持ちで、喜々として取り組める。』
(下坐に生きる /致知出版社)
「喜べば、喜びごとが喜んで、喜び連れて、喜びに来る」
という言葉がある。
「喜ぶ」という言葉を
「悲しむ」「憎しむ」「楽しむ」「怒る」に
置き換えることもできる。
「悲しめば、悲しみごとが悲しんで、
悲しみ連れて、悲しみに来る」ということだ。
「心中常に喜神を含む」という生き方を目指したい。
<感謝合掌 令和2年10月22日 頓首再拝>
人生は、喜びを発見し、どれだけ喜びをもたらしたかにある - 伝統
2020/11/28 (Sat) 04:35:05
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年11月18日)より
《死者の魂が神に聞かれる二つの質問
~人生を豊かに生きるスピリチュアルな指標》
古代エジプトには、死者の魂が、神に二つの質問をされ、
その答えによって行き先(あの世)が分かれると言われます。
その二つの質問とは、
「人生においてどれだけ喜びを発見したか?」そして
「どれだけ世の中に喜びをもたらしたか?」だと言われています。
これは映画『最高の人生の見つけ方』で取り上げていた話しですが、
おそらくオシリスの42状の審判をもとにした話しと思われます。
歴史的には正確なものではありませんが、
重要な真実を述べていると思います。
人は足らざるところに意識を向けてしまうため、
満たされない思いに焦がれてしまいます。
積極的に意識して喜びを発見していくことで、人は豊かな人生を得られます。
物や金銭が豊富だから人生は豊かなのではなく、
多くの喜びを発見し作り出してこそ豊かな人生を歩めます。
世界中の贅沢な品々を食台に乗せて、高価な食器で、
広いテーブルで食べていても、周りは欲で集まったものたちだったり、
喜びを共にする者のいない孤独な食事ならば、
豊かさも喜びも味わえないでしょう。
逆に食事は手短なお店で買えるのもであっても、
愛するものと綺麗な砂浜や、見晴らしの良い高台にいって食べるのは、
喜びと豊かさを味あわせてくれます。
そうした人生の喜びを発見し、演出することで豊かさは増していきます。
また、出会った人々に喜んでもらえることをし、
世の中に喜びを還元するならば、ますます豊かな人生となっていくでしょう。
我欲にとらわれて、人に金銭を取られないようにと恐々としている人は、
やはり豊かではなくて、貧しい精神に生きているといえます。
周りの人に、すこしでも喜んでもらいたい、
喜びのおすそ分けがしたいと思い、人の喜びを嬉しく感じるなら、
持っている物質は少なくとも、豊かな人生を生きていけます。
どれだけ喜びを発見していけたかと、
どれだけ喜びをもたらしたか、
この二つの指標に注意してみられるとよいでしょう。
(https://www.spacebrothers.jp/2017/07/blog-post_24.html)
<感謝合掌 令和2年11月28日 頓首再拝>
《自分の魂の喜び》 - 伝統
2020/12/09 (Wed) 04:49:50
*「光明法語」(12月9日)より)
真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。
自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。
「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。
<感謝合掌 令和2年12月9日 頓首再拝>
【人に喜ばれる存在になること】 - 伝統
2020/12/17 (Thu) 04:33:45
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.12.16)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
人生の目的は、人生を楽しむこと。
では、人生を楽しむとはどういう生き方をすることでしょうか。
どこかのテーマパークや遊園地に出かけて、
ジェットコースターやお化け屋敷でキャーキャー騒いだり、
おいしい料理をとお酒を味わったりすることとは、根元的に違います。
真の人生の楽しみ方というのは、
「自分の存在が喜ばれているという喜びを、実感しながら生きていく」
ということ。
これが一番楽しい人生の過ごし方です。まわりの人に
「あなたがこの世にいてくれて嬉しい」
と言ってもらえる。
それが喜びであり、楽しみであり、幸せだと感じる日々を送ることです。
ものすごくほしい物を手に入れた。
それも楽しい。
幸せなことかもしれませんが、喜びの質も大きさも違う。
「人に喜ばれる存在」になった喜びは、人間にとって最大の喜びなのです。
人の上に抜きん出て優れた人になるのではなく、
どんなポジションでも、どんな側からでもいいから、
自分の持っている特徴、特性を生かして、社会に参加する。
たとえば、家をつくるという大工さんの仕事は、社会で喜ばれています。
壁塗りをする左官屋さんも、
素人には到底真似できない技で、丈夫な壁に仕上げてくれます。
職人の世界だけではありません。
新聞や牛乳を配達する人も喜ばれています。
電車の運転士や旅客機のパイロットも喜ばれています。
プロスポーツ選手のように人に感動をもたらして喜ばれている人もいます。
お笑い芸人のように人を笑わせて喜ばれている人もいます。
重要なのは、本人が「喜ばれている」と実感して生きているかどうかです。
<『ごえんの法則』大和書房
https://amzn.to/2Wd5CKZ >
・・・
人生を楽しむとは、「人に喜ばれること」。
人に喜ばれることが、人にとって一番楽しいことだからだ。
喜ばれる人は、いつも明るく、機嫌がよくて、ニコニコしていて、感謝が多い。
そして、頼まれたことを、嫌な顔をせず「ハイ」と引き受けてくれる。
そして、「愛語」がある。
反対に、嫌われる人は、冷たい言葉や皮肉を言ったり、不機嫌で、愚痴や文句が多い。
感謝することなどない。
そして、頼まれごとを、言い訳したり、嫌な顔して断る。
人生の目的とは、人に喜ばれる存在になること。
あなたがこの世にいてくれて嬉しい、と言われる人でありたい。
<感謝合掌 令和2年12月17日 頓首再拝>
人を喜ばせることが結局自分の喜びである - 伝統
2020/12/22 (Tue) 04:52:16
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より
某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めて
よく似ているのですこぶる興味がある話である。
「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
突然起ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。
私はこの福岡市のものでありまして、この生長の家に由縁(ゆかり)を
もったことは簡単に申しますと、一昨年の5月に市会議員の選挙が
ありました時に立候補しまして、私の先生をしていた方が
私の応援弁士となって働いてくださいました。
幸いにして私は中位で当選しました。
私はその当時生長の家の誌友になれということを
その先生から言われたのですが、雑誌の名前を見たこともなかったので、
実はあまり関心を持っていなかったのであります。
それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも
関心は持っていなかったのであります。
ちょうど6月26日だったと思いますが、
突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。
実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかった
のでありまして、前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが
全部ぶち込まれたのでありまして、実は私はただ今保釈中で
お礼に上がったのであります。
私は特に皆様に申し上げたいことは私は7月の末に
未決にほうり込まれたのですが、そこに入っておりますと、
何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。
どうも魂の慰めがありません。
そこで突然思い出したのが前々から私の先生に進められていた
『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。
だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさ
というものを見つけ出すにはどうしたらいいかという事の
谷口先生のお話が載っておりました。
それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
こういうようなことが書いてありました。
私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、
ただ自由が束縛されている、魂の糧に飢えている。
そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
ということを知らされたのであります。
いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
その他の宗教の本なんか読んだのですが、
すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ――
私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものか
と考えたものであります。
今時間がありませんから、早く申し上げますが、
何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうか
と思いました。
あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。
それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。
そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも
深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
ともかく深切でないのです。
その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、
貴様こぼすんじゃないか、と言って興奮して怒るんです。
みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、
朝から非常に気持ちが悪いんです。
いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。
1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、
その囚人に対して試みに『どうもありがとう』と
言うてお礼を言ってみたのです。
お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、『なんだこの野郎』
といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、
『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、
『生命の實相』のは『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と
書いてある。
今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
傲慢な気持ちがあったのでしょう。
その傲慢な《こちら》の気が相手に映って
『なんだこの野郎』というのだと気がついて、
お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、
『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。
私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
二日三日四日となると自然とちがってきました。
今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。
あそこでは水が実に欲しい所ですが、
ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、そういう時に
向こうの方から方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで
余った水をわざわざ持って来て
『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。
始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』
こういうのです。
『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』とこう言う。
そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』
こんな返事をする。
監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。
平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかった
ああいう人たちから慰めの言葉をかけられる
―― この嬉しさというものは非常なものです。
私は初めて生長の家の教えというものがいかに偉大なものであるか
ということをはっきり認識したのであります。
『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
本当に分ってきたように思います。
この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。
したがってわたしは未決監に入ったということが、
私の人生、将来にとってどのくらいよいことを教えてくれたかしれない
と感謝しているのです。
わたしの審判はこれから公判をやるのですが、
判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。
わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。
実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って
見物でもして来(こ)ようじゃないかというので、この四日から
来ておりますが、ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、
その後の事情を見るかたがた上京して参ったのでありますが、
あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは
我流で、ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、
その間(かん)いろんな奇跡に逢(お)うたことがたくさんあります
けれども、本日は時間がありませんから申し述べませんが、
ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、
皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを
御想像願いたいと思います。
私がああいう所に入りましても、
なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。
電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、
わたしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を
受けることと思います。
日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」
道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。
そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。
<感謝合掌 令和2年12月22日 頓首再拝>
与える喜び、後味の好い喜び - 伝統
2020/12/29 (Tue) 04:58:15
*「光明道中記」(12月29日《気高き心を把持する日》)より
【心は容貌に彫刻の鑿を揮う。心が刻まないとき年の皺は刻まれない。
『生命の實相』第一巻)】
幸福は五官の満足、所有の満足によって得られるのではない
と云うことが判ったならば、吾等は別の方向から
幸福を求めなければならないのである。
それはどんな方向からかと言えば与える方向からある。
所有欲は奪う方向から幸福を得ようとしたのであるが、
吾々が世のために尽す真行(しんぎょう)や、国のために尽す忠誠や、
社会のために尽す奉公の幸福感などは、孰(いず)れも与える
方向から得られる幸福なのである。
また幸福は、それが触覚的方面、味覚的方面、
所有的方面より来るものである限り、
それは著しく物質的であり、即(つ)いた感じであり、低卑な感じであり、
それは余りに多く満たすときは苦痛に変ずる性質のものである。
いつまでも変わらない幸福は、
次第に、触感的、味覚的、所有的な方面から離れて来る。
視覚的な喜びは、触覚的な又は味覚的な悦びに比べて、
著しく「離れたる性質」のものである。
それは必ずしも触れなくとも、所有しなくとも、
離れていて味わい得るのである。
芸術を味わうよろこび、
自然を鑑賞するよろこびなどは後味の好い喜びである。
鑑賞するよろこびには、必ずしも所有することを必要としない。
<感謝合掌 令和2年12月29日 頓首再拝>
真の喜び - 伝統
2020/12/30 (Wed) 05:03:01
*「光明道中記」(12月30日《讃える喜びの日》)より
【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】
他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。
人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。
天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。
人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。
ニセ者の我を征服する喜びである。
真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。
創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。
すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。
奪い合いのない幸福でなければならない。
5つのパンを5千人に分っても尚(なお)
籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。
<感謝合掌 令和2年12月30日 頓首再拝>
喜べばいくらでも喜べるのが心である - 伝統
2021/01/07 (Thu) 02:16:40
*「光明道中記」(1月7日《光明一元・歓喜の日》)より
【暗は光明に来てブッ突かれば
ブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
(『生命の實相』第一巻)】
悲しみは存在しない。それは無い心である。
文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代支那人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味でそれを組み立てた。
「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。
喜べばいくらでも喜べるのが心である。
悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば喜びだけがあることが判るのである。
ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、悲しみに抑えられて、獅子(ライオン)に
咬まれた小兎のように悲しみによって振り回されるからである。
静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。
オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。
これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。
悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、
その奥地に探り入れば悦びが実相である。
<感謝合掌 令和3年1月7日 頓首再拝>
喜べば生命は伸びる - 伝統
2021/01/08 (Fri) 04:17:23
*「光明道中記」(1月8日《魂浄まる日》)より
【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。(『生命の實相』第一巻)】
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの状態である。
伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。
浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。
寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。
また其の人が寒中水浴することが不快であり、嫌々ながら人に勧められたために
已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、其の人はその水浴が無効であり、
却って害があることを実証するために、自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。
喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。
健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。
そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。
<感謝合掌 令和3年1月8日 頓首再拝>
すべてに喜びを見出す - 伝統
2021/01/11 (Mon) 02:30:10
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より
一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。
自分のしている善いことに、
家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。
明るい半面ばかり見る者は常に生長し、
暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに
「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。
この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。
<感謝合掌 平令和3年1月11日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2021/02/04 (Thu) 04:54:20
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 平令和3年2月4日 頓首再拝>
われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統
2021/02/28 (Sun) 06:30:45
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より
よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。
お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。
心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。
<感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>
楽と歓びとは生命(せいめい)の本然の状態 - 伝統
2021/03/17 (Wed) 04:50:27
*「生命の實相」第27卷久遠仏性篇(P3~4)より
今までの多くの宗教は人間は苦しまなければ神に近づけないものである。
苦行しなければ魂が決まらないものである。
頭にハイを頭顔に薄墨を塗り、苦悶の形貌(ぎょうぼう)を見せ、
「神よわたしは罪人でございます」と悲痛な絶叫をあげなければ
神様から喜ばれないものだと考えられていたのであった。
特にキリスト教の信仰にはその傾向が最も甚だし買ったのである。
しかし人間は《神の子》であるのに、神は人間の「親」であるのに、
その「親」である神が、子である人間が苦しまなければ
慶び給わないなどということはとうていありえないことなのである。
人間は「神の子」である。
「神の子」であるとは「生命(せいめい)の子」であるとのことである。
宇宙に目に見えず普遍する大生命を神と言うのである。
だから大生命から生まれ出たわれらみな神の子である。
だから神の子の生命(せいめい)の本然がそのまま健やかに発現すれば
楽しみとなり喜びとなるのは、健康なる子供が常に喜々として
喜びに満ち溢れており、
かれが病気になった時はじめて不快な楽しまない状態を発顕(はつげん)
するのでも明らかである。
されは楽と歓びとは生命(せいめい)の本然の状態であり、
苦しみと不快とは生命(せいめい)の梗塞(こうそく)された
状態であることが判るであろう。
宗教の使命は、梗塞された生命(せいめい)を解き放って
本来の自由に復帰せしむるにあるのであるから、宗教を信じながら、
苦しんだり罪についていつまでも彽徊(ていかい)して悲しんだ状態に
あらしめる宗教がありとするならば、
その宗教は宗教としての使命を果たしていない
と言わなければならないのである。
抜苦与楽が宗教の使命であるのは
何人(なんぴと)も肯定して疑わないところであるのである。
<感謝合掌 令和3年3月17日 頓首再拝>
《わが生命は神の生命の歓喜》 - 伝統
2021/04/03 (Sat) 01:47:32
*「光明法語」(4月3日)より
われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。
神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。
われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。
生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。
<感謝合掌 令和3年4月3日 頓首再拝>
喜びを増やしていくことが魂の成長となり、人生を成功させていく - 伝統
2021/04/27 (Tue) 04:23:03
*メルマガ「星のしずく」(2021.04.25)より
~風の時代の試練とコロナ騒動
家族や親しい友だち、同じ仕事仲間であっても
価値観の違い・魂の成熟度が浮き彫りとなった現在の世界的な混乱。
「旧時代に沈むのか」
「宇宙に目覚め、新たな地球に生きるのか」
いまわたしたちは、その分岐点に立っています。
魂を癒し、進化させることで、宇宙に目覚め、協力しあって
お互いを高め合うようなポジティブな地球へと移行していきます。
では、実際にどのようにすれば、魂は進化していくのでしょうか。
************
精神的な成長には
苦しみをともなった修行を通り抜けなければならない。
旧時代では、そのように思わされてきました。
しかし、風の時代ではそうではありません。
魂の進化は喜びをともないます。
喜びを増やすほど、魂が進化して
経済的にも精神的にもますます豊かになっていきます。
なぜなら、、、
新しい風の時代では
旧時代に押さえつけられていた
個人の喜びを解放させる時代だからです。
これまでの旧時代では
社会は人々をコントロールするために
個人の喜びをおさえて、恐怖で支配してきました。
恐怖による支配が有効であるのは、魂の低い段階です。
いま、地球で起きている変化と変容は
わたしたちに魂の向上をうながしています。
怖れを手放し、喜びで生きるように。
その流れに逆らって、だれかを非難したり、反発したりして
怖れのなかで生きようとすると
経済的にも精神的にも苦しくなっていきます。
魂の成長に、苦行は一切不要です。
この新しい時代では
喜びを増やしていくことが魂の成長となり
人生を成功させていきます。
喜びは
どんな種類のものでもかまいません。
身体が喜ぶこと。
リラックスして心地よく感じること。
心地よい音楽に
健康的な食生活。
日々の生活の環境を整えることも。
多少高価なものであっても心地よく感じるモノを使うこと。
お仕事や人間関係も、損得勘定で決めるのではなく
あなたの魂が喜ぶかどうかを基準にして選択していくとよいでしょう。
魂が喜ぶことは
結果的に大きな得となって、あなたのもとにやってきます。
あなたの身体が喜ぶほど、喜びの受容性が高まり
ますますあなたのもとに、喜びが集まってきます。
あなたが扱える喜びの量は
すなわち魂の許容度であり、成長度合いです。
魂が進化すれば
あなたはもっとたくさんの喜びを扱えるようになっていきます。
喜びと、興奮は異なります。
興奮は、一時的には問題ありませんが
長期的な興奮状態は、心身を傷つけてしまいます。
あなたが求める喜びは、もっと静かで落ち着きのあるもの。
はじめは小さくとも
大きく育っていく可能性を秘めた、そんな喜びを、、、
この新しい時代に
いまの混乱した世の中から見出していくのは
偉大なる魂をもった、あなたの役目でもあります。
<感謝合掌 令和3年4月27日 頓首再拝>
【もらうより、贈る側のほうが喜びが大きい】 - 伝統
2021/05/18 (Tue) 03:21:06
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.10.09)より
(教育者、哲学研究者、近内悠太氏の心に響く言葉より…)
人間の新生児はなぜ未熟な状態で生まれてくるのでしょうか。
たとえば馬は生まれた直後に立ち上がることができます。
しかし、人間の新生児は立つことも、
一人でものを食べることもできません。
なぜ人間の乳幼児は周囲の年長者による保護や教育が
与えられなければ生きていくことができないという
「弱さ」を抱えることになったのでしょうか。
ヒントは「直立歩行に適さない骨格」と「大きな脳」です。
日本でもベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの
『サピエンス全史』でも紹介されている理論ですが、
ハラリによると、霊長類の骨格はもともと四足歩行に適したものでした。
四足歩行から直立歩行に移行するには腰回り、
つまり骨盤を細める必要があり、
それにともなって女性は産道が狭くなりました。
またこのとき、人間は他の動物たちよりも
ずっと大きな脳を獲得しつつありました。
つまり、人間の赤ちゃんは大きな脳を携えながら、
狭くなった産道を通って生まれてこなければならない
という難点を抱えることになったわけです。
人間は哺乳類の中で最も難産な種だそうです。
進化はどのようにしてこれを解決したかというと、
脳の発達が完了する前の段階、すなわち
「頭が大きくなる前の段階で出産する」という道を選びました。
それにより母体の生存率と子供の出生率が上がり、
自然選択によって人間は早期の出産をするようになりました。
このようにして、
人間は未熟な状態で生まれてくることになったわけです。
さて、重要なのはここからです。
出産後、成長途中の未熟な乳幼児を抱えた母親は
数年間にわたって食べ物を自身の力で採集することができず、
子育てを周囲の人間に手伝ってもらわなければならなくなりました。
それと同時に、人間のある能力が発達します。
ハラリの言葉を引きます。
人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。
したがって、進化は強い社会的絆を結べるものを優遇した。
進化のプロセスからすれば、
脳の小さい未熟な新生児を産むという解決策ではなく、
大人の体のほうが進化して、直立歩行を可能にしながらも
骨盤を大きくしたり、産道を広くするなどして
脳が完成した子供を産めるようにする、という選択肢もありえたはずです。
しかし、自然はそのような身体的拡張ではなく、
社会的能力のほうを選びました。
子育てや互いの生存のための信頼できる仲間。
見返りを求めず助け合える関係性。
僕らは、僕らが人間となって文字通り立ち上がった瞬間から、
つまり、人類の黎明期の一番初めから、
「他者からの贈与」「他者への贈与」を前提として生きてゆくことを
運命づけられてしまったのです。
そして、そのような仕方で僕らは
かろうじてこの世界を生き延びてきました。
信頼関係や助け合いは明らかに「サービス」ではありません。
ましてや「商品」ではありません。
そもそも市場というものが出現するはるか以前からある
人類学的慣習ですから、そのようなタームで語れるはずがありません。
それらはいわば「お金では買えないもの」です。
僕らが必要としているにもかかわらず
お金で買うことのできないものおよびその移動を、
ひとまず「贈与」と呼ぶことにします。
それは定義上、商品やサービスという
「市場に登場するもの」とは異なるものとなります。
贈与の不可解な点があります。
それは、贈り物はもらうだけでなく、贈る側、つまり
差出人になることのほうが時として喜びが大きいという点にあります。
たしかに、自分の誕生日を誰にも祝ってもらえないとしたら寂しい。
でもそれ以上に、もし自分に
「誕生日を祝ってあげる大切な人」
「お祝いをさせてくれる人」がいなかったとしたら、もっと寂しい。
なぜもらうことよりも、あげることのほうがうれしいのでしょうか。
なぜ自分が祝われる以上に、誰かを祝うことが自身の喜びになるのか?
恋愛の場面が一番分かりやすいと思いますが、
気になる相手に何かプレゼントを渡そうとしたとき、
受け取ってもらえないという悲劇が起こることがあります。
贈与の受取の拒否。
それは何を意味するかというと、関係性の拒否です。
つまり「私はあなたと特別なつながりを持つつもりはない」
という宣言となります。
なぜ贈与がつながりを生み出すかというと、
贈与には必ず返礼が後続するからです。
「この前もらったお礼に…」
そのお礼はまたお礼を促(うなが)します。
その返礼は再び贈与として相手に手渡され、さらに再返礼、再々返礼…と、
その関係性は「贈与の応酬」に変貌します。
つまり、贈与を受け取ってくれるということは、
その相手がこちらと何等かの関係性、
つまり「つながり」を持つことを受け入れてくれたことを意味します。
こちらの好意や善意は、必ずしも相手に受け入れられるとは限りません。
だから、プレゼントを受け取ってくれたり、
こちらの祝福を受け入れてくれたりしたとき、
僕らはうれしく感じるのです。
<『世界は贈与でできている』NewsPicks
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・・・
近内氏なぜ「勉強」すべきなのかについてこう語ります。
『具体的に言えば、歴史を学ぶことです。
歴史を学びながら、もしその世界に自分が生まれ落ちていたら、
この目には何が映るのか、どう行動するか、何を考えるかを
意識的に考えるようにすることです。
そこに生きる一人の生身の人間としての自分を考えるのです。
そして、ふとその想像から戻ってきて、
この現実の世界を見渡してみたとき、僕らにはあまりにも
多くのものが与えられていることに気づくはずです。
これらは生まれる時代が異なっていたら、
私のもとへは届かなかった、と。
ある歴史的な出来事には、
さまざまな偶然的ファクターが関与しています。
歴史を学ぶというのは、
そこに何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもあります。
この世界の壊れやすさ。
この文明の偶然性。
これに気づくために僕らは歴史を学ぶのです。』
今、この時代、この日本に生まれ、
この今の年まで生きてこられたというのは、
天からの贈与以外の何ものでもない。
そして、年を重ねれば重ねるほど、
仕事や家族、友人たちとの出会いは、さまざまな「たまたま」
という偶然の積み重ねだったことに気づく。
そのうちの一つでも歯車が欠けたら、
今の人生は全く違ったものとなっていたはずだ。
それこそが、ギフトであり贈与。
だからこそ、我々はその受け取ったものを、次に贈与する。
「もらうより、贈る側のほうが時として喜びが大きい」
贈る人がいる幸せをかみしめたい。
<感謝合掌 令和3年5月18日 頓首再拝>