伝統板・第二

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人間の本質・その運命を支配するもの(昭和44年2月青年) - 夕刻版

2019/09/16 (Mon) 18:05:56

”道産子 さま” ありがとうございます。
”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7889515 からの転載です)



        (理想世界誌法語昭和44年2月)

                 谷口雅春先生

 ♧・・・登校、出勤時に拝読する法語があなたをして人生の勝利者たらしめます・・・♤

【一日のことば~想念は最も根本的な力である】

セオソファーの或る小さなパンフレットにこんな事が書いてあった。

「人間から発生する力を分類すると、想念、希望、行動に分けることが出来る。
その中で最も大いなる結果を及ぼすものは想念である。

想念は行動の生みの親であり、同時に希望の方向を定め、
それを支配する力を持っている。

想念というものは全く電気の働きにも似ている。
電気は用途に従ってあらかじめ制御(コントロール)しておくことが
必要であるが、想念も知恵によってコントロールしておかなければならない。

それは、他の色々の種類の力と同じように、
建設的にも破壊的にも用いられるのである。

・・・

【二日のことば~言論の自由の及ぼす危険】

「言論の自由」という事は、現行の日本国憲法に於いて強調せられている
人権のうちの一つであるが、言論とは想念を言語または文章という形に
行動化したものである。

そして言語または文章に表現されたる想念は、更に一層具体的な行動――
建設又は破壊的行動を誘起する原動力となるのである。

言論を野放しに自由にしておくことは、
破壊的行動の自由をも野放しにおくことになるのである。

それは発電所の電力を何らの制御装置をも通過せしめないで
野放しにするのと同じであって、それは建設的に使われるよりも、
破壊的なはたらきをする事が多いのである。

・・・

【三日のことば~制御なき思想は制御なき電流と同様である】

すべてのエネルギーはそれを”知”によって統制した時にのみ
建設的な結果を得ることが出来るのである。

私たちの想念は常に自ら顧みてそれを正しい方向に制御しなければ、
電気が制御されずに無暗に流された時、大なる被害を蒙る人が出て来るように、
多くの人々に不幸や破壊をもたらすのである。

個人がまだ未成熟であって善悪の判断が完全にできない状態にある時には、
本人以上の権威と知性を持った者が、その未成熟者の想念を点検し、
建設的な方向に指向させるのでなければ、
破壊的な結果を及ぼす事の方が多いのである。

現行憲法が未成熟者の想念及び言論の自由をも幅広く容認している所に
学生騒動のような破壊的活動が発生しているのであって、
現行の憲法をそのままにしておいて学生騒動の発生を防ごうとしても
それが無効に終わるのは、想念は行動の生みの親であり、その想念が
教壇から教えられている赤い理想で誘導せられているからである。

・・・

【四日のことば~群集心理による破壊感情の爆発】

想念よりも、もっと原本的な心の働きがある。それは感情である。
感情が爆発する時殆ど理性による知的制御も何の役にも立たなくなるのである。

この原始的感情の爆発は、人間が群集となって叫びだす時、
破壊的活動にまた人間を駆り立てるのである。

新宿での大学生による反戦国際デモの時に、一般市民や野次馬が参加して
ついに警官との大乱闘の末駅に放火するに至った如きは、群集心理が、
いかに理性の判断を狂わせて盲動するかの実例だということができるのである。

・・・

【五日のことば~民主主義政治の欠陥】

このような直接行動様式が幅を利かすようになった最も大なる原因は、
“国民主権”と堂々と銘打った日本国憲法である。
しかもその主権の行使は、ただ代議士を自分の主権行使の代理人として
選ぶという他に主権の実行はないのである。

このような議会制民主主義を武藤貞一氏は次のように評している。

「実に馬鹿げ切った遊戯的基礎の上に「議会制民主主義」というものは
立っている。しかし人間の英知がまだ進まず、民主主義に関する限り、
この投票方式以前に「主権」の行使が考え出されない以上は、
滑稽と知りながらもこれに頼るほか分別の仕様がないというのが
今の常識である。

そして投票によって選ばれた代理者は、
本当は選んだ人の意志を実行しようとはしないのである。

その実例を挙げて武藤貞一氏は次のようにいっている。

「田舎の、目に一丁字のない婆さんが、投票用紙に『さとうえいさく』と書けば、
この一票はたしかに佐藤栄作氏を国会に送り出す要素の何万分の一貨を
形成するわけだ。

でも、佐藤栄作氏はこの婆さんの『身替り』でもなければ、
直接代理人でもない。佐藤さんは佐藤さん、婆さんは婆さんである。

これでも、この婆さんは国家の主権者と名乗れるかどうか。
ここまで考えると、問題の捕捉は、大学の教壇にあるのではなくて、
茶の間のテレビ漫才にありそうである」

 こうして民主主義というものが、国民テンデンバラバラの主権を持っていて、
その主権が常に実際には政治家という特権階級によって蹂躙され、
それが度重なって、その不平が次第に蓄積され累積して
遂に実力行使の爆発に至るその素因を積み立てて行きつつあるのが
民主主義政治の実態というものである。

・・・

【六日のことば~願望の抑圧から来るもの】

何人も、自己本来の魂の深い願いを抑圧し続けて、
それで幸福だという事はあり得ないのである。

魂の深い願いの抑圧はやがて、外に向かって暴動や抵抗運動や権威に対する
反逆となってあらわれるが、内に向かって自己を傷つけ、
色々の神経症を惹き起こすか、更に進んでは具体的な気質的疾患
となってあらわれて来たりするのである。

・・・

【七日のことば~あなたの天分を見出せ】

人生に成功するの秘訣は、
その人の“天分”、又は“自分が本当に好きな仕事”
を一所懸命に努力してやるということである。

好まない仕事に営々と努力しても、
潜在意識がそれに抵抗するから発達がおそいのである。

 何人も自分に適する天職がある。
天職とみとめるものを発見し得ない時は、今与えられている仕事又は勉強
を一歩一歩熱心に忠実に努力しているうちに、
その天職がハッキリして来るのである。

それは霧の中を行進して行くようなものである。
霧深くとも前進を続けなければならない。
目標に近づいて来るにしたがって、霧が深くても目標が見えるように
なって来るのである。

・・・

【八日のことば~環境はあなたを変化する】

その人の従事する仕事(学業)によって、またその仕事(学業)にたずさわる
同僚となるべき人の種類によって、仕事及び周囲の人が環境となり、
環境の及ぼす力が働いて、その人の性格や生活習慣や、ものの考え方や、
食べ物の嗜好や服装なども変化して来るのである。

そして、そのような環境に感化せられ物の考え方が変化してしまってからは、
不健全な風俗習慣や物の考え方も、それが不健全とは感じられず、
不健全なものの方が健全であるかの如く考えられるに至るのである。

だからあなたが入学する学校を選択する場合や、
就職する会社商社官公庁などを選ぶ場合には、出来得べくんば、
どんな雰囲気をもった環境をその入に学校や就職先が提供してくれるかを
研究し、それが健全であり、かつ自分の性格及び嗜好に適する環境を
提供することを確かめた上で、入学するなり就職するなりを決するがよいのである。

・・・

【九日のことば~宗教家となるか科学者となるか】

一般に宗教家や歴史家や科学者や法務官や政治家は長生きすると
考えられており、変化の多い経済界に生活する人や、特に景気の上下に
常に精神的ショックを受けて、心を動揺せしめられ易い種類の業務に
従事している人は短命であると言われている。

特に悠久なる宇宙を観測し、その広大無辺を想帽子瞑想する
天文物理学者には長命の人が多いという事である。

仏教では足利柴山師、西田天香師、古川大航師、鈴木大拙師の五大老師や、
神道では菟田(きだ)茂丸翁の如きは九十歳を半ば越えるまで
長生きせられたのである。

手近に気が付いた有名な科学者の死亡年齢を調べてみると
フンボルトは九十歳、ガリレオは七十八歳、ニュートンは八十五歳、
ダルトンは七十八歳、天文学者のハーシュル父子はどちらも
ほぼ八十歳位迄生きていたのである。

しかし七十八歳や八十歳位では今では平均寿命が延びているので
長命の内に入らないかも知れないが、以上の科学者は、
「人間わずか五十年」という諺が横行していた時代の科学者の寿命であるから、
相当長生きであるという事が出来るのである。

あなたはどんな職業を選びますか?

だが、人間は長生きするだけがよいのでないから、
各自は自分の天分にかなう方面の学を修め、職業を選ぶべきだが、
これらの種類の職業に従事した人が長生きした原因を考えてみると、
”宇宙の法則”を相手に心を集中する仕事であり、
法則というものには変動がないから、常に変化するものを相手に、
常に心を動揺させている者よりも長生きした訳である。

・・・

【十日のことば~食物は体質及び精神を変化する】

戦後、日本人の食生活が変わって来た。
だんだん西洋好みの脂肪の多い、そして肉食傾向の食品に
変わって来たのである。

これはテレビの料理講習等、マスコミの”言葉の力”が
大いに影響していることは見逃されないのである。

動物蛋白をとらないと必須アミノ酸がとれないとか
農村は食べ物が下等であるから、都会の青少年よりも体重身長共
に発達が悪いとか言われ、上質の食物といえば動物食であるかのような印象を
与えるマスコミの放送や記事が度々、耳にされ、読まされるのである。

ところが一方では都会の青少年は身長体重は増加したが,
体力は低下しているという発表もあり、

児童のときに健康優良児として体格立派と言われた者が罹病率が多く
早く死んでいるという統計が発表されたり、

戦後初めて聴く肥満児童というバカにぶくぶく相撲取りのように
肥満する子供が出来て来て、その肥満を防ぐのに、
医者も首を傾げているらしいのである。

そのような肥満児童が戦前にはなかったのに、戦後にはじめて
多発するようになったのは、日本人の食生活が急に洋風に変化して
祖先以来瑞穂の国に育って米食を主食とした日本人の本来の体質に合わない
肉食を急に取り出した結果の異常反応であるとみとめられるのである。

それなのに政府は通教(??)から牛豚の肉を2万頓輸入許可する
との噂もあり、瑞穂の国に生まれた日本人が米食を少なくし出したために
米が余って、米作を縮減した農家には奨励金を出すように
農林省がきめたとかきめるとかいうことが新聞で報ぜられていた。

「食は心なり」であって、食物は人間の体質だけでなく精神にも
重大な影響を与えるのであり、肉食獣を真似た西洋的食物を
模倣(まね)しつつあることはその精神までも、
人間の性格を猛獣化することになり、
文化が植民地化せしめられつつあることなのである。

・・・

【十一日のことば~心の洋風化と嗜好の洋風化】

精神が洋風化して来ると、嗜好品も次第に洋風化して来るのである。

吾々は明治時代の人間であるから菓子でも和風の生菓子が好きであり、
特に純粋に新しい小豆をもって作った(晒し餡でない)小豆の匂いと
風味が豊かな饅頭式のものが好きであるが、孫になると和菓子より
洋菓子が好きなのである。

食べ物の嗜好などにも孫の時代と祖父の時代とは随分ギャップがあるのである。

これは習慣というよりも心の問題である。

習慣は私の家に生まれて私の家に育った孫であるから私と同じ習慣性を
持っていそうなものであるが、そうでないのは、孫は学校などで、
また別の精神に触れ、別の精神によって教育せられているので、
その精神の欧風化によって欧風の菓子を好むようになっているのである。  

時代は変る、心は変る、人間は変るという事を
こんな些細な嗜好の上にも痛感せしめられるのである。

・・・

【十二日のことば~菓子は人なりと服部氏はいう】

日本経済新聞四十三年十一月十九日号に洋菓子を五十年間つくり
つづけてきたその功績によって、その六月東京で開かれた世界洋菓子連盟の
東京大会があった時に特別功労賞を受けた服部広治氏(現在ナガサキヤ
研究室員)の自伝的菓子づくりも苦心談が載っている。

その最後のところにこんなことを氏は書いている。

「ふり返れば、どの時代のどの時期にも常に精魂込めて洋菓子を
つくって来た。そしてこの長い体験を通じて得たのは、月並みだが、
“菓子は人なり”ということばである。

菓子はそれをつくる人のまごころがそのまま形と味に出るものなのである。」

つまり、“形”あるものは“心の影”であるということである。

・・・

【十三日のことば~あなたは自分の運命を改造できる】

菓子ばかりがその人の心を表現するのではなく、
その人の運命もその人の”心”の反映であるのである。

その人の運命はその人の手相にあらわれるといわれているが、
手相そのものは固定したものでなく、その人の心の変化に従って、
その心の状態を象徴する象に変化して行くのである。

私が早稲田大菊を途中で飛び出して処さだめず浮草のような放浪生活を
送っていた頃、私の“手の筋”は一本も縦にのぼる線はなかった。

そして横に走る“手の筋”も長く一定に続いている線はなく、恰も
漣を略画したようなこんな短い線がバラバラと点在しているのであった。

私は自分のこのような手の筋を見ながら、私はこの漣に浮ぶ浮草のような
運命を一生涯送ることになるのであろうと自分の運命の拙なさを
歎いていたものである。

その“手の筋”は、その頃の私の心境を象徴したものであった。
私は永久にそんな運の悪い星の下に生まれた訳ではなかったのである。

関東大震後、私は、ついに、“人間・神の子”の真理を悟ることになり、
神想観を毎日実修して祈り、高き聖域を想像してその聖域より神霊が降下して
縦に自分の体を上より下へと流れ入る有様を瞑想中に念ずることにした時、
“手の筋”が一変したのである。

今では私の左の手には下部から上部に縦に貫き昇る線が運命線・太陽線等
四本も登っている“手の筋”になったのである。
それに従って私の運命も改造せられて来たのである。

あなたも自分の心を改造することによって 
運命を改造することができるのである。

・・・

【十四日のことば~心臓移植手術の教訓】

和田教授により心臓移植手術を受けた宮崎信夫君が死んだ。

これによって教えられることは、如何に外科手術が発達しても、
人間というものは、部分品を組み合わせ、縫い合わせても出来るものではない
という事である。

 聖経『天使の言葉』には次のように示されているのである。


   「天使答えたまわく――

   人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞に非ず、

   神経細胞に非ず、血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず、
   それらすべてを組み合わせるものにも非ず」


ここに真理がある。

肉体の部分品を縫い合わせさえすれば、完全な人間が製造できるなどと
傲慢に思い上がった手術をしてみても、それは必ず失敗するのである。

・・・

【十五日のことば~心臓移植の拒絶反応の内面機構】

 聖経『天使の言葉』は次の如く語る。――

   「人間は霊なり、生命なり、不死なり。

    神は人間の光源にして

    人間は神より出でたる光なり。」

この聖経に示されている通り、人間は部分品の「縫い合わせ」又は
「組み合わせ」ではないのであって、

”神”なる大生命から個性的に分光されて出現した“霊的生命”であり、
それに各々個性があって、その個性的智慧によって、生理的組成分を
適当に配列して、個性的人体がつくられているのである。

つまり人体は、神の、分光又は分霊なる自分の靈が創作した処の
個性的作品であるのである。

それ故に、世界的血液型の大家である古畑教授の説の如く、
すべての人間は、精密に言えばひとりひとり血液型が異なるのである。
つまり、人体はその霊魂の独創的作品であるのである。

その独創的作品に、他の人の独創的作をつなぎ合わす事になって、
その独創を汚す事になるので、その縫合を霊魂は拒絶する。

これが、霊的に観た拒絶反応の正体である。

本人の霊魂が、他の人の肉体の一部を移植しても、その独創的作品(人体)の
独創性を害しないと認める場合には拒絶反応は起こらない。

例えば角膜移植のような「小部分」の移植で、人体全体の独創性は失なわれず、
しかも視力を恢復して、本人の霊魂が肉体を操縦するのが一層便宜に
なるような場合には、霊魂はその移植を拒絶しないのである。


若し心臓を移植しても拒絶反応が起こらない場合がるとするならば、
本人の霊魂がその「移植する心臓」の個性が、移植を受ける肉体の個性と
きわめて近似していて、その作品(人体)の独創性を大してそこなわない場合である。

・・・

【十六日のことば~あわや心臓摘出の寸前に健康恢復】

心臓移植を受け容れるか受け容れないかは、
人体の独創性を害するか否かの判断で、
移植を受ける側の人の霊魂の諾否によるのであるから、
これは医家が物質的テストによって定められることではないのである。

寧ろ聖経を読誦してその霊魂を慰め、心臓移植を受け容れて下さるように
祈りによって懇願する方が望ましいのである。

しかし移植心臓を拒絶するか否かは本人の霊魂の選択の自由であるから、
移植手術を行うことは非常な冒険を内に孕んでいるのである。

しかも事故死寸前の人の生きた心臓を摘出して、その人が再び生き返るかも
知れないのに、その人が再び蘇生できないような犠牲を払ってまで、
拒絶反応が起こるかも知れないような冒険をするという事は、これは
人間にゆるされた医術の範囲を超えたものだと言わなければならない。

昨年十一月十六日の朝日新聞には次のような記事が載っているのである。
人間の生命の神秘を知る時、まだ生きている心臓を摘出して、
他の人に移植する様な「人間は部分品の組合せだ」という
唯物論的手術は出来るものではないのである。

    心臓摘出寸前に回復 ――事故少年の手術を中止(チリ)

【バルバライソ十五日発ロイター】チリのアルミランテ海軍病院で、
交通事故のため脳に重傷を負った十四歳の少年の心臓を女性の心臓患者に
移植しようとしたところ、少年が奇跡的に回復、手術は取りやめた。

少年が死んだ場合にはじん臓も同時に移植する予定で、
四十人の外科医が待機していたが、少年は急に回復、
十四日は表に出られた。

移植手術を計画したカブラン博士は、すでに十月以来二度、
心臓移植を行なった経験がある。

・・・

【十七日のことば~唯物論的人間観の行きつく処】

人間を部分品の継ぎ合わせによって出来た人体に過ぎないという考えは、
手術の成功・不成功という現実的問題よりも、もっと重大な問題を
含んでいるのである。

電気を通じたら動き出す人造人間(ロボット)みたいなものが、人間だ
という考えそのものが人間の神性を冒涜するものだと言わなければならない。

部分品をうまく繋ぎ合わしたら、そのロボットが電子計算機のような返事をし、
「考える」という精神現象さえもただの部分品の繋ぎ合わせの状態によって
いろいろ変化するものだというのだったら、人間に生き甲斐も、
人間誕生の意義も目的もない、ただ機械的に動かされていることになり、
人生無意義に感じられて、ある者はフーテンになり、ある者は、
その無意義さの絶望感を胡魔化すために、瞬間的な肉体の快楽追求に
逃避するか、その絶望のヤルセナサを爆発させるために角材をもって
何でも彼でも叩き壊して暴れ廻りたくならざるを得ないだろう。

現在の大学生騒動の奥に、そのような唯物論的人間教育の弊害が
横たわっている事に気が付かなければならないのである。

・・・・・

【十八日のことば~こうして我々は人生の意義と価値を知る】

しかし生長の家の講習を受け、練成会に参列し、人間は単に、
部分品を繋ぎ合わせたロボットではないのだと知る時、
初めて人間は、その底なしの憂鬱から解放せられることになるのである。

そして私たちの住む世界は神の世界であり、すべての存在は神の智慧と力
とによって創造され、その中でも神の最高の自己顕現として、一切の事物を、
神が想念によって創造したかの如く、想念によって支配し得る機能(ちから)を
持つ者だという自覚を得る時、初めて私たちは、この地上に誕生した
本当の意義と価値を知り、

「人間として生まれたのは無意義でなかったのだ」

と生き甲斐を感ずることが出来るのである。

・・・

【十九日のことば~欲望無限の意味について】

人間は神の最高の自己顕現であるから、
自己の「内に」”無限”を包藏するのであって、
常にその“無限”を「外に」表現したい内部圧力を持っているのである。

ところが現象界の事物は空間の序列の上に、時間の流れを通して
徐々に展開するのであるから、人間は自己の内に包蔵する”無限”を
一ぺんに全部悉く表現することが出来ない。

それゆえに、私たちは、一つの希望が満足すれば、更に次の希望を
満足したくなり、欲望は果てしなく無限に続くので、この事は、
一方では社会の進歩に貢献するのであって、決して貪欲の悪徳を犯している
という訳ではないのである。科学の発達が無限であるのもそのためである。

吾々は自分の選んだ学科又は仕事の上に常に最高の「神の顕現」を
為すべき努力を尽くすべきであり、最高以下の努力に甘んじるという事は
自己の実相の自己隠蔽、即ち「包み」であり、「罪」である訳である。

罪とは自己の実相を「ツツミ」隠す意味に於いて語源を
等(ひと)しゅうするのである。

・・・

【二十日のことば~あなたは“人間機械“ではない、自己信頼せよ】

あなたは「人造人間」又は「人間機械」ではなく
神の自己実現であるのである。

天地万物を創造した神の“愛の靈”があなたの中に宿って、
あなたを生かしているのである。

それゆえにあなたはあらゆる面に完全であるのである。

あなたの肉体も完全であり、あなたの精神も完全であり、
あなた能力も完全であるのである。

あなたはあらゆる劣等感から解放せられなければならない。

あなたが神想観を実修して神との融合をまっとうする時、
神の無限の智慧がインスピレーションの火花となってあなたを
照り輝かすのである。あなたはこの事を信ずるがよい。

そして常に神想観を行ずるがよい。
迷いによる劣等感で、神の智慧の火花を消してしまってはならない。

自己信頼こそ、本具の「神の智慧」に火を点ずるはたらきをするのである。

・・・

【二十一日のことば~外見によって人を批難してはならない】

人の外面を見て、その人を悪いと判断してはならないのである。
外面は常に移り易わる。移り易わるのは真実でないからである。

それは雲の去来にも似ている。
雲は常に異なる形を持ってあらわれるけれども、
一定常住の形はないのである。

現在あらわれている形を批評している間にその形は消え、
他の形に変じてしまっているのである。

すでに消えた形を批難しても、
それは存在しないものを批難している無駄の労苦である。

それよりも、その暗雲の奥にある実相を観ずるがよいのである。

どんな雲の形があらわれている時にも、その奥には実相の青空が
高く澄んでいるように、どんなに見える人間も、
その奥には澄み切った輝く”神の子“の実相が輝いているのである。

・・・

【二十二日のことば~秩序と自由と生命現象】

生命は秩序を通じて顕現し生命体をつくるのである。
秩序が崩れた時生命はその生命体から脱出して姿を隠すのである。

秩序を破壊したら自由が得られるという考えは間違で秩序が破れた時、
ゴーストップの信号無視の自動車が互に衝突

して破壊してしまって進行の自由を失ってしまうように、
却って自由が失なわれるのである。

秩序はそこに何らかの知恵ある精神が働いて
計画又は意志の力が事物をそこに配列した証拠である。

その配列が精緻巧妙になった時、精緻巧妙な映写機械が天然色映画を
あらわすように、そこに生命現象があらわれるのである。

・・・

【二十三日のことば~死は生命の移行に過ぎず】

日本民族の不屈のエネルギーはその神話にあらわれているのである。

古代の民族神話は単なるお伽話ではなく民族の自覚又は個性が
物語に表現されているのである。

その民族の個性的自覚として顕著なのは、日本民族は“死”の中にも
常に”生”を見て、”永遠の死”を見なかったことである。

たとえば、イザナミノ神が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を
産みまして火傷によってついに死に給えることを

「神避(さ)りましぬ」と書かれてあって、それは永遠の死ではなくて、
黄泉国(よもつくに)への“神避り”即ち逃避であるのである。

そして、古事記には後にイザナギノ神が黄泉国へイザナミノ神に逢うために
追って往かれた事が書かれているが、

日本民族にとっては「死」は無いのであって、
生命の或る場所から或る場所への移行であるのである。

・・・

【二十四日のことば~死はない、それは“生”のお隠れに過ぎない】

イザナミノ神が火之迦具土神をお産みになった結果、
イザナミノ神が黄泉国へ移行せられた時、

イザナギノ神は十拳(とつか)の剣を抜いてその御子カグヅチノ神を
斬り殺された、しかしそれは決して単なる死滅ではなかった。

古事記には次の如くこの時の事を記述している。――

「爾(ここ)に其の御刀(みはかし)の前に著ける血、湯津石村に走り就きて、
成りませる神の名は、石折(いわさく)

の神、次に根折(ねさく)の神、次に石筒之男神(いわつつのおのかみ)
・・・・・并せて八柱(やはしら)は、御刀によりて成りませる神なり。」

ここに“悪”を制するところの剣は”不殺の剣”であって、
更に多くの神々を生み出すところの”生”の剣であり、

”死”を超えて更に多くの”生”が生まれるという古代日本民族の自覚が
この神話に象徴的に表現せられているのである。

日本民族の人間観は”生”のみあって、“死滅”はないのであり、
“死”と見えるのは“神避り”であり“おかくれ”(隠(かくし))に
過ぎないのであり、根本的に明るいのが日本民族の人生観であり、
叩いても叩いても、殺しても殺しても“なにくそ”の精神で
“生”があらわれて来るのである。

ここに日本民族の不屈のエネルギーの自覚が見られるのである。

・・・

【二十五日のことば~暗津国は本来存在しない】

さてイザナギノ神がイザナミノ神を相見たく思われて、黄泉国に
お出でになって、手燭をとぼしてイザナミノ神のお姿を御覧になると、

その全身には無数の蛆がたかって、原爆水爆無数の大爆発の象徴である
雷神(いかずちのかみ)が鳴り渡っているので、

イザナギノ神はそのあまりのいやらしさに思わず逃げておいでになると、

イザナミノ神は、「わたしの醜(みぐる)しい姿を御覧になりましたからには、
もう黄泉国からお帰し申す事はできません」と

八種(やくさ)の雷神(爆撃隊)に加えるに、千五百(ちいほ)の黄泉国の
軍隊(死神)を添えて追撃せしめられた。

そしてついに黄泉比良坂の坂本まで追撃して来られた時に、
“黄泉比良坂”は黄泉国(暗津国)と比良坂(昼の国)との境の根本のところで、

イザナギノ神が桃の実を(生命の木の実・生命の実相の真理)を
三つお投げになったら、暗津国の軍隊は、真理の光によって
ひとたまりもなく全軍退去して消え去ったのである。

日本古代民族は”悪”は本来「無」であり、
真理の光の前には消滅するという事を民族の自覚としてもっていたので、
このような神話を創作できたのだと思われるのである。

・・・

【二十六日のことば~日本民族の“生”のエネルギー】

黄泉国の軍隊の総退却によって、
今度はイザナミノ神は御自身で追って来られた。

それを防ぐためにイザナギノ神は千引石(ちびきのいわ)
(千人で綱かけて引くほどの大岩)をもって、その途を遮り隔てて、
イザナミノ神に離縁状をお渡しになった。

その時、イザナミノ神は「そんな薄情なことをなさいましたら、
あなたの国の人間を一日に千人殺して黄泉国へ連れてきますぞ」
といって脅迫した。

すると、イザナギノ神は「汝(みまし)然か為(しかし)たまわば、
吾(あれ)はや一日(ひとひ)に千五百産屋を立てむ」
(お目がそのように千人殺すならば、私は一日に千五百人産んで見せるぞ)
と仰せられた。

ここに、“死”を恐れない、ただ”生”だけを見つめて前進する
日本民族の“生”のエネルギーの強さが表現されているのである。

・・・

【二十七日のことば~日本民族の清明心】

日本民族は常に暗黒を見ないで光明に振り向くのである。

それは“日の丸”の国旗にも象徴されているし、日の大神・天照大御神を
国祖神として立てたところの神話にもあらわされているのである。

須佐男神が乱暴をして天照大御神の天地経綸の織りを汚した時に、
須佐男神が「邪心(きたなきこころ)無し」と仰せられると、
天照大御神は「然らば、汝(みまし)の清明(あか)きことは、
何(いか)にして知(しら)まし」と仰せられているのである。

日本民族は、ここに「清明心」を如何に尊ぶかという事が示されている。

「汚き心」に対する語(ことば)は、「善き心」と言わずして
「清明(あか)き心」と称したのが日本民族であるのである。

どこまでも「清きこと」そして「明るき事」
“日の丸”の精神こそ、日本民族の尊ぶところであったのである。

・・・

【二十八日のことば~秩序が破壊されれば生命は隠れる】

須佐男神の乱行とは畔放(あはな)ち、溝埋め、樋ち・・・・・等、
あるべき秩序を破壊することであったのでその時の「生命の本源」
たる“日の大神”天照大御神は姿を隠してしまわれたのである。

生命は秩序を通して現象界にあらわれる。
秩序が破壊された時生命は現象界から隠れてしまうのである。

それを表現したのが天照大御神の岩戸隠れの神話である。

そして天照大御神(生命の本源}は、「八百万の神共に咲(わら)いき」
と古事記にあるように、光を見つめて明るく咲うことによって
再びこの世に姿をあらわされたのである。

(おわり)

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