伝統板・第二

2536282
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

英霊の言乃葉 ⑥ - 夕刻版

2019/09/01 (Sun) 19:28:33

靖国神社社頭掲示~令和元年9月


妻への手紙

陸軍衛生曹長  島根正一 命

昭和19年9月5日
フィリピン・パラワン島にて戦病死

埼玉県北足立郡戸塚村出身 29歳



近く南の苛烈なる決戦場に向かはんとす。
父と初枝の顔に接し得なかったことは、至極遺憾の極みなり。


然れども按ずることなし、初枝は依然として現在の様に、
只管仕事に励み留守を護ってくれ。
子無き父の淋しさを察する時、
只、初枝一人をどんなにか頼りに思ってゐるかしらん。


男児の本懐これに過ぐるものなし。
必ずや立派な働きをして家名を挙げん。

俺に万一の事ありたる時の賜(たまわ)り金、その他
扶助料等は一切、初枝を受取人として指定しある。

もし大東亜の礎(いしずえ)とし散華(さんげ)したる時は
「島根家」を受けついでやってくれ。


別に他に申し上ぐる事なく、留守、後の事を一切頼む。
何時までも元気でやるやう、遥か南冥(なんめい)の空より祈る。

  
 昭和十九年六月二十七日

                     島 根 正 一

初 枝 殿 

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

         <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年9月 - 伝統

2019/09/02 (Mon) 22:23:39


入営に際して

陸軍軍曹  川床(かわとこ) 悟 命

昭和20年1月7日
フィリピンルソン島にて戦死

鹿児島県川辺郡知覧町出身
23歳



前略、
この度私儀(わたくしぎ)入営に際しては、
私一人の悦びならず、一家同慶の事と存じます。

私入営致しました上は、勅諭五ヶ条の精神すなわち戦陣訓を
良く肝に銘じて一意専心、微力ながらも
陣忠報国の誠を致す覚悟です。

それゆゑ征(ゆ)く上は、二度と生還は期さない決心です。
縦(たと)ひ自分の遺骨が還らなくても、敢えて心配してくださいますな。
また便りのない時は、元気で精励して居ると思ってください。

(中略)

姉さん達が切磋琢磨して父母を擁護して、そして子供を良く養育して、
帝国軍人の家庭として恥ずかしからぬ明るき立派な家庭を建設してください、
お願ひします。

自分たちは、国家非常時の際、皇恩の万分の一でも報ゆる事の
出来る事を無上の光栄として、元気で征(い)きます。

最後に御両親を始め姉さん達皆様が、くれぐれも達者で
お暮し遊ばすことをお祈り致します。

                       敬具

  昭和19年3月1月16日夜

                      悟 拝

 家内一同へ


 天皇陛下万歳
  大日本帝国万歳 

  (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html <平成30年9月>)

・・・

『平成30年9月拝殿掲示』

          昭和天皇御製
            皇居内の勤労奉仕   (昭和20)

     をちこちの民のまゐきてうれしくぞ
     宮居のうちにけふもまたあふ

    ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-4036.html )


          <感謝合掌 令和元年9月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年9月 - 伝統

2019/09/03 (Tue) 20:11:11


涙かくした母に応へむ


陸軍技手 安藤武夫

昭和二十年七月七日
フィリピンルソン島カパヤン地区にて戦病死

愛知県北設楽郡稲武町出身 四十歳



無理なのが昔からの戦である。
我が子この無理を
天皇陛下の為に勇ましく引き受けて征く。

母をして日本の母にしたと思つて征く。
強く生きて下さい。
母上の安座は俺が作つて置く。

       先立つ不孝者 安藤武夫
           征く日に書く

  子は征きて還らぬものと知りながら
   涙かくした母に応へむ


母上様

( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/6c69d65d9823755ccbdb706911ed6a47 )

          <感謝合掌 令和元年9月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年9月 - 伝統

2019/09/04 (Wed) 18:31:25


遺言

陸軍伍長 久保 繁夫 命 

昭和十九年九月十三日
東部ニューギニア・バラムにて戦死

和歌山県有田郡湯浅町出身 三十五歳


御父上様

三十有余年の間、色々とお世話になり何一つ孝行をした事もなく
お別れするのは、心苦しゆう思ひます。

併(しか)し大君の御為に捧げた命です。
皇国の御為に死んで行く繁夫です。
これがせめてもの孝行だと自ら慰めてゐます。喜んで下さい。

御父上には、お年を召してをられる故、余り無理をなさらないで下さい。
ハナヱの事は学文路(かむろ)と相談して、ハナヱの思ふ様にしてやつて下さい。

他に何も言ひ遺す事は御座いません。

最後に御父上の健康をお祈り致します。

天皇陛下万歳

昭和十六年七月二十七日

・・・

『9月拝殿掲示』

   明治天皇御製


     月 明治43年)

    仇波を うちしりぞけし 軍人 みなみの島の 月やみるらむ

  ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-3158.html )

          <感謝合掌 令和元年9月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年9月 - 伝統

2019/09/05 (Thu) 19:22:28


大君の御為に


海軍少尉 本假屋孝夫命 

昭和二十年三月十八日
九州東方海面にて戦死

鹿児島県姶良郡霧島村出身
 二十歳


兄上様 お喜び下さい。

今度、特別攻撃隊員に選ばれて明日愈々出撃することになりました。

大君の御為に役に立つ時が来たのです。

男子の本懐これに過ぐるはありません。

笑って突っ込んで行く覚悟です。
万里の怒涛を乗り越えて敵陣に黒丸一家がなぐり込みをかけるのです。
こんな愉快なことはありません。

兄上様にも喜んでいただけると思ってます。
生きて還らぬ決死の突撃隊です。

出水に居る頃は、本当に御世話様に相成りました。
深く深く感謝致しております。
御恩は死んでも忘れません。
姉上様にもよろしく御伝え下さい。

「男子生まれ 空行かば 雲染む屍悔あらじ」歌にもあります。
大空の果て珠と砕けるは、我々の最も本懐とする所です。

桜の花が世の人に愛されるのは、惜しまれて散るからです。
人間も世の人に惜しまれて散る所に良い所があるのです。
人間死場所を逸したらろくな最後はとげられません。

私が死んでもどうか悲しまずに
大君の御為によくぞ死んだ天晴れな最後だったとほめてやって下さい。

兄上様、姉上様、憲ちゃん、敬ちゃん達の健康を草葉の陰より祈っております。 

さようなら


花は桜木 陸爆乗りは若い命を惜しませぬ

花のつぼみの二十で散るも何か惜しまん君のため

還らじとかねて思えば梓弓(あずさゆみ) 咲く春を待たずして我は散るなり

          ・・・

『9月拝殿掲示』

     明治天皇御製

 道   (明治37年)

 遠くとも人のゆくべき道ゆかば危き事はあらじとぞ思う

 (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-201509-34.html )

          <感謝合掌 令和元年9月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年9月 - 伝統

2019/09/06 (Fri) 21:41:01


遺書


陸軍少佐 森本三郎命

昭和十八年九月三日
ニューギニア ウエワクにて戦死

兵庫県印南郡別所村出身 
二十六歳


一、

皇民トシテ錦旗ノ下ニ死ス
之臣ノ無上ノ光栄ナリ死シテ
皇居守護ノ鬼ト化シ猶悠久ニ
皇國ト共ニ生クルヲ喜フ


二、

死ニ臨ミ悔ケレト未タ御奉公ノ
足ラサリシト垣内ニ逆臣名利ニ
趨ル徒輩ノ絶エサルヤヲ憂フ
老幼男女階級ヲ問ハス眞ニ皇民
タルノ光栄ニ感激シ各々ノ使命
ヲ自覚シ己ノ最大ヲ傾ケ皇ニ奉
シ顧ミテ恥サルヲ望ム


三、

遺品ヲ残シ遺族ノ涙ト化スヲ欲
セス皇國ニ生レ彼蒼ニ散華シ
遺骨ノ帰省固ヨリ期セス何処ニ
散ルトモ八紘建設ノ浄土ト化サン


四、

両親ノ恩ニ報イルニ心配ノ累積ヲ
以テセシ罪今日ノ壮行ニ免シ許シ給ヘ

                 三郎


************************************************************************* 
   
(カナを平がなに変換)         

一、

皇民として錦旗の下に死す

之臣の無上の光栄なり死して

皇居守護の鬼と化し猶悠久に

皇國と共に生くるを喜ふ


二、

死に臨み悔けれと未た御奉公の

足らさりしと垣内に逆臣名利に

趨る徒輩の絶えさるを憂ふ

老幼男女階級を問はす眞に皇民

たるの光栄に感激し各々の使命

を自覚し己の最大を傾け皇に奉

し顧みて恥さるを望む


三、

遺品を残し遺族の涙と化すを欲

せず皇國に生れ彼蒼に散華し

遺骨の帰省固より期せす何処に

散るとも八紘建設の浄土と化さん


四、

両親の恩に報いるに心配の累積を

以てせし罪今日の壮行に免し許し
給へ

                 三郎


          <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年9月 - 伝統

2019/09/07 (Sat) 19:44:10


妹弟へ


陸軍伍長 赤井 稔命

昭和十九年九月二十一日
比島ルソン島バコールにて戦死

鳥取県米子市大工町出身 
十九歳


千代枝。元気で勤めて居る事と思ふ。
俺も元気で居る。安心してくれ。愈々出発だ。喜んでくれ。
此の上は、専心御奉公致す覚悟である。

千代も大人になった。
母上様をよく手伝って御安心をさせてあげてくれ。
俺の分も兼ねて孝養を尽すのだぞ。

若い者の陥り易い短所としてと言へば解るだらう。
決して其の様なまねはするなよ。
一から十まで孝養だ。

それから博の面倒をよく見てやれよ。
仲良く暮すのだ。
お前が病気したら、母上様の苦労は大きなものだ。
体を大切に、孝養を尽くせ。

千代枝殿  

                  兄



博。元気で勉強の事と思ふ。
俺も愈々南方で活躍するから安心せよ。

体を丈夫にして、よく勉強して立派な者になるのだ。
高等科一年生にもなれば、物事の善悪も知って居る事と思ふ。
此の事をよく弁(わきま)へて、よく遊びよく勉強しなさい。

母上様に孝養を、俺の分も尽くす様に、確かに申付けます。
姉さんの言ふ事をよく聞ひて、体を大切にしっかり勉強しなさい。 


                         兄より

博へ

  (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/10f6f6ba7531563eecb127d1287fb4d1 )

          <感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年9月 - 伝統

2019/09/08 (Sun) 21:06:50


決戦場へ征きます


陸軍軍曹 藤好京介命

昭和十九年九月三十日
東部ニューギニアにて戦死

福岡県三池郡高田村出身 二十七歳



御父上様。
御母上様。

京介は、愈々日本男子として、決戦場○○へ征きます。
電撃的出撃に、光栄と希望と武者ぶるひにて、この筆をとって居ます。

今、静かに生立ちを振り返る時、生を享けて二十六年の今日迄、
御両親様には取り分け御心配の掛け続けにて、
御高恩の万分の一も御孝養出来なかった豚児(とんじ)を御許し下さい。

何卒、呉々も御自愛になり、
健やかな日を御過し遊ばす様、心より御祈り致します。

それから、自分の今後に於ける一切の事柄に関する処置は、
総て御両親様に御任せ致します故、宜しく御取計り下さいませ。

又、松田様始め、私が今迄に御世話になりました方々には、
御両親様より宜しく御伝へ下さいませ。

中林町の伯父上様にも御高齢の事とて、
折角の御自愛と私の感謝とを御伝へ下さいませ。

最後に重ねて御両親様始め、
兄上様方妹達の御健康とを祈って筆を擱(お)きます。

   昭和十八年○月○日

藤好京介
藤好虎秀様
藤好タキ様

最後の外出は、とても愉快でした。ブドー酒の乾杯で幸先よいです。


・・・

 『9月拝殿掲示』

   昭和天皇御製

   初秋         (昭和58年)

    秋くれど暑さは厳し生業(なりはひ)の
    人のよろこびきけばうれしも

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-201209-27.html )

          <感謝合掌 令和元年9月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年9月 - 伝統

2019/09/09 (Mon) 19:13:43


遺書


陸軍曹長  中西八郎命

  昭和十八年九月十四日
  東部ニューギニア ラエ付近にて戦死

  三重県度会郡城田村出身 二十三歳


兄ハ此ノ度(たび)、大東亜戦争ノ第一線ニ参加スルノ光栄ニ浴(よく)シ、
勇躍(ゆうやく)征途(せいと)ニ就ク。
固(もと)ヨリ毫(ごう)モ生還ハ期セズ。

吾無キ後ハ、我ニ代リ我々ノ養育ニ終生ヲ捧ゲシ
御両親様ニ、十分ナル孝養ヲ尽サレンコトヲ望ム。

兄戦死スト雖(いえど)モ、決シテく歎(なげ)クコトアルベカラズ。

益々勇気百倍兄弟力ヲ合セ、
家名ノ隆昌(りゅうしょう)昂揚(こうよう)ニ勉(つと)ムベシ。

兄ハ、オ前達一同ノ健康ヲ祈ルヤ切ナリ。

  昭和十八年六月二十四日

兄ヨリ
弟妹一同ヘ

・・・

『9月拝殿掲示』

  大正天皇御製    (大正3年)

   とくいえて皆もとの身にかへらなむ
   いたで負いたる武士(もののふ)のとも

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-688.html )

          <感謝合掌 令和元年9月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年9月 - 伝統

2019/09/10 (Tue) 18:51:37


幸に御安心あれ


陸軍歩兵上等兵 小山寅右ヱ門 命

昭和六年九月二十五日
満洲奉天省奉天付近にて戦死

長崎県西彼杵郡喜々津村出身
二十二歳


昭和六年九月十八日、満洲事変突発し、
所属聯隊(歩兵第七十八聯隊)に出動の命令下り、
翌日正午龍山駅を出発したが、
新義州に於て待機中、小山上等兵は家郷の父に左の短信を寄せた。


日頃鍛へし軍人精神の発揚に努め、
天晴れ帝国軍人として君国に身を捧げ、
決して一家一村の汚名をとるが如き
卑怯の振舞なすまじく、
幸に御安心あれ。

右の書信は九月二十四日父幸助氏の許(もと)に到着した。
翌二十五日早朝こそは上等兵が護国の鬼と化した日である。
(『満州事変忠勇美談』より)

・・・

 『9月拝殿掲示』  

 昭和天皇御製

     皇居内の勤労奉仕   (昭和20年)
 
  戦いにやぶれしあとのいまもなほ
   民のよりきてここに草とる

          <感謝合掌 令和元年9月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年9月 - 伝統

2019/09/11 (Wed) 18:43:46


皇国に殉ずる機、到来す


海軍大尉 中田 庄平 命

昭和十九年九月二十一日
フィリピン群島マニラ湾附近にて戦死

富山県東礪波郡種田村出身 四十二歳


愈々(いよいよ)皇国に殉ずる機、到来す。
武人の本懐何物か之に例(たと)へん。

偕老(かいろう)を契る七年余、
逆境にあること尠(すく)なからざりしに、
赤誠以て克(よ)く後援の労を尽したるを感謝す。

茲(ここ)に一言述べて、
将来準拠(じゅんきょ)すべき点を明かにし、別辞となさんとす。


一、 博明を十二分に養育し父の素志を継がしむる事

二、 母上に孝養を尽されたし

三、 良縁あらば再婚差支なし

四、 健康第一、誠心を以て世に処せよ

五、 博明、年到らば別紙を渡し激励されたし
    はゝを立て わが子培(つちか)ふ 誠こそ
    男(お)の子にまさる 大和なでしこ

閘北総攻撃に際して 庄平

たか子どの

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-09-17-3 )


          <感謝合掌 令和元年9月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年9月 - 伝統

2019/09/12 (Thu) 19:35:05


御両親様


陸軍中尉 角田文雄命

昭和二十年九月九日
比島ルソン島バギオにて戦傷死

長野県伊那市大字伊那出身
二十五歳



(前略)

今まで御育て下さった御両親様其の他一切の御恩に感謝致して居ります、
もう思い残すことはありません、

只御両親の御恩に少しも報ゆる事の出来なかった事を申訳なく存じています、
誠に親不孝者でした、我儘な文雄をよくお育て下さいました、
全く涙が出ます御容赦下さい。

上船すればもう生死のことは解りません
小生も最後まで頑張るつもりです。
これが最後の便りとなるかも知れません

御両親様も御丈夫にて御働き下さい。
任地到着すれば又便りも出来ましょう
そして又母上様の作りし野菜を頂ける日もあらんと存じて居ります。

兄上、姉上様
峯子にくれぐれもよろしく春雄にもよろしくお伝へ下さい。

 昭和十九年九月二十五日

          博多にて   文 雄


          <感謝合掌 令和元年9月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~令和元年十月 - 伝統

2019/10/01 (Tue) 19:02:54


愛児への手紙

陸軍上等兵   孕石 春二(はらいし はるじ) 命

昭和二十年十月十一日
中国漢口 第五十八兵站病院にて戦病死

愛知県名古屋市西区天塚町出身 三十五歳



愛児よ

どうか不幸なる人から幸福なる人に、
お母さんをしてあげてください。

それにはお母さんのいひつけをよく守り、
お母さんのよき相談相手になり、
決して心配させないでいただきたい。

それを父は希望します。


ひいては成人するにつれて、名誉ある家族の名を辱めざること、
呉々(くれぐれ)もお母さんの云ひつけをよく守り、
よき相談相手となり孝養していただきたい。


清く美しき香りある梅花の如く咲き誇り来たれよ。
強く正しく清く、お母さんの云ひつけをより守り心配させぬこと。

これが父に対しての孝(こう)、ひいては忠(ちゅう)となる。

日本の根本は忠孝(ちゅうこう)にあり。


愛児よ
すこやかに
強く
清く
正しく

 昭和十八年十月二日
                   父より

愛児殿

     ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

          <感謝合掌 令和元年10月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年10月 - 伝統

2019/10/02 (Wed) 18:20:30


入営に際して父母様へ

陸軍技術兵長 中根秀夫 命

 昭和21年6月18日
 朝鮮古茂山にて戦病死
 愛知県挙母市大字梅坪出身 23歳


生まれてこの所に二十余年の歳月、父母様には
いろいろとご心配をかけました。

今後は、ただ父母様の日頃のご教訓を守り尽忠報国の一念に燃え、
父母様のご苦労の万分の一なりとも報いる覚悟でございますから
ご安心ください。

また我々兄弟三人が、目出度く凱旋の日をお待ちください。
今後、銃後は益々ご多忙でありますが、
身体(からだ)に充分注意され、
日々ご健在でお暮しください。

終わりに父母様の健康をお祈り致します。

                       秀夫より

   昭和二十年一月二十七日

父母様へ

・・・

靖国神社 平成30年10月 

拝殿啓示「明治天皇御製」

  をりにふれたる(明治38)

 萬代も ふみのうへにぞ のこさせむ 國につくしし 臣(おみ)のこの名は

 ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html <平成30年10月> )


          <感謝合掌 令和元年10月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年10月 - 伝統

2019/10/03 (Thu) 19:10:32


陸軍軍曹 西島 觀空 命 

昭和十九年十月二十日
ビルマ国モーライク県カレワ付近にて戦死

滋賀県長浜市宮司町出身 
二十四歳


御両親様


今まで長らく二十幾星霜、御厄介、御迷惑ばかりかけた觀空を御許し下さい。
又、何と言つて御礼を申したら良いやら、その言葉を知りません。
唯、私は感余つて言ふことを知りません。
早く去る觀空の不孝は御許し下さい。

しかし今まで受けた御恩の万分の一にでも報いられればこの上ない幸福です。
又、男子の本懐であり、名誉であります。
この決戦下にまはり合したからこそ孝道も盡せたのです。
又、御奉公も出来たのです。

觀空も喜んで散り行きます。七生報国の精神を以て大東亜の礎となります。
靖国の宮居に神として御祭祀下さる陛下の御仁慈には、感泣するのみです。

 臣としてこれ以上の名栄・名誉がありませうか。
自分一身のみでなく、一家の名誉です。喜んで下さい。

長らく御育て下さつたこと有難うございました。
では御両親様どうか老境のこととて、御身おいとひの程祈り上げます。
妹も達者で暮らせ。


                     ではさやうなら 觀空
 御父母上様
 妹

・・・

(平成29年)『10月拝殿掲示』

       貞明皇后御歌(大正天皇の皇后。昭和天皇の母君)


           靖国神社大祭のおこなはれけるをりに  (明治38年)

     羽車の今かわたらすすすりなく
     やからの声のとほくきこゆる

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20171018.html )

          <感謝合掌 令和元年10月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年10月 - 伝統

2019/10/04 (Fri) 19:13:33


比島より


陸軍司政官 石坂 捨三 命 

昭和十九年十二月十四日
フィリピンスービック湾にて戦死

新潟県新発田市字麸屋町出身 
三十七歳


今日、靖国神社大祭につき遥拝式を行つた。
常夏の比島も今日は珍しく一日雨降りで、内地の秋の様な涼しさである。

さて、その後当方相変はらず元気で勤務してゐる。

承知の通りマニラ爆撃も数回あり、比島周辺には敵がうろついてゐるが、
我に必勝の確信あれば、今更驚くことはない。

毎日落ち着いて仕事をしてゐる。

内地はそろそろ秋風が立つ頃と思ふ。
健康に留意し益々元気で銃後を守る様、祈つてゐる。
五十嵐様始め隣組の皆様にもよろしく。

十月二十三日
    
ミツ子殿

・・・

(平成28年)『10月拝殿掲示』

     明治天皇御製

        凱旋の時

   外国(←本来は旧字)にかばねしらししますらをの
   魂も都にかふかへるらし

  ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20161020.html  )

          <感謝合掌 令和元年10月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年10月 - 伝統

2019/10/05 (Sat) 20:04:29


遺書


陸軍軍曹 常見哲也命 

昭和二十年五月三十日
フィリピンルソン島にて戦死

京都府舞鶴市平野屋出身 
十八歳


若年の身皇師(こうし)に従ふ、もとより死を決す。

黒潮は萬古(ばんこ)不盡(ふじん)、故郷の岸に波を打つ。

我又永遠不盡の生命を求めて海洋を征く。

殉皇の大義、炳(へい)として神皇國に輝き吾が示標とたつ。

一、故里に残すことごと忘れ去り
           唯一途に皇に仕えん

一、故里に何の名残を止(とど)むべき
           散って九段の花と咲く身に

一、身はたとへ南の海に朽ちぬとも
           留め置かまじ特幹魂

・・・

(平成27年)『10月拝殿掲示』

     昭和天皇御製

        朝 海            (昭和8年)

 天地の神にぞいのる朝なぎの
 海のごとくに波たたぬ世を

 (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20151004.html )

          <感謝合掌 令和元年10月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年10月 - 伝統

2019/10/06 (Sun) 21:52:42


遺言状

陸軍大尉 小松 進 命

昭和十八年十月十六日
ニューギニアにて戦死

長野県諏訪市出身
三十五歳


一、君ニ召サレテ屍ヲ戦野ニ曝スハ固ヨリ武人ノ本懐ナリ

一、盡忠ノ大義ニ生ク晴天ノ如シ

一、忠誠ノ士ハ純情ノ孝子ナリト祖先ノ遺風ヲ顕彰セン

一、残レル妻ノ使命ハ孝養ト子等ノ教育ナリ

一、昭夫ハ承継ナリ重夫・恭夫ハ大陸ニ勇飛セン

一、久子ニハ良縁ヲ

一、今ニシテ各位ノ好意ノ大ナルニ比シ恩ニ報ユルナカリシヲ

一、各位ニ宜敷ク

 昭和十六年八月
                             進
妻ヘ

          <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年10月 - 伝統

2019/10/07 (Mon) 18:27:22


可愛い妹へ


海軍飛行兵曹長 三上春治命

昭和十九年十月十二日
台湾にて戦死

島根県邑智郡口羽村出身 
二十二歳


安ちゃん、懐かしい御便り有難たう。

元気で産業戦士として踏み出した由、兄さんは心から祝福してやる。
元来勝気な安ちゃんだから、少々の苦しい事辛いこと位、
我慢して御国の為に働くものと確信してゐる。

同封の金はほんのわずかだが、兄さんの心尽しの御祝と思って受取って呉れ。
どんな困難なことにぶつかっても、若さと意気で押通す。
くよくよ考へたり嫌だと終始思ってやってゐると、仕事に負けてしまふ。

我々日本国民は、皇国(すめらみくに)に生を承ける喜びと誇りを持って、
喜んで難事に当たって行け。

環境が変って窮屈なこと、やりにくいこと、
又、急に親の下(もと)を離れて淋みしい心等、
邪魔する目に見へない敵はあるけれど、安ちゃんも三上家の子だ。

兄さん達三人共、立派に軍人として御奉公してゐるのだ。
女でも兄達に、なに負けるものかと云ふ旺盛なる負けじ魂で掛って行け。

日本人である以上決して忘れていけない大君の御恩、そして父母の恩、
いくら忙しくとも年老いてゐる父母は、
口羽の土地から常に安ちゃんのことを心配して居られると謂ふことを忘れず、
余暇を利用して家に便りを出せ。

(中 略)

戦野の兄二人は、元気で居られるから安心してやれ。
兄さんも、今では可愛い雛鷲の教育で忙しいが、至極元気だ。

呉々も注意するが、自分の体を傷つけたら、
之は大きな国家への不忠だから、充分気をつけて作業に当れ。

仕事にやうやく馴れる時、心に大きな隙(すき)が出来る。
大いに自重してやれ。

末筆だが安ちゃんの健斗を祈る。

可愛い妹へ

三重県鈴鹿海軍航空隊
第十二分隊教員室 兄より

          <感謝合掌 令和元年10月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年10月 - 伝統

2019/10/08 (Tue) 18:08:15


安らかに大きくなれ

海軍大尉 田村 清命

昭和十九年十月二十七日
比島レイテ島東方
サマール島沖にて戦死

千葉県安房郡瀧田村出身
四十四歳


愛する良子(よしこ)、恭子、光子、和代よ。
父なしとて悲しむなかれ。
父は聖戦に於て、名誉ある戦死をしたのだ。

御前達は、生前の父をよく知るまい。
良子も恭子も永久に記憶に残る程の印象はあるまい。
然し、父は御前達の健康さうな、いとしい幼顔が、印象にハッキリして居る。

父は、作業地(訓練地)にあるときも、戦場にあるときも
御前達のなつかしい姿を思ひ浮べては、元気を出して居た。

父は、御前達が揃って健康で、満足な五体を所有して居るので、
何の懸念もない。安らかに戦死が出来る。

児等よ!安らかに大きくなれ・・・大きくなったら母の意に背かず、
父を辱かしめず立派な日本の女性として雄しく生きて呉れ。
姉妹は仲よく結束して、一人の母を守れ。

(中 略)

「父恋しくば靖國神社へ」とは、父も映画でも見た。
本当にさうだ!御前達も名誉の遺児として、社頭の対面もさして頂けるだらう。
其の時は、肩身を広く九段に来て呉れ。

(中 略)

言ひ遺す事は夫れ丈だ。皆シッカリ育て!

十一月
                    父より

          <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年10月 - 伝統

2019/10/09 (Wed) 18:54:31


涙して下さるな

海軍一等機関兵  安藤照太郎命

 昭和十三年十月十六日
 中華民国湖北省西塞山にて戦死
 福岡県京都郡豊津村出身 二十四歳


暑さも盛りを過ぎて、心持ち涼味を感ずる頃ともなりました。
其の後、皆様には御機嫌麗(うる)はしく御過しの御事と存じます。
御陰様にて身体は益々頑健にて御座いますれば御放念に下され度。

今迄不遇な運命にありましたる私も時機到来、
或る方面に転勤する事になりました。

御老体の御両親様並、三ちゃんや良ちゃんには御身体に特に留意せられ、
二人には元気に勉強せられる様に。

一度(ひとたび)戦地へ臨(のぞ)む上は、
軍人として愧(は)ぢざる行ひは心に銘じて居りますれば、御安心下され度。

終りに臨み特に御願ひ致し度は、不幸にして聖戦半(なかば)に
て斃(たお)るるとも、家に在りて必ず涙して下さるな。

此れが臨地(りんち)に向ふ私の唯一の御願ひです。

笑って迎へて下されば、此に越した喜びは御座いません。
呉々も涙して下さらざる様御願ひ致します。

取り急ぎの為、乱筆ながら御通知まで。
明年は出港の予定。御機嫌よう。
元気で行って参ります。

                       終
 昭和十三年八月十九日
御両親様
膝 下

 ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-733.html )

          <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年10月 - 伝統

2019/10/10 (Thu) 20:12:22


魂は永遠に生きる

海軍一等兵曹  楠瀬益實命

昭和十八年十月十二日
ニューブリテン島方面にて戦死

高知県高岡郡戸波村出身
二十三歳


遂に死ぬべき時は来た。
帝国軍人として最大の名誉の時が来た。
今より小生は昇天するのだ。

思へば此の世に生をうけて二十有余年、短かくて長き人生だった。

(中略)

小生も今死すべき最好機に恵まれたのだ。

英米打倒而(しか)して東亜百年の大計、
引いては人類の幸福、世界の平和の礎のために之が最適の死に場所だ。

肉体は之で永遠に此の世を去る。
而し魂は永遠に生きる。

靖國へ行って待って居る。折があったら会ひに来られ度。

(後略)
                          
御一同様

                           楠瀬益實

          <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年10月 - 伝統

2019/10/11 (Fri) 18:26:02


靖国神社で会ひませう


海軍少尉 松尾 勲 命

昭和十九年十月二十七日
比島方面にて戦死

長崎県南高来郡愛野町出身 二十四歳


 咲くもよし 散るも又よし 桜花

父母上様、喜んで下さい。
勲はいゝ立派な死場所を得ました。
今日は最後の日です。

皇国の興廃此の一戦に在り。
大東亜決戦の南海の空の花と散ります。

大君の御楯となって分隊長を初め、共に潔く死につき
七度生れかはり宿敵米英を撃滅せん。
あゝ男子の本懐是に過ぎるものが又とありませう。

(中略)

二十三年の幾(いく)星霜(せいそう)良く育てゝ下さいました。
厚くく御礼申し上げます。

今度がその御恩返しです。
勲はよくも立派に皇国の為に死んでくれたとほめてやって下さい。

ほんとに兄弟の中で私は一番幸せ者でした。
喜んで居ります。

弟も立派な軍人として御奉公出来る様にして下さい。
お願ひします。もう何も思ひ残す事はありません。

父母上様、今度白木の箱でかへります。
靖國神社で会ひませう。
長い間有難うございました。

(中略)

父上様
母上様  
      勲


          <感謝合掌 令和元年10月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年10月 - 伝統

2019/10/12 (Sat) 19:25:46


お母さんの夢を見ました


海軍二等兵曹 池田顯雄命

昭和十七年十月十八日
ソロモン群島にて戦死

大阪府大阪市東淀川区出身
二十四歳


何時とどくか知れんと思ふとなんとなく淋しい様な氣がするのですが、
それでゐてかうして書いて見たくなるところを見ると、
思ひを馳せてゐる日本の空がこんな柄にもない感傷を起させるのだ
と自分ながらをかしい様なそれでゐてしみじみした変な氣持になります。

戰争といふものが單なる生命のやりとりである場面を
想像してゐた事もありましたが、
何度か爆彈の中をくぐり彈丸の中をくぐった今に於て
死することよりも尊いものがやっぱりあるのだ。

生命のやりとりと云ふ當面の問題以上に
その生と死の境から湧いてくる意志といふのか、感激といふのか、
その様な中で、自分の瞬間の生がたとへ様もなく尊いものに思はれて来ました。

”俺の使命”なんて、大きな事も言へる柄でもないのですが、
それでもあと僅かになって来たこの生活の終止符を
最も意義深く戰ひ抜きたいと思ひます。

随分皆様方には御無沙汰をしてゐます。
しかしこの様なわけですから許して頂くより他に仕方がありません。
私は至極朗らかに元氣でハリキッて頑張って居りますから御安心下さい。

(中略)

今朝方でしたか五分位うとうとしてゐるうちに母上様の夢を見ました、
それで今日一日中うれしくてたまりませんでした。
皆様方の御健康をはるかお祈りして筆を擱きます。   

                         池 田 顯雄

父上様 皆様へ


          <感謝合掌 令和元年10月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~令和元年11月 - 伝統

2019/11/01 (Fri) 17:56:07


明子へ

陸軍上等水兵  西村英吉 命

昭和19年11月12日
東支那海にて戦死

大阪府大阪市東区谷町出身 28歳


父は軍人の本分を盡して、護國の人柱となる。
明子は父の死を知り寂しく悲しく思ふだらうが、
決して心配せぬ様にして欲しい。

父は死しても霊(たましい)は明子と共に毎日一緒に暮らしてゐる。
明子が立派な人になる様に、病気もせず元気に学校に行ける様に、
神様に祈ってゐる。

乳が応召に際して書き付けた訓(おしえ)をよく守って、
美しい心の人になる様に心掛けて欲しい。

追わないお前をよく叱ったが、
立派な父の後継人になって欲しかったからだ。
何卒許してくれ。母の教へをよく守って孝行をして欲しい。

お前が立派な人になるのを、父は何よりも楽しみにしてゐる。


昭和十九年五月三十日

                        父

明子へ

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

          <感謝合掌 令和元年11月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年11月 - 伝統

2019/11/02 (Sat) 20:28:57


出発に際し

陸軍少佐 松本清司 命

昭和十九年十一月十五日
フィリピン、レイテ島にて戦死
東京都日本橋区江戸橋出身 三十二歳


出発に際し一筆書き遺し候、
今般出征の大命に接し誠に武人の本懐、
男子の名誉と存じ候。

御身、今日の事あるは結婚当日より十分に覚悟に候へば
さして驚かる事もこれ無かるべしと存じ候。

(中略)

我亡き後、母および子を抱え御身のご苦労の程、十分にお察し申し上げ候も、
遺族として国民の尊信、一家に集まるに至るべき、
その点十分にご自覚の上、遺藉(いしゃ)の甘さに馴(な)るる事なく、
謙譲の美徳を発揮して世人の恩に報いる様、老婆心ながらお願ひ申し上げ候。

(中略)

以上、種々申し述べ候も我、今出征するに際し、
十分に御身を信頼致し居り候へば、何ら心残り等これ有るものに非ず。
意(こころ)を安んじて征途に上り得るを深く感謝するものに候。

宜しく健康に留意してお暮し下さる様、
尚(なお)くれぐれ茂雄の教育お願い申し上げ候。

    十一月二十二日よる書く
                         清司

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-4097.html )

・・・

『11月拝殿掲示』
          大正天皇御製
            寄國祝        (大正5)

     年どしにわが日の本のさか行くも
     いそしむ民のあればなりけり

           <感謝合掌 令和元年11月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年11月 - 伝統

2019/11/03 (Sun) 21:21:35


遺言


陸軍曹長 笹 榮藏 命 

昭和十九年十一月二十八日
中華民国雲南省遮放陣地にて戦死
和歌山県日高郡竜神村出身 
三十三歳
   

大命に依り勇躍征途に就く
男子の本懐之に過ぐるものなし

心に掛る事はなし
一人の親一人の子供を大切にして幸福に暮らされよ
近親一同に宜しく頼む

    空晴れて 心にかかる 雲もなし
                      榮藏
 笹 春枝殿



幼くて何事も不明だらう
やがて分かる時は来る
良く母の教へを守り立派な人間となれ
父は其れのみ祈る

    忠 孝 一 致

 昭和十九年六月十五日
                      父
 幸代へ

  ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20171127.html )

・・・

『11月拝殿掲示』

       明治天皇御製

            鏡      (明治37年)

     榊葉にかくる鏡をかがみにて
     人もこころをみがけとぞ思う

           <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年11月 - 伝統

2019/11/04 (Mon) 22:04:28



出動命令下る

陸軍兵長 山口 隆 命 

昭和二十年二月二十六日
ビルマ・カズンにて戦傷死

福岡県朝倉郡三輪村出身 
二十五歳


恵美子、順子  兄は常夏の国の戦場へ行く。
内地にては最後の手紙だ。

兄は男児として、此れほど喜ばしいことはない。
一月三日会つたのが最後になつたかも知れない。
生きて帰るとは思はぬ。

ただ、千人針にあふれる銃後の人々の貴い力と
御守札の力を頼んで、大いに張り切つて働いてくるよ。

今までは何もせず不孝であつた。
 兄は今、死にに行くよ
 大日本帝国 天皇陛下万歳

留守中、兄に代わつて満兄と共に御両親様に孝行をしてくれ。
そして、兄妹仲良くしてくれ。

では、左様なら。皆様の健康と多幸を祈る。

隆より

  ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20161127.html )

・・・

『11月拝殿掲示』
       明治天皇御製

           秋祝      (明治35年)

     すめ神にはつほささげて國民と
     共に年ある秋を祝はむ

           <感謝合掌 令和元年11月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年11月 - 伝統

2019/11/05 (Tue) 21:49:57


遺書

陸軍大尉 小林善彦 命 

昭和十六年十一月二十九日
タイランド湾にて戦死

広島県御調郡向島西村出身 
二十三歳


不肖善彦、今世に生を享け大君の恵みを忝(かたじけの)うし、
父母の慈愛に育てられ今日斯くあるに至る。
深く其の御恩に感謝すると共に粉骨砕身以って報恩せんとす。

中略

此の度の死、もとより覚悟の事にて善彦は笑って護國の神とならん。

戦ひて敵兵を憎まず。蓋(けだ)し敵も國を愛するが故に、
故郷に父母妻子を残し来る者なればなり。
彼等は誤れる為政者の股肱(ここう)となり死す。

善彦は八紘(はっこう)一宇(いちう)の大理想実現の為、
皇國の礎石となるなり。
嗚呼(ああ)男子の本懐これに過ぐるなし。

中略

死後、特別に法事等の事を行はず、靖國神社に参拝し下されば、
善彦は春ともなれば桜花となりて境内に咲き、
喜びて皆様をお迎へ申し上げるなり。

善彦は靖國の神々と共に皇國を永久に護るらん。

御父上様御母上様、度重なる生前の不孝まことに御詫びの言葉もなし
深く深く心より御詫び申し上ぐ。

昭和十六年十月一日
                       小 林 善 彦

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20151106.html )

・・・

『11月拝殿掲示』

     明治天皇御製

        紅葉         (明治42年)

  もみぢばの赤きこころを靖国の
  神のみたまもめでてみるらむ

           <感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年11月 - 伝統

2019/11/06 (Wed) 21:46:10


遺書

海軍二等機関兵曹 姫野清馬命

昭和十七年七月五日
アリューシャン列島アガツ島付近にて戦死

福岡県糸島郡福吉村出身
二十六歳


母上様には、色々と御心配を掛けまして申し訳ありません。

海軍軍人となったこの上は、誠心誠意奮闘する覚悟です。

軍人たる者何時身を捨つることあるや、今から決心してゐます。

母上様の並大抵ならぬ苦労は、身に沁みて有難いと思ってゐます。

小生今までの御不孝をお許しください。

「一死報國」以って繕はして戴きます。

母上様に対して深甚の感謝を捧げます。
  
                         敬具

昭和十一年五月三十日

                       姫野清馬
 
母上様


・・・

参考Web

『靖國』11月(霜月)より
http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=2261


『11月拝殿掲示』

       昭和天皇御製

            楽       (昭和48年)

     豊年のにひなめまつりの夜はふけて
     しづけき庭に楽の音きこゆ

           <感謝合掌 令和元年11月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年11月 - 伝統

2019/11/07 (Thu) 21:30:08


それは運命だと思ひます

陸軍伍長 宗本琢磨命

昭和十九年十一月十一日
比島カモテス海峡にて戦死

岡山県苫田郡中谷村出身
二十三歳


蝉の声かしましき八月の初旬、今昭和十九年八月の始め、
友と共に戦地に行かんとするに当り、一筆父上に呈し、不孝を詫びんとす。

(中 略)

何処に行き、どんな事が起っても
琢磨はお父さんの子であると云ふことを忘れない積りです。
そこから必ず自分の進む可き、何らかの方向が示されると信じます。

両親が今迄、琢磨を引張ってきて下さった強い強い力は、
やがて琢磨が自分一人で押進んでゆく強い力と成ると信じます。

風波荒い社会、つくづくさう感じます。
波静かな両親の港に憩ふときのみ、琢磨は何もかも忘れて安らかな気になります。
淋しい、さう云ひたい今の気持ちです。

いくつになっても、やっぱり親程よいものはこの世にないとつくづく思ひます。
戦地の病院で息を引取る病人が、最後に云ふことばは「お母さん」の一声です。
いつまでもいつまでも、親のもとにいたい、さうした気持ちで一杯なのです。

然し、男である以上、まして父の子である以上、
日本の男の皆やることは死んでもやらねばならないのです。

お父さんの云はれた通り、必ず死ぬ人間で有る以上、
どこでいつ死んでもそれは運命だと思ひます。

幸にして妻子はなし。唯々両親様の健康は、
一日も長くすこやかなれと祈るのみです。

其の日、其の日の最善を尽しつつ琢磨は元気で行ってきます。
決して進んで死を望むやうな琢磨ではありません。

然し、死す可き時には潔く死にます。
其れが男子の一生として、亦、両親様も一番喜んで下さる道と信じます。

美佐子、綾子もよくよく両親様の注意を守り、立派な女性となるやう。
 
昭和十九年八月四日 朝



・・・

<参考Web:平成25年11月16日の靖国神社:
https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2014-01-02-1 >

           <感謝合掌 令和元年11月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年11月 - 伝統

2019/11/08 (Fri) 21:48:27


遺言状

陸軍伍長 辻本孝一命

昭和二十年十一月三十日
ソ連シベリヤハバロフスク州
コムソモリスク収容所にて戦病死

大阪府大阪市浪速区出身 二十三歳


本日、遂に此の書が開かれた。
小生は入営兼出陣の際より、生還を期せず。
先づ、父上様始め皆様の御恩を謝す。

出陣の時より、家の生活に付ひては少しも気に掛けず、
皆、初子、父上様に御委託済の事。

修二も軍属にて何処に有りや不明。
家の事は、父上様に修二に宜敷き様、取計って頂き度い。

初子もよき人妻になる様。
良一もしっかり勉強して、よき日本人になってくれ。

そして、皆力を合せ、父上様を助け、よき家庭を建設してくれ。
家の心配事は自分等にて片付けず、宜敷く親族の方に御相談する様、
小生よりも宜敷く別書に書いてある。

そして、家族一体幸福、安全を期して頂き度い。
修二よ。初子よ。花子よ。良一よ。
皆、皆、力を合せて父上を助け、大日本帝国の為、頑張ってくれ。

父上様にも充分身体に気を付けられ、楽しく余生を御過し下さい。

                            以上

  昭和十九年三月
     入営、出発に際して
                          孝 一
   父上様
   修二
   初子
   花子
   良一         

・・・

 『11月拝殿掲示』

   明治天皇御製

   をりにふれたる         (明治36年)

    豊年(とよとし)の新嘗祭(にひなめまつり)ことなくて
    つかふる今日ぞうれしかりける


<靖國だより-霜月  24.11.12
    http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?no=1294 >   

           <感謝合掌 令和元年11月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年11月 - 伝統

2019/11/09 (Sat) 21:34:52


戦地の兄へ


陸軍軍属(看護婦)湯川カツ命

昭和二十年十一月三十日
内地帰還後、本籍地にて戦病死

新潟県中魚沼郡川治村出身 二十四歳


叢(くさむら)より聞ゆる虫の音(ね)に、
初秋の訪れを一入(ひとしお)深く感じて参りました。
兄さん、先日はお便り有難う御座いました。

私も宮ちゃんも相変らず元気にて服務致して居ります故、
他事乍ら御休心下さいませ。

此方(こちら)は内地の彼岸頃の気候で、とても凌(しの)ぎ良くなりました。
参った当時より、多忙な日々を過して居りますが、
仕事にも大分馴れて参り、楽しい日を送り迎へして居ります。

兄さん今度お便り下さる時は、表記の通りにして下さいね。
四九六部隊で充分参りますから、お願ひ致します。

もう時間が迫って参りました。又後にて。
健康に注意して頑張って下さいませ。

かしこ

・・・

 『11月拝殿掲示』

(現上皇陛下)御製   
 
  勤労奉仕団の人々より今年の作柄を聞きて  (平成7年)

   豊かなる実りなりしといふ人の
   多き今年の秋を喜ぶ


・・・

<参考:

(1)靖國だより-霜月  23.11.7
    http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20111107.html 

(2)今日の靖国●皇紀二千六百七十一年霜月廿五日
    http://mishimadai.blog72.fc2.com/blog-category-11.html >

           <感謝合掌 令和元年11月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年11月 - 伝統

2019/11/10 (Sun) 22:31:50


遺書

陸軍曹長  久米俊彦命

昭和十九年十一月二十日
フィリピン群島ミンダナオ島サンカナンにて戦死

鹿児島県鹿児島郡西桜島村出身 二十五歳


畏クモ大命ニ依リ、外敵征討ノ途ニ就ク。
男子ノ本懐之(これ)ニ勝(まさ)ルモノナシ。

遂ニ待望ノ日ハ来ル。
生キテ祖國ノ土ハ踏マズ。
笑ッテ護國ノ鬼ト化ス。

為念一言遺ス。

一、皇恩ニ感謝シ、皇室ノ御繁栄ヲ祈ル。
一、戦死ハ武人ノ本懐ナリ。嘆クナカレ。
一、名誉アル遺族ナリ。世人ノ講評ヲ享(う)クルナカレ。
一、兄弟姉妹相助ケ、母上ニ孝養ノコト。

二十有余年間ノ親不幸ヲ謝シ、母上ノ御健康ヲ祈ル。
慎也ハ軍人トナル様、励マサレタシ。

      今日ありて 明日ある身とは 思ふなよ
        皇國(すめらみくに)の 防人(さきもり)ならば

      なげくなよ 桜の花と ちりし我
        ほほえみ来たれ 靖國の杜

母上様
兄上様
姉上様

・・・

 『11月拝殿掲示』
    
 大正天皇御製

    秋日憶遠征(大正3年)

 軍人つつがなかれと思ふかな
 秋の夜寒になるにつけても

  (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20101115.html


<参考>

靖国神社 (平成22年11月7日) [靖国神社]
https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2010-11-07-2

           <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年11月 - 伝統

2019/11/11 (Mon) 18:49:38


靖国神社デ祈ッテヰマス

陸軍少佐 池亀 重作 命
昭和十七年十一月二十三日
ソロモン群島ガダルカナル島九〇三高地附近にて戦死

新潟県西頸城郡磯部村出身 四十歳


父ヨリ
惠子ヨ、可愛イ惠子ヨ。

父ハ惠子ガ早ク大キクナリ、立派ナ人ニナリ、
御國ノタメニ働クコトヲ祈リマス。

母ノ教ヘヲヨク守リ、誰ニモ負ケヌ様ニ、オ勉強シナサイ。
「努力ハ天才ニ優ル」ト言フ事ヲ念ニ収メ、
偉イ人ニナッテ母ニ孝行ヲシナクテハナリマセン。

父ハ東京ノ靖国神社デソレバカリ祈ッテヰマス。


 (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/acd3a86b1f9aae7c9a97c91fdea53e2f )


           <感謝合掌 令和元年11月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年11月 - 伝統

2019/11/12 (Tue) 18:48:20


最後の手紙

海軍二等兵曹 西島光男命

昭和十七年十一月十一日
印度洋にて戦死

山口県豊浦郡宇賀村出身
二十四歳


前略
永らく御無沙汰致しましたが、
其の後御一同様には御変なく御消光の事と遠察致して居ます。
自分も某地に歸着以来は益々元気で軍務に精勵致して居ます故御安心下さい。

今日再び命を受け○○方面に作戦行動致す様に成りました。
行動中は勝手乍ら御便りが出来ませんので其の点御心配なく。

上御一人のためだ・・・・・・全能力を発揮して益々奮闘致します。
我々は出動命令を受け任地に向ふ時はこれが最後だと思ひ、
直に皆々様に御心配をかける様な気がします。

然し何時が最後に成るか解りません。
この便りが父の許につく頃は、もう緑の六甲山も附近の山々も、
カーキ色にそまる頃かと思って居ます。

最後に御一同様の御健康を祈る。
では元気で任地に向ひます。
皆々様も嬉んで送って下さい。

              左様奈良
          呉局気附報國丸
西島光男


           <感謝合掌 令和元年11月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~令和元年12月 - 伝統

2019/12/01 (Sun) 18:56:52


生還は期せず


陸軍衛生伍長 円城知三(ともぞう)命

昭和十九年十二月十日
フイリピン・レイテ島ダナオ湖にて戦死

滋賀県犬上郡豊郷村出身 三十四歳


手紙、正(まさ)に拝見致しました。
子供の便り殊(こと)に嬉しく、折々読み直す楽しさ何にも勝ります。

同封の為替、当地にては如何ともなし難く、変そう致します故、
宜しく取り計らひ下さいますやう。

戦争も刻一刻と深刻になしました。
自分も時折(ときおり)心残りを書き連ねるますが、
敢(あ)えて生還は期せず、南海の曙消え行く星の数に
喜んで入ります。

高きうねりも、いつか凪(な)ぐことも有ります。
その時は南の空に輝く星の数に入っているかも知れません。


お前に残す言(こと)の葉は無いが、
行く末永き子等を思ふ時、自分も親である。
強い様で弱い所もある。

これだけは充分頼む。
世の人に辱(はじ)んことを切に望む。

 七月一日

                  知三

ヤエ殿

   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年12月 - 伝統

2019/12/02 (Mon) 18:25:52


俺は元気で征く

陸軍大尉  瀬川正俊命

昭和十九年十二月七日
フィリピン、オルモック湾にて戦死

大阪府大阪市福島区大野町出身 
二十一歳


兄上様、正俊は帝国軍人として、最後の名誉を
与へられました。誓つてやります。

母上様、二十一星霜のご訓育は無駄ではありませんでした。
くれぐれもお大事に。

正子姉さん、母上をお願ひします。

植木の兄上姉上、元気で頑張れ。
叔父様お世話になりました。
ご奮闘下さい。

(中略)

亘(わたる)君よ日本男児は、常に腹と體(からだ)を錬(ね)れ。
如何なることも断じて貫け、俺は元気で征く。


   最後に一首

    米英の夷(えびす)は如何に驕(おご)るとも

          なんぞ敵なる八紘一宇に

・・・

『12月拝殿掲示』

       昭憲皇太后御歌

         歳暮   (明治21年)

     うつばりのちりもはらひて玉すだれ
     かけあらたむる年の暮れかな

     ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-201812.html )

           <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年12月 - 伝統

2019/12/03 (Tue) 19:31:08



遺言

陸軍中尉 吉川 泰 命 

昭和十九年十二月八日
フィリピンレイテ島
ブラウエン飛行場にて戦死

熊本県飽託郡託麻村出身 
二十二歳

  
       天皇陛下萬歳

         魁

       七生報國


 御両親様へ

   永らく御世話になりました
   天皇陛下の為に死にます


 姉上様

   永年の御指導有難うございました
      

 弟へ

   天皇陛下の御為に勉強せよ
   父母に孝なるべし


 妹へ
   しっかり勉強せよ

             昭和十九年七月十六日

             陸軍少尉 吉 川  泰 

・・・

『12月拝殿掲示』


       明治天皇御製

           をりにふれたる  (明治45年)

     はれわたる空をぞあふぐむらぎもの
     こころのちりをはらいきよめて

    ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-201712-14.html )


           <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年12月 - 伝統

2019/12/04 (Wed) 19:29:45


姉上様

海軍少佐  服部 照親 命

昭和十六年十二月十七日
ボルネオ島バラム岬沖にて戦死

愛知県中島郡明治村出身 
二十九歳


日露戦争直後よりの宿命的な戦いの幕は、何時切らるるか知らず。
〇〇に在りて命令一下直ちに出撃、
お国の為に日本民族発展の為に戦ふべき物心技の準備は成つた。

如何なる順調なる戦なりとも、最後の敵を破る迄は心を弛めず、
如何なる苦戦に遭遇しても日本海軍の勝利を期して、
生命あらん限り日頃の腕を発揮して戦ひ進まん。

笑つて死に(生かも知れません。死生命あり論ずるに足らず、死生歸一)
つき得る弟の幸福を欣んで下さい。
さらば御機嫌宜しう。
                              
                           照親

姉上様

・・・

『12月拝殿掲示』
       
明治天皇御製
           
     歳慕      (明治17年)

     をしめども今年はくれぬあたらしき
     初日のかげにいざやむかはむ

     (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20161225.html )

           <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年12月 - 伝統

2019/12/05 (Thu) 19:39:15


遺書

陸軍兵長 小寺 正雄 命 

昭和二十年七月十五日
フィリピン レイテ島にて戦死

兵庫県姫路市十二所前町出身 三十四歳


貞子殿
                    正雄

再び召されて戦野に征く。
日本の女子と生まれ来て此の昿古(こうこ)の大戦に遭ひ、
その夫が勇躍(ゆうやく)國難に馳せ参ずるについては、
御身の決心も自ずからついてゐた事と思って居る。

温室に育って社会の辛苦も未だ味はへる事少なき御身には、
様々の難路も横たはって居るやも知れぬ。

唯願ふは正彦の為に強く正しく生き抜いて呉れん事のみ。
尚、御身には頑固に見える父であるが、
僕にとっては唯一の親、宜しく頼む。


正彦へ

                  父 正雄

未だ西も東も判らぬ乳児なるも、
やがては国難に逝きし父の心事も解る時が来ると思ふ。
幸、不幸は心の持ち方如何に依る。
唯願ふは将来国家有為の人材とならん事。

父は靖國の宮居より汝が成長を見守って居る。
母を大切にせよ。

昭和十九年四月三十日

   (http://seirei.org/?p=649

・・・

『12月拝殿掲示』

  明治天皇御製
         冬祝       (明治42年)

     みかぐらを神にささげてゆたかなる
     年のをはりをいはいけるかな

  (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20151210.html )

           <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年12月 - 伝統

2019/12/06 (Fri) 18:30:39


遺書

陸軍大尉 片岡正光 命

昭和十九年十二月五日
フィリピンレイテ島レイテ湾にて戦死

熊本県鹿本郡菊鹿村出身
二十七歳


父上様、愈々私の真価を発揮する時が参りました。
日本男児として、そして又、父上様の子として立派に皇國に殉じます。

今や皇國存亡の決戦に臨んで居る日本人は、総て生死を超越し、
一筋に任務を完遂し皇國を守護し奉るべきであります。

何卒この機この決戦場に送り得る子を持たれたる幸を心して下さいませ。

御老体のこと故、何かと御心労も多き事と思ひますが、
姉上様と共に健やかにお過ごし下さいます様お願ひ致します。

もう少し生きて貰ひたかつた、せめて孫の顔位見たかつたと
お考へになるかも知れませんが、私としましては、今斯くして
死場所を得る事が最上と信じます。

武士の道、帝國陸軍将校の道、皇國の必勝を信じて淡々と勇躍出発します。

何も思ひ残す事はありません、私の戦死をせめてもの喜びとして下さいます様。

では、くれぐれも御身御大切にお過ごし下さいませ。

老いの目に涙殺して笑み給ふ
        父上の姿伏し拝みつつ
 
十一月十八日
                               正光
父上様

・・・

『12月拝殿掲示』
       
   明治天皇御製
      
      煤拂       (明治37年)

     ちはやふる神のおましをはじめにて
     今年の塵を拂はせてけり

    ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20141210.html )


           <感謝合掌 令和元年12月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年12月 - 伝統

2019/12/07 (Sat) 17:39:02


吾々(われわれ)の神聖さがあります


海軍少佐 矢野徹郎命
昭和十九年十二月七日
比島方面にて戦死

愛媛県越智郡津倉村出身
二十五歳


お便り有難う。お元気何よりです。
愚生相変らずにて大空を翔けて居ります。
早いものです。一年余の歳月が流れました。

大祭も近づく頃!肌寒い風の吹く頃は、常に駅伝のことを思ひます。
日一日と風がつめたくなるに従って、練習も苦しくなって行った。

山田は実に懐かしい土地です。
一木一草、思出でないものはありません。

宮川、御幸みち、塚山の下宿生活、山寮の思出、古市時代、親しき友。
友の姿を偲びつつ、弛みがちなる心を引締めてゆく。

大空を翔ける心、既に何人かの屍をのり越へて来た。
日々の訓練は生命がけであります。
訓練が生命がけであるだけに、戦友との結びは兄弟以上のものがあります。

学生時代の様な子供の遊びの域を脱し、
最早(もはや)大人の時代へ遷(うつ)らせます。

吾々の生活…飛行機に乗ったとき、全てを忘れることです。
ここに他と異なる吾々の神聖さがあります。

今日は雨で飛行場のエンドがかすんでみえる。
はるかに石の鳥居が寂(じゃく)として立ってゐる。
昨日迄立ってゐた幟もとりはらわれた。秋祭りも終った。

    秋祭り 幟はためき 虚空(こくう)高し  

秋の空!なんと大きな心。大空に向って深い呼吸をしてごらん。
身も心も清々しく、己の心も大空の様な偉大さをわきたたせる。

急上昇するとき、淡雲がぐくっと顔前にせまる。
操縦桿を右にとる。大きな円を画いて吾が飛行機はもとの姿勢にかへる。

なんとすばらしい生活ではありませんか。 

                              
     「醜の御楯(しこのみたて)」

   吾も亦 この鎮宮に 祀れん日もあらんかと 宮造りしみじみ拝す

   五尺の身 ありとあらゆる 力もて 尽しまつらん 醜の御楯は 

・・・

『12月拝殿掲示』

   御製

     ラトビア占領博物館     (平成19年)

    シベリアの凍てつく土地にとらはれし
    我が軍人(いくさびと)もかく過しけむ   

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20131213.html )


           <感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年12月 - 伝統

2019/12/08 (Sun) 19:43:30


遺書

陸軍少佐 山本卓美命

昭和十九年十二月七日
比島レイテ島付近にて戦死

福岡県糸島郡前原町出身
二十一歳


父上様
母上様

卓美ハオ先ニ失礼致シマス。
二十有余年ノ間、此ノ上ナク可愛ガッテ頂キマシタ。

山ヨリモ高ク、海ヨリモ深キ養育ノ御恩ニ何等報ユル所ナク、
御心配ヲカケ通シテ参リマシタガ、今ヤ御恩ノ万一ニ報ユル時ガ参リマシタ。

光栄アル八紘隊長ニ選バレ、南海ニ水漬ク屍トナルハ男子ノ本懐、
只々感謝感激ノ外アリマセン。

信ズルハ 皇国ノ必勝
祈ルハ  皇運ノ無窮
靖國神社デ、オ待チ致シテ居リマス。
御両親様、幸福ニ御暮シ下サイマス様、心ヨリ祈リ上ゲマス。

  昭和十九年十一月三十日
                          山本卓美

・・・

『12月拝殿掲示』

  明治天皇御製

   人   (明治43年)

    をちこちにわかれすみても國を思ふ
    人のこころぞひとつなりける

    ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20121214.html )

           <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年12月 - 伝統

2019/12/09 (Mon) 18:48:32


(この社頭掲示の、横山正治命は、12月8日大東亜戦争開戦で、
 ハワイ真珠湾における特別攻撃隊とその戦死者九人のひとりです)

これに過ぎたるは無し

海軍少佐  横山正治命

昭和十六年十二月八日
ハワイ方面にて戦死

鹿児島県鹿児島市下荒田町出身
二十三歳


皇国非常の秋(とき)に際し、死処を得たる小官の栄誉、之に過ぎたるは無し。
謹しみて、天皇陛下の万才を奉唱し奉(たてまつ)る。

二十有三年の間、亡父上、母上様始め家族御一同様の御恩、
小学校、中学校の諸先生並びに海軍に於て御指導を賜りたる教官、
上官、先輩の御高恩に対し衷心より御礼申上げ候。

同乗の上田(かみた)兵曹の遺族に対しては気の毒に堪へず。
最後に、皇恩の万分の一にも酬(むく)ゆる事なく、
死する身を深く愧(は)づるものに有之候(これありそうろう)。

海軍中尉 横 山 正 治

<参考Web>

(1)横山少佐と私
   http://www.iuk.ac.jp/~itoh/zuihitu3.htm

(2)これに過ぎたるは無し
   https://blogs.yahoo.co.jp/tkkud1/44363370.html

(3)真珠湾の九軍神 横山 正治海軍少佐
   https://ameblo.jp/tank-2012/entry-11960410849.html

・・・

『12月拝殿掲示』

 昭和天皇御製    
               (昭和22年)

   冬枯のさびしき庭の松ひと木
   色かへぬをぞかがみとはせむ

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20111212.html )

           <感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年12月 - 伝統

2019/12/10 (Tue) 18:59:29


立派な死を遂げます

海軍飛行兵長  硲(はざま)  榮次命

昭和十八年十二月二十八日
ビスマルク群島方面にて戦死

大阪府大阪市住吉区出身 十九歳


前略(鉛筆にて失礼)
先日は有難うございました。
いよいよ戦地に行くこととなりました。

不用品を送ります。中に時計と、通帳(現金在中)があります。
時計は兄さんへ返上致します。
通帳は「ミシン」代の費用として、尋子にやって下さい。

生を受けて十九年、
母様に何の孝養も尽さず、親不孝の罪をお許し下さい。

陛下の御民の一人として立派な死を遂げます。

   大空に生き
     大空に死す
      これ男子の本懐なり

最后に一同様の御壮健をお祈り致します。
                
              榮次より

母上様

・・・

 『12月拝殿掲示』

 明治天皇御製

    道 (明治43年)

 ならび行く人にはよしやおくるとも
 たヾしき道をふみなたがへそ

           <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年12月 - 伝統

2019/12/11 (Wed) 18:02:13


たゞ母さんだけは 大切にして上げて下さい

海軍一等航空兵曹 大西 貞一命

昭和十四年十二月二十六日
中華民国甘肅省蘭州にて戦死

香川県香川郡安原村出身


(前略)

身を海軍航空界に投ずる時より今日あるを覚悟はしてゐました。

武人として将又(はたまた)光誉ある帝国海軍の航空兵として
敵地の空に華々しく戦死してゆく事は、この上なき名誉であり男子の本懐、
これに過ぐるはないと思ひます。

(中略)

たゞ母さんだけはどうか大切にして上げて下さい。

お年寄だから精々楽をさして上げて下さい。
お小遣を充分上げてお寺に詣ったり、
又お母さんの好きな処へ遊びに行かして上げたりして、
出来るだけ慰めて上げて下さい。

それだけは呉々も兄さんにお願ひ申上げます。

(中略)

戦死したら、村の小学校の子供が葬式に参列してくれるでせうね。
可愛らしい子供がね。それが楽しみです。

(中略)

では兄さん、さやうなら。どうかお元気で、しっかり頑張って下さい。
母上様をはじめ皆様の御健康と御多幸を祈ります。

 昭和十四年五月二十五日夜

      再び最后に際して     貞一

市太郎兄上様



           <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年12月 - 伝統

2019/12/12 (Thu) 19:01:37


白木の箱が届いたら

陸軍伍長 小塩 久夫命

昭和十九年十二月二十三日
比島北サンフェルナンド
北方海域にて戦死

鳥取県西伯郡大高村出身 
二十六歳


(前略)

お母様、かうして懐しい御名をお呼びするのも幾度もないでせう。
でもお母様、決して悲しんではなりません。久夫は立派な軍人です。
母上は、此の久夫のお母様です。

(中略)

望み叶って、あの靖國のみ社に赴けますならば、
香り高く咲きにほふ九段の桜の下でお母さんの訪れを待ってゐます。

何一つとして御手助けもする事を得ず、去り逝く久夫を許して下さい。
久夫は勇ましく華と散り逝く覚悟です。

久夫、死の報あっても決して悲しんではいけません。
泣いては兵の母として何よりの辱です。

白木の箱が届いたら、唯一言「久夫よくやった」と莞爾とほめてやって下さい。
お母様が育てた鼻たれ坊が晴れてお役に立つときが訪れたのです。
久夫はそれを頼りに喜んで靖國の宮に迎へられます。

(中略)

ではお母様、末永く御幸福であって下さい。
久夫は常にお祈りしてゐます。(後略)
                         
                          久夫より 

母上様


           <感謝合掌 令和元年12月12日 頓首再拝>

奇跡の将軍・樋口季一郎陸軍中将に学ぶ - 伝統

2019/12/13 (Fri) 19:25:44


      *Web:ねずさんのひとりごと(2019.11.24)より抜粋

樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で2万人のユダヤ人の命を救い、
アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、
千島列島の占守島の戦いを指揮して

北海道の500万の人口を守った昭和の名将です。

(1)~(3)略

(4)占守島の戦い

昭和20(1945)年8月18日。
これは無条件降伏の3日後のことです。

北海道占領を目的として、ソ連軍が
突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。
その兵力は、およそ8000。

同時にスターリンは、
千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。

司令官であった樋口季一郎は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、
戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。

これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、
濃霧の中隊員に訓示しました。

「諸士、ついに立つときが来た。
 諸士はこの危機に当たり、
 決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。

 もしくは赤穂浪士の如く、
 この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
 白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。」

8月22日まで続いた戦いの結果、
ソ連は3000人もの死傷者を出して敗退しました。

1日で占守島を占領する計画も水疱に帰しました。

大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、
連合軍総司令部に引渡しを要求しました。

しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。

こうして米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。

   (http://nezu3344.com/blog-entry-4328.html )

           <感謝合掌 令和元年12月13日 頓首再拝>

Re: 英霊の言乃葉 ⑥ - ioprnchsMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:11:32

伝統板・第二
[url=http://www.g3l5f2636wx75a12p9syfoqu7698jtz7s.org/]uioprnchs[/url]
ioprnchs http://www.g3l5f2636wx75a12p9syfoqu7698jtz7s.org/
<a href="http://www.g3l5f2636wx75a12p9syfoqu7698jtz7s.org/">aioprnchs</a>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.