伝統板・第二

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「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/08/16 (Fri) 13:01:02

光明掲示板・第二 消滅により、
「無限の富を汲みだす」の伝統板・第二への再掲示です。

他を羨むな! 自己の内に宿る無限の価値を掘り出せ!

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月26日>(P64)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

25年前(ぜん)無一物のフォードがその20年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。

自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

・・・・

<関連Web>「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
        → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098
                                     (30)

          <感謝合掌 平成25年8月26日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>)

富を得るための5つの法則  - 伝統

2019/08/17 (Sat) 18:56:18

 
         *「希望を叶える365章」(P64~69)より

(1)富を得るための第一則

   「富」というものは「物質」の塊(かたまり)でも集積でもないのである。
   それは、人を幸福にするアイディア(想念)の実現である。
   そして『人を幸福にするアイディア』は何処から来るかといえば神から来るのである。

   宇宙には神の無限の智慧が充ち満ちており、
   その智慧は「人を幸福にする無限のアイディア」で満たされているのである。

   偉大なる発明家や、大事業家のような人達は、
   此の「人を幸福にするアイディア」に波長を合わせて、
   そのアイディアを具体化した人なのである。
    (「幸福はあなたの心で」第9章”豊かなる福田ー繁栄の法則”参照)

   繁栄を欲する人は此の宇宙に満ちている「人を幸福にするアイディア」に
   波長を合わすようにしなければならないのである。

   「人を幸福にするアイディア」に波長を合わすには、
   自分がやはり「人を幸福にする心」を起こさなければならない。

   人を損させてでも自分が儲けたらよいというような利己的な心は
   「人を幸福にするアイディア」とは決して波長が合わないから、
   そのような心の人は「富」とは波長が合わないのであるから、
   その人が「富」への執念の深さから、一時的に富む事があっても、
   富の永続性は乏しいのである。


(2)富を得るための第二則

   神の国には、人を幸福にしたい願いをもった“神の子”(人間)のみが
   住んでいるのである。

   イエスが「先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし」
   と教えたのは、自分の心を「神の国」と「神の義(ただ)しき心」とに波長を合わす
   ために、「人を幸福にしてあげたい心」を起せよ、ということなのである。

   そのようにすれば、神の国の「富」と波長が合い、
   現象界にも神の国の無限の富が自然に投影されて富んで来ることになるのである。

   吾々は物的所有を得ようと思うより先に、「神の心」に波長を合わす心を起すことを
   第一にしなければならないのである。「神の心」に波長が合うとき、「神」は無限供給
   の源であるから、自然に物質的にも豊かな富が与えられて来るのである。

   内部の心の持方が大切であって、それさえ整えば自然に無限の富がやって来るのである。

   「神」に波長を合わすには、先ず自分が「神の子」だと知らなければならない。
   「神の余所者」だとか「貰い子」だとか思ってはならないし、
   自分を貧乏だと思ってはならないのである。

   「自分は神の後嗣者として神の無限の富を継承する資格があるのだ」と信じて、
   「貧乏」の想念を自分の潜在意識から追放するがよい。


(3)富を得るための第三則

   「アダムが生き物に名づけたる所は皆其の名となりぬ」と「創世記」第二章に
   書かれているが、人間(アダム)が“生き物”(自分の生命)に名づけた通りの
   ものにその人は成るのである。

   だから「自分は生れつき虚弱な体質だ」と自分で名づけたら自分は虚弱になるし、
   「自分は生れつき健康な体質だ」と自分に名づけたら自分は健康になるのである。

   コトバは造る力をもっているのであるから、
   みだりに消極的な不幸な状態を言葉で言い表わさないようにすることが大切である。

   「自分は貧乏だ」というような呟きの言葉を表現すれば表現するほど貧乏になる
   のである。自己が貧乏であることを人に訴え、不景気が来たことをいつもつぶやいて
   いるような人は大いに成功することはできないものである。

   言葉はそれを語る人の心を動かし、それを聴く人の心を動かし、
   “心”は宇宙全体に満つる“普遍の心”に働きかけて、
   心の中に描かれたアイディアの通りのものを形にまで表現するのである。

   だから今現に富んでいない人でも、

   「既に自分の実相は“神の世嗣者(よつぎ)”として富んでおり、
   それがわが計画及び行動を通して実現するのである。
   神よ、わが計画と行動とを導き給え」

   と神想観中に念じて、

   その後、自然に想い浮ぶ計画を良識をもって審神者(さにわ)しつつ、
   それを敢然実行に移して行くならば、必ずその計画 図にあたり、
   富を実現することができるのである。


(4)富を得るための第四則

   富を得る根本法則として第四に挙げなければならないのは
   「与えよ、さらば与えられん」の法則である。

   これは人体に於いても常に行われている法則である。
   空気を吸うのでも吸うばかりで呼き出すことをわすれていたら
   その人の生長も健康も得られないのである。

   栄養も食べることのみを目的として、排泄することを怠れば食欲はなくなり、
   排泄物の停滞による自己中毒で生命(せいめい)を失うほかはないのである。

   すべての物的所有を自己の所有物だと思ってはならないのである。
   
   この肉体も、住居も、衣服もすべて神様からの供給を預らして頂いているものである。
   吾々はその管理者であるのである。

   それはただ出し惜しみするために管理させられているのではなく、
   適当に使うように管理せしめられているのである。

   神からの供給はすべて神の目的に使うように人間が管理させられているのであるから、
   その用途の軽重を考えて、無駄に浪費することなく、最も価値多き用途に使うのが、
   それを管理せしめられている者の役目であるのである。


(5)富を得るための第五則

   富を得るための第五則は、今まで与えられていた物に対して感謝をすることである。

   「今までお世話になったもの」に感謝することによって、
   次なる豊かな供給が与えられるということである。

   既に神から無限の富を与えられていることに気づく必要があるのである。
   そのために行なうべきが富を得るための第五則である。



   ・・・『富』を実現する5つの法則まとめ・・・

(1)『富』とは、出来るだけ多くの人のためになるアイディアであることを知って
   『ひとを幸福にしたい』と云う思いを起こすこと。

(2)神の世界に波長を合わすこと。神想観をすること。
    神の無限の富の後継者としての「神の子」を自覚すること。

(3)言葉の力を駆使すること。『私は無限の富者である』。 

(4)『与えよさらば与えられん』の繁栄の黄金律を生きること。

(5)今与えられている全てに感謝すること。

          <感謝合掌 平成25年9月5日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>)

富を得るための3つの根本法則 - 伝統

2019/08/18 (Sun) 19:22:38


          *「女の浄土」(P129~130) より

(1)先ず、”与える”ことによって、神からの無限資源に対して
   供給の通路をひらくことになるのである。

   (男性原理、父親の原理)

(2)供給の通路をひらいた後には、”受ける”態勢を整えなければなりません。
   心の中に既に神からの無限の資源で満たされていることを描くことである。

   例えば、心の中に既に食卓に豊かなる食物があることを描くこと。

   (女性原理、母親の原理)

(3)(既に受けたりと)深く信ずること。

   例えば、必ず必要なものは現実化して来ると信じて、そのリストを作成する。

         <感謝合掌 平成25年9月8日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月18日 頓首再拝>)

無限の富者となる祈り - 伝統

2019/08/19 (Mon) 19:05:29

          *『聖経 真理の吟唱』より

神は一切の存在の本源者であり給う。
すべての存在と富とはことごとく神よりいでたるものである。
だから、神以外より発生したものは何物も存在しないのである。

人間は“神の子”として神の無限供給の後嗣者であるのである。
それゆえに、必要に応じて必要なる事物の無限供給を受けることができるのである。
富とは決して貨幣だけの存在ではないのである。

人間にとってなくてならぬ一切のものは、それが無形のものであろうと、精神的な愛情の
如きものであろうと、良き友であろうと、良き協力者であろうと、良き同志であろうと、
それらを有つことは、すべて富を持つことなのである。

私は“神の子”であるから、
毎日毎日、必要なる一切のものを富として与えられているのである。
それゆえに、私は今すでに無限の富者であるのである。

繁栄は“神の子”にとって当然の付随物であるのである。
決して私は貧しくなるなどということはないのである。

自分の事業は必ず栄え、計画は必ず図にあたるのである。
事に応じ、時に応じ、人に応じて、
私は神に導かれて最も適切なる処置をとることができるのである。

どんなに衰微せる事業でも、私はそれを生かすことができるのである。
なぜなら繁栄の叡智を神から私は与えられるからである。

その事業が時代に適しないものであれば、
私はそれを適当な方向に転じて活かす事もできるのである。

神は神通自在であるから、決して旧態依然たる陋習に甘んじている必要はないのである。
棄てるべきものは棄て、切るべきものは切り、生かすべきものは生かし、
転ずべきものは転じ、どんな万難をも切りひらいて行きづまることはないのである。

行き詰ったと見えるところに、新しく前よりも一層偉大なる使命を見出すのである。
私は“神の子”であるから、全知全能にして無限供給にまします神の叡智と供給とに
導かれ且つ満たされて、如何なる不況期にも繁栄の道を歩むのである。

“神の子”たる者は如何なるときにも蹉跌することはないのである。
蹉跌したと見えるとき、それは進歩の始まりであり、
一層明るい世界への曲り角であるのである。

それゆえに私は如何なる場合にも悒欝にとざされることなく、
また取越苦労することなく、常に明るく勝利の大道を闊歩するのである。

今、私は神に導かれて、無限供給の真理の道を深く悟ったのであるから、
今後決して自己限定することはないのである。

神と私とを結ぶ供給の導管は広く開かれて、
今滔々として無限の神の愛と智慧と生命と良き協力者と必要なる資源と資材とが
私に流れ入りつつあるのである。

この真理を知らせ給いし神に深く深く感謝いたします。

         <感謝合掌 平成25年9月15日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月19日 頓首再拝>)

繁栄を神に帰して - 伝統

2019/08/20 (Tue) 19:15:28


         *『實相研鑽』第一集より

繁栄というものは、どこから出て来るかと言いますと神から出て来るわけです。
ですからその神から出て来たところの繁栄をまた神に返さなければいけないのであって、
わしがえらいから、こんなに儲かったんだというのではいけない。

旧約聖書にあるですね。
あのユダヤ人が神様から什一税を払えと言われて什一献金を毎日しておったら、
ユダヤ人が大いに繁栄した。

ところが、ユダヤ人の中の頭の賢いやつが
“わしたちが繁栄するのは、神様のお蔭じゃないんだ。ユダヤ人は頭がいいから繁栄するんだ”
というわけで、神様に献金するお金を、もっと他のことに投資したら、より以上に儲かるん
だから、その方が得じゃないかというわけで、什一献金をすることをやめてしまった。

そうしたらイナゴの大群が、ある年無数にやって来て、
ユダヤの国じゅうの作物を全部食い荒らして、雲とかすみと去ってしまった。

その時に、マラキという預言者が出て来て“我に什一税を持ち来れ”と言って
エホバの神様の神がかりがあって、

「おまえ達は神のものを私(わたくし)した。全ての富は神から来ているのに、
それを自分の力であるとして、私して奪った。だから奪うものは奪われるのである。
だからもう一ぺん什一献金をして、おまえ達の蔵にどんなに豊かに富が充満するかを見よ」

と神様が託宣された。

そして今でもユダヤ人の財閥が世界の富の多くを支配しているのは、
この什一税の実践によるといわれています。

ですから根本的に、繁栄というものが人間の知恵から来るというような考えを持つことが、
間違いであって、實相の世界に繁栄というものがあって、その神の国からわれわれに
流れ入って実現するんだから、その実現した繁栄を神の栄えのためにもう一ぺん返す
ことによって、この循環して止(とど)まらないところの繁栄が出て来るわけで、

それを人間だけで受け止めてしまって、わしの力で繁栄したんだ、
わしがたくさんもっていることが嬉しいんだと、こうなってしまったら、
神から来た栄を受けとめて次へ渡さないということになるんです。

ですから、一時は貯まっておって豊かなようだけれども、
結局、生じたものは滅しなければならない。

しかし現象界では滅するけれども、滅した後にね、
實相の世界に繋(つな)がっているものは永遠に現われて来るんです。

それは秋になり、落葉して来年また芽が出て花が爛漫(らんまん)と栄えて、
毎年こうして繰り返して永遠に続くのと同じです。

ところがそれを繰り返さないで、秋に凋落(ちょうらく)したり、
冬に冬枯れになったきりで終ってしまう――つまり繁栄しなくなる――のは
なぜであるかというと、實相の世界=無限の大生命につながっていないからなんですよ。

無限の大生命に繋がってたら現象界の栄枯盛衰の中に、
無常の中に無常でないところのつき貫いている久遠のものが現われるのであって、
やはり神の栄えを神様にもう一ぺん返すと、繁栄が無限に循環して続いて行く
ということになると私は考えるわけなんであります。

そういう意味から、やはり、所謂“愛行”というものが必要であって、
自分が生長の家で教えていただいた、結局神様から教えていただいた真理によって
繁栄を得たならば、その真理、原理をまた次に渡す、伝える、
これは皆神様のお蔭であるということを讃嘆して神の栄えに帰すということが必要です。

ユダヤ人がエジプトの捕虜になって、それから解放されて、
モーセを民族の長としてイスラエルへ帰って来る途中で砂漠を通りましたね。

あの“十戒”という映画にありましたが、その時、この一族が砂漠の中で飲料に
困っている時に、モーセは自分の霊力によって、この岩から水を噴出せしめると言って、
杖でもって岩をついたら水が噴出した。

それで一行は渇(かわ)きをいやしたけれども、その時にエホバの神が現われて、
「汝は栄を神に帰さなかった。故に約束の地に入ることを得ず」と言って、
ユダヤ民族はイスラエルに入ることができなかったんですが、ここが問題なんです。

自分の霊力で水を噴出させたというのは、この場合は水だけれども、
水を一つの繁栄の象徴として観れば、

自分の我の力によって繁栄を築いたと、けれどもそれは神の力によって出て来たものである
ことを忘れて、神に栄を帰さなかったならば、最後の目標に到達することができなくなる
というところにですね、

ここにわれわれは心しなければならないものがあると思うのであります。

・・・・・

上記の、谷口雅春先生の言葉は、Web「生長の家「今昔物語」(2013年09月20日(金)」
より紹介させていただきました。”生長の家「今昔物語」様”のお許しをお願いいたします。
    →http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/1152/

           <感謝合掌 平成25年9月25日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年8月20日 頓首再拝>)

初詣でのお賽銭の扱い - 伝統

2019/08/21 (Wed) 21:21:58


お賽銭は決して投げない

     *はづき虹映・著『人生でいちばん大切な自分との約束』(P201~201)

残念ながら、神社に行って、お賽銭を投げて、願い事をしているようでは、
あなたの運気がアップすることはありません。
神社は願い事をする場所ではありません。

もちろん、お賽銭も投げてはいけません。
なぜなら・・・。


神社には崇拝する偶像や経典があるワケではありません。
神社のご神殿に置かれているのは、鏡です。

あなたが神社で参拝する際、そこに映っているのは誰でしょう。
そう・・・、それはまぎれもなく、あなた自身です。

そのあなた自身に向かって、お金を投げられ、願い事をされて、
あなたは気持ちよく、そのお金と願い事を受け取るでしょうか?


   「鏡(カガミ)」から、「我(ガ)」を取ると、残るのは「神(カミ)」です。
   「我をとった自分こそ、神そのものである」ということを思い出すための
   「場のシステム」が、神社です。

   ですから、鏡に映った自分に願い事をしても叶うはずがありません。


神社でするのは、「感謝と宣言」です。

「ありがとうございます。私はこうします・・・」と自分自身に宣言する場所として、
神社は作られたのであり、それが神社本来の目的です。

お賽銭は、その宣言に対する覚悟料のようなもの・・・。
お賽銭には、あなたの覚悟の度合いが反映されていると言っても、過言ではありません。

受験や恋愛、仕事や結婚、健康面など人生の一大事を前に、
自らの覚悟を神前で宣言するのに、その覚悟料が小銭で本当にいいのか
大いに疑問の残るところではないでしょうか?

もちろん、私たちの魂の投影である神様にお金は必要ありません。
ですから金額の大小の問題ではありませんが、お賽銭にはあなたの覚悟が反映されている
という事実だけは忘れないようにしたいもの・・・。

自分がもらう側の立場になったことを想像して、
少なくとも小銭を投げ入れることだけは差し控えるよう、
心がけてみては如何でしょう。

           <感謝合掌 平成25年12月30日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年8月21日 頓首再拝>)

富の魂 - 伝統

2019/08/27 (Tue) 18:48:39


        *谷口雅春先生御講話『放送人生読本』より

インドの寓話に次のようなものがあります。

ある人が、蜂の蜜を自分の所で収穫しようと思い立ち、
ミツバチの巣に働き蜂を捕ってきては、居つかせようとしますが思うようにゆきません。

どうしたら良いかと、物知りの人に聞くと、その人は、

 「それは、“ミツバチの魂”も持ってこないとダメだ」と答えます。
 「“ミツバチの魂”とは?」と聞くと
 「“ミツバチの魂”とは、女王蜂だ」と答えます。

そこで女王蜂を捕ってきて巣に入れると、自然に働き蜂が沢山やってきた、というお話です。

 
それと同様で、富を得ようと思ったら、“富の魂”を持ってこないと、富は集まってこないのです。


では、“富の魂”とは何でしょう?!

“富の魂”とは、人の為になることをする、即ち“与える心”、これが“富の魂”だと。


“与える心”は「愛」の心であり、「愛」は「神」の心ですから、
「神」の御心に叶う「人のためになること」を実践したとき、それが陰徳となり、
福田に徳が積まれ、必要な時に宇宙銀行から幾らでも必要なものが引き出せるのです。

           <感謝合掌 平成26年1月3日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年8月27日 頓首再拝>)

真の富者は「自由」を所有する - 伝統

2019/08/28 (Wed) 18:36:39


       *「幸福を招く365章」(P178)

本当の富者とは「自由」を完全に有っている者であって、
金銭や「所有品」を沢山もっている者ではない。

この事をまだ本当に悟らぬ人が多いために、
富めば富むほど自分の心がその富に縛られて、富を護るための奴隷となり、
屈従の生活を送りながら、自分を富者だと思っている人が多いのである。

「物を所有するために、心がひっかかって自由を失う不利益」によって相殺され勝ちである。
「無所有」と云うことが仏教で尊ばれるのも其の為である。

しかし「無所有」と云うことは「貧乏」と云うことではない。
「貧乏」な者は、また「貧乏」を心に掴んで苦しむのだ。
「貧乏」を掴まず、富を掴まず、欲するに従って自ずから 自由に集まる
――― これが真に富者である。

           <感謝合掌 平成26年1月26日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年8月28日 頓首再拝>)

私自身が富である - 伝統

2019/09/01 (Sun) 19:21:12


         *『眞理』第九巻生活篇(P-175~178)

或る賢者が申しました。

「私は富を求めない。私自身が富なのだ」と。

これはまことに賢明な言葉であります。

私達が神から生命(せいめい)を頂いている。
その生命を愛と智慧とによって生かして働かせば、それ自身が富なのでありまして、
其のほかに何の富をも求める必要はないのです。

彼方(かなた)に行きて富を探し、彼方(あなた)に往って
富をたずねる必要はもう決して全然ないのであります。

今此処に自分が「富」なのであります。

併(しか)しその「富」は「自分」と云う袋に入っているのでありまして、
その袋を愛と智慧とを働かして動かさなければ、その富は「外在」のものとはならないのです。

富は神より来(きた)るものでありますから、神が遍在であり給う如く富も偏在であるのです。
富は偏在であるから、此処に見よ、彼処にあると探しまわらなくとも、
自分自身を発掘すれば好いのです。


《自分自身の何処を発掘しますか》

自分自身を発掘すれば好い ――― と言ってもその発掘の仕方が問題なのであります。

素晴らしい黄金(きん)の鉱山でも、
鉱脈とちがうところをいくら掘っても黄金(きん)は出て来ないのです。

人間は自分自身が神であり、一切を自己の内に包蔵していますから、金鉱のあるところを発掘したら
金鉱にぶつかり、銅鉱のあるところを発掘したら銅鉱にぶつかるように、

貧乏になるところを発掘したら、貧乏が出て来るし、
富になるところを発掘したら富がでて来るのであります。

人の中には悲しみの鉱脈や、イラ立ちの鉱脈ばかりを発掘して、
益々悲しみ益々イラ立っている人がありますが、それは全く愚かなことです。

ソクラテスは「多く悲しむところの人は富の浪費を引きつける磁石である」と申しました。

《悲しみと富の浪費者》

(中略)

あなたの心の中に悲しみが湧くとき、実相哲学の智慧をもって、それを追い出しなさい。

”神のつくり給うた此の世界に悲しみは決して実在ではない”
”悲しみの奥には喜びが芽生えつつある”
このような思念をして悲しみを駆逐しなさい。

           <感謝合掌 平成26年3月12日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>)

真実に富もうとするには - 伝統

2019/09/06 (Fri) 21:33:08


         *『眞理』第九巻生活篇(P-180~181)

真実の意味に於いて富もうと思ったならば、唯物論的人生観を捨て、
悪の存在を信ずる心を捨て、利己的人生観を捨てなければなりません。

そしてこの世界は無限の富の本源である神によって造られたのであると云う唯神論的人生観を
いだき、あらゆる事物は善の方向にのみ回転するものであると云う信念を持ち、
楽観的になることが必要であります。

悲観的な心の人は、ほんの一寸(ちょっと)の経済界の変動にも周章狼狽して、
適当な処置をとることをあやまりますので、損失相次ぐと云うようなことになります。

経済的のパニック(恐慌)のときに、そのまま素直にじっとしておれば、
経済界は循環的波動の進展をとげるものであるから必ず恢復して来るのに、
急いで商品や株券を叩き売ってしまったために大損をする人があります。

《利己心を捨てた人が富める人だ》

経済界の不況のときに、売り急ぐと云うことは結局それが利己主義から来るのであります。

「早く売らぬと《自分が》もっと損になる」と云う「自分が」がその人の心を占領しているのです。

私はあるとき『美(うる)わしき思い出』と云うアメリカ映画を見たが、その映画の女主人公は、
19歳から54歳になるまで学童の教育に身を捧げたダウ先生と云う精神家の一代記である。

民主主義ばやりの現在の日本でもこの映画は「素直で心あたたまる映画だ」と新聞雑誌が批評して
いた。ダウ先生は取り付け騒ぎ附近の町の3つの銀行がつぶれたと云うので、其の街の銀行も
つぶれると云う噂で預金者が殺到している。

其の時、唯一人何千弗かの預金に行くのである。
そのために銀行はつぶれないで街が金融恐慌で大騒ぎになるところを救ったのである。

斯う云う人が真に富める人である。

           <感謝合掌 平成26年3月26日 頓首再拝

   (   <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>)

先ず自分を人類に与えよ - 伝統

2019/09/07 (Sat) 19:38:33


         *『眞理』第九巻生活篇(P-181~182)より

利己心の変形である虚栄心のある時には、富を築くことはできない。

あまりに自分を社会的に高く見せようとしたり、自分自身の地上的な名誉を傷つけてはならない
などと云う事に拘泥(こだわ)り過ぎると、本当に自分自身に適している事業計画でも、
それを実践することに躊躇して機会をのがしてしまいます。

そんな世間的な虚名などを考えないで、自分自身の持ち前の能力は何であるかをよく考えて、
その持ち前の能力を生かすことによって人類の幸福に貢献しようと努力すれば、

「人類に幸福を齎(もたら)すもの」が「富」の本質であるますから「人類に幸福を齎すもの」を
与え与えしてさえおれば、それが天の倉に貯えられて、やがてその貯えられた富の種が発芽する
時期になると、自然に現象界に富が実現して来るのです。

先ず自分を人類に与えることです。

           <感謝合掌 平成26年4月2日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>)

本当の富を得るには~心から豊かさ以外のイメージを締め出す - 伝統

2019/09/17 (Tue) 20:04:14


         *「不死のしくみ」阿部敏郎・著(P112~115)

この世のものは有限だから、自分の分をいかに確保するかが重要だという考え方は、
宇宙に対する無知から来る古い考え方です。


   宇宙の生産力は無限です。
   100個を100人にわけるのではなく、100人がそれぞれ100個を
   獲得することで全体が1万個になるのです。


しかも宇宙の凄い点は、一人ひとりが違う個性を持ち、違う開花の仕方をする点です。

願望はそれぞれの持つ宇宙で、それぞれに完成します。

誰かが得をして誰かが損をするという考え方は、まったくの時代遅れです。
だからだれに遠慮することなく、自分の可能性を最大限に広げて、
なれるものすべてになりましょう。

それが生きるということです。


   本当の富とは、あなた自身の開花なのです。


この宇宙には無限の富があり、人間には無限の可能性があり、
それらの真実から、究極的な真実(大いなるひとつ)に行き着くことが可能です。

精神性を学んでいる人ほど、物やお金を遠ざけようとする傾向があります。
しかし、そのようなことと精神性は何の関係もありません。
単なる誤解です。

物心ともに豊かになることは自然の欲求です。
世の中全体を豊かにしようと望むことは、とても気高いことです。

だから、まずは自分から豊かになることが大切です。


   豊かさに視点を合わせてください。


過去の貧しかったこと、苦しかったこと、社会で起きている凄惨な状況を
話題にしないでください。
苦しみではなく、豊かさにフォーカスすべきなのです。


私たちが参加すべきは、反戦集会ではなく平和集会です。
反戦というスローガンがフォーカスしているのは戦争そのものです。
こうなってはいけないと叫びながら、そんな現実を描いている、引き寄せているわけです。

平和は、人類が豊かに幸せな毎日を送っているビジョンを描くものです。
みんながそのビジョンを共有すれば、世の中はそちらの方向に大きく動きます。
それこそが人間が持つ大きな力だと思います。

貧困撲滅ではなく、世の中全体が豊かになることに貢献すること。


   あなたの心の中から豊かさ以外のイメージを締め出してください。
   お金の心配をするたびに、自分が貧しさにフォーカスしていることに気づいてください。
   その意識の焦点が、次の現実を引き寄せます。


意識は一瞬で変えられます。
その気になるかどうかの違いだけなのです。

           <感謝合掌 平成26年4月18日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月17日 頓首再拝>)

富を価値たらしめるのは所有者の品性である - 伝統

2019/09/18 (Wed) 19:46:22


         *『眞理』第九巻生活篇(P184~185)

若し心の中が「利己心」で充満してい乍(なが)らその人が物質的に富んでいたら、
その人の心は少しも融通がきかなくなり、富がふくれれば膨れるほど、
その人の心は腹水病のように膨満(ぼうまん)して苦しくなる。

しかもその富を吐き出すことは惜しく出来ない板挟みに陥るのである。
物質の富そのもは「幸福」でもなければ「不幸」でもないのである。
それに如何なる心を添加するかと云うことによって、幸福と不幸とが岐(わか)れるのである。

宝籤(たからくじ)があたった結果、競輪に興味を持ち、競輪で負けて借金で首がまわらず、
遂に縊死(いし)をとげた男もあれば、親譲りの財産があまり多いので、浪費と放蕩に身を
持ちくずしてヒロポン中毒にかかって、人間として価値を失ってしまった男もある。

富はそれ自身決して幸福でも価値でもない。
それに如何なる品性を附け加えるかによって価値不価値が決定する。

           <感謝合掌 平成26年5月3日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月18日 頓首再拝>)

富とは「生命(いのち)」を与えること - 伝統

2019/09/20 (Fri) 17:19:40


      *光明法語(五月 神に全託する)より抜粋

(1)5月16日の法語 富とは「生命(いのち)」を与えること

   人々に役に立つ働きをし、多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
   その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。


(2)5月17日の法語 最大多数の最大幸福に奉仕せよ

  ①何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。
  ②清貧礼賛の気持ちを捨てる。


(3)5月22日の法語 富むことは罪悪ではない

  ①諸君は、富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
  ②神の計画は大仕掛である。人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。


(4)5月23日の法語 富を獲得する第一条件

  ①富とは「価値」である。「値打」である。
   値打ちとは、善き考え、健康、人格の魅力、豊かさを含む。

  ②これらの富を得んとすれば、それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
   神の子としての確信を有(も)ち、且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。


(5)5月24日の法語 富は「善き考え」の具象化

  ①大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
   インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

  ②神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、神想観を行事なければならぬ。


(6)5月25日の法語 既に与えられているものを完全に利用せよ

  ①次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
   感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

  ②既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
   深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

           <感謝合掌 平成26年5月16日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月20日 頓首再拝>)

お金は払うほうが、お礼を言うもの - 伝統

2019/09/22 (Sun) 19:33:46

     *はづき虹映・著『人生でいちばん大切な自分との約束』(P194~195)


もし、あなたが「お金は払うほうがエラくて、もらう方はペコペコしなければならない・・・」
と思っているとしたら、新しい時代の波にのり遅れてしまう可能性大です。

もう「お客様は神様です」という時代ではありません。
「お客様《も》神様」という時代なのです。

お金さえ払えば、欲しいモノはなんでも手に入る
・・・という時代は確実に終りを告げようとしています


「すべてのエネルギーは出すのが先」というのが、この宇宙を貫く法則です。

お金とはそれ自体価値がない。
記号のようなもの。

お金は社会という身体の中を循環しているエネルギーそのものですから、
お金を得たい・・・、お金に好かれたいと思うのなら、
まずはお金を気持ちよく差し出すことから、始めなくてはなりません。

澱みのないお金の流れ、循環を生み出すためには、まずは出すことに注目すること。
お金を社会という大海原に気持ちよく送り出してあげることが大切なのです。

間違っても、払うほうがエライと勘違いして、支払う相手に横柄な態度をとったり、
お金を放り投げるような乱暴な扱い方をしてはいけません。

それでは、あなたがお金から、そういう扱いを受けることになるだけなので、要注意です。

お金を払うときには、常に笑顔で、「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言うこと。
お金を支払うときに、この作法を実践しているだけで、あなたの金運が確実にアップします。

これからの時代、お金に好かれていないと、大変なことになりそうですよ。

           <感謝合掌 平成26年6月6日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年9月22日 頓首再拝>)

《富める貧者と、貧しき富者》 - 伝統

2019/09/25 (Wed) 18:13:33


          *「幸福を招く365章」(P111)より

常に天使の美に目覚めている者は、天国浄土に住むものである。

庭の雑草1本にも、小さき虫の鳴く声にも、白雲の行き交いにも、美を見出すものは富者である。

貨幣は使い切れぬほどであれどもその使い道を知らず、
ただその分量の多からんことを願っている者は、唯の蒐集家にすぎない。
吾々は蟻のように蓄えるばかりになってしまってはならないのである。

味わうことは本当に受けることである。
如何に多くのものがあっても味わうことをしらないものは
本当に受けることを知らないのであるから、貧しき者と云わなければならない。

財は乏しくとも、凡ゆる事物に存在する美を、その意義を、その宜しきを
しみじみと味わうことの出来る者は既に富める者である。

           <感謝合掌 平成26年7月3日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月25日 頓首再拝>)

《富の無限供給と循環》 - 伝統

2019/09/27 (Fri) 20:16:45


        *『生命の實相』第二巻実相篇下(P181~195)より抜粋

(1)われわれは神の子であって無限の神の供給源から養われているのでありますから、
   われわれに与えられている能力にしましても、健康にしましても、各個人の富に
   しましても、それは決して有限のところから取ってくるのではないのであります。

(2)こうしてわたしたちの生命力は自分だけのものでない、有限のものではない。
   無限の大生命につながっているということがわかってきますと、
   非常に自分の「生命」が結構な貴いものだと解ってくるのであります。

   「生長の家」で「人間はみんな神の子だ」とか「無量寿仏の子だ」とか申しますのは
   こんなところからもわかるのであります。

(3)富はわれわれが無限の供給 ―― すなわち神 ―― と離れない限り、
   どこからでも必要に応じてやってくるものであります。
   「生長の家」ではこう考えるのであります。

(4)「生長の家」ではたびたび申す言葉でありますが、
   世のなかには心で認めたものだけが存在に入るのですから、

   無限の供給であるところの神さまに気がつかず、有限な会社の利益の分け前ということ
   ばかりに心が引っかかって、できるだけ多くその分け前にありつこうと思って争っていると、

   生活難、就職難、馘首(くびきり)恐怖などの大化け小化けが幻覚(まぼろし)の夢になって
   襲ってくるのも無理はありません。

   しかし、何もわれわれは行き詰まってきた今までの生産会社とか、その他なんでも
   有限な生産の資源しかないものに強いて引っかかってその利益の分け前ばかりを
   争っている必要はないのでありまして、

   行き詰まらない無限の供給――すなわち神様――と直接取り引きをひらいて
   新しい方面の事業を授かるようにすればよいのであります。

(5)ところが宇宙総体からいって物がたらぬということを
   「生長の家」ではみとめないのであります。

   科学の方でも、「物質不滅則(ぶつしつふめつそく)」という法則がありますが、
   いくらわれわれが使っても物質はなくなってしまわない。

   何か別の形になって残っていて、ある方法を加えればまたもとの姿になって
   帰ってくるのであります。

   われわれはその一つのものに引っかかっている必要はないのでありまして、
   その一つが足りなくなったならば何か代りになるものは必ず与えられるのであります。

(6)信仰心の深い人は「もったいない」ということをよくいわれますが、
   なんでも買わず使わずに不自由をがまんして窮屈な生活をしている方があります。
   「生長の家」ではそんな節約ぶりには大反対であります。

   どんなものでも元は神さまが作ってくださったのだからもったいない
   ―― そのところまでは同じでありますが、次は異(ちが)います。

   わたくしどもでは、つかわないではもったいないから
   できるだけ生かして使えというのであります。
   与えられているものを生かさない節約は人類の敵であります。

   物を生かして使うということは、人がそれをつくるために注いでくれた生命を生かす
   ということになります。この世は持ちつ持たれつの世のなかでありますから、
   人の注いだ生命を生かすことは自分の生命を生長向上発展さすことになるのであります。

   だから「生長の家」では買うことを節約せよとはいいません。
   買うて生かせというのであります。大いに生かすためには大いに買わねばなりません。

(7)人は「寄付」行為の美徳を説きますが、
   買うということは、観方によれば一つの「寄付」であります。

   金をあるところから無い方へ寄付して、そのかわり物をあるところから
   無い方へ廻してもらうのであります。

   この有るところから無いところへ廻すということが一つの愛の行為でありまして、
   人間の美徳の一つであり、これによって経済界が円滑に循環して行くのであります。

   しかも「買う」ということは、単に「寄付」するということよりも
   いっそうの美徳であります。

   寄付するということは、働かぬ者にでも、なまけてずるい者にでも与えること
   になる場合があるのでありますが、「買う」ということは、働きという尊い生命活動に
   価(あた)いを支私い、次の生命活動を起こすだけの養いと勇気とを与えることになる
   ので、いっそう尊いのであります。

(8)金は使ったら減るから使うのはもったいない、というように、ふつう考えられていますが、
   わたしの考えでは、金は使っても持っている人が変わるだけで世界のどこかには
   必ず合計すれば同じだけの金がある。

   だから、字宙経済の上から少しももったいないことはない。

   しかもその効用の上からいえば、金は使えばつかうほどふえるのであります。
   つまり同じだけの金の分量しかなくともその社会に循環する回転率が増えるからです。

(9)しかし金を使って帰ってくるのならだれだって使いたいが、
   使えばなかなか帰って来ないので万一の時に貯蓄しておくことが必要だ
   という人があります。これが世間の一般的な考え方であります。

   「生長の家」では「心の法則」ということを常に申しまして、
   身体は心で思うようになるというのでありますが、
   経済界も心で思うようになるのであります。

(10)財を一箇所に停滞せしめないように根本からすれば問題はないのであります。
   なんでも一箇所に「積む」ということはよろしくない。

   これを日本人は太古はよく知っていた。
   だから古代日本人は「罪」を「積む」という言葉と同じ語源から作ったのであります。

   ところがたぶん外国からでありましょう、「節約」という言葉が輸入されて来ました。
   これを日本語では「しまつ」といいます。「しまつ」というのは「しまる」ことすなわち
   「引きしめる」ことでありまして、出口をくくってしまうことであります。

   出口をくくってしまうから財が循環できなくなる。
   循環しないで一少部分の人間のところに富が蓄積するから、
   ここに近代の資本主義経済組織ができあがったのであります。

(11)「生長の家」は唯心史観であります。
   近代の経済組織は節約しなければ万一のために困ることが起こる、
   という人間の恐怖心が原動力となって築かれたと観るのであります。

   この恐怖心がもとになって富が一部に蓄積され、有無相通(うむあいつう)ずる流通が
   完全に行なわれないために、貧富の懸隔(けんかく)がますますはげしくなり、
   資本家が無資産家を脅かすようになったのであります。

   だから、この不完全な経済組織を改造するには、何も制度そのものに斧鉞(ふえつ)を
   加えるにはおよばない。

   人間の心からこの恐怖心をとり去り、財をわれわれは蓄積しないでも、
   われわれの生活になくてならぬものは必ず神が与え給う

   ――換言すれば無尽蔵の大生命から与えられる ―― という大信念を
   人間に与えるようにすればよいので、こうすれば財がある一箇所に片寄って有る
   という畸形(きけい)な状態はなくなって、全体の人間に平等に富が循環するように
   なるというのであります。

(12)本来、神につくられ、神に生かされ、無限供給の神と一体であるところの人間が、
   みすぼらしくもその日のパンに困ったり、職業がえられなかつたり、免職される心配で
   ふるえておらねばならなかったりするのは、実に不合理な話でありまして、

   どこかにきっとまちがいがあって、
   無限供給の配水管に栓がされているに相違ないのであります。

   このまちがいさえ無くすれば人間は無限供給の泉にふれて、
   直接その無尽蔵の供給を受けることができるに違いないのであります。

   このまちがいというのがなんであるかといいますと、
   神の無限供給性を自覚しないことであります。


   人間は本来貧しくあるようには造られていないのであります。
   ケチケチせねばならぬようには造られてはいないのであります。
   これが「生長の家」の信念であります。

   みんな人間は無尽蔵に善いものが充ち満ちているエデンの楽園にすんでいる
   のでありますが、いろいろ受けるところに相異があるのは、
   心だけのものを受けるからであります。

   心という器が小さければ少ししか盛ることができないのであります。
   心という器が大きい者は多くを得ることができるのです。

   聖書に「少なくもてる者はなおうばわれ、多くもてる者はなお与えらる」
   という言葉がありますが、この心の法則をいったものでありましょう。

   だから心という器を大きくし、富想(ふうそう)を持続するようにしさえすれば、
   われわれは欲する事物を自分のところへ呼び寄せることができるのであります。

   心を大きくするには、神すなわち無限供給者、無限英知者、無限能力者、
   無限生命者と一体であるとの自覚を深めることにまさるものはありません。

   かくして無限供給者なる神にわれわれが精神を集中するとき、
   同波長のものを呼び寄せる原理に従って、霊知的活動または霊知的微粒子体
   (れいちてきびりゅうしたい)で互いに交流して、

   想念のうちに描いた富を実現することができるのであります。

           <感謝合掌 平成25年7月17日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月27日 頓首再拝>)

宝くじが当たったら、神様から試されています - 伝統

2019/09/28 (Sat) 16:49:46


       *『あの世を味方につける生き方』美鈴・著(P182~185)より

(1)もし本当に3億円の宝クジが当たったら、ちょっと考えなくてはいけません。

  ①なぜなら、努力しないで手に入れたお金を自分のためだけに使おうとすると、
   3億円分のマイナスのカルマが貯金されてしまうからです。

   3億円のマイナスカルマはハキリ言って怖いです!

  ②自分のためだけにお金を使おうと思っていると、そのカルマは必ず自分に返ってきます。
   こうしてマイナスのカルマを背負うことになり、それに気づくために、
   苦難、苦悩の多い人生になってしまいます。

(2)もし宝くじで大当たりしたならば、それは神様から与えられた学びです。

  ①「あなたなら、このチャンス、どのように使う? 」
   と神様から試されているのです。

  ②努力以上に入ってきたお金は「お試し」です。
   守護霊様や神様が、「さぁ、この大金で、どんな学びを得られるかな? 」と
   試されていると考えましょう。

  ③学ぶために生まれてきたこの物質界で「楽をして暮らせる」は、まやかし、
   何かを得ると、その分、何かを失う・・・しくみになっているのです。

   ですから、”何かを得たときは、何かを失わないための学びなのか・・・”と考えて
   行動すると良いでしょう。

(3)では、宝くじに当たったら、どうすればいいのでしょうか?

  ①半分は必要としているところに、困っている命のために使ってほしいと思います。

  ②愛が宿った波長の高いお金は、社会へと広がり、たkすあんの人の心を温めて、
   感謝や笑顔を得て、波長の高い仲間を連れて戻ってきます。

   波長を高くして使ったお金は、波長の高いものを引き寄せて、
   さらに波長を上げて自分のところに戻ってきてくれます。

(4)努力した以上のお金が入ってきたときは、感謝をしながら誰かのために
   愛を込めて循環させてください。高い波長の感動が返ってくるはずです。

           <感謝合掌 平成25年8月2日 頓首再拝>   

   (   <感謝合掌 令和元年9月28日 頓首再拝>)

《ヘンリー・フォードの致富法》 - 伝統

2019/10/09 (Wed) 18:49:20


        *『生命の實相』第二巻実相篇下(P195~207)より要約

次に自動車王ヘンリー・フォード第一世が同様のことを述べているから、
光明思想家ラルフ・ウォルドウ・トラィンの著書にもとづきその要旨を次に紹介する。


《ヘンリー・フォードの致富法》 より要約

(1)誰でもあらゆる物をもって出発する。すべてがわがうちにあるんですからな。

(2)富は仕事をする道具でそのほかのなんでもない。
   富は炉に投げ込む燃料とか、機械を廻すベルトとかいうふうなもので
   ―― 目的に達するためのただの手段なんです。

(3)わたしは霊界に来て、いっそうその偉大なる力(神)がすべてだということがわかりました。
   いっさいの根元がそこにあるんです。われわれは、ただそのカを認めるだけのことです。
   すべてのものの精髄(せいずい)と本質とがそこにあるのです。

   われわれが霊といい物質というものは一つですよ。霊と物質とは一つの全体です。
   僕は「霊」とか「物質」とかいってぜんぜんちがう反対のものがあるように考えたくはない。
   この二つはまったく一つです。全体の裏表なんです。

   この力と接触する道は、最大多数の人間に最大多数の善をなそうと思って、
   自己の生活を正しくすることですよ。

   僕が自己の生活を正しくするというのは、
   最大多数の人間に最大多数の善をなそうと心がけることなんです。

(4)幸福の天使のような霊的元素体

  ①各人は自己自身が一個の宇宙なんです。それと同時に全宇宙の一部分なんです。
   全宇宙すなわち「全体」のなかにわれわれは浸って生きている。
   その全宇宙の中心が自分なんです。

  ②この自分という中心が小さい霊体(目に見えない生命の霊的元素)を引き寄せて
   自分自身を築きあげるのです。自分のなしつつある営みにこの生命の霊的元素体が
   引き寄せられて加わって、その営みを大きくしてくれるのです。

  ③われわれが何を希望するにもせよ、それは心想(しんそう)を集中してその実現を念じ、
   その目的実現に向かって動き出せば、この生命の霊的元素体が集まってきて、
   われわれを助けて自分の希望するものを形に築きあげてくれるのです。

  ④正しいこと有益なことをしつつある人は、誰でもこの霊的元素体の助けを
   受けることができます。この生命の霊的元素体は外からやって来て助けてもくれますが、
   内からも出て行くのです。

   ―― 自分の想念を乗り物として出掛けて行き、必要なものを持って来てくれるのです。
   この霊体は、われわれの向上進歩を形づくる実質になるものです。
   この霊体の性質や分量は、各人の想念のタイプにしたがって決まるのです。

  ⑤この霊体を神秘な遠いところにわれわれと離れてあると考えるのはまちがっている
   ―― みんなここにあるんです。―― すべて準備されている。
   何もかもここにちゃんとある。

   われわれの内にあり外にあり、われわれはそれに包まれている。

  ⑥われわれは想念によってそれを受けて使うことができるのです。
   よいことでも悪いことでも、これが想念を伝達する。

   自分が実現したいと思うことをハッキリと心に観る。するとプラナの波動が、
   その想念を中心にして動きはじめる。この霊体が助けに来る。

   また自分の方からもこの霊体が出かけて行く。
   必要な要素と霊感とが集まって来て、事柄がすらすら運んでゆきます。

  ⑦この霊体がわれわれの希望のぐるりに飛んできて、絶えまなくそれを形に化
   しはじめるのです。希望の実現を心に描くこと、それを心にハッキリと観ること、
   つまり、心で事物の雛形をつくるのです ―― これが信念です。

   信念はこれから形になろうとするものの実体になるのです。
   まだ人類の多くは信念というものがどんなに実験的なものか「実質的」なものかを
   知らないようですね。

  ⑦人間は一つの宇宙であって、その宇宙にはさっきいったある霊体、
   すなわち「生命の霊的元素体」が無数に棲(す)んでいる。

   そして人間自身はこの無数の霊体を支配し統率する大生命であり王者であるともいえる。
   ある人は人間を「霊」だというが、霊はまさに事物の「実質」であるんです。

(5)われわれはなんべんも生まれかわる。われわれはいく代も経験を積む。
   そしていくたの経験をたくわえる。ある生命は他の生命よりも年功を積んでいる。

   ちょっと見れば直覚的天賦だと思われるかもしれぬが、それは実に刻苦して得た
   経験の賜(たまもの)です。
   これはわたしが霊界へ来ていよいよ明らかになったところです。

(6)スウェーデンボルグは自己の内にもあり外にもある例の霊的元素体を遣わしたり
   受けたりすることのできる能力者だったのです。
   これはいく度も生まれかわった高級霊のみできることです。

(7)自己と外界とをつなぐ霊知的小生命体

  ①細胞にも小さい霊魂がある。外界にも小霊知体がある。
   この霊知的小命体はわれわれの肉体紬胞と同じように組織的に集合している。
   それはたがいに結合して、われわれの人格を形造っているのです。

   われわれがある人のことある目的のことを思うと、われわれの人格を形造っているのです。
   エネルギーの一部がこの霊知的小命体に乗って、そ人のところや、目的物のところへ
   達するのです。

   またこの霊知的小生命体はわれわれの内にあるばかりではなく、われわれの外にもある。
   われわれを取り巻いている雰囲気となっていて、われわれの人格や精神状態や健康状態に
   いろいろ影響を与えているのです。

  ②われわれは気分をかえたいとか、健康状態を変化したいとか思うと、旅行をしたり
   転地療養をする。そしてやってみると、なるほどききめがある。なぜだと思います?

   あれは常に自分の周囲をとりまいていて新鮮な影響を与えなくなった霊知的小生命体を
   あとにして、新しい雰囲気を造っている霊体の集まりのなかへ突入して行くからなんです。

   快速力でできるだけ遠方に行く方が、今までの雰囲気を置いてきぼりにするのに都合がよい。
   僕は住居や土地を変える効果を信じているのです。

   われわれは住居や土地をかえることによって古い雰囲気から脱して、
   新しい「霊知的生命体」に触れることができるんです。

   この点では霊界では便利です。
   思念の力で、乗り物もなく自由に長距離のかなたへ行けますからね。

  ③われわれの生命はその想念の力によってわれわれおのおのの周囲にこの
   「霊知的小生命体」を引きつける一つの中心なんです。

   周囲に引きつけたこの小さな生命体はやがてわれわれ自身の一部分となって
   われわれの指図のままに、われわれの性格どおりに活動するんです。

(8)持続的に希望の事物に専念せよ

  ①思念を集中すれば、そこに霊知的小生命体を引き寄せる中心磁カを生じます。
   たとえばある事業に思念を集中するならば、その思念の磁力にてその事業を成就するに
   必要なあらゆる要素が集まってくるのです。

  ②志すものを大いに絶えず強く思えばその事物は引き寄せられて来るのです。
   われわれがいろいろの事業をやりかけてみて成功しないのは、その志すものを
   絶えず強く熱意をもって思わないからです。

  ③志す事物を招(よ)び寄せるのには、その思いを中断せずに、
   気長くその希望と熱意とを持続しなければならない。
   短気で、すぐ失望するようではだめです。

   その事物が成就するのに適当な条件を引き寄せるにはあるいは3、4カ月かかることも
   あるし、時には、6カ月かかることもあります。

   ともかく、思念を長時間持続的に集中することは、
   必要な事物を引き寄せる磁力となるのです。

  ④すなわちその事物を成就するに必要な要素 ―― 霊知的生命体がその人の周囲に
   集まって来、それが自然にその事物の成就のために働いてくれるのです。

   要するに持続的に志す事物に想念を集中してやまなければ、
   事物それ自身は、それだけでできあがるのです。

   それは想念は事物の実体だからです。想念そく事物だといってよろしい。

  ⑤「類は友を招(よ)ぶ」のです。苦難を起こしたいと思ったら苦難を想うがよい。
   その人には苦難がやってくる。

           <感謝合掌 平成26年8月8日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>)

「同じ金でも」 - 伝統

2019/10/10 (Thu) 20:08:17


          *『道をひらく』松下幸之助・著(P186~187)より

同じ金でも、他人からポンともらった金ならば、
ついつい気軽に使ってしまって、いつのまにか雲散霧消。

金が生きない。
金の値打ちも光らない。

同じ金でも、アセ水垂らして得た金ならば、そうたやすくは使えない。
使うにしても真剣である。
慎重である。

だから金の値打ちがそのまま光る。

金は天下のまわりもの。
自分の金といっても、たまたまその時、自分が持っているというだけで、
所詮は天下国家の金である。

その金を値打ちもなしに使うということは、いわば天下国家の財宝を意義なく失ったに等しい。
金の値打ちを生かして使うということは、国家社会に対するお互いの一つの大きな責任である。
義務である。

そのためには、金はやはり、自分のアセ水をたらして、自分の働きでもうけねばならぬ。
自分のヒタイのアセがにじみ出ていないような金は、もらってはならぬ。
借りてはならぬ。

個人の生活然り。

事業の経営然り。

そして国家の運営にも、この心がまえが大事であろう。

           <感謝合掌 平成26年8月20日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>)

Re: 「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/10/11 (Fri) 18:17:07

《富を実現するための祈り》

         *『聖経 真理の吟唱』(P149~152)より

人間は ”神の子”である。
神の有ち給える凡ゆる善きもの美しきものの継承者(あとつぎ)であるのである。

神は無限の富の本源であり、いわば無限の富者であるのである。

その継承者であるところの人間が貧乏の虜にとなって苦しまなければならないということは、
真理においては断じてあり得ないことなのである。
 
もし”神の子”なる人間が貧乏の虜となって苦しむようなことがあるならば、
それは実相において貧しいのではなく、表面の心が、雲の漂うように、貧しさを
思い浮かべ、自己限定をして、実相の光を現象の世界に照り輝かさないだけのことである。

如何に雲が黒く垂れこめていても、
月には本当は雲がかかっていないで依然として皎々と輝いているが如く
実相の人間は現に裕かにして貧乏などということは決してあり得ないのである。

私たちはただ、心の迷いを払い去り、自己限定の雲を吹きはらって、
実相の裕さの光を照りかがやかすようにすればよいのである。

迷いの雲を吹き払うには、”真理の言葉”を語ればよいのである。
”真理の言葉”とは、実相を語る言葉である。

人間は ”神の子”であり、すでに実相においては裕かなのであるから、
その裕さを常に語って、「自分は貧しい」などという”迷いの思い”を打ち消して、
人類のために、自分のできるだけの愛行を実践するようにすればよいのである。

神は愛であるから、愛行の実践をなすということは、
天界から太陽の光を射し込ますと同じように、
現象の雲を突破する光を射し込ますことになるのである。

そして、言葉は種子であるから、
実相を語る裕さの言葉を表現するにしたがって自然に自分の内部から
「汝是の愛行をなせ」との霊の囁きを聴くことができるようになるのである。

人を幸福にする愛行ならば、それがどんなに小さき愛行であっても遠慮することなく、
躊躇することなく、実践するがよい。
その小さき実践が、貧しさの迷いの雲を吹き払う突破口になるのである。

大いなる愛行でないと興味がないと思うのは、
何処かに、人にみせびらかしたい虚栄があり、虚勢をはるところがあるのである。

小さな愛行のなかに、純粋で虚栄や虚勢のない真心ある神の愛があらわれるのである。
キリストも「いと小さき者に施したる愛行はわれに愛行を施したのである」
といっているのである。

愛行によって迷いの雲を吹き払って、実相の光を射し込ましめ、その実相の光に照らされて、
示された通りに実践するとき、天界にすでに備えられたる〝神の子〟としての繁栄が
自己に実現してくるということになるのである。

実相の裕さを語る言葉、そして事に触れ物に触れて、必ず愛念をもって行う実践、その
ふたつが車の両輪となって、実相世界のあなたに属する無限の富が現象界に搬(はこ)
ばれてくるということになるのである。

この真理を知らしめ給うた神に感謝いたします。

           <感謝合掌 平成26年8月26日 頓首再拝> 

   (   <感謝合掌 令和元年10月11日 頓首再拝>)

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