伝統板・第二

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無限の富を汲みだす⑤ - 伝統

2019/08/15 (Thu) 04:30:52

   《神なる無限供給の源泉と連絡せよ》

         *『 生長の家 』(昭和26年7月17日の法語)より

   神は 万物を生み給うた。
   それゆえに神は無限の富の源泉であり、
   貯蔵庫であることが判るであろう。

   神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な
   大まかな運動や構成は出来るのであるが、
   意識的な発動的創造の中心は、
   神が人間として現われてのみ出来ることになったのである。

   神は無限の富の源泉であるから、
   人間はその無限の富の意識的表出口(あらわれるでぐち)だ
   と云うことが出来るのである。

   だから人間を神の子だと云うのである。

   神の子たるものが、貧しく生活しなければならぬなどと
   云うことは 実際あり得ないことなのである。

   汝(なんじ)が貧しいのは 神の真意を知らず、
   神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ba1fe944a278f2d35d08b5ffb298980f

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56 (消滅)

   「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二)
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895683  (再掲示中)

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7542012

(8)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7752637

           <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>

神様の無限供給をいただく方法 - 伝統

2019/08/19 (Mon) 04:08:59


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月19日)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 令和元年8月19日 頓首再拝>

《貧しきを征服するには》 - 伝統

2019/08/30 (Fri) 04:06:03


         *『生長の家』(昭和25年8月5日の法語)より

   神をもっと豊かな寛大な父であると考えることが必要である。

   神は神の子なる人間を
   豊かに 幸福に 愉快に 楽しく 生活せしめたいのが
   その願いであるのである。

   人間を貧乏にしたり病気にしたりするのが
   神の願いではないのである。

   人間を貧乏にしたのは 人間自身の想念である。

   与えることを惜しむ心は、
   その心の通りに与えられなくなる。

   他に対して惜しみなく
   労力を与え、深切を与え、笑顔を与え、

   仕事に対して丁寧を与え、友人に対して好感を与え、
   何事にも充分 熟慮と努力を与えることが
   貧しさを征服する道である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

      <感謝合掌 令和元年8月30日 頓首再拝>

「負債」無し、神の無限供給の現われ - 伝統

2019/09/05 (Thu) 03:59:22


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月5日)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、
「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、
どちらの側も「欠乏」という観念から抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、こ
の欠乏の感じを「お蔭」(神からの供給)の考えに
転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは
「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、

債務者の方からが、
「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。
神の無限の供給が種子(たね)になっていよいよますます
幸福がやって来る、ありがとうございます」

と考えるがよい。

             <感謝合掌 令和元年9月5日 頓首再拝>

「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける - 伝統

2019/09/06 (Fri) 04:13:59


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月6日)より

相手が債務を履行しないことを責める心、
払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という
「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方が、
実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、
そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、

自分に「損」をかけたと思う人に対しては、
特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

すべてを祝福することが、自己を富ます道 - 伝統

2019/09/08 (Sun) 04:46:20


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月8日)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、豊かなる供給を
与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。

富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを
排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。

貧しき者、損をかけた者を、
「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

             <感謝合掌 令和元年9月8日 頓首再拝>

常によき念を送る - 伝統

2019/09/10 (Tue) 04:50:46


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月10日)より

「神の無限の愛われに流れ入り給いて、愛の霊光燦然として輝き給い、
すべての不安、恐怖、憂鬱を雲のごとく散らしめたまうのである。」

常に暇あればかく念じて自分自身の心の中に神の愛をもって満たせ、
もしあなたがたれかに貸し金があったり、店子が家賃を払ってくれなかったり、
商品の決済をしてくれなかったりしたとて、その債務者が不正直で悪意があるとか、
払わぬつもりでいるとか考えてはならないのである。

もしそんな想念を起こしたならば相手はますます不正直になり、誠意がなくなり、
払わぬつもりになるばかりである。

自分に債務のある者を常に善意をもって扱い、善念を送り、愛念を送り、
無限供給の念を送ればその債務は速やかに払われる。

             <感謝合掌 令和元年9月10日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2019/09/12 (Thu) 04:15:16


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

             <感謝合掌 令和元年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2019/09/13 (Fri) 04:01:36


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、
「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」とかの
観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。
そこは、ただ恵まれている世界である。

その恵みに報謝する働きをしておれば
必要なものはことごとくやって来るのである。

             <感謝合掌 令和元年9月13日 頓首再拝>

富は有益に使う - 伝統

2019/09/20 (Fri) 04:51:29


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 令和元年9月20日 頓首再拝>

《真の富者は「自由」を所有する》 - 伝統

2019/09/29 (Sun) 04:56:55


         *『幸福を招く365章』第9項(P178) より

本当の富者とは「自由」を完全に有っている者であって、
金銭や「所有品」を沢山もっている者ではない。

この事をまだ本当に悟らぬ人が多いために、
富めば富むほど自分の心がその富に縛られて、富を護るための奴隷となり、
屈従の生活を送りながら、自分を富者だと思っている人が多いのである。

「物を所有するために、心がひっかかって自由を失う不利益」によって
相殺され勝ちである。
「無所有」と云うことが仏教で尊ばれるのも其の為である。

しかし「無所有」と云うことは「貧乏」と云うことではない。
「貧乏」な者は、また「貧乏」を心に掴んで苦しむのだ。
「貧乏」を掴まず、富を掴まず、欲するに従って自ずから 自由に集まる
――― これが真に富者である。

             <感謝合掌 令和元年9月29日 頓首再拝>

繁栄への祈り方 - 伝統

2019/10/03 (Thu) 04:57:47


       *『 精神科学 』 昭和55年4月号 より
         ~「 祈りの本質及びその七段階 」 谷口雅春先生

「 若しあなたが繁栄しようと思われますならば、
自分の内にある“ 繁栄 ”を引出して来なければなりません。」

・・・・・・

すべてのものは、外から近づいて来るように見えましても、
実は 自分の内にあるものが、外に映って
外から動き出してくるように見えているのであります。

鏡に向って 笑って 近づけば、
鏡の中の人物も笑って 近づいてくるようなものです。

自分の中にある繁栄を引出してくれば、
外の世界に於いても 繁栄が近づいてくるのであります。

・・・・・・

自分の中にある「 繁栄 」とは、自分の中にある「 数理的先見 」です 。

・・・・・・

天体の運行も、私たちの肉体の呼吸や血液循環も新陳代謝も
悉く数理的秩序によって行われているのであります。

・・・・・・

繁栄は 数理的秩序によって積み重ねられて来るものです。
だから繁栄を願うものは、単に「 繁栄せしめ給え 」と祈るよりも、

「 神よ、あなたの無限の智慧を与えたまいて、その智慧によって
わが事業を数理的に計画し実行することを得せしめ給え 」

と祈る方がよいのであります。

・・・・・・

智慧の中で最も精確なるものが 数理的秩序であります。

事業というものを成功させるには 色々の条件を精細に検討し
数理的に予算を立てて堅実なる基礎の上に実行して行かねばなりません。

・・・・・・

富というのは、人を幸福にする善き智慧、
あるいは人のためになる善きアイディア、というものが、
これが実現したら、それが富に変るわけなんであります。

だから、こういって祈るのがいいんですねぇ。

「 私の天分に適(かな)いまする出来るだけ多勢の人のためになります
善き智慧を与えたまえ。そしてそれを実現する力を与えたまえ 」

と念ずるといいのであります。

http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0432c67fc28e41b64cac8933ddf764d7

             <感謝合掌 令和元年10月3日 頓首再拝>

《神の供給を受けるメイン・パイプ》 - 伝統

2019/10/16 (Wed) 04:39:26


        *『生活の智慧365章』
         (第3部繁栄の泉)第8篇(P222~223) より

失敗の最大の原因は、潜在意識内にある生活態度
 ―― 神観 ―― 人生観 ―― 人間関係 ――
と云うようなものが正常でないことである。

 
人々は金銭を求めたり、物資を求めたり、協力者を求めたり、
健康を求めたり、愛人を求めたりするけれども、これら個々のものは、
全体のものの一部的な断片であって、主要なものではないのである。

全体が既に「実相世界」に於て与えられているのに、
人々はその全体が流入する「心のパイプ」となろうとしないで、
個々の断片を求めようとするのである。

主導管(メイン・パイプ)をつめて置いて、
枝のパイプで何ものかを得ようとするのであるから、
それらのものが得られる筈がないのである。

何よりも神を正しく理解し、夫婦の心的関係を正常にすることが
神の供給を受ける主導管(メイン・パイプ)を開くことになるのである。

             <感謝合掌 令和元年10月16日 頓首再拝>

《無限の宝庫は 今 此処 にある》 - 伝統

2019/10/20 (Sun) 02:29:56


        *『 生長の家 』(昭和24年9月1日の法語)より

   昔々インダス河のほとりに一人のペルシャ人が住んでいた。
   その名前はアーリー・ハーフェッドと云った。

   河岸に立っている彼の小さい家からは美しい田舎の景色が
   海岸の方へずっと伸びて行っているのを見渡す事ができた。

   アーリー・ハーフェッドには妻との間に数人の子供があった。
   彼は豪農で広々とした穀物の畑や花畑や果樹園や数マイルもつづく森林を所有していた。
   彼は自分のほしいだけの金と、その外ありとあらゆるものをもっていたのである。

   それで彼は非常に満足で幸福であった。

   或る朝のこと 一人の仏教僧侶(そうりょ)が彼の家を訪問した。
   そして暖炉(だんろ)の前に腰かけながら、この世界の成り立ちから、
   太陽の最初の光がこの地球の上にさしこんで来て、それが如何に結晶して
   ダイヤモンドになったかというような話まで説明してくれるのであった。

   この老僧はこんな話をしてから、
   自分の拇指(おやゆび)をその豪農の主人公の前に突きだして、

   「 この拇指ほどの太陽の光でも広い広い金鉱、銀鉱、銅鉱などよりも
   まだまだ価値があるのである。このほんの僅(わず)かの日光でもこんな農園位
   いくらでも買えるだけの値打があるのだ。

   一にぎりの日光があればこの一国全体を買う値打がある。
   そのすばらしい日光が結晶したダイヤモンドの鉱山をもってしたら、
   この国全体を買って尚(なお)余りがあるほどだ 」 と説明したのであった。


   アーリー・ハーフェッドはその老僧のいうことをきいていた。
   すると今まで田地 田畑 果樹園 森林それから無尽の金銭をもっていて
   随分富めりと思っていたのが、それがただの一にぎりの日光の値打しかないのだと
   知らされると一ペンに貧乏になったような気がしたのである。

   彼は今まで満足していた心が不満足となり、堪えがたき寂しい感じにおそわれて、
   その夜はおちおち眠ることが出来なかった。

   翌朝になると、彼は不機嫌な顔をしておきて来た。
   そしてその不機嫌の原因であった老僧に心配そうに
   「 どこへ行ったらそのダイヤモンドの鉱山が見つかるのですか 」 ときいた。

   「 どうしてあなたはダイヤモンドがほしいのですか 」 と
   其の坊さんはおどろいてたずねた。するとその主人は

   「 私は富みたいのです。そして子孫に富を残しておいてやりたいのです 」
   と答えた。

   老僧は答えていった。
   「 あんたのなすべきことは一所懸命そのダイヤモンドの鉱山が
   見つかるまで探しまわることですよ。」


   「 しかしどこへいって探したらいいのでしょう。」と哀れな主人はいった。

   「 東西南北どこへでも行って探しなさい。」と老僧はいいました。

   「 そんなに歩き廻って、やっとダイヤモンドの鉱山の所へ来たら、
   どうしたらそれがわかるのですか。」

   「 高い山脈の間に白い砂の河底の その白い砂の中に
   ダイヤモンドを見出(みいだ)すでしょう。」 と老僧は答えた。

   そこで主人公は自分のもっていた農園を売りとばして
   自分の家族をば隣の農家にあずけ、
   その売って得た金をもってダイヤモンド鉱山の探検に出掛けて行った。


   彼はアラビヤの山々を越え、パレスチナ及びエジプトを通って、何年も何年も、
   彼は困難な旅を続けて行ったが、ダイヤモンド鉱山は見つからなかった。

   彼は出発の時携帯した金を全部使いつくしてしまって、
   その後には飢え死にが ただ待っているのであった。
   彼は自分自身の愚かさと自分自身のやつれはてたみすぼらしさとを
   恥じて海にとびこんで自殺したのであった。


   話かわって彼から農園を買いとった人は 今もっている農園に満足し切っていた。

   そして自分の環境を出来るだけととのえ
   自分のすべての田地、畑をできるだけよきものにして、
   ダイヤモンドや あてにもならぬ富貴栄華を求めることなしに 
   ただ今を「ありがとうございます」と暮していたのであった。

   所が、彼が農業用に飼っていたラクダが、
   ある日 水を呑(の)んでいるのを見ていると、
   小川の白い砂の中からピカリと光る ある物が見えたのである。

   彼はその光る小石をとりあげて見た。

   余りに光輝燦然と光る石なので、めずらしい石だと思って家にもってかえり、
   暖炉の近くの棚の上にそれをおいたが
   何時(いつ)の間にか そのことも忘れてしまっていた。

   ある日 例の老僧がその農園の新しい持主である彼の所へ訪ねて来た。
   老僧は彼の部屋に足を踏みこんだとたんに、
   棚にあった‘光るもの’が目についたのである。

   「 ダイヤモンドだ。ダイヤモンドだ。
   アーリー・ハーフェッドが帰ってもって来たのかえ。」と
   老僧は興奮して叫び声をあげた。


   「いいえ」と百姓はいった。
   「あれはダイヤモンドでござんせんよ。あれはただの石でさあ。」


   兎(と)も角、この石を採取した現場を見ようと云うので、
   二人はその農園を流れる河の白い砂のところへ行って、
   指で砂をかきまわしてみると、驚いたことには、出てくる、出てくる。

   先のものよりも まだまだ大きい光輝燦然たる
   大粒のダイヤモンドが出てくるのであった。


   これが有名なゴルコンダーのダイヤモンド鉱の発見された歴史である
   ということが或る本に書いてあった。


   あの哀れなるアーリー・ハーフェッドが遠く さすらい歩かないで、
   ただ自分の家でじっとして今あるものに完全に感謝して
   今に全力をつくしていたならば飢え死に一歩手前で身投げするどころか
   全世界第一の大富豪になっていたのであった。


   彼のもっていた農園地帯全部が
   無数の宝石を蔵しているダイヤモンド鉱であったのである。

   無限の富は すでに 今 ここに 与えられているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

             <感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>

《色即是空・持って持たぬということ》 - 伝統

2019/11/03 (Sun) 03:54:56


         *『幸福を招く365章』第9項(P179) より

イエスが「幸いなるかな貧しき者、天国はその人のものなり」と云ったとき、
其の心の貧しき者とは「無所有」の心境にある人のことであって、
貧乏である人のことではない。

「持つ」ものは「持たれる」のである。
若しその人が「妻」を持つならば、「妻」に持たれるだろう。
若しその人が「良人」をもつならば、「良人」に持たれるであろう. 

然らばその人が何にも持たないと頑張るならば、その人は「無」に持たれるであろう。

持って持たずの心境が大切なのである。

「持つ」のは物質をみとめることである。

「持たぬ」のは物質をみとめぬことである。

色即是空である。

             <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>

《いのち》の営みが、「設け」であり、「儲け」は「設け」に伴う - 伝統

2019/11/05 (Tue) 04:37:40


          *「光明道中記」(11月4日《福徳円満の日》)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                           (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、
自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、
近来、資本主義の爛熟期に到達するに及んで「設け」ずして、
金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

              ・・・

          *「光明道中記」(11月5日《無限供給を受くる日》)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。(『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、
宇宙がそのまま自分のものとなるのである。

手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、
手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、金魚の住まない水盤には容易に藻が生えない
と云う事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

             <感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>

《金は正しい使い方で生きて来る》 - 伝統

2019/11/10 (Sun) 04:58:47


         *『 生長の家 』(昭和24年8月27日の法語)より

   金をもうけることを知っている人は沢山あるが、
   金を如何に使うべきかを知っている人は余り多くはないのである。

   多くの人はもうけた金を不要のことに使い、
   自己の生活をもちくずしたり、健康を害したり、
   人の道徳性を蹂躙(じゅうりん)したりすることに使っている。

   金のもっともよき使い方は
   もっとも多く如何にすれば
   それによって他を生かし得るかということを
   考えて使うことである。

   正しくもうけた金は正しく使われるが、
   不正でもうけた金は正しくないことに使われる。

   金は入って来た形で出て行くのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12857435.html

             <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2019/11/11 (Mon) 04:51:25


       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、
他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、
平和と調和をもたらす為に必要なるもの」

であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、
ラジオ・セットや蓄音機のような生活必需品でなくとも与えられるのである。

             <感謝合掌 令和元年11月11日 頓首再拝>

《健全なる発達には健全なる量が必要である》 - 伝統

2019/11/15 (Fri) 04:54:10


        *『 生長の家 』(昭和24年8月28日の法語)より

   余りに貧しい生活も不健全であるが、
   余りに贅沢(ぜいたく)な生活も不健全となり易い。

   神の子の実相が現れたら
   贅沢すぎるということは
   あり得ない筈(はず)であるが、

   実相発現の途上に於(お)いては
   その時期にふさわしい資材の適当な分量によって
   養われなければならない。

   農作物にも栄養周期の施肥(せひ)法があると同様に
   人間の発達途上に於いても適当の資材を
   適量に必要とするのである。

   金はけちに使ってはならないし、
   無駄なことに贅沢に使ってもならないのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12862941.html

             <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>

《今を最高限度に使う者は繁栄する》 - 伝統

2019/11/21 (Thu) 06:54:24


       *『 生長の家 』(昭和24年8月29日の法語)より

   最高の繁栄を得る道は
   もっとも善きことに
   今ある資本と能力とを最高限度に使うことである。

   自分の能力増進に必要なあらゆる物質(もの)を
   購入するのに けちであってはならないのである。

   能力をすりへらすような快楽のために
   金銭を贅沢に使ってはならないのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12866907.html

             <感謝合掌 令和元年11月21日 頓首再拝>

《すべての物は神の賜物である》 - 伝統

2019/11/23 (Sat) 05:03:29


        *『 生長の家 』(昭和33年9月1日の法語)より

   キリストが或る時、奇蹟を行った。
   五つのパンを五千人に分けたら食べ飽きて尚
   籠十二杯に山盛りのパンが残った。

   そんな馬鹿らしいことがあるものかと一見思われるのであるが、
   聖書を注意して読むと、
   イエス『一片のカケラも残らないやうに其のパンの屑を集めよ』
   と弟子に指令しているのである。

   茲に真に無限供給の原理があるのである。
   一片のカケラもすべて神からの賜なのである。

   その賜を尊重する心のあるところに、そのカケラが増進して、
   ついに十二杯の籠に山盛りのパンともなったのである。

   神からの賜を尊重しないで、唯単にそれを物質的な塊だと、
   軽くあしらっているところに、人間が貧しくなる原因があるのである。

   物質はそのまま『神の愛の実現』である。

   百丈和尚は一枚の菜の葉が川へ流れて行ったのを駈足で追って行き、
   それを拾って『佛物』として頂いたと云うことである。

             <感謝合掌 令和元年11月23日 頓首再拝>

《すべての欠乏の原因は ― ?》 - 伝統

2019/11/26 (Tue) 04:53:42


        *『 生長の家 』(昭和33年9月2日の法語)より

   『物質は物質に非ず、それは神の愛の具象化である。』 

   私たちが一片のパンの欠ケラをも神の愛として感謝する心になるとき、
   私たちは實相の世界にある無限供給の霊的波動を合わすことができ、
   必要に応じて、その欲するものを現実の世界に実現して来ることが
   できるのである。

 
   生活力の欠乏 ― 即ち虚弱や病気 ― それから、
   経済力の欠乏 ― すなわち貧乏や物資不足は、

   私たちが神の愛の具象化に波長を合わさなかったときに、
   テレビに放送が映って出ないように、
   受信力の欠陥としてあらわれて来るのである。

   この原理を知らないために、或る種の人は、物資の潤沢を
   確保するために、霊的世界に波長を合わすことを忘れて、
   逆に貪欲になって、貪り取ろうと云うような気持になるのである。

             <感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>

神は霊的『無限供給』を与えたまう - 伝統

2019/12/08 (Sun) 04:40:54


        * 『生長の家』(昭和33年6月号)より

神は無限の愛であり、無限の智慧であり、《無限の宝蔵》である。

神はその《無限の宝蔵》から『神の子』なる人間に、
その善きものを与えることを惜しみ給うことはないのである。

《無限の宝蔵》から無限の供給が与えられないのは、
私たち人間の側に、神の《無限供給》を受信するだけの
信仰の波長を起さないからである。

神は霊であるから、
神から来る《無限供給》も霊的波動として来るのである。

それが具体的な物質的供給としてあらわれるのは、
恰もテレビのブラウン管に具体的な形としてあらわれるのに似ている。

先ず神の霊波を完全に受信し得るような心境をつくることが必要である。
あとは自然的の法則で、自然の順序を追ってやってくるのである。

   
私たちは神の分霊である。神は無限である。
人間は有限である。しかし単なる有限ではないのである。
自己の内に《無限》を宝蔵する有限である。

私たちは自己の内に宿っている《無限》の胚子を育て、
発芽し成長させることによって、《有限》でありながら
《無限》と波長を合わせることができるようになるのである。
   
   
先ず愛の心を起すことである。
愛は「自分」だけへの関心を超えて「他」の者を包容する。
  
その程度が大きくなるに従って、
私たちは神の《無限の愛》と波長が合うようになるのである。

私たちが《愛》の心によって神と波長が合うようになるならば、
神は《生命》であるから、その《生命》の生かす力を完全に受けることが出来、
《生命》は生きるばかりであるから老病死の恐怖がなくなるのである。


 今日はこう祈りましょう。

  神よ、今、私はあなたの内にあります。
  私は常に心を振り向けてあなたのところへ帰ってまいります。

  どんなに失意の時にも、
  あなたに心を振り向ければ希望が湧いてきます。
  あなたは希望の源泉であられます。
       

  神よ、わが内にあなたは在したまい、
  あなたの内に私の命は生きているのです。
  常に私はあなたを見失うことはありません。
    
  私は、毎日、神想観して
  あなたの大いなる愛と智慧と生命の中に憩います。
  どんなに心が落ち着かぬ時にでも、
  神想観してあなたの愛の中に憩いますと、私の心は落ち着きます。


  あなたはすべての擾乱と紛争と不調和とを去る
  不思議な力であられます。

  私は、常に一人ではありません。
  常にあなたと偕であります。

  私は常にあなたと一緒に歩み、
  あなたと一緒に働き、
  あなたと一緒に生きているのであります。

   ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/folder/626266.html?m=lc&p=207 )

         <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>

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