伝統板・第二

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無限の富を汲みだす⑤ - 伝統

2019/08/15 (Thu) 04:30:52

   《神なる無限供給の源泉と連絡せよ》

         *『 生長の家 』(昭和26年7月17日の法語)より

   神は 万物を生み給うた。
   それゆえに神は無限の富の源泉であり、
   貯蔵庫であることが判るであろう。

   神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な
   大まかな運動や構成は出来るのであるが、
   意識的な発動的創造の中心は、
   神が人間として現われてのみ出来ることになったのである。

   神は無限の富の源泉であるから、
   人間はその無限の富の意識的表出口(あらわれるでぐち)だ
   と云うことが出来るのである。

   だから人間を神の子だと云うのである。

   神の子たるものが、貧しく生活しなければならぬなどと
   云うことは 実際あり得ないことなのである。

   汝(なんじ)が貧しいのは 神の真意を知らず、
   神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ba1fe944a278f2d35d08b5ffb298980f

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56 (消滅)

   「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二)
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895683  (再掲示中)

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7542012

(8)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7752637

           <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>

神様の無限供給をいただく方法 - 伝統

2019/08/19 (Mon) 04:08:59


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月19日)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 令和元年8月19日 頓首再拝>

《貧しきを征服するには》 - 伝統

2019/08/30 (Fri) 04:06:03


         *『生長の家』(昭和25年8月5日の法語)より

   神をもっと豊かな寛大な父であると考えることが必要である。

   神は神の子なる人間を
   豊かに 幸福に 愉快に 楽しく 生活せしめたいのが
   その願いであるのである。

   人間を貧乏にしたり病気にしたりするのが
   神の願いではないのである。

   人間を貧乏にしたのは 人間自身の想念である。

   与えることを惜しむ心は、
   その心の通りに与えられなくなる。

   他に対して惜しみなく
   労力を与え、深切を与え、笑顔を与え、

   仕事に対して丁寧を与え、友人に対して好感を与え、
   何事にも充分 熟慮と努力を与えることが
   貧しさを征服する道である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

      <感謝合掌 令和元年8月30日 頓首再拝>

「負債」無し、神の無限供給の現われ - 伝統

2019/09/05 (Thu) 03:59:22


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月5日)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、
「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、
どちらの側も「欠乏」という観念から抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、こ
の欠乏の感じを「お蔭」(神からの供給)の考えに
転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは
「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、

債務者の方からが、
「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。
神の無限の供給が種子(たね)になっていよいよますます
幸福がやって来る、ありがとうございます」

と考えるがよい。

             <感謝合掌 令和元年9月5日 頓首再拝>

「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける - 伝統

2019/09/06 (Fri) 04:13:59


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月6日)より

相手が債務を履行しないことを責める心、
払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という
「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方が、
実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、
そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、

自分に「損」をかけたと思う人に対しては、
特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

すべてを祝福することが、自己を富ます道 - 伝統

2019/09/08 (Sun) 04:46:20


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月8日)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、豊かなる供給を
与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。

富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを
排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。

貧しき者、損をかけた者を、
「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

             <感謝合掌 令和元年9月8日 頓首再拝>

常によき念を送る - 伝統

2019/09/10 (Tue) 04:50:46


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月10日)より

「神の無限の愛われに流れ入り給いて、愛の霊光燦然として輝き給い、
すべての不安、恐怖、憂鬱を雲のごとく散らしめたまうのである。」

常に暇あればかく念じて自分自身の心の中に神の愛をもって満たせ、
もしあなたがたれかに貸し金があったり、店子が家賃を払ってくれなかったり、
商品の決済をしてくれなかったりしたとて、その債務者が不正直で悪意があるとか、
払わぬつもりでいるとか考えてはならないのである。

もしそんな想念を起こしたならば相手はますます不正直になり、誠意がなくなり、
払わぬつもりになるばかりである。

自分に債務のある者を常に善意をもって扱い、善念を送り、愛念を送り、
無限供給の念を送ればその債務は速やかに払われる。

             <感謝合掌 令和元年9月10日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2019/09/12 (Thu) 04:15:16


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

             <感謝合掌 令和元年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2019/09/13 (Fri) 04:01:36


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、
「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」とかの
観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。
そこは、ただ恵まれている世界である。

その恵みに報謝する働きをしておれば
必要なものはことごとくやって来るのである。

             <感謝合掌 令和元年9月13日 頓首再拝>

富は有益に使う - 伝統

2019/09/20 (Fri) 04:51:29


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 令和元年9月20日 頓首再拝>

《真の富者は「自由」を所有する》 - 伝統

2019/09/29 (Sun) 04:56:55


         *『幸福を招く365章』第9項(P178) より

本当の富者とは「自由」を完全に有っている者であって、
金銭や「所有品」を沢山もっている者ではない。

この事をまだ本当に悟らぬ人が多いために、
富めば富むほど自分の心がその富に縛られて、富を護るための奴隷となり、
屈従の生活を送りながら、自分を富者だと思っている人が多いのである。

「物を所有するために、心がひっかかって自由を失う不利益」によって
相殺され勝ちである。
「無所有」と云うことが仏教で尊ばれるのも其の為である。

しかし「無所有」と云うことは「貧乏」と云うことではない。
「貧乏」な者は、また「貧乏」を心に掴んで苦しむのだ。
「貧乏」を掴まず、富を掴まず、欲するに従って自ずから 自由に集まる
――― これが真に富者である。

             <感謝合掌 令和元年9月29日 頓首再拝>

繁栄への祈り方 - 伝統

2019/10/03 (Thu) 04:57:47


       *『 精神科学 』 昭和55年4月号 より
         ~「 祈りの本質及びその七段階 」 谷口雅春先生

「 若しあなたが繁栄しようと思われますならば、
自分の内にある“ 繁栄 ”を引出して来なければなりません。」

・・・・・・

すべてのものは、外から近づいて来るように見えましても、
実は 自分の内にあるものが、外に映って
外から動き出してくるように見えているのであります。

鏡に向って 笑って 近づけば、
鏡の中の人物も笑って 近づいてくるようなものです。

自分の中にある繁栄を引出してくれば、
外の世界に於いても 繁栄が近づいてくるのであります。

・・・・・・

自分の中にある「 繁栄 」とは、自分の中にある「 数理的先見 」です 。

・・・・・・

天体の運行も、私たちの肉体の呼吸や血液循環も新陳代謝も
悉く数理的秩序によって行われているのであります。

・・・・・・

繁栄は 数理的秩序によって積み重ねられて来るものです。
だから繁栄を願うものは、単に「 繁栄せしめ給え 」と祈るよりも、

「 神よ、あなたの無限の智慧を与えたまいて、その智慧によって
わが事業を数理的に計画し実行することを得せしめ給え 」

と祈る方がよいのであります。

・・・・・・

智慧の中で最も精確なるものが 数理的秩序であります。

事業というものを成功させるには 色々の条件を精細に検討し
数理的に予算を立てて堅実なる基礎の上に実行して行かねばなりません。

・・・・・・

富というのは、人を幸福にする善き智慧、
あるいは人のためになる善きアイディア、というものが、
これが実現したら、それが富に変るわけなんであります。

だから、こういって祈るのがいいんですねぇ。

「 私の天分に適(かな)いまする出来るだけ多勢の人のためになります
善き智慧を与えたまえ。そしてそれを実現する力を与えたまえ 」

と念ずるといいのであります。

http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0432c67fc28e41b64cac8933ddf764d7

             <感謝合掌 令和元年10月3日 頓首再拝>

《神の供給を受けるメイン・パイプ》 - 伝統

2019/10/16 (Wed) 04:39:26


        *『生活の智慧365章』
         (第3部繁栄の泉)第8篇(P222~223) より

失敗の最大の原因は、潜在意識内にある生活態度
 ―― 神観 ―― 人生観 ―― 人間関係 ――
と云うようなものが正常でないことである。

 
人々は金銭を求めたり、物資を求めたり、協力者を求めたり、
健康を求めたり、愛人を求めたりするけれども、これら個々のものは、
全体のものの一部的な断片であって、主要なものではないのである。

全体が既に「実相世界」に於て与えられているのに、
人々はその全体が流入する「心のパイプ」となろうとしないで、
個々の断片を求めようとするのである。

主導管(メイン・パイプ)をつめて置いて、
枝のパイプで何ものかを得ようとするのであるから、
それらのものが得られる筈がないのである。

何よりも神を正しく理解し、夫婦の心的関係を正常にすることが
神の供給を受ける主導管(メイン・パイプ)を開くことになるのである。

             <感謝合掌 令和元年10月16日 頓首再拝>

《無限の宝庫は 今 此処 にある》 - 伝統

2019/10/20 (Sun) 02:29:56


        *『 生長の家 』(昭和24年9月1日の法語)より

   昔々インダス河のほとりに一人のペルシャ人が住んでいた。
   その名前はアーリー・ハーフェッドと云った。

   河岸に立っている彼の小さい家からは美しい田舎の景色が
   海岸の方へずっと伸びて行っているのを見渡す事ができた。

   アーリー・ハーフェッドには妻との間に数人の子供があった。
   彼は豪農で広々とした穀物の畑や花畑や果樹園や数マイルもつづく森林を所有していた。
   彼は自分のほしいだけの金と、その外ありとあらゆるものをもっていたのである。

   それで彼は非常に満足で幸福であった。

   或る朝のこと 一人の仏教僧侶(そうりょ)が彼の家を訪問した。
   そして暖炉(だんろ)の前に腰かけながら、この世界の成り立ちから、
   太陽の最初の光がこの地球の上にさしこんで来て、それが如何に結晶して
   ダイヤモンドになったかというような話まで説明してくれるのであった。

   この老僧はこんな話をしてから、
   自分の拇指(おやゆび)をその豪農の主人公の前に突きだして、

   「 この拇指ほどの太陽の光でも広い広い金鉱、銀鉱、銅鉱などよりも
   まだまだ価値があるのである。このほんの僅(わず)かの日光でもこんな農園位
   いくらでも買えるだけの値打があるのだ。

   一にぎりの日光があればこの一国全体を買う値打がある。
   そのすばらしい日光が結晶したダイヤモンドの鉱山をもってしたら、
   この国全体を買って尚(なお)余りがあるほどだ 」 と説明したのであった。


   アーリー・ハーフェッドはその老僧のいうことをきいていた。
   すると今まで田地 田畑 果樹園 森林それから無尽の金銭をもっていて
   随分富めりと思っていたのが、それがただの一にぎりの日光の値打しかないのだと
   知らされると一ペンに貧乏になったような気がしたのである。

   彼は今まで満足していた心が不満足となり、堪えがたき寂しい感じにおそわれて、
   その夜はおちおち眠ることが出来なかった。

   翌朝になると、彼は不機嫌な顔をしておきて来た。
   そしてその不機嫌の原因であった老僧に心配そうに
   「 どこへ行ったらそのダイヤモンドの鉱山が見つかるのですか 」 ときいた。

   「 どうしてあなたはダイヤモンドがほしいのですか 」 と
   其の坊さんはおどろいてたずねた。するとその主人は

   「 私は富みたいのです。そして子孫に富を残しておいてやりたいのです 」
   と答えた。

   老僧は答えていった。
   「 あんたのなすべきことは一所懸命そのダイヤモンドの鉱山が
   見つかるまで探しまわることですよ。」


   「 しかしどこへいって探したらいいのでしょう。」と哀れな主人はいった。

   「 東西南北どこへでも行って探しなさい。」と老僧はいいました。

   「 そんなに歩き廻って、やっとダイヤモンドの鉱山の所へ来たら、
   どうしたらそれがわかるのですか。」

   「 高い山脈の間に白い砂の河底の その白い砂の中に
   ダイヤモンドを見出(みいだ)すでしょう。」 と老僧は答えた。

   そこで主人公は自分のもっていた農園を売りとばして
   自分の家族をば隣の農家にあずけ、
   その売って得た金をもってダイヤモンド鉱山の探検に出掛けて行った。


   彼はアラビヤの山々を越え、パレスチナ及びエジプトを通って、何年も何年も、
   彼は困難な旅を続けて行ったが、ダイヤモンド鉱山は見つからなかった。

   彼は出発の時携帯した金を全部使いつくしてしまって、
   その後には飢え死にが ただ待っているのであった。
   彼は自分自身の愚かさと自分自身のやつれはてたみすぼらしさとを
   恥じて海にとびこんで自殺したのであった。


   話かわって彼から農園を買いとった人は 今もっている農園に満足し切っていた。

   そして自分の環境を出来るだけととのえ
   自分のすべての田地、畑をできるだけよきものにして、
   ダイヤモンドや あてにもならぬ富貴栄華を求めることなしに 
   ただ今を「ありがとうございます」と暮していたのであった。

   所が、彼が農業用に飼っていたラクダが、
   ある日 水を呑(の)んでいるのを見ていると、
   小川の白い砂の中からピカリと光る ある物が見えたのである。

   彼はその光る小石をとりあげて見た。

   余りに光輝燦然と光る石なので、めずらしい石だと思って家にもってかえり、
   暖炉の近くの棚の上にそれをおいたが
   何時(いつ)の間にか そのことも忘れてしまっていた。

   ある日 例の老僧がその農園の新しい持主である彼の所へ訪ねて来た。
   老僧は彼の部屋に足を踏みこんだとたんに、
   棚にあった‘光るもの’が目についたのである。

   「 ダイヤモンドだ。ダイヤモンドだ。
   アーリー・ハーフェッドが帰ってもって来たのかえ。」と
   老僧は興奮して叫び声をあげた。


   「いいえ」と百姓はいった。
   「あれはダイヤモンドでござんせんよ。あれはただの石でさあ。」


   兎(と)も角、この石を採取した現場を見ようと云うので、
   二人はその農園を流れる河の白い砂のところへ行って、
   指で砂をかきまわしてみると、驚いたことには、出てくる、出てくる。

   先のものよりも まだまだ大きい光輝燦然たる
   大粒のダイヤモンドが出てくるのであった。


   これが有名なゴルコンダーのダイヤモンド鉱の発見された歴史である
   ということが或る本に書いてあった。


   あの哀れなるアーリー・ハーフェッドが遠く さすらい歩かないで、
   ただ自分の家でじっとして今あるものに完全に感謝して
   今に全力をつくしていたならば飢え死に一歩手前で身投げするどころか
   全世界第一の大富豪になっていたのであった。


   彼のもっていた農園地帯全部が
   無数の宝石を蔵しているダイヤモンド鉱であったのである。

   無限の富は すでに 今 ここに 与えられているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

             <感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>

《色即是空・持って持たぬということ》 - 伝統

2019/11/03 (Sun) 03:54:56


         *『幸福を招く365章』第9項(P179) より

イエスが「幸いなるかな貧しき者、天国はその人のものなり」と云ったとき、
其の心の貧しき者とは「無所有」の心境にある人のことであって、
貧乏である人のことではない。

「持つ」ものは「持たれる」のである。
若しその人が「妻」を持つならば、「妻」に持たれるだろう。
若しその人が「良人」をもつならば、「良人」に持たれるであろう. 

然らばその人が何にも持たないと頑張るならば、その人は「無」に持たれるであろう。

持って持たずの心境が大切なのである。

「持つ」のは物質をみとめることである。

「持たぬ」のは物質をみとめぬことである。

色即是空である。

             <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>

《いのち》の営みが、「設け」であり、「儲け」は「設け」に伴う - 伝統

2019/11/05 (Tue) 04:37:40


          *「光明道中記」(11月4日《福徳円満の日》)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                           (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、
自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、
近来、資本主義の爛熟期に到達するに及んで「設け」ずして、
金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

              ・・・

          *「光明道中記」(11月5日《無限供給を受くる日》)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。(『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、
宇宙がそのまま自分のものとなるのである。

手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、
手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、金魚の住まない水盤には容易に藻が生えない
と云う事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

             <感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>

《金は正しい使い方で生きて来る》 - 伝統

2019/11/10 (Sun) 04:58:47


         *『 生長の家 』(昭和24年8月27日の法語)より

   金をもうけることを知っている人は沢山あるが、
   金を如何に使うべきかを知っている人は余り多くはないのである。

   多くの人はもうけた金を不要のことに使い、
   自己の生活をもちくずしたり、健康を害したり、
   人の道徳性を蹂躙(じゅうりん)したりすることに使っている。

   金のもっともよき使い方は
   もっとも多く如何にすれば
   それによって他を生かし得るかということを
   考えて使うことである。

   正しくもうけた金は正しく使われるが、
   不正でもうけた金は正しくないことに使われる。

   金は入って来た形で出て行くのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12857435.html

             <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2019/11/11 (Mon) 04:51:25


       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、
他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、
平和と調和をもたらす為に必要なるもの」

であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、
ラジオ・セットや蓄音機のような生活必需品でなくとも与えられるのである。

             <感謝合掌 令和元年11月11日 頓首再拝>

《健全なる発達には健全なる量が必要である》 - 伝統

2019/11/15 (Fri) 04:54:10


        *『 生長の家 』(昭和24年8月28日の法語)より

   余りに貧しい生活も不健全であるが、
   余りに贅沢(ぜいたく)な生活も不健全となり易い。

   神の子の実相が現れたら
   贅沢すぎるということは
   あり得ない筈(はず)であるが、

   実相発現の途上に於(お)いては
   その時期にふさわしい資材の適当な分量によって
   養われなければならない。

   農作物にも栄養周期の施肥(せひ)法があると同様に
   人間の発達途上に於いても適当の資材を
   適量に必要とするのである。

   金はけちに使ってはならないし、
   無駄なことに贅沢に使ってもならないのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12862941.html

             <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>

《今を最高限度に使う者は繁栄する》 - 伝統

2019/11/21 (Thu) 06:54:24


       *『 生長の家 』(昭和24年8月29日の法語)より

   最高の繁栄を得る道は
   もっとも善きことに
   今ある資本と能力とを最高限度に使うことである。

   自分の能力増進に必要なあらゆる物質(もの)を
   購入するのに けちであってはならないのである。

   能力をすりへらすような快楽のために
   金銭を贅沢に使ってはならないのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12866907.html

             <感謝合掌 令和元年11月21日 頓首再拝>

《すべての物は神の賜物である》 - 伝統

2019/11/23 (Sat) 05:03:29


        *『 生長の家 』(昭和33年9月1日の法語)より

   キリストが或る時、奇蹟を行った。
   五つのパンを五千人に分けたら食べ飽きて尚
   籠十二杯に山盛りのパンが残った。

   そんな馬鹿らしいことがあるものかと一見思われるのであるが、
   聖書を注意して読むと、
   イエス『一片のカケラも残らないやうに其のパンの屑を集めよ』
   と弟子に指令しているのである。

   茲に真に無限供給の原理があるのである。
   一片のカケラもすべて神からの賜なのである。

   その賜を尊重する心のあるところに、そのカケラが増進して、
   ついに十二杯の籠に山盛りのパンともなったのである。

   神からの賜を尊重しないで、唯単にそれを物質的な塊だと、
   軽くあしらっているところに、人間が貧しくなる原因があるのである。

   物質はそのまま『神の愛の実現』である。

   百丈和尚は一枚の菜の葉が川へ流れて行ったのを駈足で追って行き、
   それを拾って『佛物』として頂いたと云うことである。

             <感謝合掌 令和元年11月23日 頓首再拝>

《すべての欠乏の原因は ― ?》 - 伝統

2019/11/26 (Tue) 04:53:42


        *『 生長の家 』(昭和33年9月2日の法語)より

   『物質は物質に非ず、それは神の愛の具象化である。』 

   私たちが一片のパンの欠ケラをも神の愛として感謝する心になるとき、
   私たちは實相の世界にある無限供給の霊的波動を合わすことができ、
   必要に応じて、その欲するものを現実の世界に実現して来ることが
   できるのである。

 
   生活力の欠乏 ― 即ち虚弱や病気 ― それから、
   経済力の欠乏 ― すなわち貧乏や物資不足は、

   私たちが神の愛の具象化に波長を合わさなかったときに、
   テレビに放送が映って出ないように、
   受信力の欠陥としてあらわれて来るのである。

   この原理を知らないために、或る種の人は、物資の潤沢を
   確保するために、霊的世界に波長を合わすことを忘れて、
   逆に貪欲になって、貪り取ろうと云うような気持になるのである。

             <感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>

神は霊的『無限供給』を与えたまう - 伝統

2019/12/08 (Sun) 04:40:54


        * 『生長の家』(昭和33年6月号)より

神は無限の愛であり、無限の智慧であり、《無限の宝蔵》である。

神はその《無限の宝蔵》から『神の子』なる人間に、
その善きものを与えることを惜しみ給うことはないのである。

《無限の宝蔵》から無限の供給が与えられないのは、
私たち人間の側に、神の《無限供給》を受信するだけの
信仰の波長を起さないからである。

神は霊であるから、
神から来る《無限供給》も霊的波動として来るのである。

それが具体的な物質的供給としてあらわれるのは、
恰もテレビのブラウン管に具体的な形としてあらわれるのに似ている。

先ず神の霊波を完全に受信し得るような心境をつくることが必要である。
あとは自然的の法則で、自然の順序を追ってやってくるのである。

   
私たちは神の分霊である。神は無限である。
人間は有限である。しかし単なる有限ではないのである。
自己の内に《無限》を宝蔵する有限である。

私たちは自己の内に宿っている《無限》の胚子を育て、
発芽し成長させることによって、《有限》でありながら
《無限》と波長を合わせることができるようになるのである。
   
   
先ず愛の心を起すことである。
愛は「自分」だけへの関心を超えて「他」の者を包容する。
  
その程度が大きくなるに従って、
私たちは神の《無限の愛》と波長が合うようになるのである。

私たちが《愛》の心によって神と波長が合うようになるならば、
神は《生命》であるから、その《生命》の生かす力を完全に受けることが出来、
《生命》は生きるばかりであるから老病死の恐怖がなくなるのである。


 今日はこう祈りましょう。

  神よ、今、私はあなたの内にあります。
  私は常に心を振り向けてあなたのところへ帰ってまいります。

  どんなに失意の時にも、
  あなたに心を振り向ければ希望が湧いてきます。
  あなたは希望の源泉であられます。
       

  神よ、わが内にあなたは在したまい、
  あなたの内に私の命は生きているのです。
  常に私はあなたを見失うことはありません。
    
  私は、毎日、神想観して
  あなたの大いなる愛と智慧と生命の中に憩います。
  どんなに心が落ち着かぬ時にでも、
  神想観してあなたの愛の中に憩いますと、私の心は落ち着きます。


  あなたはすべての擾乱と紛争と不調和とを去る
  不思議な力であられます。

  私は、常に一人ではありません。
  常にあなたと偕であります。

  私は常にあなたと一緒に歩み、
  あなたと一緒に働き、
  あなたと一緒に生きているのであります。

   ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/folder/626266.html?m=lc&p=207 )

         <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>

真に富まんと欲するには、霊的精神的なる富を得なければならぬ - 伝統

2019/12/15 (Sun) 04:23:41


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より

決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。

真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。

多くの人たちは富とは物質の所有であり、物質を所有することによって
生活の安全感と優越感とを確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に入(い)ることの
難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」と言ったのである。

真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ・・・
挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき有限なる狭き美しさではないのである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、そこから引き出し来(く)る
悦びの豊富、美の感受能力、鑑賞力の豊富さであることを
知らねばならないのである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、
樹々(きぎ)緑したたる美しさはわからない。彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、
無限に豊富なる美の宝庫の中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを
知らず、ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、
腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、

ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、それは人間として与えられたる
至高の特権を放棄せるものと言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

決意、素描、実行 ―― これは心が形の世界に顕(あら)われる3つの要素である。

         <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>

《富とは貨幣のみではない》 - 伝統

2019/12/16 (Mon) 04:40:26


       *「光明法語」(12月16日)より

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

         <感謝合掌 令和元年12月16日 頓首再拝>

財貨の獲得と人格の成長 - 伝統

2019/12/24 (Tue) 04:48:03


         *「光明道中記」(12月24日《人格完成の日》)より

【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。
                       (『生命の實相』第八巻)】

資本の蓄積は現在の経済組織に於いては
何か仕事を進める上には是非必要なことではある。

併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、
それは守銭奴であって、人間の人格の自然な成長を害することになるのである。

梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。

それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。

人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨はすべて遺しておかなければならないのである。

彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。それだけに必要以上の蓄積することに
時間をつぶして、一体それが何の獲得であるのだろうか。

財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。

         <感謝合掌 令和元年12月24日 頓首再拝>

富は入用の程度で満足することが大切 - 伝統

2019/12/25 (Wed) 04:05:27


      *「光明道中記」(12月25日《必ず一人を救う日》)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                       『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

         <感謝合掌 令和元年12月25日 頓首再拝>

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき(神からの)流れである - 伝統

2019/12/26 (Thu) 02:41:41


       *「光明道中記」(12月26日《愛念雲の如く湧く日》)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、自働的にそれが富自身を
追求するようになる時、それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、「
「富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

         <感謝合掌 令和元年12月26日 頓首再拝>

冥加(みょうが)のある「富」 - 伝統

2019/12/27 (Fri) 03:21:22


        *「光明道中記」(12月27日《無限供給の日》)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

         <感謝合掌 令和元年12月27日 頓首再拝>

《無限供給はこうして得られる》 - 伝統

2020/01/12 (Sun) 04:31:45


       *『幸福を招く365章』第3項(P62) より

この世界は神が造ったものであり、神は無限の供給であるから、
真にその実相を知るとき誰かが貧乏にならなければ、
自分が富むことができないというような有限の世界ではないのである。

富は一見「物質的外見」を備えているけれども、
それは神の愛と智慧と生命との表現であるから、
先ずそれを認めるところにあらわれて来るのである。

先ず到るところに存在する神の愛を認めよ。
先ず到るところに存在する神の智慧を認めよ。

そしてその生命(せいめい)に生かされている不思議に目覚めよ。
そしてその愛に感謝せよ。智慧に感謝せよ。生命(せいめい)に感謝せよ。

そして神の愛を行じ、智慧を行い、生命を出して
報恩にいそしむところに富を生ずるのである。

         <感謝合掌 令和2年1月12日 頓首再拝>

《与えた物のみが真の富》 - 伝統

2020/01/27 (Mon) 03:30:53


      *『 生長の家 』(昭和23年9月13日の法語)より

   吾々は世界から何を得たかを誇りにしてはならないのである。
   それは欲ばる心のあらわれであり、奪う心のあらわれであり得る。

   それよりも吾等は世界に何を与えたかを誇りにしなければならない。
   与える者のみが与えられるのであり、
   与えたその福田のみが真の富だということである。

   奪って得たものは一時、自分の所有が殖えて行くように見えるけれども、
   それは神の世界に於いては 唯 負債が殖えただけである。

   その負債はいつかは、時には近き将来に、時には来世に
   支払わなければならないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

         <感謝合掌 令和2年1月27日 頓首再拝>

豊かさの法則 - 伝統

2020/02/11 (Tue) 04:29:10


         *「お金と豊かさの法則」リズ・ブルボー(著)より

(1)あなたが心の底から、自分はあらゆる豊かさを手に入れる権利を持っている
   と信じられるようになれば、それはあなたの人生に具体的に姿を
   現わし始めます。(p20)

(2)あなたが常に約束を守り続けることができないとしても、
   だからといってあなたが悪い人になってしまうわけではありません。

   自分だって約束を守れないこともある、ということを
   ありのままに認めることができれば、
   より約束を守りやすい人間になれるでしょう。

   逆に、自分が約束を守れなかったことを責めると、
   もっと約束を守れなくなるものなのです。
   これが、人生の大いなる逆説なのです。(p46)

(3)≪豊かさの法則≫によれば、いっさいの見返りを期待せずに、
   他者をひたすら喜ばせるために、純粋な喜びとともに与えられたものだけが、
   本当の贈りものとみなされるのです。

   もしあなたが、義務感ゆえに与えたり、
   罪悪感から解放されるために与えたりしたならば、
   あなたのその動機は良いものとはみなされません。

   恐れが根底にあってあなたが何かを与えたとしたら、
   それは本当の贈りものとは言えないのです。(p56)

(4)自分以外の人が浪費しているかどうかを決める権利は、
   私たちにはないと思います。

   そんなことをする時間とエネルギーがあったら、
   それを使って自分が浪費していないかどうかを検証したほうがいいのです。
   実際、物質的な浪費よりも、精神的な浪費の方がはるかに多いものです。

   私たちは、無駄な思考をし、無駄な言葉を発することによって、
   物質的な浪費よりもはるかに有害な浪費をしているのです。(p173)

(5)誰かが、『霊的なガイドがああしなさい、こうしなさいと私に指示しました』
   と言う時、私はいつも『気をつけてくださいね』と言うことにしています。

   というのも、霊的なガイドとは、
   私の≪内なる神≫から来るものでなければならないからです。

   内なる神だけが、私たちが何をやればいいかを知っています。

   本当のガイドは、ああしなさい、こうしなさい、とは言いません。
   むしろ、提案や質問をすることによって、私たちが自分自身で
   答えを見つけられるようにしてくれるでしょう。

   あなたの偉大な力を思い出させてくれたり、
   あなたのやり方を勇気づけてくれたりするのです。(p174)

   (http://meisouizenn.blog.fc2.com/blog-entry-454.html )

         <感謝合掌 令和2年2月11日 頓首再拝>

《人のためになる事が富の本源》 - 伝統

2020/02/25 (Tue) 02:54:31


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。

人のためになることを余計すればするほど、
その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもので、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

         <感謝合掌 令和2年2月25日 頓首再拝>

《實相世界にある富を現実にするには》 - 伝統

2020/03/05 (Thu) 04:04:01


         *『 生長の家 』(昭和33年9月3日の法語)より

人の富を、その外形的な数量的な物質や貨幣の量によって
はかってはならないのである。

真理を知ったところの人は、すべての富は物質の量ではなくて、
天の倉に貯えられたる霊的なる『徳』であり、その眼に見えざる
『徳』が必要に応じて物質的な富として形をかえて現象界に
あらわれて来るものだと云うことを知っているのである。

人間は神の最高の自己実現としてつくられたものであるから、
神が人間を貧しくつくるようなことをしたまう筈はないのである。

神は人間を自己の最高実現として、最高の『徳』を実現することを
目的としていられるのであるから、『徳』を行じ『徳』を実現するとき、
おのずから経済的にも豊に『其の實相の富』を此の世に実現することが
できるようになっているのである。

         <感謝合掌 令和2年3月5日 頓首再拝>

《現象の奥にある實相の富》 - 伝統

2020/03/17 (Tue) 04:49:59


       *『 生長の家 』(昭和33年9月4日の法語)より


   人生の目的は富を得ることでもなければ、
   名声をかち得ることでもないのである。

   人生の目的は最高の神の自己実現として、
   人格を神格にまで高めることである。

   現象にあらわれている富をのみ求めることは
   却って『實相の無限の富』を忘却させて、
   自己に与えられている富を縮小することになるのである。

   神が与えたまう富は、霊的なものであって、
   物質的な富は、ただ其の影に過ぎないのである。

   神は霊であり給う。それゆえに神は霊の賜を与えたまう。
   即ち、愛を与えたまい、智慧を与えたまい、生命を与えたまうのである。

   それを感謝して受け且つ働かすとき、波長が合って、
   それがテレビの画面に映像があらわれるように、
   物質界の富としてあらわれて来るのである。

   現象の有限の富だけを握って、其のために
   現象の背後にある『實相の富』を見失ってはならない。

         <感謝合掌 令和2年3月17日 頓首再拝>

無限供給の宝はあなたの足下にある - 伝統

2020/03/20 (Fri) 02:44:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 令和2年3月20日 頓首再拝>

「無限の富」とはいかなるものか - 伝統

2020/03/31 (Tue) 04:44:11


           * 徳久 克己「『生命の實相』教室」より

『生命の實相』 第5巻 聖霊篇205頁に

「無限の富と申しますのは自分の名義になっている富だけを数えるのは、
本当の富ではないのであります。 自分の名義になっている富だけを言うならば、
百億万円の金持でも有限の金持であって無限の富ではないのです。 

また現在必要もないのに自分の懐中に百億万円もあっては、
その富は重いばかりで自分の自由を縛るばかりである。 

本当の無限の富とは必要なだけ、滾々と井戸の水を汲んでも汲んでも尽きないように、
いくら使っても使っても必要に応じて無限に湧き出て来るのが
本当の吾々の自由を縛らない自由無限を展開するための無限の富であるのです。」

この「無限の富」というものを、よく理解していないと生長の家の
「無限供給」の本当の意味がわかりません。

「欲するもの、好ましきもの、おのずから集りきたり、
欲せざるもの、好ましからざるもの、おのずから去る」

如意宝珠観のこの一節が心の底から理解されますと、
実に楽しい、明るい、嬉しい生活ができます。

なんでもかんでも自分の名義でみんな持っているのが「無限の富」だと思うと、
富を持ちながら自由を失った悩みの生活になってしまいます。


次の頁に 

「本当の無限の富の所有者は使っても減らないで、打出の小槌のようにまた出て来る」  

と説かれています。 

「神の子」である私たちはすべて 「富の本源」 である神の子なのである、
ということを、まず根本的に理解しなければなりません。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p9.html
08/27/13

            <感謝合掌 令和2年3月31日 頓首再拝>

《欠乏を豊富にかえる思念》 - 伝統

2020/04/07 (Tue) 02:22:24


          *『 生長の家 』(昭和26年4月7日の法語 )より

   チャールス・フィルモァは 欠乏を満たすための祈りとして
   次の言葉を推奨(すいしょう)している。

   「 神はわが供給の本源であって、
   わがあらゆる事物に豊かなる供給を満たしたまうがゆえに、
   自分は最早(もはや)経済問題に
   何等(なんら)心配の感を抱かないのである。

   正直、迅速、能率、秩序等 経済上に必要なる一切の徳は
   神から与えられて
   わが経済は順調に進むのである。

   自分は量に於いても質においても
   凡ての有限の感じから解放されたのである。

   キリストの超無限の富は今わがものであるのである。
   自分はあらゆる点に於いて繁栄し隆昌しているのである。」


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12212649.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月7日 頓首再拝>

《富は實相を現実化するために使うべきである》 - 伝統

2020/04/14 (Tue) 04:41:22


       *『 生長の家 』(昭和33年9月6日の法語)より

   現象の富は、神の国なる實相の富の現象界への延長
   であることを知らなければならない。

   それであるからその富は、ただ貪って蓄積するだけに
   使ってはならないし、浪費するために使ってもならないのである。

   それは實相世界の素晴らしさを現実世界にあらわすための
   聖なる目的のために使わなければならない。

   換言すれば建設的な目的にのみ使わなければならないのである。

   ただ蓄積のためのみに使ってはならないし、
   ただ消費するためのみに使ってはならないのである。

   無論、聖なる目的のために使うためには、
   半端な資金ではどうにもならない事であるから、
   ある金額に達するまでそれを蓄積したり、
   協同貯蓄することも必要である。

            <感謝合掌 令和2年4月14日 頓首再拝>

《神は豊かに恵みたまう》 - 伝統

2020/04/18 (Sat) 04:19:20


        *「光明法語」(4月18日)より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわないと云うことは
ないのである。

            <感謝合掌 令和2年4月18日 頓首再拝>

《神よりの豊かなる生活》 - 伝統

2020/04/19 (Sun) 07:18:34


        *「光明法語」(4月19日)より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

            <感謝合掌 令和2年4月19日 頓首再拝>

思いとして出た神の計らいを信頼せよ - 伝統

2020/04/27 (Mon) 04:19:46


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月27日)」より

なんじの求むるものをまず考えよ。
考えることはそれが得られる初めである。
考えた相(すがた)が《すでに》あるとしてその実現にまで努力せよ。

供給無限の世界において、ある事物を得ようと思う「思い」が
自分の内に起こったことがすでに「自分ならぬ」はからわれである。

それを計(はか)らわせ給いしものに信頼せよ。

            <感謝合掌 令和2年4月27日 頓首再拝>

《神は頼まなくとも常に恵みを与え給う》 - 伝統

2020/05/08 (Fri) 04:51:19


        *『 生長の家 』(昭和46年3月13日の法語)より

   だいたい、神に祈るという形で、
   泣訴(きゅうそ)嘆願(たんがん)してみて、

   それによって神の心が動かされて、
   神が何とかしてくれるだろうなどという考えを
   今までもっていたのが間違いだったのである。

   神は頼まなければ、その愛のはたらきを営まない
   というような怠け者でも、
   感情の動きの鈍い鈍重(どんじゅう)な存在でもないのである。

   金光教祖がいみじくも喝破(かっぱ)したように、
   神は「 頼まないでもお陰はやってある 」と仰せられているのである。

   使徒パウロは、真理の伝道を妨げるためにイエスを迫害した ー
   換言すれば「光をくらました自分の心」の反影として「
   光を見ない盲人」となったのだが、

   その後、転心して「光を見る心」になったとき、
   片眼が見えるようになったのである。

   もう一方の眼は時々ぼんやりと見えたり、見えなかったりするのだった。

   それでパウロは、その見えない片眼の方も
   癒して貰いたいと思ってキリストに祈ったとき、

   キリストは天空から「わが恵み汝に足れり」と答えた
   と伝えられているのである。

   神は私たちに向って「神は、お前たちが頼まなくても、お陰は既にやってある。
   わが恵み汝に足れりなのだ」と仰せられているのである。

   神を放送局にたとえてみれば、頼んでも頼まないでも、
   視聴料を支払っても、支払わないでも、
   平等に全人類にお陰(放送番組)を与えておられるのである。

   しかもそれは充分に既に与えておられるのであるから、
   「わが恵み汝に足れり」なのである。

   しかもその恵みが完全に自分の身辺や境遇や健康にあらわれないのは、
   自分の心を波長のちがう処に向けているからなのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12669692.html (消滅)

            <感謝合掌 令和2年5月8日 頓首再拝>

《富とは「生命(いのち)」を与えること》 - 伝統

2020/05/16 (Sat) 04:52:52


          *「光明法語」(5月16日)より

富を獲得するためには何か不正なことを行なわないと得られないと思うのは間違いである。
また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも間違いである。

富と云うものは神の「生命(いのち)さきはえ」が現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

            <感謝合掌 令和2年5月16日 頓首再拝>

《最大多数の最大幸福に奉仕せよ》 - 伝統

2020/05/17 (Sun) 02:44:49


          *「光明法語」(5月17日)より

「亀の子たわし」を新案して全日本の台所の清潔に貢献した者は百万長者となり、
「わかもと」を新案して人類にビタミンB資源を出来るだけ広く供給する試みを
考案した者は千万長者と成る。

何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。

真理を最も平易なる言葉で述べ、一千万人に生老病死を解脱する道を教えた
『生命の實相』の著者が千万長者にならないのは、まだ彼が、清貧に執する気持ちがあり、
宗教家と云うものは富んではならないという通念に縛せられているからである。

            <感謝合掌 令和2年5月17日 頓首再拝>

《富む事は罪悪ではない》 - 伝統

2020/05/22 (Fri) 04:29:25


          *「光明法語」(5月22日)より

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

            <感謝合掌 令和2年5月22日 頓首再拝>

《富を獲得する第一条件》 - 伝統

2020/05/23 (Sat) 04:26:32


          *「光明法語」(5月23日)より

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

            <感謝合掌 令和2年5月23日 頓首再拝>

《富は「善き考え」の具象化》 - 伝統

2020/05/24 (Sun) 04:40:07


          *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

            <感謝合掌 令和2年5月24日 頓首再拝>

先ず神を認め、神と直結せよ。其処から無限の富が湧き出て来る。 - 伝統

2020/06/05 (Fri) 04:09:32


    *『光明法語』(6月5日《先ず神を認めよ》)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは先ず「吾を認めよ」と云うことである。
人間でも親が子に求めているところのものは、先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは自分の生命(いのち)の親を、神を、
認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。

            <感謝合掌 令和2年6月5日 頓首再拝>

人間は神の子、減らない生命と財とを与えられている - 伝統

2020/06/07 (Sun) 04:00:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和2年6月7日 頓首再拝>

Re: 無限の富を汲みだす⑤ - drvphswrnMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:11:35

伝統板・第二
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