伝統板・第二 639074

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大東亜戦争を振返る ②

1:夕刻版 :

2019/08/05 (Mon) 20:10:55

ルーズベルト元大統領の3つの大罪

        *「太平洋戦争の大嘘」藤井 厳喜(著)より

(1)日米戦争は、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが
   日本に向けて仕掛けたものであり、日本の侵略が原因ではなかった。

(2)1941年の日米交渉では、ルーズベルトは日本側の妥協を受け入れる意図は
   初めから全くなかった。

(3)アメリカは1945年に原爆を投下せずに日本を降伏させることができた。


ルーズベルトの前の大統領、第31代のアメリカ大統領を務めた
ハーバート・フーヴァーは、「フリーダム・ビトレイド(Freedom Betrayed)」を著した。

「本当の事が書いてあるから」「知られてしまうとまずいことが書いてあるから」
出版されたのは2011年(邦訳は2017年)だった。

 
1941年7月にアメリカは日本に経済制裁をするが
「日本に対する宣戦布告なき戦争であった」と書いている。

 
フーヴァーは1946年5月来日しマッカーサーと会談している。
その際フーヴァーは「経済制裁は殺戮と破壊以外のすべての戦争行為を
実現するものであり、いかなる国といえども、品格を重んじる国であれば、
我慢できることではなかった」と述べたがマッカーサーも同意した。

( http://yasu-fukuno73.hatenablog.com/entry/2018/12/09/114133 )



元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーと連合国軍最高司令官マッカーサーは
「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日間にも渡って話し合った。

そのとき、日本人なら誰も思いもしないようなことをフーヴァーは口にした…

「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。
あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。
気が狂っていると言っても精神異常なんかじゃない、
ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかった…その欲望の結果が日米戦争になったんだ」

その言葉を聞いて、マッカーサーははっきりと同意した…

  ( http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=332167 )


<関連>

(1)読書感想文【太平洋戦争の大嘘】
   https://ameblo.jp/kazumori19890728/entry-12412491609.html


(2)凄い本「太平洋戦争の大嘘」が届きました。
   http://kamenoko.jp/kame-tubuyaki/6033/



<参考Web>

(1)光明掲示板・第一「大東亜戦争」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=120 (消滅)

(2)光明掲示板・第二「大東亜戦争」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=92 (消滅)

(3)伝統板・第二「大東亜戦争を振返る 」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6571721

           <感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝>
2:伝統 :

2019/08/06 (Tue) 18:52:49


        *『裏切られた自由:上巻・下巻』ハーバート・フーバー(著)より

  本書は、第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバー(任期1929~33)が
  第二次世界大戦の過程を詳細に検証した回顧録です。

  第二次世界大戦とは何だったのか――。
  従来の見方とは真っ向から対立する歴史観をもつ本書は長い間、
  公にされませんでしたが、2011年に米国フーバー研究所から刊行され
  話題を呼んでいます。

  さまざまな情報にアクセスできたアメリカの政治指導者が、
  20年の歳月をかけて完成させた第一級の史料です。


《本書では1941年以前の対日関係を詳しく記すことを目的としていない。
しかし、我が国が戦争に突入することになった直接の原因に日本がなっている以上、
真珠湾攻撃に至るまでの経緯を書かないわけにはいかない。

アメリカ政府は(対日交渉の経緯を)国民に隠していた。
そしてその後の教育でも、何があったかの歴史の真実を教えていない。
だからこそ、対日交渉の経緯はしっかりと書いておかなくてはならない。》


《ナチス理解に役立ったのは、ヒトラーの右腕である
元帥ヘルマン・ゲーリングとの会見である。
……ゲーリングは私にチェコスロバキアの地図を示して、
この形が何かに似ていないかと尋ねた。

何も思い浮かばないでいるとゲーリングは、
「ドイツに突きつけられた矢尻だ。我がドイツの体に突き刺さっている」と説明した。》


《いま(開戦時)二人の独裁者――ヒトラーとスターリンが死闘を繰り広げている。
二人はイデオロギーに凝り固まった夢想家であり、兄弟のようなものである
。……我が国(アメリカ)は防衛力をしっかりと整備し、両者の消耗を待つべきである。

……我が国の掲げる理想にもかかわらずスターリンと組むことは、
ヒトラーと同盟を組むことと同じであって、アメリカ的理念への叛逆である。》


《国民も議会も我が国(アメリカ)の参戦に強く反対であった。
したがって、大勢をひっくり返して参戦を可能にするのは、
ドイツあるいは日本による我が国への明白な反米行為だけであった。

ワシントンの政権上層部にも同じように考える者がいた。
彼らは事態をその方向に進めようとした。
つまり我が国を攻撃させるように仕向けることを狙ったのである。》


《ハルは自身の回顧録の中で、ここ(本書)で記した日本政府との交渉の模様を
ほとんど書いていない。そして交渉についてはただ否定的に書いている。
……その文章には真実がほとんど書かれていない。》


《近衛(首相)の失脚は二十世紀最大の悲劇の一つとなった。
彼が日本の軍国主義者の動きを何とか牽制しようとしていたことは称賛に値する。
彼は何とか和平を実現したいと願い、そのためには自身の命を犠牲にすることも
厭わなかったのである。》


《ルーズベルト氏は「非帝国化構想」を持っていた。
彼の標的はドイツ、イタリア、日本だけではなかった。
彼はイギリス、フランス、オランダの非帝国化を目論んでいた。

そうでありながら、彼の構想には一か国だけ例外があった。
巨大できわめて攻撃的な帝国ソビエトであった。》


《あの(第一次世界大戦・戦後の)経験を踏まえればわかるように、
アメリカには26もの民族がいるヨーロッパにも、それ以外の地域にも、
自由や理想を力で押しつけることはできない。
(そうしたことができると思うのは)狐火を見るようなものだ。
そんな怪しい理想の実現のために再び若者の命を犠牲にしてはならない。》


《私は、日本との戦いは狂人[ルーズベルト]が望んだものだと言うと、
彼[マッカーサー]はそれに同意した。》


《日本に対して原爆を使用した事実は、アメリカの理性を混乱させている。
……原爆使用を正当化しようとする試みは何度もなされた。
しかし、軍事関係者も政治家も、戦争を終結させるのに原爆を使用する必要は
なかったと述べている。》


《本書執筆にあたって役立ったのは、収集した多くの資料である。
第一次世界大戦が勃発した頃、フーバー研究所図書館(スタンフォード大学内)を
発足させた。現在は250万点以上の貴重な文書、講演録、書籍、日記、パンフレット、
会見記録、各国語による条約文書を所蔵している。

……本書の準備に20年以上を費やしたが、各国語で書かれた文書を入念に
チェックする必要があった。》

      ( http://www.soshisha.com/book_wadai/43freedom/ )

           <感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝>
3:伝統 :

2019/08/07 (Wed) 17:53:31


      *Web:草思社編集部(2018.3.31)
           ~【編集者のおすすめ】『裏切られた自由(上・下)』 

フーバーが本書の刊行を決意したきっかけは、真珠湾攻撃のニュースでした。

フーバーは日米開戦の翌日、友人に宛てた手紙の中で
「日本というガラガラヘビに(米国が)しつこくちょっかいを出した結果、
ヘビが咬(か)みついた」という表現で、米外交を批判しています。

さらに戦後、東京でマッカーサーと会談した際には
「日本との戦いは狂人(ルーズベルト)が望んだこと」という点で合意しています。

このように、本書の記述には、
従来の戦勝国史観に根本的な見直しを迫る視点が多数含まれています。

それは、あの戦争における日本側の立場を擁護することにもつながるのですが、
強調しておきたいのは、フーバーは決して日本贔屓(びいき)の政治家ではなかった
という点です。

彼の経歴や政権担当時のスタッフを見れば、むしろ逆であった可能性が高いでしょう。

しかし、そのような人物の著作であるからこそ、本書の記述には大きな価値があります。
戦後封印されてきた歴史の真実がここにあります

   (https://www.sankei.com/life/news/180331/lif1803310013-n1.html )

           <感謝合掌 令和元年8月7日 頓首再拝>
4:伝統 :

2019/08/08 (Thu) 19:59:58


       *Web:ScorpionsUFOMSGのブログ(2017-10-02)より抜粋
            ~書評『裏切られた自由 上』

突如、世界に厄災をもたらす2匹の大蛇が現れた―。
 
欲望の赴くまま全てを飲み込み、厄災をまき散らす2匹の大蛇は、
自由を愛する人々にとって脅威以外の何物でもない存在であったが、
似た者同士の2匹は、なによりも互いを忌み嫌っていた。
 

自由を愛する人々は

「膨張し合う2匹の大蛇はいずれ激突する、
ならば互い同士を戦いあわせ、共倒れさせればよい」

と考えていた。
 

しかし、そこに《曲芸師 ジャグラー》が現れた。
 
《曲芸師》は自らの手で大蛇を討ち滅ぼしたかった。
 
《曲芸師》は自由を愛する人々にこう囁いた。

「自由と民主主義のために大蛇と戦え。そのための協力は惜しまない」と―。
 
自由を愛する人々は、《曲芸師》の”悪魔の囁き“に屈してしまった。 
凋落著しい“落日の帝国”も自由を愛する人々に属していたが、
その偉大な帝国も《曲芸師》に背中を押されてしまったのだ。
 

その結果、「大蛇同士を互いに戦いあわせ、共倒れさせればよい」
という考え方は、跡形もなく消え、一方を討ち滅ぼすために、
もう一方と手を結ぶしか他に手段は取り得ないことになった。
 

自国民の反対によって参戦に踏み切れていなかった《曲芸師》は、
挑発に乗ってきた《極東のガラガラヘビ》が噛みついてきたことを理由に、
念願であった参戦を果たす。


ガラガラヘビとは戦う必要性すらなかったはずなのに、
戦争に参加する為だけに曲芸師が挑発したのだ。
 

《曲芸師》は思う存分、棍棒を振り回し、敵を叩きのめした。
 
彼は確かに勝利したはずだった。

現に一方の大蛇は体を西と東の二つに引き裂かれ、
極東のガラガラヘビは虫の息となった。
 
《曲芸師》が何を考え、何を欲していたのかは永遠の謎である。
なぜなら、彼は終戦直前にこの世を去ってしまったからだ。
 
そして、彼の残した勝利とは、
手を結んだもう一方の大蛇、すなわち《共産主義》という名の蛇に、
“自由と民主主義”を売り飛ばし、世界の半分をくれてやり、
自国の数知れない多くの若者に血を流させた挙句、
何一つとして得るものが無かった”虚しい勝利だった”という事実だけが残った。 
 


2匹の大蛇・・・スターリンとヒトラー

自由を愛する人々・・・欧州各国

落日の帝国・・・イギリス

曲芸師・・・フランクリン・ルーズベルト

極東のガラガラヘビ・・・日本

    ( https://ameblo.jp/scorpionsufomsg/entry-12315221422.html )

           <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>
5:伝統 :

2019/08/09 (Fri) 19:47:19


        *Web:万巻の書を読み 万里の路を行く(2018/3/9)より抜粋
             ~『裏切られた自由』 ハーバート・フーバー

第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバーが、

「過去に起きた真の事実を基にした判断なくして、我々は将来を考えることはできない」。

「その目的は、いつ、どこで、いかにして、誰が、道を誤って第二次世界大戦となったか、
そして、なぜ、いま第三次世界大戦の危機を迎えているのかを順に追って明らかに
することである。このような状況に陥ったことは、自由が裏切られたからである」。

として、戦後に共産主義を跋扈させた第二次世界大戦の過程を検証し、
約20年の歳月をかけ完成させたもの。

編者のジョージ・ナッシュは、それを「大事業」と呼んでいる。

2011年にアメリカで刊行され、
従来の見方とは違う歴史観なので、議論を呼んでいるらしい。
そのためか、長年、公にされることはなかった。

・・・

ルーズベルトには、左翼的メンタリティーがあった。
同じ傾向の政府高官が政権内に多かった。
彼が戦争への道に徐々に歩みを進めたのはそれも大きな要因である。

ルーズベルト自身は共産主義者ではなかった。
しかし彼の左翼思想によって、政権内には
多くの社会主義者、共産主義者シンパが入り込んだ。

なかには共産党メンバーもいた。
彼らはルーズベルト政権内の一大勢力であった。

スターリンがヒトラーと手を握る前の6年間もそうだが、
手を握ってから(真珠湾攻撃までの)22ヵ月間もその力は強大だった。

・・・

ハーディング、クーリッジ、フーバーの歴代大統領はソ連と国交を持とうとしなかったが、
このような状況下で、ルーズベルトは大統領就任してから早々に、
ワシントンで国交を結ぶ協議を求め、ソ連に特使を派遣している。

・・・

ソビエトの国家承認を受け、共産党はアメリカ人メンバーを
政府の重要機関の職員に就かせ、
国家安全保障に関わる情報にアクセスできるようになった。

その結果、国家の重要な意思決定に大きな影響を与えることになった。

・・・

ソヴィエト・ロシアは包囲されている、
鉄の輪の中から自己を開放すべきである。
さもなければ、滅亡する……

ソヴィエト政府を助けてくれる可能性があるのは米国だけである。

なぜなら米国は、その内外政策の利益のために
共和制ロシアとの友好を必要としているからである。

米国が必要としているのは、

第一に、国内工業製品のための市場である。

第二に、その資本を有利に投資するための機会である。

第三に、ヨーロッパにおける英国の影響力を弱めることである……

米国と日本の関係は誠実ではない……両国間の戦争は不可避である……

米国と関係を樹立することがまず必要である……それは国家として最重要課題であり、

ソヴィエト・ロシアの命運はその首尾よい解決にかかっている。

『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』スーザン・バトラー

・・・

一九二四年のレーニンの死以来、スターリンがソ連を統治する。

そしてその承認を数十年間、首を長くして待っていたスターリンは、
一九三四年にブリット大使に次のように語っている。

「ルーズべルト大統領は今日、資本主義国の指導者であるにもかかわらず、
ソ連で最も人気がある人物の一人である」

と。独裁者のスターリンがレーニン以外に褒めちぎった人間はいなかったらしい。

・・・

第一次世界大戦終結のベルサイユ会議で、
日本の主張する人種差別廃止宣言に強硬に反対して流産させたのは
ウィルソン大統領である。

一九一九年、国際連盟の結成が決まり、その規約作成の場で、日本代表の牧野信顕が、

「連盟に参加している国家は、人間の皮膚の色によって差別を行わない」

という内容の条文規定に入れるよう提案した。

日本としては長い間、日本人移民が米国で不当に差別される問題に悩まされていたので、
それを国際的レベルで改善したいと考えたからであった。

賛成多数であったが、議長の米大統領ウィルソンは

「かような重大な問題は、全会一致にすべきだ」

として否決した。

『ルーズベルト一族と日本』谷光太郎

・・・

ちなみに、戦後に昭和天皇は、日米戦争の遠因を次のように述べている。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約に伏在している。

日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、
黄白の差別感は依然残存し、加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を
憤慨させるに充分なものである。

かかる国民的憤慨を背景にして一度、軍が立ち上がった時には、
之を抑えることは容易な業ではない」。

・・・・

ルーズベルトはスミソニアン博物館の自然人類学担当のアレシュ・ヘリチカ博士と
親交があり、博士から次の二つを学んだ、と語った。

① インド人が白人と同種だということ

② 日本人が極東で悪行を重ねるのは、頭蓋骨が未発達で、白人と較べ、
  二〇〇〇年以上も遅れているのが原因。


ルーズベルトの駐米英公使サー・ロナルド・キャンベルへの話は続く。

この①と②により、

アジアに文明の火を灯すには、アジア人種を(白人種)交配させ
ユーラシア系(欧州白人系)、欧州・アジア系、インド・アジア系を作り出し、
それらによって、立派な文明とアジア社会を産みだしていく。


但し、日本人は除外し、元の島に隔離し、次第に衰えさせて行く。


日米開戦五年前(一九三六年)に、ルーズベルトは対日有事を想定して、
ハワイの日系人を強制収容所に収監する計画を検討していたことも、
指摘しておきたい。

『ルーズベルト一族と日本』谷光太郎

・・・

話を戻すとフーバーは、

そんなルーズベルトのニューディール政策
(スターリンはこの政策を評価していたみたいだが)や、
親ソ的な傾向でドイツや日本に対抗するためにソ連と手を組み、
第二次世界大戦へ参戦し、中国共産党を育てたことも痛烈に批判をしている。

アメリカはドイツとソ連の間で戦争が勃発したとき、放っておけばよかった。

日本に対しても、経済が困窮していたので、勝手に自壊すると。


ルーズベルトは、天才的な能力で、
頑迷で腰を上げようとしない国民に国家の義務を果たさせたのだ。

これがルーズベルト支持者の解釈である。


そうではなくルーズベルトは国民をまったく必要もない戦争に巻き込み、
とんでもない厄災を招いた。

エゴイズム、悪魔的な陰謀、知性のかけらもない不誠実さ、嘘、憲法無視。

これが彼のやり方に際立っていた。反ルーズベルトの人々はこのように解釈する。


どちらの解釈にしろ彼が用いた方法に変わりはない。


彼の不誠実さをはっきり示しているのは、
三年間にわたって、アメリカ国民に若者を戦争に送り出すことはないと
約束し続けていながら、実際は参戦に向けた外交を繰り広げていたことである。


ドイツには憲法に違反する宣戦布告なき戦いを始めていた。
真実とは違う説明で、国民に(ドイツへの)恐怖と憎しみを煽った。
武器貸与法の不当の意図を隠した。


日本の反撃を確実にする対日経済制裁を行なった。
近衛からの和平提案を拒否した。
英国との軍事協定でポルトガル(領土)と日本への攻撃を、議会の承認なく決定した。

国民に対して(第一次大戦に続く)第二の自由を守るための
「十字軍(second crusade)」を要求した。

・・・

アメリカ国民もアメリカ議会も、
真珠湾攻撃までは圧倒的に我が国の参戦には反対であった。
このことはあまりにも自明であった。非公式な世論調査の結果もそれを示している。

そして何よりも、ルーズベルト自身が、繰り返し若者を戦場に送らないと約束していた
ことや、対独戦争のための軍事増強、武器貸与法、英国船団の護衛、対日経済制裁などの
政策を、すべてアメリカが戦争に巻き込まれないための方策だというごまかしの説明を
せざるを得なかったことからも明らかなのである。

アメリカ国民が、我が国を戦争に巻き込んだ
すべての男たちが激しく嫌悪するときが
必ず来る。

そうした連中を神格化しようとする試みは失敗しているのである。

・・・

ルーズヴェルトの計画では、
世界の四人の警察官として行動する四つの超大国が出現することになっていた。
― アメリカ、ソ連、英国、中国である。

これらの四ヵ国は、他の諸国よりも大きな力を持っているので、
戦争に勝利したあかつきには世界の秩序を守ることになるだろう。

『ローズベルトとスターリン テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想』スーザン・バトラー

    (http://togoku.net/herbert-clark-hoover/ )

           <感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>
6:伝統 :

2019/08/10 (Sat) 19:20:42


        *Web:産経ニュース浪速風(2018.7.1 )より

【書評】京都大学名誉教授・竹内洋が読む
『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』 
アッと驚く逆説の謎解き

(1)私が子供の頃(昭和20年代末)、大人たちはよく戦争を話題にしていた。
   印象に残ったのは、次のような話だ。

   日本の国土の20倍以上で、
   資源と物資が豊富なアメリカと戦争して勝てるはずがない、
   軍人はそんなこともわかっていなかったのだというもの。

(2)観戦武官や大使館付武官などで欧米に派遣された軍人は多かった。
   それに闘うときに、敵を知り、己を知るのは常道のはず。
   軍人や当時の指導者はそんなにアホだったのだろうかと。

   こうした疑問に対しては、答えが用意されていた。
   本書が対象とする「秋丸機関」のような軍の調査機関は、
   早くに対英米戦争は資源面の圧倒的落差から負けると結論していたのだが、
   この結論が無視されたからだ、というものである。


(3)秋丸機関の報告書は焼却されてはいない。

(4)報告書はたしかに物量で
   日本と英米が比較にならないほど違うことを指摘してはいる。

   しかし、長期戦ではかなわなくとも、
   短期決戦ならば活路はあるとも言っている。
   強硬論に配慮した玉虫色的なシナリオが書かれていたのである。

(5)本書の圧巻は、資源面から対英米戦争はかなりの無理筋だというのは、
   当時の幹部軍人や指導者は秋丸機関の報告書を読まなくとも
   よくわかっていたという指摘である。

   知らなかったからではない、知りすぎていたが、
   にもかかわらず日米開戦に突入してしまったのである。

   では、どうしてそうなってしまったのか。
   読者は逆説の謎解きにアッと驚くことになる。

   (https://www.sankei.com/life/news/180701/lif1807010026-n1.html )

           <感謝合掌 令和元年8月10日 頓首再拝>
7:伝統 :

2019/08/11 (Sun) 19:07:33


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年8月10日)より

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アメリカが見た鏡のなかの「軍国主義」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」7
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近代化の道をひた走った末に、日本はほとんど世界を相手に戦争し、
ポツダム宣言を受け取れ、敗戦国となった。
尊い人命が数多く失われ、国土は焦土と化した。

宣言の受諾を国民に伝える詔書には「五内爲ニ裂ク」と無念が表明されている。

日本に降伏を迫るポツダム宣言には、
「軍国主義」「世界征服」の言葉が登場する。

「われらは、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至るまでは、
平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、
日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたる者の
権力および勢力は、永久に除去せられざるべからず」
(日本語訳文の原典は漢字片仮名交じり)

 
この「軍国主義」「世界征服」とは、具体的に何を指すのだろう。

戦中からアメリカは、
「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、
靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたという。

なぜそう考えたのか。

たとえば、日米開戦後、アメリカ陸軍省が製作した、
新兵教育、戦意昂揚のための「Why We Fight」シリーズという
プロパガンダ映画がある。

「最高傑作」とも評価される一連の作品の多くを
手がけたのはフランク・キャプラである。

生涯に3度のアカデミー賞を受賞し、アカデミー会長をも務めた名匠であった。

 
キャプラが最後に監督し、製作されたのが
「Know Your Enemy ; Japan」(1945年)である。

キャプラは「敵国」日本の何を、「軍国主義」と考えたのだろうか。

実写フィルムを巧みにつないだ約60分の映画には、
神道、日本軍、天皇、八紘一宇、靖国神社などをキーワードにして、
日本の「軍国主義」の残忍さ、妖怪ぶりが描かれている。

そのなかでも、とくに注目されるのは「田中メモランダム(田中上奏文)」である。
「世界征服の原案・設計図」として真正面から取り上げられている。

「田中上奏文」は、昭和2年に、田中義一首相が昭和天皇に、
「世界征服」の手順を極秘で報告した、とされるもので、
日本では当初から偽書と一蹴され、今日、歴史的評価はほぼ定まっているが、
当時のアメリカでは事実と信じられたらしい。

 
皇祖神を絶対化し、「現人神」天皇のもと、
侵略地に次々と神社を建て、新たな国民にも参拝させ、
学校では教育勅語を奉読させ、急速に領土を拡大していった
「八紘一宇」の勇猛は、

キリストの教えとローマ教皇の勅書に基づき、異教世界を侵略し、
異教徒を殺戮、異教文明を破壊した大航海時代以降の
キリスト教世界の暗黒史と二重写しだ。


「教育勅語」の一節「之を中外に施して悖らず」は
「日本でも外国でも間違いがない道だ」と解釈されており、
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」
(新約聖書)というキリストの言葉とダブって聞こえても不思議はない。

 
たとえば、占領軍の教育・宗教を担当した
CIE(民間情報教育局)の政策に大きな役割を果たしたR・K・ホールは、
教育勅語が「国家神道の神聖な教典」であったと理解していたという
(貝塚茂樹『戦後教育改革と道徳教育問題』、2001年)。

 
とすれば、一神教的に擬せられた近代日本と
あくまで一神教的なキリスト教世界との軍事対決は避けられず、
一神教的「国家神道」は主たる攻撃目標に設定されざるを得ない。

彼らはまるで鏡に映る自分に戦いを挑んだかのようである。

それは多神教文明と一神教文明の衝突ではなくて、一神教と一神教の対決だった。

 
靖国神社は占領軍内部では爆破焼却の噂がもっぱらだったという。
アメリカは、靖国神社の宮司らが世界征服戦争を実際に陰で操っている、
と本気で考えていたらしい。

キリスト教世界では、絶対神と救世主イエスの存在があり、
聖書があり、聖職者がいて、教会がある。

同様に、日本の「国家神道」もまた、
皇祖神と天皇、教育勅語、神道家たち、靖国神社があると見えたのだろうか。

 
皇祖天照大神は至高至貴ながら絶対神ではない。
神道には布教の概念すらない。
宮中祭祀には教義も教団もない。

しかし文部省編纂の『国体の本義』(昭和12年)には
「天皇は現御神であらせられる」と明記された。

天皇は個人崇拝ではないし、
昭和天皇は神格化を嫌っておられたのに、である。

欧化思想の席巻を憂える明治天皇の思召しに始まった教育勅語の作成は、
井上毅らによって、非宗教性、非政治性、非哲学性が追求された。

しかし、完成後は教育勅語それ自体が政治主導で神聖化され、
宗教的扱いを受けることとなった。

ドイツ留学から帰国したばかりの哲学者・井上哲次郎による解説本作成は、
国民教育の必要性を強く訴えるものとなっており、
明治天皇ご自身、不満を示されたが、叡慮は反故にされた。

 
文部省は教育勅語の神聖化をさらに進め、
御真影とともに教育勅語の謄本を納める奉安殿の設置が全国展開された。

当初の目的と構想を外れ、のちに教育勅語は「国家神道」の聖典として
批判されこととなり、敗戦後は国会で排除・失効確認がなされるのである。


ところが、戦後の嵐は瞬く間にやんだ。

占領後期になると、「国家神道」敵視は急速になりを潜め、
神道形式による松平参院議長の参院葬、皇室喪儀令に準じた貞明皇后大喪儀、
吉田茂首相による靖国神社参拝さえ認められた。

靖国神社は爆破焼却どころか、宗教法人として存続した。

渦中のGHQ職員はのちに、占領軍の宗教政策が
厳格主義から限定主義(教会と国家の分離)に変更されたことを公にしているが、
いつ、だれが、なぜ変更したのかについては明らかにされていない
(ウイリアム・ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」
=国際宗教研究所紀要4、昭和31年12月)。

この政策変更は「国家神道」をめぐる最大のテーマであり、歴史の謎である。
もしや彼らは自分たちが幻影を見ていたことに気づいたからではあるまいか。
(つづく)

  ( http://melma.com/backnumber_170937_6849033/ )

           <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝>
8:伝統 :

2019/08/12 (Mon) 19:13:34



          *オトナの教養 週末の一冊(2018年8月15日)
          ~日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く

8月15日には、陸海軍を中心に戦争時の資料が大量に焼かれた。
今でも「大本営発表」というと悪い意味で使われるように、
戦時中は負けているにもかかわらず、勝っているような発表がされ、
負けてしまえば、責任逃れのために資料を焼いた
(公文書を粗末に扱うという官僚の悪弊は今にも
引き継がれているということだろうか……)。

このように昭和の軍部、特に帝国陸軍は、非合理主義で、
極端な精神主義に走った組織という認識が一般的だ。

 
ところがそんな陸軍が、開戦前に日本を含め、
アメリカ、イギリス、ドイツなどの主要国の「経済抗戦力」について
調査を行っていたという。

陸軍主計中佐・秋丸次朗をリーダーとして調査組織を設置した(通称「秋丸機関」)。

秋丸機関の調査によって、
日米の経済力の差は「20:1」にもおよぶことが判明した。
そして、この報告書は陸軍にとって都合の悪いものであるために
「焼却処分」された――。

非合理な陸軍だから、さもありなんということで、
戦後長らくこの通説が信じられてきた。


しかし、これについて「本当だろうか?」と、問題提起をしたのが
『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書)
を上梓した、牧野邦昭摂南大学経済学部准教授だ。

「通説」打破への突破口となったのは、牧野氏がネット上のデータベースに、
焼却処分されたはずの秋丸機関の報告書がいくつか残っていることを発見したことだ。

「2008年、京大の院生のときに、京都府立図書館のデータベース(OPAC)で、
秋丸機関の別称である『陸軍省主計課別班』を検索してみました。
すると、関連資料が出てきたのです。

その後、京大、東大などの図書館のデータベースにも資料があることが確認できました」

 
秋丸機関の研究員の一人で、
「(秋丸機関の)報告書は陸軍の意向に沿わないので、焼却処分された」
と発言していた有沢広巳・東京大学経済学部教授が1989年に亡くなり、
その蔵書が遺品として東大経済学部図書館に寄贈された際、
その中から報告書の一部である『英米合作経済抗戦力調査』(其一)が
見つかったことは既に知られていた。

しかしそれ以外の資料はほとんど見つかっていなかったが、
牧野氏は多くの秋丸機関の資料をネット上のデータベースで発見する。

「2013年にはGoogle Booksで秋丸の発言が掲載された報告書を見つけました。
そして、(国立情報学研究所が運営し、全国の大学の蔵書などを調べることができる)
CiNii(サイニイ)Booksで、『独逸経済抗戦力調査』が
静岡大学図書館にあること発見しました」

 
さらに牧野氏は、『英米合作経済抗戦力調査』(其二)を、
古書データベース「日本の古本屋」で発見し、購入した
(その後、東大経済学部資料室に寄贈)。

「こうした発見ができたのは、情報がデータ化されたからです。
今後は、AI(人工知能)が、新しい資料を発見するということも
起きてくるかもしれません」

焼却処分されたというものがなぜあるのか? 
牧野氏の疑問は深まった。

しかし、報告書の内容を読み込んでいくと、
英米の経済抗戦力の大きさを示してはいるが、
全体としては、当時の論壇や政府機関、シンクタンクで言われていることと
変わらない内容だった。

そして、当時の雑誌などに、秋丸機関の研究員が報告書と同様の内容を
執筆、発言していることが分かった。


勝ち目が少ないことを指摘していた報告書
 
マクロ分析された『英米合作経済抗戦力調査』(1)では、

英米が合作すれば、米国の供給で英国の供給不足を補うことができる。
英米の合作は、第三国に対して70億ドル余りの軍需資材の供給能力になる。

ただし、最大の供給能力の発揮には開戦後1年~1年半の時間が必要。
英国船舶の月平均50万トン以上の撃沈は、米国の対英援助を無効にする。
 

ミクロ分析された『英米』(2)では、

英国の弱点として、島国であるために食料や資源を
遠隔地から船舶で輸送しなければならない。

『独逸経済抗戦力調査』では、

ドイツの経済抗戦力は1941年がピークで、その後低下する。
英米長期戦に頼るにはソ連の生産能力を利用しなければならない。
食料不足が表面化しており、ウクライナからの供給が必要。
石油も不足しており、ルーマニアからの供給だけでは足りず、
ソ連のバクー油田からの供給が必要。
 
しかし、ドイツがソ連の各種能力を利用するには、
ソ連との決戦を短期で終了させる必要があり、長期化した場合は、
「対英米長期戦遂行は全く不可能」となると、悲観的に述べられている。

 
これに加えて、日本が行動すべき指針も示している。

「東亜」は欧州に不足しているタングステン、錫、ゴムなどを
供給することができるため、日本はシンガポールを占領し、
インド洋連絡を行う必要がある。

独ソ開戦以降、ソ連と英米の提携が強化されるため、
日本は包囲網突破の道を南に求めるべし。

北における消耗戦を避け、南において生産戦争、資源戦争を遂行すべし。
 
報告書全体としての結論をまとめると、
「長期戦になればアメリカの経済動員力により日本もドイツも勝利の機会はない」、
ただし「独ソ戦が短期で終われば、イギリスには勝てるかもしれない」というものだ。

そして、日本がなすべきこととしては、「北進(対ソ戦)」ではなく、
資源獲得のチャンスがある「南進(対英米)」すべきとされた。

 
こうした情報は当時、機密でもなんでもなかったのである。
むしろ「常識」とも言えるものだった。
それにもかからず「なぜ、開戦を決断したのか?」。

そのとき、思い至ったのが行動経済学における「プロスペクト理論」だった。


人間は、損失を被る場合にはリスク愛好的(追及的)な行動をとる
 
本書のなかで、牧野氏はこんな事例を示している。

2つの選択肢のうちどちらが望ましいか。

(a) 確実に3000円支払わなければならない。

(b) 8割の確率で4000円支払わなければならないが、2割の確率で1円も支払わなくてよい。


(b)の損失の期待値はマイナス3200円(=マイナス4000円×0.8+0円×0.2円)で、
(a)よりも損失が大きくなる。人が合理的に動けば、(a)を選ぶ。
しかし、実験では(b)を選ぶ人が多い。

つまり、「人間は、損失を被る場合にはリスク愛好的(追及的)な行動をとる」のだ。

これを証明したのが「プロスペクト理論」で、人は財が増えるのと、減るのとでは、
減る場合のほうに価値を置く。
そのため、損失が出る場合は、その損失を小さくすることを望む。

つまり、確率は低くても、損失が0円になる可能性がある(b)を
人は魅力的に感じてしまうということだ。

 
この(a)と(b)の状況は、昭和16年(1941年)に、
日本が置かれた状況と同じだと、牧野氏は指摘する。

(A)昭和16年8月以降はアメリカの資金凍結・石油禁輸措置により
   日本の国力は弱っており、開戦しない場合、2~3年後には、
   確実に「ジリ貧」になり、戦わずして屈服する。

(B)国力の強大なアメリカを敵に回して戦うことは
   非常に高い確率で日本の致命的な敗北を招く(ドカ貧)。
   しかし非常に低い確率ではあるが、ドイツがソ連に短期で勝利し、
   英米間の海上輸送を寸断し、日本が東南アジアを占領して
   資源を獲得して国力を強化してイギリスが屈服すれば、
   アメリカの戦争準備は間に合わず、講和に応じるかもしれない。


「プロスペクト理論に基づけば、現状維持よりも開戦した方が
まだわずかながら可能性があるということになるのです」

牧野氏は「『開戦すれば高い確率で日本は敗北する』という指摘自体が、
逆に『だからこそ低い確率に賭けてリスクを取っても開戦しなければならない』
という意思決定の材料になってしまった」と指摘する。

 
これが「なぜ正確な情報があったにもかかわらず、開戦にいたったのか?」
という疑問に対する牧野氏の答えだ。

   ( http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13643  )

           <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>
9:伝統 :

2019/08/13 (Tue) 20:28:11


【書評】『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』
    牧野邦昭著(新潮選書、2018年)


目次
はじめに

第一章 満州国と秋丸機関

第二章 新体制運動の波紋

第三章 秋丸機関の活動

第四章 報告書は何を語り、どう受け止められたのか

第五章 なぜ開戦の決定が行われたのか

第六章 「正しい戦略」とは何だったのか

第七章 戦中から戦後へ

おわりに

・・・

《秋丸機関の軌跡》

(1)秋丸次朗は、満州国の経済建設にあたり「関東軍の頭脳」と呼ばれた
   東京帝大経済学部卒のインテリ軍人であった。

   ノモンハンの惨敗や第二次世界大戦の勃発を受け、
   岩畔豪雄軍事課長から「経済謀略機関」の創設を依頼されたのは、
   陸軍省経理局兼軍務局課員として帰国した1939年9月のことである。

   経済戦争を中心とする国家総力戦への対応が急がれるなか、
   満州国の資源開発の経験から秋丸は、自国勢力圏での自給能力こそが
   国力評価の基準であると看破する(25-27頁)。
   後の「抗戦力」に繋がる認識である。

   1940年1月に秋丸機関は創設され、各省の革新官僚や満鉄調査部の精鋭、
   有沢はじめ多分野の学者がスカウトされ5月に陣容は整った。

(2)「持たざる国」日本の経済力を超えた日中戦争の軍事費負担によって、
   国家目的に沿った統制経済は必至とされた。
   そのための運動である経済新体制の司令塔こそ秋丸機関であり、
   世間もそのようにみなしていく。

(3)1941年前半まで、こうした国力の限界は正確に認識されていた。
   有沢と秋丸は中間報告『経済戦争の本義』を1941年3月に著す。
   そこで最重要の概念であり後に焦点となったのは、
   敵の戦争経済の「抗戦力」をどれだけ破壊できるかでなく、
   自国の戦争経済への「抗戦力」をどれだけ守れるかにあった。

(4)ドイツによる大西洋での英米船舶撃沈を渇望する日本にとり、
   独ソ戦の長期化による激しい疲弊は最大の懸念であった。

   ここで促される日本の選択は、対ソ参戦していたずらに消耗する
   「北進」でなく南方資源を獲得する「南進」である。

   そして、以上の分析は、当時の雑誌や新聞で開陳されていた
   常識の範囲であり機密でも何でもなかった

(5)報告書は、悲観的な見通しを正面からとらえた
   客観的かつ正確な国力判断でもあった。
   これが、どのようにして「愚か」な開戦決定をもたらしたのであろうか。


《日米開戦の意思決定をめぐって》

(1)(最新の理論)行動経済学によるプロスペクト理論では、
   損失発生が確実な場合にリスク愛好的な意思決定がなされやすいとされる。

   つまり、報告書で指摘された高い確率での長期抗戦力の不可能は、
   むしろ同時に指摘された低い確率での短期抗戦力に賭けさせる結果を
   もたらしたのであった。

   集団心理学による集団意思決定では、極端なリスキーシフトである
   集団極化が起りやすいとされる。これは、スペインのフランコのように
   強力なリーダーが存在する場合でなく、

   統帥権が独立して首相が弱体な大日本帝国憲法で
   格好の条件を提供するものであった。

(2)日独両国は共通の目標も戦略もなく、互いにないものねだり のまま
   個々に戦い個々に敗れたからである。

   秋丸機関も、日本の抗戦力を過大評価しアメリカの抗戦力を過小評価していた。

(3)開戦前後のゾルゲ事件や満鉄調査部事件は、
   もともと「アカ」批判を受けていた秋丸機関への警戒心を増し、
   ついに1942年末に解散へと追いやった。

   しかし秋丸機関のメンバーらは、停戦後の米英ソの離間を図るという
   ポジティブなレトリックを編みだし、終戦工作へ一定の寄与を果たしていく。


   (https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3001 )

           <感謝合掌 令和元年8月13日 頓首再拝>
10:伝統 :

2019/08/14 (Wed) 18:48:27


       *Web:ときどき ぶつぶつ(2017年08月14日)
            ”「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」 
             渡辺惣樹著”への書評


見出しだけ読んで判った積もりになってはいけない。
面倒くさいけれど物事の裏面に迄目配りをしないと本当の事は見えてきません。
そんな思いを改めて気付かせてくれた書籍、
著者、渡辺惣樹 (1700円+税 草思社刊)。


戦後72年も経っていますから、
これ迄表に出て来なかった様々な事実が発掘される。

大東亜戦争の総括は連合国側による東京裁判で日本が悪いとされ、
占領下に於いて外国人の草案による急拵えの日本国憲法が公布され
今もそれを有り難く押し頂いている。

確かに戦後72年間日本は平和であり続けました。
ただそれを平和憲法のお陰であると強弁するのは無理があります。
駐留米軍の、米国の核の傘があるため他国は手を出さなかっただけの事。

米軍が居なくなれば速攻で中国は侵攻してくる。

つまりは日本は未だに占領軍による庇護、
言い換えれば主権を持たず自国の運命を外国軍に委ねている
半人前国家でしかないと云えます。

圧倒的な経済力、軍事力を持って日本を支配し世界に君臨してきたアメリカですが、
それが最近世界の警察官をやめると言い始めています。

世界の枠組みが変わりつつある。

1941年12月の真珠湾攻撃から始まったアメリカとの戦争、
無謀な勝てる見込みのない戦争を始めた日本が悪いと定説になっているけれど、
そんな単純な言い方で総括してしまっていいのか。


上記書籍を読むとそうした疑問に対する解だけではなく、
戦後72年を経た日本の歪んだ現状についての対処を考えるヒントもあります。

まず事実をしっかり把握する事、間違った理解や前提の上に立った
歴史観から生み出される自虐は御免被りたい。

 
この本の著者は長く米国やカナダでビジネスに従事し、
米英資料を広く渉猟して日米関係を新たな視点でとらえた著書を
高く評価されている近現代史研究家。

2011年にアメリカで刊行された「裏切られた自由」という労作から
知り得た事実を元にこれを出版。

「裏切られた自由」を著したのは
ルーズベルトの前の大統領だったハーバート・フーバー。

真珠湾攻撃が行われたと聞いて「ルーズベルトが何かをやらかしたな」という
感触を持ったのがこの著作の始まり。

以降膨大な資料を調べ20年を掛けて大事業を完成させました。


しかしそれは直ぐには刊行されなかった。
その理由こそが訳者渡辺惣樹氏がこの本を出した動機。
米国が隠して置きたかった歴史の裏側が著されていたからです。

端的に言えばルーズベルトの間違い、勘違い、横暴が第2次世界大戦を引き起こした。

ルーズベルトだけではない、チャーチルも愚かな舵取りをした。
そしてスターリン、ルーズベルトはスターリンに親近感を持って接した。
配下にも共産党支持者の陰があった。

ソ連優遇策は大戦後の東欧、中国の共産化を許してしまい
欧米はアジアの植民地をすべて失いソ連だけが漁夫の利を得た。

そうフーバーは各種資料、会議の結果を見て判断をした。
その内容は戦勝国アメリカその他にとって都合の悪い事。

正義の戦争をした筈のアメリカが裏で画策した諸々が表出すると
正義の戦争の辻褄が合わなくなってしまう。

 
連合国側は確かに勝った。
勝った側がいつだって正義であり歴史を書き込みます。
たまには都合の悪い事もあってそれはこうだと釈明し歴史に組み込んでいく。

彼等は一回決まった歴史を見直す事をよしとしない。これが釈明歴史観。

異を唱える側を彼らは修正主義者として批判します。
修正主義にあまり良い響きはない。
そうさせない為の空気造りでしょう。

しかし、事実は事実、隠されていた事が表になれば書き換えるのはいたって正当な事、
釈明歴史主義から修正歴史主義への転換。 


まぁ、簡単には行かないでしょう。
それでもこうしてアメリカの元大統領が資料を集めて
分厚い一冊の本にまとめたという事実、
資料は消えませんからその内容は検証されて行く事でしょう。

 
第2次世界大戦の端緒はドイツのポーランド侵攻。
アメリカは世論が参戦しないが大勢だったけれど、
ニューディールの失敗を挽回したいルーズベルトは参戦に舵を切るよう工作。

フーバーは戦前ヒトラーとも会見して政策を評価していた。

第1次世界大戦で疲弊したドイツ国民に自信を回復させ蘇らせた実績があるから。
ヒトラーも英仏と戦争する気はなかったのに
英仏のポーランド支持から歯車が狂い始め欧州での戦火は拡大。

それを後押ししたのはルーズベルトだったとフーバーは結論付けます。


一方日本との戦争、近衛内閣は戦争回避を模索したが
ルーズベルトはこれを無視、世論操作の為相手が仕掛けてくるようの工作、
日本はそれにまんまと引っ掛かった。

経済封鎖を仕掛けられハルノートを突きつけられ真珠湾を攻撃。


これでルーズベルトのアメリカは戦争やむなしという世論をバックにして
太平洋での火蓋が切られます。

戦争の末期、ルーズベルトはスターリン、チャーチル、
そして蒋介石と何回もの会議を重ねます。
この時既にルーズベルトは病魔に蝕まれていた。
 
 
病人が世界の戦後秩序をいじって前述のようにソ連ばかりが領土と共産圏の拡大を得た
という結果。原爆についても、すでに日本は負けを意識して講和を求めていた。
投下する必要などなかったと当時の連合軍の軍人達も認識していた。

これらの事はある程度巷間言われている事ですが、
戦争当事国の元大統領が書き記した刊行物に記載されている
という事はこれまでの歴史認識に大きな波紋を投げ掛ける事でもあります。

 
訳者は最後に特亜に触れ、


   南京事件についても慰安婦についても
   アメリカはプロパガンダだという事を知っている。

   にも拘わらず日本を擁護しようとしないのは、
   ルーズベルトとチャーチルの戦争指導があまりに愚かで、
   その愚かさは日本が(そしてドイツが)
   問答無用に悪い国であったとしない限り隠しようがないからである。

 
と書いています。

修正歴史観を受け入れると自分たちの描いた釈明歴史観が崩れてしまうからです。
でもこれは一遍には行かないけれどジワジワと浸透していく事でしょう。

原書の翻訳は2冊の大部、出版されているけれど1冊9500円という価格、
普通の人にはちょっと手が出ない事もあって
訳者がこの本のエッセンスを取り出し要約してみんなが目にする事が出来るように
出版されたものです。


  ( https://ahdn819.at.webry.info/201708/article_7.html )


           <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>
11:伝統 :

2019/08/15 (Thu) 08:43:57

(夕刻版のスレッドですが、
 今日は、先人が涙した特別の日です。

 昭和天皇の玉音放送を改めて拝聴したいと思います)

本日は「終戦の日」。

先の大戦で亡くなられた世界中の人々に
謹んで哀悼の意を表するとともに、

平和への誓いを新たにし、命を賭けて祖国を守り、
今を生きる私達に命を繋いでくださった先人の
心安らかなることを、心より祈念いたします。

また、この日改めて聴いて頂きたいのが、
74年前の本日、昭和天皇が出された、終戦の詔勅(玉音放送)と
終戦の翌年の“もう一つの玉音放送”。


終戦の詔勅 (玉音放送)
https://www.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo


昭和天皇が語りかけた“もう一つの玉音放送”(昭和21年5月23日)
https://www.youtube.com/watch?v=-bC7pd74r9w

           <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>
12:伝統 :

2019/08/15 (Thu) 19:04:45

戦争への道:ドイツと日本を刺激する (二)日本を追い込む

        *「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」 
          渡辺惣樹(著)、(P136~141)より

日本国内では近衛文麿を肯定的に語らない本が多い。
保守論客も近衛を評価しない。

その理由はいくつかある。
第一次近衛内閣(1937年6月4日から39年1月5日)はあまりに期待外れだった。
後にソビエトのスパイだったことが明らかになった尾崎秀実をブレーンに登用し、
日華事変にけりがつけられる可能性のあった、
ドイツ駐中国大使オスカー・トラウトマンの調停工作(トラウトマン工作)を蹴った。

1938年1月には「爾後、国民政府は対手(あいて)にせず」という声明を出し、
日中の戦いの出口を見えなくした。

近衛が学生時代に共産主義思想に染まっていたことも彼の評価を落とす一因となっている。
 

しかし、世界史的視点からの評価は若干異なっている。

第三次近衛内閣(1941年7月18日から10月18日)時代の彼の戦争回避努力は、
修正主義史観に立つ歴史家に評価されている。
フーバーも近衛を評価する一人である。
 
FDR政権は日本を徹底的に敵視する外交を進めていた。
ルーズベルトは「隔離演説」以来、日本をアメリカの敵国と見倣した。
1939年7月には日米通商航海条約の破棄を通告し、条約は翌40年1月に失効した。

同年8月にはオクタン価の高い航空機燃料を、9月には屑鉄を禁輸した。
1941年6月には石油製品そのものが許可制となり、7月には日本の在米資産を凍結した。
8月には石油製品が全面禁輸となった。
 
このようにとどまるところを知らない経済制裁は、
FDR政権が仕掛けた戦争行為そのものであったことは
現代の歴史家、特に軍関係者の間では常識になってい
(これについては筆者が解説を試みた米国空軍大学のジェフリー・レコード氏の
論文に詳しい〔『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』草思社〕)。
 
レコード氏は、「我が国の対日経済戦争は1941年の夏の終わり頃には、
最高潮に達してしまっている」と分析している。

そんな中にあって、日本は米国への歩み寄りの姿勢を見せた。

 〈1940年9月、グルー駐日大使は対日禁輸政策を実行すべき時期に至った
  と伝えていたが、1941年に入ってからは日本との関係改善は可能であり、
  経済制裁はむしろ危険であると訴え ていた。〉(第38章)


しかしFDR政権は東京からの報告を一顧だにせず、
英国とオランダをも巻き込んで対日強硬外交をエスカレートさせた。

フーバーは、こうした環境の中でも、
近衛政権が対米戦争回避に積極的に動いたことを評価する。

  〈8月4日、近衛首相は陸海軍両大臣と協議し、
   ルーズベルト大統領との直接会談の道を探ると発表した。

   引き続き和平の条件を探るという決定は、
   海軍の支持を得、陸軍も同意していた。

   天皇は、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示した。
   8月8日、東京からの指示に基づいて、野村〔吉三郎〕大使は
   ハル国務長官に対して、ルーズベルト大統領との首脳会談を
   正式に申し入れた。〉(第38章)


しかしFDR政権は聞く耳をもたなかった。
日本を極端に嫌うスチムソン陸軍長官は、
「この会談の申し込みは、我々に断固とした行動を起こさせないための
目くらましである」(同前)とまで日記に書いた。
これでは何のための経済制裁かわからない。

日本の対中国政策を変えさせたいというFDR政権の主張が真摯なものであれば、
頂上会談がその出発点になるはずであった。
 
野村駐米大使は近衛の指示を受けて、
チャーチルとの会談(大西洋憲章構想会談)を終えて帰国した
FDRと会談した(8月17日)。

8月28日には近衛の親書(前日付)をFDRに手交した。
グルー駐日大使も首脳会談に応じるべきだと本省に建言していた(同前)。

  〈私は、現在の日米関係の悪化の理由は、
   相互理解の欠如に起因する思い違いと相互不信にあると考えます。

   両国関係の悪化が、第三国〔訳注:英国、中国あるいは
   ソビエトの外交を指しているのだろう〕の策謀に拍車をかけています。

   私自身、大統領にお会いして忌憚なく意見を交換したい
   と考えるのはそのためです。
 
   私は、両首脳はすぐにでも会談すべきだと考えます。
   そして広い見地から太平洋地域全般にかかわる懸案について協議し、
   解決策を探るべきなのです。

   その他の細かな案件は首脳会談後に両国の有能な官吏に対処させればよいのです。〉

 
しかし首脳会談はついに実現しなかった。
近衛は日本国内の政情に鑑み(対米強硬派を刺激することを恐れ)、
首脳会談の要請を極秘にしたいとしていた。

しかしFDR政権内部から情報が漏洩し、
9月3日付の『ニユーヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙がこれを報じた(同前)。
日米和解を嫌う政府高官の誰かが漏らしたのであろう。

近衛の首脳会談を願う気持ちは強かった。
9月6日にグルー大使と会談し、あらためて親書を届けるよう依頼している。

それを受けてグルー大使は会談の実現に向けて再び動いた。
以下がグルーの本省宛ての報告書である(同前)。

   〈米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。
    彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相に
    それができる可能性はありません。

    少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。
    そのため、近衛公は、彼に反対する勢力があっても、
    いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。
 
   (首相は)現今の日本の国内情勢に鑑みれば、
    大統領との会談を一刻の遅滞もなく、
    できるだけ早い時期に実現したいと考えています。

    近衛首相は、両国間のすべての懸案は、
    その会談で両者が満足できる処理が可能になるとの
    強い信念を持っています。

    彼は私との会談の最後に、自らの政治生命を犠牲にし、
    あるいは身の危険を冒してでも
    日米関係の再構築をやり遂げると言明しています。〉

 
首脳会談を勧めたのはグルー大使だけではなかった。
ロバート・クレイギー英駐日大使も本国に対して次のような公電を発していた
(9月29・30日。第38章)

 〈アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌(しんしゃく)していないこと、
  そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。
  日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。

  アメリカがいまのような要求を続ければ、
  極東問題をうまく解決できる絶好の機会をみすみす逃すことになるでしょう。
  私か日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。
 
  アメリカ大使館の同僚も、そして私も、
  近衛公は、三国同盟および枢軸国との提携がもたらす危険を
  心から回避しようとしている、と判断しています。

  もちろん彼は、日本をそのような危機に導いた彼自身の責任もわかっています。
  日本政府の大きな方針転換を支える勢力は、米日関係を改善する
  明確な動き(首脳会談)が早期に起きなければ、
  枢軸国側の激しい怒りに直面することを理解し恐れています。

  (近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。
  そのことは天皇の支持を得ています。

  もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くようなこと
  があれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。
 
  アメリカ大使館の同僚も本官も、
  この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。

  確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、
  そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。
  いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。〉

 
日本政府(近衛首相)も米英両駐日大使も、首脳会談の実現を願った。
しかし首脳会談は叶わなかった。

明らかに、会談による解決、つまり外交交渉による解決を望まず、
武力衝突を望んだ勢力がFDR政権内にあった。

釈明史観に立つ日本の歴史家は、こういった事実を書かない。
あくまで日本が「それでも戦争を選んだ」と主張するのである。


           <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>
13:伝統 :

2019/08/16 (Fri) 19:32:58


   Web:アゴラ(2018年12月08日)より抜粋


ルーズベルト大統領が日本を刺激し続け、
最初の一撃(結果としての真珠湾攻撃)を日本に撃たせて、
日米戦に引きずり込んだこと。

さらに、ルーズベルトは最初の一撃を日本が撃つことを事前に知っていたことは、
下記の事項等からほぼ事実ではないかと考えられる。


◎ノルマンディー上陸作戦を計画したことで有名な、
陸軍省の戦争計画部門の責任者だったアルバート・ウェデマイヤー元大将が
戦後出した回想録(1)には


   「真珠湾攻撃はアメリカによって計画的に挑発されたものである」

   「ルーズベルトが日本に最後通牒を突きつけて、
    なんとか参戦させようとしていた」


と書かれている。


◎ルーズベルトの前の大統領であるフーバーの回顧録とも言える
「裏切られた自由」を読み解いた渡辺惣樹氏の
「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」(2)には、こう書かれている。


   「日本というガラガラヘビに我が国政府がしつこくちょっかいを出し、
    その結果ヘビが我々に咬みついたんだということを知っている」

   「彼ら(ルーズベルトら)は戦争になる可能性をよくわかっていた。
    それにもかかわらずハワイの司令官に伝えようとしなかった。
    その情報を明確に遅滞なく日本の一撃が加えられる可能性のある現場に
    伝えようとしなかった、とフーバーがルーズベルトを批判していた」


しかし、当時の日本はコミンテルンに支配されていた
ルーズベルト政権が戦争を仕掛けているという重要「情報」を入手できずに
外交を続け、結果アメリカの思うつぼとなる。

アメリカが無理に戦争を仕掛けていると分かっていれば、
アメリカを無視し開戦をしかけず、
石油のあるオランダ領インドネシアを攻める等の手もあった。

  (http://agora-web.jp/archives/2036059.html より抜粋)


           <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>
14:伝統 :

2019/08/24 (Sat) 19:32:54


         *「天皇を救った男 笠井重治」七尾 和晃 (著)より

(1)日米開戦直前に、米政府が戦争回避に最後の望みを託したのが笠井であり、
   戦後GHQが最も信頼を寄せる日本人として天皇制護持に奔走した。

     (伝統註:米政府となっているが、実際は米駐日大使)

(2)笠井重治

   経歴
   山梨県出身。1904年に渡米。

   笠井は1886年山梨県に生まれ、甲府中学に進学。

   校長にクラーク博士の薫陶を受けた大島正健(まさたけ)がおり、
   その強い影響を受けて卒業後、米国留学。
   シカゴ大学では在学中に最優秀弁論賞を受賞した。

   さらにハーバード大学の大学院に進み、
   後サンフランシスコで通信社の次長に就任、1919年に帰国した。

   帰国後出版社を設立し、日米関係の重要性を訴え続けた。

   さらに同じハーバード出身の金子堅太郎の支援を受け、
   日米の友好関係を訴える冊子を刊行、その縁から
   近衛文麿(ふみまろ)との関係も深くなっていった。

   1936年には国会議員にも当選し、いっそうの活躍を始めたが、日米関係は悪化。

   1941には渡米して野村吉三郎駐米大使とも会談、
   米国の対日世論の悪化防止に奔走した。

   11月に帰国。グルー駐日米大使から天皇との会見設定を依頼され、
   近衛らを動かすべく活動したが、
   結果は国防保安法違反容疑の憲兵隊による拘束であった。

   戦後、占領軍司令部でマッカーサーに仕えたボナー・フェラーズの
   天皇制護持建白書の作成に関わった。

   この建白書は、天皇が戦犯となることを免れさせるのに力があったと言われている。


   1971年、フェラーズは日本政府から勲章を贈られるが、
   推薦し、功績調書を作成したのも佐藤栄作と関係のあった笠井であった。

   その後さらに、今度は周恩来と米国の媒介にも活躍し、
   米中国交回復に動いたことも明らかにされている。

   (https://blog.goo.ne.jp/toride727/e/4063fdab7e8d6a8c976ba5cb89d83c8d )

(3)本書「天皇を救った男 笠井重治」の概要紹介Web
   http://kw.maruzen.co.jp/ims/itemDetail.html?itmCd=1027773370

(4)Web「歴史・文化 - 日本文化と今をつなぐ。Japaaan」

  ①「差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき」(前)
   https://mag.japaaan.com/archives/101702   (2019.07.16))

  ②「差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき」(中)
   https://mag.japaaan.com/archives/101705   (2019.07.17)

  ③「差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき」(後)
   https://mag.japaaan.com/archives/101707    (2019.07.18)

           <感謝合掌 令和元年8月24日 頓首再拝>
15:伝統 :

2019/08/25 (Sun) 20:18:27


       *Web:日経BizCafe(2019/8/14)より

第2次世界大戦の終結から74年。
日本の開戦から敗北に至るまでの研究は、
さまざまな視点から現在も続いており、
現代企業が組織マネジメントを見直す上で参考になるケースも少なくない。

そのひとつが連合艦隊を率いた山本五十六・海軍元帥への再評価だ。
1941年12月に対米開戦と同時にハワイ・真珠湾攻撃を遂行した立役者だが、
希代の名将も作戦のミッションを部下に徹底させられなかったという。


真珠湾攻撃の成果と誤算を追った。

 
真珠湾作戦は、41年12月8日の対米開戦初日に行われた
日本海軍の機動部隊による奇襲攻撃だ。

ハワイに駐留していた米海軍の「アリゾナ」など主力の戦艦4隻を
撃沈・4隻を大中破させた上、戦闘機など約350機を破壊し
米太平洋艦隊を壊滅状態に追い込んだ。

日本は西太平洋海域の制海権を確保し、シンガポール、マニラ陥落などの端緒となった。


■戦史上では「イノベーション」との見方も

真珠湾攻撃のアイデア自体は、昭和初期には生まれていたという。
武蔵学園記念室での勤務のかたわら日本海軍史を研究する畑野勇氏は
「実際に海軍大学では1927年に図上演習しており、米軍でも実施していた」
と指摘する。しかしあくまで研究レベルにとどまっていた。

「具体的に真珠湾攻撃の構想を長い期間温めていたのは山本だけだった」と畑野氏。
海軍の作戦・用兵を統括する軍令部は、山本の作戦を危険が多く投機性が強い
として反対したものの、最後は山本が押し切った。

 
真珠湾攻撃は近・現代戦史からみた場合、
ある種の「イノベーション」だったということもできる。

飛行機では主力の戦艦に対して致命傷を与えられないという、
それまでの常識を覆し、海上戦の主役が航空機に交代した戦いだった。

同湾は海深が浅く航空魚雷の攻撃が不可能とされていたのを
特殊な構造のものを開発した。さらに高空からの大型爆弾投下による
「水平攻撃」も訓練の積み重ねで大幅に命中率を上げたという。

畑野氏は「山本は急降下爆撃機による片道空襲で、
搭乗員は海面へ不時着させて潜水艦で救助する方法まで研究させていた」という。

日本からハワイへ長距離遠征できた一因に、現地での徹底した情報収集があった。
海軍はホノルル総領事館に予備役少尉を変名で送り込み、
開戦まで詳細な米艦隊の状況を東京に送り続けさせていた。

総領事の外務省あてに送る暗号電報を利用した。
邦人引き揚げ船を使って米西海岸やハワイ方面の軍事視察も行ったという。

一方で機動部隊側では無線封止を徹底するなどして
米軍に察知される危険を防いだという。


■現場の司令官とミッションで食い違い

それでも「真珠湾攻撃は失敗だった」という声が出ている。
一番の目標にしていた空母「エンタープライズ」「レキシントン」を
逃がしてしまったためだ。

2隻の空母はちょうど航海中で真珠湾に駐留していなかった。
そのため現在でも「なぜ第2次攻撃を決行しなかったかという批判がある」
と畑野氏は言う。

歴史家の秦郁彦氏は当時の日米両軍の状況を分析し、
機動部隊が索敵すれば米空母を発見できた可能性が十分あったという。

批判の矢は現地で部下から提案があったにもかかわらず追加攻撃をためらった
機動部隊の南雲忠一・司令官と督促しなかった山本に向けられている。

南雲について畑野氏は「永野修身軍令部長から空母を損傷させないように
強く要望されていたことも影響したようだ」と指摘する。

南雲は海軍の年功序列で司令官に就任。
航空部隊は専門外で、当初から作戦が成功するかどうかも懸念していたという。
大戦果を前に敵地から早く離脱したかったようだ。

 
ただ一番の原因は「山本と部下の南雲の間に真珠湾攻撃の
ミッションが共有されていなかったことだ」と畑野氏。

山本にとっての目的は空母を始めとする主力艦隊を徹底的にたたき、
米軍の継戦意欲を失なわせることだった。

南雲はアジア南方地域で資源を確保するための補助作戦とみていた。
すでに所期の目標は達成したとの判断だった。

連合艦隊の司令部でも第2撃の議論が起きた時に山本は
「それをやれば満点だ。自分もそれを希望するが
ここは機動部隊指揮官にまかせておこう」と述べたとされる。

米側の闘争心をくじくという狙いも、
ワシントンでの最後通告が開戦後にずれこんだため、
逆に米国民の戦意を高める結果に終わった。

 
日本軍の計画は、まずインドネシアなどを占領して
石油など資源を確保しての持久戦だった。

その後に同盟国のドイツが英国かソ連(現ロシア)を
打倒するか休戦するのを待って、戦意を失った米国など連合国との
講和会議に持ち込む狙いだ。

一方山本はこの計画を「成算なし」と判断して
米、英艦隊との艦隊決戦に勝ち続けることでの講和を想定していた。

日本は戦争終結へ向けてのグランドデザインを持たないままに
終始したといわれる。

畑野氏は「実際は海軍において長期持久戦計画と、
山本の連続艦隊決戦構想とに最後まで分裂していた」と結論付けている。

現代企業でもミッションの共有はもっとも重要とされる。
かつての日本海軍はそこに盲点があったようだ

(松本 治人)

https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4849329013082019000000 )

           <感謝合掌 令和元年8月25日 頓首再拝>
16:伝統 :

2019/08/29 (Thu) 18:59:03


      *「アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄」江崎 道朗・著より

<本書の紹介>

大東亜戦争前のアメリカには、
「アジアの安定勢力たる強い日本」を望む共和党など非干渉派と
「アジアを混乱に導いてゐる日本の弱体化」を目指す民主党など干渉派が存在した。

1933年に大統領となつたルーズヴェルトは後者に属してをり、
日本を対米戦争の已むなきに追ひ込んでいくが、
その背後ではコミンテルンが暗躍してゐた。さうしたコミンテルンの動きを、
アメリカにおける最新の研究動向を踏まえつゝ明らかにしたのが本書であり、
非常に興味深い内容であつた。


世界革命を目指すコミンテルンは、反共政策を推進する日独を打倒すべく、
英独間および日米間の対立を煽り立てて戦争へと導き、
日独を敗戦に追ひ込まうとする。

このやうな目論見に基づいてコミンテルンはアメリカにスパイ網を築き、
その工作はルーズヴェルト政権の中枢部に及んだ。

大東亜戦争末期、ルーズヴェルトが急逝し、トルーマンが大統領に就任する。
当初は前任者同様の考へに囚はれてゐたトルーマンだつたが、
大東亜戦争敗戦後の国共内戦・朝鮮戦争を目の当たりにして、
ソ連に対する警戒心を強め、日本を「反共の防波堤」として育成すべきと方針転換する。

ほゞ、これと時期を同じくして、コミンテルンによるスパイ網の存在が
マッカーシー上院議員によつて告発される。

彼の告発はトルーマン政権やリベラル派のマスコミによつて事実無根とされたが、
NSA(国家安全情報局)・FBI(連邦捜査局)・CIA(中央情報局)の
調査に基づく「ヴェノナ文書」が1995年に公開された結果、
スパイ網の存在が実証された。

    ( https://www.kokutaibunka.com/archives/2497 )


<要点>

(1)アメリカは、ルーズヴェルト民主党政権の時代に、大きく変わっていったのだ。
   しかも、この社会主義傾向が強い「ニューディール連合」は戦後も、
   アメリカのマスコミ、労働組合、官僚たちを牛耳り、
   民主党を支持する選挙マシーンとして活動した。

   日米戦争に勝利したアメリカの連邦政府は、
   「ニューディーラー」と称する社会主義者たちによって
   席巻されてしまったのだ。(p42)

(2)「アルジャー・ヒスがソ連のスパイである」と告発したチェンバース

   アメリカの共和党の支持者たち、特に保守派は、
   「ルーズヴェルト民主党政権でソ連のスパイたちが暗躍し、
   東欧やアジアをソ連に売り渡す工作をしていたのではないか
   と考えるようになった。(p58)

(3)「ソ連に反する、いかなる取り組みも停止せよ」という命令を
   ホワイト・ハウスから受けていたと、クラーク局長は示唆している。

   ルーズヴェルト、トルーマン民主党政権と国務省によって
   ヴェノナ作成は妨害を受け続けてきた(p73)

(4)ルーズヴェルト民主党政権にいた、
   次のような政府高官が、ソ連のスパイであることが判明した。

   (カバーネーム、本名、主な役職・・)

   Jurist Ales アルジャー・ヒス 財務長官補佐官
   Lawyer ハリー・デクスター・ホワイト 財務次官補
   Prince ローレンス・ダガン 国務省南米課課長
 
   Page ラフリン・カリー 大統領上級行政職補佐官
   Peak フランク・コー 財務省通貨調査部部長
   Saks ソロモン・アドラー 財務省通貨調査部
 
   Koch ダンカン・リー 戦略情報局(OSS)
     日本・中国担当部門主任(p77)

(5)ハリー・デクスター・ホワイトは1941年7月26日、
   財務省通貨調査部長の時代に、在米日本資産の凍結を主導し、
   日本の金融資産を無価値にして、
   日本を実質的に「破産」に追い込んだ人物だ(p78)

(6)Lawyerというカバーネームを持つホワイトは、
   財務省官僚でありながら11月、日米交渉に際して
   事実上の対日最後通告となったハル・ノート原案の作成に関与(p78)

(7)カリー大統領補佐官は、蒋介石政権と連携して
   日本本土を約500の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。
   ・・・ルーズヴェルト大統領は7月23日に承認のサインをしている。

   日本が真珠湾攻撃をする4ヶ月以上も前に、
   ルーズヴェルト大統領は日本爆撃を指示していた(p78)

(8)共産党は各国の治安当局にマークされて、
   自由に動けないことが多かったので、労働組合を偽装しながら、
   ひそかに各国で工作活動に従事した。

   ・・・別動隊が、エドキンテルン(教育労働者インターナショナル)であり
   こちらは教職員を対象とした教職員労働組合の世界組織である
   ・・日本でも戦前エドキンテルン日本支部がひそかに結成されており、
   その中核メンバーが戦後、GHQのニューディーラーと称する
   社会主義者と組んで設立したのが、日教組(日本教職員組合)である(p99)

(9)コミンテルンの創設者であるレーニンは「敗戦革命」という大戦略を唱えた。
   敗戦革命とは、「資本主義国家間の矛盾対立を煽って
   複数の資本主義国家が戦争をするよう仕向けるとともに、
   その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、
   その混乱に乗じて武装した共産党と労働組合が権力を掌握する」
   という革命戦略だ(p101)

(10)アメリカ共産党は党本部機構の中に、内部穿孔工作を推進する秘密部門として、
   フラクション部(内部工作部)を設置している。

   フラクションとは「破片」「断片」という意味だが、
   実態は内部穿孔を実行する部門、つまり労働組合、平和団体、教育団体などに
   スパイを送り込み、その団体を内部から支配しようとする部門だ(p117)

(11)アメリカ共産党は、同じくプロテスタント系の青少年団体
   「YMCA」と「YWCA」に対する工作も重視した

   ・・・1937年の日中戦争以降、アメリカ共産党はプロテスタント各派を通じて、
   「残虐な日本軍によって殺される中国の子供を救おう」という募金活動を展開、
   瞬く間に「残虐な日本人と、可哀相な中国人」というイメージが
   広がってしまった(p122)

(12)共産主義者やそのシンパの宣伝手法は・・・相手に一方的に
   レッテル(ファシストとか)を貼って、敵対勢力の発言権を奪っていく。

   日本でも、左派リベラルは、敵対する政治家、政治勢力に対して
   「軍国主義者」「差別主義者」といったレッテルを貼って
   社会的に抹殺しようとするが、その手法はコミンテルン仕込みだたわけだ(p130)

(13)「中国支援評議会」の名誉会長に就任したのは、
   サラ・デラノ・ルーズヴェルト女史だが、
   彼女はルーズヴェルト大統領の実母である。

   名誉副会長には中国国民党政府の胡適元駐米大使が、
   常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長の夫人・・・その実態は、
   やはりアメリカ共産党のフロント組織だった(p146)


<参考Web:スターリンの米国への工作
       http://bewithgods.com/hope/japan/15.html >

           <感謝合掌 令和元年8月29日 頓首再拝>
17:伝統 :

2019/09/06 (Fri) 21:38:19


        *Web:日経BizGate(2019/8/15)より

8月15日は終戦の日。約4年続いた太平洋戦争で犠牲になった日本人は
約310万人にも上り、その多くが勝利の望みが消えた最後の約1年間で
戦死したり被災した人々だった。

なぜ終戦が遅れたかの研究が、
社会心理学的や行動経済学の視点も取り入れた形で進んでいる。

日本のエリート層が、そろって狂信的な軍国主義者で戦争を長引かせたわけではない。
一見合理的に見える決断が、実は被害を増大させる落とし穴だったことが
解明されつつある。現代の企業経営にもヒントとなりそうだ。


■「一撃講和論」が陥った現状維持バイアスのわな

1941年12月に日本の連戦連勝で始まった対米戦争は、
42年6月におけるミッドウエー海戦の敗北を境に、
物量で勝る米軍の反撃攻勢の局面に一転した。

戦況が悪化する中で決定的だったのは44年7月、
北マリアナ諸島にあるサイパン島の陥落だ。

サイパンからは日本への空襲が容易に行え、
この時点から日本軍は加速度的に劣勢に追い込まれた。

近代史学の古川隆久・日大教授は
「昭和天皇も当時の東条英機首相に特に確保を指示する要衝だった」という。

東条内閣は退陣し、対英戦のインパール作戦も中止された。
「後任の小磯国昭首相は昭和天皇の疎開を勧めるほどだった。
昭和天皇は最後まで帝都にとどまることを選択したが」と古川氏。

 
勝利が絶望な状況で生まれたのが「一撃講和論」だ。
古川氏は「1回でも局地戦闘に勝利することで、
条件付き和平に持ち込もうとする構想。
昭和天皇から政府、軍部ともほぼ共通の考え方だった」と指摘する。

43年のカイロ宣言で連合国が対日戦の目標とした無条件降伏を避ける狙いがあった。

損害を最小限にしようとする一撃講和論は、一見合理的に思える。
巨大戦艦の「大和」「武蔵」はまだ健在で、
中国大陸には陸軍最強とされる関東軍が控えていたからだ。

しかし古川教授は「日本のリーダー層が現状維持バイアスにかかっていた」と指摘する。


《多元的な政治体制、相互チェックの機能無なく不全に》

現状維持バイアスは、行動を未知なものや未体験のものを受け入れたくないと感じ、
現状のままでいたいとする心理作用だ。行動を起こした方が有利な状況を作れる
と理解していても動きたくない経験は誰にでもあるだろう。

「圧倒的な連合国との戦力の差に目をつぶり、講和交渉を本格化させなかった」と古川氏。

実際その後の日本軍はペリリュー島、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、ルソン島、
硫黄島、沖縄戦と続く戦いに敗戦し、国力の消耗と人的犠牲を重ねていった。


指導者層の情報共有も進まなかった。

昭和天皇が日本の軍事力が事実上壊滅状態にあることを知ったのは45年6月、
梅津美治郎・陸軍参謀総長の報告を受けてからだったという。
「梅津は書きものにもせず、部下にも知らせない極秘、独断の報告だった」(古川氏)。


実際の終戦は、梅津総長の極秘報告からさらに2カ月後だ。
古川氏は「表向き負けた形で処理したくない軍部を制御できなかったことが
混迷の最大の原因」と言いきる。

そういう軍部の体質を生み出し、まかり通るような戦前の制度に原因があると、
古川氏は制度設計の不備を指摘する。

戦前の日本政治は天皇、宮中、重臣、陸軍、海軍、内閣、議会などが
それぞれに権力を持つ多元的な政治体制だったといわれる。

独裁者の出現を防ぐには合理的なシステムにも思える。

しかし実際は、軍事力や作戦に関する情報は統帥上の秘密とされ、
文官は外務大臣であっても終戦まで伝えられなかった。
「それぞれが勝手に行動し、相互のチェック機能が働かなかった」と古川氏。

 
行動経済学の理論も、太平洋戦争の実態を解明するのに役立つ。
ノーベル経済学賞を受賞した米カーネマン教授のプロスペクト理論で、
一撃講和論の背景をさらに深く分析できそうだ。

プロスペクト理論は、人間は現在所有している財が1単位増加する場合と
1単位減少する場合では、減少の方に重きを置いて、
少しでも損失を小さくすることを望むというもの。


かつて日本のリーダー層は対米戦争を、
将来どうなるか分からないにもかかわらず、ではなく、
どうなるか分からないからこそ、開戦に合意した。

同じ理由で、何度も勝利の可能性が低い決戦策を挑み、
講和交渉前に少しでも有利な条件を得ようとした日本軍の行動も理解できそうだ。


《「サンクコスト」が終戦の決断を遅らせる》

経済史学の牧野邦昭・摂南大准教授は
「さらに戦況が悪化するにつれて『コンコルド効果』が働いた」とみる。

コンコルド効果とは、回収不能になった投資費用(サンクコスト)を惜しみ、
それ以上の投資が投資をしつづけることが損失につながると分かっているにも
関わらず、投資がやめられないことを指すという。

牧野氏は「企業でビッグプロジェクトが立ち上がり、途中で採算が合わない
経済情勢になっても社内的にストップ出来ないようなケース」と説明する。

典型例が1960年代に英仏共同で開発に着手した超音速旅客機「コンコルド」だ。
開発過程で滑走路、航路、乗員数、燃費などの問題が出てきた。
プロジェクトを中止し、違約金や賠償金を払った方が安く済んだにも関わらず、
完成までやめることができなかった。

結局「コンコルド」プロジェクトは数兆円の損失が出たという。

 
継戦能力の喪失を承知していた日本軍のリーダーや、内閣や重臣のメンバーも
「ここで戦争をやめては戦死者に顔向けできない」という考えから、
コンコルド効果のワナにはまっていたといえるだろう。

7月末のポツダム宣言を即座に受諾していれば、
2度の原爆投下とソ連(現ロシア)参戦は防げたかもしれない。

 
牧野氏は終戦を決めた8月10、14日の2度の御前会議にも
「社会心理学の『集団極化』が作用したかもしれない」と推測する。

集団意思決定で、構成員の平均より極端な方向に意見が偏る決定が
起きやすい状態が集団極化だ。御前会議で原爆投下やソ連参戦などの
強いショックを受けて慎重派が多くなれば、全体の結論はより慎重に傾く。

だからこそ、昭和天皇の「聖断」が、
よりすんなりと受け入れられたのかもしれない。

その後も懸念されたクーデターは未遂に終わり、
その後は日本軍の武装解除も抵抗なくスムーズに進んだ。

牧野氏は「集団意思決定だからこそ、ドイツのように独裁者の死まで
戦争が続くことがなく、無謀な本土決戦は避けられたのだろう」と説く。

 
コンコルド効果は、現代の企業社会でもまま見られる。
これを防ぐには(1)ゼロベースで考える(2)限界費用を設定する
――などが有効とされる。

しかし牧野氏は「経営トップはあれこれ対策を考えるよりも、
コンコルド効果が人間の自然な感覚の中にあることを常に自覚しておくことが重要だ」
と指摘する。

役員会議で皆が合理的な判断を下したと自信を持っていても、
ひょっとすると社会心理学や行動経済学が示す落とし穴にはまり込んでいるかもしれない。

https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4854435014082019000000

           <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>
18:伝統 :

2019/09/16 (Mon) 17:54:16


          *『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』江崎道朗・著より

《本書の紹介~発行社より》


ロシア革命が成功したあと、レーニンは世界革命を遂行すべく、
「コミンテルン(共産主義インターナショナル)」をつくる。

それは恐るべき思想と悪魔的手法に裏打ちされた組織であった。

そして大日本帝国は、やすやすとその謀略に乗せられ、
第二次大戦に追い込まれていく。

なぜ、そうなってしまったのか?

実は、その背後には、日本の「自滅的」な大失敗があった。
リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らが暗躍していたことは、
よく知られたことだろうが、彼ら以外にも、軍や政府内部に入り込み、
ソ連・コミンテルンの都合の良いように動く人々がいたのである。

どうして当時の日本のエリートたちは共産主義にシンパシーを覚えたのか? 
ソ連型の共産主義社会をめざす「左翼全体主義者」と、
天皇を戴きながら社会主義的統制国家をめざす「右翼全体主義者」は、
いかにして日本を席巻したのか? 

そして左右の全体主義の危険性に気づき、
その勢力に敢然と立ち向かった保守自由主義者たちの姿とは――?

コミンテルンの戦略を詳述しつつ、日本国内の動きの謎を解き、
隠された「歴史の真実」を明らかにする刮目の書。



《本書の要点》

(1)取り戻すべきは「保守自由主義」の伝統。

(2)20世紀という時代を見るとき、
   ソ連率いる国際ネットワーク、
   コミンテルンの暗躍が歴史を大きく変えたことは間違いない。

(3)コミンテルンのスパイ工作に振り回された戦前の日本。

(4)アメリカでは、今、近現代史の見直しが起こっている。
   1995年、アメリカ政府は戦時中から戦後にかけての、
   在米ソ連のスパイの交信記録を解読した「ヴェノナ文書」を公開した。


   これが契機となり、戦前、日本を追い詰めたアメリカの
   ルーズベルト民主党政権の内部にソ連のスパイたちが潜り込み、
   ソ連に有利となるようにアメリカの外交政策を
   歪めてきたことが明らかになりつつある。

(5)日本は、インテリジェンスにおいて敗北した。

(6)革命工作は現在も続いている。

(7)本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。
   それをしっかり読み込んで理解するのが
   インテリジェンスの第一歩なのである。

(8)保守自由主義の立脚点は、
   聖徳太子、五箇条の御誓文、帝国憲法である。

  ①人間は不完全だ。
   不完全なもの同士だから、お互い支えあい、
   話し合ってより良き知恵を生み出すことが必要である。

   この聖徳太子の発想は、
   まちがいなく明治日本の理想にも引き継がれている。

  ②この保守自由主義こそが、
   明治天皇の「万機公論に決すべし」の五箇条の御誓文の
   精神を受け継ぎ、帝国憲法体制を守ってきた
   真の「保守本流」だったのである。

(9)近衛文麿は大東亜戦争の敗色が濃くなって、
   ようやくコミンテルンの謀略に気づく。

  ①1945年2月、昭和天皇に「近衛上奏文」を提出し、
   「革新」官僚たちが敗戦革命を狙っていることを
   「勇気」を出して申し上げたのだ。

  ②小田村たちが指摘した問題を正面から受け止めた、
   「近衛上奏文」から和平に向けた動きが本格化し、
   1945年8月、昭和天皇の御聖断によって日本は敗戦を迎える。

   常に平和を願われていた昭和天皇の御心を知っていた庶民たちは、
   この御聖断を支持した。

         ・・・

<参考Web:コミンテルンの謀略と日本の敗戦(2019年08月29日)
       https://matome.naver.jp/odai/2150313040555813301 >

           <感謝合掌 令和元年9月16日 頓首再拝>
19:伝統 :

2019/09/28 (Sat) 19:30:20


        *『本当は世界一の国「日本」に告ぐ大直言』ケント・ギルバート(著)より

(1)日本を救った占領軍の「情報の恩人」。
   それは、チャールズ・ウィロビー。

   ウィロビーは、マッカーサーに「最良」と称された情報参謀。

   GHQの民政局(GS)は、「日本の弱体化」を目指した。
   G2(参謀第二部・情報担当)率いるウィロビーが、
   力をつけるようになり、戦後の日本は、弱体化から復興へと方向転換できた。

   反共の砦となるべき日本に対して、
   アメリカは多大な援助を始めた。

(2)天皇と天皇制を救った「日本通」の情報将校が、ボナー・フェラーズである。

  ①フェラーズは、1896年、イリノイ州生まれ。
   1918年アメリカ陸軍士官学校、卒業。
   1935年、将校学校を卒業。
   そこで化学兵器の教育を受けたが、卒業論文は「日本兵士の心理学」だった。

  ②フェラーズは、学生の頃から小泉八雲マニアで、
   それを入り口に日本への造詣が深かった。

   戦前は何度か来日して、八雲の妻や息子に会い、八雲の墓も参っている。

  ③終戦後、フェラーズは、GHQと皇室の連絡役を担った。

   戦争が終わった直後に、論文を書いている。
   その中には、
   「占領政策のためにも、日本の復興のためにも、
   それからアメリカの長期的な国益のためにも、天皇を残したほうがいい」
   という考えが書かれている。

           <感謝合掌 令和元年9月28日 頓首再拝>
20:伝統 :

2019/10/04 (Fri) 19:07:12


        「日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか」岩瀬昇・著より

(1)一次エネルギー資源の供給を海外に求めなくてはならない日本にとって、
   世界貿易が妨げられない状態、つまりは世界が平和であることが極めて重要だ。

   外交政策はこの認識に基づいて、
   国民の総意として立案のうえ実行されるべきである。
   それこそが国策である。

(2)そうはいっても、
   世界はいつも平和であるという楽観論に立つことはできない。

   やはり、時に「非常時」が起こることを前提に織り込んで考えるべきである。

(3)石油開発が「ハイリスク・ハイリターン」であり、
   ビジネスサイクルが非常に長い点は、現在も変わりはない。

(4)石油、いやエネルギーに関しては、
   太平洋戦争当時の日本を取り巻く基本骨格が、
   現代もなお変わっていないという事実に驚かされる。

   日本は、昔も今も、石油を始めとする一次エネルギー資源を
   ほぼ持たない「持たざる国」なのだ。
   そしてまた、非常時がいつ来るか、わからない。

(5)昭和16年4月、米国との経済と戦力の比較調査が行われた。

   新庄健吉陸軍主計大佐は、
   陸軍省軍事課長の岩畔豪雄大佐と同じ船で渡米し、
   三井物産ニューヨーク支店内に事務所を構えて米国の経済力調査を行った。

   新庄は、陸軍経理学校、東京帝国大学経済学部で学んだ経歴だった。
   新庄は公に入手可能な資料、統計などを駆使して、米国経済力を分析し、
   およそ3ヶ月後の7月中旬、報告書をまとめあげた。

   新庄は報告書の最後のまとめに次のように記した。

   「日米両国の工業力の比率は、重工業において1対20。
   化学工業において1対3である。

   戦争がどのように進展するとしても、この差を縮めることが不可能とすれば、
   少なくともこの比率は常時維持されなければならない」

   「そのためには、戦争の全期間を通じて、
   米国の損害を100%として、
   日本側の損害は常に5%以内に留めなければならない。

   日本側の損害が若しそれ以上に達すれば、
   1対20ないし1対3の比率をもってする戦力の差は
   絶望的に拡大する」

(6)ワシントンの日本大使館にいた岩畔は新庄報告を読んで、
   直ちに帰国して関係部署に説明することを約した。

   岩畔は7月31日にワシントンを立ち、8月15日に横浜に上陸した。

  ①岩畔の『速記録』によると、説得してまわったのは、
   陸軍参謀本部の部員以上全員、海軍省および軍令部の主要な局部長以上、
   宮内省首脳部、外務、大蔵の各大臣、
   企画院総裁、陸海軍大臣、そして近衛総理などだった。

  ②だが、岩畔自身の言葉によれば、
   「ドイツ便乗論」「精神力の過大評価」「天佑神助の空頼み」によって、
   戦争突入の決意を固めていた政府、軍首脳の考えを変えることはできなかった。

(7)陸軍省が秘かに行った「秋丸機関」による敵味方の経済抗戦力調査でも、
   参謀本部の指示に基づいて新庄大佐がアメリカで行った経済力調査でも、
   内閣直属の総力戦研究所によるシュミレーション結果でも、
   戦争をしたら日本に勝ち目がないことは歴然としていた。

   統帥権を握る陸海軍と、
   軍事以外の行政すべてに責任を持つ政府からなる
   大本営政府連絡会議のメンバーたちも、
   その事実は知っていた。


(8)太平洋戦争前後のエネルギー関連資料を読み漁った著者はこう語る。

   “太平洋戦争に突入する前の我が日本には、国家全体としての
    骨太のエネルギー政策は存在しなかった。これは驚きだった。”


  ①エネルギーリテラシーが低かった日本は、
   腰を据えてエネルギー問題に取り組まず、
   場当たり的な対応の末に太平洋戦争へと突入してしまった、と著者は指摘する。

  ②政府・軍による場当たり主義的な対応によって推し進められた悲劇の数々、
   その一つが満州での失敗であった。

   中国東北部、かつての満洲に大慶油田という油田がある。
   日本の九州ほどの巨大な面積に広がり、これまでの中国経済の成長を支えてきた
   世界有数の巨大油田である。

   このほとんどの日本人が知らない油田こそ、
   第二次世界大戦中に日本軍が喉から手が出るほど渇望したものの、
   遂に発見できなかった油田である。

  ③日本軍は、欧米で一般に使われていた機材・技術の活用を拒み、
   精神論で油田を発見しようとしていた。

   十分な機材・技術なしには、いくら優秀な技術者でも油田を見つけることはできない。
   エネルギー開発の基礎中の基礎をも把握していなかった
   日本政府・軍による明らかな失策である。

  ④当時の政府関係者・軍・民間人たちは必死に日本の石油不足に取り組んだのだろうが、
   エネルギーリテラシーが欠けていたために、ついに日本を焦土へと化してしまった。

   この歴史から私たちは何を教訓とすべきなのだろうか。

           <感謝合掌 令和元年10月4日 頓首再拝>

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