伝統板・第二 566532

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大嘗祭(だいじょうさい)

1:夕刻版 :

2019/07/27 (Sat) 20:53:52

このスレッドでは、大嘗祭に関する情報を集めてまいります。


《大嘗祭へ「大嘗宮」の地鎮祭 皇居・東御苑》

       *Web:毎日新聞 (2019/07/26) より

皇位継承に伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」(11月14、15日)の
中心的な儀式の祭場となる「大嘗宮(だいじょうきゅう)」が建設される
皇居・東御苑で26日午前、地鎮祭が行われた。

宮内庁幹部や施工業者計9人が参列した。

10月末にほぼ完成する。

 
大嘗祭は、新天皇が皇室の祖とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)や神々に
新穀などを供えて五穀豊穣(ほうじょう)や国の安寧を祈る儀式。

   ( https://mainichi.jp/articles/20190726/k00/00m/040/092000c )





天皇即位に伴う大嘗祭に向け 大嘗宮の地鎮祭(19/07/26) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl6pz9ACZ2g

夏の日差しの中、悠紀殿、主基殿の建設予定地に設けられたテントで
掌典が祝詞を読み上げた後、両殿の建設予定地の中央など
計10カ所に絹の布を埋め、工事の無事終了を祈った。


悠紀殿と主基殿など30余りの建物で構成される大嘗宮は
東御苑の旧江戸城本丸跡に作られ、東西89.7メートル、南北88.15メートル。
敷地面積は6510平方メートルと、前回の8割弱に縮小される。

    ( https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072600172&g=soc )


         <感謝合掌 令和元年7月27日 頓首再拝>
2:伝統 :

2019/07/28 (Sun) 19:20:46


        *「大嘗祭の起こりと神社信仰 」森田勇造(著)前書き より

世界諸国のいかなる理屈や理論よりも、
日本で千三百年以上も継続されてきた大嘗祭は、
日本国としての民族統合の永遠の戦略でもある。

それが人類史的に正しいかどうかの問題ではなく、
これまで具体的に継続されてきたことであり、その結果が、
世界で最も安定した、平和で豊かな国であるとも言える、今日の日本のあり様である。

戦後の荒廃から立ち上がってきた民主主義国日本の、
アイデンティティーでもある天皇制を、維持、継続するに必要であった大嘗祭が、
平成天皇に続いて、新天皇によって、二〇一九年十一月十四、十五日に行なわれる。

その大嘗祭が、いつ、どのように起こったのか、
そして、何故今日まで継続してきたのか、
その儀式に欠かせない新米は何処で、
どのように作られていたのかなどを知ることは、

敗戦国となったが、アメリカの支配から文化的に立ち上がり、
独立した民主主義国である日本が、これからいかように国際化しても、
安定、継続する上にとっては、大変重要なことだと思われる。

世界的に大変珍しい稲作文化の一種である大嘗祭と、
天皇制をいただく日本の安定、継続との関わりにとって、
最も重要な役割を果たしてきた稲、新米が、東西二か所の斎田で栽培されてきた事実を、
明治、大正、昭和、平成における四代の斎田地を訪れて立証し、
その後のあり様を確認することは、日本の社会史上に必要なことだと思われる。

世界の中で最も歴史が長く、象徴天皇が在位する日本国が、
これからも安定、継続する上にとって、これまでの大嘗祭に新米を供納してきた日本人、
日本国民の在り方、心意気を少しでも感じでもらえれば、
なんらかの参考になるのではないだろうか。

     (https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784862513779 )

         <感謝合掌 令和元年7月28日 頓首再拝>
3:伝統 :

2019/07/29 (Mon) 20:20:35


         *「事典 古代の祭祀と年中行事」 岡田 荘司・著 より
          「大嘗祭と古代の祭祀」 岡田 荘司・著 より

皇居の奥深くで、国民のために安寧を祈られる天皇陛下。
元旦の四方拝から大晦日の大祓・御贖まで、年間約二十の祭祀がつづけられている。

最近の、ある新聞の世論調査によると、新しい天皇に期待することは、
国際親善の外国訪問、災害地などの慰問につづいて、
国の安寧を祈る宮中祭祀が三十%にのぼった。

しかし、宮中祭祀の様子はあまり知られていない。
古代より天皇によって行われてきた神々への祭祀の実態とそのはじまりを、
わかりやすく論じたのが『事典 古代の祭祀と年中行事』である。

『事典 古代の祭祀と年中行事』では古代を中心に、天皇と国家の神祇祭祀の恒例・臨時と、
神仏共存時代における仏教法会六十項目を選んで解説した。

 

祭祀の全体像を理解すると、そこから天皇祭祀である新嘗祭、
そして天皇祭祀の最高峰に位置づけられてきた大嘗祭が浮かび上がってくる。

この代替わりに行われる大嘗祭を取り上げたのが『大嘗祭と古代の祭祀』である。
七世紀後半からはじまる天皇一代一度の大嘗祭は、
中世の戦乱によって中断したこともあったが、近世に再興され、現在にいたっている。

本書に記した大嘗祭の論議では、
昭和の時代は祭祀の中心となる神殿内の神座の用途をめぐって秘儀説があった。

三十年前の平成の大嘗祭をへて、拙論である中央の神座は
神迎えの「見立て」の座であるとする見解が一応の了解をえることができた。

著書では、「平成大嘗祭論争」の核心論考を再録するとともに、
ことし十一月に予定されている令和の大嘗祭に向けて、古代の祭祀・祭式をたどることで、
新たな見解を読み込んでいる。そ

れは、新嘗祭と同じく、秋の収穫を感謝するとともに、
山や川の自然が鎮まるようにと祈念するもので、
日本列島に生きる人々の願いが込められている。

稲の祭りであることは当然であるが、
災害・飢饉対応の粟の祭りが「秘事」として付随してきたことは注目される。

神祭りは全国各地でも盛んに行われ、
無形文化遺産に指定されている屋台・山車は大嘗祭に曳き回される
「標の山」と呼ぶ山車に源流が求められる。

天皇祭祀は人々の地域の祭りと連携して現代に受け継がれている。

      (https://dokushojin.com/article.html?i=5276 )

         <感謝合掌 令和元年7月29日 頓首再拝>
4:伝統 :

2019/07/30 (Tue) 19:15:53


             *日本経済新聞(2019/1/16 )より

大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん
(語る ひと・まち・産業)阿波忌部直系 徳島の麻文化再興訴え

「新天皇の即位関連儀式である『大嘗祭』において
麻の織物『麁服』は欠かすことができない重要な品。

調進とは天皇家から依頼を受けて納めることで、
古代からこれができるのは阿波忌部である三木家だけだった。

室町時代前半の南北朝の動乱でいったんは途絶えてしまうが、
大正天皇の儀式で約580年ぶりに復活した。

『大嘗祭』は日本の歴史そのものである。
古代からの伝統様式をそのまま次の世代につないでいく努力が求められている」

「残念ながら『麁服』調進への関心は
地元徳島よりも東京など首都圏の人の方が高い。
徳島の人は天皇家の祭祀(さいし)において、
この地が重要な役割を担ってきたという歴史文化を自慢してほしい。
観光資源として活用するアイデアを地域で出し合うことも大切だと考える」


三木家には1260年の亀山天皇の「大嘗祭」で「麁服」の調進をするように記された古文書が残る。
三木家直系は「麁服」を作製し宮中に直接届けられる唯一の「御殿人(みあらかんど)」だ。

三木さんは徳島に根付いてきた麻の文化や織物の技術を伝承し、
再興することが地域活性化につながると訴える。

「麻を栽培する畑を整地し、春に種をまく。
何度も間引きをしながら約100日で成長した麻を収穫し、茎の天日干しから煮沸、
皮を剥ぐなどの工程を経て麻の繊維を紡いでいき、『麁服』が完成する。

『麁服』にできる麻は気温が平地よりも3~5度低い高地といった限られた場所でしか栽培できない。
こうした繊細な技術を確実に継承していくことは今後の課題だ」

「全国でも麻を織る職人は高齢になり数が少なくなっている。
徳島の工業系の高校などでこの技術を教える課程を作ってもらえれば
若い人に着実に受け継いでもらえると思っている」

「麻は法律で栽培が制限されていることもあり、管理も大変だ。
私が担当した前回(の『大嘗祭』)は麻を育てる畑を24時間警備しなければならなかった。
こうした人件費を含めて『麁服』調進にかかる費用は数千万円になる。
徳島の企業や人に広く寄付を募っており、これが地元の関心が高まるきっかけになればと期待している」


■現在の吉野川市は麻を植える地域に由来する「麻植(おえ)郡」という名称だった。
徳島の麻文化再興に向けて「麻植」の地名復活を提唱する。

「2004年に4町村合併で『麻植郡』が消滅した。これを後悔する人たちも増えている。
兵庫県の篠山市が丹波篠山市への変更を問う住民投票が賛成多数で成立した例もある。
麻農業が誇れる文化だと地域住民に浸透していけば、自然と地名を変えようという動き
につながってくるのではないかと期待している」


《一言メモ》築400年の古民家守る

築400年以上の徳島県最古の民家である三木家は剣山のふもと、木屋平にある。
美馬市中心部から細い山道を車で約40分かかってたどり着く。
かやぶき屋根の国指定重要文化財の古民家に三木信夫さんは実際に住み維持管理をしている。

近くかやぶき屋根の葺(ふ)き替えを予定しているが、費用は数千万円にもおよぶ。
その費用の一部には国や県から補助金が出るものの、三木さんの個人負担も大きいという。

「この地域の歴史と伝統文化を1人でも多くの人に知ってほしい」と
麻文化の発信に奔走する三木さんの思いは「麁服」を後世につなぐこと。

現在大学生の孫が後継者となる予定だが、
併設する資料館への来館者を増やす取り組みなどと合わせ、
継続して地域全体で支える仕組みを作る必要性が今後高まりそうだ。

   ( https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40029440V10C19A1962M00/ )

         <感謝合掌 令和元年7月30日 頓首再拝>
5:伝統 :

2019/07/31 (Wed) 18:42:57

          *Web:神社本庁 より

大嘗祭

●斎田点定の儀       https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44705690T10C19A5CR0000/
              https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_koushitsu20190513j-01-w350

●斎田抜穂の儀

 神宮に勅使発遣の儀    https://www.youtube.com/watch?v=Yc5cmswfQbw

 大嘗祭前一日鎮魂の儀

 大嘗祭当日神宮に奉幣の儀

 大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀

 大嘗祭当日皇霊殿神殿に奉告の儀

●大嘗宮の儀(悠紀殿供饌の儀・主基殿供饌の儀)

●大饗の儀

●即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後賢所に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後皇霊殿神殿に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後賢所御神楽の儀

 <参考Web:平成の御代替わりに伴い行われた式典一覧
  https://www.kantei.go.jp/jp/singi/taii_junbi/dai1/siryou2.pdf#search=



御一代一度の重儀。

毎年秋、天皇陛下は、その年の新穀を、御祖先である天照大御神をはじめ、
神々にお供えし感謝を捧げる「新嘗祭(にいなめさい)」を宮中で御斎行になります。

なかでも、陛下が御即位後初めて行われる新嘗祭が「大嘗祭」です。

大嘗祭は、天皇御一代に一度行われる祭祀で、
御位につかれるうえで不可欠なものであり、
数ある祭祀の中で最高の重儀とされています。


大嘗祭は、特別に造営された
「悠紀殿(ゆきでん)」、「主基殿(すきでん)」を中心とした
「大嘗宮(だいじょうきゅう)」において斎行されます。

大嘗宮は古代の工法そのままの簡素な建物で、
陛下はそこで古式に則った祭祀を親ら執り行われます。

また、大嘗祭は、全国を代表した斎田さいでんから採れた米が
神饌(しんせん)として供されるように、まさに国を挙げた祭祀でもあります。

新穀を神々に奉る祭祀は、古くは天照大御神がなさっていたことが
『古事記』『日本書紀』に記されています。

つまり、これは長い歴史を通じて変わることのない天皇陛下の御務めであり、
陛下は、大嘗祭を通じて天照大御神の御手振りを今の世に再現されているともいえるでしょう。

そして、国家・国民の安寧や五穀豊穣を、
天照大御神をはじめとする神々に感謝、また祈念されているのです。

大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀(ぎ)
(悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀(ぎ)・主基殿供饌(すきでんきょうせん)の儀(ぎ))

大嘗宮の悠紀殿と主基殿において、夕方から深夜にかけて引き続き祭祀が執り行われます。

天皇陛下はまず御身を清められると、純白の御祭服をお召しになり祭祀に臨まれます。

そして、悠紀・主基両殿にお入りになられると、米をはじめ様々な神饌をお供えになり、
御告文(おつげぶみ)を奏された後、その神饌を陛下御自身もお召し上がりになります。

    ( https://www.jinjahoncho.or.jp/miyogawari )

         <感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>
6:伝統 :

2019/08/01 (Thu) 19:12:41


       *Web:NHKニュース(2019年7月16日)より

ことし11月に行われる皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭」でまつられる特別な織物、
「麁服(あらたえ)」の原料となる麻の収穫式が徳島県で行われました。

麁服は、大嘗祭で「神の衣」としてまつられる特別な麻の織物で、
徳島県の「阿波忌部氏」と呼ばれる一族が代々皇室に納めてきました。

原料となる麻は美馬市木屋平地区にある阿波忌部氏の子孫の畑で育てられ、
高さが3mほどとなったことから、15日、収穫式が行われ、
阿波忌部氏の子孫などが参加しました。

白い装束に身を包んだ地元の人は、
鳥居と柵で囲われた畑の中に入ると麻を根元から引き抜いて
葉と根を切り落とし、長さを整えて束にしていきました。

このあと収穫した麻を専用の木おけに入った熱湯につけて殺菌し、
畑の前に立てていました。

阿波忌部氏の子孫の三木信夫さんは

「無事に収穫を迎えてほっとしています。
申し分のない麻ができたので立派な麁服を大嘗祭に届けたいです」

と話していました。

収穫された麻は乾燥させたあと繊維を取り出し、来月糸に紡がれるということです。

  (https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190716/k10011994021000.html )

         <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝>
7:伝統 :

2019/08/02 (Fri) 19:29:55


        *Web:中公新書(2017.12.07)より抜粋

(1)大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う
   大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。

   新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、
   少しあいだを置いて即位の礼を行い、
   践祚の半年~1年半後くらいに大嘗祭を行います。

   新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに
   天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。


(2)大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、
   伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、
   天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。

   このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
   ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りである
   ニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、
   稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

   600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめた
   と思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、
   それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼である
   ニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。

   その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。


(3)大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。
   この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、
   春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。

   この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの
   翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、
   そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。


   (http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html )

         <感謝合掌 令和元年8月2日 頓首再拝>
8:伝統 :

2019/08/04 (Sun) 19:52:42

やっと巡り会えた粟の神事~滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」

      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年6月20日)より

粟の神事にやっと巡り会えました。
探しに探し続けて、もう何年になるでしょうか。

宮中新嘗祭、大嘗祭では古来、神饌に粟が登場します。
祭りが天孫降臨神話に由来するのなら、皇祖神に米の新穀を捧げれば足りるはずなのに、
米だけではなく、粟が捧げられるのはなぜでしょう。粟とは何でしょうか。

古代において、民間に粟の新嘗があったことが知られています。
民俗学者によると、大正時代の人たちは粟や稗の酒を自家醸造し、
ごくふつうに飲んでいたそうです。
飲み過ぎるとたちまち悪酔いしたとも聞きます。

 
であるなら、各地の神社に粟を用いた祭礼が伝わっていていいはずなのに、
意外にも聞きません。

いつの間にか消えたのでしょうか。
いや、きっとどこかに歴史の断片が残っているはずだと思い、
資料を探し続けましたが、残念ながら見つかりません。

それが昨年の新嘗祭に、都内での集まりでその話をしたところ、
「滋賀県大津市の日吉大社にある」と聞き、
勇んで文献を探しまくりましたが、やはり見つかりませんでした。

すっかり落胆し、あきらめかけていたところ、先日、ほかならぬ
滋賀県の神社関係者から「粟津の御供」があるということを直接、教えられました。

日吉大社御遷座の歴史物語を再現する山王祭に、
まさに御鎮座の故事に深く関わる粟飯が登場するというのです。

私は心の中で快哉を叫びました。


▽1 膳所五社が毎年交代で

比叡山の麓、大津市坂本には、全国3800社あまりともいわれる日吉神社、
日枝神社の総本宮・日吉大社が鎮座しています。

約13万坪の広大な境内には、多くの社殿が建ち並び、
凜とした空気が張り詰め、大木が林立するなかを巡拝すると、
玉砂利を踏む音に境内を流れる谷川や社殿をめぐる水路の水音が共鳴します。

中世には「社内百八社」の社殿がひしめいていたようですが、
もっとも中心的なお宮は西本宮(大宮)と東本宮(二宮)です。

歴史的により古いのは、
地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)をまつる東本宮です。

西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、
大和国の三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請されたと伝えられています。

1か月半にも及ぶ、勇壮豪快な山王祭のなかで、
粟の神饌が登場するのは「粟津の御供献納祭」です。
4月中旬の申の日、夕刻に行われます。

 
その昔、大己貴神は琵琶湖の八柳の浜に現れました。
そのとき沖合を通りかかったのが、膳所(ぜぜ)の漁師・田中恒世の舟で、
恒世が大神に、粟を混ぜて炊いた粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれました。

唐崎の地に着いた大神は琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)に、
「年に一度、あの粟飯が食べたい」とおっしゃいました。

宇志丸は日吉社社家の始祖とされ、この故事が粟津御供の始まりといわれます。

 
祭りでは、七社の御輿を乗せた御座船による、
七本柳から唐崎への船渡御が行われます。

琵琶湖の唐崎沖で、膳所五社の当番神社や日吉大社の宮司らを乗せた
一艘の小舟が近づき、接舷すると、湖上で献納祭が始まります。

小舟には膳所五社が毎年交代で用意した七社分の神饌が整然と並んでいます。
献饌の中心となるのが、正方形に成形された、粟飯なのです。

祝詞の奏上、大御幣の奉幣のあと、日吉神社の宮司が御座船に乗り移ると、
御供舟は御座船から離れていきます。
その後、粟津の御供は次々と湖上に投げ入れられます。

他方、御座船は比叡辻の若宮港に向かい、
七基の御輿は大御幣とともに、西本宮へと帰還されるのです。

こうして献納祭は終わります。

 
以上は、地元にお住まいのフリーカメラマン・山口幸次さんがまとめた
『日吉山王祭』(サンライズ出版、2010年)のつまみ食いです。

さすが山王祭の御輿をかつぐ駕輿丁を長年務められてこられただけに、
写真の素晴らしさもさることながら、詳細な祭りの紹介には頭が下がります。


▽2 かつては粟だけだった?

蛇足ながら、神饌の粟飯について、私の想像を、以下、何点か書き連ねてみます。

1点は、粟飯の調理法です。
山口さんの説明では「雑穀の粟を混ぜて炊いた御飯」とされていますが、
山口さんの写真では、白い米の御飯のうえに、黄色い粟の御飯が乗る、
二層構造をしているように見えます。

とすると、「混ぜて炊いた」のではなく、
別々に炊いたのち、整形するのではないでしょうか。

 
2点目は、「炊く」という調理法ですが、現在、私たちが知る炊飯法の意味だとすると、
いまはともかく、古代は別の方法、つまり「蒸す」方法だったのではないかと想像されます。

というのも、現代の炊飯法は、平安期に始まったとされる、
大量のお湯でボイルする煮飯の調理法から進化したものだからです。
炊き干し法と呼ばれます。

繊細な調理法で、電気炊飯器が発明される前は、主婦にとっては煩いの種でした。

 
西本宮が遷座した7世紀の当初から献納祭が始まっていたとすれば、
粟飯は「炊く」のではなく、蒸して作られたのではないでしょうか。

 
3点目は、「粟飯」は本来、
米と「混ぜて」ではなく、粟だけだったのではないでしょうか。

 
宮中神嘉殿の新嘗祭や大嘗祭の大嘗宮の儀では、
米の御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)、粟の御飯と御粥が、
天皇みずからの手で、ともに捧げられます。

御飯は蒸して作られ、御粥は煮て作られます。
より古い形は、むろん御飯の方です。

 
とするなら、山王祭の「粟飯」は、もともとは粟と米の混ぜ御飯ではなくて、
粟の御飯、つまり粟の蒸し飯だけではなかったでしょうか。

 
4点目は、山口さんが粟を「雑穀」、
粟飯を「粗末なもの」と説明されていることへの疑問です。

 
粟津御供の始まりを説明する社伝は、
恒世が粟飯を大己貴神に捧げた物語と
宇志丸が粟津御供を始めるにいたる物語の二部構成になっています。

神饌のルーツを考えるなら、より重要なのは前者です。

 
日本最古の神社といわれ、大和国の三輪山を神体山とする
大神神社(奈良県桜井市大三輪朝)に祭られているのが大己貴神です。

山の神にふさわしいのは焼畑農耕の作物であり、
米よりも粟であり、粟は神聖な命の糧だったはずです。

だからこそ、大神は粟飯を心から喜ばれたのでしょう。
祭神と神饌にはきわめて密接な関係があります。

 
大己貴神を祭るのが西本宮なら、
より古い地主神の大山咋神を祀るのが東本宮で、これまた山の神です。

古書には「日枝の山」に祀られると記されているようです。

とすれば、焼畑農耕の粟こそ、日吉大社の山王祭にはふさわしいということになります。

 
最後に、貴重な資料を提供していただいた日吉大社の馬渕宮司さま、
ご多忙のなか境内を親切に案内してくださった菱川権禰宜さまに、
心からお礼を申し上げます。

  ( http://melma.com/backnumber_170937_6831384/#calendar )

         <感謝合掌 令和元年8月4日 頓首再拝>
9:伝統 :

2019/08/05 (Mon) 20:24:14


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年7月14日)より


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3
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歴代天皇は日々の祈りを欠かせられなかった。
清涼殿での石灰壇御拝がそれだが、
皇室第一の重儀とされてきたのは新嘗祭である。

新穀を捧げて祈るとされているが、新穀とは稲ではない。稲だけではない。

昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、

「この祭りにもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、
「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、
米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥と、
新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒である」

と解説している(前掲「皇室祭祀百年史」)。

案外、知られていないが、宮中三殿での祭祀は米のみを神饌とする。
宮中三殿での新嘗祭は米が供され、他方、神嘉殿の新嘗祭のみ米と粟である。

神嘉殿での新嘗祭の特異性がうかがえる。
それなら粟とは何であろうか。なぜ粟なのか。

当然ながら、御代始に斎行される、
天皇一世一度の大がかりな新嘗祭である大嘗祭も、同様である。

ただ、祭式の詳細は公には伝わっていない。
「大嘗会者、第一之大事也、秘事也」
(卜部兼豊「宮主秘事口伝」、元治元年=1415年)だからだ。

 
秘儀とか秘事とされるのは、
密室の空間でオカルト的な宗教儀式を行うという意味ではない。

新帝が神前で人知れず、ひとり行うのが秘事なのであり、
もっとも中心的な儀礼は、

「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過ぎたることハなし」

(一条経嗣「応永大嘗会記」、応永22年=1415年)といわれるように、

大嘗宮での神人共食の儀礼、すなわち神饌御親供、御告文奏上、御直会にある。

 
神道学者たちの多くは「稲の祭り」といいたがる。
しかし神饌は稲だけではない。

 
もっとも詳しいとされる『貞観儀式』には
「亥の一刻(午後9時ごろ)、御膳(みけ)を供(たてまつ)り、
四刻(10時半ごろ)これを撤(さ)げよ」と記しているだけだ。

登極令附式は大嘗宮の儀の詳細な祭式を省略している。

宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)には、
秒刻みで祭儀の進行が記録されているが、
「天皇陛下が神饌を御親供になった」などと記述するのみである。

昔も今も秘儀であることに変わりはない。

平成元年暮れ、政府は閣議で、概要、
「大嘗祭は稲作中心社会に伝わる収穫儀礼に根ざしたもの」という理解を
口頭了解したが、誤りであろう。

 
天皇の祭祀は一子相伝とされ、詳細を知るのはごく一部の人たちだけである。

一条兼良の「代始和抄」(室町後期)には、
「秘事口伝さまざまなれば、たやすくかきのする事あたはず。
主上のしろしめす外は、時の関白宮主などの外は、会てしる人なし」とある。

いまも祭儀に携わる関係者は、実際の祭式や作法について、
先輩から口伝えに教わり、備忘録を独自に作成し、「秘事」の継承に務めてきた。

むろんこれらは公開されない。

 
しかし実際には、研究者たちによって、秘儀の中身は存外、知られている。

「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」など、
多くの文献は漢字だらけで簡単には読めないが、
なかには仮名交じりで記録されたものもある。

それによると、秘儀中の秘儀である大嘗宮の儀において、
新帝が手ずから神前に供し、御告文奏上ののち、
みずから御直会なさるのは米と粟の新穀であることが一目瞭然である。

 
京都・鈴鹿家に伝わる「大嘗祭神饌供進仮名記」
(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」=『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』
昭和33年所収)には、

「次、陪膳、兩の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。
主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、
右の御手にて御はん(筆者注。御飯。読みは「おんいい」が正しいか)
のうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわ(ママ)を
三はしつゝ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ......」

などと、枚手と御箸を用いる米と粟の献饌の様子が、生々しく記述されている。

 
とすれば、神嘉殿の宮中新嘗祭、大嘗祭の大嘗宮の儀は間違いなく、
稲の祭りではなくて、米と粟の祭りである。
それなら、なぜ米だけではないのか。

 
天孫降臨神話および斎庭の稲穂の神勅に基づき、
稲の新穀を捧げて、皇祖神に祈るのなら、粟は不要である。

なぜ粟が必要なのか。

おそらく皇祖神のみならず、天神地祇を祀るからであろうが、
それなら、なぜ天神地祇なのか。

 
最古の地誌とされる「風土記」には粟の新嘗が記録されている(『常陸国風土記』)。
とすれば、粟を神聖視する民が古代の日本列島にいたことが分かる。

いや、話は逆であって、柳田国男が繰り返し書いているように、
日本列島はけっして米作適地ではないし、したがって日本人すべてが稲作民族ではない。

柳田は「稲作願望民族」と表現している。

むしろ粟こそ、古代日本人たちの命をつなぐ聖なる作物ではなかったか。

わが祖先ばかりではない。文化人類学の知見によれば、
畑作農耕民である台湾の先住民には粟はとくに重要な作物で、
粟の神霊を最重視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げたという
(松澤員子「台湾原住民の酒」=『酒づくりの民族誌』所収、1995年)。

台湾では粟の酒はいまもふつうに売られている。
民俗学者に聞いたところでは、日本でも大正のころまで
、粟や稗の酒がごくふつうに自家醸造されていたという。

各地の神社では粟の神事が行われていたに違いない。
だが、いずれもいまは聞かない。
いつの間にか消えたのである。

そして大嘗祭が米と粟の儀礼であることも忘れられている。(つづく)


補注 この記事を書いたあと、日吉大社(滋賀県)の「粟津の御供」のことを知りました。
詳細は先般、当メルマガに書いたとおりです。

( http://melma.com/backnumber_170937_6840063/  )

         <感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝>
10:伝統 :

2019/08/06 (Tue) 18:59:11


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年7月21日)より


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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか?
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4
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日本の稲は栽培種であり、帰化植物である。
日本列島に自生する稲はない。
粟がエノコログサを原種とする穀物であるのとは異なる。

植物遺伝学者・佐藤洋一郎氏の「日本稲の南北2元説」によれば、
日本の稲には遺伝学的に2つの源流があるという。

ひとつは東南アジアの島々から伝わってきた陸稲的な熱帯ジャポニカで、
そのあと、もう一つの中国・揚子江流域を起源とする水稲的な温帯ジャポニカが伝来した、
と説明されている。

面白いことに、両系統の稲は本来は晩生で、秋冷の早い東北地方などでは稔らない。
ところが、両者が交雑すると不思議にも早生が発生する。

佐藤氏は、両系統の稲が日本列島で自然交雑して早生が発生し、
稲作は北部日本にまで瞬く間に北上することができた、
と推理している(『稲のきた道』、1992年など)。

2000年前には寒冷な青森にまで稲作は北進した。
日本の早生稲が誕生したからだ。

 
鶺鴒に学んで諾冉二神が婚姻し、国が生まれたとする国生み神話のように、
自然の法則に従って、異なるものがひとつになり、
新しい価値が生まれるという歴史は、稲だけにとどまらない。

稲作起源神話も同様である。

記紀には2つの稲作起源神話が描かれている。
1つは女神の遺体から五穀の種が得られたという類型であり、
もうひとつは天孫降臨に際して天照大神が稲穂を授けられたとする
斎庭の稲穂の神勅である。

 
神話学者の大林太良氏によれば、2つの神話は系譜が異なるという。

女神の死体から作物が出現するという死体化生型神話は、
きわめて広い地域に分布するらしい。

そのなかで日本の神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、
その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、
縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されている
(『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

実際、この神話に登場するのはすべて焼畑の作物である。
稲は例外にも見えるが、焼畑で栽培される畑稲もある。
熱帯ジャポニカこそこれであった。

死体化生型神話の主役である大気津比売は粟の女神だったともいう。

 
もうひとつの稲作起源神話で興味深いのは、
皇室発祥の物語である天孫降臨とともに語られていることである。

前述の神話では五穀が葦原中国に起源するのに対して、
この物語では高天原から稲がもたらされる。

天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという天降り神話は、
朝鮮の檀君神話が有名だが、朝鮮にとどまらない。
モンゴルの伝承やギリシャ神話とも類似する。

インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、
朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林氏は述べている。

 
ただ、母神が授けるのは、朝鮮やギリシャの神話では麦であって、稲ではない。
ならば稲の要素はどこから来たのか。

天照大神から稲穂が授けられるとするモチーフは、
天降り神話と元来は無関係であり、東南アジアの稲作文化に連なる、
と大林氏は説明する。

朝鮮から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する天降り神話と
東南アジアに連なる稲作神話が接触融合し、天孫降臨神話ができあがった、
と大林氏は推理している。

日本の早生稲の成立と同様に、日本の稲作起源神話は
大陸系と南方系の融合だと説明されているのである。

 
日本民族の成り立ちもまた同様である。
人類学者の埴原和郎氏は、先住の縄文人と渡来系弥生人が混血同化し、
「本土日本人」が成立したと説明している。
埴原氏は混血同化は現在も進行中だと指摘する(『日本人と日本文化の形成』、1993年)。

 
とすれば、天皇による米と粟の神事はどのように考えるべきなのか。

古代の日本にはさまざまな氏族がいて、それぞれの暮らしがあった。
それぞれの神があり、信仰があった。
先住の焼畑農耕民もいれば、新参の水田稲作民もいた。

国と民をひとつに統合する統治者たる天皇は、皇祖神のみを拝するのではなくて、
それぞれの民が信仰するさまざまな神々に祈ることを選択したのではないか。
そのような祭り主を統治者とすることをわが祖先たちは選んだのではなかろうか。

その結果、歴代天皇は毎年、実りの秋に、そして御代替わりには大がかりに、
価値多元的な複合儀礼を行い、国民統合の平和的意義を確認し合うことになった
のではなかろうか。

それは平和的共存のための知恵といえるだろう。
今日、世界各地で頻発する、宗教の違いに由来する衝突の悲劇を見れば、
容易にその意味が理解される。(つづく)

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         <感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝>
11:伝統 :

2019/08/07 (Wed) 18:00:56


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年7月28日)より

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近代化で変質した宮中祭祀
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」5
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幕末・明治維新期は日本の宗教および宮中祭祀の一大転換点だった。

「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と謳う、
慶応3年の王政復古の大号令の翌年には、祭政一致、神祇官再興が表明され、
諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。

明治天皇は紫宸殿に神座を設え、天神地祇を祀り、
五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。

僧形の別当・社僧の復飾が通達され、
さらに「権現」「牛頭天王」など仏語を神号とする神社の改称、
仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。


神仏分離令による年来の神仏習合の清算は、激しい廃仏毀釈へと転化した。
いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。

過激な廃仏毀釈の原因は何だったのか、
辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、
復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、
国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。

 
本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。
明治元年の本願寺、興正寺などへの達には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、
行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、
みだりに復飾を願い出ることが牽制された。

他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという
(『明治維新神仏分離史料』など)。

 
だが改革はさらに続き、社寺領の上知が布告された。
神社は「国家の宗旨」とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。
宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。

新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。

天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。
托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった
(『明治維新神道百年史』など)。


宮中の年中行事も激変した。

年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、
2月と8月の季御読経、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、
5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、
皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。

幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。

 
一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか
四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、
新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。

端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、
皇室祭祀が整備、確立されていった(前掲八束「皇室祭祀百年史」)。


宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、
信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。
アジアで最初の近代憲法だった。

キリシタン禁制の高札撤去から16年、とりわけキリスト者の喜びはひとしおで、
当時の新聞報道によると、記念の讃美歌を作る動きもあった。

翌年には長崎で、日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、
聖体行列が整然と行われたという。


それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして
機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、
キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。

古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においては赤十字運動など
キリスト教の社会事業を物心両面から支援された。
信徒の側近も増えていった。

 
22年には明治憲法制定と同時に、皇室典範が勅定された。
皇位継承の基本が近代法として明文化された。
41年には皇室祭祀令が、42年には登極令が制定された。

皇室典範は「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」
(第11条)と定めていた。明治天皇の思召しとされている
(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』、大正4年)。

東京遷都以後、京都の町が寂れていくのを天皇は嘆かれた。
その後、ロシア皇帝の戴冠式が旧都モスクワの宮殿で行われることを知り、
「大礼は古風を存し、旧儀のままに」と思われたことがきっかけになったという。

しかし叡慮は裏切られ、国家主義的な昂揚を内外に誇示するものに変質していった。

 
大嘗祭はかつて大極殿または紫宸殿の前庭に、
悠紀国・主基国の国人が大嘗宮の儀の七日前に舗設し、
数日間で仕上げられ、祭儀のあと焼却された。

だが登極令以後、大嘗宮の規模はかつてないほど壮大になった。
このため紫宸殿前庭では収まらず、仙洞御所の北側を拓き、
設営されることになった。

もはや古風、旧儀とはいえない。

 
江戸後期の桜町天皇の大嘗宮は東西16間、南北10間の柴垣をめぐらして
設けられたが、大正の大嘗宮は東西60間、南北60間を板垣で囲い、建てられた。

むろん数日で設営できるようなものではなくなった
(岩井利夫『大嘗祭の今日的意義』、昭和63年など)。

また、近世の民衆にとって皇位継承の儀礼は、近代以後とは違い、身近なものだった。

現代人には想像しがたいことだが、近世の人々は即位式を間近で、
自然体で拝観していた。

明正天皇の「御即位行幸図屏風」(宮内庁所蔵)には、
即位式の最中に、胸をはだけて授乳する2人の女性が描き込まれている。
拝観者にはチケット(切手札)が配られたらしい
(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』、2015年)。

 
さらに哲学者の上山春平氏が指摘したように、
悠紀国・主基国から都に運ばれた御料を大嘗宮に運び入れる
標山や加茂川で新帝が行う御禊には見物人が殺到したといわれる
(「大嘗祭について」=「神道宗教」神道宗教学会、平成3年3月など)。

つまり、近代化によって、御代替わりの儀礼は素朴な古風を失い、
同時に民衆から縁遠い存在になっていったのである。

なぜそうなったのだろうか。

   ( http://melma.com/backnumber_170937_6844929/#calendar )

         <感謝合掌 令和元年8月7日 頓首再拝>
12:伝統 :

2019/08/08 (Thu) 20:11:54


        *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(Pⅰ~はじめに) より


「大嘗祭は、あたかも地下を流れる伏流水のような、不思議な祭式である。
新天皇が誕生するときには一気に注目を浴びて大々的に報道されるが、
普段はよほど特別な専門家以外にその存在を意識する人はいない。

大嘗祭が終了するとたちまちに報道はなくなってしまい、
やがてほとんどの人々の記憶から消えていってしまう。

しかし実は、大嘗祭は、次の新天皇の大嘗祭に向けて、
地下を静かに流れ続けているのである」

         <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>
13:伝統 :

2019/08/09 (Fri) 19:57:26


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(Pⅱ~はじめに) より

「専門研究家がその解説に乗り出すのだが、そのときの立場は、
宮中諸儀礼にかかわる宮内庁の人が、守秘義務に反しない範囲で
内情を教えてくれるものと、
学者が平安時代の儀式書などの知識を整理して解説するものがほとんどであった。

しかし、宮中儀礼といっても、基本的には奈良・平安時代に形の定まったものが多い。
したがって、それらより先に遡ってさらに本質・原型・源を追究したい
と考えるときには、宮中儀礼の多くはかなりの変質を経たあとのものだから
モデルとしては不充分であると考えるほうがよい。

そのうえ、大嘗宮の最奥部で行なわれることについては、
たとえば後伏見天皇(1298年に大嘗祭)が
「詳細については口伝であり諸説があって、最も秘すべきことがはなはだ多い」
(『後伏見天皇御記』)と書き記しているように、

「詳細」は「口伝」であり「秘すべきこと」なので、
宮内庁の関係者といえども肝心な部分については口外できないのである」

         <感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>
14:伝統 :

2019/08/10 (Sat) 19:30:37


       *日本経済新聞(2019/8/7)より

徳島県美馬市木屋平の三ツ木八幡神社で7日、
11月にある皇位継承の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」で
献上される麻織物「麁服(あらたえ)」の布を織るための糸を紡ぐ
「初紡式(はつつむぎしき)」が行われた。


式では木屋平にゆかりのある女性5人がみこ姿で、
麻の繊維を細かく裂いては丁寧によってつなぎ、
糸車にかけて光沢のある強い糸に仕上げた。

みことして参加した岡山市の大学4年、東本舞さん(22)は
「貴重な体験で緊張した。この伝統を糸のように後世に紡いでいきたい」と話した。


原料の大麻はNPO法人「あらたえ」のメンバーらが4月に種をまき、7月に収穫。
繊維を取るため、湯に通し発酵させるなどの作業を進めてきた。

糸は9月上旬に、古代から麁服を調達してきた阿波忌部氏が拠点を置いたとされる
徳島県吉野川市の山崎忌部神社に運ばれ、麻布に織り上げられる。

   ( https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48322600X00C19A8CR8000/  )

             ・・・

大嘗祭調度品の糸初紡ぎ=4反分の麻織物に-徳島

          *Web:時事ドットコムニュース(2019年08月07日)より

11月に行われる皇室の重要儀式「大嘗祭」に供えられる麻織物
「麁服(あらたえ)」の糸を紡ぐ「初紡式」が7日、
徳島県美馬市の「三ツ木八幡神社」で行われた。
 
式では、5人の巫女(みこ)が順番に、
竹串のような物で糸の繊維を整える「しごき」、
繊維を裂いて糸に紡いでいく「麻績(おうみ)」などの作業を披露した。

10月ごろ、全部で4反分の麁服を宮内庁に調進(依頼を受け納めること)するが、
そのためには5万2800メートル以上の麻糸が必要になるという。
 
NPO法人「あらたえ」によると、
原料となる大麻を刈り取る「抜麻式」を行った7月15日以降、
ほぼ毎日雨が降った。

乾燥させるのに苦労したといい、藤本高次副理事長は
「ここまでこられてほっとしている」と述べた。

巫女に選ばれた徳島市の中学3年立石麻子さん(15)は、父親が美馬市出身。
「作業を始めて役割の重大さを実感した。
大変だが、一本一本丁寧に紡いで伝統を引き継いでいきたい」と話した。

   ( https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080700884&g=soc )

         <感謝合掌 令和元年8月10日 頓首再拝>
15:伝統 :

2019/08/12 (Mon) 19:29:04


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(Pⅵ~はじめに) より

この大嘗祭というアニミズム系の呪術的儀礼を組み込んだ天皇位継承儀礼は、
673年の天武天皇即位のときにその祖型が始まり、
次の持統天皇の即位(690年)のときにほぼその主要な構成ができあがった
と推定される伝統である。


         <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>
16:伝統 :

2019/08/13 (Tue) 20:41:21


        *Web:國學院大學メディア(2018年11月14日)より抜粋

《米だけでなく粟も供え豊穣を祈る》

「大嘗祭の本質は何か」と問われたら、
「日本列島に暮らす者たちの生き方の現れ」と答えたい。

農耕国家であると同時に自然災害に見舞われることの多い列島で暮らす人々のため、
新天皇自らが祈りを捧げ、皇室の祭祀だけではなく「国民とともにある」ことを示す
のが大嘗祭の姿だ。

天皇が毎年お祀りする新嘗祭が基本で、
一代一度、皇祖・天照大神を初めてお祀りするときに規模を拡大し、
「御代替(おだいが)わり」の最初に行われる新嘗祭が大嘗祭となる。

現在では天照大神と全国の神々である天神地祇(てんしんちぎ)に報告する
という形を取っているが、本来は天照大神だけだったはず。

神饌供膳(しんせんきょうぜん)といってお食事を差し上げる作法が
2時間以上続き、日本の国土で穫れたものを神前に供えて天皇もともに頂く
ことに意味がある。

大嘗祭で供えられる神饌には、ウミガメの甲羅を焼いて占う
「亀卜(きぼく)」で選ばれる悠紀(ゆき)・主基(すき)2つの国(地域)で
収穫された米と、
その米から作られる「黒酒(くろき)」「白酒(しろき)」が知られる。

加えて、奈良や京都といった内陸の都では入手しづらかった海産物や、
阿波(徳島県)の麻織物「麁服(あらたえ)」と
三河(愛知県)の絹織物「繪服(にぎたえ)」などの地方産品もある。

これは、列島を挙げて一代一度の神祭りを協賛することを示すものだ。

 
さらに、庶民の食べ物である粟が含まれることに注目したい。
米は天照大神からの頂き物で大切なものとして供えられるが、
災害対応や国民の食料を守るため「粟も順調に育ててください」との祈りが
もう一つ入っていると思われる。

中世の祝詞に見られる禍を鎮めるための祈りも含め、
災害が多い列島で共同体を維持するための
「想い」が組み込まれているのではないか。


《皇室と国民が一つになって守り続け》

古代から近世まで国家行事の最高位に位置づけられた「即位礼」は
「礼服(らいふく)」などをまとった唐風(かんぷう)の儀式で、
中国からの先進情報を盛り込むことで統治者としての力を
「外向き」にアピールする狙いがあった。

これに対し、大嘗祭は日本古来の伝統を踏襲した形を維持し続けており、
内外のバランスを取ってきたと言える。

それが明治になって中国的な色合いが排除され、日本古来の姿に近づいてきた。

一方、「大嘗祭は御代替わりにおける最も重要な神祭り」とされ、
古来伝統的な形式を皇室と国民が一つになって守り続けてきた。

大嘗祭には悠紀・主基の国の人々が何千人も参加して、
祇園祭の山鉾(やまほこ)や各地の祭の山車(だし)の原形となった
「標山(ひょうのやま)」というものを引っ張る。

宮中祭祀は難しく捉えられがちだが、
国民も協賛して社会を維持することや人間が生きていくための
一番の本質を天皇の立場で伝えてきたと考えるとどうか。

30年前の御代替わりでは、昭和後期の超能力ブームなどと相まって
「秘事として見ることはできない部分で呪術的な行為が行われる」
との説も流布されたが、そのようなことはあり得るはずがないと分かってくる。


《相次ぐ災害、復興への「想い」》

日本は自然災害が多い。
特にこの7年を見るとその思いが強い。

古代でも災害や飢饉にどのように対応するかということが、
天皇をはじめとする人々の一番の「想い」だったのではないか。

伊勢神道では「元元本本(げんげんほんほん)」と言うが、
原点に返ることが神道の根本にある。

東日本大震災以降、各地で相次ぐ災害の被災者は
「平常に戻りたい」と皆が言い、復興の象徴として
「祭」を盛り上げるのに力を注ぐ。

日本は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」といって
豊かで瑞々しい稲穂が実る素晴らしい国との理解がある。
その姿に戻そうという「想い」を象徴的に表したものが大嘗祭であるのだ。



【大嘗祭当日の儀式】

悠紀殿供饌の儀(2019年11月14日)

  大嘗宮に設けられた悠紀殿で、天皇自らが神饌を供え、ともに頂く儀式。
  大嘗祭初日の夜に行われる。


主基殿供饌の儀(2019年11月15日)

  大嘗宮に設けられた主基殿で、天皇自らが神饌を供え、ともに頂く儀式。
  大嘗祭2日目の未明に行われる。



【後日に行われる儀式】

大饗(だいきょう)の儀

  大嘗祭参列者に神饌として供えられた悠紀・主基2国の新穀が
  振る舞われる直会(なおらい)で、大嘗祭の翌日から催される。

  (https://www.kokugakuin.ac.jp/article/90085 )

         <感謝合掌 令和元年8月13日 頓首再拝>
17:伝統 :

2019/08/14 (Wed) 18:56:07

 
       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(P12) より

大嘗祭の本質は、
単なる天皇位継承の政治的儀礼という範囲にとどまるものではなく、
縄文・弥生時代にまで根源を持つ、日本文化の最も深い部分に
発しているものであり、天皇の存在がいわばヤマト的なるものの
象徴的存在であることを示す儀礼なのである。

したがって、大嘗祭は、天皇位の文化的権威の源の表現なので、
法的正当性の表現としての即位の儀には別次元にあるのである。

すなわち、即位の儀による政治的・法的正当性と、
大嘗祭という神話・呪術的正統性とが揃うことによって、
天皇位継承は完結したことになる。

その結果、天武天皇から現代の平成期の天皇(125代、大嘗祭は1990年)まで、
大嘗祭は継続して実施されてきたのである

         <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>
18:伝統 :

2019/08/15 (Thu) 18:55:39


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(P17) より

そのうえで私の立場は、その政治的儀礼の部分は即位の儀のほうに集中させ、
その即位の儀のあとに挙行される大嘗祭では『新嘗の祭、つまり収穫祭』の要素を
含み込んで形成された点、

すなわち弥生時代以来のニイナメの呪術的儀礼の部分をいくぶんでも
継承しようとした点にこそ、現代社会にまで通用する価値があるとするものである。

この『新嘗の祭、つまり収穫祭』の要素こそが、縄文・弥生時代以来の、
アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった、
ヤマト的なるものの特性の結晶として、日本文化のアイデンティティーに
かかわる部分なのである

         <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>
19:伝統 :

2019/08/16 (Fri) 19:28:44


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(P1) より

大嘗祭は600年代末の天武天皇のころから現代まで、
南北朝時代(1336〜92)、応仁の乱(1467〜77)、
戦国~江戸前期を中心とする12代の天皇を除き、一貫して行なわれている。

これを終えて初めて天皇位継承が完結することになるきわめて重要な儀式だが、
600年代末の祖型成立当初の史料は少なく、
『儀式』『延喜式』等、平安時代の800年代後半以後の史料を中心に
研究が進められてきた

         <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>
20:伝統 :

2019/08/19 (Mon) 19:10:37



      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年8月18日)より

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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。

昭和20年12月に、
「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、
いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、
「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。

掌典職は内廷の機関となった。

 
神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。
政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、
当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、
いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。

異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。

さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。
皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、
新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。

宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。

ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。

同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、
「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、
従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、
宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。

 
けれどもその後、今日に至るまで、
皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。

宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。

 
それどころか、さらなる試練が生じた。
国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。

昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと
駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、
祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。

無法化の始まりである。

名目は昭和天皇の高齢化だった。


毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、
皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。
昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、
疑わしい。

それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。

 
そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。
冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、
毎朝御代拝の変更が決められた。

国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、
依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、
当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」
をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。

占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。

侍従は天皇の側近というより公務員であり、
したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。

天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。

 
改変の中心人物と目される富田は、
いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、
無神論者を自任していたといわれ、
側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。

富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。

 
御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。

昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、
真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、
憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。
それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。

戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、
取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、
34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は
「国の儀式」と政府決定された。

だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)

( http://melma.com/backnumber_170937_6851316/ )

         <感謝合掌 令和元年8月19日 頓首再拝>

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