伝統板・第二

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大嘗祭(だいじょうさい) - 夕刻版

2019/07/27 (Sat) 20:53:52

このスレッドでは、大嘗祭に関する情報を集めてまいります。


《大嘗祭へ「大嘗宮」の地鎮祭 皇居・東御苑》

       *Web:毎日新聞 (2019/07/26) より

皇位継承に伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」(11月14、15日)の
中心的な儀式の祭場となる「大嘗宮(だいじょうきゅう)」が建設される
皇居・東御苑で26日午前、地鎮祭が行われた。

宮内庁幹部や施工業者計9人が参列した。

10月末にほぼ完成する。

 
大嘗祭は、新天皇が皇室の祖とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)や神々に
新穀などを供えて五穀豊穣(ほうじょう)や国の安寧を祈る儀式。

   ( https://mainichi.jp/articles/20190726/k00/00m/040/092000c )





天皇即位に伴う大嘗祭に向け 大嘗宮の地鎮祭(19/07/26) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl6pz9ACZ2g

夏の日差しの中、悠紀殿、主基殿の建設予定地に設けられたテントで
掌典が祝詞を読み上げた後、両殿の建設予定地の中央など
計10カ所に絹の布を埋め、工事の無事終了を祈った。


悠紀殿と主基殿など30余りの建物で構成される大嘗宮は
東御苑の旧江戸城本丸跡に作られ、東西89.7メートル、南北88.15メートル。
敷地面積は6510平方メートルと、前回の8割弱に縮小される。

    ( https://www.jiji.com/jc/article?k=2019072600172&g=soc )


         <感謝合掌 令和元年7月27日 頓首再拝>

大嘗祭 - 伝統

2019/07/28 (Sun) 19:20:46


        *「大嘗祭の起こりと神社信仰 」森田勇造(著)前書き より

世界諸国のいかなる理屈や理論よりも、
日本で千三百年以上も継続されてきた大嘗祭は、
日本国としての民族統合の永遠の戦略でもある。

それが人類史的に正しいかどうかの問題ではなく、
これまで具体的に継続されてきたことであり、その結果が、
世界で最も安定した、平和で豊かな国であるとも言える、今日の日本のあり様である。

戦後の荒廃から立ち上がってきた民主主義国日本の、
アイデンティティーでもある天皇制を、維持、継続するに必要であった大嘗祭が、
平成天皇に続いて、新天皇によって、二〇一九年十一月十四、十五日に行なわれる。

その大嘗祭が、いつ、どのように起こったのか、
そして、何故今日まで継続してきたのか、
その儀式に欠かせない新米は何処で、
どのように作られていたのかなどを知ることは、

敗戦国となったが、アメリカの支配から文化的に立ち上がり、
独立した民主主義国である日本が、これからいかように国際化しても、
安定、継続する上にとっては、大変重要なことだと思われる。

世界的に大変珍しい稲作文化の一種である大嘗祭と、
天皇制をいただく日本の安定、継続との関わりにとって、
最も重要な役割を果たしてきた稲、新米が、東西二か所の斎田で栽培されてきた事実を、
明治、大正、昭和、平成における四代の斎田地を訪れて立証し、
その後のあり様を確認することは、日本の社会史上に必要なことだと思われる。

世界の中で最も歴史が長く、象徴天皇が在位する日本国が、
これからも安定、継続する上にとって、これまでの大嘗祭に新米を供納してきた日本人、
日本国民の在り方、心意気を少しでも感じでもらえれば、
なんらかの参考になるのではないだろうか。

     (https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784862513779 )

         <感謝合掌 令和元年7月28日 頓首再拝>

令和の大嘗祭に向けて 古代の祭りを読み解く - 伝統

2019/07/29 (Mon) 20:20:35


         *「事典 古代の祭祀と年中行事」 岡田 荘司・著 より
          「大嘗祭と古代の祭祀」 岡田 荘司・著 より

皇居の奥深くで、国民のために安寧を祈られる天皇陛下。
元旦の四方拝から大晦日の大祓・御贖まで、年間約二十の祭祀がつづけられている。

最近の、ある新聞の世論調査によると、新しい天皇に期待することは、
国際親善の外国訪問、災害地などの慰問につづいて、
国の安寧を祈る宮中祭祀が三十%にのぼった。

しかし、宮中祭祀の様子はあまり知られていない。
古代より天皇によって行われてきた神々への祭祀の実態とそのはじまりを、
わかりやすく論じたのが『事典 古代の祭祀と年中行事』である。

『事典 古代の祭祀と年中行事』では古代を中心に、天皇と国家の神祇祭祀の恒例・臨時と、
神仏共存時代における仏教法会六十項目を選んで解説した。

 

祭祀の全体像を理解すると、そこから天皇祭祀である新嘗祭、
そして天皇祭祀の最高峰に位置づけられてきた大嘗祭が浮かび上がってくる。

この代替わりに行われる大嘗祭を取り上げたのが『大嘗祭と古代の祭祀』である。
七世紀後半からはじまる天皇一代一度の大嘗祭は、
中世の戦乱によって中断したこともあったが、近世に再興され、現在にいたっている。

本書に記した大嘗祭の論議では、
昭和の時代は祭祀の中心となる神殿内の神座の用途をめぐって秘儀説があった。

三十年前の平成の大嘗祭をへて、拙論である中央の神座は
神迎えの「見立て」の座であるとする見解が一応の了解をえることができた。

著書では、「平成大嘗祭論争」の核心論考を再録するとともに、
ことし十一月に予定されている令和の大嘗祭に向けて、古代の祭祀・祭式をたどることで、
新たな見解を読み込んでいる。そ

れは、新嘗祭と同じく、秋の収穫を感謝するとともに、
山や川の自然が鎮まるようにと祈念するもので、
日本列島に生きる人々の願いが込められている。

稲の祭りであることは当然であるが、
災害・飢饉対応の粟の祭りが「秘事」として付随してきたことは注目される。

神祭りは全国各地でも盛んに行われ、
無形文化遺産に指定されている屋台・山車は大嘗祭に曳き回される
「標の山」と呼ぶ山車に源流が求められる。

天皇祭祀は人々の地域の祭りと連携して現代に受け継がれている。

      (https://dokushojin.com/article.html?i=5276 )

         <感謝合掌 令和元年7月29日 頓首再拝>

大嘗祭の麁服(あらたえ) - 伝統

2019/07/30 (Tue) 19:15:53


             *日本経済新聞(2019/1/16 )より

大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん
(語る ひと・まち・産業)阿波忌部直系 徳島の麻文化再興訴え

「新天皇の即位関連儀式である『大嘗祭』において
麻の織物『麁服』は欠かすことができない重要な品。

調進とは天皇家から依頼を受けて納めることで、
古代からこれができるのは阿波忌部である三木家だけだった。

室町時代前半の南北朝の動乱でいったんは途絶えてしまうが、
大正天皇の儀式で約580年ぶりに復活した。

『大嘗祭』は日本の歴史そのものである。
古代からの伝統様式をそのまま次の世代につないでいく努力が求められている」

「残念ながら『麁服』調進への関心は
地元徳島よりも東京など首都圏の人の方が高い。
徳島の人は天皇家の祭祀(さいし)において、
この地が重要な役割を担ってきたという歴史文化を自慢してほしい。
観光資源として活用するアイデアを地域で出し合うことも大切だと考える」


三木家には1260年の亀山天皇の「大嘗祭」で「麁服」の調進をするように記された古文書が残る。
三木家直系は「麁服」を作製し宮中に直接届けられる唯一の「御殿人(みあらかんど)」だ。

三木さんは徳島に根付いてきた麻の文化や織物の技術を伝承し、
再興することが地域活性化につながると訴える。

「麻を栽培する畑を整地し、春に種をまく。
何度も間引きをしながら約100日で成長した麻を収穫し、茎の天日干しから煮沸、
皮を剥ぐなどの工程を経て麻の繊維を紡いでいき、『麁服』が完成する。

『麁服』にできる麻は気温が平地よりも3~5度低い高地といった限られた場所でしか栽培できない。
こうした繊細な技術を確実に継承していくことは今後の課題だ」

「全国でも麻を織る職人は高齢になり数が少なくなっている。
徳島の工業系の高校などでこの技術を教える課程を作ってもらえれば
若い人に着実に受け継いでもらえると思っている」

「麻は法律で栽培が制限されていることもあり、管理も大変だ。
私が担当した前回(の『大嘗祭』)は麻を育てる畑を24時間警備しなければならなかった。
こうした人件費を含めて『麁服』調進にかかる費用は数千万円になる。
徳島の企業や人に広く寄付を募っており、これが地元の関心が高まるきっかけになればと期待している」


■現在の吉野川市は麻を植える地域に由来する「麻植(おえ)郡」という名称だった。
徳島の麻文化再興に向けて「麻植」の地名復活を提唱する。

「2004年に4町村合併で『麻植郡』が消滅した。これを後悔する人たちも増えている。
兵庫県の篠山市が丹波篠山市への変更を問う住民投票が賛成多数で成立した例もある。
麻農業が誇れる文化だと地域住民に浸透していけば、自然と地名を変えようという動き
につながってくるのではないかと期待している」


《一言メモ》築400年の古民家守る

築400年以上の徳島県最古の民家である三木家は剣山のふもと、木屋平にある。
美馬市中心部から細い山道を車で約40分かかってたどり着く。
かやぶき屋根の国指定重要文化財の古民家に三木信夫さんは実際に住み維持管理をしている。

近くかやぶき屋根の葺(ふ)き替えを予定しているが、費用は数千万円にもおよぶ。
その費用の一部には国や県から補助金が出るものの、三木さんの個人負担も大きいという。

「この地域の歴史と伝統文化を1人でも多くの人に知ってほしい」と
麻文化の発信に奔走する三木さんの思いは「麁服」を後世につなぐこと。

現在大学生の孫が後継者となる予定だが、
併設する資料館への来館者を増やす取り組みなどと合わせ、
継続して地域全体で支える仕組みを作る必要性が今後高まりそうだ。

   ( https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40029440V10C19A1962M00/ )

         <感謝合掌 令和元年7月30日 頓首再拝>

みよがわり ~ 平成から新しい御代へ ~ - 伝統

2019/07/31 (Wed) 18:42:57

          *Web:神社本庁 より

大嘗祭

●斎田点定の儀       https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44705690T10C19A5CR0000/
              https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_koushitsu20190513j-01-w350

●斎田抜穂の儀

 神宮に勅使発遣の儀    https://www.youtube.com/watch?v=Yc5cmswfQbw

 大嘗祭前一日鎮魂の儀

 大嘗祭当日神宮に奉幣の儀

 大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀

 大嘗祭当日皇霊殿神殿に奉告の儀

●大嘗宮の儀(悠紀殿供饌の儀・主基殿供饌の儀)

●大饗の儀

●即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後神武天皇山陵及び前四代の天皇山陵に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後賢所に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後皇霊殿神殿に親謁の儀

 即位礼及び大嘗祭後賢所御神楽の儀

 <参考Web:平成の御代替わりに伴い行われた式典一覧
  https://www.kantei.go.jp/jp/singi/taii_junbi/dai1/siryou2.pdf#search=



御一代一度の重儀。

毎年秋、天皇陛下は、その年の新穀を、御祖先である天照大御神をはじめ、
神々にお供えし感謝を捧げる「新嘗祭(にいなめさい)」を宮中で御斎行になります。

なかでも、陛下が御即位後初めて行われる新嘗祭が「大嘗祭」です。

大嘗祭は、天皇御一代に一度行われる祭祀で、
御位につかれるうえで不可欠なものであり、
数ある祭祀の中で最高の重儀とされています。


大嘗祭は、特別に造営された
「悠紀殿(ゆきでん)」、「主基殿(すきでん)」を中心とした
「大嘗宮(だいじょうきゅう)」において斎行されます。

大嘗宮は古代の工法そのままの簡素な建物で、
陛下はそこで古式に則った祭祀を親ら執り行われます。

また、大嘗祭は、全国を代表した斎田さいでんから採れた米が
神饌(しんせん)として供されるように、まさに国を挙げた祭祀でもあります。

新穀を神々に奉る祭祀は、古くは天照大御神がなさっていたことが
『古事記』『日本書紀』に記されています。

つまり、これは長い歴史を通じて変わることのない天皇陛下の御務めであり、
陛下は、大嘗祭を通じて天照大御神の御手振りを今の世に再現されているともいえるでしょう。

そして、国家・国民の安寧や五穀豊穣を、
天照大御神をはじめとする神々に感謝、また祈念されているのです。

大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀(ぎ)
(悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀(ぎ)・主基殿供饌(すきでんきょうせん)の儀(ぎ))

大嘗宮の悠紀殿と主基殿において、夕方から深夜にかけて引き続き祭祀が執り行われます。

天皇陛下はまず御身を清められると、純白の御祭服をお召しになり祭祀に臨まれます。

そして、悠紀・主基両殿にお入りになられると、米をはじめ様々な神饌をお供えになり、
御告文(おつげぶみ)を奏された後、その神饌を陛下御自身もお召し上がりになります。

    ( https://www.jinjahoncho.or.jp/miyogawari )

         <感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>

大嘗祭にまつる「麁服」 原料の麻 収穫式 徳島 - 伝統

2019/08/01 (Thu) 19:12:41


       *Web:NHKニュース(2019年7月16日)より

ことし11月に行われる皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭」でまつられる特別な織物、
「麁服(あらたえ)」の原料となる麻の収穫式が徳島県で行われました。

麁服は、大嘗祭で「神の衣」としてまつられる特別な麻の織物で、
徳島県の「阿波忌部氏」と呼ばれる一族が代々皇室に納めてきました。

原料となる麻は美馬市木屋平地区にある阿波忌部氏の子孫の畑で育てられ、
高さが3mほどとなったことから、15日、収穫式が行われ、
阿波忌部氏の子孫などが参加しました。

白い装束に身を包んだ地元の人は、
鳥居と柵で囲われた畑の中に入ると麻を根元から引き抜いて
葉と根を切り落とし、長さを整えて束にしていきました。

このあと収穫した麻を専用の木おけに入った熱湯につけて殺菌し、
畑の前に立てていました。

阿波忌部氏の子孫の三木信夫さんは

「無事に収穫を迎えてほっとしています。
申し分のない麻ができたので立派な麁服を大嘗祭に届けたいです」

と話していました。

収穫された麻は乾燥させたあと繊維を取り出し、来月糸に紡がれるということです。

  (https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190716/k10011994021000.html )

         <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝>

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー - 伝統

2019/08/02 (Fri) 19:29:55


        *Web:中公新書(2017.12.07)より抜粋

(1)大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う
   大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。

   新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、
   少しあいだを置いて即位の礼を行い、
   践祚の半年~1年半後くらいに大嘗祭を行います。

   新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに
   天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。


(2)大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、
   伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、
   天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。

   このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
   ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りである
   ニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、
   稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

   600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめた
   と思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、
   それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼である
   ニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。

   その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。


(3)大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。
   この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、
   春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。

   この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの
   翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、
   そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。


   (http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html )

         <感謝合掌 令和元年8月2日 頓首再拝>

滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」 - 伝統

2019/08/04 (Sun) 19:52:42

やっと巡り会えた粟の神事~滋賀・日吉大社「山王祭」の神饌「粟津御供」

      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年6月20日)より

粟の神事にやっと巡り会えました。
探しに探し続けて、もう何年になるでしょうか。

宮中新嘗祭、大嘗祭では古来、神饌に粟が登場します。
祭りが天孫降臨神話に由来するのなら、皇祖神に米の新穀を捧げれば足りるはずなのに、
米だけではなく、粟が捧げられるのはなぜでしょう。粟とは何でしょうか。

古代において、民間に粟の新嘗があったことが知られています。
民俗学者によると、大正時代の人たちは粟や稗の酒を自家醸造し、
ごくふつうに飲んでいたそうです。
飲み過ぎるとたちまち悪酔いしたとも聞きます。

 
であるなら、各地の神社に粟を用いた祭礼が伝わっていていいはずなのに、
意外にも聞きません。

いつの間にか消えたのでしょうか。
いや、きっとどこかに歴史の断片が残っているはずだと思い、
資料を探し続けましたが、残念ながら見つかりません。

それが昨年の新嘗祭に、都内での集まりでその話をしたところ、
「滋賀県大津市の日吉大社にある」と聞き、
勇んで文献を探しまくりましたが、やはり見つかりませんでした。

すっかり落胆し、あきらめかけていたところ、先日、ほかならぬ
滋賀県の神社関係者から「粟津の御供」があるということを直接、教えられました。

日吉大社御遷座の歴史物語を再現する山王祭に、
まさに御鎮座の故事に深く関わる粟飯が登場するというのです。

私は心の中で快哉を叫びました。


▽1 膳所五社が毎年交代で

比叡山の麓、大津市坂本には、全国3800社あまりともいわれる日吉神社、
日枝神社の総本宮・日吉大社が鎮座しています。

約13万坪の広大な境内には、多くの社殿が建ち並び、
凜とした空気が張り詰め、大木が林立するなかを巡拝すると、
玉砂利を踏む音に境内を流れる谷川や社殿をめぐる水路の水音が共鳴します。

中世には「社内百八社」の社殿がひしめいていたようですが、
もっとも中心的なお宮は西本宮(大宮)と東本宮(二宮)です。

歴史的により古いのは、
地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)をまつる東本宮です。

西本宮は、天智天皇が667年に都を近江大津京に遷されたおり、
大和国の三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請されたと伝えられています。

1か月半にも及ぶ、勇壮豪快な山王祭のなかで、
粟の神饌が登場するのは「粟津の御供献納祭」です。
4月中旬の申の日、夕刻に行われます。

 
その昔、大己貴神は琵琶湖の八柳の浜に現れました。
そのとき沖合を通りかかったのが、膳所(ぜぜ)の漁師・田中恒世の舟で、
恒世が大神に、粟を混ぜて炊いた粟飯を差し出すと、大神はことのほか喜ばれました。

唐崎の地に着いた大神は琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)に、
「年に一度、あの粟飯が食べたい」とおっしゃいました。

宇志丸は日吉社社家の始祖とされ、この故事が粟津御供の始まりといわれます。

 
祭りでは、七社の御輿を乗せた御座船による、
七本柳から唐崎への船渡御が行われます。

琵琶湖の唐崎沖で、膳所五社の当番神社や日吉大社の宮司らを乗せた
一艘の小舟が近づき、接舷すると、湖上で献納祭が始まります。

小舟には膳所五社が毎年交代で用意した七社分の神饌が整然と並んでいます。
献饌の中心となるのが、正方形に成形された、粟飯なのです。

祝詞の奏上、大御幣の奉幣のあと、日吉神社の宮司が御座船に乗り移ると、
御供舟は御座船から離れていきます。
その後、粟津の御供は次々と湖上に投げ入れられます。

他方、御座船は比叡辻の若宮港に向かい、
七基の御輿は大御幣とともに、西本宮へと帰還されるのです。

こうして献納祭は終わります。

 
以上は、地元にお住まいのフリーカメラマン・山口幸次さんがまとめた
『日吉山王祭』(サンライズ出版、2010年)のつまみ食いです。

さすが山王祭の御輿をかつぐ駕輿丁を長年務められてこられただけに、
写真の素晴らしさもさることながら、詳細な祭りの紹介には頭が下がります。


▽2 かつては粟だけだった?

蛇足ながら、神饌の粟飯について、私の想像を、以下、何点か書き連ねてみます。

1点は、粟飯の調理法です。
山口さんの説明では「雑穀の粟を混ぜて炊いた御飯」とされていますが、
山口さんの写真では、白い米の御飯のうえに、黄色い粟の御飯が乗る、
二層構造をしているように見えます。

とすると、「混ぜて炊いた」のではなく、
別々に炊いたのち、整形するのではないでしょうか。

 
2点目は、「炊く」という調理法ですが、現在、私たちが知る炊飯法の意味だとすると、
いまはともかく、古代は別の方法、つまり「蒸す」方法だったのではないかと想像されます。

というのも、現代の炊飯法は、平安期に始まったとされる、
大量のお湯でボイルする煮飯の調理法から進化したものだからです。
炊き干し法と呼ばれます。

繊細な調理法で、電気炊飯器が発明される前は、主婦にとっては煩いの種でした。

 
西本宮が遷座した7世紀の当初から献納祭が始まっていたとすれば、
粟飯は「炊く」のではなく、蒸して作られたのではないでしょうか。

 
3点目は、「粟飯」は本来、
米と「混ぜて」ではなく、粟だけだったのではないでしょうか。

 
宮中神嘉殿の新嘗祭や大嘗祭の大嘗宮の儀では、
米の御飯(おんいい)と御粥(おんかゆ)、粟の御飯と御粥が、
天皇みずからの手で、ともに捧げられます。

御飯は蒸して作られ、御粥は煮て作られます。
より古い形は、むろん御飯の方です。

 
とするなら、山王祭の「粟飯」は、もともとは粟と米の混ぜ御飯ではなくて、
粟の御飯、つまり粟の蒸し飯だけではなかったでしょうか。

 
4点目は、山口さんが粟を「雑穀」、
粟飯を「粗末なもの」と説明されていることへの疑問です。

 
粟津御供の始まりを説明する社伝は、
恒世が粟飯を大己貴神に捧げた物語と
宇志丸が粟津御供を始めるにいたる物語の二部構成になっています。

神饌のルーツを考えるなら、より重要なのは前者です。

 
日本最古の神社といわれ、大和国の三輪山を神体山とする
大神神社(奈良県桜井市大三輪朝)に祭られているのが大己貴神です。

山の神にふさわしいのは焼畑農耕の作物であり、
米よりも粟であり、粟は神聖な命の糧だったはずです。

だからこそ、大神は粟飯を心から喜ばれたのでしょう。
祭神と神饌にはきわめて密接な関係があります。

 
大己貴神を祭るのが西本宮なら、
より古い地主神の大山咋神を祀るのが東本宮で、これまた山の神です。

古書には「日枝の山」に祀られると記されているようです。

とすれば、焼畑農耕の粟こそ、日吉大社の山王祭にはふさわしいということになります。

 
最後に、貴重な資料を提供していただいた日吉大社の馬渕宮司さま、
ご多忙のなか境内を親切に案内してくださった菱川権禰宜さまに、
心からお礼を申し上げます。

  ( http://melma.com/backnumber_170937_6831384/#calendar )

         <感謝合掌 令和元年8月4日 頓首再拝>

神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」 - 伝統

2019/08/05 (Mon) 20:24:14


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年7月14日)より


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神嘉殿新嘗祭の神饌は「米と粟」
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」3
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歴代天皇は日々の祈りを欠かせられなかった。
清涼殿での石灰壇御拝がそれだが、
皇室第一の重儀とされてきたのは新嘗祭である。

新穀を捧げて祈るとされているが、新穀とは稲ではない。稲だけではない。

昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、

「この祭りにもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、
「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、
米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥と、
新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒である」

と解説している(前掲「皇室祭祀百年史」)。

案外、知られていないが、宮中三殿での祭祀は米のみを神饌とする。
宮中三殿での新嘗祭は米が供され、他方、神嘉殿の新嘗祭のみ米と粟である。

神嘉殿での新嘗祭の特異性がうかがえる。
それなら粟とは何であろうか。なぜ粟なのか。

当然ながら、御代始に斎行される、
天皇一世一度の大がかりな新嘗祭である大嘗祭も、同様である。

ただ、祭式の詳細は公には伝わっていない。
「大嘗会者、第一之大事也、秘事也」
(卜部兼豊「宮主秘事口伝」、元治元年=1415年)だからだ。

 
秘儀とか秘事とされるのは、
密室の空間でオカルト的な宗教儀式を行うという意味ではない。

新帝が神前で人知れず、ひとり行うのが秘事なのであり、
もっとも中心的な儀礼は、

「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過ぎたることハなし」

(一条経嗣「応永大嘗会記」、応永22年=1415年)といわれるように、

大嘗宮での神人共食の儀礼、すなわち神饌御親供、御告文奏上、御直会にある。

 
神道学者たちの多くは「稲の祭り」といいたがる。
しかし神饌は稲だけではない。

 
もっとも詳しいとされる『貞観儀式』には
「亥の一刻(午後9時ごろ)、御膳(みけ)を供(たてまつ)り、
四刻(10時半ごろ)これを撤(さ)げよ」と記しているだけだ。

登極令附式は大嘗宮の儀の詳細な祭式を省略している。

宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)には、
秒刻みで祭儀の進行が記録されているが、
「天皇陛下が神饌を御親供になった」などと記述するのみである。

昔も今も秘儀であることに変わりはない。

平成元年暮れ、政府は閣議で、概要、
「大嘗祭は稲作中心社会に伝わる収穫儀礼に根ざしたもの」という理解を
口頭了解したが、誤りであろう。

 
天皇の祭祀は一子相伝とされ、詳細を知るのはごく一部の人たちだけである。

一条兼良の「代始和抄」(室町後期)には、
「秘事口伝さまざまなれば、たやすくかきのする事あたはず。
主上のしろしめす外は、時の関白宮主などの外は、会てしる人なし」とある。

いまも祭儀に携わる関係者は、実際の祭式や作法について、
先輩から口伝えに教わり、備忘録を独自に作成し、「秘事」の継承に務めてきた。

むろんこれらは公開されない。

 
しかし実際には、研究者たちによって、秘儀の中身は存外、知られている。

「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」など、
多くの文献は漢字だらけで簡単には読めないが、
なかには仮名交じりで記録されたものもある。

それによると、秘儀中の秘儀である大嘗宮の儀において、
新帝が手ずから神前に供し、御告文奏上ののち、
みずから御直会なさるのは米と粟の新穀であることが一目瞭然である。

 
京都・鈴鹿家に伝わる「大嘗祭神饌供進仮名記」
(宮地治邦「大嘗祭に於ける神饌に就いて」=『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』
昭和33年所収)には、

「次、陪膳、兩の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。
主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、
右の御手にて御はん(筆者注。御飯。読みは「おんいい」が正しいか)
のうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわ(ママ)を
三はしつゝ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ......」

などと、枚手と御箸を用いる米と粟の献饌の様子が、生々しく記述されている。

 
とすれば、神嘉殿の宮中新嘗祭、大嘗祭の大嘗宮の儀は間違いなく、
稲の祭りではなくて、米と粟の祭りである。
それなら、なぜ米だけではないのか。

 
天孫降臨神話および斎庭の稲穂の神勅に基づき、
稲の新穀を捧げて、皇祖神に祈るのなら、粟は不要である。

なぜ粟が必要なのか。

おそらく皇祖神のみならず、天神地祇を祀るからであろうが、
それなら、なぜ天神地祇なのか。

 
最古の地誌とされる「風土記」には粟の新嘗が記録されている(『常陸国風土記』)。
とすれば、粟を神聖視する民が古代の日本列島にいたことが分かる。

いや、話は逆であって、柳田国男が繰り返し書いているように、
日本列島はけっして米作適地ではないし、したがって日本人すべてが稲作民族ではない。

柳田は「稲作願望民族」と表現している。

むしろ粟こそ、古代日本人たちの命をつなぐ聖なる作物ではなかったか。

わが祖先ばかりではない。文化人類学の知見によれば、
畑作農耕民である台湾の先住民には粟はとくに重要な作物で、
粟の神霊を最重視し、粟の餅と粟の酒を神々に捧げたという
(松澤員子「台湾原住民の酒」=『酒づくりの民族誌』所収、1995年)。

台湾では粟の酒はいまもふつうに売られている。
民俗学者に聞いたところでは、日本でも大正のころまで
、粟や稗の酒がごくふつうに自家醸造されていたという。

各地の神社では粟の神事が行われていたに違いない。
だが、いずれもいまは聞かない。
いつの間にか消えたのである。

そして大嘗祭が米と粟の儀礼であることも忘れられている。(つづく)


補注 この記事を書いたあと、日吉大社(滋賀県)の「粟津の御供」のことを知りました。
詳細は先般、当メルマガに書いたとおりです。

( http://melma.com/backnumber_170937_6840063/  )

         <感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝>

天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか? - 伝統

2019/08/06 (Tue) 18:59:11


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年7月21日)より


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天皇はなぜ「米と粟」を捧げるのか?
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」4
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日本の稲は栽培種であり、帰化植物である。
日本列島に自生する稲はない。
粟がエノコログサを原種とする穀物であるのとは異なる。

植物遺伝学者・佐藤洋一郎氏の「日本稲の南北2元説」によれば、
日本の稲には遺伝学的に2つの源流があるという。

ひとつは東南アジアの島々から伝わってきた陸稲的な熱帯ジャポニカで、
そのあと、もう一つの中国・揚子江流域を起源とする水稲的な温帯ジャポニカが伝来した、
と説明されている。

面白いことに、両系統の稲は本来は晩生で、秋冷の早い東北地方などでは稔らない。
ところが、両者が交雑すると不思議にも早生が発生する。

佐藤氏は、両系統の稲が日本列島で自然交雑して早生が発生し、
稲作は北部日本にまで瞬く間に北上することができた、
と推理している(『稲のきた道』、1992年など)。

2000年前には寒冷な青森にまで稲作は北進した。
日本の早生稲が誕生したからだ。

 
鶺鴒に学んで諾冉二神が婚姻し、国が生まれたとする国生み神話のように、
自然の法則に従って、異なるものがひとつになり、
新しい価値が生まれるという歴史は、稲だけにとどまらない。

稲作起源神話も同様である。

記紀には2つの稲作起源神話が描かれている。
1つは女神の遺体から五穀の種が得られたという類型であり、
もうひとつは天孫降臨に際して天照大神が稲穂を授けられたとする
斎庭の稲穂の神勅である。

 
神話学者の大林太良氏によれば、2つの神話は系譜が異なるという。

女神の死体から作物が出現するという死体化生型神話は、
きわめて広い地域に分布するらしい。

そのなかで日本の神話は粟など雑穀を栽培する焼畑耕作の文化に属し、
その源郷は東南アジアの大陸北部から華南にかけてで、
縄文末期に中国・江南から西日本地域に伝えられた、と推理されている
(『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

実際、この神話に登場するのはすべて焼畑の作物である。
稲は例外にも見えるが、焼畑で栽培される畑稲もある。
熱帯ジャポニカこそこれであった。

死体化生型神話の主役である大気津比売は粟の女神だったともいう。

 
もうひとつの稲作起源神話で興味深いのは、
皇室発祥の物語である天孫降臨とともに語られていることである。

前述の神話では五穀が葦原中国に起源するのに対して、
この物語では高天原から稲がもたらされる。

天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせるという天降り神話は、
朝鮮の檀君神話が有名だが、朝鮮にとどまらない。
モンゴルの伝承やギリシャ神話とも類似する。

インド・ヨーロッパ語族の神話がアルタイ語族を媒介として、
朝鮮半島経由で日本に渡来した可能性があると大林氏は述べている。

 
ただ、母神が授けるのは、朝鮮やギリシャの神話では麦であって、稲ではない。
ならば稲の要素はどこから来たのか。

天照大神から稲穂が授けられるとするモチーフは、
天降り神話と元来は無関係であり、東南アジアの稲作文化に連なる、
と大林氏は説明する。

朝鮮から内陸アジアに連なるアルタイ系遊牧民文化に属する天降り神話と
東南アジアに連なる稲作神話が接触融合し、天孫降臨神話ができあがった、
と大林氏は推理している。

日本の早生稲の成立と同様に、日本の稲作起源神話は
大陸系と南方系の融合だと説明されているのである。

 
日本民族の成り立ちもまた同様である。
人類学者の埴原和郎氏は、先住の縄文人と渡来系弥生人が混血同化し、
「本土日本人」が成立したと説明している。
埴原氏は混血同化は現在も進行中だと指摘する(『日本人と日本文化の形成』、1993年)。

 
とすれば、天皇による米と粟の神事はどのように考えるべきなのか。

古代の日本にはさまざまな氏族がいて、それぞれの暮らしがあった。
それぞれの神があり、信仰があった。
先住の焼畑農耕民もいれば、新参の水田稲作民もいた。

国と民をひとつに統合する統治者たる天皇は、皇祖神のみを拝するのではなくて、
それぞれの民が信仰するさまざまな神々に祈ることを選択したのではないか。
そのような祭り主を統治者とすることをわが祖先たちは選んだのではなかろうか。

その結果、歴代天皇は毎年、実りの秋に、そして御代替わりには大がかりに、
価値多元的な複合儀礼を行い、国民統合の平和的意義を確認し合うことになった
のではなかろうか。

それは平和的共存のための知恵といえるだろう。
今日、世界各地で頻発する、宗教の違いに由来する衝突の悲劇を見れば、
容易にその意味が理解される。(つづく)

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         <感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝>

近代化で変質した宮中祭祀 - 伝統

2019/08/07 (Wed) 18:00:56


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年7月28日)より

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近代化で変質した宮中祭祀
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」5
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幕末・明治維新期は日本の宗教および宮中祭祀の一大転換点だった。

「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と謳う、
慶応3年の王政復古の大号令の翌年には、祭政一致、神祇官再興が表明され、
諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。

明治天皇は紫宸殿に神座を設え、天神地祇を祀り、
五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。

僧形の別当・社僧の復飾が通達され、
さらに「権現」「牛頭天王」など仏語を神号とする神社の改称、
仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。


神仏分離令による年来の神仏習合の清算は、激しい廃仏毀釈へと転化した。
いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。

過激な廃仏毀釈の原因は何だったのか、
辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、
復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、
国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。

 
本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。
明治元年の本願寺、興正寺などへの達には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、
行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、
みだりに復飾を願い出ることが牽制された。

他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという
(『明治維新神仏分離史料』など)。

 
だが改革はさらに続き、社寺領の上知が布告された。
神社は「国家の宗旨」とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。
宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。

新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。

天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。
托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった
(『明治維新神道百年史』など)。


宮中の年中行事も激変した。

年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、
2月と8月の季御読経、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、
5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、
皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。

幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。

 
一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか
四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、
新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。

端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、
皇室祭祀が整備、確立されていった(前掲八束「皇室祭祀百年史」)。


宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、
信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。
アジアで最初の近代憲法だった。

キリシタン禁制の高札撤去から16年、とりわけキリスト者の喜びはひとしおで、
当時の新聞報道によると、記念の讃美歌を作る動きもあった。

翌年には長崎で、日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、
聖体行列が整然と行われたという。


それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして
機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、
キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。

古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においては赤十字運動など
キリスト教の社会事業を物心両面から支援された。
信徒の側近も増えていった。

 
22年には明治憲法制定と同時に、皇室典範が勅定された。
皇位継承の基本が近代法として明文化された。
41年には皇室祭祀令が、42年には登極令が制定された。

皇室典範は「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」
(第11条)と定めていた。明治天皇の思召しとされている
(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』、大正4年)。

東京遷都以後、京都の町が寂れていくのを天皇は嘆かれた。
その後、ロシア皇帝の戴冠式が旧都モスクワの宮殿で行われることを知り、
「大礼は古風を存し、旧儀のままに」と思われたことがきっかけになったという。

しかし叡慮は裏切られ、国家主義的な昂揚を内外に誇示するものに変質していった。

 
大嘗祭はかつて大極殿または紫宸殿の前庭に、
悠紀国・主基国の国人が大嘗宮の儀の七日前に舗設し、
数日間で仕上げられ、祭儀のあと焼却された。

だが登極令以後、大嘗宮の規模はかつてないほど壮大になった。
このため紫宸殿前庭では収まらず、仙洞御所の北側を拓き、
設営されることになった。

もはや古風、旧儀とはいえない。

 
江戸後期の桜町天皇の大嘗宮は東西16間、南北10間の柴垣をめぐらして
設けられたが、大正の大嘗宮は東西60間、南北60間を板垣で囲い、建てられた。

むろん数日で設営できるようなものではなくなった
(岩井利夫『大嘗祭の今日的意義』、昭和63年など)。

また、近世の民衆にとって皇位継承の儀礼は、近代以後とは違い、身近なものだった。

現代人には想像しがたいことだが、近世の人々は即位式を間近で、
自然体で拝観していた。

明正天皇の「御即位行幸図屏風」(宮内庁所蔵)には、
即位式の最中に、胸をはだけて授乳する2人の女性が描き込まれている。
拝観者にはチケット(切手札)が配られたらしい
(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』、2015年)。

 
さらに哲学者の上山春平氏が指摘したように、
悠紀国・主基国から都に運ばれた御料を大嘗宮に運び入れる
標山や加茂川で新帝が行う御禊には見物人が殺到したといわれる
(「大嘗祭について」=「神道宗教」神道宗教学会、平成3年3月など)。

つまり、近代化によって、御代替わりの儀礼は素朴な古風を失い、
同時に民衆から縁遠い存在になっていったのである。

なぜそうなったのだろうか。

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         <感謝合掌 令和元年8月7日 頓首再拝>

大嘗祭は、不思議な祭式である - 伝統

2019/08/08 (Thu) 20:11:54


        *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(Pⅰ~はじめに) より


「大嘗祭は、あたかも地下を流れる伏流水のような、不思議な祭式である。
新天皇が誕生するときには一気に注目を浴びて大々的に報道されるが、
普段はよほど特別な専門家以外にその存在を意識する人はいない。

大嘗祭が終了するとたちまちに報道はなくなってしまい、
やがてほとんどの人々の記憶から消えていってしまう。

しかし実は、大嘗祭は、次の新天皇の大嘗祭に向けて、
地下を静かに流れ続けているのである」

         <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>

大嘗祭とは何か。 - 伝統

2019/08/09 (Fri) 19:57:26


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(Pⅱ~はじめに) より

「専門研究家がその解説に乗り出すのだが、そのときの立場は、
宮中諸儀礼にかかわる宮内庁の人が、守秘義務に反しない範囲で
内情を教えてくれるものと、
学者が平安時代の儀式書などの知識を整理して解説するものがほとんどであった。

しかし、宮中儀礼といっても、基本的には奈良・平安時代に形の定まったものが多い。
したがって、それらより先に遡ってさらに本質・原型・源を追究したい
と考えるときには、宮中儀礼の多くはかなりの変質を経たあとのものだから
モデルとしては不充分であると考えるほうがよい。

そのうえ、大嘗宮の最奥部で行なわれることについては、
たとえば後伏見天皇(1298年に大嘗祭)が
「詳細については口伝であり諸説があって、最も秘すべきことがはなはだ多い」
(『後伏見天皇御記』)と書き記しているように、

「詳細」は「口伝」であり「秘すべきこと」なので、
宮内庁の関係者といえども肝心な部分については口外できないのである」

         <感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>

大嘗祭献上織物の麻糸 徳島で「初紡式」 - 伝統

2019/08/10 (Sat) 19:30:37


       *日本経済新聞(2019/8/7)より

徳島県美馬市木屋平の三ツ木八幡神社で7日、
11月にある皇位継承の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」で
献上される麻織物「麁服(あらたえ)」の布を織るための糸を紡ぐ
「初紡式(はつつむぎしき)」が行われた。


式では木屋平にゆかりのある女性5人がみこ姿で、
麻の繊維を細かく裂いては丁寧によってつなぎ、
糸車にかけて光沢のある強い糸に仕上げた。

みことして参加した岡山市の大学4年、東本舞さん(22)は
「貴重な体験で緊張した。この伝統を糸のように後世に紡いでいきたい」と話した。


原料の大麻はNPO法人「あらたえ」のメンバーらが4月に種をまき、7月に収穫。
繊維を取るため、湯に通し発酵させるなどの作業を進めてきた。

糸は9月上旬に、古代から麁服を調達してきた阿波忌部氏が拠点を置いたとされる
徳島県吉野川市の山崎忌部神社に運ばれ、麻布に織り上げられる。

   ( https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48322600X00C19A8CR8000/  )

             ・・・

大嘗祭調度品の糸初紡ぎ=4反分の麻織物に-徳島

          *Web:時事ドットコムニュース(2019年08月07日)より

11月に行われる皇室の重要儀式「大嘗祭」に供えられる麻織物
「麁服(あらたえ)」の糸を紡ぐ「初紡式」が7日、
徳島県美馬市の「三ツ木八幡神社」で行われた。
 
式では、5人の巫女(みこ)が順番に、
竹串のような物で糸の繊維を整える「しごき」、
繊維を裂いて糸に紡いでいく「麻績(おうみ)」などの作業を披露した。

10月ごろ、全部で4反分の麁服を宮内庁に調進(依頼を受け納めること)するが、
そのためには5万2800メートル以上の麻糸が必要になるという。
 
NPO法人「あらたえ」によると、
原料となる大麻を刈り取る「抜麻式」を行った7月15日以降、
ほぼ毎日雨が降った。

乾燥させるのに苦労したといい、藤本高次副理事長は
「ここまでこられてほっとしている」と述べた。

巫女に選ばれた徳島市の中学3年立石麻子さん(15)は、父親が美馬市出身。
「作業を始めて役割の重大さを実感した。
大変だが、一本一本丁寧に紡いで伝統を引き継いでいきたい」と話した。

   ( https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080700884&g=soc )

         <感謝合掌 令和元年8月10日 頓首再拝>

天皇位継承儀礼 - 伝統

2019/08/12 (Mon) 19:29:04


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(Pⅵ~はじめに) より

この大嘗祭というアニミズム系の呪術的儀礼を組み込んだ天皇位継承儀礼は、
673年の天武天皇即位のときにその祖型が始まり、
次の持統天皇の即位(690年)のときにほぼその主要な構成ができあがった
と推定される伝統である。


         <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>

「大嘗祭」の本質を探る - 伝統

2019/08/13 (Tue) 20:41:21


        *Web:國學院大學メディア(2018年11月14日)より抜粋

《米だけでなく粟も供え豊穣を祈る》

「大嘗祭の本質は何か」と問われたら、
「日本列島に暮らす者たちの生き方の現れ」と答えたい。

農耕国家であると同時に自然災害に見舞われることの多い列島で暮らす人々のため、
新天皇自らが祈りを捧げ、皇室の祭祀だけではなく「国民とともにある」ことを示す
のが大嘗祭の姿だ。

天皇が毎年お祀りする新嘗祭が基本で、
一代一度、皇祖・天照大神を初めてお祀りするときに規模を拡大し、
「御代替(おだいが)わり」の最初に行われる新嘗祭が大嘗祭となる。

現在では天照大神と全国の神々である天神地祇(てんしんちぎ)に報告する
という形を取っているが、本来は天照大神だけだったはず。

神饌供膳(しんせんきょうぜん)といってお食事を差し上げる作法が
2時間以上続き、日本の国土で穫れたものを神前に供えて天皇もともに頂く
ことに意味がある。

大嘗祭で供えられる神饌には、ウミガメの甲羅を焼いて占う
「亀卜(きぼく)」で選ばれる悠紀(ゆき)・主基(すき)2つの国(地域)で
収穫された米と、
その米から作られる「黒酒(くろき)」「白酒(しろき)」が知られる。

加えて、奈良や京都といった内陸の都では入手しづらかった海産物や、
阿波(徳島県)の麻織物「麁服(あらたえ)」と
三河(愛知県)の絹織物「繪服(にぎたえ)」などの地方産品もある。

これは、列島を挙げて一代一度の神祭りを協賛することを示すものだ。

 
さらに、庶民の食べ物である粟が含まれることに注目したい。
米は天照大神からの頂き物で大切なものとして供えられるが、
災害対応や国民の食料を守るため「粟も順調に育ててください」との祈りが
もう一つ入っていると思われる。

中世の祝詞に見られる禍を鎮めるための祈りも含め、
災害が多い列島で共同体を維持するための
「想い」が組み込まれているのではないか。


《皇室と国民が一つになって守り続け》

古代から近世まで国家行事の最高位に位置づけられた「即位礼」は
「礼服(らいふく)」などをまとった唐風(かんぷう)の儀式で、
中国からの先進情報を盛り込むことで統治者としての力を
「外向き」にアピールする狙いがあった。

これに対し、大嘗祭は日本古来の伝統を踏襲した形を維持し続けており、
内外のバランスを取ってきたと言える。

それが明治になって中国的な色合いが排除され、日本古来の姿に近づいてきた。

一方、「大嘗祭は御代替わりにおける最も重要な神祭り」とされ、
古来伝統的な形式を皇室と国民が一つになって守り続けてきた。

大嘗祭には悠紀・主基の国の人々が何千人も参加して、
祇園祭の山鉾(やまほこ)や各地の祭の山車(だし)の原形となった
「標山(ひょうのやま)」というものを引っ張る。

宮中祭祀は難しく捉えられがちだが、
国民も協賛して社会を維持することや人間が生きていくための
一番の本質を天皇の立場で伝えてきたと考えるとどうか。

30年前の御代替わりでは、昭和後期の超能力ブームなどと相まって
「秘事として見ることはできない部分で呪術的な行為が行われる」
との説も流布されたが、そのようなことはあり得るはずがないと分かってくる。


《相次ぐ災害、復興への「想い」》

日本は自然災害が多い。
特にこの7年を見るとその思いが強い。

古代でも災害や飢饉にどのように対応するかということが、
天皇をはじめとする人々の一番の「想い」だったのではないか。

伊勢神道では「元元本本(げんげんほんほん)」と言うが、
原点に返ることが神道の根本にある。

東日本大震災以降、各地で相次ぐ災害の被災者は
「平常に戻りたい」と皆が言い、復興の象徴として
「祭」を盛り上げるのに力を注ぐ。

日本は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」といって
豊かで瑞々しい稲穂が実る素晴らしい国との理解がある。
その姿に戻そうという「想い」を象徴的に表したものが大嘗祭であるのだ。



【大嘗祭当日の儀式】

悠紀殿供饌の儀(2019年11月14日)

  大嘗宮に設けられた悠紀殿で、天皇自らが神饌を供え、ともに頂く儀式。
  大嘗祭初日の夜に行われる。


主基殿供饌の儀(2019年11月15日)

  大嘗宮に設けられた主基殿で、天皇自らが神饌を供え、ともに頂く儀式。
  大嘗祭2日目の未明に行われる。



【後日に行われる儀式】

大饗(だいきょう)の儀

  大嘗祭参列者に神饌として供えられた悠紀・主基2国の新穀が
  振る舞われる直会(なおらい)で、大嘗祭の翌日から催される。

  (https://www.kokugakuin.ac.jp/article/90085 )

         <感謝合掌 令和元年8月13日 頓首再拝>

大嘗祭の本質 - 伝統

2019/08/14 (Wed) 18:56:07

 
       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(P12) より

大嘗祭の本質は、
単なる天皇位継承の政治的儀礼という範囲にとどまるものではなく、
縄文・弥生時代にまで根源を持つ、日本文化の最も深い部分に
発しているものであり、天皇の存在がいわばヤマト的なるものの
象徴的存在であることを示す儀礼なのである。

したがって、大嘗祭は、天皇位の文化的権威の源の表現なので、
法的正当性の表現としての即位の儀には別次元にあるのである。

すなわち、即位の儀による政治的・法的正当性と、
大嘗祭という神話・呪術的正統性とが揃うことによって、
天皇位継承は完結したことになる。

その結果、天武天皇から現代の平成期の天皇(125代、大嘗祭は1990年)まで、
大嘗祭は継続して実施されてきたのである

         <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>

大嘗祭の価値とはなにか - 伝統

2019/08/15 (Thu) 18:55:39


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(P17) より

そのうえで私の立場は、その政治的儀礼の部分は即位の儀のほうに集中させ、
その即位の儀のあとに挙行される大嘗祭では『新嘗の祭、つまり収穫祭』の要素を
含み込んで形成された点、

すなわち弥生時代以来のニイナメの呪術的儀礼の部分をいくぶんでも
継承しようとした点にこそ、現代社会にまで通用する価値があるとするものである。

この『新嘗の祭、つまり収穫祭』の要素こそが、縄文・弥生時代以来の、
アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった、
ヤマト的なるものの特性の結晶として、日本文化のアイデンティティーに
かかわる部分なのである

         <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>

大嘗祭をめぐる基礎知識~その1 - 伝統

2019/08/16 (Fri) 19:28:44


       *『大嘗祭』工藤隆・著(中公新書)(P1) より

大嘗祭は600年代末の天武天皇のころから現代まで、
南北朝時代(1336〜92)、応仁の乱(1467〜77)、
戦国~江戸前期を中心とする12代の天皇を除き、一貫して行なわれている。

これを終えて初めて天皇位継承が完結することになるきわめて重要な儀式だが、
600年代末の祖型成立当初の史料は少なく、
『儀式』『延喜式』等、平安時代の800年代後半以後の史料を中心に
研究が進められてきた

         <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>

「私事」のまま放置する不作為と改変 - 伝統

2019/08/19 (Mon) 19:10:37



      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年8月18日)より

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「私事」のまま放置する不作為と改変
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」8
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敗戦は当然、天皇の祭祀にも大きな影響を及ぼした。

昭和20年12月に、
「目的は宗教を国家より分離することにある」とする、
いわゆる神道指令が発せられると、宮中祭祀は国家的性格を否定され、
「皇室の私事」として存続することを余儀なくされた。

掌典職は内廷の機関となった。

 
神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷だった。
政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、
当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、
いずれきちんとした法整備を図ることを方針とせざるを得なかったとされる。

異論はあったが、敗戦国の政府が占領軍に楯突くことは不可能だった。

さらに2年後、22年に日本国憲法が施行されると、皇室令は全廃された。
皇室典範を中心とする宮務法の体系が国務法に一元的に吸収され、
新しい皇室典範は一法律と位置づけられた。

宮中祭祀は明文法的根拠を失い、近代以前に引き戻された。

ただ、祭祀の形式は、ほぼ従来通り存続した。

同日に宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、
「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、
従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、
宮中祭祀令の附式に準じて、祭式はかろうじて存続することになった。

 
けれどもその後、今日に至るまで、
皇室令に代わる宮務法の体系は作られることはなかった。

宮中祭祀の法的位置づけは「皇室の私事」のまま、変わることはなかった。

 
それどころか、さらなる試練が生じた。
国民の目の届かないところで、占領前期への先祖返りが起きたのだ。

昭和40年代に入って、万年ヒラの侍従から、瞬く間に侍従長へと
駆け上がった入江相政は依命通牒を無視して、
祭祀を「簡素化」する「工作」に熱中した。

無法化の始まりである。

名目は昭和天皇の高齢化だった。


毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月だけとなり、
皇室第一の重儀であるはずの新嘗祭は簡略化された。
昭和天皇のご健康への配慮であるかのように「入江日記」には説明されているが、
疑わしい。

それならそれで、なぜ正規のルール作りを怠ったのか。

 
そして、富田朝彦宮内庁次長(のちの長官)が登場した。
冒頭に書いたように、50年8月15日の宮内庁長官室の会議で、
毎朝御代拝の変更が決められた。

国会答弁(平成3年4月25日の参院内閣委)などによると、
依命通牒第4項の「前項の場合において、従前の例によれないものは、
当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」
をあわせ読んだ結果であり、政教分離原則への配慮と推定される。

占領前期の厳格主義への人知れぬ先祖返りである。

侍従は天皇の側近というより公務員であり、
したがって特定の宗教である宮中祭祀への直接的関与から離脱することとなった。

天皇=祭り主とする天皇観は崩壊した。

 
改変の中心人物と目される富田は、
いわゆる「富田メモ」で知られる元警察官僚だが、
無神論者を自任していたといわれ、
側近ながら祭祀に不参のことが多かった(前掲永田インタビュー)。

富田らによる一方的な祭祀変更は次々に起こり、いまに尾を引いている。

 
御代替わりの中心儀礼である大嘗祭もしかりであった。

昭和54年4月、元号法制化に関する国会答弁で、
真田秀夫・内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、
憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。
それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか」と述べた。

戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜上、
取らざるを得なかったにせよ、その後、正常化が図られ、
34年の皇太子御成婚では、賢所大前での御結婚の儀は
「国の儀式」と政府決定された。

だが法制局は、大嘗祭は神道儀式と断定したのだ。(つづく)

( http://melma.com/backnumber_170937_6851316/ )

         <感謝合掌 令和元年8月19日 頓首再拝>

「祭り主」は過去の遺物となった - 伝統

2019/08/26 (Mon) 19:26:44


      *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(令和元年8月25日)より

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「祭り主」は過去の遺物となった
──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」9

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昭和天皇が亡くなり、皇位は皇太子殿下(いまは太上天皇)に継承された。
しかし政府は何の準備もなかった(前掲永田インタビュー)。

戦後の皇室典範は「即位の礼を行う」「大喪の礼を行う」と定めるだけで、
皇位継承という国と皇室の最重要事に関して、具体的な法規定がなかった。

法治国家として最悪の事態である。

幸いというべきか、日本国憲法施行時の依命通牒は生きている。
「廃止の手続きは取っておりません」(平成3年4月25日、参院内閣委)という
宮内庁幹部の国会答弁からすれば、依命通牒第3項によって、
登極令附式に準じて、御代替わりの諸儀式は行われていいはずだが、
そうはならなかった。

 
最大の問題は大嘗祭だった。

石原信雄元内閣官房副長官は自著で「きわめて宗教色が強いので、
大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と回想している
(『官邸2668日──政策決定の舞台裏』、平成7年)。
急先鋒は内閣法制局だったという。


政府は段階的に委員会を設け、御代替わり儀礼の中身について検討した。
そして、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ
、皇室の伝統のままに行うことが憲法の趣旨に反すると考えるものは、
国の行事ではなく、皇室行事とされた。判断基準はむろん政教分離原則だった。

平安期以来の践祚と即位の区別は失われ、
立法者たちが想定しない「大喪の礼」が行われた。

「即位の礼」は皇室の伝統儀礼とは似て非なるものとなり、
もっとも中心的な「大嘗祭」は「宗教性」ゆえに「国の行事」とはなれなかった。

御代替わりの諸儀式は、全体的に皇室および国の最重要事であり、
国事のはずだが、最高法規たる憲法の政教分離原則によって因数分解され、
国の行事と皇室行事とに二分された。宗教性があるとされる儀式は
非宗教的に改称、改変された。

 
皇位継承ののち、天皇陛下(太上天皇)は、
皇后陛下(皇太后)とともに祭祀について学ばれ、正常化に努められたという。

即位以来、陛下は、皇室の伝統と憲法の理念の両方を追求される、
とことあるごとに繰り返し表明された。

けれども在位20年を過ぎて、ご健康問題を理由に、
ふたたび祭祀の簡略化が平成の官僚たちによって敢行された。

宮内庁によるご公務ご負担軽減策が講じられたものの、ご公務件数は逆に増えた。

一方で、祭祀のお出ましは文字通り激減した。
祭祀がご負担軽減の標的にされたのだ。
ご負担軽減策は、天皇の聖域たる祭祀に不当に介入しただけで、不成功に終わった。

 
要するに、古来、天皇第一の務めは祭祀とされてきたが、
こうした天皇観はすでに過去の遺物とされている。

近世までの天皇は装束を召され、薄化粧されて御簾のかげに端座される祭り主だった。
近代の天皇は祭り主であると同時に、行動する立憲君主だった。

だが、いまや洋装で憲法上の国事行為を行う特別公務員とされている。

はたして、それでいいのだろうか。

今回の御代替わりでは、前回の批判的検証もあればこそ、
前例踏襲が基本方針とされている。

政府の発表によれば、践祚の前日に前代未聞の「退位の礼」が行われ、
譲位(退位)と践祚(即位)が分離される。

前回は3日間の賢所の儀のあとに行われた朝見の儀が、今回は践祚当日になる。

そもそも政府は祭祀について、検討した気配がない。
皇室の伝統について十分な検証を怠っている。
これで済まされるのだろうか。(つづく)

  ( http://melma.com/backnumber_170937_6853798/ )

         <感謝合掌 令和元年8月26日 頓首再拝>

大嘗祭調度品麻織物の糸完成 - 伝統

2019/09/11 (Wed) 18:57:02

大嘗祭調度品麻織物の糸完成=仕上げのため引き渡し

      *Web:時事ドットコムニュース(2019年09月02日)より

11月に行われる皇室の重要儀式「大嘗祭」に供えられる
麻織物「麁服(あらたえ)」の糸を紡ぐ作業が終わり、

徳島県美馬市の「三木家」から、
織物へ仕上げる工程を担当する同県吉野川市の山崎忌部(いんべ)神社に
引き渡す儀式が2日、行われた。



三木家は糸の原料となる大麻を栽培、収穫し、糸を紡ぐ作業を担当。
この日、4反分、重さ約3キロの糸がきり箱、さらに唐びつに入れられ、
直線で11キロ余り離れた山崎忌部神社に運ばれた。

同神社や地元の企業でつくる
「阿波忌部麁服調進協議会」が10月末までに織り上げる。
 
三木家の28代当主信夫さん(83)は
「やっと7合目まで来られた。無事完遂できることを祈っている」とコメント。

糸を受け取った同協議会の木村雅彦会長(59)は
「精魂込められた糸で、重責を感じる」と気を引き締めた。

10日に織り初め式が行われる。

    (https://www.jiji.com/jc/article?k=2019090200973&g=soc )

           ・・・

    *メルマガ:『人生秘中の奥義書』( 2019年09月08日)より

┌ 9月2日、麻の糸 三木家から山崎忌部へ
└─────────────────────
 11月14-15日に行われる御皇室の重要儀式
「大嘗祭」に供えられる麻織物「麁服(あらたえ)」の
 糸を紡ぐ作業が終わり、
 徳島県美馬市の「三木家」から、
 織物へ仕上げる工程を担当する同県吉野川市の
 山崎忌部神社に引き渡されました。

 三木家は糸の原料となる大麻を栽培、収穫し、
 糸を紡ぐ作業を担当してきました。

 9月2日、4反分、重さ約3キロの糸が
 きり箱、さらに唐びつに入れられ、
 直線で11キロ余り離れた山崎忌部神社に運ばれた。
 同神社や地元の企業でつくる「阿波忌部麁服調進協議会」が
 10月末までに織り上げます。

           ・・・

大嘗祭献上の麁服織り初め 徳島、10月にも完成

        *Web:産経デジタル(2019.9.10)より

徳島県吉野川市山川町地区の山崎忌部神社で10日、
11月にある皇位継承の重要祭祀「大嘗祭」で献上される
麻織物「麁服(あらたえ)」の織り初め式が開かれた。

麁服は10月中にも完成予定で、皇居に納められる。

式では、地区にゆかりのある女性7人がみこ姿で作業に着手。
機織りは10月中旬ごろまで続き、約4反分の麻布を織り上げる。

使用する麻糸は、同県美馬市木屋平地区のNPO法人「あらたえ」が
県から特別な許可を得て、4月に種をまいて栽培した大麻の繊維から
糸車で約1カ月かけて紡いだ。

山崎忌部神社は、古代から麁服を調達してきた阿波忌部氏が拠点を置いたとされる。

     ( http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/190910/lif19091011150009-n1.html )


<参考:山崎忌部神社
    → http://engishiki.org/awa2/bun/awh560401-01.html >

         <感謝合掌 令和元年9月11日 頓首再拝>

高御座の組み立て公開 - 伝統

2019/09/12 (Thu) 19:44:59

高御座の組み立て公開 宮内庁、来月の即位礼を前に


    *メルマガ:『人生秘中の奥義書』( 2019年09月08日)より

┌ 9月6日、「即位礼正殿の儀」の「高御座」組み立て公開
└─────────────────────
 9月6日に
 10月22日に行われる天皇陛下の
 即位の儀式「即位礼正殿の儀」で使われる、
「高御座(たかみくら)」の組み立て作業が公開された。
 https://youtu.be/sKRfeHFwphs


 金具の修繕や漆の塗り直しなどを終えた後、
 今年8月中旬から皇居・宮殿の松の間で
 組み立ての準備作業が開始した。

 先に御帳台の組み立てが始まり、
 9月6日は高御座の円柱を土台に立てる作業が行われた。

 漆が塗られた高さ3.7メートルの柱を
 慎重に組み立てる作業が、およそ30分間行われた。

「高御座」は、9月末に完成する見通しで、
 10月22日、陛下は「高御座」の中で、即位を内外に宣言される。

                ・・・

      *Web:日本経済新聞(2019/9/6)より


宮内庁は6日、10月22日の「即位礼正殿の儀」で
天皇陛下が即位を内外に宣明する際に登壇される
高御座(たかみくら)の組み立て作業を報道各社に公開した。

皇后さまが登壇される御帳台(みちょうだい)とともに9月中に完了するという。

同庁は2018年9月、京都御所の紫宸殿(ししんでん)にあった高御座と御帳台を解体し、
トラックで皇居に移した。全部で約3千ある部材には漆の塗り直しなどの修繕を施し
、8月中旬から即位礼の舞台となる宮殿「松の間」に搬入し、
即位礼に向けた組み立てに着手した。

大正天皇の即位礼のために作られた高御座(高さ約6.5メートル)はクギを使わず、
木のかんぬきで接合する構造。各部材には識別用のラベルが貼られており、
この日も作業員ら約20人が手順に従って慎重に円柱などを運び、木づちで固定した。

  ( https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49507250W9A900C1CR8000/ )


         <感謝合掌 令和元年9月12日 頓首再拝>

皇位継承の舞台、建設進む 皇居・東御苑の大嘗宮 - 伝統

2019/09/18 (Wed) 19:53:16


        *Web:共同通信 (2019.09.17)より

11月14日、15日に行われる天皇陛下の皇位継承に伴う
重要祭祀「大嘗祭」まで約2カ月。

舞台となる大嘗宮の建設工事が皇居・東御苑で進み、
中心儀式が営まれる悠紀殿と主基殿など、主要な建物が姿を現してきた。

 
7月末に地鎮祭が行われ、工事を本格的に開始。
切り妻屋根の木造の建物群を大型クレーンや工事車両が取り巻き、
複数の作業員が屋根に上るなどして工事をしている。

施工は大手ゼネコンの清水建設で、9億5700万円で落札。
悠紀殿と主基殿の屋根は経費削減と工期短縮のため、
平成時のかやぶきから板ぶきに変更となった。

宮内庁によると台風15号の影響はなく、10月にも完成する。

  ( https://www.oricon.co.jp/article/932367/ )

・・・

<参考Web>

昔のてぶりわするなよゆめ(明治天皇御製) ー大嘗宮の茅葺を切望するも
 → https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2704
   (《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》)

         <感謝合掌 令和元年9月18日 頓首再拝>

天皇陛下、高御座から宣言 10月の即位式典、平成踏襲 - 伝統

2019/09/19 (Thu) 21:46:26


        *Web:日本経済新聞(2019/9/18)より

政府は18日、天皇陛下の即位に関する式典の細目を決めた。
即位を国内外に宣言する10月22日の「即位礼正殿の儀」には
平成時を上回る190以上の国や国際機関の代表が参列する見通しだ。

各式典の段取りは現行憲法下で初めて実施した平成の代替わりをほぼ踏襲する。
伝統を考慮しつつ憲法との整合性や皇室の負担軽減に配慮した式典とする。


首相官邸で開いた皇位継承に関する式典委員会(委員長・安倍晋三首相)で
各式典の式次第を了承した。
首相は会合で「世界各国から賓客の受け入れに万全を期し、
儀式が円滑に厳粛に行われるよう政府一丸で万全を尽くす」と述べた。


即位に関する式典は歴代天皇に伝わる神器を引き継ぐ5月1日の
「剣璽等承継の儀」から始まった。
10月は即位礼正殿の儀や即位礼の後に都内で催すパレード「祝賀御列の儀」など
主に4つの式典がある。

最初の式典は10月22日の即位礼正殿の儀だ。
午後1時から30分間、皇居・宮殿で最も格式が高いとされる「松の間」で開く。

黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という束帯姿の天皇陛下が
高御座(たかみくら)へ、十二単(ひとえ)姿の皇后さまが
御帳台(みちょうだい)に上られ、天皇陛下が即位を宣言される。

首相がお祝いの寿詞(よごと)を述べた後、万歳を三唱し、参列者が唱和する。

平成の式典の際、当時の海部俊樹首相はいまの上皇さまと同じ松の間で発声した。
海部氏は日本が国民主権の民主主義国家であることを示そうとの思いだった
と後に回顧した。今回も前例にならい、松の間で実施する。

平成の式典からの変更は一部にとどめる。
陛下が高御座に向かわれる経路を短縮する。
前回は参列者に陛下の姿を見えやすくするため、廊下を回ってから高御座に上った。

今回は大小のモニターを多数設置し、参列者が儀式の様子を見れるようにした。

高齢の皇族の負担を軽くするため、参列する皇族の服装は前回から一部変更し、
伝統装束以外も認める。首相ら参列者の服装は前例を踏襲し、
男性はえんび服やモーニングコート、女性はロングドレスなどとする。

首相は昭和天皇の式典では束帯と呼ぶ装束を身につけていた。

平成の代替わりでは神話に由来する高御座などを使用した式典への出席が
憲法の政教分離原則に反するとして、参列した知事らへの
公費差し止めを求める訴訟が起きた。

最高裁は2004年に知事の参列は宗教的活動に当たらないとする判断をした。
政府はこうした判例も踏まえ、平成の式典を踏襲する。

即位礼に続き、午後3時半からパレードを催す。
皇居・宮殿からお住まいの赤坂御所(東京・港)までの
4.6キロメートルを約30分かけオープンカーで走行する。

1990年11月の上皇ご夫妻の「祝賀御列の儀」は沿道に約11万7千人が集まった。

台風などの荒天時は21日午後6時半に延期を発表する。
予備日は26日とし、再び荒天になった際は中止とする。
小雨などの場合は屋根の付いた皇室用の特別車両「御料車」を使ってパレードする。

10月22日夜の皇居・宮殿での祝宴「饗宴(きょうえん)の儀」は
午後7時20分から3時間半を予定する。
この日のほかに同月25、29、31日の4日間で計4回催す。

今回は2回を立食形式とし、計2600人程度を招待する。
前回は4日間連続で7回開き約3400人を招待した。
すべて着席形式で初日を除き昼夜2回開いた。
規模を縮小して両陛下の負担に配慮する。

翌23日は首相夫妻主催の晩さん会を午後6時から
ホテルニューオータニ(東京・千代田)で開催する。
外国元首ら約900人が出席する。

狂言師の野村萬斎さん、歌舞伎俳優の市川海老蔵さん、
文楽人形浄瑠璃の人形遣いの吉田玉男さんが「三番叟(さんばそう)」
と呼ぶ演目を共演する。

( https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49931840Y9A910C1EA2000/?n_cid=NMAIL007 )

         <感謝合掌 令和元年9月19日 頓首再拝>

「斎田抜穂の儀」 - 伝統

2019/09/29 (Sun) 19:28:36


「主基斎田抜穂前一日大祓(すきさいでんぬきほぜんいちにちおおはらい)」

      *Web:NHK京都(2019.09.26)より

天皇陛下の即位に伴う、「大嘗祭(だいじょうさい)」で使う米を収穫する儀式が27日、
南丹市の田んぼで行われるのを前に、
収穫に携わる関係者の身を清める大はらいが行われました。

「大嘗祭」で使う新米を収穫する「斎田(さいでん)」に決まった
南丹市八木町氷所の田んぼでは、27日、米を収穫する
「斎田抜穂の儀(さいでんぬきほのぎ)」が行われます。

これを前に、26日は、近くを流れる大堰川の河原で、関係者の身を清める行事の
「主基斎田抜穂前一日大祓(すきさいでんぬきほぜんいちにちおおはらい)」が行われました。

行事には、斎田を耕作する「大田主(おおたぬし)」の中川久夫さんや
、天皇陛下から遣わされた「抜穂使(ぬきほし)」、
それに新米を収穫する役割の地元の農家の男性など、およそ20人が出席しました。

そして神職が「大祓の詞(おおはらいのことば)」を読み上げたあと、
「大麻(おおぬさ)」でおはらいをし、川に流して、関係者の身を清めていました。
「斎田抜穂の儀」は、27日、行われます。

   ( https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20190926/2010004778.html )

・・・

「斎田抜穂の儀」


天皇陛下の即位行事「大嘗祭(だいじょうさい)」に使われる米を
収穫する儀式「斎田抜穂の儀」が栃木県と京都府で行われました。

11月の大嘗祭で天皇陛下は栃木と京都の「斎田」に実った米を食べ、国の安寧を祈られます。
それぞれの斎田では、27日午前10時から米を収穫する儀式「斎田抜穂の儀」が行われました。

天皇陛下の使者で神職の「抜穂使」がテント張りの神殿で祝詞(のりと)を読み上げ、
その後に米の生産者の「大田主」らが装束姿で斎田に入り、
慣例にのっとって稲を4束、鎌で刈り取りました。

抜穂使が稲を確認した後、参列者らが神殿で拝礼しました。

陛下には27日中に儀式の終了が報告され、
収穫された米は今後、皇居に運ばれる予定です。

      (https://www.youtube.com/watch?v=tbbNbICM2W0 )
      (https://www.youtube.com/watch?v=lIeVGw4U9mU )


大嘗祭のコメ収穫「抜穂の儀」

天皇陛下の11月の皇位継承に伴う重要な祭祀「大嘗祭」で使う
新米を収穫する儀式「斎田抜穂の儀」がきょう、栃木県と京都府で行われました。

コメの産地は東日本と西日本から選ばれ、
東日本側からは栃木県高根沢町の石塚毅男さんが所有する水田で、
陛下の使いである抜穂使などが参列する中、
コメの銘柄「とちぎの星」が収穫されました。

   ( https://www.youtube.com/watch?v=z20TI2k2cyk )

         <感謝合掌 令和元年9月29日 頓首再拝>

悠紀田・主基田「斎田抜穂(さいでんぬきほ)の儀」 - 伝統

2019/10/01 (Tue) 19:16:13

 
       *Web:東京神社庁 より

悠紀田(ゆきでん)・主基田(すきでん)
それぞれに気候の差があるため時期は異なりますが、
秋となり稲穂が実りの季節を迎えた斎田では、
神様に豊作を感謝し稲穂を刈り取るお祭りを執り行います。

これを「斎田抜穂の儀」と言います。

斎田の所有者である「大田主(おおたぬし)」と
その親類や奉耕者は儀式の前日に「大祓(おおはらい)の儀」で
身を浄めて心静かに過ごします。

抜穂の儀当日、斎田に隣接して設けられた斎場に県代表者、
大田主及び奉耕者など関係者が参列する中、
天皇陛下より遣わされた抜穂使(ぬきほづかい)や随員(ずいいん)によって
抜穂の儀が執り行われます。

儀式後、全ての稲が刈り取られ乾燥・脱穀の後、
悠紀の新穀・主基の新穀それぞれ唐櫃に入れ大嘗宮の「斎庫」に納められます。

精米は大嘗祭に御飯、御粥としてお供えになるほか、
一部は白酒(しろき)・黒酒(くろき)のお神酒の醸造に使われ、
また玄米は大嘗祭の「稲舂(いなつき)の儀」に使われます。

  ( http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/inochinokotoba/r0109/ )

         <感謝合掌 令和元年10月1日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭 - 伝統

2019/10/05 (Sat) 20:14:53


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/04)

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 1

10月2日、宮内庁の大礼委員会が開かれ、
即位の礼や大嘗祭の日程・式次第の詳細が決められました。
もっとも重要な事柄が土壇場まで遅れました。

 
宮内庁HPに載る資料によると、秘事に属するはずの大嘗宮内の神座がイラストで説明され、
御告文の先例が情報公開されている半面、新嘗の祭りが常陸国風土記に描かれている
としつつ、それが米ではなく粟の新嘗であることには触れていません。

大嘗宮の柱が皮付きの丸太を用いることは説明されながら、
屋根の葺き方には言及がありません。
板葺き屋根に対する昨今の保守派からの批判をかわしたい思惑でもあるのでしょうか。

 
ということで、歴史上の過去の大嘗祭とはどのようなものだったのか、
古典をひもとき、考えてみることにします。
ここでは江戸期の資料を取り上げます。

戦前戦後を通じて、もっとも偉大な神道思想家として知られる今泉定助という人がいます。
歴代首相のほとんどが教えを受けたといわれるほどの人物ですが、
その今泉が大正の御代替わりのときに、国文学者の池辺義象とともに著した
『大嘗祭図譜』(大正4年)という本に、一条兼良の『代始和抄』とともに、
江戸中期の国学者・荷田在満の『大嘗会便蒙』(上下二巻、元文4年)が全文引用されています。

 
大嘗祭は周知のように、応仁の乱後、途絶えてしまいました。
江戸時代になり、東山天皇のときにいったん復活したものの、
次の中御門天皇のときには行われず、その次の桜町天皇のときに
ふたたび行われるようになりました。

 
この中御門天皇から桜町天皇への御代替わりに立ち会った荷田在満は、
前記の大嘗祭の解説書を出版したのですが、
皇室の秘儀を公開したというので公家衆から非難を浴び、
ついには江戸幕府から100日間の閉門を命じられることとなりました。

このときの経緯は在満が「大嘗会便蒙御咎顛末」に記録しています。

 
そんなスキャンダルめいた謂れがあるものの、その内容が確かなものであることは、
180年後、今泉らの著書にそっくり掲載されたことから明らかでしょう。

そこで今号からしばらく、『大嘗会便蒙』を多少私流に現代訳したうえで、
ご紹介することにします。

初回は大嘗祭の歴史です。


『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽1 大嘗祭の歴史

大嘗会というのは、その年の新穀を天子みずから天下の諸神に供したもう儀式である。
諸神ことごとくに嘗めたもうために、大嘗というのだ。
また、新穀を供するため、新嘗ともいうのである。

そもそも新嘗というのは、日本紀神代上に、天照大神の新嘗と見えるのが初めである。
しかしこれはみずから召し上がるばかりで、祭りではない。
同下に、天稚彦(アメノワカヒコ)の新嘗とあるのもまた同じである。

 
人の代になると、仁徳天皇40年に、
「新嘗の月にあたり、宴会日をもって酒を賜る」とあるのが最初である。
けれどもどのように行われたのか、知ることができない。

その後、清寧天皇2年11月、
「大嘗供奉の料より、播磨国司山部連先祖、伊予来目郡小循に遣わす」と見えるのが、
大嘗の字が出てくる初めで、播磨国はすなわち斎国だと見えるから、
大嘗の儀はまさにこのときから始まったといえる。


また、顕宗天皇2年11月に、
「播磨国司伊予来目部小楯、赤石郡において、みずから新嘗供物を弁ず」と見え、
天武天皇5年9月に、「新嘗のため、国郡を卜すなり。斎忌(ユキ)すなわち
尾張国山田郡、次(スキ)丹波国珂沙郡」などとも見えるので、昔は大嘗ともいい、
また新嘗ともいい、さして差別も見えなかった。

その後、大宝元年の令にいたり、すべて大嘗といい、
そのなかで毎年行うのは事小にして、御一世に一度ずつ行われるのは事大なるを、
ともに新嘗とはいわなくなった。


令より後の国史で、貞観延喜などの書に至っては、
御一世に一度ずつの事大なるばかりを大嘗といい、
毎年のは新嘗といい分けることになり、今の世まで続いている。

 
さて、新帝の御即位は、7月以前ならその年に大嘗会を行い、
8月以後なら翌年に行うのが定めで、後花園院の永享2年庚戌までは行われてきたが、
後土御門院の御代の始め、兵乱の最中であったので行われず、
それ以降、中絶し、256年を経て、東山院の貞享4年丁卯になって再興された。

ところが先帝中御門院の御代始めに、また理由があって行われず、
当今(桜町天皇)も享保20年乙卯11月に御即位されたので、
翌元文元年丙辰に行われるべき例だが、行われ難い事情があって、延期された。

同2年丁巳は諒闇だったので、今年戊午、貞享より51年でふたたび再興された。

そもそも貞観延喜の頃に行われた大嘗会は、
その儀式は広大にして、今の世に学び出づるべくもない。

江次第などに載せてあるのと、貞享に行われたのと、今年の儀式とは大方は同じである。

ただし、今年の儀は、江次第よりは略されていて、貞享よりは少し厳格である。(続く)

    ( http://melma.com/backnumber_170937_6866247/  )

         <感謝合掌 令和元年10月5日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭② - 伝統

2019/10/07 (Mon) 18:34:37


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/06)

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 2

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昔も今も2段階で決められる斎田
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 2
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『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽2 国郡卜定と荒見河の祓い

まず国郡卜定ということがある。
これは悠紀(ユキ)主基(スキ)の国郡を、何の国、何の郡と卜い定める儀式である。

悠紀とは日本紀の私記に、「いわいきよまわる」の意味の言葉といわれる。
だが、「いつき」ということばでもあろうか。

主基とは次という意味で、悠紀に次いでものいみする意味である。

さて、悠紀に当たった国の、悠紀に当たった郡、
主基に当たった国の、主基に当たった郡、両郡の稲を用いられる。
そのため前ひろに占い定められるのである。

(斎藤吉久注=米とともに捧げられる粟については言及されていません)

これは8月のうちに日を選び、定められる。
今年(斎藤吉久注=元文3年)は28日に行われる。

その儀は、紫宸殿の西の方に廊下があり、これを軒廊(こんろう)というのだが、
ここに神祇官の官人が連なり座し、そのなかで卜部が両人で亀甲を焼き、
その亀の焼け具合で、悠紀は何の国、何の郡、主基は何の国、何の郡と定めるのだ。

 
昔は数国数郡の名を書き立てて、その中から占ったのだが、
中古以来、国には定まりがあり、悠紀はかならず近江国を用い、
主基は丹波国と備中国とをかわるがわる用いた。

郡は一国に二郡ずつを書き立て、そのなかで一郡を占い定めるのである。

 
このたび(斎藤吉久注=桜町天皇の大嘗祭)は、
悠紀は近江国滋賀郡、主基は丹波国桑田郡に定められた。

この卜定が過ぎて、以後、六条宰相の中将有起卿を兼近江権守とし、
岩崎右官掌紀氏信を近江権大掾として、このほかに池尻右衛門権佐栄房(よしふさ)は
最初から兼近江介である。

したがってこの3人を悠紀国司として、前後ともにことに預かっている。

また、広橋左大弁宰相兼胤朝臣を兼丹波権守とし、
正親町右中将実連朝臣を兼丹波介とし、
庭田右衛門大尉紀氏房を兼丹波権掾として、
この3人を主基国司として、同じくことに預かっている。

 
また、抜穂使として、鈴鹿右近、土山駿府守武屋の両人が近江国滋賀郡松本村へ下り、
鈴鹿内膳、高島右京大夫源蕃信の両人が丹波国桑田郡鳥居村へ下り、
おのおのそのところに到りて、田を卜い定める。

これを大田という。
その田にできた稲を撰子稲という。

(斎藤吉久注=明治42年の登極令では、
「大嘗祭の斎田は京都以東以南を悠紀の地方とし、京都以西以北を主基の地方とし、
その地方はこれを勅定す」(第8条)、

「悠紀主基の地方を勅定したるときは、宮内大臣は地方長官をして斎田を定め、
その所有者に対し、新穀を供納するの手続きをなさしむ」(第9条)などと
定められていました。
 
国ではなく、地方と呼び方が変わりましたが、
二段構えで斎田が決定されるのはいまも変わりません。
 
一方、点定の儀の祭場は、京都の時代とは、当然、変化しています。
京都時代には軒廊で亀卜が行われましたが、
登極令の附式では斎田点定の儀が、大礼使高等官が出席し、
宮中三殿の神殿内で神事を行うことが定められました。
 

今回は、報道によれば、5月13日に、宮中三殿の神殿前で斎田点定の儀が行われ、
亀卜の結果、悠紀地方に栃木県、主基地方には京都府が選定されましたが、
この報道は不正確のようです。

前回も同様ですが、神殿での神事があり、
亀卜それ自体は神殿前の庭に設けられた斎舎で行われたということのようです。
 
賢所ではなく、神殿である点は注目されます。
 
さらに9月18日になって、宮内庁式部職は
悠紀斎田が栃木県高根沢大谷下原、主基斎田が京都府南丹市氷所新東畑の水田に
決定したことを発表しています。
 
少なくとも在満の時代とは時期に相違があります。
前回は2月下旬に悠紀地方・主基地方が決まり、
斎田決定の発表は9月25日でした。

ぢ斎田はすでに決まっていましたが、反対派によるゲリラ活動などがあり、
きびしい情報管理が行われていました)

次に、荒見河(あらみがわ)の祓ということがある。

これは大嘗会に奉仕する行事の弁使ら、これまでの、かりそめに犯した、
軽い罪咎を祓い捨てて、これより清浄にする儀である。

 
大嘗会の散斎は11月朔日からだが、行事の弁使はまず、
これまでの罪咎を祓い、汚穢を除かんがために、9月晦日に河祓をするのである。

すべて祓いは水辺で行われ、すなわち贖物(あがもの)として人形(ひとかた)をつくり、
これにわが罪咎をうつし、河水に流し捨て、あとの残らないようにすることである。

昔、荒見河というのはどの流れなのか分からない。
いまの祓いは、京の西北に紙屋川というのがあり、いまの人は「かい川」と呼んでいる。
この川の高橋というところで祓いが行われるが、名目では荒見河祓といわれる。

 
その儀は、川端に幄を建て、悠紀主基の行事の弁使、中臣卜部が著座し、
弁使が大麻を撫でて息をかけ、卜部がその大麻を地に突き立て、祝詞を読み、
祓いをなし、贖物を流しまつるのである。

(斎藤吉久注=明治の登極令本文および附式にはこの祓いに関する定めはありません。
理由は分かりませんが、失われたのです)

   ( http://melma.com/backnumber_170937_6866824/ )

         <感謝合掌 令和元年10月7日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭③ - 伝統

2019/10/08 (Tue) 18:13:50


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/07)

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都人が見物に押しかけた御禊も今は昔
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 3
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『大嘗会便蒙』上巻 元文三年大嘗会

▽3 御禊と忌火の御飯

つぎに御禊(ごけい)ということがある。

禊も「はらえ」と読み、祓と同じ儀だが、
天子などには禊といい、つねの人には祓という。

これも荒見河祓と同じ意味で、天子はこれより清浄になさるために、
これまでの汚穢を祓い清めようと御禊をなさるのである。

11月朔日から大嘗祭の散斎であるため、10月末に行われる。
今年(元文3年)は29日である。
昔は川辺に行幸があり、行われたのだが、後世は略せられ、
清涼殿の昼御座(ひのおまし)に出御なさって行われる。

その儀は庭上に御贖物御麻を案に載せておき、宮主(みやじ)がこれを奉る。
御贖物は御巫が取り次ぎ、中臣女がこれを奉る。
御麻は祭主が取り次いで、中臣女がこれを奉る
。天子がこれを撫でられ、御息を吹きかけて、返される。
その次に、関白にも贖物を手渡され、関白も祓いをなさる。

昔は、このとき公卿以下も同じく祓をすることが江次第に見える。
いまはそうではない。

(斎藤吉久注=菅原孝標女の『更級日記』に「初瀬詣で」のくだりがあります。
 永承元(1046)年10月25日は、ちょうど後冷泉天皇の御禊が行われる日で、
 世間は大騒ぎでした。

 近親の人たちも「御一代一度の見物で、地方の人も集まってくる。
 初瀬詣で(奈良の長谷寺参詣)なんていつでもできる」と猛反対し、
 夫の橘俊通だけが「いかにもいかにも、心にこそあらめ」と許してくれたのでした。

 この文章によって、加茂川で行われる御禊を京都周辺の人々が見物しに
 殺到したことが分かります。

 しかし応仁の乱で大嘗祭は途絶え、江戸期に復活してのちも、
 かつてのように川辺で行われることはなかったのでした。

 明治の登極令には、御禊の定めそれ自体がありません。
 前回の御代替わりでは、政府の求めに応じて
 皇位継承儀礼について意見を述べた上山春平元京大教授(哲学)が、
 御禊見物に京都中の人が葵祭のときのように押しかけたと
 繰り返し指摘していたことが思い出されます)

 
次に、忌火の御飯を捧げることがある。

忌火は斎火であり、これは11月朔日、この日から大嘗会の散斎であるがゆえに、
前日までの火を捨て、あらためて清き火で御飯を捧げるのである。

その火が改められる初めて御膳であるがゆえに倍膳の仕様以下、
いつものように略儀ではなくして、本式にするのである。

ただし、これは大嘗祭の前に限られたことではなく、
中古までは毎年6月、11月、12月の朔日に、かならずこれを捧げた。

これはみな、その月に格別の御神事があるために、
その月の朔日に火を改めるからである。

その儀は、清涼殿の大床子の前に台盤を立て、その上に御膳を供する。
まず4種といって、酢塩酒醤を供え、つぎに御薬として、
薄鰒、干鯛、鰯、鯵を供え、つぎに御汁物とて、ワカメの汁を供える。

右のように、供え終わったうえに、出御があり、御膳にお着きになり、
御箸を取られ、御飯に突き立てられるばかりにて、入御なさる。
そのあと御膳を撤するのである。

(斎藤吉久注=明治の登極令には、忌火の御飯についての記述は見当たりません。
 荒見河の祓い、御禊と同様、失われたということでしょうか。
 在満が解説した重要儀礼のいくつかが歴史に埋もれてしまったのはなぜでしょう)

     ( http://melma.com/backnumber_170937_6867032/ )

         <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭④ - 伝統

2019/10/09 (Wed) 19:03:15


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/07)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
明治以後は行われない石清水、賀茂両社への奉幣
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 4
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽4 由の奉幣

次に、由(よし)の奉幣ということがある。

由とは大嘗会を行われるべき由である。
奉幣とは幣帛を神に奉られる儀であり、
これは今年この月(斎藤吉久注=元文3年11月)、下の卯の日に、
大嘗会を行われるべき由を、伊勢、石清水、賀茂の3社へ、
勅使をもって告げられることである。

(斎藤吉久注=明治の登極令では、「即位の礼および大嘗祭は
秋冬の間においてこれを行う。大嘗祭は即位の礼を訖(おわ)りたるのち
続いてこれを行う」(第4条)、

「即位の礼および大嘗祭を行う期日、定まりたるときは、
これを賢所、皇霊殿、神殿に奉告し、勅使をして
神宮、神武天皇山陵ならびに前帝4代の山陵に奉幣せしむ」(第7条)
と定められていました。

荷田在満の時代と異なり、即位の礼と大嘗祭がセットになっています。
また、宮中三殿への奉告、伊勢の神宮および山陵への奉幣の二段構えとなり、
いわゆる国家神道の時代とされるころながら、
皇室の社である伊勢の神宮はまだしも、石清水八幡宮や賀茂神社への奉幣は
行われなくなり、代わって山陵へ勅使が差遣されることになったのは注目されます。
前回も今回も、登極令の方式が踏襲されています)

 
この儀は、霜月上旬のうちに日を選ばれる。今年は3日を用いられる。
これには陣の座の儀、神祇官の儀として、同日に両度の儀式がある。

陣の座の儀は、上卿以下が、紫宸殿の西廊、右近の陣の座に著いて、
3社の使いを定められるのである。
また内記に命じて、3社の宣命を作らせて奏聞し、
これを清書させるなどする儀式である。

 
この儀がおわって、すぐに神祇官代の儀がある。

神祇官代には、今日の東山、神楽岡の八神殿(吉田の社の近所にある。
今の人は、あるいは誤って八神殿を吉田の社と思う人がいる)のあたりを用いる。

その儀は、先行事の弁使以下が、ここで3社の幣物を包み、
上卿も、陣の座の儀が終わってすぐにここに来て、
3社の宣命を、3社の使いたちに渡し、すなわち御幣もここよりたつことである。

これは昔は、神祇官の官舎で行われたことだが、
いまは神祇官がないので、神楽岡の八神殿のあたりを、
神祇官の代わりと見立てて、このことがあるのである。

八神殿は昔、神祇官にあったからである。

(斎藤吉久注=明治の登極令附式では、神宮、神武天皇山陵ならびに
前帝4代の山陵に勅使を発遣する儀式について、「11月」との規定はありません。
陣の座の儀と神祇官の儀の区別もありません。
 
登極令附式では、勅使発遣の儀は「御殿」で行われることとされています。
宮中八神殿からの歴史の継承を考えるなら、宮中三殿の神殿で行われるべき
でしょうが、宮中三殿での期日奉告と重なるからでしょうか。
 
発遣の儀は、附式では、御殿が装飾されたのち、
大礼使、高等官、式部官、内閣総理大臣が参加し、
天皇が出御して行われることと定められています。
 
今回は、昨年11月の発表によると、宮中三殿への期日の奉告は
「11月」ではなく5月8日に行われ、神宮や山陵への勅使の発遣は、
同じ日に、宮殿で行われることとされました。
神宮および山陵への奉幣は2日後の10日に予定されました。
 
報道によれば、宮中三殿での期日奉告の儀には、安倍総理が参列したと伝えられます)

   (http://melma.com/backnumber_170937_6867092/ )

         <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑤ - 伝統

2019/10/10 (Thu) 20:23:26


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/10)

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近代化で大規模化した大嘗宮
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 5
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽5 大嘗祭の期日、大嘗宮の規模

ア、大嘗会の期日

さて、大嘗会の当日は、いつも霜月下の卯の日に定まっていて、
もし卯の日が3つあれば、中の卯の日を用いられる。
今年(元文3年)は霜月19日丁卯に当たっている。

(斎藤吉久注=今回は11月に卯の日が3回あり、
 中の卯の日の14日の夜から大嘗祭が予定されています。
 ただし、これは前回も同様ですが、太陽暦(グレゴリオ暦)の月と
 陰暦(太陰太陽暦。天保暦)の日を組み合わせた変則的な期日設定の結果で、
 このためさまざまな不都合が生まれています。

 神饌の稲は極早稲しか対応できず、
 干し柿作りはたいへんな苦労を強いられるそうです。
 明治5年の改暦で、翌年以降、毎年の新嘗祭は11月23日に固定されています。
 一方、平成の大嘗祭は22日でした。
 それらより約10日早いのですから、現場の混乱は必至でしょう。
 もし月も陰暦にするなら、12月20日が陰暦11月の下の卯の日に当たります)


イ、設営

まず、当日の4、5日以前までに、修理職の役人が大嘗宮を作り畢(おわ)る。

(斎藤吉久注=儀式によれば、10月になって用材を準備し、
 大嘗祭当日の7日前に造営に着手、5日間で完成させたようです。
 在満のころは少し違うようです。
 近代になる、大嘗宮が大規模化し、さらに日数がかかるようになりました。
 今回は7月着工、今月末に完成の予定と伝えられます)


ウ、全体の規模

その作り様は、まず、紫宸殿の南の庭に、
東西16間、南北10間(斎藤吉久注=1間が6尺=1・8メートルとすると
28・8×18メートル)の柴垣を作りめぐらす
(昔の垣は東西21丈4尺、南北15丈(斎藤注=1丈が3メートルとすると
64・2×45メートル)である)。

(斎藤吉久注=紫宸殿南庭は東西約60×南北40メートルの広さがあります。
 そのなかに柴垣がめぐらされ、大嘗宮が建てられました。
 在満によると、儀式のころに比べると、桜町天皇の大嘗宮はこぢんまりしています。

 明治以降、巨大化した大嘗宮は紫宸殿南庭では納まらず、
 近代法による最初の大嘗祭となった大正の大嘗宮は、
 京都・仙洞御所の北側を新たに切り開き、東西60間、南北60間を板垣で囲い、
 そのなかにさらに東西40間、南北30間を柴垣で区切ったなかに、
 悠紀殿・主基殿が建てられました(岩井利夫『大嘗祭の今日的意義』昭和63年)。

 今回も、前回より8割程度に縮小されるとはいえ、
 東西89・7×南北88・15×1・1メートルの外周垣で敷地が設定され、
 そのなかに東西58・1×南北40・85×高さ1・1メートルの柴垣が
 めぐらされます(昨年12月の宮内庁大礼委員会資料)。

 近代以後、大嘗宮が大規模化した原因について、岩井利夫・元毎日新聞記者は、
 近代化で、国の威信を世界に示す必要があっことを指摘しています。
 もっと具体的にいえば、参列する皇族用の小忌幄舎や招待者用の
 幄舎が設けられるからです。参列しても祭祀は直接は見られません。

 天皇の祭祀は拝観を予定していません。
 晩秋の夜間の神事です。
 「秘儀」だからです。

 屋外の幄舎は暗いし、寒いでしょう。内外から高齢の要人を招くなら、
 大嘗宮の付属施設ではなく、宮殿内に席を設け、ビデオで解説するなどの
 便宜を図ったらどうでしょうか。
 近代以前の回立殿、悠紀殿、主基殿、膳屋の基本構造だけなら、
 京都の紫宸殿南庭とはいわないまでも、
 東京の皇居宮殿東庭で十分行えるはずです。

 大正の大嘗祭に事務方として携わった柳田国男は、
 「およそ今回の大嘗祭のごとく、莫大の経費と労力を給与せられしことは、
 まったく前代未聞とこと」と批判していますが、現代にも通じます)


エ、柴垣

垣の高さは6尺ばかり。
柴は内の方は北山柴、外の方は萩の柴、いずれも2たけである。
竹で押縁(おしぶち)をし、縄で横に5ところを結う。
4方角に皮付きの桧の副え柱がある。
その柱を柴で太く包み、上の方を開き、すそ細に作る。

前日になって、椎の枝を垣一面にさしめぐらす。これを椎の和恵(わえ)という。

(斎藤吉久注=前回、今回とも1・1メートルで低くなっています。
 参列者から見やすいようにという無用の配慮でしょうか)


オ、皮付きの鳥居

垣の四方にくの木の皮付きの鳥居を立てる。
ただし、南北の鳥居は垣の中央にあり、南北の鳥居は中央より少し南へ寄せる。

鳥居の幅は4つとも8尺ずつ、高さは南西東の3方は一の笠木の下端より9尺、
北のばかりは二の笠木の下端より9尺である。
そうでないと渡御のとき、御菅蓋がつかえるため、あとから改められた
(貞観のころの門は高さが1丈2尺、広さ1丈2尺である。
延喜にいたって、4つとも高さ9尺、広さ8尺となった)。


カ、屏籬

また、西東の鳥居の外に一間ほど置いて、南北2間の袖垣を立てる
(これを屏籬という。昔は長さ2丈5尺あった)。
垣の作り様は四方の垣に同じ。
垣の南北の端には副え柱がある。
これも柴で太く包む。四方の垣の角と同じである。


キ、開き戸

また、四方の鳥居に開戸がある。
これも同じく柴で作り、割竹で縁を四方に回し、
表裏よりも筋交いに綾杉のように当て、
かんぬきは松の皮付き、藤でからくり差し込み(昔の扉はシモト(木偏に若)で作った)。
いずれも外締めである。


ク、もうひとつの鳥居

また、柴垣の内、東西南北の中央に当たり、東西へくぐれる鳥居を1つ立てる。
これもくの木で作る。高さ、幅ともに南西東の鳥居と同じである。
ただ、1間半余ずつ柴垣を立てる(昔はこの垣は長さ南北10丈のうち、
南の端に小門を開き、門より北に9丈、南に1丈あって、中央に門はなかった)。


ケ、もうひとつの屏籬

その垣の南北のはずれに、各1間ほどの柴垣を、東西の行に立てる
(これも屏籬という。昔は2丈あった)。
その東西のはずれの柱は、柴にて包む。
総じて、垣の作り様は四方の柴垣と同じである。

 次回は、悠紀殿と主基殿です。

  (http://melma.com/backnumber_170937_6868053/  )

         <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑥ - 伝統

2019/10/12 (Sat) 19:35:43


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/11)

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大嘗宮の屋根を板葺きに変更するのは政教分離違反!?
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 6
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽6 悠紀殿と主基殿

コ、悠紀殿の祭神、規模

さて、東の鳥居のうちに1間しりぞけて悠紀の御殿を建てる。
このうちに天神を祭られる。
建て様は南北5間、東西3間(昔は長さ4丈、広さ2丈6尺)。

(斎藤吉久注=荷田在満が、大嘗祭で祀られる祭神について、
悠紀殿は天神、主基殿は地祇だと理解しているのは、注目されます)


サ、大嘗宮の整地

まず、あつか草といって青葉を地にしき、そのうえに竹簀子をかき、
そのうえに近江表をしく(昔は大嘗宮に用いられたのはすべて
葛野席、小野席、伊勢の斑席などだった。
いま用いられるのはすべて近江表である)。


シ、悠紀殿の内陣、外陣

南北5間のうち、北の方3間を内陣とし、南の方2間を外陣とする。
内外陣の界には、東西より4尺5寸ずつの張り出しがある。
なかの1間半の間は筵にぬきを当てた開戸が4枚、2枚ずつ蝶つがいで両開きである。


ス、悠紀殿の柱

柱はいずれも松の皮付きである。
立て様は南の方、北の方は1間半ずつの間で、両端と中央とに1本ずつばかりある。
西の方、東の方は、内陣は1間ずつの間で、北の端と外陣の界との柱の外に間柱が2本ある。
外陣は1間半と間中との2間で、南の端の柱から間中北に1本がある。

それより内陣の境の柱まで1間半である。
この外に東西の張り出しのとまりに1本ずつ、すべて内外陣の柱数16本である。


セ、悠紀殿の縁、階

さて、四方に竹縁がある。南の縁は幅1間、残り3方は幅半間ずつである。
南の縁の西のはずれから間中を去って、幅1間半の階を付ける。

その作り様は、皮付きの松の木を2つ割りにして、皮目の方を外になして当て、
そのうえに平らな板を打ち付け打ち付けして、3段にする。

また西の縁の南のはずれから1間半去って、幅1間半の階を付ける。
作り様は、南の階に同じである。


ソ、悠紀殿の壁、南表の開き戸

さて、四方壁はない。
みな近江表を当て、皮付きの松の木でぬきを5本ずつ入れる。
ただし、南表は幅3間のうち中央の柱から西の方1間半を入口とする。
開き戸がある。

近江表に皮付きの松の木にて四方の縁とぬきを3つずつ当てる。
このようなものを1間半の間に4枚ある。
ただし、2枚ずつ蝶つがいにつなぎ、南開きにする。
かんぬきは、これも松の皮付き、藤でからくり外締めである。

この開き戸のうちには葭の簾がある。
へりは白紙で付ける。
簾の内の方は白い布の幌を垂らす。
幌のうえに白い布の房を2筋垂らす。
花鬘むすびが8段ある。

また、中央の柱から東1間半は四方のように近江表を当てたうえに、
ただ葭の簾を垂れておく。


タ、悠紀殿の西表、北表、東表

また、西表は、これも階の付いた1間半の間を入口とする。
開き戸はこれも近江表で、松の木を当てることなど、
すべて南表の開き戸と同じである。

ただし、この開き戸は1間半の間に2枚で両開きである。
蝶つがいはない。

そのうちに葭簾、巻き上げ布、幌房など、南表に異なることはない。

入口より外、内陣外陣あわせて3間半の間、ならびに北表の分は
近江表とぬきとばかりで、簾もかけないで、
また東表は内陣の間3間、ならびに南の端、間中の間は北面と同じく、
近江表とぬきとだけである。

残る1間半の間は、そのうえに葭の簾を垂れておく。
南表の東の間と同じである。


チ、悠紀殿の鴨居から上棟の下まで

さて、南表の鴨居から上棟の下までは、
3間ともに、近江表にぬきを当てただけである。
北表もこれと同じである。

ただし、北は下までこの通りで、ひと続きである
(延喜式には東南西の三面、みな簾をかける。ただし、
西面2間は簾を巻くと見える。いまはこれと同じではない)。

御殿の内天井はみな近江表である。


ツ、悠紀殿の屋根

さて、屋根の長さは、南北7間、
ただし南の端は縁の端と等しく、北の端は縁より間中が長い。
南北ともに柴垣より屋根の端までの間、1間半ずつある。

東西は勾配に下がって、軒口と縁の端と同じである。

屋根はすべて萱葺き、棟は皮付きの松の木で、南北の端にかたそぎがある。
外の方をそぐ。棟に鰹木を渡すことが3箇所、南北のけらばの下に榑風がある。
千木といって、期の頭を出すこと、棟より西に4つ、東に4つある。

萱葺きの下に、南北に渡した木がある。
棟より西に8つ、東に8つある。
その8つのうち、最上にあるのは白木で、その次は黒木、
これより白木と黒木を互いに置いて、第8本の黒木は鴨居の巡に当たる。

東西合わせて16本あり、ともにその端が南北に余り出でる。
ただし、榑風よりは1間ばかり奥の方で、萱葺きの屋根裏に見える。

(斎藤吉久注=宮内庁は昨年暮れの大礼委員会で、大嘗宮の設営方針を示し、
「儀式の本義に影響のない範囲での工法・材料の見直し」「建設コストの抑制」
を行うことを決めました。

その結果のひとつが、「回立殿、悠紀殿、主基殿の屋根材を
萱葺から板葺に変更」することでした。

古来、萱葺きとされてきた大嘗宮の屋根を経費節減のために変更することは、
儀式の本義に影響しないといえるのでしょうか。
皇室の伝統より経費節減を優先させなければならない理由は何でしょうか。
 
政府は大嘗祭を神式の宗教儀式と解釈し、
このため政教分離の観点から「国の儀式」とはできないという姿勢ですが、
経費節減を根拠に儀場の設営のあり方に介入することは政教分離違反ではないのでしょうか)


テ、主基殿

さて、また柴垣の西の鳥居のうちに、1間しりぞけて主基の御殿を建てる。
このうちにて地祇を祭られる。

建て様は、大きさが入口の付け様まで悠紀の御殿に少しも異なることがない。
ただ、片そ木のそぎ様は外の方をそがずに、下の方をそぐ。
これよりほかには変わるところはない。


 次回は、回立殿、膳屋その他です。

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         <感謝合掌 令和元年10月12日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑦ - 伝統

2019/10/13 (Sun) 19:15:46


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/12)

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回立殿は板葺き、膳屋はプレハブの異常
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 7
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『大嘗会便蒙』上巻 元文3年大嘗会

▽7 回立殿、膳屋その他

ト、回立殿

さて、紫宸殿の東庭、内侍所の西の方、少し北に寄って、回立殿を建てる。
これは大嘗宮に渡御なさるとき、まずこの殿に渡御があり、御湯を召され、
御装束を改めなさるところである。

ナ、回立殿の建て様

建て様は、南北3間、東西5間(昔は長さ4丈、広さ1丈6尺だった)。
ただし、西の方3間を1間とし、これにはそのなか2間四方に畳を敷き、
東の方2間を1間として、これは竹簀子である。

その2間の界は、南北3間のうち、なかの1間は開き戸2枚で、
南と北との1間ずつの張り出し、近江表にぬきを入れることは大嘗宮と同様である。


ニ、回立殿の柱

柱の立て様は、みな1間ずつの間で、4面合わせて16本あり、
2間の界に2本、あわせて柱数18本である。


ヌ、回立殿の縁、階段

四方に縁はない。南面西から第4の柱と、第5の柱との間、1間に箱段を付けて、
渡御のときに降りられる道とする。北面、西より第2の柱と、第3の柱との間は、
1間は御茶湯所との界となる。

同じく第3の柱と、第4の柱との間は、1間に箱段を付け、
御茶湯所へ下がる道とする。
西面、南第2の柱の南から、第3の柱の少し北までは、
1丈の間に、紫宸殿寄りの橋廊下を取り付ける。


ネ、回立殿の壁、開き戸

さて、四方に壁はない。近江表を当て、皮付きの松の木でぬきを入れる。
ただし、南面西から第2の柱と第3の柱との間は、1間は2枚の開き戸である。
また第4の柱と第5の柱との間は、1間も2枚の開き戸で、かんぬきは内締めである。

また東面は幅3間のうち、なかの1間の間と、
北面西から第3の柱と第4の柱との間は1間と、西面3間のうち、
なかの1間の間と3所ともに2枚の開き戸で、かんぬきは外締めである。


ノ、回立殿の天井、屋根

殿のうちは、天井はみな近江表である。
屋根は苫葺きで、桁行が東西5間、梁行が南北3間である。

(斎藤吉久注=今回、宮内庁は屋根を苫葺きではなく、板葺きとすることを決めています)


ハ、回立殿の廊下その他

さて、18間廊下の中央に、回立殿の西から、第2の柱から第4の柱までの間に当たって、
2間の間は、御廊下を取り放し、回立殿の北の端から18間、廊下の北の端まで、
南北3間半、東西2間のうち、土間に板を敷き、そのうえに畳を敷き、
苫葺きの屋根をかけ、そのうち南の方2間四方は御茶湯所とし、近江表で東西を囲む。

ただし、外の方は板囲いである。
北の方の2間に、1間半のところはただ北の方、小御所への通い道である。
その西北の隅に、西の方、御廊下へあがるべき箱段を付ける。


ヒ、紫宸殿から回立殿まで

さて、紫宸殿の東の縁の、東南の隅の少し北より、回立殿の西表、
中央より南へ少し寄ったところまでに、筋交いに橋廊下をかける。
長さ7間半、幅は1丈ある。南北両方、近江表で囲い、竹と松の皮付きとで
押縁をうち、屋根は苫葺き、垂木駒居はみな竹である。


フ、回立殿東側・西側の板囲いその他

さて、回立殿の東の方、1間余も東へ寄せて、北は18間廊下まで、
南は大嘗宮の北の柴垣の通りまでに、板囲いを建てる。
その板囲いの南の端に、東の方から入るべき入口を付ける。

そのところより柴垣の東北の角までに、また板囲いをめぐらせる。
また、紫宸殿の西より、第2の柱の通りに当たり、北は紫宸殿の縁のもと、
南は大嘗宮の北の柴垣までに、また板囲いを建てる。


ヘ、悠紀の膳屋

また月華門の南の廊を、近江表で囲いめぐらし、悠紀の膳屋とし
(昔の悠紀、主基の膳屋は柴垣の内にあった)、悠紀の神膳をここで料理する。

その膳屋の東南の隅に、長さ南北2間、幅1尺5寸の棚を作る。
割竹を釘にして打ち付けるのである(昔の棚は*(木偏に若)でつくる)。
棚の高さは土間から2尺余り、供神のものは、盛り立てて、この棚の上に置くのである。

その棚のある通りには、外の方、筵囲いの上に、椎の葉を当て、割竹で押縁を二通り当てる。

(斎藤吉久注=宮内庁は今回、木造ではなく、
組み立て式建物への変更を決めました。異常です)


ホ、主基の膳屋

また、月華門と宜陽殿との間の廊を、同じく近江表で囲い隠し、
主基の膳屋とし、主基の神膳を、このところで料理する。

この膳屋には竹棚はない。


マ、膳屋の開き戸

2つの膳屋はともにそれぞれその西南の隅に、西の方より入るべき開き戸がある。
竹の折り戸の両面から近江表を当てたのを、縄で結びつけておくのである。


ミ、御行水の釜

また月華門の北の廊の内に、御行水の湯を沸かす釜を置く。
釜の座は3尺ばかりで、四方の廊の柱に、近江表を当てて、囲いめぐらし、
3尺ずつの腰板を当てる。ただし、ここは主殿寮の役人が作る。

総じて、大嘗会について、新たに作られる所が昔は夥しいことで、
書き連ねるべきことではない。いま作られる所は大略、以上である。

(斎藤吉久注=大嘗宮の構造について、ここまで詳しい資料は、
私は読んだことがありません。

戦前・戦後を通じてもっとも偉大な神道思想家といわれる今泉定助が、
大正天皇の即位礼・大嘗祭を目前に編述した『御大礼図譜』
(池辺義象との共編。大正4年8月)の付録に、
この書を活字に直して全文引用したのには意味があることでした。
 
ただ、凡例に、大嘗祭が戦国乱世以後、中絶し、
徳川時代に再興したのではあるけれど、古儀を遵奉していることは
『大嘗会便蒙』を読めば分かると指摘する一方で、
斎田点定について、上古は全国から卜定されたのを、中古以来は国を限り、
郡のみを卜定されていたが、

明治以降、これを改め、大正以後は京都の東西に悠紀主基を
卜定されることになったと解説しているだけなのは十分とはいえません。
 
端的にいって、大嘗宮の規模拡大について、今泉はどう考えていたのでしょうか。
 
宮内庁の大礼委員会は、大嘗宮の規模や形態について歴史的な変遷があり、
近代以降、大正・昭和に定型化され、前回は昭和の大嘗宮に準拠したと理解し、
そのうえで今回、屋根や柱の変更を決めています。
 
大礼委員会は「儀式の本義に影響のない範囲」「建設コストの抑制にも留意」
と説明していますが、過去の歴史にない変更はあり得ないのではありませんか。
荷田在満ならどう思うでしょう。
 
最後に蛇足ながら、在満の『大嘗会便蒙』上巻は大嘗会の歴史、斎田点定、
荒見河の祓、御禊、由の奉幣、大嘗宮の設営などについて説明していますが、
一条兼良『代始和抄(御代始鈔)』(寛正2年)に解説されている抜穂、
標山についての言及がありません。
 
明治の登極令では民衆との接点が生まれる荒見河の祓、御禊、標山が失われ、
その一方で、登極令では大嘗祭前日の鎮魂式が規定されています。
既述したように、登極令以後、石清水、賀茂社への奉幣はなくなり、
山陵への勅使参向に代わりました。その背後に何があるのでしょう)

 次回から『大嘗会便蒙』下巻を読みます。

   ( http://melma.com/backnumber_170937_6868700/ )

         <感謝合掌 令和元年10月13日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑧ - 伝統

2019/10/14 (Mon) 19:06:55


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/13)

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御神座、御座を誰がどのように設えるのか
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 8
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『大嘗会便蒙』下

大嘗会当日次第

▽8 明け方から始まる祭祀

ア、平明、中臣、大嘗の宮殿および門を祭る

平明は卯の刻に用いられる。
中臣は祭詞のことに預かる職である。
今度は藤波三位和忠卿が勤められる。大中臣氏だからである。

大嘗宮殿を祭られるのは、大殿祭といって、殿中に禍がないように、
屋船久々遅命(やふねくくのちのみこと)、
屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)に。
大宮売命(おおみやのめのみこと)を取りそえて祭られる。

また、門を祭られるのは、御門祭といって、
荒ぶるものが入り来たるのを防ぎたまうために、
櫛磐?命(くしいわまどのみこと)、豊岩?命(とようけまどのみこと)を
祭られる儀である。

中古までは、毎年6月12月に、大殿御門の祭りがあった。
いまの代は絶えたのだろうか。つねには聞かなくなった。
また、この祭りは大嘗の当日ではなく、寅の日以前に行われることとみられる。


イ、兵庫寮、神楯戟を大嘗宮の南門の東西に立てる。各1枚1竿

兵庫寮は武器を司るがゆえに、楯戟を立てる。
今度は川越兵庫頭賢兼がこれを励む(昔は石上榎井両氏の人が内物部を率いて、
これを立てた。兵庫寮は預からなかった)。

神楯は長さ3尺ばかり、広さ1尺2寸ばかり。
頭は闕たるがごとくで、とがったところが3つばかり出ている。
裏の方に執っ手がある。
表裏ともに黒塗りである(昔の楯は、岳も長く、幅も広く、数も南北門で4枚あった。
後世は略されて、南門にばかり2枚をおく)。

(斎藤吉久注=荷田在満が要所要所で、
昔の大嘗祭との相違点を細かく指摘していることは注目されます。
そしてそのことが公卿たちの反感を招き、在満が幕府から閉門を命じられる
一因ともなったのでした)

神鉾は、柄の太さが7寸、廻りは黒塗り。
鍔には金箔を貼る。鍔の下に大和錦のひれがある。
ひれの末が3つに裂けて、3つともその端がとがっている。
この鉾は大嘗宮の南門の外の東西に、ひと竿ずつ地に突き立てる(昔はこの鉾が8本だった)。

楯は鉾の外の方に一枚ずつ表を外の方になして、柴垣に立てかけておく。


ウ、次に伴、佐伯各1人、南門の左右の外腋の胡床に分かれて著く

伴、佐伯は、氏の名が昔からこのような大儀には、
伴氏と佐伯氏と、大門を開閉することである。
中古まで両氏の人が多かった。
いまは両氏ともに少しだけ残っているため、代わりに他氏の人を用いられる。

こんど、伴氏の代わりには榊原右衛門大志和気董正、
佐伯氏の代わりには岩崎右官掌紀氏信がこれを勤める。

胡床は腰をかけるものである。
伴氏の胡床は、南門の外の左の方にあって西面し、
佐伯氏の胡床は右の方にあって東面する。
ただし、両人とも、少し南へ曲げて向かう。正確に東西には向かわない。


エ、次に、式部、大忌の版位を南門の外庭に設ける

式部は礼儀を司る官であるがゆえに、版位を設けることを役とする。
今度は、宗岡式部少丞経重がこれを勤める。

大忌とは大斎である。大嘗につき斎戒する。
諸司のうち、厳密に斎戒するのを小忌といい、大概に斎戒するのを大忌という。

昔は諸司百官のうち、卜にあたって神事に預かるものは小忌であり、
そのほかはみな大忌であった。
いまはただその風を残して、小忌の公卿何人、大忌の公卿何人と定められる。

このたびは、大忌の公卿は、醍醐大納言兼潔卿、清閑寺中納言秀定卿の両人である。

版位とは、版は札である。位は場所である。

これは朝廷で、何ごとにつけ儀式が行われ、
庭上に大勢が列立するとき、広いところだから、
その出仕する人の心に任せて列立すれば、その場所がよろしくないから、
それ以前にここに何位の立つべき場、ここに何官の立つべき場という印に札を置く。
その札を範囲ともいい、版とだけともいう。

昔の版位は、大きさが7寸四方、厚さ5寸と儀制令に見られるが、
いまはやや大きく見える。
ここに設ける版位は、下に見える大忌の公卿の初の座より進み、
拍手する場所の印に、南門の外に置くのである。


オ、大臣、打拂筥を取り参上す

これより下6箇条は、大嘗宮の内をしつらう所作である。

打拂筥とは、打拂の布と位って、神座を拂う料の布を入れた柳筥である。
大臣は、これを大嘗宮まで持参なさるだけである。


カ、次に参議、弁、坂枕を舁く

坂枕というのは、大嘗宮神座の八重畳の下に敷く枕である。
これまた参議と弁とこれを舁いて、大嘗宮まで持参するだけである。


キ、次に侍従、内舎人、大舎人ら、神座、御座等を舁き参入

侍従は石井侍従行忠朝臣、内舎人は西村飛騨守則貞、
大舎人は荒木大舎人少丞高橋栄庸、これを勤める。

神座は1丈2尺の畳、9尺の畳、6尺の畳、八重畳などである。
御座は主上の御座の半畳である。
これまたいずれも大嘗宮まで持参するだけである。


ク、次に掃部、殿内に入り、これを供す

掃部は座を布き、席を設ける役なので、これを供するのである。
当日、出仕するのは、押小路掃部頭師守、清水掃部助藤原利音、
平岡掃部少丞藤原俊方の3人である。

これは上に見た大臣以下の持参するものを飾り設えるのである。

まず神座は内陣の中央に1丈2尺の畳を敷き、
そのうえに6尺の畳を、たてに2畳ずつ二重かさねて、4畳敷く。
この4畳の内、南の方の2畳には、白布の裏がある。
そのうえに9尺の畳を敷く。

この畳はこれより下の畳と南の端をそろえて敷くので、
北の方は3尺あくことになる。
そのあいたところに、6尺の畳の上に錦の御沓1足を北面に置く。

この9尺の畳は、昔は7畳を重ねて敷き、
そのうち1畳を少し東の方に引き出して、
その引き出したところに打拂の筥を置くとあり、

貞享には、ただ4畳かさね、そのうち上の2畳に白裏をつけ、
下の2畳を少し東へ引き出して、その引き出したところの南の端から、
すこし北の所に打拂の布を置かれ、筥はその東に畳を離れて、置かれる。

このたびも貞享のようなのか、神秘なので、
その役人が語らないので、詳らかではない。

この9尺の畳の上、南の端に坂枕を敷いて、
そのうえに9尺の八重畳を敷いて、これを神座とする。
すべて畳は白縁である。

また御座は神座の東、八重畳の中央から北の方へ寄せて巽向に半畳を敷く。
神座、御座のしつらい様は、悠紀の御殿にひととおりかくの如しで、
また主基の御殿にもひととおりかくの如しで、少しも変わることはなく、
ふたとおり設けるのである。

 次回は回立殿から。

  ( http://melma.com/backnumber_170937_6869164/ )

         <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑨ - 伝統

2019/10/15 (Tue) 21:40:18


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/14)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 9
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽9 大嘗祭に携わる官人たちの今昔 1

ケ、次に中臣、忌部各1人、縫殿大蔵等の官人を率いて、衾単を悠紀殿に置く。
  主基もこれに同じ。内蔵の官人を率いて、御服二襲絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭
 を回立殿に置き奉る

 中臣が当日、出仕するのは、藤波三位和忠卿、伊勢大宮司長矩の両人である。
 いずれも大中臣氏だからである。

 忌部も中臣と同じく、祭礼のことに預かる役である。
 昔は忌部氏の人が多かった。
 いまは大方消えたために、他氏の人を代わりに当てる。
 このたび忌部代として出仕するのは、
 伏原右兵衞権佐宣條、行事官神祇大祐紀春清の両人である。

 縫殿は衣服を司る役であるため、衾単のことに預かるのである。
 このたび縫殿の官人は深井縫殿大丞橘蕃術(しげみち)、
 大蔵の官人は清水大蔵少丞藤原利尹がこれを勤める。

 御衾御単はいずれも生(すずし)である。
 御衾は八重畳の上にのべ敷いて、御単は御衾の上、南の端のところにたたみて置く。

 内蔵は御服を司る役で、
 このたびは内蔵寮の年預出納(ねんよしゅっとう)右近将監職甫が
 これを勤める。

 御服は白生(しろすずし)の御祭服と白御下襲を一襲として、
 悠紀の御殿に御せらるるときの料の一襲、主基の御殿へ御せらるるときの料の一襲、
 あわせて二襲である。

 絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭というのは、
 *(巾ヘンに僕のつくり)頭はかんむりである。
 つねの御冠は羅で包み、菱をとじ付けて、有文のよしである。

 絹の御*(巾ヘンに僕のつくり)頭は絹で包み、菱のとじ付けはない。
 神事であるがゆえに、無文を用いなさる。

 この御服は回立殿内の南辺にあり、西の中央に当たって、一襲ずつ並べておく。
 御冠は柳筥にすえて、御服の西に並べておくのである。


コ、次に、神祇官1人が、神服(かんはとり)の宿禰を率い、
  入りて、繪服(にぎたえ)の案を悠紀殿の神座の上(ほとり)へ奠く。
  主基も是に同じ。

 忌部2人が入りて、麁服(あらたえ)の案を同座の上へ奠く。主基もこれに同じ。

 繪服、麁服ともに、ここは神服なるがゆえに、神祇官忌部がこれにあずかる。
 神服の宿禰は姓氏の名で、古来、神服を織ることを業とする家である。
 いまはこの姓の人はいないので、他氏の人を代わりに立てる。

 このたびの神服宿禰代は小野主計大丞紀氏兼がこれを勤める。

 繪服は「にぎたえ」と訓ずる。
 「にぎ」は和なる儀、「たえ」は絹布の総名で、
 「にぎたえ」はすなわち絹の古名である(昔は、このにぎたえは
 必ず神服が織ったものを用いた)。

 麁服は「あらたえ」と訓ずる。
 「あら」は麁悪の儀で、「あらたえ」はすなわち布の古名である
 (昔は、このあらたえは必ず阿波国忌部が織ったのを用いた)。

 このにぎたえ、あらたえは、各竹のひげこに入れ、
 四角に龍眼木(さかき)の葉をさして、八脚の案にのせる。こ
 れを繪服案、麁服案という。

 神座上は神席のほとりである。うえではない。
 この2つの案は神座の北辺、左右に分かち置く。
 繪服の案は西にあり、麁服の案は東にある。

(斎藤吉久註=麁服はふつうは麻の織物といわれますが、
 在満は単に「布」としか説明していません)


サ、次に、神祇官、内膳膳部等を悠紀の膳屋に率い、神饌を料理する

 内膳は御膳を司る官であるがゆえに、神膳を料理する。
 昔は、内膳官は高橋氏と安曇(あずみ)氏と、両氏からこれに任じた。
 その後、安曇氏が絶え、高橋氏ばかりになって、両氏がそろわないので、
 高橋氏が伴氏のうちの人を安曇氏代とした。

 このたびは高橋氏内膳は浜島内膳奉膳(ぶぜん)等清(ともきよ)がこれを勤め、
 安曇氏内膳は石塚左近伴嘉亭がこれを勤める。

 膳部は内膳に属する職であり、俗にいう料理人である。
 膳屋の作り様は、上に記した。

 神饌は神膳というのと同じで、供神のものである。
 御飯米御粥、粟の御粥、和布羹、鮮物4種、干物4種がある。

(斎藤吉久注=荷田在満が、国郡卜定のくだりでは米のみで、
 粟について言及しなかったのに、ここでは大嘗祭の神饌に
 米と粟があると解説していることが注目されます)


シ、主殿寮、忌火をもって燈燎を両院に設ける。おのおの2燈2燎

 主殿寮は燈燭を司る燭であるので、燈燎を設ける。
 このたび出仕するのは小野主殿権助重威、小野主殿少丞職秀の両人である。

 忌火は斎火であって、別段の火があるわけではない。
 新たに火を鑽って、大嘗宮にともすがゆえに忌火というのである。

 燈燎とは、燈はとみし火で、燎はたき火であるが、
 このところでは大嘗宮のうちの北の端にある黒木の燈楼をさして燈といい、
 中央にある白木の燈台をさして燎というとも見える。

 両院は悠紀殿と主基殿とである。一院に2燈2燎ずつ、両院で4燈4燎、
 あわせてともし火の数は8つである。

 昔の燈は、布で燈柱とした。いまはそうではない。


ス、伴、佐伯、門部を率い、庭燎を南門外に設ける

 伴、佐伯は、上に述べた、胡床に著いた両人である。
 門部は衛門府の下に属し、御門を守る者である。

 この庭火は、大嘗宮の南門の外、正面に1カ所にこれを置く。
 伴と佐伯と、おのおの設けるのではない。
 また昔は、門部8人で、この火をたいた。いまは2人で焚くのである。


セ、主殿寮、大忌の御湯を供す

 湯沐のことも主殿寮の役である。
 大忌の御湯とは、大忌の意味は上に註したごとしである。
 御斎戒が重いがゆえに、御湯をたびたび召される。

 そのまず一度召される湯を、大忌の御湯と名づけ、
 のちに両度召されるのを小忌の御湯と名づけているだけである。


 次回は新帝のお出ましまでです。

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         <感謝合掌 令和元年10月15日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑩ - 伝統

2019/10/16 (Wed) 19:37:22


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/15)

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大嘗祭に携わる官人たちの今昔 2
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 10
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽10 大嘗祭に携わる官人たちの今昔 2

ソ、亥の刻、回立殿に御す。帛御衣。警蹕せず。入御ののち、ことに高声を禁む

 御すというのは渡御されることである。
 帛御衣は白絹の御袍で、天子の御神事に著御の御衣である。

 まず、本殿で御衣を召し、回立殿まで渡御なさる。
 御衣紋は高倉前の中納言永房卿、御前衣紋は坊城大納言俊将卿が参られる。

 警蹕は先をおうと調して、天子出御のときなどに、
 人々慎めよとの戒めに、近衛の将が声を上げて、ををををと呼ぶことである。

 しかしながらいまの世は、ををとはいわずに、直に警蹕と呼ばれるのは誤りである。
 つねのときの出御には、かならず警蹕する。
 このときは御致斎によって物音がなく静かならんがために、警蹕するのである。

 入御とは、ここでは、回立殿にお入りなさるのをいう。
 入御以前からも高声高音は禁じられるのだが、入御からのちはことに戒めるのである。

 昔は、回立殿に渡御なさるのに、鸞輿や腰輿などを用いられた。
 これは本殿から遠いからである。
 いまは渡御の間に土間がないため、御歩きなさる。

 ただし、夜中であるため、脂燭の殿上人がいる。
 このたびは五辻右衛門佐盛仲朝臣、堀河河中務大輔冬輔朝臣、
 船橋右兵衛佐親賢、富小路右京大夫総直、山科内蔵頭師言、
 北小路左兵衛権佐光香、藤井新蔵人卜部兼矩が、各燭を執り前行される。

 また内侍両人が剣璽を持って従い申し上げる。
 扶持将といって、介添えに近衛の次将1人ずつが内侍につく。
 このたびは東久世右中将通積朝臣が宝剣を扶持し、
 植松右中将賞雅朝臣が神璽を扶持される。


タ、関白、便所に候す

 当時の関白は一條兼香公である。
 便所は便宜のところであって、俗にいう勝手のいいところである。
 この間、関白の座所は定式がない。
 いずこなりとも便なるところに候しなさるのである。


チ、小忌の公卿、巽角庭上の座に著く。西面北上

 小忌の公卿の義は、上の大忌版位の下に註してある。
 このたびの小忌の公卿は大炊御門大納言経秀卿、
 東園中納言基*(木偏に貞。もとえだ)卿、松木宰相中将宗長の朝臣の3人である。

 庭上は回立殿の庭上である。
 回立殿の東の方の、板囲いの内殿より南に当たって、
 板囲いのもとに初めからすごもを敷き、そのうえに畳を敷いて、3人の座を設けておく。
 そして3人の北の方を上座とし、西向かいに座につかれるのである。


ツ、大臣1人、小忌を著け、坤の角の座に就く。東面

 この大臣は、すなわち大嘗宮へ渡御なさるときの前行を勤めなさる。
 これを前行の大臣という。このたびは一條右大臣道香公がお勤めになる。

 これも上世にはひととおりには見えず、
 中古以後は私の小忌、諸司の小忌、出納の小忌、如形(かたのごとく)の
 小忌などといって、裁縫品々があった。いずれももとは私の小忌であるのを、
 略して製したものと見える。
 模様もいろいろあり、大嘗の当日、出仕の人々は大方小忌を着るのである。

 この大臣の座は、回立殿の西南、紫宸殿の東階の南に当たっていて、
 小忌の公卿と遥かに隔てて、対座にすごものうえに畳を敷き置き、
 大臣はこれに東向著座なさるのである。

テ、大忌の公卿、著座。南鳥居の外、北面東上

 大忌の公卿のことは、大忌の版位の下に註した。
 昔は大忌幄といって、南門の外に幄を建て、大忌の人は幄中の座に著いたが、
 貞享(斎藤吉久註=東山天皇の大嘗祭)ならびに
 このたび(斎藤吉久註=桜町天皇の大嘗祭)などは、幄を略されて、
 ただ簀薦のうえに畳を敷いている。

 ただ、貞享には南の鳥居の外の少し東に、両人が南北に対座された。
 このたびは鳥居の外の正中の巡に当たって、両人ともに北面で、
 醍醐大納言は東、清閑寺中納言は西の方に座せられる。


ト、次に主殿寮、小忌の御湯を供す

 小忌の御湯のことは、上の御湯の下に註した。こ
 の御湯は回立殿の東の戸から供する。


ナ、御湯殿のことあり

 これは回立殿の東の間、竹簀子のところで、御湯を召されるのである。
 蔵人頭、五位の蔵人、六位の蔵人などが奉仕なさる。


ニ、次に御祭服を著く

 これは上に見た白生の御祭服で、すなわち中臣忌部の、内蔵官人を率いて、
 回立殿に置いた、二襲の御服のうちの御祭服である。

 これまで著御なさった帛の御衣御下襲を改められて、
 御祭服一襲を著御なさり、御冠をも絹の御冠に改め、
 御*(巾偏に責)を御巾子に回されるのである。
 ただし、御表袴以下は、中古以来、改めなさらない。

 御衣紋は高倉前中納言永房卿、御前衣紋は葉室前大納言頼胤卿が参られる。


ヌ、次に御手水を供す

 陪膳は蔵人頭1人で、このたびは庭田頭中将重煕朝臣が勤められる。
 役送は五位蔵人2人で、勧修寺右中弁顕道、葉室権右中弁頼要が勤められる。


ネ、采女、時を申す

 この采女は、このたびは高橋采女正宗直がこれを勤める。

 回立殿の南の戸の辺について、これを申し上げる。
 ただし、この采女は昔の書に見られるのは女の采女であるようで、
 男官の采女司がこれを申し上げることはいまだに甘心しない。


 次回はいよいよ新帝のお出ましです。

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         <感謝合掌 令和元年10月16日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑪ - 伝統

2019/10/17 (Thu) 19:33:08


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/16)

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回立殿から悠紀殿への渡御
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 11
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽11 回立殿から悠紀殿への渡御

ノ、出御。その道、大蔵省、あらかじめ2幅の布単を敷き、宮内輔、
  葉薦をもって御歩に随い、布単の上に敷き、掃部寮、御後に随い、これを巻き、
  人はあえて踏まず

 これは回立殿より大嘗宮まで渡御の道である。

 先立って大蔵の官人が2幅の単の布を敷き置く。

 その敷き様は、回立殿の竹簀子の間の、南の方へ下る踏み段の下から南へ敷く。
 板囲いの手前8尺ばかりのところから西の方へ折れて敷く。
 大嘗宮の北の鳥居の前から南へ折れて敷く。

 鳥居をくぐり、行き当たりの袖垣と鳥居との中央から西へ折れて敷く。
 袖垣の西の端と主基殿の縁の端との中央から南へ折れて敷く。
 正中の鳥居の前から東へ折れて敷く。
 鳥居と悠紀殿の西の縁の端との中央から南へ折れて敷く。
 南の柴垣と悠紀殿の南の縁との端との中央から東へ折れて敷く。
 南階の中央に当たって北へ折れて、階下まで敷く。

 これが悠紀殿への渡御の道である。
 昔は柴垣の内の地面には8尺の布を敷くと見える。いまはそうではない。

 宮内は掃部の管領の官であるがゆえに葉薦を敷くのである。
 このたびは生島大輔治孝朝臣がこれを勤める。

 これはひととおり布単を敷いた上にまた葉薦を敷いて、そ
 のうえを渡御しなさるのである。

 ただし、前方に敷き置くのではなく、御歩の次第に、
 御先へせんぐりに膝行して敷きゆくのである。

 昔は宮内輔両人が左右に膝行して、萱の薦を敷くとある。いまはそうではない。

 掃部の官人は御跡に随い、これを巻く。
 ただし、一度に巻かないで、御歩の次第に御後からせんぐりに巻きゆくのである。

 天子のほかの人はこの薦を踏まない。
 ただ、関白は御裾を持ちなさるので、少しは踏まれなければできない。


ハ、まず大臣、中臣忌部を率いて、前行す。
 大臣、中央にあり。中臣、左にあり。忌部、右にあり

 この大臣は、すなわち回立殿の坤の角の座に著座している大臣である。
 中央にありというけれど、正中では葉薦を踏んでしまうので、少し傍らへ寄って前行なさる。


ヒ、次に御巫猿女

 御巫は神を斎き祭る女である。
 昔は大御巫、生島の御巫、座摩の御巫、御門の御巫などというのがあった。
 いまは絶えてしまったので、このたびは斎藤讃岐守利盛朝臣の女を御巫に定めた。

 猿女は氏の名前である。
 昔、天照大神が天石窟にこもられたとき、猿女の君の遠祖、
 天の鈿女命が石窟の前でわざをぎし、神がかりして、天照大神を出しなさり、
 また天孫が天降りなさったときに、先立ちした功によって、
 神事の前行などは猿女を用いるのである。

 いまは絶えてしまったので、このたびは山口中務少丞盛行の女を猿女に定めている。

 この御巫、猿女も、大臣に率いられて、左右に前行する。


フ、次に主殿の官人2人、燭を執る

 もっとも上にいえる主殿寮の両人である。
 重威は左に立ち、燭を左の方へなして持ち、職秀は右に立ち、
 燭を右の方へなして持つのである。


へ、近衛の将、剣璽を取り、左右に候す

 近衛は御側を警固する官で、剣璽は宝剣剣璽といって必ず御身に随えて、放たれない。
 したがって近衛の次将がこれを取って御左右に候す。

 このたびは橋本左中将実文朝臣が剣を取って御左にあり、
 小倉右中将宣季朝臣が璽を取って御右にある。


ホ、御歩

 宮内輔の敷きゆく葉薦のうえを歩行しなさるために、御徒跣で、御履はない。
 供奉の人も布単のうえを行くため徒跣である。


マ、車持の朝臣、菅蓋を取り、差し覆い奉り、子部の宿禰、笠取の直、各1人、蓋の綱を取る

 車持朝臣、子部宿禰、笠取直はみな姓氏の名で、
 上世これらの諸氏の人が多かったときに、この役に当てたのを古例として、
 いまはその姓の人がいないために、他氏の人を代として勤めさせる。

 そのなかにも近例必ず六位の蔵人をもって代とする。
 これはいたって御側なる役であるため、蔵人を用い、
 手にわざがあるために高位を用いずに、六位を用いられるとみられる。

 このたびも車持の朝臣代は北小路極?大江俊包、
 子部宿禰代は慈光寺差次蔵人源澄仲、
 笠取の直代は小森丹蔵人丹波頼亮がこれを勤められる。

 菅蓋は、菅にて作られる差しかけ笠である。別に長い柄がある。
 柄の末が曲がって、少し下にその曲がったところに鳳凰のように、
 尾の長くない鳥を作りすえ、その鳥の啄を貫いて紐を下げ、
 その紐の末を蓋の頭にある鐶に通したもので、その柄をもって、
 蓋を天子の御上に差し覆い奉るのである。

 よって車持の朝臣は天子の御後にあり、また蓋の綱は蓋の裏の正中に、
 円に少し出たところがあって、これを綱で貫き、
 その綱の末を左右に分けて、これをとるのである。
 これは御蓋をかならず天子の御頭上へ、巡に置かんがためである。

 よって子部宿禰は天子の御左にあり、笠取直は御右にある。


ミ、次に関白

 御裾に候せられる。これまでが渡御の行列である。


 次回はいよいよ大嘗宮での作法です。

  ( http://melma.com/backnumber_170937_6869632/ )

         <感謝合掌 令和元年10月17日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑫ - 伝統

2019/10/18 (Fri) 19:31:09


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/17)

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悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 12
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽12 悠紀殿の神饌御親供は「神秘」にして語られず

ム、近衛将、剣璽を捧げ、嘗殿の四面の簀子に候し、
  中臣、忌部、御巫、猿女ら、鳥居内に跪き、主殿、燭を執り、階下に候す

 これは天子が大嘗宮に到りたもうたときのことである。
 ゆえに貞享(斎藤吉久註=東山天皇の大嘗祭)の次第には、
 首に「到大嘗宮」の4文字があって聞こえやすい。

 嘗殿西面簀子は西の方の縁である。
 悠紀殿のときも、主基殿のときも、各その西の方の入口の、左右の縁の上に候せられる。

 その宝剣を捧げるのは北の方で、神璽を捧げるのは南の方にあって、
 階下は南階下である。

 天子が宮内におられる間、主殿の官人は始終、燭を取って、階下にいるのである。


メ、悠紀嘗殿に御す。大嘗宮の北門ならびに悠紀殿の西を経て、
  南面戸より入らしめ、大蔵の宮内、掃部、車持、子部、笠取等、鳥居の外に出でて、
  関白、便所に候す

 この道筋は、上の布単を敷くところに、委(くわ)しく書いたごとくである。
 南面の戸は、南向きの入口である。

 「関白、便所に候す」というのは、定まった座の形式がないがために、
 こうはいっても、貞享のときの摂政も、このたびの関白も、
 大嘗宮の外陣の西壁の下に、畳一畳を敷く。
 ここに東面して著座しなさるのである。


モ、小忌群官、各著座。大臣は南鳥居の内の東辺に西面す、
  納言以下は同鳥居の外の西面に北上す

 この座どもは、昔はみな幄中にあった。いまは幄を略されている。
 あらかじめ簀薦のうえに畳を敷いて設けておく。

 右大臣は南の鳥居の内の東辺に、渡御の道の布単から少し南に西面して著座される。
 大炊御門大納言は南の鳥居の外の東辺に西面して著座される。
 東面に東園中納言、その南に松木宰相中将が並び座される。

 ただし、この3人の座は右大臣の座の巡からはやや東に当たって、これを設ける。


ヤ、近代、弁、少納言、外記、史ら、これに著せず

 基本は弁以下も著座することから、小忌郡官であっても、
 右に見た4人ばかり著かれるのである。


ユ、次に開門、伴、佐伯、大嘗宮の南門を開く。
 次に大忌の公卿、庭中の版位に就く。
 南鳥居の外、異位重行。拍手訖(おわ)りて復座

 この版位は、上に見た、式部が設けた版位である。
 大忌の公卿が初著座されたところから少しばかり北に進んで、版位のもとにつくのである。

 「異位重行」という並び方は、貞観儀式、西宮記以下に見えるけれども、
 近代、用いられるのは、後の成恩寺関白の説のように、大臣の後ろに3納言、
 その後ろに三位の中納言、その後ろに四位の宰相が列し、
 二位の中納言は大納言の末に少し退いて列し、
 三位の宰相は中納言の末に少し退いて列する。

 しかしこれは、大勢が列するときのことであって、
 ここの大忌の公卿はただ2人なので、清閑寺中納言、二位の中納言であるために、
 醍醐大納言の西の方に少し退いてつかれるだけである。

 拍手は2つずつ拍つだけである。
 このときの拍手は4つずつ8度、あわせて1人の拍手の数は32である。
 これを八平手という。

 大忌の公卿は、版のもとに就き、跪いて笏を差しはさみ、拍手しおわって、
 小拝して、本の座に復される。


ヨ、亥の一の刻、御膳を供す

 これすなわち、上に見た、神祇官の悠紀の膳屋で料理した神膳であって、
 これより前に東の鳥居の内柴垣の下に八脚の案を立てて、
 そのうえに運び、並べ置いて、それから悠紀の殿内へ供するのである。

 その儀は、伴造が火矩を取って前行し、
 卜部ならびに高橋、安曇の、内膳司、造酒司、主水司などがこれに預かる。

 その供する次第は、神秘であって、語られないので、
 いまの様は知ることがないが、貞観儀式、江次第などに詳しく見えているので、
 大して変わることはないだろう。

(斎藤吉久註=荷田在満が、大嘗祭の祭式について最大限に詳述しているのに、
 神饌御親供、御告文奏上、御直会についてはほとんど説明らしきものがないのは、
 秘儀としていかに強く認識されているかが分かります。

 まさに「凡そ神国の大事ハ大嘗会也。大嘗会の大事ハ神膳に過たることハなし」
 (一条経嗣「応永大嘗会記」応永22年)なのです。

 これに対して、昭和天皇の即位礼・大嘗祭についてまとめた
 『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会、昭和6年)には、
 以下のようにさらに詳しく記述されています。

 「晩秋の夜気身に迫るの時 陛下にはただ1人内陣の中、
 半帖のみを敷かれたる御座の上に厳然として端座あらせらる。
 燈籠の火影ほの淡く、神厳の気自ら乾坤に満つ。

 神食薦以下の女官、相次いで外陣に参入し、蚫汁漬を執れる掌典以下順次簀子に進み、
 捧持せる神饌を女官に伝えて本の所に復す��ぢ女官は受くるに随ひて、
 後取女官に傅へ、後取女官は之を陪膳女官に進め、陪膳女官すなはち進みて
 之を陛下に供し奉れば、畏くも神前に御親供あらせらる。

 御親供訖らせ給へば、御拝礼の後、御告文を奏し給ふ。
 時に8時40分。此の瞬間こそ、大嘗宮の儀のうちにも
 最も崇厳なる御時刻と申し奉るべく、
 御親ら大祀を行はせ給ひ大孝を申べさせ給ふ大御心、大神の感応、如何にましまさむ。

 次に御直会の儀に移る。即ち神に捧げ給へると御同様の御食・御酒を 
 陛下御躬らきこしめし給ふなり。此等の御食・御酒こそ、神々の威霊と
 大御宝の至誠との凝り成せる悠紀斎田の斎米もて造られしなれ」

 また、前回、宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)では、
 次のように記録されています。

 「同(斎藤吉久註=午後)7時06分、天皇陛下が内陣の御座にお着きになった。
 掌典長および掌典次長が外陣に参入して内陣の御幌外左右に候し、
 侍従長は外陣に参入して東方に候した。
 この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。

 海老鰭盥槽の掌典が簀子に進み、これを両采女に伝え、所定の位置に復した。
 陪膳采女および後取采女が御刀子筥及び御巾子筥とともに海老鰭盥槽を奉じて
 内陣に参入した。

 多志良加の掌典が簀子に進み、これを後取采女に伝え、
 後取采女は陪膳采女に伝え、陪膳采女が御手水を供した。

 掌典が簀子に進み、陪膳および後取の采女から多志良加および海老鰭盥槽を受けて
 所定の位置に復した。

 神食薦以下の采女8人が外陣に参入した。
 蚫汁漬を執る掌典以下が簀子に進み、これを外陣の采女に伝えた。
 采女は神饌等を後取采女に伝え、同采女はこれを陪膳采女に伝えた。

 天皇陛下が神饌を御親供になった。
 同8時39分30秒、天皇陛下が御拝礼になり、御告文をお奏しになった。
 この間、式部官の合図により、参列の諸員は起立した。
 次に御直会の儀があった」

 昭和、平成の記録とも、在満にもまして詳しいのに、
 もっとも中心的な神饌御親供については、
 具体的な説明らしきものが欠けています。

 神饌の御食は、昭和の場合は米としか書いてありません。平成は言及がありません)


ラ、四の刻、これを撤す

 天子が供し畢(おわ)られて、外陣の屏風の内に入り、休息され、
 四の刻にいたって撤しなさる。


リ、宮主、采女等、その儀に従う

 宮主は、いまの宮主は吉田神祇権少副兼成がこれを勤めるべきだが、
 今日はあまりに近い勤めなので、地下の人を用いがたいことから、
 吉田神祇権大副兼雄卿が宮主代としてこれを勤められる。

 采女は代とともに6人が出仕して役送を勤め、外に1人が内侍をもって代とし、
 内陣の供神の御手伝いを勤められる。

 宮主も采女も供するとき、撤するとき、ともに預かり勤められるのである。


ル、次に回立殿に還御す。その儀は初めのごとし

 御道筋は初めの道を用いなさる。
 御路の間、前行の大臣以下、御後ろの関白まで出御のときのようにする。
 今年はこの還御は子の刻すぎにおよび、これから左の儀式は準じて刻限が遅れたのである。


 次回は主基殿のお出ましです。

  ( http://melma.com/backnumber_170937_6869943/ )

         <感謝合掌 令和元年10月18日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑬ - 伝統

2019/10/19 (Sat) 19:19:24


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/18)

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寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 13
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽13 寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御

レ、子の一の刻、神祇官、内膳膳部等を率い、主基の膳屋に還り、神饌を料理す

 悠紀のときと同様である。


ロ、次に主基寮、御湯を供す

 これもまた小忌の御湯という。


ワ、御湯殿以下、一に悠紀の儀のごとし

 御湯殿の儀で、祭服を召し替えなさることは、悠紀の儀との同様である。
 ただし、御冠は改めなさらない。

 次に御手水を供する。陪膳は悠紀のときと同様である。
 役送は勧修寺右中弁と烏丸左少弁清風とが勤められる。

 次に采女が時を申すことは悠紀と同様である。


ヰ、主基の嘗殿に還御す

 この道もまた大蔵の官人が2幅の布の単を敷く。
 ただし、回立殿から大嘗宮の、北の鳥居の内までは悠紀のときの道と同じである。

 北の鳥居を入って、行き当たりの袖垣と鳥居との中央から東へ折れて敷く。
 袖垣の東の端と悠紀殿の縁の端との中央から南へ折れて敷き、
 正中の鳥居の前から西へ折れて敷く。

 鳥居と主基殿の東の縁の端との中央から南へ折れて敷く、
 南の柴垣と主基殿の南の縁との端との中央から西へ折れて敷く。
 南階の中央に当たって北へ折れて、階下まで敷いて、この上を渡御がある。

 宮内輔が葉薦を敷き、掃部寮のこれを巻くより以下、
 路地の供奉ならびに渡御が終わって、大蔵、宮内以下、鳥居の外に出て、
 関白、外陣の西壁の下に著座しなさるまで、悠紀のときに少しも変わることはない。

 今年はこの還御が丑の刻(斎藤吉久註=午前2時)におよんだ。


ヱ、小忌の郡官、各著座。大臣、南鳥居内、西辺盗難、納言以下、同鳥居外、東面北上

 悠紀のときに準じて知るべきである。
 すなわち納言以下の座は、右大臣の座の巡からやや西に当たる。


ヲ、大忌の公卿、移著の儀なし。

 これは小忌の人に対していうのである。
 昔は、このあいだに小忌の人が悠紀の幄の座を起って、主基の幄の座に移り就いた。
 いまは幄がないけれども、小忌の公卿は主基の座に改め就くのである。

 ただし、大忌の公卿は座を改め就く儀はない。
 これは小忌の人に対していうことである。
 昔も大忌の幄は、悠紀、主基の別がないため、移り就く儀がないからである。


ン、次に大忌の公卿、庭中の版位に就きて、手を拍つ

 悠紀のときと同様である。ただし、このたびは醍醐大納言は西の方にあり、
 清閑寺中納言はその東に少し退いて就かれる。
 また、この前に、開門のことは悠紀のときと同様である。
 ここに書かないのは、悠紀のときに準じて略したのである。


あ、寅の一の刻に御膳を供し、四の刻にこれを撤し、回立殿に還御す

 いずれも悠紀のときと同じである。
 今年はこの還御が寅の半刻(斎藤吉久註=午前5時)におよんだ。

(斎藤吉久註=『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会編、昭和6年)によると、
昭和天皇が主基殿の儀で、御告文を奏上されたのが午前2時18分、
回立殿から頓宮に還御されたのは3時10分と記録されています。
 
宮内庁の『平成大礼記録』によると、平成の大嘗祭では、
天皇が主基殿内陣の御座に就かれたのは1時04分、神
饌御親供ののち御拝礼、御告文奏上をされたのは2時40分、
主基殿を退出されたのは3時24分でした)


い、次に采女、南戸に進み、還り申すのことあり

 この采女も、時を申す采女と同じである。
 還申の詞は「あさめもとり、ゆふべあかつきのみけ、たひらかにつかんまつりつ」
 と申すという。


う、勅曰云々

 云々はかくのごとくという心で、この勅はよしとのたもう御ひと言である。


え、采女、称唯して退出す

 称唯は答えである。その詞はうう。


 次回は節会です。

   ( http://melma.com/backnumber_170937_6870300/ )

         <感謝合掌 令和元年10月19日 頓首再拝>

江戸中期の国学者が解説する大嘗祭⑭ - 伝統

2019/10/20 (Sun) 19:24:28


       *Web:斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」(2019/10/19)


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意味論がすっぽりと欠けている
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 14
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽14 意味論がすっぽりと欠けている

お、次に帛の御衣を著御し、本殿に還御す。伴、佐伯、南門を閉ず

 回立殿で帛の御衣に召し改めなさり、紫宸殿をさして還御なさるのである。
 その渡御のあいだの儀は最前の戌の刻の渡御のときに同じである。

 今年(斎藤吉久註=元文3年)はこの還御が
 卯の刻(斎藤吉久註=午前6時)におよんだ。

(斎藤吉久註=『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会編、昭和6年)によると、
 昭和天皇の場合、回立殿から頓宮に還御されたのは午前3時10分と記録されています。

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』では、平成の大嘗祭で、
 天皇が主基殿を御退出になったのは午前3時25分でした。
 元文3年の桜町天皇の大嘗宮の儀はずいぶんと時間がかかったもののようです)

 翌辰の日に悠紀の節会ということがある。
 すべて大嘗会はその年の新穀をまず天神地祇に供しなさり、
 つぎに天子も嘗なさる儀である。

 昨卯の日に神祇への供進は畢(おわ)ったので、
 今明両日は、天子が新穀を召し上がり、そのついでに諸臣へもたまうのである。

 今辰の日は悠紀の節会で、悠紀の国司から物を賜り、
 明辰の日は主基の節会で、主基の国司から物を賜る。

 ただ、今日の悠紀の節会のあとで、まず主基の節会の略儀なるをも行い、
 明日の主基節会の前に、また悠紀の節会の略儀なるをも行われるがゆえに、
 両日それぞれ両節会があるのである。

 まず今日の悠紀の節会には、天子が紫宸殿の悠紀の帳に出御なさる。
 昔は悠紀の帳、主基の帳といって、帳を別に設けられたのだが、
 いまは帳は1つで、その帳のまわりに悠紀の御屏風を立てめぐらせるので
 悠紀の帳と呼び、主基の御屏風を立てめぐらせるので主基の帳と呼び替えるのである。


 そして、中臣が賢木(さかき)を捧げ、紫宸殿前の版位について、
 天神の寿詞を奏し、群臣もともに奏することがある。

 また常の供膳のほかに、白黒の御酒を供する。
 白酒(しろき)というのはつねのすめる酒である。

 黒酒(くろき)というのは常山(くさぎ)の灰を入れた酒である。
 黒酒をこのようにするのは、延喜のころから見られ、いまも同じである。

 しかし、なかごろ(遠くない昔)は、黒酒には黒胡麻の粉を振ったことが見られる。

 そんなこともあったのだろうか、また一献のあとに、悠紀方の鮮味といって、
 雉子を梅の枝に付けたのと、蜜柑と搗ち栗とを髭籠(ひげこ)に入れて、
 松の枝につけて奉るのである。

 これは行事の弁といって、葉室権右弁頼要、悠紀の国司並びに膳部に持たせて、
 庭中に立てるのである。

 また三献のあとには、御挿頭(かざし)を奉り、臣下にも挿頭をたまう儀がある。
 その挿頭は、天子は桜で、銀で作る。大臣は藤、大納言は山吹、参議は梅で、
 いずれも真鍮で作り、滅金(めっき)をかける。ただ、この定めは昔と同じではない。

 このほかは内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等、
 常の節会に異なるところがないので、これを略する。

 また主基の節会には主基の帳に出御があるばかりで、常の節会と同じである。


 翌辰の日にも、まず、悠紀の節会がある。
 天子が悠紀の帳に出御があるばかりで、常の節会と同様である。


 つぎに主基の節会がある。
 主基の帳に出御があり、おおかたは昨日の悠紀の節会に同じである。
 ただ、寿詞の奏はなく、白黒の御酒を供しない。
 主基方の鮮味は、梟を楓の枝につけたのと、鶉を萩の枝に付けたのとを奉る。


 主基の行事の弁は、烏丸左少弁清胤、主基の国司ならびに膳部に持たせて、
 庭中に立てるのである。

 御挿頭を奉り、臣下にも挿頭をたまうのは昨日の悠紀の節会と同様である。

 このほかは常の節会と同じである。
 節会が畢(おわ)って、清暑堂代で御神楽がある。

 翌午の日に豊明節会ということがある。
 これは大嘗の礼が畢ったので、群臣と遊宴なさる儀である。


 今日は紫宸殿に高御座を飾り、天子がここに出御なさる。
 内弁の行事、群卿の進退、供膳の次第等以下、常の節会に異なることはない。

 ただ三献のあとに、吉志舞(きしまい)を奏する。
 昔は大嘗一会のあいだにあまたの歌舞があった。
 いまは辰巳両日、4度の節会に各風俗を奏し、
 豊明節会に国栖(くず)の奏とこの吉志舞とだけである。

 ただし、この舞も伝わらないということで、ただ伶人数輩が巡回するだけである。

 大嘗一会の儀式はこの豊明節会でことが畢わる。
 ただし、11月晦日まではなお散斎である。これを後斎という。

 以在麿自筆本之写本比校完

 文政12年7月26日 信友

(斎藤吉久註=以上、荷田在満『大嘗会便蒙』を簡単に現代訳した上で、
 全編をご紹介しました。大嘗祭の全容が手に取るように分かります。

 ただ、在満は5W1Hのうち、誰が、いつ、どこで、何を、どのように、までは
 説明してくれるのですが、なぜ、までは解説していません。

 なぜ大嘗宮は皮付きの柱を用いるのか、なぜ屋根は萱葺きなのか、
 なぜ皇祖神のみならず天神地祇を祀るのか、なぜ米と粟の新穀を捧げるのか、
 なぜ新穀を捧げる祭りが皇位継承の儀礼となるのか、在満は答えてくれません。

 在満だけではありません。天皇の祭祀について解説する、
 国学者、国文学者、祭祀学者、神道学者らが、天皇の祭祀の実態だけでなく、
 その持つ意味にまで踏み込んで、あるいは古来、天皇が祭祀をなさってきたことの
 本質的意味をも説明しているのを、少なくとも私は知りません。
 意味論がすっぽりと欠けているのです。

 今日、さまざまな混乱が生じているのは、当然の結果であろうと私は考えています。
 皇位継承論もまたしかりです。天皇学の深まりが急務なのです)

  (http://melma.com/backnumber_170937_6870994/ )

         <感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>

即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀 - 伝統

2019/10/21 (Mon) 19:31:00


          *Web:東京神社庁 より

天皇陛下が御即位を国の内外に宣明される儀式を「即位礼正殿の儀」と言います。

宮殿の中庭に色とりどり大小様々な旛(ばん)と呼ばれる旗が
左右に列立した内側中央に一対の万歳旛(ばんざいばん)が立てられます。

この旛は即位礼でのみ用いられ、
神話に由来する五匹の鮎と酒壺が描かれ、
大きく「萬歳」の文字が刺繍されており、
陛下の御代が幾久しく続くことへの祈りが込められております。

正殿向かって右「梅の間」より
天皇陛下は立纓(りゅうえい)の冠に黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)の
御装束をお召しになり「高御座」にお昇りになられます。

皇后陛下は御髪を大垂髪(おおすべらかし)に結い上げて
五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)をお召しになり
御帳台(みちょうだい)にお昇りになられます。

即位を内外に宣明する陛下のお言葉を賜り、
国民の代表として総理大臣がお祝いの寿詞を述べ、
参列者全員で万歳を三唱し、陛下の御即位に奉祝の誠を捧げます。

   ( http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/inochinokotoba/r0110/ )

・・・

明日(22日)は天皇の代替わりに伴う「即位の礼」で、
今年限りの「国民の祝日」となります。

即位の礼は、天皇陛下が内外に即位を宣明される「即位正殿の儀」と、
お祝いの宴席「饗宴(きょうえん)の儀」から成り、当日予定されていた
祝賀パレード「祝賀御列(しゅくがおんれつ)の儀」は、台風19号で
甚大な被害が出たことを考慮して、11月10日に延期となっています。

ちなみに、饗宴の儀は明日と25日、29日、31日の計4回予定されて
おり、各国の元首や王族ら約400人含む計2000人ほどが招かれ、
料理や雅楽の演奏などでもてなされます。

 
期間中、安倍首相は約50カ国の要人と会談し、祝賀外交を展開します。

その後、様々な関連行事・儀式が続き、
天皇がみずから賢所(かしこどころ、けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、
神殿(しんでん)の「宮中三殿」に参拝する12月4日の
「親謁(しんえつ)の儀」で一区切りとなります。

         <感謝合掌 令和元年10月21日 頓首再拝>

両陛下、宮中三殿で「大前の儀」 - 伝統

2019/10/22 (Tue) 19:19:30

      *産経ニュース / 2019年10月22日 10時57分 より

天皇、皇后両陛下は22日午前、皇居・宮中三殿で、
「即位の礼」の中心儀式「即位礼正殿の儀」などを執り行うことを
奉告する儀式「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」に臨まれた。

 
この日は午前9時3分、帛御袍(はくのごほう)という束帯姿の天皇陛下が、
宮中祭祀(さいし)をつかさどる掌典長に続き、三殿中央の賢所に進まれた。

陛下は拝礼の後、即位礼正殿の儀などに臨む趣旨の
「御告文(おつげぶみ)」を日本古来の大和言葉(やまとことば)で読み上げられた。

陛下は皇霊殿、神殿にも同じ趣旨をご奉告。
白い十二単(ひとえ)姿の皇后さまも続いてご拝礼。

皇嗣(こうし)秋篠宮さまをはじめ皇族方も参列された。

  (https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_lif1910220023/ )

・・・

「即位礼当日賢所大前の儀」を終えられた天皇陛下
https://mainichi.jp/graphs/20191022/hpj/00m/040/002000g/1


         <感謝合掌 令和元年10月22日 頓首再拝>

「即位礼正殿の儀」 - 伝統

2019/10/23 (Wed) 08:04:23

歴史伝える「即位礼正殿の儀」

        *Web:産経新聞(2019.10.21)

https://www.sankei.com/life/news/191021/lif1910210016-n1.html


3分でわかる政治の基礎知識
即位の礼で使われる 高御座とは
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20191021/pol/00m/010/006000c



即位礼正殿の儀 天皇陛下のおことば


さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより
皇位を継承いたしました。
ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。


上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、
常に国民の幸せと世界の平和を願われ、
いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、
その御心(みこころ)を御自身のお姿でお示しになってきたことに、
改めて深く思いを致し、

ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、
憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。

国民の叡智(えいち)とたゆみない努力によって、
我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、
人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。


            ・・・

即位礼正殿の儀 安倍晋三首相の寿詞全文

 謹んで申し上げます。

天皇陛下におかれましては、本日ここにめでたく「即位礼正殿の儀」を挙行され、
即位を内外に宣明されました。
一同こぞって心からお慶(よろこ)び申し上げます。

ただいま、天皇陛下から、上皇陛下の歩みに深く思いを致され、
国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、
日本国憲法にのっとり、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、
我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に
寄与することを願われるお気持ちを伺い、深く感銘を受けるとともに、
敬愛の念を今一度新たにいたしました。

私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ、
心を新たに、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、
人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていくため、
最善の努力を尽くしてまいります。

ここに、令和の代(よ)の平安と天皇陛下の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げ、
お祝いの言葉といたします。

・・・

即位礼正殿の儀が始まると雨あがり…虹の投稿相次ぐ
[2019年10月22日16時21分]
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191022-10220535-nksports-soci


即位礼正殿の儀を終え、退出される天皇陛下
=皇居・宮殿で2019年10月22日午後1時33分、小川昌宏撮影
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191022-00000060-mai-soci.view-000


・・・

<参考Web:伊勢ー白山 道(2019-10-23)
 https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/73e500d7b8570e0a29faf757fe05732a >

         <感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>

饗宴の儀 - 伝統

2019/10/23 (Wed) 12:17:49


饗宴の儀、華やかに 皇后陛下ロングドレス 出席者も鮮やか民族衣装で
毎日新聞2019年10月22日 21時07分(最終更新 10月23日 00時50分)
https://mainichi.jp/articles/20191022/k00/00m/040/273000c?inb=ys

            ・・・

雅子さまの“2大夜会ドレス” 
「饗宴の儀」ローブデコルテのフリルと「宮中晩餐会」レースに込められたもの
10/22(火) 23:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191022-00014907-bunshun-soci

            ・・・

小ダイ姿焼き、フカヒレ茶わん蒸し、加薬飯、イセエビ吸い物…饗宴の儀、秋づくしの和食で
毎日新聞2019年10月22日 21時08分(最終更新 10月22日 23時04分)
https://mainichi.jp/articles/20191022/k00/00m/040/275000c?inb=ys

            ・・・

続く儀式、準備進む 即位の礼終えた宮内庁
共同通信 / 2019年10月23日 7時12分
https://news.infoseek.co.jp/article/kyodo_kd-newspack-2019102301000828/

天皇陛下の「即位礼正殿の儀」を終えて一夜明けた23日、
皇居では次の即位関連行事に向けた準備が進んでいる。

22日夜に催された祝宴「饗宴の儀」は、25、29、31日とあと3回開かれる。

11月には、台風19号の被害を受けて延期されたパレード「祝賀御列の儀」や、
皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭」も控えている。

 
饗宴の儀は皇居・宮殿であり、
25日は天皇、皇后両陛下と三権の長や閣僚、各界の代表らが着席して食事。
29、31日は国会議員や全国の知事、市町村長、駐日外国大使らが招かれ、
立食形式となる。

いずれの回も陛下があいさつされる。

            ・・・

「饗宴の儀」簡素化、ご負担軽減
産経ニュース / 2019年10月22日 21時27分
https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_lif1910220096/

         <感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>

即位礼を支えた熟練の技 舞楽・礼砲・ボンボニエール - 伝統

2019/10/23 (Wed) 19:44:22


      *Web:日本経済新聞(2019/10/23)より

国内外の多くの賓客を招いて開かれた22日の天皇陛下の即位礼。
皇室の伝統に沿って進められた華やかな儀式の様子は世界に伝えられ、
大きな話題を呼んだ。

約30年ぶりとなる一大行事はスムーズに進んだが、
その裏では様々な分野で式典を支える「熟練の技」が光っていた。


■舞楽 

即位礼正殿(せいでん)の儀に引き続き、22日夜に開かれた
「饗宴(きょうえん)の儀」で賓客らに披露されたのが、
宮内庁楽部の「楽師」らによる舞楽(ぶがく)だ。

演目は古来、即位礼などで舞われてきた「太平楽(たいへいらく)」。
絢爛(けんらん)豪華な装束を着た楽師らが、雅楽の調べに乗って
矛や太刀を振りかざして勇壮に舞う伝統の演舞だ。


正殿の儀終了後に宮殿「春秋の間」に設置された特設舞台で
楽師を統率したのが東儀博昭・首席楽長(65)。

約30年前の「平成」の即位礼では若手楽師の一人として舞を担当した。
当時は「賓客の顔を見る余裕もなかった」と振り返る。

2017年に上皇さまの退位を実現する皇室典範特例法が成立して以来、
即位礼での披露を想定して、仲間とひそかに練習に取り組んできた。

今年度限りで定年退職する東儀さんにとって、
この舞台が楽師人生の集大成だった。

「即位礼の一部として、雅楽のよさを感じ取ってもらえていたらうれしい」と話した。



■礼砲 ドーン、ドーン、ドーン――。

陛下が高御座(たかみくら)から内外に即位を宣明し、
参列者が万歳を唱和した正殿の儀の終盤で礼砲の音が宮殿内に鳴り響いた。

発射は宮殿から北に約800メートル離れた北の丸公園(東京・千代田)で、
陸上自衛隊第1特科隊が担った。

音が宮殿に届くのに2~2.5秒かかることを計算に入れ、
安倍晋三首相が発声する「万歳」の「い」の直後に1発目の音が宮殿に届くよう、
隊員らが携帯電話などで連絡をとりながら合図を送り、約5秒ごとに連射した。

「息を合わせて、気持ちを一つにしよう」。

指揮官の児玉義信・第1中隊長(44)は隊員への指示を徹底した。

風向きなど予測できない要素がある中、
直前まで山梨県の北富士演習場で訓練を重ねてきた。

伝達の時間差を短縮することで無事、任務を果たし、隊員らは安堵の表情を浮かべた。


■ボンボニエール 

海外賓客には、菊花紋章に鳳凰(ほうおう)をあしらった
銀製の菓子器「ボンボニエール」が記念の品として準備された。

鳳凰は左を向いており、
右向きに作られた平成時のボンボニエールと対をなすデザインになっている。

「両陛下からの贈り物として、ふさわしい品質となるよう試作を繰り返した」
と明かすのは、製造を請け負った銀製品専門店、宮本商行(東京・中央)の
上野浩司取締役(58)。蓋がすっとはまり、逆さにしても落ちない作りにするには
熟練職人の技術が欠かせない。

プレスでの型押しや、つや出しなど、一つ一つの工程は全て手作業だ。

受注決定前の18年秋から試作を始め、失敗は数知れず。
海外賓客用の銀製450個と、国内向けの真ちゅう製2150個を
宮内庁に納めたのは9月末になってからだった。

上野さんは「プレッシャーもあったが、満足のいく品が作れた。
ようやく肩の荷が下りた」と笑った。

         <感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>

【写真】【中継動画】 - 伝統

2019/10/24 (Thu) 19:32:51


【写真】「即位礼当日賢所大前の儀」に臨まれた天皇、皇后両陛下
https://www.nippon.com/ja/news/p01050/


【ノーカット中継動画】「即位礼正殿の儀」天皇陛下が即位を国内外に宣言
:参列者の皇居到着から儀式まで
https://www.nippon.com/ja/news/thepage20191022001/?cx_recs_click=true


【写真】「即位礼正殿の儀」で国内外に即位を宣言される天皇陛下
https://www.nippon.com/ja/news/p01051/


【ノーカット中継動画】天皇陛下が即位を宣言「即位礼正殿の儀」
https://www.nippon.com/ja/news/thepage20191022002/


【動画】即位礼正殿の儀を祝う人たち
https://www.nippon.com/ja/news/p01053/?cx_recs_click=true

           ・・・

令和の「即位の礼」フォトドキュメント【順次更新】
https://www.nippon.com/ja/news/p01052/

・・・

【報ステ】「茶会」でおもてなし 上皇ご夫妻も出席(19/10/23)

https://www.youtube.com/watch?v=vUpSQoCklLg

天皇皇后両陛下は23日、お住まいの赤坂御所で茶会を開き、
『即位礼正殿の儀』のために来日した18カ国31人の王族を招かれた。

茶会には、『即位の礼』に出席されなかった上皇ご夫妻も途中から加わり、
古くから交流のある王族と再会し、和やかな時間を過ごされたという。

茶会に参加した王族からは「日本滞在中の素晴らしいおもてなしに感謝します」
などと言葉がかけられ、

両陛下は「即位の礼のために訪日されたことに改めて感謝します」
と話されたという。

『饗宴(きょうえん)の儀』は、あと3回開催される。
来月にはお代替わりに伴う重要な祭祀『大嘗祭(だいじょうさい)』が
皇居で執り行われる。

・・・

“長年の交流”両陛下が特に喜ばれた国王夫妻(19/10/23)
https://www.youtube.com/watch?v=Z9rT-7J47Nw

【ノーカット中継動画】「饗宴の儀」を前に各国賓客の皇居到着の様子
https://www.nippon.com/ja/news/thepage20191022003/?cx_recs_click=true

         <感謝合掌 令和元年10月24日 頓首再拝>

皇位継承に伴う儀式や行事は今後も続く - 伝統

2019/10/25 (Fri) 18:42:43


11月下旬から「親謁の儀」伊勢神宮など参拝 来年4月に「立皇嗣の礼」

       *Web:毎日新聞(2019.10.22)

即位に伴う中心儀式である「即位礼正殿の儀」は終わったが、
皇位継承に伴う儀式や行事は今後も続く。

台風19号の被害を受けて延期された
パレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」は11月10日午後3時から、
皇居から赤坂御所までの約4・6キロのコースで行われる。


同14、15日は天皇陛下が五穀豊穣(ほうじょう)や国の安寧を祈られる
皇室行事大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式
「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が、皇居・東御苑で行われる。

天皇、皇后両陛下は同月下旬、
即位の礼と大嘗祭が終わったことを報告する「親謁の儀」のため、
伊勢神宮(三重県伊勢市)などを参拝する。

天皇即位に伴う儀式は年内で終わる。

 
来年4月19日には、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の皇嗣(こうし)と
なったことを明らかにする「立皇嗣の礼」が宮殿で行われる。【高島博之】

 ◇皇位継承に関係した今後の主な儀式

10月25~31日=皇居・宮殿で祝宴「饗宴の儀」(2~4回目)※

11月10日=パレード「祝賀御列の儀」※

 14、15日=皇居・東御苑で「大嘗宮の儀」

 16、18日=宮殿で祝宴「大饗の儀」

 22、23日=天皇、皇后両陛下が伊勢神宮(三重県)を参拝
      (主要儀式の終了を報告する「親謁の儀」のスタート)

  27日=神武天皇陵(奈良県)と孝明天皇陵(京都市)を参拝

  28日=明治天皇陵(京都市)を参拝。京都御所で茶会

12月3日=昭和天皇陵と大正天皇陵(いずれも東京都)を参拝

  4日=皇居・宮中三殿を参拝(親謁の儀が終了)

2020年

4月19日=宮殿で秋篠宮さまの立皇嗣の礼※

※は国事行為の儀式

  ( https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191022-00000060-mai-soci )

         <感謝合掌 令和元年10月25日 頓首再拝>

伝統芸能でおもてなし 安倍首相夫妻晩餐会 - 伝統

2019/10/26 (Sat) 19:34:10


   *Web:産経新聞(2019.10.23)

天皇陛下の「即位礼正殿の儀」に参列した外国元首らを招いた
安倍晋三首相夫妻主催の晩餐(ばんさん)会が23日、都内のホテルで開かれた。

文化行事では、狂言師の野村萬斎さんと歌舞伎俳優の市川海老蔵さん、
文楽人形遣いの吉田玉男さんらが五穀豊穣(ほうじょう)を祈り舞う
演目「三番叟(さんばそう)」を共演。

能楽師の観世清和さんと三郎太さんの親子演者による演目
「石橋(しゃっきょう)」も披露された。

   (https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191023-00000610-san-pol )

               ・・・

安倍首相「友好親善の一層の発展を」晩餐会あいさつ全文


ご列席の皆さま

このたびは、天皇陛下の即位の礼にご参列をいただき、誠にありがとうございます。
皆さまが多くの国や地域、国際機関を代表し遠路はるばる東京にお越し下さり、
天皇陛下のご即位をお祝いしていただきましたことに対しまして、
日本国政府および日本国民を代表して厚く御礼を申し上げます。

また、私自身、この機会に、本日の晩餐会を催すことができましたことを
大変光栄に存じます。

わが国は、天皇陛下のご即位とともに、「令和」という新しい時代に入りました。
「令和」の意味は、「美しい調和」であり、人々が美しく心を寄せ合う中で
文化が生まれ育つという意味が込められています。

 
ただいまご覧をいただきました「狂言」「歌舞伎」「文楽(ぶんらく)」
そして「能」も、わが国の歴史の中で人々の間から生まれ、
時代を超えて発展・継承されてきました。

悠久の歴史と薫(かお)り高き文化、四季折々(しきおりおり)の美しい自然。
これらは全て日本の国柄(くにがら)であり、しっかりと次の時代へ引き継いでいく。

春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、
一人一人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。

そうした日本でありたいとの願いが、新元号「令和」には込められています。

 
わが国は、この「令和」の時代において、国際社会、
ここにご列席の全ての皆さまと手を携え、世界の平和と繁栄、地球規模課題の解決、
科学技術や文化の発展、相互理解の促進に、一層貢献を行っていく決意です。


わが国では現在、ラグビーワールドカップが開催されており、
世界各地から集まった代表チームが熱戦を繰り広げております。

来年は、東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。

さらに2025年には、大阪・関西万博が開催されます。

今回のご訪日により、わが国に対するご関心、ご理解を一層深めていただくとともに、
これら国際的なイベントをはじめ、さまざまな機会に、再び来日いただきますことを、
心よりお待ち申し上げております。

ここに、ご列席の皆さまの益々のご健勝を祈念し、
皆さまのお国や地域、国際機関とわが国との友好親善の一層の発展を願って、
杯を挙げたいと思います。

 乾杯

      (https://www.sankei.com/life/news/191023/lif1910230038-n1.html )


出席者~各国要人
https://seikatuhack.com/souri-bannsann/


中継動画
https://www.youtube.com/watch?v=S-JC2oh4gCY



安倍首相主催の晩餐会 能
https://www.youtube.com/watch?v=hMH4su5uXRc

         <感謝合掌 令和元年10月26日 頓首再拝>

即位礼 ~ 聖なる責務の世襲 - 伝統

2019/10/27 (Sun) 19:52:45


      *メルマガ「Japan On the Globe」(2019年10月27日)より

1.「世界一古い国の、世界で唯一のエンペラーの即位式」

 10月22日、即位礼正殿の儀が開かれ、参列者は1999人、
 海外からも191カ国・機関の元首・首脳級が参加した。

 国王だけでも、オランダ・ウィレム・アレクサンダー国王夫妻、
 ベルギー・フィリップ国王夫妻、スウェーデン・カール16世グスタフ国王、
 スペイン・フェリペ6世国王夫妻、ブータン・ワンチュク国王夫妻、
 ブルネイ・ボルキア国王、カンボジア・ノロドム・シハモニ国王、
 マレーシア・アブドラ第16代国王夫妻、トンガ・ツポウ6世国王夫妻が参列。[1]

 国際的な関心も高く、アメリカのCNNは儀式の模様を中継し、
 海外の通信社も次々と速報を発した。

 およそ、一国内の儀式でこれほど多くの元首・首脳級が集まり、
 国際的にも関心を集めるものはないのではないか。

 これも戦後日本が世界各国と友好関係を築いてきた事に加えて、
 日本の天皇が国際社会で唯一のエンペラー(皇帝)級、
 すなわちキング(国王)よりも格式が高いと位置づけられている事も一因だろう。

 我々が目の当たりにしたのは、
 世界一古い国の、世界で唯一のエンペラーの即位式なのであろう。

 もっとも、エンペラーとはローマ帝国や中華帝国の皇帝という「権力者」であり、
 その本質は天皇とはまるで違う。

 国際社会が高く評価してくれるのは良いが、
 天皇の本質の理解をもっと広める必要がある。

 そのためにも、まずは国民の間での理解を深めることが必要だろう。


■2.「『主権者はだれか』という深刻な疑念」

 この即位礼に欠席したのが共産党である。
 欠席の理由を次のように「しんぶん赤旗電子版」で明らかにしている。


   「神話」にもとづいてつくられた、
   神によって天皇の地位が与えられたことを示す「高御座」(たかみくら)という
   玉座から、国民を見下ろすようにして「おことば」をのべ、
   「国民の代表」である内閣総理大臣が天皇を仰ぎ見るようにして
   寿詞(よごと=臣下が天皇に奏上する祝賀の言葉)をのべ、
   万歳三唱するという儀式の形態自体が、
   「主権者はだれか」という深刻な疑念を呼ぶものです。[2]


 さすがに、こんな言い分をまともに受けとめる国民も少ないだろうが、
 こうした論理のおかしさを明確に指摘しておくことが、
 天皇の本質について国民の理解を深めることにつながるので、以下、反論をしておこう。


 まず共産党の主張では、上に立つ者は「権力者」だ、という前提がある。
 確かに習近平や金正恩が軍事パレードを見下ろす姿は「権力者」そのものである。
 それも民主的に選ばれたわけでもない人間が国民を見下ろすのだから、
 日本共産党は彼らにこそ「『主権者はだれか』という深刻な疑念」を持つべきだろう。

 しかし、国民が見上げる人がすべて「権力者」という訳でもない。
 たとえばローマ教皇はサンピエトロ広場に集まった群衆を
 大聖堂のバルコニーから見下ろしてお言葉を述べるが、教皇は「権力者」ではない。
 「権威者」である。


 同様に、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」としての
 権威を持たれているのだから、その権威者に対して、
 国民が仰ぎ見ることは何の不思議もない。

 191カ国・機関から参列した外国の元首・首脳も、
 天皇の「権力」に屈しているわけではない。
 友好国・日本の元首として、その権威を仰いでいるのである。

 西洋史においては天皇を例えるとしたら、
 権力者であるエンペラーよりも、権威者である教皇の方がはるかに近い存在なのである。

 マルクス主義の唯物論では、人間が権威を仰ぎ見る、
 という精神性を理解できないので、仰ぎ見るのはすべて「権力者」である、
 という単純な錯誤に陥るのだろう。



■3.「国民の幸せと世界の平和を常に願い」

 天皇陛下は、即位礼正殿の儀で、次のように述べられた。


   上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、
   いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿で
   お示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、
   ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、
   憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを
   誓います。[3]


 上皇陛下について「常に国民の幸せと世界の平和を願われ、
 いかなる時も国民と苦楽を共にされ」と述べられ、御自らも
 「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら」と繰り返されている。

 すなわち「国民の幸せと世界の平和」を願われること、
 そして「国民と苦楽を共に/国民に寄り添い」が
 天皇の御使命である事を述べられている。

 これが権力者の言葉ではない事は、正常な国語能力を持つ人なら明白である。

 外国人に対しても、天皇とはどのような存在かと説明する際に、
 「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添」う存在である、
 と答えれば、簡明至極である。

 それは我々の勝手な解釈ではない。
 天皇ご自身が即位の式で、国民及び全世界に対して誓われたことである。


4.「天皇のつとめ」「国民統合の象徴としての役割」

 今回のご即位の発端となったのは、平成28(2016)年8月8日に、
 上皇陛下が直接「ビデオメッセージ」としてお伝えした
 「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」だった。
 その中に次の一節がある。


   私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを
   大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、
   その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。[3, p13]


 「国民の安寧と幸せを祈る」「人々の傍らに立ち・・・」と、
 今上陛下が即位にあたって述べられたお言葉の原型がここにある。

 そして、これが「天皇の務め」と明言されている。

 近代・近世の天皇方の詔勅を平明に解説した好著『時代を動かした天皇の言葉』[3]では、
 このお言葉に対して、次のように述べている。


   その陛下が第一にお心に懸けてこられたのが
   「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」でした。
   われわれは、祈りこそが天皇の最も大切なお務めであると知っていても、
   天皇の生の声を通して直接このようなお話を伺うことはありませんでした。[3, p16]


 「民安かれ」の祈りこそ天皇の務めであると、
 「天皇の生の声を通して」直接拝聴したのは、歴史上初めての事であった。


5.「全身全霊をもって」行われるべき祈りを続けるために

 こう述べた後で、上皇陛下は、
 ご高齢に故にこの務めを続けられるかどうか、懸念を示される。


   既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、
   次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、
   全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、
   難しくなるのではないかと案じています。[3, p13]


 この点に関して、上記の『時代を動かした天皇の言葉』では次のように述べている。


   テレビを通して、陛下から直にこの
   「全身全霊をもって象徴の務めを」果たしてきた
   というお言葉を聴いたときの驚き、有り難いという思いを
   感じられた方も多いと思います。[3, p17]


 「民安かれ」の祈りは、まさに「全身全霊をもって」行われてきたのである。
 しかし、御年80歳を超えて御身体の衰えを考えるとき、
 もはや「全身全霊をもって」民安かれの祈りを続けることはできない。

 それが上皇陛下がこの「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を
 発せられた動機であった。

 そこには「もう年だから、この仕事はきつい」とか、
 「あとはゆっくり楽をしたい」というような私情は露ほども感じられない。

 「全身全霊をもって」行われるべき祈りを続けるためには、
 次代に継承するしかない、という無私の御心なのである。

 この上皇陛下の「祈り」の継承への御意思が、
 今上陛下の御即位の言葉にしっかりと受け止められているのである。



6.「責務」と「天職」

 上皇陛下は30年前、昭和64(1989)年1月7日の昭和天皇崩御の翌々日に開かれた
 即位後朝見の儀で、次のように述べられた。


   顧みれば、大行天皇には、御在位60有余年、
   ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され、激動の時代にあって、
   常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ、
   今日、我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し、
   平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。
 
   ここに、皇位を継承するに当たり、大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、
   いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、
   皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、
   国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません。[4]


 上皇陛下も、昭和天皇の「ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され」た
 御遺徳を継承して、この「責務を果たすことを誓」われ、
 平成の30年間を「全身全霊をもって」務めてこられたのである。

 ちなみに、昭和天皇も昭和3(1928)年11月10日の即位礼において
 発せられた勅語で、歴代の天皇が「国をもって家と為し民を視ること子の如く」
 臨まれたとして、祖宗の擁護と国民の助けによって、
 この「天職」を堕(お)とすことなきを願う、と述べられている。

 表現は異なるが、その御心は上皇陛下、今上陛下に継承されている。

 国を一つの「家」となし、民は「子」を如く視て、その平和と安寧を祈られるのが、
 歴代天皇の「天職」であり、責務なのであった。

 この「天職」「責務」が現実に歴代天皇によってどのように果たされてきたのかは、
 拙著『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』[a]で辿った通りである。



7.崇高なる「責務」の世襲

 これらのお言葉と対比して、もう一度、共産党が呈した「主権者はだれか」という
 「深刻な疑念」を考えて見よう。

 この場合の「主権者」とは、「至高の権力」を持つ人間の意味である。
 この言葉は、国王が国民と国土を自らの「財産」としてきた
 欧州の歴史から生まれてきた。

 その「至高の権力」を国王から奪い取ろうと国民が戦ってきた。
 その戦いの中から誕生したのが「民主主義」であった。

 民主主義、すなわちデモクラシーの語源は古代ギリシャ語の「デーモス」(人民)が
 クラトス(権力・支配)を持つ、という意味である。

 この意味で、金正恩のように「至高の権力」を世襲する体制を批判し、
 打倒あるいは法によって抑制してきたのが、欧州の民主主義の伝統であった。

 しかし、昭和天皇と上皇陛下が国民に誓い、
 かつ「全身全霊をもって」お努めになってきたのが「民安かれ」の祈りであった。

 それは「権力の世襲」ではない。
 「聖なる責務」の世襲なのである。

 この点が共産党員たちには見えていない。
 欧州の国王と民衆の権力闘争の歴史の中から生まれた
 マルクス主義の階級闘争史観という色眼鏡をかけて、

 それとは全く異なる我が国の歴史を素直な眼差しで見ようとしないのだから、
 この史実が見えないのも当然である。



8.国民の「責務」

 先に引用した上皇陛下のお言葉の中で、もう一つ心に留めておきたい一節がある。


   皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、
   国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える
   市丼の人々のあることを私に認識させ、

   私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、
   国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもって
   なし得たことは、幸せなことでした。[3, p14]


 上皇陛下は国民に寄り添うための全国への旅の各地で
 「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市丼の人々」と出会われた。

 それが御心のうちに、「人々への深い信頼と敬愛」を育てられた。

 日本でただ御一人、「国民を思い、国民のために祈るという務め」を
 ほとんど生涯にわたって「全身全霊をもって」務められるという事は、
 思えば孤独な道である。

 しかし、「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市丼の人々」に、
 上皇陛下は同行者を見いだされたのである。
 その発見が天皇の務めを幸福なものとした。

 新たに、天皇として務めを始められた今上陛下も、
 また各地で「その地域を愛し、その共同体を地道に支える市丼の人々」に出会われて、
 「人々への深い信頼と敬愛」をお持ち頂けるよう務めるのが、
 この国に生を授かった民の「責務」である。

 天皇の「民安かれ」の祈りに導かれて、
 国民が各地、各分野で「共同体」を地道に支える。

 それが「和の国」の幸せを実現する道なのである[b]。

(文責 伊勢雅臣)

・・・

■リンク■

a. 伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/japanonthegl0-22/
アマゾン「メディアと社会」「ジャーナリズム」カテゴリー 1位(H30/2/1調べ)
万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。

b. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本2 「和の国」という“根っこ"』、
育鵬社、H31
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594083250/japanonthegl0-22/
アマゾン日本論2位、総合59位(発売日10/9時点)


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 「即位礼正殿の儀参列予定の国・機関と出席者 外務省発表、21日時点」
『産経新聞』R011022
https://www.sankei.com/life/news/191022/lif1910220020-n1.html

2. 「『即位の礼』儀式 憲法に抵触」『しんぶん赤旗』R011022
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-10-22/2019102204_03_0.html

3. 茂木貞純, 佐藤健二『時代を動かした天皇の言葉』★★★、グッドブックス、R01
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4907461224/japanontheg01-22/

4. 「主な式典におけるおことば(平成元年)」宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h01e.html#D0109

5. 「官報 号外」(昭和3年11月10日)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957025/3

         <感謝合掌 令和元年10月27日 頓首再拝>

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