伝統板・第二

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「ゆるし」(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/07/14 (Sun) 16:22:38

光明掲示板・第二 消滅により、
「ゆるし」の伝統板・第二への再掲示です。


《相手を赦すがよい》

        *「幸福を開く鍵」(P109)より

人を憎んだことがあるならば相手を赦すがよい。

キリストは、自分を十字架上に磔(はりつ)けにした人たちさえも赦して、
「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すところを知らざるなり」
と祈っているのである。

愛しにくいもの、赦しがたい者ほど、愛し且つ赦さなければならないのである。
難事を努力して行なうところに、肉体の力も増加するし、魂の徳も増大するのである。


自分にとって我慢のならない不快な性格の人物が周囲にあらわれた場合、
その人物を排斥しようと思ってはならない。
また、相手の人物の性格を変化しようと思ってはならない。

他(た)の人の心を変化しようと思うことは、
人間の自由を束縛することになるので宜しくないのである。
ただ、為し得ることは自分の心が変わることである。

自分の心が一変して相手と調和するようになれば、相手の態度も変わって来、
自分自身に自然に調和できるようになるのである。

自分が他(ひと)を辛く扱えば、他(ひと)もまた自分を辛く扱うのである。

自分がこらえ性(しょう)なく、人を叱りつければ、
人は表面では自分に従うかも知れぬが、
内心では却って反抗心を燃やすのである。

人を導くには、愛情をもってしなければならない。
感情の爆発は万事をこわしてしまうのである。

・・・

<関連Web:「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド
       「ゆるす(釈・赦・許) (6522)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1234 >
                         
           <感謝合掌 平成25年9月3日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月14日 頓首再拝>)

”憎悪”の念を”赦し”に変えて - 伝統

2019/07/15 (Mon) 09:24:32


          *「女の浄土」(P13)より

憎悪の念をいだいてはならないのである。
神の創造(つく)り給うた世界には憎悪すべき何物もないのである。

誰かが到底看過(みの)がすことの出来ないような悪事をはたらいたり、
自分を悪口(あっこう)したり侮辱したりした場合にも、
あなたはその人に対して憎んではならないのである。

それは自分の”赦し”と”愛”とが、如何に素晴らしく偉大であるかのテストとして
其処にあらわれた課題であると思って、”赦す”がよい。

どうしても感情が相手を赦し得ない時には、

「私は”神の子”である。神は無限の愛であり、無限の赦しである。
その神の愛と、神の赦しとが私を通して働き給うて、今、私は彼を赦したのである。
神に赦されたる彼は、今すべての罪は消えてしまって、実相の完全さがあらわれ、
最早、憎むべき何物も彼には残っていないのである」

このように繰り返し念じて、自分の心を調和させるがよい。
その時、あなたの憎しみは消えてしまい、
同時に相手の悪しき忌むべき状態も消えてしまうのである。

           <感謝合掌 平成25年9月8日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月15日 頓首再拝>)

”赦し”の偉大なる功徳について - 伝統

2019/07/16 (Tue) 10:18:07


          *「女の浄土」(P14~15)より

人を憎んでいるときの不快感情は、人を憎んだ人でないと分らないであろう。
その代わり、その憎しみを完全に赦し去ったあとの天空海闊とでも言い得るような
明朗な気持ちは、本当に人を赦した人でないと理解できないかも知れない。

”兎も角”人を憎む感情は、相手を罪ある者として、”縛る”感情であるから、
「縛る者は縛られる」の法則にしたがって、自分自身の生命(せいめい)が縛られ、
囹圄(れいご)の世界に自分自身の心が閉じ込められることになるのである。

もし、私たちが相手を赦すならば、相手を縛っていた感情の綱がほどかれてしまうので
あるから、自分自身をも縛っていた「憎しみの綱」はほどけてしまい自分の生命(せいめい)
が自由を得るので、人を憎んだのが原因であらわれていた病気ならば、相手を赦すだけで
治ってしまうことになるのである。

           <感謝合掌 平成25年9月13日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月16日 頓首再拝>)


真の許し - 伝統

2019/07/17 (Wed) 19:21:21

  *「次の2つから生きたい人生を選びなさい」
        タル・ベン・シャハー著(P49~51)より

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   真の許しとは、出来事が起こったあとに取る行動ではない。
   すべての瞬間にあなたが取る態度のこと。  <デイヴィット・リッジ>

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 


「完璧な人はいない」とよく言われます。

これについて私たちは「そのとおり」と思いながらも、
自分や他人が完璧でないことを責めつづけてしまうものです。

たしかに人はどんなことでも許せるとは思いませんし、また許すべきとも思いません。
しかし、私たちは自分に対して、そして他人に対して
抱えているわだかまりを手放すことを選べます。

「許す」という言葉はサンスクリッド語では「ほどく」と同じ意味です。
私たちは許すときに感情の結び目をほどき、感情システムをうまく機能させるようにします。

感情の自由な流れを解き放つことで、
怒りや落胆、さらには痛みや思いやり、喜びも感じることができるのです。

わだかまりを抱えていることは、結んだひもを引っぱりつづけているのと同じで、
結び目はどんどん固くなります。

わだかまりを手放すことはひもをつかんでいた手を緩めることで、
結び目がほどきやすくなるのです。

    ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

《不要な重荷を下ろす》

ふたりの禅僧が川のほとりに立ち、川を歩いて渡ろうとしていました。
するとそこに美しい女が近づいてきました。
その女も向こう岸に渡りたいようなのですが、川の流れが速いので困っていました。

そこで年上の禅僧が「背負ってまいろうか」と言うと、女はうなずきました。
女は背負って無事に向こうの岸に渡ると、女はお礼を言って去っていきました。


女が見えなくなると、若い禅僧は年上の禅僧を非難しました。
「恥ずかしいと思いませんか。私たちは女の体に触ることを許されていないのですよ」
そのあとふたりは数時間ほど歩き、寺に辿りつきました。

すると若い禅僧は年上の禅僧の行ないを寺の住職に報告すると言います。
「あなたは禁じられている下品な行ないをしました」

年上の禅僧はわけがわからないといった様子で尋ねました。
「私が何をしたというのだ? 」

「美しい女を背負って川を渡ったじゃありませんか」

「ああ、あのことか、おまえの言うとおり、たしかに背負った。
だが私は川岸に女を置いてきたぞ。お前はまだ女を背負っているようだな」


あなたが背負っている不要な重荷をいますぐ下ろしましょう。

もうそのことは許して、あなたの人生を軽やかで、幸せなものにしていきましょう。

・・・

  上記のたとえ話は、谷口雅春先生も何度も聖典の中で紹介しております。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

放てば生きる! (3279)
日時:2013年12月04日 (水) 04時57分
名前:伝統

      *『神ひとに語り給う』<大調和の神示講義>(P28~33)より

『生命の實相』の中にも書いてある話でありますけれども、或る二人の坊さんが話しながら
東海道を旅して大井川までやって来たということです。
そうしたら大井川は出水で渡れなくなっていた。

すると其処へ美しいお譲さんがどこかへ早く行かんならんというので、
多分親が危篤だったかもしれない、「これは川止めになってしまったら困る、是非渡らんならん」と
思っている時に、

その二人の坊さんのうちの一人の禅宗の坊さんが「お譲さん、私が負んぶして渡してあげるから、
どうぞ、私の肩に負んぶしなさい」と言って、自分が尻をまくって、河の中へ飛び込んで、
お嬢さんを背中に負んぶして、大井川をトットと渡って行ったというのです。

そしたらこれを見ていたもう一人の真宗の坊さんが「あいつ、うまい事しやがった。尻をまくって、
その上に若い女をのせて歩いた。あいつは精進堅固な禅宗の坊さんかと思うとったら、
あいつは生臭坊主だ。正体を現したぞ。一つあっちへ行ったら、トッチメてやろう」と思いまして、
自分も河を渡って行った。

そして対岸へつくと、先に負んぶして行ったお坊さんはそのお譲さんを降ろして、
お礼を言うのも聞かんふりで、トットトットと向こうへ行ってしまった。

連れのお坊さんは追っかけて行って、
「おいおい、貴様は禅宗の坊主のくせにけしからんぞ。あんな若い女を、喜んで背中にのせて、
尻をまくって川を渡るやつがあるか。お前は精進堅固な坊主だと思っていたら、よっぽど
生臭坊主だ」と言った。

そしたらそのお坊さんが
「お前はまだあの女を負んぶしているのか。わしはもうとうに降ろしたよ」
と答えた。

という意味は、心の世界にいつまでも過去を負んぶしている様な事ではいかんということです。

宗教というものは、心の世界のことですから、心にいつまでもその女のことが気にかかるようでは
いかんのです。先に渡った坊さまは、何も色情を起こして女を負んぶしたわけではないのです。

これは仏の慈悲の心が現れて、今渡らなかったら困るお嬢さんだから、渡してあげたいというので、
それで負んぶして渡ったのです。

そこには色情のシの字もないんです。
本当に仏の相(すがた)が現れていたんだけれども、
肉眼で見たら、尻まくって女を負んぶしているというように見えるという訳です。

所がそれを見ていた後の坊主は、それを色情に連関して見て、
「ああ、羨ましいなあ、わしもああ出来たらよかったのに、あいつに先を越されてしまった」
という風に妄想を起こしのです。

キリストも言われた。「女を見て色情を起こしたものは既に姦淫せるなり」という訳で、
女を見て、そして性欲の感じを起したら、それは「既に姦淫せるなり」で、
心の世界ではすでに姦淫したも同じ事なんだ。

実際に女に触れないでも、女に性的な感じで触れたいと思ったりすると駄目だ。

それも溺れるものを助けてやりたいというので触れるのなら好いけれども、そうではなくて、
「あの女に触れたらいい気持ちやろうなあ」なんて、いう風な考えをおこして、
「それで触れたいなあ」と思ったとして、しかし、人が見ているから、そういう訳にもいかんし、
という訳で、外見は行ない済まして居りましても、これはやっぱり「姦淫せるなり」という事になる。

心の世界では、こうして"つかむ"ということが罪なのであります。

ともかく、つかむという事は、病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。
「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。放てば生きる!

吾々がこの世に生まれて、苦しい悲しい悩ましい思いを起し、いろいろの悩みの種になるのは
何かというと、「掴む」ことです。

何を掴むかというと、「現象」を掴むんです。
「現象」を掴んで、どこそこで、誰が、何時、何をした、何を言ったと掴む。

それは悉(ことごと)く過ぎ去ってしまった時の事なのに、何時までもそれを掴んで、
それでああだ、こうだ、ああだこうだ、こう言っているんですね。
そのために自分も苦しいし、それによって人も攻撃するから、人も苦しい。
そして修羅場を演じている ―― という事になっている。

だから過去は過ぎ去るものであって無いのだ。
過去は無いんだ。「今」しか無いのだ。
「今」《しか》"と言ったっても、今見えている「現在の悪」があると云うのではない。

その「今」は、過去・現在・未来に非ざる処の、時間空間を超えたところの、
もう一つ奥にある「今」なんです。

「如意宝殊観」という神想観をするときに「吾れ今此処竜宮城に坐して、塩椎の大神より
如意宝珠を得たり」と唱える ―― あの吾れ「今」此処の「今」ですね。

「今」その一切の現象的な時間空間を超えて、吾れ今五官の世界を去って実相の世界に在る。
今此処が実相の世界である。現象に、どんな相が現れておっても、その悪い相は「影」であって、
本来無いんだ ――

という訳で、一遍その悪い相に目をつむって、そして、新たなる眼を開くんです。

これが新たに生まれ更るでありますね。

「汝の目のおおいをとれ」と神様は仰せられているのでありまして、
目のおおいをとってみると、すると今まで嘆き悲しみの充ち満ちていた世界が、
親天新地となって現れて見えるのです。

病気は消え、貧しさは消え、ここが実に豊かな天国浄土になっている相が現れるのです。

それにはどうしても「現象の抹殺」という事が必要なんです。

「現象の抹殺」といっても、原子爆弾でみんな吹き飛ばしてしまうというのではないのであって、
心の世界で、どんな悪しき相があらわれていても、そんなものは実は「幻」であって本当は無いんだ。
「無」だと悟るんですね。

「無」を知ることが大切なんです。
「無」の関所を一遍越えなくては、実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。

「無」は何も無いんじゃないのであって、その「無」の関所を越えたときに、
無尽蔵のよきものの充つる世界が出て来る。
それにはやはり一切の現象を一応「無い」と断ち切らんといかん。

それをキリストは「十字架を負いて我に従え」と言っている。
「十字架」というのは抹殺のしるしだ、帳消しですね。
「十字架を負って我に従え」だ。

その時に「復活」がある。

十字架にかかって、「肉体無し」と一応肉体を抹殺した時、真の生命が復活する。
一遍「肉体の存在」を槍で衝いて殺して了(しま)うのですよ。

なるほど宗教というものは ―― といって他の教団は知らんけれども、
生長の家の宗教は一つの峻厳なるものだ。

病気治しどころのことではない。
そんな甘いもんじゃないのだ。

一遍「自分」を殺さないといかん。
十字架に自分をつけるのだ。
「肉体なし、物質なし、現象なし」だ。

これを「十字架を負う」という。

肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟ったときに、
そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを発見することが
できる事になるのであります。

これが「新たに生まれる」ということです。
人新たに生まれずば神の国を得る事能(あた)わず」と
キリストはニコデモに教えているのであります。

肉体を放ち捨て、肉体の利益を放ち棄てたときでないと、
神の国を見出すことはできないのであります。


   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ここまでの部分、H26.7.31追加)



非常に大事なポイントとして

(1)心の世界では、こうして"つかむ"ということが罪なのであります。
   ともかく、つかむという事は、病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。
   「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。放てば生きる!

(2)過去は無いんだ。現象は無いんだ。
   「無」を知ることが大切なんです。
   「無」の関所を一遍超えなくては、
   実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。

(3)生長の家の宗教は一つの峻厳なるものだ。
   病気治しどころのことではない。そんな甘いもんじゃないのだ。
   一遍「自分」を殺さないといかん。十字架に自分をつけるのだ。

   「肉体なし、物質なし、現象なし」だ。
   これを「十字架を負う」という。

(4)肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟ったときに、
   そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを発見することが
   出来る事になるのであります。

   これが「新たに生まれる」ということです。

           <感謝合掌 平成25年10月16日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月17日 頓首再拝>)

人を憎めば自分の人格が低くなる - 伝統

2019/07/20 (Sat) 18:34:04


           *「幸福を招く365章」(P183~184)

どんなに熱心に、神想観しようとも、神に祈ろうとも、もし誰かを憎んだり、
恨んだり、呪ったりしている限りは、それは無効に帰するのである。

人は自分が誰かを憎んでいる限り、
その憎んでいる相手の高さ以上に昇ることはできないのである。

憎んだり怨んだりしているのは、その人に執着を持っているのであるから、
執着のある所までその人の心は降りて来るほかはないのである。

人を憎めば、憎んでいる相手と同じ低さまで自分の人格が降りたのであるから、
もう自分は、その相手を憎んだり、軽蔑したりする資格はなくなったのである。

どんな相手に対してでも其人に宿る神性を拝むことにするならば、
自分の人格も亦その神性の高さまで昇るのである。

人に何か、欠点があらわれた場合に、欠点をみるな、「神らしくない所」に
眼をつけるなと云われても、どうも、見えるものは仕方がないのであって、
悪い人は悪いと見えるほかはないと云う人がある。

併し、こんな場合に「悪」の存在を否定しようと思うから難しいのであって、「悪」は
そのままにして置いて、其の人の中に宿る善なる神性のみをみつめるようにしておれば、
その人の善なる神性はあらわれて、「悪」はおのずから影のように消えてしまうのである。

すべて「悪」と見えるものは本来存在しないのであって、
それを認めている間だけ現れているのである。
                        
           <感謝合掌 平成25年10月22日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月20日 頓首再拝>)

ゆるすということ - 伝統

2019/07/21 (Sun) 12:55:31


        *『ゆるすということ』(ジャンポルスキー・著)より

(1)過去から自由になる

   ゆるさないと過去の出来事にいつまでも縛られる。
   私たちは、怖れや怒りという檻の中に、心を閉じ込めてきました。
   ゆるしはその監獄の扉を開け放ちます。

   どうしようもない過去を変えたいという思い込みや願望からも、自由にしてくれます。

   ゆるせば、つらい過去から自由になれる。

(2)裁くのをやめる

   ゆるすことは、その人の行動に同意することでも、
   人を傷つける行動を肯定するのでもないということを、思い出す。

   ゆるしの目的は他人を変えることではなく、
   心のなかでせめぎ合う否定的な思いを変えることだと思い出す。

   裁くのをやめる。それだけで、幸せになれる。

(3)自分を痛めつけるのをやめる

   ゆるさないという思いは、苦しみをもたらし、さまざまな症状を引き起こします。
   否定的な感情によって自分の体を痛めるのは、そろそろやめにしませんか。

   裁く気持ちや絶対にゆるせないという思いは、
   ストレスになって肉体を痛めつけ、内臓の病気だけでなく
   さまざまな心身症を引き起こします。

   ゆるさないでいると、健康に明らかな悪影響が及ぶのです。

(4)状況や他人のせいにするのをやめる

   人生がうまくいかないとき、他人を責めたり状況のせいにしたりするのを
   やめなくては人は幸せにはなれません。

   誰かを責めても、仕返ししても、罰を下しても、幸せにはなれないのです。
   ゆるさなければ、求めているものは得られません。

   怒りや心の傷、恨みつらみ、そして心のなかの争いや他人との争いという
   悪循環を止めるのは、自分自身だけなのです。

(5)過去は繰り返される?

   ゆるすためには、「過去の出来事は必ずまた繰り返される」という思い込みを克服して、
   心の準備をしなくてはなりません。

   「過去の出来事は繰り返される」というエゴの思い込みのせいで、
   私たちの心には、怖れ、責める心、罪悪感、ゆるしたくないという思いが、
   たえず生じてきます。
 
   すると人間関係が築けなくなり、本当の自分を見失い、
   愛や神の存在を実感できなくなります。

(6)安らかな現在と未来のために

   なぜゆるすのかといえば、自分を過去から自由にするためです。
   他人への恨みつらみから、自分を自由にするためです。

   ゆるすと危険な目に遭うどころか、
   いまこの瞬間を、より生き生きと生きられるようになります。

   そして、いまこの瞬間が安らぎに満ちていれば、
   安らかな気持ちで未来をみることができます。
   すると、安らかな現在がそのまま未来へと続き、安らかな未来になります。

(7)思いは選択できる

   ゆるしは選択です。
   ゆるさなければならないという決まりはありませんし、
   ゆるしの意義を信じる必要もないのです。

   ただ、ゆるすかゆるさないかは自分の心に決めさせて、
   ゆるすと何が起きるか、ゆるさないと何が起きるかを、じっくり観察してください。

   まちがいなく私たちの最もすばらしい才能のひとつは、
   心に抱く思いを選択できるということなのです。

   この選択の自由によって、
   私たちは自分でつくった檻の中から、自分自身を解放できるのです。

(8)「ゆるそう」という意欲

   ゆるす能力を高めるキーワードは、「意欲」です。
 
   ゆるしを実践するときは、自分自身に
   「私はすべての恨みや、一見もっともな怒りを、自分のなかの再考の真実にゆだねる」
   と自信をもっていいましょう。

   「ゆるそう」という心が、ゆるしへの鍵。

(9)ゆるしつづける

   ゆるすにはどれだけの時間が必要だろうか?
   それはあなたの価値観しだい。

   絶対に無理だと信じるなら 絶対に起こらない。
   半年かかると信じるなら 半年かかる。
   1秒ですむと信じるなら 1秒ですむ。

(10)ゆるしが幸せの鍵

   あなたは安らぎがほしいか。
   ゆるせば、安らげるだろう。

   幸せになりたいか。静かな心でいたいか。・・・
   ゆるすことで、これらすべて、いやそれ以上のものが手に入る。

   ゆるすことは 幸せになるための処方箋。
   ゆるさないことは 苦しみための処方箋。

   「正しさ」より「幸せ」を選ぶ。
   「ゆるしが幸せの鍵だ」と信じる。

           <感謝合掌 平成25年11月6日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月21日 頓首再拝>)

腹の立つ相手を赦すこと - 伝統

2019/07/22 (Mon) 10:04:40


       *「幸福を招く365章」(P212)より

あなたの心のうちに何か腹が立つことがあったら、
それを他の人の所為(せめ)にして人を憎んだり怨んだりしてはならないのである。
人を憎んだり怨んだりしている限りに於いては貴方の不快の念は去らないのである。

先ず相手を赦すことが貴方の不快の念を除(と)り去る唯一の道である。
一切万事、我れより出でて、我(われ)に復(かえ)ると云うことを知って、
赦した次には相手を愛しなければならない。

愛は、自分の気に入る者だけを愛したのでは本当の愛ではないのである。
愛は最も愛しがたい相手を愛することによって、それが単に「好き」であるか、
「本当の愛」であるかがテストされるのである。

           <感謝合掌 平成25年11月13日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>)

ゆるしは最高の道具 - 伝統

2019/07/23 (Tue) 09:02:21


      *『ゆるすということ』(ジェラルド・G・ジャンポルスキー/著)P10より、

すべての誤解、こだわり、偏見、恐れからお互いを解放し、
本当の自分自身を体験するために、私たちは生まれてきたのです。

私たちは、そのためのすばらしい道具も与えられています。

なかでも最もすばらしい道具が「ゆるし」です。

ゆるしは、あなたとみんなの人生に、
想像しうるかぎり最高に深い、変容をもたらします。

ゆるしはすべてを変えるのです、たった一晩で!

ゆるしは、悲しみのあるとことに喜びを、
争いのあるところに平和を、
怒りのあるところに喜びをもたらします。

さらに、本当の自分を取り戻させてくれます。

           <感謝合掌 平成25年11月17日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月23日 頓首再拝>)

ゆるしが癒しになる - 伝統

2019/07/25 (Thu) 09:35:59



       我々がある人間を憎む場合、
       我々は彼の姿を借りて
       我々の内部にある何者かを憎んでいるのである。

                <ヘルマン・ヘッセ >
・・・

ゆるしが癒しになる

      *『ゆるすということ』(ジェラルド・G・ジャンポルスキー/著)P23より、

(1)ゆるすことで、私たちは自由になります。
   自分を責める心の戦争に「待った」がかかります。
   怒りや非難の悪循環から抜け出せます。

(2)ゆるしによって、自分の本当の姿がわかります。
   ゆるしたとき、私たちの本質は愛なのだと、体験できるのです。

(3)ゆるしは癒やしをもたらします。
   あらゆる人々、そして生きとし生けるもののすべてとひとつなのだと、体験できます。

(4)ゆるしは自分も他人も癒やします。
   ゆるせば自分見る目が変わり、他人を見る目が変ります。
   世界観が変わります。

   四六時中の心の葛藤に、終止符を打てます。

   ・・・

   他人をゆるせないとき、
   それはいままで目を背けてきた
   あなた自身を見ているときかもしれない。  (P28)


   ゆるしとは
   あらゆる人のなかに神の光を見ること。
   たとえ何をした人だとしても。       (P37)

           <感謝合掌 平成25年12月4日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月25日 頓首再拝>)

人を赦して眠ること - 伝統

2019/07/26 (Fri) 14:16:48


            *「光明法語」より

形式主義を拝す(12月13日)

イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云うと問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。

イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに『縄の鞭』は使ったのである。

イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。

また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは生命主義者であり、
生命の動く儘に自由に振舞ったのである。

・・・

みずから作る運命(12月14日)

イエスは審判いたから、とうとうその反対論者や審判かれた祭司やパリサイ人などの謀略にかかって
磔刑にせられたのである。

イエスは『モーゼ蛇を挙げしが如く人の子も挙げらるべし』とみずから預言して
其の預言の通りになるように行動したのである。

イエスには磔に架かることが自己の切なる魂の奥底の願いだったのである。
魂の奥底の切なる願いは必ず成就する。

彼の生涯は若し彼があんなに神経的に他を審判かなかったならば十字架に
かからなかっただろう点が多々ある。

・・・

人を赦して眠ること(12月15日)

イエスさえも審判いたならば審判かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈はない。

『兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん』とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は人を恨んでいる為に、又は人を赦していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

『私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。私はあなたに感謝しています』と
深く念ずる事によって治るのである。

           <感謝合掌 平成25年12月15日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月26日 頓首再拝>)

ゆるしの道を歩む - 伝統

2019/07/28 (Sun) 09:58:59


    *『ゆるすということ』(ジェラルド・G・ジャンポルスキー/著)<P54~56>より、

ゆるしは旅にたとえられます。
怒りが怒りを呼ぶ世界から、平和の世界へと向かう旅です。

この旅の向こうには、神の心が待っているのです。
それは、無限で無条件の愛に満ちた、新しい世界です。

ゆるすことで、心にある望みのすべてがかないます。

ゆるしは、暗闇を抜けて光にいたる道です。
私たちはゆるすためにこの地上に生まれたのであり、
ゆるすことによって自分が世界を照らす光なのだとわかります。

ゆるせば、過去の影から自由になれます。
それが自分の影であれ、他人の影であれ。

私たちは、怖れや怒りという檻の中に、心を閉じ込めてきました。
ゆるしはその監獄の扉を開け放ちます。
どうしようもない過去を変えたいという思い込みや願望からも、自由にしてくれます。

恨みという傷は、ゆるすことで浄化され、癒されます。
神の愛は実在するのだと、ふいにわかります。
実在するのは愛だけで、ほかには何もありません。

神の愛という現実のなかでは、ゆるすべきものさえないのです。

           <感謝合掌 平成25年12月20日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月28日 頓首再拝>)

『ゆるす言葉』 - 伝統

2019/07/29 (Mon) 19:47:01


・・・

多くの人は、今年1年、さまざまな問題により、怒りや恨みなど、負の感情を抱えて
大晦日を迎えていることと思われます。

今日は、負の感情を抱えてしまった己の心を、ゼロリセットし、新しく生まれ変わることが
できるチャンスの日でもあります。

このチャンスの日に、ダライ・ラマの「ゆるしの言葉」を活用することも有益なことです。

以下に、ダライ・ラマ14世(著)『ゆるす言葉』を年末の大晦日にお届けさせていただきます。

・・・

(1)人類、さらにはすべての生きとし生けるもの ── 人間も動物も ── には、
   幸福を求め平和に暮らす権利があります。

   これとは反対に、他人に痛みや苦しみを与える権利を持つ者など一人もいません。

(2)ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことが
   できるのです。

   ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。

(3)思いやりの心は人生で成功する究極の源です。
   利己的な考え方は他者を害するだけでなく、まさに自分が望んでいる幸福を阻害します。


(4)ほんとうの意味の思いやりは、まず自分自身に対して向けられるべきものと思います。
   まず自分自身に思いやりを持ち、それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。

   つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、他者を思いやることなど
   不可能なことだからです。

(5)今の自分の幸福があるのは、すべて他人の勤勉な努力のおかげです。
   自分の周囲を見まわして、住んでいる家も、働いている建物も、使っている道路も、
   着ている服も、食べている食物も、すべて他人が提供してくれたものであることを
   認識しなくてはなりません。

   見知らぬ無数の人々の親切がなかったら、これらのどれ一つとして存在せず、
   享受することも利用することもできないのです。

(6)不幸なことに、最も声をあげられない人々こそが、人権を奪われている人々なのです。
   したがって、こうした自由を享受している私たちこそが責任を負っているのです。

(7)不安に対処する有効な方法は、自分のことを考えずに、人のことを考えることです。
   本当に人の困難を目にすると、自分のそれは大したことではなくなります。

(8)正しい理由がある人は、一つ一つ例を挙げて話し合いますが、
   まともな支持のない人は直ぐ怒りに身を任せてしまいます。

   つまり、怒りは力ではなく、弱さのしるしなのです。

(9)飢えている人がいるのに、自分だけが飽食してはいけないのです。

   心が痛む現実や、他の人が苦しんでいる状況をしっかりと見据えて、
   一人ひとりが考えていくべきです

           <感謝合掌 平成25年12月31日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年7月29日 頓首再拝>)

ゆるしはすべてを変える - 伝統

2019/08/02 (Fri) 18:31:52


      *『ゆるすということ』(ジェラルド・G・ジャンポルスキー・著)より、

裁こうとする思いを手放したとき、笑いと幸せがやってくる。

ゆるしは、あなたとみんなの人生に、想像しうるかぎり最高に深い、変容をもたらします。
ゆるしはすべてを変えるのです。

ゆるしは、悲しみあるところに歓びを、争いあるところに平和を、
怒りのあるところに喜びをもたらします。
さらに、本当の自分を取り戻させてくれます。

ゆるすことで、私たちは自由になります。
ゆるしによって、自分の本当の姿がわかります。
ゆるしは癒しをもたらします。

ゆるしは自分も他人も癒します。
他人をゆるせないとき、
それはいままで目を背けてきたあなた自身を見ているときかもしれない。

心安らかに生きる。 ただそれだけを目標にしてもいい。

あなたを幸せにするのは、あなた。

幸せな結婚は、まずゆるしあうことから。

裁くのをやめる。それだけで、幸せになれる。

愛とゆるしは奇跡をもたらす。

「ゆるそう」という心が、ゆるしへの鍵。

ゆるすと免疫力が高まる。

ゆるせば、つらい過去から自由になれる。

ゆるせば、思うぞんぶんに愛することができる。

犠牲者としてふるまうのをやめれば、簡単にゆるせる。

ゆるすとは、一度や二度ではなくゆるしつづけること。

ゆるせば、人生がうんと軽くなる。

ゆるしには、早すぎることも遅すぎることもない。

           <感謝合掌 平成26年1月4日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月2日 頓首再拝>)

自分を許す - 伝統

2019/08/03 (Sat) 19:10:21

      
         *「普通はつらいよ」<斎藤一人・著>より

(1)どうしても許せない人がいたら、許せない自分を許すのです。
   「あの人は許せないけど、自分だけは許します」と言えばいいのです。

(2)勇気を出して1回だけ、「自分を許します」と言ってみてくだささい。
   そうしたら人生、ほんとうに変わります。

(3)他人の話を聞いてあげましょう。
   心のコリを取ってあげましょう。
   広い心で生きていられるようにしてあげましょう。

        ・・・

*心のコリを取る

(1)心というのは、肩がこるようにこってしまうのです。
   心がこるようになると、硬くなって、どんどん小さくなってしまいます。

   硬くなって、どんどんどんどん縮まっていく。
   それで、もうこれ以上固まれないくらいになると死んでしまいます。

   自殺は、心がこり固まってしまった結果なのです。

(2)「心のこり」をとる2つの方法

  ①人と話をすることです。話をすると「はなす」ことができます。
   つかんでいたものを、「放す」のです。

   昔の人は、ほんとうにたくさん話していました。
   ところが、今は話をしないでテレビばっかり見ている。

   言葉にすることでストレスのエネルギーを自分から「はなす」のです。

  ②相手を「許す」ことです。
   
   相手を許せないときは、そういう自分を許すのです。

           <感謝合掌 平成26年1月20日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月3日 頓首再拝>)

ゆるし - 伝統

2019/08/04 (Sun) 10:46:44


      *『ゆるすということ』(ジェラルド・G・ジャンポルスキー/著)P150より、

ゆるすことは幸せになるための処方箋

ゆるさないことは苦しむための処方箋

苦しみの原因が何であれ
苦しみにはすべて「ゆるさない」という種が宿っていないだろうか?

復讐の念を燃やしつづけ愛や共感を出し惜しみすれば
健康を害し免疫が低下することはまちがいない

当然だと思われるような怒りでも
こだわりつづけていれば神の安らぎを味わえなくなる

ゆるしとはその行為をよしとすることではない
残虐な行動を見逃すことではない

ゆるしとは怖れに満ちた過去にこだわりつづけることをやめること
ゆるしとは古傷を引っかいて血を流し続けるのをやめること

ゆるしとは過去の影に惑わされることなく
いまこの瞬間に百パーセント生き百パーセント愛すること

ゆるしとは怒りからの解放であり攻撃的な思いにさよならすること
ゆるしとは誰に対しても愛を拒まないこと
ゆるしとはゆるさないという思いから生じた心の空洞を癒すこと

ゆるしとは過去に何をした人でもすべての人のなかに神の光を見ること

ゆるしとは、相手のためだけでなく
自分自身のためであり自分が犯したまちがいのためであり
くすぶりつづけている罪悪感と自分を恥じる気持ちのためである

最も深い意味でのゆるしとは
愛に満ちた神から自らを切り離してしまった自分を、ゆるすこと

ゆるしとは神をゆるすことであり
神は自分を見捨てたというおそらくはまちがっている考えをゆるすこと

今この瞬間にゆるすということは
もう先延ばしせずにただゆるすこと

ゆるしは心の扉を開け感情をスピリットと一体にし
すべての人と一体にしすべての人を神と一体にする

ゆるすのに
早すぎることはない
遅すぎることもない

ゆるすのはどれだけの時間が必要だろうか?

それはあなたの価値観しだい

絶対に無理だと信じるなら
絶対に起らない

半年かかると信じるなら
半年かかる

1秒ですむと信じるなら
1秒ですむ

私は心から信じている
一人ひとりが自分も含めてすべての人を完全にゆるせるようになったとき
世界は本当に平和になるということを

           <感謝合掌 平成26年1月27日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月4日 頓首再拝>)

相手を赦す神想観 - 伝統

2019/08/05 (Mon) 19:32:50

            *「光明法語」(P113)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一體でございます。

私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一體でございます。

私は貴方に感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

           <感謝合掌 平成26年4月19日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝>)

自分をゆるし、自分を認める - 伝統

2019/08/08 (Thu) 13:55:57


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年04月29日)」より

誰にいちばんよく思われたいの?

   (山川亜希子氏の心に響く言葉より…)

   私は自分に寛大ではありませんでした。
   ここまでやる、と自分で決めると、それができるまで、自分を駆(か)りたてていました。
   そして、それと同じ水準を、部下にも、その他の人にも押しつけていたのだと思います。

   自分で決めた水準までいかないと、私は自分を責めました。
   許しませんでした。


   そんな悩みがあったとき、友人のディビッドが私に質問しました。

   「君はいったい、誰にいちばんよく思われたいの?」

   私は返事ができませんでした。

   一生懸命、いったい誰にいちばんよく思われたいのか、好かれたいのか、考えました。
   母かしら、父かしら、姉かしら、友達かしら、仕事の仲間かしら。
   それとも、夫からかな。いくら考えても、よくわかりません。

   その間、ディビッドはニコニコしながら私を見つめています。

   私はますます、混乱してきました。

   「わからない。誰かしら?」

   すると、ディビッドがおもむろに話はじめました。

   「それは君自身なのだよ。
   君が自分をよく思っているかどうか、それがいちばん大切なのだよ。
   いったい、君は自分のことをどう思っているの?

   自分のことは好き?
   素敵だと思っている?

   もし、自分のことを大好きで、自分のことを素晴らしいと思っていたら、
   この世の中に何も問題はないのだよ」


   私はびっくりしました。
   天がおちてくるかと思うほどの驚きでした。

   自分のことを好きかどうかって?
   自分をどう思っているかなんて、私は考えたこともないのに。

   私は世間一般から見たら、すごく恵まれています。
   両親に愛されて育ったし、お金には苦労していないし、大学まで出ているし、
   夫は真面目なお役人だし、仕事だって、自分がやりたいと思うとすぐに見つかるし、
   めったにできない経験だってしているし。

   マイナスといえば、客観的には赤ちゃんができなかったことくらいでしょうか。


   私はパーティなどで人とお話をするのが苦手でした。
   私は魅力がない、人と面白いお話ができないと、ずっと悩んでいました。

   いまでも思い出すのですが、大学時代に外国人もいるパーティに行ったときのことです。
   友だちは外国人の男性からいろいろ話かけられているのに、私はずっと壁の花、
   一人さびしくみんなを眺めているだけでした。

   その体験はだめな私をもっともっと強化してしまいました。

   それから、「私は人とろくにお話しもできない。誰も私に話しかけてくれない」
   という傷が、ことあるごとに顔を出すようになりました。

   私は自分を許せませんでした。
   私にそっぽを向いた人を恨みました。もう人には会いたくない、と思いました。
   もう、生きていけない、とさえ思いました。

   苦しむだけ苦しむと、爆発するように私のなかにたまっていた悲しみや苦しみや悔しさ、
   そんなもろもろの感情や思いが噴出しました。
   それが終わると、私はすっきりしていました。

   自分のなかにあった恐れにも気がつきました。
   そして、そんな自分を許すことができました。

   「人と話せなくてもいいじゃない。一人でいてもいいじゃない」と思えました。

   私はだめな自分を許したのです。
   認めたのです。
   それもまたいいよね、と自分で受けいれることができたのでした。

   そうすると、パーティも苦痛ではなくなりました。
   自分が話したい人と話せばいい、と思えるようになりました。

   誰も話しかけてこないときや、話したいと思う人がいなかったり、
   または話してみたいと思う人が誰か他の人と話しているときなどは、
   そこにいる人たちを見ながら、一人で楽しめるようになりました。

   さらに、いろいろな人から話しかけられるようになったのです!

   私の心もからだもリラックスして、きっと楽しいオーラを発しはじめたからでしょう。
   だめな自分を隠そう、なんとか努力して違うように見せようと思っていたときは、
   私の心も体もきゅっと縮まって、みんなを寄せつけない防御(ぼうぎょ)のオーラを
   発していたのだと思います。

   だめな自分をそのまま認めてあげることができたとき、
   私の人生は大きく変わっていきました。

   そして、一回、だめな自分を許し、認めてあげるという体験をしてからは、
   それ以外のだめな自分を見ることも、それまでよりは楽にできるようになりました。

   そして、だめな自分に気づくたびに、
   それを受けいれ、許すことも上手になっていきました。

         <『宇宙で唯一の 自分を大切にする方法』大和書房>

        ・・・

人を許すことはとても大事なことだ。
誰かを一生絶対に許せない、としたら
その苦しみと悲しみは墓場まで持っていかなければならない。

だがしかし、もっと重要なことは、自分自身を許すこと。

完璧であらねばならぬ、人によく思われなければならぬ、
などという「ねばならぬ」が多くなったとき、人は苦しくて窮屈でたまらなくなる。

自分を許せない人は、人も許すことができない。
自分に厳しい人は、人にもその厳しさを要求する。

そして、自分を好きでない人は、心の底から人を好きになることはできない。

「誰にいちばんよく思われたいのか」

人によく思われたい、と誰しも思う。

だからこそ、欠点を隠し、少しでも自分を大きくみせようとする。

いい部分だけでなく、だらしない自分、ダメな自分、いい加減な自分、
をも受けいれることができれば、人生はもっと楽になる。


今の自分を嫌いな人は、「あの頃はよかった」、「あの時あんな決断をしていなければ」
と過去を懐かしむ。

今の自分を好きな人は、過去ではなく、このただ今、この瞬間を楽しんで生きることができる。

自分をもっと大切にしたい。

           <感謝合掌 平成26年5月7日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>)

記憶の底に隠れた憎み・恨みを浄める - 伝統

2019/08/09 (Fri) 15:29:47


          *「幸福を開く鍵」(P69)より

いくら思い出して見ても、私は、そんなに憎んだり恨んだり、嫉妬したりした記憶がない、
誰と不調和なのかわからないが、兎も角、自分の運命境遇というものが順潮でないという人が
あるならば、それは潜在意識の底に、その憎しみ恨み嫉妬の感情が埋まっていて、

表面の記憶に浮かび上がって来ないだけのことであって、実際には「何か」不調和な陰気な
感情があって、それが陰気なくらい運命や境遇を引き寄せつつあるのである。

此の、記憶にものぼらない不調和な感情を消してしまい、
陽気な感情とそれを置きかえることによって、
あなたの運命及び境遇は必ず好転するのである。


その記憶の底に埋もれている不明の不調和の感情を浄めるためには次の如く念ずるがよい。

「神の愛が天降って来て私を包んでいるのである。神の愛が私の全存在を満たし、
私の潜在意識の底にあるすべての憎み恨み嫉妬の感情を、その残滓にいたるまで悉く許し、
それを浄め給ふのである。

私はこれら一切の不満の感情から癒されたのである。
そして私の潜在意識の底には、唯“愛”のみ“調和”のみ“明るさ”のみ“陽気さ”のみ
充満しているのである。

だから“類は類を呼ぶ”法則によって、
私の周囲には愛と調和と陽気な明るい運命と境遇のみが集まって来るのである。」

           <感謝合掌 平成26年5月12日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>)

「あいつだけは許せない!」といった怒りの感情への対処法 - 伝統

2019/08/12 (Mon) 09:52:15


      *「「イヤな気持ち」を消す技術」苫米地英人・著(P106~107)より

あなたが社長で、目をかけていた社員に会社の金を横領されたとしましょう。

そのときに、
一つ上の抽象度のゲシュタルト(バラバラのものを統合してひとまとまりの状態にしたもの)
をつくるには「こいつ許せない!」と相手に向かってカッとなるのではなく、
まず「あ、自分のせいかもしれない」と自分のほうに向き直ることです。

そして「なぜ、あいつを採用したんだろう? 次は、もっと人物をよく見て採用しよう」と、
それを防ぐ方法を考える。

「あ、自分のせいかもしれない」で始まる内省は、自らを客観的に見て、評価することです。
そのときに考えたことは、すべて、前頭前野による評価になるわけです。


一方、「こいつは許せない! 」という情動のゲシュタルトには、
前頭前野の評価がいっさいありません。

それをそのままにしておけば、「その体験は嫌だ! 」というゲシュタルトが凝り固まり、
「許せない」「許せない」「許せない」という情動が無限にくり返されていきます。


そこで、「なぜ、その『嫌だ』が起きたのですか? 」、
もしくは「次は、それをどう防げばいいですか? 」
と自らに問いかけ、前頭前野を働かせ、その体験を評価するのです。

面白いもので、イヤな体験を評価し、前頭前野を働かせることを繰り返していると、
「許せない! 」「嫌だ! 」という情動がものの見事に鎮まっていきます。


これが、情動的にイヤな体験をトラウマにすることなく、長期記憶化もさせない
一番簡単な方法です。


・・・


怒りや悲しみ、不安といった情動は、脳の中の大脳辺縁系という部位で起こるそうです。

他方で、知性を司る前頭前野は、大脳辺縁系という部位より上位層にたち、
こちらが優位になると低位にあたる大脳辺縁系の情動は抑えられます。

なので、怒りや不安といった情動がたちあがろうとしたら、
直ちに、前頭前野を働かせて「客観的評価」「論理的な評価」に持ち込むとよいのです。

感情は、どうにもならない問題ではなくて、自分の脳の中で起きることだから、
自分でコントロールすることができるのです。

「許せない」という怒りの無限ループに陥らせずに、知性、理性を発動させて、
嫌な情動を抑制することができるのです。


「あ、自分のせいかもしれない」

「なぜ、その『嫌だ』が起きたのかな?」

「次はどうすればいいのかな?」

今度、嫌な出来事が起きたときに、ちょっとこの言葉を自分に投げかけて見てはいかがでしょう。

紙に書いて整理してみることもよい方法です。

           <感謝合掌 平成26年6月14日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>)

「ゆるすための8つのステップ」 - 伝統

2019/08/14 (Wed) 12:50:09


            *「鏡の法則」より

【ステップ1】 ~ ”ゆるせない人”をリストアップする。
  
 「この人をゆるすことができたら楽になる」「この人と心の底から和解したい」
 と思える人を紙に書き出してください。

 特に、両親との関係は重要です。

 「父と母のどこかを責めていないか?」「心から感謝しているか?」
 を自分に問うてみてください。

 そして、どこかにひっかかりがあれば、両親の名前も書いてください。


 親との関係は、さまざまな人間関係に投影されますので、
 心の底で親と和解することは、たくさんの恩恵をもたらします。

 このステップは、すでに亡くなっている相手に対しても有効です。
 あなたにとって“ゆるせない人”であれば、亡くなっていても書き出してください。



【ステップ2】~ 自分の感情を吐き出す。


【ステップ3】~ 「ゆるせない」と思った相手の行為の動機を探る。


【ステップ4】~ 相手に対して感謝できることを書き出す。


【ステップ5】~ 相手に対する感謝の言葉をくり返し唱える。


【ステップ6】~ 相手に対して謝りたいことを書き出す。


【ステップ7】~ 相手との関係を通じて、何を学んだかを書き出す。


【ステップ8】~ 「ゆるしました」と宣言する。


8つのステップを終了した時点で、「ゆるせない」という気持ちが残っていてもOKです。

あとは毎日、ステップ5をやってください。

いずれ変化が起きてくるはずです。

           <感謝合掌 平成26年7月8日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>)

「許し」は自分のためにおこなうもの - 伝統

2019/08/15 (Thu) 11:53:32


       *「幸せでいるための12の生活習慣」
         心理学者ソニア・リュボミルスキー・著(P195~210)より


(1)「許す」とは和解することではありません。

   つまり、必ずしも罪人との関係を再構築する必要はありません。
   また、「罪を大目にみる」ことでもありません。
   さらには、「許して忘れる」ということでもありません。

   被害を受けた人間の最初の典型的な反応は、
   「加害者を避けること」、「復讐を願うこと」です。

   しかし、そうした反応が、自分にとっても、社会にとっても、
   ネガティブな結果をひきおこすことは明らかです。

   「許し」は自分のためにおこなうことで、
   あなたを傷つけた人のためにおこなうものではありません。

   恨みや憎しみにしがみつくことは、あなたが憎んでいる相手以上に、
   あなたを傷つけることになります。


(2)「許す」という能力を訓練すれば、身体や心の健康が向上するかどうかを調べる実験では、
   許しを与えたグループでは、許しを学ぶことによって、自制心が強くなり、
   不安な気持ちが減少し、自尊心が高まったという報告があります。

(3)「許す」ことは、苦悩を経験しているのが、自分だけではないことを知り、
   人間的な感情を分かち合う気持ちを深め、他者とのつながりを強くしてくれます。
   
   「許す」ことで、他人の気持ちがさらに良くわかるようになり、信心深くなります。
   人と親密な関係を築くことができるようにもなり、人は前に進んでいくことが
   できるようになります。


(4)「許す」ための方法

  ①自分が許されることに感謝する。

   他人を許せるようになる前に、まずは自分自身が許されたときのことを感謝する
   トレーニングをしてみます。
   許すことの恩恵を理解するにに役立ち、あなた自身が許しを与えるときの手本ともなります。

   自分がした過ちに対して、謝罪の手紙を書いてみます。
   自分が加害者になる場合もあることを認識し、受け入れることで、
   あなたの人生で加害者になっている人の気持ちを理解できるかもしれません。

   謝罪の手紙を実際に出すかどうかは状況次第です。

  ②許している状況を想像する。

   自分を怒らせたり虐待した特定の人物を設定し、想像力を働かせて、
   その人の感情や状況を理解し、許しを与えている状況を思い浮かべます。

   加害者に感情移入し加害者の目や耳を通じて状況を眺め、
   あなたに与えた不快な行動のみで相手を判断するのではなく、1人の人間としてみてみます。

  ③許しを与える手紙を書く

   自分を怒らせたり虐待した特定の人物を設定し、危害を加えられたり、
   攻撃を受けたことについて具体的に書き、そのときの苦しみを表現し、
   今もそのせいで苦しんでいることを明らかにします。

   相手が自分にしたことに対して「こうしてくれたらよかったのに」と思うことを書きます。
   最後に許しを理解を表す言葉を書き記します。

   「許す」ことに成功している人に話を聞いたり、
   「許す」ことを実践してきた著名人に関する本を参考にするといいでしょう。

   例えば、マハトマ・ガンジー、ネルソン・マンデラ、
   マーティン・ルーサー・キング・ジュニアなどです。

(5)許しを与えるのが容易になる要素

  ①共感してみる。

   相手の感情や思考を理解してみます。
   日常生活で共感について実践する方法は、自分には理解できない行動を誰かがとるたびに
   それに注目して、その人の思考や感情、意図を汲み取ろうとしてみたり、あるいは
   本人に直接聞いてみたりすることです。

  ②相手を大目に見てあげる。

   相手を寛容な視点からみてあげる。

   相手に寛容になるために効果的な方法は、許しを与える手紙に対して、
   可能ならば謝罪の手紙など返事がほしいと書いて、相手の謝罪を受け入れることで、
   状況を新たな視点で見れるようになったり、共感がうまれたりします。

  ③あまりくよくよと考えない。

   思い煩うことは、許しを与えることに大きな障害になる、という事実が分かっています。

   じっくり考えたり、パンチングボールを打ったりするような「カタルシス理論」は
   全く間違いであることが、研究結果からわかっています。

   そういう行動のせいで、敵意は減るどころか、増えてしまうのです。
   加害者を思い出すたびに苦痛や憤りがよみがえってくるからです。
   考え過ぎはやめましょう。

           <感謝合掌 平成26年7月25日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>)

相手を恕(ゆる)したら原爆による病も治る - 伝統

2019/08/16 (Fri) 12:51:43


8月6日は、広島に原爆が落とされた日です。

これに、関連し、谷口雅春先生の「続々甘露の法雨講義」からの紹介です。


《原爆によるケロイドが治った実話》

終戦の翌年、私は呉(くれ)のある高等女学校で講習会がありまして、
その時に、あの広島の原子爆弾の被害を受けた平野みさ子さんと云う人が
聴きに来ておられたんです。

僕はその婦人を知らなかったので、何も気づかずに、講習を続けておったのです。
それからその呉市の講習を終って、ずーっと九州を講習旅行で一巡して、
その帰りに尾道の教化部へ寄ってそこで講習があった訳なんです。

その講習会での体験談をいう時間になりますと、原爆のケロイド症と云うのですか、
顔が凸凹の皮膚があかむけになったご婦人が立ちあがって体験談を話されました。


   私は平野みさ子と申します。皆さん、私は御覧の通り、こういう顔でございます。
   風呂敷を被(かぶ)ってでも歩かなければもうきまりが悪くって歩けないような
   斯ういう醜(みぐる)しい顔をしているのでございますけれども、

   しかし私は感謝で感謝で一杯でございますので、わざわざ私はこの尾道に
   講習会があるということを聞いて呉から上った者であります。

   実は呉の講習会の時に私は講習を聴きに行ったのです。
   広島の原爆の時に私は××町の何番地に住んでおって、その頃、建物疎開のために
   屋根へ上っておったのです。

   家を疎開して広場にして空襲で火災を起こした場合の延焼を防止する目的で
   家を崩す作業をする為に隣組の人と一緒に屋根へ上って、それで瓦をリレーで
   降ろしておったのであります。

   午前8時頃であったと思います。
   その時に、原爆を積んだB-29がやって来てピカドンとやったんですね。
   で屋根の上に登っていた人は爆風のために悉くハネ跳ばされて(注。爆風で飛ばされる
   位だからもう余程近い、それで放射能は無論受けているのであります)全部全滅した。

   私もはね飛ばされたけれども不思議に生きておったのです。

   その時にはね飛ばされた時に何処かで手を打ちつけて、左の手の親指が挫(くじ)けて、
   そのままこれは動かなくなっておったのですが、その時分にパッと飛ばされると、
   跳び起きて、もう無我夢中で走り出しました。

   走っていると、原爆を受けた多くの人々が一緒になって走っているのであります。

   無我夢中で何処に逃げたら良いか判らんけれども、兎もかく走っている。
   そうすると手が、あの撃剣(げきけん)の時に籠手(こて)というものを腕にはめるでしょう。

   あの籠手みたいな恰好に、腕の皮膚がすっと籠手を抜いたように脱げて、
   赤むけの腕の先に籠手の形の皮膚があべこべにぶら下って走っている。

   それらの人の顔を見ると、紫色とも赤い色とも何とも言えない、
   あの海鼠(なまこ)の色みたいになって、こう膨(は)れあがった変な顔したのが、
   そんな腕をぶらさげて走っているんです。

   そのうちに私の顔もプーッと膨(は)れて来て、そしてもうあんまり顔が膨れて来たので
   眼が埋まって見えんようになる位になったと思うと、気を失って私は倒れてしまったのです。

   それから9日間経ったのですが、わたしは死体収容所に放り込まれておって、
   もう死んだと認められておったのです。

   その死体収容所には、出来るだけ場所を取らないように、ずうっとうず高く死骸を
   積んであるんですが、そんな事は自分にはわからんのですけれども、
   私だけまだ心臓が動いているというので、別にひとりだけころがしてあったのです。

   ふと気が附くと医者が来てですね、医者が何やらいう声が聴こえるんです。
   それで水を飲みたいと思って、ものを言おうと思うけれど言えない。

   そこへ夫が来てくれたんです。あとできくと、夫は何遍も其処(そこ)へ捜しに
   来たんだそうですけれども、もう顔がすっかり変わってしまっているから、
   どれが誰だか訳が判らなかったんですね。

   ところがわたしの髪の毛に、住所姓名がを書いた布切れが結び着けてあったんです。
   それはあの時分、いつ空襲で死ぬかも知れぬから死んだ時に住所姓名がわかるように
   町の人は着物の裏なんかに名前を書いた布を縫い附ける規則になっておったのですが、
   それを切り取って私の髪の毛に結び附けてあったのです。

   ほかの死骸は積み重ねておったけれども、私だけまだ脈があったもんですから、
   積み重ねずに、別に一つだけ死体収容所に転がしてあったんです。 

   私の良人は、私の髪に結んであるところの名前札によって、それを私だと知ると、
   「これは私の家内です。これ、なんとか注射でもしてくれませんか、手当てして
   くれませんか」と言って医者に頼みますと

   医者が 「いやそれ、もう死んどるだろう」「いや、まだ息があるですよ」 と
   医者と良人が問答しているのが聴こえてくるんですよ。

    「そんなら一寸手当しようか」と医者は言うのですが、何も薬があるわけではない。
   あとで聞いてみますと、食塩注射かなんかして呉れまして、それから良人は私を
   自分の家へ連れて行って介抱してくれました。そして3カ月程たったんです。

   で、少し身体が動くようになりましたので、初めて鏡をかしてもらって自分の顔を見ました。
   すると私の顔は何とも言えない凸凹のあかむけの、もう恐しい形相をしておって、
   “ああ、私はあの時救(たす)けられないで、死んでおったらよかったのに!”と

   こう思って、“夫が要らん事をして私を助けたから、私は一生涯この面(つら)を
   さげて他人(ひと)前に恥をさらして生きんならん”と思いまして、
   夫を恨むようになったのです。

   しかし、まあ、段々体力は回復しましたが、顔のケロイドの、この見苦しいひきつりは
   御覧の通りに恢復しません。

   そして、手が、原爆ではねとばされた時に打撲傷を受けた此の腕が自由にならない。
   そして拇指(おやゆび)は曲ったままに不随で伸ばすことができない状態であったのです。

   ところが呉市の高等女学校で講演会があるというので、誰かに誘われて生長の家の話を
   聴きに行きましたら先生の仰言るには、 “夫婦互いに拝み合いをしなければいかん、
   夫は妻に妻は夫に互いに感謝し合わなければいかん。

   左の手は、左の片腕になるのは夫である。
   妻は右の片腕、それがお互いに合掌して拝み合い、そして有難うございますと
   感謝をするようにならなければいかん” ということでありましてですね。

   本当に夫婦の調和したところには悪い事は起らないのであるというような
   真理の話を聞いておりますと、わたしの心の内に“ああ今まで夫を恨んでおった、
   ああ済まなかったなあ”と云う気持ちが起って来たのでした。

   “世間には、私なんかより余程綺麗な婦人が沢山余っているんだ。
   こんないやらしい顔をしている女を、生かしてまで矢張り奥さんにして置こうと
   思わなくたって、どんな女でも私より皆綺麗な人ばかりなのに、

   それなのに、こんな私を何とか修繕して妻に使ってやろうと考え下さって、
   他の者から見たなら、もう見苦しゅうて側へも寄れないような私を、
   それをこんなにまで愛して看護して下さって、ここまで治して下さった。

   それはもう夫の無限の愛であった。
   それなのに私は夫を恨んでおったのは私の間違いだったのだ。
   ああ済まなかった、済まなかった、

   夫よ許して下さい、赦して下さい、済みません、済みませんと、
   こんな私なのに、私を愛して下さいまして、有難うございます、有難うございます”

   こう考えますと、感謝の念で一杯になって私は高等女学校の門を講習を終って出たのでした。
   その時に一寸なにかに触れそうになったので、左の手をひょっと引っ込めようとして
   動かした。と今迄こうして動かなかった其の腕がひょっと動いたのでした。

   だけども、その時は、たいしてそれを気にも止めなかった──講習のお蔭で治ったとも
   思わなかったのです。気がつかなかったのです。

   4時に講習が終りましたので、5時前に自宅へ着いて、
   私は晩御飯の支度をしようと思いまして、ちょうどその頃、莢(さや)のついた
   蚕豆(そらまめ)の出さかる時分でございましたので、それを買って来て、蚕豆の莢を
   こうやって剥いとったんです。

   そこへ夫が帰って来ました。
   この左の手の拇指(おやゆび)はもう絶対に曲ったまま動かないで蚕豆なんかむける筈が
   なかったのですが、こうやって剥いているのを夫は見つけたんです。

   「おいっ、お前、その手動いているじゃないか」とこう言われた時に、
   わたしは、自分の左の腕も左の拇指も動いているのに気がついて初めてびっくりしたのです。

   “あっそうだ、これはあの講習を受けたんで治ったのだ。私の心が変ったんだ。
   夫を恨んでおったのを夫に感謝する心が起ったので治ったのだ”と気がついたのです。

   谷口先生は「左の手は夫を表すんだ」と仰言いました。
   その左の手がこうなったまま動かなくなっていた。
   それは、夫を私の恨む心で抑えていたからだとわかりました。

   それがこのように自由に動くようになって、拇指もよく動いて蚕豆の莢を剥いて
   晩御飯のおかずの支度ができるというのは、私は夫を恨んでいた心が消えて
   感謝の心に変ったからなんです。

   私がこんな原爆の被害を受けたのも、ひとつには、私の心が悪かったんだ、
   済まなかった、済まなかった。この真理を知らして下さって、この腕と指とを
   完全に治して下さった谷口先生にお礼を申し上げたい。

   九州の講演会からの帰りに、先生は尾道に来られるから、御礼を言いましょう
   と思いまして当り前ならこんな所へやって来られない見苦しい顔をしております
   のですけれども、感激でもう一杯でございますから感謝をしに来たんです。


平野みさ子さんの体験談はこれで終わりました。
聴講生一同、あまりに迫真的な体験談なので、
水を打ったように鎮(しず)まり返って聞いていました。


その体験談が終って、私は立ち上がって先刻の、新宿の親分に硫酸をかけられた女将さんの話
をして、当りまえならズル剥けになって引きつった見苦しい禿の顔になる筈の硫酸で焼けた
皮膚がキレイに治ったのは、

それは相手を憎まないで、相手を赦してあげ寧ろ相手の幸福のために祈ってあげた
という様なそういう天地一切のものに和解する気持になった時に、傷痕(しょうこん)が
キレイに治ってしまったので、

これは“肉体は心の影”という教えの実例であると説明して、平野みさ子さんに、

「だから貴女のそのケロイド症の変な赤むけの顔も
あなたがすべてを赦して感謝の気持ちになったら、治りますよ」と言った訳であります。


それから3カ月程して、私は広島県の安芸美津町という所で講習会を催したのでした。
その時に彼地(あそこ)の生長の家の幹部のお方のお宅に泊めて頂いたら、
その時に僕のお給仕に来た御婦人が2人か3人あったんですが、

大体まあ、僕が講習に行きますと、お給仕に来る人はなるべく先生に
見苦しい感じの悪い顔の人は近付けないと云う幹部の人の御配慮かどうか知りませんが、
兎も角美貌の人を選んで僕に給仕をさせると云うような習慣になっているらしいのですが、

ところが、その時にその平野みさ子さんが選ばれてお給仕に来られた。

で、見ると、その赤むけの顔が治っているのでした。
もっとも、私の教えを受けてたった3ヶ月ですから完全には未だ治っていないんですが、
一間程離れた距離から見ると、もう殆ど皮膚の凸凹が判らない位なんです。

まあ側へ寄ってよくよく見れば、少し痕(あばた)みたいだなあと、こう思えるんですけども、
それはもう一間も離れて見たら殆ど判らん位にキレイに治ってしまっておったのであります。


《相手を恕(ゆる)したら病気が治る》

この事実は何を語るかと言いますと、人から害を受けて、そして相手が自分に害を加えた事に
対して恨み憎しみをもっていると、その被害の傷又は結果が中々治らないということを
あらわしているのです。

それは何故であるかと言うと、“彼奴(あいつ)が悪い”という宣告を下す為には
“彼奴はこういう害を加えたんだ”という“証拠物件”を大切に保存しなければ
ならないのであります。

それなのに、その傷がキレイに治ってしまっていたら
“彼が害を与えたことは何も証拠がないじゃないか”ということになるですから、
相手を恨んで、憎んで攻撃してやりたくて相手が悪いという事を宣告するためには、

その傷又は被害情況はどうしても大切な証拠物件だから、
その受けた害、すなわち証拠物件を消してしまってはならない。


従って、その人の潜在意識が其の被害情況をあとかたもなく治すということをしないのです。

だから、人から害を受けた時には、害を与えた人を恨んではならない。
恨んだり憎んだりしたら、いつまでも、その被害情況が消えないということになるのであります。

これは大切なことであります。
病気になっている人は、よく自分の心境を反省してみて、
誰かを恨んだり憎んだりしていたら、その人を赦すことが、病気を治すことになります。

           <感謝合掌 平成26年8月6日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>)

許しのステップ~その1 - 伝統

2019/08/17 (Sat) 18:50:17


許しのステップを実践するために

     *リズ・ブルボー(著)「自分を愛して!」(P311~315)より

(1)自分を許す

   癒やしが起こるためには、あなたは自分を許さなければならない、ということです。
   自分を許すことによって、初めてあなたは自分を愛する事ができるようになります。

   その結果として、からだ全体の細胞を変化させ、本来の調和状態に導くのです。

(2)許しのステップ

  ①あなたの感情を特定する(複数の感情があるのが普通です)

   例えば、自分自身に対する裁きの心、又他者に対する裁きの心、
   そしてその心があなたにもたらす状態を意識化しましょう。

   あるいは、あなたは誰かに嫉妬していませんか?
   誰かを恨んでいませんか?
   誰かを憎んでいませんか?


  ②責任を引き受ける

   そうした感情を持った責任は、相手にではなく、あなたにあります。
   その責任を引き受けましょう。

   ただし、責任を引き受けるためには、
   自分は常に<愛>と<怖れ>のどちらかを選ぶ事ができる、
   という事を知っていなくてはなりません。

   あなたは何を恐れていますか?
   例えば、あなたは人から非難される事を恐れているのではありませんか?


  ③相手を受け入れ、こだわりを手放す

   相手を受け入れ、こだわりを手放すためには、相手の立場になって、
   その時の相手の立場になって、その時の相手の気持ちを感じ取る事が必要です。

   例えば、その人は、その時、今あなたがその人を責めているのと全く同じやり方で、
   自分を責め、またあなたを責めていたのかもしれません。

   だとしたら、あなたは、その人があなたを責めるように仕向けたのです。
   そのためにあなたは何をしたのでしょうか?


  ④自分を許す

   このステップは、最も重要です。

   この段階を通過するためには、自分が、怖れ、思い込み、弱さ、限界
    ―― それらがあなたを反応させ、苦しませました ―― を持っていた事、
   そしてまだ持っている事をありのままに受け入れ、そして許す必要があります。

   今の状態が永遠に続くわけではありません。
   それを知った上で、今の自分をありのままに受け入れてください。


  ⑤許した事を相手に伝える決心をする

   6番目のステップの準備として、あなたが相手を責め、裁いた事
    ―― それは、相手があなたの古い傷を思いださせたからでした ―― 
   を相手に伝えているところを思い描いてみてください。

   その時、喜びと自由を感じたとしたら、
   あなたにはそれを相手に伝える準備が出来ています。


  ⑥相手に会いに行く

   相手に会いに行き、あなたが相手を裁いた事、
   そしてあなたがそれを申し訳ないと思っている事を伝えましょう。
   (あなたが相手を許した事を伝えるのは、相手がそれを望んだ時だけにしてください。
   相手が望まない限り、「あなたを許します」とは言わないようにしましょう。)

   そして同じ理由で相手があなたを裁いた事があるかどうか聞いてみましょう。
   そして、それはいつ、どんな状況だったのか聞いてみましょう。


  ⑦過去との繋がりを確認する

   過去に、父親、母親、祖父、祖母、そして先生などの、権威ある人とのあいだにに
   同じような事がなかったかどうか探ってください。

   それらの人達は、きっとあなたが裁いた相手と同性のはずです。

   それらの人たちとの間で、同様に、この<許しのステップ>を行なって下さい。

   *あなたが、誰かほかの人ではなく、自分自身を裁いた場合には、
    ①②④そして⑦のステップのみを行って下さい。

           <感謝合掌 平成26年8月10日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>)

許しのステップ~その2 - 伝統

2019/08/18 (Sun) 18:59:29


許しのステップを実践することが難しい場合には

     *リズ・ブルボー(著)「自分を愛して!」(P315~318)より

許しのステップが難しい場合は、以下に書かれている事を読んでください。
そして時期が来たらまた<許しのステップ>に取り組んでみてください。

(1)許しのプロセスに必要な時間を、充分自分に与えましょう。
   ステップとステップの間にかかる時間は、1日かもしれませんし、
   あるいは1年間もしれません。

   大切なのは、許しに至ろうとするあなたの気持ちが真剣なものである、ということです。
   傷が大きく、深く、しかもエゴが強力に抵抗する場合には、許しにいたるまで、
   本当に時間がかかる事があります。

(2)許しのプロセスの⑥のステップが難しく感じられるのは、
   多分エゴが抵抗しているからでしょう。

   「私を傷つけたのはあの人なのに、どうして私が謝らなければいけないの!?
   私があの人を恨むのは当然じゃない! 」と思ったとしたら、
   それはあなたのエゴの声なのです。この時、あなたのハートは閉ざされています。

   というのも、あなたのハートが最も強く望んでいるのは、
   他人を思いやり、心に安らぎを感じる事だからです。

(3)許しを請いに行く時、あなたは相手の反応を恐れる必要はありません。

   相手は何も言わない、話題を変える、驚く、話を拒否する、泣く、許しを請う、
   あなたの腕の中に飛び込んでくる、といったふうにさまざまな反応を示すでしょう。

   どんな反応であっても、それを尊重してください。
   そしてあなた自身の反応も尊重しましょう。
   未来に起こる事を予測できる人は、世界中に一人もいないのです。

(4)許しのプロセス⑥のステップにおいて、相手が望まない限り、
   「あなたを許します」とは言わないように、と書いておきましたが、これは重要な事です。

   それには、次の3つの理由があるのです。

  ①私たちが相手から傷つけられたと思っていても、
   相手は全くそういう意図を持っていなかった、と言う事がよくあります。
   <現実>は私たちが思っているのとは違う事が多いのです。
   相手はあなたが傷ついたなどとは全く思っていない場合もあるのです。

  ②許しのプロセスは何よりも、あなた自身を自由にするためのものです。
   相手を許すのは、あなた自身をゆるすためのステップにすぎません。

  ③そしてまた、「あなたには他人を許す力はない」と言う事を悟る必要があります。
   その人を本当に許せるのはその人自身だけなのです。

(5)もし相手があなたを許せないとしたら、それはその人が自分自身を許していないからです。
   あなたが相手を許したからといって、相手もまたあなたを許すとは限りません。
   それを強制することはできないのです。

   あなたを許すかどうかは、あくまでも相手も問題です。
   あなたは相手の反応に責任を持つ必要はありません。
   自分の反応だけに責任を持てばいいのです。

   ただ、もしかするとあなたが自分を許した事に感化されて、
   相手もまた自分を許す事ができるようになるかもしれません。

(6)あなたが気持ちを相手に伝えた時、相手がショックを受け、
   自分を正当化しようとする事があるかもしれません。

   そういう場合には、ただちにあなたの言動によって相手が「非難された」と
   感じたのかどうか尋ねる必要があります。もしそうだったとしたら、
   あなたの心の中に相手を責める思い、相手を変えようとする思いがあった可能性があります。

(7)「私をどれだけ傷つけたか、と言う事に相手が気づき、
   私に対して素直に謝ってくれるだろう」と期待して会いに行くとしたら、
   あなたの中にはまだ相手を非難する気持ちが残っています。

   でもそんな場合でも、自分を責める必要はありません。
   その先のステップに行くにはまだまだ時間が必要だと言う事を
   ありのままにけ受け入れるだけでいいのです。

   あなたは頭では許す事ができたのですが、まだハートで許す事ができません。
   頭で許すとは、相手を知的に理解しているにすぎない、と言う事です。
   それでは、真の解放感と安らぎを得る事はできません。

   ただ、それはよくあることなのです。
   頭で許せただけでも大きな前進です。
   少なくともあなたは相手を許そうと思っているからです。

(8)あなたがある人を許すという事は、その人の行為に同意する事ではありません。
   そうではなくて、あなたが、その人の行為の背後に潜んでいた気持ちを、
   ハートの目で見る事ができるようになったという事なのです。

(9)許す事を通して、あなたは、ありのままの自分でいる事を
   自分に対して許す事ができるようになりました。

   自分もまた限界と弱さを持った人間である、と言う事を許せるようになったのです。

           <感謝合掌 平成26年8月16日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年8月18日 頓首再拝>)

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