伝統板・第二

2537799
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

ゆるしはすべてを変える ④ - 伝統

2019/07/14 (Sun) 04:26:26

懺悔によって赦されよ

        *「光明法語」(7月14日)より

「赦された」と云う実感は、神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。
「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「ゆるす(釈・赦・許) (6522)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1234 

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「ゆるし (10842)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2078 (消滅)


   (再掲示)伝統板・第二「ゆるし」(光明掲示板・第二)
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7885006

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「ゆるし」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=41

(4)光明掲示板・伝統・第一「ゆるしはすべてを変える (42)」
       → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=25

(5)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ①」
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461367

(6)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ②」
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6859307

(7)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ③」
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7631151

            <感謝合掌 令和元年7月14日 頓首再拝>

人をゆるすにはまず自分をゆるすこと - 伝統

2019/07/31 (Wed) 04:47:42


        *「斎藤一人 俺の人生」(P84~85)より

人をゆるすためには、
自分をゆるせなきゃいけません。

あのね、私は学校時代、学校も行かなきゃ
宿題もやっていかないし、先生の言うことも聞かない。
親のいうことも聞かなかったの。

ただ、ほかの人と違ったのは、
私はそういう自分のすべてをゆるしてたんだよね。
自分をゆるせてる。

普通の人は、劣等生だとか何だって、自分を責めちゃうの。
親の言うことを聞かなかったとか、学校の成績が悪かったとか。

でもね、私は自分をゆるせるから、人のこともゆるせるんです。
自分の出来の悪いのをゆるせるとね、
人の出来の悪いのってゆるせるものなの。


人をゆるせる人のそばって居心地がいいから、
あちこちから人が大勢集まって来くるんですよ。

で、集まってきた人が幸せになることを考えたりなんかしてると、
神様からうんといい知恵がもらえたりするんです。

そういう法則がわかっちゃうと、幸せになることって簡単なんだよね。

            <感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>

自分自身を赦す - 伝統

2019/08/16 (Fri) 03:55:11


          *「真理」第9巻生活篇(P159~160)より
            ~《毎日あなたが失敗を繰り返す原因は?》

或る婦人がありました。
毎日毎日失敗と過ちを繰り返すのです。

その原因を或る先生にたずねましたら、他(た)を攻撃する精神は自分自身を
傷つけることになるのですから、他(た)の人の過ちと罪を全部赦して
憎んだり怨んだりしないことにしなさいと教えてくれました。

其の婦人は教えられた通りにすべての人を赦す神想観をいたしましたが、
自分自身が毎日毎日繰り返す失敗と過ちとはやみませんでした。

それで再びその先生にたずねました。

その先生は首を傾けて考えましたが、
「まだあなたは赦さない人があります」と言いました。

「そんな筈はありません。私はもうすべての人を赦しました。
誰ひとり憎んだり、恨んだりしている人はありません」
と其の婦人は答えました。

先生は
「そんなことはありません。
あなたはきっと一人の人を赦していません」と言いました。

その一人の人とは誰でしょうか?

その先生は
「あなたが御自分が失敗や過ちをしたときに、ああ悪かったと思いますか」
とたずねました。

すると其の婦人は
「私は”ああ悪かった、もう二度とこんな過ちをすまい”と決心するのです。
それなのにどうしてまた過ちを繰り返すのでしょう。
もう私は自分自身がイヤになってしまうのです」
と答えました。

すると先生は
「何故(なぜ)あなたはあなた自身を赦さないのですか」
と言いました。

彼女は、
「私自身を赦さないって」と意味がわからないらしく尋ね返しました。

「そうです。あなたは貴方自身を憎んでいるのです。
あなたは”自分自身がイヤになってしまう”と言われました。
それが、あなたが”一人の人”即ち自分を赦していない証拠ですよ。
それであなたは幾度でも自己処罰をして、幾度でも失敗を繰り返すのですよ」
と先生は答えました。

            <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>

イライラするとき、問題はあなた自身にある - 伝統

2019/08/26 (Mon) 04:28:12


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 54(P74~75)より

私たちは、ときどき、いら立つことがあります。あらゆることが気にさわるのです。

ほんのちょっとしたことでも、我慢できません。

でも、そんなときは、けっして他の人を責めないようにしましょう。

問題は、自分自身にあるのですから。

そんなときは、ゆっくりと深呼吸してみましょう。

            <感謝合掌 令和元年8月26日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2019/09/01 (Sun) 04:22:47


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月1日)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

             <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>

すべてを赦し、感謝に変える - 伝統

2019/09/03 (Tue) 04:42:34


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月3日)より

人を審判(さば)く者は、また自分も審判(さば)かれるのである。

聖書に「人の負債(おいめ)を赦せ」とあるのは、人に金を貸してあるのに
その借金証文を全部焼いてそれを帳消しにせよという意味ではないのである。
そんなことをしたら商取引は成り立たないのである。

「あいつはわしに損かけている」という感じを捨てて、
「あの人のお陰で商売(その他なんでも)が成り立っているのだ。
ありがとうございます」

という気持ちになることなのである。

憎しみや、呪いや、腹立ちの感じを感謝に変化してしまうことである。

できるならば、憎んでいた人の名前をいちいちとなえて

「わたしはあなたを赦しました。
わたしはあなたに感謝しています。
ありがとうございます」

と毎朝夕20分くらいずつ思念するがよい。

             <感謝合掌 令和元年9月3日 頓首再拝>

《罪を赦すと云うことの本当の意味》 - 伝統

2019/09/17 (Tue) 04:47:41


          *「真理」第9巻生活篇第6章(P160~161)より

先生の言葉は続きました。

「パウロは我みずからを審(さば)かずと言ったでしょう。
罪や過ちを赦すと云うことは、《こいつ》は悪い奴だけれども
まあまあ咎めないで置いてやろうと云うことではないのです。

これでは”罪の宣告”をして置いて
刑の執行だけを猶予してやっているようなものです。
それは”無罪の宣告”ではありません。

本当に”赦す”と云うことは”無罪の宣告”をすると云うことです。

”現象にあらわれている罪の相(すがた)”を見る眼を一転して、
それを見ないで、其の人に宿るところの善なる”神性”のみを見ることです。

”こいつは悪人だが赦してやろう”と云うのではなく、
”この人は神の子である。何処にも悪はない”と
其の人の実相を見る事です。

他(た)の人を赦す場合でも、自分自身を赦す場合でも同じことです。

あなたは自分自身に宿る神性を礼拝せねばなりません。

             <感謝合掌 令和元年9月17日 頓首再拝>

自分を本当に赦すには、悔い改めそして神の大愛に委ねる - 伝統

2019/09/27 (Fri) 04:05:55

       *「真理」第9巻生活篇第6章(P161~162)より
        ~《[「悪」を合理化しても「善」にはならない》

自分が間違いをしながら、自分は間違っていないと主張したり
弁解することが、自分を赦すことではないのです。

それは悪人がその「悪」を合理化しているに過ぎないのです。

自分を本当に赦すと云うことは自己弁解や、
悪の合理化をすることではないのです。

自分の過ちや罪に就いて、本当の自分の完全さを蔽うている暗い陰と
みとめて「本当に済みません」と云う気持ちにならなければなりません。

ここまでは自分自身を咎める点に於いて、
先刻の婦人と同じことであります。

罪を消すのはこれから先のことです。

その過ちや罪を自分の心でつかんでいつまでも自分を咎めているのでは
「自己処罰」をすることになり、自己処罰の一形式として、
再び其の失敗や過ちを繰り返すことになるのです。

宇宙に輝き満つる神の大愛を神想観中に描いて其の光の中に、
日光で消えて行く霜露(そうろ)の如く
その過ちと罪とが消えて行くことを念じなさい。

             <感謝合掌 令和元年9月27日 頓首再拝>

《自分を害する人にさえ其(そ)の幸福を祈れ》 - 伝統

2019/10/14 (Mon) 04:16:00


      *『 生長の家 』(昭和25年5月5日の法語)より

   神はすべてを良くし給う力である。
   神の力が自分より完全にそそぎ出(い)でるためには
   まず吾らはすべての人を赦さなければならないのである。

   すべての人を赦して、而(しか)して後に
   神に対して凡ゆるよきものを願う所の祈りが
   神に対して波長が合うのである。

   十字架の中からキリストが復活した様に
   吾々も亦(また)凡ゆる苦難の中から復活することができるのである。

   キリストは自分を十字架につけた者さえも決して呪(のろ)わず、
   「 神よ彼らを赦し給え、彼らはなすことを知らざるなり 」 といって
   彼を害した人の幸福さえも祈っているのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

             <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>

《復活の力は「 赦し 」から出て来る》 - 伝統

2019/10/26 (Sat) 04:42:06


       *『 生長の家 』(昭和25年5月6日の法語)より

   神の愛は永遠に変わらないが、人間の心が変わって
   神の愛に波長が合わなくなるだけである。

   キリストが十字架から復活した様に、
   凡ゆる不幸の中から復活する力が
   自分の中に宿っているのである。

   吾はすべての人々を赦す度毎(ごと)に
   吾自身が赦されるのである。

   神はすべての罪をすでに赦し給うたのである。
   自分も亦すべての人を赦したのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

             <感謝合掌 令和元年10月26日 頓首再拝>

人を恨まない、そして人を赦すこと - 伝統

2019/11/08 (Fri) 04:18:18


         *谷口清超著『智慧と愛のメッセージ』より

人は「赦(ゆる)し」の大きさによって計られる
・・・何事が起ってきても、他人の責任にしてはならない。

自分の人生の責任者は、自分以外の何者でもないのである。

あなたは人を赦(ゆる)すことによって、あなた自身の心を高め上げ、
又相手をして、より一層素晴らしい人間にすることが出来るのである。

ひとを責めるよりも、自分の「徳」の足(た)らざるを反省せよ。

       ( http://www.maeda-house.com/blog/?p=2143 より転写)

             <感謝合掌 令和元年11月8日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2019/11/20 (Wed) 04:31:15


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

             <感謝合掌 令和元年11月20日 頓首再拝>

赦しと愛の祈り - 伝統

2019/11/21 (Thu) 06:44:59


       *「光明法語」(11月21日の法語《赦しと愛と平和》)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。

             <感謝合掌 令和元年11月21日 頓首再拝>

他(ひと)を釈す心にならなければならない。 - 伝統

2019/11/28 (Thu) 03:59:08


      *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より抜粋

われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は
「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、
自分自身をも他(ひと)から害される恐怖があるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって
硬化し萎縮してしまうのである。


それを癒す道は、症状に対して直接的には
「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す
念(こころ)を起こすことである。いやしくも人を釈(ゆる)さず、
やっつけてやろうというような考えを起してはならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

             <感謝合掌 令和元年11月28日 頓首再拝>

病める者は眠りしなに、人を赦して眠る - 伝統

2019/12/15 (Sun) 04:20:08


        「光明法語」(12月14日、15日)より

《みずから作る運命》

イエスは審判いたから、とうとうその反対論者や審判かれた祭司や
パリサイ人などの謀略にかかって磔刑(はりつけ)にせられたのである。

イエスは「モーゼ蛇を挙げしが如く人の子も挙げらるべし」とみずから預言して
其の預言の通りになるように行動したのである。

イエスには磔(はりつけ)に架(かか)かることが
自己の切なる魂の奥底の願いだったのである。
魂の奥底の切なる願いは必ず成就する。

彼の生涯は若し彼があんなに神経的に他を審判かなかったならば十字架に
かからなかっただろう点が多々ある。

・・・

《人を赦して眠ること》

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

           <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>

すべての人の罪を赦し、感謝する - 伝統

2019/12/22 (Sun) 05:01:35


     *「光明道中記」(12月22日《完全解放の日》)より抜粋

常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、
すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。

           <感謝合掌 令和元年12月22日 頓首再拝>

人をゆるすと 自分の心がゆるされる - 伝統

2020/01/07 (Tue) 03:10:19


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/07/30)より抜粋

人に恨みを持っていると、
幸せにはなれません。


難しくても、
恨みは捨てるしかありません。


ゆるせば、
気持ちはすーっと楽になります。

心の縛りから解き放され、
あなた自身もゆるされるように感じるでしょう。

★これでハッピー!★

     「すべてゆるします」と言ってみよう。 

  ( https://lucky.t-nakai.work/2019/07/30/happy-22/ )

           <感謝合掌 令和2年1月7日 頓首再拝>

許そうとしたって許せない - 伝統

2020/01/24 (Fri) 04:34:20


        *Web:かんながら(2020年01月19日)より

許すという事について少しお話ししてみます。


実は
許そうとしたって許せません。

その理由は、許しは人の行為ではないからです。


したがって誰かを許せないからといって、自分を責めたりしないことです。


許しだけでなく、愛も、感謝も、喜びも、感動も、信頼も、そして瞑想(静寂)も

人間にとって高い価値をもたらすものは全て彼方から起きてくることであり、
人が作り出せるものではないのです。


もしそれらを人が作り出したとしたら、それは「もどき」になります。


許したと自分に言い聞かせることはできますが、
許すということを人が直接することはできないのです。


心から人を信頼することができないように、心から許すこともできません。

それは自力でできることではないのだから。



究極的な許しとは、究極的な理解を通して起きます。


究極的な理解とは、
傷つけた人は誰もいなかったし、傷ついた人も誰もいない


つい反発したくなる言葉ですよね。

すぐに理解するのは無理です。

この言葉は、非二元の世界のものだからです。

ワンネスの中で明らかになることであり、何度か書いたので今日は紹介だけにします。



許そうとしたって許せない

さてそのような究極的な理解しか許しの道がないのかと言えば、そうでもありません。


許せなくても、少しずつですが許せないと感じている自分を癒していくことはできます。


具体的なやり方としては、自分のほうから許せない相手に近づいて行って、
その相手が喜ぶことをしてあげる。

あなたを通して、その人が生きる力を得たり、
安心感を持てるような雰囲気や会話を作り出すのです。


相手がそれを受けとる保証はありません。

それでもめげずに、何度も心を込めてトライしていきます。


すると奇跡が起きます。


相手が変わらなかったとしても、あなたはすでに同じステージにいません。

あなた自身は癒されているから。


そして、抱えていた恨みつらみから解放されています。

そのとき、自然と許しが起きているのです。



この方法を知っている人は少ないですが、実行する人はもっと少ないです。

実行しない理由は、悔しいからとか、怖いからとか言いますが、本当の理由は前回と同じ。

成長することへの恐れです。

      (https://abetoshiro.ti-da.net/e11414069.html )

           <感謝合掌 令和2年1月24日 頓首再拝>

すぐにあやまろう - 伝統

2020/02/07 (Fri) 03:43:18


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 55(P76)より

身近な人たちにいやな思いをさせたときは、すぐに彼らにあやまるようにしましょう。

そして、もし可能ならば、なんらかのかたちでそれを償うことです。

彼らに許してもらうためだけではありません。

それは自分が謙虚であることを確認するためでもあるのです。

こうして、あやまる習慣をつけると、自分自身を許すこと、
さらに他人を許すことが容易にできるようになります。

            <感謝合掌 令和2年2月7日 頓首再拝>

家族互いに赦す日 - 伝統

2020/02/08 (Sat) 02:36:39


           *「光明道中記」(2月8日)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。
                       (『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、青鬼のようなヒステリックな人、
赤鬼のように興奮した人、こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」とキリストは言っている。
心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、
その家庭は屹度面白くないであろう。

柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

            <感謝合掌 令和2年2月8日 頓首再拝>

赦しにより、病が消える - 伝統

2020/02/14 (Fri) 05:05:11


          『白鳩』(昭和44年3月号より)

大抵の人は病気と言うものは恐ろしい猛獣みたいなものである。
その病気に取り付かれたら、ライオンに噛み付かれたように、
これはもう命でも奪われるかと思っている人があるけれども、

聖経『続々甘露の法雨』は歌う ―


  『病気は近づき来る猛獣にあらず、
  「生命」と存在の王座を争ひ
  「生命」を脅すごとき積極的存在には非ざるなり。

  病気は何者ぞ。
  汝は「無」の別名に過ぎざるなり。
  汝は「生命」がそれ自身の力を自覚せず、
  生命の力を殊更に主張せざるとき顕れる消極的存在に過ぎざるなり』


病気と云うものは何か恐ろしい具体的な存在みたいだけれども、
これは生命の無いものには病気はないんです。 
これははっきりしている事実です。

喩えばこういう大理石なら大理石ですね、
それが病気にかかったなんて見たこともないですね。 

《生命》の無いものは、この机なんかでも病気にかからんですね。 
いくら温度を下げてやったって風邪を引いたというのを見たこともないですね。 

まあそう云うように《生命》の無いものには病気と云うものは起こらないのであるから、
病気と云うものはこれは結局《生命》の働きだと云うことがわかる訳なんであります。

それを《生命》以外の《病気》というものが来て、
《生命》を奪う働きをすると考えることは、大変な間違いなんであります。 
それはただ《生命》がプラスに働かずに、マイナスに働いているだけであります。

生命が積極的にパーッとプラス的に活動すれば大いなる力が発揮できるのであるのに、
自分自身、自分の生命をギューッと縛るように働かしているから生命の働きが『止む』
 ― 即ち『病む』ことになるのです。

それで前に読んだところにありますように、
すべて内臓が爛れたり潰瘍を起したりするのは、
恐怖心と云うものがもとになっているのであります。

本来、生き生きと、伸び伸びと働くべき生命が恐怖心によってブルブル震えたり、
ギューッと縮まって、生命が完全に落ち着いて秩序整然と働かずに
不秩序に振動しているところに、粘膜の構成にそんな不秩序な乱れが生じ、
カタルとか爛れとか前癌症状とか云うような状態がそこに起こってくるのでありまして、
それはやっぱり生命の働きなんです。


だから肉体に不完全な状態があらわれて来ましたら、
生命の振動が不調和になっているのだということを知り、
その生命が不完全に振動するのは、何か心の中に恐怖するとか、
腹が立つとか、口惜しいとか、羨ましいとか、嫉妬に燃えるとか、
人を憎んでいるとか、色々家族問題に悩みがあったり、
勤め先の人間関係が面白く行かぬとか、商売や職業が順調に行かないので、
どうしようかと迷っているか

 ― 兎も角、平静な四海波静かと云うような心の状態でないために、
生命の振動が不秩序になっているのでありますから、
心が平静になるように、自分の心の問題を反省し、
心の波風を取去るようにつとめるがよいのであります。

無論、人間の心は複雑であり、過去に憎んでいて、
今はもう《表面の心》(現在意識)では、その憎しみを忘れてしまっているけれども、
根本的に相手を赦している訳ではないから、

潜在意識の底には依然として憎しみが残っていて、
それが原因になって生命の振動に不調和を生じ、
病気をあらわしていることもあります。

そんな場合には、過去に遡って『自分は誰かと精神的に争ったことはないか』と
出来るだけ思い出すようにし、争った人のことを思い出したら、
その人の名前を唱え、顔を思い浮かべて、そこにその人が居る気持ちになって、
相手にお詫びをして(そのお詫びは心で)、次のように繰り返し念ずるとよいのであります。


  私はあなたを赦しました。
  あたなも私を赦しました。
  あなたと私とは神に於いて互に仲のよい兄弟であります。
  
  私はあなたに感謝しております。
  あなたも私に感謝しております。
  
  あなたと私とは神に於いて互に仲のよい兄弟であります。
  私はあなたを愛しております。
  あなたも私を愛しております。
  あなたと私とは神に於いて互に仲のよい兄弟であります。
      
  過去に争いや憎しみがあったとしても、それは本当にあったのではなく
  それは夢・幻であったのであす。
  その幻は既に消えてあとかたもありません。
  
  ありがとうございます。
  ありがとうございます。


このような言葉を繰り返し一心に念じますと、
潜在意識の領域にある潜在していた憎しみが消え、
その潜在的な心の不調和が原因になってあらわれていた病気も
消えてしまうのであります。
 

肉体の症状は心の状態の具象化でありますから、
それが症状としてあらわれるのは、生命がその本来の相(すがた)でない
《心の間違い》を指摘し警告するためであるのと、
物質的にはどこかに生理的な故障があるのを自浄作用によって治しつつある働きであります。

  (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18667900.html ~消滅)

            <感謝合掌 令和2年2月14日 頓首再拝>

【許すこと、損することを惜しんではならない】 - 伝統

2020/03/03 (Tue) 02:48:19


       *メルマガ「人の心に灯をともす」( 2020年02月26日)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   許すということは、損をすることなのかもしれないと思う。

   だから、難しいのだ。

   もう40年も前のことだけれども、周囲の人たちの無理解に腹を立て、
   不機嫌だった私に、一つの詩が与えられた。


      もしあなたが、誰かに期待したほほえみが得られなかったら

      不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい

      実際、ほほえみを忘れた人ほどあなたからのそれを
      必要としている人はいないのだから



   貰(もら)えるはずのものが貰えなかっただけでも「損した」と思うのに、
   こちらがそれを与えるなんて、これでは“ダブルの損”だと、
   私はその時思ったものである。

   ところが、やがて気づかされたのは、
   ダブルに損をすると「得(とく)になる」ということだった。

   “シングルの損”だけにしておくと、残るのは、
   腹立たしさや口惜(くや)しさだけであり、
   折あらば仕返しをと考える自分だけである。


   ところが思い切ってダブルに損をすると、
   そこには、ほめてやりたい自分が残り、
   「よかった」という満足感が残るから不思議だ。

   ダブルの損を実行するのは決して易しいことではない。

   まず、相手の立場になる心のゆとり。

   「相手こそ、私の欲しいものを私以上に必要としているのだ」と
   考えることができるこのゆとりは、自分中心に生きている限りは生まれない。

   それは一つの“許し”である。


   次に、自分を大切にする決心。

   相手の出方に左右されず、自分は自分であり続けようという
   強い意志とプライドが、ダブルの損を可能にしてくれる。

   売り言葉に買い言葉的言動をしてしまった後の惨めな思いを、
   誰しも少なからず経験しているのではないだろうか。

   かくて、自分の生活を大切にしたいなら、相手を許さないといけない。

   許すことによって、自分が相手の束縛から解放されるからである。

   夫の裏切り行為に苦しみ抜いた一人の人が、
   その苦しみから立ち直った時にいった言葉が忘れられない。

   「傷つけた相手を許すことによって、自立が可能になりました」


   許すということは易しいことではない。

   しかし、許すことによって、
   私たちは相手の支配から自由になり、自立をかち得るのだ。

   かけがいのない自分の時間を、他人の支配に任せていては、もったいない。

   時間の使い方は生命の使い方なのだから。


   相手がどのようであっても、
   自分は“美しく話す”ということは、大変な勇気が要る時がある。

   しかし、それを実行しない限り、美しい言葉を相手から聞くことはできないのだ。


   求めるものを与える時、そこには主体性がもたらす豊かな人生が生まれる。

   許すこと、損することを惜しんではならない。

          <『目に見えないけれど大切なもの』PHP文庫>

             ・・・

ダブルの損には、自ら損をしにいくという主体性がある。

ところが、シングルの損は、誰かに損をさせられたという「させられた感」がある。

ダブルの損は、「少し損をして生きる」ということ。


北川八郎氏は、「少し損をして生きる」についてこう語る。

『少し損をして生きていくと、人生のトラブルが少なくなる。

それは、対立や競争がみるみる消えるから。

人に与えることができない人は、逆に少しでいいから自分が損をしてみる。

「損をして生きていく」

すると不思議なことに、自分の周りによき人が自然と集まってくる。

少し損をしてでも人に良きものを与える生き方をすると、逆に今の世の中では目立つ』

                            (繁栄の法則)より


また、「自立」とは、誰かの支配や助けを受けずに、
自分の力でやっていくことをいうが、「許し」も自立には大事な要素となる。

もし、誰かを、「絶対に許さない」「一生恨(うら)んでやる」と思ったとしても、
それによって、相手は不幸になるわけではないし、
相手にダメージを与えられるわけでもない。

逆に、そう思うことで自分は、
相手に束縛され、支配される状態になることに気づく必要がある。

それは、いつまでも被害者でいるということ。

許せば、被害者の立場から自由になれる。


許すこと、損することを惜しまない人でありたい。

            <感謝合掌 令和2年3月3日 頓首再拝>

人を恨まない、そして人を赦すこと - 伝統

2020/03/14 (Sat) 04:40:36


       *『智慧と愛のメッセージ』谷口清超・著より

人は「赦(ゆる)し」の大きさによって計られる、

何事が起ってきても、他人の責任にしてはならない。
自分の人生の責任者は、自分以外の何者でもないのである。

あなたは人を赦(ゆる)すことによって、あなた自身の心を高め上げ、
又相手をして、より一層素晴らしい人間にすることが出来るのである。

ひとを責めるよりも、自分の「徳」の足(た)らざるを反省せよ。

 (http://www.maeda-house.com/blog/?m=201802 より転写)

            <感謝合掌 令和2年3月14日 頓首再拝>

人の罪をゆるせ - 伝統

2020/03/23 (Mon) 04:51:17


           *「光明法語」(3月23日)より

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。

そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)

と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

            <感謝合掌 令和2年3月23日 頓首再拝>

《自他を心の中で赦しましょう》 - 伝統

2020/04/12 (Sun) 03:34:39


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P58~59)より

罪の自覚から眠れないこともあります。
自分をさばき過ぎ、他(た)をさばき過ぎるのであります。

本当の安心を得るには人を《さばく》心を捨て、
同時に自分をも《さばく》心を捨てることであります。

「神は無限の愛をもってわがすべての罪と過ちとを許したもうたのである。
それゆえに自分もすべての人の罪と過ちとをゆるすのである」
と心の中で繰り返しながら、ゆるされた気持ちの中にとけ込むことにすると
容易に眠りに入ることができます。

我々の心は、その思う「事柄」そのものになるのであります。

心に他(た)を「ゆるす」ことをおもえば自分自身もゆるされるのであります。
憎みの心を捨てなければなりません。

悲しみも嘆きも結局、自己中心の心から起こるのであります。

「泣き面に蜂が刺す」と云う諺がありますが、
悲しみや歎きを心の中で繰り返していますと、
更に悲しいことがあらわれてまいります。

            <感謝合掌 令和2年4月12日 頓首再拝>

《腹が立って仕方がない場合には斯うしましょう》 - 伝統

2020/04/29 (Wed) 04:56:03


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P61)より

どんなに他(ひと)を憎むまい、呪うまいと思っても、
腹が立って仕方がないと云うような場合もあります。

しかしあなたは腹が立っている限り苦しまなければならないのです。

腹立ちの感情は、他(ひと)を攻撃する感情ですから、動・反動の法則で、
自分自身が自己攻撃され自己破壊されていためつけられるのです。

だから相手を憎めば憎むほど、あなたは苦しくなるばかりです。
そういう場合、他(ひと)を憎まなくなる方法が2つあります。

一つは宗教的方法です。
他の一つは哲学的方法です。

宗教的方法は「神よ、あなたが私のすべての罪を赦したまう如く、
わたしもあの人の罪を赦すことを得せしめ給え」 と祈ることです。


哲学的方法はは「人間は神の子であるから完全である。彼は現象的には
悪しく見えているけれども現象は本来無いのであるから彼が悪いと
見えるのはウソである。彼は神の子で完全であり、自分に好意をもっている
のである」と瞑想し黙念することであります。

            <感謝合掌 令和2年4月29日 頓首再拝>

真の許し:負の感情からの卒業 - 伝統

2020/05/11 (Mon) 04:30:54


        *Web:ひかたま(光の魂たち)(2019年12月02日)より

「許し」

すべての人が、地上で学ばなければならない最も難しい課題の一つです。

私たちは
「許し」を学ぶために来たと言っても過言ではないほど、大切なことです。


その学びは、本を読んでも、誰かに教えてもらっても、
どんなにお金を積んでも、身に着けられるものではなく、
一つ一つの本当の経験を通して学んでいかなくてはなりません。

先月(2019年11月)中旬に
ニュージーランド南島の都市クライストチャーチの2つのモスクで
銃乱射事件が発生しました。

銃乱射が行われた時間は、2ケ所とも金曜午後の礼拝で混雑していて
約100人にのぼる死傷者が出てしまう大惨事となりました。


白人至上主義者を自称する犯人は、犯行前に
Twitterと掲示板8chanに犯行予告を投稿し、

さらに、銃を乱射する様子をライブ動画として
Facebookで17分間に及び生中継してしまいました。

自分の恐るべき行動を全世界に向けて配信したのです。


(中略)

ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は
事件直後の議会で、
「男はこのテロ行為を通して有名になろうとした。
 だから、私は今後一切、この男の名前を口にすることはしない。」

「皆さんは、多くの人々の命を奪った男の名前ではなく、
 犠牲になった人たちの名前を語ってください。
 犯人はテロリストであり、犯罪者で、人知れず無名のままで終息することにします。」

「犠牲になった人たちは、わたしたちの一部です。:They are us」


アーダーン首相は、今回の事件に対して、憎しみや怒りよりも
思いやりと愛を持って対応することを強調し、同時に
銃規制とソーシャルメディア各社の対テロ追加策を求め、
被害者への支援についても語りました。


事件があると、
事件の悲惨さや犯人の生い立ちから評判まで徹底して公表して
強い怒りと憎しみ、悲しみだけを増幅して放映する
日本のテレビのワイドショーとは対照的な姿勢です。


翌日には、イスラム女性にならった服装でムスリムリーダーたちを訪問し、
アラビア語の挨拶 「Al-Salaam Alaikum:あなた方に平穏がありますように」と挨拶し、
ムスリムリーダーたちの事件に対する考えを時間をかけて聞きました。

全世界規模での銃乱射動画の一斉削除は犯人を有名にしないというだけではなく、
映像を視聴することによって起こる悲しみや憎悪の過剰な炎上を防ぎ
止まることのないネガティブなエネルギーの連鎖と増幅を防ぐことができました。


フェイスブックではこの事件をきっかけに、
ライブ映像配信を見直していくことなりました。


事件が起こった翌週の金曜の礼拝の時間になると、首相は国民に向けて、
イスラム教徒コミュニティの悲しみに寄り添うよう進言しました。


そして、宗教や階級、人種の壁を越えて、さまざまな人たちがモスクの周りに集まり
人間の鎖を作り、礼拝するイスラム教徒たちを守る光景が見られました。


さらに、ニュージーランド各地では
ニュージーランドの先住民マオリ族の伝統的な追悼の踊りを人々が踊り、
イスラム教徒ではない女性たちが、頭や身体をヒジャブという布で覆い、
イスラム教徒への慈悲と理解の気持ちを表明しました。


世界各地から、被害者遺族たちへ多くの寄付金も集まっています。


その中には大口の寄付金もあり、
中国の潮州集団が各団体によびかけて集めた2億円の寄付金については
善意の寄付金に対する謝意を表明した上で、

中国共産党政権が拘束しているウイグル人、カザフスタン人、
キルギスタン人たちのために寄付金を有効利用してほしいとの見解を示して、
寄付金を全額返送することも決定しています。


アフマドさんは、一緒に礼拝に行った愛する妻を銃撃で失いました。
アフマドさんは、車椅子のため、動きが容易に取れませんでした。

その時に、彼の妻は自分を犠牲にして多くの人々を救っていたのです。


アフマドさんは、混乱の中、SNSの画面で妻の遺体を見て、死を知りました。

彼は
「銃撃犯に対する憎しみはありません。
 一人の人間として愛すると犯人に伝えたい。」と語り、

妻を殺した犯人を許せるかとの記者の質問に対して

「はい。許し、寛容、愛情と思いやりを持つことが大切だと思います。
許すことこそが、これから前に進んでいく最善の方法ですから。」

と答えています。

愛するパートナーを失った悲劇的な状況では
なかなか言うことが難しい、愛と勇気ある発言です。

似たような事件は、米国でも起きています。

アーミッシュのコミュニティに外部から男が乱入し、
学校で生徒を銃殺する事件が起こってしまいました。

その時、ある女生徒は、自ら犠牲になって小さな子供たちを守ったのです。

さらに、その銃殺されてしまった女生徒の両親とコミュニティは、
犯人を赦して、犯人とその家族を葬儀に招待した件は、
全米で大きく報道されました。



  「許し」

 それは
 現代社会では
 加害者を無罪放免にすること
 だと思っている人がほとんどです。


 でもそれは違います。


 「真の許し」とは
 加害者を無罪放免にすることではなく、

 自分自身の心から負の感情を完全に消し去ることです。


これは、自我を持った私たちにとって
最も乗り越えることが困難な壁でもあります。


でも、何度もさまざまな体験をしながら
慈悲の心と共感力を持って、乗り越えていかなくてはならないこと。


ニュージーランドの首相は

「They are us」

と言いました。

私たちは、魂のレベルですべて繋がっています。
人の行いを許すことは、自分の行いを許すことと同じこと。

魂が繋がっているからこそ共感できる。

「許し」を強化していく過程で
最も必要な資質は慈悲の心と共感力です。


魂の深い部分に到達することができる人は共感力が強くなります。

逆に言えば共感力を強化していくことは
魂の深い部分へと到達するために必要です。


善悪は、
その人の属する社会の制約された価値観に基づいて作り上げた視野の狭い概念で、
真理とは無縁なものです。

真の裁きは、各々の内在神がやってくれます。

私たち一人一人がやるべきことは、
善悪の判断で許す許さないを基準にするのではなく、
自分の心に憎しみなど負の感情に囚われないようにすること。


そして、祈ること。

祈りとは、内在神へ語りかけることです。

これも
魂の深い部分へ到達する方法の一つですが
慈悲と共感力を高める良い方法にもなっています。



真の許しは、明るい未来の世界のための真の平和な世界への光となるはずです。

多くの人が祈りを捧げる場所では、祈りの場特有の波動が形成されています。

そんな祈りの場へ行き、動画を撮ってきました。

ここでは祈りのキャンドルが途絶えることなく
小さな子供から高齢者まで祈り続けられています。

ここに訪れる人たちは、我を忘れて祈っていました。
BGMと共にご視聴ください。

  → 祈りのキャンドル2019
    https://www.youtube.com/watch?v=6yfUK9ulBDY


    (http://shindenforest.blog.jp/archives/80766447.html

            <感謝合掌 令和2年5月11日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2020/05/27 (Wed) 04:24:37


      *「光明法語」(5月27日)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。

それは自分の家はもうすっかり
不浄のものを洗ってしまって洗濯物はないと信じていても、
押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、
一々その顔を眼瞼(まぶた)の内に思い浮かべ、

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と

心の中に唱えるのである。

            <感謝合掌 令和2年5月27日 頓首再拝>

真に赦すとは、相手の幸福を祈ること - 伝統

2020/05/29 (Fri) 04:22:52


        *「光明法語」(5月29日《相手の幸福を祈ること》)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

            <感謝合掌 令和2年5月29日 頓首再拝>

すべてを赦し、その幸福を祈ることで、神に対して波長に合うのである - 伝統

2020/05/30 (Sat) 04:37:04


        *『 生長の家 』(昭和25年5月5日の法語)より
          ~【 自分を害する人にさえ其(そ)の幸福を祈れ 】

神はすべてを良くし給う力である。

神の力が自分より完全にそそぎ出(い)でるためには
まず吾らはすべての人を赦さなければならないのである。


すべての人を赦して、而(しか)して後に
神に対して凡ゆるよきものを願う所の祈りが
神に対して波長が合うのである。


十字架の中からキリストが復活した様に
吾々も亦(また)凡ゆる苦難の中から復活することができるのである。


キリストは自分を十字架につけた者さえも決して呪(のろ)わず、

「 神よ彼らを赦し給え、彼らはなすことを知らざるなり 」 といって

彼を害した人の幸福さえも祈っているのである。

            <感謝合掌 令和2年5月30日 頓首再拝>

すべての人を赦す度毎(ごと)に吾自身が赦されるのである。 - 伝統

2020/06/02 (Tue) 04:52:02


        *『 生長の家 』(昭和25年5月6日の法語)より
          ~【 復活の力は「 赦し 」から出て来る 】

神の愛は永遠に変わらないが、
人間の心が変わって神の愛に波長が合わなくなるだけである。

キリストが十字架から復活した様に、
凡ゆる不幸の中から復活する力が自分の中に宿っているのである。

吾はすべての人々を赦す度毎(ごと)に
吾自身が赦されるのである。

神はすべての罪をすでに赦し給うたのである。
自分も亦すべての人を赦したのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和2年6月2日 頓首再拝>

赦(ゆる)してただ信ぜよ - 伝統

2020/06/19 (Fri) 04:52:39


        *『 生長の家 』(昭和15年5月20日の法語)より

唯(ただ)信じさえすればいいのである。

信ずるとは 如実に神が今此処(ここ)、自分の内に
働いていたまうことを知ることである。

信念は 神に対して波長を合わす。

「 神さま、神さま、神さま、神さま・・・」

と百遍千遍暇があれば神に対してよびかけよ。

神は 常にあなたにこたえ給うであろう。


神は決して罰をあてる恐しい地獄の鬼ではないのである。

神は赦しの神である。

愛の神である。


唯、自分が人の罪を赦していないと、
自分には「赦し」の波長が受けられない。

困難の時に神によびかけるだけでなく、
平和の時に神に対してよびかけよ。

神は汝(なんじ)の愛深き父である。

            <感謝合掌 令和2年6月19日 頓首再拝>

人を赦すには斯(こ)う考えよ - 伝統

2020/06/30 (Tue) 04:50:59


      *『 生長の家 』(昭和26年5月28日の法語)より

人を赦すことが出来ない人は、
神を信じていると云っても実は信じていないのである。

何故(なぜ)なら、
神の造りたまえる世界に何か悪があると信じているからである。

そして神の造りたまえる人間に悪があり、
また神の与えたまうた幸福を
その人が自分から奪い得ると信じているからである。

神の造りたまえる人間に悪人はないと云うこと、
そして神の自己に与え給うた幸福は何人も
自己から奪い去ることが出来ないと云うことを
本当にその人が信じ得るならば、

自分に害を与えるかの如(ごと)く見える人達をも
容易に赦すことが出来るのである。

人を赦したとき自分に幸福の門が開かれる。

            <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>

懺悔によって赦されよ - 伝統

2020/07/14 (Tue) 04:51:29


        *「光明法語」(7月13日~14日)より

生命の本源は神

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。

・・・

懺悔によって赦されよ

「赦された」と云う実感は、神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。
「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。

            <感謝合掌 令和2年7月14日 頓首再拝>

すべての不快なる人を赦(ゆる)せよ - 伝統

2020/07/25 (Sat) 04:31:48


       *『 生長の家 』(昭和26年6月12日の法語)より

あなたの生命は神より来たれるものである。
神の愛があなたの内に宿っていたまうのである。

だからあなたは如何なる罪人をもゆるすことが出来るのである。

神の智慧があなたの内に宿っていたまうが故に、
如何なる事情の下(もと)に於いても
調和ある解決を期待することが出来るのである。

若(も)し誰かに腹の立つこと不快な思いを抱いたことがあったならば、
今直(す)ぐに其の人に愛念をお送りなさい。

愛は一切を調和するところの最強力の力である。

「われ生長の家の神に於いて、汝(なんじ)をゆるし、汝に念波を送る。
 私は貴方(あなた)を愛しています」

と強く強く繰り返し繰り返しお念じなさい。

            <感謝合掌 令和2年7月25日 頓首再拝>

【天国へのエレベーター】 - 伝統

2020/08/04 (Tue) 04:32:21


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.08.02)より

   (スティービー・クレオ・ダービック氏の心に響く言葉より…)

   男は、いまや天国へのエレベーターに乗ろうとしていた。
   エレベーターのドアが開き、一歩を踏み入れた。
   ところが、そこでブザーが鳴った。

   「どうしたんだ?」

   エレベーターの中に機械的な音が響いた。

   …当エレベーターは一人乗りです。
   重量オーバーです。

   「おれ、一人しか乗っていないぞ!」


   …背中に背負った人たちを降ろしてください。

   男は慌てて後ろを振り返った。

   でも、誰もいない。

   「どういうことなんだ?!」

   男は叫んだ。


   すると、今度は声が変わって、さとすように言った。

   …あなたが許していない人たちが、あなたの背中に乗っています。
   その人たちを降ろしてあげない限り、あなたは昇っていくことはできません。

   誰でも、これまでの人生で、
   どうしても許せない人の一人や二人に出会っていることだろう。

   ついその人がうまくいかないことを願ってしまった経験は誰にでもあると思う。

   もし、それらのうちの何人かについて、ふだんは忘れていても、
   何かの拍子に思い出すと、いまでも当時のように、

   深い悲しみにとらわれてしまったり、むらむらと怒りの感情が湧いてきたり、
   ちくちくと後悔の念におそわれてしまうのだとしたら、

   それは、決して過去の人々ではない、
   いまもそこにあって、現在のあなたに影響を与えている。


   たとえ、彼らがどれほど理不尽なことをあなたにしたとしても、
   そろそろ彼らを許してやることだ。

   あなた自身のために。

   彼らに伝える必要はない。
   ただ、彼らの人生がうまくいくことを祈ってやるのである。

   そうでないと、あなたが高みに昇れない。


   そしてもし、どうしても許すことができないとしたら…
   どうしても彼らを許すことのできない自分自身を許すことだ。

       <『新 自分を磨く方法』ディスカヴァー>

             ・・・

渡辺和子氏のこんな言葉がある

『夫の裏切り行為に苦しみ抜いた一人の人が、
 その苦しみから立ち直った時にいった言葉が忘れられない。

 「傷つけた相手を許すことによって、自立が可能になりました」

 許すということは易しいことではない。

 しかし、許すことによって、私たちは相手の支配から自由になり、自立をかち得るのだ。

 かけがいのない自分の時間を、他人の支配に任せていては、もったいない。

 時間の使い方は生命の使い方なのだから。』
  (目に見えないけれど大切なもの あなたの心に安らぎと強さを /PHP文庫)より


誰かを許さないでいると、いつまでもそのことを繰り返し思い出す。

時には、怒りで震えそうになり、時には悲しみで泣きたくなる。

しかし、何度それを繰り返したところで、過去の状況は変わることはない。

そして、貴重な時間が何度も使われ、気持ちもそのたびにすり減る。


つまり、相手にずっと支配されていることになる。

なぜなら、相手は変わらないからだ。

こちらの独り相撲となる。

そして、相手はなんとも思っていない。


自分の時間を取り戻すため、つならないことに支配されないため…

「許す」ことはとても大事なこと。

            <感謝合掌 令和2年8月4日 頓首再拝>

「恕(ゆる)す」 - 伝統

2020/08/25 (Tue) 04:05:24


      *「65 27歳の決意・92歳の情熱 対談・日野原重明×乙武洋匡」より

(日野原)

「恕(ゆる)す」という字は、中国の古い言葉に寛恕(かんじょ)、
寛大に恕すという言葉の意味とされているけれど、
「如」という字の下には心がついている。

これは、私の心のようにあなたを考えるという意味なんだ。

私たちの誰一人として完璧な人間などいない。

弱さや醜い心は自分の中にもあるのだから、
その弱い自分が他人に恕されて生きているように、
他人を恕すということなんだ。

  (http://kodomo.eek.jp/modules/pico3/index.php/content0043.html

            <感謝合掌 令和2年8月25日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2020/09/01 (Tue) 04:57:29

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72<9月1日>)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。


            <感謝合掌 令和2年9月1日 頓首再拝>

《他人を責めることなかれ》 - 伝統

2020/09/02 (Wed) 04:35:55


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72<9月2日>)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。

             <感謝合掌 令和2年9月2日 頓首再拝>

真にゆるし、愛する - 伝統

2020/09/24 (Thu) 03:56:30


       *『 生長の家 』(昭和26年7月3日の法語)より
        ~《神を愛する者は人をも愛する》

   真の信仰を得るまでは、本当の魂の平安は得られないのである。
   他を真にゆるすまでは 本当の魂の平安は得られないのである。

   吾々がどんなに熱心に祈っても 神想観で黙念しても
   欲することが得られないのは、
   誰かを憎んでいて その人をゆるさないからである。

   神を愛するとは 自己に宿る神性(しんせい)を愛することにほかならない。
   自己に宿る仏性(ぶっしょう)を愛することにほかならない。

   自己に宿る 神性 仏性 を愛するには
   同時に他に宿る 神性 仏性 を愛しなければならない。

   何故(なぜ)なら神は 霊であり、すべての渾(すべ)てであって、
   すべてのものの中に神の霊が宿っているからである。

   汝の隣人を愛さないでいて、神を愛していると云うことは、
   虚言(そらごと)にすぎないのである。
   
   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/440df0246a5efc3ba7f0b10ff42fbd22

・・・

参照Web
伊勢ー白山 道(2020-09-22)
因果と「許し」の関係
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/30b1f03ef84132f4d6ad32fa2c23640d

             <感謝合掌 令和2年9月24日 頓首再拝>

「許す」ということ - 伝統

2020/10/12 (Mon) 04:24:52


       *メルマガ「天路」( 2020年10月06日)より

波動の低い人に見られる特徴は、
何かを起こすためには物事をコントロールする必要があると信じています。

一方で、波動の高い人は、
自分がなすべきなのは、それが起きてくるのをただ許すこと、
それが起きるにまかせることだと理解しています。


「許す」ということは、
無理にうまくいかせようとコントロールするのではありません。

それが起きるにまかせるということです。

つまり起きること全てをポジティブな方向に100%の信頼をし、
シンクロニシティにまかせるということです。

信頼して起きるにまかせるのですから、
そこには自分の思考で考えている形だけに執着しません。
期待しないということも含まれます。

たとえば、
ワクワクと豊かさのエネルギーの中で好きな人へ贈り物をしたら、
次の瞬間にはそれを忘れるということ。
見返りを手に入れることに執着しないということです。


たとえば、
富を得たいと思って、「起きるにまかせよう」と決め、
瞬間瞬間のワクワクにしたがっていたとしても、

自分を無条件に愛し、
自分の存在そのものの価値を認めていなければ、
それを許していることにはなりません。


あるいは、
「富を得ると悪い人間になる」
「自分だけいい思いをすることになるのでは?」
「他人から妬まれる」
など、自分の中に自分の望みを止めている観念がないかを見て、
もしあれば好ましい観念に置き換えることも必要です。


自分を愛すことの反対は、
憎むことではなく、無価値観と罪悪感です。

この場合、観念を捨てて、換えて、
「自分には富を得る価値があるんだ。富を得ていいんだ」
というエネルギーになる必要があります。


自分を無条件に愛し、完全にOKを出して、
あとは信頼して起きるにまかせるということが、「許す」ということです。

             <感謝合掌 令和2年10月12日 頓首再拝>

些細なことでは腹を立てない - 伝統

2020/10/24 (Sat) 04:33:01


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 56(P77)より

たとえ、それが私たちをいらだたせ、傷つけたとしても、
些細なことには腹を立てないようにしましょう。

そんなことは、気にするほどのことではありません。

私たちは、自分次第で、
腹を立てないようにすることができるのですから。

             <感謝合掌 令和2年10月24日 頓首再拝>

許せばいい - 伝統

2020/11/09 (Mon) 03:59:34


          *「そのままでいい 100万いいね!を集めた176の言葉」
            田口 久人・著(P8)より

自分のせいではないと、わかっていたとしても
許せばいい

どうしても怒りがおさまらなくても
許せばいい

何度も期待して裏切られたとしても
許せばいい

いつまでも怒り
過去に執着していると
未来さえも失ってしまう

許すことで手放せる

許すことで楽になる

許すことで前に進める

             <感謝合掌 令和2年11月9日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2020/11/20 (Fri) 04:54:28


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

             <感謝合掌 令和2年11月20日 頓首再拝>

赦しと愛と平和 - 伝統

2020/11/21 (Sat) 04:38:27


       *「光明法語」(11月21日の法語)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。

             <感謝合掌 令和2年11月21日 頓首再拝>

他(ひと)を釈す心にならなければならない。 - 伝統

2020/11/28 (Sat) 04:47:48


      *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より抜粋

われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、自分自身をも他(ひと)から害される恐怖が
あるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって
硬化し萎縮してしまうのである。

それを癒す道は、症状に対して直接的には
「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す
念(こころ)を起こすことである。いやしくも人を釈(ゆる)さず、
やっつけてやろうというような考えを起してはならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

             <感謝合掌 令和2年11月28日 頓首再拝>

どこまで人を許せるか - 伝統

2020/12/13 (Sun) 04:30:55


       *「致知BOOKメルマガ」(2020.11.21)より

……………………………………………

「どこまで人を許せるか」

 塩見志満子(のらねこ学かん代表)

……………………………………………

長男が白血病のために
小学二年生で亡くなりましたので、
四人兄弟姉妹の末っ子の二男が三年生になった時、
私たちは

「ああこの子は大丈夫じゃ。
お兄ちゃんのように死んだりはしない」

と喜んでいたんです。

ところが、その二男もその年の夏に
プールの時間に沈んで亡くなってしまった。

長男が亡くなって八年後の同じ七月でした。

近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」と連絡があって、
タクシーで駆けつけたらもう亡くなっていました。

子供たちが集まってきて

「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。

「どうしたんや」と聞いたら十分の休み時間に
誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまったと話してくれました。

母親は馬鹿ですね。

「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、
 学校も友達も絶対に許さんぞ」

という怒りが込み上げてくるんです。

新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が大泣きしながら
駆けつけてきました。

そして、私を裏の倉庫に連れていって、
こう話したんです。


「これは辛く悲しいことや。

 だけど見方を変えてみろ。

 犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、
 過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、
 という罪を背負って生きてかないかん。

 わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、
 わしら二人が我慢しようや。

 うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、
 校医の先生に心臓麻痺で死んだという
 診断書さえ書いてもろうたら、
 学校も友達も許してやれるやないか。
 そうしようや。そうしようや」


私はビックリしてしもうて、
この人は何を言うんやろかと。

だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、
仕方がないと思いました。
それで許したんです。友達も学校も……。
 
こんな時、男性は強いと思いましたね。

でも、いま考えたらお父さんの言う通りでした。

争うてお金をもろうたり、
裁判して勝ってそれが何になる……。

許してあげてよかったなぁと思うのは、
命日の七月二日に墓前に花がない年が一年もないんです。

三十年も前の話なのに、
毎年友達が花を手向けてタワシで
墓を磨いてくれている。

もし、私があの時学校を訴えていたら、
お金はもらえてもこんな優しい人を
育てることはできなかった。
そういう人が生活する町にはできなかった。

心からそう思います。

             <感謝合掌 令和2年12月13日 頓首再拝>

《人を赦して眠ること》 - 伝統

2020/12/15 (Tue) 04:53:22


        *「光明法語」(12月15日)より

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

             <感謝合掌 令和2年12月15日 頓首再拝>

A CHALLENGING THOUGHT~ゆるしのチャレンジ - 伝統

2020/12/22 (Tue) 04:44:37


       *Web:アクティベート ・ リーフ No.307 より抜粋

最近、慣れ親しんだ聖書の言葉が目に留まりました。

それは、もう何百回も読み、耳にし、口にしてきたものなのですが、
実際にどう実行するかや、それを無視するならどれほど重大な結果
になるかを深く考えてみて、その大切さをひしひしと感じました。

聖書のマタイ 6 章 14-15 節にはこうあります。

「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、
 あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。

 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちを
 ゆるして下さらないであろう。」
 
この聖句は、そのままの意味以外に解釈できません。

私たちが他の人をゆるすかゆるさないかが、
神と自分との関係に直接的な影響を及ぼすのです。
 
その少し後の箇所では、使徒ペテロがわかりきった質問をしています。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、
 幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか。」
 
イエスの答えはこうです。

「わたしは七たびまでとは言わない。
 七たびを七十倍するまでにしなさい。」(マタイ 18:21-22)

それは 490 回にもなります。
イエスは、こうした大きな数を使って、もう誰かをゆるさなくても
当然だと思っていい時はないことを強調されたのでした。
 
それをさらにはっきりとさせるために、
イエスはある王についての話をして、
その中でも、とても大きな数字を使われました。

その王は、僕(しもべ)や家来たちに借金を返済させようとしていました。
 
ある男は、王に対して 1 万タラントの負債がありました。
1タラントは 2 千オンス(125 ポンド、57 キロ)なので、
2 千万オンス(570 トン)の金か銀の負債があったということでしょう。

それは今日では、銀なら 4億ドル相当、金なら 250 億ドル相当です。
どちらにしろ、巨額の負債でした。

それが返せなかったので、王は、
その人自身と妻子と持ち物すべてを売って返済するように命じました。

しかし、その人が待ってほしいと哀願したので、あわれに思った王は、
待つどころか、その負債をすべて免じてやることにしたのです。
 
負債をゆるしてもらった僕は、
その後、自分から百デナリを借りている僕仲間に出会いました。
1 デナリは今日の 20 ドルに相当すると言われているので、
その仲間の借金は今日の約 2千ドル(20 万円ほど)に相当す
るということになります。

それは、自分が免除してもらった借金よりもはるかに小さな額でした。
ところが残念なことに、その僕は自分がゆるされたにもかかわらず、
期日までに返済しなかったということで仲間を獄に入れてしまったのです。
 
そのことを耳にした王は、ゆるしてやった僕を呼びつけて、
こう言いました。
 
「悪い僕よ、わたしは、あなたが哀願したので、
 すべての負債をゆるしてやったのだ。
 わたしがあわれんでやったように、お前もあの仲間を
 あわれんでやるべきではなかったのか。」

そして、王は、怒ってその僕を獄に入れたのでした。
 
イエスは、次のような警告でこの話を終えられました。

「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、
 わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」
 (マタイ 18:23-35)

わざとであるかどうかにかかわらず、
誰かが私たちに対して罪を犯したり、
傷つけたりすることがあるように、

私たちもまた、他の人を傷つけたり、
その人に対して罪を犯したりすることがあるものです。

そして、人は時に、不公平な扱いをしたり、欺いたり、盗んだり、
陰で悪口を言ったりすることもありますし、
だましたり、約束を破ったりもします。

けれども、何であれ、どんな行為であれ、どんな傷を負ったのであれ、
私たちは相手をゆるすようにと命じられているのです。
 
ゆるしは、相手の方が正しいことを意味するわけではないし、
ゆるすことで受けた損失や傷が元通りになるわけでもありません。

ただ、誰が正しくて誰が間違っているかや、
その行為の影響に焦点を合わせるのではなく、
それを神の手に委ねるという意味なのです。

ゆるすことは、高潔な道を行くことなのです。
 
すべての人は罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっています。

仲間をゆるさなかった僕のように、私たちは神に対して
膨大な負債を負っています。

私たちの誰一人として返せないほどの巨大な負債です。

神は、イエスを通してその負債をゆるして下さいますが、
同時に、私たちも同じように、他の人をゆるすよう求めておられます。
 
誰かが自分に対して罪を犯した時にその人をゆるさないなら、
神も、私たちが神に対して罪をおかした時に
ゆるしてくださらないという見方をすると、不安にもなることでしょう。

でも、素晴らしいことに、それを約束として見ることもできます。

私たちが他の人をゆるすなら、神も私たちをゆるして下さるのです。

あわれみをかけるなら、私たちにもあわれみをかけてもらえます。
ゆるすなら、ゆるされるのです。
 
「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、
 あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。

 主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、
 あなたがたもゆるし合いなさい。

 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。
 愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ 3:12-14)

        ・・・

弱い者は、ゆるすことができない。
ゆるしは、強さの証しである。

― マハトマ・ガンジー(1869-1948)

  (http://www.activate.jp/mag/activate_leaf/pdf/ActivateLeafNo307.pdf

             <感謝合掌 令和2年12月22日 頓首再拝>

他(ひと)を赦さぬことは、「自分の心」を赦さぬこと - 伝統

2020/12/27 (Sun) 04:59:02


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より抜粋

他(ひと)を赦さぬことは、「自分の心」を赦さぬことである。
他(ひと)の欠点を見つけることは、
「自分の心」を不快で塗りつぶすことである。

「峻厳なる寛容」こそその人の魂の進歩を物語るものである。

断ち切るべきは断ち切り、棄てるべきは棄てきり、
しかして青天白日のごとくカラリと明瞭に
心の中に一点の雲もないようでなければならない。

いつまでも他(ひと)の欠点を見ながら、それを言い現わすこともできないで、
常にグジグジ心の中で思い煩っている者は、
自分自身を切り虐(さいな)んでいる者であるとともに、
相手からも見くびられて尊厳を失墜するものである。

             <感謝合掌 令和2年12月27日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.