伝統板・第二

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「入龍宮不可思議境 ②」 - 夕刻版

2019/06/14 (Fri) 19:12:46

   *伝統板・第二「入龍宮不可思議境」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7786702



入龍宮不可思議境界録~神の啓示によるところの真理は超時代的なもの

        *「叡智の断片」(P188)より

終戦前とその後とで、説き方が変って来なければならないのは
それは現象的合理の方面であって「真理」そのものは終戦前も後も同じことである。 

現象を取扱った言論や人間の頭脳的思索は、
やがて時代に適合しなくなるものが出来るのは当然である。

しかし神の啓示によるところの真理は超時代的なものである。

雨がふるときに傘をさせと教えても、
天気になったら、傘をさすなと教えるのは当然である。

現象を取扱うときには、時代を超えることは出来ないし、
環境を超えることは出来ない。
時処相応のことを説くのである。

時代に即して変りながら終始一貫した真理を説くのが本当である。

           〇

「あの時は、傘をさせと教え、今は傘をさすなと教えるのは、前後矛盾である。
先生は矛盾している」と云うのは間違いである。

           <感謝合掌 令和元年6月14日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~預言は現象を説く - 伝統

2019/06/16 (Sun) 19:43:07


        *「叡智の断片」(P188~189)より

預言はある時は合い、ある時は間違うものである。

何故間違うかと云うと、預言は現象を説くからであり、
現象は心の波の蓄積のあらはれであるからである。

既にある「心の波」の総合によって預言行われるのであるが、
新たなる「心の波」が起ることは勘定に入れられていないのである。

第一次欧州大戦のヴェッテリニの預言が途中で適合しなくなったときに、
ヴェッテリニは、「白色のスピリットが、人類の悲惨を一挙に続けて行くことは
あまりに悲惨すぎると思って、その愛の念波によって、戦いの念波を修正したのである。」
と云っている。

吾々の生活環境の突然なる変化も、恐らく高級霊の愛の念波によって
突如的修正を行われたもので、吾々の運命も修正を受け、
他のやり方で、大和(だいわ)の使命をもった生活環境の実現を見ることになったのである。

しかし現状はまだまだ本物ではないのは無論のことである。

           <感謝合掌 令和元年6月16日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~三界唯心 - 伝統

2019/06/22 (Sat) 21:09:44


        *「叡智の断片」(P189~190)より

生長の家に入信して運命の好転した人もあり、
好転したと喜んでいると、今は却って悪転して
生長の家も《きかぬ》と思っている人もある。

三界唯心、その人の運命はその人の心にある。

入信当時は神の存在を眼の前に見せつけるために生長の家の守護神たちが、
その人の心境の如何にかかわらず、他動的によい念波を集注して、
その人の運命を好転せしめられるのである。

水泳に先輩が未熟者の腹を水中に支えて浮かしてくれるのと同じである。

かくてその人が入信し切ると、もう生長の家の守護神たちは、
其の人自身の向上を目的とするのであるから、他動的には、
その人の運命を支えて好転せしめることをしなくなる。

謂はば、深みへつれて来て手を離すと、
いやでも自分の力で泳ぎを知るようになると同じようなものである。

その時、自分を支えてくれるものは、ただ自分の泳ぎ方一つにある。

自分の運命を好転するのはただ自分の心の持ち方一つになる。

最初好転していた運命はいつの間にか悪転する。

そして或る人は「神も仏もあるものか」と云う。

ある人は「これは自分の心の影だ」と反省する。

前者は堕落し後者は進歩するのである。

           <感謝合掌 令和元年6月22日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~三界唯心(体験録) - 伝統

2019/06/24 (Mon) 18:43:23


        *「叡智の断片」(P190~192)より

戦争中脊椎カリエスとリチャード氏病に罹って歩行不自由にまでなった
有留弘泰講師の手紙はそれを雄弁に語るものである。

この運命の逆転にもかかわらず、「神も仏もあるものか」と云はずに、
これ皆自分の心の影だと氏は精進して回復したのである。


次にその手紙の一節をかかげる。

昭和十八年夏、尼崎防衛部隊長として応召、約二年間の勤務を大過なく勤めさして
いただきましたのも全く光明思想の賜でございました。

しかしまだ信仰が不徹底であった為、折重なり来る悪条件の一つ一つを
一切笑顔で明朗に処理することが出来ず、勿論光明の生活によって或る程度まで
相当立派につとめさせては頂きましたが、

召集事務の複雑多岐、部隊召集権の脆弱性、市役所兵事課の無能、防衛施設の築設に
対する人員資材資金の殆ど皆無、尼崎土質の悪条件等々により種々心労もし、
不快の思を重ねざるを得ぬ実情にて、

加うるに頻発する警報などにより一時的なりとはいい乍ら心境を掻き乱さるる事多く、
浄心の機会少なく、遂に少しづつ超過したる心的毒素(長寿の霊薬の生産量よりも超過したる)
の蓄積累加によって遂にリチャード氏病と脊椎カリエスとの二つの難症を併発し、

遂に隊長として軍務処理に支障を来たすに至り、故山の篠山に退隠いたしましたのが、
四月二十一日(昭和二十年)でした。

それまで約半年(昭和十九年十月二十八日発病以来)不自由な身体を駆って、
兎も角も陣頭指揮とは行かぬ迄も隊務を処理し得た事は、光明真理の賜でございました。

部隊の軍医中尉鎌倉勝夫博士および阪大医学部小沢凱夫(よしお)教授(博士)の
診定によるも二カ年間の仰臥静養を宣告せられたる程にて、
事実一時は一歩も歩めない処まで落ち込みましたが、

静に心を養い信仰を深め高め、神と神の子の親子一体の境地に到達
(白熱化せる父子一体の妙境に入る)と共に(帰篠後約一ヶ月半位にて)
俄然好転し始め、急速に恢復、

爾後信仰による「働き療法」「忘病療法」「感謝療法」等によって或いは草むしり、
畑作、大工仕事、炎天下の裸体労働、魚釣、荷車曳、山行き(薪作り)一里の道を
薪を荷車に積んで運ぶ等の相当強度の労働によって急速に強健となり、
戦線復帰を期し居る折柄、終戦に遭遇し九月八日復員となりました。

この体験の記録をつくっています。

           <感謝合掌 令和元年6月24日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~病中なお健康の実相を観ずる - 伝統

2019/06/26 (Wed) 19:24:16


        *「叡智の断片」(P192)より

半身不随の重病にかかっていた有留講師でも病気の責任を他に転嫁せず、
みずから今までの自分の心を顧みて改むべきことを改めたならば立ち直ったのである
から、それより軽い病気が心の更め方で治るのは当然である。

病気を実相だと思ってはならない。
健全なのが実相である。

病中なお健康の実相を観ずるを入龍宮不可思議境界と云う。

           <感謝合掌 令和元年6月26日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~「久遠の今」に新生 - 伝統

2019/07/02 (Tue) 22:49:05


        *「叡智の断片」(P193~194)より

『甘露の法雨』の冒頭のある『ある日』とあるのは某月某日のことではない。
今を去る過去何年何月の或る日のことではない。

それは“One Day”である。
『一日』である。
一(はじめ)の日である。


『はじめの日』と云うと人は、過去何億年か以前に地球とか宇宙とか出来たとか
考えやすいが、そう云う「はじめ」ではない。

「天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり」の如きはじめである。
常住坐臥、「今」の一点にはじめがある。


時計面上の針の運行によってはかられる時の流れではない。

過去・現在・未来の時の流れを、そのまま「今」の一点に把握するとき、
「久遠の今」の生活が其処にはじまる。

  かくの如きとき ――
  日に日に新生である。
  時々刻々が新生である。
  一瞬一瞬が新生である。

           <感謝合掌 令和元年7月2日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~今即久遠の生 - 伝統

2019/07/03 (Wed) 22:15:29


        *「叡智の断片」(P194)より

死んでも生きても、今、『久遠の今』を生きている。

今即久遠の生。これがわからねば。

           <感謝合掌 令和元年7月3日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~捕らえず、奪わず、殺さず - 伝統

2019/07/09 (Tue) 19:28:38


        *「叡智の断片」(P194)より

まがれる鈎(つりばり)(武器)で
他(ひと)の生命をつかもうとしてはならない。
それは彦火火出見尊の《あやまり》である。
だから、その鈎は失われた。


           〇

殺すことによって自己拡張しようと思ってはならない。
奪うことによって自己拡張してはならない。

           <感謝合掌 令和元年7月9日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~神話は象徴 - 伝統

2019/07/13 (Sat) 19:31:58


        *「叡智の断片」(P194~195)より

今時分、神話を説いて貰ってはこまると云う人がある。
戦争中古事記を説いて、今更神話を説かぬのは遠慮しすぎると云う人がある。
十人十様。百人百様。 

           〇

甲への対機説法を見て、乙は批難し、乙への対機説法を読んで甲は批難す。
対機は相対なり。髄宜なり。

甲へのよろしきもの乙へはよろしからず。
乙へのよろしきもの甲へは宜しからず。 

しかし甲乙いづれへもよろしきものを記して雑誌は成立す。

言葉につまづかずして真理を把握する者は幸いなり。

           〇

諸国の神話、必ずしも歴史の書にあらず。
実際の書にあらず。象徴の書なり。 

神話とは真理の象徴物語なり。
その象徴の解釈のしようにしたがって、間違うことあり間違はざることあり。
真理の肯啓に中ることあり、中(あた)らざることあり。

           <感謝合掌 令和元年7月13日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~鈎の放棄(争の放棄)の後に来るもの - 伝統

2019/07/15 (Mon) 19:05:51

  

        *「叡智の断片」(P195)より      

鈎の放棄(争の放棄)の後に来るもの塩椎神(しおつちのかみ)の出現なり。

これから龍宮海に導かるるなり。

極楽世界の実現なり。
地上天国の実現なり。

それまでにはなお多少時日を要す。

           <感謝合掌 令和元年7月15日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~目無堅間の小船に乗れよ、と塩椎神おしえたまう - 伝統

2019/07/18 (Thu) 19:12:32


         *『叡智の断片』(P196)より

龍宮海に入る方法を、塩椎神(しほつちのかみ)おしえたまう。

目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗れよと。

小船とは如来の願船(がんせん)なり。
目無(めなし)とは時計の目盛なきなり、無時間なり。
堅間(かつま)とは空間が堅くつまって空間なきなり、無空間なり。

目無堅間の小船とは、無時間・無空間の、時間・空間そこより発しそこに帰る、

時空未発の「今」一点なり。
「今」の中に一切時間・一切空間がつつまれてあるなり。

           <感謝合掌 令和元年7月18日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~「目無堅間の小船」に乗りて彼岸(龍宮海)にわたる - 伝統

2019/07/21 (Sun) 19:25:29

         *『叡智の断片』(P196~197)より

一切万事、「今」より発し、「今」に還る「今」よりほかに時なしとはこの事なり。

           〇

今」の中に生死なく、あらはれて生死とあらはる。
凡夫をあらはれに捉えられて生死面上に浮沈して悲むと雖も、
「今」の一点に生くるもの生死なきなり。

生なきゆえ滅なきなり。

人間は不滅なり。

今・此処・神の国不滅なり。

これを悟ることを「目無堅間(めなしかつま)の小船」に乗りて
彼岸(龍宮海)にわたると云う。

           〇

[ある日」「一日」の「今」を把握するとき天地ただ、神のみ声のみなり。
これを称して「ある日、天の使生長の家に来たりて歌いたまう」と云うなり。

           <感謝合掌 令和元年7月21日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~神とはコトバなり、表現者なり。 - 伝統

2019/07/24 (Wed) 18:34:28


         *『叡智の断片』(P197)より

神とは「示す」なり「申す」なり。
「示す」表現なり。「申す」は言葉なり。

神とはコトバなり、表現者なり。
表現するとは《つくる》ことなり、働くことなり、行(ぎよう)なり
主観を客観界にもち出すことなり。

           〇

その言葉の波動(ヒビキ)あらはれて森羅万象となり。
コトバのヒビキとは生命なり。
神の生命のヒビキなり。

万物は神の生命の表現なり。
併しすべてのもの神の生命の表現にはあらず。

中には「迷い」の表現たるものもあり。

それゆえにヨハネ伝には

「太初にコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき。」

と過去のテンスを用う。

           <感謝合掌 令和元年7月24日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 生命は無にして實である - 伝統

2019/07/26 (Fri) 17:58:31


         *『叡智の断片』(P198)より

生命は、生きている。
生きているから動く。
生命の動きが心の波である。

心は波動であり生命は実体である。
併し波動がなければ其の存在は表現されない。
だから無である。

無にして實 ―― これが生命である。

           <感謝合掌 令和元年7月26日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 即身成仏 - 伝統

2019/07/30 (Tue) 19:28:17


         *『叡智の断片』(P198)より
          

即身成仏とは「無物質の物質」(肉体)と霊的実在(法身如来)との自己同一である。

肉体あるがままに無く、無きままに其儘に霊的実在なのである。

           <感謝合掌 令和元年7月30日 頓首再拝>

龍宮不可思議境界録 ~ 「今」「此処に」主客が『一』なのである - 伝統

2019/08/03 (Sat) 19:42:40


         *『叡智の断片』(P198)より
          
自己を媒介として世界を観ることが出来るのは、
自己と世界とが「自己同一」であるからである。
自己の中の世界像が世界として展開しその世界を観るのである。

           〇

二つのものが交渉し合うのではなく、主客は本来『一』なのである。
主客が同時存在であり、同場処存在である。
「今」「此処に」主客が『一』なのである。

           <感謝合掌 令和元年8月3日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 真の宗教 - 伝統

2019/08/08 (Thu) 20:27:44


         *『叡智の断片』(P199~201)より

すべてのよき現象は、実相の応現として法爾自然に出て来る。
法爾でないものは真に生かす力はない。

先づ魂の目覚めが第一である。
魂の世界を先づ開拓して根本を整えるのが宗教である。

真の宗教家が起上がれば万事が自然に整うのである。

然し、時期が来り機縁が熟することが必要である。

           〇

肉体を自分だと思っている者は肉体の制約にしばられるから奴隷である。

           〇

ソクラテスの標語は「汝自らを知れ」というのであった。
ギリシャには、かくの如くにして民主主義がさかえた。 

人間は本来一切の束縛から《ほどかれた》仏であると大悟した釈迦は
印度における民主主義者の先駆であった。 

キリストは「真理は汝を自由ならしめん」と云った。
彼も亦民主主義の一方の旗頭(はたがしら)であったのである。

           〇

宗教は生命(いのち)を解放する。

           〇

極楽浄土とは、《人間の自由》の完全に確保されている所であり、
それは民主主義の邦(くに)である。

自分の中に仏になるだけの力なくして何人(なんびと)も
他力によって仏になることは出来ない。

凡ての者が他力により仏になることが出来るのは、
各人の中に仏になれるだけの力がそなわっているからである。

           〇

宗教は、彼方(かなた)を《此処にする》おしえである。

           〇

方便も亦必要である。例えば人の胸を開かせようとするとき、
直接に「胸を開け」と云っても、誰もすぐさま胸を開かぬかもしれない。

しかし「さあ、風呂を立てたから、入り給へ」と云えば、
「ああそうか、それじゃ一風呂御馳走になろうか」と云って裸になる。
そうすれば自然と彼の《胸は開ける》のである。

           <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 病とは、だまし - 伝統

2019/08/12 (Mon) 19:27:15


         *『叡智の断片』(P201)より

《病にかかる》と云うが、
この「かかる」という言葉は「だまされる」と云うのと同じである。

吾々は「病にだまされる」「病だとだまされる」のである。

丁度「サギにかかった」というのが「サギにだまされる」のと同じ様に。

           <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 時間空間は生命(いのち)の掌中にある - 伝統

2019/08/17 (Sat) 19:08:20


         *『叡智の断片』(P201)より

時間空間の中に生命が生まれて来るのではなくして、
生命が時間空間を《つくる》のである。

時間空間は吾が心のなかにある。

時間空間は生命(いのち)の掌中にあるのである。

           <感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 無限の長生(ながいき) - 伝統

2019/08/29 (Thu) 19:14:44


         *『叡智の断片』(P201~202)より

本当に長生(ながいき)するというのは、
一瞬のうちに久遠のいのちを自覚することである。

ベッドの上に絶対安静をしていて八十歳まで生きのびた肺病患者があったとて、
彼は決して長生したことにはならない。

一瞬のうちにでも、無限の長さを行動した者があれば、
それは既に無限の長生(ながいき)をしたことになるのである。

           <感謝合掌 令和元年8月29日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 遠隔思念の原理 - 伝統

2019/09/06 (Fri) 21:50:50


         *『叡智の断片』(P202)より

遠隔思念と云うものは、自分の思念の波が遠方に居る誰かの心に伝って行って、
そして彼が良くなるのだなどと考えていては未だ本当でない。

それは自分のうちに凡てがあるという真理によってのみ正しく理解される。

甲の中に乙、丙、丁、戊・・・等の
全ての生きとし生けるものがあるのである。

また乙の中にも甲、丙、丁、戊・・・等の
全ての生きとし生けるものがあるのである。

それ故甲が自らの中に祈れば乙自身が良くなるのである。

           <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 最も高い祈り - 伝統

2019/09/07 (Sat) 19:57:52


         *『叡智の断片』(P202)より

或るお経の中に、凡ての衆生が成仏する様に念ずるとき
最も多くの功徳が与えられると説いてあるが、
神想観に於いても、自分のためにのみ祈るのではいけない。

自分の中にある一切衆生のために祈るのが最も高い祈りである。

           <感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 空間も時間もいのちの表現の形式 - 伝統

2019/09/14 (Sat) 19:48:48


         *『叡智の断片』(P203)より

空間も時間もいのちの表現の形式である。

時間はいのちの働きの一形式である。
それ故、空間も亦いのちの働きの一形式である。

           <感謝合掌 令和元年9月14日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 実相を追及する - 伝統

2019/09/15 (Sun) 18:03:19


         *『叡智の断片』(P203)より

病気や不幸をいくら研究してもよきものは出て来ない。

実相を追求してこそよきものが出る。

実相を追及するとは、実相を見ることである。
見ると云うことは《あらわす》ことなのである。

           <感謝合掌 令和元年9月15日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 人類は進歩しえたか - 伝統

2019/09/24 (Tue) 19:33:31


         *『叡智の断片』(P203~204)より

釈迦やキリストの時代以来、人類社会はどれだけの進歩をしたか。
大した進歩はしていない。

それは、ある程度地上で修行した霊魂はもう再びは地上に生まれ替わってこないから、
いつも同程度の修行の魂のみが地上に生活するからである。

しかし乍ら、ただ一つ科学のみは発達した。
それは、何故かというと、科学研究に於いては先人の研究したことを後人が学んで、
その研究の上に更に自分の研究を次ぎ足し、更にその次の人はその上につぎ足して行く
という風にして発展させることが出来たためである。

ところが、道徳や芸術に於いてはそれが出来ない。
各人は、各々第一歩からはじめるのでる。

吾々がいかにあせったとて、釈迦やキリストの道徳の上に
更に次のものをつぎ足しその次の人は更にそれに何ものかを加えて行く
という様なことは、全く不可能であり無意味であるからである。

           <感謝合掌 令和元年9月24日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 実相は、現象の奥に、無限の可能性として存在する - 伝統

2019/10/06 (Sun) 22:07:36


         *『叡智の断片』(P204~205)より

現象空間は一定の容積のものでもなく、叉無限でもない。
無限が《あらはれ》つつあるのである。

近代の物理的研究によれば、
空間は無限のひろがりであるとは考えられないで、
かえって一種の球形の様なものであり、
しかもその《宇宙は次第に膨張しつつある》と云われている。

その宇宙に於いて無限に上に進めばいつしか自然に空間のゆがみによって叉、
もとの所に帰って来ていると云う様な構造とも、考えられている。
それは完成された無限ではなくして、無限があらわれつつあるのである。

吾々の実相は、
現象の奥に、無限の可能性(Possibility)として存在するのである。

無限の動を孕むところの無限の静。

           <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 「謙遜」と「傲慢」 - 伝統

2019/10/11 (Fri) 18:34:06


         *『叡智の断片』(P205)より

「謙遜」が神の子の自覚であって、
「傲慢」は神の子の自覚ではない。

「謙遜」は前途内在の無限可能性の想望より来る現在の足りなさの自覚である。

           <感謝合掌 令和元年10月11日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録 ~ 「内省」 - 伝統

2019/10/29 (Tue) 21:37:12


         *『叡智の断片』(P205)より

自分自身に対する内省とひとに対する説法とはことなる。
内省に於いては、自分はまだまだ不完全だ。

無限の可能性を内にもちながらもまだまだそれがあらわれていないと
深く反省するのであるが、

その内省をそのままひとに対する批判として向けるのでは、
説法とはならないのである。

「自分もかく不完全な者である。
況んやお前達も不完全きわまりない者だ、罪ふかき者だ」
などと説いたのでは、相手は自分の不完全さに萎縮してしまって、
本来の完全なる実相をあらわすことが出来なくなってしまう。

           <感謝合掌 令和元年10月29日 頓首再拝>

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