伝統板・第二 832169

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神はすべてのすべて ②

1:伝統 :

2019/06/08 (Sat) 04:39:41

神は一切処に充ち満ちている

         *「光明道中記」(6月8日《祈りに始まり祈りに終る日》)より抜粋

 
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、日本天皇陛下に中心帰一せる天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「神はすべてのすべて」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1846

(2)伝統板・第二「神はすべてのすべて」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6930933

           <感謝合掌 令和元年6月8日 頓首再拝>
2:伝統 :

2019/06/09 (Sun) 03:30:42


      *「光明道中記」(6月9日《捨我精進の日》)より

【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                    『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

           <感謝合掌 令和元年6月9日 頓首再拝>
3:伝統 :

2019/06/18 (Tue) 04:13:16


     *「光明道中記」(6月18日《心に炬火(たいまつ)を点ずる日》)より

【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
                     (『生命の實相』第十三巻)】

「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。

「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。
ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。

「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。

「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。

如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、調和の智慧のみが実在である。

この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。

周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。

高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。

神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
 ―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。

           <感謝合掌 令和元年6月18日 頓首再拝>
4:伝統 :

2019/07/02 (Tue) 05:04:11


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月2日)より

本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。

神さえあれば何も要らない。

心に神を持つことは「すべて」を持つことである。

神は「すべてのすべて」であるからである。

           <感謝合掌 令和元年7月2日 頓首再拝>
5:伝統 :

2019/07/21 (Sun) 04:34:33


       *『 生長の家 』(昭和25年5月29日の法語)より

   《神に対して汝(なんじ)の心を投げかけよ》

   凡ゆる瞬間 凡ゆる所に於いて神がましますということは、
   凡ゆる時と場所とに於いて
   神が吾らを守って い給うということである。

   あなたの心を神に対して投げかけよ。
   神はあなたに与え給うであろう。

   常に神の助けのない世界はないのである。

   どこから如何にして
   神が吾々を助け給うかはわからないにしても、

   神の 目に見えぬ智慧の手が
   凡ゆるものの自然なる運行を導き給うて
   あなたを本当の幸福に導き給うのである。

   神は一切のものを
   調和と繁栄と幸福とに導き給う所の
   中心的統一者である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年7月21日 頓首再拝>
6:伝統 :

2019/07/22 (Mon) 03:29:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月22日)より

「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。

         <感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>
7:伝統 :

2019/07/26 (Fri) 04:38:47


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。


         <感謝合掌 令和元年7月26日 頓首再拝>
8:伝統 :

2019/08/02 (Fri) 04:33:21


       *「光明道中記」(8月2日《完徳成就の日》)より

【汝らは初めから如来であり、成仏している。(生命の實相第一巻)】


神を外にのみ求むる時代は人類にとって過ぎ去ったのである。

神は外にあらず、内にあらず、中間にあらず、
そして外にあり、内にあり、中間にある。

それは現象を超えた外であり、内であり、中間であり、
その本源であり、それを左右し、支配し、修正する力である。

嘗て、京都の講習会に往ったときに三高の英文学教授深瀬基寛氏から
『現代英文学の課題』と題する本を頂いた。此の書はその前年同教授夫人が
叡山の生長の家講習会に受講して山上から帰られると
神徠(しんらい)のように書きたくなって書かれた書であると言う。
その中に曰く――

「『完徳の観念』(Ider of perfection)はアーノルドに於いても根本的な地位を占めているが、
アーノルドは『教養』(Culture)の方法によって専らこの観念を実現せんとし、

エリオットは『個性の脱却』(Depersonalisation)によって個人以上の
『他者の権威』(Outside Authority)に合致することを以て完成の内容としている。

・・・個人の『内心の声』(Inner Voice)を最後の拠り処とする傾向が
浪漫主義の本質であって、エリオットは此の傾向を『近代の異端』として排撃する」と。

此の「外の権威」と「内心の声」は内外(しげ)打成(だじょう)一片の生長の家に於いては
完全に一致する。

       <感謝合掌 令和元年8月2日 頓首再拝>
9:伝統 :

2019/08/05 (Mon) 04:46:40


       *「光明道中記」(8月5日《神がすべての日》)より

【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、
一切のところに、一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、
どんな固い鉱石の中にでも神が充満したまうこと。

従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも神が満ちて在ますこと、
自分の中に斯く満ちて在ます神と、宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。

このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う
深い信念が湧き出るまで念じつづけること。

このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。

神は”すべて”である。
先ずその”すべて”にましますところの神を心の中に深く知る
ことは”すべて”を心の中に得ることである。

「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。

欲張っては可(い)けない。
欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。

”すべて”が自分のものと云うのは
全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。

           <感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝>
10:伝統 :

2019/09/29 (Sun) 04:53:19


    *「光明法語」(9月29日《神に一致する個性》)より

神に一致する事は決して個性を没却する事ではない。
梅は純粋に梅の個性を発揮する事が神に一致する事なのだ。
桜は一層純粋にその個性ある美を発揮する事が神に一致する事なのである。

神は梅を通して自己の無限個性の一部を表現し、
桜と通して自己の無限個性の一部を表現し給う。

神は「無」にして「一切個性」であると言い得る。
一切個性が「無」の一つに統一せられてあるのが無相の神である。

七色が統一されて無色の太陽光線になっている如く、
神に於いては一切が内に包容されていて無なのである。

           <感謝合掌 令和元年9月29日 頓首再拝>
11:伝統 :

2019/11/15 (Fri) 04:49:28


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月15日)より

静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。

第一節二十回、終わりて第二節二十回、
それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。

心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。


   神はすべての渾(すべ)て
   神はまたきいのち
   神のいのち我(わ)れ
   健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
   病(や)まざるもの我(わ)れ
   死せざるもの我(わ)れ
   無限力なるもの我(わ)れ。


   神はすべてのすべて
   すべてのものに神ましまして 
     我(わ)れを導きたまう
   神は調和の叡智(みちえ)
   神は栄えの叡智(みちえ)
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう。


   神はすべてのすべて
   すべてのもののうちに神ましまして 
     我(わ)れを護りたまう
   神はまたき聖愛(みあい)
   神 我(わ)れを護りたまえば
     幸多き者われ、
     恐怖なき者われ。
   調和の道に導きたまう
   栄えの道に導きたまう

           <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>
12:伝統 :

2020/01/24 (Fri) 04:46:12


         *「光明法語」(1月24日)より

人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものにとりまかれているのである。
神の恵みはあらゆるものに、空気に、日光に、水に、見渡す景色に、さえずる鳥に、
あらゆるものに現れて吾々を恵み、はぐくみ養い給う。

神の恵みは吾々をとりまいていて一分一厘の逃れる隙間もないのである。
昨日が如何にあろうとも、今日何事が起ころうとも、神は善と共にいますのである。

人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、心の中に次の言葉を繰り返して念ぜよ。

「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」

           <感謝合掌 令和2年1月24日 頓首再拝>
13:伝統 :

2020/03/08 (Sun) 04:22:30


     *「光明法語」(3月8日《行き詰った時にはこうせよ》)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

           <感謝合掌 令和2年3月8日 頓首再拝>
14:伝統 :

2020/03/15 (Sun) 03:37:35


           *「光明法語」(3月15日)より

毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。

その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、反感、災難などは
存在しないものであると云う確信が自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。

その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。

           <感謝合掌 令和2年3月15日 頓首再拝>
15:伝統 :

2020/04/05 (Sun) 04:57:59


           *「光明法語」(4月5日)より

先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。

神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。

神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。

これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。

           <感謝合掌 令和2年4月5日 頓首再拝>
16:伝統 :

2020/04/21 (Tue) 03:38:42


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P69~70)より

各人に「神」が内在すると云うことが肯定されますと、
神の普遍性を肯定することになって来ます。

すなわち神は到る処に在(い)ますと云うことがわかるのです。

しかし神が到る処にましますと言っても、神は物質のように、ある固まりを
なして空間に満ちていると云うような意味ではありません。

神は霊的存在として、各人の内に、自然現象の奥に存在したまうのです。

仮りに「内(うち)」とか「奥(おく)」とか言いましたが、
卵の黄味(きみ)が卵の「内」又は「奥」にあると云うような意味の、
「外」に対する「内」ではありません。

そのような物質的容積とか「空間的ひろがり」とかを超越して
万物の「内」にいたまうのであります。
これを超越的内在と申します。

神は、吾々に宿る超越的内在神として、吾々に智慧を与え、愛を与え、
生命(せいめい)を与えていられるのであります。

           <感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>
17:伝統 :

2020/06/18 (Thu) 05:01:24


      *「光明道中記」(6月18日《心に炬火(たいまつ)を点ずる日》)より

【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
                     (『生命の實相』第十三巻)】

「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。

「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。
ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。

「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。

「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。

如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、調和の智慧のみが実在である。

この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。

周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。

高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。

神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
 ―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。

           <感謝合掌 令和2年6月18日 頓首再拝>
18:伝統 :

2020/07/02 (Thu) 04:21:11


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月2日)より

本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。

神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。

神は「すべてのすべて」であるからである。

           <感謝合掌 令和2年7月2日 頓首再拝>
19:伝統 :

2020/07/17 (Fri) 06:33:23


      *『 生長の家 』(昭和26年6月5日の法語)より
       ~ 如何(いか)なる微生物も人間を侵(おか)さない

神はすべてである。

すべては 霊的実在であると云う根本真理の次には、
霊は物質でないから限定がなく、区画がなく、
全体「 渾一(ひとつ)」であると云う根本真理を知らなければならないのである。


愛とは「 自他一体 」の自覚であるから、

「 全体渾一(ひとつ)」であると云うことは、
すべては、「 絶対体 」そのものであると云うことである。


どんなに区画され、分割され、個々別々のように見えようとも、
それは全体が一つである。

即ち 全体は 神の絶対愛の自己表現であるから、
愛にそむくような不完全な相(すがた)、
生物が生物と相闘(あいたたか)うような不完全な相(すがた)、

従って 微生物病源体が人間を侵すような不完全さはないと云うことである。

           <感謝合掌 令和2年7月17日 頓首再拝>
20:伝統 :

2020/07/22 (Wed) 04:46:51


       *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月22日)より

「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。

         <感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝>
21:伝統 :

2020/07/26 (Sun) 04:14:34


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より

神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。


わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。

―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

         <感謝合掌 令和2年7月26日 頓首再拝>
22:伝統 :

2020/08/02 (Sun) 03:57:37


     *「光明道中記」(8月2日《完徳成就の日》)より抜粋

【汝らは初めから如来であり、成仏している。(生命の實相第一巻)】


神を外にのみ求むる時代は人類にとって過ぎ去ったのである。
神は外にあらず、内にあらず、中間にあらず、
そして外にあり、内にあり、中間にある。

それは現象を超えた外であり、内であり、中間であり、
その本源であり、それを左右し、支配し、修正する力である。

         <感謝合掌 令和2年8月2日 頓首再拝>
23:伝統 :

2020/08/05 (Wed) 04:50:48


   *「光明道中記」(8月5日《神がすべての日》)より

【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、そんな固い鉱石の中にでも
神が充満したまうこと。

従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも神が満ちて在ますこと、
自分の中に斯く満ちて在ます神と、宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。

このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う深い信念が湧き出るまで
念じつづけること。

このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。先ずその”すべて”にましますところの神を心の中に深く知る
ことは”すべて”を心の中に得ることである。

「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。

欲張っては可(い)けない。欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。

”すべて”が自分のものと云うのは全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。

         <感謝合掌 令和2年8月5日 頓首再拝>

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