伝統板・第二 639074

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英霊の言乃葉 ⑤

1:夕刻版 :

2019/06/01 (Sat) 18:53:47

靖国神社社頭掲示~令和元年6月

愛する妻へ


陸軍伍長 柳田 満彦 命

昭和二十年六月三十日
フィリピン・ルソン島日本戦病死
鹿児島県肝属郡垂水町出身
三十歳



信枝殿、御苦労の程察して感謝してゐる。
これも偏に御国の為なのにす。

何分(なにぶん)身体を大事に出征軍人の妻として両親への孝養、
子供や弟妹の教育に養育に僕の分まで御働き下さい。

兄や弟、また両親から「よくやってくれる」と知らされる度に
僕は嬉しくて唯(ただ)、君が面影をひしと抱きしめて
有難うと言ひたい様な気がします。

とにかく、共々に耐へ忍んで頑張るべき秋(とき)だ。
くれぐれも身体を大事にやってくれ。

(中略)

満代の写真まだかね。
できる事なら一家揃った写真が見たいね。
懐かしい気がする。

◎注意(これは大声DNAは言ひにくいが、実際のところ愛しい
我が妻の写真が見たいのだ。常に肌身はなさず抱いてゐたいのだ)

是非頼む。

では何卒(なにとぞ)御神体を御大事に、皆様へよろしく。

                           夫より

愛妻へ


*「満代」は、御長女の御名前

    ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html  )
                  
・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板第二「『英霊の言乃葉』 (11341)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2160 (消滅)

   伝統板・第二「英霊の言乃葉(光明第二)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7824371

(2)光明掲示板第三「英霊の言乃葉Ⅱ」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=28

(3)光明掲示板・伝統・第一「英霊の言乃葉」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=69

(4)伝統板・第二「英霊の言乃葉」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456084

(5)伝統板・第二「英霊の言乃葉②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7762987

(6)伝統板・第二「英霊の言乃葉 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796246

(7)伝統板・第二「英霊の言乃葉 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7835734

           <感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2019/06/02 (Sun) 18:50:10


遺書

陸軍兵長 庄子 勇 命

昭和十九年十二月二十三日  
フィリピンにて戦死
宮城県仙台市荒町出身 
二十二歳


この世に生を享けて二十有二年、
何一つ孝行もせず散つて行く勇をどうぞお許しください。
今更何も想ひ残すこともありません。
温かい膝下に育つた自分は幸福者でした。

ばたばたと軍装を整へる間は、何か実習にでも行くやうな気持ちでしたが、
さて遺書なんて改まると一瞬悲壮な感じが致します。

皆様のご健康をお祈り致します。
母上様、特にご自愛のほどお願ひします。

勝美もまつしぐら頑張るやう、妙子も年頃、お幸せをお祈りする。
英子は勉強と身体並行して、しつかりやるやう。
幸男ももう分かる時分、兄ちやん兄ちやんと言つた声がこびりついて離れません。

想ひ出せば繰返せば、きりのないことばかり。
唯、懐かしさで一杯です。

では元気で征きます。皆様もお元気で。
                   
敬白

勇拝

  家中
   御一同様 

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/db54756cd44b75883656049ecab8162b  )

           <感謝合掌 令和元年6月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2019/06/03 (Mon) 18:18:01


孝行はこれからで


陸軍伍長 西川 正一 命 

昭和十九年六月十三日
中華民国湖南省長沙県にて戦死
岐阜県本巣郡北方町出身 
二十四歳


興国の為に第一線に出て十二分に働く時が今来たのだ。
海山の如く大恩受けし父母様にお別れする時が来ました。

孝行はこれからです。
どうか今少しお待ちください。
ではお体を大切に。
                                

                    正一より
御父母様



親愛なる弟等よ。

兄亡き後は兄に代つて孝行すべし。

此れは兄の最後の願ひだぞ。
                                

                    兄より
弟一同へ

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/1c3831a321208c9bdb495f7495065740 )

           <感謝合掌 令和元年6月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2019/06/04 (Tue) 18:40:10


すめら御國を 永久に守らむ


海軍一等飛行兵曹 辻 始 命 

昭和十八年七月二十四日
本州東方海面にて戦死

徳島県那賀郡富岡町出身 
二十一歳


生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)の譬(たとえ)は、
常に胸中に在り。

日出る皇國に大和男子として生をうけ
聖恩に報い奉り祖國を永遠に護らむと
海軍航空兵として軍籍に身を投ぜり。

幼十歳にして荒鷲を望みし身とて、
殉職はもとより期せし処。

されど我が本懐は、太平洋上紺碧の空に聖寿の万歳を寿ぎつつ散華するにあり。

我が日頃神仏に祈りし処は

「皇國日本の為尽し得る立派な人間とならさせ給へ」

とのみ申せしにあり。

(中略)

散りてのち なほ白雲と とどまりて

         すめら御國を 永久に守らむ


昭和十七年 元旦記之
                              始

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/3e82be91bcbd9bc20752b789cc3e4d10 )

           <感謝合掌 令和元年6月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2019/06/05 (Wed) 17:58:00


辞世の書


陸軍准尉 北野正憲 命

昭和十八年十一月五日
ニューギニアブーツ東飛行場にて戦死

鳥取県東伯郡赤碕町出身
二十四歳



父上様、母上様

謹みて正憲辞世の言葉を開陳申し上げます。
過去二十有余年、永々の御養育下されました事を厚く御礼申し上げます。
有難うございました。

その間、何一つ孝行のできなかった事を先づ御許し下さい。
私も此の歴史的大東亜戦に参加でき、帝国軍人として国家に御奉公できまし
た事を嬉しく思って居ります。

小さい時より軍人を志しその願いが叶って
身を国家に捧ぐる事は、私として最大の宿望であったのです。

(中略)

軍人の父として又母として、国家に盡(つく)した功労は
実に最大の名誉であり是以上の光栄はありません。
決して泣いて下さいますな。

血湧き肉躍らせつつ勇躍征途に登りし空中戦の花と散った南海の大空に向って、
正憲はよくやったわいと褒めて下さい。
そして声の続く限り萬歳を三唱して下さい。

(中略)

時巡りて若芽吹く桜の春来たれば、靖國の花の下で
老いた父上母上様を始め兄弟揃って再会する日を待っています。

親戚一同様にも生来お世話になりました。
何も盡すことが出来なかった事を御許し下さい。

正憲の魂は故郷の仏壇にありて、
北野家代々の繁栄を守り私は永遠に生きています。


北野正憲

    ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/3a72873c1daefd6135627a22bbb35601 )

           <感謝合掌 令和元年6月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2019/06/06 (Thu) 19:25:18


遺書

陸軍中尉 阿部司郎命

昭和二十年六月五日
三重県紀伊長島町熊野灘沖合にて戦死

神奈川県相模原市上鶴間出身
二十三歳


天皇陛下萬歳

皇國永遠の発展を祈り奉る。

明野戦闘隊、皇軍戦闘隊の発展と各位の御健康を祈る。
同期生各位の健康と発展を祈り、永き交友を謝す。


両親宛

平素の御教訓に遵(したが)ひ、司郎は喜びて皇國の為に死す。
乞(こう)安心。

生存中は直接何等の孝養を盡(つく)し得(え)ざりしも、
大孝の道に死したるは、御両親様も満足の事と拝す。

陛下の御為、國の為、不肖なる我が身が御役に立ちますこと
司郎最大の嬉(き)悦(えつ)を感じます。

七生報國の覚悟なれば、此の次生まれ来たる時には必ず膝下(しっか)に参ぜん。

祈御健康。

阿 部 司 郎

   (https://blogs.yahoo.co.jp/asamin_sdf/32762892.html

   (関連 http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=2095

           <感謝合掌 令和元年6月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2019/06/07 (Fri) 19:50:04


遺書

海軍大尉 小野寺徳治命
昭和二十年六月十三日
沖縄島方面にて戦死

宮城県栗原郡有賀村出身
三十九歳


日本に 生を禀(う)けし 男子が
       御盾となりて 散るぞ嬉しき

生ある者は必ず死す。国難に殉ずるは男子の本懐、之に過ぐるなし。喜んで殉ず。

軍人の妻として、今日あるを覚悟し、決して取乱すべ可らず。
余の亡き後は軍人の妻として、恥かしからざる生活をせよ。

博重は、必ず海陸軍人と致す様、養育すべし。
浩子は、婦女子として恥かしからざる教育を致させ、
良縁があったら嫁(とつ)がすべし。

御腹の子供が男子であったら、博重と同様軍人に致し、
女子の場合、浩子同様嫁がすべし。

余の亡き後は、速やかに帰郷致し、養父母に孝養を尽すべし。
決して世間の人様から後指を指されない様、心得る可し。

余の肉体は滅す共、精神は護国の鬼と化して朝敵を亡ぼす。

浮世の荒波に打ち勝って、子供の教育に専心すべし。

御前達の幸福を見守る。

右、遺言す。

昭和十五年十一月二十九日
                                    
 徳治

 悦子殿


https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2013-07-01-1

           <感謝合掌 令和元年6月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2019/06/08 (Sat) 18:42:28


父母ニ誓フ


海軍二等飛行兵曹  和田博之命

昭和二十年六月十日
土浦海軍航空隊に於て
空襲のため戦死

群馬県高崎市新町出身
十九歳


一、永年、親不孝ヲシタ罪ノ償ヒニ、粉骨砕身御国ノ為ニ働クト共ニ
  父母ニ対シ真心ヨリ仕(つか)ヘル事ヲ、心ヨリ誓ヒマス。

二、二度ト父母ニ対シ心配ヲ掛ケズ、自分ノ体ヲ大切ニ、何時モ元気デ朗ラカニ、
  真面目ニ働キマス。

三、常ニ弟妹ノ良キ模範トナリ、立派ニ指導シ、兄弟妹ソロッテ親孝行シマス。

四、本日以後、「父サン」「母サン」ト称へ、孝ヲ誓ヒマス。


昭和二十年五月二十二日
和田博之



  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/31bd67b9a97a8c7ae7150bc08c061abb )

           <感謝合掌 令和元年6月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2019/06/09 (Sun) 19:21:45


遺   書

陸軍兵長  岡 敏雄命

  昭和二十年六月九日
  比島ミンダナオ島にて戦死
  岡山県児島郡下津井町出身 二十八歳


此度の戦斗にて大君の御為に死所を得ました事は、
皇国に生を享(う)くる男子としての本懐、
正に之(これ)に過ぎるものはありません。

成人するに及び故郷を遠く離れ、親子別々の生活致し、
何等孝養らしき事も尽さず死するは、
全く慙愧(ざんき)の極(きわみ)であります。

小生亡き後は前途多端の一家の為、
万全の善後策を講じて下さる可(べ)く、切に御願ひ致します。

尚、京子の件に関しても、結婚後僅々(きんきん)四ヶ月余日の生活にて、
夫を失ふ身は誠に不憫(ふびん)とは考へますが、出征前能(よ)く能く申聞かせ、
既に覚悟の程も出来居る事と存じますれば、今後は本人とも充分御相談の上、
宜敷御取計らひ下さいます様、御願ひ致す次第で御座居ます。

小生身は仮令(たとい)何れの地にて果(はて)ませうとも、
皇国の万代(ばんだい)不易(ふえき)と一家の隆盛を祈って安けく冥(めい)じます。

最後に、父上の英霊に続いた子として不肖の身でありましたが、
何卒御許しの程願ひます。

では、御身体呉々も御大切に。

母上の御幸福を蔭乍ら御祈り致します。

    昭和十九年四月二十九日


                       岡  敏 雄
  御 母 上 様


  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/05a1d83def1d3d427a14312614b32b9d )

           <感謝合掌 令和元年6月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2019/06/10 (Mon) 19:57:12


遺 言

陸軍兵長 大 瀧一 郎 命

昭和二十年六月十四日
フィリピンにて戦死

東京都出身


一、産業戦士として比島へ赴任するとは謂ふも
  現戦局は皇国未曾有の機局に直面し居る秋(とき)に當り 
  赴任する故に軍人と何等変らざる覚悟を以って壮途に就くものなり 

  幸にして途中無事故にて任地に到着の上は
  一死報国の誠を以って一意増産に奮励するものなり 

  その時と謂ふも父は御前等兄妹の事を
  毎日無事で健やかに大きくなるやう祈ってゐる 

  父は三年比島で勤務すると
  懐かしい御前達の元気な顔を見に帰って来られる筈であるが、
  然し此の戦局が有利に終らない限りは何年でも帰って来られないが、

  御父さんが留守である時は御母様や御老父さん御老母さんの云ふ事を
  良く聞いて立派な人になるやうに言行一致よく勉強してくれ 
  それのみを祈ってゐると共に

  御前達の躰の上には何時何處ででも
  目に見えない御父さんの魂が御前達の無事を守ってゐるぞ


  (中略)

  比島赴任にのぞみ

  昭和十九年八月六日

  父より


   ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2010-06-20-1 )

           <感謝合掌 令和元年6月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2019/06/11 (Tue) 19:32:46


私の心さながら明月の如くです


海軍一等飛行兵曹 地藏垰 總憲(じぞうだお ふさのり)命

昭和二十年六月四日
南西諸島にて戦死

島根県那賀郡二宮村出身
御母上様


愈々これが最後です。
總憲、この世に生れて以来二十一年、
其の間、何一つ御両親様を安んずるが如き事をなし得ず、
誠に申訳ございません。

今こそ、この御両親様の御高恩に報ゆる時が参りました。
總憲一生一度の御奉公、これが父母様へのせめてもの孝行かと思ひます。
にっこり笑って散って行きます。

祖国のこの危機を救ふは誰ぞ、我々青年搭乗員です。

その男の中の男として空に散らん。
悠久の大義に生きるこそ日本男児の本懐(ほんかい)、
之(これ)に過ぐるものはありません。

(中略)

今は丁度桜も満開です。
あの日本の花と一緒に散って行きます。
私の心さながら明月の如くです。
身も心も清く一才の童児に立ち帰って散って行きます。

(中略)

若(も)し、私散りたりとの報に接せられましたなら、
總憲必ず敵空母とさしちがへて散ったと思って喜んで下さい。
明るく清い心と体で散ってゆきます。

(後略)

   ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-06-09-3 )

           <感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2019/06/12 (Wed) 20:44:09


遺 書

海軍少佐 尾﨑伸也命

昭和十九年六月十九日
マリアナ群島方面にて戦死
東京都向島区隅田町出身
二十五歳


其ノ後如何

ヤハリ航空ガ一番ヨイダロウ、ソレハ飛行機ニ乗ルヨウニナレバスグワカルコトダ。
大イニ張切ッテヤレヨ
私モ鹿児島ノ櫻島ノ雄大ナ姿ヲ眺メテ鍛錬ヲ続ケテ来タガ、今ハ懐シイ夢の島ト変ッタ、

空ダ男ノ行ク所、男児愛刀ヲ抱イテ南ヘ飛ブ、一機又一機砂塵ヲアゲテ我ガ隼部隊ノ戦闘機ハ行ク、

(中略)

戦闘即チ航空戦ノ時代ニ、イカデ日本男子ノ空ニ行カザルベキ、
真ニ國防ノ第一線コソ飛行機デアリ搭乗員コソ國宝デアル、
此ノ点ニ於テ我ガ一家ハ空ノ一家デアリ真ニ私ノ誇リトスル所デアル

早ク旨クナッテ俺ノ後ニ続ケ
俺ノ優秀ナル弟二人ノパイロットニ絶大ノ期待ヲカケテイル頑張レヨ

昭和十九年四月二十九日

                 伸 也
正之進殿

(原文のまま

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/a3aa739cd7c7d6345d8ccdb054d9fc49 )

・・・

参考Web:浜松広報館の零戦と尾崎伸也大尉
      http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2013/06/post-0c3d.html

           <感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>   
13:伝統 :

2019/06/13 (Thu) 18:57:08


陸軍憲兵准尉 住本 茂 命


昭和二十三年四月二十日
サイゴンにて殉難死
兵庫県出身 三十六歳



   伝 言

 皆様ノ御厚意ニハ感謝ノ辞ガアリマセン。

 私ハ今年二月死刑ノ判決ヲ受ケマシタ。

 爾来既ニ今日アルノ覚悟ハ十分ニ出来テ居リマス。
 今更何モ驚クコトハアリマセン又申スコトモアリマセン。
 常々乏シキ中カラ色々ノ差入ヤ御配慮ニ感謝シテ居リマス。

 幸道司令官以下「キャンプ」ノ方々ニ住本ハ幾重ニモ感謝ノ意ヲ表シテ
 刑ニ服シタト言フコトヲ御伝ヘ下サイ。

 最後ニ、子供丈ケハ御國ニ役立ツ立派ナ人間ニ育テル様申伝ヘテ下サイ。
 只ソレ丈御願シマス。



   最後ノ言葉「刑場ニテ」

 大楠公精神ヲ継承シ七度生レ代ッテ誓ッテ皇國ニ報ゼン。

 日出ズル國日ノ本ニ生ヲ享ケタル大丈夫ガ今旭日ヲ浴ビツツ従容トシテ國ニ殉ズ、
 男子ノ本懐之ニ過グルモノナシ。(國歌奉唱二回)

 皇國ノ彌栄ト皇國ノ隆盛ヲ祈ル。

 天皇陛下万歳(三唱)

 此レデ終リマス。サア、ヤッテ下サイ。

              
 (https://blog.goo.ne.jp/soulofjapan2015/e/f64b6253806352f29080ebfe9cf021b4 より)

           <感謝合掌 令和元年6月13日 頓首再拝>  
14:伝統 :

2019/06/14 (Fri) 18:57:34


陸軍中尉 木本 修 命


歩兵第百十四聯隊

昭和十七年二月十一日

シンガポール島ブテキマにて戦死

山口県豊北町出身 二十三歳



 吾、人身を享けてより二十三年。

 君恩、親の恩、師恩、万物の恩を一身に受け、一として返すを知らず。
 唯、帝國軍人として國民最大の誇りを持ち、微力を尽くし得たるは、
 無上の光栄、本懐なり。

 あゝ吾が喜び何に比すべき。
 然れども報恩の一をも算じ得ざるを強く深く痛む。


 時は刻一刻として移る。
 人の良心は即ち神にして永劫の時間に没入し人の死は一点も残さず。
 吾が身窮むるとも吾が心永遠に君國に尽さん。

 大元帥陛下の御為、祖國のために、一身一家を捧げ、
 私を捨てて公に就かれんことを祈る。

 隊長殿、部下諸氏、祖父、父母、姉上、恩師、大変お世話になりました。
 弟妹よ、何の役にも立たず兄たるの資格なきを心から詫びる。

 何一つ心配なかりし吾生涯を喜ぶと共に、
 一億國民の一層私心を捨てて共々に生き、
 國家の弥栄に貢献されんことを祈る。


 以上、吾が生涯の信念と御礼を記す。

   (https://blog.goo.ne.jp/soulofjapan2015/e/f64b6253806352f29080ebfe9cf021b4 )

           <感謝合掌 令和元年6月14日 頓首再拝>  
15:伝統 :

2019/07/01 (Mon) 22:40:01


母上様


 陸軍兵長 小林英雄 命

 昭和十九年七月十ニ日

 東部ニューギニアマンデーにて戦死

 兵庫県揖保郡揖保川町出身 三十歳



    https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html



           <感謝合掌 令和元年7月1日 頓首再拝> 
16:伝統 :

2019/07/02 (Tue) 22:39:23


遺書


陸軍兵長 小川平吉 命

昭和十八年十一月二十一日
中華民国安徽省にて戦死

東京都本所區小梅出身 二十二歳



人生僅か二十年、時の流れの激しさに、
吾は思はず涙出る。

あゝ然れども日本人なるぞ。

吾は国の為、家の為、社会の為に盡す秋 ( とき ) 。

吾が尊き人間を捧ぐる秋 ( とき ) 。

吾が日の本の孫の子等(こら)が喜び勇む
生活に、幸福なる姿、目に浮かぶ。

あゝ吾は逝(ゆ)く、
尊き犠牲の一人として
悠久の大義に生きん。

  (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html ~ 平成30年7月)

  (平成丗年 靖國神社さま みたままつり
    https://ameblo.jp/meitoku1030/entry-12390800157.html )

           <感謝合掌 令和元年7月2日 頓首再拝>  
17:伝統 :

2019/07/03 (Wed) 21:51:26


遺書

陸軍伍長  杉山 清 命

昭和十九年七月十八日
サイパン島にて戦死
静岡県静岡市西草深町出身 
二十四歳


小生、大命より任務に就く。
生還は期せぬものなり。

ただ想ひ残す事は一つとなく只々
長らくの間、身に余る御世話になり
厚くゝ御礼を申し上げます。

かヘり見れば誠に感慨無量なり。
小生、死して亡き後よろしく両親の
佛祭滞りなく行事し戴きたく。

之が小生の望みなり。

兄姉上様末々まで御健勝、御多幸の程を
はるか何処より祈るものなり。

ではさらば。
                 清

兄姉上様
丸山御一同様


  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/9ca45f3b21b84cc8238c7d7a5e5ec1d8 )

           <感謝合掌 令和元年7月3日 頓首再拝> 
18:伝統 :

2019/07/04 (Thu) 17:49:28


靖國の若桜として散る覚悟で居ります
                                     
陸軍伍長 原山 好一 命 
昭和二十九年二月二十八日
ソビエト社会主義共和国連邦タイセット地区
タイセット第八六K収容所にて戦病死

和歌山県海南市黒江出身 
三十歳



おばあ様、父上様、母上様
晧姉さん、弘子姉さん、泰子、邦子

皆様、長らく御世話になりました。
小生これより任地〇〇へ出発致します。

もとより生還は期しません。
男子と生まれて靖國の若桜として散る覚悟で居ります。

班長さんからも言はれました。人生僅か二十五年。
小生達の任務は肉弾挺身隊です。爆弾を抱へ敵のトーチカへ飛び込むのです。

どうか皆様元気で銃後を固めて下さい。

先日のお母さんと弘ちゃんの声は死んでも忘れられません。
その後の種々の心づけ心から御礼申し上げます。

(中略)

では最後に皆様のご健康を祈ります。

                     さやうなら好一より

昭和十九年十月二十九日二十時三十分
中部二十四部隊田崎隊五班の部屋の片隅にて走書きす。
   
                     原山好一

           <感謝合掌 令和元年7月4日 頓首再拝> 
19:伝統 :

2019/07/05 (Fri) 17:49:41


弟へ

海軍大尉 小倉孝雄 命 

昭和二十年四月二十四日
フィリピンルソン島にて戦死

東京都大田区久ヶ原町出身
二十一歳



拝啓 晩秋の候、貴殿益々意気軒昴(けんこう)にして生徒生活に全力邁進の
事と御推察申し候。

小生、愈(いよいよ)出陣の時機到来にて全力必死。
唯、皇国の御為、死力を尽くす覚悟に候へば、御安心下され度候。

貴殿もいづれは、帝国海軍将校となるべき修養中の御身なれば、
目標を高きに置き決死の努力研鑽を望む次第に候。

何事も

     気 力
     努 力
     誠 心

により、全て成らざるはなしと確信致す次第に候。

貴殿の兄として充分なる指導をなし得ざりしは、不徳の致す所。
深く恥づる所に候へ共、愛弟の念、切なるものあり。

厳冬に向ふの折から自重、自愛全力生徒生活に突撃せられん事を
切望する次第に候。
                                   

敬具
          前夜               
                                      
孝 雄

成美 殿
 
(原文のまま)

           <感謝合掌 令和元年7月5日 頓首再拝> 
20:伝統 :

2019/07/08 (Mon) 18:42:06


遺書

陸軍曹長 三浦武男命

昭和十九年七月十八日
マリアナ諸島サイパン島で戦死

愛知県愛知郡豊明村出身
三十歳


一枝

長い間、色々と御世話になりました厚く御礼申し上げます。
此の御恩は、いつまでも忘れは致しません。
今日の日の有ることを既に覚悟してゐて呉れたことと思ふ。

戦死したならば、御國の為と喜んで呉れ。
笑って大東亜建設の投石となって戦死致します。

一枝や淳、又、生れ来る子供のことを思ふと夫として、又、親として
何らの責任も果たさず、幸福にさせることが出来なかったのを唯一つ
心に残り、可愛さうに思ひますと共に、済まない思ひが致しますが
これも御國の為と泣かずに喜んで呉れ。

たとへ、此の身は戦場に於て露と消へても、魂となって祖國を守り
一枝や淳、又、生まれ来る子供を守って居ります。

信じ切って居る一枝。
私が常に言って居る様に、正しい道をふみ行なって
天地に恥じざる行動をとっていただきたい。

淳と生まれ来る子供を立派に教育し育て、
家を継がせて呉れるのを草葉の蔭から祈って居ります。

逢ひたくば、靖國の杜に来て呉れ待って居ります。

武 男

昭和十九年五月二日
一 枝 殿

           <感謝合掌 令和元年7月8日 頓首再拝> 
21:伝統 :

2019/07/09 (Tue) 19:23:15


直(すなお)なる道を歩め


陸軍衛生兵長  中元 淸命

昭和二十年七月五日
比島ミンダナオ島ブキドノン州
マナゴック東北方にて戦死

兵庫県神戸市葺合区北本町通出身
三十二歳


大日本帝国に生を享(う)けし者、誰か国に報ゆるの心なかるべき。
此の度、栄(は)えある御召(おめし)により皇軍の一員に参加す。
男子の本懐なり。生還期し難し。

茲(ここ)に書を認(したた)め、遺書とす。

余が妻、余が子として直なる道を歩めと教ふるのみ。

人間は、万物の霊長なり。
何時如何なる時も、人の道を正しく進め。

富貴(ふうき)も名誉も余の望みに非ず。只々人間らしくと望むのみ。

淸進(きよゆき)よ。如何なる方面に志すと云へど、其の本分を全うせよ。
子としての務めを果せ。先づ健康なり。

じつゑよ。汝は子の母で有り、親の子也。
十二分、子の素質を伸ばすと共に、子としての務めを尽せよと願ふのみ。         
                                         
終り

  昭和十九年四月二十九日

                                    
中元 淸 書

淸 進 殿 
じつゑ 殿                        

・・・

<参考Web:今日の靖國神社(2013年07月02日)
       → http://kyo-no-yasukuni.doorblog.jp/archives/30018014.html

           <感謝合掌 令和元年7月9日 頓首再拝> 
22:伝統 :

2019/07/10 (Wed) 18:33:34


遺書

陸軍兵長 安田 博命

昭和二十年七月一日
比島群島レイテ島
カンギポット山にて戦死

茨城県結城郡石下町出身
二十四歳


御両親様。
貮拾有余年の長年月、御世話にのみ相成りました。

博は今、大東亜建設の礎石(そせき)として、命を君国に捧げます。

何等孝養とて尽さぬ事多く、先立つ不孝の罪を御許し下さい。

但し、軍籍に身を投じたからには、
自分としては今日の事は、既に覚悟の上であります。

御両親様、博の戦死を聞いても、決して御嘆き下さいますな。
世間にはまだく不幸な境遇の人達が、どの位あるか判りません。

そして、まさ子や悦子の事は、呉々も宜敷く御願ひ致します。

博は決して卑怯な死に方はせぬ積りですから、それのみは固く信じて下さい。

では、桜咲く靖国での対面を胸に従容(しょうよう)として、祖国に一命を捧げます。

親戚、近所へ宜敷く願ひます。


 博
 御両親様

・・・

<参考Web:靖國神社 明日からみたままつり(2012年07月12日)
       → https://ameblo.jp/tokinbiyori/entry-11300543572.html

           <感謝合掌 令和元年7月10日 頓首再拝> 
23:伝統 :

2019/07/11 (Thu) 19:29:35


戦地からの葉書

陸軍兵長  倉本 和三郎命

  昭和十九年七月十三日
  中国湖南省邵陽縣(しょうようけん)白鶴舗にて戦死

  京都府京都市東山区出身 三十五歳


其之(の)後ハ、御無沙汰シテ居リマス。

家内一同、変リハ無イデスカ。
又、子供等ハ達者デアルカ。
百姓仕事ヤ、工場仕事モ大変忙ガシイ事ト思ヒマス。

出来ル丈(だけ)気張テ働クノガ、銃後(じゅうご)ノ務(つと)メデス。

寒ク成ッテ来マシタカラ、風邪ニカカラヌ様注意。
又、火ノ用心ニ特ニ気ヲ付ケル事。
村ノ務メヤ、交際ハ十分ニナサイ。

ペントナイトノ状況ハドウカ。
機械ノ調子ハウマク行クカ。
稲ノ取入モ近ヅイテ来マシタ。大イニ努力セヨ。

自分ハ、非常ニ元気デ御奉公シテ居リマス。
奥田吉造殿ニ宜敷云テ呉レ。
スベテノ事ハ尋ネナサイ。

自分ヲ何ヨリモ大切ニセラレ度(た)シ。


・・・

<参考Web:靖国神社 と みたままつり(2011/07/10 23:59)
 → https://devlin.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2011-07-10

           <感謝合掌 令和元年7月11日 頓首再拝> 
24:伝統 :

2019/07/12 (Fri) 18:31:06



御両親様


陸軍准尉 望月 敏雄命

昭和二十年七月一日
比島レイテ島
カンギポット山にて戦死

神奈川県横浜市出身

                 
敏雄も
天皇陛下の御為に命を捧げる時が参りました。

二十八年間の 海よりも深く山よりも高き御高恩厚く御禮申し上げます。

私無き後は ひで子に 萬一 子無くとも何時迄も
御両親様のお側に置き 可愛がって下さる様お願ひ申し上げます。
 
では御両親様 末永く御壮健でお働きあらん事をお祈り申し上げます。

天皇陛下萬歳

昭和十九年八月二十日

敏雄

御両親様

<参考Web:靖国神社 (平成22年7月17日) …みたままつり
→ https://devlin.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2010-08-01-1

           <感謝合掌 令和元年7月12日 頓首再拝> 
25:伝統 :

2019/07/13 (Sat) 19:24:16


大好きなお母さん


陸軍中尉  伊賀 新太郎 命

昭和十九年七月十六日
比島ルソン島北方海域にて戦死

東京都淀橋区出身 二十六歳


お母さん、新太郎の大好きなお母さん。

笑って下さい。
決して泣かないで下さい。
新太郎は堂々と闘ったのです。

大部分はお母さんの御手柄であります。
 
新太郎の行動の後にはお母さんの優しいお姿が何時も付いて居て、
新太郎を励まして下さったのです。

美しい名も無き野花の真中に打ち伏すとも、
キラくと銀色に輝く南海の藍(あい)の底に眠るとも、
新太郎はお母さんの懐(ふところ)の中に眠るが如く安らかに眠ります。

何も話をしなくともお母さんのお顔を見て居る丈(だけ)で
新太郎は何時も満足でありました。

御心尽しのお守札は最後迄私の傍(そば)にあります。
何も書けません。
お母さん、新太郎の大好きなお母さん、
たくさんの一人息子を国に捧げた人もあります。

強く明るく生きて下さい。
お祈り致します。

伯父様の後に続きます。
私共の後に続く者の強き足音が聞えて参ります。
日本は必ず勝ちます。

大日本帝国万歳

天皇陛下万歳
  

新太郎
御母上様

・・・

<参考動画:みたままつり 2009 靖国神社
      https://www.youtube.com/watch?v=NqRsc--bJLM >

           <感謝合掌 令和元年7月13日 頓首再拝> 
26:伝統 :

2019/08/01 (Thu) 19:17:29


遺詠


陸軍伍長 京 直衛 命

昭和ニ十年ハ月十七日
満州吉林省 陶家屯駅北方にて戦死

秋田県能代市大町出身
二十九歳



  大君に召(め)されて征(ゆ)くや益荒男(ますらほ)が
             草むす屍(かばね)何か惜しまん


  子の親となりて強し吾(わ)が母の
             尊き愛の心にぞ触(ふ)る


  身はたとひ広野(こうや)の果(は)てに散(ち)ろうとも
             捧げた命(いのち)何か惜しまん


                          京 直衛


   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝> 
27:伝統 :

2019/08/02 (Fri) 19:19:13


誠教(しげのり)君へ


陸軍大佐 横田庄三郎 命

昭和17年1月3日
中華民国湖南省長沙付近にて戦死

鳥取県気高郡大郷村出身 46歳


ダイ一ガッキ セイセキハ タイヘンヨクデキ
オトウサンモ ヨロコンデヰマス 四日モケッセキシタノハ
ビヤウキデヤスミマシタカ スキナナツヤスミモスンデ
マタ ガクカウガ ハジマッタデセウ ダンダン
スズシクナリマスカラ ベンキヤウモシ ウンドウモセネバ
ナリマセン オトウサンノキズモ スッカリナホッテ
ゲンキデハタライテヰマス サヤウナラ

八月十七日

              オトウサンヨリ

誠教君

           <感謝合掌 令和元年8月2日 頓首再拝> 
28:伝統 :

2019/08/03 (Sat) 19:34:30


永へに皇国を護らむ


陸軍中尉  青木 輝雄 命
昭和十九年八月二十一日
トラック諸島夏島にて戦死
長野県下高井郡中野町出身 
二十四歳



大君の命(みこと)かしこみ大船の
  行きのまにまに仇撃ち征かむ


大命にもとづき勇躍征途に就く
男子の本懐、是に過ぐるものなし

生死、勿論戦場の常
生くべきは生き、死すべきは死す
何ぞ恐るるに足らむ

若し万一の事あるも、我靖國の杜にありて
永へに皇国を護らむ

墓標は、つとめて小たるべし
書籍なども一般に不必要のもの多かるべし
よく暹(のり)殿と相談の上、これ等は国民学校に寄贈

以て我が志を国民教育の上に生かされたし
皇国の弥栄を祈りて擱筆(かくひつ)す

紀元二千六百四年四月大吉日
              輝雄

父上様

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/8054a319f9e57163a336612a7eb96027 )

           <感謝合掌 令和元年8月3日 頓首再拝> 
29:伝統 :

2019/08/04 (Sun) 19:48:33


遺言状

陸軍大尉 岡 研磨 命 

昭和十九年九月二十一日
西部ニューギニア方面にて戦死
福井県福井市手寄上町出身 四十七歳



人生草露の如し。

今栄ゆる御代に会ひ、醜の御楯となる本懐これに
過ぐる事なし。

母上に対し孝養足らず。
遺族の幸福を願ひつつもその及ばざりしは余の不徳なり。
深くこれを謝す。

人生の行路平坦ならず。
一同力を合はせ御国の為
勇往邁進(ゆうおうまいしん)せよ。

吾、御身等の身辺にありて必ず守護せん。

・・・

<参考Web:美しく 樹つる 石が根(2016-08-01)
       → http://chan75.hatenablog.com/entry/2016/08/01/233722 >

           <感謝合掌 令和元年8月4日 頓首再拝> 
30:伝統 :

2019/08/05 (Mon) 20:18:18


天皇陛下の御為に

陸軍曹長 木 崎 徹 治 命 
昭和二十年一月三日
フィリピンミンドロ島にて戦死

埼玉県北葛飾郡豊野村出身 
二十三歳


天皇陛下の御為に、米英撃滅の決戦の大空に悠久の大義に就かんとす。
男子の本懐此れに優(すぐる)無し。

長年の御教訓に遵(したが)ひ死所を得たる徹治は幸福者です。
貧苦の中にも良き御教育の道を戴き有難うございました。

徹治戦死の報あるも決して悲しんで下さるな。
一日も早く病全快せられ、御母様共々末長く達者で御暮らしの程御祈り致します。

彰介は立派な人間にして下さい。
小生の貯金其の他は、弟妹等の教育費に御使用願ひます。

兄上木崎家の更隆を切に御願ひ致します。
弟妹達仲良く身体を大切に勉強して立派な人間になって
孝養を盡(つく)すを怠るな。

嗚呼(ああ)、大東亜永遠の平和確立の暁を見よ快なる哉(や)。
                             

             徹治
父母様
兄弟妹様

           <感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝> 
31:伝統 :

2019/08/06 (Tue) 18:54:41


遺書

海軍兵曹長 庄司猛夫命

昭和十九年十一月二十一日
フィリピン東方海面にて戦死

福島県岩城郡内郷町出身 
二十七歳


我今より我が大日本帝国の決戦場に向ふにあたり一言遺言す。

我もとより戦場に向ふに心残りなし。

今大君の御為、大和民族の盾となれるを喜ぶ。

家人よ嘆く勿れ、むしろ祝すべし。

我が家にも名誉の戦死の記されることを地下より喜ぶ。
二十六年の間、海よりも深き父母の恩に報い得ざるは、残念なり。
残る弟妹達、兄たる小生の分も孝行されたし。

節子よ、兄の墓は敵の重艦で大きく立派なものだ。
此の海を今にお前たちが船に乗って通ることもあるでしょう。

兄は喜んで見上げるよ。
母さんに孝行、父の言を守り弟妹共の指導をたのむ。

(後略)

昭和十八年一月十日

           <感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝> 
32:伝統 :

2019/08/07 (Wed) 17:52:06


自分ノナマヘカケマスカ


海軍上等水兵 吉田 勝 命

昭和十九年八月十日
マリアナ諸島方面にて戦死

東京都北区田端町出身
三十六歳


明子チャン、大変ニオリコウサンニ、ナッタサウデスネ。
オ父サンハ、ヨロコンデヰマス。

ヨク通子トモ遊ンデヤルトノ事。
オヂイサン、オバアサン、オ母サンノ云フコトヲヨクキイテ、
マスく良イ子ニナッテ下サイ。

オ父サンモ、ココカラ元気ニ、ヘイタイサンニナッテ、見テヰマス。

塗絵タイヘンヨクデキマシタ。
モットモットカイテ、ナニカヒトリデ、カイテ下サイ。

自分ノナマへカケマスカ。
マダムリデスカ。

マタ、オモシロイハナシヲ、タクサンキカセテアゲマス。

通子、順子ニモヨロシク。

サヨナラ


父ヨリ

明子チャン

           <感謝合掌 令和元年8月7日 頓首再拝> 
33:伝統 :

2019/08/08 (Thu) 20:02:06


立派に軍人の本分を尽す覚悟であります


海軍一等機関兵曹 柳澤幸信命

昭和十九年八月十日
マリアナ諸島グアム島にて戦死

徳島県徳島市矢三町出身 二十一歳


拝啓。
初秋の頃と相成りました。

其の後、お父さん始め御一同様には、何のお変りもなくお過しの由、何よりと存じます。
降って、小生も日々元気旺盛、軍務に精励致してゐます故、他事乍ら御休心下さい。

お願ひして御座居ました品物及び千人針、お守確かに受取りました。
いざと言ふ時には、この千人針をしっかりと腹に巻き、
立派に軍人の本分を尽す覚悟であります。

もう故郷の方も稲の穂も頭を下げ、お祭の近づいた事を見せてゐる事でせう。
小生も去年は、内にゐて御馳走をたんまり食べましたが、今年はもうだめですね。
ハ・・・。

それから、尚もう一つお願ひがあるのですが、家内一同写した写真がありましたら、
一枚お送り下さいますか。
もう半年、家内の者の顔を見ぬと一人淋しくなります。

では、今日はこれくらいでお別れします。
向秋の折、御一同様呉々もお体大切に。 又後便にて

幸信

懐かしい 御一同様へ

           <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝> 
34:伝統 :

2019/08/09 (Fri) 19:50:00


しっかり頑張りなさい

海軍軍属(学徒)  立川絹江命

 昭和二十年八月二十三日

 原子爆弾のため本籍地にて戦傷死
 佐賀県杵島郡橘村出身 十九歳


安ちゃん。

お手紙ありがたう。

もっと早く返事書かうと思ってゐましたが、
なかくひまがないのでこんなにおそくなってしまひました。
ごめんなさいね。

皆がおりこうさんで暮してゐるので、
お父さんも姉ちゃんも非常によろこんでゐます。

これからも、もっとくヨイコになってお母さんのお加勢し、
お父さん達を安心させなさいね。

それから尚男ちゃんの病気はなほりましたか。
永い間下痢したのなら、やせてしまったでせう。
どんなにしてるかしらと心配です。

邦子ちゃんはどうしてゐますか。
もう大分(だいぶ)おしゃべりになってることでせうね。

安ちゃん。もう学校に行ってゐるとのことですが、学校はいかがですか。
なれないうちはいやな日や、つらいこと等あるでせうが、
もう一時(いっとき)してるとだん々々おもしろいやうになりますよ。

武雄の人に負けぬやうしっかり頑張りなさい。
それには毎日くたとへ少しの時間でもよいから、
机に向って予習復習をかかさぬ様になさい。

毎日の予習復習を立派にすれば学校の勉強はどんくおもしろく進みますよ。

安ちゃんは今からが一番大切な時ですから、
分らぬところは勝さんや、望ちゃん、照ちゃん等にきいてしっかり勉強しなさい。

姉ちゃんも戦争に勝ち抜くまではうんとがんばる覚悟です。
ではお元気でおくらしなさい。

安ちゃんへ                          
さやうなら

           <感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>
35:伝統 :

2019/08/10 (Sat) 19:22:57


謹みて靖国神社の神霊に申す


陸軍憲兵軍曹 近 藤 巖 命

昭和二十年八月十九日
東京九段靖国神社にて責任自決

愛知県出身 二十二歳


謹みて靖国神社の神霊に申す

本日復員の命下れり。
皇國の必勝を信じ、護持の大任を完(まっと)ふされし
靖国の神霊に何と申し上ぐべきや。

只、吾が責務の完(まった)からざるを思ひ、此処に一死以て詫びんとす。

陸軍憲兵軍曹 近 藤 巖



遺言

謹みて御両親様に申し上げます。

本日復員の命下り、帰郷の余儀なきに至りました。
真に無念に存じます。
多くの戦友に先立たれ、軍人の本分を完(まっと)ふせず、
今更何んで帰られませう。

巖の胸中、お察し下され。

武人として、又、自己の信念の大道を進むべく、此処に死を決します。

お許し下され。

生を受けてより此の方、二十四年有余。

此の間の御両親様の御辛労、深く深く感謝致します。
後に残りし弟二人、立派に御薫陶の上、
皇國護持の為に尽さしめられたくお願ひ申し上げます。

折角御自重遊されたく。

昭和二十年八月十八日



御両親様

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/6d9d276361604a2b41d0c46d92a9adb0 )

           <感謝合掌 令和元年8月10日 頓首再拝> 
36:伝統 :

2019/08/11 (Sun) 19:09:50


お母様の膝下に帰ってゆきます


陸軍中尉  藤井 冨一 命

昭和二十年八月六日
沖縄方面にて戦死

奈良県生駒郡安堵村出身 二十五歳


(前略)

永い永い二十五年間心配ばかりをおかけして、
一時として安心させる様なことの出来なかったことが
何よりも心残りであります。

せめて一時でも安心させたかった。

しかし、冨一も一人前の男になりました。
今こそ最後の御安心をさせる秋が寸前に迫り、喜び勇み居ります。

(中略)
 
今更、何も思ひ残す事はありません。
ただ感謝、喜び勇んで敵撃滅の決戦の空に、真一文字に征きます。

お母さん、祝って下さい。
 
お母さん、たとへ私の身体が帰って来なくても、
心は必ずお母様の膝下に帰ってゆきます。
あのうるはしい山に包まれた故郷の空へ帰ってゆきます。

そして、皆様と一緒に日本を守りませう。

(後略)
    
冨 一

お 母 様

           <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝> 
37:伝統 :

2019/08/12 (Mon) 19:15:58


遺 書

陸軍歩兵中尉 立山英夫命

昭和十二年八月二十二日
歩兵第四七聯隊
支那河北省辛荘附近にて戦死

熊本県菊池郡隈府町出身


若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は 
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず 

己れ生あるその中は 子の身に代らんこと思ひ 
己れ死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ 

あゝ有難き母の思 子は如何にして酬ゆべき 
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人 母とかしづき母と呼ぶ 

貴きえにし伏し拝む 母死に給ふそのきはに 泣きて念ずる声あらば 
生きませるとき慰めの 言葉交はして微笑めよ 

母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば 
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ 


お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん

           <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝> 
38:伝統 :

2019/08/13 (Tue) 20:31:05


愛児に遺す言葉

陸軍大尉 都子野 順三郎 命

昭和二十三年八月二十一日 東京巣鴨にて法務死
愛媛県出身 四十六歳


辞世の歌


己が身のおぼえなきこと聞かるれど

  いかに答へん言の葉もなし


差入れの煙草見るなり涙ぐみ

  妻の心のいとど嬉しき


父逝きて今又吾の極刑を

  受けしを聞けば妻はなげかむ


靖國のみ魂と共に吾も亦

  幾世をかけてみ國護らむ


聖戦にこの命をば捧げしが

  時を得ずして今ぞ我逝く


                 (抜粋)
-------------------------------------------------------------------------

(『英霊の言乃葉』第四輯/P87-88 収載)

           <感謝合掌 令和元年8月13日 頓首再拝> 
39:伝統 :

2019/08/14 (Wed) 18:50:35


         *Web:致知出版社(2019年08月13日)より

第2次世界大戦末期、祖国日本、そして愛する人を守るために、
沖縄の海に消えていった陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の若者たち。
戦後70余年が過ぎたいま、特攻隊の若者たちに現代人が学ぶべきものを、
知覧特攻平和会館の語り部を長年務めてきた川床剛士さんに語っていただきました。


《遺書が教える愛と感謝の大切さ》

(川床)

知覧特攻平和会館には、特攻隊員たちの大きな遺品室があり、
出撃戦死した順に遺影と関連する遺書や手紙を5千点ほど展示しています。

彼らの手紙や遺書を分類すると、特攻隊としての使命感に溢れたもの、
家族・愛する人への感謝の念、同僚への友情、現在の心境を綴ったものに
概ね分けることができます。

その中から、どういう思いで特攻隊員たちが飛び立っていったのかが
よく伝わってくるものをいくつかご紹介します。


1945年4月12日に出撃し、23歳で戦死された
福島県出身の穴澤利夫大尉には、将来を約束した智恵子さんという婚約者がいました。

穴澤大尉が最期に書き遺した智恵子さんへのラブレターには次のような一節があります。

「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない。徒に過去の小義に拘る勿れ。
あなたは過去に生きるのではない。
勇気を持って、過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。

智恵子、会ひ度い、話し度い、無性に。
今後は明るく朗らかに。自分も負けずに、朗らかに笑って征く」


智恵子さんは、穴澤大尉が戦死された4日後にこのラブレターを受け取りました。
ラブレターの最後に「智恵子、会ひ度い、話し度い、無性に」とあります。
これが穴澤大尉の本当の心だったのだと思います。

このような悲しみを2度と繰り返してはなりません。



宮城県出身の相花信夫少尉は、少年飛行兵として1945年5月4日に出撃し、
18歳で戦死されました。相花少尉には8歳ほど歳の離れた兄がおり、
4歳の時に母親が病気で亡くなっています。

父親は子育てが大変だということで、相花少尉が6歳の時に再婚。
兄は新しい母親にすぐに馴染んだのですが
、相花少尉は実の母親への思いが強くなかなか親しくなれませんでした。

しかし、その相花少尉が、
出撃する前日に新しい母親に次のような遺書を認めました。

「母上御元気ですか。永い間本当に有難うございました。
我六歳の時より育て下されし母。継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく、慈しみ育て下されし母。
有難い母 尊い母。俺は幸福だった。

遂に最後迄『お母さん』と呼ばざりし俺。
幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意志薄弱な俺だったろう。

母上お許し下さい。
さぞ淋しかったでしょう。

今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん、お母さんと」


家族に向けた遺書はたくさんありますが、
ほとんどが母親に対する思いであり、父親のことはあまり出てきません。

昔の父親は本当に厳しく、間違ったことをすれば口よりも
手や足が早く出る近寄り難い存在でした。


その一方で、母親は父親に言えないような子供たちの不平不満を、
優しく包み込むように諭してくれました。

また、戦前の貧しい生活の中でも、
母親は自分の食べ物を子供たちに与えて懸命に育ててくれたものです。


特攻隊の青年、少年たちも、本当に自分に深い愛情を注いでくれたのは
母親だという思いがあったのでしょう。

彼らの遺書を読むと、いまを生きる私たちはどれだけ母親、
家族に対して日々感謝をしているだろうか、
大切にしているだろうかと思わざるを得ません。


それから、1945年5月24日に戦死された愛知県出身の久野正信中佐。
彼は爆撃機の機長で、年齢は29歳、4歳の男の子と2歳の女の子を持つ
よき父親でもありました。

久野中佐は子供たちに向けて片仮名の遺書を綴られています。
おそらく、幼い子供たちに少しでも早く父親の思いを伝えたいと、
国民学校で最初に学ぶ片仮名を選ばれたのでしょう。

「正憲、紀代子ヘ 父ハ スガタコソミエザルモ イツデモオマヘタチヲ見テイル。
ヨクオカアサンノイヒツケヲマモツテオカアサンニ 
シンパイヲカケナイヨウニシナサイ。

ソシテオオキクナツタナレバヂブンノスキナミチニススミ 
リッパナニッポンヂンニナルコトデス。
ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。

『マサノリ』、『キヨコ』ノオトウサンハ、
カミサマニナツテフタリヲヂット見テヰマス。
フタリナカヨク ベンキョウヲシテオカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。

オトウサンハ『マサノリ』、『キヨコ』ノ
オウマニハナレマセンケレドモフタリナカヨク シナサイヨ(後略)」


母と子、父と子……親子の情愛や絆の尊さを教えてくれるのも、
特攻隊の遺書の大きな特徴です。

https://www.chichi.co.jp/web/20190812_kawatoko_takeshi/?utm_source=willmail&utm_medium=email&utm_campaign=ningen_20190813 )

           <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝> 
40:伝統 :

2019/08/15 (Thu) 18:58:14


           *『「永遠の0」と日本人』小川榮太郎・著より

(1)特攻隊とは何だったのか。
   重過ぎる問いである。
   世界の戦史に全く例を見ない。

(2)特攻は十死零生である。
   この言葉は「九死に一生を得る」という成句に由来する。

   言うまでもなく、ほとんど助からぬ命を助かることを言う。

(3)戦争の終盤、優秀な搭乗員は次々に戦死している。
   パイロットたちは、戦争の続行が困難になり始めていることは
   肌身に感じられる。

(4)彼らは愛する家族がいる。
   将来の夢がある。
   だからこそ、国を護りたいのである。

   だが、何ができるのか。

   戦争末期の若者たちが、どれほど居たたまれない思いで、
   命など捨ててやる、とにかく日本を何とかしなければという
   激烈な情念を抱いていたことであろう。

(5)500年後、1000年後の民族再興の灯として。
   特攻作戦を指揮した大西瀧治郎中将の真意を
   要約すれば次のようになるであろう。

   小田原参謀長の証言が元になっている。

   「日本にはもはや戦争遂行能力はないが、終戦工作は極めて困難であり、
    下手をすれば内乱により亡国に拍車がかかる。

    インディアンやハワイの運命を思うと、
    無為のままアメリカの本土上陸を許して占領されれば、
    おそるべき奴隷化政策になる可能性がある。

    終戦工作のために、最後に一戦でも勝ちたい。
    それには特攻しかない。
    がそれでも99%勝てない。

    だが勝てずとも、必死必中の特攻作戦は、
    若者の国を思う至情によって陛下の御心を動かし、
    終戦の御聖断が必ず下るであろう。

    その民族的記憶が、500年後、1000年後の、
    民族再興の灯となるはずだ」

(6)大西瀧治郎中将は、玉音放送の翌8月16日未明、
   自らの決断と命令の下で散華した全特攻隊員の後を追い、自決した。


   生前特攻隊員に向かい
   「諸君だけを死なせはしない。自分も必ず後を追う」
   と訓示した上官は多かったというが、自決した者は少ない。

   大西は生前そういう若者に媚びることは一切言わなかったという。

   西郷隆盛に本当に私淑した、豪の者だった。
   言い訳せず、若者の顔色など一つも見ずに
   特攻の命令を下し続けたその人が、
   死ぬべき時を過たず、間髪を容れず腹を切った。

   しかも大西は、駆けつけた者の介錯を拒んだ。


   大西の遺書は、全特攻隊員の遺文を受けて書かれた
   熟慮と断念と若者への激しい愛借の血で書かれた絶唱である。

   百遍の熟視、味読に値する。


            ・・・

   <参考Web:旧日本海軍中将・大西瀧治郎の遺書
          https://ameblo.jp/big-donkey/entry-11328680944.html >

・・・

<関連Web:『「永遠の0」と日本人』書評
       https://shins2m.hatenablog.com/entry/20140123/p1

・・・

特攻隊員は高き理想に生きた殉教者である~谷口雅春先生
 令和元年8月号「生命の教育」誌 参照
 *伝統板・第二「生命の教育 ⑤ 」
   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7865326
    <2019/08/08 (Thu) 04:56:44>

           <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝> 
41:伝統 :

2019/08/16 (Fri) 19:30:58

  
       *『日本人は、なぜ特攻を選んだのか』黄文雄・著より

(1)尊い犠牲が後世に遺したもの

  ①産経ニュース書評(2013.11.23)
     https://www.sankei.com/life/news/131123/lif1311230020-n1.html

  ②一条真也の読書館(2014.6.10)
     https://www.ichijyo-bookreview.com/2014/06/post-941.html


(2)私(著者)は戦争や特攻をいたずらに賛美したいわけではない。
   避けられるならば、戦争は避けたほうがいいに決まっている。

   だが、戦わざるをえない運命、そして負けることがわかっていても、
   命を賭して立ち向かわなくてはならない状況というものもあるはずだ。

(3)戦前の台湾で生まれ育った私にとって、
   「特攻」も「神風」も幼いころから耳慣れた言葉であった。

   この言葉を耳にするたびに想像したのは「勇気」と「責任」、
   そして「愛」、国へ、家族への愛である。

(4)もっとも戦術としての特攻については、
   「特攻の父」といわれる大西瀧治郎中将でさえ、
   「統率の外道」と語っており、

    実際に行われたのは大東亜戦争末期、おもに
    1944年10月のレイテ沖海戦と
    翌45年3~6月にかけての沖縄戦である。

(5)しかし、わずか1年間にも満たない特攻は、西洋人を驚嘆させ、
   日本人のイメージを大きく変えた。

   特攻を受けた米兵も、またそれ以外の西洋人も、
   これを行った特攻隊員に敬意の念を抱き、
   日本人にしかできないものだと論じた。

(6)死をもって国に殉じるという特攻隊員の精神は、
   それまで数百年にわたり西欧列強の植民地として屈従していた
   アジア各国の民族意識を高め、
   終戦後にアジア各国が独立する道を切り拓いたといっても過言ではない。

(7)特攻とは何だったかのか、なぜ日本人は特攻という道を選んだのか。

  ①英国の元陸軍大佐で戦史研究家のA・J・バーカーは、
   著書『神風特攻隊』において、このように述べている。

   「連合軍では、このような攻撃を非人道的、狂信的としながらも、
   神風特別攻撃隊員たちにたいしては、尊敬をはらっているのである。
   それはおそらく、彼らが特別攻撃で手痛い打撃を受けたためであろう」

  ②ビルマ(ミャンマー)の初代首相バー・モウも、

   「特攻隊は世界の戦史に見られない愛国心の発露であった。
   今後数千年の長期にわたって語り継がれるに違いない」

   と語っている。

   モウは、1944年11月末に台北にある特攻隊訓練基地を訪れ、
   隊員たちに作戦の成功と別れを告げている。

   ビルマに帰国後、特攻隊のことを人々に語ると、
   誰もが畏敬の念を抱いたという。

  ③もちろん、こうした自らの命をなげうっての攻撃は、
   西洋人には理解不能であった。

   だが、その西洋人の常識を根底からひっくりかえしたのが、
   フランス人ジャーナリストのベルナール・ミローだった。
   彼は、こうした西洋人の理解に対して、次のように述べている。

   「ほんのひとにぎりの狂燥的人間なら、
   世界のどの国だってかならず存在する。

   彼ら日本の特攻隊員たちはまったくその反対で、
   冷静で、正常な意識をもち、
   意欲的で、かつ明晰な人柄の人間だったのである」

   「これらの調査(戦後の特攻隊に関する調査報告)のほとんど全部が
   一致して報告していることは、
   特攻に散った若者の圧倒的な大多数のものが、
   各自の家庭にあっては最も良き息子であったということの発見である。

   きわめて稀な少数の例外を除いて、
   彼らのほとんどは最も愛情深く、高い教育を受け、
   すれてもひねくれてもいず、生活態度の清潔な青年たちであった。
   そして両親に最も満足を与えていた存在だったのである」(ベルナール・ミロー)

  ④戦後、フランス第五共和国の情報相、文化相を務め、
   『人間の条件』『空想美術館』などの著書で文壇の巨人として活躍した
   アンドレ・マルローも、特攻について次のように語っている。

   「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、
   そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。
   それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。

   日本の特攻隊員たちはファナチックだったろうか。
   断じて違う。

   彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。
   祖国を憂える貴い熱情があるだけだった」


・・・

<関連Web:伝統第二「大東亜戦争を振返る」
       http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6571721

      ①特別攻撃隊(2015/08/18)
      ②世界が語る神風特別攻撃隊(2015/09/02)

      ③大東亜戦争は東洋民族を解放する聖戦であった(2018/12/08)

           <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝> 
42:伝統 :

2019/08/17 (Sat) 19:04:05


         *『硫黄島・栗林忠道大将の教訓』小室直樹・著より

(1)硫黄島の戦いは、占領したアメリカをもってして、
   「勝者なき死闘」と嘆ぜしめるほどの大激戦だった。

(2)私が長年大東亜戦争を研究してきた結果、
   軍人として最も尊敬するのは、

   陸軍にあっては、栗林忠道大将、
   海軍にあっては、山口多聞中将、

   である。

(3)今こそ硫黄島について、
   大東亜戦争について学ばねばならぬことが沢山ある。
   戦争を起こさないようにするためにこそ、戦史を学ぶのである。

(4)栗林中将は全将兵に対し、
   細々とした「師団長注意事項」を通達している。

   「将校も兵隊も同じもものを食べ兵士の栄養状態に気を配ること、
    そして工事中は上官が見回りに来ても敬礼する必要なし」

   これは軍隊にあって全く異例の通達である。
   栗林中将は自ら率先してこれを実行、

   「予は常に諸子の先頭に在り」

   と兵士の士気をあげて合理的かつ効率的に戦闘準備を進めた。

(5)海兵隊はアメリカ軍でも特に勇猛なことで知られている。
   その兵士全員が、さらに考えられないほどの勇気を絞らなければ、
   硫黄島の日本兵と戦えなかったのである。

   このことは、日本にとって、そしてアメリカにとって
   大きな意味を持つことになった。

(6)アメリカは歴史こそ短いが、歴史教育には、徹底したものがある。

   国家としてのアイデンティティを育成し、
   現在そして将来にその教訓を生かすため、
   必死になって歴史の研究を行っている。

   かつて私がマサチューセッツ工科大学で経済学を学んでいたとき、
   MITの図書館には日本海海戦の全資料が完全な形で揃っていた。
   大変な驚きだった。

   日本海海戦を勉強しようと思ったらMITの図書館に通い詰めればいい。

(7)栗林中将は、騎兵中尉時代に機関紙に寄せた論文では、
   将校が「軍事以外の知識に著しく低級」であることを問題とし、
   下士官以下に対しても礼儀を失わず、
   身分人格を尊重して敬意を払うことを提言している。

(8)硫黄島において地下壕による複郭陣地作戦という、
   前例のない戦いを行った想像力と実行力は、

   栗林中将が「軍事以外の知識の著しく低級」な軍人とは、
   一線を画していたことを物語る。

(9)硫黄島でのすさまじい損害がアメリカ本土で報じられると、
   米国民から激しい非難の声が上がったが、一方、
   海兵隊の任務がいかに過酷であるかを広く知らしめることにもなった。

   それまで常に解散の危機と隣り合わせの存在だった海兵隊だが、
   擂鉢山に星条旗が立てられたとき、
   「これであと500年、海兵隊は安泰だな」
   と、
   フォレスタル海軍長官は傍らのスミス海兵中将の労をねぎらった。

・・・

<参考Web>

(1)伝統板・第二「人の上に立つ者に求められること①」
   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456974
     栗林忠道(散るぞ悲しき) - 2015/05/11


(2)伝統板・第二「歴史のひとコマ① 」
   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456077
     極限の戦場の総指揮官・栗林忠道中将 - 2015/08/08


(3)光明掲示板・第三「英霊の言乃葉Ⅱ」
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=28
     栗林忠道陸軍中将の遺言 2014年10月11日
       
           <感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝> 

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