伝統板・第二

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(六月)紅白むすぶ(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/05/31 (Fri) 03:39:42

光明掲示板・第二 消滅により、
「(六月)紅白むすぶ」の伝統板・第二への再掲示です。



美と価値と生命

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より

柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」といちいち
自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。

褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。

褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

           <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

日本精神(大和の心) - 伝統

2019/06/01 (Sat) 03:44:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より

視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。

それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。

日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。

一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。

先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。

           <感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>

善き言葉を駆使する術を知らねばならぬ - 伝統

2019/06/02 (Sun) 03:44:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月3日)」より

「知力も直覚も語(ことば)によって構成せられ、またそこなわれる。
善き語(ことば)、悪しき語は知力と直覚とをあるいは構成し、あるいはそこなうがゆえ、
十分語を選択する術(すべ)を知らねばならぬ」とパスカルは言っている。

言葉の暗示の力は、智力を増し、直覚を増す。
祈りが学業成績に影響するのは当然なことである。

子供の学修を指導しつつある父母がすぐ焦(じ)れてきて
「子供の頭の悪さ」に不平を言うがようなことでは、
その子供の学業成績は挙がるものではない。

           <感謝合掌 令和元年6月2日 頓首再拝>

法律上の夫婦に、理念の夫婦の顕われを観る - 伝統

2019/06/03 (Mon) 03:31:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月4日)」より

心で愛し合っている男女と、愛していないが法律上夫婦であると記載されている男女と
どちらが真実の夫婦であるのかとはよく訊かれるところである。

厨川白村式な「自由恋愛観」の上では、心で愛し合っている男女の方が本当の夫婦であり、
愛し合っていぬ法律上の夫婦などは、形式の夫婦であって、本当の夫婦ではないと思われて
いたけれども、本当は法律上の夫婦こそ本当の夫婦であるのである。

法律上の夫婦を形式的なものと見ているのは、実相を知らぬものである。

宇宙はコトバによって造られている。
法(ほう)は宇宙の大法がその時その処その人における時処相応の相(すがた)において
顕現したのであるから、コトバが肉体としてあらわれたのが法律上の夫婦である。

法律上の夫婦は宇宙意志が定め給うた理念の夫婦の顕われと観るべきものである。
それが本当に好きになれないというのは、神が一対の男性と女性とに創造(つく)り給うた
実相を見ないからである。

本当に神が造り、そして与えたまうた実相の配偶を見るときは、たといその配偶の現象の姿が、
乞食の姿をしていようと、醜い顔をしていようと唯一無ニの「自分の半身」そして
「自分のすべて」であるところの相手を見出すことになるであろう。

そこから油然(ゆうぜん)と本当の夫婦愛が生まれる。
法律に登録されていない夫婦はすみやかに届け出て宇宙の大法が
時処相応にあらわれたる一対になることがよいと思う。

法的な何ものもない単なる好きな相手だということは
五官の快楽の惑わしにかかっていることがあるものである。
だから単に好きな相手だというだけで身をまかせたりしたあとで捨てられる女性は多い。

法的な許しが出たあとでないと、いくら好きな男性でも身を委(まか)すべきではない。

           <感謝合掌 令和元年6月3日 頓首再拝>

悦びを語り、心の日記をつける - 伝統

2019/06/04 (Tue) 03:48:52


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より

生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。

天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
 ―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。

人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、

言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。

黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。

自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。

           <感謝合掌 令和元年6月4日 頓首再拝>

生活が本当になったとき心が落ちつく - 伝統

2019/06/05 (Wed) 04:23:45


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。
ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月5日 頓首再拝>

人間は神の子、減らない生命と財とを与えられている - 伝統

2019/06/06 (Thu) 02:17:46


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月6日 頓首再拝>

無限に恩返しをする - 伝統

2019/06/07 (Fri) 04:30:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月8日)」より

恩を受けて返さない感じがしている間は人間は落ち着けぬ。
とり得の感じがしている間は落ちつけぬ。

恩を返したときの感じほど楽しい感じはない。
恩着せがましい態度に出られても、
どれだけでも無限に素直に恩を返しうる感じは無限のよろこびである。

もうこれだけ恩を返したらおしまいだという感じは卑怯な感じである。
恩を無限に感じ、そして無限に恩返しする力が滾々(こんこん)と湧いてゆく感じは
また格別である。

孝ならんと欲するところに父母はいまさずという諺(ことわざ)がある。
恩を返せる財力ができたときに恩人がいないことがある。

いつでも恩を返すことが必要である。
実力で恩を返す力がなくとも、感謝の心を起こすことそのことがすでに報恩である。

実力ができたとき、実力で恩を返す。
実力がまだ備わらないとき、感謝の心で恩を返す。

実力ができたときに恩人がもうこの地上にいないとしたら、
国のため世のためにつくすことによって恩を返すがよい。

自他は一体だから。

           <感謝合掌 令和元年6月7日 頓首再拝>

創造(つく)り出すことが喜び - 伝統

2019/06/08 (Sat) 04:28:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より

人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。

体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。

自分の持物が少ないといって嘆くことはない。

釈迦はあたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。

ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。

生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。

生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。

人間が神の子であるのは事実である ―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、自分の方法で、自分の理論で
「神の子」を生み出そうとするのである。

「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。

           <感謝合掌 令和元年6月8日 頓首再拝>

「不足」ゆえにこそ感謝しなければならない - 伝統

2019/06/09 (Sun) 03:24:05


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月10日)」より

すべてがすでに与えられて、
もう生み出しの必要のない世界にいるほど退屈なことはない。

「不足」を不平に思う人は、
「不足」をこのゆえにこそ感謝しなければならないのである。

           <感謝合掌 令和元年6月9日 頓首再拝>

働き(活動)の中に人間の本当の幸福がある - 伝統

2019/06/10 (Mon) 03:52:56


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、次の瞬間その幾億万円を眼界から
消し去って「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」と宣告しても
われらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」とわれわらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。
金を自分で使うのが幸福であるならば、なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、毎日自分で多数の商家を訪問して歩かねば幸福に
なりえないであろう。しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。
金はたくさん持っているということが幸福ではなく、それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても幸福になんの関係もないものなのである。
ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。
猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神」は「生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月10日 頓首再拝>

神の真が自分の中に生きている - 伝統

2019/06/11 (Tue) 03:10:56


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

           <感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>

心の拳(こぶし)を開く - 伝統

2019/06/12 (Wed) 04:26:56


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」と不平に思う人は、
そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という存在はどこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから
神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。

「甲はまだ無我になっていない。
善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」
と祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。

相手の心に「我(が)」を握らせておいて、
神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>

安田氏の『般若心経』現代語訳 - 伝統

2019/06/13 (Thu) 04:18:32


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月14日)より

安田良忍氏は仏教僧侶であり、生長の家誌友であり、一ヵ寺の住職であり、
生長の家の誌友会をお開きになっている。

死骸にお経をあげるをもって能事足れりとせず、
生ける人間に説法してこれを教化するのを本職としていられる。

この安田氏から『般若心経』の現代語訳を送って来られた。
その翻訳は次の通りである。

これで完璧だとは思わないが、せっかく送って来られたから
参考のため日記に写しておくことにする。


   無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
   我今見聞得受持 願解如来真実蔵

「実相訳 摩訶般若波羅蜜多心経」

観自在菩薩  深般若の智を獲(え)たまい、人の真性は仏なるがゆえに無礙自在なり、
人々おのおの観自在菩薩なりとの悟りを行得したまいて、
その自覚により現象界は空なり無なりと照見し、いっさいの苦厄を済度したまうの時、
かくのごとく説きたまう―

汝仏の子よ、諦(あきら)かに聴け、色は空に異ならず、物質なし、
空は色に異ならず、無よりして一切を生ず、
色すなわちこれ空、有るように見えても実在せず、空すなわちこれ色、そのままに真空妙有なり。

感受するも、想うも、行なうも、識(こころ)の主体もまたまたかくのごとく、
有るがままにして空、無きままにして有(あ)るなり。


汝仏の子よ、この如来の法、実相は久遠の実在なれば生ぜず、滅せず、
無垢、清浄にして完全円満なれば、増せず、滅せず、
このゆえに実相には、色なく、受なく、想なく、行なく、識なし。

肉体なく、五官なく、五官に映ずる世界もなし。

光明世界なれば無明なく、無明の尽くることもなし。
久遠生き通しなれば老死もなく、また老死の尽くることもなし。

四諦(したい)によって悟るにあらず、そのまま安楽行なり。
智慧を磨きて悟るにあらず、つかむところの所得なくして、実相そのままに、円満具足せり。


神の子仏の子は実相智によるがゆえに、心にさし障(さわ)りなし。
さし障りなきがゆえに、吾れ仏の子の自覚にて恐怖あることなし。
恐怖なきがゆえに、いっさいの悩みをはなる、本来仏なれば涅槃を究竟(くきょう)す。


三世仏の子の兄弟は実相智によるがゆえに正しき悟りを得(う)。
まことに知んぬ。実相智はこれ神の御言葉なり。これ明智の御言葉なり。
これこの上なき言葉なり。これ等しきものなき無上言葉なり。

能くいっさいの苦しみを除く、真実にして虚(むな)しからず、ゆえに実相の御言葉を説く、
その言葉に曰く、羯締(ぎゃてい)みずから極楽にすでにあり。

羯締他(た)にもこれを覚らしめ、波羅羯締自他ともにこれを悟り、
波羅僧羯締皆ことごとく今ここ浄土にありて、
菩提僧婆訶覚りの道(みち)成就して歓喜に充ち満てり。


摩訶般若波羅蜜多心経。


願わくばこの功徳をもって普(あまね)く一切に及ぼし、
われらと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを ――。

・・・

谷口雅春先生による 『般若心経』のご講義 については、
当掲示板「伝統板・第二」内の”『般若心経』講義”にて
ご確認ください。

 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6995626

           <感謝合掌 令和元年6月13日 頓首再拝>

安田氏の『阿弥陀経』現代語訳 - 伝統

2019/06/14 (Fri) 04:40:14


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月15日)より

今日は、安田良忍氏の『阿弥陀経』の訳を紹介する。

聖経『甘露の法雨』を読誦すれば、それだけでよいはずであるけれども、
真宗などの人で、その家の老人が真宗の経文でなければ、どうしても救われないという
先入観念を握っていて離さない場合には、『阿弥陀経』を解りやすく訳したものの方が
その家の老人を喜ばし、一家を調和の状態に導き入れることができると思う。

実相訳というのは「実相」を通して解しえた『阿弥陀経』の意訳という意味であろうか。
良忍氏は「一宗一派にかたよった学者や専門家のために書いたのではないから、
その方面の方が見ればまちがっているかもしれません」と謙遜していられる。

こんなに解する真宗僧侶もあるのである。さてその訳 ――

如来を讃め奉る歌

   稽首天人所恭敬(けいしゅてんにんしょくぎょ) 
   阿弥陀仙両足尊(あみだせんりょうそくそん)
 
   在彼微妙安楽国(ざいひみみょうあんらくこく)
   無量仏子衆囲繞(むりょうぶっししゅういにょう)
 

  「実相訳 仏説阿弥陀経」

かくのごとくわれ聞けり。

ある時見真道場において、悟道に達せる聖(きよ)き弟子多く集まりて。
誌友の兄弟より指導者と尊敬せられたる人々なり。

釈尊を中心として、その衆囲には諸仏菩薩および、仏法守護の諸天、無量善神に囲繞せられたり。

その時釈尊(ほとけ)告げ給うには、仏子よこの現象世界の奥に実相世界あり、極楽と名づく。
そこに阿弥陀と名づけ奉る仏まします。今現に十方にひびきわたる音声(おんじょう)にて
説法したまう。

その国にはいっさいの苦しみあることなく、ただ諸々の楽しみのみがあり、このゆえに極楽という。


また仏子よ、その世界には、地には七重(ななえ)の欄干あり。空(そら)には七重の網あり。
中には並樹(なみき)が栄えたり。それには金銀、瑠璃、玻璃の宝玉をもって飾り立てあり。


また七宝の宝池(ほうち)あり。八功徳水(はっくどくすい)なみなみと満ちみてり。
池の底には金の沙(いさご)が敷きつめられたり。宝池(たからのいけ)の周(めぐ)りには
四宝を組み合わせたる階道あり。その上には楼閣あり。七宝をもってまばゆく飾り立てられたり。


池の中の蓮華大きさ車論のごとし。その華の色は青き色には青き光。黄なる色には黄なる光。
赤き色には赤き光。白き色には白き光あり。
その香りのよきこと綺麗なることとても現象界の言葉にては言い尽くし難し。


仏子よまた空(そら)には妙なる音楽鳴りひびけり。
大地はすべて黄金(おうごん)にて、昼夜六時に曼荼羅華を雨ふらす。


実相世界の人々は、その華をもって全宇宙の諸仏を供養し、
食事前に浄土に帰り、食事終われば宝林宝池の間を遊行す。
実相世界は、かくのごとき尊き荘厳なり。

また種々の奇妙なる鳥あり。昼夜六時に上品なる声にて鳴きさえする。
その声はあらゆる尊き教えの響きなり。


浄土の人々はその声を聞き終わりて。
悉く三宝の恩徳を念(おも)う心が自然に起こるなり。

しかし、仏子よこの鳥は現象界に見るがごとき、念(ねん)の具象化の現われにあらず。
この鳥は阿弥陀仏の御慈悲の現われなるがゆえに。実相世界には地獄、餓鬼、畜生などの
悪しき世界は実在せず。


また微風(みふう)そよ吹けば、宝の並樹、金銀の網の鈴。
百千の音楽鳴りひびき、たえなる音(ね)を出(いだ)しその音を聞く人は、
自然(じねん)に仏を念(おも)い教えにいそしみ、人々にありがとうと
ほめ讃える心を起こすなり。これもまた仏の覚りの顕われなり。

仏子よ彼仏(かのぶつ)の光明は限りなく、全宇宙を照らしたまうになんら障(さわ)りなき
がゆえに、阿弥陀と名づけ奉る。また彼仏(かのぶつ)の光明。百千万憶無量無数(むしゅ)の
光明と分かれ、そのいちいちの光明は個々の実相人間なり。


また無量寿仏の寿命およびその土(ど)に往生せる人の寿命も
無量無限にして始めもなく終わりもなし。

また仏子よ実相世界の人は皆同じ悟りなれど、極楽の秩序荘厳として菩薩声聞縁覚人天と
種々の相好(そうこう)あり、皆一味平等の仏そのままの実相にして
その数きわめて多く無限の長時間かかりても計り尽くすこと能わず。

彼土(かのど)はかくのごとく尊き聖者の群によって飾られたり。


仏子よ上(かみ)のごとき極楽の有様を聞く人々は、宜しく願いを起こして生まれんと念ずべし。
その国に生まるれば、かような勝れたる良き人々と一所に会うことができうるなり。


仏子よ人間知の浅はかなる計らいにては彼国(かのくに)にゆくこと能わず。
もし人ありて阿弥陀仏の仰せを畏(かしこ)み、吾仏の子なりと悟り、その名(みな)を信じ
称えて、あるいは一日ないし七日、あるいは生涯心を一つにして、散乱することなかれ。

かくのごとき時信の心さらにゆるがず、阿弥陀仏もろもろの聖者在(ましま)す
極楽世界に往生するなり。


仏子よ、わたしはこの利益(りやく)を見るがゆえにかくのごとく説く。
諸人(もろびと)よ真理の書を読みこのことを聞信し、
まさに願いを起こして彼御国(かのみくに)に往生せよ。


仏子よ、わたしが今阿弥陀仏の不可思議なる功徳利益(りやく)を讃美すると等しく、
東方、南方、西方、北方、下方、上方等の六方の無量の数限りなき諸仏が、おのおの
その国において大音声をもって、あまねく全世界を覆うて真実の言葉を語り給う。

なんじらこのすべての仏の護り讃えるこの教えを信ぜよと説かせらるるなり。

仏子よ、何(いか)んが故にあらゆる諸仏の念じ護らせ給う教えと呼ぶかと。
仏子よ、もし人この諸仏のほめ給う阿弥陀仏の御名とその教えを聞くならば、
彼らはいずれも諸仏にみまもられ正しき覚りより退(しりぞ)くことなし。

仏子よ汝ら一同わたしのこの教えと諸仏の御言葉とを信ずべし。


昨日も、今日も、明日も、御国に生まれんと欲(おも)わん人は今を生かせ。
いずれも皆正しき覚りを得て皆すでに生まれておるなり。


仏子よわたしは今諸仏が阿弥陀仏を讃うるとともに、またわたしを讃うる言葉を聞く。
現象としては時の流れに随(したが)い濁りは増し、邪見はみち、悩みは心を毒して
行い淨(きよ)からず、短命(たんみょう)を来たす。

この世界にあって釈迦は無上の正覚(しょうかく)を得て
いっさいの人の信じ難き教えを説くことかくのごとし。


現象を実在と観て実相を覚らざる人多き世の中に、わたしは今、
阿弥陀仏の御光を仰ぎ無上の正覚を得てすべての世にこの信じ難き教えを説きたるなり。


かかる世の中にこの教えを説くこと甚だ難きと言うべきなり。

釈尊この教えを説き終わらるるや。無量の諸仏菩薩。諸天大衆等。
歓喜し信受し合掌して退きぬ。

 仏説阿弥陀経

 南無阿弥陀仏(七遍)

 願わくばこの功徳をもって平等にいっさいに施し同じく菩提心を発して安楽国に往生せん。――


生長の家は何宗といえども排斥するものではないのである。
そのまま寺院の宗教も生かし、すべての宗教を仲よくならしめ、
万人和合の天国浄土を地上に建設せんとする運動である。

           <感謝合掌 令和元年6月14日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2019/06/15 (Sat) 04:37:54


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

           <感謝合掌 令和元年6月15日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2019/06/16 (Sun) 04:30:13


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 令和元年6月16日 頓首再拝>

言葉は、人生航海の舵 - 伝統

2019/06/17 (Mon) 04:07:02


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月18日)より

言葉が舵であって、人生の方向を定める。
言葉、言葉、言葉、言葉・・・・・
われわれの心に印象を深からしめるために「言葉」という字を繰り返し繰り返し書いておく。

船は船長の言葉の力でその方向に必ず進むのである。
船長はみだりにまちがった言葉を出すことはできない。
船長が「東」と言うのに、船が「西」に進むということはありえない。

では、われわれは「幸福」に人生を航海したいならば、「幸福」の方向にのみ
自分の「人生」を進めたいならば、われわれは自分の人生の船長であるから
「幸福」とのみ掛け声をかければよいのである。

「幸福」「幸福」とのみ毎日掛け声を掛けているならば、
必ず自分の「人生」は幸福の方向に進んで行くにちがいないのである。

「健康」「健康」とのみ掛け声をかめていれば、
必ず「健康」の方向にのみ自分の人生は進んで行くにちがいないのである。

それだのに「幸福」を切に求めながら、毎日「自分は不幸だ」と掛け声をかけたり、
呟いたりしている人があり、「健康」を切に求めながら、毎日「自分は虚弱だ」と
掛け声をかけたりしている人がある。

自分の運命について呟く人、自分の病身について呟く人はこういう種類の人であって、
その人がその生活習慣を改めないかぎり、本当に幸福と健康とは来ないであろう。

今現に不幸であっても「幸福」と言う人は、
西へ行こうとしている船が「東」と言う船長の言葉で「東」へ位置を変じはじめると同様に、
「幸福」の方向へ生活が転向しはじめるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月17日 頓首再拝>

否定的な言葉は打ち消しておくことが必要 - 伝統

2019/06/18 (Tue) 04:00:20


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月19日)より

「アダムの名づけたるところのものは、その物の名となれり」と
「創世記」にあるように言葉のとおりに事物はなるのである。

宇宙は感受力鋭敏なラジオ・セットのようなものである。
このラジオ・セットは言葉で放送したものを感受するほか、
心で放送したものを鋭敏に感受して、それを具体的可聴的可視的な存在とするのである。

自分の放送しないところのものは一つとしてこの世界に形を顕わさない。

妻を呪う言葉を出したときには、妻はやがてその呪わるべき形に変って来るだろう。
良人を呪う言葉を出したとき、良人はやがてその呪ったとおりの姿に現われて来るであろう。
自分の職業を呪い、境遇を呪うがごとき言葉は冗談にも発すべきではないのである。

もし過ってそんな言葉を出したならば、それと反対の言葉、
「善い良人だ」「善い妻だ」「自分の職業は良い職業だ」「自分の境遇は幸福な境遇だ」
というような言葉で打ち消しておくことが必要なのである。

           <感謝合掌 令和元年6月18日 頓首再拝>

業を飛び超える道 - 伝統

2019/06/19 (Wed) 04:37:25


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より

自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。

冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。

生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。


ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。

業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
 ―― そいう世界に入(い)るには

神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。

神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。

           <感謝合掌 令和元年6月19日 頓首再拝>

祝福せよ! - 伝統

2019/06/20 (Thu) 04:29:02


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月21日)より

他(た)を呪うかわりに祝福せよ。
祝福とは福(さいわい)を祈ることである。

すべての人間を祝福したとき、すべての人間から拝まれる者となるであろう。

「もし我れ仏とならんに、
国中のすべての天、人、安楽世界に生ぜずんば正覚をとらじ」

こう願った法蔵菩薩は
すべて人間天人の福(さいわい)を祝(いの)る者であったのである。

だから今はすべての人間から阿弥陀仏として尊崇せられるのである。

みんな自分が周囲へ与えたものだけを刈り取るのである。

           <感謝合掌 令和元年6月20日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2019/06/21 (Fri) 04:08:39


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。
今後必ず自分の耳を傾けて他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。
今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 令和元年6月21日 頓首再拝>

目覚めの言葉 - 伝統

2019/06/22 (Sat) 04:31:09


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月23日)より

朝目を覚ましたとき、その疲労感に捉われるな。
多くの病人は、半睡半覚状態における身体の《だるい》感じを
「病気の執拗(しつこ)いためである」と錯覚しているのである。

「身体(からだ)の《だるい》のは同じ姿勢で長く寝ていたからである」と信ぜよ。

そして

「今後自分には善きことばかりが来るのである。
自分は神の子であり、神に祝福されたるものであるから、
常にいっそう幸運は訪れ、常にいっそう健康になるのである」

と瞑目のまま低声(こごえ)をもって繰り返し念ぜよ。

必ずその言葉の力のとおりになるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月22日 頓首再拝>

実相を諦観せよ! - 伝統

2019/06/23 (Sun) 03:35:55

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、
未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり」    (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

            <感謝合掌 令和元年6月23日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2019/06/24 (Mon) 03:46:37


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

            <感謝合掌 令和元年6月24日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2019/06/25 (Tue) 04:27:30


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いてじっと2、3行見つめていると、
それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのはポンプの迎い水のようなものですねえ。

水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に纏めて
あるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

            <感謝合掌 令和元年6月25日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2019/06/26 (Wed) 04:44:59


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

            <感謝合掌 令和元年6月26日 頓首再拝>

神を招き入れる扉 - 伝統

2019/06/27 (Thu) 04:36:42


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月28日)より

神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。

心を開いて待つことが神を招く方法である。

明るい心、歓喜の心、愛の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。

            <感謝合掌 令和元年6月27日 頓首再拝>

今始める人だけが本当に事物を始めうる - 伝統

2019/06/28 (Fri) 04:41:49


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、いつの間にか纏まった感想集ができているのである。
気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 
との自覚で、現象的には余裕のない中から、気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。
日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 令和元年6月28日 頓首再拝>

キリスト釈迦も「使者(つかい)」 - 伝統

2019/06/29 (Sat) 04:39:33

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、教えの上では喇叭(ラッパ)であり、
結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、
使者(つかい)を信じなくとも使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」
(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、その黙示を伝えたキリストと
認められる霊姿の前にヨハネが平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。かくて見聞きせしとき
我(われ)これらのことを示したる御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、なんじ神を拝せよ』」と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと
解されそうになるのであるが、この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり
「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、釈迦の衆生救済の御心、
キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心はいずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 令和元年6月29日 頓首再拝>

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