伝統板・第二

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生命の實相 ③ - 伝統

2019/05/29 (Wed) 03:45:45

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないという理由で、また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って理論が透らないようなものは
頭から排撃してしまって、いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系をなしているのである。
この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は医者が一つの事実を肯定するに
用うるモルモットの実験頭数よりも多く、数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮
せしめるのであるから、宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

・・・

<関連Web>


(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「生命の實相 (226)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=67(消滅H28.11.25確認)

(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「『生命の實相』 (773) 」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=199

(3)「光明掲示板・第二」内スレッド「『生命の實相』 (122)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=58 (消滅)

(4)「光明掲示板・第三」内スレッド「『生命の實相』 (72)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=37

(5)「光明掲示板・伝統・第一」『生命の實相』 (51)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=32

(6)伝統版・第二「生命の實相①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6459727

(7)伝統版・第二「生命の實相②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7090507


           <感謝合掌 令和元年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2019/06/26 (Wed) 05:06:53


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いてじっと2、3行見つめていると、
それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのはポンプの迎い水のようなものですねえ。

水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に纏めて
あるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

            <感謝合掌 令和元年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統

2019/07/12 (Fri) 04:19:17


          *「光明道中記」(7月12日)より

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
自由自在に駆使し得るようになるのであります。 (『生命の實相』第七巻)】

四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてあると云うことを
私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、「大般若経」を一心不乱に
誦していると、その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、
作り話だと思っていたが、今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。

「姓名なんか訊いて何にするのです。姓名は本来空です。本性は変るものではありません」
「本性は、何と申すか」「本性は仏性(ぶっしょう)です」

少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。

            <感謝合掌 令和元年7月12日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2019/08/01 (Thu) 04:35:32


       *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月1日)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

           <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2019/08/03 (Sat) 04:42:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月3日)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

           <感謝合掌 令和元年8月3日 頓首再拝>

『生命の實相』を読むとき、神が目覚めしめられる - 伝統

2019/08/29 (Thu) 04:47:27


         *「神真理を告げ給う」(P16)より

あなたが『生命の實相』を読むとき、あなたの内にあって眠っていた
”わたし”の分身が、実相を語るコトバの力によって目覚めしめられる。


その程度は人によって異なるのであるけれども、
その目覚めの程度にしたがって、或いは病気が消えたり、
その人の経営する事業が、実相円満の展開として、
繁栄して来るなどの体験があらわれて来る。

人々によって、そのお蔭の種類や程度が異なるのは、
過去の善行の蓄積の相異や、精進努力の相違によるのであって
止むを得ないことである。

           <感謝合掌 令和元年8月29日 頓首再拝>

母懐かしさの心で、『生命の實相』を読む - 伝統

2019/09/02 (Mon) 05:01:14


        *「光明道中記」(9月2日《内在の念仏を聴く日》)より

【淋しき時には我を思え。我は汝らの為に祈るものである。(生命の實相第十一巻)】

(歎異抄十二条)

   他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(しょうぎょう)は、
   本願を信じ、念仏を申さば仏になる、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや。
   まことに、この理(ことわり)に迷へらんひとは、
   いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。

   経釈(きょうしゃく)をよみ学すといへども、
   教経の本意をこころえざる条(じょう)もとも不便のことなり。
   一文(いちもん)不通にして、経釈の端緒(ゆくち)も知らざらんひとの、
   となへやすからんための名号におはしますゆへに易行(いぎょう)と言ふ。


他力真宗と生長の家とは随分その救いの立て方が似ているのである。
真宗で「他力」と言うところを生長に家では「実相」と言う。
真宗で「念仏」と言うところを「『生命の實相』を読めと言う。

「他力」は「大信心」であり、「大信心」は「仏性」であり、
「仏性」は「実相」である。

「他力」に救われると云うことは
「念仏申す心」(実相)に救われていると云うことである。

『生命の實相』を読んで、その経釈が完全に出来るから救われると言うのではない。
盲目(めくら)の子でも母はそれに乳房を与えて救って下さっているのである。
どんな母であろうかと「知りたい心」は経文を解釈するような誇った心ではなく、
母懐かしさの心にすぎない。

           <感謝合掌 令和元年9月2日 頓首再拝>

如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ『生命の實相』の学がある - 伝統

2019/09/06 (Fri) 04:17:03


       *「光明道中記」(9月6日《信心極まる日》)より 

 【汝の信ずるごとく汝になるのである。(『生命の實相』第一巻)】

(歎異抄十二条)

   学問せば、愈々如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、
   卑しからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、

   本願には善悪浄穢(ぜんあくじょうえ)なき
   おもむきをもとききかせられ候(そうら)はばこそ、
   学生(がくしょう)の甲斐にても候はめ。

   偶々(たまたま)何心(なにごころ)もなく
   本願に相応して念仏するひとをも、学問してこそなんどと
   言ひ貶(おど)さるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。
   みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて、他をまよはさんとす。

   つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。
   かねて憐(あはれ)むべし、弥陀の本願に非(あら)ざることをと、云々。


茲には学問は学問を破摧するためにこそ学ぶべきであって、
学問を誇るがために学ぶなどということは
学問に捉われたものであることが示されている。

学すればするほど自分の醜い相(すがた)が眼に着いて来て
救われがたいなどと思う人には、こちらの学を以て
「弥陀の本願には浄穢(じょうえ)がない」と説破してやらねばならぬ。


『生命の實相』もその中の字句を甲是乙非と議論するためにとて
色々の諸学説が引用してあるのではない。

人間は救われ難しと色々の科学から結論している人々に
如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ『生命の實相』の学があるのである。

           <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

『生命の實相』読誦の功徳について - 伝統

2019/09/20 (Fri) 05:00:13


       *「真理」第9巻生活扁(P397~398)より

『生命の實相』を読んで病気が治る。
これは無数の礼状が実証するところである。

しかしこれは谷口雅春の功績ではない。

「わが神殿はすでに成れり、名づけて『生命の實相』と称(い)う」
と神は仰せられているのである。

『生命の實相』は 神がそのみ栄えを顕わしたまうための道具である。
其処に奇蹟を生ずるのである。

しかし、心が頑固でそこに書かれている真理を
素直に受け入れることのできない人には治病の奇蹟は起こらない。

神の力が及ばないのではない。

光は充ち満ちていてすらも、眼を瞑(と)じている人には
光を受け容れることができないと同じことである。

しかし、眼を瞑(と)じている人にも光があれば明暗ぐらいは分るのである。
明暗をたよりに、其処に光があることを自覚して眼を開けよ。

           <感謝合掌 令和元年9月20日 頓首再拝>

『生命の實相』を読んで悟っても、高慢な心を起こしてはならない - 伝統

2019/10/03 (Thu) 05:00:56


       *「真理」第9巻生活扁(P398~399)より
        ~すべては神の恩寵である。

『生命の實相』を読んで、
”病気本来無し!と悟りをひらいて病気の治る人もある。

しかしそれを、自分が偉いので自分の力で悟りをひらいたのだと
高慢な心を起こしてはならないのである。

神の恩寵なければ 人は 何事をもなしえないのである。

『生命の實相』も、神が人を救いたまう道具として書かしめられたのであり、
その人の「真理を悟る力」も神が与え給うたのである。

何処にも人間だけの力で為し得るところのものは存在しないのである。

神の恩寵を自覚しない人のみが、
自力で何でも出来るなどと高慢な考えを起すのである。

高慢な心を起こしたところが、恰もパイプの中の沈殿物のように、
神の恩寵の流入を不完全にするのである。

高慢な心を捨てることである。

無我になって神に無条件降伏した時にのみ、
神の恩寵は一層ハッキリ現れるのである。

           <感謝合掌 令和元年10月3日 頓首再拝>

『生命の實相』は繰り返し読むことが大切 - 伝統

2019/10/31 (Thu) 04:51:58

       *「幸福をひらく鍵」(P183)より抜粋

ものごとは知っているだけでは駄目なのです。

生長の家の本を一遍読んだら、それでいいということはないのです。
何遍でも読んで、そして心の奥底の潜在意識のまだその奥底までしみこんで、
人間生き通しということが解ったら、別に悲しむこともいらなくなるわけです。

『生命の實相』にそう書いてあったと知っているだけでは、
本当に識つているのではない。

だから本当に自分自身が識るためには、
何遍も繰り返して読まなければいけません。

           <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統

2019/11/26 (Tue) 04:56:01


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と
考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、「心」という
指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

           <感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>

毎朝、歯を磨くように、『生命の實相』の1ページで心を磨く - 伝統

2019/12/15 (Sun) 04:49:28


      * 『生命の實相』第一巻総説篇(P28~31)より抜粋

東西の経典は筆を揃えて、言葉に生命あり、言葉は必ず体を招き、
言葉はわれらに宿って肉体となることを説いています。

(中略)

言葉によってわれらは清くもなれば醜くもなり、
幸福にもなれば不幸にもなるのであります。

皆さんは毎朝歯ブラシで歯を磨かれるでしょう。
では歯よりも大切な心があることを自覚しなければなりません。

毎朝歯を磨くのにこの大切な心を磨かないのは不合理であります。

では、心をなにをもって磨くべきでありましょうか。
それは言葉によってであります。

皆さん、もし朝起きるとひと声《ばかやろう》と家族を叱咤したならば、
その日いちにち不愉快なことを自覚せねばならないでありましょう。

それは言葉が悪いからであります。

われわれが、自己の人生を幸福にし、家庭を明るくし、環境を良化し、
運命を改善しようと思うならば、毎日すくなくとも2、3回は
そのために作られたる善き、明るき言葉で心を浄め磨かなければ
ならないのであります。

それは実際我々にとって食事をとることよりも
なお絶対必要なことであります。

それは心の食事であります。

心に善き言葉を食して心を幸福にすれば、
肉体は健康化し、運命は良化するのであります。

この目的のために月刊雑誌『生長の家』は生まれたのであります。

(中略)

朝起きたとき、眠りに入る前、電車やバスの中暇な時間に
またお昼の休憩時間やこれから誰かに面会に行こうとする前に
この『生命の實相』の1ページがどんなに諸君の運命を幸福にするでありましょう。

           <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>

『生命の實相』 から宇宙経済の法則を学ぶ - 伝統

2020/01/09 (Thu) 04:57:54

 
          *『精神科学』(昭和59年2月号)より
            ~ 江上 修三

なぜ、『生命の實相』 が沢山の産業人の間で読まれるのでしょう。 
なぜ、企業人、経営者の自己啓発の参考書として読まれるのでしょう。 
なぜ人材開発や企業の活性化のテキストとして親しまれているのでしょう。

ここには、私たち一人一人の生命の本当の姿、本質が
あますところなく解き明かされているからです。 
これを読んで自己の無限の可能性と偉大さが自覚できるからです。 

また、この 『生命の實相』 には、宇宙の生命の創造力と、
その無限の働きの内容がわかりやすく書かれています。

私たちの生命の創造力は、実は宇宙大生命の創造力と一つなのです。 
宇宙大生命〈神の生命〉 の個性的自己顕現が私たち一人一人の生命なのです。 
この生命の偉大さを自覚し、生命の創造原理を生かすとき
私たちは創造性あふれる生活と仕事が出来るようになります。

 
また、『生命の實相』 には生命に関する一切の真理、生命円満完全の真理と
その生かし方が書かれていますから、あらゆる人生問題解決の鍵があります。 

ものごとには、みんな原理原則があります。 
「汝ら、真理を知らざるべからず。 真理は汝を自由にならしめん」 
と聖書にありますように、真理を知らない無知のために起った
困難や迷いや不調和や問題は、真理を知ることによって、
無駄なく解決されるのであります。

 
この 『生命の實相』 の真理を企業や職場や経営に生かすとき、
無限供給の真理、無限繁栄の真理となるわけであります。

(1)『生命の實相』 を愛読して、自分の生命の本質と無限の可能性を悟れば、
   すばらしい仕事が出来ます。 

   アイデア社長といわれた市村清さん、松下幸之助さんも、かつて 
   『生命の實相』 にふれた方です。 
   京セラの稲盛社長さん、またソード電算機の椎名社長さんも 
   『生命の實相』 の賛同者です。

(2)『生命の實相』 の中に伝授されている宇宙大生命と一つになる
   瞑想法なる神想観を毎朝夕実修することによって、
   私たちの個生命と宇宙大生命と一体融合の境地が開けます。 

   ここには、地上の現実界に生み出され顕現してくる、
   一切のアイデアとエネルギーがあります。 

   それにつながるとき、豊かなるアイデアマンになり、
   神なる大宇宙生命から豊かな生命力を受け、
   疲れを知らないエネルギッシュな仕事が出来ます。 

(3)『生命の實相』 の真理をよく勉強しますと、
   生命の創造の法則がわかります。 

   即ち、神なる宇宙大生命は自己黙想によって天地万物を創造されました。 
   従って人間は思うこと〈心に思い描くこと〉 によって、
   あらゆるものを創造します。 

   これによって私たちは必要なものを実現することが可能になります。 
   従って繁栄も富も仕事の完成も事業の成就も思うままになります。

(4)『生命の實相』 を勉強しますと、
   人間は神の子であり、神の無限の可能性を地上に実現するのが
   使命であるとわかります。 

   人間は神であるから、尊敬され、拝まれたいのです。 
   そこで人は何処に集るのか、人は何を買いにくるかがわかります。 
   人の魂の願いを知れば、人の心の流れがわかります。 

   人の心の流れに従ってお金も物も動くことを知れば、
   魂のマーケティング、人の心の願いのマーケティングが出来ます。 

   これに応えてあげられる商売は何時までも栄えるということになります。

(5)私たち一切の運命は私たち自身の責任であります。 
   私たちは如意自在の生命の創造力を神から与えられています。 

   その如意自在の生命の創造力とは宇宙の生命力であり、
   それを善用するのも悪用するのも私達の心の思うこと、語ること、
   見ることの自由にあります。 

   この自由によって、ふやすこともへらすことも出来ます。

 
『生命の實相』 を毎日読んで、
自らの 『生命の實相』 のすばらしさを自覚するとき、
あなたは無限の繁栄能力を我がものとすることが出来ます。

                
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p3.html
07/20/13

           <感謝合掌 令和2年1月9日 頓首再拝>

『生命の實相』は繰り返し読む - 伝統

2020/01/27 (Mon) 03:35:31


       *『幸福をひらく鍵』(P183)より

誰でも最初は、愛する人と別れたら悲しみが消えないけれども、
段々と薄らいでくるもの、そしてやがて消えてしまうものです。

また、ものごとは知っているだけでは駄目なのです。

生長の家の本を一遍読んだら、それでいいということはないのです。

何遍でも読んで、そして心の奥底の潜在意識のまだその奥底までしみこんで、
人間生き通しといふことが解ったら、別に悲しむこともいらなくなるわけです。

『生命の實相』にそう書いてあったと知っていゐるだけでは、
本当に識つているのではない。

だから本当に自分自身が識るためには、何遍も繰り返して読まなければいけません。

           <感謝合掌 令和2年1月27日 頓首再拝>

『生命の實相』は人事処三相応に説いてある、それに躓かぬものは幸いである - 伝統

2020/02/21 (Fri) 05:03:30


           *「光明道中記」(2月21日《躓かざる日》)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
                      (生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

           <感謝合掌 令和2年2月21日 頓首再拝>

《真理の書は何故幾度も読まなければならぬか》 - 伝統

2020/03/07 (Sat) 05:01:40


          *「真理」第9巻生活篇(P25~26)より

「人間・神の子・完全円満」と知っているだけでは
それは形の世界に実現し得ないのであります。

赤い絵の具はたしかにあると知っているだけでは、赤い色は画面にあらわれません。

『生命の實相』を読んで、「人間・神の子・完全円満」と知って、
もう万事わかったと、読むことを捨ててしまう人がありますけれども、
これは「赤い絵の具はある」と知っただけで、画面に赤い色を塗らない画家と同じことです。

真理の言葉を繰り返し読むことによって、
画面に「赤い絵の具」を繰り返し塗るのと同じで、
潜在意識面に「人間・神の子・完全円満」の観念を繰り返し塗ることになるのです。

若しそうしなかったならば、間断なく外界からやって来る
「人間は物質的肉体だ。死すべきもの、病むべきもの、老衰する者だ」と云う観念の暗示で
潜在意識がいっぱいに塗りつぶされ、その暗示の通りに老い病み且つ死するのです。

・・・

<参照Web:谷口雅春先生に帰りましょう・第二
       「真理の書籍を読む功徳   谷口雅春先生 」
        https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2855 >

           <感謝合掌 令和2年3月7日 頓首再拝>

『 生命の實相 』は 全身全霊で読む - 伝統

2020/03/23 (Mon) 04:57:34


       *『 生命の實相 』第3巻生命篇(P98)より

何故(なぜ)吾々が 「 生命の実相 」 の扉(とびら)をひらく時、
医術などでは 到底及ばない 驚くべき自然癒能が発揮されるかと申しますと、
人間は 本来、神の子としてつくられているという真理を見出すからであります。

人間の本質は 神であり霊的存在である。
「 神なる人 」 こそ人間自身の実相であります。

自由自在の霊性(れいせい)こそ
人間自身の本来の面目(めんぼく)であります。

われらの本来の面目は 神 本来の面目にひとしいのでありますから、
われらは 自己の全存在のすみずみまでも完全であり、万徳円満であり、
自由自在で 不悩不苦(ふのうふく)であるはずであります。

この真理を知ることは、人をして、
あらゆる束縛から解放せしむることになるのであります。

しかもこの真理は、人の生命(せいめい)の実相に穿(うが)ち
入(い)る者には、誰でも知ることができるのであります。

人の生命(せいめい)の実相に穿(うが)ち入(い)るには
これを霊的に理会(りかい)する事が必要であります。

頭で真理を理会(りかい)するということは、
真理の周囲をどうどう廻(まわ)りして
真理の外的な すがたを知るに過ぎませんが、

霊的に真理を理会するということは、
「 生命(せいめい) 」 の実相そのものに
全身全霊をもって貫(つらぬ)き入り、
力の本源をつかむことになります。


全身全霊をもって、生命(せいめい)の実相に貫き入るには、
この書(『生命の實相』)を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、
黙読(もくどく)する、朗読(ろうどく)する。

目で読み、声で読み、声のリズムのなかに
自分を溶(と)かし込(こ)んで読む、


そして静かに端座(たんざ)して「神想観」を行(ぎょう)じ、
行じ終(おわ)って動き出すとき 神 ( 愛 ) の生活を活(い)きる、
かくする時、智慧(ちえ)と愛とのそろった生活が実現するのであります。

           <感謝合掌 令和2年3月23日 頓首再拝>

《運命における栄養不良》 - 伝統

2020/04/16 (Thu) 03:28:20


        *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)
          第6篇(P167~168) より

若しあなたが非常に少(すくな)くしか神誌・聖典を読まず、
非常に少くしか神想観を行わないならば、

“無限”の栄養ある食物を与えられながら、
それを少ししか咀嚼せず、少ししか消化せず、
少ししか吸収同化しないようなものであって、
誠に残念な事だと言わなければならないのである。

若し食物の栄養分を吸収同化することが十分でないならば、
その外的表現としてあなたの肉体が痩せて来るのと同じように、

若しあなたが内在“無限”の宝庫から充分のアイディアや能力を
消化吸収同化することをしないならば、その外的表現として
あなたの運命が痩せて来ることは当然だといわなければならないのである。

しかも気の毒にも、その運命の悪い人は、
何故自分の運命が悪いのかその理由を知らぬ場合が多いのである。

 
そのような運命の栄養不良の人たちは、
肉体の栄養不良の人たちが何か間食を求めたり刺激物を求めたりするように、
内部の“無限”から汲むべきことの代償として、肉体的五官の快楽で、
一時(じ)の衰弱感をまぎらそうとすることになるのである。

           <感謝合掌 令和2年4月16日 頓首再拝>

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である - 伝統

2020/05/29 (Fri) 04:34:37

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないという理由で、また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って理論が透らないようなものは
頭から排撃してしまって、いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系をなしているのである。
この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は医者が一つの事実を肯定するに
用うるモルモットの実験頭数よりも多く、数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮
せしめるのであるから、宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

           <感謝合掌 令和2年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』は、神が人を救いたまう道具として書かしめられた - 伝統

2020/06/22 (Mon) 04:48:20

        *「真理」第9巻生活篇第14章(P398~399)より
          ~《すべては神の恩寵である》

『生命の實相』を読んで”病気本来無し”と
豁然と悟りをひらいて病気の治る人もある。

しかしそれは、自分が偉いので自分の力で悟りをひらいたのだと
高慢な心を起してはならないのである。

神の恩寵なければ人は何ごとをも為し得ないのであり、
『生命の實相』も、神が人を救いたまう道具として書かしめられたのであり、
その人の”真理を悟る力”も神が与えたもうたのである。

           <感謝合掌 令和2年6月22日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2020/06/26 (Fri) 04:42:52


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いてじっと2、3行見つめていると、
それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのはポンプの迎い水のようなものですねえ。

水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に纏めて
あるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

            <感謝合掌 令和2年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』は、ただ真理を説いているだけである - 伝統

2020/07/05 (Sun) 04:41:12


          *「光明道中記」(7月5日《臭味を脱却する日》)より

【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】 

「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。

「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。

「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。まだ病気が治りませぬ」と言うのも
「識(し)る」方の側である。

まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。
功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。

人を救っても無心にして救うようでなければならない。
『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

            <感謝合掌 令和2年7月5日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統

2020/07/12 (Sun) 04:55:22


          *「光明道中記」(7月12日)より

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
 自由自在に駆使し得るようになるのであります。 (『生命の實相』第七巻)】

四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてある
と云うことを私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、「大般若経」を一心不乱に
誦していると、その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、
作り話だと思っていたが、今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。

「姓名なんか訊いて何にするのです。姓名は本来空です。
 本性は変るものではありません」

「本性は、何と申すか」
「本性は仏性(ぶっしょう)です」

少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。

            <感謝合掌 令和2年7月12日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2020/08/01 (Sat) 04:37:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月1日)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

            <感謝合掌 令和2年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2020/08/03 (Mon) 04:36:18


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月3日)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

            <感謝合掌 令和2年8月3日 頓首再拝>

《真理の書は何故幾度も読まなければならぬか》 - 伝統

2020/08/23 (Sun) 04:32:42


          *「真理」第9巻生活篇(P25~26)より

「人間・神の子・完全円満」と知っているだけでは
それは形の世界に実現し得ないのであります。

赤い絵の具はたしかにあると知っているだけでは、赤い色は画面にあらわれません。

『生命の實相』を読んで、「人間・神の子・完全円満」と知って、
もう万事わかったと、読むことを捨ててしまう人がありますけれども、
これは「赤い絵の具はある」と知っただけで、
画面に赤い色を塗らない画家と同じことです。

真理の言葉を繰り返し読むことによって、
画面に「赤い絵の具」を繰り返し塗るのと同じで、
潜在意識面に「人間・神の子・完全円満」の観念を繰り返し塗ることになるのです。

若しそうしなかったならば、間断なく外界からやって来る
「人間は物質的肉体だ。死すべきもの、病むべきもの、老衰する者だ」
と云う観念の暗示で潜在意識がいっぱいに塗りつぶされ、
その暗示の通りに老い病み且つ死するのです。

            <感謝合掌 令和2年8月23日 頓首再拝>

『生命の實相』の学 - 伝統

2020/09/06 (Sun) 04:51:59


       *「光明道中記」(9月6日《信心極まる日》)より抜粋

 【汝の信ずるごとく汝になるのである。(『生命の實相』第一巻)】


『生命の實相』もその中の字句を甲是乙非と議論するためにとて
色々の諸学説が引用してあるのではない。

人間は救われ難しと色々の科学から結論している人々に
如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ『生命の實相』の学があるのである。

            <感謝合掌 令和2年9月6日 頓首再拝>

他(ひと)のために、『生命の實相』を読む功徳 - 伝統

2020/09/26 (Sat) 03:01:27

    *『生命の實相』第8巻 観行篇(P191~192、観行篇最終頁)より

感謝行は同時に深切行である。
ひとのために尽したならば自分の生命力が減る
と思うのは迷信にすぎない。

信徒某氏は眼病の中でも最も難症だと言われている網膜剥離症に罹っていられて、
聖典『生命の實相』の細かい活字を読むのに、
自分のために読むのだったら、一ページ半も読めば、
眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。

それだのに驚くなかれ、他(ひと)の病気を癒してあげたいと思って
『生命の實相』を他(ひと)に読んで聞かせる段になると、
一時的にその眼疾が癒ってしまって、
連続四、五十ページを読んでも眼に痛みを感ぜず、
読後また眼の疲労を少しも覚えないのである。

 
『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、
他(ひと)の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。

自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、
自分のためでない所に自他一体の無限の悟りに到達する。
まだ病気が顕われているのは働きに利己主義の心持が混るからである。

自分の病気が治ったら他(ひと)を救ってあげようと思っていては機会がなく、
他(ひと)を救っている間は病気は治っているのである。

永久に他を救っていれば、永久に病気はない。

            <感謝合掌 令和2年9月26日 頓首再拝>

人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統

2020/11/26 (Thu) 04:54:18


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より

病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。

肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。

「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と
考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。

肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、「心」という
指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。

だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。

常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。

こうして心が原因で病気に罹っている人をカール・メニンジャー博士は
『人間の心』の中で釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。

魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で<魚發>で一字としてとらえてください)

『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。

石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と書いていた。

文章即宗教と言われる所以である。

            <感謝合掌 令和2年11月26日 頓首再拝>

『生命の實相』哲学による運命好転 - 伝統

2020/12/14 (Mon) 06:51:03


        *『白鳩』(昭和42年12月13日の法語)より
          ~《読書による運命好転の原理》

『生命の實相』を読むように勧めると、自分の著書であるから、
それによって何らかの利得を私が得るためにするのだろうと
誤解する人があってはいけないので、

その印税は財団法人生長の家社会事業団の児童福祉事業である
『神の国寮』の維持経営費に全部寄付して使われることを
明らかにしておきたい。

著書それ自身が奇蹟をあらわして往ったために、
著書それ自身が宗教になったのは世界唯一の生長の家独特の
宗教発祥のあり方であったのである。

『生命の實相』の哲学又は宗教思想は日本よりも海外で
一層みとめられて、その人類光明化の価値と功績とにより私は
アメリカの色々の大学又は学院から哲学博士等四つの学位を
授けられているのである。

中にもアーネスト・ホルムス博士を創始とする
リリジアス・サイエンスの宗教哲学の考え方と
この『生命の實相』哲学とは殆ど全くよく似ているので
しっかりと吾々の団体と手を握ったのである。

アーネスト・ホルムス博士の大著である『心の科学』は
『生命の實相』の哲学に匹敵するものであり、

それは一巻に収めるにはあまりにも大著であるので、
三巻にわけて和訳することにし、訳文完成の遅速の結果、
最初一昨年その第二巻が出版されて好評を博したが、
最近その第一巻の和訳が完成して出版された。

『生命の實相』の副読本として読んで頂けば、
また別の新しき 〃言葉の力〃 によって潜在意識に
運命好転の真理を印象することになると思う。


読書で運命を好転させるのは、必ずしも『生命の實相』に限らない。
法華経の如来壽量品を読んでもよいし、般若心経を読んでもよい。

あなたの潜在意識の中に潜んでいる在来の「不幸、不運、病弱」の
懸念が中和され、駆逐され、浄化されれば、あなたは幸福、幸運、
繁栄等を自分の生活に実現することができるのである。

私は『心の科学』第一巻の訳文を読んでみたが非常によく訳され
内容が咀嚼されていて、第二巻を持っている人も、この際第一巻から
揃えて読み直せば一層の光明の人生哲学がよく理解でき
運命好転に資すると思うのである。
 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

            <感謝合掌 令和2年12月14日 頓首再拝>

真理を知るには - 伝統

2021/01/04 (Mon) 04:34:48


        *『生長の家』(昭和22年12月号)より

「如何なる言葉も、伝えんとする真理を完全に表現出来ない。 

 完全なる真理でないものは虚偽である。 
 人は虚偽の言葉を表現することによって辛うじて
 自己の伝えんと欲することを表現するのである。 

 されば言葉は沈黙にまさり、沈黙は言葉にまさるのである。 

 事物は存在すると同時に存在しない。 

 有であると同時に無である。 

 全宇宙にはただ一つのものがある。 
 それは創造者にして同時に被造物と現れ、
 心的存在にして物的表現をもち、善であると共に不善である ・・・・・」

これはエマースンの論文の一節である。 

真理を知るためには、文字そのものに捉われず、
行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。

釈迦は四十年説法して「一字不説」と云い、
禅宗では「言詮不及・不立文字」と云う。 

不立文字と云いながら数千数万言を長口舌するもの禅であり、
世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して「説法終れり」と云う。 

われ既に生命の實相を説いてあますところなしと雖も、
いまだ一字も説かず、これから、益々長口舌を揮わんとする所以も
爰にあるのである。

言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。 
共に真理にして真理にあらず。 

黙して神想観して天地の啓示を受け
沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。 

不言にして多言、多言にして不言。 

真理は無にして有、有にして無。 

説いて説かず。 

聴き方上手読み方上手が必要である。
              
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p14.html
November 30, 2013, 2:56 pm

          <感謝合掌 令和3年1月4日 頓首再拝>

「生命の實相」の真理に徹底する - 伝統

2021/01/08 (Fri) 04:27:27


        *「人間無病の原理」(P12~13)より
          『生命の實相』新修版第一巻より再録

だから自己の全身を霊々妙々完全なる霊的存在だと観ずる
「生命の實相」の真理に徹底すれば病気が随伴的に治っても不思議はない。

しかし「病気を治そう」と云う前提で、本書を読む場合には、
心に病気をとらえていて「この病気を如何にせんや」と
精神統一することになるから却って効果がないことがある。

私は諸賢がただ無我になって、「然り、然り」と頷くような気持で、
あまり小理屈を思い浮かべることなしに一応全巻を唱えられんことを
望むのである。

本書は約二〇年前に初版を出したものだが、
その間に無数の難治症が全快したと云う治験の礼状を受けた部分である。

実相は不変であるから今も書き直す必要を私はみとめなかった。
ただ、記述中に出て来る人物の中には、境遇の変わった人もいるから、
「先日」とある所を「ある時」と直したり、
「何々をしている人」とあるのは「当時何々をしていた人」
と云う風に直したりした。

が、そのほかには、最近の医学の発達と抗生物質の発見について
言及した点が全く新しいのである。

なお、「七つの光明宣言」は現在生長の家教団の宗教法人規則に
登載されているものとは多少異なるが、
創刊当時の宣言を保存して置くことは歴史的由来を明らかにする上に
必要であるから、当時のままにして加筆しなかったのである。

   昭和二十八年八月一日

             (『生命の實相』愛蔵版第一巻序にも輯録)

      <感謝合掌 令和3年1月8日 頓首再拝>

文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である - 伝統

2021/01/21 (Thu) 06:37:34


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より

病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。

《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。

心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。

しかも今までの医学は、その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。

患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。

読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが『生命の實相』である。
これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。

ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。

学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、
人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。

    漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる

病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。

病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。

      <感謝合掌 令和3年1月21日 頓首再拝>

『生命の實相』を読み、伝える - 伝統

2021/02/02 (Tue) 02:53:02


       *(ニ月の神示)【自他一體の神示】前半より

『生命の實相』を讀んで自分だけが眞理を悟つてそれで善いと思ふものは
まだ“生命の實相”を悟ったものではない。

眞理は自他一體のものであるから、ひとに傳へるとき、
其處に『結び』の力が發現するのである。

『結び』は愛の力、慈悲の力、神の力、佛の力である。

これを日本古道ではムスビ(産靈)と言ひ、ムスビによつて醸生(神)の力、
即ち生々化育の力が發現して來るのである。

だから『生命の實相』に書いてある通りのことを病人に愛の心で話してあげれば、
ただ、話をするだけで病氣が治るのである。
話が下手なら『生命の實相』の中で『光明の眞理』のところを、
本の由來を話してから讀んで聞かせてもよい。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
2018/02/04 (Sun) 03:19:34

      <感謝合掌 令和3年2月2日 頓首再拝>

『生命の實相』を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する、朗読する。 - 伝統

2021/02/20 (Sat) 04:43:31


            *『生命の實相』第三巻生命篇(P98)より
            *『生命の實相』第四巻生命篇(P2)より

なぜわれわれが「生命の実相」の扉をひらく時、
医術などではとうてい及ばない驚くべき自然愈能が発揮されるかと申しますと、
人間は本来、神の子としてつくられているという真理を見出すからであります。

人間の本質は神であり霊的存在である。
「神なる人」こそ人間自身の実相であります。
自由自在の霊性こそ人間自身の本来の面目であります。

われらの本来の面目は神本来の面目に等しいのでありますから、
われらは自己の全存在のすみずみまでも完全であり、万徳円満であり、
自由自在で不悩不苦であるはずであります。

この真理を知ることは、
人をして、あらゆる束縛から解放せしむることになるのであります。

しかもこの真理は、人の生命(せいめい)の実相に穿(うが)ち入る者には、
誰でも知ることができるのであります。
人の生命の実相に穿ち入るにはこれを霊的に理会する事が必要であります。

頭で心理を理会するということは、真
理の周囲をどうどう廻(めぐ)りして真理の外的なすがたを
知るのすぎませんが、

霊的に真理を理会するということは、「生命(せいめい)」の実相そのもの
に全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむことになります。

全身全霊をもって、生命(せいめい)の実相に貫(つらぬ)き入(い)るには、
この書(『生命の實相』)を頭で読もうとせず、
全身全霊で読む、黙読する、朗読する。

目で読み、声で読み、声のリズムのなかに自分を溶かし込んで読む、

そして静かに端坐(たんざ)して「神想観」を行(ぎょう)じ、
行じ終って動き出すとき神(愛)の生活を生きる、かくする時、
智慧(ちえ)と愛のそろった生活が実現するのであります。

      <感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>

『生命の實相』は両方面から書いてある。躓かぬものは幸いである - 伝統

2021/02/21 (Sun) 02:49:38


           *「光明道中記」(2月21日《躓かざる日》)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
                        (生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、
「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

      <感謝合掌 令和3年2月21日 頓首再拝>

『生命の實相』を繰り返し読む - 伝統

2021/03/08 (Mon) 03:20:47

        *「生命の實相」第4巻第5章(P101)より

谷口 ――

聖典を読むということは、覚えてしまったらもう読まなくてもよい
というようなものではないのです。

これは仏教のお経でも、神道の祝詞でも、キリスト教の賛美歌でも、
この『生命の實相』でも同じことです。

お経でも、賛美歌でも、言葉に出して唱えるところに、
そこに言葉の力で、自分の心のなかと、
この大宇宙のなかに善き精神的リズムを生み出す

   ―― それが肝心なのであります。

「言葉」に出すと申しましても、必ずしも「音読」しなければならぬ
というわけではなく、黙読もまた言葉です。

ともかく、読んでいるその時に起こる心のリズム「精神波動」が
大切でありまして、真理を読めば真理の精神リズムが発生し、
それにしたがって迷える霊魂に悟りを開かせ、

神および高き霊魂を招き寄せ、病的観念を退散せしめて、
病気が治ることになるのであります。

だから、もう原理を知ったなら、記憶したなら、読まなくてもよい
という訳のものではありません。

      <感謝合掌 令和3年3月8日 頓首再拝>

真理の書籍(『眞理』及び『生命の實相』の本)を読む功徳 - 伝統

2021/03/28 (Sun) 05:02:58


       *「栄える生活365章」(P291~292)より
        ~真理の書籍を読む功徳

私たちは、一定の形式による「 真理の念 」の放送のほかに、
常に「 悪は本来ない 」という真理を書いた聖経・聖典を
読むようにしなければならない。

読んでいる時は、そこに書かれてある「 真理 」を必ず「 思う 」のであるから、
その時間中「 真理 」の念を放送しつつあるのと同様の効果があるのである。

だから『眞理』及び『生命の實相』の本を繰返し繰返し読むことは、
自己の潜在意識の悟りのためになるばかりでなく、
宇宙の潜在意識を悟らしめるために貢献するのである。

それには扉の裏から最後のページに至るまで真理の言葉が充満しているのである。
それは生命(せいめい)のパン種(だね)であり、真理の水であり、
キリストの葡萄酒であり、観世音菩薩の如意輪であり、
住吉大神(すみのえのおほかみ)の持ちたまえる如意宝珠である。

「我(われ)に来るものは渇かず、飢えず、
 永遠(えいえん)の生命(せいめい)を自覚して、空の星の如く輝かん」
である。

         <感謝合掌 令和3年3月28日 頓首再拝>

『生命の實相』が感謝を引き出し、癒しを成就する - 伝統

2021/04/21 (Wed) 03:40:16


        *「善き人生の創造」第七章
           「健康のため心理学」(P100~103)より

<人間の体質と云うものは実は心質である>

皮膚に傷をしても自然に内部から肉がもち上がり
新しき皮膚が構成されて行く其の神秘がわかれば、
人間の内部にあってすべての肉体の欠損を癒してくれる
神秘的力を了解することが出来るのであります。

しかしその内部の癒す力が速やかに働く人と、
なかなか容易に働かない人があるのであります。

第二次大戦中、呉の海軍病院に入院していた人で、
脚に弾丸を受けてその脚を膝関節の所から切除した人がありました。
その切口からどうしても中から肉が持ち上がって来ないのであります。

軍医はその傷口が化膿して来るのを見ますと、
その部分を切り取って新しい瘡面とし、
消毒して黴菌の侵入を防止し、
其処から肉芽の発生を促す方法を度々繰返しましたが、
どうしても肉があがらないで化膿してくるのであります。

この化膿現象と云うものを
貴方は黴菌の外部からの侵入だとお考えになりますか。

あなたは牛肉や鶏肉や魚肉がどんなに古くなって
黴菌が無数に外部から侵入して腐敗して来ましても化膿する
と云うことを御覧になったことはないでしょう。

化膿すると云う事は生命あっての現象であって、
死んでいる肉体には起らない現象でありますから、
其処に生命が働いている現象だと云わなければならないでしょう。

生命が働いているのに、
甲に於いてはその生命力が治癒力となってあらわれ、
乙に於いては化膿や糜爛となってあらわれるのは
どう云う譯でありましょうか。

それには何らかの原因が生命力の働く方向又は姿を変化するものだと
云わなければならないでしょう。


<心の変化で瘡面が急速に全治した事実>

人間のひとりひとりは生命力の働きに可成り一定の傾向性と云うようなものを
備えているものであります。

或る人はどんな栄養分をとっても下痢してしまって痩せていますし、
或る人はそれ程栄養ある食物をとらないのにぶくぶく肥えています。

傷が出来ても直ぐ治る人もあれば、
直ぐには治らないで必ず化膿するような人もあります。

これを普通人は「体質」と称するのでありますけれども、
これは体質と云うよりも「心の傾向」であります。
「心の傾向」を変化すれば体質が変化して来るのであります。

先に書きました海軍病院の隻脚切断の患者について見ましても、
この患者は自分が負傷したことについて国家を恨んでいました。

自分が戦地へ往っている間に妻は脊椎カリエスになって臥床していまして、
自分が戦地から帰って来ても病院へ見舞いにも来ることが出来なかった。

それについて妻の心境をも疑って、彼の心の中には、
じめじめした悲しみと憤りと恨みの感情とが一杯になっていたのでした。

その感情が肉体の血液循環に影響し、内分泌に変化を起し、
じめじめした漿液を瘡面から分泌せしめて、
黴菌に繁殖しやすい状態を惹起し、

「憤り」は心の一種の「インフラメーション(炎症)でありますから、
それが肉体にあらわれては瘡面に炎症を惹起し、
怨みの心は其処に具象化して、呪わしい嫌らしい腐乱状態を
呈せしめていたのであります。

これを単に外傷又は切断部に於いてのみ起る現象だと思ってはなりません。

それは肺臓に於ける炎症又は黴菌の寄生(肺炎、肺結核等・・・)や、
胃腸に於ける炎症又は潰瘍なども其の人の心の状態によって
黴菌の寄生し易い状態を誘起して起るのでありますから、

若し前記の人の外傷又は切断面の瘡面が心の変化によって
速やかに治癒することが出来れば、肺臓や胃腸に於ける糜爛、炎症、結節等も
心の変化によって速やかに変化するものだと云うことを知らねばなりません。


さて前記の隻脚切断の人の夫人は一時脊椎カリエスで寝ていましたが、
たまたま知人から『生命の實相』を読むことを勧められ、
それを精読するに従って、心に変化を生じ、

脊椎カリエスから立ち上がって海軍病院へ見舞いに来て、

自分が『生命の實相』を読むことによって癒されたことを良人に告げ、
良人にも『生命の實相』を読むことを勧めて、
それを一冊枕頭に置いて帰ったのであります。

するとその患者は妻が置いていった『生命の實相』を読んだのです。

そして「天地一切のものに感謝せよ」と云う教えに触れた。

環境も運命も自分の心の反映として起るものであって
他の人や他の者を恨むべき性質のものではない、

天地一切のものに感謝する心境になったとき、
天地一切のものとの和解が成立することになり、

天地一切の何ものにも害されるのではない、自分の隻脚の切断も、
自分にそう云う人を斬りつけ非難するような心持があったから
起ったのである。

妻が見舞いに来ないと思ってその冷淡を恨んでいたが、
それは冷淡なのではなかった、

神様のお引廻しによって彼女は『生命の實相』読ませられ、
癒されて、その体験によって私を導いて、私の心を転換して
私自身がまた癒されるように神様の摂理が働いたのだ。

それなのに自分は妻が冷淡であるなどと思って恨んでいた。
あぁすまなかった。

こんな逆恨みをするような自分であるのに
神様がこんなにまで御引回しをして下さるとは
何という無限大の御慈悲であるのだろう。

こう思うと、「すまない、すまない」と云う気持ちで一杯になって来ると共に
「神様ありがとうございます。妻よ、有難うございます。病院の医師よ、看護婦よ、
ありがとうございます。」と感謝する気持ちになったのであります。

すると今まで幾度瘡面を切除しても肉芽が発生せず、化膿していたのが、
むくむくと新しい肉が盛り上がるように発生して1週間のうちに
新しい皮膚が出来、傷口が治ってしまったのであります。

私は、傷をしても、よく治る人と、なかなか治らないで
しきりに化膿する人とがあるのは、体質だと思われているが、

実は「心の傾向」だと申しましたが、心が変化すれば、
このように化膿(黴菌が寄生)し糜爛していた瘡面も
忽ち治ってしまうのであります。

これを推し及ぼしてまいりますと、
胃腸の中や肺臓の中の炎症や糜爛や黴菌の寄生も、
心の持ち方の変化によって治ってしまうと云うことは明らかなのであります。

    http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15462218 (消滅)

         <感謝合掌 令和3年4月21日 頓首再拝>

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統

2021/05/29 (Sat) 05:06:45


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、
恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で
病気が治る事実が続々あり、それに理論が透らないという理由で、

また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、
それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、
手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って
理論が透らないようなものは頭から排撃してしまって、
いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても
古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる
一大生命学の理論体系をなしているのである。

この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事実を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、
個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮
せしめるのであるから、宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

           <感謝合掌 令和3年5月29日 頓首再拝>

『生命の實相』の説く真理は、人類を”産みの苦しみ”より解放せり - 伝統

2021/06/19 (Sat) 05:03:29


     *「如意自在の生活365章}(P307~308)より
      ~真理はついに人類を”産みの苦しみ”より解放せり

イエスは「果実を見てその樹が善き樹か、悪しき樹かを知れ」
と教えているのである。

生長の家の説く「生命の実相」の哲学を学ぶことが
”生命の樹の実”を食することになり、
再び”エデンの楽園”に復帰できるということが、

単に比喩的神話ではなく、事実であるという実証として、
多くの「生長の家」の信徒および誌友の婦人たちは、

エホバの神の「人間追放」の宣言
「われ汝の懐妊(はらみ)の苦しみを増すべし。
 汝は苦しみて子を産まん」(創世記第3章)

にもかかわらず、
続々と無痛分娩や快感分娩の実証を挙げているのである。

それゆえに『生命の實相』の説く真理は、
エホバ神の「呪いの宣告」による人類の呪縛をも解除したのだ
ということができるのである。

まことに「真理は汝を自由ならしめん」であるのである。

         <感謝合掌 令和3年6月19日 頓首再拝>

『生命の實相』生活篇 - 伝統

2021/06/26 (Sat) 04:59:21


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より

今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。

「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」


「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。

何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いてじっと2、3行見つめていると、
それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。

あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのはポンプの迎い水のようなものですねえ。

水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」


「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」


「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて『光明の生活法』という一冊に纏めて
あるのです。」


「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。

そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」

            <感謝合掌 令和3年6月26日 頓首再拝>

『生命の實相』の本は、人を癒やし人を救うに非ず、ただ真理を説いているだけ - 伝統

2021/07/05 (Mon) 03:31:36


          *「光明道中記」(7月5日《臭味を脱却する日》)より

【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】 

「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。

「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。
 功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。

「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。
 まだ病気が治りませぬ」と言うのも
「識(し)る」方の側である。

まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。
功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、
従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。

人を救っても無心にして救うようでなければならない。

『生命の實相』を読んで色々の病気が治った
と言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

            <感謝合掌 令和3年7月5日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統

2021/07/12 (Mon) 04:59:41


          *「光明道中記」(7月12日)より

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
 自由自在に駆使し得るようになるのであります。(『生命の實相』第七巻)】

四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は
非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と
同じことが書いてあると云うことを
私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、
「大般若経」を一心不乱に誦していると、
その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて
私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、作り話だと思っていたが、
今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。

「姓名なんか訊いて何にするのです。
 姓名は本来空です。本性は変るものではありません」

「本性は、何と申すか」

「本性は仏性(ぶっしょう)です」

少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。

        <感謝合掌 令和3年7月12日 頓首再拝>

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む - 伝統

2021/08/01 (Sun) 04:49:06


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月1日)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

       <感謝合掌 令和3年8月1日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む - 伝統

2021/08/03 (Tue) 04:38:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月3日)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 令和3年8月3日 頓首再拝>

『生命の實相』を読み、真理を知ることで、暗黒(やみ)は消えてしまうのです - 伝統

2021/08/27 (Fri) 05:00:29


       *「眞理」第9巻生活篇第13章(P366) 
         《暗黒(やみ)は決して存在しない》より抜粋

”光の欠乏”でしかない暗黒(やみ)は、
光をつぎ込んだら消えるのです。

あなた病気がそんな形をしているにせよ、
それはあなたの潜在意識の中になる攻撃精神や、憎しみや、怒りや、
嫉妬などと云う愛の欠乏から起っているのですから、

憎みや嫉妬や憤(いきどお)りを捨てて、赦しと愛とをあなたの心に
注ぎ込むようにすれば、その病気は消えてしまうのです。

どうしても赦し得ない心も『生命の實相』を読んで「敵本来なし」の
真理を知れば赦し得るようになるのです。

若し、あなたの潜在意識の中に自己処罰の念があるために、
病気を起しているのでしたら、『生命の實相』を読んで
「人間本来神の子であり、本来罪なし」と云う真理を知れば
自ずから自己処罰の念が去って病気が消えてしまうのです。

         <感謝合掌 令和3年8月27日 頓首再拝>

如来の慈悲を説き聴かせてあげるために『生命の實相』の学がある - 伝統

2021/09/06 (Mon) 04:57:08


          *「光明道中記」(9月6日《信心極まる日》)より抜粋

【汝の信ずるごとく汝になるのである。(『生命の實相』第一巻)】

『生命の實相』もその中の字句を甲是乙非と議論するためにとて
色々の諸学説が引用してあるのではない。

人間は救われ難しと色々の科学から結論している人々に
如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ
『生命の實相』の学があるのである。

         <感謝合掌 令和3年9月6日 頓首再拝>

濁り水を捨て、『生命の實相』を読んで、真理の水を注げ! - 伝統

2021/11/03 (Wed) 05:02:32


       *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、
われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、
すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。

真理をまとうくらいならば、
今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。

         <感謝合掌 令和3年11月3日 頓首再拝>

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