伝統板・第二
理念 ② - 伝統
2019/05/24 (Fri) 03:25:02
*伝統板・第二「理念」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6881392
「脳髄以前の心」が「理念」である
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が
血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、
条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、
自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 令和元年5月24日 頓首再拝>
すべては、理念自身が内部から創造しうるのである - 伝統
2019/05/25 (Sat) 03:39:07
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より
肉体に再生力があるのは、
フィルムが厳然として存在して、適当な条件を与えれば、
フィルムの現画と同様に再現すると同様である。
食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。
しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、
「適当な条件」さえも、その条件が他から与えられない場合には、
理念自身が内部から創造しうるのである。
生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。
われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせる
というほどの自信をもたねばならぬ。
人間は信念だけの値打である。
<感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>
内からの発現で時代はつくられる - 伝統
2019/05/26 (Sun) 03:14:46
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月26日)」より
内から発現するのが時代の流れである。
時代によって精神が左右せられるのではない。
社会的地盤から精神が生まれてくるのではなく、
内から理想は層一層完全なる形態に顕われようとして時代をつくり、
社会的構成を変えてゆくのである。
<感謝合掌 令和元年5月26日 頓首再拝>
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されている - 伝統
2019/05/30 (Thu) 04:36:29
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまたやがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。
楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて
来るのである。
<感謝合掌 令和元年5月30日 頓首再拝>
善行の種子を蒔くことによって、日本国の理念が展開される - 伝統
2019/06/21 (Fri) 04:24:00
*『生長の家』(昭和23年4月号《時節ということ》)より
『時が解決する』と云う言葉がある。
時節というのは、神の心の世界に描かれたところの秩序であり、順序である。
事物の発展して行く順序というものは砕くことは出来ないものである。
種子を蒔いて一遍に花を咲かせようと思っても
順序を経ねば花は咲かないのである。
今年種子を蒔かねば、
その発生伸展の順序はその植物の一周期おくれる。
それと同じように國の運命も、
蒔くべき時に誤って『善行』が蒔かれなかったら、
その國の一周期だけその國の運命の伸展がおくれるのである。
しかし今年花を咲かない朝顔も、
来年蒔き直せば朝顔の花は咲くのである。
咲くと咲かぬとに拘らず花の理念は永遠不滅であり、
咲くときにはその順序をもって展開するのである。
日本の國の理念も善行の種子を蒔かないからその展開がおくれている。
今、咲かないからとて朝顔の花の理念の不滅と、
その開くときに伸展する順序とを疑ってはならぬと同じように、
日本の國の理念も、これから国民が善行の種子を蒔くようにすれば必ず、
その展開は日本の栄えとなってあらわれる。
今のように国内互いに奪い合うようでは
『大和』の理念などあらわれようがないのである。
(http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/21412717.html より転写)
<感謝合掌 令和元年6月21日 頓首再拝>
日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する - 伝統
2019/07/04 (Thu) 04:45:34
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月4日)より
宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。
ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、「個」は滅びたように見えても、
「全体」は滅びないから、それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。
ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、
国家理念のために没しきった個人の生命は永遠に滅びない
というような考え方において。
わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。
<感謝合掌 令和元年7月4日 頓首再拝>
「日本」の理念の復興を - 伝統
2019/07/08 (Mon) 03:52:13
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月8日)より
ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、
持久の精神、
堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。
ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。
理想 ―― 理念を失ったものは、すでに内容のない形態ばかりのものに
なっているのだから、今はまだ生き生きしていようとも、
それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。
どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。
西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。
日本を大いに復興しようと思うならば、「日本」の理念を復興しなければならぬ。
<感謝合掌 令和元年7月8日 頓首再拝>
理念(いのち)に触れよ! - 伝統
2019/10/18 (Fri) 02:41:25
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月18日)より
肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。
一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。
眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。
《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。
<感謝合掌 令和元年10月18日 頓首再拝>
心の波を道具として、神の子の理念を実現せよ! - 伝統
2019/11/24 (Sun) 04:56:21
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より
生命(せいめい)なき物質と、生命ある有機体との間にはけざやかな相異があるのである。
それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、それに生命(いのち)
が宿らない間は、その分解・結合の状態はいつまでも無機物的な方向において行なわれる。
いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、全然異なる分子の分解・結合が
行なわれ、一定の「理念」(または精神的原型)にしたがってあるいは
絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。
イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。
すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、
そこに「生命(せいめい)」が宿っているのである。
「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、自己の「理念」または
「精神的模型」の秩序にしたがって、新しく再配置する力をもっていることである。
それは物質それ自身の性質を利用しつつ、新たに自己の理念または精神的模型を
造形しゆくこと、あたかも美術家が、絵の具それ自身の性質を利用しつつ、
自己の内にある「美の精神的模型」の姿を造形してゆくようなものである。
宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、宇宙精神の高次にして
優位なるあらわれなるいわゆる「生命(せいめい)」に対してはただ素材を
提供するのみであって、物質が生命(せいめい)
を左右することはできないのである。
逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。
野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、
物質それ自身の配列状態を克服して自己の理念の姿を表現することができているのに、
人間という宇宙精神の最高顕現たる生物が物質の世界を克服して、
健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現することが
できないということはありえないのである。
諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」をみずから主張しない
からであって、それは『法華経』にある大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に
坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。
大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とをそなえていながら
みずから進んでそれを自覚しないから、自分の実相の完全さがあらわれないに
すぎないのである。
諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。
<感謝合掌 令和元年11月24日 頓首再拝>
宇宙には中心がある - 伝統
2019/12/10 (Tue) 04:14:17
*谷口清超先生著『美しい国と人のために』(P176~177)より
即ち宇宙には常に中心があり、そこに帰一した運動が行われている。
太陽を中心として地球などの惑星が
一糸乱れず運行しているのは最も手近な例であるが、
この太陽系も、それと同じようなスター(恒星)を中心とした惑星の集団と共に、
約一千億個か二千億個近くも集って「天の川星雲」という銀河系を作っている。
~中略~
このように宇宙には中心があり、それが秩序を保つもとの力になっているが、
それと同じように国家にも中心があり、家庭にも中心がある。
単に皆が平等で自由であるだけではなく、
秩序性をもってまとまっているのであり、
日本という国には、全ての国々の中でもっともハッキリ永続した中心があるので、
国家としてもよくまとまる国である。
<感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>
久遠の理念 - 伝統
2020/03/26 (Thu) 03:09:45
*「善と福との実現」(P231~232)より
久遠の理念が、宇宙に内在し、それが常に宇宙を変貌しつつあるのである。
久遠の理念、それを実相と云うのである。
久遠の理念は誰が造ったのか、神みずからの内に内在するのである。
それは御意(みこころ)である。
神は、「永遠の今」であり、過現未を通じてその奥に内在して、
それが常に宇宙を変貌せしめつつあるのである。
理念とは想念(こころのおもい)である。
しかし、ただの想念ではない。
迷いの想念ではない。
ちょっとした想いつきでも想像でもない。
それは根本実在の想念である。
神意である。
一例を挙ぐれば
「神、光あれと云い給いければ光ありき」
これが神意である。
理念である。
真理である。
愛である。
暗黒を光明へ変え、死を永遠の生に変貌し、混沌を秩序に置換へ、
たえず悦びと平和を生み出しつつある。
宇宙内在の根本原動力である。
<感謝合掌 令和2年3月26日 頓首再拝>
五官は理念を見る能わず - 伝統
2020/04/10 (Fri) 02:48:05
*「善と福との実現」(P232~233)より
五官は形象(かたち)を見るのみであって、理念を見ることは出来ない。
キリストも五官の眼で見れば大工の子に過ぎない。
彼は滅ぶべきものであり、十字架で処刑された囚人であり、
「人を救いてみずからを救い得ざる者よ」と群衆から嘲笑された者であり、
彼は人生の敗者であったのである。
しかし、実相によってこれを見れば、彼は祝福された神の子であり、
世に勝てる勝者であり、彼は肉体ではなく、霊的存在であり、
須臾(しばらく)の生命ではなく、久遠の生命であり、
衆人が彼の「死」を見たときに、彼は「復活」したのであった。
人が彼の「死」を見るときに、彼の「復活」を見、彼の「永生」を見る者のみ、
真理を見、実相を見たのである。
現象が仮在(けざい)であるから、その死または不死は問題ではないのである。
吾々は現象を超えて実相を見、真の「久遠存在」をみなければならないのである。
<感謝合掌 令和2年4月10日 頓首再拝>
大自然の心とは、大自然の背後にある荘厳なる理念そのもの - 伝統
2020/04/27 (Mon) 04:00:36
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より
大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。
大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。
<感謝合掌 令和2年4月27日 頓首再拝>
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している - 伝統
2020/05/15 (Fri) 04:03:38
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にもそのまま金剛不壊に滅びない存在
であるから、また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
<感謝合掌 令和2年5月15日 頓首再拝>
「脳髄以前の心」が「理念」である - 伝統
2020/05/24 (Sun) 04:38:25
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が
血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、
条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、
自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 令和2年5月24日 頓首再拝>
すべては、理念自身が内部から創造しうるのである - 伝統
2020/05/25 (Mon) 04:44:28
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より
肉体に再生力があるのは、
フィルムが厳然として存在して、適当な条件を与えれば、
フィルムの現画と同様に再現すると同様である。
食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。
しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、
「適当な条件」さえも、その条件が他から与えられない場合には、
理念自身が内部から創造しうるのである。
生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。
われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせる
というほどの自信をもたねばならぬ。
人間は信念だけの値打である。
<感謝合掌 令和2年5月25日 頓首再拝>
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されている - 伝統
2020/05/30 (Sat) 04:32:24
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまたやがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。
楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて
来るのである。
<感謝合掌 令和2年5月30日 頓首再拝>
理念とその代表 - 伝統
2020/07/01 (Wed) 04:52:30
*「光明道中記」(7月はじめの言葉<P204>)より
学校代表とか、生徒代表とか、会社代表とか云う言葉があるが、それは個々の校舎や、
教室や、会社の建物などの如き形あるものの総代と云う意味でもなく、
またひとり一人の職員や生徒や、会社員の代理とか代弁とか云う意味でもない。
代表とは「形態以上」の本質(理念)が形態ある人格もて代わりて表現せられる
ことを言うのである。
即ち「学校」《なるもの》は校舎でもなければ、職員でもなく、また生徒でもない。
またそれ等の単なる寄せ集めでもないことは、
「車」《なるもの》は心棒でも車輪でも甑(こしき)でも轅(ながえ)でもなく、
「車」なるところの「物を乗せて運ぶもの」なる理念が
形に表現せられたのが「車」なのである。
「これが車か」と言って心棒を引き抜き、その部分部分を毀(こわ)して
指(ゆびさ)しても車はない。
それと同じく「学校」なるものは、
形あるもの一つひとつを指し示しても其処には学校はない。
学校は「《まなびのいえ》なる理念」であって、
その「理念」があらわれて色々の形態をなしているが、
個々の形態を指してもその「理念」をあらわすことが出来ない。
茲(ここ)に個々の形態以上の1個の人格をもってその「まなびのいえ」なる
全理念を表現する時此れを「学校代表」と言うのである。
一国の代表者と言うときは、「くに」なる全理念に代わる表現者を指(さ)すのであり、
宇宙の代表神位と言えば「宇宙」なる全理念の表現者に坐(ましま)すを示し、
神位なる語によって総攬主宰の位を表わすのである。
<感謝合掌 令和2年7月1日 頓首再拝>
日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する - 伝統
2020/07/04 (Sat) 04:57:41
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月4日)より
宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。
ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、
「個」は滅びたように見えても、「全体」は滅びないから、
それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。
ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、
国家理念のために没しきった個人の生命は永遠に滅びない
というような考え方において。
わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。
<感謝合掌 令和2年7月4日 頓首再拝>
「日本」の理念の復興を - 伝統
2020/07/08 (Wed) 05:06:33
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月8日)より
ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、持久の精神、
堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。
ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。
理想 ―― 理念を失ったものは、すでに内容のない形態ばかりのものになっているのだから、
今はまだ生き生きしていようとも、それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。
どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。
西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。
日本を大いに復興しようと思うならば、「日本」の理念を復興しなければならぬ。
<感謝合掌 令和2年7月8日 頓首再拝>
【純粋世界は中心帰一の世界である】 - 伝統
2020/08/07 (Fri) 05:08:16
*「理想世界」(昭和43年6月15日の法語)より
”宇宙のいのち”即ち宇宙大生命が展開している
“純粋世界”が“実相世界”である。
“純粋世界”は物質でないから肉眼には見えないのである。
この“純粋世界”のことをキリストは”天”とか”天国”とか、
“神の国”とかいう語をもって語られた。
キリストが「みくにを来らしめ給え、み心の”天”に成るが如く地にも
成らせ給え」と祈れと訓えられたのは、この“純粋世界”の捨象として、
純粋世界そのままの姿が、“地”即ち現象世界に実現するように祈るように
勧められたのである。
この純粋世界は、神の創造になる世界であり、神の愛と叡智と生命力との
展開せる世界であるから、神が唯一の中心であり、すべての生物、
すべての存在悉く、秩序整然として一つの中心に帰一して、
各々その天分に従って、互いに扶け合い、大調和せる生かし合いの世界
であるのである。
多元中心の世界の如きは、互いにその覇を争うために、権力闘争の世界を
展開して永久に平和の世界を実現することは出来ないのである。
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767 )
<感謝合掌 令和2年8月7日 頓首再拝>
理念(いのち)に触れよ! - 伝統
2020/10/18 (Sun) 04:56:42
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月18日)より
肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。
一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。
眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。
《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。
<感謝合掌 令和2年10月18日 頓首再拝>
《永遠に滅びないものはあるか》 - 伝統
2020/12/18 (Fri) 02:14:17
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P285)より
花は咲いて萎(しぼ)み、実(み)がみのって地に墜ち、
再び芽を出して伸び、花が咲く。
それは常に変化し「無常」のすがたを示すのです。
それでは遷(うつ)り易(かわ)らない、
変化しない永遠のものがあるでしょうか。
それはあります。
永遠に豆科の植物には豆科の花が咲くと云う事実です。
現象の花は萎みますけれども、現象の花の奥に、
いつもその「花の形」を保っていて、機会ある毎に、
適当に物質分子の資材を排列して、それを、
其の「内在の花の形」にならしめるところの
不思議な「智慧と原型」はなくならないのです。
これは「永遠の存在」であります。
この「永遠の存在」を「理念」と謂い、「霊」と言います。
この「理念」この「霊」は久遠不滅の存在であります。
<感謝合掌 令和2年12月18日 頓首再拝>
「理念の人間」 - 伝統
2021/01/13 (Wed) 02:59:56
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P286~287)より
~ 《常にかわらぬ真物(ほんもの)の自分》
人間全体の「永遠不滅の原型」これこそが「本当の人間」であり、
「理念の人間」であり、「霊なる人間」であります。
肉体の姿は、その影のようなものであります。
影は《うつろい》ますけれども、真物(ほんもの)は永遠であって、
影が消えても消えても、又、その姿をあらわす力をもっている
のであります。
その真物(ほんもの<実相>)の人間が本当の自分であります。
常に変っている自分の肉体、それにも拘らず、
その「変っている肉体」を指して、
やはり「永遠に変らぬ自分」のように自覚せしめるのは
何故でしょうか。
それはその肉体の奥に、物質の奥に、
永遠の存在なる「真物(ほんもの)の自分」があるからであります。
人間が「肉体」だけのものなら「肉体」の成分が新生する毎に
「自分」でなくなるけれども、人間は「肉体」の奥にある「霊」であり、
常に易(かわら)らぬ「不滅者」であるからこそ新生や再生が可能なのです。
<感謝合掌 令和3年1月13日 頓首再拝>
日本の國の理念は、国民が善行の種子を蒔くようにすれば必ず展開してくる - 伝統
2021/04/02 (Fri) 04:49:17
*『生長の家』(昭和23年4月号)より
~《時節ということ》
『時が解決する』と云う言葉がある。
時節というのは、神の心の世界に描かれたところの秩序であり、順序である。
事物の発展して行く順序というものは砕くことは出来ないものである。
種子を蒔いて一遍に花を咲かせようと思っても順序を経ねば花は咲かないのである。
今年種子を蒔かねば、その発生伸展の順序はその植物の一周期おくれる。
それと同じように國の運命も、蒔くべき時に誤って『善行』が蒔かれなかったら、
その國の一周期だけその國の運命の伸展がおくれるのである。
しかし今年花を咲かない朝顔も、来年蒔き直せば朝顔の花は咲くのである。
咲くと咲かぬとに拘らず花の理念は永遠不滅であり、
咲くときにはその順序をもって展開するのである。
日本の國の理念も善行の種子を蒔かないからその展開がおくれている。
今、咲かないからとて朝顔の花の理念の不滅と、
その開くときに伸展する順序とを疑ってはならぬと同じように、
日本の國の理念も、これから国民が善行の種子を蒔くようにすれば必ず、
その展開は日本の栄えとなってあらわれる。
今のように国内互いに奪い合うようでは『大和』の理念などあらわれようがないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/21412717.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月2日 頓首再拝>
大自然の心 - 伝統
2021/04/28 (Wed) 04:34:58
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より
大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。
大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。
<感謝合掌 令和3年4月28日 頓首再拝>
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している - 伝統
2021/05/15 (Sat) 04:49:59
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にもそのまま金剛不壊に滅びない存在
であるから、また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
<感謝合掌 令和3年5月15日 頓首再拝>
「脳髄以前の心」が「理念」である - 伝統
2021/05/24 (Mon) 04:48:27
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が
血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、
条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、
自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 令和3年5月24日 頓首再拝>
すべては、理念自身が内部から創造しうるのである - 伝統
2021/05/25 (Tue) 04:48:28
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より
肉体に再生力があるのは、
フィルムが厳然として存在して、適当な条件を与えれば、
フィルムの現画と同様に再現すると同様である。
食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。
しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、
「適当な条件」さえも、その条件が他から与えられない場合には、
理念自身が内部から創造しうるのである。
生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。
われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせる
というほどの自信をもたねばならぬ。
人間は信念だけの値打である。
<感謝合掌 令和3年5月25日 頓首再拝>
内からの理想(理念)の発現で時代はつくられる - 伝統
2021/05/26 (Wed) 04:36:01
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月26日)」より
内から発現するのが時代の流れである。
時代によって精神が左右せられるのではない。
社会的地盤から精神が生まれてくるのではなく、
内から理想は層一層完全なる形態に顕われようとして時代をつくり、
社会的構成を変えてゆくのである。
<感謝合掌 令和3年5月26日 頓首再拝>
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されている - 伝統
2021/05/30 (Sun) 04:42:47
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。
深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に
心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、
大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、
これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては
理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが
真統(ほんとう)の日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを
一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、
実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまた
やがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。
楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだ
ということを顕わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、
民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。
理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、
またもとの姿があらわれて来るのである。
<感謝合掌 令和3年5月30日 頓首再拝>
理念とその代表 - 伝統
2021/07/01 (Thu) 05:01:13
*「光明道中記」(P204)より
学校代表とか、生徒代表とか、会社代表とか云う言葉があるが、それは個々の校舎や、
教室や、会社の建物などの如き形あるものの総代と云う意味でもなく、
またひとり一人の職員や生徒や、会社員の代理とか代弁とか云う意味でもない。
代表とは「形態以上」の本質(理念)が形態ある人格もて代わりて表現せられる
ことを言うのである。
即ち「学校」《なるもの》は校舎でもなければ、職員でもなく、また生徒でもない。
またそれ等の単なる寄せ集めでもないことは、
「車」《なるもの》は心棒でも車輪でも甑(こしき)でも轅(ながえ)でもなく、
「車」なるところの「物を乗せて運ぶもの」なる理念が
形に表現せられたのが「車」なのである。
「これが車か」と言って心棒を引き抜き、その部分部分を毀(こわ)して
指(ゆびさ)しても車はない。
それと同じく「学校」なるものは、
形あるもの一つひとつを指し示しても其処には学校はない。
学校は「《まなびのいえ》なる理念」であって、
その「理念」があらわれて色々の形態をなしているが、
個々の形態を指してもその「理念」をあらわすことが出来ない。
茲(ここ)に個々の形態以上の1個の人格をもってその「まなびのいえ」なる
全理念を表現する時此れを「学校代表」と言うのである。
一国の代表者と言うときは、「くに」なる全理念に代わる表現者を指(さ)すのであり、
宇宙の代表神位と言えば「宇宙」なる全理念の表現者に坐(ましま)すを示し、
神位なる語によって総攬主宰の位を表わすのである。
<感謝合掌 令和3年7月1日 頓首再拝>
日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する - 伝統
2021/07/04 (Sun) 06:16:44
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月4日)より
宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。
ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、「個」は滅びたように見えても、
「全体」は滅びないから、それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。
ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、国家理念のために没しきった個人の生命
は永遠に滅びないというような考え方において。
わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。
<感謝合掌 令和3年7月4日 頓首再拝>
「日本」の理念の復興を - 伝統
2021/07/08 (Thu) 05:04:07
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月8日)より
ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、持久の精神、
堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。
ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。
理想 ―― 理念を失ったものは、
すでに内容のない形態ばかりのものになっているのだから、
今はまだ生き生きしていようとも、
それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、
衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。
どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。
西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。
日本を大いに復興しようと思うならば、
「日本」の理念を復興しなければならぬ。
<感謝合掌 令和3年7月8日 頓首再拝>
理念(いのち)に触れよ! - 伝統
2021/10/18 (Mon) 03:38:47
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月18日)より
肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。
一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。
眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。
《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。
<感謝合掌 令和3年10月18日 頓首再拝>
形よりも理念が先立つ - 伝統
2021/12/28 (Tue) 04:38:11
*『生長の家』(昭和25年9月12日の法語)より
ダリヤの花はその球根から生ずるが、
「 花そのものの形 」 は球根と云う物質にあるのではなく、
球根の奥にある霊的世界にある 「 ダリヤの花の理念 」 から
生ずるのである。
理念又は霊は、物質の形に先立つのである。
イエスの理念は、肉体イエスに先立って存在したのである。
だからイエスは 「 アブラハムの生れぬ前(さき)より我はあるなり 」 と
云っているのである。
物質より前に理念があるのである。
素粒子が如何に排列して或る種の物質になるかは、法則によるのである。
そして、法則は知性(心性)である。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
<感謝合掌 令和3年12月28日 頓首再拝>
《現象と実相との関係》 - 伝統
2022/02/26 (Sat) 05:04:48
*「眞理」第2巻基礎篇第8章(P222)より
神の霊は宇宙一切のものの根原として凡(あら)ゆる所に
恰(あたか)も物理学のエーテルのように満ちている。
しかしエーテルそのものだと云う訳ではない。
それはもっと次元の異なる不可視の存在である。
それは、「理(り)」であり、「理念」であり、「原理」であり、
2×2=4の原理が、物質でもなく、眼にも見えないが
到るところに充ち満ちているのと同じように充ち満ちている
と云うことが出来るのである。
2×2=4の原理が、物質の数(すう)の増減によって
何ら影響を受けないのと同じように、
「理念」で出来た「実相(じっそう)」は現象界の増減によって
何等影響を受けることはないのである。
現象の肉体が如何に病気にあらわれて見える時にも、
わが実相(じっそう)は健全である。
<感謝合掌 令和4年2月26日 頓首再拝>
大自然の心 - 伝統
2022/04/28 (Thu) 07:56:30
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より
大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。
大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。
<感謝合掌 令和4年4月28日 頓首再拝>
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している - 伝統
2022/05/15 (Sun) 07:10:45
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、
朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にも
そのまま金剛不壊に滅びない存在であるから、
また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
<感謝合掌 令和4年5月15日 頓首再拝>
「脳髄以前の心」が「理念」である - 伝統
2022/05/24 (Tue) 07:30:34
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が
血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、
条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、
自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 令和4年5月24日 頓首再拝>
すべては、理念自身が内部から創造しうるのである - 伝統
2022/05/25 (Wed) 07:23:36
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より
肉体に再生力があるのは、
フィルムが厳然として存在して、適当な条件を与えれば、
フィルムの現画と同様に再現すると同様である。
食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。
しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、
「適当な条件」さえも、その条件が他から与えられない場合には、
理念自身が内部から創造しうるのである。
生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。
われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせる
というほどの自信をもたねばならぬ。
人間は信念だけの値打である。
<感謝合掌 令和4年5月25日 頓首再拝>
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されている - 伝統
2022/05/30 (Mon) 06:42:06
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまたやがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。
楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて
来るのである。
<感謝合掌 令和4年5月30日 頓首再拝>
理念とその代表 - 伝統
2022/07/01 (Fri) 07:25:53
*「光明道中記」(P204)より
学校代表とか、生徒代表とか、会社代表とか云う言葉があるが、それは個々の校舎や、
教室や、会社の建物などの如き形あるものの総代と云う意味でもなく、
またひとり一人の職員や生徒や、会社員の代理とか代弁とか云う意味でもない。
代表とは「形態以上」の本質(理念)が形態ある人格もて代わりて表現せられる
ことを言うのである。
即ち「学校」《なるもの》は校舎でもなければ、職員でもなく、また生徒でもない。
またそれ等の単なる寄せ集めでもないことは、
「車」《なるもの》は心棒でも車輪でも甑(こしき)でも轅(ながえ)でもなく、
「車」なるところの「物を乗せて運ぶもの」なる理念が
形に表現せられたのが「車」なのである。
「これが車か」と言って心棒を引き抜き、その部分部分を毀(こわ)して
指(ゆびさ)しても車はない。
それと同じく「学校」なるものは、
形あるもの一つひとつを指し示しても其処には学校はない。
学校は「《まなびのいえ》なる理念」であって、
その「理念」があらわれて色々の形態をなしているが、
個々の形態を指してもその「理念」をあらわすことが出来ない。
茲(ここ)に個々の形態以上の1個の人格をもってその「まなびのいえ」なる
全理念を表現する時此れを「学校代表」と言うのである。
一国の代表者と言うときは、
「くに」なる全理念に代わる表現者を指(さ)すのであり、
宇宙の代表神位と言えば「宇宙」なる全理念の表現者に坐(ましま)すを示し、
神位なる語によって総攬主宰の位を表わすのである。
<感謝合掌 令和4年7月1日 頓首再拝>
日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する - 伝統
2022/07/04 (Mon) 07:21:06
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月4日)より
宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。
ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、
「個」は滅びたように見えても、「全体」は滅びないから、
それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。
ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、
国家理念のために没しきった個人の生命は永遠に滅びない
というような考え方において。
わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。
<感謝合掌 令和4年7月4日 頓首再拝>
「日本」の理念の復興を - 伝統
2022/07/08 (Fri) 07:24:28
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月8日)より
ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、
持久の精神、堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。
ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。
理想 ―― 理念を失ったものは、
すでに内容のない形態ばかりのものになっているのだから、
今はまだ生き生きしていようとも、
それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、
衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。
どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。
西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。
日本を大いに復興しようと思うならば、
「日本」の理念を復興しなければならぬ。
<感謝合掌 令和4年7月8日 頓首再拝>
理念(いのち)に触れよ! - 伝統
2022/10/18 (Tue) 08:38:54
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』)(10月18日)より
肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。
一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。
眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。
《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。
<感謝合掌 令和4年10月18日 頓首再拝>
理念としての「生長の家」 - 伝統
2023/01/23 (Mon) 07:30:00
*「光明道中記」(1月23日《寒菊競い開く日》)より
【十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするのが日本の使命である。
(『秘められたる神示ー神示講義<秘の巻>』「久遠天上理想国実現の神示」)】
全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は
決して侵略戦争ではない。
八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。
此の理念を「生長の家」と言う。
理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。
何故そう云う名称を附したかと言えば、
生は縦に無限に生(の)びることを現わし、
長は横に長(の)びることを現すからである。
縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、
縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、
内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する
天皇(スメラミコト)の御天職である。
此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。
全世界は天皇に於いて一宇(ひとつのいえ)である。
万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以って
出現したのが吾々の団体である。
病気が治り運命がよくなり、
万事に成功すると云うが如きはただ副作用にすぎない。
天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、
真理の中には病気不幸は存在しないが故に、
病気不幸が消えるのは当然のことである。
病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。
省みて真理に載るものは幸(さいわい)である。
<感謝合掌 令和5年1月23日 頓首再拝>
大自然の心は、荘厳なる理念そのもの - 伝統
2023/04/28 (Fri) 05:00:25
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より
大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。
大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。
<感謝合掌 令和5年4月28日 頓首再拝>
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している - 伝統
2023/05/15 (Mon) 10:32:49
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、
一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、
朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも
顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する
「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にも
そのまま金剛不壊に滅びない存在であるから、
また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
<感謝合掌 令和5年5月15日 頓首再拝>
「脳髄以前の心」が「理念」である - 伝統
2023/05/25 (Thu) 12:07:59
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が
血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、
条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、
自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 令和5年5月25日 頓首再拝>