伝統板・第二

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祈り(4) - 伝統

2019/05/19 (Sun) 04:09:09

《飲食をなす時の祈り》

        *「光明法語」(5月19日)より 

食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」と念じて食せよ。

飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、
それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。


・・・

<関連Web>

(1)本流宣言掲示板「人は何のために「祈る」のか (4612)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=965

(2)光明掲示・第一「祈りとは」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1417 (消滅)

(3)光明掲示板・第二「「不断念仏」「平生業成」」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2014(消滅)

(4)伝統板・第二「祈り」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818447

(5)伝統板・第二「祈り(2)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7543475 

(6)伝統板・第二「祈り(3)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7738427

            <感謝合掌 令和元年5月19日 頓首再拝>

《祈りの方法及び意義について》 - 伝統

2019/06/11 (Tue) 03:28:02


         *『 生長の家 』(昭和40年3月22日の法語)より

   神は無限の善であり、無限に完全なる智慧であり、無限に完全なる生命であり、
   無限に完全なる供給であり、無限に完全なる調和であり、

   一切処(いっさいしょ)に充ち満ちていられる遍在者であるならば、
   その神は“ 各人の内 ”にも遍在してい給うことは明らかであるのである。

   神の恵みは遍在して既に“ 各人の内に ”あるのに、
   殊更(ことさら)に祈り求めなければならないというのは何故であろうか?

   神の恵みは譬(たと)えばラジオの放送電波のように、
   何処にも、空間いたるところに充ちているのである。

   しかし放送はあり、電波は自分の体の中までも達しているのに、
   それでもそれを受信し得ない人があるのは何故だろうか。

   自分のラジオ・セットを放送電波に波長を合わせないからである。

   それと同じく、神は既にあらゆる恵みを遍在的に放送していられるのに
   私たちが霊的に波長を合わさないときは、それを受信することができないのである。

   祈りは、自分の心のひびきを調律して神に波長を合わせる方法であり、
   神に懇請(こんせい)、懇願(こんがん)して、神を説得する方法ではないのである。

   だから 既に与えられている恵みに感謝の念を起す神想観が最も正しい祈りである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>

驚くべき祈りのパワー - 伝統

2019/06/15 (Sat) 04:36:00


        *「がんでも、なぜか長生きする人の「心」の共通点 」
          保坂 隆・著 (P90~95) より

近年の研究で「ポジティブな祈りのパワー」が明らかになってきました。

ポジティブな祈りとは、他人の幸せ、世の平和を祈ることをさします。
そして人の幸せを祈ると、、オキシントンというホルモンが
分泌されることがわかっています。

このオキシントンは、「愛情ホルモン」とか「幸せホルモン」などとも
呼ばれるもので、心を癒やす作用や、ストレスを打ち消して
免疫力を高める効果があります。

この効果については多くの論文が公表され、さらに乳がん患者さんの
SNSグループでは、お互いの幸せや回復を祈り合っていて、
とても素晴らしいオキシントン効果を体験しているようです。

(中略)

2000年に行なわれた「祈りに遠隔効果はあるか」というテーマの
研究が行われました。(RCTのメタ解析を用いて)

代表的な研究では、ICUに入院した患者さんのIDのナンバーだけを
見て、AとBの2つのグループにふり分け、医師や看護師はどの患者さんが
どちらのグループか知らされないままで通常の治療をしました。

そして、病院からはるか遠くのアメリカ各地の協力者に
「〇〇州□□病院のICUに入院しているCさんのために、
4週間祈ってください」と依頼したのでした。

お祈りをしてくれる協力者には、さまざまな宗教の人がいました。
その人たちは、告げられた名前(イニシャル)だけを目標に
4週間祈りを続けました。


一方、ICUに入院している患者さんには「祈られている」という
プラシーボ効果が出ないように、実験のことは秘密にして、
Aグループには通常の治療に祈りをプラス、
Bグループには通常の治療だけを施し、厳正な試験が行われました。

するとどうでしょう。
お祈りをされたAグループの患者さんのほうが、回復が順調という
結果が出たではありませんか。

(中略)

しかも、実験ではお祈りする人のほうがオキシントンの増え方が
大きいというおまけまでついていたのですから、
祈ることにはメリットしかないと証明されたようなものです。


ただ、オキシントンはお祈りだけでなく、家族や親しい人との
ふれあいでも増えますから、やはり思いやりや慈愛といった
心のつながりが、癒しの根底にあるのでしょう。


がん患者さんに限らず、自分の悩みや苦しみで心がいっぱいでも、
人のために祈れる人になれたら、どんなに素晴らしいでしょう。

そして、そういう人にこそ、
本当の奇跡が起こるのではないでしょうか。

・・・

<参考Web:「誰かのために祈ると健康になる!?」
        http://www.km-clinic.jp/genki/no/217.html  >

            <感謝合掌 令和元年6月15日 頓首再拝>

暇があれば祈りなさい - 伝統

2019/07/08 (Mon) 03:49:29


        *「真理」第九巻生活篇(P101~102)より

《脳髄は考えないでも働いています》

雑談する暇があれば祈りなさい。

仕事と仕事との間に、静かに目を瞑(つぶ)って深呼吸しながら、
その吸気を細く長くひいて、「神の生命(いのち)流れ入る」と念じ、
呼気を静かに吐きながら「すべての疲れは去ったのである」と念ずるのである。

頭脳の疲労は頭脳を使い過ぎるからではなく、働き過ぎて疲れたとか、
眠らないので疲れたとか云う観念によって概(おおむ)ね起こるものであることが、
最近、脳波の研究によって明らかになって来たのです。

脳髄は何も考えないときでも、眠っているときでも
脳波の実態では働いていることが明らかにされたのです。

それは恰も電飾の広告塔の電燈に全部灯(ひ)が点(とも)っているときが
何も考えない時であり、何か考えはじめると、その考えに従って順次に
電燈の或る系列が消えて往くことによって広告塔の電飾が
或る意味や図形をあらわすのに似ている。

            <感謝合掌 令和元年7月8日 頓首再拝>

《祈りは神に霊的波長を合わすためです》 - 伝統

2019/07/16 (Tue) 04:19:59


           *「真理」第九巻生活篇(P102~103)より

祈りは神に懇請することによって、
神の心を動かすのではありません。

神は懇請せざる者に恵みを与えず、
懇請する者のみに恵みを与えると云うような依怙贔屓の者ではありません。

私たちが祈るのは神を動かすためではなく、
自分自身の心が本当に神に向かい、自分自身の心を調律して
神の波長に合わせるためなのであります。

私たちは神はすべてぼ善き事物の本源であり、
すべての善き事物は既に神から与えられている事を知っているのです。
それは既にテレビの放送はあるのと同じことであります。

併し如何にテレビの放送がありましても私達が波長を合わさなければ、
その放送が肉眼に見える世界に現れて来ないように、

如何に神の恵みがありましょうとも、神は霊でありますから、
その恵みは「霊的波動」として与えられているのです。

それを肉眼に見える世界に実現するのは「人間」と謂うテレビ・セットで
霊の波長を合わせる必要があるのであります。

            <感謝合掌 令和元年7月16日 頓首再拝> 

デューラー作・絵画「祈りの手」の誕生秘話 - 伝統

2019/07/30 (Tue) 04:05:42


         *Web:今日も良いことがあるように(2019/05/29)より

▼「祈りの手」という有名な絵があるのをご存じでしょうか。

アルブレヒト・デューラー(1471年から1528年)という
ルネッサンス時代の優れたドイツの画家が描いた作品です。

   https://meisyoubu.blogspot.com/2017/03/blog-post.html

▼この作品にまるわる感動的な話です。


   いまから500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの町に
   デューラーとハンスという若者がいました。

   2人とも貧しい子たくさんの貧しい家に生まれ、
   小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。

   2人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いていましたが、
   毎日忙しいだけで絵の勉強ができません。

   思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと思いましたが、
   絵の具やキャンバスを買うお金もままならないほど貧しく、
   働かずに勉強できるほど余裕はありませんでした。

   ある時、ハンスがデューラーに1つのことを提案しました。

   「このままでは2人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。
   でも、僕にいい考えがある。

   2人が一緒に勉強はできないので、1人ずつ交代で勉強しよう。
   1人が働いてもう1人のためにお金を稼いで助けるんだ。

   そして1人の勉強が終わったら今度は、別の1人が勉強できるから、
   もう1人は働いてそれを助けるのだ。」


   どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。

   「デューラー、君が先に勉強してほしい。
   君の方が僕より絵がうまいから、きっと早く勉強が済むと思う。」

   ハンスの言葉に感謝してデューラーはイタリアのベネチアへ絵の勉強に行きました。

   ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に勤めることになりました。

   デューラーは「1日でも早く勉強を終えてハンスと代わりたい」と
   ハンスのことを思い寝る時間も惜しんで絵の勉強をしました。

   一方残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで
   重いハンマーを振り上げ、今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。

   1年、2年と年月は過ぎていきましたが、デューラーの勉強は終わりません。

   勉強すればするほど深く勉強したくなるからです。


   ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」との手紙を書き、
   デューラーにお金を送り続けました。

   数年後ようやくデューラーは、
   ベネチアでも高い評判を受けるようになったので、
   故郷に戻ることにしました。

   「よし今度はハンスの番だ」と急いでデューラーはニュールンベルクの町へ帰りました。

   2人は再会を手を取り合って喜びました。

   ところが、デューラーはハンスの手を握りしめたまま呆然としました。

   そして、泣きました。

   なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、
   絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。

   「僕のためにこんな手になってしまって」

   デューラーはただ頭を垂れるばかりでした。

   自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。

   彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。

   その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、

   「何か僕に出来ることはないだろうか」
   「少しでも彼に償いをしたい」

   という気持ちになり、もう一度、ハンスの家を訪ねました。

   ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。

   でも、確かに人がいる気配がします。

   小さな声も部屋の中から聞こえきます。

   デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。


   するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が目に入りました。

   ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っていたのです。

   「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。
   神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。

   そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えてくれますように。
   あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共にありますように」


   デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。

   デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと思っていたハンスが、
   妬み恨むところか、自分のことより、デューラーのことを
   一生懸命祈ってくれていたのです。

   ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、
   祈りが終わった後、彼に懇願しました。

   「お願いだ。君の手を描かせてくれ。
    君のこの手で僕は生かされたんだ。
    君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」

   こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」が生まれました。



▼ハンスは、デューラーのために働き、お金を送り続け、
結果的に彼自身の絵描きになりたいという夢は実現できませんでした。

そういう人生を、世間では成功した人生とは評価しないかもしれません。

しかし、価値ある人生でした。

彼のおかげでデューラーは、世に出て認められ、
多くの素晴らしい作品を世に残すことができました。

彼がいなければ、デューラーの作品は生まれなかったかもしれません。

少なくとも「祈りの手」という作品は・・・。

彼自身は、自分のしてきたことに納得しています。

誰も評価してくれなくとも、自分にとって価値ある人生だったのです。


▼おそらく一人の成功者のまわりには、
デューラーのように陰ながらその人を支え、応援してくれている人がいます。

その人は寛い心をもち、人のことを考えて行動します。

ときに自分が傷ついても、人を愛することを選びます。

そういう行いの一つ一つは、価値あるものだと私は思うのです。


        人の幸せを願う、それは愛。  (^.^)

  ( https://lucky.t-nakai.work/2019/05/29/story-74/  )


            <感謝合掌 令和元年7月30日 頓首再拝> 

《祈りと神想観とは同じことです》 - 伝統

2019/08/15 (Thu) 04:28:23


           *「真理」第九巻生活篇(P103~104)より

「観ればあらわれる」と云う法則があります。
「心 此処にあらざれば観れども観えず」
と云う語に対応する言葉であります。

其処に何かがありましても
心がそれを感受する準備ができなかったら、
アルとして感じられないのです。

だから「観ればあらわれる」と云う場合の「観る」とは、
既に其処に与えられている事物に対して、
心をそれに振り向け、それにピントを合わし、
それに波長を合わすと云う意味であります。


「祈り」は神の恵みに対して「この波長を合わせ」「ピントを合わす」
方法でありますから、此の場合、「観る」と「祈る」とは
同じことになるのであります。


生長の家で「神想観をして祈る」と云う語(ことば)がありますが、
ニュー・ソートの用語では”prayerful meditation ”という語(ことば)があります。

どちらも同じ意味で「観ることは祈ること」になるのであります。

            <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝> 

《本当に正しい祈り方は ?》 - 伝統

2019/08/18 (Sun) 04:41:16


           *「真理」第九巻生活篇(P104~105)より

神は既に至る処に在(いま)したまい、
一切を「霊」をもって完全に造り給いているのである。

既に私たちは神の中にあり、神は私達の中にあり給い、
互いに一体となっているのである。

私たちはそれを自覚することによってその完全なる有様(ありさま)が
現象界にもあらわれて来るのである。
それを自覚する方法が、”実在の完全さを瞑想又は黙念する方法!
即ち「神想観」であります。

自覚が深くなればなるほど、神の創造になる霊的実在の世界の善きものを、
より一層ゆたかに受け容れることができるようになるのである。

私たちは神に対して「物質を与えたまえ」と祈ることを止(や)めなければならない。
神の世界は唯(ただ)「霊」のみが存在するのであって、物質は、
その「霊の賜物(たまもの)」を私たちが受け取った場合に、
それが感覚面にあらわれて「物質」として見えるだけである。

だから祈る時には、

「神よ、愛を与えたまえ、智慧を与えたまえ」

と祈る方がよいのである。

            <感謝合掌 令和元年8月18日 頓首再拝> 

祈りと健康の関係 - 伝統

2019/08/29 (Thu) 04:35:09


         *「光明法語」(8月29日)より

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は

「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く容易く感ずることが出来る」

と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは

「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも
他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

            <感謝合掌 令和元年8月29日 頓首再拝> 

吾の祈りは神に通ず - 伝統

2019/08/30 (Fri) 03:56:53


          *「光明法語」(8月30日)より

カレル博士は言う、

「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。
祈る人は他の人々の為に祈る。

この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、
富める人々や、知識ある人々よりも、その可能性が一層ある。

祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」

と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は
病いを心の描くから却って癒えないのである。

            <感謝合掌 令和元年8月30日 頓首再拝> 

《祈りの最も良き方法は》 - 伝統

2019/09/02 (Mon) 04:56:06


        *「真理」第九巻生活篇(P105~105)より

「神に於いては何事も為し能(あた)わないことは無い。
神は吾に智慧と、力と、裕(ゆたか)さとを与え給う」

と祈る方法は最も良き祈りだと云わなければならないのである。

すべて神の智慧と生命(せいめい)と愛とその恵みとに一体であると云う
一体感を増大するような言葉を黙念することは、既に与えられている
神の恵みに波長を合わせる事になるのであるから、それだけその
「霊的恵み」が現象界にあらわれ易くなることは当然である。

併し現象界の「物質」のみに目当てして、同じ言葉を念じても
効果が薄いことは止(や)むを得ないのである。

何故なら「物質の御利益」を願う心そのものが、
「霊的なる恵み」と波長が合い難いからである。

時として現象的な物質的な御利益を願っても、それが正確にかなえられる
ことがあるのは、天の使い(高級霊)が恰も翻訳係の如く
私たちの物質で表現した願いを霊的波動に翻訳して下さるからである。

          <感謝合掌 令和元年9月2日 頓首再拝> 

《天国を地上にあらわすためにあなたの心を調律しましょう》 - 伝統

2019/09/15 (Sun) 03:00:25


         *『 生長の家 』(昭和40年3月23日)より

   テレビの把子(つまみ)をひねって放送局の波長に合わすと、
   放送中の番組が具体的に肉眼に見えるようにあらわれて来るのである。

   それと同じく神様の霊波(心の波長)に人間の心の波長を合わすと、
   神様の世界(実相世界)に実在する状態が肉眼に見えるように
   自分の周囲にあらわれて来る。即ち地上に天国が実現するのである。

   これは神様に「天国を地上にあらわしめ給え」といくら懇願しても懇請しても、
   自分の心が争いの念に充ち満ちていては天国が地上にあらわれて来ないのである。

   テレビのチャンネルを間違ったところへやりながら、
   NHKのテレビ番組をこのテレビ・セットにあらわし給えといくら祈っても、
   その番組が出て来ないのと同じである。

   「 祈り 」というものは 懇請や“泣き付き”ではなく、
   自分の心を調和した状態にすることである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

          <感謝合掌 令和元年9月15日 頓首再拝>

祈るということは神の波長に合わすこと - 伝統

2019/09/24 (Tue) 04:22:10


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月24日)より

働いても働いても成功しないのは、その働きの方向が、まちがった方向または無駄な方向、
あるいは、能率少ない方向に向かっているからである。
かく誤った方向にその動きが向けられるのは、それは神の智慧に導かれないからである。

神の智慧に導かれないのは、神の心と波長が合わないからである。
神の心と波長が合わないのは、神に祈らないからである。

神に祈るということは、神の霊波に心を振り向けるということであって
感応すべき波を選ぶ選波の努力である。

祈ってもきかれないのは、心を神に振り向けるけれども、信仰が少ないのと、
明るい心がないために神の波長に自分の心が合わないからである。

             <感謝合掌 令和元年9月24日 頓首再拝>

本当の祈りには“忍耐”という要素が要求される - 伝統

2019/09/29 (Sun) 04:59:09


      *『人生の秘訣365章』第2篇(P60~61) より
        ~《信仰には忍耐が要求せられる 》

あなたが祈りにより、或いは神想観によって
實相無礙自在の智慧を引き出してくるにせよ、いづれにせよ、
あなたの希望が早急に成就しないからとて、
早急に失望してしまってはならないのである。

大きな希望ほど、
それが生長して實を結ぶようになるには長期間を要するのである。

草花の種子(たね)を蒔くならば
間もなく発芽して数ヶ月のうちに実を結ぶようになるであろうが、
天を摩する巨樹にまで生長する松柏類の種子(たね)を蒔いても急には発芽せず、
また発芽しても、一、二年のうちに急速に伸びるということはないのである。

しかし杉や檜の植林をしたら、二、三年で、
しびれを切らして幼樹を抜き取ってしまう人はないであろう。

「この檜又は杉は必ず伸びて巨樹となる」という信念があるから、
その山の持主は苗木を引き抜いてしまうことをしないのである。


もしあなたが祈りつづけながら、二、三年でその祈りが成就しないからとて、
「もうだめだ」と祈りを中絶してしまうならば、この山林の持主ほどの信仰すら
神に対して持っていないということになるのである。

本当の祈りには“忍耐”という要素が要求されるのである。
“忍耐”の美徳を養成して下さるために、神は希望実現の時期を
前途に延ばされることもあるのである。

それは魂の鍛えにとって善きことである。

             <感謝合掌 令和元年9月29日 頓首再拝>

祈りは内在の神を展開する - 伝統

2019/10/04 (Fri) 04:52:28


           *「幸福を招く365章」(P233)より

祈りの効果と云うものは、神を説得によって感動せしめるのではなく、
祈りの深まることによって、神われと偕(とも)にあり、神われに来りたまいて、
われを通して働き給うていると云う自覚が深まると云うことである。

この自覚の深まるに従って、内在無限の神性が展開し出て
何事も順調に行なわれるようになり、身体に於ては内在無限の自然療能力が発現して、
病気も速かに癒えるのである。

自分を圧倒するような困難、とても助からぬというような病気 ―― こんな時には、
しばらく人間的思慮をやめ、神の前に跪いて神のはからいの前に全自己を投げ出すべきだ。

其の時、「我(が)」の障壁が消え、神の力が発現するのである。

             <感謝合掌 令和元年10月4日 頓首再拝>

正しい祈り - 伝統

2019/10/10 (Thu) 04:21:29


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月10日)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。

正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。
    破壊的なことは正しい願いではない。

(2)だれかを豊かにすることであるか。
    (だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)

(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。

(4)この世に混乱を起こしたり、
    だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、
それのテストに及第するものであれば、祈ってよいのである。

そしてその祈りの言葉は、宇宙的な創造力によってバックされ
実現の途上にあると信じてよいのである。

           <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>

祈りの2つの種類 - 伝統

2019/10/12 (Sat) 05:03:20


          *「光明法語(10月12日)」より

祈りには2つの種類がある。
自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により
天国(又は幸福)を地上に来(きた)そうとする自力の行は
断食水行野蜜を食(くら)いて粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって
仏陀(さとり)の境地に達しようとした。

併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

           <感謝合掌 令和元年10月12日 頓首再拝>

相対的祈りと絶対的祈り - 伝統

2019/10/13 (Sun) 02:24:57


          *「光明法語(10月13日)」より

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。

イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。
ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。
観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

            <感謝合掌 令和元年10月13日 頓首再拝>

祈りの効果は、自分の心の調節いかんにある - 伝統

2019/10/14 (Mon) 04:10:58


        *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月14日)より

ラジオが鳴り出すのは、ラジオ・セットそのものの中の機構の調節によるがごとく、
祈りが効果をあらわすのも、自分の心の調節いかんにあるのである。

われわれがラジオ・セットの調節を誤って、ラジオが鳴り出さないときにも、
放送局の放送はプログラムのとおりに《ある》と同じように、

われわれの心の調節を誤って、神の恵みが現実世界にあらわれてこない時にも、
依然として神の恵みは、宇宙に充つることあたかもラジオ波(なみ)のようにである。

祈らないでも神の恵みは充ち満ちているが、本当の祈りによって
その心境になったとき現実世界に、
その恵みがテレビジョン化して現われてくるのである。

           <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>

神を讃美する祈り - 伝統

2019/10/15 (Tue) 03:27:58


          *「光明法語(10月15日)」より

天の父われに在(いま)してみ業(わざ)を成し給う式の祈りは、
天の父のみ業の荘厳極(きわま)りなく美しき事を認め、
ただ讃(ほ)め称(たた)えるだけで好いのである。

観と讃嘆である。

此の種の祈りは長時間やってもつかれる事はない。
天の父の無限の力が流れ入って却って心気爽快、再生の思いがするものである。
聖書によれば、イエスは常に暁方(あけがた)に山に入って長時間祈っていたらしい。

彼はそれによって力を得、実際病いを治す時には、「神が成し給う」と思うだけで、
祈りもしないで、「起ちて歩め」と言ったようである。

            <感謝合掌 令和元年10月15日 頓首再拝>

「祈り」は願望実現が目的でない - 伝統

2019/10/22 (Tue) 03:20:52


          *「光明法語(10月22日)」より

神様にまかす位ならば、「祈り」の必要はない。
「祈り」をするのは自分の願いをかなえる為であって、
祈りに志向性はつきものである。

自分の願いがないならば「祈る」必要はない
 ―― と考えるのは間違いである。

「祈り」と云うものは、
「親なる神」と「子なる人間」との人格的交わりとして
欠くべからざる人間の行事なのである。

だから、潜在意識の深き願いは、神のみこころでなくても
「心の影」として実現するのである。
だから、欲するものを実現するばかりが祈りではないのである。

            <感謝合掌 令和元年10月22日 頓首再拝>

祈りの実現には時間的要素がいる - 伝統

2019/10/28 (Mon) 04:54:14


        *『 生長の家 』誌( 昭和23年3月3日、4日の法語)より

祈りは必ず成就するのである。

祈りとは 常に深く魂の奥底で繰返している言葉である。

呟(つぶや)く者には呟くような事が出て来るし、
悲しむ者には悲しむような事が出て来る。
喜べば 喜ぶような事が出て来る。

併し今日祈ったからとて、明日必ず成就するとは決まっていない。

種子を蒔いても、明日生えるとは定まっていない。
併しそれは永久に生えないのではない。

性急では いかぬのである。

花を求めているのに、
嫩葉(ふたば)が出たからとて祈りが きかれぬのではない。
嫩葉は 花のもとである。

《花を求めて果実を与えらる》

大抵の人は自分自身の与えらるべき、
そして成しとげ得べき能力を自覚していないので、
それより小さいものを求めがちである。

然も最初に与えられるのは、自分の求めたものより小さいのである。

それは花を求めて 嫩葉(ふたば)を与えられた如きである。

併し神は花以上に、更に吾らに大いなる美味なる果実を与えるべく
嫩葉を先ず用意せられたのである。

祈りが成就しないのではなく、祈りは成就しつつあるのである。

それなのに ただ自分が性急な為に成就しないと見誤るのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13105196.html

            <感謝合掌 令和元年10月28日 頓首再拝>

祈りは、神がすでに潜在的に与え給いしものを呼び出す力となる - 伝統

2019/11/10 (Sun) 04:56:30


        *『生長の家』(昭和24年11月13日の法語)より
          《吾は祝福されたるものである》

   吾が念ずる言葉は、常に吾が祈りである。

   神に於いては凡ゆる事は可能であり、
   すべてのことはすでに潜在的に与えられているのである。

   吾が祈りは、神がすでに潜在的に与え給いしものを
   よびだす力となるのである。

   吾が祈りの言葉は、無限に噴出する井戸の水を汲(く)み出す所の
   釣瓶(つるべ)のようなものであるのである。

   その釣瓶が大きければ大きい程、
   多量の恵の水を汲み出すことができるのである。

   自分は今日から小さいことを考えないのである。
   自分は自分の釣瓶を出来るだけ大きくして
   神の無限の供給を汲み出すのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>

《純粋の祈りで毎日を始めましょう》 - 伝統

2019/11/14 (Thu) 04:51:09


        *「真理」第9巻生活篇第6章(P156~157)より

毎朝その日のいとなみを祈りをもってはじめましょう。
懇請や懇願の祈りではなく、神との一体感を深める思念から
はじめるのであります。

神との一体感が深まるにつれて、
あなたの日常生活が神の叡智によって導かれるようになり、
何事を行なってもそれがスラスラ行くようになるのであります。

もっとも日常生活がスラスラ行くために祈ったり神想観をする
のでは前後顛倒と云うことになります。

日常生活がスラスラ行くのは神の叡智に導かれることの
随伴現象であって、日常生活を都合よく行かせるために、
”神を道具に使う”ような不純な気持ちが少しでも交じりますと、
それは本当の祈りではありませんから、
却って其の祈りが効果をあらわさなくなるものです。

祈りがきかれなくなった時には自分の心を吟味しなさい。

そして純粋の祈りに還ることです。

            <感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>

「声」と「コトバ」 - 伝統

2019/11/15 (Fri) 04:46:39


       *「光明法語」(11月15日の法語)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

            <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>

《一切衆生のための祈り》 - 伝統

2019/12/01 (Sun) 03:55:47


        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。
されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。

わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、
神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、
暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず
行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、
このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、
われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、
われを通して流れ出でたる神の生命であるから、
その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

            <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

平和と健康と調和のための祈り - 伝統

2019/12/02 (Mon) 04:55:09


        *『白鳩』(昭和23年10月号)より

父なる神よ。
  
私たちはあなたの子であります。
今私たちはあなたの御前に、あなたに取巻かれ、あなたに包まれ、
あなたに護られて、いと静かに坐っております。


父なる神よ。
  
私たちの此の神に護られているこの静けさを、
この平和なる悦びをさまたげる何者も存在しない
と云うことを知らしめたまえ。

私たちの心の中から人をさばく心を取去りたまえ。
すべての物を事を人を観るあなたの愛の眼をもって、
あなたの智慧の眼をもって、あなたのすべてを生かす
生命の眼をもって観ることが出来ますように。

すべて恐るゝと云う欠点、自己卑下の欠点、
高慢の欠点、自己弁護の欠点、他に対する優越感を持つ欠点、
他を憤ると云う欠点を取去りたまえ。

そして愛なる神と完全に一体になることが出来ますように
私たちを護りたまえ。

  
父なる神よ。
  
すべてあなたの創造の完全なることを知らしめたまえ。
その中に一つでも悪があると悪を観るを取去りたまえ。

あなたのつくりたまえる世界が平和と健康と、豊富なる供給と
悦びと進歩とに充ちて調和していると云うことを知らしめたまえ。

神よ、あなたの愛がわがうちに流れ入らしめたまえ。
あなたの愛が私の愛でありますように。

常に出来るだけ多くの人のためになるよき方法を私に教えたまえ。
  
あなたの大いなる愛が、智慧が私に流れ入りたまいて、
私を通してあなたの救いを成就せしめ給え。

神様ありがとうございます。

  (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18189488.html

            <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>

神と《とも》に祈る - 伝統

2019/12/08 (Sun) 04:31:08


          *「光明法語」(12月8日)より

神よ、生きとし生ける者を生かし給える吾等の《みおや》なる神よ。
わたし自身の本来のものでない願いを、わが胸より去らしめ給え、わが心を浄め給え。
わが魂の切なる願いのみを願うことが出来る様になりますように  <今日の祈り>


自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。
そして自分のものでないものを憧れ求め、それが成就しないからとて嘆き悲しみ、
それが成就したからとて図に乗って悪く働く。ああ迷える人々よ。

         <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>

或る日の祈り - 伝統

2019/12/16 (Mon) 04:59:56


          * 『白鳩』昭和23年3月 より

 生きとし生ける者を生かし給い、
 ありとしあらゆるものをあらしめ給い、
 わが御祖(みおや)にまします神よ。

 ○我をなくならしめ給え。あなた自身を我に流れ入らしめ給いて我に満ち給え。
  わたしの思いがあなたの思いでありますように。
  わたしの言葉があなたの言葉でありますように。

 ○あなたの無限の智慧を我に流れ入らしめ給いて、萬の事に我らを導きたまいて
  神の栄と神の子の栄をあらわしたまい、平和と調和と繁栄とすこやかの道を
  歩ましめ給え。

 ○あなたの無限の愛を我らに流れ入らしめ給いて、
  我らすべての者を愛しいつくしみて怨むことなく憎むことなく嫉妬することく、
  争うことなく、その愛が調和した美しきものたらしめ給え。

 ○あなたの無限の生命を我らに流れ入らしめ給いて、我ら常に健やかに若く逞しく
  無限の力をもって萬の事を遂行せしめ給え。 また人々の病を癒す力を与え給え

 ○あなたの無限の供給を与えたまいて、
  適当な時に適当な場所に適当なる人と物と事とを与えたまえ。

 ○あなたの無限の調和を与えたまいて、萬の事に過不及なく、
  智慧と愛と生命と供給とが調和ある状態にて実現しますように。

    ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17992245.html )

・・・

「聖光録」《二月の吾が祈り》(P149~151)に収載されました。

         <感謝合掌 令和元年12月16日 頓首再拝>

祈りは神に近づく道である - 伝統

2019/12/28 (Sat) 04:51:54


        *『生長の家』(昭和31年9月号)より

祈りによって私たちは、神に近づくのです。

距離的に近づくのではなく、
自覚の上でだんだん神に近づいて来るのです。
内部にある神が現象の自分に近づいて来るのです。
そしてその神とついに一体になるのです。


あなたの内部に宿っている神を疑ってはなりません。
宇宙を設計し創造したところの目に視えない大いなる神が、
あなたの内部に宿っている神と同じ神なのです。

神はコトバの力によって萬物を創造したのであり、
あなたもコトバの力によって萬物を創造するのです。

あなたの肉体もあなたの環境も
あなた自身のコトバの力によって左右されるのです。

泣き言を言ってはなりません。
私たちの住んでいる世界は私たちの潜在意識に蓄えられた
私たちのコトバが結晶して現れて来たものだと云うことです。

祈りはコトバの力であります。

コトバは必ずしも肉体の口から出るものだけではありません。
無言のコトバもあります。

心の中でクヨクヨ思っているのは
消極的なコトバを内攻させていることになります。

コトバは先ず心の内にあらわれ、
それが形にあらわれて言語となり、更に行動となります。

自分の行動となるだけではなく、
自分に関係あるすべての人々にその想念が波及して
それらを行動せしめることにもなります。

   ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18060359.html 消滅)

         <感謝合掌 令和元年12月28日 頓首再拝>

祈りながら働く - 伝統

2019/12/31 (Tue) 02:32:39


       * 『生長の家』誌 昭和25年12月号より

井戸を掘ったら水は井戸に満つるのである。

祈るばかりで水を求めても、水は必ずしも与えられないのである。

地下水は既に与えられているけれど、掘らなければ水は噴出しないのである。  
無限供給は既にあれども手を拱いて働かないところには
その供給は与えられないのである。

しかし無闇に掘っても必ずしも水は湧き出ない、水脈をあてることが必要である。
水脈にあてるには神の智慧が働かないとならないのである。

祈りつつ働くことが必要である。
祈りばかりでは物事は成就せず、
働くばかりでは方向を誤って働いてその働きには効果が少ないのである。



         ~ 事業の隆昌を祈る言葉 ~

    吾は吾が繁栄について神に感謝の言葉を捧ぐることを忘れない
    吾はいま神に感謝するのである。

    なぜなら、すべての供給は吾が掌にあり、
    世界の富は、吾が信仰が自由に支配するところであるからである。

    『神は求むるに先立ちて吾に応えたまう』

    それ故に、吾が求むる善きものは今吾が手にあるのである。

    『汝祈るとき既に受けたりと信ぜよ。さらば汝はその求むるものを受けん』と。

    一切のものは、先ず霊の世界において観念として存在するのであるが、
    吾が求むる物はもう観念の世界に産み出され、
    次第に吾がために現実化しつつあるのである。

    それ故に吾はたしかに観念の世界において求むる物を既に受けたのである。
    そして、あらゆる観念は現実化するものであるから、
    それはやがて現実世界にも受けることができるのである。

    吾これを確信して感謝したてまつる。
    吾、吾が事業の隆昌を眼のあたりに見て吾は悦びに満たされているのである。

    吾は吾が求むる事業の隆昌を得たるのみならず、
    思念に従って一切の物を実現し得る力をもつことを自覚したが故に、
    歓びに満たされているのである。

    吾は吾が得たる光と生命と財福とに対して感謝を表したてまつる。
    
    (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18244349.html 消滅)

         <感謝合掌 令和元年12月31日 頓首再拝>

毎日祈ることが大切 - 伝統

2020/01/19 (Sun) 04:51:46


      *「女性の幸福365章」(P13)より

祈りというものは、魂が神に近づく心の体操であるから、
毎日、肉体の体操をしておれば筋肉が発達して来るのと同じように、
祈りを毎日重ねていると、魂は毎日一層清まり、発達して来るのである。

それが本当の祈りの御利益というものであって、
現世的なことばかりを御利益だと思ってはならない。

現世的な御利益は肉体の死とともに捨ててしまわねばならぬけれども、
魂の清まりと発達とは死を超えて存続する永遠の功徳なのである。


毎日祈ることが必要である。
それは毎日食事をとり、ある程度の肉体的運動が必要なのと同じことである。

食事をするときには自分自身に適する食物と、適しないでも常食として
常に食しなければならない食物があるのと同じように、一定の言葉を念ずる
基本的神想観をすることは正しい主食品を常食とするようなものである。

それのほかに祈る際、自分自身の個性に適するところの「念ずる特殊の言葉」
が自然に生じて来るものである。

その特殊の言葉を『私はこうして祈る』の本から選び出すのもよいが、
自然に祈っているうちに、内部の神から教えられて来るものである。

         <感謝合掌 令和2年1月19日 頓首再拝>

正しい祈りの方程式 - 伝統

2020/01/29 (Wed) 04:33:28


        *『女性の幸福365章』(P31《心豊かに神を思う日》)より抜粋

姿勢をととのえること。

心を静かにすること。

神を思うこと。

神に感謝すること。

神の智慧と愛と生命と裕かなる供給にみたされて調和せる
“神の造り給える世界”を讃(たた)える言葉を念ずること。

自分の希望するものを与えたまえと祈ること。
その希望が今、実相の世界から現象化しつつあるという期待に、
自分の心を明るく歓喜(かんき)に満たしながら静かに待つこと。

「既にそれは与えられている」と念じて感謝すること。

これが何者かを祈り求めるときの、正しい祈りの方程式(ほうていしき)である。

            <感謝合掌 令和2年1月29日 頓首再拝>

祈りの効果をデール・カーネギー著『道は開ける』から考える - 伝統

2020/02/03 (Mon) 04:25:05


        *Web:今日も良いことがあるように(2019/07/01)より

世界の成功者には、祈りや瞑想をしている人が多くいます。

どれだけ仕事で忙しい人も、1日のスケジュールに祈りや瞑想の時間を設けています。

その理由となることをデール・カーネギー著『道は開ける』から考えてみましょう。


《デール・カーネギーの母親~祈りの力》

いつの時代も、母親は偉大なものです。

母親なくしては、どんな偉大な人物も生まれず育ちません。

たとえ、世に名前がでることはなくても、
苦難のなかで夫を助け、立派に子どもを守り育てていく母親は、
それだけで賢母だと言えるでしょう。

世界的なベストセラー『道は開ける』や『人を動かす』の著者、
デール・カーネギーの母親もそんな人でした。

カーネギー一家は、アメリカ合衆国のミズリー州の貧しい農家でした。

その地では、大洪水によって
トウモロコシ畑や牧草地が数年は害をうけることもありました。

毎年のように豚がコレラで死に、死骸を焼かねばならないこともありました。

そのような土地柄で、デール・カーネギーの両親は、
一日に十六時間も精一杯働きましたが、借金に追われどおしでした。

畑は抵当にとられ、いくら働いても利子の支払いさえもとどこおりがちでした。
銀行は、父親を悪しざまに罵り、畑を取り上げると脅しました。

そのとき父親は四十七歳でしたが、
三十年間も働きつづけた結果が、借金と屈辱の日々だったのです。

父親は、悩み、身体をこわしました。

医者は、カーネギーの母にこの分だとあと半年はもたないと告げました。

父親は川に身を投げて自ら死ぬことを考えました。

しかし、彼が思いとどまったのは、
彼の妻、カーネギーの母親のおかげだったと、後に語っています。

母親は、神様を愛して、その掟を守っていれば何もかもよくなると信じ、
毎日祈りをささげていたのです。

母親は、毎晩寝る前に、聖書の一章を朗読する習慣をもっていました。
そして、働きながら賛美歌を歌う人でもありました。


   平和、平和、くすしき平和よ

   神よりたまえるくすしき平和よ

   わが魂をとわにおおい給え

   つきせぬ愛の大海の中

「苦闘に心痛に満ちた歳月のあいだ、母は決して悩まなかった。
母は心の悩みをすべて神に訴えていた」(『道は開ける』)

「母は正しかった。最後には、何もかもうまくいった。
父はその後四十二年間幸福に暮らして、八十九歳で亡くなった」(前掲書)


洪水、疫病、借金も、彼女の勇ましい魂を屈服させることはありませんでした。

彼女は祈ることによって、自らを救い、夫、そして家族の窮地を救ったのです。

母親が子どもに与える影響は大きいものです。

カーネギーが後に、自らの苦難にも耐え、
人々の悩みを克服するような名著を書くことができたのは、
この母親のおかげでもあるでしょう。



《偉人や成功者の祈りについての言葉》

世界の偉人や成功者の中には、
祈りの効果を知り、実践していた人が少なくありません。

『道は開ける』に出てくる祈りについての名言です。


   神が見ていてくださるのだから、
   最後にはきっとうまくいくのだと信じていました。
   不安になる理由など、なにもありません。

        ヘンリー・フォード(フォード・モーター創業者)

          ・・・

   祈りがなけば、私はとっくの昔に正気を失っていた。

        マハトマ・ガンジー(インド独立の父)

          ・・・

   深い信仰心や祈りには、不安や悩み、恐怖を打つ消す力がある。

        デール・カーネギー(作家・社会教育家)



人間には、誰でも弱さ、欠点、失敗があります。

しかし、赤ちゃんが親から愛されるように、
私たちも神にこそ愛されているのです。

神を信頼するなら、私たちは決して見捨られません。

神が共にいる限り、恐れも不安も消えていきます。

自分の道を勇気をもって前に進むことができます。

困難があっても、必ずや目的地に着けます。

祈るとは、神に自分をゆだね、神と対話しながら、
神と共に人生を歩むということです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

【出典】デール・カーネギー著『道は開ける』

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/07/01/custom-78/ )

            <感謝合掌 令和2年2月3日 頓首再拝>

まず祈りましょう - 伝統

2020/02/23 (Sun) 02:24:17


         *「生長の家」(昭和33年8月)より

『心に描いたものが形にあらわれる』と云う心の法則は、
同時に『心に描かないもは形にあらわれない』と云う限界の法則でもある。

心に暗いものを描きながら、明るい事物を希望しては無駄である。

『類をもって集る』と云う心の法則は、
『類でないものは集らない』と云う法則でもある。

私たちは単にその法則を学んだだけで足れりとせず、
常にそれを実践する訓練をつまなければならない。
  
自己の欲する『希望された状態』を既にあるかの如く心に描く練習をしなければならない。
  
その練習をしないで行きずりに一寸『明るい心』をもっただけで
『明るい事物』があらわれなかったからと云って『心に思った通りにあらわれない』
などと思ってはならない。

人間の心は、現在意識の底に潜在意識があって
それが尚暗黒を想念している事があるからである。

何よりも心の迷い、恐怖、不安等を取除きなさい。

毎日の祈りの際に、神が無限の供給源であり、無限の生命源であることを念じなさい。
さうすることによって、一切の心の迷い、恐怖、不安等を取除くことができるのです。


   神は無限生命であり無限供給でありたまう。
   私は神の子であるから、
   常に神より無限の生命と無限の供給とを与えられているのである。

   だから常に健康であり、裕かであるのである。
   神は常に私を護りたまうが故に私は何ら不安も恐怖もない。
   心は常に明るく愉快で、私は神の生命と財産の供給が無限に
   流れ入るパイプになっているのである


     
あなたは寛大に人々を赦し、人々に先ず裕かに与えることによって、
神からも豊かに愛と生命とを与えられるのである。

あなたの持てる能力の全部を献げて人類のために尽すがよい。

あなたの能力、物資、時間、心身のエネルギー、
それらは本来神からきたものであるから、
神の栄えをあらわすために人類に献げなければならない。

神の栄えをあらわすために、先ず自分の持てるものを献げることが、
自己が健康になり、又富むことの主要原因であるのである。

併し何時、如何に、何に、誰に、何処に与えるかが問題である。

それを知るためには、先ず充分神に祈って、神からの叡智の流れを汲み取って
その智慧に導かれて与えなければならないのである
   

あなたが若し病気であれば、あなたの想念を病気の症状に集中してはなりません。

症状を超え、現象を超え、『神の子』たる完全なる實相に集中しなければなりません。
既に癒されている完全なる状態を心に描いて、
その想念を心のうちに持ち続けることが必要であります。


   神は我が内なる實相の生命である。實相のみが實在するのである。
   神は完全であるから我が内なる實相の生命は完全である。
   實相のほかには何ものも實在でないから、我が全心身は實相そのものである。

   實相は完全であるから、實相そのものであるところの全心身は健全である。
   病気と見えているところのものは、
   それは實相の完全さを知らない迷いの影に過ぎないのである。

   迷いは真理を知ることによって消えるのである。
   私は今神より叡智の光を受けて全ての迷いが消えたが故に
   〃迷いの産物〃なる病も消えたのである。

     ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18004730.html ~消滅 )

            <感謝合掌 令和2年2月23日 頓首再拝>

《相手の幸福のために祈れ》 - 伝統

2020/03/04 (Wed) 04:27:22


          *『幸福を招く365章』第3項(P53~54) より

何か問題が起こって来ても、すぐ、「それは何某が悪いのだ」と
その人を呪うような考えを思い浮かべてはならない。

人を呪うような考えを起せば、その呪いの精神波動があなたを中心として
宇宙の中に必ず何等かの攪乱作用をおこすのである。

すると、その派長に合う乱れた精神波動があなたを中心として集まって来る。
それは結局、あなたの不幸を惹起することになるのである。

それよりも、その人を赦す思念をすべきである――
「私はあなたを赦しました。私はあなたを愛しております。
貴方が幸福になるようにいのります」と静かに相手を祝福する言葉を念ずるのである。

すると神の秩序は回復されるのである。

            <感謝合掌 令和2年3月4日 頓首再拝>

《宗教的儀式や祈りの意味》 - 伝統

2020/03/17 (Tue) 04:51:57


          *「真理」第9巻生活篇第2章(55~56)より

神は単に儀式や祈りによってのみ触れることのできる存在ではないのである。
神は宇宙に満つる智慧であり法則であり、吾々は常に神に触れているので
あるけれども、吾々は往々にして心の自由を乱用して、殊更に心のダイヤルを
廻して、神以外のものに波長を合わそうとしているのである。

この波長の合わし方を神の方へ波長を合わすべく調整する方法が、
時として儀式や祈りである訳である。

神の世界には病気や不幸は存在しないのであるから、病気や不幸が現れて来るのは
その人の心の波長が神の世界に合っていない証拠であるから省みて、
心の波長を神の世界に合わせるようにするならば、おのずから、病気や不幸は
消えるのである。

愛にそむく行いを棄てよ、憎みを棄てよ、怒りを棄てよ、貪(むさぼ)る心を棄てよ、
万人の幸福を願いて行動せよ、すべての人に感謝せよ、
是(こ)れ神に同調する道である。

            <感謝合掌 令和2年3月17日 頓首再拝>

徒らに祈りを反復するな - 伝統

2020/03/25 (Wed) 04:52:33


           *「光明法語」(3月25日)より

イエスは『祈るとき、徒(いたず)らに言(ことば)を反覆すな。
彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり』と教えている。

これは言を反覆してはいけないと云う意味ではない。
『徒らに反覆』しては役には立たぬのである。
言葉多く執濃(しつこ)くからみつくように懇請するから神がききたもうと思うのは
間違いである。

念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。

ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、
言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。

思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である。

            <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>

われ祈れば天地応(こた)える - 伝統

2020/04/01 (Wed) 04:50:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。
自分の棲んでいる宇宙には、
自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。

われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。

            <感謝合掌 令和2年4月1日 頓首再拝>

《祈りとは人格的交わりである》 - 伝統

2020/04/08 (Wed) 02:24:37


         *「光明法語」(4月8日)より

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。
祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。

            <感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>

《喜悦の祈り》 - 伝統

2020/04/10 (Fri) 02:40:56


         *「光明法語」(4月10日)より

神に祈るときは喜びの感情を以って祈るべきである。
神に対して泣きついてはならない。

若し、久し振りに逢った実子が其の親に対して、自己の不幸を嘆き訴えたならば、
その親は実際好い気持ちがするであろうか。
またかかる実子は親孝行だと云えるだろうか。

親に会ったとき、唯会うだけで嬉しい感情に満たされるのが
親孝行の子供ではないであろうか。

神に対して泣き言を訴えるな。
私は幸福です。健康です。豊かに暮らしていますと言え。

これが本当の親孝行の「神の子」の祈りである。

            <感謝合掌 令和2年4月10日 頓首再拝>

《(祈りをする時には)酒は飲まぬ方が好い》 - 伝統

2020/04/11 (Sat) 03:08:35


        *「光明法語」(4月11日)より

祈りをする時には茶断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる如き顔付をして見せるな。

寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂(あぶら)を塗り、
髪を梳(くしけず)って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。

併し酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから
一時の心の暗さを誤魔化すのであって、次が乱れて来る。

生活に節度がなくなり、
節度がない事を豪傑ぶって自慢にするようになる。

            <感謝合掌 令和2年4月11日 頓首再拝>

《祈りは必ず成就する》 - 伝統

2020/04/12 (Sun) 03:27:20


        *「光明法語」(4月12日)より

吾々の祈りは必ず成就する。それは間違いのなきことである。
併しながらその祈りとは、数分間、神社または祭壇でとなえることのみが
祈りではないである。

祈りと云うのは生命(いのち)の宣言(のりごと)である。
生命の奥深くで、念じていること、唱えていること、呟いていることは
悉く”いのり”である。

だから、不幸を呟いている者は不幸が来るように祈っているのである。
病気を呟いている者や、常に人に苦痛を訴えている者は病気や苦痛が来るように
訴えているのと同じことである。

            <感謝合掌 令和2年4月12日 頓首再拝>

《本性に合致する祈り》 - 伝統

2020/04/16 (Thu) 03:16:05


        *「光明法語」(4月16日)より

祈りが成就しないのは、その祈りが其の人の本性に合致しない場合か、
その祈りがまだ実を結ぶ時期に達していない場合かである。

若し吾々が自分の本性に合致しない祈りを、
たとえば「大和の国」なる日本が「戦力によって勝たしめ給え」と云うような
祈りを行なうとも其の祈りは成就しないことになるのである。

朝顔は美しき朝顔の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきであり、
梅の樹は美しき梅の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきである。
其の他の花を咲かしめたまえと祈っても成就するものではない。

            <感謝合掌 令和2年4月16日 頓首再拝>

《時期に適する祈り》 - 伝統

2020/04/17 (Fri) 04:41:43


        *「光明法語」(4月17日)より

時期に適しない祈りは成就しないが、その祈りを持ちつづけるならば、
時期が来たときになって自然成就するのである。
急いではならない。

寒中に朝顔の花を咲かしめ給えと祈るような祈りは成就しないが、
温室で咲かせても貧弱な花しか咲かないのである。
何事も時期が来ると云うことが必要である。

時期にの乗ると云うことは神のみこころに乗ると云うことである。
「みこころの儘に適当な時期に、適当な場所に、適当な何々を与えたまえ」と
云うような祈りこそ最も謙遜な祈りである。

            <感謝合掌 令和2年4月17日 頓首再拝>

《相手を自分の 「 好き 」 に強制してはならぬ》 - 伝統

2020/04/19 (Sun) 07:23:38


       *『 生長の家 』(昭和25年4月19日の法語)より

   相手が自分の思う儘(まま)にならないとて
   相手を自分の思うままにしようと思ってはならないのである。

   人間は神の子であり、神は無限であり、凡ゆる人間に
   それぞれ個性ある表現を求めていられるのである。

   自分を彼たらしむることはできないと同様に、
   彼を自分たらしむることもできないのである。

   彼が彼であることが神さまにとっての 栄(さかえ)であるのである。

   「 彼を私の思う通りにならせて下さい 」 と祈るな。

   彼が神さまの み心によって設計せられた通りの道を
   進むようにならせて下さいと祈る時、
   彼は本当に善き人となるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825964.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月19日 頓首再拝>

《神からの賜物を受けるには》 - 伝統

2020/04/21 (Tue) 03:35:40


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P75)より

霊が実体であり、物質的利益はその映像でありますから、
物質的利益を先にもとめる者は、宝の車を求めて先に置き、
宝の車の後ろに馬をつないでいるようなものであります。

それでは宝の車は動いてあなたの家に入りますまい。

原動力である馬を、宝の車の前につないで走らすことが必要であります。

すべて神の世界において成就していないことは、
いくら祈っても成就しないのであります。

しかし神は既にあなたに必要なる一切のもの、「なくてはならぬもの」
を与えず済(ずみ)でありますから、これを素直に受ける心になれば
必ず受けられるのであります。

神からの賜物は霊的存在でありますから、
それを受ける器も物質的器では受けることはできません。

霊的な賜物は霊をもって受けなければなりません。

そえゆえに精神を統一して神の恵みに自分の波長を合わすように
つとめるべきです。それが神想観的祈りであります。

            <感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>

病を癒すための祈りとヒーリング - 伝統

2020/04/25 (Sat) 04:43:17


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年4月23日)より抜粋


新型コロナウイルスの流行もありますし、医療現場が混乱している状況です。



様々な問題も露わになり、先行きの不安や経済悪化などで、
病気になる人も増えてきていると思います。

こうした時期にはどうしても変調をきたしたりするものです。

身近な方が病気になられたり、体調が優れなかったりする時に、
その方に対して行える祈りやヒーリングいついてお伝えしたいと思います。



まずその方のお名前を呼んで、以下の祈り文を捧げます。

「主よ、どうか病めるあなたの子をお助けください。 
 あなたの御光をお分けください。

 私を傷つけた者たちを私が許しますように
 私たちの罪をお許しください。

 悪しき者から私たちをお守りください。

 光に勝てる闇が無いように、
 主の御光によって病魔を除きください」

つぎに、その方を目の前にイメージして、
頭上から光の玉が降りてくるのを想像します。

両手の握りこぶしほどの大きさの光の玉には、癒しの力が込められています。

光の玉がその人の頭の上に降りてきて、頭頂部に着くと、
ゆっくり溶け出して光のオイルになって流れてきます。

光のオイルは、ゆっくりとその人の頭から首、胸元へ、
そしてお腹から腰、ふとももから足先へと、
全身を覆っていくのをイメージします。

全身が癒しの力が込められた光のオイルで満たされていくのをイメージするのです。

このように祈りとイメージを使って、癒しを願いましょう。

 (https://www.spacebrothers.jp/2020/04/blog-post_23.html )

            <感謝合掌 令和2年4月25日 頓首再拝>

《祈りの成就には時の要素が要る》 - 伝統

2020/05/04 (Mon) 04:07:04


       *「光明法語」(5月4日)より

祈りが成就するには「時」の要素がいるのである。
今日(きょう)、種子(たね)を蒔いたからとて
明日必ず芽が出ると云う訳のものではない。

「時」の要素を忘れてしまって、今日の種子が明日ただちに芽が出ないからとて、
種子を掘り返してしまうようでは駄目である。
必ず神(法則)はその種蒔(たねまき)に応えたまうと云う確信が必要なのである。

何事も急いではならないのである。
時が解決して呉れるのである。

「果報は寝て待て」と云う言葉があるが、信じて待てば、
種子を蒔いて置きさえすれば必ず発芽するのである。

            <感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>

祈りによる結果が現れるまで待つ忍耐が必要である - 伝統

2020/05/06 (Wed) 04:52:21


    *「光明法語」(5月6日《電源に結びついても直ぐには熱くならぬ》)より

電気鏝(こて)を温めるのでも、
スイッチを入れたからとて急に一ぺんに加熱する訳ではない。
スイッチを入れることは電源につながることに過ぎない。
と同時に電流は流れ入って来るが鏝は必ずしもすぐに温かくはならない。

鏝が温かくならないのは電流が来ないからではなく、時間の要素が足りないからだ。

祈りと云うことは「神」と云う無限供給の電源とつながることではあるが、
その電源につながっても、その瞬間に欲する物が出るとは限らない。

鏝が温まるのを待つと同じに、祈りに於いても結果が現れるまで待つ忍耐が必要である。

            <感謝合掌 令和2年5月6日 頓首再拝>

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