伝統板・第二

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「ひかりの一日一言50~埋蔵されたる力」 - 伝統

2019/05/01 (Wed) 04:30:36

この「埋蔵されたる力」は
「眞理」第9巻生活篇第13章(P344~372)からの謹写です。

・・・

ひかりの一日一言《1日》

《1日 新たに発掘する力》

新たに目覚める時が来たのである。
今が時である。
今が新生の時である。

私たちは五官を通して物質界と接触して生活している。
しかし、それが私たちの生命(せいめい)のすべてではないのである。
私たちは魂を通して、目に見えない不可知の世界と
連関して生活をしているのである。

そして目に視える物質界の生活は、その不可視の世界の大いなる力に
支えられているのであり、その不可視の世界の一部分を成している
のである。

それに目覚めることが、真に「新たに生まれる」ことである。
ウィリアム・ジェームズは心理学と哲学と宗教とを日常生活に
結びつけることに成功した最初の学者であったが、

「人間は平常は自分の内にある力の25%しか使用していないのであって、
あとの75%はそれを自覚したときあらわれる」

と云うことを説いたのである。

「人間・神の子」その真理はこの”埋蔵されたる力”が自分の内にあることに
目覚めるための根本的真理である。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P344~345) より

       <感謝合掌 令和元年5月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2019/05/02 (Thu) 04:09:38


《2日 吾が生命(せいめい)の神秘さに目覚めよ》

人間の内部の不可視の力は常に私たちの肉体の消耗を補充し、損傷を修復し、
生理作用を内部から調節しつつあるのである。

この不可視の力を欠如しては人間は生活できない。
この不可視の力は、人間に宿っている神の力である。

私たちはこの内部の不可視の力を礼拝し、
この内部の不可視の力に感謝しなければならないのである。
それは”神の力”であるとともに”人間の生命力”である。

肉体は「人間そのものではなく、この生命力がそれ自身を表現するための
器官であり、道具であり、媒介であるに過ぎない。」

生長の家の光明宣言の第一ヶ条に、
「吾等は宗派を超越し、生命(せいめい)を礼拝し、生命(せいめい)の法則に
随順して生活せんことを期す」
と書かれているのは其のためである。

生命(せいめい)は「神」である。
私たちの「生命(せいめい)」そのものが「神」である。

それに目覚めるのが新生である。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P345~346) より

       <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2019/05/03 (Fri) 03:39:49

《3日 神聖なる求め》

「 求めよ、さらば与えられん、叩 けよ、さらば開かれん。
目を開いて見よ、見出(みいだ)さん 」 である。

私たちの生命(いのち)の中には 「 神聖なる求め 」 と云う
“ 聖なる追求 ” が宿っているのである。

それは自分の生命の本源に対する憧憬(あこがれ)であり、
郷愁(きょうしゅう)である。
私たちの宗教心がそれである。

そして、求め、叩き、ついに眼を開いて見出すことになるのである。

静かに坐(ざ)して肉体の眼を瞑(つぶ)り、澄心(ちょうしん)し、
心の眼をひらいて 生命(いのち)の本源に呼びかけるのである。

「 わが魂の底の底なる神よ、無限の力 湧(わ)き出(い)でよ 」
低声(こごえ)で静かに幾回(いくかい)も繰返すのである。

「 わが魂の底の底なる神よ、無限の力 湧き出でよ 」
毎日この “ 聖なる求め ” を続けるならば、
ついに自己の生命の内なる不可視の力に直接対面する時が来るのである。

この不可視の力に抗(さから)ってはならない。
この不可視の力に導かれて進むとき、一切のものは成就するのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P346~347) より

          <感謝合掌 令和元年5月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2019/05/04 (Sat) 04:10:12


《4日 何故日常生活に問題が起こるか》

私たちが、無我になり、一切の利己的観念や、肉体的な情欲や、
物質的な貪欲にわずらわされることなく、最も自然な生活になるとき、
法《そのまま》の生活が来(きた)るのである。

これを自然法爾(じねんほうに)の生活と言う。

私たちの無我がくずれるとき、利己的になるとき、肉体的な情欲や、
物質的な利欲の念に駆(か)られるとき、其処に不安が生じ、悩みが生じ、
一切の厄難がむらがり来(きた)る。

外なる神は人間を罰しないけれども、人の内なる神は、その自然の発露を
物質的な肉体的な欲望によって隠覆(いんぷく)せられるがゆえに、
恰も、燦(さん)として輝く太陽を黒雲(くろくも)が蔽い隠して
暴風吹きすさぶが如く暗澹たる現実界があらわれるのだ。

日常生活の色々の面倒な問題はこうして現れる。

常に”内なる神”の”導き”又は”囁(ささや)き”に従って生活しているか、
それを無視して勝手な生活をしているかを反省せよ。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P347) より

          <感謝合掌 令和元年5月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2019/05/05 (Sun) 02:41:11


《5日 愛と法則としての神》

私たちが”内部の神”の法則を破るとき、法則が自働的に自己処罰するのである。
そらは全くオートメーション的に自働的に制御するようになっていて、
神が私たちを有意志的に処罰するのではないのである。

神は愛であって、愛憎の念によって恵みを与える者と、
罰を与えるものと差別をつけたまうことはない。

神は「愛」であるがゆえに「法則」を通して働きたまうのである。
法則はそれを知ることによって、それに随うことも出来れば、逆らうことも出来、
人間の自由にゆだねられているのであるが、

高圧電気に触れれば傷つくように、私たちは法則を逆用して傷つくのであるが、
その高圧電気を順用すれば、大いなる電動力や、化学変化や、
物理的変化も可能となるのである。

神は”宇宙を貫く法則”として全く従順に私たちの導く方向に
”自分自身”を委(まか)していられるのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P348) より

          <感謝合掌 令和元年5月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2019/05/06 (Mon) 03:12:28


《6日 自己内在の無限智に呼びかけること》

「智(ち)」が「愛」と結合して働くとき、
本当に愛を完全に実現することができるのである。

「智(ち)」の欠乏したる「愛」は盲愛となり、溺愛となり、
執愛となって、相手を傷つける。

智慧によって法則を知り、それを順用することによってのみ、
完全な幸福を自分も得、他(た)にも与えることができるのである。

善か悪か知らないでやったとて、汽車(列車)の来るときに踏切を
横断したら傷つくし、毒薬を飲んだら死ぬのである。

私たちは「智(ち)」を磨かなければならない。
生長の家は科学に反対するのではないのである。
しかし、科学も、霊智的直感によって新しき理論や事実の発見が
行なわれるのである。

どんな科学者でも、一日一回は静坐して、自己の内に宿る
「不可視のもの」に呼びかけなければならない。

”吾が魂の底の底なる神よ。無限の力湧き出でよ”

と繰り返し繰り返し念ずるのは簡単にしてよき方法である。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P348~349) より

          <感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2019/05/07 (Tue) 03:16:48

《7日 宗教と科学との相互扶助性》

私たちが若しあまりに利己的にならず、肉体的情欲や、物質的欲望に
ひっかからないならば、人生はそんなに苦痛でも困難でも複雑でも
ないのである。

虚心坦懐、則天去私、心を空(むな)しくして、胸を坦(たいら)かにし、
私を去り、天に則(のっと)るようにすれば、道はおのずからひらけるのである。

宗教と科学とは別方面から宇宙の法則に近づこうとするのである。
そして窮極は一致する。

宗教は無我になることによって”行動の倫理”に私たちを導くし、
科学は、無我になることによって”自然界の法則”に私たちを近づかせる。

しかし宗教なき科学は、行動に倫理性を失うから、発見された自然界の法則を
逆用することになって、人間自身を却って大破壊に
導く危険があるのである。

原子力の戦争利用の如きはそれであって、
行動に倫理性を欠いた科学の末路の悲惨さを物語るものである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P349~350) より

          <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2019/05/08 (Wed) 03:58:55


《8日 宗教と精神科学》

宗教の教える”行動の倫理性”と云うものは最近の精神科学の発見した
「心の法則」と全く一致するものがあるのである。

「与えよ、さらば与えられん」とか

「なんじら人を裁くな、己(おの)がさばく審判(さばき)にて己(おのれ)も
さばかれ、己(おの)がはかる量(はかり)にて己(おのれ)も量(はか)らるべし」とか、

「何ゆえ兄弟の目にある塵(ちり)を見て、おのが目にある尚一層大なる異物を
認めぬか」などは、其のもっとも尤(いう)なるものである。

此の世界は「動・反動の法則」によって支配されているのである。

鏡に映る姿のように、自分が手を挙げれば、鏡の中の映像も手を上げる。

自分が相手を審けば、自分も審かれるのであり、
自分他人の欠点を挙げれば自分もまた他(た)から自分自身の欠点を挙げて
攻撃せられるのである。

これが最近の精神科学の発見した心の法則であり、
同時に釈迦やキリストが教えたところの真理である。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P350~351) より

          <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2019/05/09 (Thu) 04:17:31


《9日 自己が霊的実在であることに目覚めよ》

人間は単に肉体ではない。
それでは肉体と精神との結合体であるかと云うと、そうでもない。

人間は「霊」である。
「霊」が物質的世界にあるはたらきをせんがためにその直接的道具として
作ったのが肉体であり、「霊」が物質世界に対処せんがために”眼”となり、
レーダーとなるために作ったのが精神である。

肉体は霊の従僕となり、道具としての役目をはたさんがために忠実であるのが、
肉体の使命である。

人間は誤って「肉体」を人間自身だと思いあやまり、
「霊」がアベコベに「肉体」の欲望に奉仕しようとする。
そして「自分がしたいことをするのが何が悪い」などと放言する。

そしてそれを「新しいモラルの追求」だなどと高尚ぶった理論づけをする者が
あるけれども、彼は自己自身が「霊」であると云うことを知らないのだ。

人間が霊であると知るとき人間は始めて行動に倫理性を獲(う)るのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P351~352) より

          <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2019/05/10 (Fri) 04:26:00


《10日 人間の主体は霊である事を自覚せよ》

人間は「霊」である。
「霊」こそ人間であり、久遠に神聖なる「神の生命(せいめい)」の受胎である。
肉体はそこに「霊」が受胎したところの「神の宮」に過ぎない。

「宮」も大切であり、清潔に保存しなければならないが、
「霊」は一層大切である。

「霊」は「神の生命(せいめい)」であるから永遠そのものである。
それは不滅である。神聖である。
それが「人間」である。

その「人間」が「肉体」を道具として使う。
その道具を動かすための媒介となるようなエネルギーが「精神」である。
「霊」は「精神」を媒介として、
自分の肉体を目的通りに操作するのである。

ところがその媒介になる「精神」がくるっていたり、正しくなかったりすると、
肉体は「霊」の目的意志通りに動かなくなる。

「精神」が「霊」の媒介であると云う使命をわすれて、
肉体の奴隷になったりすることがある。

人間の主体を先ず自覚せよである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P352~353) より

          <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2019/05/11 (Sat) 04:28:04


《11日 病気は神からの電話である》

「肉体」は、人間の主体である「霊」の道具であるから、
「肉体」が逆に主導権を握って「霊」の目的に背反するならば、
これは重大な反逆だと言わなければならない。

それは重大な倒錯でもある。

それでも「肉体さかんなれば霊に克つ」であって、
霊からの制裁がやって来ることはない。

制裁がやって来てもそれを撥ね返してしまうからである。

しかし「肉体」は物質であるから、それが「霊」からエネルギー補給が
なくなるとき、それは次第に消耗し、衰弱して来る。

そのときに「霊」は精神を媒介として肉体に反省を求めるのである。
それが病気の姿をもってあらわれる。

グレン・クラーク博士は「病気は神からの電話である」と
言っているのもそのためである。

外からの神は肉体に電話をかけるのではないが、
わが内にある「神の子」なる自分が、自己処罰を肉体に
加えて病気をあらわすことがある。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P353~354) より

          <感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2019/05/12 (Sun) 04:15:24


《12日 「霊」のみが「本当の人間」である》

完全なる幸福と健康とは、人間の主体であるところの「霊」と、
その延長であるところの「肉体」とが、「精神」を媒介として
完全にその目的と行動とが一致したときに得られるのである。

即ち肉体が完全に「神の宮」として、霊的目的に奉仕したとき
得られるのである。

すべての、肉体の生理作用は、人間緒主体たる「霊」がそれを
自働制御操縦装置としてつくったのであるから、それは大体自働的に
働いているのであるが、その原動力は「霊」から来るのである。

「霊」は宇宙大生命(神)の一部分であるから、
肉体の自働装置を動かす原動力は、神から来るのであるとも言える。

若し、「霊」が肉体から来るならば、
肉体の装置は如何に完全であっても、それは生理作用をいとまなくなる。

肉体は単なる「脱(ぬ)け殻(がら)」となるのである。

「霊」のみが「本当の人間」である。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P354~355) より

          <感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2019/05/13 (Mon) 03:37:21


《13日 大生命と霊的波動を協調すること》

「霊」のみが「本当の人間」であり霊のみが活力の源泉であるから、
私たちは常に「霊」から活力を汲むことが必要である。

それは常に神想観して、「神より無限の生命力が流れ入る」と
想念しなければならない。

肉体と云う自働装置は或る程度””蓄電池”のように活力を蓄積しており、
また食物によって物質的エネルギーは補給されるようになっているけれども、
その活力の蓄積には限りがあり、

人間の生きるのは、単なる物質的えねギーの循環だけでは不可能であるから、
霊的エネルギーの補給を大生命に仰ぐようにする必要があるのである。

そのためには、大生命の霊的波動(愛)と、波長を合わす生活を
送らなければならない。

即ち「愛」の念を起こし、「愛」を生活に実践しなければならない。
「愛」を実践したとき、「愛」の心を起こしたとき、
人間は一層健康となるのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P355) より

          <感謝合掌 令和元年5月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2019/05/14 (Tue) 03:45:54


《14日 愛は性的愛好ではない》

愛は時として誤って伝えられる。
愛は単なる情欲ではない。
また性的愛好でもない。

情欲や性的愛好は純粋なる愛ではないのである。

情欲や性的愛好は、自分の悦びや快楽のために
相手を自己に奪いとろうとする。

併し純粋の愛は、他(た)の人の悦びや快楽のために
自己を相手に献(ささ)げようとするのである。

愛は自己抛棄である。
自分の中が”空っぽ”になることである。
自分の中が”空っぽ”になったとき、神が私たちの中を満たすのである。

瀕死の病人で、「今まで自分の生活があまりに利己的であった。
これらか感謝のために、人を悦ばす愛行のみを致しましょう」と
決心したとき、忽然と其の重病から癒されたと云う実例があるのも
其の為である。

神は凡(あら)ゆる善きものの本源であり、
愛は凡(あら)ゆる生ける者の活力の源泉である。

神に結ばれている時、長い眼で見れば勝利である。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P356) より

          <感謝合掌 令和元年5月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2019/05/15 (Wed) 03:57:07


《15日 神を常に憶念せよ》

肉体の物質的力や、脳髄から出る精神的力などが迚(とて)も及ぶことが
できない不可知の不可思議の力が、「霊」的方面を開発することによって
現れて来るのである。

この霊的力を開発する道は、それに対して常に「精神」を振り向ける
ことによるのである。

「精神」が「霊」と「肉体」との媒介となるのである。
「衆生、仏を憶念すれば、仏衆生を憶念しまう」と云うのはそれである。

されば、心をもって、つとめて自己の生命(せいめい)の本質に喚(よ)びかけよ。
喚(よ)びかけなくとも常に神はその生命(せいめい)の流れをラジオの
電波のように、到るところに放送していられるのであるけれども、
波長が合わなければ、現実にには、それを受け取ることができないのである。

「喚(よ)びかけ」たり、「憶念する」ことは、大生命の本源に
波長を合わせることになるのである。

道を歩いている時にも神に呼びかけよ。
仕事に向かう時にも神に呼びかけよ。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P356~357) より

          <感謝合掌 令和元年5月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2019/05/16 (Thu) 04:13:50


《16日 肉体は人間ではない》

人間は食物(しょくもつ)を摂取してそれを消化器で消化し、
更にそれを吸収して血液中の養分として全身に搬(はこ)ぶのである。

しかしその栄養分の何元素を何処に搬(はこ)び、如何なる位置に排列して
人体の組織にするかを指導する「知性」は、人間の内部にある「霊」である
のである。

肉体それ自体は一種の自働機械に過ぎない。
それを使用するのは「霊」である。

肉体は一種の煉瓦建築物のようなものである。
煉瓦は搬(はこ)ばれて来る。
それは消化器を通して栄養分が肉体構成の材料として
搬(はこ)ばれて来るようなものだ。

しかし幾ら煉瓦を其処に積み上げても、それは建造物にはならない。
それを一定の設計に従って配列して行くことが必要である。

設計は設計家の知性によって行われ、その指導の下(もと)に
多くの工人(こうにん)が働くのである。

多くの工人(こうにん)は人体に於いては細胞である。
その設計を指導するのは「霊」である。

「霊」が人体である。

「眞理」第9巻生活篇第13章(P357~358) より

          <感謝合掌 令和元年5月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2019/05/17 (Fri) 04:19:41


《17日 潜在意識の役割に就いて》

「霊」が人間であり、「肉体」はその使命遂行の道具であり、
肉体の構造過程を指導するのは「霊」であるが、
それは「潜在意識」を媒介として、
肉体を構築する工人(こうにん)が監督せられる。

「霊」は設計者であり、潜在意識は現場監督の技師であり、
細胞は工人(こうにん)である。

人間の「霊」は神の分霊であるから、人体を完全に設計しているので
あるけれども、潜在意識と云う技師は時々「自分考え」をもっていて、
「霊」が本来設計した通りに工人(こうにん)を指導しない事がある。

潜在意識が憎しみの念や、悲しみの念や、自暴自棄の自己破壊の念に
かられている時には、それによって指導が歪められ、設計通りに
肉体と云う建造物が出来上がらない事がある。

潜在意識の中につみ重ねられている悪念や迷いの念は
仏教で所謂(いわゆ)る「悪業」として作用して、
生まれつきの奇形児などを生ずる事にもなる。

「眞理」第9巻生活篇第13章(P358~359) より

          <感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2019/05/18 (Sat) 04:04:45


《18日 宗教は何故病気を治し得るか》

或る婦人が楽しい気持ちで、美味(おい)しく食事をとっている。

其の時に電話がかかる。
「貴方の良人が自働車に今衝突して重傷を負って生命(せいめい)は
危篤に瀕している」と電話は告げる。

彼女の顔色は忽ち青褪め、食事は殆ど咽喉(のど)を通らなくなり、
身体(からだ)はふるえる。

このように精神と云うものは肉体の生理作用に影響するのである。
常に何かの心配を持ちつづけている人の肉体は虚弱であり、
慢性病にかかり、血液に毒素を生ずるので皮膚に斑点やシミが生じて
容貌が衰えて来るのは当然のことである。

あまりに心配したために一晩中に頭髪がすっかり真っ白になったと云う
実話があるのも不合理ではない。

多くの病気は、常にその最初の根元が精神の不調和にあることは、
最近の精神身体医学が明らかにしつつあるところである。

宗教が心を根本的に整える効果がある以上、宗教的悟りによって
病気が治っても不思議ではない。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P359~360) より

          <感謝合掌 令和元年5月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2019/05/19 (Sun) 04:04:32


《19日 肉体は常に新たに造られている》

慢性病があるからとて、肺臓が空洞になっているからとて
恐れることはない。

肉体は、造られつつあるのであって、一度出来てしまったら毀すより
ほかに改造の余地がないと云うような固定したものではない。

どんな固い鉄の棒でも、コンクリートの塊でも、それは吾々の感覚面に
固いとして感じられるだけのものであって、実はその中の分子は
間断なく自由運動しているものであることが物理学によって証明されている。

その自由運動をつづける分子が、ひとたび肉体の中に入り、「霊」の設計の
範囲内に移され、潜在意識の指導のサークル内に置かれると、その分子の
自由運動は、潜在意識の指導の下(もと)に置かれ、肉体を健全に補填し
構造する位置に配置せられ、肺臓の空洞は埋められ
肉体を健全に構造するに役立たない成分や分子は体外に排泄せられる。

先ず心を調(ととの)えて正しき位置に養分を配置するようにすれば
健康体が再生する。

「眞理」第9巻生活篇第13章(P360~361) より

          <感謝合掌 令和元年5月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2019/05/20 (Mon) 04:27:38


《20日 肉体は永遠に老いないのが原則である》

肉体の古き細胞はそのエネルギーを消耗して死滅し、
常に新しき細胞がそれと交代して正しき位置に配置せられる。

だから、肉体は日に日に新たに造られれると言って好い。

それは皮膚の傷を見ても明らかである。
指先の皮膚に傷をしても、単に新しく皮膚と云う被膜がビニールを
かぶせたように出来るだけではなく、指紋までも元の通りに復旧する。

これは単に新しき栄養分が取って代ると云うだけではなく
微妙なる「知性」が、その栄養分を配置する時に細かい点に至るまで
指導しているのだと云うことが判る。

だからこの指導さえ誤らなかったならば、肉体は常に健全であり、
新しく若々しくあるのが当然であるのである。

生命(せいめい)は神より来たり、
神は永遠に老いないのであるから
生命(せいめい)も永遠に老いないのであう。

肉体も日に新生しつつあるから肉体も永遠に老いないのが原則である。
人間は霊肉ともに若いのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P361~362) より

          <感謝合掌 令和元年5月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2019/05/21 (Tue) 04:30:48


《21日 実在の人間を見よ》

神は存在の第一原因である。
寧(むし)ろ存在の第一原因を神と云うのである。

そして神は完全であり、神の智慧も完全であるから、
その智慧によって設計され構成せられた此の世界も完全である。
従って不完全と云うものは存在する余地がない。

此の完全なる世界を”実相の世界”又は”実在界”と呼ぶ。
そして”実在界”に住む完全なる人間を”実相の人間”と云う。

しかし神は霊であるから、神の造りたまえる
「実相の世界」も「実相の人間」も、共に霊的実在であるから、
物質を感覚する道具なる五官の感覚では感ずることはできない。

私達の感覚は、その霊的実在が、
時間空間のスクリーン(銀幕)に投映された「影」を見て、
それを物質として固定化して感じるに過ぎない。

私たちは「影」そのものだけを見て、それを実在だと感じてはならない。
「影」を象徴として其の奥にある霊的実在(神の国)を
霊的人間(神なる人)を見よ。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P362~363) より

          <感謝合掌 令和元年5月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2019/05/22 (Wed) 04:34:20


《22日 現象界に不幸が起こって来る原因》

実在の完全な人間が、そして実相世界の完全な状態が、時間・空間の
映写幕の上に映って来る過程に於いて、心のレンズが曇らされても、
物質の映写幕に歪曲(ゆがみ)が起こっても、
其処には不完全な映像があらわれて来る。

心のレンズが曇るということは、心の持ち方の不正や、感情の過度の興奮や、
抑圧された嫌悪、嫉妬、憤怒等の潜在意識であって、此れ等が、
現象界にあらわれる状態(事件及び健康状態)を歪んだものにするのである。

物質の映写幕の歪曲(ゆがみ)とは、毒物を摂取するとか、
自働車が衝突するとか云うことである。

いずれの原因からでも現実界に故障が起こって来る可能性があるのであるが、
毒物を摂取したり、自働車が衝突したりするのは、結局、自己の潜在意識の
中に、罪悪意識や、自己処罰観念や、自己破壊意識や、攻撃精神があるのが
自己に反映して来たのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P363~364) より

          <感謝合掌 令和元年5月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2019/05/23 (Thu) 03:08:12


《23日 攻撃精神を中和しましょう》

他(た)を攻撃する精神を起こす場合には自分も傷つくのである。
度々(たびたび)自動車を衝突させた運転手が生長の家に入信して、
「天地一切のものと和解する」心境になったとき、

少しも自分の操縦する自動車が衝突しなくなった実例もあれば、
いつでも朝の顔剃る時顔を傷つけていた人が『生命の實相』を読んで
心境が一変するとそれ以後、全然カミソリで顔を傷つけなくなった
実例もある。

このようなことは内臓にも同様に起こるのであって、
内臓の粘膜に潰瘍を起こすのも、癌腫を発生するのも、
心の中に何か攻撃精神があって、
それが内臓に具象化して来ることが多いのである。

攻撃精神は色々の形で私たちの潜在意識の中に巣食っているものである。
それは獅子身中の虫のように人間を傷つける。

愛と、同情と深切と、理解と、隣人に対する献身の心とが、
その攻撃精神を中和して人間を健康に引き戻すのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P364~365) より

          <感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2019/05/24 (Fri) 03:21:58


《24日 愛は平和を持ち来す力》

愛は世界に於ける最も大(だい)なる平和を齎(もたら)す力である。
愛なきところに、単に理論や正しきのみのあるところには
平和は来らないのである。

理論は各々(おのおの)の立場から相手の立場を真直ぐに横切るのである。
各々は正しく主張し。そしてその理論は交叉して互いに激突する。
理論ばかりの世界には調和はあり得ないのである。

愛のみが反対の立場のものを包容して互いの立場許しながら
調和と平和を持ち来(きた)すのである。
神は愛であり、愛は神であり、神は生命(せいめい)であるから、
愛のあるところに神は来(きた)りたまい、其の人の生命(せいめい)は
生き、病(やまい)は癒やされるのである。

キリストは「汝ら互いに相(あい)愛せよ、愛する処に我はいるなり。」
「若し汝等互いに相(あい)愛せば、すべての人、汝等をわが弟子なりと
知らん」 といみじくも教えているのである。

キリスト教国と云う名(な)、レッテルだけの国が戦争をするのである。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P365) より

          <感謝合掌 令和元年5月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2019/05/25 (Sat) 03:36:17


《25日 暗黒(やみ)は決して存在しない》

暗黒(やみ)は存在するように見えても、
そんなものは存在しないのです。
其処には光の欠乏があるばかりです。

暗黒(やみ)を消すには一層巨大な暗黒(やみ)を持って来て
覆ても消えるものではありません。

”光の欠乏”でしかない暗黒(やみ)は、
光をつぎ込んだら消えるのです。

あなた病気がそんな形をしているにせよ、
それはあなたの潜在意識の中になる攻撃精神や、憎しみや、怒りや、
嫉妬などと云う愛の欠乏から起っているのですから、

憎みや嫉妬や憤(いきどお)りを捨てて、赦しと愛とをあなたの心に
注ぎ込むようにすれば、その病気は消えてしまうのです。

どうしても赦し得ない心も『生命の實相』を読んで「敵本来なし」の
真理を知れば赦し得るようになるのです。

若し、あなたの潜在意識の中に自己処罰の念があるために、
病気を起しているのでしたら、『生命の實相』を読んで
「人間本来神の子であり、本来罪なし」と云う真理を知れば
自ずから自己処罰の念が去って病気が消えてしまうのです。


「眞理」第9巻生活篇第13章(P366) より

          <感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2019/05/26 (Sun) 03:11:32


《26日 外見で人を審(さば)いてはならない》

他(ひと)を赦しなさい。
赦さない心は縛る心です。

相手を縛る前に、そのあなたの心はあなたの中にあるのですから、
先ず自分自身を縛ってしまうことになる。

その結果、あなたの生理作用は縛られ、病気が起こってきます。
関節の不自由や、身体(からだ)の或る部分の硬直などは
其の縛る心によって起こって来るのです。

また赦さない心は相手を刺し又は打ち、痛めたい心ですから、何かと
衝突する出来事を起こしたり、痛みを伴う病気などを起こします。

他(ひと)を赦せば自分が赦されるのです。
腹が立って仕方がない時には、相手の立場になって考えてあげなさい。

また、五官で見える外見をその人の本当の相(すがた)だと考えることを止めて、
外見の奥にある実相は「神の子」で完全だと云うことを心の眼で見てあげなさい。

外見の悪い相(すがた)は汚れた風呂敷のようなものです。
風呂敷の中に立派な「神の子」と云う実相があるのです。

  *『真理』第九巻「生活篇」(P367)より

          <感謝合掌 令和元年5月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2019/05/27 (Mon) 04:30:48


《27日 何故(なぜ)戦争は 止(や)まないか》

何故、戦争や馬鹿馬鹿しい闘争が繰返されるのでしょうか。

少し考え深い人なら戦争は引合わぬ商売だと云うことがわかる筈なのです。

此の引合わぬことをするのは 人類の自己処罰意識から来るのです。

人間は “ 神の子 ” であり “ 本来無罪 ” の自覚に到達することができず、
人類の潜在意識の中に “ 自分は罪人(つみびと)だから戦争でもして
自(みずか)ら傷つけることによって自己処罰しなければならない ”
と云うような観念が抜け切らないからなのです。

罪の観念は 罪を招(よ)び、大量殺人と云う自己処罰の罪悪を犯すことになるのです。


だから根本的な平和運動は、

「人類は互いに神の子として兄弟であるから仲好くしなければならない」

と自覚すると共に 

「人類は神の子として本来無罪である。神のみが創造主(つくりぬし)であり、
神は罪をつくらないから、罪は無いのだ 」

という教えを人類に出来るだけ早く弘(ひろ)めるようにしなければならぬのです。

         *「真理」第9巻生活篇(P368)より

          <感謝合掌 令和元年5月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2019/05/28 (Tue) 04:47:23


《28日 ”実在の延長”としての善と”迷い”の表現としての幻影》

私たちは、正しい確(かた)い信仰をもって生活せねばなりません。
正しい確(かた)い信仰とは、ただ善のみ実在であって、
悪は存在しないと云う強く動かない信仰です。

これは、創造主(つくりぬし)なる神は唯一(ただひと)つであり、
決して悪はつくらないという神への深い信頼から来る信仰です。

すべての悪は人類の主観がつくった幻影に過ぎないのです。
あなたは「客観的にあらわれている事物を幻影(まぼろし)などとは
思われない」と言われるかも知れません。

併し具体的な形はすべて結果であって原因ではないと云うことです。

心が原因者であって、心が計画するとおり具体はあらわれるのです。
正しい心があらわした具体なら本物ですが、迷っている心があらわした
具体ならば、それは”妄想のあらわすところ”即ち幻影に過ぎないのです。

実在をしっかり見詰めて実在をあらわした具体ならば、
それは実在の延長として本当にあるのです。

実在でない悪を心に描いて現わしたものは単なる幻影でしかないのです。

         *「真理」第9巻生活篇(P369)より  

          <感謝合掌 令和元年5月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2019/05/29 (Wed) 03:24:13


《29日 ”実在の世界”に新生せよ》

”実在の世界”を眺めましょう。
其処は常に光風霽月(こうふうせいげつ)であって、
愛と智慧と生命(せいめい)と悦びと平和とが
満ちているのです。

すべて善なるもののみが充満しているのです。

その実在の世界は今此処にあるのです。

ただ五官はそれを見ることができず、
それを知るのは直覚認識によってです。

これを仏教では”悟り”と言うのです。

そして直覚認識によって”善のみを充満する世界”を知り、
それを見詰めるようにしていますと、その延長が現実の世界にも
あらわれて来て、五官の感覚に認められる世界にも、
愛と智恵と生命と悦びと平和との満ちた状態があらわれて来るようになるのです。

それが新生活への出発であり、旧世界から新世界への誕生なのです。

その新世界に於いて、あなたは豊かなる神の後嗣者(あとつぎ)として
ゆたかなる能力を、智慧を、生命(せいめい)を、愛を
与えられているのです。


         *「真理」第9巻生活篇(P370)より  

          <感謝合掌 令和元年5月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2019/05/30 (Thu) 04:29:24


《30日 愛は人の悪を見ず》

人の悪を見ず、審(さば)かず、その善き処ばかりを見て、
それを尊敬し、称嘆するのが愛である。

愛が人の中に宿るとき、その人は柔らかくして強くなる。
そう云う愛に貫かれた人の正しい主張は何人(なんぴと)も
抗することができないものである。

そう云う人の愛の行くところ其処は必ず調和があらわれる。

愛なくして利害の衝突するところ、調和を求めても
決して調和はあらわれて来ないのである。

愛は利害関係を超える。
利益になるから愛するのではないのである。

愛するがゆえに愛するのであり、
愛するために損になっても愛するのが本当の愛である。

これは夫婦関係でも国と国との関係でも同じことである。

利害関係に終始している限りに於いて永久に平和は来たらないのである。
利害関係の誘惑はサタンである。

人類が純粋の愛で結びつき、利害関係を超越したとき本当の平和は訪れきたる。


         *「真理」第9巻生活篇(P370~371)より  

          <感謝合掌 令和元年5月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2019/05/31 (Fri) 03:44:52


《31日 愛を与えれば魂の底から悦びが湧いてくる》

若し、私たちの生活に何か不満足や不平の感じが起こるならば、
それは「愛」が欠乏しているからです。

「愛」を受けることが欠乏しているばかりでなく、
「愛」を与える事が欠乏しているのです。

このような状態を改善するには、先ず誰かに自分自身の「愛」を
「深切」を与えることを実践することです。

其処から不思議な喜びが魂の底から湧き上がってくるのです。

「愛」を与えられないのは、こちらが「愛」を与えないからです。
しかし自分が「愛」を与えているのに、その人は私に「愛」を
与えてくれないと嘆く人もあるでしょう。

それは愛を与えているのではなく、其の人に執着しているのです。
執着は「愛」ではなく、「ねばり附き」ですから、
相手に窮屈な感じを与え、相手は自分から離れ去ろうとするものなのです。

愛するとは其の人の幸福のために 何も求めないで 自分を放ち去ることです。

         *「真理」第9巻生活篇(P371~372)より  

          <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

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