伝統板・第二 2581275

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(五月)陽めぐりいず(光明掲示板・第二)

1:伝統 :

2019/04/30 (Tue) 04:28:25

光明掲示板・第二 消滅により、
「(五月)陽めぐりいず」の伝統板・第二への再掲示です。



心の法則

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月1日)」より

お山のつつじが真盛りである。
万物がわたしのために讃歌を歌っている。

讃歌の世界、花びらの降りそそぐ世界、この世界がそんな美しい世界だと知ったとき
わたしはこのお山へ招かれて来たのである。

「三界は唯心の所現である。」釈迦のこの哲学が真実であるならば、
心の法則を知ることは三界を自由に動かし、
運命を自由に支配することとならざるをえないのである。

「なんじの信ずるがごとくになんじにまでなれ」キリストのこの信仰が真実であるならば、
信念の法則を知ることは環境を自由に支配し、肉体を思うまま健康にし、心に思うまま
法悦と歓喜と平和を満たすところの唯一の鍵であるといわなければならない。

心の法則なるかな。信念の法則なるかな。

せっかく、光明真理に触れたのであるから、もう一度この問題を復習してみることは、
これからの自分の生活を確固とした基礎の上に置くことになるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>
2:伝統 :

2019/05/01 (Wed) 04:25:49

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようともわれわれの実相(ほんとのすがた)は
すでに叶えられているのである。この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、幸福は来るものではない。
「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、
「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれるものではありません」と
普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」ということは
できないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が形にあらわれて消えてゆくのだ、
ありがたい」と思えばよいのである。

そして、「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心の所現であって
本当に《ある》のではない。本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 令和元年5月1日 頓首再拝>
3:伝統 :

2019/05/02 (Thu) 04:04:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月3日)」より

「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神なりき。
万(よろず)のものこれによりて成る」と「ヨハネ伝」の冒頭にあるとおり、
言(ことば)は万事の本(もと)である。

言(ことば)というのは空気の振動ばかりのことではない。
心の振動も、顔の皮膚の振動も、身体(からだ)の態度も、文章も、手紙も
すべてコトバである。

しかし根本的には心の振動が、言語という空気の振動ともなり、
表情という顔の皮膚の振動ともなる。

見ゆる形は、見えない心的エネルギーが現われたのである。

心を平和に、言葉に善きことのみを発し、表情を明るくすることが大切である。

           <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>
4:伝統 :

2019/05/03 (Fri) 03:33:30


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より

「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、人のことを考えない利己主義者の別名である。

病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。

虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われてハッと気がついて神経衰弱の治った人がある。

           <感謝合掌 令和元年5月3日 頓首再拝>
5:伝統 :

2019/05/04 (Sat) 04:06:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月5日)」より

『生命の實相』全卷を読めば詳しく回答のあることを、
読まずにいて幾回でも長文の質問を列記して返事を求めて来る人がある。
手紙ですめば本は買わずにすむという経済観念でやってくる人には太刀打ちができない。

かかる人は人の時間がいくばくの価値がある物だか知らないのである。
そのこと自身が自己の心が病気であることを表わしている。
そんな虫のよさを捨てることが病気の心を捨てることである。

返信料を封入してあれば、回答を迫る権利があるかのように思って、
返事が遅れると努号してくる人もある。
返信料は郵政省が収入する。

わたしへの手紙に対するわたしの返事は、返信料の報酬として書かれるのではない。
わたしの好意によって、書かれるのである。

しかもわたしだけが返事を書いていては、
とても間に合わないので、回答係があって返事を書いているのである。

それでも肉筆では、そして便箋幾枚の短文では詳しく説明しえないので、
数百ページの書籍において回答しているのである。


地方へ派遣する講師、みんな回答係のようなものである。
道場は直接回答係の詰所である。
回答係の必要がなかったら本部の建物も講師組織もみな不要である。

われわれは回答係に奉仕せしむるために毎月少なからぬ経費を支出しているのである。
回答を求むる人はこれらの経費を分担してもよいはずだけれど請求したことはない。

生命(せいめい)の悟りに関することを、
古人は「生命(せいめい)」を抛げ出して求めたのだ。
今人(こんじん)は(そのすべてではないが)返信料だけで得ようとする。

ものは出しただけの値打ちである。

           <感謝合掌 令和元年5月4日 頓首再拝>
6:伝統 :

2019/05/05 (Sun) 02:37:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より

眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。

第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。

曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。

第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。

思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。

           <感謝合掌 令和元年5月5日 頓首再拝>
7:伝統 :

2019/05/06 (Mon) 03:08:25


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども
内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は
地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、傲慢によってみずから傷つき、
あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは真に自由を得ることはできないのである。
しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって苦しめられるようには
できていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、
それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。

だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

           <感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>
8:伝統 :

2019/05/07 (Tue) 03:12:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月8日)」より

心で《もの》を造るのは心の法則に従うほかはない。

病気を治そうと思えば、治るような心になるほかはない。

人に頼んでも、金を払っても、そんなことでどうにもなるわけではない。

           <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>
9:伝統 :

2019/05/08 (Wed) 03:54:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

           <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>
10:伝統 :

2019/05/09 (Thu) 04:13:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月10日)」より

感謝する程度にしたがって与えられ、不平を持つ程度にしたがって奪われる。

           <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>
11:伝統 :

2019/05/10 (Fri) 04:22:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月11日)」より

第一創造の世界=第二創造の世界。
この2つの世界を繋いでいる=(パイプ)は想念(こころ)である。

想念(こころ)は大きくなければ、第二創造の現象世界に完全な状態はあらわれない。
想念(こころ)は=(パイプ)であるから、想念(こころ)で力んでみてもなんにもならない。

凝念(ぎょうねん)は生長の家の神想観ではない。
=(パイプ)を大きく持つのが神想観である。

小さなことに興奮しているようなことでは功徳はないのである。

人相ではこの=(パイプ)は眉間にあらわれる。
眉間に剣(ケン)があったり、八の字が寄っていたり、
凹(へこ)んでいるようなことではいかぬ。

           <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>
12:伝統 :

2019/05/11 (Sat) 04:23:01


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月12日)」より

病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。

幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。

部屋を浄(きよ)め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、
よきお客様が来るような気持ちでせっせと働いておれば、幸運はたずねて来るのである。

不運な人にかぎって、
ルンペンしか泊まってくれないような見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。

「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」

           <感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>
13:伝統 :

2019/05/12 (Sun) 04:11:27

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して

「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、
すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむねあきらむべし」

と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、
まだ最高級の悟りに達していないのだから注意せよと道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を

「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」

と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ
と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである ―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ―― 
したがって霊感などがあまり多くあることを慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように

「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」と

修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が

「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」

と嘆いたと書いている。

  ・・・

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

           <感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>
14:伝統 :

2019/05/13 (Mon) 03:32:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

           <感謝合掌 令和元年5月13日 頓首再拝>
15:伝統 :

2019/05/14 (Tue) 03:38:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より

「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。

むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。

しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。

理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。

理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にもそのまま金剛不壊に滅びない存在
であるから、また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。

           <感謝合掌 令和元年5月14日 頓首再拝>
16:伝統 :

2019/05/15 (Wed) 03:53:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。
だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、自己選択をなしうるということにあるのである。
万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。
曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、何を行動するかの自由を持っているのである。
その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、単なる動物にすら存在しないところのものである

しからば諸君はまず何を想念すべきであろうか。
悪を想念するならば、悪は現象し来たるであろう。
善を想念するならば、善は現象し来たるであろう。

病気を想念するならば、病気は現象し来たるであろう。
戦争や敵意を想念するならば戦争や敵意は現象し来たるであろう。
平和のみ善意のみ想念するならば平和のみ善意のみが現象し来たるであろう。

釈尊は人生のもろもろの苦しみを解脱する八つの道を八聖道として教えたのであるが、
その最初に置いたのは正見(しょうけん)と正思惟(しょうしい)とであった。
正見とは正しき見解―正しき世界観の確立である。

この世界は有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏の世界であり、
すべて仏心の展開せる世界であって悪は存在しないとの正しき見解の確立である。
すべての人間はすでに成れる仏であって完全なる自由を有するとの正しき人間観の確立である。

かくて正しき世界観人生観立ってのち、われらは想念の自由によって
正しくその真理を思惟しなければならない。
またわれらは言葉の自由によって正しくその真理を表現しなければならない。

もしわれらが正しき世界観、人生観に到着していようとも、
正しく想念せず、正しく善き言葉のみを発しないときには、われらの人生は不幸にみちたもの
となり、われらの住む世界は悲惨憂苦みち満ちたものとなるほかはないのである。

われらの人生が幸福なものとなるか、不幸なものとなるかは、
われらの想念と言葉が何を表現するかによって定(き)まるのである。

人類の霊魂なお稚くして何を想念すべきか、何を言葉に表現すべきかを知らず、
いたずらに敵意ある世界を心に描き、(正見の反対の邪見である)互いに悪想念と悪感情とを
そそり、言葉に敵意を表現するをもって足れりとなす。

その行くところや悲惨なる末路なるべきは、およそ「心の法則」によって、
然らざるをえないのである。

人間の霊魂よ進歩せよ。高級の霊魂は今後の世界の推移をいかに見るか。
われらはここに人生の深き指針として本全集『生命の實相』第九巻・第十巻「霊界篇」を
世に送り、魂の向上の必須要件を説くとともに、今後の世界の推移を示す指標とするものである。

           <感謝合掌 令和元年5月15日 頓首再拝>
17:伝統 :

2019/05/16 (Thu) 04:07:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より

おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。

「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。

現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。
神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。

調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。

           <感謝合掌 令和元年5月16日 頓首再拝>
18:伝統 :

2019/05/17 (Fri) 04:16:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より

神は自己自身を実現するために「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。
しかしてわが欲することは神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。

           <感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>
19:伝統 :

2019/05/18 (Sat) 04:01:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より

我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

           <感謝合掌 令和元年5月18日 頓首再拝>
20:伝統 :

2019/05/19 (Sun) 03:57:52


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

           <感謝合掌 令和元年5月19日 頓首再拝>
21:伝統 :

2019/05/20 (Mon) 04:23:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。
太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんなにも愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

           <感謝合掌 令和元年5月20日 頓首再拝>
22:伝統 :

2019/05/21 (Tue) 04:27:32


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より

すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。

一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。

もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。

           <感謝合掌 令和元年5月21日 頓首再拝>
23:伝統 :

2019/05/22 (Wed) 04:29:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。

           <感謝合掌 令和元年5月22日 頓首再拝>
24:伝統 :

2019/05/23 (Thu) 03:04:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より

「我(が)」の心にはたいした力はない。

心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。

脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が
血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。

「脳髄以前の心」が「理念」である。

その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。

しかしフィルムにないことは映らないが、
条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする 
―― これが現象の肉体である、

両親から独立して後(のち)は、
自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。

           <感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>
25:伝統 :

2019/05/24 (Fri) 03:17:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より

肉体に再生力があるのは、
フィルムが厳然として存在して、適当な条件を与えれば、
フィルムの現画と同様に再現すると同様である。

食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。

しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、
「適当な条件」さえも、その条件が他から与えられない場合には、
理念自身が内部から創造しうるのである。

生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。

われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせる
というほどの自信をもたねばならぬ。

人間は信念だけの値打である。

           <感謝合掌 令和元年5月24日 頓首再拝>
26:伝統 :

2019/05/25 (Sat) 03:31:23


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月26日)」より

内から発現するのが時代の流れである。
時代によって精神が左右せられるのではない。

社会的地盤から精神が生まれてくるのではなく、
内から理想は層一層完全なる形態に顕われようとして時代をつくり、
社会的構成を変えてゆくのである。

           <感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>
27:伝統 :

2019/05/26 (Sun) 03:08:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より

偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。

太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。

日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。

仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。

           <感謝合掌 令和元年5月26日 頓首再拝>
28:伝統 :

2019/05/27 (Mon) 04:26:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月28日)」より

われわれの魂の底なる希望を実現する祈りを、紙に書いて神に訴えるようにする時、
その祈りの実現性がいっそう多くなるということはグレン・クラーク教授の著書の中にも
書かれている事実である。

生長の家の信徒の中にも欲する事物を紙に書いて壁面に掲げ置き、常にそれを眺めて、
そのすでに成就せる有様を心に描いて感謝する気持を起こしているとき、
その希望が成就せる実例はずいぶんたくさんあるのである。

ある婦人は一大難関に出会(でくわ)して、人間力ではどうしてよいかわからない時、
突如として神に頼もうという感じが湧き起こり、神に対して手紙を書きはじめたのである。

「神よ、あなたは無限智であります。無限愛であります。無限力量であります。
あなたは無限の愛をもってわたしを導いて下さいます。あなたは無限の智慧をもって
わたしがこの難関を切り抜ける道を教えて下さいます…」
それから具体的な問題をこまごまとその神様に送る手紙の中に書きはじめたのである。

すると、自分一人でどうしようかと思いまどう心の騒ぎがしだいに落ちついてきて、
神とともに、その事件について対処する道を考えているような安らかな気持になってきた
のである。

そのうちに事件の全貌がハッキリしてきた。
何が問題の重要な部分であるか、何が問題とするに足りない部分であるかが
ハッキリしてきたのである。

その神への手紙を書いているうちにはまだ完全にその問題は解決せず、
解決の緒(いとぐち)が見えていただけであったが、
その3日後にはすべてのことが順調に進行して万事解決したのである。

病気の時に神にこれに類する手紙を書いて、急に病気が快方に向かった実例があるのである。

神に手紙を書くことによるこれらの功徳が起こる原因は、
それを書いているうちに心が完全に神に向かうことになるからである。

そして「吾れ神と偕(とも)に在り」という自覚が起こってき、
そのために心の平和が回復し、神の叡智に波長が合うようになってき、
したがっていっさいの問題が順調に解決するようになるのである。

ただ、祈っているだけでもむろん効果があるのであるが、
15分間以上も雑念なしに完全に神に心を振り向けて祈ることはやや困難な人が多いのである。

しかし手紙を書くとなれば、30分はおろか1時間以上も神に対して心を集中することができる。
そのために神との一体感がいっそう起こりやすく、効果もそれに従って多いのである。

           <感謝合掌 令和元年5月27日 頓首再拝>
29:伝統 :

2019/05/28 (Tue) 04:43:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より

治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。

理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。

思想や理論では恋するわけにもゆかないし、恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。

時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。

世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないという理由で、また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って理論が透らないようなものは
頭から排撃してしまって、いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。


だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系をなしているのである。
この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は医者が一つの事実を肯定するに
用うるモルモットの実験頭数よりも多く、数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮
せしめるのであるから、宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

           <感謝合掌 令和元年5月28日 頓首再拝>
30:伝統 :

2019/05/29 (Wed) 03:20:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より

「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。

思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。

この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感動の根本となっているのである。

物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。

理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。

「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまたやがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。

楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。

「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。

全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。

みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて
来るのである。

           <感謝合掌 令和元年5月29日 頓首再拝>
31:伝統 :

2019/05/30 (Thu) 04:25:52


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月31日)」より

心の法則にせよ、物質の法則にせよ、
いずれも反対の方向に働くことができるのである。

同一の力が自動車を前方にも後方にも動かす。
磁気の陽極は惹き、陰極は反撥する。

ある種の想念と感情は建設的創造的であって、友そのほか助けとなる力を呼ぶ。
これとは全然反対の効果を生ずる想念および感情もある。

それは誤解と争いと悪意とを創る。
この種の想念感情を消極的であると言うのである。
破壊的沈滞的で個人の進歩を妨げるからである。

実際失敗する人は、
好ましくない状態を作り出す方向に心の法則を働かしているのである。

次に述べる箴言はメンタル・サイエンスの箴言であって
算術の法則と同じに信頼のできる基本的な法則であり、
さっそくあなた自身にも適用されるものなのである。

すなわち「今日貴下(きか)の生活の中にある好ましくないもの、
貴下の健康・幸福・成功を妨ぐるものは、その好ましいものと同様に、あなた自身が心の法則に
働かしめてみずからそれをもたらしたからそこに存るのだ」ということである。

些細な事件、不慮の出来事、損失または利得、結婚したり離婚したり、
その他人生に起こるすべてのことの背後にはある見えざる力があり、
その見えざる力が具象化しつつあるのである。

その見えざる力は実は自分自身が起こした想念の力なのである。

諸君は想念の法則によって動いている宇宙に住んでいて、
そこで想念の法則が、あたかも物理的法則が星の運行を支配するがごとく、
諸君の運命の運行を支配しているのである。

「想念の法則」とは「因果の法則」ともいい、
現在意識すなわち自覚ある心の思想、感情、希望に常に応えてくれる
宇宙普遍の心、阿頼耶識の働きを言うのである。

これは神の働きまたは「真如縁起」ではない。
阿頼耶識の働きである。
次に主観心の説明を試みる。


阿頼耶識は心理学上の潜在意識にほぼ一致するものであるが、もっと広義に用いられる。

夢の状態で活動する心、習慣の背後にある心、タイピストや音楽家の指に
眼があるかのごとく働くその指を通して働く心である。

それはわれらの生命(せいめい)の内部にあって
われわれの身体を母胎にいる間から創造した心である。
そして今もその心は再創造を続けているのである。

阿頼耶識が浄化されてアンマラ識となるとき真如実相の智慧に近づくのである。
それが真如実相の智慧に近づくにしたがい、肉体を創造する力は完全となるのである。

われらの肉体細胞は日々死んでいるのであって、新しい細胞と組織とを創造し、
生活過程で消耗したものと取り換えつつあるのであって、
その再創造が、浄化された阿頼耶識によって導かれるとき、
肉体の再創造は完全となり、健康なる肉体が創造せられる。

これに反して阿頼耶識が浄化されないとき肉体の再創造は不完全となり病気となるのである。

           <感謝合掌 令和元年5月30日 頓首再拝>

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