伝統板・第二

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真理の生活 ⑤ - 伝統

2019/04/22 (Mon) 03:36:49

《人の心の傷を突衝(つつ)くな》

        *「光明法語」(4月22日)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。

時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。
そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

            <感謝合掌 平成31年4月22日 頓首再拝>

《人間運命の弱小は自己欺瞞に過ぎぬ》 - 伝統

2019/05/03 (Fri) 03:45:01


        *「光明法語」(5月3日)より

神の子であるところの人間が、
そんなに弱小なる運命に定められていると思うのは自己欺瞞に過ぎないのである。

自己欺瞞を去れ。
汝は神の子ではないか。

人間は自分自身の運命を斯くの如く限ってはならないと同時に、
他の人の運命も限ったり縛ったりしようと望んではならないのである。

誰をも害しない、誰をも束縛しない
自分の伸びる道があると云うことを信じなければならない。

自己の運命をよくするためには、悪は存在すると云う人類の通念に縛られず、
現象の形に惑わされないようにせねばならぬ。

            <感謝合掌 令和元年5月3日 頓首再拝>

霊感多きで、慢心するなかれ - 伝統

2019/05/13 (Mon) 03:41:31

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して

「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、
すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむねあきらむべし」

と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、
まだ最高級の悟りに達していないのだから注意せよと道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を

「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」

と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ
と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである ―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ―― 
したがって霊感などがあまり多くあることを慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように

「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」と

修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が

「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」

と嘆いたと書いている。

  ・・・

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

           <感謝合掌 令和元年5月13日 頓首再拝>

自分を「公な存在」に常に置き換えること - 伝統

2019/05/18 (Sat) 04:07:14


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より

神は自己自身を実現するために「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。
しかしてわが欲することは神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。

           <感謝合掌 令和元年5月18日 頓首再拝>

「公的精神」 - 伝統

2019/05/19 (Sun) 04:06:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より

我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

           <感謝合掌 令和元年5月19日 頓首再拝>

生活が本当になったとき心が落ちつく - 伝統

2019/06/06 (Thu) 02:26:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。
ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月6日 頓首再拝>

病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統

2019/06/19 (Wed) 04:47:46


        *「光明道中記」(6月19日)より

【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
                      (『生命の實相』第四巻)】

凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。

病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも
思念してはならないのである。

病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。

此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。

けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう相手が一層利己的な生活を
つづけるならば、癒したことは善事か悪事か疑問である。

重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。

思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。

思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。

           <感謝合掌 令和元年6月19日 頓首再拝>

最初の魂の非難にきけ - 伝統

2019/06/20 (Thu) 04:36:38


          *「光明法語」(6月20日)より

最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。

習慣と云うものは、恐ろしいものである。

先ず最初に罪に近づかぬことである。

罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり行為(おこない)である。
それが実相そのものでないと云うことは、
魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。

最初に、第一印象で、魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。

第一念で良いと思うことは善いことが多い。

        <感謝合掌 令和元年6月20日 頓首再拝>

善き友と交わること - 伝統

2019/06/21 (Fri) 04:15:54


          *「光明法語」(6月21日)より

見る姿・形は一種の暗示となって吾々の魂の中に投げ込まれるのである。

友だち又は知人の悪しき範例(おてほん)を見ていると、
その悪しき姿が自分の潜在意識内のレコードとなり、
縁を得ればその通りの悪しき姿が自分の行為(おこない)に現れてくる。


善き友と交わり、善き友の行為(おこない)を見、善き友の言葉をきく事は、
目に見えぬ無限の宝を内に積むことになるのである。

潜在意識の中にあるよき想念は、無限のよき宝であると云うのは、
其処から無限の善きものが湧き出るからである。

すべて心に入りたる物はやがて形となって顕れて来る。

          <感謝合掌 令和元年6月21日 頓首再拝>

決意をもって断じて行え - 伝統

2019/06/22 (Sat) 04:47:29


        *「光明法語」(6月22日)より

「断じて行えば鬼神も避く」と諺(ことわざ)は言う。
道は、決然たる意志の前にはその扉を開く。
道がなければ自分が道を造れば好い。

キリストは「我は道なり」と言った。
八方が塞がっても上方はあいているのだ。
上方は神に通ずる道である。道なき時には神に頼れである。

不可能を可能にかえ得るものは決意である。

「意志の教育こそは吾人存在の目的である。
断乎たる決意ある者の前には常に時と機会とが待っている」

とエマーソンは言っている。

世界を動かす梃子(てこ)は意志の力である。

        <感謝合掌 令和元年6月22日 頓首再拝>

常に貸し越しになる生活をせよ - 伝統

2019/06/23 (Sun) 03:47:28


         *「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より
 
【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時速やかに崩壊し始める。
                         (『生命の實相』第四巻)】

病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。

(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
   「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。

(2)家族のうちに反対観念者があって、
   そんなことで治るものかと強く念じている場合。

(3)憎んでいる人を赦していない場合。

(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。

(5)心が焦(あせ)っている場合。

(6)死に切っていない場合
    ―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。

   利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
   恐怖心は利己心から来るのである。


みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように店を経営して行くならば、
その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。

        <感謝合掌 令和元年6月23日 頓首再拝>

神を招く方法 - 伝統

2019/06/28 (Fri) 04:49:18


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月28日)より

神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。

心を開いて待つことが神を招く方法である。

明るい心、歓喜の心、愛の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。

            <感謝合掌 令和元年6月28日 頓首再拝>

時間を大切にせよ - 伝統

2019/06/29 (Sat) 04:46:37


       *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 令和元年6月29日 頓首再拝>

真理の前に跪(ひざまづ)く - 伝統

2019/07/01 (Mon) 04:54:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月1日)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

         <感謝合掌 令和元年7月1日 頓首再拝>

「ハイ」の「無限力 - 伝統

2019/07/03 (Wed) 04:39:58


        *「光明法語」(7月3日)より

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

         <感謝合掌 令和元年7月3日 頓首再拝>

「否定」の威力 - 伝統

2019/07/04 (Thu) 04:43:28


        *「光明法語」(7月4日)より

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの
   百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

         <感謝合掌 令和元年7月4日 頓首再拝>

道は自己の「真剣」の中にあり - 伝統

2019/07/06 (Sat) 04:18:01


          *「光明道中記」(7月6日《至誠身を献ぐる日》)より

【遊女マグダレーナは一切を真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。
                              (『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり
永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、
あまり宇宙の真理を瞑想し過ぎたので、

「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)
せるに似たるものあるに到れり」

と言うから、瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る
 ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、
達磨大師が嵩山(すうざん)に巡錫(じゅんしゃく)せられたのを機会に、
嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。
そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの赤誠(せきせい)を
披瀝(ひれき)したので、とうとう入室を許されたのである。

今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。

真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。

漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

         <感謝合掌 令和元年7月6日 頓首再拝>

憎む心を捨てよ - 伝統

2019/07/10 (Wed) 04:23:14


        *「光明法語」(7月10日)より

憎みの感情は血液内に毒素を生ずる。
それは精神の変化が脳髄に化学的変化を与え、脳髄と相互連関をもつ全肉体組織に、
敵に対して身構えするよう命ずることになるからである。

敵に対して身構えたとき、すべての生物は呼気(はくいき)より毒素を発し、
唾液の中に、敵に噛みついて殺傷するための毒素を生ずる。
これは武器が牙と爪とであった原始人時代の原始的機能を多少とも残しているのである。

それをゲーツ教授はすべての感情に於ける呼気(はくいき)の化学的実験で説明した。
副腎からはアドレナリンの分泌量の増加を起こす。

         <感謝合掌 令和元年7月10日 頓首再拝>

日常生活に道を現す - 伝統

2019/07/13 (Sat) 04:38:01


          *「光明道中記」(7月13日《日常生活に道を現す日》)より

【本当の美しさと云うものは深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                          (『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような奇警(きけい)な警句を吐いて問答し、
奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの妙(みょう)を得ることだと思っていれば、
それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、掃除をするのが禅であり、飯を炊(た)くのが禅であり、
茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。
茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても硬軟その所を得なかったり
するのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。
一芸に名人と謳(うた)われるような人は何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。

         <感謝合掌 令和元年7月13日 頓首再拝>

生活に道あり、すべて道ならざるはない - 伝統

2019/07/16 (Tue) 04:17:54


          *「光明道中記」(7月16日《道を歩む日》)より

【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
 之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】


趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。

ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。

「道は牆(かき)の外にあり」(《そら》其処に道があるじゃないか)

と趙州は答えた。

「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。
人間の歩む大道(たいどう)のことです」

と修行僧は言った。

「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」

と趙州は答えた。

道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。

人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。

手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。

至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌うとはよく言ったものである。

            <感謝合掌 令和元年7月16日 頓首再拝>

悪口や愚痴をやめると人生が変わります - 伝統

2019/07/25 (Thu) 04:26:18


        *「斎藤一人「俺の人生」」(P24~26)より

もし会社が嫌なんだとしたら、会社を辞めちゃえばいいし、
嫌な人とは付き合わなきゃいいんだよね。

で、どうしてもその相手と付き合わなきゃならないんだとしたら、
それは文句や愚痴を言わない修行なんです。


相手がいくら悪口を言っても、自分は言わない。


あのね、嫌なことが起きるということは、
ちょっと嫌なことあると人の悪口を言ったりするからなの。

自分がそういう性格だから、嫌なことを引き寄せてくるんです。

人の悪口とか、愚痴やなんかを言わなくなると、人生は必ず変わるよ。

自分が変われば、すべて変わるようになってるんです。

どうしてですかっていうと、神様がそういう仕組みを作ったんだよね。


《あぁ、これは人の悪口を言わないための修業だなってわかれば、
人生はパッといい方向へその瞬間に変わります。》


この世の中は、人を変えようとするからおかしくなっちゃうんです。

私なんて、もし週刊誌で自分の悪口を書かれたとしても、
「この週刊誌、売れるといいね」って言います(笑)。


あのね、悪口を言うってことは、
自分の畑に唐辛子(とうがらし)の種をまいてるのと同じなんです。

人から悪口を言われて、こっちも言い返しちゃうと、
言ったぶんだけ自分の畑に唐辛子の種をまくようなものだから、
それを刈り取らなきゃいけなくなる。

ピリッと辛くて目にしみるような出来事が嫌なんだったら、
最初から唐辛子の種をまかなきゃいいんです。

念のために言っておくけど、唐辛子がいけないってわけじゃないよ。

これはたとえ話だからね(笑)。

            <感謝合掌 令和元年7月25日 頓首再拝>

丁寧深切(礼拝の道)を実生活に生かす - 伝統

2019/07/27 (Sat) 04:37:44


        *『光明道中記(7月27日)』
           《心の角(かど)を除去(とりさ)る日》より

【観世音菩薩でも夜叉に対しては夜叉の形相を以て現れる。(『生命の實相』第十五巻)】


為山老師は、問答の気合いを感じて、払子(ほっす)を取って泰然と構えようとするとき、
徳山は、『カーッ』と一喝すると、そのまま袖(そで)を払って法堂を出て往(い)った。

こんな事を禅の修行だとか、道場破りだとか思っている者があったりするから、
禅などと云うものは、吾々日常生活には何の関係もないことだと思いまちがえられ、
十年禅林にいて修行しても、実生活を生かす道を知らない。

禅臭い禅は何にもならない。禅が実生活に生きるのが真禅だ。

為山老師はその晩、弟子たちが集ったとき
『あの新参の若僧は何処へ行ったのかな?』と訊いた。

「風呂敷を背負ってどんどん向こうへ行きました」弟子の首座(かしら)が答えた。
これは甚だ善い回答である。

当たり前のことが当たり前に答えられるのが悟りである。為山老師は、

「徳山は頭が良いが気の毒なものだ。調和の中に真理があると云うことを知らないのだ。
あれは独り偉がりであって、弧峰頂上に向かって草庵を盤結(はんけつ)して仏を呵(か)し、
祖を罵(ののし)り去ることを始めるだろう』と嘆かれた。

呵(せめ)るのが禅ではない。丁寧深切 ―― 礼拝が禅である。

         <感謝合掌 令和元年7月27日 頓首再拝>

「心」と「言葉」と「行ない」との一致 - 伝統

2019/07/29 (Mon) 04:31:17


       *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月29日)より

生長の家では、心と言葉と行ないとこの3つが一致しなければならないのである。

「イエス言い給う『なんじらも今なお悟りなきか。すべて口に入るものは腹にゆき、
遂に厠に棄(す)てらるることを悟らぬか。されど口より出(い)ずるものは心より出ず、
これ人を汚すなり』」と「マタイ伝」第15章16節~19節にある。

またあるところでは「主よ主よと言うもの必ずしも天国に入るに非ず、天の父の御意(みこころ)
を行なう者のみ天国に入るなり」ともイエスは言っている。

口先ばかりでも救われないし、行ないばかりでも救われない。
心が伴った言葉、心が伴った行ないでないと救われないのである。

         <感謝合掌 令和元年7月29日 頓首再拝>

打てば響くが仏道なり - 伝統

2019/07/31 (Wed) 05:03:43


        *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                       (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、

仏が仏であり、始めから成仏しているのが仏であり、
衆生本来仏であると云う意味なども、この端的の語(ことば)の中に
一切が引くるめられているのである。

楠木正成公がまだ若かった頃、奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、「正成! 」
とあらためて楠公の名を呼んだのである。

「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、
恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>

人を改心せしめるには - 伝統

2019/08/07 (Wed) 04:34:55


   *「光明道中記」(8月7日《善のみを視(み)る日》)より抜粋
         
人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

           <感謝合掌 令和元年8月7日 頓首再拝>

「道は邇(ちか)きにあり」 - 伝統

2019/08/10 (Sat) 04:39:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月10日)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが自分にとって
最も消化しやすい栄養であるのである。

手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。

邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものは
ついに天国に到ることができないのである。

「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、太陽は毎朝東から差しのぼって
なんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

      <感謝合掌 令和元年8月10日 頓首再拝>

伸びるしかない - 伝統

2019/08/23 (Fri) 04:48:01


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月23日)より

不満足さえも、またまことにありがたいことではある。
不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、
救われることができたのである。

不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、
「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。

陰極陽転の理は昭々として明らかである。
資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。
不足は増大の本である。

窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。
人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。

      <感謝合掌 令和元年8月23日 頓首再拝>

何者をも、誹(そし)り罵(ののし)る必要はない - 伝統

2019/08/24 (Sat) 04:49:04


      *「光明道中記」(8月24日《人を謗らぬ日》)より

【幼な児の親にたよるが如く神に頼り切れ。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第七条)
   念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、
   信心の行者には天神・地祇も敬伏(きょうぶく)し、
   魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、
   諸善もおよぶことなきゆへに無礙の一道なりと、云々。


念仏もうす者は無礙の唯一道を歩むものである。
念仏は人間自身のはからいによって称えるのではなく、
絶対他力 ―― 時空を超越せる絶対神大実在の、救わずにおかない大慈悲力が
廻向(えこう)し来って、念仏となえる行となってあらわれるのであるから、

念仏の進むところ天の霊、地の霊もこれを敬いたまいて平伏し、
魔界外道、仏界以外のものも、何ら念仏の前には障りとなる訳のものではない。

だから真実念仏の行者であるならば、魔界外道のものと言えども、
決してそれを誹(そし)り罵(ののし)る必要はない。

念仏の力によって包容し救うだけの力がなければ
「念仏者は無礙の一道なり」と云うことは出来ない筈である。

「念仏は最善の行であるが故に、どんな自力の行よりも功徳の多いものであって、
念仏の世界には罪悪も業報を信ずることあたわずだ」と親鸞聖人は仰せられた。

これは「念仏(実相)の世界には罪悪は本来無い」と生長の家で言うのと同じである。

       <感謝合掌 令和元年8月24日 頓首再拝>

【神様が人生を変えるために送り込んでくれた人】 - 伝統

2019/08/27 (Tue) 03:17:26


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.08.24)より

   (山崎拓巳氏の心に響く言葉より…)

   僕は友人から、よく、こんなことを言われます。

   「拓巳さんて、ホントに就職したばかりの女の子とか、
    誰からでも学ぼうとしていますよね?あれ、なんでなんですか?」


   たしかに、言われるとおりです。

   僕は、たとえ、相手が社会に出たばかりだろうが、大学生だろうが、
   そんなことはまったく気にしません。

   話を聞くときはMAXの状態で聞いているし、
   心が動いたら、その場でメモも取ります。

   その子が、僕の人生を変えるような「すごい学び」の
   メッセンジャーかもしれないと思っています。


   自分よりも立場がしたの人とか、若い人の言葉には
   学ぶものはないと思って、耳を傾けない人がいます。

   相手が話しているときに「次は何を話そうか?」と思案し、
   うつろなモードで流して聞いている人もいます。

   「アドバイスしてあげよう」なんておもい上がった気持ちでいる人も。


   僕は、社会的な上下関係とか、年齢なんて、
   「学び」には、いっさい関係ないと思っています。

   真剣に生きている人は、みんな、
   何かしらのメッセージを持ってきてくれます。

   時には、自分よりもぜんぜん若い人が、
   ポツンと言った一言が人生を変えてくれることもあるのです。


   「自分は、いつの間にか『守り』に入っていないか?
   まだまだ新しいことにチャレンジしなくてはいけないのではないか!」

   と、反省させてくれたり、
   大いに心を揺さぶってくれることがあるのです。

   相手がどんな人であろうと、「もしかしたら、この人は、神様が
   僕の人生を変えるために送り込んでくれたのかもしれない」って、
   そんなふうに考えて、話を聞いて欲しいです。

             <『スゴイ学び方』かんき出版>

           ・・・

神様からメッセージがくるのは、
「学びを教えてくれる人」だけではない。

「頼みごとをしてくる人」、「会社の上司や同僚や部下」、「友人」、
そして「家族」など、ご縁のある人たちからのメッセージもある。

あるいは人ではなく、病気だったり、事故だったり、
トラブルなどのこともみな、神様からのメッセージかもしれない。


神様からのメッセージは、目の前にいる人や出来事を通して、
絶妙のタイミングで伝えられる。

ただ、それに気づく人と、気づかない人がいるだけだ。


「人は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早過ぎず一瞬遅すぎない時に」

という、実践の哲学者、森信三先生の言葉がある。


今目の前にいる人は、
「神様が人生を変えるために送り込んでくれた人」なのかもしれない。

一瞬一瞬の出会いを大切にしたい。

       <感謝合掌 令和元年8月27日 頓首再拝>

人生に我慢はダメだけど挑戦はいいよ - 伝統

2019/09/07 (Sat) 04:47:38


        *「斎藤一人「俺の人生」」(P31~33)より

物騒な話だけど、殺人事件って、
家庭内で起きるパターンが結構、多いらしいんだよね。

だけど、そうなるのは我慢するからです。

我慢が、恨みを生むんだよね。

我慢していると、我慢から恨みがどんどん生まれます。

そうすると、限界に達したときに、殺人とかって極端なことになっちゃうんです。



じゃあ、家庭内でどうやって我慢しないでいるか。

家庭内の問題って、逃げられないことが多いよね。

もちろん、出て行けるなら、出て行っちゃえばいいんだよ。

まずは、その場から離れることを考えればいい。



だけど、経済的な事情があったりして家
から出ていくわけにはいかないんだとしたら、
問題があってもそこにい続けるしかない。


そういう場合はどうするかって言うとね、
悪口を言わない挑戦をするんですよ。

問題から離れられない状態を神がくれたときに、
私たちは猛然とその問題に挑戦すればいい。



例えばね、お姑さんが毎日のように悪口を言ってくるとするよね。

でも、「私はお姑さんの悪口を言わないぞ。これは修行なんだ」って思うんです。

そうすると、だんだん爽やかな気持ちになってきて、
いくらお姑さんに悪く言われても軽くいなせるようになる。

それって、魂が成長してる証拠なんだよね。


で、そうやってると、相手も自然に変わってきちゃうんです。

あんなに意地悪だったお姑さんが、この頃、なんだか優しくなったぞって(笑)



我慢するのと、魂を成長させるために挑戦するのとでは、結果が全然違います。
問題に挑戦するのは自分にとってレッスンになるけど、我慢は間違いだよ。

       <感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>

《健全なる生活と不健全なる生活》 - 伝統

2019/09/11 (Wed) 04:39:16


          *『人生の秘訣365章』第10篇(P243~244) より

現象界の奥には霊的流れの世界があり、現象界がその霊的流れに振向いて、
そこから還流し来る智慧に導かれ、愛に護られ、
生命(せいめい)に活かされている限りに於いて、
その人の生活は生き生きとしているのである。

それは譬えば植物の根が土地深く這入って
永久に乾かない水分の流れから、その栄養を吸収している限りに於いて
其の植物は生き生きとしているようなものである。

その如く、健全にして健康なる生活は、實相世界の聖なる世界より、
生命(せいめい)と智慧と愛との流れを受け、
それを充分吸収してわがものと成し得た生活である。

生活が行き詰ったり、希望が実現しなかったり、
何らかの災害を蒙るような事があるならば、
それは實相世界の聖なる導きの流れに、
自分の心の波長が合わないところがあるからである。

自分の心の波長が、神の波長に合わないときには、
神からの恵みはありながら其れが実現しないのである。

           <感謝合掌 令和元年9月11日 頓首再拝>

《目先の欲得で動いてはならない》 - 伝統

2019/09/23 (Mon) 04:38:13


        *『人生の秘訣365章』第2篇(P64~65) より

「増加の法則」に則(のっと)るには、今いる所に於いて、
自己のもてるすべてのものを動員して与えるがよい。
手の中の“駒”を無駄に遊ばしておくことは愚かなことである。

種子(たね)があり場所がありさえすれば、
種子(たね)を抽斗(ひきだし)の中に置いとくのは勿体ない。

それは播種(はしゅ)すれば必ず増殖するのである。

しかし石地に播(ま)いたり、砂漠に播いたりしたのでは発芽しない。
できるだけ沃地(よくち)に播かなければならない。

沃地と石地と砂漠の不毛の地とを区別するのはどうすればよいのか。
下手に出資をして詐欺にかかることもある。
また衰微しつつある会社に出資して、会社がつぶれる事もある。

人間は、みな自分の思い通りに希望や期待をもって実行しつつあるのに、
繁栄する人と失敗する人とが生ずるのは何故であるか。
それは神の叡智を受ける人と、人間智で、目先の欲得で行動する人との相違である。

目先の欲得で動くときには、大抵その人が他(た)の犠牲に於いて(又は他の損失によって)
自分が利益を得ようとするから失敗するのである。

それは「他(た)から奪う心」の変化である。
「奪う者はまた奪われる」のである。

           <感謝合掌 令和元年9月23日 頓首再拝>

たいまつを渡す - 伝統

2019/10/03 (Thu) 04:39:39


        *「正負の法則」ジョン・F・ディマティーニ(著)
           (P206~207)

人生の質は、自分がどれだけ生産的なことをしていると感じているか、
世の中にどれだけ貢献していると感じているかに比例します。
 
昔の知恵者は、
「自分のたいまつを人に手渡したり、人のたいまつに火を灯したりしないなら、
いまより大きな明かりを得ることはない」と言いました。

何を極めたいにせよ、たいまつのようにそれを次に渡すことです。
ほかの人が人生で達成したいことを成し遂げる手助けをすると、
あなたがやりたいことを達成しやすくなります。

あなたが先生になりたいなら、教えましょう。
あなたが役者になりたいなら、演じて、ほかの人々が演技を学ぶのを助けましょう。
作家になりたなら、座って書きはじめ、ほかの人々が同じことをするのを助けましょう。

あなたがなりたいもの、したいこと、持ちたいものがどんなものでも、
自分のスキルでほかの人々に奉仕すると誓いましょう。

するとあなたは、あなたの得意分野を活かして、
あなたの成長を助けてくれる人々を引き寄せることができます。

 
もうひとつ自分の運命を手中に収めることに関して言えば、
話すべきときと黙っているべきとに識別することです。
信じている人には、証明する必要はありません。
信じていない人には、証明することは不可能です。

求めない人に対して言葉を無駄に費やすことはありません。
ときに沈黙は言葉より雄弁です。

たいまつを運ぶ人を選ぶときは賢くありましょう。

           <感謝合掌 令和元年10月3日 頓首再拝>

物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である - 伝統

2019/10/05 (Sat) 03:45:40


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月5日《霊に生きる日》)より

【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、物質文明のみを尊重して、
物質文明”のみ”で威力を示そうとするとき、それが霊の権威を失うとき、
物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。
物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、
その破壊的威力の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。

物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である。
骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。
最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、
全然神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、
「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

           <感謝合掌 令和元年10月5日 頓首再拝>

神格の内流による自覚を得る方法 - 伝統

2019/10/11 (Fri) 04:42:50


    *「光明道中記」(10月11日《精進堅固の日》)より

【悟りの中間過程にある時は、信念を以て怠らず進め。(『生命の實相』第六巻)】

波羅蜜多(神格の内流による自覚)を得る方法に尚三つある。

尸(し)羅波羅蜜多(持戒波羅蜜多)、せん提波羅蜜多(忍辱波羅蜜多)、
毘利耶(びりや)羅蜜多(精進波羅蜜多)の三波羅蜜多がそれである。
これはいずれも「良心として顕れる神格の内流」に関係している。

神格の内流の愛行面が「布施」であり、神格の内流の悟道面が般若と禅那(換言すれば
智慧と静慮)とである。そして神格の内流の道徳面又は良心面が持戒、忍辱、精進である。

神格(仏性)そのものは一つであって不可分であるけれども、それに波長を合わせる方面
から言うと、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の六つを立てて六羅蜜多としたのが
仏教である。

生長の家では忍辱の方面はあまり言わぬ。
如何なる不遇、不幸、逆境、侮辱に対しても克(よ)く耐え忍ぶことによって
仏性を開顕せんとする忍辱に代って感謝を強調したのである。

無理に「怺(こら)える」のでは和解が出来ていないと説かれている。
感謝が出来たとき「怺(こら)える」ことが要らないので辱(はずかし)めが
消えるのである。

           <感謝合掌 令和元年10月11日 頓首再拝>

毎日たゆみなく行なう - 伝統

2019/10/15 (Tue) 03:33:04


       *「光明道中記」(10月15日《点滴石を穿つ日》)より

【幾度も生れ更わった霊魂ほど、現世幽界を度重ねて浄化作用を営んでいる。
                       (『生命の實相』第八巻)】

精進と云うことは何事を成就するにも必要なことである。
「精神一到何事か成らざらん」の諺もこれに当る。
国民総動員も之に当る。

点滴石を穿つ。天才は忍耐也。精神とは毎日たゆみなく行なうことである。
少しずつでも毎日たゆみなく聖典を読む、毎日たゆみなく神想観を行ずる、
毎日たゆみなく飯を食う、すべて是(これ)が精進である。

一度に力を出して置いて、あとはい眠っているのは精進ではない。
兎と亀との競走に於て、のろい亀が勝利を得たのは、
亀はたゆみなく歩んだからである。

仏教で六波羅蜜の一つに到彼岸法(はらみたほう)として、
精進が挙げられているのは、
悟りに到るにも毎日の精進が必要だからである。

精進のあるところ必ず魂が輝き出ずるのは、
毎日磨いている廊下が光沢を増してくるのと同じことである。

1年360回拭くので廊下が光るのであるから、
1週に360回拭いて置いて、あとは放って置いても廊下は光るかと云うと、
そう云う訳には行かぬ。

何故行かぬか、それは精進がないからである。

『生命の實相』も1回読んで意味が分かったと思って、
アトすっぽ抜かして置いては魂の進歩はない。

道場の講義も毎日聴くので効果があり、この日記も毎日読むから効果がある。
解ったと思って止める者は気の毒だ。

           <感謝合掌 令和元年10月15日 頓首再拝>

【切に生きる(道元)】 - 伝統

2019/10/17 (Thu) 02:26:05


        *メルマガ「人間力」(2019.10.09)より

「なぜ成功する人としない人がいるのか」

弟子の問いに、道元はなんと答えたのでしょうか?

         ・・・

ある時、弟子が師の道元に聞いた。

「人間は皆仏性を持って生まれていると教えられたが、
仏性を持っているはずの人間に
 なぜ成功する人としない人がいるのですか」

「教えてもよいが、一度自分でよく考えなさい」


道元の答えに弟子は一晩考えたが、よく分からない。


翌朝、弟子は師を訪ね、ふたたび聞いた。


「昨晩考えましたが、やはり分かりません。教えてください」

「それなら教えてやろう。

 成功する人は努力する。
 成功しない人は努力しない。
 その差だ」


弟子は、ああ、そうか、と大喜びした。

だがその晩、疑問が湧いた。

仏性を持っている人間に、
どうして努力する人、しない人が出てくるのだろうか。

翌日、弟子はまた師の前に出て聞いた。

「昨日は分かったつもりになって帰りましたが、
 仏性を有する人間に、どうして努力する人、しない人がいるのでしょうか」

「努力する人間には志がある。
 しない人間には志がない。その差だ」


道元の答えに弟子は大いに肯き、欣喜雀躍家路につく。

しかしその晩、またまた疑問が湧いた。

仏性のある人間にどうして志がある人とない人が生じるのか。

弟子は四度師の前に出て、そのことを問うた。
道元は言う。


「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。
 志のない人は、人間が必ず死ぬということを
 本当の意味で知らない。その差だ」


道元の逸話である。
この逸話を彷彿とさせる道元の言葉が、
『正法眼蔵随聞記』にある。


「道を得ることは、根の利鈍にはよらず、
 人々皆、法を悟るべきなり。
 精進と懈怠とによりて、得道の遅速あり。

 進怠の不同は、志の至ると至らざるとなり。
 志の至らざることは、無常を思わざる故なり。
 念々に死去す。畢竟じて且くも留まらず。
 暫く存ぜる間、時光を空しくすごすことなかれ」


   (現代語訳にすると)

(道を得るかどうかは生まれつきの利発さや
 愚かさによるものではない。
 修行する人は皆必ず悟りに達することができる。

 ただ一所懸命になって精進する人と、
 怠けてやる人との間には当然早い遅いの差が生じる。
 精進するか怠けるかは志が切実かどうかの違いによる。

 志が切実でないのは、無常を思わないからだ。
 人は刻々と死につつある。
 こうして生きている時間を大切にして、
 自分を磨いていかなければならない)


切に生きるとは、ひたすらに生きるということである。
いまここの一瞬一瞬をひたむきに生きるということである。

小我を忘れ、何かに懸命に打ち込むことである。
その時、生は本然の輝きを放つ。

(『致知』2007年6月号より)

           <感謝合掌 令和元年10月17日 頓首再拝>

真理を行ずる - 伝統

2019/10/24 (Thu) 04:38:15


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月24日)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、あれは真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 令和元年10月24日 頓首再拝>

大成への歩み - 伝統

2019/10/29 (Tue) 03:15:05


    *「光明道中記」(10月29日《断然決意の日》)より 

【決断とは何かを捨てると云う事である。
 倒れることを恐れず、自己の不決断のみを恐れよ。(『生命の實相』第四巻)】

真に愛する仕事でないと大成することは出来ない。
忠実にやる仕事でないと大成することは出来ない。

忍耐強くあり、凡(あら)ゆる艱難に耐え忍び、
艱難と闘うことをハイキングの如く楽しみ、
しかも尚、その仕事を通して国家または人類に貢献せん
と決意したものでないと大成することは出来ない。

才智ばかりで小細工する者は
ついにその才智に翻弄されて自己が崩れてしまうであろう。

寛大な雅量と、鞏固(きょうこ)なる意志と、
而も人心を収纜(しゅうらん)するたぎる如き情熱とは
大成する者には必要である。

更に大切なのは「神に導かれる」と云うことである。
信仰深くして、神と偕(とも)なりとの自覚を以ているばかりでなく、
真に神に導かれている人にして、機に臨み変に応じ
自由自在の叡智を有っている人でなければならない。

而もかくの如き人でも、
人の信義を裏切ることを極度に厭う人でなければ終を完うしない。

           <感謝合掌 令和元年10月29日 頓首再拝>

濁り水を捨て、真理の水を注げ! - 伝統

2019/11/03 (Sun) 03:52:20


       *「生命の實相」第38巻 幸福篇下(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。

           <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>

永遠価値のものを愛し、考え、求めよ! - 伝統

2019/11/06 (Wed) 04:54:25


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より

万事物質的なものは遷りかわるものであり、
その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。

われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。

すべて心を労してもとめても、
やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。

神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。

忠、孝はむろんのこと、すべて肉体を超えて
永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。

           <感謝合掌 令和元年11月6日 頓首再拝>

一歩一歩の前進 - 伝統

2019/11/18 (Mon) 03:51:30


     *谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』(P124)より

いくらあせっても、実力以上のものが出て来るわけではない。
実力以上にみせかけても全く無駄である。

一言、一句、一瞬の動作の中に、あなたの「実力」がとび散るのだ。

それ故、表面を飾ることをやめよ。
労をいとうて、功ばかり求めるな。

コツコツと努力すれば、それだけの収穫は必ずある。

何故ならあなたの実力が向上するからである。
本来力はいくらでもある。

それを出すためには、ただ練習、訓練あるのみだ。

一歩一歩前進せよ。

一日五十里を歩く飛脚も、一歩一歩を重ねて歩き続けるのである。

           <感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>

「味わい深い心」と「跡を残さぬ心」で行ずる - 伝統

2019/11/21 (Thu) 06:50:49


     *「光明道中記」(11月21日《味わい深い人になる日》)より

【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】

親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。

弟子が下手に音楽を奏するならば、その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。

禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく竹を愛して雪を払ってやるためである。

叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。

何事が起っても、淡々として空言のような顔をして空嘯(そらうそぶ)いている人には
深い味わいは感じられない。味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。

じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、
味方のチームが優勝したといっては歓喜の乱舞をしたい思い、
病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・
現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、
その時、その時の、出て来ることに真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。

併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。

          <感謝合掌 令和元年11月21日 頓首再拝>

吾れ大地の如くならん - 伝統

2019/11/26 (Tue) 04:51:54


    *「光明道中記」(11月26日《寛容の精神湧き出ずる日》)より

【寛容、雅量の徳は潔癖の徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。

すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉く
もっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

          <感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>

人間の偉大さは、程よい温かさと柔かさにある - 伝統

2019/11/29 (Fri) 04:39:30


    *「光明道中記」(11月29日《心、水の如く柔らかくなる日》)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。(『百事如意』)】


生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して
低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。
だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 令和元年11月29日 頓首再拝>

《気尚(けだか)く生きよう!》 - 伝統

2019/12/01 (Sun) 04:03:30


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

            <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

『最善の遺産』とは - 伝統

2019/12/04 (Wed) 03:47:49


         *『生長の家』(昭和36年11月号)より

誰でも親と云うものは自分の子を愛している。
自分の子に最善のものを遺して置いてやりたいのが親の愛情の表現である。

併しながら子供にとって、
何が最善の贈物であるかを知らない人が随分多いのである。

子供には色々の個性があり、
子供によっては其の希望するものが夫々異なるのである。

従って、貯金を沢山遺して置いてやったけれども、
それを受け嗣いだ子供があまり嬉しいような顔もせずに浪費してしまって、
却って身を持崩してしまうことも往々にして有り勝ちなのである。
   
だから、必ずしも貯金を沢山残してやることが子
供に最善の遺産をのこしたと云うことにはならないのである。

では不動産を沢山遺しておいてやるのが、本当に子供のためになるだろうか。
不動産の分配問題で折角、
今まで仲の良かった親戚同士が仲違いするような例もある。
   
不動産がなかったら、そんなに争わなかったであろうに、
まるで子孫に争いの種を遺しておいてやったようになっているのもある。

子供に遺してやるべき最善の遺産は
『真理』を知らしめてあげると云うことである。
   
『真理』は何時、何処でも活用すれば、富にも化るし、事業にもなるし、
病気を治す薬剤にもなるのである。
  
子供は何時の間にか、親の生活態度を学び、
親の相念感情を模倣して身につける。

親が悪いことをして貯めた金を遺産として遺してやっても、
親自身の生活態度や、人生に処する態度や精神が間違ったものであったら、
間違った生活態度や想念感情を遺産として貰うために、
最も悪いものを遺してやったことになるのである。

子供に対して遺してやるべき最もよき遺産は、

明るい心、困難に面しても怯まない勇敢な敢闘精神、
どんな事にも動揺しない剛胆な魂、その剛胆さがヤクザの剛胆さでなく、

『われ神の子なり』の信念に裏付けされたる不屈不撓の勇気、
どんな経済的変動にも動揺しないで切り抜ける信念ある縦横自在の智慧

 ―― これらのものを譲ってやるのが本当の《良き遺産》であるのである。

それを譲る方法は、財産の遺贈のように登記所へ往って登録することではない。
   
親自身の日々の生活の仕方によって模範を示すことである。
   
子供は親を模倣してそれを受け嗣ぐのである。
それが最も大なる遺産である。

   ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18020438.html より転写 )

            <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>

慢心しない - 伝統

2019/12/05 (Thu) 04:48:55


     *「光明道中記」(12月5日《常住微笑の日》)より

 【悲しい時ほど笑わなければならぬ。笑いぬくとき悲しさは征服される。
                       (『生命の實相』第四巻)】

仏教では「人身得ること難し」と説かれている。

何故人身に生まれることを、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生まれるよりも、
また天上に生まれるよりも尊き事とされてきたかと云うと、
前(さき)の四悪趣は苦しみの世界、争いのみの世界であり、
後の天上は楽のみの世界であるからである。

苦るしみのみの世界では苦しみを逃れんとして益々苦しみを招く。

楽のみの世界では楽に執着するから結局は
その楽は苦に変じて天上から墜落するのである。
「自分の言いなり通りが通る世界」はこの天上界の世界と同様である。


吾々が生長の家の真理を知り、少しく神想観を実修して、
自由自在の世界が其処に実現して来ると、
「自分の言いなり通りが通る」ところのさながら天上界が実現するのである。

その時、自分の言いなり通りが通ることに深い反省と感謝とを持たずして
慢心してしまうならば、やがて其処からその「言いなり通り」への執着が増長し、
「言いなり通り」なれぬときに忽ち憤懣(ふんまん)して平常(へいぜい)の
悟りも何処へやら、周囲に当り散らしたり、

今迄での明朗の気持ちが陰気に変ったり、そんなことなら光明思想も
糸瓜(へちま)もないと言い出したりするようになるのである。

        <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違い - 伝統

2019/12/12 (Thu) 03:25:24


       *「光明法語」(12月12日《商売主義を排す》)より

イエスはユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りのちかづいたとき、
イエルサレムの宮の境内に、牛、羊、鳩を売るもの、

両替する者などが坐っているのを見て縄の鞭をつくり、
羊をも牛をもみな宮より逐(お)い出し両替する者の金を散らし、
その台を倒し、鳩を売る者に

「これらの物を此処より取去れ、わが父の家を商売の家とすな」
と言った事が聖書に書かれている。

イエスは神を利用して儲けるところの商売主義に反対したのである。

神に対して商売的な功利主義で相対することは間違いである。

        <感謝合掌 令和元年12月12日 頓首再拝>

生命の動く儘に振舞う  - 伝統

2019/12/13 (Fri) 04:38:57


       *「光明法語」(12月13日《形式主義を排す》)より

イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云う問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。

イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに
『縄の鞭』は使ったのである。

イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、
彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。

また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは
生命主義者であり、生命の動く儘に自由に振舞ったのである。

        <感謝合掌 令和元年12月13日 頓首再拝>

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