伝統板・第二

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伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/20 (Sat) 12:13:59

伝統様ありがとうございます。
道産子様の投稿に倣いまして、始めさせていただきます。
尚、私の持っている神誌は号が揃っておらず、歯抜け状態ですので、続きがあるべきものがなかったり、前号がなく次号から始まったり致しますが、ご容赦ください。
まずは、「生長の家」誌昭和53年4月号からです。



生長の家入門講義(三)


ブラジルに於ける白系伯人に怒涛の如き凄まじい勢いで生長の家の教えが拡がりつつあるのは、1973年7月4日、伯国マリリア市イヤラクラブ体育館にて数回にわたって及びアニヤンビー国際会議場では数日間連続して、通訳付きでやさしく生長の家の講義をしたので、伯国民の共感を得た結果である。その第二日目以降の講義の筆記がこれである。
                              谷口雅春

Re: 伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/20 (Sat) 12:51:51

(講義第二日目午後一時より)
  神想観の行法伝授

 皆さん、ありがとうございます。(合掌)午後の講義を始めます。午後は神想観の実修の時間でありますけれども、未だ座席に座っていられない方があるので、神想観中に割り込んで来られて、身体がふれると神想観がしにくいので少し話を致します。

   どうして今までの宗教は失敗したか

 宗教というものは、神様の生命を頂いている人間の完全な相(すがた)を、それを現わすことによって人間を救うのであります。その“本来の完全な相(すがた)”を「実相」というのであります。その「実相」を現わすためには、その本来の完全な相(すがた)を包み隠している欠点を取り除くために、その欠点をとくに見付けて「これはいかんぞ、いかんぞ。此処はよくない」と説くような方法もあるのであります。大抵今までの教育の仕方はこれでありました。
 これは宗教で言えば、
「お前は罪の子である。罪の子である。原罪すなわちオリジナル・シン(original sin)という、人類の祖先なるアダムとイブが神の教えに背いて“知識の樹の果”を食べて、エデンの楽園から追放されて以来、それから続いている深い罪を持っているのであるから、それが救われるためにはキリストに振り向け」
 と説くように、“罪を強調する”ことによって、実相の完全な姿に振り向かせようとする教化方法もあるのであります。
 しかし、そういう教化方法は今まで失敗して来たのであります。それだからお釈迦様が生まれてから約三千年、キリストが出られて約二千年、人類の心を良くしようと思って、その弟子の僧侶や宣教師たちが、釈迦、キリストの教えを説いて来たけれども、人類の道徳性は少しもよくなっていないのであります。それは罪を強調し、悪を強調して来たからであります。

Re: 伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/21 (Sun) 11:15:39

子供の教育を例にとって見ても

  子供の教育でも、「お前は頭が悪いぞ、頭が悪いぞ。数学が下手だから余程勉強しなければいけないぞ」というように、学校の先生や親たちが子供に言う。すると子供はせっかく心を勉強の方に振り向かせても、“自分は頭が悪いのだ”という先入観念にしばられ、何時まで経ってもその子供は発達しないのであります。

  此の世界には“見るものが現われる”という“心の法則”があるのであります。いくらそこにあ’っ’て’も’見なければ現われないのであります。

  我々の生命の実相は“神の子”であって、完全であるという本来の姿が現にあるのだけれども、それを見ないから現われないのであります。たとい其処に赤い花が咲いておっても赤い花を見ることが出来ない色盲には、赤い花が赤く見えないで黒っぽく見えるのであります。

  欠点を見詰めると欠点が尚一層強く現われてきます。病気を癒そうと思って、「病気、病気、病気」と病気ばっかり考えておったら益々病気は悪くなります。病気を癒そうと思ったら、病気を忘れて、健康を見詰めれば健康が出てくるのであります。



神想観の説明に移る

  心で観るものが現われて来るのでありますから、神想観では、心の眼で、自分が神から頂いた生命の本当の姿、完全な姿を、じいっと見詰めることによって、その完全な神の子の姿を現象的にも、肉体的にも現わすことが出来るのであります。そういう原理に従いまして、神想観というのは、神から与えられた自分の生命の実の相(すがた)、本当の相(すがた)が完全円満であることを見詰める修行であります。そのためには、神様のお造りになったこの世界がすばらしく立派な完全なものであるということを、心の眼でじいっと見詰めなければなりません。

  名目合掌しながら神想観の説明をいつも致しますのですが、今は合掌せずに、目を開けた儘説明致します。最初合掌して目を閉じて先ず次のように念じます。

「我今五官の世界を去って実相の世界に入る」こう念ずるのであります。五官というのは五つの感覚器官――目、鼻、口、皮膚の感覚、これによって感じられる世界を「五官の世界」と言います。「現象世界」とも言います。その現象世界に現われているところの色々の貧乏とか、不幸とか、病気とか、家庭の不調和とかいうものは、それを心で認めて、そして病気を強く見詰めれば見詰めるほど病気が一層重くなるし、家庭の不調和を見つめてそして家内と仲が悪いと心に強く念ずると、益々仲は悪くなるのでありますから、心でそういうものをつかんではいけません。そこで

「五官の世界を去って実相の世界に入る」と念じて、感覚で感じられる現象の世界の病気と不調和を心から放ち去って神の作り給うた実相の世界の方へ心を振り向けようというのが、最初に唱える言葉であり、神想観をする時の最初の心の姿勢であります。

Re: 伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/21 (Sun) 22:18:18

心で摑んでおった暗い世界、色々な不調和な世界を自分の心から放して、心をくらりっと振り向けて神様のお造りになったそのままの世界、言い換えると、実相の世界に心を振り向けて――その世界は暗い世界じゃなくて光が輝いている世界えあります――光ばかりの世界へ心を振り向けて、此処が此の儘実相世界であると心の目で見詰めるのであります。

  その実相の世界は神様が作り給うたその儘の世界でありますから、其処は神様の無限の智慧が満ち満ちている。無限の愛が満ち満ちている。無限の生命が満ち満ちている。無限の供給が満ち満ちている。又無限の喜びが満ち満ちている。無限の調和が満ち満ちている。そういう素晴らしい実相世界を心に描いて、それに心を振り向けるわけであります。

  此の世界は観る物が現われると共に、言葉で唱えるものが現われて来るのであります。「神光あれと言い給いければ光ありき」と『創世記』の第一章にありますように、コトバで唱えるものが現われてくるのであります。実相世界のすばらしい光が輝いている世界をじっと心の眼で観ながら、その光が“智慧の光”であり、“愛の光”であり、“生命の光”であり、“供給の光”であり、“喜びの光”であり、“調和の光”であるということを、心の中で言葉を繰り返して確認することによって、それが現実化して来るのであります。

  それですから先ず神の“智慧の光”が満ち満ちていることを心の眼でじいっと、その光の満ち満ちている世界を見つめながら“神の無限の智慧の海”、“神の無限の智慧の海”という言葉を数回繰り返すわけであります。“神の無限の智慧の光”が満ち満ちているのを、じいっと見詰める働きと、それに更にコトバで、無限の智慧が海原の水のように一ぱい満ち満ちている有様を、“神の無限の智慧の海”、“神の無限の智慧の海”と、心の中で唱えるコトバの力と、観る力とによって、実相世界の完全な光景を現実化するという方法をとっているのがこの神想観であります。その“神の無限の智慧の海”を観じ、唱えたその次には、“神の無限の愛の海”、“神の無限の生命の海”、“神の無限の供給の海”、“神の無限の喜びの海”、“神の無限の調和の海”を観ずるのですが、その各一つを数回ずつ繰り返してじっと見つめて、最後は“調和の海”でありますから、その“調和”を受けて次の如く念じます。


「此の大調和の実相の世界にいて、我神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」

  とこう念じまして、今までずーっと見亙(わた)し、見つめておったところの智慧・愛・生命・供給・歓喜・調和等の光輝く神様の御徳が、ずっと自分の身体を、頭の先から足の爪先に至るまで、ずっと上から下へ流れ入って光明燦然と輝きながら流れ入り満ち亙って、物質の肉体と置き代わってしまう様な気持になりつつ息を静かに吸う。息を吸いながら、その息を空気と思わず神の無限の生かす力が流れ入って一息吸う間に、全身が神の生命そのままに化してしまう、そういう気持を招(よ)び起すのであります。すっかり息を吸い込み終りましたら鳩尾(胃の上部)のあたりを後ろにひっ込めてその辺にあった息を落とし、下腹に軽くいきむような力を入れます。すると、下腹に今吸い込んだ神の生命が満ちた“充満の気持”が起ります。その充満の気持を、神の無限の生かす力が自分に流れ入って自分の内に充満しておって、それに生かされていると、こう観ずるのであります。すっかり息が入ってその息を下腹におとして、神の生命充満の満たされた感じを味わいながら、息を暫く停(とど)めて、

「神の生命に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている。有難うございます。も早、我生くるに非ず、神の生命此処にありて生くるなり」
  こう念じまして、“も早我生くるに非ず、キリスト我に在りて生くるなり”という悟りの境地を説いていますが、それと同じように、「も早肉体の自分が生くるんじゃなくて、神の生命が此処に宿って生きているのである」という自覚を呼び起こすわけであります。そう念ずる時、下腹の力を抜いてはいけない、下腹をやっぱり前方に張り出して暫く呼吸を停め、軽く息む感じを続けながら、此処に神の生命が満ち満ちているという感じを失わずに、そう念じておりますと、一遍に息がもれないで、鼻から自分に気が付かぬ程、極僅かずつ息が漏れて参りますが、それが段々漏れて七分通り息が漏れて、まだ三分の息は下腹に残って、軽く腹力を保っている時分に、再び息を吸うのであります。

Re: 伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/22 (Mon) 12:50:22

 そして再び息を吸う時には、前と同じように、「神の無限の生かす力自分の内に流れ入る、流れ入る・・・・・・」と念じます。息を吸う時には何時でも神の生命が輝きながら、“光”の姿で流れ入ると思いまして、その流入を心の眼でじいっと見詰めるような気持ちで精神を集中しますと、心が統一して心も身も透きとおった気持になるわけであります。すっかり息が入れば前と同じように、鳩尾を引っこめてその辺の息を下腹へ落して、軽く息む力を下腹へ入れて、

「満たされている、生かされている、生かされている。有難うございます。も早吾生くるに非ず、神の生命此処にあって生くるなり」

  と念じていると、自分の体(たい)が“肉体の自分”じゃなくて“神の生命”が私だという信念が引き起こされて来るのであります。

  そして神想観を指導する人が、神想観の結末の、既に天国は此処にあるという意味の“みすまるの歌”を、
  
  「天照らす御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の、生命(いのち)射照らし宇宙(くに)静かなり」

  と朗々と歌いまして手を二つ拍(たた)いて「終り」と申しましたら、皆さんは両手をほどいて目を開いて、神想観を終るわけであります。それでは皆さん既に座席にお着きになりましたから実修に移ります。

  皆さん、椅子に深くかけていたのを浅く掛けなおして下さい。膝頭の間を、男の方は拳の寸法四握りか、五握りほど開けて下さい。女の方は一握りか二握り開けて下さい。左の足先を右の足蹠(あしうら)の上に重ねます。左が上で、右が下であります。これが宇宙の法則であります。その重ね方は、左足の母趾(おやゆび)を、右足の踵(かかと)と内踝(うちくるぶし)との間にある窪みの所へ、嵌め込むように重ねます。こう重ねた足蹠(あしうら)の上にお尻を載せます。

  腰を前屈みにしないで、腰を立てて、寧ろ前屈みの反対に、腰を反らして、そしてお尻をうんと後ろへ引いて、お腹を前へ張り出す気持になって腰をしっかり据えて下さい。顔はうつむかず、仰向かず、そのまま出来るだけ顎を後ろへ引いて下さい。

  すると鼻の孔は下を向いておりまして、下腹の上部にある臍(へそ)は上を向いて、下向きの鼻孔と垂直に対面するような気持ちで、下腹を前へ張り出してください。そういう姿勢になりますと、背骨が真直ぐになって地球の引力と一致するようになります。

  顔の前に合掌していただきます。手の高さは親指の第一関節と第二関節との間の隙間から唇を細目にあけて息を吹きこめる高さに持って参りまして合掌致します。

  目を瞑って下さい。私がこれから招神歌(かみよびうた)を歌います。念ずる言葉を日本語で言います間、息を静かに吸って神の生命を吸うと念じながら、吸った生命の霊気をその息と共に親指の第一関節と第二関節との間の隙間から手のひらへ息を吹き込むことを続けながら、私の招神歌を四首歌います。

      生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え
      吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神の生命(いのち)
      わが業(わざ)はわが為すにあらず地(あめつち)を貫きて生くる祖神の権能(ちから)
      天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ

  次の如く念じます。
      我今五官の世界を去って実相の世界に入る。
      此処が此の儘実相の世界である。
      神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海・・・・・・
      神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、神の無限の愛の海・・・・・・
      神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、神の無限の生命の海・・・・・・
      神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、神の無限の供給の海・・・・・・
      神の無限の喜びの海、神の無限の喜びの海、神の無限の喜びの海・・・・・・
      神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、神の無限の調和の海なり。
      此の大調和の実相の世界に坐して、我今神の子として神の無限の生かす力の供給を
      受けつつあるのである。
      神の無限の生かす力自分の内に流れ入る流れ入る流れ入る・・・・・・
      (と念じながら、息を下腹に落として)
      神の無限の生かす力に満たされている。生かされている。満たされている。
      生かされている。満たされている。生かされている。
      も早我れ生くるに非ず、神の生命(いのち)此処にあって生くるなり。

   こう念じて自然と鼻から息が漏れて七分通り息が漏れれば又息を吸う。吸う時には何時でも
「神の無限の生かす力自分に流れ入る流れ入る流れ入る」と念じながら、その息を下腹に落してまた「生かされている。満たされている。生かされている。満たされている。生かされている。満たされている。も早我生くるに非ず、神の生命(いのち)此処にありてい来るなり」と念じます。そして又息が漏れれば息を吸う。以下同じ様に念じて循環的に繰り返します。今念ずるコトバを私が言いました通り、繰り返し念じながら実相世界の素晴らしい光景をじいっ見つめてください。最後に「みすまるの歌」即ち天国実現の歌を歌います。

       天照らす御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の、生命(いのち)射照らし宇宙(くに)静かなり

  これで神想観を終りました。瞑目合掌をほどいて下さい。ありがとうございます。

Re: 伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/23 (Tue) 16:36:23

「生長の家」誌昭和53年6月号からです。


生長の家入門講義(五)

  皆さん有難うございます。よくいらっしゃいました。有難うございます。
  子供が欲しいんだけれども子供が得られないので、得られるような話をしてくれと言われる人がありましたので、大分それに関係した話をしたんですけれども翌日またまた話しますと言いながら、他の話になったので今日はその続きを話したいと思います。
  
       第四十六章   夫を拒絶する妻について

  戦前でありますが、日本の内地の名古屋に東邦電力株式会社と言うのがありまして、其処の社員に村瀬広一郎という人がありました。此の人は結婚して十三年間子供が生まれなかったのであります。

  サンパウロでこの人のことを話したときに結婚後七年間子供が生まれなかったといったのは間違いであって訂正します。その村瀬君が生長の家に触れて熱心になって、そして自分の家で信者の集りの会をするようになりました。奥さんが子供が生まれないというのは、つまり夫の生命を素直に受け入れないという妻の心境が形に現われているのであります。

 村瀬さんの奥さんは、夫が生長の家に熱心になって信者を集めて話しているのに全然その席には出ないのでありました。出ないだけでなく反抗心があるものですから、実は夫が何を言っているかその欠点を見つけて、それを突いてやろうと、こういう考えを持っていたのであります。

  今日は誌友会だというので、誌友達が村瀬君の宅に集っています。村瀬君はその誌友達に話しているのを、奥さんはそーっと戸の隙間から聞き耳立てて聞いているのでありました。

  集りが終って信者が帰ってしまいましたら、その奥さんは村瀬君の所へ来て、
「あんたは信者達を集めて、でたら目の嘘ばかりついて騙しているんですね」とこういうのであります。
村瀬君は、
「わしが何を嘘を言って人を騙したか」といいました。

「だってあなたは、此の世の中の事すべて思う通りに現われるんだと、こう言っていたでしょう。そんなこと嘘じゃないですか」

「嘘なもんか、それは本当だよ、お釈迦さんだって三界は唯心の所現、現象界は悉く心の現わす所であると言っている。イエス・キリストだって“汝の信ずる如く汝になれ”こう言っているではないか」

「だってそんなこと皆んな嘘ですよ、思う通りに現われるんだったら、私はあなたと結婚して十三年、子供欲しいと思って十三年間、子供、子供、子供と思わぬ日はない。それなのに、子供は出来ないじゃないですか、そんなに思う通りに現われるんだったら、あんた私に子供をこしらえといてからそう言いなさいよ」と言いました。


             第四十七章   こんな妻の心になったら妊娠した

  そしたら村瀬君は、
「人間が生れてくるのは、神様の生命が天降って来て、それが人間に宿るんだから、お前の心が神様の波長に合う心の思いを起したら、そしたら、神様の生命の放送がずっとラジオに聞えて来るように、お前のお腹に“神の生命”がぱっと宿って、そして妊娠するということになるんだけれども、お前のように夫が何か間違いを言いよらんかと思って、そーっと戸の隙間から聞いとって、もし間違った事を言ったら夫を虐めてやろうと考えているような心は、そんな心が神様の波長に合うと思うか。

イエス・キリストは幼な児の如き心にならなかったら神の国に入ること能わず、といわれたじゃないか、お前が神様の生命の放送に波長が合うようになろうと思ったならば、もっと幼な児の如く素直な心になって、夫の語る心理を素直にそのまま受け入れる心境にならなければ駄目だよ、夫をもっと尊敬して、そして夫の言葉を素直に受け入れる、そういう幼な児の心にならなければならないんだよ。

だけどもね、わしは夫だから夫の言う事を何でも素直に聞けと言ったってお前はなかなか聞かんだろう。だからわしの言うことを何でも聞けと言ってもなかなか聞かんから、そういう夫の言う事を素直に聞くような心になるために、わしは『生命の實相』の本を読めと今までも度々いうのだけれども、
なかなか読まないじゃないか」とこう言いました。

そう言われましたら、村瀬君の細君、子供が欲しいもんだから、兎も角、『生命の實相』を読もうと言うことになりまして、一所懸命に『生命の實相』を読んだのであります。

  それから何か月か経ちました。

  或る日夫が出勤しようと思って、靴の紐をしめてから玄関先の庭を歩いて外へ出てドアを閉めようと思って振り返って見ると、奥さんが合掌して主人を拝んでいるのであります。
  
  その奥様の表情は、いつものふくれ面をしたり、或いは夫のアラ探しをして反抗して、ひっかかって来る時の細君の顔とは非常に違って、優しい女性的な美しさというものが現われていました。村瀬君は会社へ行って事務をとっておりましても、あの合掌しておった細君の、あの何とも言えない優しい、美しい信仰のあるようなそういうような顔が目の前に浮かんで来ました。

  すると村瀬君の心に、いつもと違って細君を“恋しい”と思う、そういう感じが起って来るのです。

  いつもなら村瀬君は、あんなふくれ面の険しい顔をした細君の顔を見るのが嫌だからというので、会社の勤務時間が終りましても、一直線に自宅へ帰って来ないで、余所へ寄り道をして友達と碁を打ったり、将棋を差したりして夜遅く帰って来るのでありましたが、その日に限ってあの合掌をしている優しい、柔かい美しい感じのその奥さんの顔が、目の前に浮かぶので、その日は寄り道をしないで一直線に自宅へ帰って参りました。そして村瀬君は玄関の格子戸を開けて自分の家へ入って、そして日本ではお庭の床よりも座敷が一寸高くなっていますが、上がろうと思うと奥様が既にそこへ出て来て合掌して夫を拝んでいるのであります。何時も奥さんは夫の帰って来るのを玄関で出迎えたことなどなかった。「此の家はあんたの家だから、勝手に出入りしなさい」というような恰好で、決して出迎えたこともなかったのに、今日に限って夫の足音を聞くとすぐ出て来て、合掌して拝んでいるのであります。村瀬君は自分の細君が随分変ったなあと思って嬉しくなりました。

  それからその晩のことでありますが、村瀬君はベッドの上に座って煙草を吸っておりました。そこへ細君がやって来て、夫の前に両手をついて、そして顔を布団にすりつけるように平身低頭して、「今まで私は間違った考えを持っておりまして、悪い妻で御座いました。どうぞお赦し下さいませ。これからもっと優しい、暖かい、本当に女性らしい妻にならせて頂きますからどうぞお宥し下さい」こう言って涙をさんさんと垂れて、そして夫の膝にすがりついたのであります。彼女はその晩妊娠した。結婚十三年目にはじめて妊娠したのであります。


          第四十八章    このように心の状態が分泌物の匂いを変ずる

  最近の発達した医学によりますと、不妊娠という女性の中には、いくら男性の精子が進行して来ても、精子が子宮の入口まで行きますと、そこに精虫にとって何とも言えない気持ちの悪い、異臭芬々たる匂いが発する。それで精虫は真直に進むことが出来ないで後戻りしてしまう、これが不妊の原因であることが発見されたと発表されています。


          第四十九章    腋臭も心が変れば治る
 
  肉体は心の影でありますから、夫を排斥するような心を起しているような女性の子宮の入り口には、そういう匂いが出るのも不思議はないと私は思うのであります。そういう匂いを私はかいだ事はありませんけれども、然しよく女性にある腋香(わきが)というのがありますね。その腋香が治った実例は沢山あります。それは何人に対しても調和する心を起すと癒(なお)るのであります。つまり人を排斥し、毛嫌いする心が、「人のいやがる悪臭」となって発散するのであります。

  色々と人々の欠点を見つけて、あの人はこんな悪いとこがあると言って噂(うわさ)をするひとがあるが、そんな癖は直さねばなりません。まあ兎も角、こう人を毛嫌いするようなそういう心を無くするように勧めると癒るのであります。

  今(1973年7月現在)東京で白鳩会即ち生長の家の婦人会の幹部をしている柳沢多鶴子さんという人があります。この人も嘗ては腋香であったのであります。それが私の宅で誌友会を催していた頃、私の話を聞いている間に、突然腋香が消えてしまったという体験を発表されたことがあります。あまり人を好き嫌いするといけないのであります。好き嫌いの好きな方はいいけれども、“嫌いの心”の方が“悪い匂い”を発することになるのであります。好き嫌いの心から“色盲”がおこることがあります。


Re: 伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/26 (Fri) 17:18:36

             第五十章     本当に色盲は治るか

  その柳沢多鶴子さんの息子の柳沢元俊君というのは色盲だったのであります。そのお父さんは海軍少佐で亡くなられました。然し元俊君はお父さんの遺志を継いで自分は海軍の将校になりたいというので、将校に正式になる過程として海軍兵学校へ入学することを希望したのであります。ところが、海軍兵学校の入学試験を受けに行きましたら、学科の方は通過したのでありますけれども、体格検査の時に色盲を発見されて、そして海軍将校には向かないというので、入学許可にならなかったのであります。

  現在ではラジオが発達して、軍艦と軍艦との間の通信はラジオによるのでありますけれども、当時は電波的発明が無かったもんですから、海軍兵は左と右の手に赤と白の旗を持って、それをいかに振るかによって信号をして、又、遠隔距離のコミュニケーションは旗旒信号によってやっていたわけであります。そのために、色盲では赤が見えず、緑が見えずというのですから、これでは信号が出来ないのでありまして海軍将校にはなる資格がなかったのであります。

  それでお母さんの柳沢多鶴子さんはその息子を連れて、私の家に相談に来られたのであります。元俊君は一度体格検査で色盲を発見されて入学許可にならなかったけれども、どうしても海軍将校になりたいという願いを捨てないで、此の色盲を癒そうという希望を持って私の所へ来られたのであります。それでどういう心が色盲になりますかと言って私に質問されました。

  私は答えました。
 
「此の世の中には色々の色があるだろう。その色をみんな排斥しないでみんな素直に受け入れますという、そういう心があれば、どの色も素直に見ることが出来るんだけれども、“これはいや”“あれはいや”というので排斥する、好き嫌いがはげしくて、色々の色が有る中で、此の色は嫌いだというので、そういう排斥する心があるのが、それが、“ある色を見ることが出来ない心”にしているんだよ。だから何でも素直に受け入れる心になりなさい」といいました。そして、

「大体、君、その海軍兵学校の他の学校へは行かぬというような好き嫌いの心が、それがいかんじゃないか。どんな学校でも親が入れと言ったら素直に入りますと、そういう心にならんといかん」と私は言いました。

  その指導はそれで終わりまして、或る日、そのお母さんの多鶴子さんが外出して自宅へ帰って参りましたら、そしたら色盲の元俊君が、妹と喧嘩をして摑み合いをやっておったのであります。そういう自分の息子と娘戸が喧嘩をしている時に、皆さんお母さんならどうなさいますか。

  柳沢多鶴子さんは生長の家の教えをうけておられましたから、そういう紛争の中へは入って行かれませんでした。


             第五十二章    紛争は実相の世界にはない、実相を観ぜよ

  大体そういう紛争というものは神様のお造りになった実相世界にはない。無いものはそのままほ放っとけば消えるのであって、それを争いの中へ入って兄貴の方へ味方したとか、妹の方へ味方したとかいうことになると、その争いは益々混乱状態になって、親を恨んだり、兄弟互いに恨み合ったりするような事になる。ところが神様のお造りになった世界には、その争いはないのであるということを柳沢多鶴子さんは知っておられるから、そんな紛争を見ないでずーっと座敷へ入って、祖先の霊魂をお祀りしてある仏壇の前へ行って、そして、『甘露の法雨』を静かに朗読せられました。『甘露の法雨』に心が振り向くということは、真理に対して心が振り向くということであります。

  この『甘露の法雨』の中には、一切悪はない、罪はない、一切の不調和はないという神の作り給うた実相の世界の真理が書かれているので、その真理の方へお母さんの心が振り向いて、『甘露の法雨』を朗読なさったのであります。

  そうしておりますと、本来無い兄弟争いというものは自然に消えてしまって、そしてお母さんが『甘露の法雨』を三分の一程読んだところへ、元俊君とその妹も一緒にやって来て、『甘露の法雨』を一緒に合唱するように朗読し始めたのであります。『甘露の法雨』を読み終わりますと、元俊君は、お母さんの前に手をついて、

「お母さん済みません。私悪うございました。谷口先生に好き嫌いの心を起してはいかんと言われておりましたのに、好き嫌いの心を起してはいかんと言われておりましたのに、好き嫌いの心を起して妹と喧嘩したりして済みません。これからはそんなことをしませんから許して下さい」

  と本当に感極まったように涙をこぼしてお母さんにお詫びをしました。それから元俊君は自分が勉強する書斎になっている二階へ上って行ったのであります。

  机の上に色盲の検査表が置いてありました。色盲の検査表というのは、緑や赤や黄色等の色で色々の数字が書いてありまして、例えば3という数字が書いてある、ところが此処で赤で書いてあると赤が赤に見えない訳なんです。例せば本当は8という字が書いてあるんだけれども赤で8という字の一部が書いてあるとその一部分が見えないので3に読めたりする。又これは緑で3を書いて、その一部分は赤で字画が継ぎ足してあるというような場合にですね、赤が見えず、緑も見えないとすると、これは全体がうす暗い8に見えるというわけで、本当は緑の3とそれに赤が一寸足してあるのにそれが8に見えたりすると、これは色盲であるということが分かるような、そういう色盲の検査表があるんです。それを見ますと、何時もは分からなかったその検査表が、はっきり今まで赤も緑も見たこともないその赤や緑がはっきり見えるようになって、それで色盲が癒ったということが自分に分かったのであります。

  元俊君は色盲の検査表でもう色盲が癒ったという自信を得たので、翌年の海軍兵学校の入学試験に再応募致しました。学科の試験もパスしまして目の検査になりました。医者は色盲は確かに癒っていることを認めましたけれども、今まで色盲が癒っておっても、又再発して、海軍の軍務に就きながら再発したら、これは大変なことになるから入学許可しないといって、また拒絶されたのであります。


           第五十三章    “実相完全”の自覚の人は自然に不幸の圏外に出る

  ところが太平洋戦争が激しくなりまして最初勝っておった日本艦隊も、段々沈没する船が増えてそして段々戦死する将校海兵が増えて参りまして、将校が足りなくなって来たので、日本海軍では新たに幹部候補生というのを募集することになったのであります。

  そこで元俊君は幹部候補生として応募して行きましたら、又体格検査をして貰って、色盲はやはり癒ったまま継続しているということで今度は採用されて海軍将校となる目的を達したのであります。所が元俊君の属しておった艦隊は沖縄の衝にあたることになりましたが、沖縄の戦争では、アメリカの艦隊がまず猛烈な艦砲射撃を行い、アメリカ兵が上陸して来た。それと戦って殆ど日本兵は全滅してしまったんでありますが、その直前、柳沢元俊君一人だけ転勤を命ぜられて陸上勤務となって、ある海軍の学校の教官に命ぜられまして、まして沖縄守備の艦隊から籍をのがれたので、それで戦死することなしに無事に救かったのでありました。

  人間神の子の自覚をもっておりましたならば、自然に自分を傷つける処からは離れて行く訳でありまして、沖縄の守備にあたっている部隊は全滅したけれども、然し自分だけは神の子であってそんな争いの世界の外にいる訳でありますから、元俊君は撰ばれて日本の内地勤務になって救かったわけであります。

Re: 伝統様、ありがとうございます。1 - モクセイ

2019/04/28 (Sun) 18:03:31



第五十四章      寝小便及び体に水の溜る病気の原因

  さて、また村瀬広一郎君の話に帰りますが、村瀬君は生長の家に熱心になって信者を集めて話しておりますと、色々の人が救われるので、有名になって、色々の病人が訪ねて来ることになりました。その頃、中学生くらいのお嬢さんが訪ねて来ましたが、此のお嬢さんは寝小便の癖があってそれがどうしても癒らないのでありました。大体寝小便だとかカラダに水の溜る病気、湿性肋膜炎、或いは腹膜炎とか、或いは全身に水気が出来て腎臓炎で全身がむくんでいるというような、水分が諸方に溜るような病気は、悲しみの想いが、それが肉体に形を現わしているのであります。


                第五十五章      悲しみは“水”に化する

  皆さんは悲しいと涙がでることを知っていらっしゃいますが、悲しいのは“心”で涙は“物質”である。けれども心が物質を作るのであります。悲しくて、悲しくて何時も人の前で泣いているわけにはいかんので、それを怺(こら)えて溜めていると、そうすると湿性肋膜炎で水が溜る、とこういうことになります。悲しみをずーっと腹に怺えて溜めていると、そうすると腹に水が溜るような病気となります。夫婦の間の感情の衝突や、或いは夫が浮気をしたというので悲しみをじーっと溜めておりますと、夫婦関係をする器官、つまり生殖器に水が溜る卵巣嚢腫(のうしゅ)というような病気となったりするのであります。

  大体十三歳位までの子供の病気の状態は、大抵お母さんの心の状態が映って現われてくるのであります。そういう子供が寝小便を垂れているのを子供が悪いんだと思って、そして子供の尻をひっぱたいたり、注射の針でさしてみたりして子供を虐めて癒そうと思っても、それは母親の悲しみの思いが形に現われて排泄しているんだからなかなか癒らんのであります。そういう場合にお母さんが反省して夫と調和する心境になり、悲しみが自然に消えますと、その子供には何の処置もしないで、そのままおいときながら自然に寝小便が止ってしまう例が多いのであります。それですから私の講演会に誘われてあるお母さんがやって来て、私の話を聞いて非常に感動して、“自分が今まで夫に反抗しておったのは悪かった、“済まなかった”という気持になりまして夫と調和する気持ちになり、悲しみが消えて家に帰ると、その晩以来、子供の寝小便が無くなっておって、決して再発しなかったという実例は度々あるのであります。

  此の聖経『甘露の法雨』の巻頭にある神様のお示しにあるように、天地一切のものと和解し、天地一切のものに感謝する心境になれば、悲しみも無論消えるし、どんな紛争もなくなるし、病気も自(おのずか)ら消えてしまうのであります。

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