伝統板・第二

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萬葉集 - 夕刻版

2019/04/17 (Wed) 20:14:01

このスレッドでは、萬葉集(万葉集)に関する情報を
集めてまいります。



新元号「令和」は万葉集が出典 「梅花の歌」序文の現代語訳は
「初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる」

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ca197bae4b0474c08d0c3c0

            ・・・

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その1

         *Web:Japan On the Globe(H31.04.14)より

大伴家持は「人々が美しく心を寄せ合う」国を理想として『萬葉集』を編纂した。

■1.「人々が美しく心を寄せ合う」

新元号「令和」の出典となった
「初春の『令』月(れいげつ)にして 気淑(よ)く風『和』(やわら)ぎ」は、
天平2(730)年正月13日(太陽暦2月8日)、
太宰府の長官・大伴旅人(おおとものたびと)邸での梅見の宴の光景だ。

そこで主客あわせて32人が梅をテーマに1首づつ和歌を詠んだ。

 
安倍首相は「令和」の説明の中で、
「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味が込められている、
と語った[a]。

たとえば客の一人、萬葉集中の代表的歌人、
山上憶良(やまのうえのおくら)は次の歌を詠んでいる。

 春されば まず咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ
(春が来ると真っ先に咲く家の梅の花、この花を、ただひとり見ながら
 長い春の一日を暮らすことであろうか)

 
この歌を万葉学者の伊藤博・筑波大学名誉教授は
大著『萬葉集釈注』で次のように評している。


   そして、この花は、あの人と離れてひとり見ながら春一日を過ごすには
   惜しんでも惜しみきれない花だという切なさは、今から2年前、
   この屋敷で妻大伴女郎を失った旅人の孤独の心境でもある。
   ・・・ 一首の恋歌仕立てのあわれさが、今日の主人への慰みとなっている。
   優雅な思いやりで、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。[1, 1182]


このような「優雅な思いやり」も、「人々が美しく心を寄せ合う」光景の一幕である。

            <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その2 - 伝統

2019/04/18 (Thu) 17:05:52


■2.「しきしまのみちの御まつりごと」

『萬葉集』の編纂者と目される大伴家持(やかもち)は旅人の子で、
この宴の時には12、3歳。旅人のもとで育てられていたので、
この宴を柱の陰から、のぞき見くらいはしたかも知れない。

 
それから16年後、天平18(746)年正月、奈良の都に雪が積もった際、
家持は元正上皇の御在所での雪かきに加わり、その後の酒宴で、
上皇から雪の歌を作れと詔(みことのり)を受けて諸臣に混じって、次の歌を献じた。


 大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れどあか(飽)ぬかも

 
この雪見の宴も「人々が美しく心を寄せ合う」一幕であった。
富山県立図書館に長年奉職しつつ、立山の歴史や越中における
万葉の研究をされた廣瀬誠氏は、この宴について次のように語られている。


   それにしても、この都での雪の賜宴は家持生涯忘れえぬものであったらう。
   「聊(いささ)か此の雪を賦して各其の歌を奏せ」との詔(みことのり)に応じ、
   諸臣作歌献上した盛儀こそ「日の大朝廷(みかど)」の理想的な姿であった。
   後世風にいへば「しきしまのみちの御まつりごと」であった。[2, p313]


この光景は現代も続けられている「歌会始の儀」とよく似ている[a]。

この「しきしまのみちの御まつりごと」への思いが
「将来の『萬葉集』全巻奏上の念願となって、家持は全力こめて
この集の編成に努力したのでなからうか」と廣瀬氏は推測する。

とすれば、『萬葉集』自体が「人々が美しく心を寄せ合う」ことを
理想として生み出された文化財なのである。

            <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その3 - 伝統

2019/04/19 (Fri) 18:45:01


■3.越中での「人々が美しく心を寄せ合う」世界

この年の6月、家持は越中守に任ぜられた。
当時は聖武天皇のもとで東大寺の造営、大仏の建立に国家の総力が
傾注されていた時代であった。

越中は東大寺が多くの田を持つ経済的基盤であったから、
その地方長官は大任である。廣瀬氏は言う。


   家持は繰り返し「大君の任のまにまに」と歌ってゐる。
   集中、この語の使用は八例。そのうち六例までが家持だ。[1, p315]


まさに「大君の任のまにまに」、天皇の御信任にお応えしようと、
家持は勇躍、越中に赴いたのだろう。


   越中在任中の歌を見れば、家持の生活は張りつめ、作歌にも油が乗ってゐる。
   張り切ってゐたからこそ、越中の風土、山川草木すべてが新鮮に溌剌として
   心に映り、それを力強く歌ふことができた。
   そして五年間の越中在任中に家持は歌人として大きく成長を遂げた
   のであった。[1, p316]


翌19年2月、大病に伏した家持に、
部下の大伴池主(いけぬし)は、次の歌を贈って慰めた。

 山峡(やまかひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ
(山あひに咲いている桜を一目でもあなたにお見せできたら、何を不足に思いましょう)


 これに応えて家持は次の歌を返した。

 あしひきの山桜花一目だに君とし見てば吾(あれ)恋ひめやも
(山の桜花を一目でもあなたと共に見られたら、わたしはこんなに花にあこがれましょうか)

 ここにも「人々が美しく心を寄せ合う」世界があった。

            <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その4 - 伝統

2019/04/20 (Sat) 18:27:00


■4.「海ゆかば」

天平21(749)年、陸奥国から黄金が発掘され、
建立中の大仏に塗る黄金の不足を憂慮されていた聖武天皇に献上された。
天皇は喜ばれて、長文の宣命(せんみょう、国文体の詔勅)を発せられた。

その中で聖武天皇は大伴氏の昔からの言立て「海ゆかば」を引用された。

これを伝え聞いた家持は感激し、
「陸奥国より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌」長歌及び反歌三首を詠んだ。

その中の一節が、現在まで歌い継がれている「海ゆかば」である。


   ・・・海ゆかばみづく屍、山ゆかば草むす屍、
   大君の辺にこそ死なめ、顧(かへり)みはせじ

   (海に行くのなら 水に浸かった屍 山に行くのなら 草むした屍をさらしても 
    大君のお側で死のう 後ろを振り返ることはしない)・・・


廣瀬氏は、この長歌を「家持の生涯で最長の大作、かつ最高の力作」としながらも、
次のように添える。


   家持の歌には両極がある。片方の極は
   「うらうらに照れる春日にひばりあがり心かなしも独し思へば」
   であらう。

   そしていま一方の極はこの「海ゆかば」百四句の長歌だ。
   この長歌、もりあがる感動がうねりを打って迫ってくる。[1, p319]


「心かなしも独し思へば」という思いがあってこそ、
大君のお側では「顧みはせじ」という悲壮な覚悟が生まれてくる。

その悲しみ、苦しみのない猪突猛進では
「感動がうねりを打って迫ってくる」事はありえない。

            <感謝合掌 平成31年4月20日 頓首再拝>

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その5 - 伝統

2019/04/21 (Sun) 19:02:32

■5.「民安かれ」のための「顧みはせじ」

それにしても家持の「顧みはせじ」という覚悟はどこから来ているのか。

聖武天皇の宣命ではこの言立て引用の前に
「天の下の百姓(おおみたから)衆(もろもろ)を撫で賜ひ恵(めぐ)び賜はく」
と書かれており、これを受けて家持は長歌でこう詠んでいる。


   老人(おいびと)も 女(おみな)童(わらは)も しが願ふ 
   心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも 
   あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて
   (老人も女子供もめいめいの満足するまで、いたわっておやりになるので、
   このことがなんとも貴く、いよいよ嬉しく思って)


大君の民を思う大御心を「貴く」「嬉しく」思う心が「海ゆかば」につながっている。
廣瀬氏はここから次のように指摘する。


   天皇の御まつりごととは、老人・婦人・子供に至るまで、
   その願ひを叶へ、喜びを分かつ、現代風に言へば社会福祉であると信じ、
   従って「大君の任のまにまに」執り行ふべき行政の目標もここにある
   と家持は固く思ってゐた。

   「老人も女童も、しが願ふ心足らひに、撫でたまひ治め賜」と
   「海ゆかば水づく屍」とは、家持にとって表裏一体であった。
   この重要な一点を見落してはならぬと思ふのである。[2, p224]


「民安かれ」とは神武天皇以来の皇室の伝統的な祈りであった[b]。
その祈りを実現しようとの覚悟が「顧みはせじ」との決意を生み出しているのである。

            <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その6 - 夕刻版

2019/04/22 (Mon) 17:11:19


■6.防人たちへの共感

天平勝宝7(755)年、兵部少輔(ひょうぶのしょうしょう、軍事担当官)と
なっていた家持は東国から招集された防人(さきもり)たちの歌を集めた。
これが『萬葉集』中、百首近い「防人歌」として残された。

廣瀬氏はその一部をこう紹介している。


   筑波嶺(つくばね)のさ百合(ゆり)の花の夜床(ゆとこ)にも
   愛(かな)しけ妹そ昼もかなしけと、ふるさと筑波山のユリの花の
   イメージに結びつけて妻のいとしさを、いささか艶めかしく歌って居る。

   この作者が同時に「霰(あられ)ふり鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に
   われは来にしを」と決然たる一首もとどめて居ることは重大である。[2, p266]


一人の防人が妻を恋うる歌の次に皇御軍の一員として出征する決意と誇りを詠った。
そこに家持は自らの「顧みはせじ」と同じ覚悟を感じたのだろう。

廣瀬氏は言う。


   戦時中、「大君のしこの御楯」等の数首だけを強調し
   「滅私奉公」の題目としたのも一面的であったが、

   戦後、その反動で、防人歌のセンチメンタリズムを強調し、
   あるいは厭戦的、反戦的などと説くのも、勝手な曲解である。・・・

   「私(わたくし)に背(そむ)きて公(おおやけ)に向ふ」(聖徳太子・憲法十七条)、
   父母を恋ひ妻子を恋ひ故里を恋ひ、その悲しみのゆらぐがままに
   祖国防護の任におもむいた防人の悲痛な心持は、

   百首の大群作となって萬葉集の巻末を飾り、
   われらの前に力強く生きて渦巻いて居るのである。[2, p267]


            <感謝合掌 平成31年4月22日 頓首再拝>

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その7 - 伝統

2019/04/23 (Tue) 19:28:10


■7.「いや重け吉事」

天平勝宝8(756)年、聖武天皇は崩御され、その翌年、
橘奈良麻呂は権勢を振るう藤原仲麻呂を打倒しようとしたが、
事は事前に発覚し、関与した人々は投獄されたり、処刑された。

橘一族と親しくしていた大伴一族も多くの人々が歴史から姿を消した。
家持にも仲麻呂から誘いがあったと思われるが、
大君に仕える志から、派閥争いには加わらなかったようだ。

家持は危うく難を逃れたが、藤原氏の策謀であろう、因幡守に追いやられた。
少納言の地位からすれば左遷である。

その因幡において、天平宝字3(759)年正月1日、家持は国郡司たちを集めて宴を催し、
そこで次の歌を詠んだ。

  新しき年の始めの初春のけふ降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
      (新しい年の始めの正月の今日降る雪のように吉事がもっともっと積もれ)

家持はこの歌をもって、『萬葉集』を閉じた。
正月の大雪は豊年の瑞兆と考えられていた。


   おそらく家持の目には、天平十八年(七四六)正月、
   上皇の御所で詔に応じて雪の歌を奏した光栄、そして張りあひのあった
   越中在任五カ年間の大雪の印象が、重ね写しになって見えてゐたであらう。[2, p323]


こうした「人々が美しく心を寄せ合う」光景を思いつつ、
家持は国全体に対して「いや重け吉事」と祈ったのであろう。

            <感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>

「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り~その8 - 伝統

2019/04/26 (Fri) 20:32:18


■8.家持の祈り

家持はその後、薩摩、伊勢、相模と地方勤務を重ね、
最後に陸奥において延暦4(785)年、70年近い生涯を閉じた。

その死の直後、桓武天皇の寵臣・藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、
大伴一族の者が下手人として逮捕された。

尋問の結果、家持が首謀者とされ、その遺体は葬ることを許されず、
大伴氏の財産・所領はことごとく没収された。

「大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」と詠った家持にしては、
あまりに酷(むご)い最期だった。

しかし、これによって『萬葉集』の草稿も、
他の財産とともに朝廷の書庫に収められたのだろう。

もし、家持の最期が平穏だったとしたら、
同時代の他の歌集と同様に散逸していた可能性が高い、と廣瀬氏は推測する。


   「顧みはせじ」と詠んだ家持は、たとへ自分の屍が路傍に捨てられ、
   草むす屍となったとしても、そのことによって自分が身命かけて採録編纂した
   『萬葉集』が日本国に残り、日本民族の宝となったことを
   心底から喜んでいるに違いないと私は思ふ。[2, p326]


そして、自ら『萬葉集』に収録した父・旅人の宴席の章句から、
1200余年後に「令和」の年号が採られた事を知れば、
泉下の家持は祈りを新たにするだろう。

「人々が美しく心を寄せ合う」理想の国家の実現に向けて「いや重け吉事」と。

(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(1101) 和歌のもたらす和の世界
 真心の籠もった歌は人々の心を繋ぎ、内的平等と同胞感でつながれた和の世界を作る。
http://blog.jog-net.jp/201902/article_4.html

b. 伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/japanonthegl0-22/
アマゾン「メディアと社会」「ジャーナリズム」カテゴリー 1位(H30/2/1調べ)
万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。

c. JOG(1108) 元号 ? 国民が共に時を歩む「国民文化」
 元号は国民の理想を掲げ、国民の歩みを象徴する事によって、国民を結ぶ。
http://blog.jog-net.jp/201904/article_1.html


      (https://archives.mag2.com/0000000699/?l=ciu003d3c9 )

            <感謝合掌 平成31年4月26日 頓首再拝>

日本人の感性の原点ともいえる万葉集 - 伝統

2019/04/27 (Sat) 17:27:08


          *『万葉集:100分で名著』佐佐木幸綱・著 より

(1)日本最古の歌集が、万葉集。

(2)天皇から役人、名もなき人々までさまざまな立場の人が
   詠んだ歌は、1400年たった今も、親しまれている。

(3)なぜ古代人は歌を詠んだのか。

   そこには、言葉に宿ると信じられていた不思議な力があった。

   言霊である。

(4)日本人の感性の原点ともいえる万葉集。
   言霊の宿る歌。

(5)全20巻あり、およそ4500首を収録している。

(6)言霊とは、言葉に宿ると信じられた不思議な力。

   縁起のいいことを言うと縁起が良くなり、
   悪いことをいうと、悪いことがやってくる、という考え。

   それが言葉の力。

(7)万葉集の第一期である7世紀は、激動の時代であった。

   大化の改新があった。
   また白村江の戦いなど朝鮮動乱に巻き込まれた。

(8)言霊思想。
   悔しい思いで死んだ魂を荒魂と呼んだ。

   その荒魂について
   歌を詠むことにより鎮魂する。

   荒魂を和魂(にぎたま)、つまり
   平和な魂にしてあげるということ。

(9)柿本人麻呂は、プロフェッショナル歌人である。

(10)言葉を尽くして、天皇の権威を賛美する。
   それが柿本人麻呂であった。
   彼は歌の世界を広げた。

            <感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>

国民による国民のための詩集~万葉集 - 伝統

2019/04/28 (Sun) 20:32:03

       *Web:国際派日本人養成講座(2017/06/11)より抜粋
            ~「和の国」日本の世界一

多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、巨大建造物に限らない。
世界最古、最大の選詩集『万葉集』もその一つである。

4,516首と言う規模で世界最大であり、かつ、7,8世紀の歌を集めている。

規模や古さだけではなく、万葉集が特徴的なのは天皇から庶民ままで
ほとんどあらゆる階層を含んでいることである。


   アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は・・・

   天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、
   その題材の豊富なことは、詩集として世界でも稀なことであると述べている。

   作者も宮廷の詩人だけでなく、防人(さきもり)の歌や東人の歌、
   農民、遊行女婦、乞食まで多様な階層の歌が選ばれているのである。
   いかに階層に対する偏見がないか、また平等な世界であったかがよくわかる。
                 [田中英道『日本史の中の世界一』, p84]


西洋やシナの詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、
万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、
まさに国民による国民のための詩集であった[d]。

この和歌の伝統は、現代の日本でも皇室を中心に
中学生から老人まで数万の短歌を集める「歌会始め」に連なっている。[e]

   (http://blog.jog-net.jp/201706/article_2.html )

            <感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝>

初夏の和歌浦、『万葉集』を巡る教養の旅 - 伝統

2019/04/29 (Mon) 21:54:35


        *Web: プレジデントオンライン(2019.04.29)より抜粋

紀伊半島の西半分を有する和歌山県。
面積の約8割が山地で、古くは「木の国」と呼ばれました。
多くの清らかな河川が流れ、海にも面した「水の国」でもあります。

そんな和歌山県の、豊かな自然に育まれた文化や歴史をご案内します。


《万葉集ゆかりの地、和歌の浦》

「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和らぎ、
梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす」
『万葉集』巻五、梅花の歌 序文より

 
今年4月1日に発表され、5月1日からはじまる新元号「令和」。
出典は日本最古の和歌集である『万葉集』とのことで、
和歌に興味が湧いたという人も多いのではないでしょうか。

 
『万葉集』の意味には、「万(よろず)の歌を収めた集」という説と、
「葉」を「世」の意味に用いて「万(よろず)の世に伝えるべき歌集」という
2つの説が有力とされています。

全20巻からなり、最古の歌は舒明(じょめい)天皇(在位629~641年)の2首で、
最も新しい歌は大伴家持が天平宝字3年(759年)に因幡国府で歌を詠んだもの。

作者の階層は、天皇・皇后から貴族、庶民までと幅広く、
近畿地方を中心に東北から九州までの地域が詠われています。

 
そこで今回は、万葉集ゆかりの地である和歌山市の和歌の浦をご紹介します。

万葉のころから、山部赤人(やまべのあかひと)や柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)などの
歌人に詠われてきた和歌の浦。和歌山県和歌山市の南方に位置し、和歌浦湾に広がる景勝地です。

潮の満ち引きによって刻一刻と姿を変える干潟や、熊野参詣道紀伊路・藤白坂、
そして紀伊水道に面した雑賀崎まで叙情的な風景が広がります。


 和歌の浦を詠んだ歌

「若の浦に 潮満ち来れば 潟(かた)をなみ 葦辺(あしべ)をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」

             万葉集巻六・九一九 山部赤人


「玉津島 礒の浦廻(うらみ)の 真砂(まなご)にも にほひて行かな 妹も触れけむ」
 
             万葉集巻九・一七九九 柿本人麻呂


《和歌上達の神様、玉津島神社》

和歌の浦には、和歌上達の神様として尊崇される玉津島神社が鎮座しています。
聖武天皇や称徳天皇、桓武天皇らに愛され、江戸時代には初代紀州藩主である徳川頼宣が、
和歌の名人36人の肖像を描いた『三十六歌仙額』を寄進。拝殿に複製画が展示されています。

境内には、多くの歌碑が並びます。

  (http://saigyo.sakura.ne.jp/tamatsusima.html )

玉津島神社
和歌山市和歌浦中3-4-26

  (ご祭神)

   稚日女尊(わかひるめのみこと)
   息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
   衣通姫尊(そとおりひめのみこと)
   明光浦霊(あかのうらのみたま)

   http://tamatsushimajinja.jp/tamatsushima/index.html



片男波(かたおなみ)公園に建つ万葉館。

和歌の浦で詠まれた100余首の万葉歌を、
解説パネルやシアターを通じて学ぶことができます。
万葉の世界をさらに深く触れたい人はぜひ訪れてみましょう。

万葉館
和歌山市和歌浦南3丁目1700

  (https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190429-00028511-president-bus_all )

            <感謝合掌 平成31年4月29日 頓首再拝>

万葉集の秀歌 - 伝統

2019/05/02 (Thu) 20:17:22


     *Web:日本経済新聞(2019/5/1 )より

天皇・民 和歌が結んだ絆 万葉集の秀歌 読みとく
未来を祝福し国土眺め歌う 奈良大学教授 上野誠



新しい元号「令和」は歌集「万葉集」にちなむ。
この日本初の歌集に収められた秀歌を挙げつつ、
奈良大学の上野誠教授が皇室と和歌の歴史を解説する。

権力と支配との関係性から、天皇と民との関係を見る研究は、ことごとくに失敗した。
実際の歴史というものは、それほど単純ではない。
食べることと見ること、歌うこと、そういうさまざまな絆で、
天皇と民とは古代から結ばれていたからだ。


《新春の行幸で》

古代の言葉で、食べることを「くふ」というが、
この「くふ」という動詞を敬意ある言い方に代えると「をす」となる。

天皇はその土地の食物を食することで、その土地を治めていることを表象したので、
天皇が治めている地域を歌言葉で「をす国」という。


新春に、天皇が民の若菜摘みに行幸することは、大切な仕事であった。
もちろん、若菜を煮て食べるために。
そして、若菜摘みの場で、若菜を摘んでいるすべての乙女たちに結婚を申し込むことになっていた。

もちろん、すべての乙女たちと結婚ができるはずもない。
だから、それは儀礼的に、結婚を申し込むのである。
その結婚を申し込む歌こそが、「万葉集」開巻第一の歌なのだ。

「籠もよい籠、へらもよいへらを持って、この丘で若菜を摘んでいるお嬢さん方よ、
家をおっしゃい、名前をおっしゃい」と天皇は乙女たちに呼びかける。

籠(こ)もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち 
この岡に 菜摘ます児(こ) 家告(の)らせ 名告らさね 
そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて 我こそ居(を)れ しきなべて 
我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも(雄略天皇御製歌、巻一の一)


ところが、なぜか乙女たちは答えない。
そこで天皇は、では自分から名乗ろうではないか、と言って、この歌は終わる。


古代社会において、家と名前を聞くことは、結婚の申し込みを意味していた。
この結婚の申し込みは、儀礼的なものであったから、乙女たちは答えなくてもよい。
こうして、天皇と民とは、若菜摘みの場でコミュニケーションを図ったのである。

その結婚の申し込みが歌でなされているところが、おもしろい。
言葉を声にし、歌で人と人との心を繋いだ万葉時代、
天皇もまた歌で結婚を申し込んだのである。


《豊作と豊漁》

次に、見ることについて考えてみよう。
食べることと並んで、見ることも天皇の大切な仕事であった。

高い所に登って、国のすがたを見ることも、大切な儀式であった。

香具山(かぐやま)に登った舒明天皇は、

「大和にはたくさんの山があるけれど、この香具山に登り立って、国見をすると、
国原からは煙が見え、海原からは鴎が飛び立つのが見える。立派な国だ。秋津島大和の国は――」

と歌ったのである。

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 
国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ う
まし国そ あきづ島 大和の国は(舒明天皇御製歌、巻一の二)


天皇が見たと歌ったのは、いったい何なのだろうか。
煙が立つということは、家々で食事の準備がなされているということであろう。

香具山に登っても、海は見えないが、鴎は豊漁の象徴である。
鴎が群がるところには魚が群れているので、鴎は豊かな漁を象徴するのである。

つまり、見えたと歌った景は、あるがままの国土の景ではないのである。
それは、あるべき国土の姿であるといえよう。
あるべき国土の姿は、豊作の平野と、豊漁の海で象徴されたのだ。


この歌で大切なことは、天皇が、豊なる稔(みの)りの景が見えたぞと歌うことなのである。
つまり、「万葉集」の二番目の歌は、天皇が「国原」と「海原」を讃(ほ)めて、
そこに住む民たちの未来を祝福した歌なのだ。


《子供のように》

一方、雪が降ったと言っては、まるで子供のようにはしゃぐ天皇の歌もある(巻二の一〇三)。
また、皇室をめぐる恋のスキャンダルの歌々も、「万葉集」にはある(巻一の二〇)。


天皇を神と見立てる歌もあるが、間違ってはならないのは、
神としての立場に立つこともあるということなのであって、
神ではないから神に見立てるのである。そ

の天皇がまた、仏法にも深く帰依しているところに、これまた日本的な宗教観が表れている。
そして、「万葉集」の最後は、降り積もる雪のように、吉事が重なれと、
天皇の御代を祝福する大伴家持の歌で締め括(くく)られる(巻二十の四五一六)。


テレビもラジオもない時代、天皇と民は歌で互いの気持ちを伝え合っていたのである。
私は、もう来春の歌会始のことを思いつつ、この原稿を書いている。

日本は、歌の国なのだ。

            <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>

万葉集にはどんな和歌が載っているのか - 伝統

2019/05/04 (Sat) 19:07:02

「令和」の由来と大人気。万葉集にはどんな和歌が載っているのか

        *Web:MAG2NEWS(2019.04.16)より

《古代の人々の感性》

(1)日本に現存する最古の和歌集で、
   7世紀後半から8世紀前半ぐらいの歌が集められたとされています。

   奈良時代は、平城京遷都の710年からと考えますから、
   『万葉集』は、奈良時代の少し前ぐらいから。

   つまりほぼ「奈良時代の様子」と思っていいでしょう。

(2)和歌の例

     額田王思近江天皇作歌一首

     君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹



     額田王 近江天皇を思ひて作る歌一首

     君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く



     額田王が、近江天皇(天智天皇)を思って作った歌

     君(天智天皇)を恋しく待っていると、秋の風が簾を動かしていった



   この「簾動かし 秋の風吹く」が
   古代の人々の思いというか、心の有り様を感じさせます。

   この秋の風は、自分が恋しい、会いたいと思っている相手の
   「訪れ」を知らせてくれている、という歌なのです。

   恋人が自分のところに訪ねてくれるということを
   秋風の動き、簾の動きから感じるというのは、
   今の時代の私たちにはない感性です。

   古代の人々は、自分の思いや人の行動が
   自然の動きと一体化しているという感性を持っていたようです。

     (https://e.mag2.com/2Gjicjq )

            <感謝合掌 令和元年5月4日 頓首再拝>

万葉集とは?歴史と成り立ち - 伝統

2019/05/05 (Sun) 20:37:22


       *Web:四季の美(2019/4/25)より

(1)万葉集の内容

   全20巻にも及ぶ万葉集の中には、およそ4500もの和歌が収められています。

   大きな特徴としては、天皇から防人・一般庶民まで
   身分を問わずに和歌が選ばれている点が挙げられます。

   和歌の前では身分は問わない、というこの姿勢は世界的にみても特異なものでした。

   万葉集では五七五七七の短歌が全体の9割を占め、
   この他に長唄や旋頭歌なども一部収められています。

   【万葉集の和歌の数】
   万葉集の和歌数を正確に見てみると、下記のようになっています。

   総歌数:4208首
   長唄:265首
   旋頭歌(せどうか):62首
   仏足石歌(ぶっそくせきか):1首
   ほか:漢詩4首等

   【万葉集の全巻の構成】

   巻1:宮廷を中心にした雑歌
   巻2:宮廷中心の相聞歌・挽歌
   巻3:巻1・巻2を補う歌

   巻4:巻1・巻2を補う歌。恋のやりとりの歌
   巻5:太宰府を中心にした歌
   巻6:宮廷を中心にした歌 

   巻7:作者名のない雑歌・譬喩歌・挽歌
   巻8:四季ごとの歌
   巻9:旅と伝説の歌

   巻10:作者名のない四季の歌
   巻11:恋の歌・相聞歌のやり取り
   巻12:巻11に同じ

   巻13:長歌を中心とする歌謡風の歌
   巻14:東国で歌われた東歌
   巻15:遣新羅使人の歌、中臣宅守と狭野弟上娘子の悲恋の歌

   巻16:伝説の歌、滑稽な歌
   巻17:巻20まで大伴家持の歌日記。若い頃の周縁の人々の歌
   巻18:越中国の歌など

   巻19:孝謙天皇時代の歌もある
   巻20:防人の歌が含まれる


(2)万葉集の歴史

   万葉集は日本に現存する歌集の中でも、最も古いものです。
   成立時期などは不明な部分もあり、7世紀以降に何回かの編纂(へんさん)を経て、
   奈良朝の末期頃に現在の形になったと考えられています。

   万葉集の歌が詠まれた、
   7世紀の後半から8世紀の後半の時代の事を万葉時代といいます。

   大和(日本)が独立国家の建国を目指していた時期で、
   国家のアイデンティティとしても和歌は重要だったのです。


(3)万葉集の時代区分

   万葉集の歌の大半は1世紀半の間に作られたものであり、
   その年代としては、主に下記の四期に分けられます。

   第一期 舒明天皇即位(629)~壬申の乱(672)

   第二期 壬申の乱~平城京遷都(710)

   第三期 平城京遷都~天平五年(733)

   第四期 天平六年~天平宝字三年(759)


(4)万葉集の意味

   万葉集という言葉の意味についても、下記のような様々な説があります。

   よろづの言の葉を集めたものという意味
   歌を葉に例えて、多くの歌を集めたものという意味

   「万葉」という言葉に万代(永久)といった意味があるので、
   この歌集が永く伝わるようにという意味

            <感謝合掌 令和元年5月5日 頓首再拝>

新元号の由来 - 伝統

2019/05/08 (Wed) 21:12:54

       *Web:四季の美(2019/4/25)より

(1)出典:「万葉集」巻五、梅花歌三十二首并せて序

   [引用部分]

   初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

   [書き下し文]
   初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

   [読み]
   しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、
   うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす。

   [用語解説]

   ”鏡前の粉”:女人が鏡の前でよそう白粉。梅花の白さをいう。

   ”蘭”:蘭はフジバカマだが、広くキク科の香草をいう。
    ここでは梅と対にして香草をあげた文飾で実在のものではない。

   ”珮後”:珮は本来帯の飾り玉。ここでは身におびる程度の意。


   この序の筆者は大伴旅人とされており、
   旅人宅で梅の花を囲む雅宴で詠まれた歌32首に対する序文です。


(2)梅花歌三十二首序文全体

   梅花歌卅二首[并序] / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也
   于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

   加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖
   夕岫結霧鳥封?而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈

   於是盖天坐地 < 促>膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外
   淡然自放 快然自足

   若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣
   宜賦園梅聊成短詠


   [書き下し文]
   天平二年正月十三日に、師の老の宅に萃まりて、宴会を申く。
   時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、
   蘭は珮後の香を薫らす。

   加之、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾け、
   夕の岫に霧結び、鳥は殻に封めらえて林に迷ふ。
   庭には新蝶舞ひ、空には古雁帰る。

   ここに天を蓋をし、地を座とし、膝を促け觴を飛ばす。
   言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。
   淡然と自ら放にし、快然と自ら足る。

   若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情をのべむ。
   詩に落梅の篇を紀す。
   古と今とそれ何そ異ならむ。
   宜しく園の梅を賦して聊かに短詠を成すべし。



   [現代文]
 
   天平二年正月十三日に、長官の旅人宅に集まって宴会を開いた。
   時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、
   梅は美女の鏡の前に装う白粉の如きかおりをただよわせている。

   のみならず明け方の山頂には雲が動き、松は薄絹のような雲をかずいて
   きぬがさを傾ける風情を示し、山のくぼみには霧がわだかまって、
   鳥は薄霧にこめられては林に迷い鳴いている。
   庭には新たに蝶の姿を見かけ、空には年をこした雁が飛び去ろうとしている。

   ここに天をきぬがさとし地を座として、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。
   すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつ)み、
   大自然に向かって胸襟を開きあっている。
   淡々とそれぞれが心のおもむくままに振舞い、快くおのおのがみち足りている。

   この心中を、筆にするのでなければ、どうしていい現しえよう。
   中国でも多く落梅の詩篇がある。
   古今異るはずとてなく、よろしく庭の梅をよんで、いささかの歌を作ろうではないか。

            <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

梅の花を題材に書かれた三十二首の和歌~その1 - 伝統

2019/05/09 (Thu) 19:44:57


       *Web:四季の美(2019/4/25)より

(1)正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しきを経め

                      大弐紀卿

   【意味】

   正月になり新春がやって来たら、このように梅の寿を招きながら楽しき日を尽くそう。


(2)梅の花今咲ける如散り過ぎずわが家の園にありこせぬかも

                      少弐小野大夫


   【意味】

   梅の花は今咲いているように、散りすぎることなくわが家の庭に咲きつづけて欲しい。


(3)梅の花咲きたる園の青柳はかづらにすべく成りにけらずや

                      少弐栗田大夫

   【意味】

   梅の花咲く庭に、青柳もまた、かづらにほどよくなっているではないか。


(4)春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日暮さむ

                      筑前守山上大夫

   【意味】

   春になると最初に咲くわが家の梅花、
   私一人で見つつ一日を過ごすことなど、どうしてしようか。


(5)世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にも成らましものを

                      豊後守大伴大夫

   【意味】

   世の中は恋に苦しむことが多いなぁ。
   そうならいっそ梅の花にもなってしまいたいものを。


(6)梅の花今盛りなりおもうふどちかざしにしてな今盛なり

                      筑後守葛井大夫

   【意味】

   梅の花は今は盛りよ。親しい人々は皆髪に挿そうよ。今は盛りよ。


(7)青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし

                      笠沙弥

   【意味】

   青柳を折り梅花をかざして酒を飲む。さあこの後は散ってしまっても、もうよい。


(8)わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

                      主人

   【意味】

   わが庭に梅の花が散る。天涯の果てから雪が流れ来るよ。


(9)梅の花散らくは何処しかすがにこの城の山に雪は降りつつ

                      大監伴氏百代

   【意味】

   落梅はいずこのこと。それにしてもこの城の山には雪の降りつづくことよ。


(10)梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯鳴くも

                      少監阿氏奥島

   【意味】

   梅の花の散ることを惜しんで、わが庭の竹林には鶯が鳴くことよ。

(11)梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮さな

                      少監土氏百村

   【意味】

   梅の花も美しい庭に、青柳のかづらまでして、一日を遊びすごそうよ。


(12)うち靡く春の柳とわが宿の梅の花とを如何にか分けむ

                      大典史氏大原

   【意味】

   霞こめる春に美しく芽ぶく柳と、わが庭に咲き誇る梅の花と、
   そのよしあしをどのように区別しよう。


(13)春されば木末隠れて鶯そ鳴きて去ぬなる梅が下枝に

                      少典山氏若麿

   【意味】

   春になると梅の梢では姿も隠れてしまって、鶯は鳴き移るようだ、下の枝の方に。


(14)人毎に折りかざしつつ遊べどもいや愛づらしき梅の花かも

                      大判事丹氏麿

   【意味】

   誰も誰も折りかざしつつ遊ぶのだが、なお愛すべき梅の花よ。


(15)梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらず

                      薬師張氏福子

   【意味】


   梅の花が咲き、散ってしまったなら、
   桜の花がつづけて咲くようになっているではないか。


(16)万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし

                      筑前介佐氏子首

   【意味】

   万年の後まで年はあらたまり来ようとも、
   梅の花は絶えることなく咲きつづけるがよい。

            <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

梅の花を題材に書かれた三十二首の和歌~その2 - 伝統

2019/05/10 (Fri) 21:27:05


(17)春なれば宜も咲きわたる梅の花君を思ふと夜眠も寝なくに

                      壱岐守板氏安麿

   【意味】

   春になったとて、まことによく咲いた梅の花よ。
   あなたを思うと夜も寝られないものを。


(18)梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし

                      神司荒氏稲布

   【意味】

   梅の花を折りかざして遊ぶ人々は、こぞって今日一日が楽しいことだろう。


(19)毎年に春の来らばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ

                      大令史野氏宿奈麿

   【意味】

   年ごとに春がめぐり来れば、このようにこそ、梅をかざして楽しく酒をくもう。


(20)梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし

                      少令史田氏肥人

   【意味】

   梅の花は今を盛りに咲く。鳥々の声も恋しい春が、やって来ているらしい。


(21)春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びにあひ見つるかも

                      薬師高氏義通

   【意味】

   春になったら逢おうと思っていた梅の花よ、今日のうたげにこそ出会うことよ。


(22)梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり

                      陰陽師礒氏法麿

   【意味】

   梅の花も手折り、かざしては遊ぶのだが、
   なお飽きることのない日は、今日なのだなあ。



(23)春の野に鳴くや鶯懐けむとわが家の園に梅が花咲く

                      算師志氏大道

   【意味】

   春の野に鳴くよ、その鶯をよび寄せようと、わが家の庭に梅の花の咲くことよ。


(24)梅の花散り乱ひたる岡傍には鶯鳴くも春かた設けて

                      大隅目榎氏鉢麿

   【意味】

   梅の花の散り乱れる岡べには、鶯が鳴くことよ。春のけはい濃く。


(25)春の野に霧り立ち渡り降る雪と人の見るまで梅の花散る

                      筑前目田氏真上

   【意味】

   春の野を一面に曇らせて降る雪かと人が見るほどに、梅の花が散ることよ。


(26)春柳かづらに折りし梅の花誰か浮べし酒杯の上に

                      壱岐目村氏彼方

   【意味】

   春の柳をかづらにとて折ったことだ。梅の花も誰かが浮かべている。酒盃の上に。


(27)鶯の声聞くなへに梅の花吾家の園に咲きて散る見ゆ

                      対馬目髙氏老

   【意味】

   鶯の声を聞くにつれて、梅の花がわが家の庭に咲いては散っていくのか見られる。


(28)わが宿の梅の下枝に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ

                      薩摩目髙氏海人

   【意味】
   わが家の梅の下枝に、たわむれつつ鶯が鳴くことよ。
   上枝に鳴けば花が散るだろうことを惜しんで。


(29)梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ

                      土師氏御道

   【意味】

   梅の花を折りかざしつづけて人々の集まり遊ぶのを見ると、都のことが思い出される。


(30)妹が家に雪かも降ると見るまでにここだも乱ふ梅の花かも

                      小野氏国堅

   【意味】

   恋しい人の家に雪が降るのかと思われるほどに、一面に散り乱れる梅の花よ。


(31)鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため

                      筑前掾門氏石足

   【意味】

   鶯が開花を待ちかねていた梅の花よ、ずっと散らずにあってほしい。
   恋い慕う子らのために。


(32)霞立つ長き春日をかざせれどいや懐かしき梅の花かも

                      小野氏淡理

   【意味】

   霞こめる春の長い一日を、かざしつづけても、ますます心ひかれる梅の花よ。

            <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>

万葉集最終歌 20-4516 大伴家持 歌 - 伝統

2019/05/16 (Thu) 21:04:26


万葉集最終歌 20-4516 大伴家持 歌

https://www.youtube.com/watch?v=yU0z8doX6-k


大伴家持(718~785、生没年差 67、奈良時代の人 )  
『万葉集』のメイン編纂者


新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事

あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと



現代語訳

新しい年の初め、初春の今日降る雪のように、良い事もたくさん積もれ


解説

この歌は、奈良時代の歌人大伴家持(おおとものやかもち)によって詠まれた歌です。
これが大伴家持が最後に詠んだ歌と言われています。
大伴家持は、万葉集の作成にもかかわっていました。

当時、新年に降る雪は縁起がよいとされていました。
このことから、縁起のよい雪と同じように
吉事(「よごと」と読みますが、良い事の意味)も
たくさんふりかかってきますようにと願いをかけた歌なのでしょう。

  ( http://manapedia.jp/text/1691 )


            <感謝合掌 令和元年5月16日 頓首再拝>

『息嘯』 - 伝統

2019/08/20 (Tue) 19:27:56


       *メルマガ「夢の言の葉」(2019年08月19日)より

             『息嘯』(おきそ)

 ☆--------------------ため息をつくこと--------------------
 
  
 「おき」は、「息(いき)」、「そ」は、「嘯(うそ)」が
 変化したものだといいます。
 
 
 「嘯」は、口をすぼめて、息を出すこと。
 
 つまり、ふぅーっと、ため息を吐くことをあらわしています。
 
  
 古代の人は、ため息が集まって、
 霧になると考えていたようです。
 
 
 ~ 大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ち渡る ~
               (山上憶良 『万葉集』)
 
 
 
 同じく『万葉集』に、「嘆きの霧」という言葉も出てきます。
 
 
 これは、嘆いて吐くため息を、霧にたとえたものです。
 
 
 
 たしかに、この世は、悲しみに満ちています。
 
 
 生きている限り、嘆きのため息を漏らさない人は、いないでしょう。
 
 
 そんなため息を集めれば、本当に霧になるかもしれません。
 
 
 
 でも、ため息は、感動した時や、ほっとした時にも出るものですね。
 
 こちらのため息で、霧が立つほどになれば、
 どんなにすばらしいことでしょう。
 
            <感謝合掌 令和元年8月20日 頓首再拝> 

万葉の「月」を詠む - 伝統

2019/09/13 (Fri) 20:22:30


「 白露を 玉になしたる 九月(ながつき)の
   有明の月夜(つくよ) 見れど飽かぬかも 」 
             巻10の2229 作者未詳

( 月の光が白露を美しい真珠のように輝かせている。
  この美しい月、いくら見ても見飽きないことです。
  とうとう夜明けになってしまったよ。有明の月だねぇ)

夜明けになっても空に残っている月を「有明の月」といいます。

             ・・・


「 月夜(つくよ)よし 川の音 清し いざここに
   行くも 行かぬも 遊びてゆかむ 」 
                巻4の571 大伴四綱

( 月夜も良いし 川の音も清々しい。 
  さぁここで都へ行く人も筑紫に残る人も
  歓をを尽くして心行くまで楽しみましょう )

730年大宰府の長官であった大伴旅人は都に栄転します。
出発前の送別会のことで飲めや歌えの賑やかな宴が想像されます。


   (上記2歌は https://manyuraku.exblog.jp/10749959/ より)


             ・・・

巻四、通し番号704、
大宅女(おおやけめ)の歌です。

"夕闇は道たづたづし
月待ちて行かせわが背子
そのまにも見ん"


【犬養訳】
宵闇は道が危なっかしいわよ、
月の出を待ってお帰りなさいませ、
そのわずかな間だけでも、お会いしてましょうよ。

   (https://blog.goo.ne.jp/tre_takara/e/06820062e2c851e8e023abd006a31b63

             ・・・

巻7・1068の歌は、雑歌です。

天を詠める

「天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」

右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。

詠天

「天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見 」

右一首、柿本朝臣人麿乃謌集出

(天上の海には雲の波が立ち月の船が星の林漕ぎ隠れていくのが見える)

(大空の海に雲の波が立って、月の船が、きらめく星の林の中に漕ぎ隠れてゆく)

(果てしなく広がる天の海に、雲の白波が立ち、
 その海を月の船が漕ぎ渡って、星の林に隠れて行くのが見える)

   ( http://souenn32.hatenablog.jp/entry/20130929/1380393661 )

               ・・・

萬葉集に歌われる月の歌

秋に詠まれたと思われる「月の歌」は28首

0211 去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年さかる        人麻呂
0214 去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年さかる         人麻呂

1552 夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にコオロギ鳴くも          湯原王

1569 雨晴れて清く照りたるこの月夜またさらにして雲なたなびき        家持
1596 妹が家の門田を見むとうち出で来し心もしるく照る月夜かも        家持

1701 さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空を月渡るみゆ
1761 三諸の神奈火山に立ち向ふ三垣の山に秋萩の妻を枕かむと朝月夜
2010 夕星も通ふ天道をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士(つきひとおとこ)

2025 万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど
2043 秋風の清き夕に天の川舟漕ぎ渡る月人壮士
2051 天の原行きて射てむと白真弓引きて隠れる月人壮士

2131 さを鹿の妻どふ時に月をよみ雁が音聞こゆ今し来らしも
2202 黄葉する時になるらし月人の桂の枝の色づく見れば
2223 天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士

2224 この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月立ち渡る
2225 我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし
2226 心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな

2227 思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし
2228 萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに
2229 白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも

2298 君に恋ひしなえうらぶれわが居れば秋風吹きて月傾きぬ
2299 秋の夜の月かも君は雲隠りしましく見ねばここだ恋しき
2300 九月の有明の月夜ありつつも君が来まさばわれ恋ひめやも
3658 夕月夜影立ち寄り合ひ天の河漕ぐ舟人を見るが羨(とも)しさ

3900 織女し舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる            家持
4311 秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ          家持
4312 秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ          家持
4453 秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも         家持

   (http://mohsho.image.coocan.jp/manyo-moonSum-18.html )

・・・

<参考>

中秋の名月という言葉があるとおり、秋の月見の風習が我々現代人にはあるが、
万葉時代にはまだ月見の風習はなかった。

月見の風習が中国から日本に伝わったのは、平安時代に入ってからのことだ。

それゆえ、万葉集には、中秋の名月をことさらに詠ったものはないし、
月が専ら秋と結びつくということもなかった。

万葉集には月を詠んだ歌が多いが、それらは、
季節を問わず、また満月に限られていない。

     (https://manyo.hix05.com/shiki/shiki25.tsuki.html )

            <感謝合掌 令和元年9月13日 頓首再拝> 

酒を讃むる歌 - 伝統

2019/11/27 (Wed) 18:17:48


       *Web:晴れときどき・・・(2010/9/16)より
            ~童子 さま のブログ

万葉集から

 太宰帥大伴旅人の『酒を讃むる歌』を紹介します(巻三・338~350)


 験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし


 酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古(いにしへ)の大(おほ)き聖の言(こと)よろしさ
  

 古(いにしへ)の七の賢(さか)しき人どもも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし


 賢(さか)しみと物といふよりは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし益(まさ)りたるらし


 言はむすべせむすべ知らに極まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし


 なかなかに人とあらずは酒壺に成りてしかも酒に染むなむ


 あな醜賢(みにくさか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る


 価(あたひ)無き宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒にあに益(ま)さめやも


 夜光る玉といふとも酒飲みて情(こころ)をやるにあにしかめやも


 世の中の遊びの道に冷(すず)しきは酔哭(ゑひなき)するにありぬべからし


 この代(よ)にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも吾はなりなむ


 生ける者つひに死ぬるものにあれば今世(このよ)なる間は楽しくをあらな


 黙然(もだ)居りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔泣(ゑひなき)するになほしかずけり

  (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/16916327.html )

            <感謝合掌 令和元年11月27日 頓首再拝> 

万葉集一日一首『1月13日』 - 伝統

2020/01/13 (Mon) 19:48:57


          *Web:万葉集一日一首 より

言清く いたもな言ひそ 一日だに 君いし無くは 耐え難きかも

  (原文:事清 甚毛莫言 一日太尓 君伊之哭者 痛寸敢物)

【訳】

  きれいさっぱりとひどい事を言うな、
  一日だけでも君がいないことには耐えられないものなのに。


(解説)

  高田女王、今城王に贈る歌6首の一つ。

     (http://hiro-ks.jp/manyou/manyou/MK4-537.htm )

            <感謝合掌 令和2年1月13日 頓首再拝> 

万葉集一日一首『1月15日』 - 伝統

2020/01/15 (Wed) 21:46:20


          *Web:万葉集一日一首 より

我が背子に 復は逢はじかと 思へばか 今朝の別れの すべなかりつる

  (原文:背子尓 復者不相香常 思墓 今朝別之 為便無有都流 )


【訳】

  我が夫に 二度と会えぬと 思えれば 今朝の別れは 切なきものぞ

         (http://hiro-ks.jp/manyou/manyou/MK4-540.htm )

            <感謝合掌 令和2年1月15日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その1 - 伝統

2020/02/02 (Sun) 23:23:22

       *Web:四季の美(2020/1/15)より

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

  籠もよ み籠もち ふくしもよ
  みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児
  家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国はおしなべて
  吾こそ居れ しきなべて 吾こそいませ
  吾こそは 告らめ 家をも名をも

                       雄略天皇


【読み】

  こもよ みこもち ふくしもよ
  みぶくしもち このおかに なつますこ
  いえのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて
  われこそをれ しきなべて われこそいませ
  われこそは のらめ いへをもなをも


【意味】

籠もよい籠を持ち、ふくしもよいふくしを持ち、
この岡で菜を摘んでいらっしゃる乙女よ、
ご身分を言いなさい、名を名乗りなさい。(そらみつ)
大和の国は、おしなびかせて私が君臨しているのだ。
国の隅々まで私が治めているのだ。
私こそ名乗ろう、私の家も名も。


【解説】

”ふくし”とは、 木や竹で出来た土を掘る道具のこと。
この歌は万葉集の巻頭の歌となっています。

古来から名前には霊魂が宿るとされており、
名前を聞くということは求婚を意味していました。
雄略天皇は日本列島を大和政権下に臣従させた大王です。

    ( https://shikinobi.com/manyoushu )

            <感謝合掌 令和2年2月2日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その2 - 伝統

2020/02/03 (Mon) 22:32:24


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

舒明天皇(じょめいてんのう)

  大和には 群山あれど
  とりよろふ 天の香具山
  登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ
  海原は かまめ立ち立つ
  うまし国そ あきづ島 大和の国は

                    舒明天皇


(巻一・二)
【読み】

  やまとには むらやまあれど
  とりよろふ あめのかぐやま
  のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ
  うなはらは かまめたちたつ
  うましくにそ あきづしま やまとのくには


【意味】

大和には沢山の山があるけれど、
その中でもとりわけ整った頑固な天の香具山に登り立って
国見をすると、国原にはかまどの煙があちこちから立ちのぼっている。
海原には、かもめが飛び立っている。なんと素晴らしい国であることよ。
(あきづ島)大和の国は。


【解説】

神聖な天の香具山から舒明天皇が国見をした際の歌。
国見とは山などから国土の様子を見る春の農耕儀礼のこと。
舒明天皇はのちの天智天皇や天武天皇の父。


            <感謝合掌 令和2年2月3日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その3 - 伝統

2020/02/05 (Wed) 00:25:32


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

   香具山は 畝傍雄雄しと
   耳梨と 相争ひき
   神代より かくにあるらし
   古も 然にあれこそ
   うつせみも 妻を 争ふらしき

              中大兄皇子

(巻一・一三)
【読み】

   かぐやまは うねびををしと
   みみなしと あひあらそひき
   かむよより かくにあるらし
   いにしへも しかにあれこそ
   うつせみも つまを あらそふらしき


【意味】

香具山は、畝傍山を雄々しいと思って、恋仲であった耳梨山と争った。
神代からこうであるらしい。
古い時代もそうであったからこそ、今の世の人も妻を奪いあって争うらしい。

【解説】

中大兄皇子は、のちの天智天皇。


            <感謝合掌 令和2年2月4日 頓首再拝> 

葉集の有名な和歌~その4 - 伝統

2020/02/08 (Sat) 23:39:22


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

額田王(ぬかたのおおきみ)

冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず
草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ
青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は

                     額田王


(巻一・一六)

【読み】

ふゆごもり はるさりくれば なかざりし とりもきなきぬ
さかざりし はなもさけれど やまをもみ いりてもとらず
くさぶかみ とりてもみず あきやまの このはをみては もみぢをば とりてそしのふ
あおきをば おきてそなげく そこしうらめし あきやまそわれは


【意味】

(冬ごもり)春が訪れると、今まで鳴いていなかった鳥もやってきて鳴く。

咲いていなかった花も咲いているけれど、
山が茂っているのでわざわざ山へ入って取りもせず、
草も深いので手に取って見もしない。

秋山の木の葉を見ては、黄色く色づいた葉を手に取って賞でる。
まだ青い葉はそのままにして色づかないのを嘆く。そのことだけが残念なことよ。

なんといっても秋山に心が惹かれる、私は。


【解説】

万葉集を代表する女性歌人である、額田王。
16歳から斉明天皇に仕え、大海人皇子(おおあまのおうじ)の最初の妻になりました。
その後十市皇女(とおちのひめみこ)を出産。
出生については不明な部分も多い。


            <感謝合掌 令和2年2月8日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その5 - 伝統

2020/02/09 (Sun) 23:47:29


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

額田王(ぬかたのおおきみ)


あかねさす紫草野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る

                  額田王


(巻一・二〇)

【読み】

あかねさすむらさきのゆきしめのゆき
のもりはみずやきみがそでふる


【意味】

(あかねさす)紫草の咲く野を行き、標を張った野を行って、
野守が見ているではないかしら。あなたが袖をお振りになるのを。


【題詞】

天皇、蒲生野に遊猟する時に、額田王の作る歌。


【解説】

紫草とは、フジのこと。
この時代「袖を振る」ということは恋人の魂を引き寄せようとする
恋のしぐさとされていました。

            <感謝合掌 令和2年2月9日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その6 - 伝統

2020/02/16 (Sun) 00:38:31


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

大海人皇子(おおあまのおうじ)

紫草のにほへる妹を憎くあらば
人妻故に我恋ひめやも
             大海人皇子



(巻一・二一)

【読み】

むらさきのにほへるいもをにくくあらば
ひとづまゆえにあれこひめやも

【意味】

紫草のように美しくにおいたつあなたを憎いと思うならば、
人妻と知りながら、こんなにも恋しく思うものだろうか。


【解説】

上記の歌に対する答歌です。
額田王をめぐる天智天皇(夫)と大海人皇子の兄弟間での
三角関係の歌になっています。

大海人皇子はのちの天武天皇です。

            <感謝合掌 令和2年2月15日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その7 - 伝統

2020/02/16 (Sun) 23:53:15


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

倭大后(やまとひめのおおきさき)

天の原振り放け見れば大君の
御寿は長く天足らしたり

            倭大后


(巻二・一四七)

【読み】

あまのはらふりさけみればおほきみの
みいのちはながくあまたらしたり


【意味】

天空を振り仰いで見ると、
大君のお命は永久に、大空いっぱいに満ち満ちていることよ。


【解説】

倭大后は飛鳥時代の皇族で、舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘です。


            <感謝合掌 令和2年2月16日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その8 - 伝統

2020/02/19 (Wed) 20:07:54


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

持統天皇(じとうてんのう)


春過ぎて夏来にけらし白妙の
衣干すてふ天の香具山

              持統天皇


(巻一・二八)

【読み】

はるすきてなつきにけらししろたへの
ころもほすてふあまのかぐやま


【意味】

春が過ぎ、夏が来たらしい。
夏になると白い衣を干すという天の香具山に真っ白な衣が干されている。


【解説】

”来にけらし”:「来にけるらし」の略で、「来たらしい」という意味。
”白妙の衣”:真っ白な衣のこと。
白妙は白栲のあて字で、楮の繊維で織られる。

作者は第41代天皇の持統天皇。女帝で、とても有能な統治者でした。

百人一首にも選ばれている歌です。

            <感謝合掌 令和2年2月19日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その9 - 伝統

2020/02/20 (Thu) 23:44:38


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

大津皇子(おおつのみこ)

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ

          大津皇子


(巻三・四一六)

【読み】

ももづたふいわれのいけになくかもを けふのみみてやくもがくりなむ

【意味】

(百伝ふ)磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は死んで行くのか。

【解説】

天武天皇の皇子である大津皇子の辞世歌です。


            <感謝合掌 令和2年2月20日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その10 - 伝統

2020/02/21 (Fri) 23:48:51


       *Web:四季の美(2020/1/15)より


大伯皇女(おおくのひめみこ)

神風の伊勢の国にもあらましを
なにしか来けむ君もあらなくに

                大伯皇女


(巻二・一六三)

【読み】

かむかぜのいせのくににもあらましを
なにしかきけむきみもあらなくに


【意味】

(神風の)伊勢の国にいたほうがよかったものを、どうして大和に帰って来たのだろう。
わが弟もこの世にいないのに。


【解説】

父である天武天皇の崩御で大和へ帰るったものの、
それは弟の大津皇子が亡くなって四十日ほど後でもありました。

            <感謝合掌 令和2年2月21日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その11 - 伝統

2020/02/22 (Sat) 23:36:57


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

大君は神にしませば天雲の
雷の上に廬りせるかも

                 柿本人麻呂


(巻三・二三五)

【読み】

おほきみはかみにしませばあまくもの
いかづちのうへにいほりせるかも


【意味】

大君は神でいらっしゃるから、天雲の雷の上に廬を構えておいでになる。


            <感謝合掌 令和2年2月22日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その12 - 伝統

2020/02/23 (Sun) 23:52:35


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば
心もしのに古思ほゆ

                 柿本人麻呂

(巻三・二六六)

【読み】

あふみのうみゆふなみちどりながなけば
こころもしのにいにしへおもほゆ


【意味】

近江の海に夕方の波打ち際に鳴く千鳥よ、おまえが鳴くと、
心もしなえるほどに遠い昔のことが思われる。

            <感謝合掌 令和2年2月23日 頓首再拝>

万葉集の有名な和歌~その13 - 伝統

2020/02/26 (Wed) 23:19:10


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

高市黒人(たけちのくろひと)

いづくにか船泊てすらむ安礼の崎
漕ぎ廻み行きし棚なし小舟

             高市黒人


(巻一・五八)

【読み】

いづくにかふなはてすらむあれのさき
こぎたみゆきしたななしをぶね


【意味】

今頃どの辺りで停泊しているのだろうか、
安礼の崎を漕ぎ巡って行ったあの棚なし小舟は。


【解説】

道中で見かけた小舟を思いやった歌。


            <感謝合掌 令和2年2月26日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その14 - 伝統

2020/02/27 (Thu) 23:52:14


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

阿倍女郎(あべのいらつめ)

吾が背子が着せる衣の針目落ちず
こもりにけらし我が心さへ

            阿倍女郎


(巻四・五一四)

【読み】

わがせこがけせるころものはりめおちず
こもりにけらしあがこころさへ


【意味】
あなたの着ていらっしゃる衣の針目の一つ一つに縫い込んで入ってしまったようです。
縫い糸だけでなく、私の心まで。

            <感謝合掌 令和2年2月27日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その15 - 伝統

2020/02/28 (Fri) 22:35:02


       *Web:四季の美(2020/1/15)より


志貴皇子(しきのみこ)

采女の袖吹き返す明日香風
京を遠みいたづらに吹く

          志貴皇子


(巻一・五一)

【読み】

うねめのそでふきかえすあすかかぜ
みやこをとほみいたづらにふく


【意味】

采女たちの袖を吹きひるがえす明日香の風は、
いまや都が遠のいたので、ただむなしく吹いていることよ。


【題詞】

明日香宮より藤原宮に遷居りし後に、志貴皇子の作らす歌

            <感謝合掌 令和2年2月28日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その16 - 伝統

2020/02/29 (Sat) 19:33:19


       *Web:四季の美(2020/1/15)より


志貴皇子(しきのみこ)

葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて
寒き夕は大和し思ほゆ

          志貴皇子



(巻一・六四)

【読み】

あしへゆくかものはがひに しもおりて
さむきゆうへはやまとしおもほゆ


【意味】

葦辺を泳ぎ行く鴨の翼に霜が降りて、寒さが身にしみる晩には、
郷里の大和が思われてならない。


【題詞】

慶雲三年丙午、難波宮に幸せる時に、志貴皇子の作らす歌


            <感謝合掌 令和2年2月29日 頓首再拝> 

『三枝』(さきくさ) - 伝統

2020/03/09 (Mon) 15:56:35


    *メルマガ「夢の言の葉」(2020年3月9日(月)---旧暦2月15日---)より
                     
                  【啓蟄】初候 蟄虫啓戸
                  (すごもりむしとをひらく)

 ☆------植物の名。枝が三つに分かれているというが未詳------
 
 
 「さきくさ」の「さき」は、現在の「幸(さち)」と同じで、
 幸福とか、幸(さいわ)いという意味です。
 
 
 つまり、「さきくさ」は、「幸草(さきくさ)」。
 
 幸せの草ということになります。
 
 
 「三枝」という字が当てられ、「三つ」にかかる枕詞にも
 なっているので、枝は三つに分かれているのでしょう。
 
 
 
 ~春されば まづ三枝の 幸(さき)くあらば
    後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも)~
               (作者未詳『万葉集』)
 
 
 古くから、和歌にも度々詠まれてきましたが、
 どの植物をさすのかは、よくわかっていません。
 
 
 沈丁花(じんちょうげ)、福寿草(ふくじゅそう)、
 檜(ひのき)、山百合(やまゆり)……。
 
 諸説ある中で、特に有力なのが、「三椏(みつまた)」という説です。
 
 
 その名のとおり、枝は三本に分かれ、
 上にあげた『万葉集』の歌のように、早春から咲き始めます。
 
 
 草ではありませんが、昔は、木でも、草をつけて呼びました。
 
 
 
 たくさん集まって、うなだれている白いつぼみ。
 
 そこから、明るい黄色の花が、少しずつ咲いていく様子は、
 小さな幸せの兆しのよう……。
 
 そう思うと、やはり、幸草……『三枝』と呼びたくなります。
 
 
 
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

☆幸せの兆しが、広がっていきますように……。
    ↓
 http://yumenokotonoha.com


。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。

            <感謝合掌 令和2年3月9日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その17 - 伝統

2020/03/10 (Tue) 23:17:04


       *Web:四季の美(2020/1/15)より


志貴皇子(しきのみこ)

石走る垂水の上のさわらびの
萌え出づる春になりにけるかも

          志貴皇子


(巻八・一四一八)

【読み】

いしばしるたるみのうへのさわらびの
もえいづるはるになりにけるかも

【意味】

岩の上をほとばしり流れる滝のほとりのさわらびが、萌え出る春になったことよ。

            <感謝合掌 令和2年3月10日 頓首再拝> 

【精霊(しょうりょう)の日】 - 伝統

2020/03/17 (Tue) 19:06:27

日3月18日は「精霊の日」です
柿本人麻呂、和泉式部、小野小町の3人の忌日

【精霊(しょうりょう)の日】
   柿本人麻呂、和泉式部、小野小町の忌日がこの日とされている。

この記念日の由来は、和歌と関係があります。
柿本人麻呂、和泉式部、小野小町。
3月18日が、この偉大なる歌人たちの命日と伝えられていることが発端で、
「精霊の日」の記念日となったようです。

柿本人麻呂は飛鳥時代、小野小町と和泉式部は平安時代の歌人。
実際には、三人の正確な忌日は未詳で、3月18日はあくまで一部の伝承です。

けれども、春の彼岸の入りはちょうどこの頃。
中世は盛んに和歌が詠まれ、次々に新しい仏教思想が発展した時代。
死者の霊魂や祖霊、そして歌を紡ぐ言霊への畏敬は、
私たちには想像もつかないほど、重いものだったことでしょう。

そんな思いが受け継がれ、春の濃厚な気配が強まるこの頃に、
いつしか「精霊の日」が設けられたようです。




百人一首で伝わる3人の代表的な歌は、次のとおり。

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

  → http://www.manabu-oshieru.com/hyakunin/003.html

  (柿本人麻呂
    https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

  *この歌の作者は、実際は柿本人麻呂ではなく、作者未詳歌のようです。


(万葉歌として)

  もののふの 八十宇治川の 網代木に ただよふ波の 行方知らずも

    → https://nbataro.blog.fc2.com/blog-entry-326.html


和泉式部(いずみしきぶ) <小倉百人一首 より>

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな

  → http://www.manabu-oshieru.com/hyakunin/056.html


小野小町(おののこまち) <小倉百人一首 より>

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに

  → http://www.manabu-oshieru.com/hyakunin/009.html


<参照>
3月18日は何故「精霊の日」?―和歌と彼岸と言霊の関係を探ります
      *Web:AERA dot.(2019.3.17 )
https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2019031700021.html?page=1


            <感謝合掌 令和2年3月17日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その18 - 伝統

2020/03/18 (Wed) 23:06:49


       *Web:四季の美(2020/1/15)より


元明天皇(げんめいてんのう)

飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば
君があたりは見えずかもあらむ

             元明天皇


(巻一・七八)


【読み】

とぶとりのあすかのさとをおきていなば
きみがあたりはみえずかもあらむ


【意味】

(飛ぶ鳥の)明日香の古京を後にして行ってしまったなら、
あなたのいる辺りは見えなくなってしまうのではないか。


【題詞】

和銅三年庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷る時に、
御輿を長屋の原に停め、古郷を廻望みて作らす歌

            <感謝合掌 令和2年3月18日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その19 - 伝統

2020/03/20 (Fri) 23:49:09


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

長田王(ながたのおおきみ)

うらさぶる心さまねしひさかたの
天のしぐれの流れあふ見れば

              長田王

(巻一・八二)

【読み】

うらさぶるこころさまねしひさかたの
あまのしぐれのながれあふみれば


【意味】

うら淋しい思いが胸にいっぱいだ。
(ひさかたの)天からの時雨が流れるように降り続くのを見ると。


【題詞】

和銅五年壬子の夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、
山辺の御井にして作る歌(一首抄出)

            <感謝合掌 令和2年3月20日 頓首再拝> 

万葉集の有名な和歌~その20 - 伝統

2020/03/21 (Sat) 23:47:08


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

山部赤人(やまべのあかひと)

春の野にすみれ摘みにと来し我そ
野をなつかしみ一夜寝にける

               山部赤人


(巻八・一四二四)

【読み】

はるののにすみれつみにとこしわれそ
のをなつかしみひとよねにける


【意味】

春の野にすみれを摘もうと思ってやってきた私は、
野に心ひかれて、そこで一夜寝てしまったことだ。


【解説】

山部赤人(やまべのあかひと)は元正・聖武天皇に仕えた宮廷歌人です。

            <感謝合掌 令和2年3月21日 頓首再拝>

万葉集の有名な和歌~その21 - 伝統

2020/03/22 (Sun) 23:18:06


       *Web:四季の美(2020/1/15)より


大伴旅人(おおとものたびと)

愛しき人のまきてししきたへの
我が手枕をまく人あらめや

              大伴旅人

(巻三・四三八)

【読み】

うつくしきひとのまきてししきたへの
あがたまくらをまくひとあらめや


【意味】

いとしい我が妻が枕にして寝た(しきたへの)わたしの腕枕を、再び枕にする人があろうか。
いや、もうけっしていはしないのだ。


【題詞】

神亀五年戊辰、太宰帥大伴卿、故人を思ひ恋ふる歌三首(一首抄出)

            <感謝合掌 令和2年3月22日 頓首再拝>

万葉集の有名な和歌~その22 - 伝統

2020/03/23 (Mon) 23:16:13


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

湯原王(ゆはらのおおきみ)

吉野なる夏実の川の川淀に
鴨そ鳴くなる山陰にして

             湯原王


(巻三・三七五)

【読み】

よしのなるなつみのかはのかはよどに
かもそなくなるやまかげにして


【意味】

吉野の夏実の川の流れのゆるやかなところで、
鴨が鳴いているのが聞こえる。
あの山の影に隠れて。


【解説】

湯原王は天智天皇の孫にあたり、志貴皇子の子です。


            <感謝合掌 令和2年3月23日 頓首再拝>

万葉集の有名な和歌~その23 - 伝統

2020/03/24 (Tue) 13:57:41


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

湯原王(ゆはらのおおきみ)

秋萩の散りのまがひに呼び立てて
鳴くなる鹿の声の遥けさ

                   湯原王


(巻八・一五五〇)

【読み】

あきはぎのちりのまがひによびたてて
なくなるしかのこえのはるけさ


【意味】

秋萩が華やかに散り乱れている辺りで、
妻を呼び立てて鳴く鹿の声の、なんと遥かなことよ。

            <感謝合掌 令和2年3月24日 頓首再拝>

万葉集の有名な和歌~その24 - 伝統

2020/03/25 (Wed) 10:34:32


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

湯原王(ゆはらのおおきみ)

夕月夜心もしのに白露の
置くこの庭にこほろぎ鳴くも

                湯原王


(巻八・一五五二)

【読み】

ゆふづくよこころもしのにしらつゆの
おくこのにはにこほろぎなくも


【意味】

月のある夕べ、胸がせつなくなるほどに、
白露に濡れたこの庭に、こおろぎが鳴いていることよ。


            <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>

万葉集の有名な和歌~その25 - 伝統

2020/03/25 (Wed) 20:26:25


       *Web:四季の美(2020/1/15)より

狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)

君が行く道の長手を繰り畳ね
焼き滅ぼさむ天の火もがも

              狭野弟上娘子


(巻一五・三七二四)

【読み】

きみがゆくみちのながてをくりたたね
やきほろぼさむあめのひもがも


【意味】

あなたの行く長い道のりを手繰り寄せ畳んで、
焼き滅ぼして行けないようにしてくれる天の災火が欲しい。


【題詞】

中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子とが贈答せる歌

            <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>

Re: 萬葉集 - 万葉集 URL

2020/08/19 (Wed) 15:34:22

万葉集一覧データベース
https://www.manyoshu-ichiran.net/

Re: 萬葉集 - lvtpyexqcMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:16

伝統板・第二
[url=http://www.g3z5aq03636n5nf760eu8pb2nfjov583s.org/]ulvtpyexqc[/url]
lvtpyexqc http://www.g3z5aq03636n5nf760eu8pb2nfjov583s.org/
<a href="http://www.g3z5aq03636n5nf760eu8pb2nfjov583s.org/">alvtpyexqc</a>

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