伝統板・第二

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新時代”令和”1万円の顔・渋沢栄一 - 夕刻版

2019/04/16 (Tue) 19:32:01

このスレッドでは、新1万円の顔・渋沢栄一に関する
情報を集めてまいります。

     *メルマガ「【RPE】 ロシア政治経済ジャーナル」(2019/4/10)より

渋沢栄一さんは、1840年に生まれました。

1863年、後に最後の将軍になる一ツ橋慶喜に仕えることになります。

1867~68年、欧州視察。

明治維新後は、大蔵省に勤務。

その後は実業家として、

第一国立銀行(今のみずほ銀行)、

東京海上火災保険、王子製紙、田園都市(現東京急行電鉄)、
秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄
道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッ
ポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖

などなど、なんと約500社の設立に関わった。


渋沢栄一、代表的な著書は「論語と算盤」。

ここで説かれているのが、「道徳経済合一説」。

この説の「本質」を説明した言葉は、こちら。


<富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。
正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。>


これが「そのとおり」であること、
不正をした日本企業の末路が証明していますね。


▼令和を「繁栄の時代」にするために

もうすぐ平成が終わり、令和の時代がはじまります。

そして、新しい1万円札には、渋沢栄一の肖像画。

経営者は、1万円札を見るたびに、

<富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。
正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。>

を思い出すでしょうか。

従業員は、1万円札を見るたびに

<富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。
正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。>

を思い出すでしょうか?

そうであるなら、「令和」は「日本復活の時代」になることでしょう。

私たちにはお金が必要です。

お金がないと、さまざまな不幸が起こる。

一方で、「正しい手段でお金をゲットすること」も大事ですね。

そうでないと、会社の評判が失墜し、信用を失い、
下手すると刑務所行きになってしまう。

「論語と算盤」

「日本資本主義の父」

渋沢栄一さんが1万円札の顔になることを、心から願います。

          <感謝合掌 平成31年4月16日 頓首再拝>

「お札に渋沢栄一」61年ぶりの復活当選 - 伝統

2019/04/17 (Wed) 20:08:23

「お札に渋沢栄一」61年ぶりの復活当選
「紙幣肖像の近現代史」から(上)

       *Web:日経BIZ Gate(2019/4/12)より

財務省が2024年度に一新する1万円、5千円、1千円の紙幣(日本銀行券)に
渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎の肖像画を採用することが決まった。

この中で渋沢栄一は1963年(昭和38年)にも新・千円札に採用される
寸前だったため、24年の発行時点で61年ぶりに復活当選することになる。

日本紙幣史研究の第一人者で「紙幣肖像の近現代史」(吉川弘文館)の
著者である植村峻氏に聞いた。


■伊藤博文と新1000円札を競った渋沢

――5年後に発行する新札には経済人、教育者、医学者の3人が採用され、
文化に貢献し国際性を持った近代日本人の中から選抜する流れを
踏襲する結果となりました。

その中でも資本主義経済の発展に大きな軌跡を残した渋沢栄一は
以前にも紙幣肖像の候補に挙がっていました。

 
「1963年から発行された伊藤博文・初代総理大臣肖像の新・千円札で、
伊藤とともに最終候補として残っていたのが渋沢でした。

それまでは聖徳太子像の千円札が流通していましたが、
61年に深刻なニセ札事件が起きたのです」


――日本に限らず、紙幣の歴史はニセ札と偽造防止技術との
対立の歴史ともいわれます。
偽造通貨の流通は、その国の信用を揺るがす性質を持つため、
各国でも金額の多少に関わらず重罰が適用されています。

「61年暮れに秋田県や東北各県で精巧な偽造千円札が相次いで発見され
『チ―37号事件』と呼ばれます。この犯人は一種の愉快犯の可能性が高く、
新聞記事を参考にしながら報道されたものと異なる記番号のニセ札を
次々と製造し捜査陣を翻弄しました。
22都道府県で合計343枚発見されました。

しかもある時点でピタリと止めてしまい、
事件は迷宮入りになってしまったのです。
通貨当局は陳腐化した千円札に代わる新札発行を迫られました」

 
「すでに新規発行の千円券については61年ごろから東大心理学教室などを
中心にした研究会が発足し、形状や色彩、肖像人物、模様などについて
検討されていました。

世論調査も行い政治家、文化人56人の著名人物に関する好感度が
アンケートで調べられていました。伊藤博文、和気清麻呂、岩倉具視、
明治天皇、野口英世、内村鑑三、渋沢栄一、夏目漱石らが当時の人々には
一般的に愛好されていました」


■技術革新でヒゲと頭髪は肖像に必要なく

 ――「チ―37号事件」が新札発行を急がせたのですね。


植村峻氏は日本紙幣史研究の第一人者
 
「62年8月の段階で翌63年内に新千円券の発行が決まり、
大蔵省・日銀関係者で細目の検討が極秘に進められました。
候補者の写真や肖像画の有無、人物の適格性や偽造防止計画などです。

事務局の段階では明治天皇、伊藤博文、岩倉具視、野口英世、渋沢栄一、
内村鑑三、夏目漱石、西周、和気清麻呂の9人が選ばれ、
最後は伊藤と渋沢の二択になりました」

 
――最後に伊藤になった決め手は何だったのでしょうか。

「現場の責任者だった大蔵省(現・財務省)理財局総務課長の
コメントが残っています。
(1)文化人は若い年齢層には人気が高いが、
   銀行券にふさわしい重々しさの点で政治家に劣る

(2)人間としては批判があっても国内外で有名であり、
   紙幣に向く荘重な風貌の伊藤博文がふさわしい

(3)渋沢栄一は有力候補に違いないが、それほど一般的でなく、
   容貌もお札向きではない

(4)明治天皇は荘重なお姿ではあるが軍服姿ばかりで
新憲法下ではどうか――といった内容でした」

 
――渋沢の顔はお札向きではないのですか。

「昔は精緻な写真製版技術がなかったことから、紙幣の肖像にふさわしい人物は、
口ヒゲやあごひげが豊かで、顔に凹凸があり個性豊かな容貌がふさわしい
とされていました」

「伊藤は、当時では再現が難しい細画線の豊かなひげを蓄えていたこと、
比較的個性のある彫りの深い容貌であることが決め手になったのでしょう。
渋沢にはヒゲを蓄える習慣がありませんでした」


――24年発行の新札でも北里柴三郎にはヒゲがありますね。

「しかし今日では、技術革新が急ピッチで進んで日本の偽造防止技術は
世界最高レベルに達しており、頭髪やひげで選考するよりも人物優先です。
24年には新たに高精細なすき入れ模様を導入する上、
最先端技術を駆使したホログラムも活用することになっています」

「人物肖像を決定する際には偽造防止の観点から、
まずなるべく精緻な肖像写真を入手できることが必要です。
国民が毎日使用することから、紙幣にふさわしい品格や容易に
特定の人物と識別できること、子供から大人まで広く各層に知られていること、
国際的にも知名度があることなどが大切な選定条件になっています」

  ( https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4364828011042019000000 )

          <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

渋沢栄一と岩崎弥太郎 - 伝統

2019/04/18 (Thu) 17:02:14

1万円札になる男・渋沢栄一が、三菱の創設者・岩崎弥太郎には勝てなかった“能力”とは

       *Web:Business Journal (2019年4月17日)より

政府は5年後をメドに紙幣デザインを一新し、
新1万円札の肖像を渋沢栄一、新5千円札を津田梅子、
新1千円札を北里柴三郎にすると発表した。

 
新1万円札に選ばれた渋沢栄一。
一般にはなじみの薄いこの人物は、「日本近代資本主義の父」と呼ばれる。
なぜか。それは、栄一が設立(もしくは設立に参加)した法人を見ればわかるだろう。

1873年 第一国立銀行(のち第一銀行、第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)を設立。
1873年 王子製紙株式会社(現・王子ホールディングス)を設立。
1875年 商法講習所(現・一橋大学)の設立に参加。

1878年 東京株式取引所(現・東京証券取引所)を設立。
1879年 東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険株式会社)を設立。
1880年 横浜正金銀行(のち東京銀行、現・三菱UFJ銀行)創立委員長。

1881年 日本鉄道会社(のち日本国有鉄道、現・JR東日本)の設立に参加。
1885年 東京瓦斯(現・東京ガス)の設立に参加。
1886年 東京電燈(現・東京電力)の設立に参加。

1887年 帝国ホテルの設立に参加。


●勤王から幕府側へ、そして欧州渡航

渋沢栄一(1840~1931年)は、天保11年に武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の
豪農の子として生まれた。

同い年の人物に、2015年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』で重要な登場人物であった
長州藩の久坂玄瑞がおり、1つ年上に高杉晋作、1つ年下に伊藤博文がいる。

当時の若者がそうであったように、渋沢栄一も尊皇攘夷運動に感化され、
栄一は数人で高崎城乗っ取りを企てるのだが、
同志が捕縛されたことにより攘夷運動をあきらめる。

そして、江戸遊学で知り合った一橋徳川家家臣の推挙で、同家の家臣となる。
勤王から幕府側に急展開。
イデオロギーもクソもあったものではない。

ところが、これが栄一の運命を大きく変えていく。

1866年に一橋徳川家の当主・徳川慶喜(よしのぶ)が征夷大将軍に就任。
渋沢は幕臣に取り立てられるのだ。

しかも、翌1867年に開催されたパリ万国博に、将軍の名代として
慶喜の実弟・徳川昭武が派遣されると、栄一は昭武に随行して使節団に加わり、
欧州各地を視察することとなった。

ここでの経験が、のちに「日本近代資本主義の父」と呼ばれる素地をつくったのだろう。
欧州のすぐれたインフラ基盤を体験した栄一は、この便利な生活を日本でも実現したい
と思ったに違いない。


●徳川家臣から政府高官、そして会社製造マシーンへ

ちなみに1867年は慶応3年、翌1868年が明治元年である。
栄一が1868年に帰国すると、彼を派遣した江戸幕府は潰れていた

。意外に知られていないが、大政奉還の後、
徳川将軍家は静岡藩70万石の殿様に格落ちとなった。

将軍・慶喜は謹慎して、養子の徳川家達(いえさと)が藩主となったが、
当時はまだ満5歳の幼児だった。

栄一は静岡で慶喜に面会してそのまま同地にとどまり、静岡藩に出仕した。
そして、「商法会所」という半官半民の企業を設立し、大きな利益を上げる。

その手腕が明治政府に認められ、栄一は、
大蔵省(現・財務省)の有力者・井上馨の補佐(大蔵大丞)に抜擢される。

だが、1873年に政府内部の意見対立により、栄一は井上馨と共に退官する。

栄一は大蔵省在任中に手がけていた国立銀行条例を実行し、
同年に日本初の銀行である第一国立銀行(のち第一銀行、第一勧業銀行を経て、
現・みずほ銀行)を設立(国立銀行というのは、ナショナル・バンクの邦訳で、
国立という意味ではない)。1873年にはその総監役に就任する。

そして冒頭に述べたように、王子製紙、東京海上保険、東京株式取引所などを
次々と設立していくのである。


●財閥には大成せず

このように、渋沢栄一は数多くの企業設立に参与したが、
それら企業間には資本的な関係が希薄で、財閥のような固まりにはならなかった。

つまり、栄一は次々と企業を創ってはいったが、それらの株式を押さえて
「渋沢家の家業」にはしなかったのである。

 
渋沢栄一研究家の島田昌和氏は、渋沢の株式所有行動について
「まずいくつかの会社を軌道に乗せて配当を行い、自身はその会社の株式を一部売却して、
その資金を新たな会社の設立資金にしていった」と指摘している。

つまり栄一は、ひとつの企業の株式を保有し続けて支配下に置くことをせず、
株式を売却して支配を放棄し、そのカネで新たな企業を設立するための原資としたのだ。

おそらく、栄一は若かりし20代の頃に見た、欧州の近代的なインフラを
日本にも創り出そうと思ったのだろう。

それはいち企業を支配下に置くことよりも、きっと楽しいことだったに違いない。


●三菱の岩崎弥太郎とは合わなかった

栄一はのちに「わしがもし一身一家の富むことばかりを考えたら、
三井や岩崎にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」
と子どもたちに語ったという逸話が残っている。

ここでいう「岩崎」とは、いわずと知れた三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎である。
明治初年の経済界の大物といえば、渋沢栄一と岩崎弥太郎だった。
しかし、2人はあまり仲がよくなかった、というか意見が合わなかったらしい。

弥太郎は、「三菱会社は、たまたま名称も体裁も会社のようにしているが、
多くの出資を集めるために会社形式を採ったわけではない。
その実態は岩崎家単独の事業であるから、事業に関する判断や従業員の人事などは
すべて、社長・岩崎弥太郎の決裁を仰ぐように」と宣言した人物である。

 
一方の栄一は「合本(がっぽん)主義」の権化で、多くの人々から
資本を集めることによって企業を設立する、
株式会社形態をもっとも有効活用した人物だった。

栄一は、古河財閥の古河市兵衛、大倉財閥の大倉喜八郎、
浅野財閥の浅野総一郎などとも親しく、彼らを支援したり、
共同して企業を設立したりしている。

 
ただし、弥太郎と栄一が意気投合して、いずれかの方向にしか尽力しなかったら、
日本の産業界はもっと遅れていただろう。

  ( https://news.infoseek.co.jp/article/businessjournal_544111/ )

          <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>

新1万円札男の最強ビジネス古典『論語と算盤』が人生を変える! - 伝統

2019/04/19 (Fri) 18:43:07

『論語』がトリセツ? 渋沢栄一が語るお金の美学とは

  新1万円札男の最強ビジネス古典『論語と算盤』が人生を変える!

         *Web:JB PRESS(2019.4.10)より

《「士魂商才」と『論語』》

昔、菅原道真は「和魂漢才」(日本独自の精神と中国の学問をあわせ持つ)
ということをいった。

これに対してわたしは、つねに「士魂商才」(武士の精神と、商人の才覚とをあわせ持つ)
ということを提唱している。

人の世の中で自立していくためには、
武士のような精神が必要であることはいうまでもない。
しかし武士のような精神ばかりに偏って「商才」がなければ、
経済の上からも自滅を招くようになる。

だから「士魂」とともに「商才」がなければならない。


その「士魂」を、書物を使って養うという場合いろいろな本があるが、
やはり『論語』がもっとも「士魂」養成の根底になるものだと思う。

では「商才」の方はどうかというと、こちらも『論語』で充分養えるのだ。
道徳を扱った書物と「商才」とは何の関係もないようであるけれども、
「商才」というものも、もともと道徳を根底としている。

不道徳やうそ、外面ばかりで中身のない「商才」など、
決して本当の「商才」ではない。
そんなのはせいぜい、つまらない才能や、頭がちょっと回る程度でしかないのだ。

このように「商才」と道徳とが離れられないものだとすれば、
道徳の書である『論語』によって「商才」も養えるわけである。


《『論語』を手に、実業家へ転身》

また世の中を渡っていくのは、とてもむずかしいことではあるけれども、
『論語』をよく読んで味わうようにすれば、大きなヒントも得られるものである。

だからわたしは、普段から孔子の教えを尊敬し、信ずると同時に、
『論語』を社会で生きていくための絶対の教えとして、
常に自分の傍から離したことはない。

1873年に官僚を辞めて、もともと希望していた実業界に入ることになってから、
『論語』に対して特別の関係ができた。

初めて商売人になるという時、ふと感じたのが、
「これからは、いよいよわずかな利益をあげながら、
社会で生きていかなければならない。そこでは志をいかに持つべきなのだろう」
ということだった。


そのとき、前に習ったことのある『論語』を思い出したのである。
『論語』には、おのれを修めて、人と交わるための日常の教えが説いてある。
『論語』はもっとも欠点の少ない教訓であるが、
この『論語』で商売はできないか、と考えた。

そしてわたしは、『論語』の教訓に従って商売し、
経済活動をしていくことができると思い至ったのである。


政界や軍部が大きな顔をしないで、実業界がなるべく力を持つようにしたいと、
われわれは希望している。
実業とは、多くの人に、モノが行きわたるようにするなりわいなのだ。

これが完全でないと国の富は形にならない。
国の富をなす根源は何かといえば、社会の基本的な道徳を基盤とした
正しい素性の富なのだ。

そうでなければ、その富は完全に永続することができない。

ここにおいて『論語』とソロバンというかけ離れたものを一致させることが、
今日の急務だと自分は考えているのである。


《1万円札になる男の貨幣論》

お金は、現実に世界で通用する貨幣の通称だ。
そしてそれは、いろいろな物品の代表者でもある。
貨幣がなぜ便利なのかというと、どんなモノにも変わることができるからである。

大昔は物々交換をしていたが、今は貨幣さえあれば、
どんなものでも心のままに買うことができる。
この「いろいろなものを代表できる」という価値を持っているところが貴重なのだ。


だから、貨幣の第1の条件としては、
貨幣そのものの価値と、物品の値段とが等しくなければならない。
もし名目だけ一緒でも、貨幣の方の価値が減ってしまうと、物価が上がってしまう。

また、貨幣は分けるのにも便利である。
ここに18円の湯呑みがある。
これを2人で分けようと思っても、それはできない。
壊して半分にして、50銭分にするわけにはいかない。

しかし貨幣ならそれができる。
1円の10分の1が欲しいと思えば、10銭硬貨がある。

さらに貨幣は、モノの価格を決めることができる。
もし貨幣というものがなければ、この茶碗と煙草盆(たばこぼん)、
どちらの価値が高いのかはっきり決めることができない。

ところが茶碗は1個10銭、煙草盆は1円というのであれば、
茶碗は煙草盆の10分の1に当たることがわかる。

貨幣あってこそ、両者の価格も決まってくるのである。


《よく集め、よく使え》

一般的に、お金は大切にしなければならない。
これは若い人たちだけに望むのではない。
老人も中高年も、男も女も、すべての人が大切にすべきなのだ。

前にもいったように、貨幣はモノを代表することができるのだから、
モノと同じく大切にすべきなのだ。


昔、中国の夏王朝を創始したといわれる伝説の王様・禹(う)は、
些細なものでも粗末にしなかったことで知られていた。

また江戸幕府で採用された「朱子学」で有名な、宋の時代の朱子という思想家は、
「1杯のご飯でも、これを作るのにいかに苦労を重ねてきたのか知らなければならない。
紙切れや糸くずでも、簡単にできたわけではないことを理解せよ」と述べている。

 
また、お金は社会の力をあらわすための大切な道具でもある。
お金を大切にするのはもちろん正しいことだが、
必要な場合にうまく使っていくのも、それに劣らずよいことなのだ。

よく集めて、よく使い、社会を活発にして、経済活動の成長をうながすことを、
心ある人はぜひとも心がけて欲しい。


お金の本質を本当に知っている人なら、よく集める一方で、よく使っていくべきなのだ。
よく使うとは、正しく支出することであって、よい事柄に使っていくことを意味する。

よい医者が大手術で使い、患者の一命を救った「メス」も、
狂人に持たせてしまえば、人を傷つける道具になる。

これと同じで、われわれはお金を大切にして、
よい事柄に使っていくことを忘れてはならない。

お金とは大切にすべきものであり、同時に軽蔑すべきものでもある。
ではどうすれば大切にすべきものとなるのか。
それを決めるのはすべて所有者の人格によるのである。


《訳者が語る、渋沢が『論語と算盤』に込めた思い》

(『現代語訳 論語と算盤』訳者:守屋淳)

もともと「資本主義」や「実業」とは、自分が金持ちになりたいとか、
利益を増やしたいという欲望をエンジンとして前に進んでいく面がある。

しかし、そのエンジンはしばしば暴走し、大きな惨事を引き起こしていく。
日本に大きな傷跡を残した1980年代後半からのバブル景気や、
昨今の金融危機など現代でも、この種の例は枚挙に暇(いとま)がない。


だからこそ渋沢栄一は「実業」や「資本主義」には、
暴走に歯止めをかける枠組みが必要だと考えていた。
その手段が『論語』だったのだ。

『論語』は、中国の春秋時代末期に活躍した孔子と、その弟子たちの言行録であり、
その卓越した内容から後世の中国、日本、韓国、ベトナムなどの各国に
大きな影響を及ぼしていった。

いずれの国においても、「人はどう生きるべきか」
「どのように振舞うのが人として格好よいのか」を学ぼうとするとき、
その基本的教科書になっていたのが、この古典だった。

渋沢栄一は、この『論語』の教えを、実業の世界に植え込むことによって、
そのエンジンである欲望の暴走を事前に防ごうと試みたのだ。

タイトル『論語と算盤』とは、まさしくこの思想を体現している。


ここで現代に視点を移して、昨今の日本を考えてみると、
その「働き方」や「経営に対する考え方」は、
グローバル化の影響もあって実に多様化している。

「金で買えないモノはない」「利益至上主義」から
「企業の社会的責任を重視せよ」「友愛」まで、さまざまな価値観が錯綜し、
マスコミから経営者、一般社員からアルバイトまでその軋轢のなかで
右往左往せざるを得ない状況がある。

そんななかで、われわれ日本人が「渋沢栄一」という原点に帰ることは、
いま大きな意味があると、訳者である私は信じている。

この100年間、日本は少なくとも実業という面において
世界に恥じない実績を上げ続けてきた。

その基盤となった思想を知ることが、
先の見えない時代に確かな指針を与えてくれるはずだからだ。


   ( http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56053 )

          <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

渋沢栄一の理念に学ぶ - 伝統

2019/04/20 (Sat) 18:25:09


私たちはなぜ今こそ渋沢栄一の理念に学ぶべきなのか
現代の企業に求められる「開放的な経営」「論語と算盤」とは

        *Web:JB PRESS(2017.8.30)より

明治から大正にかけて活躍した実業家、渋沢栄一。
設立や運営など、その生涯に関わった企業は約500を数えると言われ、
「日本資本主義の父」と評されることも多い。

加えて、約600の教育・社会事業にも携わったとされる。

そんな“偉人”については、これまであらゆる形で語られてきた。
しかし、ここにきて、渋沢栄一の理念と功績に改めて注目が集まっているという。
そのキーワードとなるのが、彼が行った「開放的な経営」と「倫理と利益の両立」だ。

「グローバル化が進んだ現代において、
渋沢が実践した『開放的な経営』を求める機運が高まっています。
また、彼が徹底した『倫理と利益の両立』は、今、多くの経営者が目指す形といえます」

そう語るのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。
日本経済の黎明期を担った実業家が、今の時代に脚光を浴びるのはなぜか。
石井氏に話を聞いた。


《財閥の全盛期に、異色だった渋沢栄一の存在》

──渋沢栄一が改めて注目されていると伺いました。今の時代に求められる理由は何でしょうか。

石井里枝氏(以下、敬称略)

理由は大きく2つあります。
まず1つ目が、彼の行った「開放的な経営」です。

渋沢が活躍した戦前は、三菱や三井といった財閥が急速に成長した時期でした。
たとえば同世代の実業家では、三菱を作った岩崎弥太郎との対比が有名です。

彼ら財閥系は、当時ほとんど会社の株式を公開せず、
実際に株を売り出すのは、三菱でもその多くが1930年代に入ってからと遅めでした。

また、実際の経営は「専門経営者」とよばれる経営者たちに委ねられていくことが
多かったものの、財閥系の人物は経営のトップに位置し、株式についても一族で所有するなど、
非常に閉鎖的な経営であったといえます。

一方、渋沢が関わった企業は、多くが株式会社の形態を取り、
少額でも広く民間から出資を募って、大きな会社を作っていきました。
そういった意味で「開放的な経営」だったと言えます。

現代の企業を見ると、広くいろいろな機関投資家が入っています。
さらにグローバル化によって、企業はもちろん、人やお金、モノ、情報が
国境を越えて広がりを見せています。

その中で、財閥が主流だった戦前から、
広い視点で開放的な経営をした渋沢が再び注目されているのです。


──当時、株式会社の形態をとるのは、かなり先進的だったのでしょうか。

石井

日本において株式会社制度が発達していくのは、明治期に入ってからです。
渋沢は初期段階からその普及に大きな役割を果たしたといえます。
財閥ものちに傘下会社の多くを株式会社化していきますが、
本社と子会社との間の株式所有にもとづく強い結びつきを前提とする閉鎖的なものでした。
この組織のあり方をコンツェルンといいます。

このように、財閥については閉鎖的だったものの、
一方で非財閥が形成する株式会社も発達していました。

ただ、とにかく財閥が急成長している時代であり、
彼らが大きな事業経営体を作って、経済の中心にいたのは事実です。


しかし渋沢は、いくつもの企業を成功させながらも、財閥の路線とは一線を画し、
非財閥系の株式会社に関わり続けた稀有な存在です。

もしも渋沢がいなければ、非財閥の企業の成長はここまで大きくなかったかもしれません。
特にインフラ関連は、非財閥系の企業が多く、そこに貢献しているのは間違いないと言えます。

実際、彼は実業家として早い段階で成功します。
第一国立銀行や大阪紡績会社(現・東洋紡)といった大企業の立ち上げがその例です。
しかし、あくまでこれらの会社を一族で固めず、自分のカラーを濃くしませんでした。

当時の財閥とは対照的に、一貫して開放的な経営を続けたのです。


《生涯500の企業に関わった、渋沢の人脈作りと理念》

──生涯で500もの企業に関われたのは、必ずしも自分が経営の主導権を
すべて握ろうとしなかったからでしょうか。

石井 

そうですね。彼が経営の指揮をとるのではなく、
信頼を置ける人に経営を任せるケースは多数ありました。

たとえば、浅野セメント(現・太平洋セメント)の経営で知られる浅野総一郎もその一人です。
こうしたビジネスパートナーたちが、渋沢の多忙な活動を支えていたといえるでしょう。

このように、渋沢は経営面では自分が信頼する有能な人を見極めて巧みに配置していきました。
自分のカラーを強くせず、人的ネットワークを作って広げていったのも特徴です。
そして、それだけの人的ネットワークを作れたのも、渋沢の凄さだと思います。


──1社の成功に安泰せず、次々に別の企業に関わっていった理由は何でしょうか。


石井

やはり、純粋な公益の追求者であり、
「日本全体を良くしたい」と切実に願っていたからであると考えられます。
そしてそれこそが、今の経営者に求められる姿勢だと思います。


──どういうことでしょうか。

石井

高度経済成長期や安定成長期、そしてバブル経済の頃は、
日本の経済自体が伸びているので、自社の利益だけ考えていても
成果が見込めたといえます。ただ、

現在のように経済成長が頭打ちとなっている状況の中では、
自社の利益だけを見ているのではなく、むしろ、他の企業と協力して、
日本の経済そのものを良くしていかないといけません。

そういった視点が必要になっています。

その中で、渋沢の開放的な経営、公益を追求した姿勢が参考になるはずです。


──彼は、まだまだ経済成長が見込めそうな戦前に、公益を追求していたんですものね。

石井

はい。
過去の記録を見ても、地方にもかなり足を運んで、さまざまな企業の設立に携わっています。
彼が支援した各地の鉄道会社なども、まさにその典型といえるでしょう。
当時はまだ未知の産業であった鉄道会社の立ち上げに関わり、
その他にも港湾、ガス、電気といったインフラに関連する企業にも多く関わりました。

こうした渋沢の姿勢は、公益の追求そのものではないでしょうか。

また、彼は生涯で約600の社会事業にも携わりました。
有名なものでは、社会福祉事業の先駆となった
養育院(現・東京都健康長寿医療センター)の初代院長を務めたことが挙げられます。

また、日本赤十字社の設立などにも関わりました。
社会事業は、実業界を退いた後も、亡くなる前まで尽力したようです。


《CSVの概念を、すでに戦前から実践していた?》

──彼が公益の追求者である所以がよく分かりました。

石井 

ただ、それだけを聞くと渋沢の“倫理的”な面が際立ちますが、
一方で彼は非常に“合理的”で、利益を重視する側面を持っていました。


──どういったことなのか、詳しく教えてください。

石井

彼の功績として大きいものに、大阪紡績会社の成功があります。
ここでも渋沢は相談役という地位にあり、実際の経営は山辺丈夫という
有能な技術者などに任せていましたが、長きにわたって渋沢は
経営の枢要に関わり続けたといわれています。

そして、同社の経営においては、合理的、革新的な判断が多く見られました。

たとえば、最初はイギリスのミュール機という紡績用の機械を導入するのですが、
その後にアメリカのリング機というものに魅力を感じると、そちらの導入を試み、
試験生産ののちにリング機の導入を増やしていきました。

1892年に大阪紡績では大きな火災が起きてしまいますが、
その復旧を通じてほぼリング機に切り替えられていきます。

当時、アメリカでは熟練労働者の少なさからその賃金が高かったため、
労賃の安い女性や子どもが扱える機械の開発が進んでいたんです。
日本でも同じように熟練労働者の不在という問題がありました。

工場の機械を途中で一新するのは大きな決断です。
しかしながら、合理的な技術選択に基づき、それが可能となりました。

また、原料の綿花についても、安い輸入品を使い始めました。
これも当時は画期的なことでした。そういった合理的かつ革新的な判断が奏功し、
大阪紡績会社は成功します。

そして、それを見た数多くの紡績会社が後に続き、
その後、産業革命におけるリーディングセクターとなるのです。


──あくまで、実業家としての冷静な視点を持っていたんですね。

石井 

はい。さらに重要なのは、公益を追求する「倫理」と、
合理的な判断の根底にある「利益」の両立をテーマにしていたことです。
それが、近年注目される2つめの理由につながります。
彼はこれを「論語と算盤(そろばん)」と表現しました。


──どういった考え方なのでしょうか。

石井 

平易に言えば、公益や社会貢献を考えながら、一方で利益を上げていくということです。
そして、利益を上げたらそれを自分のものにするのではなく、
国や日本経済に還元していくということです。

彼は小さい頃に論語を学びました。
その理念を生かして公益を追求するのですが、
同時に“そろばん勘定”を大切にしていました。

「論語」と「そろばん勘定」は、とても相容れないものに思えるのですが、
彼の活動はそれが両立されています。

実はこの考え方こそ、今、多くの企業が取り入れ始めているものではないでしょうか。
日本でもCSR(企業の社会的責任)が重視されはじめ、
企業が慈善活動や社会事業を行うケースがとても多くなりました。

そして近年は、新たにCSV(共通価値の創造)という考えが企業に広まっています。
これは、社会的な課題解決と企業利益の両立を目指す考え方です。
まさにそれは、渋沢が提唱した「論語と算盤」の理念と通じ合うところがあるといえるでしょう。


──CSVは比較的新しい言葉ですが、その理念を、すでに戦前の渋沢が実践していたんですね。

石井 

そう言ってよいと思います。
だからこそ、彼は社会基盤に関連する企業の立ち上げや経営に多く関わり、
利益を上げつつも社会へと還元することに成功していったといえます。

加えて面白いのは、数多くの社会貢献をしてきた彼が、
社会事業、慈善活動にも“そろばん勘定が必要”だと考えていたことです。

「慈善活動も組織的・経済的に行われなくてはならない」と明言していますし、
思いつきではなく、持続性のあるものを計画的にやらなければいけないという方針でした。

ですから、彼自身もちろん寄付活動は行っていたのですが、
それよりも彼のネットワークを使って、社会事業の組織を設立することに力を注いでいました。

それらもすぐに終わるものではなく、継続性を重視したといえます。
実際、養育院をはじめ、今も存続している組織が数多くあります。


──だからこそ、今の時代に渋沢栄一の考えを改めて学ぶ必要性があるわけですね。

石井

そうですね。
特に「論語と算盤」は、現代の企業活動を考える上で、大切な基礎になり得るものです。
そして、この理念の中核に、渋沢の唱えた「道徳経済合一説」があります。

 次回は、その考え方を紹介しながら、彼の哲学に迫りたいと思います。

  (http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50708 )


          <感謝合掌 平成31年4月20日 頓首再拝>

「道徳経済合一」 - 伝統

2019/04/21 (Sun) 19:00:16


        *Web:JB PRESS(2017.11.1)より

渋沢栄一が明治時代に公益と利益を両立できた理由
「道徳経済合一」達成の裏には、こんな仕掛けがあった


明治から大正にかけて活躍し、「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家、渋沢栄一。
生涯で約500の企業に関わり、約600の社会事業に携わった彼の考えは、
現代になって改めて注目を浴びている。


中でも再評価されているのが、彼が生涯をかけて追い続けた「道徳経済合一」の理念だ。

「渋沢は、私利私欲ではなく公益を追求する『道徳』と、利益を求める『経済』が、
事業において両立しなければならないと考えました。
そしてそれを、実業家としてのキャリアの中で実践し続けます」

このように話すのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。
私利に走らず公益を追うのは、まさに現代に求められる考え方だ。

とはいえ、道徳と経済の両立は簡単ではないはず。
彼はなぜそれを実現できたのか。

石井氏に伺った。


《公益の追求と利益を上げることは、どちらも欠けてはならない》

――渋沢栄一が提唱した「道徳経済合一」とは、どんな考えなのでしょうか。

石井里枝氏(以下、敬称略)

経済活動において、公益の追求を尊重する「道徳」と、生産殖利である「経済」、
すなわち仁義道徳と生産殖利とは元来ともに進むべきもの、ともに重視すべきものであり、
どちらかが欠けてはいけないという考え方です。

簡略にいえば、事業をする上で、常に社会貢献や多くの人の幸せの実現といった公益を
追求しながら、同時に利益を上げていくという理念です。

道徳と経済は、彼の言葉からすれば、あくまで並行すべきもの、
イコールで結ばれるべき関係性で、どちらかが先になる、
どちらかが優先されるものではないということのようです。

道徳と経済がそもそも同じ位置にあり、一緒に進むべきものという考えなんですね。
どちらが先に行くという話ではありません。


――この「道徳経済合一」は、いつ頃提唱されたものなのでしょうか。

石井 

言葉として明確になったのは、1910年頃から。
渋沢が古稀を迎えて実業界の第一線から退くことになってからです。

とはいえ、その年齢になって考えた理念ではなく、彼が大蔵省を辞して、
実業家となった33歳の頃から一貫して実現してきたもので、
それを後になって言葉にしたといえます。


――彼が数々の企業に関わる中で、
  特に「道徳経済合一」が色濃く現れているものがあれば教えてください。

石井 

彼にとって最初の起業となった「第一国立銀行(現・みずほ銀行)」は、その好例です。

渋沢が実業家として活躍した時代は、同時に財閥が飛躍的な成長を遂げた時期でした。
そしてこの頃、渋沢も財閥も、銀行の設立に力を入れます。
それらは、現代にも多数残っていますよね。

ただ、同じ銀行でも、渋沢と財閥では主旨が大きく異なりました。
財閥系の銀行の多くは、「あくまで財閥の中で、内部への資金調達をするための銀行」
という位置付けでしたが、

渋沢にとって銀行は「世の中に生まれるさまざまな企業の資金調達をするためのもの」
という位置付けでした。

同じ銀行という役割でも、見据えているものは全く違いました。
彼は世の中の資金を循環し、産業を興して国を豊かにするために、
大元の金融を作ったのでした。


《簡単ではない道徳と経済の両立。なぜ彼はできたのか》

――実業家としてのスタート時からこの理念を実践していたのですね。

石井 

その他でも、彼が関わった事業を見ると、
いかに公益と利益の両方を追求していたか分かります。

再び財閥との比較になりますが、財閥の多くは重工業に力を注ぎました。
もちろん、この分野での財閥の貢献も日本の経済成長には欠かせなかったのですが、
渋沢は財閥が手を伸ばさない分野に多く関わりました。

その象徴が、インフラ事業です。
全国の鉄道には彼が若い頃から携わりましたし、
その他に東京瓦斯(ガス)などの設立にも寄与しました。

国民の生活を左右する部分に数多く貢献したといえます。
それは、国民の生活を豊かにするという、公益の追求を考えていたからです。
その上で、これらの事業を利益化していったのでした。


――彼の理念や、それを実現した例はよく分かりました。
  とはいえ、道徳と経済を両立するのは簡単ではありません。
  なぜそれができたのでしょうか。


石井 

いろいろな理由があると思いますが、どんな事業を立ち上げるか、
その出発点における「目の付けどころ」に秘訣があったかと思います。

彼が携わった事業の多くは、海外で先んじて始まっていて、現地では普及しているもの、
それでいて日本にはまだ無いものが多かったんですね。

鉄道やインフラはまさにそれですし、
彼はキャリア前半期に大阪紡績会社の立ち上げで成功を収めますが、
イギリスをはじめ世界の産業革命は紡績分野から始まっており、
渋沢はそれを日本に持ち込んだ形でした。

また、渋沢は保険業の立ち上げにも尽力しますが、
これも海外の先進国には普及していながら、まだ日本になかったものです。

彼は、日本にはまだ無いけど海外には既にあるもの、
そして海外で普及しているものを積極的に取り入れたのではないでしょうか。

普及しているということは、人々にとって絶対的に必要なものであり、生活を豊かにします。
ということは、ニーズがあるわけで、当然利益にもなり得ます。


――海外の先進国と日本を比較していたからこそ、そういった先見の明があったんですね。

石井 

実際、海外の情報は頻繁に取り入れていて、欧米諸国を訪れる中で、
情報や最先端のものをキャッチアップしていたようです。

また、とにかく人との面談を重視し、
短い時間の中でも情報や意見の交換を惜しみませんでした。

鉄道についても、当時の日本では「危険なもの」という認識も強かったのですが、
海外での状況や情報から「安全であり、必要なもの」と確信したのではないでしょうか。

実際、彼が関わるインフラ事業などの合理性や可能性を説いていたようですし、
実業界引退後には比較的時間をかけて地方都市を視察し、講演なども多く行いました。


ちなみに、渋沢は農民の出身ですが、
一時は一橋家に仕官して、一橋慶喜の幕臣を務めます。
そういった中で、彼は武士としての思想、仁義や“人のため”といった考えを強くします。

 
一方で、彼は商業の重要性を若いうちに認識し、利益を上げることの大切さを説いていました。
士農工商という言葉がありましたが、渋沢は最も身分の高い「士」と、
その一方で低く見られていた「商」の2つを、共に大切だと考えていたのです。

当時としては非常に先進的です。


―― 一見、真逆にありそうな2つを合わせて考えたのですね。

石井 

はい。これらを踏まえて、渋沢の哲学にはよく「士魂商才」という言葉が出てきます。
武士の魂と商売の才を共に発揮することの意味が表現されています。
彼は、事業を考える際、そのアイデアの発想時から両方を同じ位置に見て計画していたのでしょう。

そして、このような「道徳経済合一」を合言葉に、日本の近代化を目指した彼の精神は、
まさに今の日本でも求められるのではないでしょうか。


《資本集めにおいても、渋沢流のこだわりがあった》

――「今の日本でも求められる」という言葉の意味を教えてください。

石井 

日本は今、もう一度経済を作り直さなければいけない時期に来ています。
以前の日本的経営は大企業をベースにした考え方でしたが、バブル経済崩壊後、
いわゆる失われた10年、20年を経た現在の日本において、
それでは厳しいという考えになってきました。

その後、一時はアメリカ的な経営も評価されましたが、
それもまた限界を感じるケースが出ています。
こういった中で、ゼロから企業の経営を考えなければいけません。

その時に、「利益に走っても道徳がなければ駄目だ」と考え、
一方で「道徳があっても利益が出て継続性がなければいけない」と考えた
渋沢の経営方針は、大切になるのではないでしょうか。

さらに、グローバル化した現代では、
先進国が新興国を舞台にビジネスを行うケースもあります。

新興国は、いわば渋沢が生きた時代の日本ですよね。

そのときに、私利に走って搾取をするのではなく、
道徳に基づいて公益追求ができるのか。

また、道徳ばかりを重視して、そもそもの事業が倒れてしまわないか。
道徳と経済の両輪を回し、その国の生活を豊かにする経営者が求められているといえます。


――ちなみに、経営戦略においても、
  「道徳経済合一」をかなえるために行っていた施策はあるのでしょうか。


石井 

はい。一例として挙げられるのが、資本集めの部分です。

彼は財閥が全盛の中で、株式会社制度に強いこだわりを見せました。
会社を立ち上げるにも、身内で資金を固めず、広く社会からさまざまな資本を集めたのです。

そこには、会社や事業の利益を自分たちの「私利」にするのではなく、
なるべく多くの人に還元したいという狙いがありました。

たとえば寄付を募るときにも、渋沢は寄付者名簿を作り、
最初に自分の名前と寄付金額を明示して回覧し、
一人でも多くの人が参加するのを勧めたといわれています。

なぜなら、特定の人物から多額の寄付をもらうより、
たとえ一人当たりの金額は小さくても、より多くの人が寄付することを重視していたからです。

金額の大小よりもむしろ、関わる人の人数に着目していたんですね。

このような考えを、渋沢は「合本(がっぽん)法」、「合本組織」と表現しました。
これは「合本主義」として一般社会で流布されていきますが、
それはまさに「公益」を追求する姿勢の表れでもあります。


――より多くの人を巻き込むのも重要だったんですね。

石井 

そうですね。実際、彼は500ほどの事業の多くにおいて、
実質的な経営を他の人に任せています。

彼が経営に深く関わることもありましたが、
起業時の資金集めや、部分的なアドバイスに関与したケースは珍しくありませんでした。

とはいえ、いろんな人に任せるには、大きな人的ネットワークが必要になりますし、
お互いの信用がなければ成り立ちません。

そもそも、自分ではなく他の人に事業を任せた理由のひとつに、
彼のこだわった「公益の追求」があるといえます。

   ( http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51253 )

          <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

渋沢栄一の人脈構築術 - 伝統

2019/04/23 (Tue) 19:21:16


        *Web:JB PRESS(2017.12.5)より

渋沢栄一の「エリートらしからぬ」人脈構築術
約500の企業に関わる裏で培った人的ネットワーク


「日本資本主義の父」といわれ、
明治から大正にかけて数多くの企業に携わった実業家、渋沢栄一。

彼が関わった企業の数は生涯で約500を数えるといわれており、
今再びその理念に脚光が当たっている。


ただし、約500の企業すべてを渋沢が主体で率いたわけではない。
彼は発起人やサポートという形で、
実際の経営は信頼する人間に委ねたことが多かったようだ。

「渋沢は多くの事業について、実質的な経営を他の人に任せました。
発起や資金集めの部分で彼が尽力し、その後は信頼した人に託したのです。
それができたのは、彼が多くの人に信用され、強固なネットワークを持っていたからです」

こう述べるのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。
渋沢は、いったいどれだけのネットワークを持っていたのだろうか。
そして、なぜそのようなネットワークを作ることができたのか。

石井氏に話を聞いた。


《才能ある人材を見つけ、登用することも得意だった渋沢》

――約500の企業において、渋沢は人的ネットワークをうまく活用しながら関わっていった
  とのことですが、具体的にはどのようなスタンスを取ったのでしょうか。

石井里枝氏(以下、敬称略)

たとえば、新規企業設立の話があったとき、渋沢がその事業に意義を感じれば、
発起人や設立のプロモーターのような形で関与しました。

もともと大蔵省の出身であり、資金集めのノウハウは持ち合わせていましたし、
会社を設立する上での利害調整にも長けていたようです。

また、実業家としての実績ができてからは、
「渋沢先生が発起人に加わってくれるなら安心」という存在にもなったため、
さまざまな企業の立ち上げ援助や、裏での利害調整を行ったと考えられます。

そういったことを重ねる中で、彼は多方面に人的ネットワークを構築し、
信頼できる人材を増やしていきました。

そして、彼自身が新規事業を立ち上げる際には、
その有望な人材に経営面を任せていったのです。
渋沢がサポートに回ることは稀ではありませんでした。


――彼の人的ネットワークとして、どのような人がいたのでしょうか。

石井 

有名なところでは、大倉喜八郎や浅野総一郎といった実業家が挙げられます。
大倉喜八郎は、札幌麦酒醸造所(現・サッポロビール)、帝国劇場、帝国ホテルなど
多数の事業を生み出した人で、長年にわたり、さまざまな事業で渋沢と手を組みました。

浅野総一郎は、浅野セメント(現・太平洋セメント)を立ち上げた人物ですが、
その浅野を早くから評価し、サポートしていたのが渋沢でした。

また、渋沢は大阪紡績会社(現・東洋紡)を起業して成功を収めますが、
実はこの経営に深く関わっていた山辺丈夫も、渋沢がいち早く目をつけて指南した一人でした。

ちょうどイギリスに留学していた山辺に、
現地の紡績技術を学ぶよう進言し、彼を援助し続けました。
それが、大阪紡績会社の成功につながります。


――能力のある実業家と手を組んだり、才能のある人材を支援したりしたのですね。

石井 

そうですね。この他、渋沢は東京商法会議所(のちの東京商工会議所)の会頭として、
中央・地方の双方で人的ネットワークを形成していきました。
富士瓦斯紡績の経営者として知られ、その他にも第一生命保険や伊藤忠など、
さまざまな企業の設立にも関与した和田豊治なども、渋沢とつながりがあったんですね。

なお、当時は財閥系が成長していた頃でした。
非財閥の代表となる渋沢は、財閥と対立する存在として語られることも多いですが、
実際は三菱の岩崎家や、安田とも交流があったのです。

加えて、大隈重信をはじめ井上馨、伊藤博文など、政界とのパイプも強固だったようです。
それは、さまざまな事業を円滑に進める上で、大きなポイントになったのではないでしょうか。


《なぜ渋沢は、別の人材に経営面を任せたのか》

――それにしても、なぜ彼は多くの人と強固な人脈を築けたのでしょうか。

石井 

その理由として、彼が直接人と会って対話をする「面談」を
非常に重視したという点がポイントになると思います。

わずかな時間でも、渋沢は人と会うことを厭わず、
日本橋兜町に設けた事務所によく人を招いたと言います。

この他にも、彼が経営に携わった第一国立銀行本店も活動の拠点としていました。

 
それだけでなく、渋沢は地方にもよく通いました。
これは記録にも実際残っています。
なお、その際には鉄道を利用することが多かったようです。
また、郵便、電信、電話といった、当時としては新しい通信手段もあり、
渋沢自身、もちろんそうした手段を取りいれ、活用していました。

しかしながら、彼は会って話すことに重きを置いたんですね。
そうして、会って話す中で相手の心を掴み、信用を得たのではないでしょうか。

――実際に会って、その人柄に触れてみたかったのですね。

石井 

そうですね。おそらく、渋沢はエリート特有のプライドの高さとは無縁の人だったはずです。

当時、武士階級にあった人たちが商売を始めると失敗してしまうケースがありました。
「士族の商法」といわれるケースです。
もちろん、その理由としては単に商売に不慣れであったからということもありますが、
その他にもそれまで持っていた武士のプライドが邪魔してしまうんですね。


渋沢は、武家の出ではありませんが、一橋家に仕え、その後は大蔵省に勤めるなど、
エリートの道を歩みました。
そういったエリート特有のプライドの高さはなかったと考えられます。

その証拠に、彼は何度も地方に赴いて演説をこなしていますし、
記録からも細やかに対応していたことが分かります。
高いところから見下すタイプではなかったのでしょう。
それも大きかったかもしれません。


――言葉として正しいか分かりませんが、「気さくな人」だったのかもしれません。

石井 

そうかもしれませんね。
それともうひとつ、実際の彼の行動を見る中で、
信用を高める人も多かったのではないでしょうか。

たとえば、当時の株主総会は紛糾することが珍しくありませんでした。
そういったケースで、渋沢が調整役として尽力したケースが多々あります。

ただ、渋沢が株主総会の議長として紛糾する総会のとりまとめを行ったことが
分かる場合もありますが、議事録からは具体的な動きが分からないケースもあります。

しかしながら、手紙のやりとりや関係者の発言などから、
渋沢がさまざまな利害の調整に尽力したということが分かっています。

こうしたことから分かるのは、議事録には渋沢の名前が出ていないけれど、
彼が裏で動いてある人を説得した、意見が変わったという事例も
たくさんあったということでしょう。

渋沢は「縁の下の力持ち」を文字通り実践してきたんですね。

そういった姿を見て、渋沢への信用が増し、
人的ネットワークがさらに広がっていったのかもしれません。

――ところで、なぜ渋沢はこれほど多くの人に経営を任せていったのでしょうか。

石井 

それはやはり、彼が公益を追求していたからでしょう。
国全体が成長するには、自分だけで経営していてもダメで、
なるべく多くの人材とともに成長したいという視点があったはずです。

だからこそ、彼は三井や三菱のような財閥を作らなかったのではないでしょうか。

渋沢は、二代目三代目と、特定の家系でつないでいくような事業はしませんでした。
それは、彼が掲げた「公益の追求」そのものだと考えられます。


《多くの経営者を育てることにつながった、渋沢のスタンス》

――これだけの人的ネットワークを作った根底にも、やはり「公益の追求」があったんですね。

石井 

そうですね。その考えにより、彼は非財閥のスタンスを通したのですが、
逆にそうしたスタンスでなければ、約500もの企業に関わるほどの人脈は
作れなかったかもしれません。


――詳しく教えてください。

石井 

同時期の財閥が行っていた事業と、渋沢が手がけた事業を比較すると、
分野の広さに違いがあります。

当然ながら、渋沢の方がずっと広く、紡績、瓦斯、海運、電力、製紙、鉄道、製糖、
ビールから社会事業まで、多岐にわたって関わっています。

一方、財閥もさまざまな企業を手がけますが、重工業、銀行などが中心で、
渋沢ほどの広がりは見せていません。

実際、三菱の4代目社長となった岩崎小彌太は、教育や政治など、
いろいろとやりたいことがあっても、あくまで財閥のトップとして
社長業を全うした側面がありました。

対して、渋沢はそうした制約なく、
自分の興味ある事業や重要と感じることに取り組んでいきました。
そして晩年は、社会事業への関わりを深くしていきます。

それは財閥のようなしがらみがないからできることであり、
そのスタンスだからこそ、いろいろな人と手を組んで
ネットワークを広げられたと考えられます。


――非財閥であることが、自由にネットワークを作れる環境そのものだったと。

石井 

はい。彼から経営を任された相手にとっても、
非財閥を貫いた渋沢のスタンスが良かったのかもしれません。

財閥もいろいろな会社を設立しますが、あくまで財閥本社があって、
その下に子会社があるという形式でした。

もちろん、財閥の拡大にしたがって子会社の意思決定の範囲も広がっていきますが、
最終的には“上の意向”が重視されたりすることが付き物です。

たとえば三井は、本社における社員総会を三井家のみで行いました。
専門経営者の経営への関与の度合いが比較的強かったといわれる三菱でも、
やはり財閥のトップには岩崎家がいる構造でした。

対して、渋沢から経営を任された人たちは、
もっと自由に采配をふるえたのではないでしょうか。

自分の意向で経営戦略を取りつつ、困った時は渋沢のアドバイスや援助をもらえる。
常にお伺いを立てたり、渋沢の動向を逐一気にしたりする環境だったら、
これだけいろいろな経営者がついてこなかったと思います。


――有望な人材に、本当の意味で「経営を任せた」からこそ、
  その人材が育ったのかもしれませんね。

石井 

一方で、彼自身が長く舵を取った事業もあります。
そのひとつが、養育院(現・東京都健康長寿医療センター)の院長です。
これは社会事業として行ったものでした。

渋沢は、約500の企業に関わるとともに、約600の社会事業に携わりました。
そして、実業界を退いたあとも、社会事業においては最後まで力を入れ続けます。
養育院はその代表でした。

こういった社会事業への貢献も、渋沢を語る上で欠かせません。

  ( http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51594 )

          <感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>

「良妻賢母」を育て国力を押し上げた渋沢栄一 - 伝統

2019/04/26 (Fri) 20:27:02


        *Web:JB PRESS(2018.2.1)より

「良妻賢母」を育て国力を押し上げた渋沢栄一
最晩年の彼が、病を押して社会貢献に力を注いだ意味とは


明治から大正にかけて、約500の企業に関わった実業家、渋沢栄一。
その功績から「日本資本主義の父」とされ、
この国の経済を作った人と広く認識されている。


しかし、彼の活躍はそれだけにとどまらない。
実業家と並行して、渋沢は医療や福祉、教育など、社会事業にも尽力した。
その数は600を超えるとさえ言われる。

「渋沢は『近代日本を作った人』と言えるかもしれません。
実業家としての功績にとどまらず、彼は社会的な土台も構築しました。
そしてそこにも、彼の哲学が反映されています」


渋沢の功績をこう評すのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。
同氏によれば、渋沢は実業界を退いた後、亡くなる直前まで社会事業に力を注いだという。
そして、その活動にこそ「渋沢の真髄」が見えるようだ。

今回から2回にわたり、社会活動家・教育者・国際人だった渋沢の活躍と、
その根底にある彼の哲学を紹介する。


《今も残る、渋沢が立ち上げた福祉・医療の事業》

――渋沢は、どんな社会事業を行ったのでしょうか。

石井里枝氏(以下、敬称略)

彼が行った社会事業は、福祉・医療から教育、国際外交まで、多岐にわたります。
まずは、福祉・医療の分野から紹介しましょう。

渋沢の社会事業における代表であり、非常に長く携わったのが
養育院(現・東京都健康長寿医療センター)です。

養老院が創設されるのは1872年のことですが、
渋沢は1874年から養育院の運営事務に関与します。
さらに1876年から事務長となりました。

設立当初は、貧しい生活を強いられている人たちの
受け入れ先として養育院が作られました。
その後は、障害児や結核患者などの保護、
親のいない子どもの保護なども行うようになっていきます。


――1874年というと、渋沢が34歳のときのことですよね。

石井 

はい。養育院については、当時渋沢が会頭を務めていた
東京会議所の管轄であったためであり、その意味では偶然関わった事業でした。
とはいえ、渋沢が養育院に強い情熱を持っていたことは明らかです。

東京会議所の一事業としてスタートし、
1876年には東京府の運営となった事業ですが、
財政が厳しくなると東京府は廃止の方向へ動きます。
まだ設立されて10年ほどの時期です。

この際、誰よりも存続を望み、立て直しを図ったのが渋沢でした。
彼はすでに大蔵省をやめ、実業家となっていましたが、
養育院の財源を確保するため、鹿鳴館(明治時代に建てられた官設の社交場)での
バザー開催や、元養育院敷地の売却資金を使って存続財源に充てるなどの
施策を行ったといいます。

それらが実り、1890年に市営として存続するのです。
この際、渋沢は院長に就任し、亡くなるまでの長きにわたり務めます。


当時は、今と比べて障害者や先天的な病気を持つ人への扱いはよくなかった
と考えられます。その中で、彼はこの部分の改善を本気で目指したのです。


――早い時期から、その重要性を感じていたということですね。

石井 

そうですね。渋沢は古稀を迎えた1909年に実業界から退くのですが、
その頃から社会事業への関わりが一気に増えたため、
「実業界をリタイアして社会事業に傾倒した」と言われることも少なくありません。

ただ、実際は30代の頃から一貫して行っているんですね。

たとえば、実業家としての全盛期にも、たくさんの寄付をしていた記録が残っています。
滝野川小学校(東京都北区)の建築費や、飛鳥山公園(東京都北区)の開墾費、
東京市深川区役所の敷地購求費などが挙げられます。

また、1891年には埼玉県で洪水が起きますが、その際は罹災者の救済もしています。


なお、養育院と並んで中央慈善協会(現・全国社会福祉協議会)の設立にも関わりました。
そのほか、日本赤十字社や聖路加病院などもサポートしています


《弱者を救うため、法律の制定を訴え続けた》

――社会事業の立ち上げと寄付を、若い頃から並行してやったわけですね。


石井 

はい。
何より大切なのは、彼が立ち上げた社会事業の中で、今も残っているものが多いことです。
そもそも彼は、社会事業にこそ「継続性」を重視していました。
実際、渋沢は「社会事業も継続的、経済的でなければならない」と話しており、
そのために「組織的に行わなければならない」と説いています。


――彼の組織づくりのノウハウは、
  企業だけでなく社会事業にも生かされていたのかもしれません。

石井 

加えて、渋沢は「法律の制定」にも力を入れました。
そうして出来たのが「救護法」です。
これは老衰や貧困、病気などで生活が苦しい人を救護する法律ですが、
渋沢はその必要性を政府に陳情し続けました。

しかも、救護法が公布されたのは1929年。
渋沢が亡くなる2年前、89歳の最晩年のころでした。

しかし、この法律の施行は遅れました。
そのような中、渋沢はその施行を求めて動きます。
90歳を過ぎ、体調を崩す中、医者に止められながらも
病を押して政府関係者のもとに足を運んだといいます。

それほどまでに彼は熱意を持っていたのです。


――驚くほどの執念ですね。

石井 

こういう人ですから、当時から多くの人が
社会貢献に熱いことを知っていたのではないでしょうか。

実際、「渋沢栄一に頼めば、協力してくれるかもしれない」と
彼をすがった人たちもいたようです。
そして、そうした声に対しても、必要だと思えば渋沢は協力を惜しみませんでした。

実際にこんな事例があります。
関東大震災の後、罹災して夫を失った女性や母子を保護するために
「愛の家」が設立されましたが、その後、罹災者の救済に限らず
貧困の女性や子供たちを救済する事業として継続させることが考えられました。

その際、「愛の家」の代表者が渋沢に協力を要請しました。
渋沢はそれに応えて、顧問として関わります。

要請をした代表者は、渋沢がいたから事業が継続しえたこと、
彼の後ろ盾が大きな力になったことを後に語っています。


《こだわった「商業高校」と「女子教育」。その狙いとは?》

――ここまでは福祉・医療に関するお話を伺いました。
  それ以外の分野ではどんなことをしたのでしょうか。


石井 

教育における功績も大きく、渋沢は多くの教育機関を立ち上げています。
中でも力を入れたのが「商業高校」と「女子教育」です。

まず「商業高校」について説明しましょう。
当時、経済界で急伸した財閥などは、いわゆる東京大学や慶應大学など、
エリートの教育機関を重視していました。

しかし渋沢は、商業教育を重要と考え、
それにより経営者やミドルマネジメントのような
“実際に企業やビジネスを動かせる人”を増やしたいと考えていました。

具体的には、簿記や英語といった実学の重要性を説いています。

たとえば1878年には三菱が三菱商業学校を設立し、
簿記を学ばせるというケースはありましたが、
渋沢はそれを学ぶ専門の教育機関をつくろうと考えたのです。

そして、そのような教育機関が存在することを正当化し、
増やしたかったのではないかと考えられます。


こうして彼が関与したのが、
東京商業学校(現・一橋大学)や高千穂商業学校(現・高千穂大学)、
大倉喜八郎(明治時代の実業家)を中心に設立された
大倉商業学校(現・東京経済大学)などです。
さらに、名古屋商業学校や横浜商業学校などにも携わります。


――商業を学ばせたかったのは、
  その人材を自分の企業で採用する狙いがあったのでしょうか。

石井 

いえ、そういうことではないと思います。
純粋に、経営者や企業が必要とする戦力を
日本にもっと増やしたかったのではないでしょうか。

当時、大学に行けるエリートはほんの一部ですから、
もっと広く会社で力を発揮できる人材を作りたかったはずです。


――もうひとつ、渋沢が重きを置いた「女子教育」についても教えてください。

石井 

渋沢は、民間の私立女学校への援助を多数行いました。
有名なところでは、日本女子大学校(現・日本女子大学)や
東京女学館の設立に関わっています。


――現代では「ダイバーシティ」や「女性の活躍推進」が重視されていますが、
  早くからそれを考えていたということでしょうか。


石井 

いえ、そうではないんです。
彼が女子教育に力を入れた背景には、女性の社会進出というより
「家庭での良妻賢母を増やしたい」という狙いがありました。

今の人が聞くと古臭く感じるかもしれませんが、そ
の根底にある渋沢の着眼点は参考にすべきものがあります。


――どういったことでしょうか。

石井 

つまり、家にいる妻が教養を持つと、夫もきちんと働きますし、
何より子どもへの教育レベルが上がります。
すると、最終的には日本全体の国力や経済レベルが上がっていきます。

彼はその視点で女子教育を推進したのです。

当時を考えると、女性が外に出ることはかなり珍しいですし、
字が読めない人も多くいたと思われます。
その中では、いきなり社会進出を掲げても受け入れられなかったかもしれません。

実際、晩年には女子商業の機関を作るなど、女性の社会進出にもシフトしていきます。
そういった時勢を読んでいた可能性もあるでしょう。


――なるほど。いずれにせよ、良妻賢母を増やすことで国全体がプラスになる
  という視点は印象に残りました。

石井 

そうですね。彼がここまでたくさんの社会事業を行ったのも、
「日本の経済や国力を上げたい」という原動力があったはずです。

決して慈善活動に熱かっただけの人ではなく、非常に合理的に、
国の経済を考えて行動していたと言えます。

その考えを深く知る上では、彼が国際人として行った外交活動もヒントになります。
次回は、彼の外交活動を紹介しつつ、渋沢栄一がこれだけの企業や社会活動に
関わった意味を紐解きます。


     ( http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51935 )

          <感謝合掌 平成31年4月26日 頓首再拝>

青い目の人形を受け入れた渋沢栄一が考えていたこと - 伝統

2019/04/27 (Sat) 17:22:56


        *Web:JB PRESS(2018.3.5)より

青い目の人形を受け入れた渋沢栄一が考えていたこと
すべての行動に「合理性」と「道徳経済合一」があった


明治、大正の時代に活躍した実業家、渋沢栄一。
彼は約500の企業に関わるとともに、約600の社会事業にも力を注いだ。
一般的に「近代日本における資本主義の父」と呼ばれるが、
さらに広く「近代日本を創った存在」と言っても過言ではないだろう。


「医療・福祉や教育、外交など、渋沢は幅広く社会事業に携わりました。
とはいえ、彼は決して慈善事業に熱かっただけの人ではありません。
むしろ日本経済の成長を考え、きわめて合理的に社会事業を行ったといえます」

こう語るのは、國學院大學経済学部の石井里枝(いしい・りえ)准教授。
渋沢の社会事業にこそ、彼の信念である「道徳経済合一」の概念が色濃く出ているという。
特に顕著なのは、国際人としての渋沢が行った民間外交だ。

本連載の最後となる今回は、渋沢の外交活動を紹介しながら、
彼が追い求め続けた道徳経済合一の本質に迫る。


《アメリカの排日移民に抵抗。その裏にあった「合理性」》

――前回、渋沢が関わった医療・福祉、教育の社会事業を聞きました。
  今回は、諸外国に対しての外交について聞きたいと思います。

石井里枝氏(以下、敬称略)

渋沢は国際人であり、民間外交を行った人としても数多くの功績を残しています。
もともと彼は20代で一橋家に仕えましたが、27歳となった1867(慶応3)年に、
バリ万博使節団の一員としてヨーロッパを歴訪します。

そこで見た欧州の文化や産業は、その後の彼の事業にさまざまな影響を与えました。
そしてこの頃から、海外の情報を積極的に取り入れ、
国際的な視野で物事を考えていたと言えます。

そうして、渋沢は民間人でありながら諸外国との外交活動を行いました。
代表例が、1909(明治42)年に結成された渡米実業団です。


――どんなものなのでしょうか。

石井 

大都市の商業会議所会頭など、経済界で活躍する民間人50名を率いて、
3カ月にわたりアメリカのさまざまな機関を訪問しました。
渋沢は69歳という年齢で団長を務め、多くの企業や施設を見学しました。

そして、当時の大統領であるウィリアム・タフトのほか
トーマス・エジソン、ジェームズ・ヒルなどとも面会しています。


――アメリカの企業や要人を巡り、日本の実業家たちが学ぶ機会を作ったということですよね。

石井 

もちろん、それもあります。
ですが、当時の渋沢にとって、対アメリカの活動には別の大きな意味もありました。

明治期の後半から、日本とアメリカの関係は徐々に悪化していきます。
1900年代の初頭から、アメリカでは日系移民の排斥運動が行われ始めたのです。

渋沢は、アメリカとの関係改善を強く望みました。
もちろん渡米実業団には、海外産業などを吸収する面もあったでしょうが、
同時に民間外交の側面があったのです。

渋沢自身、初めてアメリカに行ったのが1902年で、その後に渡米実業団が生まれました。
排斥運動の高まる時期とほぼ一致します。

さらに渋沢は、1916年(大正5)年に日米関係の改善を目的とした日米関係委員会を結成します。
古稀を超え、高齢となってからの話ですから、渋沢の情熱が分かります。

また、1921(大正10)年11月から始まったワシントン会議においても、
渋沢が「日本の非公式代表」だったと表現されることがあるほどです。

いろいろな条約が結ばれる中で、裏方として尽力していたようです。
彼は度々アメリカに対して、このような民間外交をしていたのです。


――なぜここまで関係改善にこだわったのでしょうか。

石井 

そこに渋沢の合理性があるといえます。
1920年代は日本の経済状況も悪化しました。
恐慌や銀行の取り付け騒ぎが起こります。

また、1923(大正12)年には関東大震災もありました。

その中で、国の利益や経済の安定を守るためにも、
アメリカとの関係悪化を避けたかったといえます。

また、排日運動をここまで阻止しようとしたのも、
単に良好な日米関係を維持したかっただけでなく、
日本の人口が増え、さらに工業化で雇用環境が変わる中で、
日本人が海外に移民として渡り、職を得て生活することを肯定していたからとも考えられます。


結局、渋沢たちの活動は実らず、1924(大正12)年にいわゆる
「排日移民法」がアメリカで成立しました。

ただしその傍らで、渋沢はアメリカへの移民が制限される中、
南米などへの日系移民のプロモートを行っています。
移民を肯定的に考えていた証拠と言えるでしょう。

非常に合理的に、日本の経済や雇用を見据えて外交をしていたといえます。


《「青い目の人形」はなぜ実現したのか。》

――そういった視点に基づいた民間外交だったのですね。

石井 

そうですね。アメリカとの関係改善は、「排日移民法」の施行以降も続けられます。
たとえば、1926(大正15)年には日本太平洋問題調査会が設立され、
渋沢は評議員会会長に就任しています。

 
1927(昭和2)年には、有名な「青い目の人形」のエピソードが生まれます。
きっかけは、アメリカ人宣教師シドニー・ギューリックの提案でした。

日米関係の悪化の中で、日本の雛人形や五月人形の風習になぞらえ、
日米の子ども達で人形を交換するというアイデアです。

当時87歳の渋沢は、日本の誰もが知る存在でした。
日本政府への協力の要請に対する回答がなかなか得られない中、
ギューリックは彼に掛け合ったようです。

以前も話したように、渋沢は良いと思ったアイデアには賛同し、実行に移す人です。
ここも例に漏れず、実現のために彼は日本国際児童親善会という組織を立ち上げました。


――わざわざ組織を立ち上げたんですか?

石井 

はい。これは渋沢の社会事業における大きな特徴です。
政府が行う事業ならまだしも、民間の場合は組織がないと周囲への説得力が生まれません。
また、彼の社会事業は継続性・持続性に重きを置いています。

そこで、組織からきちんと作ることを重視しました。

これは別の社会事業でも多数見られます。
新しい事業を始める際は、まず協会などの組織を立ち上げて、
自ら上位の役職に就き、組織的に進めるケースが非常に多いのです。

本件でも、彼は日本国際児童親善会の会長に就任し、
ギューリックのアイデアの遂行に協力しました。

アメリカからは約1万2000体もの“青い目の人形”が贈られました。
そして日本からは、外務省などの協力を得て58体の市松人形を贈ったのです。


――最晩年の時期にやるのですから、関係改善への思いは相当に強かったのでしょう。

石井 

そうですね。これだけ合理的な人ですから、民間外交の目的として
「日本の地位向上」も考えていたかもしれません。

当時、アジア諸国の多くは欧米の植民地になりつつありました。
独立を保つ国の方が少数派だったほどです。
自国の独立を保つためにも、外交によって、
常に日本が対等の立場にあることをアピールする。

そんな計らいもあったのではないでしょうか。


《ボランティア精神だけではなく、その先の経済を見据えていた》

――渋沢の「合理性」が分かってきました。

石井 

彼は、社会貢献事業をただやりたかった人、
ボランティア精神に熱かった人というだけではなかったはずです。

医療や福祉を充実させたこと、商業高校や女子教育に力を注いだこと、
そして国際関係の改善を計ったこと。
全てにおいて、必ず「国の繁栄、経済の発展につながる」という見立てがありました。

当然それは、個々の企業の利益や成長にも跳ね返るわけです。

ですから、渋沢は非常に広い視点を持った経済人、実業家だったと言えます。
貧富の差がなくなり、教育レベルが上がり、国際関係が良くなれば国が豊かになる。
国が豊かになれば、社会・経済が豊かになる。

言葉にすれば当たり前のような循環ですが、それを自然にできていたのが渋沢栄一でした。



――文字通り、利益と公益の循環をさせていったと。

石井 

まさに彼が掲げた「道徳経済合一」の本質です。
そう捉えると、600もの社会事業に尽力した真意が見えてくるのではないでしょうか。

財を成したから社会事業をしようという趣旨とは違います。
日本の経済、社会を成長させる手段として行っていたのでしょう。

平和や協調も当然願っていたでしょうが、
その先にある企業の成長、さらには国の成長をも考えていたのです。


――本当に合理的な考えの持ち主だったんですね。

石井 

ただし、彼の考える道徳経済合一も成長も、
すべては「日本のため」だったのがポイントです。

確かに考え方は合理的ですが、私利のためではなく、常に公益を追求していました。
でなければ、亡くなる直前までこれほどの社会貢献事業はできなかったはずです。
この姿勢は、現代の私たちが参考にすべきものではないでしょうか。

 
以前にも言いましたが、日本は今“失われた20年”を経て、
もう一度すべてをゼロから作る時代になっています。そ

の中で、道徳経済合一を筆頭に、渋沢の思想や考え方から学ぶべきものは数多くあるはずです。
だからこそ、渋沢の見ていた景色、その姿勢を、今こそ再確認すべきだと思うのです。


――先生のお話を聞いて、渋沢栄一の道徳経済合一は、経営者の基本姿勢だと感じました。
  人々の公益となるものにこそニーズがあり、それは利益を生む。
  ですから、どちらが先ではなく、一緒のものと考えるべきなのかもしれません。

  それをこれだけ広範囲にできたのは、本当に人々の生活に寄り添っていたからでしょう。

  渋沢の死後、日本は激動の時代に入りますが、もし彼が生きていたら何をしていたのか。
  そういったことも知りたくなりました。
  もしかすれば、違う時代になっていたかもしれませんね。

  ( http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/52178 )

          <感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>

渋沢栄一は3つの魔を持っていた - 伝統

2019/04/28 (Sun) 20:28:55


      *メルマガ「人間力」(2019.4.25)より


明治・大正・昭和と近代日本の構築に貢献した創業者に数多く接し、
多くの優れた作品を残した、作家の城山三郎さん。

14年前のインタビューでは
「魅力ある経営者たちに共通したもの」を
テーマに、含蓄あるお話をいただきました。

その中で城山さんは、
「渋沢栄一は3つの魔を持っていた」と話されています。

その魔とは、いったい何を指すのでしょうか。

───────────────────

「魅力ある経営者たちに共通したもの」

 城山三郎(作家)

※『致知』2005年2月号
※特集「創業の精神」
───────────────────


日本信販の山田光成さんは
断られても断られても百貨店に通い詰めて、
とうとう何社かを説得して契約し、日本信販をスタートさせる。

口で言ってしまえば簡単です。

だが、百貨店と契約するまでには筆舌に尽くし難い苦労があったはずです。

いろいろなアイデアを抱く人はたくさんいます。

だが、それを創業に持っていき、
軌道に乗せられるかどうかの境目はここなんですね。

多くはここを乗り越えられず、
アイデアは単なるアイデアで終わってしまう。


【本誌】

その境目を乗り越えさせるものはなんですか。


「魔」でしょうね。
情熱と言ってもいいし狂気と言ってもいい。

何かをやるなら「魔」と言われるくらいにやれ、
「魔」と言われるくらいに繰り返せ、ということです。


渋沢栄一は埼玉の農家から出てきて一橋家に仕える。
侍になりたいんですね。

ところが、割り当てられたのは勝手番。
これでは上の人と話し、認めてもらうチャンスがない。

だが、上の人が毎朝乗馬の訓練をする。
この時なら話すチャンスがあるということで、
渋沢は馬と一緒に走って自分の思いや考えを上の人に話す。
毎朝それをやる。

すると、あいつは見どころがあるということで、そこから彼の人生は開けていく。


渋沢は3つの魔を持っていた。

(1)吸収魔、

(2)建白魔、

(3)結合魔

です。

学んだもの、見聞したものをどんどん吸収し、身につけてやまない。

物事を立案し、企画し、それを建白してやまない。

人材を発掘し、人を結びつけてやまない。


普通にやるんじゃない。大いにやるのでもない。
とことん徹底して、事が成るまでやめない。
そういう「魔」としか言いようのない情熱、狂気。

根本にそれがあるかないかが、
創業者たり得るか否かの分水嶺でしょう。

          <感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝>

渋沢栄一、算盤篇 - 伝統

2019/04/29 (Mon) 21:27:36


       *『渋沢栄一、算盤篇』鹿島茂・著 より

(1)豪農の家に生まれた渋沢栄一は、一橋(徳川)慶喜に仕え武士となり、
   慶喜の弟である徳川昭武とパリ万博への参加を命じられる。
   そしてパリの地で「資本主義のシステム」の本質を見抜く。

(2)幕府が崩壊したためやむなく帰国、不本意ながら仕えることになった新政府で、
   「円」の導入など金融政策に次々関与する。

   明治6年、本当の国力をつけるためには民間の力が必要だと考えた渋沢は、
   大蔵省を辞め、「民」を育成するための生涯を送ることになる。

(3)資本主義というのは、自己利益の最大化を狙う人間たちが、
   参加するバトル・ロワイヤルのようなものだ。

   しかし最終的勝利者になるのは、どういうわけか、
   強欲一辺倒の参加者ではなく、モラルを自分の商売の本質と見なす
   渋沢栄一のような参加者と決まっている。

   理由は簡単で、そのほうが永続的に儲かるから。

(4)渋沢の大きな功績は、
   一身にして立案者と実行者を兼ねて、事業を推進したということだ。

   彼には思想家である側面と行動家としての側面を結合するユニークな才能があった。

(5)彼の父は、藍を栽培したり、他の農家から藍の葉を買い上げ藍玉を製造し、
   信州や上州の紺屋に送って、半年後に代金を回収する仕事だった。
   渋沢はその仕事を手伝い、経済感覚を身につけた。

(6)渋沢の場合、尊王攘夷思想という自分に似合わぬ衣装を脱ぎ捨てた後には、
   父晩香から譲り受けた健全な商業的合理精神により形づくっていた。

(7)つまるところ、財政や金融の根本は「誠」すなわち「信用」にあるということである。

(8)サン=シモン主義

  ①サン=シモン主義の核心は、
   「富の生産を促進することが社会の重要な任務である」ということ。

   渋沢はフランスでそれを学んだ。

  ②サン=シモン主義の三種の神器「株式会社、銀行、鉄道」。

  ③金銭の流れによって鉄道と運河、大洋航路と都市内交通、ガス、水道などの
   インフラが整備され、今度は、モノと人が流れるための通路ができあがる。

   これもモノと人の流通を革命の第二段階とするサン=シモン主義の理念そのものである。

   鉄道、運河、および諸交通を、社会変革のもっとも重要な手段に数えるのが
   サン・シモン主義の特徴である。

(9)徳川昭武の会計と書記を担当した。

(10)本場パリで「社交」を学ぶ。

   社交は対立を和らげ、理解を深める潤滑剤というこの発想、
   これもまた渋沢がパリから持ち帰った。

(12)時代の水準を超えた経済的頭脳。

   渋沢の頭脳とは、ひとことで言えば、システムを見抜く頭脳である。

   渋沢は、サン=シモン主義者と同じ思考法をもっていた。

(13)官民の差別がなく、まっとうな利潤追求の行える
   この理想の社会を実現するにはどうしたらいいか。

   渋沢の見出した答えは、今日の我々からすると意外だが、
   「合本組織」すなわち株式会社という制度であった。

          <感謝合掌 平成31年4月29日 頓首再拝>

論語と算盤(超訳) - 伝統

2019/04/30 (Tue) 19:07:50


       *『超訳・論語と算盤』阿部正一郎訳 より

(1)渋沢栄一は「日本近代経済の父」あるいは「日本資本主義の父」と呼ばれている。
   それほどに明治維新後における日本の経済そしてビジネス界で重要な存在であった。

(2)多くの銀行や会社を立ち上げ、育て、後進の者たちにそれを任せ、譲っていった。
   こうして日本の社会に今につながる資本主義経済の基礎をつくり、
   発展させていったのである。

   その発展は「世界の奇跡」でもあった。

(3)渋沢は、他方で『論語と算盤』を常に唱えていたことでもよく知られている。

   正しい道徳を完全なものとしながらの経済活動そしてビジネス活動でなければ、
   国の繁栄は成り立たない。

   国の富や繁栄というのは、仁義道徳、正しい道理に根源がなければ、
   決して永く続くものではないのだ。

(4)論語の勉強はおもしろい。

   忠(誠実)と恕(思いやり)と一つになった「忠恕」というものが、
   孔子の一貫した精神であるとともに、論語を貫いている精神なのである。

(5)私は、常に、精神の向上と経済力の向上をともに進めることが必要だと信じている。
   人はこの点から考えて強い信仰(信条や人生哲学、行動規範)を持たなければならない。

(6)目の前の仕事に全力をつくる。

(7)豊臣秀吉のような大人物でさえ、
   初めて信長に仕えたときは「草履取り」というつまぬ仕事をさせられたのである。

(8)オレは一流の学歴があるのに、
   こんな雑用や下っ端の仕事をさせられるのはバカバカしいと不平をいう人もある。

   しかし、これは間違っている。
   上の者がそういう仕事をやらせているのには大きな理由があるのだ。

(9)およそどんな些細な仕事でもそれは大きな仕事の一部分であり、
   これが満足にできなければ、ついには仕事は簡潔しないことになる。

(10)人も社会も習慣でつくられる。
   また習慣というのは自分だけではなく、他人にも感染する。
   善いことも悪いことも他人に伝わっていく。

(11)ビジネスの本質つまり本当の利益の追求というのは、仁義道徳にもとづかなければ、
   決して永続するものではない、と私は考えるのである。

(12)孔子が言いたいのは、正しい道理、正しいやり方でお金儲けし、
   出世したのならばそれはよいことだ、ということだ。

(13)お金はよく集め、よく使え。

   よく集め、よく使う人こそ真に経済の何であるかに通じている人と言えよう。

(14)特に私たちビジネス界においては、「信」という徳が重要となろう。
   この「信」という一字を守ることができなければ、
   われわれビジネス界の基礎もあやふやのものとなってしまうに違いない。

(15)仁義道徳と経済活動は矛盾するものではないということだ。
   すなわち第一の根本となるべき仁義道徳などの道理は、
   必ず経済活動と一致するものであるということだ。

(16)学問と実践の両者がよく調和し、密着することで、国の文明が進み、
   経済力も強くなるし、人も人格のすぐれた者となっていけるのである。

(17)会社の事業の繁栄は、お互いの利益になることをよく理解し、
   お互いに力をあわせられるように心がけていくようにしてほしい。

(18)今こそ武士道をもってビジネス道としなければならない。
   日本人はあくまで大和魂の発現たる武士道をもってして
   生きていかねばならないのである。

(19)「信用」というのが社会のすべてのすべての本であり、
   一つの信用が、どんなことにも勝てる力となることを理解することが、
   我が国の経済界、ビジネス界を堅固に発展させていくための緊急重要課題なのである。

(20)やはり若いときは、良い師に接して、
   自分の品性・品格を育て磨きあげるようにしたいものだ。

(21)ようやく、わが国においても、いわゆるビジネス教育も進んできたが、
   どうしても成果を急ぐために知識偏重のものとなってしまっている。
   規律、人格、徳義などがおろそかになっているということだ。

   なげかわしいことである。
   今後は、このような規律、人格、徳義にも重きを置いた上で、
   加えて仕事における自分の独創性を発揮できるようにしてもらいたいと思うのである。

(22)論語と准南子より言葉を一つずつ紹介しておきたい。

   「毎日新しいことを学び、月ごとにすでに学んだことの復習と反省をできてこそ、
   本当の学問好きといえるだろう」  (論語)

   「忙しくて学ぶための時間がないという者は、
   時間ができたときにも学ぶことなどしない者である」(准南子)

(23)道理にしたがって事をなす者は必ず栄える。

(24)とにかく人は誠実に励み勉強して、自ら運命を開拓するのがよい。

   もしそれで失敗したら、自分の智力が及ばなかったためとあきらめ、
   また成功したら知恵がうまく活用されたとして、
   いずれにしても天命にまかせればよい。

   たとえこうして失敗したときがあろうとも、あくまで勉強していけば、
   いつかは再び好運に出会えるときが来るだろう。

          <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>

【渋沢栄一の第三の道】。 - 伝統

2020/07/30 (Thu) 20:34:20


   *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.07.27)より

   (向谷匡史(むかいだに ただし)氏の心に響く言葉より…)


   令和元年という新時代の幕開けに紙幣刷新が発表され、
   「新一万円札」の図柄に選ばれたのが、この渋沢栄一である。

   メディアは、渋沢栄一が何者であるかをこぞって取り上げ、
   「近代日本資本主義の父」と改めて紹介した。

 
   その功績は、渋沢が設立に関わった著名企業を概観しただけで
   一目瞭然である。

   第一国立銀行(現みずほ銀行)を初め、東京ガス、王子製紙
   (現王子ホールディングス)、東京海上火災保険(現東京海上火災)、
   秩父セメント(現太平洋セメント)、秩父鉄道、京阪電気鉄道、
   東京証券取引所、麒麟麦酒(現キリンホールディングス)、
   サッポロビール(現サッポロホールディングス)、
   東洋紡績(現東洋紡)、大日本精糖、明治製糖、帝国ホテル、
   澁澤倉庫など多種多様で、その数は五百社以上にのぼる。

   渋澤なくして日本産業界の発展はあり得なったと言ってよい。


   P・F・ドラッカーと言えば「経営の神様」として知られる
   著名な経営学者だが、そのドラッカーが

   「渋沢は思想家としても行動家として一流である」と
 
   絶賛するほどに、渋沢は近代日本の発展のために
   力を尽くした巨人なのである。


   だが、渋沢の素晴らしさは実業家としての先見の明や
   経営手腕だけでなく、
   「生き方」と「思考法」にあることを見落としてはならない。

   渋沢は著書『論語と算盤(そろばん)』で、
   「ビジネスは論語(道義)に則って為すべきである」と、
   経営哲学を説く。


   ひらたく言うと
   「金儲けと道徳は相反するように受け入れられているが、
    それは間違いである」ということだ。

   両者は矛盾などせず、論語(道徳)に則って
   ビジネスすることが結局は利益につながるとする。

   彼の思考法は「金儲け」と「道徳」という一見、
   矛盾の関係にあるものを統合し、より高みの視点から見ることにある。

   すなわち、私たちが渋沢から学ぶべきことは、
   「二者択一」というデジタル思考にとらわれず、
   相反するように見える事柄を統合し、
   Win?Winの関係にもっていく、その思考法にある。


   現代は「ゼロサム社会」だと言われる。

   ゼロサムとは本来、加算してゼロになるという意味だが、
   マーケット(市場)においては、一方が利益を得れば、
   もう一方は損をするということから、プラスとマイナスを
   足せばマーケット全体としてはゼロになるとする。

   つまり、富という総体を一定と考え、
   マーケットはその“分捕り合戦”という考え方で、
   Win?Winの関係にはならない。


   この思考法がマーケットのみならず、私たちの人間関係や
   人生観に大きく影響し、

   「得をする人間」と「損をする人間」、
   「成功する人間」と「落後する人間」、
   「幸せになる人間」と「不幸になる人間」は
   ゼロサムになると考えてしまう。

    人を押しのけ蹴落として生きていかない限り、
    自分の成功も幸福もないという価値観である。

    前述した二者択一のデジタル思考とは、このことを言い、
    私たちは人生はそうしたものであると思い込んでいる。


    だが、渋沢の言説を深く読み解いていくと、
    目からウロコが落ちるように、ゼロサムではない
    「第三の思考法」があることに気づかされるのだ。

    富や地位を求めることは人間の自然な欲求であり、
    決して悪いことではない。

    まっとうな生き方によってそれがもたらされるなら、
    進んでそれを求めるべきだ。

    ただし、自分さえよければいいという道理に背いた生き方であるなら、
    豊かさが社会全体に生き渡ることなく、
    結果として自分も不利益をこうむることになる。

 
    「社会全体」を「ビジネスパートナー」に置き換えて
    渋沢の言葉を読み解けば、「相手の利益=自分の利益」という
    ゼロサムとは違う思考法となり、これぞWin-Winという
    「ビジネス哲学の王道」になる。

    「まっとうな生き方によって得らえるならば、
     どんなに賤(いや)しい仕事についても金儲けをせよ。

     しかし、まっとうではない手段をとるくらいなら、
     むしろ貧賤でいなさい」

    という言葉を「職業に貴賤なし」の視点で読み解くと、

    「職業に貴賤なく、稼ぎ方に貴賤あり」

    という、まさに私たちが肝に銘じるべき生き方・処し方になるだろう。


    仕事で行き詰ったとき、人生の難問に直面して
    八方塞がりになったとき、ビジネスで攻めに転じるとき、
    渋沢の思考法は「第三の道」を探す灯明となると確信する次第である。

       <『渋沢栄一「運」を拓く思考法』青志社
               https://amzn.to/3hCFQs9  >

           ・・・

二者択一というのは、西洋的なゼロサムの考え方。

しかし、第三の道があり、損か得かでいうなら、
自分も得をして相手も得をするという考え方だ。

近江商人の心得「三方良し」でもある。

「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」という考え方。


ゼロサムは、「あちらを立てれば、こちらが立たず」という
両方が納得し喜ぶようなことは難しいと考える。

しかし、「あちらも立て、こちらも立てる」ということ。

とかく、何かを達成するには、自分が「我慢する」とか、
「犠牲になる」ことが必要だと言われる。


それはたとえば会社でいうなら、
「給料を上げながら、労働時間を減らす」、
「利益を増やしながら、生産性を上げる」というような考え方だ。

それは、仕組み化だったり、IT化だったり、
副業化(会社としての)だったりする。

まさに、渋沢栄一の著書「論語と算盤」も同じで、
「論語」も大事、「算盤」も大事と、二者を両立させることだ。


二者択一ではなく、第三の道を模索したい。

          <感謝合掌 令和2年7月30日 頓首再拝>

今日から始まる大河ドラマ第60作「青天を衝(つ)け」 - 伝統

2021/02/14 (Sun) 13:26:17


       *Web:シネマトゥデイ( 2020年6月16日)より

<あらすじ>

本作は、主人公の渋沢栄一が、幕末から明治へかけて、
時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、
青天を衝くかのように高い志を持ちながら未来を切り開く物語。

信念のため、たとえ形を変えてでも逆境を乗り越えていく
渋沢のエネルギッシュな生きざまが描かれる。


《モデルの渋沢栄一とは?》
 
「日本資本主義の父」と称され、新一万円札の顔としても
注目を浴びる渋沢は、1840年、
武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村(現:埼玉県深谷市)の
百姓の家に生まれた。

家業である藍玉の製造・販売や養蚕を手伝い、商才を磨く。
農民から攘夷の志士を目指し、一橋家の家臣から幕臣、明治新政府への仕官を経て、
実業家に転身。

生涯で、約500の企業の育成に関わり、
女子教育の普及など約600もの社会公共事業に貢献した。

タイトルの「青天を衝け」は、若き栄一が藍玉を売るため信州に旅したとき、
険しい内山峡で詠んだ漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」からきている。

逆境に負けることなく突き進んだ栄一の人生とも重なる。


      *「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」
        https://ameblo.jp/rin-mei244/entry-12655983439.html

          <感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>

大河「晴天を衝け」の「渋沢栄一」は類い稀なる“乗り鉄” - 伝統

2021/02/14 (Sun) 23:34:44

大河「晴天を衝け」の「渋沢栄一」は類い稀なる“乗り鉄” 米国視察の仰天エピソード

        *Web:デイリー新潮(2021.02.14)より抜粋

(1)渋沢は1840年に埼玉県血洗島(現・深谷市)に生まれた。
   当然ながら、このときに国内で鉄道は開業していない。

   国内初の鉄道は新橋(後の汐留)駅―横浜(現・桜木町)駅間で開業し、
   渋沢はその一番列車に明治新政府の役人として乗車した。

(2)しかし、渋沢の鉄道初体験はこのときではない。
   渋沢の鉄道初体験は、エジプトのスエズだった。

   渋沢がスエズで鉄道に乗ることになったのは、幕府の代表として
   将軍・徳川慶喜の弟・昭武がフランスに派遣されることになったからだ。

   渋沢は昭武の随員としてパリへ向かうことになったが、
   当時はスエズ運河が開削中だった。

   そのため、船から汽車へと乗り換えることになり、
   そこで鉄道を初体験する。

   スエズからアレクサンドリアまでの鉄道移動で、鉄道の利便性を実感。

(3)渋沢はパリに居住したが、パリ滞在中に昭武が
   オランダ・イタリア・イギリス・ベルギーなどを巡歴。
   これらの巡歴でも鉄道がフル活用された。

   随員だった渋沢の旅程の作成から理非の管理までを担当している。

(4)渋沢は鉄道に乗るという体験だけではなく、
   幕府から預かっていた滞在費用を目減りさせないために、
   フランスで鉄道公債を購入している。

   これが大きく資産を増やすことになり、鉄道が単なる移動手段ではなく
   経済発展に寄与するインフラ、資本主義の原動力であることに気づいた。

(5)1872年に華々しく開業した日本の鉄道だったが、
   莫大な費用を投じて建設したにもかかわらず利用者は低迷した。

   運営資金に悩まされていた政府の思惑を読み取り、
   渋沢は1875年に民間の鉄道会社を立ち上げた。

(6)渋沢は日本鉄道の経営に関わることになるが、
   渋沢に託された使命は旧大名家たちの資産運用だった。

   版籍奉還が実施されてから、旧大名家は領地から収入を得ることが
   できなくなり、自分たちで稼がなければならなくなった。

   とはいっても、これまで額に汗して働いたこともない大名が、
   一般庶民に混じって農作業に従事することなど難しい。

   そこで、旧徳島藩藩主の蜂須賀茂韶が資産運用を提案。
   その投資先として、将来有望と目された鉄道に投資することになった。
   日本鉄道には多額の投資が集まることになった。

(7)晩年になっても、渋沢は積極的に鉄道を利用した。
   1909年、渋沢を団長とする実業団がアメリカを訪問。

   アメリカ視察は約3か月の滞在だった。
   行程の大半は列車による移動だったことは言うまでもないが、
   60を過ぎた渋沢はほかの実業家も真似できないほどの精神力で
   列車を乗り回している。

(8)2月14日から始まる「青天を衝け」で、
   渋沢が多くの鉄道会社を興したことに触れることはあっても、
   鉄道ファンも舌を巻くほどの“乗り鉄”だったことを
   紹介することはないだろう。

   資本主義の父・渋沢の知られざる横顔を知れば、
   大河ドラマを違った見方で楽しめるかも知れない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c18b33d810d52b15c019364e5dd570a85b308cb4

          <感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>

いまさら聞けない「渋沢栄一」…実はめちゃくちゃ「運のいい男」だった! - 伝統

2021/02/15 (Mon) 14:55:48



        *Web:現代ビジネス(2021.02.14)より抜粋

(1)たぐいまれなる強運で「時代の子」に

  ①明治の文豪、幸田露伴は、その著『渋沢栄一伝』で、
   「時代の要求するところを自己の要求とし……時代の意気と希望とを
   自己の意気と希望として、長い年月を勤めた」として、
   渋沢栄一を「時代の子」と書き記しました。

  ②幕末・明治・大正・昭和と九十一歳まで生きて、
   晩年は国際的な平和活動に力を尽くし、
   ノーベル平和賞候補にもなった渋沢は、

   その生涯において、四つの「幸運」に恵まれていたように思えます。

(2)第一の「幸運」は、青年期にもたらされました。

  ①藍の商いをおこなう農家の子として生まれた彼は、
   武士になりたいと望み、日本の将来を憂いて、
   過激な尊王攘夷派となりました。

  ②討幕をめざし、六十九人の同志を募り、武具を買い整え、
   命知らずの過激な計画を立てます。

   ところが、すんでのところで、
   従兄の尾形惇忠に諫められ、計画を断念します。

  ③血気に駆られて突っ走る一歩手前で、冷静に状況を見きわめ、
   反逆者として処刑される危機を潜り抜けたのです。

   ここぞという場面で、破滅ではなく、
   自分を生かす道を選んだこと、これが第一の幸運でした。

(3)第二の「幸運」は、そのあとの鮮やかな転身でした。

  ①一橋家の重臣、開国派で英明な平岡円四郎に出会い、
   「世界を知らずに、攘夷を論じている自分」を知らされ、
   彼は眼をひらかされます。

  ②出会うべき人に出会ったことで、
   「過去のとらわれを捨てる」ことを決意します。

   まさに百八十度の転身をして、
   かつて敵視していた幕府側、一橋家の家臣となったのです。

  ③これが第二の幸運であり、これまでのいきさつにこだわらない、
   柔軟で自由な精神をもつ渋沢の器量がこのとき発揮されたのです。

(4)第三の「幸運」は、異国への旅でした。

  ①幕府の最後の将軍、徳川慶喜の家臣となった渋沢は、
   慶喜の弟、民部公子のお供として、
   パリ万国博覧会が開催されるフランスへ渡ります。

  ②そこで、渋沢は西洋の文化、社会にじかに触れ、
   日本より遥かに進んだ鉄道や兵器、科学技術などにおどろきます。

  ③とりわけ、彼の心を揺り動かしたのは、
   銀行を中心とした経済構造であり、
   株式会社による近代資本主義のありようでした。

  ④「近代国家は、強力な軍備だけではなく、
    自由な取引による商工業によって支えられている。
    日本も遅れてはならない」

   渋沢はそのことを痛感し、日本に戻ってきたあと、
   大政奉還した慶喜が身を寄せていた静岡藩で、
   商法会所(株式会社)をはじめます。

  ⑤会所は順調に発展しますが、明治政府に呼ばれ、
   「神代の昔、八百万の神が集まって、日本をつくったように、
    君も八百万の神のひとりとなって日本をつくってくれ」と、

   言葉巧みに、大隈重信に説き伏せられて、大蔵省の役人となります。

(5)第四の幸運は、自力で切り開く!

  ①大蔵省の役人となった渋沢は、日本の近代化をめざして、
   財政、地方行政、殖産興業等を精力的に推し進めますが、障害が多く、
   「自分の生きる道は、ここではない」と悟り、

   第四の「幸運」を、自力で切り開く決意をかためます。

  ②自分をもっとも生かす道、実業家となった渋沢は、
   少年期に学んだ孔子の『論語』の精神を生かして、

   「私利私欲を追求し、ひたすら営利をむさぼる実業家ではなく、
    たくさんの人に利益をもたらす、仁愛の精神を持った実業家になろう」

   と決意したのです。

(6)480社もの「株式会社」を立ち上げた

   国家や社会のための「公益」を大切にするという、この考えのもとに、
   渋沢は第一国立銀行や東京商法会議所を設立させ、王子製紙、
   日本郵船、帝国ホテル、札幌ビール、東京電力、東京ガス等、
   四百八十社におよぶ株式会社を立ち上げさせました。

(7)病院の設立に関り、学校の設立を助けました。

   東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院、理化学研究所等の
   病院の設立に関わり、一橋大学や同志社大学、二松学舎、
   早稲田大学、日本女子大学等の学校の設立を助けました。

(8)貧しい人のための生活保護法をつくった

(9)労働組合をたすけ、貧しい人のための生活保護法をつくり、
   社会福祉にも尽力した渋沢は、その信念を、『論語と算盤』という
   彼の講演をまとめた著書で、こう述べています。

  ①とにかく人は、誠実に努力し、自分の運命を開いていくのがよい。

  ②人生の道筋はさまざまで、
   時には善人が悪人に負けてしまったようにも見えることがある。

   しかし、長い目で見れば、
   善悪の差ははっきりと結果になってあらわれてくるものだ。

  ③だから、成功や失敗の善し悪しを議論するよりも、
   まず誠実に努力することだ。

   そうすれば公平無私なお天道は必ずその人に幸福を授け、
   運命を開いていくよう仕向けてくれるのである。

https://news.yahoo.co.jp/articles/47d6738e3b3ec8b1d7bd749adb92cc20fa2dbcc8

          <感謝合掌 令和3年2月15日 頓首再拝>

農民から大実業家へと導いた“5つの転機” - 伝統

2021/02/16 (Tue) 14:33:53

大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一…農民から大実業家へと導いた“5つの転機”

         *Web:歴史街道(2021.02.14)より

(1)第1の転機

   不条理を知り、 武士を志す。

(2)第2の転機

  ①栄一の青少年期は、ちょうど歴史上の激動期にあたる。
   幕府は開国を余儀なくされ、このため攘夷思想が広がり、
   各地で外国人襲撃事件が頻発。

   また、この状態を招いた幕府への不満から、
   大老の井伊直弼が殺害されたりして、幕府の威信は失墜した。

  ②栄一は、江戸に遊学して志士と交わる中で攘夷思想に染まり、
   文久3年(1863)、親族の尾高惇忠と渋沢喜作とはかって、
   横浜にいる外国人を皆殺しにしようと計画。

   従兄の尾高長七郎に説得され、攘夷決行を断念した。

  ③もし暴挙を断行していたら、首謀者である栄一の極刑は免れず、
   後に大実業家になることもなかった。

   そういった意味では、攘夷の挫折が結果的に第二の転機となり、
   栄一の未来を開いたわけだ。

(3)第3の転機

   一橋慶喜への出仕。

(4)第4の転機

  ①西国に散在する一橋領から農民を集めて、
   短期間に450名を超える農兵隊を組織したのである。

  ②経済的手腕を発揮して、一橋家の財政を潤した。

  ③逃亡者から武士に転身した栄一だったが、
   一橋家での経済官僚としての経験は、

   後の企業経営に生かされ、このときの人脈も、
   実業家時代の強力なネットワークになった。

  ④慶喜は将軍職を受諾後、慶喜の弟・徳川昭武が幕府を代表して
   パリ万博に出席し、その後、フランスで留学生活を送ることになった
   ことを受け、栄一は「庶務・経理係としての随行」を打診されたのだ。
   慶喜の意志だったといわれる。

  ⑤こうして28歳の栄一は慶応3年(1867)正月、昭武ら二十数名と、
   横浜港から船でフランスへ向かった。

  ⑥ヨーロッパでの滞在はたった1年であったが、
   旺盛な好奇心を持った栄一は、その明晰な頭脳に
   膨大な情報を詰め込んだのである。

(5)第5の転機

  ①幕府消滅後、徳川家は静岡70万石に縮小されたが、
   明治元年(1868)11月に帰国した栄一は、
   旧主慶喜のいる静岡へ移り住んだ。

  ②翌明治2年(1869)、栄一のもとに新政府からの出仕命令が届いた。

  ③民部兼大蔵官僚になった栄一は、
   「有為な人材を集め、大蔵省内に一部局をもうけ、
   旧制の改革や新組織、法律などは、すべてこの部局を通して
   実現させていくべきです」と大隈に提案した。

   度量の大きい大隈が了承すると、
   栄一は徳川家や大蔵・民部省から有能な人物十数名を集めて
   エキスパート集団「改正掛」、今でいうシンクタンクをつくったのである。

  ④上司は大隈から井上馨にかわったが、
   改正掛は新暦への転換、鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、
   郵便制度の創設、度量衡の統一、租税改革、新貨幣制度の設置、
   国立銀行条例など、矢継ぎ早にさまざまな仕事を手掛けていった。

  ⑤栄一は、「今日の商人ではとうてい日本の商工業を改良進歩させる事は
   成し能わぬであろう、このさい自分は官途を退いて一番身を商業に委ね、
   およばずながらも率先してこの不振の商権を作興し、日本将来の商業に
   一大進歩を与えよう」(『雨夜譚』)という大望を抱くようになったのである。

   明治6年(1873)、栄一は軍備拡張を主張する大蔵卿の大久保利通と対立を深め、
   ついに政府を去った。ある意味、この確執が栄一の背中を押したともいえた。

  ⑥こうして政府を出た栄一は、第一国立銀行の頭取に就き、
   実業家としての第一歩を踏み出す。

   以後、半世紀にわたって五百社近い企業の創業や経営に関与し、
   「日本資本主義の父」と呼ばれる大実業家になったのである。

https://news.yahoo.co.jp/articles/1b13216e452639cfb7296d247669b66b67ef1f4f

          <感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>

「無責任な評論家となるなかれ」胸に刻みたい渋沢栄一31の言葉~その1 - 伝統

2021/02/17 (Wed) 13:12:49


        *Web:PHPオンライン衆知(2020年12月08日)より抜粋

(1)各個人は、国家や社会の一つの分子であるから、
   一挙手一投足がみな国家や社会に影響し、
   各個人だけで完結するものではない。

   その失敗は国家や社会にまで影響し、死んだとしても
   その責任をまぬがれることはできないのだから、
   人は自分だけのことと思って勝手なふるまいをしてはならない。


(2)社会の組織上、女性はその半分の責任を負っているものであるから、
   男性と同様に重んじられるべきである。


(3)すべてのことは、思うと同時に行なわなければならない。
   思う前に、まず学ばなければならない。

   いわゆる「知行合一」は、陽明学の骨子であり、孔子も

   「学んで思わざればすなわち罔くらく、思いて学ばざればすなわちあやうし」

   と言った。古人は決して私をあざむかない。


(4)人は軽薄で才能ある人となるなかれ。
   また無責任な評論家となるなかれ。


(5)昔から人は食うために働くか、働くために食うかという問題がある。
   人である以上、だれが食うために働く者があろう。

   働くために食うということにおいて、
   初めて人の人たる真価を認められるのである。

          <感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>

500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった - 伝統

2021/02/18 (Thu) 14:10:37


        *Web:東洋経済ONLINE(2021/01/10)より抜粋

(1)合理的なうえに人間の心もよく理解していた。

(2)15歳の渋沢栄一は、さきほどから祈祷を始めた女性の真偽を
   見定め、追い返してしまった。

   冷静に事態を見守り、家族が間違った方向に向かうことを
   一人で阻止したのである。

(3)渋沢は状況に応じて、合理的な判断をすることに長けていた。

  ①父の市郎右衛門は、商才があり、武芸にも通じていただけではなく、
   『四書五経』を十分に読めるほどの教養と、俳諧も理解する
   という風流さも兼ねそろえていた。

   そんな父に中国古典の手ほどきを受けた渋沢。

  ②読書に傾倒する一方の渋沢に、
   そうブレーキをかけたのは、ほかならぬ父である。

   「昼夜、読書三昧では困る。家業にも精を出してくれ」

  ③それから渋沢は素直に心を入れ替え、父が注力していた
   藍玉の製造と販売に取り組み始める。

   14歳のときには、不在の父に代わって
   初めて藍の葉の買い付けを任されている。

(4)藍玉の製造者をランク付けして競争心をあおる

  ①渋沢は、藍玉の販売で新しい試みをしている。
   弟と一緒に、各製造者による藍玉の品質を調査。

   藍玉の製造者たちを招いてランキングを発表すると、
   その結果で席順を決めて、ごちそうを振る舞ったのである。

  ②そうして製造者たちの競争心をあおることで、
   藍玉の品質は向上していく。

   どうすれば人はやる気を出すのか。
   渋沢はすでに人間の心の動きに着目していた。

  ③合理的で、かつ、人間の心の動きもよく理解した渋沢。
   経営者として成功するための、もう一つ、大事な素質も
   兼ねそろえていた。それは「反骨精神」である。

(5)代官からののしられても折れなかった

   (https://toyokeizai.net/articles/-/401523

          <感謝合掌 令和3年2月18日 頓首再拝>

渋沢栄一を凄い読書家にした常識覆す師の教え - 伝統

2021/02/19 (Fri) 13:16:19


        *Web:東洋経済ONLINE(2021/01/17)より抜粋

(1)従兄弟の尾高惇忠の一線を画す指導

  ①渋沢は漢文の読み方を父から教わっていたが、あるときにこう言われた。

   「今後、読書の修業は私が教えるよりは、手計(てばか)村へいって
    尾高に習う方がよいだろう」

  ②渋沢は毎朝、10歳年上の従兄弟、惇忠と一緒に
   3~4時間、書物を読むことになった。

  ③惇忠の教育法は、従来よく行われていた漢文読解の指導とは、
   一線を画していた。

   「漢文を丁寧に読ませて、暗唱できるまで繰り返す」。
   それがスタンダートな指導法だったが、惇忠は違う。
   本人が面白いと思う本を自由に読ませるようにしていたのである。

  ④渋沢は『通俗三国志』や『里見八犬伝』など、
   いわゆる低俗小説から読み始めた。

   すると、読書を重ねるうちに、自然と読解力が磨かれていくことに気づく。

(2)渋沢の心をとらえた長七郎の憂国の思想

  ①18歳になると、渋沢は惇忠の妹、千代と結婚を果たす。
   渋沢にとって惇忠は、まさにメンターともいうべき存在だったといえるだろう。

   そしてもう一人、渋沢に影響を与えた男がいた。
   惇忠の弟、長七郎である。

  ②渋沢にとって長七郎はわずか2歳年上にすぎなかったが、
   大柄で腕力もあった長七郎は、剣術にも優れていた。

   だが、渋沢の心をとらえたのは、
   長七郎の腕っぷしの強さではなく、憂国の思想だった。

  ③開国か、攘夷か――。
   渋沢のメンターである惇忠が水戸学を信奉し、
   尊王攘夷思想に傾倒していたため、渋沢もおのずと
   攘夷思想に染まっていく。

  ④長七郎はたびたび江戸に出て、
   江戸帰りの長七郎が熱く議論すればするほど、22歳の渋沢は焦りが募った。

   「このまま田舎で百姓などしていられない。どうか自分も江戸へ出たい」

   反対する父を説得し、渋沢は2カ月にわたって江戸に滞在。

(3)江戸でのネットワークづくり

  ①江戸で情報を見聞きし、海外の脅威にさらされている現実を
   知れば知るほど、渋沢は「この日本を何とかしなければならない」
   という思いを強くした。

   そのための同志を探すため、
   江戸でのネットワークづくりに渋沢は励んだのだった。

  ②江戸から戻った渋沢は「どのようにして異国を打ち払って
   日本を危機から救うか」に心を砕いた。

  ③腐り切った徳川幕府の目を覚まさせなければならない。
   渋沢はそう思い詰めた。

   「ここは一つ派手に血祭りとなって世間に騒動をおこす踏み台となろう」

  ④渋沢と尾高惇忠、そして、もう一人の従兄、渋沢成一郎で、
   計画を立てた。

   その計画とは、高崎城を襲撃し、横浜を焼き撃ちにするというものだった。

(4)「一足飛びに志を達しようとする」計画

  ①喜作(成一郎の幼名)は一足飛びに志を達しようとする
   投機的気分があつた。

  ②あまりに無謀な計画だが、純粋さは時に、信じられない暴走を引き起こす。
   3人の頭には「この日本を救わなければならない」という
   使命感しかなかった。

  ③血気盛んな渋沢は、実現にあたっての障害はただ一つだと考えていた。
   それは、父である。

   父との激論が続いたが、葛藤のなか、父はこう言った。

   「お前はもはや種類の違う人間だから、相談相手にはならない。
    このうえは父と子でおのおの、その好きな道に従っていくのが
    むしろ潔いというものだ」

   血を吐くような思いだったことだろう。
   父は渋沢を勘当した。

  ④そして、渋沢は、国家転覆のためのクーデターを実行することになった。

   (https://toyokeizai.net/articles/-/403506 )

          <感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>

渋沢栄一の暴挙「横浜焼き討ち」止めた意外な男 - 伝統

2021/02/20 (Sat) 14:09:24


        *Web:東洋経済ONLINE(2021/01/24)より抜粋

(1)攘夷計画の実行へ70人のメンバーが集まった

  ①決行日は、文久3(1863)年11月23日の冬至の日とした。

  ②メンバーは計画を立てた尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)と
   渋沢喜作(両者とも渋沢栄一のいとこ)、そして渋沢の3人を中心とし、
   渋沢が上京時に知己を得たメンバーを加え、約70人が集まった。

  ③外国人を片っ端から斬殺するための刀も用意した。

  ④9月14日、京都にいる尾高長七郎(惇忠の弟)に
   こんな文を届けるべく、飛脚を飛ばした。

   「こういう計画を決めたので、役に立ちそうな人物なら
    何人でも連れて関東へ帰って来い」

  ⑤計画を知った長七郎は、渋沢が思ったとおり、驚いて京都から帰ってきた。
   だが、開口一番に放った言葉は、あまりに衝撃的なものだった。

   「暴挙を起こそうという計画は大間違いである」

  ⑥10月29日の夜、もはや決行日まで1カ月を切るなか、
   尾高惇忠の家に主要メンバーが集まり、緊急ミーティングが開かれた。
   長七郎は、計画のずさんさをはっきりと指摘した。

(2)誰よりも早く限界に気づいた長七郎

  ①あくまでも計画実行にこだわる渋沢と、
   絶対に阻止するという長七郎の意見は、真っ向から衝突。

   「殺すなら殺せ、刺し違えて死ぬ」。

   お互いがそんなことまで言い出して、議論は平行線をたどった。

  ②攘夷計画を実行するか否か――。実に3昼夜にわたって激論が行われた。

   このまま結論が出ないかにも見えたが、徹底して話し合ううちに、
   おのおのが客観的な状況を把握し始める。

   冷静になればなるほど、最新情報を踏まえた長七郎の意見は、
   やはりほかの誰よりも説得力のあるものだった。

  ③長七郎のこの意見は、渋沢の決意を揺るがせた。

   己の命を駆けて、行うべきものなのかどうか。
   そんな本質的な問いとなり、自分へと向かってきた。

   答えは明らかだった。

   「犬死にするかもしれない。なるほど長七郎の説が道理にかなっている」

   渋沢は計画の中止を決断。みなもそれに従うことになった。

(3)みんなの意見を踏まえて、1つの合意を得る

  ①人間は夢中になっているときほど、行動の大胆さに無自覚である。

  ②無様な姿だが、みっともなくても生きる道を、渋沢は選んだのだった。

  ③故郷を追われるように出立した渋沢と喜作。
   江戸に数日滞在したのち、京へと向かった。

   攘夷計画は断念したものの、「身を立てて、国家の役に立ちたい」
   という渋沢の志は変わらない。

   天皇のおひざ元である京ならば、諸藩の大名も集まってくる。
   志のある同志との出会いもあるだろうと、渋沢は考えた。

  ④京都行きにあたって、渋沢が頼った人物がいた。
   一橋家の家臣、平岡円四郎である。

   京都で再び平岡を訪ねると、渋沢は喜作とともに
   一橋家に仕官する道を選ぶことになった。

(4)最もチャンスの多い場に身を置く

  ①すべてを失ってしまったときというのは、
   裏を返せば、最も身軽なときでもある。

   このときの渋沢は追われる身であり、慎重を期す必要はあったものの、
   何の責務も背負っていないという意味では、自由である。

  ②誰にも期待されていない状況は、
   誰の期待にも応えられる状況ともいえよう。
 
   そんなときに、最もチャンスの多い場に自分の身を置く。
   そこに渋沢の卓越したセンスを感じる。

  ③幕府へのクーデターの挫折から、一転して、一橋家の家来となった渋沢。
   そこでは、さらなるキーパーソンとの出会いが待っていた。

   江戸幕府、最後の将軍、徳川慶喜である。

   (https://toyokeizai.net/articles/-/406006

          <感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>

徳川慶喜が重用、渋沢栄一「怒濤の提案」 - 伝統

2021/02/22 (Mon) 15:33:41

徳川慶喜が重用、渋沢栄一「怒濤の提案」の中身
人材獲得から財政再建にも及んだ卓越した手腕

        *Web:東洋経済ONLINE(2021/01/31)より抜粋

(1)相手が耳を傾けやすい状況を作る

  ①反対意見を、渋沢は「なるほどそのとおりに違いない」と
   いったんは受け止める。

   そうして相手が耳を傾けやすい状況を作ってから、
   焦らずに渋沢は言葉を紡ぐ。

  ②どんなときでも、決して卑屈にはならないのが渋沢である。

(2)慶喜に会うよりも走ることが不安だった渋沢

  ①慶喜公への拝謁を条件にして、
   日中に馬に乗って遠出するときに、駆けながら慶喜と話すことを許された。

  ②一橋家に任官した渋沢は、出入り口の番人や渉外の事務などの任務をこなす。
   そして平岡からの要望を受けて、一橋家の人材採用にまで携わることになる。

(3)資本を造るより、まずは信用の厚い人になる

  ①一橋家において、渋沢は「信用の厚い人」となった。
   与えられた任務を遂行しただけではない。

   提案力が豊かな渋沢は、与えられるポジションが高まるほど、
   一橋家の問題点を見抜き、対策を講じている。

  ②渋沢は一橋家には軍備が不足しているのを課題とした。
   そこで渋沢は、領地から農民を集めて歩兵隊を編成することを提案。

  ③領民へ、渋沢自身も呼びかけに乗り出して、任務の重要性と募集の意図を
   領民たちに、丁寧に説明。450人以上の志願兵を集めることに成功した。

  ④自分に任してほしい仕事があれば、すでに任された気持ちになって、先に提案する――。
   渋沢はいつもそういう仕事の仕方をしてきた。

  ⑤渋沢は「米の売り方の改善」「備中での硝石製造場の設立」
   「播州の木綿を売り出す仕組みの考案」と、3つの具体的なプランを提示。

   皆から賛同を得ると、渋沢は財政や会計を担当する「勘定組頭」という
   役目を任されることになった。

   渋沢は怒濤の勢いで提案することよって、最適なポジションを手にしたのである。

(4)真骨頂を発揮した播州木綿の販売ルート開拓

  ①改革はスピードが命である。渋沢はすぐさま、米の売り方を変更。
   商人に販売を任せるのではなく、酒造業者に酒米として販売したところ、
   相場より高く買ってもらえることになった。

  ②備中では火薬の原料となる硝石が多く採れる。軍制の洋式化に伴い、
   確実に高まる硝石のニーズに応えるため、硝石製造場を開設。

  ③播州で多く産出される白木綿を名物として、大阪の販売ルートを新規に開拓した。
   さらに、一橋家で「藩札」を発行して販売に活用。
   木綿の売買がしやすくなるシステムを構築して、評判を呼んでいる。

(5)慶喜の推薦でパリの万国博覧会へ

  ①慶喜が第15代将軍に就任することが決まると、
   渋沢は一橋家ではなく、江戸幕府に仕えることになった。

   一見、出世の道が広がったようにも思えるが、
   幕臣の末端になったところで、何ができようか。
   ましてや幕府はすでに死に体である。

   少なくとも渋沢はそう予見していた。

  ②ここを去るより仕方がない――。そう思い詰めたときである。

   渋沢は、慶喜の側近、原市之進から呼び出される。
   そして「パリで行われる万国博覧会に随行しないか」と誘われたのである。

  ③渋沢を推薦したのはほかならぬ徳川慶喜で
   こんなふうに伝えていたという。

   「栄一こそこの任務にふさわしく、未来に多くの希望を託せるであろう」

  ④期待したとおりにはいかないのが人生だが、
   そこから新たな道が開けることがあるのもまた人生である。

   渋沢はその場でフランス行きを快諾。
   さらなる新しいステージ、パリへと旅立つこととなった。

   (https://toyokeizai.net/articles/-/408525

          <感謝合掌 令和3年2月22日 頓首再拝>

幕府崩壊を予見した渋沢栄一がとった仰天行動 - 伝統

2021/02/23 (Tue) 14:41:05


        *Web:東洋経済ONLINE(2021/02/07)より抜粋

(1)「徳川の政府はもう長いことはない」

  ①攘夷の思いを捨てて、徳川幕府に身を寄せたが、
   その幕府が滅びようとしている――。

   一橋家で実力が買われようと、予想外のパリ随行が命じられようと、
   渋沢は大局観を失うことはなかった。

  ②パリに到着したならば、すぐに髷(まげ)を切ってしまい、洋装に変えた。

  ③渋沢は「郷に入っては郷に従え」の精神でパリを満喫。
   博覧会の式典が終わると、徳川昭武とともに
   ヨーロッパ各国をめぐることになった。

(2)パリの地でも発揮された渋沢の調整能力

  ①フランス滞在中に「外国奉行支配調役」という役職についた渋沢。
   パリ万博とヨーロッパ各国の訪問が終われば、
   昭武や渋沢など10人がそのままパリに留学することになった。

  ②パリでの留学生活は、渋沢にとって、
   まさにカルチャーショックの連続だった。

  ③初めて汽車に乗った。
   欧米と日本との間では、文明の差を痛感。

  ④渋沢はパリで初めて「新聞」の存在を知ったほか、
   オペラ鑑賞も初体験している。

   さらに、渋沢の関心は、電灯や下水管といったインフラにまで及んだ。

(3)病院のあり方に大きな感銘を受けた

  ①のちの実業家としての活動に生かされたのが、病院の見学である。
   渋沢は、病室に立ち並ぶベッドの清潔さや、充実した併設設備に
   舌を巻いた。

  ②帰国後、渋沢は東京市養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の
   初代院長を務め、日本赤十字社、東京慈恵会など
   数多くの病院などの設立にも携わっている。

  ③西欧では、日本のように商売が下に見られることも、
   官僚が偉そうにふるまうこともない。

   そんな土壌の違いによって、文明の差がつき、
   経済力で水をあけられることになった。

   渋沢は、そのことを思い知らされたのだ。

(4)大政奉還に動じなかった渋沢

  ①ある日、衝撃的なニュースが、パリにいる渋沢たちにもたらされた。

   「日本の将軍が政権を返上した――」

   慶喜の大政奉還である。

  ②本国から正式に大政奉還についての連絡が届いたのは、
   慶応4(1868)年1月のこと。
   幕府も、パリに知らせるどころではなかったのだろう。

   慶応3(1867)年10月に新聞で報じられてから、
   約3カ月の月日が流れていた。

(5)西欧の金融制度を学ぶ

  ①幕府の瓦解をあらかじめ予見していた渋沢。
   フランスでまず行っていたのが、資産運用だというから、さすがである。
   幕府が窮地に陥った場合、フランスの滞在費が
   いつまで送金されるかわからない、と踏んでいたのだ。

  ②渋沢は、フランス人のアドバイザーをつけて、西欧の金融制度を学んだ。
   現地では倹約に励み、2万両ばかりの余剰金を用意。

   鳥羽伏見で幕府が敗れる1カ月前の2月には、
   フランスの公債証書と鉄道債権を買っている。

  ③遠くを見渡しながら、手元の問題を合理的に解決していく。
   そんな渋沢は、この経験からも大きな気づきを得ている。

  ④金・銀・小判と銭のみが流通する日本とは大きく異なる、西欧の紙幣制度。
   そして、その紙幣を集めて大規模な営利事業を営む「銀行」にこそ、
   国家繁栄のヒントがある――。

   そんな発見もまた、渋沢の人生を大きく変えることになった。

(6)時代が丸ごと変わって途方に暮れた

  ①「ともかくも帰国して、幕府の衰亡のありさまをも目撃し、
    かつ自分の方向性をも定めよう」

   そう決意した渋沢は9月にパリを出港。
   12月にようやく帰国を果たしている。

  ②仕えていた幕府はすでに崩壊した。
   先行きが見えないことには慣れているが、
   時代が丸ごと変わったのは初めてのことである。

   帰国したのはいいが、渋沢は途方に暮れるのみだった。

  ③そんなとき、渋沢を歴史の表舞台に引っ張り出す人物が現れた。
   総理大臣を2度も務めて、「円」を創始することになる、大隈重信である。

   (https://toyokeizai.net/articles/-/409742

          <感謝合掌 令和3年2月23日 頓首再拝>

渋沢栄一を官僚に導いた大隈重信「驚愕の一言」 - 伝統

2021/02/24 (Wed) 14:28:21


        *Web:東洋経済ONLINE(2021/02/14)より抜粋

(1)静岡で生涯を送ろうと考えていた

  ①帰国後、父に会って、こんなことを言った。
   「今さら函館に行って脱走兵に加わる気もありません。
    また、新政府に媚びを呈して仕官するつもりもありません。
    これから前将軍の隠棲しておられる静岡へいって、
    生涯を送ろうと思います」

  ②骨をうずめるつもりで駿河にわたった渋沢は、宝台院で慶喜と再会する。
   粗末な古寺の汚い部屋に通されると、そこには、やつれた慶喜の姿があった。
   思わず、「何と申し上げてよろしいか……」と渋沢は言葉を詰まらせる。

  ③その後、渋沢は静岡藩から勘定組頭に任命されるが、これを辞退している。
   藩の負担にならないように、自活の道を切り開こうと考えた。

  ④渋沢は、明治2(1869)年に「商法会所」を設立。
   ほかの地域から米を買い付けて、茶や漆器などの藩内の物産を販売した。
   一方で、商品を担保に資金を貸し付けている。

   いわば商社と銀行の両方を兼ねる業務を行ったといえるだろう。

   ニーズを的確に読んだ渋沢は、
   商法会所の開設によって収益を上げることに成功。

   藩の役職者としてではなく民間人として、
   静岡の産業振興に貢献することができた。

  ⑤商法会所を設立するにあたり、渋沢は官民合同の出資を募った。

   渋沢はパリで学んだ合本主義をさっそく、静岡藩で活かしたのである。
   地方の資本を合同させて商会を結成し、物の売買と金銭の貸し借りを行う――。

   そんな合本主義による1つの地方の商業モデルを、
   渋沢は静岡藩から広めようと考えた。

(2)渋沢を中央に引っ張り出した大隈重信

  ①またも運命が動き出し、渋沢は中央に引っ張り出されることになる。
   ある日、東京の太政官に呼び出され、行ってみれば「大蔵省租税司正」
   という思わぬ役職を命じられた。

   まるで税金のことを知らない渋沢は、すっかり面食らってしまう。

  ②当初は断るつもりだった。
   なにしろ静岡藩での新しい試みはまだ始まったばかりだ。
   また、これまで何かと目をかけてくれた慶喜への恩もある。

   そしてなによりも、渋沢は税について知識がなく、
   期待に応えられそうにないと考えた。

  ③大隈の自宅まで出向いた渋沢が、理由とともに辞退の旨を伝えると、
   大隈はこんなことを言った。

   「今のところは広く民間に賢才を求めて、
    これを登用するのが何よりの急務である」と説明する。

   今は、まさに新しい時代を創ろうとしているとき。
   渋沢が税に詳しくないとしても、そんなことはみな一緒であると、
   大隈は渋沢を説得し始めた。

  ④意見が食い違ったときに、
   相手を説得するのはむしろ渋沢の得意分野である。

   だが、相手が明らかに自分よりも視野が広い場合、
   渋沢はその意見を素直に受け入れるところがあった。

   今、目の前にいる大隈もまた、
   自分よりもはるかに広い視野の持ち主のようだ。

(3)一枚も二枚も上手だった大隈

  ①相手の言い分を受けながらも、相手よりも遠くを見据えた意見をいう。
   そんな大隈に、渋沢も自分の考えを変え始める。

  ②「そうならば自分にも愚説がある。それを採用するようにしてほしい」

   活躍の場を国家へと移した渋沢。
   大隈に説得されると、そんな条件を出して、大蔵省への入省を決めたが、
   その雰囲気に早くも驚かされる。

   大蔵省内には「幕府を倒したぞ」と自慢する腕自慢の荒くれ者が勢ぞろい。
   煙草を吸ってお茶を飲みながら、ただ議論したり、かつての手柄を
   誇ったりするばかりで、これでは改革どころではない。

  ③渋沢は大隈に「大蔵省のなかに改革のための新局を設けてほしい」と提案。
   大隈も大いに同意して「改正掛」が新設された。

   渋沢は掛長となり、静岡藩士から優秀な人材をスカウトし始める。
   かつて一橋家でも注力した人材登用に、まずは手をつけたのだ。

(4)前島密や赤松則良らを登用

  ①渋沢はこのとき、のちに「日本郵便制度の父」と呼ばれる前島密や、
   「日本造船の父」と呼ばれる赤松則良らを改正掛に登用している。

  ②渋沢は意欲満々に、3日も4日も徹夜しながら、全国測量を企画し、
   租税の改正を推進した。

   明治4(1871)年からは、大蔵卿には大久保利通、大輔には井上馨が就任。
   渋沢は大蔵大丞という役職が与えられ、さらに辣腕を振るうことになった。

  ③だが、改革には軋轢がつきものだ。
   愉快とばかりいっていられない事態がときに巻き起こる。

   現在では、簿記で帳簿をつけるのは当然のことだが、
   それを定着させるまでには、並々ならぬ苦労があったのである。

(5)BANKを「銀行」と訳すことを決めた渋沢

  ①明治4年に廃藩置県が断行されると、大蔵省で抱える仕事がさらに増加。
   渋沢は多忙を極める。

  ②歳入がまったく追いつかず、財政問題はいよいよ深刻になりつつあった。
   財政に関心がない大久保に権限が集中していることへの不信感も高まり、
   渋沢は今一度、自分の役割を振り返った。

  ③「今の形で大蔵省の会計を携えていくことは、自分には目的が欠けている」

   渋沢が頭にずっと描いていたことをいよいよ実現するタイミングがやってきた。
   それは、産業の発展である。

   井上とともに大蔵省を辞した渋沢。

  ④海外で「bank」と呼ばれていた金融機関をどう日本語に訳するか
   苦心して、ついに決めた。

   銀行――。これこそが、紆余曲折を経た渋沢が実業家として飛躍する、
   最初の舞台となった。

   (https://toyokeizai.net/articles/-/411073 )

          <感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>

「日本初の銀行設立」渋沢栄一の真意が凄すぎた - 伝統

2021/02/25 (Thu) 13:31:35


        *Web:東洋経済ONLINE(2021/02/21)より抜粋

(1)並々ならぬ金融事業への意欲

  ①大蔵省を去る道を選んだ渋沢栄一。
   渋沢自身もさまざまな事業に関心があったが、
   中でも金融事業への意欲は並々ならぬものがあった。

   渋沢は大蔵省時代に国立銀行条例の制定に携わっており、
   退官したのは、条例が公布されて間もない時期だった。

  ②辞職後すぐに、銀行設立を考えていた三井の大番頭、三野村利左衛門や
   小野組の小野善右衛門らから声をかけられている。

   渋沢としても拒む理由はなかったが、大蔵省で世話になった
   井上馨と大隈重信に、自分の進路としてふさわしいかどうかを
   相談している。

   大隈と井上は、渋沢が銀行設立にかかわることに
   賛成や奨励をした。

(2)『論語』に意味を見いだせたのは実業家になってから

  ①渋沢は幼い頃から『論語』に親しんできた。
   だが、その教訓を生かす意味を初めて見いだせたのは、
   実業家として生きることを決めてからだったと、
   のちに振り返っている。

  ②商業上の道徳を重んじた渋沢は、再三にわたって
   「嘘をつくこと」と「自己利益を第一にすること」を戒めた。

   その考えは「論語とそろばん」という言葉で表されることとなる。

  ③渋沢は、論語主義による「道徳経済合一説」を唱え、
   自らの事業を通して社会を1つにすることを目指したのだ。

(3)日本初の銀行設立

  ①銀行の経営に携わることになった渋沢だが、話を持ちかけてきた
   三井と小野がけん制し合っていることを知る。

   これまで何度となく調節役をやってきた渋沢は、
   大蔵省に相談したうえで、頭取に三井八郎右衛門と小野善助の
   2人を置き、自らは監査役に就任。

   渋沢が、双方をまとめながら、明治6(1873)年、
   日本初の銀行となる第一国立銀行(みずほ銀行の前身の1つ)を
   発足させた。
  
  ②当時は、銀行が何をするところかも知られておらず、
   そもそも「株式会社」に対する理解すらなかった。

   株主募集の広告文を書くにあたって、渋沢はまず銀行の役割について、
   できるだけ平易な表現で説明することにした。

   「そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つことは限りない。
    しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝にたまっている水や、
    ぽたぽた垂れているシズクと変わりがない」

(4)根強い「官尊民卑」がかつての失敗の原因

  ①渋沢が第一国立銀行を発足する前にも、銀行のような事業はあった。
   徳川時代から続く両替商が中心となった為替会社である。

  ②だが、商人が金融制度をよく理解していなかったうえ、
   政府が介入しすぎて失敗。
   その背景には、根強い「官尊民卑」の風潮があったと渋沢は分析した。

  ③まずは意識改革の必要があると考えた渋沢は、銀行を川に例え、さらに
   「資金は蔵の中や人々の懐の中に潜んでいるが、
    それを集めることで多額な資金になる」とし、
   銀行が機能すれば国家が繁栄すると強調した。

  ④渋沢は銀行の社会的地位を高めながら、同時に、
   銀行の果たすべき義務として、公開性と透明性にこだわったのである。

  ⑤渋沢が第一国立銀行を設立したことをきっかけに、
   合本組織の銀行が全国に次々と誕生。
   国立銀行や私立銀行が設立されることで、地方の経済も活性化した。

(5)証券取引に大蔵省内で強い反対

  ①欧米を視察して株式交換所の存在を知った渋沢は、
   証券類の取引を手がけることが、
   国の発展につながるという確信を得ていた。

  ②それに対し、批判の急先鋒となったのが、のちに初代大審院長を務める
   大蔵省の玉乃世履(たまの・よふみ)である。

  ③膠着状態で1年くらいの月日が経つと、
   当時、兜町にあった渋沢の自宅に玉乃が訪ねてきた。
   玉乃は「悪かった」と渋沢に謝罪し、こんなことを話した。

   「株式取引所での売買は博打であるといって、あなたと議論していたが、
    この間教えられて自分が誤っていたことを悟った」

  ④その後、玉乃と渋沢は、協力して株式取引所の設立に動いた。
   そうして明治11(1878)年、兜町に東京株式取引所が開かれることに
   なったのである。

(6)岩崎弥太郎と大ゲンカして決裂

  ①そんなある日、兜町の自宅に、またもや意外な客が訪れた。
   三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎である。

  ②渋沢は多人数の共同出資によって事業を経営していく
   合本主義をとったが、岩崎はまるで逆の独占主義をとった。

   そのため、二人の間には距離があった。

  ③そんな正反対の2人にもかかわらず、岩崎が渋沢の家に
   あいさつに訪れたのは、渋沢が実業家に転身したと知り、
   関係を築いておこうと考えたからである。

  ④それ以来、2人は交友を持ったものの、考えがあまりに違いすぎた。
   ある夜、岩崎から料亭に呼び出された渋沢。

   そこで、二人は大ゲンカをし、完全に決裂することになるのだった。

   (https://toyokeizai.net/articles/-/412465

          <感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝>

大丈夫の試金石 - 伝統

2021/02/26 (Fri) 15:09:31


     *メルマガ「人間力」(2021.2.22)より

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2月にスタートした今年のNHKの大河ドラマにも取り上げられ、
いま再び大きな注目を集めている渋沢栄一。

コロナ禍で社会の分断が進むいま、
渋沢栄一の精神と生涯から学ぶべきものとは――。

渋沢栄一の玄孫・渋澤健氏と、
東洋思想研究家・田口佳史氏の対談から、
『論語と算盤』の言葉にみられる渋沢の思想を紐解きます。

───────────────────

〈渋澤〉 

コロナ禍のいまだからこそ紹介したいと思う渋沢栄一の教えは、
『論語と算盤』にある「大丈夫の試金石」です。

これは逆境に直面した時に
どういう心構えでいるべきかという内容ですけど、

「自然的逆境」と「人為的逆境」を区別して
対応策を講じる必要があると書かれています。

台風や地震などの自然的逆境の場合には、
「足るを知る」「分を守る」ということで、
やるべきことはきちんとやって、後のことは天命に任せましょうと。

一方、人間関係のもつれなどによる人為的逆境の場合にはどうすべきか。

「自分からこうしたい、ああしたいと奮励さえすれば、
 大概はその意のごとくになるものである」

私はこれを「自分は何を成し遂げたいのかという
ベクトルを常に立てておくことが大事だ」と解釈しています。


〈田口〉 

なるほど。


〈渋澤〉 

我われは逆境に直面するとほとんどの場合、
「何ができるか、できないか」という軸で考えていると思うんです。

だけど、ここで渋沢栄一が言っているのは
「何をやりたいか、やりたくないか」ですよね。

この二つの軸を掛け合わせてみると、
まず「できることでやりたいこと」というのはベストですし、
「できないことでやりたくないこと」っていうのは
捨ててしまってよいのかもしれません。

「できるのにやりたくないこと」、
これは例えば、仕事ができるのにやる気のない社員(笑)。

こういう人は改善しなきゃいけないんですけど、
多くの人が陥りがちで一番問題なのは、
「やりたいけどできないこと」です。

できない理由は時間がないから、お金がないから、
経験がないから、いろいろあると思います。

しかし、渋沢栄一はできないからといって
そこで諦めてしまうのではなく、
常に未来志向を抱いて幸福なる運命を招くべきだと説いているんです。

          <感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝>

渋沢栄一が「自分の未来に悩む30代」に贈る言葉 - 伝統

2021/02/27 (Sat) 14:58:22


        *Web:東洋経済ONLINE(2020/06/02)より抜粋

渋沢栄一が「自分の未来に悩む30代」に贈る言葉
折れそうな心を支え続ける「大丈夫の試金石」

(1)安定した生活が生涯続くかは誰にもわからない

  ①なかなか変えられない過去の慣行、上意下達で行われる命令系統、
   ややこしい人間関係、頭が固く自己保身に一所懸命な上司、
   無駄な同調圧力……。

   これらに絡めとられ、徐々に組織の論理に巻き込まれてしまいます。

  ②もちろん、いまの会社が嫌なら辞めて新天地を探せばいいのでしょうが、
   転職には勇気が必要です。

   もし、いまの職場は夢がないけれども生活が安定していれば、
   ますます転職する勇気は萎えてしまうでしょう。

  ③しかし、会社は大企業でも、いつリストラされるかわかりません。
   M&Aによって人員が削減されるケースもあります。

  ④つまり、一生涯、安定した生活が保障されるかどうかなんてことは、
   今の時点では誰にもわかりません。

   しかも、新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、大小問わず、
   どんな会社でも先行きは不透明になっています。

(2)渋沢栄一、3つの挫折

  ①もともとは尊王攘夷派の志士だったのに、
   若気の至りのクーデターに失敗して徳川慶喜に仕えることになった。

  ②第二のキャリアがスタートしたと思ったら、
   大政奉還でそこから先のキャリアが望めなくなった。

  ③明治政府で第三のキャリアがスタートして大蔵省のナンバー2まで
   上り詰めたものの、トップとぶつかって辞職することになった。

(3)「無欲は怠慢の基である」

  ①渋沢栄一が度重なる挫折にもかかわらず、
   生涯をかけて500社もの会社を立ち上げ、
   日本の経済力を高めることに貢献できたのは、
   未来を信じることができたのもありますが、
   それとともに自分の夢をあきらめなかったからだと思うのです。

  ②目的には、理想が伴わねばならない。
   その理想を実現するのが、人の務めである。

               ~『渋沢栄一訓言集』~

  ③無欲は怠慢の基である
               ~『渋沢栄一訓言集』~

   夢はある意味、欲につながる面があります。
   渋沢栄一が求めている欲は、
   世の中をもっと良いものにしたいという、
   より良い社会の実現に対する欲求です。

(4)幸運を招くのも自分、逆境を招くのも自分

  ①渋沢栄一は『論語と算盤』の「大丈夫の試金石」で、
   逆境のなかでどうすべきかという考えを示しています。

   「自分からこうしたい、ああしたいと奮励さえすれば、
    大概はその意のごとくになるものである。

    しかるに多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとはせず、
    かえって手前の方からほとんど故意にねじけた人となって
    逆境を招くようなことをしてしまう。」

  ②未来を信じて、自分自身が何をしたいのかという
   「やりたいベクトル」を立ててさえおけば、
   幸福を招き入れることができます。

   不安をはねのけるには、渋沢栄一のポジティブな性格に
   ならって、とにかく「こうしたい・ああしたい」ことを
   強く念じて、自分の信じる道を突き進むことが一番です。

  ③渋沢栄一が生きた幕末から明治期の時代背景は、
   実は非常に混沌としており、先が見えない時代だった
   のではないでしょうか。

  ④それでも渋沢栄一は、未来を信じる力を失いませんでした。

   日本という国を豊かにしたい、欧米列強に伍して
   いけるように競争力を高めたいという一念が、
   いくつもの「日本初」を含め、500社ほどの会社を設立する
   原動力になったのです。

(5)ミレニアル世代が停滞ムードを吹き飛ばす

  ①日本は、バブル経済の崩壊によって「失われた20年」とも
   言われる長期の低迷を経験し、その間に人口減少社会に
   転じました。

   しかも、新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、
   日本だけでなく、世界中の経済が先行き不透明になっています。

  ②いま、渋沢栄一が活躍した時代と同じように先が読めない、
   難しい時代に入っていますが、大変革の時代には、
   若い人が活躍するチャンスが訪れます。

   現状を嘆いて立ち止まってしまうのはもったいない。
   渋沢栄一のように未来を信じる気持ちを強く持てば、
   あなたの夢を実現するための道が開け、
   きっといまの停滞ムードを吹き飛ばせるはずです。


   (https://toyokeizai.net/articles/-/352023 )

          <感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>

渋沢栄一の「真の功績」を多くの人は見誤っている - 伝統

2021/02/28 (Sun) 14:02:45


          *Web:DAIMONDonline(2021.02.18)より抜粋

(1)渋沢の思考回路の前提に国家と社会をよくしたいという意思があり、
   その実現のためには官と軍に頼るのではなく商工業をさかんに
   しなければならないと考えた。

   商工業を強くするためには、資本(お金)と
   起業家人材(実学に精励する人)が必要だ。

   そこで金融の事業と人材育成に尽力することが不可欠であるとして、
   それを実践したのである。

   このとき、金融市場と商品市場が健全に機能するためには、
   多数の市場参加者による良い競争が必要であり、その際には
   経営者に倫理的、道徳的な視点が強く求められることになる。

   そのような渋沢の思考と行動の基盤になったのが論語である。

(2)渋沢は大創業経営者ではなく 国家官僚的な思想を持った人

  ①渋沢は生家で商売を覚え、同時に、「家庭教師」について、
   論語を素読するなど、下級武士などはとても受けられないような
   高い教育も受けている。

  ②その後、尊王攘夷運動に目覚め志士となり、
   水戸出身の一橋慶喜(後の15代将軍 徳川慶喜)に仕え、
   パリに赴き万国博覧会に参加し、
   そこで資本主義や民主主義を目の当たりにする。

  ③明治政府では、大蔵省で重要な役割を果たしていたが、
   民間の商工業が強くなくては国家や社会はよくならない
   という決意のもとに、自らが設立に貢献した第一国立銀行に
   重役職で入り、資本主義の勃興期に主に資金の面から
   企業をサポートしたのである。

  ③渋沢は個々の企業の育成にも尽力したが、その本来の目的は、
   健全な商品市場を形成し、資本市場を育成することであった。

   そのため、事業の独占を嫌い倫理的な経営と
   正しい競争(プラスサム)を善しとした。

   それは、ミクロの経営者視点の思想からではなく、
   市場の育成、ならびに、市場そのものの機能が重要と考える
   マクロの国家官僚的な発想なのである。

  ④渋沢は吝嗇(けちなこと)でお金を使わない人に対して
   守銭奴になってはならぬと戒めている。

   金が天下に回らなければ、生産も盛んにならず、
   価値は増殖せず、人々は豊かになれないのである。

(3)経営者を法規制で縛らずに 「道徳心」を求めた渋沢

  ①渋沢が活躍した明治時代は、江戸時代の家族経営の商売から、
   殖産興業の時代となり、設備投資が必要とされる工業が勃興して
   大規模な会社が次々生み出された時代であった。

   この領域に起業家が多数参入し、社会は発展したが、
   それにともなった道徳が発展していないと考えていたのである。

  ②官界や軍と癒着し、甘い汁を吸う不逞の輩や、市場の独占による
   市場メカニズムの衰退などが起こりつつあった。

   健全な市場を育成し、産業を興し、人と社会を富ませる
   目的を持っていた渋沢にとっては、こうした不心得を戒め、
   まっとうな商売人になるよう導くことがとても重要だったのである。

  ③渋沢は、ヨーロッパのように、自由を保障する代わりに、
   冷徹な法を敷いて、違反したら罰するという方法は
   日本には合わないと考えたのだろう。

   法と懲戒の代わりに渋沢が経営者に求めたのが、道徳であり、
   論語でいう「王道」(帝王が仁徳で統治すること)の経営だった
   のである。

(4)渋沢の真価が垣間見える 人々を真に生かすという構想

  ①渋沢は、人は平等であると信じ、誰でも実学を学べる場を作った。
   そればかりでなく、当時は相対的に地位の低かった女性のために
   実学を学ぶ場を作った。

   その先進的な視点と実行力には敬服せざるを得ない。

  ②渋沢なかりせば、日本の資本主義社会は間違いなく
   もっと貧しくひどいものになっていただろう。

   明治のような混乱期に、急ごしらえで近代化を進めれば、
   少数の財閥の寡占状態になっても決して不思議ではない。

  ③渋沢が高い志をもって、資本主義のための国家の道筋、
   プラットフォームを整える役を担ってくれたことは、
   日本の資本主義にとって非常に幸いなことだったのだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/e43d1bfface38c3f1d989ad7252bbf56e1f64f19

          <感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>

油絵で学ぶ渋沢栄一の生涯 - 伝統

2021/03/02 (Tue) 23:00:15

油絵で学ぶ渋沢栄一の生涯

https://news.yahoo.co.jp/articles/1d91a341dec168530dacd501cce2a861e28df64b

          <感謝合掌 令和3年3月2日 頓首再拝>

”資本主義の父”渋沢栄一が「生みの苦しみ」を味わった意外な有名企業 - 伝統

2021/03/03 (Wed) 13:57:10


      *Web:NEWSポストセブン(2021.02.28)より抜粋

(1)“資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一は、
   現みずほ銀行やJRグループなど500社以上にも及ぶ企業の
   設立・運営に関わり、今もその6割が企業活動を続けている。

   だが、決して順風満帆の船出とはいかない企業も多かったという。

(2)言うまでもなく、どんな会社も立ち上げには、幾多の困難を伴う。
   なにしろ「株式会社」がまだ浸透していない時代である。

   今でこそ、1万人、2万人といった社員を抱える、
   名だたる大企業も、生まれしときは難産であった。

(3)理解されなかった「海上保険」の事業

  ①華族たちからしても、よくわからない事業に出資するわけにはいかないから、
   どうしても慎重になる。

   それでも必ず成功する自信があった渋沢は、
   「多くの人が保険に入りたい」と思ってもらえれば
   成り立つ事業であることを、説明を重ねていった。

  ②丁寧な説明を重ねながら、最もリスクの少ないプランを渋沢は提示。
   納得した華族たちからの出資を得ることに成功した。

   1879(明治12)年に資本金60万円をもって東京海上保険社を設立。

  ③第一次世界大戦が起きると、
   海上保険に対する需要はさらに高まることになった。

   1918(大正7)年には、東京海上火災保険と社名を変更して、
   現在に至っている。

(4)学問の発達も支えると考えた製紙事業

  ①明治の世を見渡すと、紙幣、新聞、雑誌と紙のニーズが必ず高まる
   と渋沢は予見。

   また、製紙業の設立が、学問の発展には欠かせないとまで考えた。

  ②渋沢は明治5(1872)年に官営で製紙事業を行うべく、設立願書を提出。
   翌年の明治6(1873)年に、抄紙会社を設立した。
   これが、現在の王子製紙株式会社と日本製紙株式会社のルーツとなる。

   工場の場所を決めるにあたっては、渋沢自ら各地を調査。
   その結果、工場用水にきれいで良質な千川上水が利用できることから、
   王子に決定した。

  ③渋沢の苦悩は続く。
   良質な紙が出てくるようになるまでは、1875(明治8)年の初めまで
   待たなければならなかったという。

(5)今、未曾有のコロナ禍のなか、現状を打破すべく
   多くの起業家たちが奮闘しているに違いない。
   そのなかには、何年か先には大事業に成長するものもあるはずだ。

   壁にぶちあたっても、仲間と知恵を絞りながら、乗り越えていってほしい。

   大切なのは理想を持ち、それを実現させることである。

   渋沢の名言で本稿を締めたい。

   「およそ目的には、理想が伴わねばならない。
    その理想を実現するのが、人の務めである」

https://news.yahoo.co.jp/articles/24170e253280735bea00febfd394b5a2383bd306

          <感謝合掌 令和3年3月3日 頓首再拝>

渋沢栄一の食と健康トリビア - 伝統

2021/03/04 (Thu) 12:58:24

91歳まで生きて子供は数十人? 渋沢栄一の食と健康トリビア

         *Web:女性自身(2021.02.28)より抜粋

(1)【トリビア1】朝食は大好物のオートミール!

(2)【トリビア2】もしかしてスイーツ男子だった!?

(3)【トリビア3】80代から始めた健康維持法とは?

   坂本屈伸道(→ https://ameblo.jp/shintaibunka/entry-12617083394.html )

(4)【トリビア4】帰郷すると食べていたのは「煮ぼうとう」

   煮ぼうとう(→ http://www.fukaya-ta.com/niboto/ )

(5)【トリビア5】高齢でも学ぶ心を忘れない

(6)【トリビア6】コーヒーの魅力にいち早く気づいた

(7)【トリビア7】健康の秘訣はくよくよしない

   インタビューで健康法について聞かれると
   「事物に屈託せざるを予の保健法」と答えている。

   くよくよと物事にこだわらないこと、という意味。
   落ち込んでも気持ちを切り替えることが大事!

https://news.yahoo.co.jp/articles/e8404d15807b4ba9cd577c2cd43e3c9e4ed8c65f

          <感謝合掌 令和3年3月4日 頓首再拝>

渋沢栄一がいなければ今の日本はなかった - 伝統

2021/03/05 (Fri) 16:13:57

渋沢栄一がいなければ今の日本はなかった…結局、何がスゴかったのか?

        *Web:現代ビジネス(2021.02.28)より抜粋

(1)血気盛んな青年、渋沢栄一は、漠然と、「いかに社会に貢献できるのか」
   という問いかけを内に秘めつつ、江戸に出て、さまざまな活動に参加する
   ことになるが、

   最終的に、ヨーロッパでの見聞が、
   その後の生涯の社会・経済活動の基盤を作ることになった。

(2)徳川昭武の随行でヨーロッパにあった渋沢は、
   大政奉還によって急遽帰国を余儀なくされた。
   徳川幕府の終焉により、謹慎を命じられた慶喜に従って
   静岡藩の行政官となった。

(3)明治政府は、優秀な人材を求めており、
   洋行の経験のある渋沢にも官吏への勧誘があった。

   新政府の重鎮である大隈重信が、
   自ら渋沢を説得して大蔵省への出仕を実現した。

   渋沢の大蔵省での一番の功績は、「国立銀行条例」の制定であった。

(4)渋沢栄一は、明治5年に大蔵省を退官して民間の実業家に転じ、
   自ら制度設計に参加した最初の国立銀行として「第一国立銀行」を設立した。

   第一国立銀行は各地に設立された国立銀行を指導する位置にあったが、
   地方の国立銀行は、国の殖産興業政策に従って、
   地方の産業化に資金を供給していった。

   この起業支援の金融システムを構築する中で、渋沢栄一は、
   さまざまな分野の企業の設立にかかわった。

   ただ、基本的には、基礎的な建設資材の製造や流通のための企業が中心で、
   日本を産業国家として発展さるための社会基盤の整備に関するものであった。

(5)渋沢栄一は、東洋的な儒教や朱子学という道徳観を基盤とした
   経済活動を主張し、純粋経済活動というよりも、
   社会的なインフラ整備に活動の重点を置いた。

(6)渋沢栄一は、まず経済活動の仕組みの構築から着手した。
   明治11年には、現在の東京商工会議所の起源となる東京商法会議所を
   設立して、初代会頭に就任した。

   東京のほかに大阪と神戸に商法会議所が設けられ、
   その後、各地の大都市に広がっていった。

(7)渋沢は、さまざまな公益事業の起業にかかわったが、
   鉄道では、国内各地のほか朝鮮半島での鉄道整備を推進した。

   鉄道は、明治政府が近代的で中央集権的な政府を確立するうえで、
   枢要な社会的なシステムである。

   渋沢栄一は、日本鉄道をはじめ民営の幹線鉄道の設立にかかわり、
   民間による鉄道建設の推進側にいたが、次第に鉄道国有論に傾いていった。

(8)渋沢は、大都市の鉄道・軌道の起業にもかかわった。

   東京の都市交通として、明治15年に新橋から銀座通りを通って、
   日本橋、浅草を結んで東京馬車鉄道が開業した。

(9)現在の東急は、創業時の社名を目黒蒲田電鉄と称した。
   渋沢栄一が構想して事業に着手した田園都市会社が設立した鉄道会社
   であった。

(10)渋沢栄一は、明治40年には齢70に達したのを機に全ての事業活動から
   手を引き、ただ公益的な団体に関わるのみであった。

(11)渋沢は、大正4年10月日米委員会の委員数名と渡米、
   これが4度目の海外渡航であった。

   海外での見聞を深めるうちに、日本の産業が大きな発達を遂げるに
   つれて人口の都市集中が予想される。

   大正7年、渋沢栄一は田園都市協会(間もなく会社組織に変更)を設立した。

(12)渋沢栄一は昭和6年11月に91歳で死んだ。
   江戸時代から明治、大正、昭和初期と激動の時代に
   日本の社会インフラの整備に邁進した。

   その足跡が、東京の田園風景などで、現在もその息吹が感じられるのである。

   (https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80386

          <感謝合掌 令和3年3月5日 頓首再拝>

学問の師匠・尾高惇忠 - 伝統

2021/03/06 (Sat) 14:48:14

学問の師匠・尾高惇忠「素読・暗記などより、出来るだけ多くの本に接すること」 
渋沢栄一の心に深く棲みつく「尊王攘夷思想」

         *Web:夕刊フジ(2021.03.04)より

渋沢栄一の母(ゑい)は、埼玉・深谷の豪農・渋沢一族のうち、
男の子いない「中の家(なかんち)」で生まれ育ち、
「東の家(ひがしんち)」の市郎右衛門を婿に迎え、栄一らを授かった。

 
今もその場所にある「中の家」の母屋は、
明治28(1895)年に栄一の妹夫婦によって上棟されたものだ。

門は格式の高い薬医門で、正門の扉は欅(けやき)の一枚板で作られている。
門内に入ると、母屋の屋根には「煙出し」と呼ばれる天窓が目に入る。
典型的な養蚕農家屋敷である。

 
栄一は「中の家」で、父の暮らし方をすぐそばで見て育ったから、
蚕や藍葉の良しあしをきちんと鑑定できる眼を養ったし、
父の傍にいて、商売の面白さにも目覚めた。

 
栄一の父、市郎右衛門の姉「やへ」は血洗島(ちあらいじま)の
近所の下手計(しもてばか)の尾高家に嫁ぎ、惇忠(じゅんちゅう)や、
千代らを産んだ。

惇忠は、さまざまな書物に精通した、
深谷きっての大インテリで、栄一の学問の師匠だったし、
その妹、千代はのちに栄一の妻になった。

要するに、渋沢家と尾高家は、家も近く、非常に濃い親戚関係だった。

インテリ惇忠は武術も能くし、人々に分け隔てなく丁寧に接した。
地元では、とりわけ、栄一のような子供にとって、
10歳年上のこの惇忠は、神様のような存在だった。

自分は尾高家の長男だから家を守らねばならぬと思った惇忠は、
家を出て、外に出ての活動は弟やいとこたちに任せ、
自分は自宅の2階を塾のようにして、
近郷近在の若者たちに漢籍などの学問を教えていた。

もちろん、栄一はその門下生。というより、栄一の父は進んで、
息子をその「2階」に通わせた。

でも、惇忠の思想はだんだんに先鋭化していく。
惇忠は早くから水戸学に傾倒し、
結果として激しい攘夷運動に突っ走っていくのだった。


さて、この尾高家の2階では攘夷の実行計画が練られつつあった。
高崎城を乗っ取って、近隣の同志たちを呼び集め、一気に横浜に行き、
外国人居留地を焼き打ちにするという計画だった。

これは京都に天下の情勢を探りに行っていた惇忠の実弟、長七郎が帰郷し、
その無謀さを必死に訴え、結局は惇忠の裁断で中止になった。

だが、「尊王攘夷思想」は栄一の心にその後も、深く棲みつくことになる。
自分も学問の有用性を説き、実践していた栄一の父は、
栄一の教育や読書方法について、しばしば惇忠に相談する。そ

の時の惇忠の答えが、栄一講演録にある。

「素読・暗記などより、出来るだけ多くの本に接すること。
 その意味を考察すること」

父と惇忠から勧められて手に取った「論語」は、後年、栄一の人生の規範になった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b8af264dc3ab9a7850f768d0d552416f36834351

          <感謝合掌 令和3年3月6日 頓首再拝>

渋沢栄一の原点 ~幕末・パリ・血洗島~ - 伝統

2021/03/07 (Sun) 13:45:07

渋沢栄一の原点 ~幕末・パリ・血洗島~

https://www.youtube.com/watch?v=ZfsEWAX5o74

          <感謝合掌 令和3年3月7日 頓首再拝>

渋沢栄一が「憤り」を感じた理不尽な厳命  - 伝統

2021/03/08 (Mon) 15:29:39

渋沢栄一が「憤り」を感じた理不尽な厳命 
地元・岡部藩代官がいきなり「金500両、申し付ける」

        *Web:夕刊フジ(2021.03.06)より

渋沢栄一は、専門の農業はもちろん、
経理にも明るい向学心の強い真面目な父と、
慈愛あふれる優しい母に育てられ、
経済的にも何の問題もない裕福な豪農の家に生まれた。

親戚には、当時の大インテリで、いろいろと教えを請うた
尊敬すべきいとこ、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)や、
いつも行動をともにし、いとこで大親友の渋沢喜作らと、
幸せで活発な少年時代を送っていた。


しかし、やがて世の中の仕組みに深い疑問を持つ
大きな体験をすることになる。

「疑問を持った」だけではなかった。
「そのこと」にこれまでにない激しい「憤り」を感じたのである。


栄一17歳の時であった。

彼は、地元・深谷の血洗島(ちあらいじま)を治めていた
岡部藩の代官から突然の呼び出しを受けた。

栄一はその日、病床にいた父の名代として代官屋敷に赴いたのだが、
その栄一に、代官はいきなり「金500両、申し付ける」と厳命した。

「自分たちは真面目に働いて、年貢もきちんと収めているではないか。
そのわれわれに、このうえさらに、巨額の出金を、
いきなり、無理やり、しかも説明もなしに命じるとは何事か!」

17歳の無垢(むく)な栄一の腹は、その理不尽さに燃えた。
しかし、栄一は「今日は父の名代として出席しているため、
即答はできかねる。帰宅して、父の指示を受けたうえで改めて出頭する」
ときちんと答えた。

これを聞いて代官は激高する。
でも、500両もの大金を一点の瑕疵(かし)もない
われわれにいきなり押し付けてきた揚げ句のこの態度は何だ、
と栄一の心は張り裂けんばかりである。

それに、借り手が貸し手に、居丈高になって
命令するのは一体、何の冗談!

結局、この件は父が500両を出して決着するのだが、
栄一には深いわだかまりが残った。

われわれが一生懸命に働いて得たお金を、
何にも働かない役人どもが、ただ、自分が代官である
ということを嵩(かさ)に威張り散らして取り上げることの理不尽さ。

こんなことが横行する世の中は変えねばならぬ、と深く思った。

栄一の著書『論語と算盤』には、その時、
「自分は断然、武士になる、と思った」とある。

幕藩体制も長く続くあのころになると、
武士という身分はお金で買うこともできた。
だから、彼の「この発想」は荒唐無稽なものではなかった。

そして、その怒りは、やがて、こういう思いをさせる、
現下の士農工商という身分制度に安住する幕府の政治がよくないのだと、
反幕府の立場に傾いていく。

その頃、日米修好通商条約をめぐって日本は、
天下の統治者である皇室を尊崇し、異民族を打ち払う
という尊王攘夷思想が高まりを見せていた。

その政治論に、最も影響を与えた水戸学に傾倒していたのが、
栄一の学問の師匠のいとこ、尾高惇忠であった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6eba6a486de52b939a6b9e3766430f9592e417b3

          <感謝合掌 令和3年3月8日 頓首再拝>

【漫画】渋沢栄一の生涯 - 伝統

2021/03/09 (Tue) 13:56:36


【漫画】渋沢栄一の生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】
2021/02/02
https://www.youtube.com/watch?v=MYm6uPGZXmo

          <感謝合掌 令和3年3月9日 頓首再拝>

むさぼらなかった男 渋沢栄一「士魂商才」の人生秘録①~⑦ - 伝統

2021/03/10 (Wed) 23:51:50


        *Web:ダヴィンチニュース(2021/2/10) より

(1)第1話 渋沢家の英才教育――迷信を信じなかった少年

   NHK大河に新1万円札の顔! 渋沢栄一は運が良かった?/渋沢栄一の人生秘録①

   https://ddnavi.com/serial/724857/a/

(2)第2話 武士への憧れ

   『論語と算盤』でも語られた、武士への憧れ/渋沢栄一の人生秘録②

   https://ddnavi.com/serial/736445/a/

(3)第3話 疫病大流行に揺れる日本

   疫病大流行で揺れる日本。渋沢栄一の“学問の師”とは?/渋沢栄一の人生秘録③

   https://ddnavi.com/serial/736447/a/

(4)第4話 調和型から破滅型へ

   優秀な人材を集めて大きく動かす! 栄一の起業家としての芽/渋沢栄一の人生秘録④

   https://ddnavi.com/serial/737799/a/

(5)第5話 生涯最大の危機

   渋沢栄一の生涯最大の危機とは?/渋沢栄一の人生秘録⑤
  
   https://ddnavi.com/serial/737903/a/

(6)第6話 農民から武士へ

   農民から武士ってそんなに簡単になれるもの?/渋沢栄一の人生秘録⑥

   https://ddnavi.com/serial/738185/a/

(7)第7話 一橋家の人事採用と栄一の初任給

   吉沢亮主演の大河ドラマ『青天を衝け』がもっと面白くなる! 栄一の初任給は?/
   渋沢栄一の人生秘録⑦

   https://ddnavi.com/serial/738196/a/

          <感謝合掌 令和3年3月10日 頓首再拝>

渋沢栄一が興して今も残っている会社 150年後の「勝ち組」「負け組」 - 伝統

2021/03/11 (Thu) 12:42:55


         *Web:マネーポスト(2021.03.07)より

(1)みずほ銀行は財閥系メガバンクとは違い、
   第一勧業、富士、日本興業の3行が対等という理想を掲げて一緒になった。
   それが結果的には三すくみの状況を生んでしまった。

   合併直後のシステム統合問題は象徴的で、
   3行の中で最も優れたシステムに統合すればいいところを、
   3行を生かしながら連結しようとして障害が起きた。

   渋沢は公益性を重視したといっても、
   激しいビジネス競争を否定したわけではない。

   社内の和を重視する姿勢が仇となった。(『経済界』編集局長の関慎夫)

(2)東京海上ホールディングス(以下、HD)の前身の東京海上保険も、
   渋沢が創立発起人だった。

   東京海上HDの2020年4~12月期の連結決算(以下、同)で
   純利益は1127億円で業界トップを走る。

   「早くから海外に進出し、外国企業のM&Aにも積極的で、
    同業他社に比べて海外事業が圧倒的に強い。
    実業家に転身後、先頭に立って海外貿易を奨励した
    渋沢の精神に基づいている」(前出・関氏)

(3)製紙業界の2強は王子ホールディングスと日本製紙だが、
   どちらも1873年に渋沢が設立した抄紙会社が源流。

   しかし、2020年4~12月期の純利益はそれぞれ261億円、
   23億3600万円と差がついている。

   「ペーパーレス、テレワークの流れのなかで、
    王子HDは早くから印刷用紙から段ボールやパルプに主力を移したが、
    日本製紙は従来型のビジネスから抜けきれていない。

    王子は2006年に同じく渋沢ゆかりの北越製紙(現、北越コーポレーション)
    に対して敵対的TOBをかけ、渋沢の商業道徳を唱えた『論語と算盤』の理念に
    背いているのではないかと批判されました。

    しかし、製紙業界の先を見据え、現状で立ち止まらないという判断は、
    渋沢の『もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である』
    という言葉に通ずるものがある」(同前)

(4)ビール会社の多くも渋沢が関わっている。
   アサヒビールとサッポロビールは渋沢が関わった「大日本麦酒」、
   キリンビールは「ジャパン・ブルワリー」が源流だ。

   しかし業界トップを争うアサヒ、キリンに
   業界4位のサッポロは大きく水をあけられている。

   「渋沢はビジネスの必須条件として“時期を見ること”が大事だ
    と話しています。アサヒやキリンは社会の健康志向の高まりに
    いち早く対応し、糖質オフの新製品を出したり、グループ企業で
    サプリメントを展開した。

    サッポロはバブル期に不動産事業に手を出したが、
    その一方で“本業”の飲料の展開で後手を踏んだ印象です」
                  (経済ジャーナリストの福田俊之氏)

(5)いすゞ自動車は、渋沢が初代会長を務めた東京石川島造船所が前身。
   乗用車から撤退して久しいが、2020年4~12月期の純利益は
   284億7700万円の黒字を確保している。

   「一時は倒産寸前に追い込まれたが、
    トラック事業への特化で業績が回復しました。
    トラックというのは社会インフラの側面が強く、
    鉄道やガスなど多くのインフラを育てた渋沢の理念に照らしても
    支えるべき事業です。
    会社の使命に“原点回帰”したことが生き残りにつながった」(前出・福田氏)

(6)“渋沢マインド”で企業を立て直そうとしている例もある。

   清水建設は2019年にリニア談合で営業停止処分を受けた後、不振に喘いでいる。
   コロナ禍の工事中断の影響もあり、
   2020年4~12月期の純利益は前年同期比25%減だった。

   「現在、企業としての原点に立ち返ろうと『論語と算盤』を社是とし、
    渋沢の教訓を冊子にまとめ、社員はみんなそれを携帯しています」
                        (渋沢史料館館長の井上潤氏)

https://news.yahoo.co.jp/articles/7c08c4a3857f15bc53c4250666f313cb260508f1

          <感謝合掌 令和3年3月11日 頓首再拝>

渋沢栄一の底ヂカラ - 伝統

2021/03/12 (Fri) 13:44:44


中小企業の底ヂカラ・今回は特別編:実業界の父~渋沢栄一~
TOKYO MX (2015/11/18)
https://www.youtube.com/watch?v=CzGJ9aD_3iQ

(1)渋沢栄一の底ヂカラ~その1
   時代を見据えた順応力

(2)渋沢栄一の底ヂカラ~その2
   人並み外れた行動力

(3)渋沢栄一の底ヂカラ~その3
   幸せな日本を作るための人材育成

          <感謝合掌 令和3年3月12日 頓首再拝>

渋沢栄一、個人の利益の追求は同時に「公の利益」になる - 伝統

2021/03/13 (Sat) 14:24:16

渋沢栄一、個人の利益の追求は同時に「公の利益」になる ヨーロッパ「銀行の概念」に驚く

        *Web:夕刊フジ(2021.03.12)より

慶応2(1866)年秋、
渋沢栄一は慶喜から「外国へ行け」という命令を受けた。
その年の暮れ、パリで万博が開かれ、慶喜は招待されていた。

でも、日本は1年後、慶喜が大政を朝廷に奉還する旨を表明するほどの
激動期であり、慶喜はとても洋行などしている状況にはなかった。

慶喜は自分の名代として14歳の弟、昭武を派遣することを決め、
栄一に「随行せよ」と命じたのだった。

さらに、「万博が終わっても帰ってくるな。昭武の5年ほどの留学生活に、
事務官(経理)として付き合え」というのである。

 
幕府を取り巻く異様な緊張状態、相談相手だった平岡円四郎の死、
怏怏(おうおう=心が満ち足りないさま)とした日々を送っていた栄一だったが、
慶喜の命令によって、その愁眉は少し開いた。

新しい天地で、やがて確実に来る日本の新時代に備えて、
それに必要な学問を学んでこようと、勇躍、ヨーロッパに向かったのは
慶応3(1867)年1月11日のことであった。

船はマラッカ海峡、インド洋を経て紅海に進む。
そこで栄一は驚くべきものを見る。
スエズ運河だ。

全長160キロにわたって水路をうがち、
紅海と地中海を結ぼうとする大事業である。

「工事費は一体いくらかかるのだろう」
「誰がどうやって、お金を集めたのか」。

栄一は声もなく、その壮大な工事を船上から見つめ続けた。

 
日本を出て約2カ月。一行は3月7日にパリに到着した。
栄一はすぐ、スエズ運河の大工事はどのように実行されているのか、
とりわけ、経理上の仕組みについて、現地での世話役、フ
ランス人のフリューリ・エラールに質問する。

エラールは元銀行員である。

このエラールの話から、栄一はヨーロッパの圧倒的な
豊かさの源泉の存在を知ることになる。

それは、「銀行の概念」だった。

銀行とは、広く人々からお金を集めて、やる気のある人、
アイデアのある人の事業に投資し、みんなのためになるものの実現を目指す。

その事業によって得たもうけを、再び人々に還元する存在であること。

要するに、個人の利益の追求は同時に公の利益にもなる。
これが「銀行本来」の姿で、それが西洋文明の強さ、
豊かさを支える原動力なのだ(『その時歴史が動いた19巻』より)と。

 
栄一は「公の利益」を追求する銀行の「本来あるべき姿」を知った。

栄一は以後、「自分のところだけのもうけ」ではない、
日本国全体の経済を考える男、となる。

https://news.yahoo.co.jp/articles/9e342ab5b6df78802aad4a4141d9fe981519ff6d

          <感謝合掌 令和3年3月13日 頓首再拝>

渋沢栄一と養育院の創立 - 伝統

2021/03/14 (Sun) 14:36:13


       *Web:ひすいこたろう(2011.04.11)より

日本資本主義の父といわれた渋沢栄一

幕末から大正初期に活躍した実業家です。


会社がない時代に続々と会社を立ち上げた。

企業の設立に関わった数はなんと500以上。

日本株式会社をつくった男といわれる所以です。


その渋沢栄一が「養育院」を作った。

 (*「養育院」~https://www.tmghig.jp/hospital/about/history/ )

貧しい人や、浮浪少年などの世話をする施設です。

そこに収容される人物たちを長年観察していると

渋沢栄一は一貫した特徴があることに気付いたといいます。


彼らの共通する特徴は
「常に自分の都合だけを考えてる」ということだったそう。

おもしろいパラドックスがここに隠れていました。

自分だけよければいいと思っていると、
自分すらよくならないということです。

あら~~~


そこで渋沢栄一は気づいたのです。

自分が存在する意義というのは、自分のためだけにあるのではなく、
社会のため、他人のためにあると。

そして、

500以上の企業の設立に関わり、
600以上もの社会事業に携りました。

さて結論です。

自分だけよくなりたい方にとっておきの方法

それは、

自分の都合だけで考えない。

命とは個ではなく「つながり」です。

つながりを生かそうとする人に天は微笑みます。

Your Happy My Happy

https://ameblo.jp/hisuikotarou/entry-10861169220.html

          <感謝合掌 令和3年3月14日 頓首再拝>

渋沢栄一のやんちゃ人生 - 伝統

2021/03/15 (Mon) 13:24:41

『青天を衝け』は“キュン死大河”?「子どもは20人」渋沢栄一のやんちゃ人生

      *Web:週刊女性PRIME(2021.03.11)より抜粋

その人生は、なかなかどうして波瀾万丈。

(1)渋沢栄一も、勤王の志士たちと同様に、
   “艶福家”であったことは間違いなさそうだ。

(2)「みんながうれしいがいちばん」の教え

  ①明治維新後、明治政府に出仕。民部省や大蔵省で働きますが、
   大久保利通たちトップと対立してわずか4年で明治政府を去ります。

   “上から言われても、嫌なものは嫌”。
   そういう気骨があり、官僚には栄一は向いていませんでした。

  ②実業家に転身してからも私利私欲に走ることはなく、
   常にみんなのことを考え、日本のために奔走していたといわれる栄一。

   その陰には、栄一を愛情深く育てた母・ゑいの
   “みんながうれしいがいちばん”の教えがあったと言われている。

  ③栄一は何人もの女性を囲い、妻子のいる本宅でも、
   愛人との間にできた子どもまで同居させていました。

   子どもの数は20人とも言われ、
   そのほとんどが愛人との間に生まれている。

   艶福家ぶりは晩年に至っても変わらず、なんと68歳のとき、子どもを授かり、
   「お恥ずかしい。若気の至りで、つい」と、はげ上がった頭をなでた
   というエピソードが残っている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/153b665d7c99ba6b4c79d08f56934db9bfcb311f

          <感謝合掌 令和3年3月15日 頓首再拝>

動画・渋沢栄一はなぜ近代日本経済の父と呼ばれるのか? - 伝統

2021/03/16 (Tue) 16:13:21


【ゆっくり解説/偉人伝】・前編
渋沢栄一はなぜ近代日本経済の父と呼ばれるのか?
くろねこ偉人ゆっくり解説(2021/01/22)
https://www.youtube.com/watch?v=puYB7CKwHFk&t=0s

【ゆっくり解説/偉人伝】渋沢栄一の生涯・後編
くろねこ偉人ゆっくり解説(2021/01/22)
https://www.youtube.com/watch?v=H9IFU3tsvlM

          <感謝合掌 令和3年3月16日 頓首再拝>

「士魂商才」を提唱する渋沢栄一  - 伝統

2021/03/17 (Wed) 14:15:13

「士魂商才」を提唱する渋沢栄一 
「武士の精神と商人の才覚を併せ持つことが大切」

      *Web:夕刊フジ(2021.03.16)より抜粋

(1)栄一は、人生の節目節目で、然るべき人に会い、
   然るべき言葉をかけられて「成長」していった。

   しかし、これだけの人物になると、「本人の言葉」も、
   周りの多くの人々に当然大きな影響を与える。

(2)例えば、栄一の著書『論語と算盤』を読むだけでも、以下の通りだ。

  ①「論語と算盤はかけ離れているように見えて、実はとても近い。
    国の富を成す根源は仁義道徳、正しい道理の富である。
    そうでなければ、その富は完全に永続することは出来ない」

  ②「菅原道真は『和魂漢才』と言ったが、私は『士魂商才』を提唱する。
    武士の精神と商人の才覚を併せ持つことが大切だ」

  ③「人材登用のお膳立てをして我々は待っているが、こ
    れを食べるかどうかは箸をとる人の気持ち次第。

    御馳走を作った上にそれを口に運んでやるほど、世の中は暇ではない。
    何か一つ仕事をしようとする者は、自分で箸をとれ」

  ④「お金はよく集めてよく散ぜよ」

https://news.yahoo.co.jp/articles/4472e9fed79fd0c802fa5421ed35b288ac07b188

          <感謝合掌 令和3年3月17日 頓首再拝>

500ものスタートアップに関わった渋沢栄一のビジネスの原点とは? - 伝統

2021/03/18 (Thu) 13:28:18


        *Web:本がすき(2021.03.17)より抜粋

(1)家業でビジネス感覚を身に着けた。

  ①実業家として近代日本を作った渋沢栄一を語る上で、欠かせない要素がある。
   それは、渋沢の生家が農業を営むかたわら「藍玉作り」をしていた点だ。

  ②藍玉は、藍染めをする際に使われる染料だ。

   非常に手間がかかる商品であり、それを使った藍染めの糸は高級品だ。

   渋沢家は藍葉を仕入れ、藍玉の製造販売を手掛ける裕福な農家だった。
   渋沢は13歳の頃よりその家業を手伝ってきた。

  ③そもそも藍玉は投機商品です。
   投機の基本は「安く買って、高く売る」。

   藍葉を買い入れるときは「品質がいいもの」を見る目が必要ですし、
   世の中の相場を知り、安いときに買い集めるセンスや判断力が求められます。

   といって「安く、買い叩けばいい」わけではなく、
   仕入れ先との信頼関係も築いていかなければなりません。

  ④藍玉は丁寧に手間をかけて作っていく職人技が必要な商品であると同時に、
   原価や売価を考えて作り販売するという商人的なセンスが必要なものだった。

   実家が裕福で教養のある家庭であったことも、
   渋沢を日本経済史に残る傑出した人物にした要因としてあることは
   間違いないが、こうしたビジネス感覚が自然と身に着く仕事を
   子供の頃から経験していたことも重要な要因だったのだ。


(2)16歳、転機となった身分制度への憤り

  ①地域の農民たちが揃って代官のところへ招集されたことがありました。
   本来なら父親が行くところですが、16歳の渋沢は父の代わりとして、
   たまたまその集まりに参加しました。

   そこで代官は「今度、お姫様の輿入れがあるから、御用金を申し付ける」
   と言い放ちます。つまり、結婚資金として追加徴税するわけです。

  ②これに対して渋沢は、「普段からきちんと税を支払っているのに、
   そんなことでさらに徴税するのはおかしいじゃないか!」と猛烈に腹を立てた。

   しかし士農工商の身分制度が絶対の時代。
   武士に一農民が逆らうことはできず、結局は支払うことになる。

  ③このできごとは、渋沢の生き方や考え方に少なからぬ影響を及ぼしました。
   渋沢にとって士農工商という身分制度こそ憎むべき対象で、
   幕府政治に対する大きな反発心を抱くようになっていきます。

  ④渋沢はその後、幕末の時代の流れの中で攘夷思想に染まり、
   23歳の時には外国人居留地を焼き払う計画を立てるなどして
   政府からにらまれるような存在となる。


(3)一橋慶喜に仕える役人になる

  ①外国人居留地を焼き払う計画がとん挫した翌年には、
   一橋慶喜に仕える役人になっていた。

  ②ここが渋沢のおもしろいところで、ただ感情に任せて騒ぎ立てるだけでなく
   「農民ではダメだ」「武士にならなければ、世の中は変えられない」
   と冷静かつ的確な思考力も持ち合わせ、
   必要とあらば、軽々と身分をとびこえていきます。

  ③世の中を変えるという大志を胸に、攘夷思想を翻して幕臣になった渋沢。
   この目的のためには立場にこだわらない大胆なキャリアチェンジの発想が、
   後に大蔵省を辞めて実業家として活躍する渋沢の柔軟さに生きている。


(4)感動癖が成長を作った

  ①新政府の役人となった渋沢は、
   日本の近代化に向けて次々と新しい制度を導入していった。

   その改革のもととなったのが、27歳でのパリ渡航だ。
   徳川慶喜の弟・徳川昭武に随従してパリ万博使節団の一員として
   パリに行くことになったのだ。

   船でパリに行く道中、香港や上海、サイゴン、シンガポール、
   セイロン、アデン、マルセイユなどに寄港し、
   西洋流の進んだ文化や技術で発展した街を見て渋沢は驚く。

  ②目的地のパリでも、また隣国のヨーロッパ各国を周った際にも
   目の当たりにする「世界の今」に驚きの連続だった。

   中でも、こんなエピソードがある。

   渋沢たちがベルギーを訪問した時のことだ。
   当時のベルギー国王レオポルド2世が日本の使節団を出迎えた。
   国王からベルギーでどんなものを見たかと聞かれた渋沢は、
   製鉄所を見てきたと話す。

   すると「それは素晴らしい。製鉄は今後貴国にとっても
   欠かせないものになるでしょう。これからはますます鉄が
   必要な時代になるので、そのときはぜひベルギーから提供
   させていただきます」と、国王自らセールスをしてきたのだ。

   これに渋沢は仰天する。

   江戸時代の常識からしたら、身分の高い一国の主が
   商人の真似事をするなど考えられない話だったからだ。

   “しかし、こうした経験により渋沢は、

   「これからは商人の世の中が来る」
   「国が商売を後押しする」
   「経済を軽く見ているうちは近代国家になれない」

   と開眼していくのです。”

  ③一つ一つの体験に感動し、感激することによって、
   どんどん吸収し、自らの血肉としていく。
   そんな吸収力も渋沢の大きな特徴と言えるでしょう。

   
https://news.yahoo.co.jp/articles/459e246ec07b60c6134dd718738aadc9a1a87788

          <感謝合掌 令和3年3月18日 頓首再拝>

91年生涯現役を貫いた渋沢栄一から学ぶ「人生100年時代」の愉快な生き方 - 伝統

2021/03/19 (Fri) 16:02:28


       *Web:本がすき(2021.03.11)より抜粋

(1)キャリアチェンジしながら長い人生を生きる

  ①渋沢は、20歳までに裕福な農家の両親のもと教養やビジネスを学び、
   その後は武士に転身、役人として手腕を発揮する。

   その後33歳で役人としてのキャリアを捨てると今度は実業の世界に入り、
   500以上の企業のスタートアップに関わっていく。

   ここまでが渋沢の人生の第一期。

  ②その後、60歳以降の第二期には渋沢は実業界を引退し、
   民間外交に力を入れていった。

   民間の国際交流を重視した渋沢は、
   69歳から81歳にかけて、4度も渡米をしている。

  ③まさに「人生100年時代」を先取りするかのように、
   自らの身分やキャリアを変えながら、
   第二、第三の人生を精力的に歩んでいきます。


(2)渋沢栄一が教える「志」の立て方

  ①「志」、すなわち自分の選ぶ道を決めるには、
   頭をクリアにして自分の長所が何なのかをみつめ直すことが重要だ。

  ②またそれと同等に、自分の境遇がその志を遂ぐることを許すや否や
   深く考慮することも必要だ。


(3)100年を愉快に生きるには

   年齢なんて忘れてしまうほど、楽しいことを見つけることが肝心です。
   それこそが「100年時代」を愉快に生きていくコツだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/65178a203a1d454f7d2ce6afb7b495e8c6b71f3a

          <感謝合掌 令和3年3月19日 頓首再拝>

「渋沢栄一物語」 - 伝統

2021/03/20 (Sat) 15:01:29

世のため人のためアニメシリーズ「渋沢栄一物語」
日本の豊かさを作った偉大な人

公益財団法人藤井財団(2020/12/15)
https://www.youtube.com/watch?v=06h7p-nIS30

          <感謝合掌 令和3年3月20日 頓首再拝>

渋沢栄一の生涯を知れば近代日本の流れがわかる - 伝統

2021/03/21 (Sun) 14:48:31


         *Web:JBpress(2021.03.20)より抜粋

(1)日本の近世から近代の変化は、幕藩体制(封建国家)から
   欧米的近代国家(立憲国家)への、
   アジアの小国から世界の強国への大転換であり、

   しかも四民平等の世の中となり、
   米から金に経済の中心が変わるなど、国民生活も激変した。

   渋沢の生涯は、まさにその疾風怒濤の流れを
   すべて体現した唯一の人物と言っても過言ではない。

(2)青年期の渋沢と尊王攘夷への傾倒

  ①安政元年(1854)以降、14歳ごろまでは
   連日、読書・剣術・習字等の稽古三昧の日々であったが、
   家業を手伝い始めて近隣の村々を廻り、
   藍菓の買い付けも1人で行うまでに成長した。

  ②安政4年(1857)、17歳ころから信州・上州・武州秩父にある
   得意先廻りを1人で担当し始め、家業に対する熱意も沸いてきた。

   このころの有名なエピソードとして、当時の特産地・阿波の藍に
   負けないものを作りたいとの思いから、近隣村々から藍菓を買い集め、
   藍の出来に応じて生産者の番付を作成した。

   そして、彼らを招待して番付に従って席順を定め、
   一番良い藍を作った人を上席に据えて饗応した。

   生産者の意識を高め、一層良い藍を作ることを奨励したもので、
   競争原理の導入である。

  ③安政3年(1856)、渋沢が16歳の時、画期となる事件が起こる。
   岡部藩は血洗島村に御用金1500両を要求し、
   既にこの段階で累積2000両以上を献金している渋沢の生家には、
   その三分の一にあたる500両を割り当てた。

   渋沢はこうした代官の理不尽な態度に憤り、
   その根源は幕政の在り方と考えて、社会矛盾を実感する
   契機となったと回想している。

   頑固の強情で物怖じしない性格が、この段階で既に垣間見える。

  ④これ以降、渋沢は後期水戸学に傾倒し、
   尊王攘夷を唱える従兄で学問の師匠ある尾高惇忠の影響も受け、
   従兄の尾高長七郎、渋沢喜作らと天下国家を憂えて、
   議論を繰り返すようになった。

   さらに、尊王志士の長州藩士多賀谷勇(坂下門外の変で捕縛)、
   宇都宮藩士広田精一(禁門の変で自刃)らが血沈島村周辺に来訪すると、
   ともに詩作し時勢を論じ合った。

   さらに、議論が高じて皆で幕府を批判しており、こうした交流を通して、
   尊王攘夷思想に深く共鳴し、渋沢自身も尊王志士の道を歩むことになった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/006cb74a6fdbc40832868e79bf3c7e15cfb7791a

          <感謝合掌 令和3年3月21日 頓首再拝>

尊王志士として奔走!?知られざる渋沢栄一の真実 - 伝統

2021/03/22 (Mon) 12:50:38


         *Web:JBpress(2021.03.22)より抜粋

(1)文久元年(1861)、尊王志士としての活動を始めた渋沢栄一は、
   江戸に出向いて下谷練塀小路の儒者である海保漁村の塾や
   お玉が池北辰一刀流の千葉道場・玄武館に出入りを始めた。

   そこで渋沢は天下の有志と交流し、同志を獲得していった。

   そして、幕府を揺るがす大騒動を起こし、
   幕政の腐敗を洗濯して国力を回復することを計画した。

(2)文久3年(1863)4月ころ、渋沢は再び江戸に出て
   海保塾および千葉塾に正式に入門し、これ以降の4ヶ月間、
   時々帰郷して攘夷について仲間と議論し、また尾高惇忠とともに
   武器類を買い集めて実家の土蔵に隠匿した。

   そして8月ころ、渋沢は惇忠、渋沢喜作と3人で
   幕政の腐敗を洗濯した上で、国力を挽回するため、
   攘夷実行の計画を密議した。

   その内容は驚くべきもので、高崎城を乗っ取り、
   武器弾薬を奪略して横浜外国人居留地を焼き打ちし、
   外国人を残らず殺害するというものであった。

   渋沢らはこの無謀な計画を11月23日(冬至)に実行することを
   取り決め、その同志は総勢69名に上った。

(3)文久3年9月13日、渋沢は既に身を以て国に殉ずる決意をしたため、
   意を決し父・市郎右衛門に家督を辞すことを願い出た。

   渋沢は市郎右衛門と徹夜で議論して説得し、
   明け方になってとうとう許可を得た。

   しかし、これ以降も市郎右衛門は息子栄一のため、
   様々な援助を惜しまなかった。

(4)10月29日夜、京都情勢の探索から帰郷していた長七郎も加え、
   下手計村の惇忠宅の2階で、渋沢・尾高兄弟・渋沢喜作・中村三平の
   5人で攘夷実行計画の最終判断のための会談を行った。

   長七郎は八月十八日政変(即時攘夷を唱える長州藩や
   三条実美ら廷臣を追放)の勃発など、
   即時攘夷派が逼塞せざるを得ない京都情勢を説明し、
   計画の中止を主張した。

   渋沢は決行を主張して、大激論となったが時期尚早と判断し、
   最終的には中止と決定した。

   渋沢にとっては、断腸の思いであったことは想像に難くない。

(5)こうした渋沢らの動向は幕府の知るところとなり、
   幕吏に捕縛される危険もあったため、11月8日に渋沢は喜作とともに
   伊勢参拝を兼ね京都見物に出発すると吹聴して、故郷を後にした。

   11月25日、渋沢らは入京を果たし、それ以降は尊王志士と交わり、
   12月中旬に至って、ようやく伊勢大神宮を参拝している。

(6)元治元年(1864)2月8日、
   渋沢らは平岡円四郎が一橋家へ推挙してくれたため、
   仕官することが叶った。

(7)渋沢は奥口番・御用談所下役出役(俸禄4石2人扶持、在京月手当金4両1分)
   で出仕し、4月中旬に御徒士に昇進して、ようやく正式に内御目見を許され、
   慶喜に意見を述べている。

   渋沢は幕府の命運は危うい状態にあり、
   徳川宗家(将軍家)のためを思われるのであれば、
   一橋家の勢力を拡大して宗家を擁護すべきであり、

   そのためには「広く天下有為の士を招致すること第一の急務なり」
   (渋沢栄一伝稿本)と、人材の登用を勧説した。

   いよいよ尊王志士から一橋家臣、武士となった
   渋沢栄一の新たな人生が始まったのだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/7e34e18ccc5f58be43d538b36a084db5c3ed9fdc?page=2

          <感謝合掌 令和3年3月22日 頓首再拝>

渋沢栄一を動かした言葉  - 伝統

2021/03/23 (Tue) 16:00:16


大隈重信の直言「日本国のためになる仕事をするのに、過去の人的経緯は関係なかろう!」

        *Web:夕刊フジ(2021.03.13)より

徳川慶喜から「(弟の)昭武とともに、少なくとも5年」と言われていた
渋沢栄一の外国生活は、わずか1年ちょっとで終わることになった。
日本から帰国命令が届いたのである。


一行が帰国したのは明治元(1868)年11月3日。
前年の10月、慶喜が大政奉還の上表(じょうひょう)を朝廷に提出し、
政権交代を完了させる戊辰戦争がほぼ終わったころであった。

 
栄一は一旦、故郷・深谷の血洗島(ちあらいじま)に帰る。
そして、その年の暮れ、栄一は昭武の手紙を携えて、
慶喜のいる静岡に向かった
(=慶喜は半年前の5月、静岡70万石に封ぜられ、水戸から移っていた)。

 
栄一は、慶喜の謹慎先の宝台院を探し当て、来訪を告げた。
玄関先に一人で出てきたのは、なんと慶喜本人だった。

玄関先で座布団も敷かず、畳の上に直接座って栄一と二人きりで話す…。

そんな慶喜を見て、栄一は涙が止まらない。
栄一はすぐ妻子を呼び寄せることにした。
近くで慶喜の日々を見ながら自活することを決意したのだ。

 
静岡藩士への道を選ぶつもりはなかった。
だから、糊口をしのぐ手段として、静岡の地で、
何とか自活の道を模索せねばならなかった。

 
栄一にひらめいたのが、フランスで知った「銀行の仕組み」だった。
その仕組みを取り入れた組織をつくろうと思った。
「商法会所」という組織が立ち上がったのは同2(69)年1月のことだった。

 
これは、「静岡藩内の豪商豪農に拠出させた資本を元手に
商業活動を手広く展開して、藩財政を富ませようという試み」
(安藤優一郎著『幕末の志士 渋沢栄一』より)で、事業は大成功した。

 
当然、明治政府の目に留まり、栄一はヘッドハントされる。
「民部省(現在の財務省)に勤めよ」というのである。

栄一は即座に断る。

「慶喜さまのご恩を受けたものとして、新政府に仕えることは到底できない。
慶喜さまは、公(おおやけ)のために自分をお捨てになった。
自分もまた、私心を捨てて今後は公のために尽くす所存」

 
これを聞いた新政府の高官、大隈重信は次のように反論した。

「日本国のためになる仕事をするのに、過去の人的経緯は関係なかろう!
 『日本国』のため以外に、公の仕事が他にあるか!」(『その時歴史が動いた19巻』より)

あっけらかんとした、
この分かりやすい大隈の言葉に、栄一はとっさに言葉に詰まる。

そして、この「やりとり」が、栄一の次のステップにつながっていく。

https://news.yahoo.co.jp/articles/64cde309792484049864bf7984e005b1d4af7dcd

          <感謝合掌 令和3年3月23日 頓首再拝>

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