伝統板・第二

2536873
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

英霊の言乃葉 ④ - 夕刻版

2019/03/18 (Mon) 17:33:22

靖国神社社頭掲示~平成31年3月

遺書

陸軍伍長 森 浅吉命

昭和二十年三月ニ十九日
モルッカ諸島モロタイ島 にて戦死

兵庫県 飾麿郡家島町出身 二十九歳



その後も達者で暮らしてゐる事と思ふ。
俺も相変はらず元気だ。安心してくれ。

和子、本当にお前に苦労かけてすまん。
俺は感謝してゐる。
弘子も大きくなってゐるだろうね。

どうか弘子を強く元気に育ててやってくれ。
俺は安心して行く。

(中略)
何時かの、あのお祭りの夜の思ひ出が、俺れの頭の中に深く残っている。
お前もきっと何か想ひ出してゐるだろう。

いやいや今は、こんな馬鹿な事を考えてゐる時ではない。
現在の俺は一命を国家に奉げた身だ。
お前も元気で、銃後の妻として立派に働いてくれ。

俺は笑って南海の地に行く。

お父様やお母様に宜しく。
お叔母様にも宜しく頼む。

俺の事は少しも心配するな。
遠き南海の空から、皆様の健康と幸福を祈ってゐるだろう。


                       森 浅吉

和子殿

    ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

 *参考Web
  → http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=3393

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板第二「『英霊の言乃葉』 (11341)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2160 (消滅)

   伝統板・第二「英霊の言乃葉(光明第二)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7824371

(2)光明掲示板第三「英霊の言乃葉Ⅱ」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=28

(3)光明掲示板・伝統・第一「英霊の言乃葉」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=69

(4)伝統板・第二「英霊の言乃葉」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456084

(5)伝統板・第二「英霊の言乃葉②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7762987

(6)伝統板・第二「英霊の言乃葉 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796246

           <感謝合掌 平成31年3月18日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成30年3月) - 伝統

2019/03/19 (Tue) 18:28:28

遺書

陸軍伍長 西川久治命

昭和二十三年三月十六日
台湾台北市方面にて戦死

東京都下谷区入谷町出身 二十歳


拝啓

父上様、母上様、永い間お世話になりました。
十九歳の今日まで何一つ孝行をできず、本当に申し訳ございません。

自分もいよいよ、待ちに待った南方の第一線へ行く事ができる
ようになりました。もとより生還を期せず、一死君国に報いる覚悟です。
今度こそはきっと立派な孝行を致します。

大君の為にきっとやります。

では父上様、母上様には、自分の事には御懸念無く、
お元気にて末永く御繁栄の事を祈ります。

(中略)

では最後に、御一統様の御健康を祈ります。

 遺歌(自作)

  身はたとひ砕け散るとも君が代を
    思ふ心の一すじに


  今日の日待ちて惜しみし我が命
    愛機と共に今ぞ咲くらん

 昭和十九年十二月三日

                    西川久治 

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html ~平成30年3月)

           <感謝合掌 平成31年3月19日 頓首再拝>

(靖国神社社頭掲示~平成29年3月) - 伝統

2019/03/20 (Wed) 18:24:05


遺言


陸軍少尉 戸倉 勝人 命 

昭和二十四年十月二十三日
ソ連ハバロフスクにて戦病死
山口県下関市豊浦出身 
四十五歳

皇國の御為この身を捧ぐること、予てよりの願望なるも
召されて軍人として戦陣に死所を得るは、
本懐これに過ぎたるものなし。


 母上

今よりは靖国の杜に参り候。
御健勝祈り上候、生前の御恩今こそ御礼申し上候。


 緑子 勝禮 純子へ

父は皇國の為、戦争に征く。
汝等は母様や祖母様の訓へを守って強い立派な日本人となり、御國の為に尽しなさい。
父は何時でもお前達の成長を見て居ります。


 春子へ

母上によく仕へ子供達を私の気持ちのやうに伸び伸びと育てて貰ひたい。

(中略)

その後、困難なことがある場合は、何事によらず勝馬に相談すること。
                                                    
以上

 昭和十八年八月十三日

 勝人 誌

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/2f2dfd6ad279630c79b07c91b0c2ff91 )

           <感謝合掌 平成31年3月20日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年3月 - 伝統

2019/03/21 (Thu) 18:18:55


芳子さんへ


陸軍兵長 的場 裕 命 

昭和十八年八月六日
ソロモン諸島コロンバンガラ島
西北方約十粁海上にて戦死

香川県綾歌郡陶村出身 
二十九歳


コクミンガクコウノ イチネンセイ ゲンキデ

ベンキヨウ スルンダヨ 

ミナミノウミハ キレイデス サンゴノハヤシガ

キレイダヨ コカゲハ スズシイヨ 

ツバメガ スイスイ トンデユク

ヨシコガ ガクコウヘ ユクコロハ ツバメガ

ナイチヘ カヘルダロ

チイサイ ノブコヤ タカヨシト ナカヨク

アソンデ ヤルンダヨ

ヨシコサンヘ


                以上


 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/40c513dd56252466aa61c7d8b0cbfea8 )
           <感謝合掌 平成31年3月21日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年3月 - 伝統

2019/03/22 (Fri) 19:07:00


遺書

陸軍兵長 山下光雄命

昭和十九年四月六日
ソロモン諸島にて戦死

三重県三重郡菰野町出身 
三十七歳


まい日 元気で学校へ通って居ますか 
学校では先生のおっしゃることをよく聞いてよく学び
元気で遊びなさい

お家へかへったら かならず其の日先生からおしへ
ていただいたことをよく習っておきなさい

おばあさんやお母さんの言ひつけをよく守りなさい

お父さんが居なくともよく勉強をすれば 中学校へ
入れてくださいますから
そしてりっぱな日本人になりなさい

お父さんはお前と四日市の駅でわかれて りっぱな
兵隊さんになって居ます
じきに戦場へ出かけてアメリカやイギリスの兵隊を
みんなヤッツケてやります

おとうさんが りっぱなてがらを立てて金しくんし
ょうをもらふのと 穆がよく勉強して先生からほう
びをもらひ級長になるのと きょうそうをしませう

からだを大せつにして よくべんきょうをしなさい
さよなら
                     父より
穆(あつし)君へ              

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/4adcecc11d14ec2b8684991f94fd6442 )


           <感謝合掌 平成31年3月22日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年3月 - 伝統

2019/03/23 (Sat) 18:21:40


笑って護国の花と散ります


陸軍上等兵 高山晴次命

昭和十七年三月七日
ビルマ国ペグーにて戦死

香川県小豆郡四海村出身  
二十四歳


母上様。
長らく御世話に成りました。

此の二十一年間、何一つ喜ばし、又、安心させた事もなく、
只御心配ばかり掛けまして誠に申訳御座居ませんが、
日本男子と生れて国防の第一線に立ち、男として一花咲かせます。

東洋永遠平和の為、散らして行きます。
此れ日本男子の本懐で有ります。

すでに母上様も入営当初より御覚悟は出来て居る事と思ひますれば、
私も何一つ思ひ残す事なく、笑って護国の花と散ります。

なほ、もし私の骨が帰ったなれば只一言、よく死んで呉れた。
あっぱれと褒めて下されば、なほ嬉しく思ひます。

私の石碑は、ほんの印(しるし)だけで結構です。
故、残金は全部国防献金して下さい

(中略)

茂君も丈夫で、立派な帝国海軍軍人と成って、海に活躍せられん事を祈る。
孝江も真面目に働いて良き夫に付き、幸福に暮らされん事を草葉の陰より祈る。

又、兄上様一同に色々と心配を掛けた晴も、
だうやら一人前の日本男子と成った様です。
私も此れに越したる喜びは有りません。

だうか母上様をよろしく御頼み致します。 (後略)

                              晴 次
母兄弟妹様

( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/a3ce181f7fbd7e6aa537f113c23db2f5 )


           <感謝合掌 平成31年3月23日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年3月 - 伝統

2019/03/24 (Sun) 18:47:39


決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ


海軍少佐 天野一史命

昭和二十年三月十九日
九州東南方海面にて戦死

奈良県吉野郡黒瀧村出身
二十五歳


御父母上様

私ハ此ノ様ナ拙文デモ、今度戦地ヘ出タラ再ビ御出会出来ヌモノト思ヒ、
真心コメテ書ク事ノ出来ル資格ニナッタカト思ヘバ、
本当ニ感謝ノ念デ胸ガ一杯デアリマス。

中学以来航空ニ志シ、父母ノ了解ヲ待タズ色々ナ心配ヲカケ、
決戦ガ血戦ヲ生ンデ、昨夏全学徒ヨリ飛行予備学生ガ募集サレルヤ、
小生ノ応募ヲ許シテイタダイタ時ノ喜ビ、
先祖代々ヨリ伝ハル至誠尽忠ノ赤キ血ハ躍ルヲ覚ヘマシタ。

而シテ時ハ早クモ一年ハ流レ、
艦爆隊士官トシテ近ク決戦ノ大空ヘ飛立ツ事ト相成リ、本ヨリ生還ハ期セズ。

(中 略)

想フニ此ノ年マデ私ヲ教育シテ下サレ、父母ノ慈愛ノ下ニ過シタ生活ハ、
私ハ本当ニ幸福デアリマシタ。

私ハ此ノ御恩返シハ、只々一身ヲ国ニ捧ゲテ立派ナ死ニ方ヲスレバ、
御両親モサゾカシ喜ンデ下サル事デセウ。

一史戦死ノ報ガアリマシテモ、決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ。

一史ノ写真ニ只一言「
良クヤッテ呉レタ」ト言ッテ下サレバ、私モ大手ヲ振ッテ靖國神社ヘ行ケマス。

我々青年士官ガ頑張ラナクテハ、他ニ誰ガ元ノ日本ニ戻ス事デセウ。

想ヒ出ハ尽キズ。
又、想ヒ出セバ想ヒ出ス程胸ガ一杯デス。
何卒、今マデノ不孝ヲ御許シ下サイ。

御両親様モ御体大切ニ、余生ヲ御送リ下サイ。

  昭和十九年八月二日 
      午後四時半 於 書院

御両親様ヘ
   出陣ニ際シ
                   
                       海軍少尉 天野一史

           <感謝合掌 平成31年3月24日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年3月 - 伝統

2019/03/25 (Mon) 19:53:27


遺書

陸軍少尉 南 正夫命

昭和十八年三月三日
ニューギニア島ラエ東北方
約四五哩海上にて戦死

大阪府北河内郡星田村出身
二十四歳


大東亜戦争今ヤ酣(たけなわ)ナリ。
我モ亦、帝国軍人トシテ壮途ニ上ル。
固(もと)ヨリ生還ヲ期セズ。

サレバ予メ此処(ここ)ニ遺書ヲ記シ、
以テ謹ミテ南家御一同ニ示サントス。


我生ヲ禀(う)ケテ、ココニ二十有三年。
其間南家ノ長男トシテ祖父母、父母様方ノ此(この)上(うえ)ナキ
御慈(いつく)シミヲ受ケ、誠ニ浮世ノ苦難ヲ知ラヌ、
多幸ナル生涯ヲ送リ得タリ。

コレ偏(ひと)ヘニ、我ガ祖先就中(なかんずく)、
祖父母様父母上ノ山ヨリモ高ク、海ヨリモ深キ御恩ナリト厚ク御礼申上候。

然ルニ我、此処ニ死ス無窮(むきゅう)ノ恩ニ報イルニ
夭折(ようせつ)ヲ以テスルハ、深ク我ノ遺憾トスル所ナリ。

サレド我ハ今、天皇陛下ノ御楯トシテ皇国ニ殉ジタルナリ。
然モ忠孝一本ハ我国道義ノ精粋(せいすい)ナレバ、
皇国ニ殉ズルヲコソ親ニハ孝ナレト謂ハン。

我ハ心身一切ノ力ヲ尽クシ、
従容(しょうよう)トシテ悠久ノ大義ニ生キタルナリ。

幾(こいねがわ)クハ此ヲ以テ、
我ノ親ニ対スル最大ノ孝ナリト思召(おぼしめし)下サレヨ。

我ガ死ヲ聞カバ、孫ヨ倅(せがれ)ヨ良クヤッタリト御褒メ下サレ度候。

(中 略)

 大日本帝国万歳  南家万歳


    辞  世

花ト咲キ 花ト散ル身ノ 我ナレハ
      カネテコノ日ヲ 待詫ヒシナリ

頓首
昭和十七年一月七日                 正 夫

南家
御一同様

 (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/e1a909cb33c6b09863528b6fa4171766 )

           <感謝合掌 平成31年3月25日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年3月 - 伝統

2019/03/26 (Tue) 18:44:16


硫黄島からの近況報告


海軍少佐  高野與三郎命

昭和二十年三月十七日
硫黄島にて戦死

神奈川県横須賀市坂本町出身 三十九歳


拝啓、無事御帰還の事と遙察致して居ります。
新聞で既に御覧の通り、司令が退隊されて三日後の大挙空襲に際し、
味方指揮官がB‐24に体当りを敢行、見事一機撃墜致しました。

思はずあの指揮所から万歳を絶叫しました。
司令退任前、是非一度お見せしたかったと語り合って居ります。

その後は、三十機の新「レコード」でやって来ますが、
こちらのHA射撃精度向上に連れ、敵の高度も次第に高くなり、
被害も次第に少くなって居ります。

気候も次第に良くなり、一般の健康状態も良好となり、
士気大いに揚って居ります。

殊に、最近次々と挙る神風特別攻撃隊の体当りの戦果に感奮し、
全員肉迫挺身の意気に燃えて居ります。

お蔭様を以て十一月一日、大尉に進級致しましたから何卒御安心下さい。

   (中  略)

先夜は又、第二照射空隊が見事照射捕捉して司令官より色紙を賜る等、
各部共次第に技量の向上を認められ、之(これ)全く和智司令の御教訓を旨とし
精進したる賜物と、只々感謝致して居ります。

北○○島にも近くMG増勢の予定にて、最早(もはや)出発準備完了致して居ります。
先づは近況御報告迄で。

十一月三日

                                               ?野與三郎

和智大佐殿

机下

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/496f8afa302b1456f67a21dd9cbd2b4e )

           <感謝合掌 平成31年3月26日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年3月 - 伝統

2019/03/27 (Wed) 20:13:33


涙の出る限り泣いてください


海軍大尉 橋 本 光 雄 命

昭和二十年三月十一日
インドシナ東方海上にて戦死

福島県双葉郡久之浜町出身
二十六歳


光雄、このたび海軍予備学生に志願中のところ、
採用予定者として一週間の後、家郷を出でんとす。

(中略)

世人或は云はん。
何も大学まで進みながら、最も危険なる航空に志願せずともよろしからんにと。
されど大学は立身出世の為の大学にあらず。

祖国日本なくして大学なく、祖国なくして家もなし。

(中略)

世人或は云はん。
光雄一人くらゐ志願せずともよろしからんにと。
されど皆かく考へるに至らば、最後には祖国を護る者、
遂に一人も残せざるに至るべし

(中略)

光雄は祖国の急を救ふため、男子の本懐として雄躍征って参ります。

(中略)

光雄が死ぬときは
天皇陛下萬歳
大日本帝国萬歳
と呼んだら、すぐ心の中で母ちゃんと呼びます。

心の中で呼んでも母ちゃんにだけは聞こえる様に呼びます。

(中略)

人様の居らぬ所ではいくら泣いても良いです。
お父さんは怒るかも知れませんが、
お父さんだって泣きたいのを男だから痩せ我慢して居るだけでせう。
かまはぬからお二人で涙の出る限り泣いてください。

(中略)

生涯(こしかた)を光雄(われ)の将来(ゆくへ)に捧げたる
母が慈愛(なさけ)に何と報(こた)へん

(中略)

昭和十八年九月一日

御両親様

     ( https://japansdf.com/archives/787 )

           <感謝合掌 平成31年3月27日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年3月 - 伝統

2019/03/28 (Thu) 18:01:23


心身一片の雲なき気分です


陸軍大尉 寺村 義夫命

昭和二十年三月二十七日
比島ルソン島クラーク山中にて戦死

滋賀県彦根市芹橋町出身 二十八歳


御両親様

前便にて色々申上ました通り、何ら思ひ残す事もありません。
北條からの母上様の御便り入手致しました。
何から何まで都合よく、本当に小生、幸福者でした。

父上様には愈々御健勝に長生きして下さい。
二十有七年の御教育、今こそ義夫身を以て具現(ぐげん)致します。
今、故国を離れるに当り、この決戦に参兵出来る身を喜ぶのみです。

戦局、正に皇國(こうこく)興廃(こうはい)の関頭(かんとう)に立ちました。
征(ゆ)きます。攻めてく攻め抜きます。

(中略)

本当に心身一片の雲なき青空の気分です。

征きし報、伝はらば大いに祝って下さい。

では 征きます 御達者で             義夫

御両親様


           <感謝合掌 平成31年3月28日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年3月 - 伝統

2019/03/29 (Fri) 18:40:26


遺 書

陸軍歩兵伍長 福田誠一命

昭和十四年三月十日
支那江蘇省山後村附近にて戦死

広島県安芸郡倉橋島村出身 二十五歳


弟進へ
進よ、兄は戰争に行く二度と会ふ事は出来ぬ、
進よ、兄が戰死と聞いたなら内の責任は君の双肩にあり、
父母によく仕へ立派な人間になって呉れ、兄の墓を建てゝ呉れ、
兄が最後の願ひだ、

君は生活に苦しむと言ふ事は無いと思ふが立派に暮して呉れ、
何事も打勝つと言う事だ、
父母を頼む、

これから社会へ立つのだ、一歩一歩進み行けよ。


妹富美子へ
富美子よ、君は勝氣なるが故に兄は心配をする、
女の道は只實直に進むのだ、君の今の病氣に負けてはならぬ、
恋愛に落ちるので無い、今君の責任は大である、
君故にお父さんは心痛して居る、何事も父に打明けて相談せよ、
わからぬ父では無い、

早く病氣を治して良い家に嫁いて呉れ、
君の顔を一目見たいが会はずに兄は征く、
君の花嫁姿は何処かの地下で手をたゝいて嬉んで見て居る。


           <感謝合掌 平成31年3月29日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成19年3月 - 伝統

2019/03/30 (Sat) 19:20:44


「嫁ではなく、我子と思つて」

海軍工作兵曹長 小笠原嘉明 命

戦艦「大和」乗艦 昭和二十年四月七日
九州坊ノ岬南方沖合にて戦士
愛知県出身 二十九歳


我、軍人としての本分を立派に果し、
神風大和艦上に最期を飾るは、
我、無上の譽れと深く心に銘記し笑つて死すものなり。


御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。

夫婦の契を立て、二世を誓ひし以上は、
我と一心同体なりし事は申す迄もないと存じまする。
ましてや我は國難に殉じる軍人です。
其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、
此に一言遺書を記すものなり。

(中略)

一、里方へ歸るも可なれど、里方にては御迷惑せられますれば、
  我家にゐては居辛く本人としては我家を出て静かに自活したき希望なれば、
  本人の希望通りに自力自活の道に進む様御願ひ申し上げます。

  其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。
  再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置て戴きたくお願ひ申し上げます。

一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、
  可愛がれば愛子とても孝養せなくてほならなくなると我は存じますれば、
  嫁とは思はず、我子と思はれまして可愛がつて下さいます様御願ひ申し上げます。

(後略)

           <感謝合掌 平成31年3月30日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成18年3月 - 伝統

2019/03/31 (Sun) 19:18:11


海軍少佐 篠崎眞一命

横須賀海軍航空隊
昭和十九年六月二十九日内南洋方面にて戦死
東京都出身 二十四歳


「玲子」

玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。
苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。
四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。

父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。
私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。
私は其処に生きてゐる。

結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。
くれぐれも後を賴むよ。

私の出来なかった事も玲子には出来る。
後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。

最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

           <感謝合掌 平成31年3月31日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成31年4月 - 伝統

2019/04/01 (Mon) 18:07:31


遺書

陸軍兵長 玉田久太夫(きゅうたゆう)命

昭和20年4月8日
フィリピン ルソン島にて戦死

兵庫県多可郡中町出身
23歳


其の後変はりなきや、俺はこの度戦地に向かふについて最後に一言記す。
お前は俺のもとに嫁いで一意貞節をもって又、温情をもって今日まで
約十ヶ年、本当によく盡してくれた事を深く感謝する。

お前と結婚して十ヶ年、あまり長い契りとも言へないが、
思い出せば懐かしく又、嬉しき事もあり、だ。
しかし、俺も一度家を出たからは、敢(あ)へて生還は期すことは出来ないと。

しかし、これこそ皇国男子の本懐だ。

又、俺の戦死を聞いても決して取り乱した振る舞ひはしてくれるな。
俺は一足先にあの世とかへ行って、お前の必ず来るのを待ってゐる。
二十年三十年は長い様でも悠久の天地から見れば、ほんの一瞬だ。

(中略)

何卒、今後は身の重責を自覚して健康に注意して、俺亡き後は
心丈夫にしっかりとこの世の中を渡ってくれる事、
靖国の社内より祈って居る。

又、幼児(おさなご)成長すれば一度は靖国神社へ連れて参ってくれ。

では家内皆、達者で暮らしてくれ。
なほ村の人や親類や友達にも宜しくね。

                       玉田久太夫          

玉田志ずゑ殿

   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 平成31年4月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年4月 - 伝統

2019/04/02 (Tue) 19:10:14


遺書

海軍少尉 上田 兵二 命

昭和二十年四月十六日  
沖縄県近海にて戦死
兵庫県揖保郡余部村出身 
二十三歳
 

絶筆 出撃寸前
謹呈

小生いよいよ 出撃突入す

遺品送り方頼みし故
すぐ着く事と存じます

電替も送り返す様お頼み致しました
遺品喜んでお受け取り下さい

公電が有れば赤飯で祝つてくれ

乱筆にて

    昭和二十年四月二日
       
               海軍一等飛行兵曹
                 上田 兵二

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/6b0cd280589aa518b69c5c4f2b189b04 )

           <感謝合掌 平成31年4月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年4月 - 伝統

2019/04/03 (Wed) 17:22:45


陸軍大尉 小林克己命

昭和24年4月13日
千葉県上空で敵機と交戦被弾し戦死
新潟県新潟市島屋野出身
二十三歳 


暫く出発となりました。
今更もう何も申し上げる事もありません。

今私は己が幸福に感激しつつ、何等後顧の憂ひなく
欣喜雀躍(きんきじゃくやく)征途に就かむとして居ります。

何卒、健康に御留意の上、御長生あらむ事を御祈り申し上げます。

では元気で征きます。

                       克己

御両親様

   膝下

https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/83909fef340a1e1c1dc989b18d605c82 )

           <感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年4月 - 伝統

2019/04/04 (Thu) 19:39:15


でつかい奴を沈めます


陸軍少尉 加 藤 虎 男 命 

昭和二十年五月四日
沖縄方面にて戦死

東京都目黒区駒場出身 
二十歳



お母さん

大元気で、でつかい奴を沈めます。

御祖母様

お元気にてお暮らし下さい。
小学校に通つて居た頃、滑り台より落ちて祖母さまに手当てして
頂いた事を思ひ出しました。
虎男は立派に働いて死にます。


功兄、麗子へ
元気で暮らして下さい。
必ず命中します。
自分の居なくなつた後は、兄さんと麗子だけがお母さんの世話が出来るのだ。
麗子、お母さんには心配を掛けるなよ。


 何を惜しまん 君が御楯となれる我は
 五尺の身 粉々になるとも

第一〇九振武隊 加藤虎男


( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/d3bf4b43a665a7f06fd1d54a507671f5 )

           <感謝合掌 平成31年4月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年4月 - 伝統

2019/04/05 (Fri) 18:17:17


遺言書


陸軍憲兵軍曹
相馬竹三郎命

昭和二十三年四月八日
セレベス島メナドにて法務死

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町出身
二十九歳

(前略)

我が身は既に陛下に捧げ奉りし身にて、何等惜しくありませんが
戦ひ終りました今日、国の為にたてた勲が仇となり、
刑場の露と消えるのは残念至極です。

只皇国の復興と郷里に遺せる祖父弟妹の身上が案ぜられるのみです。

今後の兄上様の前途は多岐多難なるも祖父弟妹と御互に扶け合ひ、
又夫婦仲良く暮されん事を望みます。

今となっては何も思ひ残す事もありません。

(中略)

では兄弟よ、長い間の生涯本当に御世話様になりました。
一足先に永遠の庭へ心静かに旅立ちます。
元気にて御身体を大切に、

さよなら。

昭和二十三年二月十七日


                       相馬竹三郎

大日本帝國万歳
天皇陛下万歳
大アジア万歳 

 遺詠

国破れ捕はれの身となりつれど 天地の神に恥づる事なし

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/0d42fc3980d25c03f757f53f058daea4 )


           <感謝合掌 平成31年4月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年4月 - 伝統

2019/04/06 (Sat) 18:46:16


九段のお社でお待ちして居ります


海軍少尉 川越 勇命

昭和二十年四月十四日
朝鮮延海にて戦死

宮崎県東諸縣郡本庄町出身    
三十六歳


紀子(としこ)さんへ          

                   父ちゃんより

紀子さんは小さくて良くわからないかも知れないが、
父さんは海軍軍人として天皇陛下様の御為、悦んで死〇ます。

   *〇:ね

父さんはこんな嬉しい事はありません。

父さんは何時も忙しい体で、
紀子を可愛がる事も出来ませんでしたが、ゆるして下さい。

之(これ)から父さんはいなくても、
一番良いお母様やオヂイ様オバア様方の教へを良く聞いて立派な人になって下さい。
さうして大きく成ったら、お母様にたくさん孝行をして下さいね。

貴女方はお父さんの子として、決して恥しくない人になって下さいね。
お願ひします。

そして、お母様達と靖國神社に会ひに来て下さい。
お父さんは九段のお社でお待ちして居ります。
お会ひしたらお約束のお土産を上げませうね。

紀子達には、良いお母様が居ます。
さびしがらず立派な強い日本人になって下さい。

お父さんは何時も貴女達をお守りします。
御幸福を祈ります。御機嫌宜しく。


  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/861c15a5e33eac28262f95160b9f5d5a )

           <感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年4月 - 伝統

2019/04/07 (Sun) 19:24:33


遺言


陸軍中尉 長崎太郎命

昭和二十年四月十六日
ニューギニア、パンガンにて戦死

福岡県宗像郡福間町出身
二十五歳



御両親様。太郎ハ、オ先キニ逝キマス。
二十三才ノ今日マデノ御恩情ニ、ムクユルコトナク不孝之罪、
御赦(ゆる)シ下サイ。

御両親様ニハ、入営ヨリ御覚悟ノコトト思ヒマス。
太郎ハ、父上ノ子デモナケレバ、母上ノ子デモアリマセン。
御天子様ノ赤子(せきし)デス。

太郎ハ、二十一才ニテ長崎家ト別離シマシタ。
家ニハ正ガ居マス。弟達ガヰマス。
長崎家ノ将来ハ万々歳デス。

ミツエモ、母上ヲオ助ケ申シテクレ。
妹弟ノ者ニモ兄トシテ、何ニ一ツシテヤルコトモナク、済マナカッタ。
之カラ兄ノ分マデ、皆デ仲良ク御両親様ニ孝行タノムヨ。

病気スルンヂャナイゾ。仲良クナ。
申シ上ゲルコトモアリマセン。長崎家之万福ヲ祈リマス。

  昭和拾八年一月五日
                        長崎太郎
    長崎家御祖先様
    長崎武雄 様
    長崎タマノ様
    長崎ミツエ殿
    長崎 正 殿
    長崎哲也 殿
    長崎俊之 殿
    長崎正幸 殿

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2013-04-29-1 )

           <感謝合掌 平成31年4月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年4月 - 伝統

2019/04/08 (Mon) 20:27:54


我が故郷


海軍大尉  小久保節彌命

昭和二十年四月十六日
南西諸島にて戦死

愛知県渥美郡伊良湖岬村出身
二十四歳


我が故郷。

何と美しき四季とりどりの花は咲き、鳥は歌い山あり海あり。
太平洋の何と雄大なる、あの土用波の光景が眼にうかぶ。

椿は咲く。紅い花が咲く。
その下で図画を書いた事もあったっけ。
ゑのぐ筆をなめなめ稚い絵を書いた。

或いは夕野田に鮒釣に行った。
稲を荒して叱られた事もあったっけ。

海 そのもつひびき何と雄々しき事よ。
幼時より海辺に育ち真に偉大なる海に親しむ事が出来た。
ドンとうつ波の音は太古より未来永久につづくであらう。

我が故郷よ。無尽の幸あれ。
然して生れ来る国の童等を何時までも何時までも育んで呉れ。

我がふるさと人よ。
何時までも何時までも、純粋であってくれ。

(遺稿『句集 はまゆふ』から抜粋)

   ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2012-04-22-1 )

           <感謝合掌 平成31年4月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年4月 - 伝統

2019/04/09 (Tue) 20:08:55


生還もとより期せず


陸軍中尉  森脇誠次郎命

昭和二十年四月十二日
沖縄島方面にて戦死

静岡県浜名郡長上村出身  
二十三歳


御両親様

永き間の御恩に、報ずるの秋(とき)至り候(そうろう)。
誠次郎は今、一身を以て御国の興廃を担(にな)ふの重任に喜びつつ、
攻撃に赴く可(べ)く候。

神機到来迄はと忍びつつ、ありし日の無念さを今こそ晴すべく候。
先輩逝き、同期生逝くを我一人残りたるの淋しさ比するものなく、
今日はその仇討(あだうち)に力一杯の奮闘を期し居り候。

生れしより憧れ候、大空に行くの光栄、之(これ)に過ぐるもの無く、
浜松の空に育まれし幸福無上のものに御座(ござ)候。

我儘(わがまま)のみ申し 真に不孝のみ致し、
更に先立ちて逝くの事申訳無く候共、
御国の守として悠久の大義に生くるを信じ居り候間、
御許被下度(くだされたく)候。

生還もとより期せず。仮令(たとい)、身は南海の涯(はて)に散るとも、
七度(ななたび)生れて寇敵(こうてき)を討たん決意に燃え居り候。

幼時より御世話に相成り候人々に、よろしく御伝被下度、願上候。
兄の如く思ふ先輩と共に、此の栄(はえ)ある攻撃に臨(のぞ)むを、
此の上無き喜と存じ居り候。

勇みて出撃仕り候。
                             謹 言

                
                        誠 次 郎

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/91942222101c71485cc2141b5df10be1 )

           <感謝合掌 平成31年4月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年4月 - 伝統

2019/04/10 (Wed) 20:58:25


私が死んだら


陸軍少尉 山 川 弘 至 命

昭和二十年八月十一日
台湾屏東南飛行場にて戦死

岐阜県郡上八幡町出身
二十八歳



私が死んだら

私は青い草のなかにうづまり
こけむしたちひさな石をかづき
青い大空のしづかなくものゆきかひを
いつまでもだまつてながめてゐやう。

それはかなしくもなくうれしくもなく
何となつかしくたのしいすまひであらう。

白い雲がおとなくながれ
嵐が時にうなつて頭上の木々をゆすぶり

ある朝は名も知らぬ小鳥来てちちとなき
春がくればあかいうら青い芽がふき出して
私のあたまのうへの土をもたげ

わたしのかづいてゐる石には
無数の紅の花びらがまふであらう。

そして音もなく私のねむる土にちりうづみ
やがて秋がくると枯葉が
日毎一面にちりしくだらう。

私はそこでたのしくもなくかなしくもなく
ぢつと土をかづいてながいねむりに入るだらう。
それはなんとなつかしいことか。

黒くしめつたにほひをただよはせ
私の祖父や曽祖父や
そのさき幾代も幾代もの祖先たちが
やはりしづかにねむるなつかしい土

その土の香になつかしい日本の香をかぎ
青い日本の空の下で
私は日ごとこけむす石をかづき
天ゆく風のおとをきくだらう。

そして時には時雨がそよそよとわたり
あるときは白い雪がきれいにうづめるだらう。

それはなんとなつかしいことか。
そこは父祖のみ魂のこもる日本の土
そこでわたしはぢつといこひつつ
いつまでもこの国土をながめてゐたい。

ただわたしのひとつのねがひは

――ねがはくは 花のもとにて 春死なん
 そのきさらぎの もち月のころ――

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2010-04-12-1 )

           <感謝合掌 平成31年4月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年4月 - 伝統

2019/04/11 (Thu) 18:08:45


御母さん笑顔で送って下さい


陸軍軍曹 永留 忠男命

昭和二十年四月十六日
伊豆諸島御蔵島周辺海域にて戦死

鹿児島県鹿児島郡伊敷村出身 
二十三歳


御母さん暫(しば)らく御無沙汰致してゐます。
忠男も益々元気で毎日御奉公一途で励(はげ)んでゐます。

此の度突然重大使命を帯びて某(ぼう)方面へ出発致します。
思残す事はありませんが、二十有三年の間立派な帝国軍人と成る迄
訓育下された御恩に何一つ報(むく)いる事なく御別れ致すのが心苦しき次第です。

御母さんの今迄の苦労は筆舌(ひつぜつ)に尽しても余りあると思ひます。
何時かは母上を幸福にさして上げたいと念願致して居りましたが、
今となっては仕方はありません。

しかし大日本に生を禀(う)けし男として最上の孝行の道にのぞまんとする今喜んで征きます。
御母さん笑顔で送って下さい。

      (中略)

では最後に御母さんの幸福を祈ると共に、
親戚及近所の皆様の御多福を祈りつゝ笑って征きます。

     四月五日
                                  忠男
母上様

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/872d45d37465f0f50dbc9ff8c37f1d0c )

           <感謝合掌 平成31年4月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年4月 - 伝統

2019/04/12 (Fri) 20:27:48


遺 書


陸軍伍長 茶谷 武命

昭和二十年四月二十三日
フィリピン群島ルソン島
タクボにて戦死

神奈川県足柄下郡温泉村出身
二十三歳


 武モタウ(*繰返し)オ役ニ立ツ時ガ参リマシタ。
 生ヲ稟ケテ二十余年、唯ノ一度モオ心ヲ安マセルコトナク過シテ来タコトヲ
 オワビ致シマス。

 今ノ私ノ氣持ハ吉田松陰先生ノ
 「親思フ心ニ勝ル親心今日ノ訪レ何トキクラン」
 ト歌ハレタ氣持ソノマヽデアリマス。

 今思ヒマスニ人一倍子ボンノウノ父上ニトッテ、
 コレヲヨマレレバドンナデアルカハ、
 ヨシ全部デナクテモオシハカルコトガ出来マス、
 デモ此ノ皇國危急秋私達ノ涙ハカクサレネバナリマセン。

 私ノ肉体ハコヽデ朽ツルトモ、私達ノ後ヲ私達ノ屍ヲノリコエテ
 私達ヲ礎トシテ立チ上ッテクル第二ノ國民ノコトヲ思ヘバ、

 又之等ノ人々ノ中ニ私達ノ赤キ血潮ガウケツガレテヰルト思ヘバ、
 決シテ私達ノ死モナゲクニハアタラナイト思ヒマス。
 日本ニ生レタ者ノミニ許サレル永遠ノ生ニ生キルトイフコトガイヘルノデス。

 之等ノ事ヲ思ヘバ私達ハ涙ヲ流ス前ニ故國ノ勝利ヲ、
 天壌無窮ヲ祈ラネバナリマセン。

 ドウゾ私ノコトヲ笑ッテホメテ下サイ、
 武モ笑ッテ散リマス、

 デハ父上母上オ身体ヲ大切ニシテ下サイ。
 サヨウナラ
                武ヨリ

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/8a3fc4aac932a65c142dddccbfda8d19 )

           <感謝合掌 平成31年4月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成19年4月 - 伝統

2019/04/13 (Sat) 16:46:12


愛しきものへ

書遺申候

陸軍軍曹 下 忠夫 命
昭和十九年十一月十日
比島方面にて戦死
広島県出身
二十四歳


和夫様

気ヲ大キク強ク持ッテ希望ニ向ッテ進メヨ
実行力強キモノ即チ日本青年ナリ
然シテ希望達セバ兄ノ分マデ盡サレヨ

兄弟妹揃ッテ御孝養アラン事ヲ願フ
一、身體第一
ニ、男ラシク勇敢ニ
三、素直デアレ

                 忠夫


律子 光江様

女ハ心第一デス
立派ナ女性ニナッテ下サイ
(母上ノ様ニ)
ソシテ皆デ御孝養願ヒマス

右書遺申候

                 忠夫

 昭和十九年

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/m/200704 )

           <感謝合掌 平成31年4月13日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成18年4月 - 伝統

2019/04/14 (Sun) 18:36:52


戦 没 者 遺 書

海軍兵曹長 第六十六警備隊 近藤 八郎 命 
昭和十九年二月六日 
マーシャル群島クェゼリン島にて戦死
長崎県出身
二十七歳 


短期間の実に楽しい結婚生活であった。
厚く御礼を申す。

俺も此の度は生還は帰し難し。
武人の妻として誇を持ち絶対に取乱してならぬ。
七転八起の精神を振ひ起し、世の荒波を乗切る様。

くどい事は申さぬ。
幾時も申してゐた言の葉を思ひ起し、老先短き両親に仕へる様。

尚坊やの顔も見たいけど致方ない。
清く美しく育てて呉れ。

男子の場合は姓名近藤征一郎。
女子の場合は姓名近藤洋子と命名して呉れ。


暑さ寒さに留意され自愛専一に。

二十二日夜認ム
                        敬具

                        夫より
マスエ殿
                    
(原文のまま)

 ( https://ameblo.jp/nkn-jj/entry-12061235259.html )

           <感謝合掌 平成31年4月14日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成17年4月 - 伝統

2019/04/15 (Mon) 17:10:16

遺  書

海軍中将 有賀 幸作
戦艦「大和」艦長
昭和20年4月7日
南西諸島にて戦死
長野県出身47歳

八紘一宇大東亜共榮の新秩序建設に宿望の指令として
然も帝国海軍最新最鋭の駆逐隊を率ゐて外敵の撃滅に當り得るは
誠に無上の本懐なり元より生還を期せず武運目出度克く任を全うし
皇恩の万分の一にも報い奉るを得ば祝福あり度


母上様  

家運再興のため御老年にも拘らず永年に渡る御辛苦御努力
誠に感激の外なく思茲に至れば常に涙なき能はず厚く御礼申し上ぐる
と共に生前至らざる事のみ多かりしを深く御詫申し上げます

御健康と御幸福を奉祈ます 
逆乍ら好子並に子供の事宜しく御願ひします
尚好子等住所に関しては其の希望を御容れ下さい


好子どの

遇する事の薄かりしに拘らず仕ふる事の申分なかりしを深謝す
常々申渡ありて今更別に述る事なきも
母上様への孝養と子供の養育を全うせられ度  
   
     (中略)

正幸 良江 弘明 公子殿

兄弟相授け平素の父の訓を守り心身の鍛練に學業の成就に努め
忠孝の道を全うし皇國臣民の本分を果すべし

昭和16年11月15日夜認む    有賀幸作
(封書)「戦死の場合開封、それ迄好子保管のこと」 (原文のまま)

 (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/8d2798f1357d708ee149c90124262dca )

           <感謝合掌 平成31年4月15日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成14年4月 - 伝統

2019/04/16 (Tue) 19:34:40


「民族の誇り」を胸に

海軍少佐 西田 高光 命

昭和二十年五月十一日
神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として「爆装零戦」に搭乗、
鹿屋基地を出撃、南西諸島洋上にて戦死

大分県大野郡合川村出身
大分師範学校 海軍第十三期飛行科予備学生
二十二歳


学鷲は一応インテリです。
さう簡単に勝てるなどとは思つていません。
しかし、負けたとしても、そのあとはとどうなるのです…
おわかりでさう。

われわれの生命は講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながつていますよ。

さう、民族の誇りに…

  ( https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1922071787?org_id=1922116355 )

           <感謝合掌 平成31年4月16日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成10年4月 - 伝統

2019/04/17 (Wed) 20:10:06


いざ 征かん南の空へ
   
       
海軍少佐 末吉 實 命  
      
昭和二十年四月六日南西諸島方面にて戦死
海軍第十三期飛行科予備学生 
浜松高等工業高校

福岡県小倉市出身 二十五歳


遺書

 突然でさぞお驚きの事と存じますが、私も身を以て國難に当る時が参りました。
只今本隊より懐かしい名古屋を右に見てこの鈴鹿空に到着、
愛機即ち棺桶の中で之を書いて居ります。

思へば二十有五年の筆舌にせざる御慈愛と御苦労に何等報ゆるなく
親不孝の数々、誠に何とお詫びしてよいやら、一人涙がにじむのみです。

お蔭様にて私も他より先に進級致し、
只今では神風特別攻撃隊第二筑波隊々長として
同期の櫻を率いて敵空母に体当たりする機会を得ました。

男子の本懐之に過ぐるものはありません。
必ず兄上の仇は引受けました。
明日の戦果を御期待下さい。
  
出撃数日前に家の消失を知りました。
うち続く打撃でさぞ御落胆なさる事と存じますが、     
何卒お力落しの無い様、近所の人達と協力、復興にお勤め下さる様御願ひ致します。

何事も気の持ち様ですから、しつかりした気持で
天壽をうされん事を最後迄祈つて居ります。

ではそろそろ転進の時間が来ましたので之で失礼を致します。

昭和二十年四月五日 午後二時

御両親様
 
只今より必死必殺の攻撃に征く 心の平静たる
 本日の空の如し 白木の箱の整備なる 
いざ 征かん南の空へ

吾が予定突入時刻
 昭和二十年四月六日 一七・○○
  潔く散れや 筑波の若櫻       以上

 ( https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1951084039?org_id=1932297887 )

           <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成9年4月 - 伝統

2019/04/18 (Thu) 17:03:55


お父さん、お母さんとさけびます

海軍一等飛行兵曹 椎根 茂 命

神風特別攻撃隊第二護皇白鷲隊
昭和二十年四月十二日 南西諸島方面にて戦死
海軍第十二期甲種飛行予科練習生
東京都荒川区出身 二十歳


気のせく儘(まま)に乱筆にて断片的に私の現在の心境を書き遺します。
私此の世に生を亨け二十有一年御両親様の一方ならぬ慈愛のもと
私は今に至る迄日本一の幸福者と思つて居ります。

翻つて戦局を見るに敵は有り余る兵力と物資に物を言はせ
遂に沖縄に迄魔の手を延ばして来ました。

三千年の光輝ある歴史を有する大日本帝国未曾有の困難に
私は特攻隊を志願致しました。

一切の私心を捨て、悠久の大義に生きます。

私この期に及び只一つの心残りは
今迄私はお父さんお母さんに只一度も安心せしめた事もなく
親孝行の模倣だに出来ずに散るのが残念です。

しかし私は立派に手柄を立てて死んで見せます。
我々和気隊白鷲隊が新聞に出た時は私が真先に突込んで
行つたと思つて下さい。

私も最後の親孝行そして椎根家の名誉として
驕敵米兵共数千と船一隻を太平洋の藻屑として見せます(中略)

兄さん姉さん八重子等にも書き残し度い事も少し有りますが急ぎますから…
只兄さんは立派な体になつて私の分迄孝行をして下さい。

さやうなら

私の突込む時は必ずお父さんお母さんとさけんで突込めます。

茂より

御両親様

   ( https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1929153724 )

           <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成4年4月 - 伝統

2019/04/19 (Fri) 18:49:38


<突進致します>


陸軍大尉 安部正也命

昭和二十年四月二十九日
沖縄方面にて戦死
福岡県出身 二十二歳


秋(とき)到る

愈々(いよいよ)突進致します

必ず成功致します

御照覧あれ

必死必沈以(もっ)て悠久の大義に生きむ

死亦楽しからずや

命降る今ぞ此の身を捧ぐれば

皇國は永久に栄えまつらむ

敵艦に当り砕けて散る桜

永久(とわ)に残さん花の香りを


母上様、御元気で

自分は幸福です

斯(か)くも崇高な任務に死し得るとは男子の本懐之に過ぐるは無し

必勝を信ず

           <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~令和元年5月 - 伝統

2019/05/01 (Wed) 20:34:33


遺書

陸軍少佐 安齋 昌(あんざいさかえ)命

昭和十九年五月一日

インド フェンニイ付近にて戦死
宮城県仙台市郡山出身 
二十五歳


二十有余年を顧みて、今日(こんにち)私が斯くも立派に死所(ししょ)を
得ましたのも、一重に御両親様はじめ兄上様、弟両君(りょうくん)等の
御厚情、御薫陶の賜(たまもの)と深く深く感謝しつつ喜んで国難に殉じて行きます。

今にして思ひを過ぐる日に致しますれば、此の御厚情に何ら報い奉る事も得られず、
唯(ただ)々己が不孝に涙を禁じ得ない次第であります。

何卒、此の不孝をお許し下さい。


  御両親様
  兄上様方
  姉上様方
  弟両君

皆様の御隆昌と御健康を御祈り致します。

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 令和元年5月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年5月 - 伝統

2019/05/02 (Thu) 20:15:06


遺言書

陸軍伍長 宮井 倞一 命
昭和二十年九月二十四日

中国牡丹江省寧安県にて戦死
大阪府岸和田市土生滝町出身 二十四歳


   皇國(みくに)の為に死するとも
       軍人の本懐なり
     
   我行かん
       靖國社頭の若櫻 七生報國

   敵の為に死するとも
       再度生まれて敵を倒さん



 遺言としても自分には心残りは無し
唯(ただ)、御両親にこれといふ孝行も致さず
先立つ不孝を御許し下さい。

   生母の愛を
       我天に聞く

   昭和二十年一月十四日

      陸軍一等兵 宮 井 倞 一

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/e5ba95d7a44325a86d358a2930122cf0 )

           <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年5月 - 伝統

2019/05/03 (Fri) 21:05:15

愛する成子よさらば


陸軍少尉 齋藤 良雄 命

昭和二十年五月二日
中華民国湖南省にて戦死
青森県北津軽郡嘉瀬村出身 
三十六歳


明日出征にあたり一言す。

皇国未曾有の難局に処し、父は明日出征す。
もとより男子の本懐
平素の覚悟なり。

(中略)

成子よ、父がなくとも決して悲観をするな。他人を羨むな。
父は必ずお前たちの側に居るのだ。お前たちを守ってゐるのだ。

もし淋しかつたら父の名を呼べ、必ず父はお前の心に答へるであらう。
もし父と会ひたくば、靖国神社の社前に来たれ。父は必ず生きてゐる。

決して淋しがつてはならぬ。
強く正しく清く、而(しか)も女は優しく生きてゆくことだ。
父はお前達の成長をどこかで守つてゐるのだ。決して心配するな。

(中略)

たとへ貧しくとも明朗に幸福に生活せよ。
母に良く仕へ、祖母に父に代はり孝養を尽くせ。

(中略)

別れるにあたり、言ひたいことは沢山あるが、要は立派に生きてゆくことだ。
決して父のないことを悲観するな。

愛する成子よさらば。

健康と幸福を祈る。


昭和十九年七月十六日
                        
父 良雄

成子殿

  (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/914761c415efb8972722d790ae8c5bbd )

           <感謝合掌 令和元年5月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年5月 - 伝統

2019/05/04 (Sat) 19:08:50

愈々(いよいよ)第一線へと出発致します


陸軍兵長 古川清博 命 

昭和二十年五月二十日
ギルバート諸島タラワにて戦死

鳥取県東伯郡松崎村出身 
二十四歳


父上、母上、清博今、愈々第一線へと出発致します。

清博は、今こそなんの心残りなく戦友に負けず勇躍征途につきます。
死して再び帰らず。
清博は、南で喜んで建設の小さな礎石と化すの覚悟であります。

博惠のこと、鈴子のこと万事父上にお任せします。
宜しく御願ひします。

清博のことは決して御案じなき様、何事も他に負ける様なことは致しません。
初陣には手柄ニュースでも皆に御知らせ致します。
留守中父上に御任せ致し、元気一杯勇んで征きます。
呉々も御安心下さい。

かりにも私事に悩み大切な御奉公怠る様な清博ではありませんから
呉々も御安心下さい。

先立つ不孝は御許し下さい。
又、我亡き後は別紙遺書の如く御取り計らひ下さい。

清博には、鈴子こそ広い社会にたった一人の真実の女性であったことを御信じ下さい。

乱文にて取り急ぎ。

昭和十八年十一月十九日夜

            
                          清博拝

御両親様

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/5eb18c9ae8f8cd0d3c7d1daf81107685 )

           <感謝合掌 令和元年5月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年5月 - 伝統

2019/05/05 (Sun) 20:43:38


遺書


海軍少佐 沖山文忠命

昭和二十年五月十五日
南西諸島方面にて戦死

東京都八丈島大賀郷村出身 
二十五歳


(前略)
今、敵米英艦隊が断末魔の苦しみにもがいて居る戦場に程近い基地で待機、
今日明日の必死必中攻撃を待って居ります。

今は何も憶ふ事はありません。

唯、青史(せいし)まさに三千年ゆるぎなき神州に生を享けて二十有余年、
広大無辺なる鴻(こう)恩(おん)に浴し父母の慈愛に育まれ、
山よりも高く海よりも深い師の導きにより、大東亜の盟主たる皇国民として
大過なく今日あるを得、

今又赤子の一人として神風特攻隊員として
神州の不滅を確信しつつ悠久の大義に生きる。

例へこの身は敵米艦と共に太平洋のもくずとならうとも、
日本男児と生を享け之に過ぐ可き本懐が又とありませうや。

(中略)

皇国の興廃を賭するこの一大過渡期に当りて、
君の御楯と散り行くわが身は実に幸福であります。

最後に臨み申し上げ度き事は、皇室のご安泰と大東亜の健全なる発展を
神かけてお祈り申し上げると云ふ事であります。

尚、亡き母は勿論、父上始め肉親の皆様、
長々とご苦労のみお掛けして何等為す処もなく、孝養らしき事すらせずして
去り行く私を何卒お許し下さい。

では皆様末長くお幸福に。
 
 昭和二十年五月六日
 
                         沖山文忠


沖山徳三郎殿   

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/1a9fb4fdcf22d544f1d8902e88bd6f86 )

           <感謝合掌 令和元年5月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年5月 - 伝統

2019/05/06 (Mon) 19:18:42


遺言書


陸軍准尉 喜多富夫命

昭和二十一年五月二十三日
シンガポール・チャンギーにて法務死

大阪府茨木市大字道祖本出身 三十歳


国に生を禀(う)け最後の筆を執る。

拾有余年、軍隊生活を満洲、支那に将(はた)又(また)南方戦線に移戦、
敢闘茲(ここ)に御慈悲深き御両親、血肉分けたる兄弟及び妻子より先逝し、
従容(しょうよう)として死に就き国家の礎となる。

思ふに生を稟(う)くる間、
御情け深き御両親の御意志にも副(そ)ひあたはず、実に申訳なく存じます。

脳裏を故郷に回顧せば隆々たる喜多家に生ひ立ち、
彼の家屋、彼の門其の幼相面影懐かしく、唯感慨無量に堪へず、
私の死は決して万人に恥づる事なきを堅く誓ふ。

細部は必ず誰か達すると思考するも、
天は知り神も能(よ)く?御存じの筈です。

私生存中の気質承知の筈、信じて下さい。

唯々世間に与へる風評其れのみが非常に心配であり、心残りであります。
亦、血肉わけたる兄弟の安否を気遣ふ。    

沖縄九州方面に奮戦中の吉治兄は?
原子爆弾に依る広島の敏時兄は?     
ビルマ方面に勇戦敢闘中の一夫弟は? 
国土防衛空の荒鷲の勉弟は?

皆夫々推察する時、生死を超越し
御両親の御膝下(しっか)に帰しあるを神掛けて祈るのみです。

(中  略)

命日は昭和二十一年五月二十三日と思考。

連合国軍より遺品として将校用絨製(じゅうせい)軍衣袴(私製)を送付せられる筈。
当服は小官常時着用せるものであります。

最後に喜多家御一同様の隆替(りゅうたい)と万福を祈り、之を守護す。

  昭和二十一年五月二十三日 三時書く         陸軍准尉 喜多富夫

喜多佐太郎様
同  キト様
御一同様

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/ca56b64b91f4dc008f9976d747bdd5e8 )

           <感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年5月 - 伝統

2019/05/07 (Tue) 21:44:07


更級横多神社 社頭に於いての出征挨拶


陸軍大尉 望月重信命

昭和十九年五月二十二日
フィリピンにて戦死

長野県更級郡篠ノ井町出身
三十五歳


本朝はかくも早々皆様の熱誠なる御歓送をいただきまして、
まことに感謝に堪へません。
私は皆様の御心に報ゆべく、必ず全力を尽して御奉公を致す覚悟であります。

今やこの非常時は、今までの戦争の様に、
単に世界の地図が塗り変へられるといふ丈(だけ)のものではありません。
世界人類の歴史の上に、数百年の大きな時代を画(かく)して、
人類の人生観が、国家観が、世界観が、政治の上にも、教育の上にも、
経済の上にも、芸術の上にも、宗教の上にも、
その他一切に大ひなる飛躍をなさむとしてゐるのであります。

新らたなる世界が、我が皇国日本を母体として生れむとしてゐるのであります。

(中略)

戦死すると云ふ事は、人生本来の約束から観れば、
それ程驚く可き事でも、またさして悲しむべき事でもありません。
増してや、天皇の御為にこの一命を捧げます事は、日本男子の本懐であります。

吾等は只、この生れては死に、死んでは生れてゆく悠久なる人生の連鎖に於て、
如何にして永遠の生き甲斐に生き、さうして不滅の死に甲斐に死ぬか
と言ふ事であります。

(中略)

私は本日、大命を拝して勇んで戦線にのぞみます。
もとより生還は期して居りません。

然し、私達をして死に甲斐あらしむるか否かは、
あとに残られた皆様の責任であります。

今後まだまだ大なる、それこそ非常なる艱難(かんなん)が
国家の上に、皆様の上に、必ず振りかゝって来るでありませう。

その時になって、どの様な苦しい事があっても、
皆様は決してへこたれたり、悲鳴をあげるやうな事があってはなりません。

どうかこの事をこの社前におきまして、
くれぐれもお願ひ致しまして出発のご挨拶と致します。

終りにのぞみまして、村内皆様の御健康を祈ります。

終り

    昭和十四年五月一日    

・・・

<関連>                     
フィリピン人に愛国心を教えた望月重信中尉

フィリピンにおいて日本の戦局が悪化しはじめる中、
拘束したフィリピン人ゲリラに対して、宣伝班の望月中尉は
「日本はフィリピン支配を考えておらず、アジアを白人から解放したい」
という教育を施し、次々とゲリラを釈放するなどした。

この経験から、望月中尉はフィリピン青年に優秀な若者がいることを感じ、
皇道精神の普及のため、全寮制の農業教育訓練所を組織する。

ちなみに、訓練所には60名の定員に対して2000人もの応募があるほどの人気ぶりだった。

 
後に卒業生は望月中尉の言葉に感銘を受けたと回顧している。
望月は、まずフィリピンを愛すること。
そして、日本とフィリピンが戦うようなことになったら、
フィリピン軍の中核として戦うこと、を教えていたという。

結局、望月中尉は、1945年の5月、第3期の教育計画を進めようとした矢先に、
強盗との銃撃戦で命を落としてしまう。

そして、1977年、訓練所の卒業生たちは、望月の遺族に感謝状を贈った。

(Web:日刊SPA!PLUS <2016年09月02日>)
     https://nikkan-spa.jp/plus/1190262


           <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年5月 - 伝統

2019/05/08 (Wed) 21:06:42


お母さん


陸軍衛生軍曹  向川敬昌命

昭和二十年五月十七日
比島群島ルソン島ヌエバビスカヤ州
ラクタワンにて戦死

富山県西砺波郡石動町出身
二十六歳



お母さん。

敬昌は立派に天皇陛下万歳と笑って、祖国の為に南に散って征きます。
二十何年の長い間の限りなき愛を思へば、有難く只感謝の外ありません。

それに引きかへ、何ら御両親の恩愛に報いる事の出来なかった
不甲斐ない己を想ふと、悲しく心から泣けます。
不孝の罪は御許し下さい。

敬昌は、今は宿敵米撃滅の鬼となり、尊い血汐を流し比島の土と化します。
長い間、有難う御座いました。
後の事は宜敷く御願ひ致します。

お母さんも達者で、長寿を全うされん事を、
遠い異国の草葉の陰より御祈り致して居ります。

姉にも妹にも悪い兄であり、弟であった事を深く御詫び致します。
私に
   金銭の借し賃りなし
   婦女の関係なし   
                            比島にて
                            向川敬昌拝
母上様

 一、ちりほどに  心に残る  何もなし
    今日限りの  夕暮れのそら

 一、今はただ   怒りに燃へて  夷(えみし)らを
    根こそ攘(はら)はむ  いのち捧げて

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/1d71ca44d5ec50a9afd9a71b1f9ca1e3 )

           <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年5月 - 伝統

2019/05/09 (Thu) 19:47:36


絶   筆


海軍大尉  碓本 守命

  昭和二十年五月四日
  南西諸島方面にて戦死
  滋賀県大津市下平蔵町出身 二十五歳


拝啓、長い間御無沙汰許(ばか)り致し、誠に申訳ありません。
皆々様、何時も御元気の由、慶賀に堪へません。
私も元気です。

愈々出撃です。
長い二十五年、本当に有難う御座居ました。
私は悠久の大義に生きて行きます。

私の今まで詫間に於ける状況は、私の教へた練習生が、
今度大津空へ行きましたから、その練習生から聞いて下さい。

では、皆様いついつまでも元気にやって下さい。

父上、母上、幸子、智、榮子、千ちゃん、皆さようなら。

                        
                        守

皆々様

荷物の方も行李(こうり)だけは後から送ります。
トランクは練習生が外出の時、家まで持って来て呉れます。
練習生が遊びに来た時は、可愛がってやって下さい。

この練習生は、練習機で離着水だけやって後、取止めになったのです。
残念ですが致し方ありません。

師範学校の方にも宜敷(よろしく)。
川瀬、猪飼の小母さんにも宜敷。 

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/d6986e70d050f668908b1d8c8b8339a3 )

           <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年5月 - 伝統

2019/05/10 (Fri) 21:24:28


弟妹に遺す


陸軍中尉 吉村春平命

昭和二十年五月十六日
ビルマにて戦死
山口県熊毛郡阿月村出身


兄ハ喜ビテ大日本帝國ノ為天皇陛下ノ御為ニ瞑ス
喜ベ、此兄ニシテ陛下ノオ役ニ立チタリ
況(ま)シテヤオ前等ハ兄以上タルベシ

心アラバ白木ノ位牌ニ一杯ノ水ヲ汲メ
生存中ハ兄トシテ弟妹ノ指導不行届ニシテ模範ヲ示シ得ズ。

兄ノ志ヲ継ギ益々皇国ノ為奮闘セラレン事ヲ祈ル。

尚兄ノ分迄孝養忘ルゝ勿レ

一、大忠大孝ノ道ニ生キヨ

二、常ニ天皇陛下ト父母ヲ忘ルナ

三、常ニ健康ニ注意セヨ

四、男ハ男ラシク女ハ女ラシク

五、満平ハ皆ンナシテ可愛ガレ

六、家名再興ハ弟妹仲良ク一致シテ計レ

                                                
 吉村春平

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2010-05-06 )

           <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年5月 - 伝統

2019/05/11 (Sat) 21:21:51


よき同伴者を求めてください


陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命

昭和十九年七月十八日
マリアナ諸島にて戦死
愛知県北設楽郡名倉村出身 二十六歳


季代子、かう呼びかけるのが最後になりました。
短かったけれど優しい妻でした。
有難く御礼を申上げます。

(中略)

折角、永遠の誓ひを致しながら、
最後になりますのは何かしら心残りですけれど、
陛下の御楯として果てる事は私にとりましても光栄と存じます。

短かい生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき
申訳なく死に切れない苦しみが致しますが、
すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。

若い身空で未亡人として果てる事は決して幸福ではありませんから、
佳(よ)き同伴者を求めてください。

私は唯幸福な生活をして頂けますれば、
どんな方法を選ばれませうとも決して哀しみません。

(中略)

どうぞ御健やかに御活(おくら)し下さいます様お祈り致してゐます。

さやうなら

昭和十九年五月三日

伊藤 甲子美

季代子様

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-05-10-1 )

           <感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年5月 - 伝統

2019/05/12 (Sun) 21:28:35


遺 書

海軍少佐 古谷眞二命

昭和二十年五月十一日
海軍第十三期飛行科予備学生
攻撃第七〇八飛行隊
南西諸島にて戦死

東京都京橋区槙町出身
二十三歳



 皇國の一男子として生を享けて以来二十有余年、
國を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、
正に之に過ぐるものなし

(中略)

過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、
甚だ深くして、浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず、
その深遠厚大なるに対し深く(*繰り返し)厚く(*繰り返し)
御礼申し上ぐるものなり。

御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして
無事帰還の譽を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは
之親子の情にして当然也、

不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、
目出度く帰還の後、孝養を盡くしたきは念願なれども、

蓋し、時局は総てを超越せる如く重大にして
徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。


大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、
すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり、
幸ひ弟妹多く兄としてのつとめは果せざるを遺憾とは思ひつゝも
願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。


死すること、強ち忠義とは考へざるも、自分は死を賭して征く、
必ず死ぬの覚悟で征く、萬事頼む 

                         眞二

 十八年六月十日 箱根小涌谷にてしたゝむ

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/051a5c71a7dc09aa795772b4abe3071f )

           <感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~昭和42年5月 - 伝統

2019/05/13 (Mon) 21:24:47


今日限りの日記


海軍中尉 沢田 泰男 命
昭和二十年五月八日 横須賀上空にて戦死
大阪市天王寺区出身 東京帝国大学
海軍第十四期飛行科予備学生 二十三歳


四月十二日

心は明鏡、後顧の憂は更になけれど、
ただ一度父母の顔をみて征きたい。
心ゆくまで話して征きたい。

しかも、それさへも、もう、かなはぬ。

せめて写真でも持つていれば良かったのに、
…俺は親不孝だつた。…
進発まで、時日余裕も少い。

とびとびながら一ヶ年近く北浦の学生生活を綴って来たこの日記も、
今日限りやめることとする。

特攻隊員に命名されて、体当りするまでの気持なんていふものは、
とても筆などにては真を写し切れるものではない。
この心境は、かかる経験を有する者のみが味はひうるものとして書くことは止めやう。

さらば、父母、弟妹、師よ、御健康をお祈りします。


[昭和四十二年五月靖国神社社頭掲示]
https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1931431907?org_id=1929696920

           <感謝合掌 令和元年5月13日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~昭和53年5月 - 伝統

2019/05/14 (Tue) 20:29:03


吾等は最善を尽くしました

海軍大尉 細田春中 命

海軍第10通信隊 ペナン島第四分遺隊長
昭和二十年八月二十三日 ペナン島にて責任自決
東京外国語学校卒 山梨県大泉村出身 
二十八歳


正義の戦と確信し最終の勝利を確信した私の信念も、終に破れました。

思へば昭和十八年六月十二日、
再度南方勤務の命をうけ昭南に飛来して着任した当時は、
此の信念にいささかも変りなかつたのですが、

第十方面艦隊通信部隊長と云ふ学徒出身将校としては異例の抜擢を受け、
ペナン市の指令部に着任して敵國の無電を接受する様になつてから、
八ヶ月を経るに従ひ戦局に不安を感ずるようになりました。

しかし斯くも無慙な、斯くも悲痛な敗戦の幕を閉ぢやうとは信じられない現実です。

が、吾等は最善を尽くしました。

今更、戦争の指導者も、戦争財閥も恨みますまい。

要は化学兵器に対し精神力兵器が敗れたのです。

井中の蛙大海を知らずを、如実に物語つて居ります。

元より私は一点の濁りもない崇高な気持で昇天の精神を以て、
従容死に着くのでありますから、一掬の泪で満足致します。

ではお父さん、お母さん、
永々の御薫陶を万謝致しますと共に天寿を全うせられ、
幼き弟妹を立派に御訓育下さいますやう、切に切にお願ひ致します。

ではこれでお訣れと致します。

(『英霊の言乃葉』第四輯/P10-9 昭和五十三年五月 靖國神社社頭掲示)


           <感謝合掌 令和元年5月14日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成19年5月 - 伝統

2019/05/15 (Wed) 20:14:12


遺書

陸軍少尉 土屋 正 命

昭和20年3月17日
フィリピン群島レイテ島にて戦死
千葉県出身 
29歳


親愛なる弟妹等よ。
健く清らかに強く次代の皇民たれ。
吾が霊、常に汝等の前途を護らん。


敬愛なる靜枝よ。
汝によりては余は人生に一段と潤ひを知れり。
別離3年、終始渝(かわ)らざる愛情と絶えざる激励とは
戦陣に仕へる余の志気に鼓舞する事如何に大なりしか。

最期に臨み深甚なる謝意を表し旁(かたがた)、
毫末も為し与へざりしを謝す。

今より先、強く正しく朗らかに、皇国の母たるの途を邁進せられよ。
吾が身、東亜の涯に埋むとも魂魄(こんぱく)永く九段の社頭に在りて
汝が前途を護るべし。

昭和18年

土屋 正

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/m/200705 )

           <感謝合掌 令和元年5月15日 頓首再拝>

大阪護国神社 平成二十三年五月 社頭掲示 - 伝統

2019/05/16 (Thu) 20:53:21


雲湧きて流るるはて


海軍少佐 古川 正崇 命

昭和二十年五月二十九日 沖縄近海にて戦死
海軍第十三期飛行予備学生
大阪外国語学校
二十三歳


出征の日に私は友の前で、
「大空の彼方へ我が二十二歳の生命を散華せん」と詠つた。

さうして今その二十四歳の生命をぶち投げる時がきた。
出征の日に私は机に
「雲湧きて流るるはての青空のその青の上わが死に所」と書いてきた。

さうして今その青空の上でなくして、
敵艦群がる大海原の青に向かつて私の死に所を定めやうとしている。

しかも人生そのものにやはり大きな懐疑を持つている。
生きているといふこと、死ぬといふことも考へれば考へるだけ分からない。

ただ分かつていることは、
今、日本は大戦争を行つているといふこと、
神州不滅といふこと、

その渦中に在る日本人として私の答はただ、死なねばならぬ、といふことだけである。
絶対に死なねばならぬ。

我が身が死してこそ國に対する憂ひも、人間に対する愛着も、
社会に対する憤懣もいふことができるのだ。
死せずしては、何ごともなしえないのだ。

今、絶対絶命の立場に私はいる。
死ぬのだ。
潔く死ぬことによつて、このわだかまつた気持ちのむすび目が解けるといふものだ。

[昭和二十年四月二十五日台湾新竹基地]


大阪護国神社社務所 平成二十三年五月 社頭掲示
https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1926718837?org_id=1927113217


心の琴線に触れた言葉…46(英霊の言乃葉/古川 正崇 命)
https://ameblo.jp/tukino17/entry-12357040395.html

           <感謝合掌 令和元年5月16日 頓首再拝>

Re: 英霊の言乃葉 ④ - xsszotdedrMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:11:08

伝統板・第二
xsszotdedr http://www.gk1cezb0m855203l80plw91tb5fa92y8s.org/
<a href="http://www.gk1cezb0m855203l80plw91tb5fa92y8s.org/">axsszotdedr</a>
[url=http://www.gk1cezb0m855203l80plw91tb5fa92y8s.org/]uxsszotdedr[/url]

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.