伝統板・第二

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「弥々生うるいのち」(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/03/02 (Sat) 13:18:45

光明掲示板・第二 消滅により、
「弥々生うるいのち~「生命の實相」第37巻幸福篇上」の
伝統板・第二への再掲示です。


(弥生)弥々生うるいのち~第37巻幸福篇上

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より

啓示 ――

人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。

神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。

第一の創造は神の「世界および人間創造」である。

神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。

「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。

しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」「創世記」第一章の神の宣言に
あらわれている。

神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。

人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。

人間に病気はない。

            <感謝合掌 平成26年3月1日 頓首再拝>

・・・

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より

啓示の第二 ――

人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。

人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ―― 
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。

エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。

かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。

しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。

神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」とある以上は、
すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。エデンの楽園のほかに国土はない。

このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。

実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。

そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。

もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。

では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
 ―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。

そしたら「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の「どこへ?」逐い出されたのであるか。

誰が? どこへ? 
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。

            <感謝合掌 平成26年3月2日 頓首再拝>

・・・

現象を否定し、実相を肯定せよ

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。

            <感謝合掌 平成26年3月3日 頓首再拝>

・・・

三界唯心の理

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 平成26年3月4日 頓首再拝>

・・・

「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 平成26年3月5日 頓首再拝>

・・・

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)う

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月6日)」より

明るさはあらゆるものに喜ばれる。

招かれないでも明るい人は、光線のようにどこへ行ってもそこで喜ばれる。
招かれても暗い人は、どこへ行ってもやがては嫌われる。

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)い、暗い人には常に不幸がつきまとう。

            <感謝合掌 平成26年3月6日 頓首再拝>

・・・

悪事を断ち切る道

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。
そして本当の「私」でない者に、今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 平成26年3月7日 頓首再拝>

・・・

自己弁護する自分は「本物の自己でない」

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 平成26年3月8日 頓首再拝>

・・・

眼をひらけば、神の光が輝いている

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 平成26年3月9日 頓首再拝>

・・・

包容精神

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月10日)」より

反抗心というものは自己低卑の証徴(しるし)である。
反抗心の逆は包容精神である。
包容精神は自己偉大の自覚である。

少青年に反抗心はあらわれ、一概にはいえないが、父母には包容精神があらわれている。

乞食でも親分となるほどのものは包容精神が大きいので子分から尊敬せられる。

            <感謝合掌 平成26年3月10日 頓首再拝>

・・・

貧しさの理由

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月11日)」より

すでにあるのに、多くの人が貧しいのは、第一家庭の調和を欠いていること。
祖先の祭祀(さいし)が足りないので祖先の守護の足りないこと。

家族の不調和と祖先の祭祀の不足とで、その人が外に出ても自分の身辺に漂うている
雰囲気が刺々(とげとげ)しくて、他から好意を持たれないことなどである。

            <感謝合掌 平成26年3月11日 頓首再拝>

・・・

幸福は内にあり

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月12日)」より

持ち主もなく宝物がいたるところに埋(うず)められている。
誰もそれを掘り出さないだけだ。

幸福になる道はただ《自分で》掘り出すことにある。

・・・

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月13日)」より

幸福になりたければ、まず自分が幸福になれである。
あたりまえのことがあたりまえである。噛みしめれば味がある。

注意すべきは、幸福とは心の一つの状態であるということである。
金殿玉楼の中にいて、輾転(てんてん)反側して眠れない人もいれば、
弾丸雨飛の中にいて喜びいっぱいの人もある。

            <感謝合掌 平成26年3月13日 頓首再拝>

・・・

時節に乗ることが大切

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月14日)」より

現象界においては時節が事を成就する。
時節に乗ると乗らぬとは、成敗(せいはい)の基(もとい)である。

時節に乗る秘訣は神に一致すること。
神に一致するには、《今ある》状態をまずありがたいと享受して、そこで百%を行ずること。

急ぐはことを破壊し、急ぐ息はセク息である。

            <感謝合掌 平成26年3月14日 頓首再拝>

・・・

あたりまえのことができるものが大賢人

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より

心をしっかりと持つこと。

上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。

腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。

あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。

            <感謝合掌 平成26年3月15日 頓首再拝>

・・・

幸福は無我の中にある

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月16日)」より

幸福は無我の中にある。従うことの中にある。

幸福が我欲の中や、強情我漫の中にあると思っている間は、
その人の心に悪魔が忍び込んでいるのである。

無いものを「有る」と主張する嘘つきが悪魔である。

            <感謝合掌 平成26年3月16日 頓首再拝>

・・・

他を喜ばす心がけ

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より

皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。

この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。

皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。

            <感謝合掌 平成26年3月17日 頓首再拝>

・・・

人生を値切るなかれ!

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 平成26年3月18日 頓首再拝>

・・・

人生を花をもって飾り、讃えましょう

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月19日)」より

人生を花をもって飾りましょう。
縮かんでしまってはなりません。

死人があるからとて、バラの花は咲くように神様から美を与えられているのです。
地上に悲惨があればこそ、われわれはいっそう地上を美しく飾らねばなりません。
委縮するものはついに国を滅ぼすのです。

元気にその日その日を生き、元気に人生を讃(たた)えましょう。

            <感謝合掌 平成26年3月19日 頓首再拝>

・・・

無限供給の宝はあなたの足下にある

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 平成26年3月20日 頓首再拝>

・・・

寛容は大なる美徳

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月21日)」より

すべての人間はその本質は神の子であり、
すべての人間の表現は、時間空間の立場に従ってことごとく異なる。

一つの立場を測る尺度で他の人間を測って批評してはならない。

正しさは美徳であるが、寛容はより大なる美徳である。
寛容を失うとき正しさは悪に変わる。

            <感謝合掌 平成26年3月21日 頓首再拝>

・・・

憎み、悪口は、殺人に等しい

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 平成26年3月22日 頓首再拝>

・・・

本当の希望を見出す

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月23日)」より

人生において最も恐るべき敵は恐怖であり、人生の中で最も助けとなる味方は希望である。

しかしいっさいの浮世の希望が打ちくだかれた時に、人間は本当の希望を見出すのである。

            <感謝合掌 平成26年3月23日 頓首再拝>

・・・

わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より

わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。

わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。

わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。

わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。

この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。

            <感謝合掌 平成26年3月24日 頓首再拝>

・・・

幸福の秘訣

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月25日)」より

胸を広くして待っていること。

ここに幸福の秘訣がある。

            <感謝合掌 平成26年3月25日 頓首再拝>

・・・

恐れず、行動せよ!

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月26日)」より

まず恐れないで虎穴(こけつ)に降りて行かなければならない。
待っているということと、降りて行くということとは両立しないことではない。

恐ろしいものは何も出て来ない。
もし恐ろしい者に出くわしたら、それはただ仮面を被っているだけだから恐れるにはおよばない。
まずそいつと取っ組んで征服し、その仮面を剥いでやるのだ。

すると本当はそのお化けの正体は「幸福」というものであったことがわかるであろう。

            <感謝合掌 平成26年3月26日 頓首再拝>

・・・

真理とともに立つ

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 平成26年3月27日 頓首再拝>

・・・

心配事など取るに足らぬ

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月28日)」より

人間が心配していることは、すべて小さな重要でないことについてである。
真に重要なことの前には人間はかえって大胆に勇敢になるものである。

戦場に出れば人間はもう心配などしている暇がない。

心配していることそのことが、おん身の考えている事柄が
じつに小さな採るに足らぬことであることの証拠である。

これを知ったらあらゆる心配が消えてしまうであろう。

            <感謝合掌 平成26年3月28日 頓首再拝>

・・・

クヨクヨ思い煩うなかれ、未来の光明を持て

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月29日)」より

損失を恐れるものは損失の奴隷となり、損失に蹂躙(ふみにじ)られて滅ぼされてしまうであろう。
損失は本来ないこと、損失のごとく顕われて見えるものも、必ず本当は収穫への道行きである
ことを知ることは智慧である。

過去の傷害についてクヨクヨ思い煩う者は生命を摩り減らす。
クヨクヨ思い煩う暇があるならば、未来の光明について希望と空想をもつべきである。

希望は実現の母。
心に描いて待つものは必ず成就する。

待つ間に心を掠(かす)める「不安」が事を毀(こわ)すのである。
「不安」は蒔いた種子(たね)を毎日掘り返してみる働きである。
かかる農夫に培われる植物は育たない。

            <感謝合掌 平成26年3月29日 頓首再拝>

・・・

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ!

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

            <感謝合掌 平成26年3月30日 頓首再拝>

・・・

人生と云う食膳に上り来る出来事をありがたく食する

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月31日)」より

必需物(なくてならのもの)はすべて与えられている。
必需物(なくてならのもの)は一つの事物ではない。一つの事物にのみ執着する者は、
自分の人生に流れ入って来る「神の与えた必需物(なくてならのもの)」を拒むものである。

世に肥(こ)えることのできない児童に偏食者というのがある。
食膳に上がったものをそのままありがたく受け入れない。
アレかコレかの選択が多すぎる者である。

食膳の食物(しょくもつ)をすべてありがたく拝んで食べる者の
胃腸病は治って肉体が肥えてくるように、

自分の人生に流れ入(い)ってくるいっさいの事件を喜んで受け、そのすべてから滋味を吸収し、
去り行くコースには執着せず、新たに人生の食膳に上(のぼ)り来るものを
また新たに合掌して受け、食する者はついには人生の豊かなる肥満者となるのである。

            <感謝合掌 平成26年3月31日 頓首再拝>


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