伝統板・第二

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「皇紀2679年」 - 伝統

2019/02/11 (Mon) 04:46:17

今日(2月11日)は、わが日本国の誕生日(紀元節)。

この機会に、悠久の時の流れの中で、天照大御神が神勅でお示しになった国家の
この地上への誕生をお祝いいたしましょう。


建国記念の日 奉祝記念行事
  → http://kenkoku.web.fc2.com/

・・・

日本の建国・肇国と東道(みちびき)の神「塩椎神」

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月11日)」より

今日(2月11日)は
神武天皇が大和(やまと)に遷都せられた記念すべき慶ばしい日である。

”みすまる”の魂が高千穂の高御座(たかみくら)に天降りして
弥数多(いやあまた)の国を大和(だいわ)する八紘一宇(Universal brotherhood)
の精神が形にまで顕れて、
大和国(やまとのくに)に都(みやこ)することになったのである。

それはおよそ二千六百年前であるという。

日本の国は領土という土塊の容積ではないのである。
「大和(だいわ)」の理念そのものが日本国で、
それが地上に天降って形を整えたときが日本の建国である。

しかし日本の肇国(ちょうこく)はなおそれ以前に遡る。

畏くも明治天皇が教育勅語に「国ヲ肇ムルコト宏遠ナリ」と
仰せ給いしことに鑑み奉るも、わが日本の肇国は数をもって
言い現わすことのできない悠久久遠の太初(たいしょ)に
遡ることが明らかである。

神武天皇なお高千穂にましませしとき

「天祖の降跡(あまくだり)ましてより以遠(このかた)、
今に一百七十九万二千四百七十余歳」と『日本書紀』に明記してあるから、

彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)より神武天皇に到るまで
すでにこれだけの皇紀を経ているのである。

これは神話であるから
「大和理念」の地上顕現が悠久であることの象徴と見るべきである。

日本の建国の歴史をわざと長くないように考証して喜んでいる人もあるが、
それは結局自己侮辱であり、自己破壊本能の展開に過ぎない。

人間には「生」の本能と「死」(自己破壊)の本能があって、
「生」の本能が旺(さか)んなるものが栄え、
「死」の本能が」「生」の本能に打ち勝つとき衰えかつ滅びるのである。

自己を矮小に言うことに誇りを感ずるような悪い趣味は止めた方がよい。

そのころ塩土老翁(しおつつのおじ)なる老翁(おきな)来たりて
神武天皇に「東(ひんがし)に美地(うましくに)有り」と御奏上申し上げた
ということが同じく『日本書紀』に書かれている。

東方より「大和(だいわ)」の理念が生まれて来るという象徴物語である。

この塩土老翁(しおつつのおじ)は『古事記』では

塩椎神(しおつちのかみ)とて目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)を作り
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)を乗せまつって
金銀(こがねしろがね)饒(さわ)なる竜宮海に導き奉ったと出ている。


竜宮海とはウミの底である。
「創造(うみ)の根底(こんてい)」にある世界とは
現象のよってもってあらわれる根元の世界である。
換言すれば実相の浄土である。

目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)とは、

時間の目盛(めもり)無く空間無く堅くつまりたる小なる一点である。
換言すれば、無時間・無空間の世界、時空を超越し、そこより時空生まれる
一点(久遠の今此処)に乗るとき衆宝(しゅうほう)あまねく充つる竜宮海に入る
ことができるのである。

「無字透関(むじとうかん)」である。
「無」を超えてさらに実相地(じっそうじ)に透関するときに
竜宮海すなわち、無限供給の極楽浄土を実現することができるのである。

この無限供給の極楽世界に入る方法を教えたまう神が塩椎神(しおつちのかみ)である。

そして竜宮海は極楽にして住み吉きがゆえに住吉世界ともいい、
住吉世界の本尊を住吉大神(すみよしのおおかみ)と申し上げるのである。

竜宮海は時間空間を超えた世界であるから、
浦島太郎はそこにあるとき永遠(えいえん)に年(とし)老いず、
このことを仏教では無量寿世界に入るとき無量寿仏と同じ悟りに入ると
言うのである。

老病死の三奸(かん)を征伐せられてから住吉大神は茅渟(ちぬ)の海に面して
長湾(ちょうわん)をなせる山峡(やまかい)に鎮め祀られたのである。

今は神戸市東灘区住吉に本住吉神社があり、神功皇后を主神とし、
脇神(わきだち)として筒男(つつのお)の三神をお祭りしてある。
後に泉州堺に御遷座申し上げたるにより、ここを本住吉神社というと承っている。

三韓征伐とは、老病死の三奸(かん)の克服の象徴物語である。

住吉大神(すみよしのおおかみ)が竜宮の大神であり、
無量寿仏のあらわれである以上、老病死の三奸(かん)を克服せられたことは
当然のことでなければならない。

・・・

<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板・「皇紀2672年 (6717)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1567  → 消滅

(2)光明掲示板・第一「皇紀2673年 (6361)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1198

(3)光明掲示板・第二「皇紀2674年 (5420)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1113  → 消滅

(4)光明掲示板・伝統・第一「皇紀2675年」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=83

(5)『18歳の宣戦布告 国家観なき若者に告ぐ』

  ①光明掲示板・第一「紹介」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1473

  ②光明掲示板・第二「全文紹介」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=54  → 消滅



(6)伝統板・第二「皇紀2676年」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6757091

(7)伝統板・第二「皇紀2677年」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7201865

(8)伝統板・第二「皇紀2678年」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7705616

(9)伝統板・第二「神武天皇」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456469

(10)伝統板・第二「神武天皇(2)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6765219

            <感謝合掌 平成31年2月11日 頓首再拝>

紀元節を寿ぐ - 伝統

2019/02/12 (Tue) 04:28:22

        *Web:大和心を語るねずさんのひとりごと(H31.02.11)より

日本は、天皇あっての日本です。

2月11日は紀元節です。
日本の初代天皇である神武天皇が即位された日であり、ご皇室の祭祀の日でもあります。
ですから紀元節は、昔は「祭日」とされていました。

ちなみに「祭日」とは宮中祭祀の日のことをいい、
「祝日」とは政府の行う祝いの日を言います。
従って紀元節は祭日です。

なぜ2月11日が紀元節かというと、
この日が神武天皇が即位された旧暦の皇紀元年元旦だからです。
いまから2679年前のことです。

紀元節は、明治5(1873)年の太政官布告によって祭日と定められました。
この日には宮中皇霊殿で、天皇親祭の祭儀が行われ、
各地で神武天皇陵の遙拝式も行われました。

そして明治22(1889)年には、大日本帝国憲法が、この日を期して発布されています。

さらに明治24(1891)年になると、小学校祝日大祭儀式規程が定められ、
天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、
校長による教育勅語の奉読などが、この日に行われるようになりました。

ですから2月11日は祭日で学校がお休みの日だけれど、
全校登校日で、雪の降るグランドに全校生徒が整列し、「きをつけ」の姿勢で、
校長先生の教育勅語奉読が行われました。
そして、生徒たちには紅白まんじゅうなどが配られました。

大正3(1914)年になると、全国の神社で紀元節祭が行われるようになり、
大正15(1926)年以降は、村の青年団や在郷軍人会などによる建国祭の式典が
全国各地で催されるようになりました。

そして紀元節は、日本の建国を祝う日であると同時に、
私達国民が、日本の建国の理想を再確認する日でもありました。

そこで、神武天皇の建国の詔を、みなさまとご一緒に読んでみたいと思います。


その前に、神武天皇というお名前について、ひとこと申し上げたいと思います。
神武天皇というお名前は、奈良時代にあとから付けられた漢風諡号(かんぷうしごう)です。

もともとは「かむやまといはれひこ」と言いました。
日本書紀では「神日本磐余彦尊」、
古事記では「神倭伊波礼毘古命」と書きます。

日本書紀のお名前は、「巨岩を取り除いて日本の神となった高貴なみこと」という意味、
古事記のお名前は「倭国の神といわれた男」という意味のお名前です。

そしてその名の通り、日本国内にあった収奪を文化とする一族を滅ぼし、
我が国に平和と安定と繁栄をもたらしました。

その建国の詔です。


 ***

われひむかしを うちてより
 自我東征

ここにむとせに なりにたり
 於茲六年矣

すめらきの あめのいを もちたのみ
 頼以皇天之威

あたうつために おもむかむ
 凶徒就戮


ほとりのくには まだきよまらず
 雖辺土未清

のこるわざわひ なほふさげども
 余妖尚梗

うちつくにには またさわぎなし
 而中洲之地無復風塵


まごころこめて おほいなる
 誠宜恢廓皇都

ひらきひろめる みやこをつくる
 規摹大壮

いまはこぶ わかきもくらも
 而今運屬屯蒙

おほみたからの こころはすなほ
 民心朴素


あなをすとして すむあるといへ
 巣棲穴住習俗惟常

ひじりののりを そこにたて
 夫大人立制

ことわりに したがふときに
 義必隨時

いみじくも たみにりの
 苟有利民

ひじりのわざに なんのさまたげ あろうとや
 何妨聖造


やまやはやしを はらひてひらき
 且當披拂山林

みややむろやを をさめいとなみ
 経営宮室

たからのくらひ つつしみのぼり
 而恭臨宝位

おほきもとひを もってしずまん
 以鎭元元


かみはすなはち そらのかみより
 上則答乾霊

さずけたまひし とくのくに
 授国之徳

しもにはみまの ただしきこころ やしなひて
 下則弘皇孫養正之心

しかるのちには
 然後


むつをあはせて みやこをひらき
 兼六合以開都

やひろをおほひ いへとなさむは
 掩八紘而為宇

またよからずや
 不亦可乎


それにみる うねひのやまの たつみのすみの 
 観夫畝傍山東南

かしはらのちで
 橿原地者

くにをおほひて しらしむべし
 蓋国之墺区乎可治之



 ***

漢字を見ながら音読すると、だいたいの意味はつかめるかと思いますが、
いくつか補足をしておきたいと思います。


▼以鎭元元 おほきもとひを もってしずまん

お伊勢様で、よく「元々本々(もともとをもともとす)」
という言葉を聞くことがあります。
刑事さんの現場百回ではありませんが、常に原点に還れ、ということです。

混乱を鎮(しず)めるものは、ひとつには武の力です。
けれどその武とは、「たける力」のことをいいます。

ではどのように「たける」(竹のように真っ直ぐにする)のかといえば、
元々に還るということです。
原点に還るのです。

欧米では、これをリボリューションと言います。
リボルブは、回転するという意味です。
そしてリボリューションの日本語訳が「革命」です。
ですから「革命」とは原点に還ることを言います。


▼上則答乾霊授国之徳
(かみはすなはち そらのかみより
 さずけたまひし とくのくに)

その元々の我が国は、神々から授けられた国土国民であり、
神々はこの世のすべてを胎内に大切に置いてくださっています。
我々は、神々の胎児の細胞のひとつひとつです。

細胞は、生々流転を繰り返しながら、互いに結ばれることで成長していきます。
ひとつの細胞だけが肥え太ったら、それは癌細胞です。

そして天皇は、天照大御神様からの直系のお血筋です。
その天照大御神様は、この世を「高天原と同じ統治にしなさい」と、
孫の迩々芸命(ににぎのみこと)を地上に送りました。

高天原におわすのは、すべてが神々です。
これを八百万の神々といいます。
その神様と同じように、我々民衆を扱うようにと、これが我が国のはじめです。

そして神武天皇は、そのことを高貴な神々が授けてくださった
この国の美しき心であると述べられているのが、この言葉です。


▼掩八紘而為宇 やひろをおほひ いへとなす

「八紘(はっこう)」というのは、四方八方のことです。
「宇」は、屋根のことです。

すべての国民が、ひとつ屋根の下に暮らす家族のように暮らしていこう、
ということを、神武天皇が国の始まりの建国宣言としてくださったのです。


▼可治 しらしむべし

古事記ではシラスを「知」と書きますが、日本書紀では「治」の文字を用います。
この字は、サンズイが水路、ムが農機具のスキやクワ、
口が四角く囲った農地を意味します。

水路の脇で耕すのは稲作であり、お野菜等の食べ物です。
日本書紀は、「豈国(あにくに)」といって、
「よろこびあふれる楽しい国を築くこと」を希求して全編が書かれています。

そしてそのためには、誰もが飢えることなく、
豊かに安心して安全に暮らせることが国是の第一となります。
我が子を餓死させることほど、親として辛いことはありますまい。

そして農地で働くのは、民衆です。
その民衆こそ、国の「たから」であるということが、
シラスという言葉の持つ意味です。


戦争が終わった昭和22年、社会党片山哲内閣のときに、
GHQの圧力なのか社会党の策謀か、我が国の建国を記念する「紀元節」は、
国民の祝日から削除されました。

昭和27年、サンフランシスコ平和条約の締結により、
我が国が主権を回復したとき、国民の間から猛然と起こったのが、紀元節の復活運動です。
この運動は、当時のアンケートで、なんと国民の8割が賛成というものでした。

当然国会も動き、以後、合計9回も国会に紀元節の復活案が提出されました。
ところが全部、否決されてしまいます。
復活したのは、ようやく昭和41(1966)年です。

佐藤栄作内閣によって、
「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として、
「紀元節」ではなく、「建国記念の日」という名称で復活しました。

ただし、戦後の祝日法は、GHQの影響によって「祭日」はありません。
すべて「祝日」です。

紀元節という用語の復活を望む声もありますが、
そもそも論として宮中祭祀の日である「祭日」という用語を含めて復活すべきと思います。

日本は、天皇あっての日本だからです。

      ( http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-4039.html )

            <感謝合掌 平成31年2月12日 頓首再拝>

「神武創業」とは何か。 - 伝統

2019/02/13 (Wed) 04:40:09


        *Web:大和心を語るねずさんのひとりごと(H29.11.13)より

「神武創業」とは「神武天皇による日本建国の詔」を指します。
これは日本書紀に次のように書かれています。

<現代語訳>

 3月7日、神武天皇は次のように述べられました。
「我が東征より6年を経た。
 天つ神の霊威によって凶徒は滅んだ。
 辺土はいまだ騒々しいが、
 中洲国に風塵はない。
 そこで壮大な皇都と皇居を建てよう。
 いま国は出来たばかりで若く、
 民心は素朴で穴に住む習俗もいまだ残っている。
 それ大人の制を立て義を必ず行い、
 いみじくも民に利があるとき、聖造に何のさまたげがあろうか。
 山林をひらき、宮殿を築き、宝位に就いて、元々を鎮めよう。
 上は乾霊が授けてくれたこの国の徳に答え、
 下には皇孫の正しい心を養おう。
 しかる後に六合を兼ねて都を開き、
 八紘を掩(おほ)いて一宇となすは、また良からずや。
 畝傍山の東南に観(み)る橿原の地は
 国の真ん中にあたるや。ここで治めるべし」


<原文>

 三月辛酉朔丁卯、下令曰
「自我東征、於茲六年矣。
 頼以皇天之威、凶徒就戮。
 雖邊土未清余妖尚梗、
 而中洲之地無復風塵。
 誠宜恢廓皇都、規?大壮。
 而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。
 夫大人立制、義必隨時、
 苟有利民、何妨聖造。
 且當披拂山林、經營宮室、而恭臨宝位、以鎭元元。
 上則答乾霊授国之徳、
 下則弘皇孫養正之心。
 然後、兼六合以開都、
 掩八紘而為宇、不亦可乎。
 観夫畝傍山、東南橿原地者、
 蓋国之墺区乎、可治之。」

これが実は、我が国の建国の詔ですが、古い言葉なので説明が必要です。


はじめに「東征より6年を経た」とあります。

「征」の字が、後年、征服とか征伐などの熟語に用いられるようになったために、
神武天皇は大軍を率いて宮崎を出発して、ついには畿内にまで軍事的に進出して
畿内に王朝を築いたと解釈されることが多いのですが、すこし違います。

漢字というのは今でもそうですが、
たとえば北京語と広東語では、同じ漢字を使っていても発音がまったく違います。
歴史をさかのぼれば、呉音とか宋音とか漢音とか、時代によっても読み方が違います。

つまり漢字は、異なる語圏の人々が表意文字である漢字を使って
相互のコミュニケーションをとる道具とされたものです。


ですからたとえば『古事記』の「古」という字は、
下の「口」が棺桶で、上の「十」が墓標を示し、
地面に埋められた棺桶の上に書かれた墓標から、
「棺桶に入っている人はすでに亡くなられているのだから
墓標にはその人の事績など過去の出来事が記されている」ということで、
過ぎ去った昔を意味する漢字となっています。

ですから「古語」と書いてあれば、
漢字圏の人々であれば、話す言葉はそれぞれ違っていたとしても、
これは「古い時代の言葉なのだ」とすぐにわかるわけです。

そうした漢字を使って、我が国の歴史を記すという試みが
現存する最古の書が大和言葉を漢文に多数挿入した『古事記』であり、
これを正式な漢文に訳して内容を補強したものが『日本書紀』です。

ついでに申し上げると、
古事記には『帝記』や『旧辞』などを基に書いたと序文に書いてあります。
つまり『古事記』以前にも、何らかの書かれた史書はあったということです。

ところがそれらの史書は現存していないし、
そもそもどのような文字で書かれていたのかもわかりません。

だいたい日本の文字が漢字しかなかった(漢字が渡来するまで日本に文字がなかった)
と考えるほうがどうかしているわけで、漢字そのものは、仏教伝来といわれる
6世紀よりもはるかに古い1世紀の土器に、墨字で書かれたものが出土しているし、
同じく1世紀の「漢委倭奴国王」の金印にしても、
そもそも印は、書かれたものに押捺するものです。

つまり1世紀には、我が国は交易等に際して、すでに漢字が用いられていたし、
これとは別に神代文字による大和言葉の記述法がすでに確立されていたとみるべきなのです。

神代文字は、現代の日本の歴史学会では、すべて「江戸時代の贋作」としています。

ところが伊勢神宮には、源義経や頼朝、あるいは菅原道真が奉納した
神代文字で書かれた幣(へい:祈願書)が現存しているし、
すくなくとも江戸時代よりももっと古い時代の神代文字で書かれた石碑が
全国に多数あるのです。

我が国には6世紀の仏教伝来まで文字がなかったと考えるほうがどうかしています。


中国漢字における「征」の字は、「彳」が「行く」の省略形、「正」は、正しいです。
ですからもともとの意味は「正しきを行う」になります。

従って「東征」というのは、「正しいことを行うために東に向かった」
ということを意味しているのであって、かならずしも
東へと向かった軍事遠征を意味する言葉ではありません。

似たような用例に「征夷」という言葉があります。
「征夷」もまた「夷(い)を軍事的に征伐する」という意味ではなく、
「夷に正しきを行う」がもともとの意味です。

そのための軍の将なのであって、ただやみくもに
周辺民族を滅ぼしたり殺したりすることを良しとしなかったというのが、
我が国の文化です。


神武天皇は、宮崎県の高千穂を出発され、
日本書紀では6年(古事記では17年)の歳月を経て、畿内を平定します。

それが上の文にある「天つ神の霊威によって凶徒は滅んだ」です。

それでも「辺土はいまだ騒がしいが、中洲国には風塵はない」と続きます。

文意からは、おそらく東日本一帯は、
まだ神武天皇に服していなかったということがわかります。

「中洲国」というのは、橿原宮のある大和盆地が、
川の流れでできた平野部であることから、
川の中州という意味で使われているのではないかと思われます。


「そこで壮大な皇都と皇居を建てよう。
 いま国は出来たばかりで若く、
 民心は素朴で穴に住む習俗もいまだ残っている。
 それ大人の制を立て義を必ず行い、
 いみじくも民に利があるとき、
 聖造に何のさまたげがあろうか。」

その大和盆地に、壮大な都を造り、また皇居を建てると述べられています。

そしてその国はできたばかりで、まだ若い。
民心は素朴で、「穴に住む習俗もいまだ残っている」と続くのですが、
この「穴に住む習俗」というのは、縄文時代の遺跡に広く見られる、
いわゆる竪穴式住居のことを意味していることは明らかです。

ここに、読み解きの大きなポイントがあります。

神武天皇は、それ以前の記述から、
稲作農業をいまの中四国から畿内に向けて広げた人であったことが、わかります。

神武天皇は、宮崎を兄の五瀬命(いつせのみこと)とともに出発されていますが、
この五瀬命という名前も、没後の諡名(おくりな)です。
そして五瀬命の「五」は五穀、「瀬」は、田んぼの浅瀬のことを意味しますから、
農業指導を行って、多くの人びとから尊敬された人であることがわかります。

そして稲作を行う集落は、周囲が水を引く田んぼですから、住宅の形式が高床式になります。
あたりまえです。田んぼの水よりも、床が低い竪穴式住居では、
床に水が染み出してきてしまって住めたものではなくなるからです。

つまり周囲に「竪穴式住居に住む人々がまだいる」ということは、
神武天皇の時代には、まだ水耕栽培ではなく狩猟採取型の人々が
国内に多く住んでいたことを意味します。

そこで神武天皇は、大和盆地に
「山林をひらき、宮殿や室を築き、宝位に就いて元々を鎮めよう」というわけです。

「宝位」というのは、天皇の位のこと、
「元々」というのは、もともといる人々であり、
同時にもともとの神々の「おほみたから」たち、すなわち民衆のことを意味します。

そして「上は乾霊が授けてくれたこの国の徳に答え、下には皇孫の正しい心を養おう」
と続きます。

「乾霊(けんれい)」の「乾」は天空を意味しますので、
「乾霊」は、天の神々の御霊という意味です。

その天の神々が、地上のすべてを授けてくださった。
私たちの生命もまた、天の神々が授けて下さった。
その御徳に答えて「下々に正しい心を養おう」と述べられています。

ではその「正しい心」とは何かというと
「八紘を掩(おほ)いて一宇となす」ということです。

「八紘」は、四方八方です。
「宇」は、屋根のことです。

つまり都を中心に、四方八方のすべてが、
ひとつ屋根の下に暮らす家族となろうとおっしゃっています。

その前にある「六合を兼ねて都を開き」の「六合」というのは
「東西南北+天と地」の六つを合わせるという意味です。

ですから、単に世間をひとつ屋根の下におおうのではなく、天地のすべてをおおう。
その「おおう」に「掩」という字が使われていますが、
この字には「手でおおう」という意味があります。

単に世間を一つ屋根の下に暮らす家族同様にみなすということではなくて、
「掩」という字が加わることによって、そのために様々に手を下して
、民を正しい道に教導するというひびきが、含まれています。

そして「畝傍山の東南に観(み)る橿原の地は国の真ん中にあたるや。
ここで治めるべし」と述べられて、橿原宮に、最初の都を置かれたわけです。

神武天皇という諡号(おくりな)は、
実は、神武天皇の生きられた時代よりもずっと後の、
奈良時代になってから、付けられた漢風諡号です。

もともとの名は、
『古事記』では神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)です。

『古事記』には注釈があって「伊波礼毘古」は「以音」、
つまりただの当て字であって、これは大和言葉の「いわれた毘古」である、
という意味です。

「毘古」は「彦」と同じで、男性を意味しますから、
要するにこの諡号は「倭(やまと)の神といわれた男」という意味とわかります。
つまり、生きながら「神」と讃えられた人であったわけです。

その「神」という用語についても注釈が必要です。
「神」の音読みは「シン、ジン」です。
中国漢字では、この字は生贄を捧げる台に雷が落ちる象形で、
そこから天の神を意味する字となりました。

ところが日本語の読み(訓読み)は、「かみ」です。
「かみ」というのは、古い大和言葉では、
ご先祖をずっと「かみ」のほうにさかのぼっていったときに
、◯◯家のご先祖だけでなく、およそ6~700年経過すると、
日本中すべての家系のご先祖がかぶってしまいます。

そのかぶってしまった先のご先祖、つまりすべての家に共通するご先祖のことを、
祖先をずっと上(かみ)にさかのぼった先にある人々の共通のご先祖という意味で、
「かみ」と呼んだのです。

ですから、田舎の方の郷では、その村に住むすべての人は、
同じ血筋だったりしますから、村人たちの共通のご祖先が
鎮守の神様として祀られました。

そうした村々が集まると、惣(そう)となりますが、
これがいわば、いまでいう地域のことで、その地域一帯の総鎮守の神様が、
国の宮に祀られます。

たとえば、武蔵の国一宮(いちのみや)という具合です。
そして全国の共通のご先祖となられる神様がおいでになるところが、
神(かみ)の宮(みや)ということで神宮と呼ばれました。

そして初代天皇である神武天皇は鵜草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)の子です。
その鵜草葺不合命は、海彦山彦の物語で有名な山佐知毘古でお馴染みの、
火遠理命(ほをりのみこと)の子です。

その火遠理命は、天孫降臨した迩々芸命(ににきのみこと)の子です。
迩々芸命は、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子です。
その天忍穂耳命は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の子です。
そして天照大御神は、イザナキ、イザナミで有名な伊耶那岐大御神の子です。
以上のことを簡単に図示すると以下のようになります。

 伊耶那岐大御神(いさなきおほみかみ)
  ↓
 天照大御神(あまてらすおほみかみ)
  ↓
 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
  ↓
 迩々芸命(ににきのみこと)
  ↓
 火遠理命(ほをりのみこと)
  ↓
 鵜草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)
  ↓
 神武天皇

つまり神武天皇の高祖父の母が天照大御神、
裏返しに言うと神武天皇は天照大御神から5代目の来孫(らいそん)となるわけで、
そういう意味では、天孫降臨された迩々芸命が初代天皇でも良かったわけですし、
同様にそれは火遠理命でも、鵜草葺不合命でもよかったはずです。

それなのになぜ神武天皇が「初代」天皇とされてきたのかというと、
まさに神武天皇が、天照大御神から迩々芸命が授けられた天壌無窮の神勅に基いて、
稲作を中心とした我が国を開いた御方になるからです。

このことは我が国が、有史以来、ずっと稲作を中心とした農業国として
営まれてきたことを示します。
なぜ農業国なのかといえば、臣民の誰もが
豊かに安心して安全に暮らせるようにすることが目的です。

それが天照大御神以来の神勅によって示された我が国の形です。

そして農業国であるがゆえに、
その農業を営む人たちが、黎元(おほみたから)とされました。

黎元の「黎」の字は、「禾」が実った稲の象形、
「刀」みたいなところが鍬(くわ)や鋤(すき)、
「八」みたいなところが、その鍬や鋤の刃、その下にあるのが「水」です。
つまり「黎」という字は、これ自体が稲作を意味します。

その稲作農業をする人々がいるから、みんなが食べられるのです。
そしてその稲作農業を推進するために、みんなで力を合わせて土地を開き、
田植えをし、稲刈りをし、藁を編んで生活用品にし、
決して飢えることのない国を、上下心をひとつにして築いていく。

それが、八紘一宇の本質となります。

もちろん、農業だけしていれば国が成り立つわけではありません。
作物を運ぶ人も必要ですし、鍬や鋤といった農具を作る人、食事を作る人、
食事のためのお椀やお皿を作る人、それを運ぶ人、土地を開墾する人、
それらを管理する人など、様々な人の様々な営みによって、国が成り立ちます。

そうしたすべての人に感謝し、その一員として自分も働く。

だからいまでも日本人は、食事のときに「いただきます」といいます。

一昔前なら、必ず家族全員、両手を合わせて「いただきます」と言ったものです。
感謝の心があるからです。

商業主義に陥ると、富を持つ者が富を独占し、他者を顧みなくなる弊害が起こります。
そうした弊に陥らないように、日本人は歴史の中で、
常に国の根底に「黎元(おほみたから)」を置いてきたのです。


  ( http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3573.html )

           <感謝合掌 平成31年2月13日 頓首再拝>

日本建国の理想の復活 - 伝統

2019/02/14 (Thu) 04:59:47


       *Web:生長の家愛国源流 [ 谷口雅春先生の大復活 ]
            ~生長の家の全貌 (6)  
             〈昭和30年〉立教25年  谷口雅春先生

これに対して、生長の家の主張するところは「人間神の子」の真理により、
吾々日本民がすべて「神の生命」を自己の内に宿す以上、
天皇も亦、「神」の生命をやどすのであり、

だから天皇も亦「神」にましますことは当然であり、
吾々日本国民は、瓊々杵尊が高天原より天降られて
地上に日本国を建設されれたときに、
瓊々杵尊と同時に天降って来皇族又は五伴緒命(いつとものをのみこと)の
子孫として互に血縁関係と云うような密接紐帯によって結ばれている
と主張するのであります。


こう云う主張をするきには、「だから生長の家は迷信だと言うんだよ。
人間が天から降って来るものか」と。 

私は答える ―― 私は人間を「肉体」として話しているのはない。
人間を「霊」として話しているのである。

だから私は、この論文の最初の項に現代の日本には、
如何に多くの「人体」ばかりが横行していて「人間」がいないことでるか
 ―― と言って揶揄したのであります。

「人体」が「人間」として生きて動き出ためには
神の「霊」が天降らなければならないのであります。

霊なき「人体」は「人間」ではなく、
それは人間の「無き殻」〈なきがら〉に過ぎなのであります。

人間が、人間であるためには、「なきがら」に「霊」が天降らなければらない。
かくてのみ霊なき「なきがら」が人間となり、
ただの「人体」が生きた「人間となり得るのであります。

これを「天孫降臨」即ち「神の眞子」の天降りと言うのであます。


古代日本人の自覚は日本民族全体を「天孫」即ち「神の眞子」の降臨だと観じたのであり、
それを天孫降臨の神話として表現したのであります。
これは決して単なる迷信でもければ、ただの作り物語でもない。


実に日本民族が、人間の本性を「久遠の神」の表現直観し得たところのものの表現であり、
それは仏典に於いて、例えば、釈迦が、その「(たましい)」を兜卒天界より
地上の摩耶夫人に降して右脇に孕んだと大無量壽経に書かているのと同様であり、

キリスト教聖書に於いては、イエスの霊が天の使いにたづさえて処女マリアに懐妊した
と云うのと同巧異曲で、まことに雄大な人間尊厳の自覚でありして、

これをただ科学的に人間の肉体の発生を物質的精子、卵子の結合と観ずる如き、
貴なる理想なく、雄渾なる夢なきただの唯物論者の見地から迷信だと断定して
抹殺し去うとする如き葉は、みづから人間存在の基底を侮辱するものであって、
まことに気の毒自己劣等感と言わなければならないのであります。


真の民主主義なるものは、「神霊降下」の人間の高貴の根本自覚から
出発しなければらぬのでありまして、人間が瓦礫と等しく、
ただの物質的分子の集合体であるならば、間に基本人権と云うような
高貴なものの存在の余地がないのであります。

斯くの如く説ことによって、生長の家は、日本の神話的歴史を否定することなく、
しかもそれを民主義に根拠を与えながら、人間尊厳の自覚に貢献しつつあるのであります。



日本建国の理想の復活

神武天皇建国の歴史物語は、戦後の日本の各学校の教科書では、
それが神話であって歴史的事実ではないと否定せられて来ましたけれども、
これは日本建国の理想を抹殺すものでありまして、誠に由々しき大事なのであります。

神武天皇が歴史的事実上、地上に存在したか存在しなかったかと云うことは、
実証的史家の研究に委ねておいてよいのでありますけれども、
それよりも尚重大なことは、何故日本民族が、そのような日本建国の歴史を
〈それが神話であるにせよ〉創作したかと云ことであります。

およそ創作と云うものはその作者の性格、理想、人間観、人生観、世観等が
その作中の人物にあらわされているもねであります。

そうすれば、その神話には神武建国の歴史物語を創作した作者
〈それは個人ではなく、日本民族であります〉の性格理想、人間観、
人生観、世界観等があらわれているのであります。


第一その天皇の御名を「神武」と呼び奉ったところに、
日本の「武(ぶ)」は、決して利私慾のために動かされない、
神威発揚の稜威顕現のためにのみ動かすものであると云理想が
既に其処にあらわされているのであります。

  ( https://blogs.yahoo.co.jp/aikoku2672/3896475.html )

           <感謝合掌 平成31年2月14日 頓首再拝>

日本の建国の理念 - 伝統

2019/02/16 (Sat) 04:35:45


        *Web:「住 吉 大 神 浄 め 給 う」(2018-02-11)より


神武天皇、即位建都(そくいけんと)の大詔(おおみことのり)には
次の如(ごと)く 書かれているのであります。

「・・・夫(そ)れ 大人(ひじり)の 制(のり)を立つる、
義(ことわり) 必ず時に随(したが)う。
苟(いやしく)も 民(たみ、おおみたから)に利(くぼさ)有(あ)らば、
何(なん)ぞ 聖(ひじり)の造(わざ)に 妨(たが)わむ。

且(また)当(まさ)に 山林(やまばやし)を披 (ひら)き払(はら)い、
宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、恭(つつし)みて 宝位(たかみくら)に臨み、
以(もつ)て 元元(おおみたから)を 鎮(しず)むべし。

上(かみ)は 則(すなわ)ち 乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(うつくしび)に答え、
下(しも)は 則ち 皇孫(すめみま)正(ただしき)を養いたまう心を弘(ひろ)めん。

然(しか)して後(のち)に 六合(くにのうち)を兼ねて 以(もっ)て 都(みやこ)を開き、
八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや。

夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)、橿原(かしはら)の 地(ところ)を
観(み)れば、蓋(けだ)し 国の墺區(もなか)か、治(みやこつく)るべし 」

これを略解(りゃくかい)して見ますと、

「 思うに 大人(ひじり)が制度を立てるにあたっては、
必ずその時勢に順応(じゅんのう)した
良い制度を立てなければならぬ。

苟(いやしく)も 人民の利益になる事であったならば、
たとい聖人の制定したものであっても、
その制度を変更するに何の妨(さまた)げがあろうや。 

( 註、ここに日本天皇の民主主義的性格があらわれているのであります )

朕(ちん)は、いま山林をひらき伐採(ばっさい)して 宮殿を築造経営し、
恭(うやうや)しい心持で 天皇の位に即(つ)き、
人民の安寧(あんねい)と幸福とをはかるであろう。


そして上(かみ)は、神が国を授けたまう
其(そ)の御神徳(ごしんとく)に答え奉(たてまつ)り、
下(しも)は皇孫(こうそん)以下が正しい心を養成するよすがとし、


そして天下を治める為の都をひらき、その徳をひろめて、
世界の八方の荒れたる隅々(すみずみ)までも
一つの家庭として 人類は皆 兄弟として 互に手をつなぐべき目的を実現するために、
畝傍山(うねびやま)の東南、橿原(かしはら)の地に都をつくるであろう 」

この詔勅(しょうちょく)には 何処(どこ)にも侵略的な精神は見られないのであります。
世界を一家族として、人類を兄弟とする其(そ)の中心地として畝傍山(うねびやま)の
東南の橿原(かしはら)の地に都をつくろうと仰(おお)せられたのでありまして、

まだ此(こ)の詔(みことのり)には 「 大和国(やまとのくに) 」 と云(い)う国号は
あらわれておりませんが、此の橿原の地を中心に「大和国」と称せられることになった
のでありまして、

「大和(やまと)」 の国号そのものにも
全世界の人類が一つの家族として和合すると云(い)う
建国の理想があらわれているのでありま す。

( 谷口雅春先生 昭和 30 年 『 生長の家五十年史 』 437頁 )


天照大御神の 「 天壌無窮の神勅 」

「 豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、
代々(よよ) 吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。

宜(よろ)しく いまし皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。さきくませ。
宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと 天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし。」

    ( http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/d/20180211 )

           <感謝合掌 平成31年2月16日 頓首再拝>

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