伝統板・第二
(二月)の法語 - 伝統
2019/02/01 (Fri) 04:45:28
このスレッドでは、他の掲示板等から、次の5つの法語を紹介してまいります。
(1)『 生長の家 』 昭和二十四年二月号法語
*Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12879012.html
(2)『 生長の家 』 昭和二十五年二月号法語
*Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(3)『 生長の家 』誌 昭和二十六年二月号の箴言
*Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201310
(4)『 生長の家 』 昭和二十三年二月号法語
*Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201407
(2/15~2/19、2/22~2/24 に限定)
(5)「理想世界」(昭和43年2月号)の法語
伝統板・第二「輪読のための青年法語~吾ら“神の子”の自覚の上に立ちて」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7663028
・・・
【一日の法語(2月1日)】
(1)《霊とは自覚原理である》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12879012.html
(抜粋として)
神は霊である。
そして神の子なる人間も霊である。
霊とは意識すなわち心のはたらきがあるところの
眼に見えざる霊妙なる存在を呼んで云うのである。
これを称して 「 自覚原理 」 と呼ぶことも出来る。
・・・
(2)《報い求めぬ愛は尊し》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
すべての愛の行為は 尊く、
報いを求める行為は 卑しいのである。
・・・
(3)《微小体は最も想念に感応し易い》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/53bbf8899b4382abc6226239ee5105e4
(抜粋として)
素粒子のような、微小体は 無の世界から想念によって作られるのであるから、
「 中間子がある 」 と信じて実験していると 「 中間子 」 があらわれて来る。
・・・
(5)《“神の子”を生活せよ》
勇敢であれ。人間であれ。
真に人間であるという事は“神の子”であるということである。
勇敢に“神の子”たる実相を肯定せよ。
劣等感に屈服してはならない。劣等感は万悪の根元である。
勇敢に“神の子”であれ。
神の子の善を生活に実践せよ。
・・・
<参考:2月の谷口雅春先生の言葉>
(1)衣を更えて~「生命の實相」第37巻幸福篇上
→ (光明掲示板・第二)
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1058 (消滅)
https://search.ameba.jp/search/entry.html?q=%E4%BA%8C%E6%9C%88%E3%80%80%E8%A1%A3%E3%82%92%E6%9B%B4%E3%81%88%E3%81%A6&aid=medakanotamagochan
(2)神は今ここに~「光明法語」
→ (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=64
(3)天地そろう~「光明道中記」
→ (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=65
<感謝合掌 平成31年2月1日 頓首再拝>
【二日の法語(2月2日)】 - 伝統
2019/02/02 (Sat) 03:46:37
(1)《絶対者としての霊》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12882363.html
(抜粋として)
自己創造原理であるところの霊は、
みずから形をもたず、形がないから、
互いに分離分割するところの仕切りがない。
従って 全体が一つである。
・・・
(2)《憎んでいる者を一層愛さねばならぬ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
敵対するものほど 吾々は愛さなければならないのである。
それは 「 お前には このような人間でも愛することができるか 」
というテストを神から与えられているのであるからである。
自分に敵対する者、自分を悪(あ)しざまにいう者さえも
愛し得るのが本当の愛である。
・・・
(3)《愛を実現するのが人間の使命である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8a4e0f6aaa0891091b222bd3a1d40bd5
(抜粋として)
何人(なんぴと)の生命の奥底にも
「 愛したい 」 と云う念願が宿っているのである。
これを満足しない限り、人間は落着くことは出来ない。
・・・
(5)《美の創作と鑑賞について》
人生は魂の進歩の道場である。
人生は肉体が享楽するためにあるのではないのである。
肉体は魂に仕えるためにあるのである。
美の鑑賞は、肉体の享楽ではないのである。
美の創作は、実相界にある“美”の本質を、現象界に映し出して
再現したものであって、その美を鑑賞するのは魂の世界のことであって、
肉体の享楽とは次元を異にするのである。
<感謝合掌 平成31年2月2日 頓首再拝>
【三日の法語(2月3日)】 - 伝統
2019/02/03 (Sun) 04:16:49
(1)《自覚原理なる神は》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12887805.html
(抜粋として)
「 自由 」 が 「 自覚原理 」 の本質である。
それは 絶対者であり、
他より何等(なんら)の束縛も制約も受けないのであるから
「 自由 」 であるほかはないと云うことが出来る。
・・・
(2)《愛は現象を見ないで実相を見る》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
愛とは 感情ではない 行為である ― とニイルはいったのであるが、
愛は 相手に宿る神性の凝視であり、相手に宿る仏性の礼拝である。
愛は 「 好き 」 を超えて 智慧の目で
相手の実相を見て愛するのである。
・・・
(3)《神の生活を今生きよ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e804d73397f670280b52fcbbe354818
(抜粋として)
本当に完全な飽くことを知らぬ幸福は
「 神 」 をわがものとすることによってのみ得られるのである。
神をわがものとすることは、祈りによって神の叡智と一体となり、
神の欲したまう如く生き、神の生活をわが生活として、
神の愛をわが愛とすることである。
・・・
(5)《美感と肉感とについて》
肉体を離れて味わう快感を美感というのである。
絵画を鑑賞してその美を味わう。音楽を鑑賞してその美を味わう――
そのような場合の快感を美感というのである。
手に触れて快い、肌にさわって気持ちがよいなどという快感は、
肉体の一種であって、それは肉体に即いた快感であり、
魂が悦ぶのではないのである。
肉体に即いた快感に惑溺しているときには
魂はその向上進歩を忘れて、肉体の惑溺に引きずられて退歩する。
古代の仏教徒は女性に触れることを“汚れる“かのごとくに
女性を遠ざけたのであるけれども、それは”女”という”人間”を
”汚れている”として排斥したのではないのである。
女性の肉体に触れて味わう快感は、肉体についた悦びであるが故に、
それに溺れるとき、魂の向上進歩が一時阻害せられるからであって、
女性の肉体そのものの魅力の強さを表現したのであって、
女性の魂が下等であるとか、救われ難いとかいう意味ではないのである。
<感謝合掌 平成31年2月3日 頓首再拝>
【四日の法語(2月4日)】 - 伝統
2019/02/04 (Mon) 04:48:04
(1)《抵抗の自己選択》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12891627.html
(抜粋として)
絶対自由なるものは
みずからを其の儘では表現することが出来ない。
すべて表現するためには、
何らか抵抗あるものを
自己選択しなければならない。
表現することは
創造することである。
・・・
(2)《行為の価は内的動機で高下する》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
金銭を目的にした勤労は、魂の上からいえば、
ただ利欲の念の現われにすぎないのである。
又(また)人から認められたり
賞讃(しょうさん)されんことを のぞんでした愛行は、
それは愛の形をとっていても、
ただ利己的な虚栄心の現われにすぎないのである。
・・・
(3)《類は類を招(よ)ぶ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f02806856da376d61069e20a4f83028a
(抜粋として)
吾々が心に描いた姿は 「 類は類を招ぶ 」 という法則に従って、
欠点をみつめれば、欠点が集って来るし、
美点を見つければ美点が集って来るのである。
想念が創造力をもっていると云うことを知るならば、
如何なる場合にも、人の悪を思い、且(か)つ噂(うわさ)することを
慎まなければならぬ。
・・・
(5)《乗馬に主人公が引き回されてはならない》
肉体の魅力にまどわされてはならないし、
肉体に触れて味わう快感にまどわされてもならないのである。
肉体は魂が乗って修行するところの乗馬であることを
知らなければならないのである。
魂の向上進歩のことをわすれて肉体の快楽に惑溺する者は、
乗馬が主人公となって騎士を引きずって走っているようなものである。
魂は自主権を恢復しなければならないのである。
馬からはやがて降りなければならない。
魂のみが永遠の存在ではないか。
<感謝合掌 平成31年2月4日 頓首再拝>
【五日の法語(2月5日)】 - 伝統
2019/02/05 (Tue) 04:17:08
(1)《生命の存在自覚がコトバである》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12896232.html
(抜粋として)
波動は 動作である。
霊の最初の自由意思による動作が
コトバである。
そのコトバは
生命が自己存在を自覚したるときには
常に伴うものである。
「 我れあり 」 の自覚そのものが、
“ 生命の振動 ” であるがゆえに、
存在の自覚そのものが コトバなのである。
・・・
(2)《神に与える事によって 神から与えられる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
自分を神の子なりと信ぜよ。
然して自分の内に神が宿っており、
その神の愛を 神の栄光の現われんがために行ずるのだと思って行ぜよ。
それは神に与える行為であるのである。
神に与えることによってのみ、神から与えられるのである。
・・・
(3)《美点を選ぶか欠点を選ぶか》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/464602d878e0908facdc83b46a37e7c1
(抜粋として)
どんな人間にも、環境にも、美点があり、善き処があるのである。
又、どんな人間にも、環境にも悪しき処、みにくい処があるのである。
人間の幸福というものは、ほんの僅(わず)かな
やさしい言葉によって得られるのと同じように、
ほんの一寸(ちょっと)した憤激の情から破局を導き出して来る。
・・・
(5)《法則に従って生活せよ》
宇宙の法則に対して素直に従順でなければならない。
法則に従うことによってロケットは月にも達するし、金星にも到達する。
法則に逆らうときは目的を達することはできない。
法則を求めよ、法則を発見せよ。法則に従って生活を改善せよ。
<感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝>
【六日の法語(2月6日)】 - 伝統
2019/02/06 (Wed) 02:59:44
(1)《此処(ここ)に生きているのは神が生きている事である》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12900742.html
(抜粋として)
「 我れあり 」 の絶対者 ( 神 ) の自覚が
一切の創造の本源である。
創造は徹頭徹尾、自己を表現するのであって、
自己が 「 自己 」 より創造するのである。
・・・
(2)《人に奉仕する事は 神に奉仕することになる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
すべての人に神が宿っているということを知るならば、
すべての人の幸福のために奉仕するということは
神に奉仕していることになる。
・・・
(3)《一番根本的な問題は》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/72f5872979b20d876f9de41e85788020
(抜粋として)
若(も)しすべての人類が人間互いに、内に神やどり給う
「 神の宮 」 即ち神社として礼拝することを始めるならば、
世界にはどんな種類の争いも、啀(いが)み合いもなくなり、
すべての家庭は幸福になり、すべての人間は健康になり、
全世界は平和になる。
此の根本的な問題を忘れていては
凡(あら)ゆる計画も画餅(がべい)に等しい。
・・・
(5)《名声や財物を目的にしてはならない》
自己の理想をもって行動せよ。
自己の名声や、財物を目的にして行動してはならない。
無我の愛をもって、国家人類のために尽すがよい。
名声や財物は自然にその人に従い来るであろう。
私心をもって計画的に名声をつくり上げ、
私欲をもって計画的に財物を得るならば、
やがてそのカラクリが明るみに出たとき、
名声なかりし時よりも、財物なかりし時よりも、
その人は一層みじめになるであろう。
<感謝合掌 平成31年2月6日 頓首再拝>
【七日の法語(2月7日)】 - 伝統
2019/02/07 (Thu) 04:43:28
(1)《自己限定による自己創造》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12906340.html
(抜粋として)
神なる霊が 「 自己 」 より一切を創造するとき、
画筆と画布とに於けるが如く、
抵抗によって自己を表現しなければならない。
唯一者なる霊は、自己を限定して、陰陽に分って
それを結び合わすことによって事物を創造すること
恰も画筆と画布とが結び合うことによって
表現が完成するが如くである。
・・・
(2)《自分の中(うち)に神が実現することが尊い》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
現象的な結果よりも、尚(なお)大切な心霊的結果があるのである。
自分の中に 神が実現したかどうかということが
もっとも大切なことであるのである。
・・・
(3)《一念不動、実相の完全さを信ぜよ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a5925824fab088c119c7381b8a773a1e
(抜粋として)
吾々が神想観をするときには、一念不動ただ一事(じ)
「 吾れ神の子 」 「 われ霊的実在なり 」 の実相に
心を集中しなければならない。
・・・
(5)《不正義を討つに遠慮してはならない》
理想を掲げて正義の戦いを戦うがよい。
正義に反する者に遠慮して躊躇逡巡する者はついに正義を失う。
不正義が世の中に跋扈する原因は正しい人があまりにも
無気力で温順しく、不正義と戦う勇気を失っているからである。
不正義をゆるして置くのは
不正義の跋扈に対して応援しているようなものである。
そのような人は、不正義の者に連累する犯罪者である。
正義が引っ込めば不正義がはびこり、
真理が引っ込めば不真理が幅をきかす。
<感謝合掌 平成31年2月7日 頓首再拝>
【八日の法語(2月8日)】 - 伝統
2019/02/08 (Fri) 04:06:17
(1)《自己秩序が生命の特徴である》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12909834.html
(抜粋として)
自己秩序によって
生物は生まれるのである。
自己秩序が崩れたとき
生物は崩壊して、
一段低い秩序の 「 無機物 」 に転落する。
・・・
(2)《神想観を怠ってはならない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
実相の世界は すべての善きものの本源である。
神想観を怠る者は、いくら 「 人間 神の子 」 と頭で知っていても
現象世界が整うて来るということはないのである。
・・・
(3)《最も効果ある祈り方》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/be71f2d324d82e16c2d5f42f267f2359
(抜粋として)
「 神よ、われを神の最高実現として凡ゆる点に
完全に創造(つく)りたまいし事を感謝します。」 と祈るべきである。
・・・
(5)《真の平和と幸福は愛行により来る》
一にも愛行、二にも愛行、三にも愛行・・・・・
愛行を通して、人間に宿っている神性があらわれるのである。
小さな愛行もおろそかにしてはならない。
日常生活では巨大な愛行によりも、
小さな愛行が普通多くの人々を生かすのである。
愛行によって、自己の心に真の平和と幸福と繁栄とが来るのである。
愛行によってのみ、
世界に真の平和と幸福と繁栄とが持ち来たらされるのである。
<感謝合掌 平成31年2月8日 頓首再拝>
【9日の法語(2月9日)】 - 伝統
2019/02/09 (Sat) 03:50:19
(1)《秩序は智慧と法則の実現》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12913684.html
(抜粋として)
智慧は 秩序であり、
秩序は 法則によって、維持せられる。
法則の守られたる状態が秩序なのである。
法則は 神のコトバである。
・・・
(2)《仏性の名に於いて行いをなせ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
「 キリストの名に於いて 何事でもなす 」 ということは、
愛の実相に於いて 何事でもなすということである。
仏性によって 何事でもなすということである。
・・・
(3)《神の栄光は斯く受けよ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/21ff78f4d8370a32324d492ad3ecd16e
(抜粋として)
神の子らしく愛を行ずること、
神の子らしく清く正しく生きるべく努力すること、
その行と努力そのものが神の栄光に波長を合わすことになるのである。
喜ぶこと、心を明るくすること、
その他 自分の知り得た光明生活法を実践すること、
現在受けている凡ゆる恵福を、
どんな小さな事でも思い出して感謝すること、
これらはいずれも神の栄光を受信するための受入態勢であるのである。
・・・
(5)《真に実行する人となれ》
苟も事を乗ずるには、中途半端な誠心を以ってなしてはならないのである。
熱意と周到な注意をもって実行しなければならない。
易々加減にやっておいて「実行しました」と思ったり言ったりすることは、
ある意味ではウソを吐いているのである。
“やる限りは、他の人々には真似の出来ない位な精緻周到な計画をもって、
一寸の隙も無く、やり通してこそ「実行しました」と言明する資格があるのである。
<感謝合掌 平成31年2月9日 頓首再拝>
【十日の法語(2月10日)】 - 伝統
2019/02/10 (Sun) 03:14:08
(1)《法則に従うのが神を実現する道》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12921195.html
(抜粋として)
法則は 神自身の動きの波動の自然的律(りつ)であって、
その律を通しての 神は自己を実現し得るのである。
神の動きそのものと同時に
存在するものが法則である。
神の働き給うところ必ず法則があり、
神に従うことは 法則に従うと云うことであり、
法則に従うとき 神が必ず実現し給うのである。
・・・
(2)《利己の程度が減るほど人間は清くなる》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
利己主義は 何事をしても それを汚してしまうのであるけれども、
利己的動機からでも、愛を行ずるのは
愛を行じないよりは 尊いのである。
然(しか)し 利己的動機がなくなれば なくなる程
その行為は 清らかなものとなり、
天に於いて 神のほめ給(たま)う所のものとなるのである。
・・・
(3)《外界の困難は内部の力を招集する》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/550acee89d1d174eac28267a335eaa67
(抜粋として)
人間の内部には、神の無限の可能性が宿されている。
ただ困難や苦痛に面したとき大いなる努力がなされて、
内在の偉大なる力が搾り出される。
・・・
(5)《失敗を通して科学も人間も前進する》
現象にみじめであっても、貧しくあっても、失敗を重ねても、
それで失望落胆してはならない。
現象の失敗は、「成功」の嫩葉(ふたば)である。
あらゆる失敗を通して科学は進歩して来たのである。
失敗する毎に、新たに法則が発見され、
その新たに発見された法則によって科学は前進した。
諸君の魂も失敗を通して、失敗毎に前進しつつあるのである。
失敗する毎に前進を意識する者は益々進歩し、失敗する毎に劣等感を生じて
萎縮する者はついに人生の落後者となるほかはないのである。
<感謝合掌 平成31年2月10日 頓首再拝>
【十一日の法語(2月11日)】 - 伝統
2019/02/11 (Mon) 04:19:16
(1)《「 生命 」 は 目に視(み)えざる実質》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12924646.html
(抜粋として)
吾々は、自分の身辺に起るすべての事物と状態とを、
自分の想念の力によって造る。
吾々の 「 生命 」 というものは
目に見えざる実質の如きものであって、
その中に無限の力を蔵している。
吾々の 「 生命 」 も 波動となり想念となった時、
始めてその力を現(あら)わす。
・・・
(2)《道は直く簡単である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
キリストは 「 吾は 道なり 」 といい給うた。
そのキリストは、吾らの内に 内在して い給うのである。
だから、各人自身 「 吾は 道なり 」 である。
この道は すなおに自分の良心に従うものには 必ず示されるのである。
「 夫婦は 仲よくすればよい 」
「 借金は 払えばよい 」 ・・・ の如(ごと)く
頗(すこぶ)る 簡単明瞭(めいりょう)である。
・・・
(3)《苦痛を 「 罪 」 と思うな、栄光発現の好機と観ぜよ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ff5b4e3a7ec5097f6e770c88263ae9c8
(抜粋として)
吾々の苦痛は、内在無限の神力を発揮せんがための重圧であるのである。
偉(おお)いなる病苦に悩む人が、その内在の力を発揮していることは
同じような病苦に悩む人にとっても
偉大なる励ましとなり慰めとなるのである。
両手両脚なくして炊事も洗濯も裁縫もなし得る中村久子女史や、
盲聾唖の三重苦のヘレン・ケラーが普通よりも一層魂の眼がひらいて
人々を指導し得る事実を見るとき
多くの人は希望を持つのである。
・・・
<参考>
中村久子 (中村久子の生涯)
→ http://www.nakamura-hisako.co.jp/nakamura_life.html
ヘレン・ケラー
(1)“本流宣言”掲示板「「奇跡の人」ヘレンケラー (2955)」
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=582
(2)光明掲示板・第一「【奇跡の人の日】 (9517)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1805 (消滅)
(2)光明掲示板・第二「【奇跡の人の日】 (9458)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1845 (消滅)
(3)伝統板・第二「奇跡の人」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6524424
・・・
(5)《勝者となり主人公となれ》
物質に対する執着を棄てよ。
肉体の快楽に対する欲望を棄てよ。
物質は常に変化して恒常なる価値を持っていないし、
肉体はやがて脱ぎ棄ててしまわなければならない魂の実修服に過ぎない。
一時価値を追求するよりも永遠の価値を追求せよ。
魂は永遠であり、肉体の死を越えて永遠に存続する。
肉体を魂に隷属せしめる者のみが真の勝者であり、
肉体の欲求に隷属する者は敗者であり肉体の奴隷である。
勝者となり、主人公となれ。
<感謝合掌 平成31年2月11日 頓首再拝>
【十二日の法語(2月12日)】 - 伝統
2019/02/12 (Tue) 03:55:04
(1)《生命が波動して想念となる》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12928124.html
(抜粋として)
「生命」の波動を称して「想念」という。
「生命」は目に見えざる無限の力の貯蔵所のようなものであって、
その貯蔵所の門を開いて、
その貯蔵されている力を
導き出してくるのが想念の働きである。
・・・
(2)《道が行詰るのは正路でないから》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
我の道は けわしい難路である。
神の道は 坦々(たんたん)として楽道である。
もし諸君の目の前に難関が横たわって来、
自分の進もうと思っていた道を妨害するものが出て来るならば、
妨害するものを憎むな。
きっと自分の歩む道が
正しい道でなかったことの証拠である。
・・・
(3)《行持(おこない)が大切である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/b4427af0a46f7e5ddb96d10b1298aff6
(抜粋として)
単に本を読んでわかっただけではいかぬのである。
その通りに動き出さないと可(い)かぬ。
この動き出すことを 「 行持(ぎょうじ) 」 と云うのである。
・・・
(5)《自己の実相を生かす者》
利己的であるという事は、自己の実相を包み隠す者である。
その“包み”を“罪“というのである。
あなたの実相は、”神の子”であり、神の生命に於いて、すべての人間、
すべての生き物、すべての存在と一体であるから、すべてを生かすように
生活してこそ、あなたが“神の子”である実相を生かすことになるのである。
すべての者を愛し、すべてのものを生かす者こそ、
自己の本質を生かす者である。
<感謝合掌 平成31年2月12日 頓首再拝>
【十三日の法語(2月13日)】 - 伝統
2019/02/13 (Wed) 04:26:44
(1)《想念の具象化に必要な意志の力》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12932147.html
(抜粋として)
「 自分 」 というものが 「 個生命 」 という
生命の磁場から力を引き出して来るのには、
「 想念 」 を使うのであるが、
「 想念 」 の具象化に必要なる一定の時間だけ
一定想念を持続するのは、
「 意志 」 の力である。
・・・
(2)《愛は一切を癒すのである》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
愛は 一切の問題を解決する道である。
愛は 自己の病いを癒し 人の病いを癒す。
病める者よ。汝は愛にそむいていないか。
誰(たれ)か 憎んでいないか。
本当に赦(ゆる)しているか。
かえりみて本当の愛に立ちかえれば癒されるのである。
・・・
(3)《発心・修行・成道・円環》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/65be82a5525f2b722f737a2bf51991ef
(抜粋として)
「 生命 」 は動くのである。
「 道 」 は吾々に宿り、発心として芽生え、
修行として生長し、 「 成道 」 として果(み)を結ぶ。
・・・
(5)《“神の子”らしく模範生活を営め》
常に人から見られても模範的な生活をするがよい。
それは人に見せびらかして自己を誇るためではない。
全ての人は他の人の行動や生活の有様を見て、
それを「暗示」として受取るのである。
すべてのあなたの一挙手一投足は、
他の人に対する暗示となるのである。
ベトナムの仏教徒が政治不満に対する自己主張のために焼身自殺をすることが
新聞記事に写真入りで報道されると、今迄日本には全然なかった焼身自殺を、
佐藤首相訪米直前に実行した人が日本にもあらわれた。
全ての行動及びその報道は、
善悪共に暗示となって他の人々を動かしているのである。
自分の身体だからどうしても好いというわけのものではないのである。
人は行動すれば、必ず周囲に何かを与えているのである。
それが善の影響か、悪の影響か、によって
諸君の行動の価値は定まるのである。
<感謝合掌 平成31年2月13日 頓首再拝>
【十四日の法語(2月14日)】 - 伝統
2019/02/14 (Thu) 04:50:21
(1)《想念は造形的力である》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12936434.html
(抜粋として)
想念は造形的力である。
それは生命の貯蔵庫にある力を
一定の形を通して
流出せしめるパイプのような働きをする。
「 生命 」 の中に起る所の波動は
「 想念 」 であり、それは無声の言葉である。
言葉によって、一切のものが 実現に入るのである。
・・・
(2)《明るい健康な言葉を使え》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
すべて言葉にいう通りが現われて来るのである。
言葉によって自分を汚してはならないのである。
言葉によって自分を高め上げよ。
「 吾は神の子である。吾は生命である。
吾は健康である。吾は幸福である。
吾は喜びにみたされている。 」 などの言葉を
常に繰り返して 心に念ずる時には
その通りに現われて来るのである。
・・・
(3)《相手に従って救い方が異る》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2c43c4ffc8f8a2abd84da774c74091e0
(抜粋として)
人間には色々の階級、色々の魂の進化の程度があるのである。
その救い方にも色々の方便があって
一律一遍に偏ってはならないのである。
だから、物質療法あり、暗示療法あり、霊動療法あり、触手療法あり、
色々の療法があって差支えない。
何事も欠点を見ないで和顔愛語讚歎するのが好い。
・・・
(5)《肉体の欲望の聖化について》
肉体を霊に対して従属せしめよ。
ということは肉体の欲望を全然否定せよという事ではないのである。
肉体の欲望が、肉体自身の利己快楽的なものから一転して、
霊の要求に従ってこれを従属せしめるとき、
肉体の欲望が窒息せしめられるのではなく、肉体の欲望が
聖化せられ崇高化(sublimate)されるのである。
それは肉体にとっても、有りがたいことであり、やがて老い病み、
朽ち果てて消えてしまう肉体が、永遠に朽つることなき、
滅する事なき価値につながるということになるのである。
<感謝合掌 平成31年2月14日 頓首再拝>
【十五日の法語(2月15日)】 - 伝統
2019/02/15 (Fri) 04:24:17
(1)《自分の念(こころ)は隠せない》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12954870.html
(抜粋として)
あらゆる現象は
自分自身の言葉の通りに現れたものである。
その人の肉体及び環境の状態をみれば
念(こころ)の種子が
何であるかわかってしまうのである。
・・・
(2)《肉体を軽蔑(けいべつ)してはならない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
肉体を卑しいものと思ってはならない。
肉体は神の生命の地上に於ける自己実現である。
其儘(そのまま)に神の生命である。
即(すなわ)ち即身成仏なのである。
そのまま み仏なのである。
・・・
(3)《イエスは斯(こ)うして病気を癒した》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7757b2e44128b380ac6e75715f104b2c
(抜粋として)
キリストも単に言葉によって病いを癒しただけでなく、
或る場合には手を按(あん)じて祈り、
或る場合には、唾液を患部に指にて塗っているのである。
・・・
(4)《今此処の一点に全実在を把握せよ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7aee07be3a1f9e37334db7e3a36e17fd
(抜粋として)
生長の家が渾然融合せしめたものは、
今此処の一点に全実在を把握する特殊の悟りである。
・・・
(5)《自己をして自己たらしめよ》
自己の引受けた職務を徹底的に遂行せよ。
責任を回避してはならない。
併し、他の人の領域に頭を突っ込んではならない。
これは協力するなという意味ではない。
協力することが自己の職責であることもある。
いらぬオセッカイを為すなという意味である。
他の人をして他の人そのものたらしめよ。
その代り、自己をして自己そのものたらしめよ。
他の人の欠点を語るな。
欠点を語って、それを興味本位に笑い話にするなどは最も悪い趣味である。
欠点を語る場合には、愛念をもって静かに暖かい語調で本人に勧告せよ。
<感謝合掌 平成31年2月15日 頓首再拝>
【十六日の法語(2月16日)】 - 伝統
2019/02/16 (Sat) 04:17:45
(1)《人間の運命は想念のハンドルの把(にぎ)り方で極(き)まる》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12954985.html
(抜粋として)
すべて力あるものの背後には
「 目に見えざる形 」 ― 「 目に見えざる言葉 」 ―
「 想念 」 がある。
すべてのものは想念によって形を定められるのであるから、
想念を如何に動かすかが
その人の運命を決定する。
・・・
(2)《此(この)世界は 愛行の実践で支えられている》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
この世界は神の働きによって 維持されているのである。
その如く この世界は吾々の愛行によって維持されるのである。
愛は これを隣人に実践する時
それは本当の力となるのである。
・・・
(3)《神愛(しんあい)能(よ)く癒す》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7bb21f7a3fc19df5169f21f79f67e0b9
(抜粋として)
「 生命の實相 」 の中には 「 愛は癒す 」 と書かれてある。
生長の家の飛田給本部にも玄関を入ると 「 神は愛也(なり)」 と書かれており、
その裏面には 「 神愛能癒(よくいやす)」 と書かれている。
そして多くの精神的な疾患や、肉体的疾患が
ただ十日間の練成だけで癒されているのである。
それは飛田給本部の全体が 「 神愛 」 の表現であるからである。
・・・
(4)《時・空 未発の一点に久遠生命を把握せよ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/67309f495d02616c89fac82b26c49ef2
(抜粋として)
今・此処・我が渾然一体となって、
肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
「 汝の内 」 とは 「 外 」 に対する 「 内 」 になって
真の意味は掴めない。
・・・
(5)《常に“神の子”の自覚を深めるがよい》
常に“神の子“なることを憶い起こすがよい。
「私は神の子である。神がこの仕事を為さしめ給うのである」
と念じつつ勉学し、又は行動せよ。
神との一体感が深まるにつれて
あなたの生命及び魂が浄化され聖化されるのである。
”神の子”の自覚は、神の無限の智慧と愛と生命と供給との
後嗣者(あとつぎ)であることを暗黙のうちに肯定することになるのである。
従って日常生活中にも、神の智慧に導かれ、愛深き行動がとれることになり、
常に健康で、世の中に貢献できる仕事を成し得るのである。
<感謝合掌 平成31年2月16日 頓首再拝>
【十七日の法語(2月17日)】 - 伝統
2019/02/17 (Sun) 04:18:06
(1)《宗派は 権力意志に基づく排他運動》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12959618.html
(抜粋として)
無限の生命力なる所の神は絶対であって、
吾々は 神を 「 斯かるもの 」 と定義することはできない。
凡そ宗教の宗派なるものは
神が人間を救済し給うための計画の中にはない。
それは人間自身が、自分の地盤を作り、
自分の勢力を張ろうとする権力意志に基づく排他運動である。
・・・
(2)《愛は享(う)けるだけでは可(い)かぬ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
神は 吾々(われわれ)に
生命を 与え給(たま)うた。
智慧(ちえ)を 与え給うた。
愛を 与え給うた。
与えられた智慧を 表現すれば、
人のためになる善き考えとなるのである。
与えられた愛を 表現すれば、
愛行となるのである。
愛行を実践する時、多くの実を結ぶのである。
・・・
(3)《「 罪 」 の観念は 「 健康 」 の反対観念である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7d126736b5d286aea00942d8ab60ae8d
(抜粋として)
健康の反対の観念は、ただ、 「 病気 」 の観念ばかりではないのである。
「 罪 」 の観念も 「 健康 」 の反対観念である。
他の罪をゆるさない心が病気を起すのも、
「 罪 」 (健康の反対観念)の観念を心につかむからである。
・・・
(4)《内外(ないげ)打成一片(だじょういっぺん)の 「 今 此処(いまここ) 」》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a1ec014ff1697a781551ba20ebf64471
(抜粋として)
「 汝の内 」 とは 「 外 」 に対するものではなく、
「 内外打成一片の生命 」 の端的(たんてき)であり、実相である。
「 内外打成一片 」 の “ 今 此処 ” に真に神の国があり、天国がある。
・・・
(5)《神に与えよ、神はまた汝に与え給わん》
常に神を念ぜよ。
「我れ神と偕にありて、この聖業を成さしめ給う」と念ぜよ。
ただ神のために、神の栄光をあらわすために何事もなすがよい。
それが却って神からの協力をあなた自身に得ることになるのである。
これは「与えよ、さらば与えられん」の法則にかなうのである。
神にあなた自身を与えれば、神はまた神御自身をあなたに与え給うのである。
<感謝合掌 平成31年2月17日 頓首再拝>
【十八日の法語(2月18日)】 - 伝統
2019/02/18 (Mon) 03:21:40
(1)《宗派宗教の弊害の一つは恐怖を唆(そそ)るにある》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12964084.html
(抜粋として)
宗派にたてこもって、
自己の宗派を維持し拡大しようと
企(たく)む 既成 宗教家によって計画されたる運動は
先ず人心に神罰の恐怖を植えた。
その恐怖の念の反映として暗澹(あんたん)たるものとなり、
不幸災禍がつきまとうものとなる。
・・・
(2)《使わない水は腐る》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
常に汲(く)んでいる水は 清らかであるように、
常に捧(ささ)げられている生命は 腐ることなく健康である。
働きは 周囲の人に貢献するばかりでなく
自分自身に一そう多く貢献するのである。
ただ吾々は与えてさえいれば好(よ)いのである。
・・・
(3)《憎み怨(うら)みなき心境になるには》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0f5da1abadd62d442dcc711c09add780
(抜粋として)
誰(だれ)かがあなたに害を加えたと思って
その罪を憎む観念がもし貴方にあるならば、
即刻(いますぐ) 「 その罪をゆるしました 」 と心にとなえよ。
「 私は貴方をゆるしました。私は貴方を愛しています 」 と
「 罪 」 や 「 憎み 」 と全然反対の語(ことば)を
度々(たびたび)念ずるようにしていると、
自然に自分の心が浄化されて来て 憎み怨みなき心境になれるのである。
・・・
(4)《身心脱落してそのまま 「 無 」》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c3809319f5eefc2d583e612cea0b4fdd
(抜粋として)
心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、
一切が “ ある ” が “ まま ” に脱落する。
それを “ そのまま ” と云う。
“ そのまま ” は不来(ふらい)であり、不去(ふこ)である。
そのままにして肉体無しと悟る。
・・・
(5)《“本立って道生ず”ということ》
犬養道子さんが、はたちの時悩んだ話を書いている中に、
「本立って道生ず、とは、女学校一、二年のとき読んだ論語の中の
最も好きなことばであったが、生とは何、死とは何、人間とは何、
と言う永遠の課題を解くことなしに勉強は無意味であろうと
深刻に考えたのであった。
人間存立の意味を解くことは、すなわち本を立てる事であり、
生と呼ばれるこの偶有の意味を知ったとき、勉強も含めた“道”の
様々は自ずから生ずるに違いないと考えたのであった。」
(朝日、四十二年十一月十一日号)
という言葉がある。
読者は既に、人間存在の根本の意義を知ったのである。
(まだよく解らない人は私の『いのちの革命』の本を読んで頂きたい。)
即ち人間は”神の子”であり、
神の最高の自己実現であることを知ったのである。
即ち「本が立った」のであるから、その「本」の真理を枯らさないように
毎日怠らず神想観を続けるならば真理の幹がすくすくと伸び育って
そこから無数の枝が出来て爛漫と花咲き実を結ぶように、
自然によきアイデアが生まれて来、それを実行することによって
良き結実を得ることになるのである。
本が立った後には、本を育てることを忘れてはならないのである。
本は立ったが、幹が枯れたのでは何にもならない。
<感謝合掌 平成31年2月18日 頓首再拝>
【十九日の法語(2月19日)】 - 伝統
2019/02/19 (Tue) 04:52:42
(1)《神罰は愛の神にはない》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12965908.html
(抜粋として)
善にして愛なる所の神には
神罰というものはないのである。
・・・
(2)《艱難(かんなん)の時には 先(ま)ず心を静かにせよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
悩みが来た時には、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)しては ならない。
人間智慧を あれこれ働かせて、余りごまかしをやってはならないのである。
静かに心を落付けて 実相を観ずることが必要である。
実相の世界には 悩みは存在しないのである。
・・・
(3)《病気が治らない訳は? 》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/09c6fba34bce0fa629ed42e8664fd83c
(抜粋として)
あなたの病気が治らないのは、
「 健康 」 の観念と全然反対な恐怖観念、罪悪観念、
憤怒憎悪の感情等が一杯につまっているからである。
・・・
(4)《上に従順なる思想》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3103f212d1aad844bb886a5cebd1db4b
(抜粋として)
クリスチャン・サイエンスやニュー・ソートにない教えで
生長の家にある教えは中心帰一の思想である。
多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。
・・・
(5)《自己を“商品”として下落せしめてはならぬ》
報酬を求めて事をしては“生命”が“売り物”にまで低下する。
現代のコマーシャルリズム旺盛の世界での人間の禍は、
すべての人間が商品価値として取扱われることである。
商品価値のない人間は無価値の如く思い違いされていることである。
映画の大スターが、
テレビで薬の広告のサンドウィッチ・マンみたいなことをする時代である。
真の人間は「神の子」であって、売らず、買わず、唯々黙々として
無我無心に人類のために自己の天分を尽すのである。
物質的所有を欲しいと思う心を棄てよ。
肉体的快楽を欲しいと思う心を棄てよ。
その時初めて、霊があなたの主人公となるのである。
霊の要求が優先することによってはじめて肉体は霊に従属し、
その程度に従ってあなた自身が主人公となり、
真に人権が恢復されるのである。
真の人権の恢復は、単に制度の上で人権の自由が宣言されても、
みずからが肉体の欲望に従属している限りは、
依然としてその人の魂は奴隷であるのである。
肉体の人権を恢復するという名に於いて、
“霊の人権”を蹂躙しているのが今の憲法であるのである。
“霊の人権”を恢復する自主的憲法の制定こそ最大の喫緊事である。
<感謝合掌 平成31年2月19日 頓首再拝>
【二十日の法語(2月20日)】 - 伝統
2019/02/20 (Wed) 04:28:22
(1)《意思は運命を選択することが出来る》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12972591.html
(抜粋として)
意思は 又 選択力である。
それは 吾々を機械的な 「 本能 」 の支配から、
自分自身を解放して、
自己自身の生活を 自分の自由になさしめる。
・・・
(2)《人を赦(ゆる)したとき自分が赦される》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
他の人を赦した時にのみ 自分自身 赦(ゆる)されるのである。
然(しか)し人の欠点や不完全さを赦すよりも
尚(なお)尊い生き方があるのである。
それは 自分の周囲に起ることは 自分の心の影として、
自分自身を神に対して懺悔することである。
・・・
(3)《愛のみが天国である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7b6e6bfab0feaff9c5bc4476ee8eb695
(抜粋として)
憎みは地獄であり、愛は天国である。
憎みは鬼であり、愛は神である。
・・・
(5)《天授の神物に感謝せよ》
物質的な欲望を殲滅し、肉体的な欲望を断絶し、
霊の理想とするところに邁進せよ。
しかして自己の生活に自然に与えられ、自然に供給されるものを
天授の衣食住として感謝し満足せよ。
その天授の生活資料は、それが肉眼にはたとい物質の姿をしていても、
それは物質ではなく霊的産物であるのである。
すべて天授の神物として感謝して受けるとき粗食が美味と一変し栄養満点となり、
茅屋は金殿玉楼以上の平和と歓喜とをもたらし、
敝衣はそのまま綺羅の如き肌触りをもってあなたを包むのである。
<感謝合掌 平成31年2月20日 頓首再拝>
【二十一日の法語(2月21日)】 - 伝統
2019/02/21 (Thu) 04:38:58
(1)《法則と協調することにより人間は幸福になる》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12976519.html
(抜粋として)
人間の意思は、可変的であって、常に変わるが、
神の意思は 「 法則 」 となって変わらない。
吾々がその法則を正しく使いさえすれば、
幸福になるように法則は与えられているのである。
・・・
(2)《暗(やみ)が現われて来るのは 光を拒絶したから》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
「 光のある中(うち)に 光の中(なか)を歩め 」
と聖書には 書かれている。
神は光である。
光を拒絶する時 暗が現われて来るのである。
・・・
(3)《愛と信頼と善き言葉と》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/afb93db8c7367366e894f287ccaaa8a6
(抜粋として)
愛と信頼と善き言葉によってのみ 人々の能率はあがり、
仕事の品質は高まるのである。
・・・
(5)《言葉は人間の性格を左右する》
良き言葉、洗練されたる言葉を使え。
流行の舌足らずの言葉や、文法無視の言葉や、投げやりの頽廃語調の言葉や、
荒々しく人を叩きつけるような語調の言葉を使ってはならない。
言葉は創造者であり、創る力を持っているのである。
頽廃語調の言葉や歌はその人間を頽廃的人物とし、
荒々しい言葉はその人間に乱暴粗暴なヤクザ的性格を植えつける。
これに反して、良き言葉、洗練されたる言葉を常に使うようにするならば、
その人の性格は善良となり、洗練されたる風格を持つようになるのである。
まことにも言葉は創る力を持つのである。
日本国憲法に「表現の自由」が定められているからとて、その自由を濫用して、
自分の性格を悪化する言葉を使うのは自殺的行為である。
<感謝合掌 平成31年2月21日 頓首再拝>
【二十二日の法語(2月22日)】 - 伝統
2019/02/22 (Fri) 02:43:56
(1)《何教であるからとて運命に特別の保護はない》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12984530.html
(抜粋として)
神は その人が仏教徒であるから特に保護するとか、
キリスト教徒であるから特に保護するとかというようなことはない。
如何なる宗教の信者も、爆弾に触れれば爆死する。
法則は 宗教の差別なく万人に同様に適合される。
・・・
(2)《先(ま)ず心の目を開いて 身辺にある恵みに感謝せよ》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
今与えられている小さな恵みに感謝するとき、
次の大いなる恵みが与えられる。
・・・
(3)《愛は幸福を集める天使である》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d521d2bc8930d350fbb9dde61d343a84
(抜粋として)
愛は、たとえば幸福を集めるために眼に見えない
メッセンジャーのようなものである。
そして すべての憎みや怨みの精神的弾丸を防ぎとめてくれるための
防壁を築いてくれるのである。
どんな種類の警備網よりもすぐれたる幸福の護り手は 「 愛 」 である。
・・・
(4)《触手的方法を用いない生長の家》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a87f74129cf020d5b786f87fda6e4b11
(抜粋として)
生長の家は触手的な療術行為と誤られる虞(おそ)れを避けて
全然按手的触手的方法を用いることをその講師又は指導者に禁止し、
全然教えのみ説くことにし、各々の病気に対して、
それに相応ずるような精神の持ち方を改めるように説く。
それで病気が治るのである。
・・・
(5)《常不軽菩薩の生き方を生きよ》
すべての人間を憎んだり軽蔑してはならない。
無論、現象にあらわれたる人物を見るならば憎むべき人間もあり、
軽蔑すべき人間もある。
しかしこれらの不完全な姿は、彼らの仮面であって、
仮面の奥に完全なる実相の面があるのである。
現象を見ず実相を見よ。
全ての人間はその実相に於いて”神の子”であるのであり、
その”神の子”を観じ、瞑想し、心に礼拝し、言葉に讃歎するとき、
その人の完全なる実相があらわれて来るのである。
「我れ常に人を軽んぜず、すべての人に宿る如来を観て礼拝す。」
これが法華経の常不軽菩薩の生き方である。
<感謝合掌 平成31年2月22日 頓首再拝>
【二十三日の法語(2月23日)】 - 伝統
2019/02/23 (Sat) 04:43:03
(1)《法則は力の動く道である》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13003271.html
(抜粋として)
「 法則 」 それ自身は 力ではないのである。
それは 「 力(ちから) 」 の動く道である。
・・・
(2)《もっと神の恵みに感謝しなければならない》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
吾々は もっと神の恵みに対して感謝しなければならない。
感謝の念は 小さな恵みでも大きな喜びを生みだすのである。
感謝の念は 恵みの拡大鏡である。
・・・
(3)《神との接点となるべき 「 愛 」 の場所をつくれ》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/67366e1596e08b49949e692d8883b8c0
(抜粋として)
人を審判いたり、人を怒ったりする前に、自分自身の心の中に
「 神と接触する完全清浄の場所 」 ( 愛の場所 )
をつくることが大切である。
・・・
(4)《クリスチャン・サイエンスとの比較 ( 1 )》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/096cae2a262212975c146f9da30db80d
(抜粋として)
生長の家を単なる日本のクリスチャン・サイエンスだ
と思ったら間違いである。
クリスチャン・サイエンスの真理も包容しながら、
それ以上のものに飛躍しているのである。
・・・
(5)《心の雑草の根を断ち切れ》
自己を霊によって支配することができる者が真の勇者であり、
勝者であるのである。
利己心を容赦なく芟除(せんじょ)せよ。
利己心よりして、怒り、憎しみ、貪欲、虚偽、嫉妬、羨望、恐怖等
・・・・・一切の心の雑草を生ずるのである。
利己心のない心が「本当の自分の心」なのである。
利己心なくすべての人々を愛せよ。
自己の能力を人類救済のために与え切れ。
与えて、与えて、与え切れ。
いくら与えても減ずることなき「真の自己」を発見せよ。
<感謝合掌 平成31年2月23日 頓首再拝>
【二十四日の法語(2月24日)】 - 伝統
2019/02/24 (Sun) 04:45:37
(1)《同じ力を破壊にも建設にも使うことが出来る》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13039409.html
(抜粋として)
すべて吾らが自己選択して心に描く所の想念の波によって、
宇宙の創化作用がどの方向へ
その法則によって動き出すかが極まるのである。
・・・
(2)《赦す者は 愛を増す》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
赦すものは 神の愛を拡大する。
赦さないものは相手を執着の念で縛るだけではなく、
自分自身の生命をも縛るのである。
・・・
(3)《自己の罪を赦す道》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f693b4ab4fb7719249d5707d267d406e
(抜粋として)
自分の潜在意識の底に
「 罪を犯した 」 と云う考えがある場合には、
自己処罰として 病気や不幸がやって来る場合がある。
しかし 人間は真性(super consciousness)に於いては
「 罪はない 」 のであるから、
自己の内に宿れる 「 真性 」 を呼び出せば、一切の罪は消えるのである。
・・・
(4)《クリスチャン・サイエンスとの比較 ( 2 )》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/06ab33920208d428b0e836dba24139d6
(抜粋として)
エディ(夫人)の主著たる 「 真理と健康(サイエンス アンド ヘルス)」
の中にも「 天地一切のものと和解せよ 」 の思想はない、
ただ物質無、肉体無、病気無、を主張するだけで、
如何なる心が 如何なる病気を起すかの解明はない。
・・・
(5)《真理の言葉は善実現の永遠のエネルギーである》
真理を語れ。
相手が受容れないでも失望することはないのである。
語られたる言葉は創造る力があって常に宇宙のどこかにあって、
その言葉にふさわしきものを創造しつつあるのである。
キリストは「天地は失せん。されどわが言葉は失せず」といっている。
「わが言葉」という場合のキリストの言葉は「真理の言葉」のことである。
キリストは「われは真理なり、道なり・・・・・」と言っていることを想起せよ。
常に機会ある毎に、接する人々に真理を説くがよい。
また怠らず毎日、真理を説いた聖経『甘露の法雨』を朗読するがよい。
その真理の言葉は、「天地は失せるとも永遠に存在して、
善き事物を創造する」潜在的エネルギーとなるのである。
<感謝合掌 平成31年2月24日 頓首再拝>
【二十五日の法語(2月25日)】 - 伝統
2019/02/25 (Mon) 04:40:02
(1)《心の鏡としての環境及び肉体》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13042889.html
(抜粋として)
神は 人間を自由意志のままに置いて、
而(しか)も自分の 「心の影なる 」 肉体及び環境を見て
それを鏡として、自ら省み
自由意志のままに善に遷ることが出来るようにし給うたのである。
・・・
(2)《人間の働きは 神への協力である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
自分を軽蔑してはならない。
自分を金銭の奴隷などと考えてはならない。
自分を神の子として神の み業に協力するもののみ
真に立派な仕事をなすことができるのである。
・・・
(3)《罪を他に転嫁すれば一層苦しくなる》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ca9c691583d9df780f02e7d536eee34e
(抜粋として)
自己を呪い、また他を憎み怨むすべての意識と別れを告げよ。
「 自己及びすべてのわが知れる人々の罪は既に消えたのである。
自分は自分を審判(さば)かないが如く
他の人々をも審判かないのである。」 と
繰返し繰返し神想観中に念ぜよ。
・・・
(5)《真の敵は汝の“内“にある》
他の人の努力に頼ることなく、
みずからの努力によって自己を高めあげるがよい。
自己のみが自己の味方であり、同時に自己のみが自己の敵である。
”肉体の自己”を克服した「自己」は、“真の自分”の味方であるし、
”肉体の自己”に克服せられたる「自己」は“本当の自分”の敵となる。
<感謝合掌 平成31年2月25日 頓首再拝>
【二十六日の法語(2月26日)】 - 伝統
2019/02/26 (Tue) 04:04:47
(1)《希望する想念は明瞭なるを要す》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13045874.html
(抜粋として)
過去の人間観、世界観、生活の仕方の惰力と云うものは、
継続していて、それが現象界に具象化してあらわれて来ることになる。
吾々が想念するところのものが漠然たる希望であり、
明瞭を欠くようなことでは具象化する力は少ないのである。
・・・
(2)《神を祝福せよ、神から祝福される》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
神を祝福せよ。
神の み業を祝福せよ。
神の み業を讃歎(さんたん)せよ。
神から受けることばかり考えないで
まず神に与えることから考えよ。
毎日 朝に一回 夕方に一回、
神を祝福し 神をほめたたえ、神に感謝することは、
神の恵みを拡大するよき方法である。
すべての恵みを神に帰せよ。
・・・
(3)《因果昧(くらま)さず》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5fd6b6badfc3a14342bf8f252a796305
(抜粋として)
原因結果の法則は 恢々(かいかい)として漏らすことなく
他の処(ところ)で取り過ぎがある時に奪われるようになっており、
他の処で与え過ぎがある時に与え返されるようになっているのである。
・・・
(5)《内在の神を見つめよ》
自己の内部をよく見詰めるがよい。
あまりにも現代の若い人たちは、
外ばかり見てうつつを抜かしている状態である。
外の喧騒や、外の快楽に心を奪われるとき、
内部の充実が忘れられるのである。
外に心を奪われるとき、その人は粗暴となるか腰抜けとなる。
内観して、自己の内に“神”があり自己の内に”無限力”があることを
自覚してのみ、その自覚の外延として、外に力が働く時は、落ち着いた力
となり、静かなる勇気となって、暴虎馮河の勇となることはないのである。
何事も”内”から始まるべきである。
<感謝合掌 平成31年2月26日 頓首再拝>
【二十七日の法語(2月27日)】 - 伝統
2019/02/27 (Wed) 04:29:12
(1)《少しでも疑念あらば成就せぬ》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13058494.html
(抜粋として)
吾々が少しでも
「 こんな虫の好い事を求めたら きいて貰えないかも知れない 」
などと潜在意識が少しでも思うならば、
自分の潜在意識の思った通り実現しないことになる。
多くの失敗者は 此の種類に属する人である。
・・・
(2)《人間は法則に従うことによって一切のものを支配する》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
人間は 万物の霊長として
世界の一切のものを支配する力を与えられているのである。
然(しか)しながら
それは 如何(いか)にして支配し得るかといえば、
法則に従順に従う事によってである。
・・・
(3)《富むために必要な心掛け》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c25197c5b0c242d9adc97a16e73fbcc6
(抜粋として)
彼が栄えるのは自分が栄えるのである。
彼が貧しくなるのは自分が貧しくなることである。
人の栄えるのを喜ぶような心のものでないと、
みずから栄えることは出来ないのである。
・・・
(5)《内部に流れる聖なる力》
内部に流れる聖なる力を見出すことが根本である。
その聖なる力を見出してそれの導きに従って行動する者は、
例えば流れに従って河を下ると同じように、安楽にして
平穏に速力早く行動の目的を達することができるのである。
内部の聖なる力の流れに逆行して“我の力”をもって
事を為すべく突進して行く場合には労多くして効少ないのである。
自己の内部の聖なる導きを見出すために怠らず神想観を毎日実修するがよい。
<感謝合掌 平成31年2月27日 頓首再拝>
【二十八日の法語(2月28日)】 - 伝統
2019/02/28 (Thu) 04:23:06
(1)《真に望むことは既に実現している》
(全文は)
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13060929.html
(抜粋として)
また魂の底深く真に望む事物は、
既に実相の世界に於いてそれが実現しているから、
その実在の圧力によって思わずにはおれないから、
自然にそれを熱望するようになって来るのである。
希望を捨てず、
常にそれを心に描け。
その心境が 実相の実現力に一致する時期が来れば
必ず成就するのである。
・・・
(2)《神の法則とは 愛の法則である》
(全文は)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
(抜粋として)
神の法則とは 愛の法則である。
「 汝(なんじ)の如(ごと)く 汝の隣人を愛すべし。」
これが神の法則であるのである。
・・・
(3)《無限供給の法則》
(全文は)
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3ab4cce1d09504dac6878ee497fb6d4e
(抜粋として)
ケチな心を持つな。
ケチケチした小細工で金を拵(こしら)えようと思うな。
無限供給の法則を利用すれば 無限に富が流入して来るのである。
法則を破って富を集めようとすることは、
漏電によって電流の供給を受けようとするに等しいのである。
・・・
(5)《釈尊とキリストとの教えるもの》
釈尊やキリストやその他の聖なる教祖たちのみがとくべつに
神の恩寵を得ているのではないのである。
ただこれらの先輩は、どんな人間でも、みんな“神の子”であるから、
彼の如く為すならば、内部の聖なる生命の流れを、
自分の生活に導き入れて偉大なる力を発揮し、幾多の聖業を成し遂げること
ができるのだという模範を示されたに過ぎないのである。
若し釈迦、キリストが”普通の人間”には迚もできない事を
成し遂げられたのだとすれば、釈迦、キリストは、大いなる見物としては
価値があるかも知れないが、人間を救済する力とはならない。
ところが釈迦、キリストが発揮し得たところの偉大なる力を、
釈迦、キリストの如くなすことによって吾ら一般の人間もそれを為すことが
できるための、その範例を示されたのが釈迦、キリストだと
みとめる事によって、吾々は釈迦、キリストの先蹤を追うことができ、
そこに彼ら先達の生活が吾らの救済力となり得るのである。
諸君よ、あなたがたもまた自己が”神の子”なる実相を潜在意識の
底の底まで信ずることができるならば、釈尊の如く、キリストの如く
大いなる聖業を成し遂げることができるのである。
<感謝合掌 平成31年2月28日 頓首再拝>