伝統板・第二
神癒 ④ - 伝統
2019/01/31 (Thu) 04:35:52
《“神は”吾々自身の“生命(せいめい)”であり“癒す力”である》
*『人生の秘訣365章』第11篇(P275) より
自己の内に“神”が宿る。
その“神”が“本当の自己”である。
“神”は生命(せいめい)であり、肺臓も心臓も何もなき卵から、
すべての内臓をつくり皮膚をつくり、筋肉をつくり、骨格をつくり、
それらの機能の中枢となる脳神経系統やホルモン系統をつくり出した。
その優秀なる智慧というものは我らの内部に宿る
“神”(生命)の智慧であるのである。
その驚くべき叡智に、吾々は時として感謝することを忘れ、
その叡智に信頼することを忘れ、外来の物質的力のみを信頼しているとき、
その不信の精神が内部の叡智と波長が合わぬ故に、
充分には内部の癒す力が働くことができずに、
いくら薬剤に頼っても、薬剤には“生命(せいめい)”がない
故に、ついに恢復を見ることができず、
“不帰の客”となるような気の毒な結果を生ずるのである。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 (消滅)
伝統第二「光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7823515
(2)光明掲示板・第三「神癒」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243
(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42
(4)伝統板・第二「神癒①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458999
(5)伝統板・第二「神癒②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6910051
(6)伝統板・第二「神癒③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7640600
<感謝合掌 平成31年1月31日 頓首再拝>
まんまるい心こそすべての病を治す心である - 伝統
2019/02/03 (Sun) 04:27:41
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より抜粋
争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。
失われた一匹の羊が帰って来ることは、
亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも嬉しいとイエスは言った。
仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。
争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。
『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて
病気が治らないとかこっている人はないか。
あらゆる心の持ち方が整っていても、
和解ができていない人は、神の前に足りない人である。
神は《まこと》である。
《まこと》は円相である。
《まこと》とは《○(まる)こと》である。
○(まる)は和解のしるしである。
まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。
(中略)
隔てのない心。
角のない心。
仲のよい心。
○(まる)い心。
○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。
<感謝合掌 平成31年2月3日 頓首再拝>
医薬は服みてもよし、廃めてもよし - 伝統
2019/02/22 (Fri) 02:54:42
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月22日)」より
『生命の實相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。
またかえって薬を拝んで服むようになり、
心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。
刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。
先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して
鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。
たまたま包丁で人殺しをしたり、
メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、
メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。
『生命の實相』には病人に対して
むやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。
たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、
「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口に分けて飲み、
この《同じ想念》をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。
すべての他の人の罪を赦すは、吾らの過ちを
また大生命なる神より赦されんがためである。
もしわれらが心を閉じて他(た)を赦さなければ、
大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされて
われらに流れ入ることはできないのである。」
この「《同じ想念》」をなすというのは
「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して
憎み怒りし自己の罪が神によって赦されんがための供物であると念いて服み、
二口目を手してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための
供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、
三口目を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎
み怒るの罪を犯さざらんがための供物であると念いて服み、
四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水のごとくわが心より洗い流して心にとどめざらんがための
象徴(しるし)であると思って服(の)む」
べきことがその前行の文章に書いてあるのである。
これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。
それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、
それが重大な事柄であるからである。
近代のサイコアナリシス(精神分析)は観念泄瀉が
心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。
この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉を行なう方法であるともいえるのである。
『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服め」とは勧めていないが、
「《病人にして医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて
《服(の)め》」と書いてあるのであって、
「《服むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いてはいない。
しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、
仏教的真理「色即是空」(物質本来無し)、または諸方皆空(現象本来無し)の
思想に目覚めた結果、自己内在の生命の自然療能力に頼ることを重んじて
物質的薬剤に頼ることを軽視するようになるからである。
<感謝合掌 平成31年2月22日 頓首再拝>
人の病気を治すには - 伝統
2019/03/07 (Thu) 04:47:52
*「光明法語」(3月7日)より
人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。
観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。
病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。
此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。
<感謝合掌 平成31年3月7日 頓首再拝>
《薬剤を用いることの可否》 - 伝統
2019/03/22 (Fri) 01:56:06
*『人生の秘訣365章』第11篇(P275~276) より
私は決して物質的薬剤を排斥せよというのではない。
物質も「物質、物質に非ず、神の生命(せいめい)<叡智>の顕現」であるからである。
そして物質は、一層大なる顕現をした「主体的生命(せいめい)」が一層高級にして
複雑なる有機体(生ける肉体)を形成するための単位要素として利用するために、
先ず“生命(せいめい)”によってつくられたものである。
それ故に生命体の健康を維持するために「必要なる単位要素」として
その場にふさわしい「選ばれたる適当物質」(食物・薬剤等、皆これに当る)を
利用することは、決して「神に背く行為」ではなく
神が計画された創造の秩序にかなうことなのである。
ただ食物(しょくもつ)でも、薬剤でも、それを単なる「物質」と見ないで、
神の生命(せいめい)の顕現として感謝礼拝して使うがよいのである。
<感謝合掌 平成31年3月22日 頓首再拝>
《薬剤を信ずる者には薬はきく》 - 伝統
2019/04/11 (Thu) 04:27:32
*『幸福を招く365章』第12項(P253~254) より
(初出~「生長の家(昭和25年10月24日~25日)
《薬剤を信ずる者には薬はきく》
薬剤の効果は厳密に云って科学的法則ばかりによるのではない。
だから同一の種類の病気に対する同一の処方が
或る人には立派な効果をあらわすし、
或る人には不確な効果しかあらわさないのである。
これは患者の精神状態が甲と乙と異ることによるのである。
薬剤を信ずる者には薬剤が効果をあらわすが、
「 結核には治す薬はない 」 などと信じながら、
何かに頼っていなければ淋(さび)しいと云うので薬剤を用いても、
それを信じていないから効果はないのである。
かかる場合には断じて薬を排して
自己の内に宿る神(自然療能)に頼ることである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85 (24日)
・・・
《自然療能力に頼れ》
信ずべき薬あればそれを摂(と)れ。信念が癒すであろう。
信ずべき治療法なければそれに頼るな。
生きている不可思議の力に頼れ。
この力が実際あることは自分自身が知るのである。
黴菌が侵入して来た場合に、体温を上げて殺菌し白血球で
黴菌を殲滅(せんめつ)しつつある不可思議なる力に頼れ。
その力は信頼するほど強力となって病源を退治してくれるのである。
自然療能が信じなければ強く発現しないのは、
自己の部下でも信じなければ充分働かないのと同じである。
自分は細胞群の指揮者であるから指揮者が恐怖すれば
兵卒は萎縮して敵軍に降伏してしまうのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85 (25日)
<感謝合掌 平成31年4月11日 頓首再拝>
《神の癒やす力を受けるには》 - 伝統
2019/04/26 (Fri) 04:56:59
*『生長の家』(昭和25年10月)より
神の癒力(ゆりょく)を受けるためには、
何もしないで、神にまかせ切りだなどと
怠けたことを考えてはならないのである。
神の癒力を受けるには熱心に祈らなければならないのである。
祈りが徹底すればするほど、神の癒やす力の
流れ入(い)る道がひらかれるのである。
神の癒力と波長が合うのである。
祈りは最も強力なる神への道の開拓者である。
しかしその祈りは泣きつきや、暗い感情に満たされている
掻(か)き口説(くど)きであってはならないのである。
イエスは 「 言葉多きによってきかれんと思うな 」 と
教えているのである。
クドクドと愚痴(ぐち)るのは真の効果ある祈りではないのである。
神の無限の力を信じて、それに全託してしまって、
心が平和に満たされつつ
「 神の癒やす力が今自分に流れ入りつつある 」 と
念ずるが好いのである。
別著 『 祈りの科学 』 (新選谷口雅春選集第四巻)及び
『 健全の真理 』 (谷口雅春法話集第四巻)参照。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85
(谷口雅春著『幸福を招く365章』第12項(P259~260)収載)
<感謝合掌 平成31年4月26日 頓首再拝>
利己主義を去る - 伝統
2019/05/04 (Sat) 04:13:51
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より
「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、人のことを考えない利己主義者の別名である。
病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、
全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。
虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われてハッと気がついて神経衰弱の治った人がある。
<感謝合掌 令和元年5月4日 頓首再拝>
幸運の雰囲気を作ること~雰囲気が病気を癒す - 伝統
2019/05/12 (Sun) 04:17:38
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月12日)」より
病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。
幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。
部屋を浄(きよ)め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、
よきお客様が来るような気持ちでせっせと働いておれば、幸運はたずねて来るのである。
不運な人にかぎって、
ルンペンしか泊まってくれないような見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。
「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」
<感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>
《宗教は何故病気を治し得るか》 - 伝統
2019/06/11 (Tue) 03:31:01
*「眞理」第9巻生活篇第13章(P359~360) より
或る婦人が楽しい気持ちで、美味(おい)しく食事をとっている。
其の時に電話がかかる。
「貴方の良人が自働車に今衝突して重傷を負って生命(せいめい)は
危篤に瀕している」と電話は告げる。
彼女の顔色は忽ち青褪め、食事は殆ど咽喉(のど)を通らなくなり、
身体(からだ)はふるえる。
このように精神と云うものは肉体の生理作用に影響するのである。
常に何かの心配を持ちつづけている人の肉体は虚弱であり、
慢性病にかかり、血液に毒素を生ずるので皮膚に斑点やシミが生じて
容貌が衰えて来るのは当然のことである。
あまりに心配したために一晩中に頭髪がすっかり真っ白になったと云う
実話があるのも不合理ではない。
多くの病気は、常にその最初の根元が精神の不調和にあることは、
最近の精神身体医学が明らかにしつつあるところである。
宗教が心を根本的に整える効果がある以上、宗教的悟りによって
病気が治っても不思議ではない。
<感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>
利己心を捨てる - 伝統
2019/06/20 (Thu) 04:40:59
*「光明道中記」(6月20日《自分の心を調べて見る日》)より
【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
(『生命の實相』第一巻)】
自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。
利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。
憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、腹につかえるものが残っているからである。
多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても病気が治らないのであった。
治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。
治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。
『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。
<感謝合掌 令和元年6月20日 頓首再拝>
《仕事をするのが安静療法である》 - 伝統
2019/07/17 (Wed) 04:47:24
*『 生長の家 』(昭和26年4月24日の法語)より
アセルこと、イライラすること、イソグこと、アワテルことなどは
「 心 」 の安静とは反対であるから
病気を惹起(ひきおこ)す原因となるのである。
仕事は急がず着々とやるべきである。
急ぐなと言えばなまけることだと考えている人があるかも知れぬが、
なまけるのは生命の停滞であるから却って病気の原因となる。
着々と楽しく仕事を悦びながら 急ぐことなく、アセルことなく、
イライラすることなく、感謝しながら仕事をなせば、
仕事そのものが却って安静健康法となるのである。
安静療法、安静療法ととなえながら、
身体を楽にしているので暇があり過ぎて
「 病気 」のことばかり心配しているのでは安静にはならない。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12237754.html
<感謝合掌 令和元年7月17日 頓首再拝>
神の癒しを受けよ - 伝統
2019/08/04 (Sun) 04:34:14
*「光明道中記」(8月4日《常に神を憶う日》)より抜粋
【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
(『生命の實相』第十一巻)】
神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。
恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。
神はすべてのところにましますが故にその癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、これはただ病気をみとめている
人々に対してのみ言うところの方便的語(ことば)に過ぎないのである。
癒しと云うのは神の創造の顕現であり、神の完徳(まったきとく)が
現象世界面にあらわれて来ることに過ぎないのである。
だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。
不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
<感謝合掌 令和元年8月4日 頓首再拝>
《心の緊張が病気を治す》 - 伝統
2019/08/20 (Tue) 04:58:26
*『 生長の家 』(昭和25年11月9日の法語)より
人間はその内部に癒やす力をもっているのである。
「 癒やす力 」 と云うのは内部に宿る
「 完全 」 なる実相である。
その完全さが常に内部から押し出して
健康となろうとしているのである。
その内部の 「 完全 」 さを押し出す力を妨害するものが、
他の人と不調和の心、争う心、憎む心、恐怖する心、
憤る心、怠ける心などである。
怠ける心を持っている場合には、
身体の活力も怠けてだらけた気分になり、
細胞全体の活力も怠けてしまうのである。
心の緊張が病気を忘れしめて、重大なる病気を
快復に赴かした実例は沢山あるのである。
勤労で病気が治るのは 労務そのものよりも
心の緊張の結果である。
<感謝合掌 令和元年8月20日 頓首再拝>
精神分析で止まるな! 感謝にまで誘え! - 伝統
2019/08/28 (Wed) 03:42:31
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月28日)より
若い娘さんがお嫁に行って、その家庭がおもしろからぬ場合に、
なんとかしてその婚家先から逃げ出そうという思いを起こすと、
病気になったりすることがある。
病気になったら実家に帰れると思うと潜在意識が
その目的を達成させるために肉体を病気にならせるのである。
嫁が、そういうふうに逃げ出そうと思っているかぎりは
本当の真心を尽すことができないから、舅、姑から見ても
百パーセントその嫁が真心を尽しているというように見えないから、
舅姑の方でも不満足である。
そこでどうしても嫁に対して冷たく当たるということになる。
そして嫁と岳父母(しゅうとたち)との間に仕切りができたようになる。
けれども逃げ出すことができない。
逃げ出すことができないのを逃げ出すために病気にでも
なるほかしかたがない。
そこで潜在意識が病気をつくるのである。
夫婦間の仲がわるいために病気になれば、
胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。
岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは父母が悪いと、
父母を恨んだりすると脊椎カリエスになったり、頭の病気になったりする。
こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。
「ここがわたしの家である。
どんな苦しみであろうがどんな悪いところであろうがわたしの家である。
わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」
そう思って、受くべきものを受けてしまう心境にならせたときに、
そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが
消えてしまうのである。
これが和解の真理の応用である。
和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解しているのじゃ
足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。
痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、
いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。
精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という
宗教的心境にまで誘導することが必要なのである。
神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、一転して
「心臓が動悸しているので血が循(めぐ)っているのである。ありがとうございます」
と感謝の言葉を唱えさせるだけで、治ってしまった実例がある。
以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは
札幌医大で両腎臓が結核に冒されているから治療の道なしと宣言せられたのを、
腎臓の疼痛ごとに
「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」
とその疼痛に感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、
戦争中召集されて満州へ3年も従軍していてなんら病気が再発しなかった
と報告せられた実例もある。
腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、
それを調和させたとき治った実例は多い。
<感謝合掌 令和元年8月28日 頓首再拝>
《 生かす力・癒す力 》 - 伝統
2019/09/09 (Mon) 04:03:46
*『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
第2篇( P57~58) より
宇宙全体は神の”大生命”の海原であるのである。
一切の生命体を「無」の世界から生み出したところの
「生かす力」「生み出す力」「生理作用を整える力」が
宇宙全体に充ち満ちているのである。
その力が「病める者」を癒す力としてはたらくのである。
すべての人間は、この万物を生かし、
すべての病を癒す”無限の力”に取り囲まれ、
とり繞(ま)かれているのである。
病気を癒されたいと思う人は、
この”無限の力”に波長を合わせばよいのである。
神想観して次のように念ずるがよい。
「宇宙には神の癒す力が無限に充ち満ちているのである。
私は今この神の癒す力に対して心を振り向け波長を合わすのである。
神の無限の癒す力、今滔々と自分に流れ入り、
一切の暗い考え、心配、取越苦労などを一掃し、
生き生きとした生命力をもって全身の全器官全組織を満たし、
全身を賦活して健やかならしめ給いつつあるのである。
刻々瞬々、私の全身の細胞は活力を得、
若返り、一層健やかになりつつあるのである。
この神想観を終りたる後(のち)も、常に間断なく、大生命の癒しの力が
休みなく私に流れ入って、最早や病の存在する余地を与えないのである。
神の護りに感謝いたします。」
<感謝合掌 令和元年9月9日 頓首再拝>
《宗教的感激の治癒力》 - 伝統
2019/09/22 (Sun) 04:01:50
*『 生長の家 』(昭和25年11月10日の法語)より
関西の風水害の時に、洪水が滔々(とうとう)と
自分の家へ流れ込んで来て病床を浸すので、
今まで中風で動くことが出来なかった病人が起ち上って、
荷物を二階に運んだきり中風が治って歩き出した事実や、
関東大震災に火をのがれようとして
関節炎の患者が治ってしまった実例は、
心の緊張が不治の病気を治した実例である。
「ひとのみち」と云う宗教があったとき、
重症の肺病患者でも重労働させて治った如き実例があるのも、
宗教的感激の極、心の緊張が極度に達して、
病気を忘れしめ、怠ける心を退散して、
内部の活力を奮起せしめたからである。
心の面を忘れて、形だけ真似させて、
重病者を重労働させて治ると考えてはならない。
<感謝合掌 令和元年9月22日 頓首再拝>
生長の家 藤原敏之先生 ご講話「神を生きる」 - 伝統
2019/10/05 (Sat) 03:29:40
→ https://www.youtube.com/watch?v=7SdDBdwMECQ
(1)宗教というものは、信仰で救われるにある。
(2)完全に、キチガイ(バカ)になること。
(3)いかにして素直に感謝できるようになるか。
(4)何が起きても、「ありがとうございます」。
(5)結果は、影。
(6)神様の生命(いのち)がこの宮(肉体)で生きている。
(7)人間の本体は「生命の実相」である。
(8)自分の中にある生命(いのち)を観る。
(9)縦の真理(根本の真理)が第一。
(10)母親と婆ちゃんの心が変わり、子(孫)の啞が治った。
(11)足が事故で動かなくなったが、練成会で正座できるようになった。
(12)自分の自覚によって変わる。
(13)本当の人間は、神である。
(14)夢(病気、貧乏・・・)は覚めれば消える。
<感謝合掌 令和元年10月5日 頓首再拝>
宇宙の大自療力 - 伝統
2019/10/12 (Sat) 05:05:46
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月12日)より
宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。
どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)っても
しばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、
それを浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、
皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。
<感謝合掌 令和元年10月12日 頓首再拝>
《欲しい》と《たい》を捨てれば不思議に病気が治ることがある - 伝統
2019/10/20 (Sun) 02:21:11
*「光明道中記」(10月20日《「欲しい」を捨てる日》)より
【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
(『生命の實相』第二巻)】
善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」「見《たい》」
「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。
この「《たい》」が心にある間は、
その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。
天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、
八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、
心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。
時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が
「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。
すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。
「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、
斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。
その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、
あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、
生命力が自由を得ないで病気に罹っている。
その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の
《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。
<感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>
《母に感謝して治る病気もある》 - 伝統
2019/11/01 (Fri) 04:19:21
*『 生長の家 』(昭和25年11月11日の法語)より
感激して夢中になって 肉体をわすれての労働は、
重症の肺病をも癒やすが、
その労働が退屈になり、
課せられた義務としてする仕事は、
健康者をも病気にするのである。
「 毅然(きぜん)として起って、今働け 」 と書いてある
文章を読んで、働き出した病人の中(うち)、
甲は治るのに 乙は却(かえ)って重くなるのは
課せられた仕事として感激なしにするからである。
みんな自分の心の問題である。
働くとか働かぬとか云う形の問題ではない。
まだそのほかに感謝の問題もある。
八月に生長の家本部で催された教修会に参加した青年で、
重症の肺結核であったのが、
「 お母さん、ありがとうございます 」 と感謝の心が
魂の底から沸々わき起って来たとき
こんなに元気に治ったと其の体験を発表した人があった。
<感謝合掌 令和元年11月1日 頓首再拝>
父母に感謝するとき、病気が癒える - 伝統
2019/11/05 (Tue) 04:35:04
*『 生長の家 』(昭和25年11月18日の法語)より
《父母を神想観中に礼拝せよ》
父母に感謝したとき多くの病人が治っている。
父母は「神」即ち、永遠の「父性原理」及び「母性原理」の
具象化したものとして吾々の前に立っているのである。
吾々は 神の生命より生れたものであるから、
神に帰りたい本能をもっているのである。
しかし神は 眼に(め)に見えないから
眼に見える神の具象化を見るまで
満足することが出来ない。
父母を永遠の「 父性母性原理 」 として感謝するとき、
はじめて此の本能が満足し生命が生き病気が癒えるのである。
<感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>
人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統
2019/11/06 (Wed) 04:51:40
*「光明法語」(11月6日の法語)より
人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。
医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。
かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。
先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。
<感謝合掌 令和元年11月6日 頓首再拝>
《内部の生命力》 - 伝統
2019/11/18 (Mon) 04:07:06
*『真理』第九巻生活篇(P260)より
肉体を癒やす力は、人間内部の生命力にあるのである。
生命力がなければ、薬剤をあびるほど服用しても注射しても、
決して人の病気は治るものではないのである。
その証拠に死骸に注射しても、薬剤を胃袋に流し込んでも
何の反応もないのである。
癒やす力は「生命力」にあることは、これによっても判るのである。
外科医は傷口を縫い合わせるが、それに肉があがり、癒着し、
元の形になることは、人体内部の生命力に頼るほかはないのである。
生命力のみがあらゆる成分を一定の人体の形に組織する知性なのである。
それは眼に見えないが驚くべき分析力、綜合力、建設力をもっており、
吾々が摂取した成分を適当に分解し再組織し、一定の構想の下(もと)に、
その成分を組み立てて行くところの力をもっているのである。
<感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>
人の病いを癒すには - 伝統
2019/11/23 (Sat) 04:54:15
*「光明法語」(11月23日)より
他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。
自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。
この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。
<感謝合掌 令和元年11月23日 頓首再拝>
彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統
2019/11/24 (Sun) 04:53:59
*「光明法語」(11月24日の法語)より
人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。
何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。
<感謝合掌 令和元年11月24日 頓首再拝>
彼の悩みを洗浄する法 - 伝統
2019/11/26 (Tue) 04:50:01
*「光明法語」(11月26日の法語)より
人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。
「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。
これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。
「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。
<感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>
相手の病いを治す思念 - 伝統
2019/11/27 (Wed) 04:50:42
*「光明法語」(11月27日の法語)より
更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。
相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。
<感謝合掌 令和元年11月27日 頓首再拝>
柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統
2019/11/28 (Thu) 03:53:50
*「光明法語」(11月28日の法語)より
「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。
それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。
傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。
氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。
<感謝合掌 令和元年11月28日 頓首再拝>
《病気を消すための思念》 - 伝統
2019/12/14 (Sat) 04:33:57
*『生活の智慧365章』
(第4部繁栄の泉)第10篇(P266~267) より
「一切の悪は、神の創造でないから存在しない」
―― 段々乎として強く心に愬(うった)えよ。
心の眼を悪しき状態より一転して、完全なる実相に転ぜよ。
如何なる悪も仮想(みせかけ)であって存在しない。
それは夢であり、妄想であり、醒めたならば消えてしまう心が、
醒めない間だけ見ている夢だと信ぜよ。
「悪は《ない》のだ。
罪も《ない》のだ。
病気も《ない》のだ。
無いものは唯《ない》のだ。
それは妄想の産物であり、ただ想像が描いている影に過ぎない」
自分の心に対(むか)って斯くの如く繰返し宣言せよ。
そうして、想像によって描いた恐怖心が消えてしまうとき、
潰瘍や炎症や腫瘍は消滅しはじめるのです。
自壊作用を見て、病気の悪化だと考えてはなりません。
症状は現象である。現象は変化するのです。
今の状態は次の状態ではないのです。
ビールが沸騰するのは隠れているガスが消散するためです。
症状の増悪(ぞうあく)と見えるのは病気の消散するためです。
<感謝合掌 令和元年12月14日 頓首再拝>
神の完全を信じることである - 伝統
2019/12/22 (Sun) 04:59:01
*「光明道中記」(12月22日《完全解放の日》)より抜粋
【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】
本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。
神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。
不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。
「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。
この言葉を信ずるものは幸いなるかな。
<感謝合掌 令和元年12月22日 頓首再拝>
すべてを赦し、感謝して眠りに入る - 伝統
2019/12/23 (Mon) 04:58:03
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より抜粋
わたしは『光明の生活法』の中で就寝前の15分間の神想観の方法を説いておいたが、
それを病気の治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、
就寝前に、その日、またはそれまでの日において呪っていた人々を釈(ゆる)し、
憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、憎んでいた人々を恕(ゆる)し、
自分の好まない人たち、反感ある人たちとその過失とをことごとく赦して
眠ることである。
眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。
「私はもうあの人を憎んでいない。」
あの人があの時ああいう態度に出たことは、
かえってわたしにとって必要なことだったのである。
わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、
あの人がああいう態度に出たことを、
自分に害があるように思って思いちがいしていたにすぎないのである。
本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。
わたしはあの人に感謝する。
何某(なにがし)よ、わたしはあなたに感謝する。
本当に感謝する。
わたしはあなたに感謝し、あなたを祝福するものである。
ありがとうございます。ありがとうございます。
こう、精神を静かに調(ととの)えながら、繰り返し繰り返し念じて、
全き平和の心境に達したとき寝てしまうのである。
一日の最後の時間を赦しと感謝とで満たすこと、
それは健康に重大な関係があるのであるが、
健康に関係がなくとも、それはそのままありがたいことではないか。
寝床(ねどこ)に入(い)れば、
すぐ次のごとく念じて感謝のうちに熟睡に入(い)るべきである ――
「枕よ、ありがとう。寝床(ねどこ)よありがとう。蒲団よ、ありがとう。
寝巻よ、ありがとう。空気よ、ありがとう・・・」
となんでも周囲に見出され、思い浮かべられるすべてのものに
感謝の言葉を心のうちに唱えながら眠りに入(い)るのである。
こうすれば不眠症の人でも直ちに熟睡に入(い)ることができるものである。
<感謝合掌 令和元年12月23日 頓首再拝>
《眠りに入らんとしてかく念ぜよ》 - 伝統
2020/01/09 (Thu) 04:47:37
*「光明法語」(1月9日)より
汝ら眠りに入る時、汝の掌(たなごころ)を汝の眼の上に置きてかく念ぜよ。
「この眼は神の眼である。善以外のもの、美以外のもの、
完全以外のものは何物も見ないのである。
この眼は神の眼である。
毎日毎日一層その実相の完全なる視力があらわれつつあるのである。
自分の眼は神の眼である。
人々の善さのほか美しさのほか、完全さのほかは何物をも視ないのである」。
かく念ずること毎就寝時にして、数ヵ月たちし時、
或る朝目覚むれば眼鏡(めがね)をかけていた眼が見えない。
眼鏡を外(はず)せば完全に見えた。その人の乱視性近視は治ったのであった。
<感謝合掌 令和2年1月9日 頓首再拝>
神の子、自性円満 - 伝統
2020/01/25 (Sat) 03:48:57
生長の家 徳久克己先生 ご講話
https://www.youtube.com/watch?v=-79mu78_-nk
「生命の實相」第一巻を用いた講義
<感謝合掌 令和2年1月25日 頓首再拝>
《痛みを感ずるのは「全体の心」》 - 伝統
2020/02/10 (Mon) 02:48:49
*「真理」第9巻生活篇(P19)より
吾々は肉体に切り傷を受けると、切り傷によって取り去られた細胞は、
自分では元へ帰って元の肉体とはなろうとしないのです。
まだ切りとられない肉体の部分は傷ついていないのです。
切りとられない部分は傷ついていないから痛みを感ずる筈はないし、
切りとられた部分はもう自分の肉体ではないから痛みを感じない筈です。
其処に痛みを感ずるのは全体のうちの一部分が減少したと云うことを
知っている「全体の心」なのです。
その「全体の心」が全身の器官や組織のうちで、
其の傷ついた部分を修繕するに適当な細胞にむかって、
其の傷口を修繕せよ、と命令します。
そこで傷口が治るのです。
病気の部分が治るのも同じ過程です。
だから「全体の心」が健全でなければ、
健全な状態に復旧することができないのです。
手術した傷痕が治ったり病気が治るのに
速いと遅い人とがあるのはこのためです。
<感謝合掌 令和2年2月10日 頓首再拝>
すべてを受ける心になったとき病気が治り易い - 伝統
2020/02/15 (Sat) 04:33:22
*「光明道中記」(2月15日《卑怯を捨てる日》)より抜粋
【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、
多くの人を病気にしている。 (『生命の實相』第四巻)】
同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。
みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。
それは既に病気の心であるが故に、
そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。
すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。
<感謝合掌 令和2年2月15日 頓首再拝>
今日の祈りの言葉 - 伝統
2020/02/29 (Sat) 04:34:56
*『聖光録』(P154)より
神の癒す力、われにながれ入りたまひて、今、即刻汝を癒すのである。
われらが癒すのではない。
わが内に宿る神が癒すのである。
神が癒したまふのであるから間違ひなく癒るのである。
われはただ媒体である。
神の愛と癒しの放送室に過ぎないのである。
神がこの放送室に入り給い、今や癒しの霊波を放送していられるのである。
だから、この雰囲気に近づく者は悉く癒されるのである。
神の愛と癒しの力とによって、癒されないところの、
どんな病気も存在しないのである。
病は、神の創造の世界には、存在しないのである。
無いものは無いのである。
それは消えるほかはないのである。
それは自分が定言するのではないのである。
自分に宿る神がかく定言し給ふのである。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17593560.html ~ 消滅)
<感謝合掌 令和2年2月29日 頓首再拝>
「ホ・オポノポノ」のヒーリング - 伝統
2020/03/13 (Fri) 04:16:59
*『ハワイの秘法:成功と富と健康に導く』ヴィターリ・著より
(1)唯一確実な方法は「愛しています」。
ヒーリングの扉を開くおまじない。
ただし、それを使うのは自分に対してであり、他人にではない。
(2)ヒーリングが必要なのはあなたなのであって、彼らではない。
自分で自分を癒さなければならない。
あなたはすべての体験の源なのだ。
(3)「他人の中に何か嫌なものを見つけたら、
それはあなたの中にもあるということです。
あなたの仕事はそれを清めること。
そうすればそれは相手からも消えてしまいます。
実際には、
いずれそれはこの世からも消えてしまうことになります」
(ヒューレン博士)
(4)人生の構築に日々100パーセント責任を持つことに前向きな人であれば、
誰にでも問題から脱却できる。
(5)ハワイに古くから伝わる「ホ・オポノポノ」のヒーリングプロセスは、
ラブに祈願して内なる誤りを浄化するものだ。
(6)すべては「人生に責任を負う」ということなのだ。
(7)「ホ・オポノポノ」とは、正すこと、もしくは誤りを直すこと。
(8)「ホ・オポノポノ」とは一種の問題解決システムだということ。
ただし、それはあくまでも自分自身の内側で行われる。
(9)意志を持って何かをやり続ける限り、そのなにかと戦い続けることになる。
霊感にすべてを委ねれば人生は一変する。
(10)神格の声を聞き、霊感を受け取る唯一の方法は、
すべての記憶を綺麗(クリーン)にすること。
あなたがすべきことはただ一つ、きれい(クリーン)にすること。
<感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>
『静かなる心』の秘密 - 伝統
2020/03/23 (Mon) 04:53:37
*『生長の家』(昭和25年8月号)より
神学博士ジョーン・バンティング(John S.buntihg D.D.)は
その著『静かなる心の秘密(The Secret Of Quiet Mind)』の中で
『多くの今日の病人は、若し彼等が愉快なる想いと、静かなる心と、
キリストのみが与え得る生命の實相に対する深い洞察とを涵養することを
専らにするならば、その健康快復に著しい成績を挙げ得るだろう』
と云っている。
病人の多くは誰かが何らかの方法によって治してくれるであろうと、
外からの方法のみに憧れているのであって、
これが既に病的心理であるのである。
それは他に同情を求める心の現れであって、
『同情を求める人は、潜在意識が同情せられねばならぬ事情を創造する』
と云う精神科学の法則に触れるのである。
毅然として自らの自主的生命の力を自覚し、
それのみ依存して他物に頼らざる勇気を揮い起すとき、
生命の自療力はおのずから発揮され速やかに病患の快復を見るのである。
『生命の實相』を読んで病気が治ると云うのも其の事実の発表当時は
胡散臭い宣伝のように思われていたのであるが、
今は誰もそのような事を考える人はいない。
それは精神科学の認める法則によって行われる厳然たる事実であるのである。
何故なら『生命の實相』を自覚することは、
自己の生命が大宇宙の無限に荘厳なる生命であることを自覚することであり、
従って他物に頼る卑怯なる力を絶滅し自己の内に偉大なる生命
(即ち仏教で云う仏性、基督教で云う内在のキリスト) の力を自覚するからである。
吾等の生命は決して微小なるヴィールスやバクテリアによって
侵害せられる如き弱小なるものではないのである。
こ
れを知ることが人生においてあらゆる問題を解決するための
最初にして最後であるところの鍵であるのである。
そこから真に神に通ずる『静かなる心』が開かれる。
そしてその『静かなる心』から萬ずの事に勝利を得る天使が
翼をそろえて飛翔するのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18256849.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年3月23日 頓首再拝>
《神想観によってあなたの健康を》 - 伝統
2020/04/07 (Tue) 02:35:48
*『 生長の家 』(昭和44年12月5日の法語)より
人間の実相は本来完全であるという真理の前提に立って、
その本来の健康をあらわすためには、
やはり、その実相の完全さを心に描いて、それを凝視し、
礼拝し感謝するがよいのである。
病気を“みとめて”、それを治そうとして、
単に、「 手段 」のために「 完全さ 」を心に描いて
礼拝しても、「 人間は不完全で、病気になる 」という前提が、
心の奥ふかくつかまれているならば、
心の奥ふかくつかまれている想念の姿が、
形の世界にあらわれるのであるから、
「 人間本来病むべきもの 」という迷いの観念を
心から放してしまうことが 先ず 必要なのである。
それが即ち 神想観の最初の“ 唱(とな)え言(ごと)”
「 われ今、五官の世界を去って実相の世界にいる 」である。
心が五官の世界を去ったら、「 人間本来病むべきもの 」という
現象界の前提がなくなる訳である。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/da726a043db7f9335da3991d73ec3726
<感謝合掌 令和2年4月7日 頓首再拝>
すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て。 - 伝統
2020/04/10 (Fri) 02:39:00
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より
ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。
この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。
「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。
あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。
撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
家族に感謝していられますか。
そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。
そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。
右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。
そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか?
とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、心の生まれ更わりができていませぬ。
不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。
すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」
<感謝合掌 令和2年4月10日 頓首再拝>
《自然療能に感謝なさい》 - 伝統
2020/04/19 (Sun) 07:32:29
*『 生長の家 』(昭和26年4月19日の法語)より
取越し苦労をやめなさい。
脳髄で心配しないでも、脳髄なんか存在しない卵の間から、
ちゃんと 「 神の力 」 は貴方(あなた)の身体のすべての
内臓を設計し構造して来たのです。
取越苦労するだけ、
胃袋でも心臓でも肺臓でも働きが悪くなって来るのです。
それよりも其の 「 神の力 」 を信じなさい。
そして取越苦労をするひまに、寝ている間(ま)も忘れている間も、
血を循(めぐ)らせ、消化をつづけ、呼吸をつづけさせていて下さる
不思議な力に感謝しなさい。
病気を思い出す暇があったら、その不思議な力を思い出して、
「 今もその不思議な力が自分を生かしていてくれ、
内部から自分を治しているのだ、有りがたい 」 と心の中で感謝しなさい。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12221336.html (消滅)
<感謝合掌 令和2年4月19日 頓首再拝>
《愛は神の癒す力を喚起する》 - 伝統
2020/04/21 (Tue) 03:31:31
*『 生長の家 』(昭和26年4月21日の法語)より
愛は癒す絶大なる力をもっている。
その反対に憎みは絶大なる破壊力を有しているのである。
多くの人達の病気は何時(いつ)の日にか誰かに対して
憎しみの感情を起して、それを赦していず、
その念が鬱結(うっけつ)しているために起っているのである。
先ずすべての憎んでいた人々を思い起して、心の中でその人を赦すべし。
その人々を憎んだことを詫(わ)び、その人たちを祝福せよ。
多くの病気は人を愛することによって癒されているのである。
「 愛 」 は神であるから、 「 愛念 」 を起すことは、
神の癒す力を揮(ふる)い起すことと同じ効果があるのである。
人のみならず、仕事を愛することも亦、病いを癒す力がある。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12231413.html (消滅)
<感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>
《我(が)の力みが無くなる時 神が働く》 - 伝統
2020/04/23 (Thu) 04:53:30
*『 生長の家 』(昭和25年4月22日の法語)より
神は 吾(わ)が内に宿る無限の癒(い)やす力である。
凡(あら)ゆる病気と凡ゆる不幸と凡ゆる苦しみとを癒やし給う所の
不思議なる力がわが内に宿っているのである。
その力は 「 我 」 の力によって何とかしようとあせっている時には
自分の心が狭く狭窄(きょうさく)しているから
神の無限の癒やす力が豊かに流れ入らないのである。
自分の力で 自分の病気を治そうと思うな。
自分の力で 自分の不幸をなおそうと思うな。
自分が無くなり、自分の心に少しも力みがなくなって、
ゆったりとした時に
神の癒やす力が豊かに流れるのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836927.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年4月23日 頓首再拝>
《仕事をするのが安静療法である》 - 伝統
2020/04/24 (Fri) 02:53:30
*『 生長の家 』(昭和26年4月24日の法語 )より
アセルこと、イライラすること、イソグこと、アワテルことなどは
「 心 」 の安静とは反対であるから
病気を惹起(ひきおこ)す原因となるのである。
仕事は急がず着々とやるべきである。
急ぐなと言えばなまけることだと考えている人があるかも知れぬが、
なまけるのは生命の停滞であるから却って病気の原因となる。
着々と楽しく仕事を悦びながら 急ぐことなく、アセルことなく、
イライラすることなく、感謝しながら仕事をなせば、
仕事そのものが却って安静健康法となるのである。
安静療法、安静療法ととなえながら、
身体を楽にしているので暇があり過ぎて
「 病気 」のことばかり心配しているのでは安静にはならない。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12237754.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年4月24日 頓首再拝>
虫のよさ(=利己主義)が治ったら病気の3分の1くらいは治るだろう - 伝統
2020/05/04 (Mon) 04:04:30
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より
「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、人のことを考えない利己主義者の別名である。
病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。
虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われてハッと気がついて神経衰弱の治った人がある。
<感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>
《速やかに治らぬ場合には》 - 伝統
2020/05/14 (Thu) 04:58:00
*『 生長の家 』(昭和26年4月22日の法語)より
愛念を起しても忽(たちま)ち病気が治らなくても
悲観してはならない。
現象に 「 念 」 が具象化するには
それ相応の時間と現象的過程とを要するのである。
あなたの病気が形にあらわれたのも、
あなたが病気にふさわしい 「 念 」 を起してから
相応の時間をかけて現実化して来たのであるから、
今度はその逆のコースを行くのである。
常に間断なく人を愛せよ、仕事を愛せよ。
人に感謝せよ、仕事に感謝せよ。
常に間断なく善きこと楽しきことのみを想(おも)えよ。
悪しきこと悲観すべきことを心より放ち去れ。
病気の症状を心より放ち去れ。
もっとひどくなるかと恐怖する勿(なか)れ。
「 既にもう治っているのだ 」 と念ぜよ。
それは間もなく実現せん。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12233407.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年5月14日 頓首再拝>
《「 心 」 の安静が 「 実相 」 の完全さを歪みなく現象する》 - 伝統
2020/05/29 (Fri) 04:32:01
*『 生長の家 』(昭和26年4月23日の法語)より
安静療法を必要とする病気もあるが、
安静の内、もっとも大なる安静は 心の安静であるのである。
心の安静のうち最も大なる安静は 神想観であるのである。
瞑目(めいもく)して
「 神の大いなる癒す力 全身に流れ入り、既にわれは癒されたのである 」
と念ずるときほど心の安静を得ることは 他(ほか)にないのである。
すべての癒す力の根元は 内部の 「 完全なる実相 」 である。
その実相を完全に現象化する力は
「 心 」 と云う歪(ゆが)みないレンズである。
「 心 」 が平静を失えば、いくらあなたの実相が完全であっても、
現象的には不完全にあらわれて来るのである。
だから何よりも先ず 「 心 」 の安静を得ることが必要である。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12235748.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年5月29日 頓首再拝>
《真理の理解が深まれば病気は治る》 - 伝統
2020/06/06 (Sat) 04:43:01
*「真理」第9巻生活篇第5章(P136~137)より
肉体の病気を治してもらいたいと云うようなケチな「影を追求する心」を
捨てよと私が言ったからとて、「病気を治す力を捨てよ」と云う訳でも
なければ、「病気を治すことを遠慮せよ」と云う訳でもないのである。
『生命の實相』を読むだけでも、真理に対する理解が深くなれば、
病気はたちどころに治る実例が多くあるのである。
生長の家で小児麻痺が治る問題で雑誌新聞が色々さわいだことがあるが、
昭和31年2月5日生長の家本部道場での午後の体験談発表会で長男の
小児麻痺が治ったと云う体験を発表された中村しげ子さんは、その後、
次のような礼状を寄越された ――
”長男の小児麻痺が赤坂の道場に行き、『生命の實相』(第十二巻)を
いただき、その夜パラリをひらいたところが
「皆さん小児マヒと申しますのは・・・」と云うところでありました。
私は二頁拝読して、主人の父母(ふぼ)にすまなかったと云う心で
とても泣いたのでございます。
その次の日10時半頃、腰が立てなくて這いずっていました
子どもが一瞬に立ったのでございます・・・”
<感謝合掌 令和2年6月6日 頓首再拝>
練成「30日間の特訓」で自己の想念が一変し、神癒を受けた - 伝統
2020/06/07 (Sun) 04:18:44
*『 生長の家 』(昭和52年5月9日~10日の法語)より
《自己の想念が錬成で一変すると
今まで住んでいた世界が地獄から極楽世界に変った》
各人はそれぞれの自己の想念が創作した天地に住む実例として
まことに適切な体験を書いて来られたお手紙を頂いたので、
その手紙を次に掲げる。
原文のままであるが、句読点は編集部でつけて貰った。
『合掌 ありがとうございます。
総裁先生におかれましては、御健勝にて、日夜
神国日本の実相顕現のため御尽力、誠に有難く感謝申し上げます。
突然手紙など差上げ、先生の貴重なお時間を
私などのため浪費申し上げては失礼とは存じ躊躇致しておりましたが、
遂こらえ切れずに失礼致しますことおゆるし下さい。
私は昭和二十七年六月頃でしたが、ノイローゼにかかり、
松本市の或る書店で、服部二郎先生著“胃腸病は必ず治る”という本を買い、
生長の家を知り、病本来無しの真理を知りました。
それからすぐに誌友会の存在を知り、青年会にも入り、
全国大会には数年続けて参加させて頂きました。
当時の青年会の委員長は小路(眼鏡をかけ背の低い方)委員長でした。
それから今九州別格本山にいられる良本峯夫さんに変わるまで、
私としましては、熱心に青年会に活動したつもりでしたが、
まだまだ時期が早や過ぎたのか、み教えから遠のいてしまいましたけれど、
完全にみ教えから離れられなく悩み続けておりました。
しかし、こんな私を神は見捨て給わず、又もノイローゼになり
二年間苦しんだあげくの果て、遂に神は私を九州別格本山へ呼んでくれました。
昨年11月二十日から12月二十日迄、私は命をかけて錬成させて頂きました。
病後の(ノイローゼ治療につかった薬で全身湿疹と
二十一日間も熱病にかかった様に寝ていたので足腰がふらふらしていました)
体を鍛えるため、進んで献労に参加、一日を真剣に生きました。
夜寝る時は、もうくたくたで、明日はどうなることか不安でした。
しかし一夜明けると、又新しい活力が全身にみなぎり、
ほんとうに神の子無限力を理解することが出来ました。
よごれた心を清めるため、今まで一度も掃除できなかった錬成員宿舎の
中から外を、時間のゆるす限り、(錬成期間中ほんとうに息のつく間もない位
いそがしかった)これ清掃につとめました。
この事は部長さん並びに部長の奥様が良くご存知です。
そして三十日間を有効に過すため、
朝の行事、夜の行事も一番前に陣どり、真剣に行じました。
けれども神想観は、足がいたくてたまりませんでした。
三十日間九州別格本山での特訓は、私の人生を三百六十度変えました。
今までの性格がまる切り正反対になりました。
消極から積極へ、暗黒から光明へと展開しました。
人生がバラ色に輝いております。
無口陰気が雄弁で快活になりました。
職場では、今までほこりで汚れていた床を私一人で磨き、
ピカピカになり、生まれ替った様になりました。
仕事も順調に不可能はないという様な気持ちで、
毎日が充実しております。
又、私の職場の場合は全逓で、左翼の組合ですが、
今までしりごみしていましたが、積極的に行動でみ教えを実行しています。
同僚も私の積極性にカブトをとり始めています。
色々まとまりのない事を書きおゆるし下さい。
同封の“しらかば”に、私の体験の一部が載っております。
御笑覧くださいませ。(下略)
昭和五十二年ニ月二十八日
長野県 藤原載吉
生長の家総裁
谷口雅春先生様』
《『真理の吟唱』をカセットで夜徹し聴聞して》
以上のお手紙は、長野県南安曇郡梓川村の藤原載吉氏からのものである。
「30日間の特訓」を九州別格本山で受けたというのは、
この本山の練成会に参加して“長期錬成”の課程をふむ人のうち
最も短い期間の長期錬成がこの30日間の錬成なのである。
本山に奉納する費用は僅か3万円だそうである。
(普通の練成会は毎月初旬1日から10日までの10日間で終る)
長野県教化部から出ている『しらかば』紙にはこの藤原載吉氏の体験を
「住吉大神が呼んでいる」と題して次のように書いている。
『昨年11月に、九州別格本山の練成会を1ヶ月間受けて帰られた
梓川村の藤原載吉さんより次のような喜びの体験記が寄せられました。
住吉大神が呼んでいる 梓川村 藤原載吉
精神科へ入院したが
藤原さんは昭和四十九年末からノイローゼにかかり、
約2年間暗黒の闘病生活を送った。
家庭内、職場内が不調和で遂に松本市の城西病院へ入院するはめになった。
しかし御教えに25年前からふれている藤原さんは絶対に生長の家で治す、
と決意し、病院を飛び出した。
カセット『真理の吟唱』で奇蹟が
夜、床について寝ながら、谷口先生の御朗読のかセットテープ
『真理の吟唱』その他をイヤホーンを耳にして一晩中、
全身これ耳にして熱心に聞いた。
すると夜半突然、全身に落雷を受けた様な大きなショックを受け、
全身がシビレた様になったと同時に、次の瞬間、
心の底から何とも言えない有難いという素晴らしい気持ちが湧き
素直に合掌できたのである。
この時、神癒を受け何物かが私の体から抜けて行った様な感じを受け
全身がすっきりした。入信後25年目にして初めて合掌でき、
真の感謝が出来たのである』
(http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7 )
<感謝合掌 令和2年6月7日 頓首再拝>