伝統板・第二

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神は愛なり④ - 伝統

2019/01/21 (Mon) 04:59:05

《神は愛なり、神の愛を実践せよ》

        *『人生の秘訣365章』第11篇(P286) より

“神の子”は神の子らしく“愛”を行じなければならない。

神想観を実践して“神の子”たる自覚を深め、
次には“神の子”らしく“愛”を他(た)に与えるべきである。

この場合の“愛”とは恋愛とか、性愛とかいうものではないのである。
「神は愛なり」という場合の如き普遍的な愛である。

愛を与えるには必ずしも物質的贈り物を与えなければならぬことはないのである。
あなたの優しき微笑(びしょう)、深切な表情を与えて、
相手に幸福感をもたらすのも「愛を与える」ことなのである。

人に出会ってもムッツリと無表情で白眼(しろめ)で相手を見るようなことなく、
愛情のある語調で一言(ひとこと)挨拶の言葉をかけるのも神の愛である。

誰かが失望して起(た)ち上る勇気を失っているときに
「神が護ってい給うから、必ず陰極は陽転する」ことを説いて、
その人を失望からたちあがらせてあげることも神の愛である。

誰かが病気又は不幸に陥っているとき、
人知れず、その人のために祈ってあげるのも神の愛である。

本当の愛は、大袈裟に宣伝するラッパを嫌うのである。
静かに夜露(よつゆ)がおりてすべての作物に潤いと生気とを与えるような
静かなる祈りに満ちた行いが本当の愛である。


・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818

(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7691841


         <感謝合掌 平成31年1月21日 頓首再拝>

《愛と信頼と善き言葉と》 - 伝統

2019/01/28 (Mon) 04:14:44


        *『 生長の家 』(昭和26年2月21日の法語)より

   愛と信頼と善き言葉によってのみ 人々の能率はあがり、
   仕事の品質は高まるのである。

   愛と信頼と善き言葉とは
   心の砂漠の中にサフランの美しき花を咲かしめ、
   その香気は力つきた人の疲労をいやすのである。

   それは奇蹟を演じ、つぶれかけた事業を建て直し、
   破壊しかけた家庭の裂け目に油をぬり、
   乾ききった夫婦の愛情に 温い蒸気を噴き込むのである。

   病を治す力も其処(そこ)から動き出して来るのである。
 
   他が自分を害しはしないか、損害を与えはしないかと恐怖する心が、
   傷害(そんがい)と損失とを招(よ)びむかえるのである。

   その人を警戒していると 其人(そのひと)から害を与えられるが、
   その人を愛すれば其人がわが為に働いてくれるのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/afb93db8c7367366e894f287ccaaa8a6

         <感謝合掌 平成31年1月28日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力なり》 - 伝統

2019/01/30 (Wed) 04:30:50


         *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

         <感謝合掌 平成31年1月30日 頓首再拝>

《神の愛の流通パイプとなる光栄》 - 伝統

2019/02/01 (Fri) 04:57:44


       *『人生の秘訣365章』第12篇(P303~304) より

吾々が献金しながら、
「《自分》が献金している」と傲慢な心を起してはならないのである。
何故なら、すべての富は神より来(きた)るのであるから、
人間が神に献金する何物もないのである。

神が神に献金するのである。

それは神は愛であるから、神の愛を実現せんがために、
人を通じて、宗教や慈善事業や公共の福祉施設に、その設立費や維持費や
公共の礼拝堂の建設費にそれを循環流通せしめ給うのである。

ただ我々が為し得ることは神の愛の実現の流通パイプとなる
光栄に預ることなのである。

         <感謝合掌 平成31年2月1日 頓首再拝>

《愛は全身を相手にまかせる》 - 伝統

2019/02/06 (Wed) 03:07:58


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』と言っていられる。
ここに言葉をききて素直に守ることが『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては何を求められても無条件に従いたくなるのである。

         <感謝合掌 平成31年2月6日 頓首再拝>

報い求めぬ愛の日 - 伝統

2019/02/14 (Thu) 04:56:40


           *「光明道中記」(2月14日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、それは「誠」でなくなり、
「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」
と不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

         <感謝合掌 平成31年2月14日 頓首再拝>

相手の立場に立って相手を生かしてやる - 伝統

2019/02/16 (Sat) 04:27:09


        *「光明道中記」(2月16日 自己の尺度を捨てる日)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、
相手を害(そこな)い、自分を害う。       (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、悉く異なって見えるものである。
争いは、見る立場は一つしかないと云う根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、或る人には斜めに見える。
もっと委(くわ)しく分けるならば、一つの顔でも全然同じように見えることは
あり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」と言ったが、
今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、
己の欲する所も、彼は欲しないかも知れないことを知って、
各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

         <感謝合掌 平成31年2月16日 頓首再拝>

愛と智慧 - 伝統

2019/02/17 (Sun) 04:33:49


           *「光明道中記」(2月17日)より抜粋

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

         <感謝合掌 平成31年2月17日 頓首再拝>

《愛は幸福を集める天使である》 - 伝統

2019/03/06 (Wed) 04:46:50


         *『 生長の家 』(昭和26年2月22日の法語)より

   愛は、たとえば幸福を集めるために眼に見えない
   メッセンジャーのようなものである。

   そして すべての憎みや怨みの精神的弾丸を防ぎとめてくれるための
   防壁を築いてくれるのである。

   どんな種類の警備網よりもすぐれたる幸福の護り手は 「 愛 」 である。

   自分でいくら智慧がすぐれ、聡明であるからとて、
   神の眼から見たらどんなに愚かな者であるかわからないのである。

   だから 自分を賢者だと思い上って、
   他の人の 「 行き届かなさ 」 を罵ってはならないのである。

   他の愚かさを見ては、自分の愚かさを省み、
   みずから智慧をみがくようにすれば、
   彼も亦自分を省みて聡明になるのである。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d521d2bc8930d350fbb9dde61d343a84

         <感謝合掌 平成31年3月6日 頓首再拝>

欠点を見つけるのは愛ではない - 伝統

2019/03/09 (Sat) 04:28:05


           *「光明法語」(3月9日)より

欠点を見つけるのはその人を真に愛していないからである。
愛は欠点を見ないでその奥にある神性を観、実相を観る。
愛するほど強力なものはないのである。

私が宇部の講習会をしたときに夫婦仲の悪い婦人に
「仲をよくしたら好い」「既に仲好いと思えば好い」と話した。
それは智慧の働きである。

ところが吉田國太郎講師が光明講座のときに
「仲が悪いのは愛しないからである。愛すれば仲がよくなるのである」と話した。
その婦人は良人を愛し始めて幸福になったと云うのである。

・・・

<参考>

(1)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6620484

(2)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7220053

         <感謝合掌 平成31年3月9日 頓首再拝>

愛とは与えることである - 伝統

2019/03/10 (Sun) 06:50:51


           *「光明法語」(3月10日)より

《なろうと努力するより既によしと信ぜよ》

其の婦人は今まで「仲好くしよう」と努力したけれども仲好くなれなかった。
それは意志の努力であった。

彼女は「仲悪し」を心の中に思い浮かべて、
「仲好くなろう」と努力したから仲好くなれなかったのである。

また「愛されたい」と求める心でいるばかりで、
積極的に愛しようと努力しなかったから仲好くなれなかったのである。

愛せよ、与えよ、与えるのが愛である。
無条件に与えよ。無条件に与え切るとき、自分が愛されるようになるのである。
愛とは与えることである。放つことである。

         <感謝合掌 平成31年3月10日 頓首再拝>

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ること - 伝統

2019/03/11 (Mon) 04:38:13


           *「光明法語」(3月11日)より

《相手のためになることを実践せよ》

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

         <感謝合掌 平成31年3月11日 頓首再拝>

《愛されたいのは愛している証拠》 - 伝統

2019/03/12 (Tue) 02:31:45


           *「光明法語」(3月12日)より

その婦人が、良人から「愛されたい」と願ったのは、
既にその婦人が良人を愛していた証拠である。
人は愛していない相手から愛されようなどとは思わぬ。

かりにらい病患者があってそれが醜くて到底こちらが彼を愛し得ぬ場合、
吾々はそのらい病患者から愛されてつきまとわれたら恐らく迷惑を感ずるばかりだろう。
すなわち、こちらが愛していない相手からは愛されたくないからである。

彼から愛されたいと思うのは既に自分が彼を愛しているからである。
「自分は彼を愛している」と気がつく事が第一である。

         <感謝合掌 平成31年3月12日 頓首再拝>

愛は繁昌の基(もとい)である - 伝統

2019/03/16 (Sat) 03:49:14


           *「光明法語」(3月16日)より

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

愛によって育てられる子供は健康の育つ、けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

         <感謝合掌 平成31年3月16日 頓首再拝>

愛は復活の力である - 伝統

2019/03/19 (Tue) 04:54:41


     *『人生の秘訣365章』第2篇(P48) より

神は愛であり、愛が自分の心のうちに湧いて来るとき、
それが愛行と具体化して人類を救うことができるのである。

愛は復活の力である。
それは性愛のことではないのである。
如来の聖愛であり慈悲の愛である。

一人でも地上の人間を苦しめてはならないという神の無限の愛である。

         <感謝合掌 平成31年3月19日 頓首再拝>

神の愛の霊波を受けるには - 伝統

2019/03/24 (Sun) 04:28:45


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。


         <感謝合掌 平成31年3月24日 頓首再拝>

愛の展開が天国である - 伝統

2019/03/30 (Sat) 05:00:42


           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

         <感謝合掌 平成31年3月30日 頓首再拝>

愛するとは實相を信ずること - 伝統

2019/03/31 (Sun) 04:34:31


           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

         <感謝合掌 平成31年3月31日 頓首再拝>

神は慈悲の神、愛の神 - 伝統

2019/04/01 (Mon) 03:35:46


    *「光明法語」(4月1日)より

先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

         <感謝合掌 平成31年4月1日 頓首再拝>

人間は愛するために生まれている - 伝統

2019/04/05 (Fri) 04:09:40


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、
相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 平成31年4月5日 頓首再拝>

《神の愛は放つ愛である》 - 伝統

2019/04/20 (Sat) 00:46:42


        *「光明法語」(4月20日)より

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月20日 頓首再拝>

憎しみは愛でしか消えない ~名作映画「ベン・ハー」より - 伝統

2019/05/08 (Wed) 03:48:38


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/04/08)より

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憎しみは愛でしか消えない
~名作映画「ベン・ハー」より

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

今日は、古い名作映画の話です。

チャールトン・ヘストン主演の名作映画「ベン・ハー(Ben Hur)」です。

映画「ベン・ハー」は、イエス・キリストが生まれて処刑されるまでを背景に、
ローマ帝国下ユダヤ人の名家の長男ベンハーの波瀾万丈な人生を描いた
大スペクタクル映画です。

製作期間6年半、5万人のエキストラ、当時でも破格の54億円の巨費で描いた、
スケールの非常に大きな作品で、1959年アカデミー賞の11部門を獲得しました。

わたしが以前勤めていた学校ではこの映画を小学校高学年によく観せていました。

そのため、わたしは5回は観たことがあります。

すごく面白くて感動的な映画です。


では、そのストーリーです。

(これから観るので知りたくない人は飛ばしてくださいね)

西暦1世紀の初め、ユダヤがローマ帝国の支配下にあった頃の話。

ユダヤの都エルサレムにローマ駐屯軍の新将校メッセラが着任した。

彼はこの地の貴族の息子ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)と幼な友達だった。

しかし、メッセラは立身出世主義者となっており、ベン・ハーと今は相いれなかった。

ある事件からベン・ハーの一家がローマへの反逆罪に問われた時、
メッセラは無罪の口添えを請われたが、拒否した。

そのため、ベン・ハーの母と妹は地下牢に入れられ、
ベン・ハー自身は無実の罪で奴隷としてローマ軍のガレー船へ送られた。


途中、砂漠で渇きに倒れた時、飲み水を恵んでくれた人があった。
ベン・ハーは、この人の優しく力強いまなざしを忘れなかった。

ローマ艦隊が海賊船団と戦った際、
ベン・ハーは司令官アリアスの命を救ったことで、その養子に迎えられる。

ユダヤの地に帰ったベン・ハーは、そこでハー家の財宝を守っていた
かつての忠実な使用人とその娘エスターにめぐり合った。

ベン・ハーと相思相愛であった恋人エスターは、ベン・ハーの母と妹の世話もしていた。

が、2人は不治の病にかかり死の谷にいたので、
彼女らの願いどおり2人は地下牢で死んだとベン・ハー告げた。

ベン・ハーは2人の仇を討つことを誓い、
大戦車競争に出場し、無敵だったメッセラを破った。

瀕死の傷を負ったメッセラはベン・ハーに告げて息絶える。

お前の母と妹は死の谷で生き恥をさらしているというのだ。

新たなる怒りと憎しみに煮え返りながら、早速、彼は母と妹に会いに行く。

ナザレのイエスの奇跡を信じていたエスターは
2人をイエスと会わせたいと死の谷から出ることすすめる。

だが、頼みにしていたイエスが、
十字架を背負い歩いながら罪人として刑場へ向うゆく姿を4人は目の当たりにする。

ベン・ハーは、そのイエスこそ、砂漠で水を恵んでくれた人だったと気づき、
今度は彼が1杯の水を捧げた。

イエスは貼り付けにされ死んだ。

しかし、そのとき奇跡が起こった。

母と妹の病は癒え、元の姿に戻ったのである。

ベン・ハーは歓喜する2人を見つめながら、
ローマへの怒りや憎しみが消え去り、喜びと希望を体中に満ち溢れされるのだった。



結末にちょっとひっかかる人がいるかもしれませんが、この映画の見所は満載。

4時間近い映画ですが、まったく飽きることのないストリー展開。

CGをまったく使っていない、大戦車競争の本物の迫力。

壮大なスケールと繊細な人物描写。

質実剛健で誠実で心優しい、主人公ベン・ハーの魅力。

20世紀の紛れもない名作です。

「憎しみは愛でしか消えない」

まだの方は、是非、ご覧になってください。

いい映画を観よう。

きっと得るものがあると思います。 (^.^)



出典:映画『ベン・ハー 』1959年のアカデミー賞11部門を獲得した名作です。

監督は、アカデミー監督賞を3回受賞、ノミネート回数は12回に上る、
巨匠ウィリアム・ワイラー(代表作『ベン・ハー』『ローマの休日』など)

ちなみに原作は、1880年にルー・ウォーレスが発表した
ベストセラー小説『ベン・ハー』だそうです。

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/04/08/story-40-2/ )

            <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

《”失望する愛”は”求める愛”だからです》 - 伝統

2019/05/17 (Fri) 04:25:30


       *「真理」第9巻(P93~94)より

愛を失ったとき、どんな正しさも折れ易くなります。

他(ひと)を本当に愛するためには、
自分自身が神の愛に抱かれ包まれ神の愛に満たされている
自覚を得ることが必要です。

神想観中に

”神の愛にいだかれて私は幸福である”

と強く念ずるが宜(よろ)しい。

自分が愛されていない自覚では、他(ひと)を本当に愛することはできません。

自分が愛されている自覚のない場合、
他(ひと)を愛する事件が起こるとしますならば、
それは他(ひと)を「愛する」形をしているけれども、
実は「愛を求めている」のです。

「愛する」と「愛を求める」とは非常に相異するのです。

「求める愛」は失敗しがちです。

常に成功する愛は、「愛する愛」「与える愛」のみです。

「良人が私を愛してくれません」と訴える奥様がありますが、
それは、「求める愛」だからです。

本当に愛する愛になり切ったとき、
平衡の法則で、愛が自分に必ず返って来ます。

            <感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>

今、既に神の愛に包まれている - 伝統

2019/05/21 (Tue) 04:37:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。
太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんなにも愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

           <感謝合掌 令和元年5月21日 頓首再拝>

《友から愛情を得たい場合には》 - 伝統

2019/05/23 (Thu) 03:13:01


        *「真理」第9巻(P95~96)より

あなたがよき友達を欲しいと思われましたならば、友を求めるよりも先ず、
「自分は他(た)の人を如何にしたら幸福にしてあげられるか、教えて下さい」
と神に真心をもって祈ることが必要であります。

そして真剣に人を少しでも幸福にし、その重荷をとってあげるには
どうすればよいかを考えるのです。

そして考えついたことを、どんな小さな事でも
必ず実行するするようにするのです。

その実行の中から本当に親しく知り合いになる友ができて来ます。
自分が何も他(た)に与えないでいて、
友がないと云うことを呟いてはなりません。

あなたが友情を他(た)の人に与えている限り、
その友情は必ず誰か「不特定の人から」あなたに返ってまいります。

併し「此の人」の愛を得たいと思ってその人に愛を与えても
その人は貴方に愛を寄せないかも知れません。

その人を自分の愛で縛ろうと考えてはなりません。
愛情で人を縛ってはなりません。

           <感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>

《愛は失敗することはない》 - 伝統

2019/05/25 (Sat) 03:42:37


      *『幸福を招く365章』第3項(P60~61) より

神と偕に生くると云うことは、神は愛であるから、
愛を配達する人になると云うことである。

全世界の人類が配達する人になったときこそ地上に天国が生じたときである。

何事を為すにしても、語るにしても、交渉するにしても、
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給う」と愛念を先に送って置いてから為せば、
行く道は平らかとなり、愉快になり、成功多きものとなるのである。

憎しみは失敗することがあっても、愛は失敗することはないのである。
憎しみは争いを起こすが、愛は必ず平和をおこすのである。

吾々は「愛念」を実生活の道具として凡ゆる方面に活用することにしなければならぬ。

           <感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>

《愛の神を凝視せよ》 - 伝統

2019/05/26 (Sun) 03:16:57


         *「光明法語」(5月26日)より

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」
と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

           <感謝合掌 令和元年5月26日 頓首再拝>

宇宙の修正力に、神の愛を観る - 伝統

2019/06/05 (Wed) 04:38:10


          *「光明道中記」(6月5日 罪浄まる日)より

【罪は本来無いから、それに心が捉えられなければ消えるのである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


若し吾々の「念」そのままに此の世界が現じて来るものとすれば、
若し吾々の日々の憎しみの心の通りに、日々の悲しみの心の通りに、
日々の呟きの言葉の通りに、此の世の中の現象が悉く現れて来るものならば、
此の世界はもっと惨憺たる傷(いた)ましい状態を現出していただろう。

それは、若し吾々の春秋の大清潔法(おおそうじ)のとき
畳を叩くときの埃(ほこり)がいつまでも浄まらないで空中に渦巻いているとしたならば、
吾等は到底生活に耐えないような環境を見出すだろう。

然るに、神は讃むべきかな、宇宙に浄化力を下ろしたまうて、
常に吾々の立騰(たちのぼ)らす塵埃を浄化して環境を澄み切らして下さるのである。

それと同じように、吾々の心から立騰(たちのぼ)らす無数の「心の埃」が
その儘、具象化(かたちにか)するならば、それこそ大変であるのに、
神はそれを常に修正していたまうのである。

吾々が暗の中で攪(か)き濁(にご)す心の塵埃もいつの間にか、
神の光で、空中の大気のように浄まって了(しま)うのである。

茲(ここ)に私は宇宙の修正力を観、神の愛を観るのである。

業(ごう)は永遠の存在であり得ないのは此の宇宙の修正力によるのである。

            <感謝合掌 令和元年6月5日 頓首再拝>

神を愛せよ - 伝統

2019/06/06 (Thu) 02:24:57


         *『光明法語』(6月6日)より

パウロは次のように言っている。

「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、
凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。

愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

        <感謝合掌 令和元年6月6日 頓首再拝>

神に好かれて味方してもらえる方法って? - 伝統

2019/06/26 (Wed) 04:43:07


        *「斎藤一人「俺の人生」」(P19~20)より

この世には神がいます。

神様ってね、みんなが思っているより楽しい人だし、
笑顔の多い、愛にあふれている人なんです。

そして、神の愛が物質化されたものが、物になります。
だからすべてのものは、神の愛でできてるんだよ。

その中で、人間だけが自由意志を持っている。

私たちの存在は自由意志を持った神の愛なんです。

で、自分が神のエネルギーの通り道だとすると、
本来は言葉だろうが表情だろうが、自分の中から神の愛が出なくちゃいけない。

それが出てないときは、おかしいときなんだよね。


苦労したり、嫌なことがあったり、人とぶつかったりすることがあります。
それってね、必ず自分から愛が出ていないの。
相手が嫌なことを言おうが何をしようが、関係ありません。

《自分は愛の通り道だから、相手がどうであろうと、
愛に関することしか言っちゃいけないんだよ》

それができると、世間も味方してくれえるし、
神も味方してくれるようになります。

神が味方してくれるとどうなるんですかっていえば、
神は成功のアイディアから何から全部持ってるから、
それをくれるんだよね。

だから、私たちは神がくれたそのアイディアで勝負すればいいんです。

        <感謝合掌 令和元年6月26日 頓首再拝>

《愛は平和を持ち来す力》 - 伝統

2019/06/27 (Thu) 04:54:14


       *「眞理」第9巻生活篇第13章(P365) より

愛は世界に於ける最も大(だい)なる平和を齎(もたら)す力である。
愛なきところに、単に理論や正しきのみのあるところには
平和は来らないのである。

理論は各々(おのおの)の立場から相手の立場を真直ぐに横切るのである。
各々は正しく主張し。そしてその理論は交叉して互いに激突する。
理論ばかりの世界には調和はあり得ないのである。

愛のみが反対の立場のものを包容して互いの立場許しながら
調和と平和を持ち来(きた)すのである。
神は愛であり、愛は神であり、神は生命(せいめい)であるから、
愛のあるところに神は来(きた)りたまい、其の人の生命(せいめい)は
生き、病(やまい)は癒やされるのである。

キリストは「汝ら互いに相(あい)愛せよ、愛する処に我はいるなり。」
「若し汝等互いに相(あい)愛せば、すべての人、汝等をわが弟子なりと
知らん」 といみじくも教えているのである。

キリスト教国と云う名(な)、レッテルだけの国が戦争をするのである。

        <感謝合掌 令和元年6月27日 頓首再拝>

手垢のついた愛(執着の愛) - 伝統

2019/06/30 (Sun) 04:10:47


       *「光明法語」(6月30日《自分と云う手垢をつけるな》)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。
如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 令和元年6月30日 頓首再拝>

真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である - 伝統

2019/07/07 (Sun) 04:26:40


       *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で「諸愛ことごとく解脱し」と書かれている
ように、仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

        <感謝合掌 令和元年7月7日 頓首再拝>

《神の愛はあなたを抱擁しておられます》 - 伝統

2019/07/14 (Sun) 04:41:48


        *「真理」第9巻生活篇第6章(P154~155)より

今、神の愛があなたを引き包んでおられるのです。
それに気がつかなかったならば、今、ハッキリその事実を自覚しなさい。

神の愛を単に哲学的に、また抽象的に考える事を止めなさい。
神の愛を、あなたの母親がしっかりとあなたを抱きしめているように、
具体的に温かく抱きしめておられると感じなさい。

それを神想観中に、
”心の眼”をもって具体的に見、ハッキリと心に感ずるのです。
抽象的な観念だけでは、多くの具体的効果を期待することはできません。

ハッキリ具体的に感情的にすら感ずることによってのみ
多くを期待することが出来るのです。

「神は無限の愛を以て吾がすべての過ちを許し給い
我をその愛の御手にて抱き給う」と念じなさい。

        <感謝合掌 令和元年7月14日 頓首再拝>

愛のみ生かす - 伝統

2019/07/15 (Mon) 04:49:28


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月15日)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。

時計は回るようにできており、
時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、
講演旅行などで携帯する時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも
数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から帰ってくると、
本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。

知的に真理を理解したといっても、それだけでは時計の構造を理解したと同じである。
時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、
真理も知的に理解しただけでは生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、
教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば時計は動く。

それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、
人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 令和元年7月15日 頓首再拝>

まず神を愛せよ - 伝統

2019/07/16 (Tue) 04:15:53


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、
神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、
神をただ「無限供給の源泉」として視るものは、
神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。

父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。

われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を
捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 令和元年7月16日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を - 伝統

2019/07/21 (Sun) 04:30:28


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月21日)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 令和元年7月21日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる - 伝統

2019/07/25 (Thu) 04:39:56


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月25日)より

今日はさらに、
「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」
と念じよう。

そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを
深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、
その反映として自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを
心の底深く知るがゆえに、感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。

飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 令和元年7月25日 頓首再拝>

《天国を地上に実現するには》 - 伝統

2019/07/31 (Wed) 05:08:37


        *『 生長の家 』(昭和40年3月3日の法語)より

   天国が地上にあらわれるためには、
   人間自身が一変して、地的な欲望を去り
   天的にならなければならないのである。

   物質的な欲望を去り、
   一層 霊的にならなければならないのである。

   人間自身が物質的な欲望を沢山もちつづけていながら、
   その物質の生活が楽になるために、

   「 神よ地上に平和をもち来たしたまえ 」などと祈ってみても、
   それは愛してもいない女から、肉体的快楽を得るために
   「 私はあなたを愛しています 」と
   掻(か)きくどいているようなものである。

   人間の女だったら、そのような“掻き口説き”に応じて、
   肉体の快楽を与えてくれるかも知れないけれども、
   神を欺(あざむ)くことはできないのである。

   神は霊であるから、神を愛するならば、
   もっぱら霊を愛しなければならないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和である - 伝統

2019/08/04 (Sun) 04:31:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月4日)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 令和元年8月4日 頓首再拝>

「愛」の中にこそ聖泉がある - 伝統

2019/08/08 (Thu) 04:54:28


       *「光明道中記」(8月8日《倶(とも)に泣く日》)より

【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
                  (『生命の實相』第ニ巻)】
 
「倶(とも)に泣く」と云う感じは
自他一体の感じであるから、しみじみと有難く感じられる。

「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても
発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

          <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>

《愛と信頼と善き言葉と》 - 伝統

2019/08/09 (Fri) 04:51:35


        *『 生長の家 』(昭和26年2月21日の法語)より

   愛と信頼と善き言葉によってのみ 人々の能率はあがり、
   仕事の品質は高まるのである。

   愛と信頼と善き言葉とは
   心の砂漠の中にサフランの美しき花を咲かしめ、
   その香気は力つきた人の疲労をいやすのである。

   それは奇蹟を演じ、つぶれかけた事業を建て直し、
   破壊しかけた家庭の裂け目に油をぬり、
   乾ききった夫婦の愛情に 温い蒸気を噴き込むのである。

   病を治す力も其処(そこ)から動き出して来るのである。
 
   他が自分を害しはしないか、損害を与えはしないかと恐怖する心が、
   傷害(そんがい)と損失とを招(よ)びむかえるのである。

   その人を警戒していると 其人(そのひと)から害を与えられるが、
   その人を愛すれば其人がわが為に働いてくれるのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/afb93db8c7367366e894f287ccaaa8a6

          <感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>

大慈悲そのものが弥陀の誓願 - 伝統

2019/08/11 (Sun) 04:49:53


   *「光明道中記」(8月11日《心の窓を開く日》)より

【心の窓を開けよ。実相の理想世界は既に其処に在り。(『生命の實相』第四巻)】

(歎異抄第一条)

  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、
  念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
  あづけしめたまふなり。


とは、現象的には法蔵菩薩が四十八の願をたてられてところの”それ”を
指すのであるけれども、弥陀は「ミチ足(タ)ル」の言霊(ことだま)であって、
宇宙普遍、一切所に満ち足り給う大生命が弥陀である。

「彼(か)の仏、去って去る所なく、来って来る所なく、生なく滅なく、
過、現、未来に非ず、唯(ただ)願に酬い生を度(ど)せんがために
西方に在(おわ)します」と趙宋(ちょうそう)の法賢訳の
「大無量寿経」にあるところの弥陀の本願である。

弥陀の本願は法蔵菩薩が四十八願以前に、
無始の過現未を超越せる本体有に実在する大慈悲そのものである。

宇宙の本体の中に在(そん)する救わずにおかない
大慈悲そのものが「弥陀の誓願」であって、
それは人間の思慮(おもいはからい)を超えたるものである。

すなわち「誓願不思議である」。
その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し
来(きた)って「念仏申さん」という思い立ちが起るのである。

だから、吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、
その心の中に「救わずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、
既に「摂取不捨(すくわずにおかぬ)」なのである。

       <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝>

《愛は幸福を集める天使である》 - 伝統

2019/08/17 (Sat) 04:29:01


        *『 生長の家 』(昭和26年2月22日の法語)より

   愛は、たとえば幸福を集めるために眼に見えない
   メッセンジャーのようなものである。

   そして すべての憎みや怨みの精神的弾丸を防ぎとめてくれるための
   防壁を築いてくれるのである。

   どんな種類の警備網よりもすぐれたる幸福の護り手は 「 愛 」 である。

   自分でいくら智慧がすぐれ、聡明であるからとて、
   神の眼から見たらどんなに愚かな者であるかわからないのである。

   だから 自分を賢者だと思い上って、
   他の人の 「 行き届かなさ 」 を罵ってはならないのである。

   他の愚かさを見ては、自分の愚かさを省み、
   みずから智慧をみがくようにすれば、
   彼も亦自分を省みて聡明になるのである。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d521d2bc8930d350fbb9dde61d343a84

       <感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>

《神との接点となるべき 「 愛 」 の場所をつくれ》 - 伝統

2019/08/27 (Tue) 03:31:33


        *『 生長の家 』(昭和26年2月23日の法語)より

   他の人が、自己の掲ぐる道徳的又は宗教的標準にかなわないからとて、
   始終 それを非難する心をもっている限りは、

   自分自身が神と接触すべき最も肝心の場所に
   「 非難 」 と云う絶縁体を置いているのと同じである。

   だから、自分の標準をもって
   他の人を審判(さば)いてはならないのである。

   人を審判いたり、人を怒ったりする前に、自分自身の心の中に
   「 神と接触する完全清浄の場所 」 ( 愛の場所 )
   をつくることが大切である。

   人を責めることによって
   自分の心が汚れることを 慎まねばならないのである。

   人を責める心を起した程度に、
   自分自身の受け得る神の愛を遮っているのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/67366e1596e08b49949e692d8883b8c0

       <感謝合掌 令和元年8月27日 頓首再拝>

《吾は愛そのものである》 - 伝統

2019/09/01 (Sun) 04:19:06


       *「生長の家」(昭和25年6月12日の法語)より

   神は愛である。
   吾が内に神の愛が宿っているのである。

   愛は人を憎まない、争わない、欠点を見つけない、
   愛は人を讃美するのである。

   愛は 人のためにならんことを願うのである。
   愛は よく堪え忍ぶのである。
   愛は 思いやりがあるのである。

   これらの愛の力は
   自分の内に宿っているのである。

   もしこれらのものを自分が生活に生かさなければ
   自分自身が本当に生きるということはないのである。
   何故なら自分は愛であるから。

   吾は今この愛の賜物(たまもの)を神より受けて
   惜しみなく他の人に愛をわたすのである。

   吾は愛そのものである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

          <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>

愛は自他一体の認識 - 伝統

2019/09/06 (Fri) 04:11:27

    *「光明法語」(9月6日《そのままが完全円満》)より

本来の自然になった時、生命は最も完全に発現する。

愛が若し自由意志による発現でなく、
強制的に機械的に行わしめられるものであるならば、
それは妓楼(ぎろう)の主人に強制されて
愛を売る売笑婦のそれになってしまう。

愛は自発的であるのが尊いのだ。

愛は自他一体の認識だ。
個別者同士互いに「愛」の感情が起こるのは個別者は、
互いに別物ではなく本来一体であるからである。

また個別者が神に対して「愛」の感情が起こるのは、
個別者は本来、全体者(神)から発した者だからだ。

           <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

悪を語らず、神の愛を循環させる - 伝統

2019/09/11 (Wed) 04:32:04


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より

人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。

万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。

われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。

かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。

             <感謝合掌 令和元年9月11日 頓首再拝>

人・物を大切にするということは、神の愛を持ち来たすことになる - 伝統

2019/09/19 (Thu) 04:02:59


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、
神の栄えはあらわれないのである。

神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、
神の愛をあらわれの世界に持ち来たらしさえするならば
人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、
「物を大切にすること」とはちがうのである。

「貪欲」は自己の本来の貧しさを恐怖して、
むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とはその物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

             <感謝合掌 令和元年9月19日 頓首再拝>

真に愛せよ、そこからすべてが生み出される - 伝統

2019/09/21 (Sat) 04:11:49


    *「光明法語」(9月21日《良き芸術、良き科学》)より

愛は生命の純粋感情であるから、
真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。

愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。

真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、
如何なる知的な作業も可能ならしめる。

想念も実は愛の産物であり、
愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。

愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。

           <感謝合掌 令和元年9月21日 頓首再拝>

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