伝統板・第二 2517432

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幸福の筐を開く ⑥

1:夕刻版 :

2019/01/20 (Sun) 19:21:30

《幸福は感染する》

           *「光明道中記」(1月20日 幸福の感染する日)より

【心に善き言葉を食して心を幸福にすれば肉体は健康化し運命は良化する。
                          (『生命の實相』第一巻)】

幸福は感染する。病気が感染するばかりでなく幸福は必ず感染するものである。

家庭の一人が不幸せになった時、
その家全体は何となく不幸の雰囲気に包まれ初(そ)める。

その一人の不幸が堤に穿(うが)たれた蟻(あり)の孔(あな)のように
全体の幸福を押し流して了うこともあるものである。

だから一人だけ不幸でいても好いと云うようなものではない。
自分一人が悲しみのために全体を不幸に陥れて好い権利はない。
悲しみが感染するものならば、悲しむ者はその悲しみを他の人に伝えることを、
伝染病を予防するが如き注意深さを以て避けなければならぬ。

悲しみのある時には、神にその悲しみを訴えよ。
神は光であるから悲しみの暗(やみ)は必ず消える。

悩みのある時には、神にその悩みを訴えよ。
神は悦びであるから、その悩みは悦びに必ず変る。

腹の立った時には人に手紙を書いてはならぬ。
必ずその手紙に剣があって相手に立腹を伝染するのである。

腹の立ったときには
「腹の立つことは何もない、大調和が実相である」と念じて神想観せよ。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071

   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817631

(3)光明掲示板・第三「幸福 (85)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=42

(4)光明掲示板・伝統・第一「幸福への出発」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=17

(5)伝統板・第二「幸福の筐を開く①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6493420

(6)伝統板・第二「幸福の筐を開く②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6840845

(7)伝統板・第二「幸福の筐を開く③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7564514

(8)伝統板・第二「幸福の筐を開く④」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7609493

(9)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑤」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7726414

            <感謝合掌 平成31年1月20日 頓首再拝>
2:伝統 :

2019/01/21 (Mon) 19:47:14


        *『人生の秘訣365章』第12篇(P302) より

多くの人たちの心はまだ幼児(ようじ)の如く、発達途上にあるのであって、
テレビ・セットを貰っても、それを如何にしてアンテナをつけ
放送電波に波長を合わせればよいかを知らないのである。

やがて、全ての人間の魂は生長して、この幼児(ようじ)の状態を脱して、
神様の「幸福」放送局から放送する祝福の霊波をみずからの工夫によって感受して、
すべての人間が幸福に平和に無病に裕(ゆたか)な供給の世界に現実に住むように
なるであろうが、

それまでは霊的先達の指導を受けて、
「人生テレビ」に幸福を受像する方法を学ぶ必要があるのである。

そのような幸福受像の「人生テレビ技術者」になる人が宗教家であり、
色々の教育に設けられている“人生相談”の係である。

            <感謝合掌 平成31年1月21日 頓首再拝>
3:伝統 :

2019/01/30 (Wed) 18:52:30


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P244~245) より

テレビ放送局からどんな良い番組を放送して来ても、
その放送局のチャンネルに受像機の波長を合わせなかったならば、
その良い番組を形にあらわすことはできないのである。

幸福の番組を自己の身辺に実現するかしないかは自分の心を
どのチャンネルに振向けるかと云うことによってきまるのである。

自己自身が自分の身辺に引寄せる運命を決定するのだ。

人生が複雑なように見えているのは、
テレビの構造が複雑なのと同じことである。

併しながらテレビの構造が如何に複雑であろうとも、
私たちは、ただツマミを廻すだけで、
どんな放送のチャンネルにも波長を合わすことが出来るのである。

それはただ波長が同調するかどうかの簡単な法則によるのである。
法則は簡単であり、方法も簡単である。

ただそれを実践する熱意と、
その実践を継続する忍耐ありや否やの問題である。

            <感謝合掌 平成31年1月30日 頓首再拝>
4:伝統 :

2019/02/01 (Fri) 18:53:46


           *「光明道中記」(2月1日 賞め讃える日)より抜粋

【真に幸福になろうと思うものは、既に自分が幸福であることを知らねばならぬ
                        (『生命の實相』第一巻)】

「既に自分は幸福である」此の言葉を繰返し唱えよ。
「既に自分は幸福である」と。

毎日それを繰返し重ねて行くことによって、
その人は現実生活に於いても本当に幸福になるのである。

            <感謝合掌 平成31年2月1日 頓首再拝>
5:伝統 :

2019/02/19 (Tue) 19:09:24


       *Web:プレジデントオンライン(2019.1.13)より

「幸福になるための一番の近道はポジティブになること」

幸せになりたいと願っていても、思うようにいかないのが人生。
しかし、大切なのは気持ちの持ちようだ。

山口大学国際総合科学部の小川仁志准教授は
「幸福になるための一番の近道はポジティブになること。
要はマイナス要素をマイナスと捉えない。
そうすると落ち込むことがなくなり、常に幸福でいられます」という。


「病は気から」ではないが、こうした哲学の教えは、
脳科学でも次第に裏付けられつつある。

哲学と脳科学。一見、
縁遠そうに思えるが、近年の研究で、
2つの学問は親和性が高いことが明らかになってきている。

東京大学薬学部薬品作用学教室の池谷裕二教授は
「MRI(磁気共鳴画像診断装置)などで脳のメカニズムが解明されつつあり、
哲学や心理学の領域から脳科学へのアプローチが進んでいます。
脳研究の学会には心理学者や哲学者が数多く参加しています」と話す。

小川准教授も、「古代ギリシャ時代から二千数百年かけて、
いわゆる『ロゴス』、論理と言葉で考えてきた営みを、
いま脳科学が証明しようとしており、成果に期待しています」と語る。

このように融合が進む哲学と脳科学を通して、
幸福になるための「頑張らない生き方」を探っていこう。


ライバルの同期が自分より先に出世した、後輩に追い抜かれた……。
「どうして俺じゃないんだ!」と怒り狂う、あなた。
不幸や不運な出来事は誰にでも起こる。

そんなあなたに、小川准教授は「三大幸福論」の1人、哲学者アランの言葉を紹介する。


「怒りと絶望はまず第一に克服しなければならない敵である。
それには信じなければいけない。希望を持たねばならない。
そして微笑まねばならない」

アランは楽観主義者といわれるが、
アラン自身が「不撓不屈のオプティミズム」と表現するほど徹底したもので、
「簡単にいうと決してくじけない楽観主義です」と小川准教授。

前向きに希望を持ち、笑顔でいることが重要なのだ。
小川准教授自身、総合商社マンからフリーター生活に転落した際に、
アランの言葉に救われたという。

「当時の私はエリート意識が強くて、現実を受け入れられず、
新たな一歩が踏み出せなかった。

楽観的になるとは、怒りや絶望から生まれた緊張状態の
“結び目”を解くことにほかならず、その方法の1つが微笑むことなのです」

また、アランは
「うまくいったからうれしいのではなく、自分がうれしいからうまくいったのだ」
とも述べている。

小川准教授は「これは“心と体は一体”というアランの考えを象徴する言葉です。
私たちはうれしいから笑顔になると思っていますが、
逆に笑顔になることでうれしくなることも成り立つのです」と解説する。


一方、池谷教授は
「笑顔になると楽しくなるというのは、脳科学的にも正しいでしょう」と話す。

人は笑顔になると、脳の腹側被蓋野とよばれるドーパミン神経系の拠点が刺激され
ドーパミンが放出される。それが腹側被蓋野の先にある側坐核という
快楽や幸福感を司る部位を刺激することで、幸せな気持ちになる。

池谷教授は「最新の研究では、笑顔でなくても、楽しいことを考えるだけでも、
体の免疫力が上がるということがわかっています」と付け加える。

笑顔で幸福になれ、健康も増進する。いいことずくめではないか。

( https://president.jp/articles/-/26662 )

            <感謝合掌 平成31年2月19日 頓首再拝>
6:伝統 :

2019/03/02 (Sat) 18:42:19

        *Web:「今日も良いことがあるように」より

出版社に読者さんからのお手紙が届き、先日、私のもとに転送されてきました。

手紙って、ドキドキします。

差出人は、「中井先生の本を読んで幸せなSK」とありました。

全然知らない人です。何が書いてあるんだろう?

封を開けて読んでみると、とても嬉しい内容でした。

皆様にもご紹介したいと思いました。
この手紙から、「幸せな気持ちになれるコツ」が学べるからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ふらっと入ったコンビニでこの本を見つけ、
「『ハッピーになろうよ。』って一体どんな本なんだ?」と何気なく買いました。

今日は一人で晩ご飯。ご飯を食べ終え、
はじめはこの本をペラペラめくりながらテレビを見て・・・

しかし読み進めていくうちにどんどん本に引き込まれて、
テレビを消して、あっという間に読んでしまいました。

読み終えたらなんだかわからないけれど幸せな気分で、
この気持ちを誰かに伝えたくて、友達にメールをし、
こんなお手紙まで書いてしまいました。


私は、去年の9月に結婚しました。

結婚してすぐの頃は、

(中略)

ちょっとしたことがとても楽しく幸せでした。

しかし、日が経つにつれ、変化のない毎日に

「ご飯を作ってあたり前、掃除をしてあたり前、私って何だろう・・・」

と思うようになってしまいました。

(中略)

大好きな仕事をやめ、毎日毎日、だんなさんの為に・・・「私は一体何なの~!!」
とストレスがたまり、イライラ、イライラ。

私がイライラしているので、だんなさんとも喧嘩の毎日でした。

しかし、ふっと思ったのです。

「私は文句ばかり言うけれど、だんなさんは毎日文句を言わず、一生懸命お仕事をしている、
これではいけない!!」と・・・

そして、私は何てぜいたくなんだろうって。

それから考え方を変えてみると、幸せはいっぱいころがっていて

  朝起きたら、だんなさんが隣で寝てる 幸せ

  歯磨きしたら、同じスピードでゴシゴシしてた 幸せ

  お弁当作ったら、全部食べてくれた 幸せ

  今日も無事に帰ってくれた 幸せ

私は幸せに囲まれていたんだ~と思いました。

そして、私にこんなに沢山の幸せをくれるだんなさんに感謝しなくてはならないと思いました。

今日は、だんなさんは会社の方と飲みに出掛けていないので、
明日、朝一番に「ありがとう~!!」って言おう!! (^^)

毎日、沢山の幸せをくれるだんなさんと、
今、こんなに素敵な気持ちにして下さった中井俊已先生に感謝、感謝。

この本に出逢えて本当によかったです。
ますます幸せになれそうです。

ありがとうございます。

(この文字のまわりには、10個くらいのハートの絵が飛んでいました・・中井)

急にお手紙を書いてしまってごめんなさい。
どうしてもお礼の気持ちが伝えたくて書いてしまいました。

中井先生、ありがとう!!

SK

・・・・・・・・・・・・

SKさん、嬉しいお手紙をくださってありがとう!!

さらに、このブログでご紹介させていただき、ありがとうございます。  (^.^)

では、皆様、私たちは、SKさんのお手紙から、
「幸せな気持ちになれるコツ」を学んでいきましょう。

自分で「これではいけない」と思う状態にいるとき、
その状態を変えるには、何かきっかけが必要ですよね。

人と会うこと、お話を聞くこと、本、映画・・・何がきっかけとなるかわかりません。

SKさんの場合、きっかけは、たまたまコンビニで見かけた私の本でした。

(ラッキーでしたね、お互い・・・)

幸いにSKさんは、『ハッピーになろうよ。』を読んで素直な気持ちになれました。
(たぶん、もともと素直な人なんだと思います)

そして、自分自身とまわりの人を見つめ直す時間が持てたのだと思います。

すると、不平不満でイライラしている自分に対して、
まわりの人(だんなさん)が、どれだけ自分を大切に思ってくれているかに気づけました。

日常の何気ないことのなかにも、幸せの種は、いっぱいあることにも気づけました。

そうすると、

「私は幸せに囲まれていたんだ~」

と、感謝の気持ちでいっぱいになれたのです。


さらに、その感謝を表わそうと決心すること、
実際に、お友だちや見知らぬ著者にもその気持ちを伝えることで、
もっと幸せな気持ちになれたのではないでしょうか。

以上を短くまとめると・・・

 ●自分とまわりの人を素直に見つめ直す。(反省する)

 ●自分の幸せに気づく。(恵まれていることに目を向ける)

 ●まわりの人に感謝する。(感謝を伝える)

そうすると、ますます「幸せな気持ちになれる」のです。



ところで、いま、関係ありそうな話を思い出しました。

昔、ある神父さんに聞いた実話です。

・・・・・・・・・・

戦後間もない、日本が貧しかった頃のことです。

来日したその神父さんは、教会の子どもたちに
何かのご褒美でオレンジジュースをおごってあげました。

当時、ジュースはめったに飲めない貴重なものでした。

子どもたちはとても喜び、
「ありがとう、ありがとう・・・」と涙を流しながら飲んだそうです。

しかも、子どもたちは、1本のジュースを分け合って・・・。


それから数十年経って、日本は豊かになりました。

その同じ神父さんは、教会の子どもたちに
何かのご褒美でオレンジジュースをおごってあげました。

もちろん一人に1本ずつのジュースをです。

すると、子どもたちの何人かが文句を言いました。

「なあんだ、オレンジか。神父さ~ん、グレープジュース、ないの?」

「あたし、コーラがいいなあー」

というお話です。

つまり、物質的に豊かでも、
いま与えられているものに感謝できない人は、幸せな気持ちにはなれない。

逆に、

いま与えられているものに感謝できる人は、
物質的に貧しくても、幸せな気持ちになれるのです。


わたしたちも、日々、何かを与えられています。

ときには、思いがけずご褒美をもらうことがあるでしょう。

神様から・・・


私にとって、SKさんのお手紙は、神様からいただいたご褒美(オレンジジュース?)でした。

できれば、誰かと分け合いたいと思いました。

読んでくださってありがとうございます。

まわりの人、そして当たり前のことに感謝しよう。


       ( https://lucky.t-nakai.work/2019/02/15/thinking-24/ )

            <感謝合掌 平成31年3月2日 頓首再拝>
7:伝統 :

2019/03/06 (Wed) 18:27:51


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月6日)」より

明るさはあらゆるものに喜ばれる。

招かれないでも明るい人は、光線のようにどこへ行ってもそこで喜ばれる。
招かれても暗い人は、どこへ行ってもやがては嫌われる。

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)い、暗い人には常に不幸がつきまとう。

            <感謝合掌 平成31年3月6日 頓首再拝>
8:伝統 :

2019/03/07 (Thu) 18:57:19

映画【メリー・ポピンズ リターンズ】より。

<参考:映画『メリー・ポピンズ リターンズ』予告編
    → https://www.youtube.com/watch?v=OSf1aAkiPQ4 >


幸せのありか【メリー・ポピンズ リターンズ】日本語版
  → https://www.youtube.com/watch?v=9KyTXucqH-M


歌詞



真夜中の狭間(はざま)で
眠れずに彷徨(さまよ)って
人は皆 探すの
なくしたものが住む場所を


恋しさに抱(だ)かれて
追いかける愛(いと)しいもの
そうね
きっと待つのよ
なくしたものが住む場所で


永遠(えいえん)に
消え去るもの
この世に
ひとつもないわ
何ひとつ
無くならない
この場所に
いないだけなの


前になくしたオモチャも
今はあなたが待ちながら
その時が来るまで
かくれんぼしているかも
なくしたものが住む場所で



夢の中
見つけるでしょう
なくしたものを
何もかも


月の影や
夜(よる)のしじま
それとも
あなたの心に


やさしいあの眼差し
覚えていれば消えないわ
星空の彼方で
見てるから見つけ出して
なくしたものが住む場所を


<参考>

「幸せのありか(原題The Place Where Lost Things Go)」


Do you ever lie awake at night
夜に目を覚ますことはある?


Just between the dark and the morning light
暗闇と朝の光のちょうど間


Searching for the things you used to know
かつての記憶を探し出す


Looking for the place where the lost things go
失くしたものが行く場所を見つけ出す




Do you ever dream or reminisce
夢を見たり、回想したりすることはある?


Wondering where to find what you truly miss
あなたが本当に見逃しているものがどこにあるかを知る


Or maybe all those things that you love so
もしかしたら、それはあなたが愛している全てのものかもしれない


Are waiting in the place where the lost things go
失くしたものが行くところで待っている




They're all around you still though they've disappeared
心配してしまった記憶は消え去ってしまった


Nothing's really left or lost without a trace
それはまだあなたの周りにいるが、姿を消している


Nothing's gone forever only out of place
本当に何も残っていないか、足跡も失われている


So maybe now the dish and my best spoon
本来あるべき場所に戻らないものなんてない


Are playing hide and seek just behind the moon
だから今の料理と私の最高のスプーンは月の後ろでかくれんぼしているのかも


Waiting there until it's time to show
それが現れるまで待っている


Spring is like that now far beneath the snow
春が雪のすぐ下にあるようなもの

Hiding in the place where the lost things go
失くしたものが行くところで隠れている




Time to close your eyes so sleep can come around
目を閉じて眠りにつく時間


For when you dream you find all that's lost is found
夢の中で、失くしたものが全て見つかる

Maybe on the moon
もしかしたら月か、


Or maybe somewhere new maybe all you're missing lives inside of you
それとも、あなたが失ったものがあるところなのかもしれない


So when you need her touch and loving gaze
もし彼女のぬくもりと、愛らしい眼差しが必要な時は、


Gone but not forgotten is the perfect phrase
あの完璧な言葉を忘れないで


Gone but not forgotten is the perfect phrase
彼女がつくる流れ星からこぼれる笑み


Trust she's always there watching as you grow
あなたが成長する姿を見ていると信じていて


Find her in the place where the lost things go
失くしたものが行くところで彼女を見つけて

            <感謝合掌 平成31年3月7日 頓首再拝>
9:伝統 :

2019/03/08 (Fri) 21:24:09


        *『人生の秘訣365章』第1篇(P21~22) より

あなたは今、幸福の年を迎えたのである。
過去に如何なることがあったにせよ、
それは除夜の鐘の音と共に消え去ったのである。

新しき天と地とが黎明の帳(とばり)をあげて、
新しき日光があなたの家に射し込んだのである。

闇は消え、光の世界が始ったのである。万物が悉く新たになったのである。
あなたの心が新たになったのである。見る心が一変して天地一新したのである。

過去は過去のあなたの心に描いたものや、潜在意識に蓄積していた想念が
形にあらわれていたのである。

これからは、あなたが今後
あなたの心に想念するところのものがあらわれて来るのである。

あなたは今後、幸福のみを想うのである。
世界人類の幸福を、日本国民全体の幸福を、あなたの属する団体の幸福を、
あなたの家庭の幸福を、そしてあなた自身の幸福を想念するのである。

想念するものが集って来るのである。類を以て集るのである。
あなたが今後幸福ばかりを想念すれば、
あなたは幸福ばかりを引き寄せる磁石の如くなるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月8日 頓首再拝>
10:伝統 :

2019/03/10 (Sun) 19:28:20

        *「しあわせの言の葉」山下 景子・著(P90~91)より

【倖せとは、些細な事のつみ重ね・・・
 人生とは、日常のつみ重ね・・・
 《私》とは、ディテールのハーモニー・・・
       安井かずみ(「自分を愛するこだわりレッスン」より】


作詞家として、数々のヒット曲を残した安井かずみ。
さずがに、リズミカルな短い言葉で、人の心をとらえます。

「倖」という漢字は、思いがけない幸せをさすそうですが、彼女が、
あえてこの字を使っているところに、含みがあるのでしょう。

もともと、「しあわせ」という言葉は、単なるめぐり合わせをさす言葉でした。
ですから、いい幸せも、悪い幸せもあったわけです。

若しかしたら、よい事も悪い事も、日常の些細な事すべてが、
「倖」の種だといえるのかもしれません。

そう思えば、何でもないことを積み重ねていくことは、しあわせの種蒔き。
やがて、しあわせそのもになるのですね。

日常のつみ重ねが人生。そして、ディテール、つまり、部分部分の吾が自分。
つまり、それぞれの小さな単位を、こだわったり、見直してみたりすることで、
全体も変わるよというのが、安井かずみのアドバイスです。

彼女によれば、お味噌汁で人生が変わることもあるとか。
なんでも、知人の女性が、ある日ふと気が向いて、
お味噌汁を心を込めて作ったのだそうです。

そこから、夫婦仲がうまくいくようになり、職場の人間関係がよくなり、
どんどん人生が変わっていったというのです。

そう思うと、毎日やり慣れたことがひとつひとつ新鮮に見えてきませんか。

            <感謝合掌 平成31年3月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2019/03/11 (Mon) 20:10:29


         *「聖経 真理の吟唱」(P86)より

人間は神の子であり、すべての人間は神において一体である。
それゆえに何人(なんびと)も他の人を幸福にする働きをしない限りは、
自分自身も幸福になることができないのである。

神において一体であるところの人間にとっては、
「他の人」というものは本来あり得ないのである。
「他の人」と見えている人たちもことごとく自分自身に過ぎないのである。

人間は他の人の幸福な笑顔を見たときに自分自身も幸福感に打たれるのである。
家族のうちの誰かが悲しみに打ち挫(ひし)がれた憂鬱な表情をしているとき、
自分自身も憂鬱な暗い感情に滅入ってゆかざるを得ない体験は、
誰にも今まで一度ならずあったに相違ないのである。

自他は肉体的には別々に見えていようとも、精神において一体であるから、
このような現象が起こるのである。

どんな人間も他の人を幸福にする働きをした時にのみ幸福感を味わう。
どんな人の人生も、他の人を幸福になし得た程度において、
その人の生活の価値が定まるのである。

どんなに社会的に高い地位を得ようとも、どんなに経済的に裕かな富を得ようとも、
他の人を幸福になし得ない人の人生は真に成功だと言うことはできないのである。

「これから毎日誰かに、必ず一度は親切をしよう」こう決意してそれを実行することが
その人の幸福生活の始まりである。
親切は人に与えても減るものではないのである。

親切は与えれば与えるほど、自分に倍加されて返ってくるものである。
親切な心なくして人に対せば、人間関係は必ず不調和になるであろうし、
親切な心なくして物に対せば、その物は充分の力を発揮しないであろうし、
親切な心なくして事に対せば、何処かに行届かぬ点が生じて事を敗(やぶ)ることに
なるのである。

私は今この真理を深く心の中に銘記したのであるから、
全ての人に、物に、事に対して必ず親切をもってし、できる限り、
他の人々に役立つ生活を生きることを決意したのである。

必ず一日一回以上は、誰かの為になる仕事または行為を見出して、それを実行するのである。

物質的な事業はやがて消えて行く時がくるであろう。
物質的な富はやがて滅びてしまう時がくるであろう。

しかし人に親切をし、人を生かし、人の為になった愛行と徳行とは永遠に、
死を超えて不滅なのである。

競争者の繁栄を羨むことなかれ。競争者は他山の石であり、
自分の能力に拍車をかけてくれるための味方の声援である。
競争者は自分の能力を引き出してくれる水揚げポンプのようなものである。

私は今この真理を知るがゆえに、不滅の高き徳行の宝塔に向かって、
われどれほどの愛行を為し得るかと、わが愛の力を試さんがために、
神の愛行のサークルをマラソン競争の選手の如く、すべての人類とともに仲よく、
人生のコースを一歩一歩愛と讃嘆と祈りとをもって走るのである。

すべての人類が幸福でありますように。ありがとうございます。

            <感謝合掌 平成31年3月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2019/03/12 (Tue) 18:39:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月12日)」より

持ち主もなく宝物がいたるところに埋(うず)められている。
誰もそれを掘り出さないだけだ。

幸福になる道はただ《自分で》掘り出すことにある。


            <感謝合掌 平成31年3月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2019/03/13 (Wed) 21:14:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月13日)」より

幸福になりたければ、まず自分が幸福になれである。

あたりまえのことがあたりまえである。
噛みしめれば味がある。

注意すべきは、幸福とは心の一つの状態であるということである。
金殿玉楼の中にいて、輾転(てんてん)反側して眠れない人もいれば、
弾丸雨飛の中にいて喜びいっぱいの人もある。

            <感謝合掌 平成31年3月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2019/03/15 (Fri) 18:44:05


       *「あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間 永遠に続く幸せの源泉」
        ~ディーパック・チョプラ(著)(P250~251)より


あなたは心と体を通して、
あなたはこの時空に物質と出来事の世界を創造し、経験します。

あなたの知性を通して、
あなたはアイデアの世界を創造し、経験します。

あなたの魂を通してのみ、
あなたはパワーと自由と恩寵の世界を創造し、経験できます。

あなたの存在の深い所は、純粋な光の存在であり、
純粋な愛であり、純粋な喜びです。

あなたがここから生きるとき、新しい世界が開けます。
この世界は際限なく、無限で、永遠で、喜びに満ちています。


そしてこれは、あなたが望みさえすれば、
あなたの世界になり得ます。

この世界では、
あなたのパワーと自由と恩寵に限界はないのです。


あなたは自分自身の存在の謎の鍵を開けるでしょう。
あなたは誰ですか?
あなたの欲しいものは何ですか?

これらの質問の答えを知ることは、真の自分を知ることです。

いったん あなたが真の自分を知れば、真の幸せ、愛の陶酔、スピリットが
その純粋な本質の中に流れていることを知るでしょう。

純粋な本質は、何にも邪魔されず、
何の制限もなく、謎に満ちていて、
魔法のようで、冒険そのものです。

幸せはスピリットの領域に存在しています。

幸せを見つけるということは、あなたの魂を見つけるということです。
魂を見つけるということは、永遠の幸せの源から生きるということです。


これは何かしらの理由がある幸せではありません。
理由が或る幸せは形を変えた不幸です。


この幸せは真の至福で、あなたがどこに行こうともあなたについていきます。

            <感謝合掌 平成31年3月15日 頓首再拝>
15:伝統 :

2019/03/16 (Sat) 21:12:39


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月16日)」より

幸福は無我の中にある。従うことの中にある。

幸福が我欲の中や、強情我漫の中にあると思っている間は、
その人の心に悪魔が忍び込んでいるのである。

無いものを「有る」と主張する嘘つきが悪魔である。

            <感謝合掌 平成31年3月16日 頓首再拝>
16:伝統 :

2019/03/21 (Thu) 18:29:44


        *「幸福の哲学」(P52~53)より

雲を幾ら積んでも光は出て来るものではない。
肉体の快楽、五官の楽しみ、富の集積

 ―― それらは多くなればなるほど人生に光が出て
来るように思って夫(それ)を積んで見る人は沢山あるが、
いずれも幸福を見出してはいないのである。


幸福は先ず光を見出すことにある。
自分が光であると云うことを先ず知ることである。

光がなければ雲は重なれば重なるほど
黯澹(あんたん)として淋しくなるばかりである。

智慧のない、愛のない、我利我利亡者が
金を蓄めているほど黯澹たるものはない。
光がさし昇れば雲の”ある”無しは問題にはならぬ。


人間の「光」は自分が照らす愛であり智慧であることを知るべしである。
自分が「愛」でなければ積み重なっているすべての持物は、
光のない荒涼な暴風(あらし)の日の雲のようなものに過ぎない。

自分に智慧がなければ、持てるすべての物は
氷山と衝突して難破する船のようなものである。

神は愛である、我は愛である。
神は智慧である、我は智慧である。

           (『光明道中記』二四頁)

              ・・・

ひとが幸福になるのも不幸になるのも、
世界観、人生観の如何によるのでございます。

世界観、人生観というものは吾々の幸福の道を歩むか、
不幸の道を歩むか最初の方向を決めるところの
根本になるところのものでございます。

最初の出発の方向が、逆を向いておったら何をやっても、
一所懸命努力すればするほど反対の方向を向いて行くのでございます。

暗(やみ)の方へ向きながら光を求めても、
それは決して光を見出さないでありましょう。


ひとが幸福になろうとするときには、
先ずどうしても明るい方向へ向かなければならないのでございます。

光を求めるためには暗と反対の方向へ向かなければならないのと同じように
吾々は幸福を求むればどうしても幸福の方向を向かなければならない
のでございます。

            <感謝合掌 平成31年3月21日 頓首再拝>
17:伝統 :

2019/03/23 (Sat) 18:28:14


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P242~243) より

人間が日々の生活に幸福感が得られないで、
鬱陶しい面白からぬ生活を送っていなければならないのは、
自己に内在する力を自由奔放に放出することができないで、
自己内在の力を内に抑圧して鬱結せしめているからである。

抑圧と鬱結とを取去れ、さらば人生が明るく見えて来るであろう。

その抑圧を取去り、鬱結を除き去るには、
内在の霊的力に対して通路をひらかなければならないのである。

それには心を「内部の霊」の方向に振り向けなければならないのである。

普通吾々は、日常生活の現実的多忙に追いまわされて、五官的事物の方に心を奪われ、
「内部の霊」に心を振り向ける時間も余裕もなくなっているのである。

私たちの「心」は五官を通して、有限の物質世界に縛られ、
「霊的自覚」(悟り)を通して「霊的無限の世界」と通ずるのである。
「霊的無限の世界」に通じて無限を引出し来り、生活を豊かにすべきである。

            <感謝合掌 平成31年3月23日 頓首再拝>
18:伝統 :

2019/03/25 (Mon) 20:02:23


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月25日)」より

胸を広くして待っていること。

ここに幸福の秘訣がある。

            <感謝合掌 平成31年3月25日 頓首再拝>
19:伝統 :

2019/04/13 (Sat) 16:52:11


         *「光明道中記」(4月13日 招かずして幸福来る日)より

【貨幣を与えると労働力が動き出して価値創造が始まるのであります。(『百事如意』)】


何でもあまり追っ駈け廻すと嫌われる。
恋人にさえもあまり執着するならば、その人は嫌われるであろう。
執着と云うものは相手にまつわり着き、
相手を心で縛って窮屈な感情を起こさしめるからである。

「金」を追っかけると「金」は逃げて了(しま)うか、
「金」から来る「幸福」は逃げて了う。
「儲けよう」と思ってそればかりを追っかけている相場師に、
結局儲けた人も幸福になったひとも一人もない。

「眠り」を追っ駈け廻して「是非眠らねばならない」と
「眠り」を追っ駈け廻す時は「眠り」は逃げて了う。
―― 心の法則は何事に当て嵌めても同一効果である。

夜よく眠る法は、寝床は眠くなるところだ、と知らなければならない。

人生も同じことである。
幸福に《なろう》とするよりも、
人生と云うところは幸福な所だと気が附けば幸福がおのずから来るのである。

今晩はまた眠れないだろうと予想することは寝床とは眠くならぬ所だと
予想することになるから、不眠の原因となる。

今晩は眠れないだろうの感情は恐怖を伴った感情である。
恐怖は外敵に対峙する感情であるから、
外敵がある場合眠らないでいることが必要であるから、不眠は自然の自衛作用である。

自衛作用を病気だと取違する者は愚か者である。

            <感謝合掌 平成31年4月13日 頓首再拝>
20:伝統 :

2019/04/14 (Sun) 18:42:41


       *「光明道中記」(4月14日 幸福の声を聴く日)より

【誰でもあらゆる物を有(も)って出発する。全てが吾がうちに在るんですからな。
                              (百事如意)】


「幸福」の天使(てんのつかい)が出て来まして或る日私に斯(こ)う言いました。――

「私は常にあなたの後を追っ駆けて走っているのですのに、
あなたは何故(なぜ)そんなに逃げるのですか。もっと緩(ゆっく)り歩きなさい。

急ぐことは要らないのです。当たり前に歩いていさえすれば
私は屹度あなたに追着くことが出来るのです。
それだのにあなたはそんなに私から逃げて走って行くのですか」

私は答えました ――

「幸福さん、私は貴方(あなた)から逃げているのではありません。
私は貴方に近附こうとして一所懸命走っているのです。
それだのに貴方は私が走れば走る程逃げて行くのです」

「幸福」は斯う答えました。

「私は逃げていません。私も貴方に追着こうとして走っているのです。
それだのに私は貴方に追着けないのです。
あ、判りました。私たちは人生と云う円周の上を走っているのでした。
どちらかが緩(ゆっく)り歩いたら、すぐ二人は一緒のところへ来るのでした」

「斯うですか? 」私は人生の歩みを止めました。
と同時に「幸福」の天使の姿は見えなくなり、

「止まっては可(い)けません。
止まってはどう云うものか私にはあなたの姿が何処(どこ)にいるか見えなくなるのです」
と云う声だけが聞こえました。――

            <感謝合掌 平成31年4月14日 頓首再拝>
21:伝統 :

2019/04/15 (Mon) 17:15:41


           *「光明道中記」(4月15日 喜びに招かれる日)より

【・・・この力と接触する道は、最大多数の人間には最大多数の善を為そうと思って
 自己の生活を正しくすることです。『百事如意』】


「幸福」はあなたを愛人のように追駆けて走っており、
あなたも亦「幸福」を愛人のように追駆けて走っており、
そうして互いに相逢ことが出来ないのは、

「幸福」と同一円周上にいながらあなたが「幸福」をあまりに追駆け廻している
からだと云うことに気がお着きになったことでしょう。

一所懸命に「幸福」を追賭け廻している限り、
ついに吾々は「幸福」に追着くことが出来ないのです。

では停止して了(しま)ったら、「幸福」の方から追着いてくれるでしょうか。

吾々が人生の働きの歩みを停止したら、「幸福」の眼には吾々の姿が見えなくなるのです。
何故なら各人は、「生命」であり、「生命」は活動している時だけ、
その姿が顕れているからです。
「生命」が活動を止(や)めたときに、そこに吾々はもういない。

吾々の姿は無くなるのです。

だから「幸福」の天使(てんのつかい)に追着いて貰うためには
吾々は「幸福」を追駆け廻してはならないし、
それだと言って「生命」の歩みを止(と)めてはならないのです。

「幸福は必ず自分に追着いてくれるもの」と信じて、
急がず焦らず悠々と着実に今自分に与えられたる人生の行路を歩む者には
遂に幸福が追着いてくれるのです。 

            <感謝合掌 平成31年4月15日 頓首再拝>
22:伝統 :

2019/04/26 (Fri) 20:40:18


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月26日)」より

本当の幸福は淡々たる水のごときものである。
淡々たる水のごとき幸福によってのみ魂は本当の渇(かつ)を癒されるのである。

どぎつい幸福、有頂天な歓喜、陶酔的な快味は、アイスクリームのごとく、
コーヒーのごとく、砂糖入りの紅茶のごとく、酒のごとく、アルコールのごとく、
刺激が強いかわりにいつまでも渇きは続くのである。

淡々たる生活の本当の幸福の味を知るようになるまで、
人間は彷徨(さまよ<ほうこう>)い歩かねばならないのであろう。

            <感謝合掌 平成31年4月26日 頓首再拝>
23:伝統 :

2019/04/29 (Mon) 21:58:42


           *「光明道中記」(4月29日 感謝報恩の日)より

【富を自分の方へ引き寄せようと思うまでに、
 自分自身を全体のために与えなければなりますまい。(『生命の實相』第十七巻)】

吾々の潜在意識の中には色々のものがある。
その中で最もどう云う種類の観念が優勢を占めているかと云うことによって
其の人の運命は決するのである。

其の人の周囲に集まって来る日常無数の出来事は、
その人の潜在意識中の優勢観念が磁石となって回転するのである。

吾々の潜在意識中の優勢観念が、「人間神の子・万事良くなる」という
大信念であるならば、その人の周囲に起るところの大小無数の事件は必ず
其の人が幸福になるように、その人が発展するように好転好転又好転するのである


―― 若しそれでもその人に幸福がやって来ないならば、その人は傲慢になり過ぎて、
万事が神から来ることを忘れ、自力の信念の効果によるものとして
感謝と報恩との行を忘れて了ったからである。

感謝は「幸福」の機関が回転する心棒に注す油のようなものである。

報恩は「幸福」の機関が生産した物品の配給である。

いくら「幸福」の機関が上等だからとて、
油を注さなかったり、生産品を処置しなかったら、その機関は詰って了い、
「幸福」の機関の運転は停止して了うであろう。

            <感謝合掌 平成31年4月29日 頓首再拝>
24:伝統 :

2019/05/15 (Wed) 20:10:11


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/02/15)より

『少女パレアナ』という本を読んでみました。

面白かったです。元気がでてくる本です。

ちょっとご紹介すると、こんなお話です。


母親も父親も亡くなって孤児となったパレアナは
気難しい叔母さんに引き取られます。

パレアナを引き取ることを喜ばない叔母さんは、
パレアナに殺風景な屋根裏部屋をあてがったりして、冷たい対応をします。

でも、どんな事からでも喜ぶことを見つける「喜びさがし遊び」で、
パレアナは、いつもハッピー。叔母さんのその頑な心を次第に溶かしていきます。

やがてその遊びは、パレアナに接するまわりの人、街全体に広がっていくのです。


その「喜びさがし遊び」とはどんなのものか、と言いますと、
毎日の生活のなかで、いつでも、どこでも「喜び」をさがすだす
というゲームなのです。

そもそも、なぜ、パレアナがそのゲームをするようになったか
というと次のようなわけです。

あるときパレアナが、人形を欲しがったので、
牧師の父親が教会本部に送ってくれるように頼みました。

ところが、人形が来ないで、代わりに松葉杖が来てしまったのです。

パレアナは泣きました。

「あたしはお人形さんが欲しいのよ。松葉杖なんかいらないわー」


でも、このとき父親が教えてくれたのです。

「これは、うれしいことなんだよ」


「どうして?どうして、うれしいことなの?」


「だってね、君は歩ける足がちゃんとあって、松葉杖を使う必要はないだろう。
それは、うれしいことじゃないか」


「え?」


「あのね、聖書の中に、『喜びなさい』『楽しみなさい』っていう言葉が
何回出てくるか知っているかい?」


「知らないわ」


「お父さんも知らなかった。だから、数えてみたんだ。
すると800個も出てきたんだよ。
つまり神様はね、それだけ私たちが喜んでほしいということだ。
私たちが喜ぶことを喜ばれるんだよ」


「あたしも、喜んでいたいわ」


「じゃあ、今日からお父さんとゲームをしよう。これは、喜びをさがす遊びだ」


パレアナは目を輝かせました。

「喜びをさがす遊び? どうやって遊ぶの? 」


「いつでも、どんなときでも喜びを見つけるんだ。
喜びをさがしだすのが難しければ難しいほど面白いゲームだよ」


それ以来、パレアナはずっとこの遊びをやります。

たとえば、実の叔母さんから、
屋根裏部屋の飾りのない部屋に住まわされたときも、
最初はちょっとがっかりしていましたが、

「鏡がないから、顔のソバカスをみなくてうれしい」

「絵が掛かっていないけれど、窓から見える景色、木や家や教会の塔や、
それに川が流れているのが絵のようじゃない。
あんないい景色があったら、絵なんかみないでいいわ。
叔母さんがこの部屋をくださってうれしいわ」

というように、次々と喜びを見つけていくのです。


このパレアナのように、明るくて前向きな人って、
喜びをみつけるのが習慣になっているのではないかと思います。

わたしたちも、自分の毎日の生活のなかに喜びを見つける遊びをしましょう。

たとえば、

今日、朝食のとき、食パンがやわらかったので、
イチゴジャムをつけておいしかったとか・・

図書館に予約していた本が2冊も届いて借りられて、うれしかったとか・・・

窓の外の雨が上がって、青空が見えてとてもきれいだとか・・・

さっき講演のご依頼が届いて、ワクワクしているとか・・・


いま、このブログを読んでくださる人のことを思い浮かべながら
書くことができてうれしいとか・・・

お腹がへって、次のご飯が楽しみだとか・・・(笑)

今日の喜びをいっぱい見つけよう。

出典:エレナ・ポーター著『少女パレアナ』

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/02/15/thinking-25/ )

           <感謝合掌 令和元年5月15日 頓首再拝>
25:伝統 :

2019/05/16 (Thu) 21:15:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。
だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、
自己選択をなしうるということにあるのである。

万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。
曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、何を行動するかの自由を持っているのである。
その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、
単なる動物にすら存在しないところのものである

しからば諸君はまず何を想念すべきであろうか。
悪を想念するならば、悪は現象し来たるであろう。
善を想念するならば、善は現象し来たるであろう。

病気を想念するならば、病気は現象し来たるであろう。
戦争や敵意を想念するならば戦争や敵意は現象し来たるであろう。
平和のみ善意のみ想念するならば平和のみ善意のみが現象し来たるであろう。

釈尊は人生のもろもろの苦しみを解脱する八つの道を八聖道として教えたのであるが、
その最初に置いたのは正見(しょうけん)と正思惟(しょうしい)とであった。
正見とは正しき見解―正しき世界観の確立である。

この世界は有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏の世界であり、
すべて仏心の展開せる世界であって悪は存在しないとの正しき見解の確立である。
すべての人間はすでに成れる仏であって完全なる自由を有するとの正しき人間観の確立である。

かくて正しき世界観人生観立ってのち、われらは想念の自由によって
正しくその真理を思惟しなければならない。
またわれらは言葉の自由によって正しくその真理を表現しなければならない。

もしわれらが正しき世界観、人生観に到着していようとも、
正しく想念せず、正しく善き言葉のみを発しないときには、
われらの人生は不幸にみちたものとなり、
われらの住む世界は悲惨憂苦みち満ちたものとなるほかはないのである。

われらの人生が幸福なものとなるか、不幸なものとなるかは、
われらの想念と言葉が何を表現するかによって定(き)まるのである。

人類の霊魂なお稚くして何を想念すべきか、何を言葉に表現すべきかを知らず、
いたずらに敵意ある世界を心に描き、(正見の反対の邪見である)互いに
悪想念と悪感情とをそそり、言葉に敵意を表現するをもって足れりとなす。

その行くところや悲惨なる末路なるべきは、およそ「心の法則」によって、
然らざるをえないのである。

人間の霊魂よ進歩せよ。高級の霊魂は今後の世界の推移をいかに見るか。
われらはここに人生の深き指針として
本全集『生命の實相』第九巻・第十巻「霊界篇」を世に送り、
魂の向上の必須要件を説くとともに、
今後の世界の推移を示す指標とするものである。

           <感謝合掌 令和元年5月16日 頓首再拝>
26:伝統 :

2019/05/18 (Sat) 19:47:26


      *「一切なりゆき」樹木希林・著(P66)より

どうやったら他人の価値観に振り回されないか? 

「自立すること」じゃないでしょうか。

自分はどうしたいか、何をするべきか、とにかく自分の頭で考えて自分で動く。
時に人に頼るのもいいかもしれないけれど、
誰にも助けを求められないときにどうするかくらいは考えておかないと。

 
もっと言えば、その状況をおもしろがれるようになるといいですね。

幸せというのは「常にあるもの」ではなくて「自分で見つけるもの」。

何でもない日常や、とるに足らないように思える人生も、
おもしろがってみると、そこに幸せが見つけられるような気がするんです。

           <感謝合掌 令和元年5月18日 頓首再拝>
27:伝統 :

2019/05/20 (Mon) 21:01:34


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/03/10)より

浜口隆則著『戦わない経営』という本を読みました。

会社の経営者でなくても参考になる本だと思います。

しかも普通のビジネス書と違います。

詩のようなスタイルの短い言葉で、幸せについてつづっている本です。

いい言葉がたくさん出てきます。


たとえば、

 「会社というのは、幸せをつくっている」

という言葉です。


それは、こういうことです。

たとえば、食べ物屋さんは、食べ物だけでなく、いっしょに幸せをつくっています。

食べ物屋さんは、食べ物といっしょに幸せを売ります。

その食べ物を食べたお客さんがハッピーになります。

お客さんが喜ぶと、社員もハッピーになります。

社員もハッピーになると、その家族や友だちもハッピーになります。

このように、会社や人は幸せをつくることができます。

さらに、その幸せを分け与えれば、幸せは増えていく、ということなのです。

そうなのです。

心の幸せは、分け与えても減りません。むしろ、増えていきます。



1つの例えを思い出しました。

Bさんは、おいしいケーキをもっていました。

Bさんは、一人で食べてお腹一杯になりました。

「ああ、おいしかった」

ただ、それだけのことでした。


Aさんも、おいしいケーキをもっていました。

Aさんは、そのケーキを3人に分けていっしょに食べました。

「ああ、おいしい」

3人とも喜んでくれました。

喜ぶ3人を見て、Aさんもハッピーになりました。


さらに嬉しいことがありました。

数日後、そのうちの1人が、
「たこ焼き買ってきたから食べる?」
と言ってくれました。

他の1人が、
「田舎から送ってきたみかん、いらない?」
とみかんを分けてくれました。

別の1人が、
「コンサートのチケット、あるんだけど、行かない?」
と誘ってくれました。

こんなふうに、Aさんのハッピーは続き、広がっていったのです。



わたしたちも、心に幸せというケーキをもっています。

心の幸せは、本当の幸せです。
誰かに分けても、決して減りません。
むしろ、どんどん増えて広がっていくのです。

    幸せを作ろう、分け与えよう。

幸せは分ければ増えていきます。(^.^)

作家も個人経営の仕事をしています。
みんなが幸せになれる文章を書いて、分け与えていきたいと思います。

参考:浜口隆則著『戦わない経営』
仕事を通して幸せになるための、心温まるビジネス書です。

     (https://lucky.t-nakai.work/2019/03/10/book-10/ )

           <感謝合掌 令和元年5月20日 頓首再拝>
28:伝統 :

2019/05/23 (Thu) 18:23:41


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年02月02日)より

   (無能唱元氏の心に響く言葉より…)

   30歳の頃、野尻湖を訪れたときのことです。

   夏の夕暮れ、私は東岸の道を散歩しておりました。

   すると、近くの林の中から、
   林間学校の生徒たちのものらしい合唱の歌声が聞こえてきました。

   それは有名な輪唱曲「ロウ ロウ ロウ ユア ボート」でした。


   私は立ち止まり、みずうみの対岸を見つめながら、
   しばらくその歌声に聞き入りました。

   この頃、私は英会話を学んでおりましたので、
   そのとき、それまでは気にもかけていなかった、
   この歌の内容を何気なく訳しながら聞いていたのです。


     ロウ ロウ ロウ ユア ボート

     ジェントリ ダウン ザ ストリーム

     メルリー メルリー メルリー メルリー


     漕(こ)げよ 漕げよ 漕げよ 小舟を

     おだやかに 流れにそって くだれ

     楽しげに 楽しげに 楽しげに 楽しげに


   そして、これに続く、この歌の終章を聞き、その意味を初めて知ったとき、
   私は愕然(がくぜん)としたのです。それは、


     ライフ イズ バット ア ドリーム

     人生は ただ一場の 夢


   という一行でした。

   「なんということだ!」と私は思わず、うめきました。

   ただの単純な童謡だと思っていた歌詞の中に、
   古典的日本文学にただよう仏教的諦観(ていかん)にも共通する表現があろうとは!


   「無常迅速(むじょうじんそく)」「一期一会」などと、言い表されている、
   人生の哀感が、この童謡の中の、しかもたった一行に、かくも突然に、
   かくも衝撃的に言い表されていようとは!

   私はしばし呆然(ぼうぜん)として、
   みずうみを渡ってゆくこの輪唱の響きを聞いていたのでした。


   人生における幸せとは、この幻とも思えるひとときを、
   いかにイキイキ、ワクワク過ごせるかにかかっていると言っていいでしょう。

   みずうみのほとりで、そう気がついたとき、それは私のサトリでした。

         <『小さなサトリ』河出書房新社>

             ・・・

城山三郎氏の小説にこんな一節がある。

『一期(いちご)の盛衰(せいすい)、一杯の酒。

一代の英雄の興亡盛衰の重さも、一杯の酒のうまさに叶わぬ、というのね。

ついでにいえば、わが人生、酔生夢死という終わり方をしたいわ』

(本当に生きた日)より


室町時代の「閑吟集」にも、こんな言葉がある。

「何しようぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」

いったい何をしてるんだ、まじめくさって。

人生なんて一瞬の夢よ。

面白おかしくただ狂え、と。


「人生は、ただ一場の夢」

人生を、面白がって、楽しく、暮らしたい。

           <感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>
29:伝統 :

2019/05/24 (Fri) 18:41:40


         *「斎藤一人 俺の人生」(P127~128)より

幸せって楽しいのと同じです。

例えば、俺は野球の選手になるんだって決めて、
野球選手になって大喝采されている所や豪邸に住んでいる所を想像すると、
それだけで楽しくなるものなんです。

練習してようが、トレーニングしてようが、
野球に関することなら何をしてても楽しいはずなの。

だから、本物の野球選手になるまでのトレーニングなんかは
楽しくないっていうのは本物じゃないんだよね。

本物っていうのは
想像しただけで楽しくなるものを言うんです。

ところが、世の中には楽しんじゃいけないと思っている人が一定数いる。
そんなこと思う必要はないんだよ。

(中略)

四六時中、おもしろいことを考えていると、
毎日おもしろくてたまらなくなるんだよ。

           <感謝合掌 令和元年5月24日 頓首再拝>
30:伝統 :

2019/05/25 (Sat) 18:36:02


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.05.20)より

   (無能唱元氏の心に響く言葉より…)

   「普通に暮らしていることって、すっごく幸せなんだ!」

   ある日、19歳になったばかりの少女がそう言うのを聞いて、
   ああ、この「気づき」こそ、「サトリ」というものなんだなあ、
   と私は一つの感動とともに思い入りました。

   この少女の「サトリ」は、座禅修行30年を積んだ禅僧のそれと
   比べても、いささかも遜色のあるものではありません。

   「無味(むみ)、無為(むい)、無事(ぶじ)」の中に、
   生の喜びを見いだすことは、きわめて稀れであっても、
   凡人にとっても可能なことなのです。

   ただ、そのあとが続かないのですが。


   凡人にとってのこの喜びは、しばらくほうっておくと、
   じきに色あせ、退屈によって、かき消されてしまうのです。

   これは凡人ならずとも、賢人であっても同じことです。

   禅僧には書画をよくする人物がよくいますが、
   これも悟りすましているばかりでは退屈で、
   そのひまつぶしを目的として、
   一つの芸の達者になった人なのではないでしょうか。


   陽だまりの中で、数匹の猫がじゃれあって遊んでいます。

   子猫はとても遊び好きで、ときには人間にさえ、
   一緒に遊んでくれとせがむことがあります。

   これは、エネルギーが有り余っているからで、
   それを遊びで発散しないではいられないからなのです。

   ところが、同じ陽だまりの中でも、
   親猫はうとうとと眠っており、めったに眼を開こうとはしません。

   これは「若さ」というエネルギーをもうなくしているからなのです。


   これから考えられることは、「若さ」というエネルギーと、
   「遊ぶ」という意欲は相関関係にあるということです。


   猫と同様に、われわれ人間も、
   人生に「遊び」とその楽しみを求めつつあるかぎり、
   「若さ」をいつもまでも失わないで済むのではないでしょうか。

 
   禅家は、「人生は遊戯三昧(ゆげざんまい)をもって生きよ」と説きます。

   これは、「人生そのものを、ゲームとして、それを楽しめ」と
   言っているのです。

   しかし、この遊びとは、どうもパチンコや競馬、ナイトクラブ、カラオケなどの、
   いわゆる、娯楽施設における遊びとは、ややそのおもむきを
   異(こと)にしているようです。


   ではどの点を異にしているかと、おおまかな分け方ですが、
   娯楽型の遊びはおおむね消費的であり、
   遊戯三昧の方は多分に創作的、あるいは生産的であるのです。

   たとえば、音楽の鑑賞は消費的であり、
   作曲および演奏は生産的であるように…。

   後者で特に大切なことは、そこには「自己主張」があり、
   「自己表現」がある、ということです。

   人間は生活の上で、自己表現がなされるとき、
   自己充足の満足を得ることができます。

   そして、この満足を得ることによって、
   生きる喜びを、心の底から覚えるのです。


   しかし、このように遊戯三昧に生きるには、
   人間にはさまざまな制約があります。

   その最も一般的な制約とは、経済的な問題です。

   人間は好きなように自由に生きるには、
   自由に使える十分な資金を必要とします。


   チャップリンは、
   「人間にとって必要なのは、希望と勇気と少しばかりのお金である」
   と言っております。

   しかし、あらゆる制約から解放されて、遊戯三昧に生きるには、
   「少しばかりのお金」では、どうも足りないようです。

            <『小さなサトリ』河出書房新書>

            ・・・

藤原東演住職は「遊戯三昧」についてこう語る。

『「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、
「無門関」の第一則に出てくる。

我を忘れて、無心に遊んでみないか。

仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運も
すべて遊び心で生きることがすばらしい。

仕事は成果をあげなくてはならない。

「何かのため」という意味づけが不可欠だ。

ところが、遊びは何かのためにという目的がない。

その成功とか失敗なんか関係がない。

成果など計算したら、それは遊びではない。

人の評価も気にする必要がない。

ただやることが面白い、楽しいからやるのである』
(禅、「あたま」の整理/知的生きかた文庫)より


あらゆることを遊び心をもってやる、というのは、
ゲームを楽しむ気持ちでやるということ。

ゲームの楽しみとは、たとえばゴルフにしても
すべてがうまくいくから楽しいのではない。

思い通りのところに飛ばない、思い通りに打てない、
トラブルになる、くやしい、そんなことすべてを含めて、
「思い通りにいかない」ことも楽しいのだ。


「人生とは何ですか」との問いに、今東光氏はこう答えた。

『人生というのは冥土(めいど)までの暇(ひま)つぶしだよ』

遊戯三昧に生きることができたら最高だ。

           <感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>
31:伝統 :

2019/05/26 (Sun) 19:17:00


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.04.19)より

   (金城光夫氏の心に響く言葉より…)

   近年、「量子力学(りょうしりきがく)」の「研究」が
   さかんになってきていますが…。

   わたしたち人間の「感情」も「量子力学」にあてはめて、
   解説することができます。

   つぎにご紹介するのは、とある研究者が「植物の、微弱電流」を
   あつかったさいのエピソードです。


   研究者は当初、植物の「葉っぱ」に導線(どうせん)をつないで
   測定を試みましたが、電流のながれは確認できませんでした。

   そこで、「葉っぱをライターの火で炙(あぶ)ったら…
   どうなるんだろう?」

   と、ふと「思いついた」そのときです。

   いままで無反応だった測定器の針がふれ、
   いっきに電流がながれだしました。


   「どうなるのだろう?と思っただけ」であって、
   「じっさいには、なにもしていないのに…です。

   研究者は驚いて、
   「じぶんの思ったことが、植物に伝わったのだろうか?」と、
   考えました。

   そこでこんどは「あくまで実験」と称しつつ、
   「じっさいにライターの火を、葉っぱに近づけて」みたのです。


   が…計測器は、微動だにしません。

   つまり、これは、
   「じっさいに火を近づけてはいるものの、あくまで実験」であり、
   「本気で炙るつもりはない」…という
   「研究者の意思が、植物に伝わった」結果といえるでしょう。

   そう、わたしたち人間の「意思」は、
   「ことばにしなくても、伝わってしまう」ものなのです。


   わたしたち人間の「思い」は「波動」であり、
   そして波動とは「エネルギー」のことです。

   が、「思い」とひと口にいっても、「〇〇が欲しい」といった
   「願望」の類(たぐ)いとはちがいます。

   なぜなら、「エネルギーの法則」は
   「感情においてのみ、作用する」からです。


   3次元の世界においては、
   「努力した結果、しあわせになる」 という方程式があります。


   対して、5次元は「さきに、しあわせになる」から、
   「しあわせの波動に見あった、できごとがおこる」という…
   真逆の価値観なのです。

  「想いの世界」で「しあわせな波動」を出しつづけていると…
   その「波動に見あった、喜びのできごと」が押し寄せてくるのです。

           <『喜びの真法』ヒカルランド>

            ・・・

「以心伝心(いしんでんしん)」という言葉がある。

もともとは、禅の言葉で、言葉では伝えられないような
深い真理や教えを、心をもって無言で伝えることをいった。

転じて、何も言わなくても、考えていることが
お互いにわかってしまうことを指す。


この人は、自分のことを嫌っているだろうな、
と何となくわかることがある。

まさに以心伝心であり、思っていることは伝わってしまうのだ。

だからこそ日頃、「いいこと」や「明るいこと」「うれしいこと」
「たのしいこと」を思った方がいい。


「さきに、しあわせになれば、それに見あったできごとがおこる」

どんなときも、よきことを思える人でありたい。

           <感謝合掌 令和元年5月26日 頓首再拝>
32:伝統 :

2019/05/28 (Tue) 18:50:54


        *「しあわせの言の葉」山下 景子・著(P94~95)より

【不幸は突然くるかも知れぬが、幸福は突然やって来ない

             吉屋信子(「未知の月日」より】

思えば、幸福は、心の中につちかう土壌のようなものかもしれません。

突然の災害で台なしになってしまうことはあっても、ある日突然、
豊かな土壌ができあがるということはないのです。

耕したり、肥料を施したり、水を与えたり・・・そんな日々のつみ重ねによって
得られるものだと、吉屋信子は言いたかったのではないでしょうか。

よく幸福と間違われるのが「幸運」です。
「幸運」は、突然舞い込んできますが、それが不幸の種になってしまう
ことも、往々にしてあることですね。

このエッセイの中には、”初暦 知らぬ月には 美しく”
という彼女の句が紹介されています。

まだ何も書かれていない暦、手帳、日記・・・。
真っ白なそのページは、輝きを放っているかのようです。
どんな月日が待っているかわからないからこそ、
人は行く手に美しい夢を咲かせることができるのでしょう。

今、不幸だと思っていても、育てようによっては、
幸福の芽が出るかもしれません。

夢の花を現実の花として実感するために、
心に豊かな大地をはぐくみたいと思います。


<参考Web:ちからのある言葉
         https://www.compass-point.jp/kakugen/4923/ >

           <感謝合掌 令和元年5月28日 頓首再拝>
33:伝統 :

2019/06/03 (Mon) 18:26:36


          *『光明法語』(6月3日)より

吾々は誰も幸福を求める。
然し乍(なが)ら大抵は外の世界にそれを求め、
外の手段方法をとつおいつ心配して心を労するのである。

併しそれは拙劣(せつれつ)なる求め方である。

労して誰も幸福になれるのであったら、
「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺その儘に誰も彼も幸福に豊かに富める筈であるが、

事実は「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりじっと手を見る」
という石川啄木の歌のように、いくら人間力で労して見ても幸福になり切れない場合が多い
のである。

ここに反省しなければならぬものがある。

心の方向を転換しなければならぬ。

           <感謝合掌 令和元年6月3日 頓首再拝>
34:伝統 :

2019/06/07 (Fri) 20:00:52


            *『光明法語』(6月7日)より

神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。

神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。
幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、『法華経』の長者窮子の譬えにあるように
神の子みずから親のみ許(もと)をはなれて神の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。

先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。

そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだと思わぬことである。

           <感謝合掌 令和元年6月7日 頓首再拝>
35:伝統 :

2019/06/11 (Tue) 19:39:48


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、
次の瞬間その幾億万円を眼界から消し去って
「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」
と宣告してもわれらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」と
われわらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。

金を自分で使うのが幸福であるならば、
なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、毎日自分で多数の商家を訪問して
歩かねば幸福になりえないであろう。

しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。

金はたくさん持っているということが幸福ではなく、
それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても幸福になんの関係もないものなのである。
ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。
猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神」は「生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>
36:伝統 :

2019/06/15 (Sat) 19:29:24


       *『人生の秘訣365章』第3篇(P78~79) より

若しあなたが何か病気にかかったり、不幸に見舞われたり、
人から迫害をうけたり、人と仲がよくなかったりしたならば、
それをよくする道は、自分自身の想念の種類を変化することである。

これが根本問題であると云うのは、この世界には“類を以て集る”
又は“類は朋を招ぶ”と云う法則があるからである。

今まで、自分の心の注目の焦点を、自分及び他人の欠点や不幸や不完全や、
感情や環境の不満足などにあつめていたのを一転して、
美点や幸福や完全さを成るべく見出すようにして、
どんな境遇の中にも感謝すべき点を見出すようにするならば、

“類(るい)を以て集る”法則にしたがって、
善き事の方が多く集って来るようになり、
やがては、集って来るもの悉く善きものばかりとなるのである。

「実際、自分には不幸が襲いかかっているのであり、既に万策つきて、
ただ破局への一途をたどりつつあるのだから、美点や幸福の完全さは
何処にも見出しようがない」と言う人があるかも知れない。

そう思っている限りに於いては、其の通りなのである。

だから「想いを変えよ」と言うのである。

心が一切の現象に先行し、心が運命の舵手である。
脱出の道は心の舵で進行方向を変えることである。

           <感謝合掌 令和元年6月15日 頓首再拝>
37:伝統 :

2019/06/19 (Wed) 19:31:53


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/06/16)より

《あなたも金メダルを獲得できる》

4年に1度のオリンピック競技で金メダルの栄誉を獲得できるのは、
世界中でごくわずかの限られた人です。

その他の大勢の人は、スポーツの特別な才能に恵まれず、
努力してもオリンピックに出場できるほどではありません。

あるいは、他の分野でもそうかもしれません。

特別な才能に恵まれず、特に世間を賑わす目立った活躍はせず、
ごく普通の生活を送っています。

私の両親もそうです。

誰からも注目されず、誉めらもせず、平々凡々と暮らしています。


そういう人たちの人生の歩みには、どんな意味があるのだろうと・・・。

どんな価値があるのだろうかと・・・。

そういうことを(子どもの頃から)いつも考えてきました。


そして、いま固く信じていることがあります。

私たちはみな、人生というオリンピックで、金メダルを獲得できるんだと・・・。

いやそれは、金メダル以上のものだと・・・。



《「幸せの金メダル」を目指す》

人生という楽しい舞台で、私たちは輝く金メダルをもらえます。

これはもちろん比喩的な表現ですが、本当にそう思います。

ただし、それを目指している人だけが獲得できます。
もちろん私も目指しています。(笑)
私が目指しているメダルは、「幸せの金メダル」です。

つまり、平たく言えば、この人生で幸せになることです。


心にキラキラ輝く金メダルのような幸せをいつももっていたいのです。

このメダルは、世界で一番にならなくても獲得できます。
他人と競争して勝たなくても獲得できます。

私は人と競争するのは苦手なので、これは助かります。

一番でも、二番でも、三番でも、最後の走者であっても、みんな金メダルなのです。

もちろん何もしないでもらえるものではありません。


人と競争する必要はありませんが、
自分の心を磨いていくことはしなくてはなりません。

誰にでも獲得できる可能性がありますが、
それにふさわしいことをした人だけがもらえるです。

どうすればよいのでしょうか?

その方法は、2つあります。


《自分に与えられたものに感謝し喜ぶ》

「幸せの金メダル」を獲得する方法の1つ目です。

それは「感謝」です。

この世には金銭や物質的なものをたくさん持ちながら、
不平不満、愚痴、妬み、恨みという
幸せとは反対の感情をもって生きている人も多いです。


逆に、金銭や物質的なものがわずかであっても、
日々、幸せに暮らしている人もいます。

何が違うのでしょうか。


それは、【自分に与えられたものに感謝し喜ぶ】ことができるか、
そうでないかの違いです。

感謝できない人は、どんなに金銭や物質に恵まれても、
才能や美貌に恵まれても、幸せにはなれません。

しかし、与えられたものがわずかであっても感謝できる人は、
喜び、幸せを味わうことができます。


何か特別な良いことが起こったときに、
私たちはうれしくなり感謝するものですね。

でも、考えてみてください。


この世での命をいただいたこと、それだけで、本来、特別なことです。

それだけで幸いなことです。

私たちという存在は、すでに特別です。

そして、大切な存在です。


この世に自分が存在すること、愛する人が存在すること、
それだけで本来、有り難いことではないでしょうか。

自分に与えられたこの尊い命に感謝し喜ぶ。

自分に与えられた様々なものに感謝し喜ぶ。

自分に与えられた周りの人々に感謝し喜ぶ。

そういうことを心がける人は、輝いてきます。

心に「幸せの金メダル」をもっているのです。


《まわりの人を喜ばせ幸せにする》

では、「幸せの金メダル」を獲得できる方法の2つ目です。

それは 【まわりの人を喜ばせ幸せにする】 ことです。


この人生にはルールがあります。

それは「与えたものが与えられる」ということ。

私たちは人に与えたものが与えられます。


「おはようございます」とあいさつをすれば、
「おはようございます」とあいさつが返ってくるように、

お店でお金を払えば、それなりの品物やサービスが与えられるように・・・。

もちろん、そっくりそのままではなく、その何分の1かであったり、
別の形であったりするのですが、
与えればそれにふさわしいものが返ってくるのです。


ですから、人を喜びを与えようとする人は、その人に喜びが生まれます。

人に幸せを与えようとする人は、その人に幸せが生まれます。


くり返しますが、「幸せの金メダル」は、一番にならなくても、もらえます。

それにふさわしいことをした人は、誰でももらえます。

なので、実はあなたは、すでに「幸せの金メダリスト」かもしれません。

きっとそうでしょう。



どうかこれからも

     【自分に与えられたものに感謝し喜ぶ】

     【まわりの人を喜ばせ幸せにする】

を忘れないで日々を送ってくださいね。

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/06/16/thinking-87/ )

           <感謝合掌 令和元年6月19日 頓首再拝>
38:伝統 :

2019/06/21 (Fri) 19:35:17


        *「真理」第九巻生活篇(P97~98)より

物質によって幸福を得ようと思っても、
幸福は神から来るのでありますから、

結局は、その幸福は束の間であって、
幸福だと見えたものは直ちに不幸に転じてしまいます。

その実例は新聞の社会面を見れば無数に見出されるのであります。

吾々が幸福を得ようと思ったならば、
物質は心の結果として反映してあらわれるものであることを知り、
物質を求めるよりも先ず心を調える方に専念することが肝腎であります。

あなたが赦さない心を持っている限り、あなたは幸福になれません。
赦さない心は「縛る」心ですから、そんな心を持っている限り
あなた自身が縛られて幸福になれません。

他(ひと)を赦しなさい。
自分を赦しなさい。

若し何か罪悪感をもっているならば、祈りによって神に赦しを願いなさい。

そしてすでに赦されたと信じて感謝しなさい。

           <感謝合掌 令和元年6月21日 頓首再拝>
39:伝統 :

2019/06/25 (Tue) 19:12:53


       *『 生長の家 』(昭和24年3月27日の法語)より

   「 生命 」 がその 「 使命 」 を遂行する為の道具として創作された肉体は、
   その性能をよく知って、その弱点の現れないようにし、
   その特徴を生かし使うようにすれば、

   乱暴に、遊蕩に肉体を使うよりも長持するし、
   立派な働きをする事が出来る。

   自己の性能を知ることなく、
   鋸(のこぎり)で庖丁(ほうちょう)の代用をするような使い方をしながら、
   効率が上がらず、人に認められず、徒(いたずら)に社会の下積みとなり
   世間を呪わなければならぬようになるのは自己を知らぬからである。

   人間の幸運と不幸とは、
   決して偶然の他力(たりき)に支配されているのではなく、
   同じ隣接地でも 甲の農家と乙の農家に貧富の差ができるように、

   自らのやり方で運命を作るのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/26dd104521bba4661342b5bd10bd8e38

           <感謝合掌 令和元年6月25日 頓首再拝>
40:伝統 :

2019/06/27 (Thu) 22:51:22


          *Web:今日も良いことがあるように(2019/05/27)より


    「幸せになるには、幸福力がいる。
     体をきたえて筋肉をつけるように、幸福力をきたえて幸せになる。」

                             (斎藤一人)

▼斎藤一人著『幸福力(しあわせりょく)』を読みました。

この本には、どうすれば幸せになれるかの斎藤一人さん流の考え方が、
とてもわかりやすく書かれています。

私もたいへん勉強になり、共感することの多い本でした。

▼内容は、と言いますと・・・こんな感じです。


   第1章「天国言葉」あなたの言葉で地球が天国になる

      しゃべっているとおりの人生になる

      どんなときでも感謝できるかが、神様の試練、など

   第2章「天国のお金持ち術」心も財布も豊かになるお金の知恵

      お金持ちの家にはガラクタがない

      お金を持ったとき、いばらない

      楽しく全力で生きれば、ドアは次々と開く

      「神様の目標」に身を任せる など

   第3章「天国の読書術」この世の悩みが消えていく本の読み方

      本の選び方

      7回読めば自分のものになる

      思い出の本、好きな本 など

   第4章「天国の仕事術」自分も会社もお客さんも幸せになる働き方
  
      幸せに成功する人の特徴

      仕事の悩んでいる人へのアドバイス

      社長の心得、社員の心得

      お客様に長く愛されるコツ

      一輪の花に感激しながら、山に登ることもできる など

   第5章「天国の人づきあい術」泣いたり笑ったりしながら、魂は成長していく

      人と幸せにつながるコツ

      人を嫌いになってしまったら?

      別れの苦しみを癒す方法

      親のことをゆるせないときどうすれば?

      悲喜こもごもの人間関係が用意されている理由 など

   第6章「天国ともしもし地獄」一生幸せに生きられる生き方の神髄

      困ったことはジョークのネタ

      雨は雨でいい、風は風でいい、なにがあったっていい

      会う人会う人に得させてると、必ずいいものが回ってくる など

   第7章「不況のほんとうの原因」こうして地球は平和になっていく

     不況のときに心がけるべきこと

     どんなときでも感謝するコツ など


▼質問に答えるインタビュー形式の本で、話し言葉でそのまま書かれています。

そのためか、同じことが何度も何度も繰り返されます。

たとえば、天国の仕事術では、

「楽しく仕事をする」

「今日一日を奉仕だと思って仕事をする」

「仕事を通して人に親切する」

など、それこそ20回くらい同じことが出てきます。

でも、こういう話は30回も、40回も聞いた方がいいんです。

それでも、翌日には忘れることがありますからね。

毎日聞いてもいいくらいです。

▼ところで、斎藤一人さんは、中学までしか学校で学んでいないに、
どのようにこういう考えをもつようになったのでしょう。

そして、事業家として大成功するようになったのでしょう。

▼その一つの大きな要因は、斎藤さんがこの本の中でも言われているように
本をたくさん読んできたからだと思います。

多いときは1ヶ月50冊、最近でも10冊。

しかも、「いい本は7回読む」というのが一人さん流です。


   どの本にも、たいてい自分にピンとくる一行がある。

   その一行に出会うために、読むのもいい。

   読めば読むほど、その時々で、新しい発見があり、
   7回読めば、自分のものになる。

   2000円の本なら1回読めば、2000円で終わるけれど、
   2回読めば、4000円分の価値が生まれ、
   7回読めば、14000円分の価値が生まれる。

というのもユニークな考えです。

このような発想で、若い頃からいい本を読む
たくさん習慣を続けてこられた斎藤さんは、古今東西の優れた著者から多くを学び、
常人にはない知恵をたくさんもっているのです。

▼さらに、もう一つ、不思議な理由があります。

別の本に書いあったことですが、斎藤一人さんには、
幼い頃から火の玉のようなものが現われ、
いろいろと大切なことを教えてくれることがあるらしいのです。

まさか、と思われる方がいらっしゃるでしょうが、
これは斎藤一人さんのお得意のジョークでもなく、もちろん嘘でもないと思います。

霊的な存在は、普通は現われないか、目に見えないのですが、実在します。

神も天使も霊的な存在です。

そういう霊的な存在から何か大切なメッセージを受ける人もいるのです。

▼ともあれ、斎藤一人さんのご本は読んでいて面白く、わかりやすく、
ちょっと変わっていて、様々な知恵にあふれています。

全部を受け入れることはできないにしても、
自分や人を幸せにするヒントに必ず出会えると思いますよ。


       【幸せになる力をきたえると、もっと幸せになる。 (^.^)】

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【出典】斎藤一人著『幸福力(しあわせりょく)』

読んで実践すれば幸せになれます!

     ( https://lucky.t-nakai.work/2019/05/27/custom-66/ )


           <感謝合掌 令和元年6月27日 頓首再拝>
41:伝統 :

2019/06/29 (Sat) 22:20:58


         *『生長の家』(昭和26年4月1日の法語)より

   あなたの言葉、行い、想念、ことごとく
   神の国に 相応(ふさ)わしきものでなければならない。

   神の国には 讃嘆の言葉のみ充(み)ち満ちているのであって、
   決して憎みや、怨みや、呪いや、他(ひと)の悪を探す言葉には
   充ちてはいないのである。

   自分を最も害する言葉は、人を害する言葉であり、
   自分を最も害する想念、行動は、人を害する想念行動である。

   この真理が直ちに全人類にわかったとき全世界に平和が来るのである。
   自分を最もよくする想念感情は 「 愛 」 である。

   人のため人のためにと 愛念を起していると、
   愛念は 愛念を招(よ)びむかえ、
   自分自身が幸福になって来るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12188423.html

           <感謝合掌 令和元年6月29日 頓首再拝>
42:伝統 :

2019/07/03 (Wed) 21:49:18


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年03月01日)より

   (本田晃一氏の心に響く言葉より…)

   ある未開の地に住む、部族の話です。

   未開の部族といっても僕たちと同じ人間。

   いさかいが起こることもあれば、暴力や盗みなど、
   コミュニティの平和を乱すようなことをする人もいます。

   ただ、僕たちと違って、彼らには憲法も法律もありません。

   弁護士も検察官も、裁判官もいません。

   だから彼らは、誰かが悪いことをしたら、コミュニティの全員で、
   その人をグルリと取り囲んで「あること」をするのだそうです。


   さて、なんだと思いますか?


   「こいつは幼いころ、よく、足が不自由な俺の手を引いてくれたもんだ」

   「うちの子が川で溺れたとき、真っ先に飛び込んで助けてくれたのは、こいつだった」

   「食べ物が不足して困っているときに、
    こいつは、高いところになっている木の実を見事にとってきてくれた」


   そう、彼らは悪いことをした人を取り囲んで、罰するのではなく、
   その人の存在によって、どれほどコミュニティが幸せを感じることができたかを
   披露し合うのです。

   すると、悪いことをした人は、もう二度と悪さを働かず、
   まさに全員がそろって表現したような“いいやつ”になるといいます。

   罰しないで更生させる、それが彼らのやり方なのです。


   また、彼らの年間行事のひとつに「大泣きする日」というものがあるそうです。

   この日は、過去1年の間に死んでしまった人を思って
   「あいつは、こんないいところが素晴らしかった」「いいやつだった」と、
   みんなで大泣きするのだそう。


   この部族の話を、作家のアラン・コーエンさんから聞いたとき、
   僕はすごく心があたたかくなりました。


   何事においても、人のいい面に目を向ける。

   この点を徹底しているって、なんて素敵な人たちなんだろう、と。

   それと同時に、僕たちがやっているのは、彼らとは正反対のことだよな…と、
   なんともいえない気持ちになりました。


   「悪いことをした人を罰しないなんて、小さなコミュニティだからできることだ」

   「人のいい面だけを見るなんて、
    巨大な資本主義経済が発展した先進国では、そうはいかないでしょう?」

   はい、国の制度として見れば、たしかにそうですよね。


   だけど、ごくごく私的な日常生活として見たらどうでしょうか。

   やっぱり僕たちは、人の悪い面ばかり見る、ともすれば罰する…
   という生き方をしがちで、それはすごく寂しくて悲しいことのように思えるのです。


   人は、自分の味方次第で、
   周囲の人に「黒魔術」も「白魔術」もかけられると、僕は思っています。

   いったん「あいつ、嫌なやつ」と思うと、
   その人のすべてが「嫌なやつ」的に見えてくるし、
   実際、自分に嫌なことばかりしてくるようになります。

   これが黒魔術。


   反対に、いったん「あいつ、いいやつ」と思うと、
   その人のすべてが「いいやつ」的に見えてくるし、
   実際に、自分にいいことばかりしてくれるようになります。

   これが白魔術です。


   なぜこうなるのかというと、
   他人は「自分が見ている世界が増幅された現実」を生きるようにできているから。

   ある人の嫌な面を見ると、その嫌な面が増幅した現実になるし、
   ある人のいい面を見ると、そのいい面が増幅した現実になるということです。

   だとしたら、白魔術のほうが、ずっと幸せだと思いませんか?


   しかも、そのつもりで周囲を見渡してみると、
   実際、いかに自分がまわりからよくしてもらっているかに気づくことができます。

   そんな素敵な事実に気づくだけで、人生はずいぶんと幸せなものになっていくのです。

        <『半径3メートル以内を幸せにする』きずな出版>

                ・・・

本田氏は、自分の半径3メートル中心には、まず自分自身がいる、という。

だから、まずは、その自分自身を満たすこと。

自分自身が満たされないうちは、
「人を幸せにする」ことが自己犠牲になってしまうから。

自己犠牲的な行動は、
「あんなにやってあげたのに、何ひとつ返してくれないなんてひどい」
と見返りを求めてしまう。


そして、そのポイントは
「すでに、自分がどれほど幸せにしてもらっているか」に気づくこと。

次に、「自分という存在が誰かを喜ばせる」ということ。

そして「大切な人を幸せにすることが、自分の幸せになる」ということ。


現実に出会う人は、すべて半径3メートル以内の人。

出会う人、出会う人すべてを、笑顔にするというミッション。


今ある幸せに気づき…

半径3メートル以内を幸せにしていきたい。

           <感謝合掌 令和元年7月3日 頓首再拝>
43:伝統 :

2019/07/05 (Fri) 17:48:06


       *「あなたが幸せになれば、世界が幸せになる」
         石井貴士・著(P6~8)より

あなたが「幸せの磁石」になった状態を想像してみてください。

あなたを幸せにしてくれる人が、どんどん引き寄せられてきます。
あなたが笑顔でいれば、笑顔が好きな人が引き寄せられます。

胸に手を当てて考えてみてください。

あなたは今、「不幸の磁石」になっていませんか。
「私は借金まみれなんです。お金がないんです。
恋人もいないんです。結婚もできないんです。いいことがないんです」
と口に出していないでしょうか。

そういう人は、自分自身が不幸の磁石になってしまっています。
だから、不幸ばかりを引き寄せてしまっているわけです。

「でも、そんなこと言われても、現実問題として借金があるんだから、
仕方がないじゃないか」という方もいるでしょう。
 
はい。「現実問題として借金がある」と口に出してしまっているから、
どんどん借金が増えていってしまっているというのが現実です。
 
借金がある人の中でも
 1、借金はあるが、一切そのことは口に出さずに、笑顔でいる人。
 2、借金があって、いつも文句を言って、仏頂面(ぶっちょうづら)の人。
の2通りの人がいます。
 
1の人は、借金があることさえ忘れているので、
いつのまにか借金を返しています。

2の人は、借金があることばかりにフォーカスしているので、
どんどん借金が増えていきます。
 
あなただったら、どちらの人と仲良くなりたいでしょうか。
間違いなく1の人のはずです。
 
ということは、1の人は、多くの素敵な人を引き寄せているということです。
逆に、2の人は、文句ばかりを言うしかめっつらの人を引き寄せているということです。

「借金があって、返せません」という方の多くは、文句を言っています。
だから、借金が返せないわけです。

「不幸の磁石」になるか、「幸せの磁石」になるか。
 
あなたは、「幸せの磁石」になることで、人生において成功するのです。

           <感謝合掌 令和元年7月5日 頓首再拝>
44:伝統 :

2019/07/08 (Mon) 18:40:15


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年07月05日)より

   (ひろさちや氏の心に響く言葉より…)

   幸せというものは、多くを持つことによって得られるのではなしに、
   今持っているもので満足することで得られるものです。

   今あるがままの状態で幸せはつくれるんです。

   貧乏であれば幸福な貧乏人になればいいわけで、
   それを初めから貧乏はダメだと決めつけ、
   金持ちになろうと焦るから不幸は始まる。



   神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。

   ああしてください、こうしてくださいと請求書をつきつけるような祈りを、
   私は「請求書的祈り」と名づけています。

   本物の宗教心というのは、
   「私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました」という
   「領収書的祈り」なんです。



   弱い者は弱い者の役割を果たし、強い者は強い者の役割を果たし、
   ともに助け合って生きていくのが人間社会なんです。

   今の日本の平等主義は、個々の役割をわからなくし、
   自分の生き方を見えにくくしているのではないでしょうか。



   自分の努力のほかに、大勢の縁の下の力や支えがあってこそ
   成功したんだという感謝の気持ちがない。

   失敗した人、成功できなかった下積みの人たちのことを、
   あれは努力が足りないからなんだと蔑(さげす)む。

   これはおかしいんじゃないでしょうか。


   二歩後退一歩前進。

   何歩後退しても、そこからまた一歩進めばいい。

   一歩しか進めないなら、そんなに急いで歩く必要はない。

          <『千年語録』小学館>

            ・・・

ひろさちや氏の筆名は、
ギリシャ語「愛する」(フィロ)と、
サンスクリット語「真理」(サティヤ)から命名したという。


舞台で言うなら、誰もかれも主役になれる訳ではない。

主役は一人しかいない。

だが、主役を支えるわき役がいて、
通行人もいれば、音楽の担当もいて、衣装係もいて、幕引きもいる。

それぞれが、一人ひとりの役割を演じるからこそ、舞台は成立する。


わき役の人は、わき役という役割を、今生で与えられ、
通行人の人は、通行人の役を与えらた。

今生において、その役割をまっとうできない人は、
次回、役割が上がることはない。


だから、与えられた役割を真剣に死に物狂いで演じる。

それが、一瞬一瞬を懸命に生きるということであり、
「置かれた場所で咲く」ということ。


与えられた役割を懸命に演じたい。

           <感謝合掌 令和元年7月8日 頓首再拝>
45:伝統 :

2019/07/14 (Sun) 19:35:36


       *「真理」第9巻生活篇第6章(P155~156)より

私たちの「心」はその人の人生を極楽にもし、地獄にもする鍵であります。

そういう素晴らしい鍵を私達が持っており、その鍵の扱い方を知るまでは、
時々過って地獄の扉をひらいたりするのであります。

その鍵の正しい扱い方は、祈りによって
神の啓示をうけることによって知ることができるのであります。

私たちの心が神の方に振り向くとき、
私たちの感情、想念、意志、そして行動は正しき方向へ
調節せられることになるのであります。

混沌たる星雲のうちより
秩序整然たる天体の運行を生み出して来た大宇宙の知性が、
あなたの行動と心を導いてくださるからであります。

「神に心を振り向ける」と言っても、其の神は決して天の雲の上に居て、
私達を監視しているという神という意味ではありません。

あなたの生命(せいめい)の底にいらしゃるのです。

           <感謝合掌 令和元年7月14日 頓首再拝>
46:伝統 :

2019/07/16 (Tue) 20:19:20


         *『 生長の家 』(昭和25年427日の法語)より

   如何(いか)なる人生の体験も すべて何かの教訓を含んでいるのである。
   神は偉大なる教師であって、魂を高めるために 常に適当なる課題を
   吾々に与え給うているのである。

   出された問題そのものが問題ではないのである。
   それは試験問題の如(ごと)きものである。
   それを通過することによって 魂の力が増加し、魂が向上するのである。

   神は 魂のみを見ておられるのである。
   人間智(ち)は 魂の向上をみないで、
   現象の出来事と損得を考えがちである。

   そして不幸だとか幸福だとか判断する。

   本当の幸福とは 魂の向上することであり、
   本当の不幸とは 魂の堕落することなのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13851127.html

           <感謝合掌 令和元年7月16日 頓首再拝>
47:伝統 :

2019/07/20 (Sat) 18:47:54


         *『 生長の家 』(昭和25年5月8日の法語)より
  
   吾は神の子であり、神の子が自分の実相であり、
   そこから健康が湧(わ)いて来、インスピレーションが湧いて来、
   日常生活についての色々の導きが得られるのである。

   吾が内に宿る 「 神の子 」 が
   人生を指導する 「 生きている力 」 である。

   「 私は神の子だ。私は神の子だ 」 と
   常に間断なく心の中に宣言せよ。

   それが自分の中に宿っている神の子を
   導きだして来る もっとも良き方法である。

   凡ゆる神の祝福が神の子には
   与えられているのである。

   まず不幸を数えあげるよりも、
   幸福を数えるようにすべきである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年7月20日 頓首再拝>
48:伝統 :

2019/07/22 (Mon) 18:45:31


      *『 生長の家 』(昭和25年5月12日の法語)より

   何事か自分を傷つけるものがおこって来たならば、
   それを唯(ただ) 「 過ぎ行く姿 」であると観ぜよ。

   全(すべ)ては波動的順序をもって前進する、
   下にくぐった波は必ず上に上(のぼ)る。

   「 愛する者の死 」 があっても悲しんではならぬ。
   悲しまない模範(てほん)が見せてある。

   彼は本当には失われてはいない。
   いずれも波である。

   一層高き世界に上らんがために
   一時 姿を消したにすぎない。

   神の み手に於(お)いては
   何ものをも 未だかつて失われはしない。

   すべての悪く見えるものは すぎ行く。
   そしてよきものが顕現する過程である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>
49:伝統 :

2019/07/25 (Thu) 18:29:04


        *『 生長の家 』(昭和25年5月15日の法語)より

   《敵はないのに敵と見るな》

   何人(なんびと)かが あなたから幸福を取り去り得ると
   あなたはお考えになりますか。

   すべて不幸な境遇は、自分の外(ほか)にある物が
   自分から幸福を奪い去る力があると思う所から生ずるのである。

   然(しか)し乍(なが)らあなたの幸福は本来あなたのものであって、
   外にある何ものによっても奪われるということは
   決してあり得ないのである。

   あなたの幸福が誰から奪われるかも知れないとあなたが恐怖する。
   そしてあなたが相手を敵と認める。敵はないのに敵を認める。

   想像の敵が具体化して遂にあなたを不幸に陥れることになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年7月25日 頓首再拝>
50:伝統 :

2019/07/27 (Sat) 20:35:37


       *『 生長の家 』(昭和25年5月16日の法語)より

   この世界は神の造り給うた世界であるから
   何事も恐るべきものは真に存在することはできないのである。

   他の人が何と云おうと、何をなそうと、
   彼らが吾々自身の幸福を奪うことはできないのである。

   人間は神の子であるから、
   神の子には幸福がつきものであるのである。

   神は全能であるから
   神が神の子に与えた所の幸福を
   他(ほか)から奪うことはできないのである。

   吾は常に神とともに生き、
   神とともに働きつつあるのである。

   すべての幸福は
   自分のものであるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年7月27日 頓首再拝>

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