伝統板・第二

2473135
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伝統様、ありがとうございます。24 - 道産子

2019/01/18 (Fri) 08:38:20


 <明治天皇のご生涯を描いた新書の内容に、「大酒飲み

の風呂嫌い」という節があり、ジャーナリストの某氏が、

「(「……風呂嫌い」という箇所を読んで、)おおいに同情

した。」という感想を述べられていたことがあったが、そ

の大酒飲み、風呂嫌い(という症状)の本質的な意味は、

〈国家に対して、無限責任を負って(負わされて)いるた

め、過度の緊張を強いられて、その緊張を多量の飲酒で緩

和しなければ、自分の身がもたない、さらに、自分の身の

周りなどを構って居られなくなり、入浴等の清潔保持が疎

かになってしまう〉ということであって、ひとりの人間と
して大変な状態であるということが、想像に難くない。

前掲新書の記述の通り「己を捨てる」大変なお務めであると思われる・・・>・・・。


 興味あるご投稿ではあります!(^^)!。





 「日本国紀」より。


 脚気=江戸時代の典型的な疾患。ビタミンB₁不足から足がむくんだりしびれたりする。

 玄米より白米を食べるようになり増えた。

明治時代に入っても、死者は数千~一万数千にのぼり、結核と並んで二大亡国病とも呼ばれた。

                    (つづく)










 雅春先生の二十六日目です。


  二十六日のことば  ◇  ただひたすら心を実相に振り向けよ


 私たちが「イライラしたり精神的に疲れたり、ノイロー

ゼ気味になったりするならば、それは外界の各方面から来

る“迷いの想念”に自分の心も同調して、迷いの想念”に引きずり回されているからである。

自分の心が外界のそれらの“迷いの想念”に 同調すること

をやめ、ただひたすら実相円満の想念を起こして精神統一

に入るならば、精神的な一切の疲労もなく、ノイローゼなどは忽ち治ってしまう筈である。

あなたが神想観を実修して、実相三昧になったのち、自然

に思い浮かんでくる考えは、実相世界から催して来るとこ

ろの智慧であるから、その通り実行するとき屹度良き結果が得られるのである。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/19 (Sat) 08:02:52



 私の投稿、何時の間にか、新しくなってました(^^♪。




 「日本国紀」より。


 家継=七代将軍=三歳で将軍は歴代最年少。新井白石が政治執行も、わずか六歳で亡くなった。

 二代秀忠の血を引く徳川宗家(直系)の男子は絶えた。

御三家の紀州藩の藩主吉宗(家康の曽孫)が八代将軍となっ
た。

                    (つづく)










 雅春先生の二十七日目です。


 二十七日のことば  ◇  本当に煙のない世界へ


 本当の緊張緩和はラクにぶらぶら体をなまけさせている事によっては得られるのではないのである。

日曜日の休暇の翌日が最も疲れていて、仕事の能率が上がらないという事を往々聞くのである。

本当の緊張緩和は、実相の世界に環帰することによってのみ得られるのである。

何故なら実相世界には疲れもなければ、不要の緊張もないからである。

争闘や嫉妬や憎悪や色々の緊張のある世界にいて緊張緩和

を得ようとするのは、煙の出る火のついた煙草を振り廻して、煙を払うに似ているのである。

煙が嫌いならば、煙の出る手で煙を払うよりも、煙のない世界に往くことが必要である。

そして自分が煙を出さない事である。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/20 (Sun) 08:02:30


 福島博さんの奇蹟、読んでみましょう(^^♪。






 「日本国紀」より。


 吉宗=「享保の改革」=米の収穫高に応じて決められて

いた年貢を、一定の量に定めた定免法=幕府の収入は安定

したが、農民は不作や凶作時には厳しい状態になって、豊

作時には米の価格が下がるので、幕府にとっても農民にとっても益は少なかった。








 雅春先生の二十八日目です。


  二十八日のことば  ◇ 情熱をもって事を為せ


 何事を為すにも強烈な情熱をもってそれを為せ。情熱の

ない運動や仕事は、石炭の燃え殻のようなものであって何の魅力もないのである。

情熱のたぎる処、そこに魅力を生じ、人々を引き付けるこ

とができ、多くの協力者をつくることが出来るのである。

どんな天才でも、ひとりや、少数では大なる何事もなすことは出来ない。

多くの協力者や、同調者、共鳴者が出来てこそ大いなる事業や計画を推進することが出来るのである。

情熱ある者のみ、多くの共鳴者、同調者、協力者を引き寄せる。

                    (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/21 (Mon) 08:02:20




 今度は田中英道先生に注目しなければ…(^^♪

人間は忙しいですね(^_-)。









 「日本国紀」より。


 目安箱=吉宗が始めた、日本史上画期的なシステムである。

緊縮策で粗衣粗食(玄米と一汁三菜)=デフレを促進させた。

「天保の改革」は成功とは言い難く、元文元年(一七三六)

の改鋳(大岡忠相(越前守の忠告により金の含有量を大幅に

減らした貨幣を発行)によってはじめて成功したと言える。

                    (つづく)









 雅春先生の二十九日目です。


 二十九日のことば  ◇ あなたの内に生命の火を燃やせ


 情熱をかき立てようと思っても情熱が湧かぬという人があるかも知れない。

情熱は外から塗り着けることは出来ないのである。情熱は

何人にもあるのであって、それは内にある“生命の火”である。

“生命の火”は“神の生命”である。

“神の生命”にあなたが振り向き、宇宙普遍の“神の生命”と

自己に宿る“神の生命”とがカチカチと触れ合う様になった

ら、あなたの内に“生命の火”がとぼり、情熱がたぎるように湧いて来るのである。

それにはやっぱり神想観をたびたび実修して「神よ、われわれの使命を示し給え。

しかしてわが心に使命遂行の意情熱の火を燃やし給え」と念ずるがよいのである。

やがてあなたはインスピレーションが降って来るであろう。

あなたの進むべき道が、あなたの為すべき仕事が、あなたの使命がくだされて来るであろう。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/22 (Tue) 07:51:17



  今朝は、うちの道路に久し振りに除雪車が入りました。

いつも感謝して(早朝ですから)拝んでおります。

有難い事です(^_-)-☆。








 「日本国紀」より。


  徳川宗春(尾張藩主)=吉宗と逆に民に贅沢を奨励し、

自らも散財した。尾張藩は景気が良くなり、城下町の名古

屋は空前の繁栄を迎えた。吉宗の憎悪凄まじく吉春を隠居

させ、死ぬまで屋敷から出ることを禁じ、墓参りさえ許さ

なかった。英明で知られる吉宗も、自らの間違いを認めたくなかったのかもしれない。

                    (つづく)










 雅春先生の三十日目、最後です。


 三十日のことば  ◇  宇宙の浄化力に協力すること


 宇宙には到る処に、常に浄化の力、浄めの力、癒しの力が充ち満ちているのである。

無数の煙突から立ち上る煤煙、自動車から噴き出る排気ガ

ス、それらの中に含まれている亜硫酸ガスその他の毒性ガ

スなどが御日毎日空中に排出せられるけれども、何時の間にかそれは浄化されているのである。

その浄化の力を成るべく働きやすいように協力すれば、都

市の空気は常に清らかであり、都市を流れる河の水は清らかであり、人体に於いては健康が保たれるのである。

浄化の働きに協力するようにするには、東京では隅田川に

矢鱈にゴミを棄てぬようにすることが必要である如く

吾々は心の中に無暗にゴモクを溜めぬようにすることが必要なのである。

怒ること、憎むこと、陰気にふさぎ込むこと、心配するこ

と、持ち越し苦労や取越し苦労をすること、野卑な事を思

うことなどは自分の生命の河の流れにゴモクを無暗に棄てることになるのである。

成るべくそのようなゴモクをつくらないようにせよ。

もし過って、そのようなゴモクを心に造ったならば、毎夜

眠りにつく前に神想観して、神の正常なる霊気を呼吸し、ゴモクで汚れた心情を浄化してから眠るがよい。

                     (おわり)






Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/23 (Wed) 08:01:31



 <来るべき『 続々真理の吟唱 』 発刊に向けて・・・・・。>

 明鏡様のご悲願でしょうか。

 <合掌 ありがとうございます。>私も久しく忘れていたお言葉です!(^^)!。

これから、使わなくては…('◇')ゞ。








 「日本国紀」より。


   傑物,田沼意次=十代将軍家治の時代(宝暦十年<

一七六〇>~天明六年<一七八六>に、側用人・老中とし

て権勢を誇った旗本。吉宗の能力重視のお陰で(足軽の子から)世に出た。

 最も注目すべき政策は、商人から税を徴収したこと。現代の事業税のようなもの。

 今、あまり評価されていないが、画期的であったと思う。

 都市以外ではすぐに効果が表れるものではなく、農民は

都市に流入し、眼岩野大化や浅間やm大噴火、更に天明の飢饉などもあって、失脚した。

 現代では、賄賂政治を行なった人物として悪名高いが、

当時の噂を信じた後世の人々が作った誤ったイメージである。

                    (つづく)











   合掌、ありがとうございます<m(__)m>。

  さて、今朝よりは、輝子先生の御話です。


 昭和43年 理想世界誌12/1号

   「男女性の倒錯」  谷口輝子先生


 男性はあくまでも強く、女性はあくまでも弱いのが天性だと決定づけている人が多い。

誰の言葉だったか“女は弱いしかし母は強い”と言い古されているが、果たして、男はみな強く、女はみな弱いものであろうか。

 最近東京新聞のコラム欄に左のような記事が載っていた。

「世に男性的国家と女性的国家があるそうだ。どんな環境

にあっても弱音を吐かず、脅迫に屈せず、国民を甘やかせず――これが前者、

いつも他国の機嫌を取っておもんばかり、妥協を事とし、国民におもねる――これが後者


                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/24 (Thu) 08:11:15



 <特に生ある者のうち最も発達したる人間に於いては、

その仏性を単に内に具有するだけではなく、生(い)ける

如来として 今ここに顕現しているのが人間なのである。

 謂(い)わば人間は “ 生き如来 ” であるのである。

人間は“生き如来”であるから、決して病むことなく、老い

る事なく、金剛不壊の霊身(れいしん)であるのである。>・・・。



 明鏡様のご投稿より<m(__)m>。






 「日本国紀」より。


  寛政の改革=十一代家斉は将軍在位五十年と最も長く

 将軍職にあったが、政治を幕臣たちに任せ、大奥に入り

浸っていたことから、「俗物将軍」と渾名された。精力増

強のためオットセイの陰茎を乾燥させて粉末にしたものを飲み、陰で「膃肭臍将軍」とも呼ばれていた。

 家斉の代わりに老中として政務を行なったのが陸奥白川藩の松平定信(吉宗の孫)である。

彼は意次の政策を憎み、祖父の、米と農業の政治で様々な改革を行った。

理想主義で潔癖症の彼は、現実と乖離して、家斉との対立

もあって、寛政五年(一七九三)失脚し、改革は六年ほどで終わった。

「白河の 清きに魚も すみかねて もとの濁りの 田沼

こひしき」(太田南畝)という有名な歌や、やはり定信を皮

肉った「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ

(文武)といふて 夜もねられず」も彼の歌といわれている。

                    (つづく)











 輝子先生の御話です。



   ▼その良し悪しは別として、ドゴールのフランスや毛沢東の中共は男性的国家といえる。

これに反し、戦後のわが国などはどうも女性的国家の代表ではなかろうか。

一国の未来をはからんとせばその国の青年を見よ、という

が、今日の青年が如何に女性化したかという一例――

▼ここに紹介するのは、戦前、戦中、戦後を通じて、たく

さんの青年達の脈を見て来た三浦隆蔵さんという医師の話である。

戦前は小さな子供でも注射されて泣きそうになると、母親

が「お前は男の子だろう」男の子なら泣くものではない」といい、子供は子供なりに歯を食いしばってがまんした。

▼近ごろは注射器を見て子供が泣き出すと、母親が「あ

あ、よしよし、先生がお前をいじめたかい。悪い先生だね、お母さんが叱ってやるよ。メッツ」などと言う。

子供ばかりかヒゲづらの大学生にまで母親がついて来る。

「どうしましたか」と尋ねると、病人は母親の顔を見る。

▼すると待ってましたとばかり、母親が代わって容態を述

べ立てる。通訳を通して外人と話しているような気分になる。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/25 (Fri) 07:52:14




  <お礼状を書くと、1「元から歩ける力があるのです。」
2「神の子だからです。」
3「谷口雅春先生のおかげです。」
4「報恩感謝で生きるだけでいいです。」と4つのご指導を下さいました。>・・・。

 宇治学舎様のご投稿より<m(__)m>。


 伝統様、大聖師の御言葉ご転載有難うございます。

本当に、嬉しい限りです。








 「日本国紀」より。


 太田南畝=当時としては長寿の七十四歳まで生きたが、道で転倒したことがもとで死んだ。

 辞世は「今までは 人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」と、人を食ったものだった。

                
                    (つづく)









 輝子先生の御話続きです。


 注射でもすると、大声を上げて痛がる。あわててもんで

やるのが母親の役目になった。中には「痛いよう」と泣き出す若者もいてびっくりする。

昔なら軍服着て戦地におもむく年ごろである。

▼そこでフト頭をかすめるのが軍隊時代の“ゲンコツ麻酔“のこと。

軍医として兵隊の手術をするとき下士官が“ゲンコツ麻

酔“にしませんかといった。患者が痛がって悲鳴をあげたら、わきから下士官がゲンコツでぶんなぐる。

やりきれないから兵隊はがまんする。

▼むろんむちゃな行為だが、それは当時の若者が受けねば

ならぬ宿命だった。対して痛くもない注射に騒ぐ今の若者

は、果たして男であるのか女であるのか。“昭和元禄”が生んだ変種なのかもしれない。

                    (つづく)

 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/26 (Sat) 08:26:44




 志恩様って、なぜか、「学ぶ会」がお好きではないようですね('◇')ゞ。









 「日本国紀」より


「辞世」の句=私も死ぬ時に、何か一つ拙い歌を詠んでみたいと思う。

 式亭三馬

「善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵わらはず 閻魔叱らず」

 十返舎一九

「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙と共に 灰左様なら」

  彼は「遺体を洗わずに火葬にしてくれ」と遺言し、火

葬にしたところ、着物の間に仕込んでいた花火が炸裂して、参列者を驚かせた。

                    (つづく)











 輝子先生の御話です。


 この記事を読んで、私は世はさまざまだと思った。

昔の母親はきびしい人ばかりで、今の母親は甘い人ばかり

とは一概に言えない事だが、しかし、昔は父親にも母親にも権威のある人が多かった。

 私は自分の娘の肉体に、かすかな傷痕一つ残さないで育て上げたことに、一種の安心を持っていた。

恵美子が五歳の時、柳のかわぶちにぼんやり立っていた

ら、近所の紅ちゃんという三歳になる女児が、いたずらで

恵美子の背中を突いたところ、躰の軽い恵美子はふわりと川へ落ちてしまった。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/27 (Sun) 08:16:37


   <わたしは「自国の赤ちゃん」を殺しながら

※(1)「労働力不足」をいい、そのことを顧みず(顧みな

いと言うことは認めると言うことです)、外国の人々に労

働力を求めるというのは、重大な問題であり、今後、「国家存亡の危機」ともいえる重大な問題を生みます。・・・>

 宇治学舎様のご投稿より<m(__)m>。

大熊先生のお話しでしょうか。







 「日本国紀」より。


 「元禄文化」=上方に端を発し、「化政文化」(一八〇四~

一八三〇)は江戸で太平の世に享楽的ともいえる文化を花

開かせた。浮世絵は多色刷りの豪華絢爛なものとなり、滑稽本なども全盛期となり、歌舞伎も隆盛を極めた。

しかし、世界は凄まじい勢いで近代化して、アメリカ独立、フランス革命、ナポレオンの台頭など激動した。

寛永年間にはロシア、イギリス、アメリカ船が来航して通商を求めたが、幕府はいずれも拒否した。

家光が「鎖国令」を出したころは、ヨーロッパの国々も手

を出せない国力があったが、百五十年の時間がそれを変化させた。
                    
                    (つづく)










 輝子先生の御話です。


 人の知らせで私は駆けつけて行って、川の中から娘を拾い上げた。

紅ちゃんは子供を川に落とす事が面白かったらしく、その

後もう一度恵美子は突き落とされたが、洋服が濡れただけで、かすり傷一つ付かなかった。

それから間もなく芳子ちゃんという五歳の子供が川に落ち

たが、可哀想に芳子ちゃんは川底にあったビール瓶のかけらで傷ついて額を十二針縫う騒ぎとなった。

芳子ちゃんを可哀想だと言いながら、わが子の無事だったことに深い感謝を捧げたことであった。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/28 (Mon) 07:52:00



 明治45年『尋常小學唱歌』第三學年用
作詞者、作曲者不詳

燈火(ともしび)やちかく衣(きぬ)縫ふ母は
春の遊(あそび)の楽しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞへて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪。

囲炉裏のはたに繩なふ父は
過ぎしいくさの手柄を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾けこぶしを握る。
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪。

 立葵様のご投稿より<m(__)m>。

 私は♪里の秋も好きなんです。

♪ああ とうさんのあのえがお 栗の実たべてはおもいだす~、

ここで、いつもウルっときます('◇')ゞ。









 「日本国紀」より。


 シーボルト事件=シーボルトはオランダのスパイだったという説は?である。

 「日本地図」を持ち帰ろうとしたのも、好奇心旺盛な学者ゆえだったのでは。

哺乳動物標本二百点、鳥類標本九百点、魚類標本七百五十

点、爬虫類標本百七十点、無脊椎動物五千点以上、植物二

千種、植物標本一万二千点他、文学的・民俗学的コレクション五千点以上を持ち帰っている。

                    (つづく)









 輝子先生の御話です。


 それより以前、恵美子は数え年三歳の時、住吉の梅の木

の家の玄関から、台所で炊事中の私の後姿を見て立っていたが、ふと足を踏み外して土間に落ちた。

落ち方も悪くて、左の手を突いたらしく左の腕が内出血し

て、紫色に腫れ上がり、痛い痛いと言い出したので、私は近所の人に尋ねて柔道の先生の宅へ出かけて行った。

寒い頃だったらしく、私は恵美子をしごきでおんぶして、

その上からネンネコを羽織って、海辺のその先生の家を探して行った。

その家の主人は柔道の先生であったが、家業としては牛乳を売り、ヨーグルトも製造しているのであった。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/29 (Tue) 08:10:38




 だけど、考えますに、現教団に残る方と、本流の人が将来うまく一緒に光明化運動をしていけるのか,甚だ疑問に思えるのです!(^^)!

困ったことですが、光明は常にあるものですから、心配はして居りませんけど…(^_-)。








 「日本国紀」より。


 蛮社の獄=蘭学者たちの学ぶ(蛮社)を言論弾圧した。
 
渡辺崋山や高野長英(シーボルトの弟子でもあった)といった素晴らしい学者が切腹したり、殺されたりした。

                     (つづく)










 輝子先生の御話です。


 いかにも武道の先生らしく、堂々とした体格の人だったが、話していると優しい表情をされるのであった。

三歳の恵美子の、きゃしゃな左腕をまくって、クリームの

ようなものを塗ってから、その先生は恵美子の、痛い腕をつかんで逆にすり上げるのであった。

恵美子の可愛い、小さな唇がゆがんだ。私は、

「恵美子はお悧巧さんだから泣かないわね、我慢するわね」

と言うと三歳の幼児は出かけた声を抑えて、うんうんときばっていた。

先生が繰り返しもみ上げられると、三歳の幼児は、あっと

出そうな声を、またしても呑み込んで、うーんと言うだけ

であった。いじらしくて、見ている母の方が涙が出そうであった。

                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/30 (Wed) 08:18:32



  <破邪顕正さんにダメ出し。

どうして【なるほど、それはそれで皆さんはいいでしょう。】な訳?

全然、「生長の家」に拘っているように思えない。

「看板だけ生長の家」に拘っているというのならわかるけど。

【すなわち真理の“行動化”または “生活化”が 必要なのである。】

という文章を掲載したのには重大な意義があります。

“行動化”または“生活化”がないから、
真理の勉強をしているとか、尊師の教えを護っているとか
錯覚しているのです。

本物ではないです。

  真理の勉強をしているというのなら、

尊師の教えを護っているというのなら、

「これが生長の家だ」を見せてください。・・・>・・・。


 志恩様のご主張、もう一つ難解です('◇')ゞ。








 「日本国紀」より。


 伊能忠敬=前述の「日本地図」の制作者。

 農民であり、商人だったが、五十歳で江戸に出て、天文学の高橋至時に師事し、天文学などを学んだ。

寛政十二年(一八〇〇)蝦夷地測量を十七年もかけて、地図を完成させた。海防、国防の上で大きな功績になった。

私は忠敬が作った地図を前にすると唖然とする。まさに超人的な、気の遠くなるような大仕事である。

彼のような人物を知ると当時の日本人の底知れぬパワーに、今さらながら畏敬の念を抱かずにはいられない。

異国船を前に幕府が右往左往している時にも、こうした民間人が日本を支えていたのである。

                    (つづく)









 輝子先生の御話です。


「恵美ちゃんは強いね。偉いね。いい子ちゃんだね」と私が讃めると、先生も、

「これは痛いもんですが、よくがまんしますね。先生感心した」

とにこにこして言われた。何か薬で湿布して包帯してもら

い、次の間で“帯かけおんぶ”をしていると、次に診察室に

入って行った七歳ぐらいの男の子が、わあわあ泣き喚く声が聞こえて来た。

その子の母親が叱ったり、なだめたりしている声も聞こえて来る。

泣き叫ぶ男の子の声をあとにして、帰路についた私は、背中の子供をくり返し讃めていた。

鶏の好きな恵美子のために、鶏のいる家の前まで行って、背中の子に鳥小屋をのぞかせてやった。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/01/31 (Thu) 07:55:19




 <先に・・100人中5人。5%と言いましたが、それでも

「子を殺せない」と愛に目覚めて人生をかけて、貴い命を

育てているご婦人もいます。皆がそのような愛に目覚める

ことができたらば、レイプ魔などという、先祖や親を、い

のちを汚す犯罪など無くなるでしょうに・・。犯罪者やい

じめでさえもなくなるでしょうに。・・・>。


 大熊先生のご立派なご教示です(*^_^*)。











 「日本国紀」より。


 黒船来航=幕府は五十年以上、なにもしなかった。その理由は「言霊主義」にあると見る。

 日本人は昔から言葉に霊が宿ると考え、「あってはなら

ない事」や「起こって欲しくない事」は「縁起が悪い!」と忌み嫌われていた。

大東亜戦争でも「失敗するかもしれない」「敗れた場合」ということを口にする事は許されなかった。

そのために多くの無謀な作戦がとられ、夥しい兵士が飢えで苦しんだ。

昭和二十年(一九四五)、「ソ連軍による満州侵攻」時も

何の対策も取らず、満蒙開拓団の民間人から夥しい死者を出し、関東軍兵士六十万人近くがシベリアに送られた。

現代に於いても、世界の多くの国の憲法に書かれている「緊急事態条項」が日本にはない。

国会でも「最悪の事態が起こるかも知れない」という想定の議論が避けられるからである。

大規模な原発事故に備えてロボットを導入しようという意

見が、「想定は許されない」という考えから議論以前につぶされていた事例がある。

                    (つづく)








 輝子先生の御話です。


「コッコちゃん、コッコちゃん」

と背中の子は足をバタバタさせて喜んでいた。

翌朝も次の朝も、私は子供を背負って海辺の家に通った。あの男の子もいつも出逢った。

先生は、来るたびになく男の子を見て、にがり切った顔を

して治療して居られた。その男の子が居ても居なくても、

先生は恵美子に向かって「お嬢ちゃんは賢いから御褒美をあげよう」

と言って、ヨーグルトを一瓶持って来られた。恵美子は、今までの痛さも忘れて喜んでサジですくっていた。

内出血の紫色が日に日にうすくなって行き、遂いにその跡

形もなく綺麗な腕になった時、その先生と名残惜しくもお別れした。

その四十年前の追憶をすると先生のお名前も記憶を失って

いるが、数え年三歳の女児が、泣き声を立てないで、口を固く閉じてうーんと言っていたことは忘れられない。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/01 (Fri) 08:22:44



 <昭和天皇は、昭和五十二年八月二三日、那須御用邸

で、宮内庁記者団に対して、「(『昭和二十一年元旦の詔

書』の)第一の目的は御誓文でした。神格とかは第二の問題

でありました。当時アメリカその他の勢力が強かったの

で、國民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用

されたのは、明治天皇の思召しであり、それが『五箇条の

御誓文』です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義

が輸入のものではない事を示す必要があった」と仰せになられた。・・・>。


 四宮正貴先生のご主張より<m(__)m>。

新天皇にも、切に期待いたしております。



 仙厓さんの2月カレンダーより。

惚れ惚れする様な書です(^^♪。

「生死事大無常迅速」=生死は一大事、無常は迅速だ、そのままの解釈で良さそうです!(^^)!。







 「日本国紀」より。


  「天皇」の存在=江戸時代には全く登場しなかった

「天皇」だが、祭祀を司るだけの存在ではなかった。

 「夷狄」が現れ、未曽有の危機を迎えた時、江戸幕府や

多くの日本人があらためて「天皇」の偉大さを知ることになる。

「天皇」こそ、日本人の精神的な柱であった。維新の動乱はまさに天皇をめぐって動いて行く。

ペリー来航の十日後、将軍家慶が死んで、二十九歳の家定が十三代を継いだ。

家慶は十四男十三女をもうけたが、成人まで生き残ったのは家定のみであった。

家定は病弱で、家慶は徳川斉昭(海防参与)と阿部正弘(老中)に政治を任せた。

阿部は、何がベストでいいかわからなかったので、旗本、御家人、町人までにアイデアを求めた。

(画期的。討幕運動は全国の下級武士によって行われた

が、このことがきっかけになったと言われている。即ち

「自分たちも天下の政道に口を出してもいいのだ)という空気が生まれた。)

七百二十九通のうちに、三十歳の勝義邦の意見もあった。

「国を守るには軍艦が必要。それを操海軍士官と水兵の養成=海軍」。

後に勝は長崎海軍伝習所に派遣され、出世の糸口を掴んだ。

ペリーが兵隊を乗せた小舟を下ろし、江戸湾の水深を測る

という行動に出た時、川越藩兵が阻止しようとしたが、幕府はそれを止めたことは腰抜けとかいいようがない。

現代日本に起きている、尖閣諸島の沖で中国船の跋扈を看過している状況と似ている。

                    (つづく)









 輝子先生の御話です。


 私は女なら泣くのも当然だけれど、男は泣いてはいけないとなんてことはないと思う。

男も女も、泣きたいだけ泣いたらよい時もあるが、人様にうるさがれたり、迷惑をかけて泣いてはいけないと思う。

 今日の本部に於ける”実相研鑽会”で、磯村講師が話して

居られたことの中に、日本一の立派な自動車教習所

として数多くの従業員の待遇を良くすることに努め、病気

で休んでいる者には、毎日慰問の手紙を出したりして、み

んなを可愛がることに専心していたが、そこに何か隙間が

あったらしく、共産党の赤化工作に乗じられて、会社はつぶされてしまいました。

 恰度、子供を甘やかして我儘者にしてしまったようなも

ので、やっぱり厳しくすべき路は厳しく引き締めなければ

ならないと反省したと言って居られたが従業員でも子供でも同じことである。

 愛することは良い事に違いないが、余りに過剰な執着の愛情は、決して相手を正しく生かさない事になる。

近ごろの流行語の一つに”教育ママ”があるかと思うと、そ

れがもっとすごくなって“ママゴジラ”とか“ママゴン”と

か”関白ママ”などという強い母親のアダ名が創られている

そうであるが、女の強さも度を越すと、家族は決して幸福ではあり得ない。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/02 (Sat) 08:00:35




 「生命の実相を10回、20回、10年20年も、魂を込めて読み込まなければ」

 宇治学舎様のお考えです。正論です(^^♪。








 「日本国紀」より。


 開国=幕末に於ける幕閣の政治レベルと国際感覚の低さだけは悔しいながらも認めざるを得ない。

世界情勢に背を向けて、ひたすら一国平和主義を唱え、そ

こに日本人特有の「言霊主義」が混ざり合った結果、この

ような無様な事態になってしまったのだ。(不平等条約など)

                   (つづく)








 輝子先生の御話です。


 昔から亭主関白とかワンマン亭主とか言われて老いた頃

は、フーテン族はいなかったし、サイケという妖怪のような少年少女も居なかった。

教育ママが子供を過保護にするために、男の子すら意気地

ない女性化した人間に育ててしまうし、”関白ママ”は夫で

あるパパを甲斐性なしと軽蔑し、子供をして父親を尊敬し

ないような家風にする為に、夫はいよいよ後退し委縮して、家運が繁栄しなくなってしまうばかりである。


                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/03 (Sun) 07:57:20


 久し振りに掲示板をみましたら、蒼穹様がまともに(^^♪ご主張されております。ご健在です。







 「日本国紀」より。


 蒼穹様もこのように言っておられます。

 <百田尚樹氏の『日本国紀』は素晴らしい本、この内容を

読むと、青年時代谷口雅春先生の各地の大講演会での歴史

講話で話された事とほぼ同じ内容である、谷口雅春先生は

早くから、戦後情勢について全て熟知されていた。この

『日本国紀』を読んでいると谷口雅春先生のお話を思い出

し、谷口雅春先生の霊界からのお導きの力を感ずるのであ

る。未だ読んでいない方は是非『日本国紀』をお読み下さい。>・・・。



 北方四島の帰属=安政二年(一八五五)、ロシアと日露和親条約を締結、北方四島は日本の領土となった。

 ある美談が残されている。

ロシアの提督プチャーチンが下田に現れた折、安静大地震が起きた。

下田の町は津波で壊滅状態に、ロシアの黒船も壊れた。こ

の時下田の町民とロシアの乗組員は協力して被災者救助に

あたり、日本側がロシアに新しい船を造って寄贈しようという事になった。

伊豆の代官、江川太郎左衛門が幕府にかけあい、ロシアの

乗組員らとも協力して、日本史上初の西洋式帆船を完成させた。

この後におこなわれた交渉で北方四島は日本の領土と定められた。

それから百六十年後の平成二十八年(二〇一六)、プーチ

ン大統領に安倍晋三首相から一枚の絵が贈られた。

それは前述の帆船「ヘダ号=造船された戸田村から命名」」の絵だった。メッセージを込めたギフトである。

                     (つづく)








 輝子先生の御話です。


 昔から亭主関白とかワンマン亭主とか言われていた頃

は、フーテン族はいなかったし、サイケという妖怪のような少年少女も居なかった。

教育ママが子供を過保護にするために、男の子すら意気地

ない女性化した人間に育ててしまうし、”関白ママ”は夫で

あるパパを甲斐性なしと軽蔑し、子供をして父親を尊敬し

ないような家風にする為に、夫はいよいよ後退し委縮して、家運が繁栄しなくなってしまうばかりである。

 この間街を歩いていたら、向こうから赤いスェーターを

着た若い男女がやって来た。だんだん近づいて来たのを見

ると後髪を長くしているのが男であり、後髪をカットしているのが女であった。

こんな二人が結婚したら、女は関白ママになり、男は注射

をしたら、大声で泣くへなちょこ亭主になるかしらと思った。

                     (つづく)

 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/04 (Mon) 07:58:04

    


  <先々代の教えと教育が「厳しすぎて」魂の幼い

「雅宣総裁」が耐えれずに、魂の反逆を演じているとも言えるのでは無い でしょうか?

 GENRYU様のご投稿より<m(__)m>。






 「日本国紀」より。


 安政の大獄=当時井伊直弼は反対派を次々処罰した。

刑死した者八人、遠島や追放は七十人以上にのぼった。

この時、吉田松陰も処刑されている。

                    (つづく)








 輝子先生の御話、今回の最後です。


 ”昭和元禄”の生んだ変種なのかも知れないという人があ

るが、昔の元禄時代は、男も女も優美なお洒落をしていた

が、女の優美な姿はいつの世にも自然で好ましいが、男が

やわらかい縮緬の着物の裾を引きずるように着ている恰好は、女性化しているようで、男性が崩れたようである。

だから、元禄時代の徳川綱吉将軍の政治は、国民を幸せにはしなかった。

 今やわが国日本は、或る政治家が名付けたように、物質

的には豊富な生活が出来るからとて”昭和元禄”と言うにふ

さわしいかもしれないが、精神的には貧しくて、ヒューマ

ニズムも低下して来て、建築物は立派になったが、中に住

む人たちは心貧しくて不幸な人が多い。“元禄”と言う言葉は有難くない名称だと私は言いたい。

光明思想の青年が増えてこそ、国民は幸せになれると思う。

女も、優しい中に強さを持つ事が立派だと思う。

                                              (おわり)




Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/05 (Tue) 08:04:04




 <「寒中見舞い」は昨日までで、
今日から今月末ごろまでは「余寒見舞い」となります。>

<立春の朝、禅寺の門前や家の玄関に張られる「立春大吉」

の紙のお札は縦書きすると左右対称になり、新しい1年を

災難に遭わず無事に過ごせるようにとの願いが込められた

おまじないだそうです。>

<暦の上では春到来ですが、2月は

着物の上にさらに重ねて着るという意の「衣更着(きさら

ぎ:如月)」と呼ばれますように、まだまだ寒風の厳しい

時期です。>

<奈良時代に編纂された最古の歌集「万葉集」で

は、桜の歌よりも梅の歌が圧倒的に多く詠まれており、

梅は文を好むという意で「好文木(こうぶんぼく)」とも呼ばれます。

百花に先駆けて咲くことから「初名草」とも呼ばれ、

他にもたくさんの異称を持つ梅ですが、「春告草」というのもその一つです。>


<【梅の花の神示】 (昭和八年一月六日神示)には、

次のように示されております、(神示より抜粋)

          
  梅の花とは、《生みの花》 ―― 創造(うみ)の始動(はな)のことである。

   『生みの花』はまた『海の原』のことである。

   『梅の花』の五瓣は五大洋に象(かた)どる。

   五大洋にスメラミコトの花が開く始まりが今年である。 

   一つ開く毎にポンと音がさせてあるのは何の象徴であるか考へれば判るであらう。
 
 何事もなしにはスメラミコトの花は開かぬのである。
 
   一つ一つ開く毎にポンポンと音を立ててつひに五大洋に梅の花がひろがるのである。
 
   開くまでには嚴寒の冷たい日が續くが、

 嚴寒の冷たい日があるので一陽來復の日が來るのである。 

   無明(まよい)の自壞作用がないのに光明遍萬の樂土が來るなどと甘いことを思ふな。>・・・。



 伝統様の「己亥(つちのとい、きがい) の春」より<m(__)m>。

 それにしても、伝統様のパワーには脱帽です('◇')ゞ。

 讃春歌は雅春先生の作詞なのでしょうか?









 「日本国紀」より。


  桜田門外の変=私は井伊直弼の開国の決断自体は正しかったと考えている。

 徳川斉昭や孝明天皇のような攘夷論は話にならないし、

頑迷に開国を拒否し続けていたら、日本を武力で侵略する列強が出てきた可能性もある。

 ただし「安政の大獄」はやり過ぎだった。水戸藩前藩主斉昭と藩主義篤の処罰は藩士を激怒させた。

脱藩した藩士十七人と薩摩藩士一人が、彦根藩邸から江戸に向かう井伊の行列を襲撃した。

護衛の彦根藩士は六十人いたとされるが、当日は季節外れ

の雪で、刀の柄に袋をかぶせていたので、抜刀するに手間

取ったこともあるが、首を取られたが、少なくない藩士が逃走したとも伝えられている。

                     (つづく)











 今朝からは、清超先生の御話です。



    人間の尊厳とは   谷口清超先生

       昭和43年 理想世界誌 11/1号


          人間の力


 人間の力と言うものは、外面的なもので評価することは出来ません。

肉体としての人間の力は、その代償や携帯で左右されるか

も知れませんが、本当の人間の力は、肉体力ではなくて人

格の力であり、魂の力でありますから、数量では決して規定されるものではないのであります。

よく民主主義の政治は多数決の政治であると言われるの

で、とかく一人の人間の力が寡少に評価され勝となるので

すが、実はいかなる時代に於いても、一人の人間の真の力

は、単なる「多数の中の一人」と言ったような、局限されたものではなかったのです。

 この点がはっきり理解されていないと、いくら口先で

「神の子人間」と言っても、その真意がくらまされてしまいます。

巨大な宇宙の中での、たった一つのちっぽけな“神の子”な

どという、まことにも奇妙な、矛盾に満ちた概念に悩まされ続けるでしょう。

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/06 (Wed) 08:03:22




https://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8&feature=youtu.be

優子様のご投稿より<m(__)m>。

 絶対無、未発の中、ムズカシイ~(*^_^*)。

雅春先生、輝子先生の御様子が尊く感じられます。


 源流様、輝子先生の毅然たる御文章のご転載有難うございます。







 「日本国紀」より。


 松平容保=桜田門外の変以降、テロの嵐が吹き荒れた。

二十六歳の若き会津藩主は頑迷な佐幕派ではなく、テロリ

ストを弾圧するのでなく、その主張を聞く耳を持ってい

た。「国事に関することならば内外大小を問わず申し出

よ。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を発令

し、幕府にも建議した。然し一橋慶喜は受けつけなかった。

やむなく容保は配下に新撰組や京都見廻り組を組織し、テロリストを取り締まった。

このことが後に長州藩の恨みを買い、会津の悲劇につながる。

                   (つづく)









 清超先生の御話です。


 ところで最近ブラジルへ行って活躍している徳久日出一

君(徳久克己本部理事の息子さん)から、第十四回全ブラ

ジル青年大会で行なわれた雄弁大会の日本語部の第一位に

なった八尋祐一君の発表文が届いたので、次に紹介してみようと思います――。


  ブラジルの一青年の体験 <真の平和を築くもの>


『青年が変われば世界が変わる。およそ、その国を知るた

めには、その国の青年を見よ、と言われており、社会を改革するのも国の運命を決するのも青年であります。
 
 青年が堕落する時、国は乱れ、青年が真に神の子を自覚

するとき国は発展する。新しき時代をつくるのも、それは理想たかき青年である、といわれております。

 現在私は人類光明化運動の霊の選士として、生長の家青

年会に席をおいておりますが、今から二年前、当時十四歳

でありましたが、強い劣等感のために、何をやってもうまくできなかったのであります。

 人間は何のために生まれて来たのだろうか。自分のよう

な人間でも世の中のためになるのだろうか。自分は何もできない、つまらない者だと思いこんでいました。

 父も母も、僕の気持はわかってくれない、と思っていま

したから、学校に行っても勉強がおもしろくなく、成績も中位以下という状態でした。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/07 (Thu) 08:09:03




 神想観は腹の底からの響きがなければね!(^^)!。







 「日本国紀」より。


  遺米使節団=安政七年(一八六〇)一月、日米修好通商条約批准のため、日本人として初のアメリカを訪問した。

 総勢百七十三人。そのなかの一人、小栗忠正(目付)はアメリカ人たちを驚愕させた。

造幣局で小判とドル金貨のそれぞれの金含有量を測ってみせる。

彼らはまず小栗が使った天秤の精密さに驚き、算盤による計算の速さと正確さに舌を巻いた。

一方、咸臨丸の一行もアメリカ人に感銘を与えていた。

私が好きなのは木村喜毅総督のパフォーマンスである。

サンフランシスコの上流階級の夫人たちが、幕府の軍艦の

女人禁制ゆえに断られ、さらばというので男装してまんま

と見学し終り、船を降りようとした時、木村がお土産として紙包みを渡した。

彼女らは船を降りて、紙包みを開けてみると、そこには美しい簪(かんざし)が入っていた。

夫人たちが感激したのは言うまでもないが、市民も喝采を送った。

                    (つづく)








 清超先生の御話です。


 一九六六年の一月、私は父母に勧められ、イビウーナで

行なわれた青年練成会に参加し、五百名の青年達と一緒に練成を受けたのであります。

その時、「人間は神の子である。君たちのいのちは、宇宙

をつくった神のいのちが、父母を通して現われた神の子

だ。そして日本人の子供には、このブラジル発展のために

働く偉大なる使命があるのだ」と教えられましたが、私は

余り感激もしませんでした。しかし、最後の閉会式で「君

が代」を歌っている時、何とも言えない感激がこみ上げてきて、日本人の子供と生まれた喜びを感じました。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/08 (Fri) 07:56:15


 最強の寒波、だそうですが、今朝はさほどでもなかったようでしたが(^^♪。

昔は(^_-)就寝中、顔が冷え冷えしていたのを覚えてます。

温暖化なのかな? 小氷河期?に向かっているのかな!(^^)!







 「日本国紀」より。


 中浜万次郎=幕末史に於いて避けて通れない重要な人物だと思う。

寺子屋にも通えず、読み書きも出来なかったが、十四歳の

時漁船が絶海の無人島(鳥島)に漂着、アメリカの捕鯨船に

助けられ、船長の養子となり、十七歳の時バーレットアカデミーで数学、航海術などを学び、首席で卒業した。

普通なら十年はかかるという一等航海士に三年でなった。

二十三歳の時、日本に帰ろうと、金鉱で金を採鉱し、その

資金で、途中、ハワイで別れた漁師仲間と再会して
船に乗せた。

 寛永四年(一八五一)、琉球に上陸、薩摩藩(藩主島津斉

彬)は英語教師として厚遇、和洋折衷の越通(おっと)船

を建造した。後、土佐に戻り、十一年ぶりに母と再会を果たす。

後、色々の役職に就くが、彼の高い能力に見合うポストは

なく、明治政府が与えたのは東京大学の英語教授

だった。重用しない理由として、漢文など日本語の文章力に乏しいからというものだった。

明治三年ヨーロッパに派遣された帰り、アメリカで恩人ホイットフィールド船長と再会した。

万次郎の故郷土佐清水市と、ホイットフィールド家のマサ

チューセッツ州・フェアヘイブン市は姉妹都市になっている。

                    (つづく)








 清超先生の御話です。


 日本人! 神のいのち! 神の子無限力! そうだ、

ぼくは神の子だったのだ! どんなことでもやればでき

る! よし今日からは生長の家を勉強して、人間神の子の実力を出して世の中のためになる人間になろう。

私が日系人として生きているという事は私でなければ果たされない使命があるのだ。

私が神の子を生きれば父母はよろこび、また学校で神の子

を生きれば、クラス全体が明るくなり、そして学校全体

が、平和ななごやかな雰囲気に満たされる、ということがわかったのです。

 この練成会により、明るく生まれ変わった私は、固い決意をして家に帰り、青年会に入会しました。

毎週土曜日の夜、青年会に行き、真剣に神想観をしている

うちに、いつも消極的な私は、何事にも積極的に行動でき

るようになり、学校の成績もよくなり、三位で進級することが出来たのであります。

                     (つづく)

                    

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/09 (Sat) 08:49:05




 最強の寒波、一日中マイナス10℃以下の冷凍庫の中、北海道は凄いですね!(^^)!。

モスクワは?と思ったら、なんと、マイナス6℃ですって
!(^^)!。暖冬ですか?

 昔、就寝中、顔が冷たかった、のは、今やセントラルヒーテイングお蔭があるかも知れません(^_-)。
一晩中18℃くらいは保ってますから。

ボイラーに感謝、感謝の毎日です(^_-)-☆。








 「日本国紀」より。


 高杉晋作=(松下村塾の門下生)=長州藩はイギリスの要求を強硬な故に呑まされたが、彦島租借は拒否した。

 この時脱藩の罪で謹慎処分だったが、赦免され、イギリスとの講和を任された。

彼は日本の領土を渡せば、第二の香港になると考え、断固拒否した。

二十四歳の高杉を「魔王のようだった」と交渉相手は言った。

                    (つづく)









 清超先生の御話です。


 或る日、私たちの中学校に新しい先生が来ることになり

ました。ところが、ここに、大変なさわぎが起こったのです。

何人かの生徒がその先生の悪いうわさを聞いて、反対の署名運動を始めたのです。

学校の規定では、クラス全員の署名があると、先生は就任できないようになっていました。

私たちの組は三十九名でしたが、三十八名が署名をして、最後に私の番がきたのです。

                    (つづく) 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/10 (Sun) 08:26:07



 「江戸川 意味がわか乱歩」スゴイね、若者は(^^♪。

 志恩様のご投稿より<m(__)m>。

 今朝、久しぶりに「幸福への出発」聴きました。

総裁夫妻の名前しか聞こえてきませんでした(^-^;。











 「日本国紀」より。


  佐賀藩主・鍋島直正=文政十三年(一八三〇)十五歳で

藩主となる。産業振興、農村復興他、反射炉(銑鉄を溶か

して鋳型を作る施設)を造り、最新式のアームストロング砲を完成させた。

 寛永五年(一八五二)=黒船来航の前年には精錬方を設置し

て火薬・弾丸・ガラス・石炭・せっけん・写真機などをつ

くった。文化五年(一八〇八)のフエートン号で味わった屈辱がもととなった。

 慶応元年(一八六五)ついに日本で初の実用蒸気汽船

「凌風丸」を完成させた。本と図面だけで、作り上げたことは驚異的な偉業である。

西洋の蒸気機関は同じ頃のアジアやアフリカの諸国民も見ているが、これを作り上げた国などどこにもない。

また、天然痘ワクチンの普及に貢献した。嘉永二年(一八

四九)オランダ商館から入手した牛痘ワクチンを、当時四歳だった長男に接種した。その勇気に感動する。

                    (つづく)







 清超先生の御話です。


 もし私が署名をしたら、その先生は一回も授業をせずにやめなければならない。

学友たちは、大勢で私を取り巻いて、「早く署名をせよ」とせまります。

その時です。突然、”みんな神の子だ、先生も生徒も神の

子だから素晴しいんだ“と言う生長の家の真理の言葉が甦ってきたのです。

「私はみんなの意見に賛成できません。だから署名もしません」と断乎として叫んだのであります。

 私を取り巻く学友たちは、血相をかえ、「なぜ、君一人

だけが反対するんだ」といって、リーダー格の一人が迫ってきました。

 私は意外に落ち着いて積極的に説得を始めました。

「君たちは悪い先生だと言うが、まだ一度も教えてもらわ

ないで、どうして悪い事がわかるのか、一回授業を受けて

からでも遅くはない筈だ、先生も神の子だから、ぼくたち

がまじめにやればきっと良い先生だよ」と自信をもって言うことが出来ました。

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/11 (Mon) 08:11:44



 <[8155] 紀元節を寿ぎて、おめでとうございます。
蒼穹 - 2019年02月10日 (日) 22時46分

戦後GHQの指令により廃止された、2月11日の紀元節は長い間空白の日だった。

その事に谷口雅春先生は生長の家信徒を始め愛国各団体に働きかけられ紀元節復活の全国運動を呼びかけられた。

特に生長の家青年会が中心に各地で日の丸行進などを行い町々の人に紀元節復活を訴えのだった。

その活動が広まり遂に昭和40年建国記念の日として2月11日が
国会で決議されたのであります。

これも谷口雅春先生のご指導あってのものでありました。>。・・・。


<「皇紀2679年」 - 伝統
2019/02/11 (Mon) 04:46:17

今日(2月11日)は、わが日本国の誕生日(紀元節)。

この機会に、悠久の時の流れの中で、天照大御神が神勅でお示しになった国家の
この地上への誕生をお祝いいたしましょう。


建国記念の日 奉祝記念行事
  → http://kenkoku.web.fc2.com/

・・・

日本の建国・肇国と東道(みちびき)の神「塩椎神」

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月11日)」より

今日(2月11日)は
神武天皇が大和(やまと)に遷都せられた記念すべき慶ばしい日である。

”みすまる”の魂が高千穂の高御座(たかみくら)に天降りして
弥数多(いやあまた)の国を大和(だいわ)する八紘一宇(Universal brotherhood)
の精神が形にまで顕れて、
大和国(やまとのくに)に都(みやこ)することになったのである。

それはおよそ二千六百年前であるという。

日本の国は領土という土塊の容積ではないのである。
「大和(だいわ)」の理念そのものが日本国で、
それが地上に天降って形を整えたときが日本の建国である。

しかし日本の肇国(ちょうこく)はなおそれ以前に遡る。

畏くも明治天皇が教育勅語に「国ヲ肇ムルコト宏遠ナリ」と
仰せ給いしことに鑑み奉るも、わが日本の肇国は数をもって
言い現わすことのできない悠久久遠の太初(たいしょ)に
遡ることが明らかである。

神武天皇なお高千穂にましませしとき

「天祖の降跡(あまくだり)ましてより以遠(このかた)、
今に一百七十九万二千四百七十余歳」と『日本書紀』に明記してあるから、

彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)より神武天皇に到るまで
すでにこれだけの皇紀を経ているのである。

これは神話であるから
「大和理念」の地上顕現が悠久であることの象徴と見るべきである。・・・>。


両先生のご投稿より<m(__)m>。

謹んで、建国の日をお祝いいたします。










「日本国紀」より。


 薩摩藩主・島津斉彬=直正と同じに近代化を目指した。

西洋式軍艦「昇平丸」を建造し、佐賀藩に先駆けて、日本

初の蒸気船「雲行丸」を建造した。これは万次郎の知識を

もとに作った越通船と呼ばれる和洋折衷船に蒸気機関を搭

載した実験船だが、後の薩英戦争でイギリスを苦しめたのは、斉彬の政策に負うところが大きい。

下級武士の西郷や大久保を登用した先進性を備えた藩主だったが、安政五年(一八五八)残念ながら急死した。

弟の久光による暗殺説が根強い。

「日の丸」は斉彬が提案したと言われている。日米和親条

約後、外国船と区別する船舶旗が必要となり、幕府は当初

白地に黒の横一文字の「大中黒」を考えていたが、嘉永七

年(一八五四)七月九日(新暦八月二日)、老中・阿部正弘によって斉彬の案が正式に布告された。

鹿児島城から見た桜島から登る太陽の美しさを表現したよう。「昇平丸」に最初に掲げられた。

源平合戦でも平氏は「赤地金丸」、源氏は「白地赤丸」を使用した。日の丸が天下統一を表した。

江戸時代には家康もよく使った。

七百年も前から日本を象徴する旗として使われていたのだ。

現代の一部の人たちが「軍国主義の象徴」として「日の丸」を嫌悪するが、根拠不明の言いがかりである。

伝統も歴史も知らぬ馬鹿者としか言いようがない。

直正も斉彬もこの混迷の時代にあって傑出していたが、忘れてはならないのは無名の職人たちだったことだ。

懸命に勉強して、遂に当時の最高のテクノロジーに追いついた。これが日本人の凄さである。

                     (つづく)











 清超先生の御話です。


 クラス全員の目が、ぼく一人を見詰めていました。息詰

まるような数分が過ぎました。しばらくしてその中の一人

が、「君の意見は正しいと思う。だからこの計画は中止す

る」と言って、皆が、私の意見に賛成してくれたのであります。

 生長の家を知らない時の私でしたら、このような場合、

たとえ、自分の考えが正しいと思っていても、大勢の言い

なりになっていたと思いますが、「正しい者が強くなって

行動しなければ、立派な社会は建設されない。」という谷

口雅春先生のお言葉は、私を通して、三十八名を納得さ

せ、学校を平和にし、私自身にも勇気と実行力を与えて下さったのであります。

 この体験を通して、私一人でも神の子を生きれば世の中

を光明化する力のあることを自覚し、生長の家の青年こそ

は、社会に平和をつくるところの、神に選ばれた霊の選士である、という事がわかったのです。

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/12 (Tue) 07:51:46

 


<・・・・・ 愛の範囲が、「自己中心の愛」から「恋人への愛」、それから「父母への愛」、

それから「祖先への愛」となってくるのであります。

それから更には、その祖先の、祖先の、更に祖先ということになってきますと、

それは一方においては 即(すなわ)ち「 神 」に達する。

こうして、縦に広がっては、神に対する愛となり、無限の原始(げんし)において 自分の生命は

神につながって出発し、そして今 現(げん)に ここに神につながって生かされているのであると

いう自覚が起ってくるのであります。・・・>・・・。


 一人でも多くの人に告げたい言葉です。

 明鏡様のご投稿より<m(__)m>、






 「日本国紀」より。


 前原嘉蔵=宇和島藩主・伊達宗城が藩士として召し抱え

た無学の仏壇職人(提灯屋)=藩医の村田蔵六(元長州藩

士、後の大村益二郎)の翻訳したオランダの本と図面だけ

で小型の蒸気船を作り上げた。司馬遼太郎は「現在の宇和島市で人工衛星を作ったのに匹敵する」と書いている。

                    (つづく)







 清超先生の御話、続きです。


 谷口雅春先生は、『第二青年の書』に、「私たちの住ん

でいる、この人生が、今より、いっそう良くなるであろう

という希望を持ち得るのは、青年の純粋な、ひたむきな理

想と、その理想実現のために、一切の情実をこえて、直進する青年の力に信頼する」と申されました。

 皆さん、あのアンデス山脈の頂上に落ちたひとしずくの

水が、より合い、集まり合って、遂には世界最大のアマゾ

ン川となり大西洋にそそぎこむ力は、遠く七十キロメート

ルの間、海水をおしきる奔流となって流れるように、神の

子人間の真理に目覚めた私たちが、青年の力を結集して、

中心帰一の聖旗のもとに、強く団結し、人類を救う霊の選

士として、世を照らす偉大な力となり、神の国の実現を目

指して、まい進しようではありませんか。』

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/13 (Wed) 08:38:09




  <中国漢字における「征」の字は、「彳」が「行く」の省略形、「正」は、正しいです。

ですからもともとの意味は「正しきを行う」になります。

従って「東征」というのは、「正しいことを行うために東に向かった」

ということを意味しているのであって、かならずしも
東へと向かった軍事遠征を意味する言葉ではありません。


 伝統様のご投稿より、ねずさんのお話です。

お二人とも、凄い方です!(^^)!。








 「日本国紀」より。


 小栗忠順=幕府において近代化を進めた男。遺米使節団の一員。

 三十五歳で勘定奉行となり、造船所とドックが一体となった横須賀製鉄所を建設した。

所長をフランス人として、雇用規則、社内教育他当時としては画期的なシステムを導入した。

また、株式会社の商社を設立した。Companyを商社と訳したのは小栗と言われている。

 陸軍増強のためフランスから最新式の大砲や小銃大量に購入し、フランスの軍事顧問団に訓練させた。

又、日本初の西洋式火薬工場も建設、日本初の本格的ホテ

ル「築地ホテル館」を建設、さらに、これも初のフランス

語学校も設立した。同校の卒業生で明治政府に貢献した者は多い。

小栗はこれらを僅か数年でやってのけた。その先進性とヴァイタリティーには驚嘆するほかはない。

 明治元年(一八六八)、新政府軍は無抵抗の小栗を捕縛し、翌日、裁判もせずに処刑した。

彼の死は本当に惜しいと言わざるを得ない。

 大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗の模倣に過

ぎない」後にバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎は、

「日本海海戦い勝利できたのは、小栗のお陰」といい、

司馬遼太郎は「明治の父」と書いている。

 しかし、忘れてならないのはその力を振るわせた幕府で

ある。近代化を成功させた明治政府に対して「頑迷固陋の

体質だった」と語られることが少なくない幕府だが、必ずしもそうではない。

                    (つづく)










 清超先生の御話です。


  以上の発表文でお判りのように、八尋君は三十八人の

クラス・メンバーの意見とは反対に、たった一人で先生を

先ず呼び迎えようという意見を強く表明し、それによって

他の人々の意見をかえ先生を呼び迎えることが出来たとい

う事ですが、これは明らかに八尋君が、「人間の尊厳」に

目覚め、自分の正しいと思うことを正しく強く発表したからに他なりません。

 一対三十八と意見が分れる時、果たしてどちらが正しいかという事は、外面的には判らないのです。

多数決制であると、もちろん三十八名の意見が採用される

けれども、このような全員一致制であると一人の意見が多数を動かすのに非常に役立ちます。

 しからばどちらのやり方が正しいのかと言うと、それは

判らないのであって、時によっては一人が正しく、また或

る場合には多数の意見が正しいという事になって来るのであります。

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/14 (Thu) 07:43:02

  


 <徳久克己講師からの
「無条件の愛をもって、求める者のため聖経を供養する

「愛の道場」を実現いたしたいと思い、お願いする次第でございます。」

との願い出に対して、

 谷口雅春先生は、

「まったく神と人との間の愛の仲介者のような徳久先生と

して応(まさ)に斯くあるべしと考えられるような提案で

ある。飛田給の新道場を「愛の道場」として、祈願をねが

う者に無条件で、聖経の読誦供養をしたいと思われる。一も二もなく賛成である。」

と述べられ、

  「それで、私は、この聖経読誦は、法供養であるから

聖経・法供養と名付けることにした。」と、ご命名されました。>・・・。


 護法の天使様のご投稿より<m(__)m>。


 池江璃花子さん「神様は乗り越えられない試練は与えられない。

自分に乗り越えられない壁はない・・・必ず戻ります」

 彼女は大丈夫ですね!(^^)!。








 「日本国紀」より。


 水野忠徳=あまり語られないが、重要な人物。長崎奉行

時、海軍創設に奔走。 金貨の海外流失を防ぐ。

 最大の功績は小笠原諸島を守ったこと。

一八五〇年代、咸臨丸で上陸し、島々の測量等調査し、入

植していた欧米系の島民の保護を約束して、日本の領土であることを承認させた。

イギリス、ロシア、フランスの間を巧みに渡り歩いて、列

強同士の対立も利用しながら、諸島の領有権が日本にある事を認めさせた。超一流の外交手腕である。

この時忠徳のしたたかな交渉を支えたのがジョン万次郎だった。

明治十三年(一八八〇)諸島は東京府の管轄になり、居住していた外国人は全員日本国籍を取得した。

日本の広大な排他的経済水域(領海含め世界六位の約四四

七万平方キロメートル)の約三分の一は、小笠原諸島を中心とする海なのだ。

もし、忠徳とジョン万次郎がいなければ諸島と周辺の海は外国のものとなっていただろう。

                     (つづく)











 清超先生の御話です。


      正しい考えを知る方法


 しかし乍ら、判らん判らんと言っていても何も判らんの

であって、それを判らせる方法が二つほどあります。

一つは八尋君の実行されたように、正しいと思う意見を強

烈に他の人々にうったえる事によって、今まで反対意見だった意見を賛成に変えてしまう方法です。

これが可能であるのは、その一人の意見が「正義」の要素

を含んでいると同時に、その人が「勇気」をもって説得を

しなければならないという事です。そしてこの前提とし

て、すべての人は「神の子」であって、本当は話の分かる

人々であるという、人間性に対する正しい信仰がなければならないのであります。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/16 (Sat) 08:07:17



<「自分の人間力で『甘露の法雨』の真似(まね)をした

お経類似のものを創作して、それを読むことを勧め、その経本を売る。」

 このような行為が将来行われることについて、次のように厳しく戒められています。

「こういう狡猾な個人的な利欲的な行為をしますと、靈界からの守護がなくなります」
・・・>。

 護法の天使様のご投稿より<m(__)m>。


 それにしても、伝統様のパワーは凄いです。

私の投稿も2部(^_-)になってしまったくらいです。








 「日本国紀」より。


 五箇条の御誓文=明治天皇が天地神明に誓約する形で、

公家や大名たちに示した明治政府の基本方針。

「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」

「上下心ヲ一ニシテ盛ンニ経綸ヲ行フベシ」

 ここには独裁的な姿勢は皆無である。まさに近代的民主主義の精神に満ち溢れている。

聖徳太子の「十七条憲法」との類似性に唸らされる。

「和を以て貴しと為し」「上やわらぎ下むつびて」・・・。


 日本は古来、専制君主制ではなく、政治は皆で行なっていくのが理想と考えてきた国なのである。

                     (つづく)










 清超先生の御話です。


 それと共に、今一つの方法は、永い歴史の審判によっ

て、後になってみると次第に「こうすべきであった」と言

う事実が判ってくるという、「歴史の審判」にゆだねる方

法です。しかし後者の場合でも、人間性そのものがすぐれ

ていなければ、後世の人が正しい判断を下すとは限らない

のですから、この考え方の中にも「人間の神性」を信ずるところの基盤が隠されていなければならない。

そうでなければ、いくら時間が経過しても、人間は正当な判断を下すわけには行かないでしょう。

 ところが、時間がたつだけで、どうして人間は正しい判断に達することが出来るのであろうか。

もし、歴史的時間が経過すれば、それだけで後世の人が過

去の歴史の正邪を判断できるとすると、人間は後世になるほど利口になるということになるでしょう。

けれども、現代人と釋迦やキリストを比較してみるまでも

なく、先人より後人がすぐれているという結論は否定されるべきです。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/17 (Sun) 08:29:20



<「頑張れ」は負担を強いる言葉にもなり、「治るよ」に

科学的根拠がなく、無責任な言葉になってしまう。

そういった励ましによって勇気づけられる患者ばかりでは

なく、負担を感じる患者もいることを留意し、自分の発言に責任を持たなければならない。・・・>・・・。


 「頑張れ」ばかり発している自分を反省しております。

「治るよ」はいい言葉のようにも思えますが…。


何か気になって、伝統様の「池江璃花子さん」をみましたら、私のことも採り上げられておりました('◇')ゞ。

有難うございます。

 お母さんを始めとして、立派なご家族のように感じました。

伝統様の情報力に敬意を表します('◇')ゞ。










 「日本国紀」より。


  日本大改造=明治六年(一八七三)には、「廃城令」が

出され、一部を除いてすべての城が取り壊された。廃藩置

県が行なわれた明治四年(一八七一)、岩倉具視を全権大使とする使節団をアメリカとヨーロッパに送る。

岩倉だけが髷と和服だった。

イギリスで銀行委預ければ利子がつくと聞いた一行は、大

金(現在の五億円)を預けるが、その銀行が倒産し、預け

た金を失っている。もしかしたら、金融に疎かったために詐欺に遭ったのかも知れない。

                    (つづく)








 清超先生の御話、続きです。


 しからば、歴史の審判が下るということが可能であり得

る根拠は何処にあるかと言うと、後世になれば事件を客観

的に離れた態度で見得るという事が一つと、もう一つは事

件の全貌がその背景と共に全相的に眺められるということによるものだと言わなければなりません。

                                              (つづく) 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/18 (Mon) 08:22:30

 


 <今回の奉祝運動は、昭和天皇さまのご在位五十年奉祝

運動に当時参議院議員玉置和郎氏が、中心的に支え活動し

たのが「生長の家」であった。それに対する敬意と感謝の

意がこの「生長の家」の御名に込められているのではないでしょうか。
 
 実際、この肩書きを見て、長年、愛国運動に携わってき

た方々から、奉祝運動に。谷口雅春先生が戻って来られ

た!本来の「生長の家」がこれで甦った!等の有り難いお言葉までいただいております。・・・>


 蒼穹様のご投稿より<m(__)m>。


 だけど、志恩様の歯切れよさは快いです(^^♪。









 「日本国紀」より。


 日本初の鉄道=この事実に驚嘆する。わずか二年半で開

通させた。兵部省が高輪の土地の測量を許さなかったの

で、海上を一〇キロも走らせている。(大隈重信)(明治五年)

                    (つづく)







 清超先生の御話です。


         歴史の教訓


 先ず第一の離れた態度という事ですが、これは感情的な

行きがかりや、個人的好感の偏見を捨て去るという事です。

碁では「傍目八目」と言って、碁を打っている当事者以外

の第三者の方が八目上の人ほどに先が読めるということがある。

 数学者の岡潔さんの書かれた本(『春宵十話』)の中に

も、数学の解答を出して、教室を出たとたんにㇵッとその

誤りに気付くことが何回もあると書いてありましたが、そ

れは感情的冷静さを取り戻した時、より一層正しい理性的判断ができるということです。

そして当然この「離れた態度」は、次の「全相が見られ

る」と言うことに連結して来るのであって、こうして或る

事件や局面の全貌がその背景のもとに眺められることにあります。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/19 (Tue) 08:01:42




 「梅東風」いい言葉ですね(^^♪。




 「日本国紀」より、まだまだ続きます。明治に入りましたけど。

 知らない事を色々教えて頂きます(^^♪。



 百五十三の国立銀行が作られた=作られた順番が行名になり、現在でも地方にその名前の銀行が残っている。

太陽暦採用=明治五年(一八七二)十二月三日が新暦、明治六年一月一日となった。

世界史を見渡しても、これほど急激に近代化を成し遂げた国はない。


                    (つづく)






 清超先生の御話です。


 すると、人間本具の「神性」によって、必ず「より一層

正しい判断」が湧いて来る。しかもその正しさの程度は、

その人の神性開発の程度によると言ってよろしいし、背景

をそれだけ広く且つ深く捉えるかという点にかかって来ると言ってもよいでしょう。

大体、歴史の流れは、これ以上は流れないというような終着点はありません。

今吾らがかつての大東亜戦争を考えると、それはかつて大

戦のさなかにあった時よりもはるかに正しくその全相を見

わたし得るのであって、「あの時、ああしたらよかった」

とか、ここはこうであるあるべきであったということが判

るのですが、では今から百年後になると、同じ戦争につい

ての再反省の余地がないかと言うと、決してそうではない、きっと出て来るでしょう。

それはその時の吾々が、現代よりは一層大きな歴史の転回

を知り得るからであり、そこからより一層正確な「歴史の

教訓」を学び得るからであります。と同時に、人間の真の

能力に対する理解が全般的にひらけて来て、「神性開発」の平均的レベルが向上し得るからであります。

                     (つづく)



 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/20 (Wed) 08:49:45




 恵美子先生がよく仰ってた。

マスコミはどうしてこのように暗いニュースばかり流すのでしょう?。

 どうにかなりませんか(^_-)ほんとうに。








 「日本国紀」より。


 西南戦争=明治十年(一八七七)二月に起こった新政府に不満を持つ最大の反乱。

 「明治六年の政変」で鹿児島に戻っていた西郷隆盛を総大将とした反乱。

その年の九月には鎮圧され、西郷は自決した。

 明治政府は戊辰戦争から十年続いた動乱の時代に終わりをつげ、盤石の体制を築くことになった。

多くの歴史家が西南戦争の終結をもって「明治維新」の終りと見做すのも頷ける。

                    (つづく)




 清超先生の御話です。


 そこで百年目の再批判があり得るし、これと同じ理由に

よって、二百年目、五百年目、千年目…・・等々

無限の再反省が許されるし、それはどこまで行っても限り

がないことです。このような永い目で見渡す時、果たして

終戦直後の「一億総懺悔」なるものが、どれほどの権威を

持つかと言うと、まことに錯誤だらけであると言っても過言ではないに違いありません。

もしそうだとすると、終戦のドサクサで、外国占領軍下に

於かれた日本が、占領軍の圧力の下で押しつけられた現憲

法を、唯一の“反省白書”として、永久にもち続けていなけ

ればならぬという考え方ほど、奇妙なものはないという事になるのであります。

 事態の認識は、その事態から充分離れないと、正しくは

得られない。それは時間的にも心理的にも、そして感情的にもそうなのです。

しかも歴史は刻々と新しい教訓と視野とを吾々に与えてくれている。

もし、チェコへのソ連軍の侵入の如き暴挙が、あの終戦当

時判っていたら、誰が憲法の前文に、

『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』

 と言うが如きお目出度い文句を挿入して、それをもって

祖国の安全が「無武装」裏に保持されると考えうるでしょうか。

                     (つづく)
 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/21 (Thu) 08:10:12

 


 <しかし、最近になって「我れ神を選びしに非ず、神我れ

を選び給いしなり」というコトバが強く想い起こされて、

「ああ、自分が選んだのではなかった。神に選ばれていたんだ」ということが限りなく嬉しく感じられました。・・・>。


 榎本恵吾先生は凄いお人だったのですね。

 私も、一度、奥様の榎本一子先生(?)に義姉のことで相談をしたことがありました(*^_^*)。

 武田邦彦先生、「谷口先生」と呼ばれて人生を語って居られます(^^♪。

なにか、原発問題では?の発言もあったような記憶がありますけど、勘違いでしょうか?








 「日本国紀」より。


 世界に打って出る日本=「日清戦争」の勝利によって、

清から多額の賠償金を得たことで、国民の間に「戦争は金になる」という間違った認識が広まった。

その誤解と驕りが「日露戦争」以後の日本を誤った方向へと進ませていくことになる。

                    (つづく)









 清超先生の御話です。


 一体どこに「平和を愛する諸国民」がいて、それが吾々

何をしてくれるのかという事が必ず疑問となる筈です。

しかるに今尚日本の社会党の如きは、中共、ソ連を「平和

勢力」と断言して、歴史の教訓に一切耳を傾けず、憲法擁

護(会見しない事)と非武装中立を叫んでいるのでありますから、益々国民から見放されるのは当然です。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/22 (Fri) 08:32:24




 「心と食物と人相と」を拝読しましたら、興味ある御文章を発見いたしました(*^_^*)。

それを書いてみます。


          私の幼少時代


私が生まれた時、伯母の谷口まさの良人で多少学者であっ

た植木忠次郎という人が、私に谷口正治という名をつけてくれたのであった。

ところが、私は小さい時可愛い幼児だったので叔母の谷口

きぬという人が「自分の子供に欲しい」と言って自分の家に連れて帰った。

谷口しまというおばあさん(私の実父の母)がその谷口きぬ

を愛していて、長兄、次兄と二人の男の子がありながら、

その谷口きぬを谷口家の戸主に定めたくらいに気に入って

いたので、その幼児を取り返しに幼児の実母が出向いたけ

れども「きぬさんにあげておきなさい」といってきかない

ので、仕方なしに取り返すことが出来ないで、とうとう私は谷口きぬの養嗣子になったのであった。

その谷口きぬが石津又一郎氏と結婚した。

きぬも戸主であり、石津又一郎氏も戸主であったので、戸

籍の上では、結婚してどちらかの苗字にその夫婦は出来な

いまま、養母はそのまま谷口きぬを名乗り、その夫となっ

た石津氏は自然に私の養父という事になったのだが石津姓を名乗っていた。

しかし本当に完全な夫婦だったので、その子供になってい

た私は親夫婦のうち、夫の姓を名乗るのがよいので、小学

校に行っていた八年間は、私は”石津正治”と言う名で通って来た。

ところが中学校に入学するとき、その頃はじめて戸籍謄本

を入学願書につけて出す必要を生じて、その謄本を見た時

に、私は石津正治ではなく、私は戸籍の上では谷口正治で

あり、しかも私は、谷口きぬの「生みの子」でなく養嗣子と書かれていることを知って驚いた。

しかし私はどういうものか、それほどのショックを受けなかった。

実父母を伯父、伯母と思っていたし、その実父母に愛着し

て、私の愛情が実父母の方に向いて行ったら困ると思った

とみえて、養母は時々、その伯父伯母(実は実父母)の悪評

を私に言い聞かせていたので、私はそれを信じていて、その実父母に愛情を感じなかったのかもしれない。

実父母は実に、お人の好い実直な人であった。(中略)

しかしともかく、私はこの実父の許を去って、伯母夫婦の

ところへ、数え年四歳の時養子に行ったお蔭で早稲田大学

に行かせてもらい、そこで文学教養や哲学の素養を培うことができたのである。(中略)

もし私が小学校どまりの教育しか受けていなかったら、今

日の生長の家はないであろう。私が強制されたような順序

で伯母の谷口きぬの家へ養子に行くことになったのは、単

に人間のはからいだけではなく、その奥に神様の手が動いていたものだと思う。

こうして生長の家は、生まれるべくして生まれたのである。







 「日本国紀」より。


 帝国憲法=明治二十二年(一八八九)二月十一日、

「大日本帝国憲法」公布。これは明治天皇が命じてから実
に十三年の歳月をかけて作られたもの。

天皇は「神聖不可侵」とされていたことから、戦前の日本

は、教祖を崇める危険なカルト集団であったかのような誤

解が流布されているが、国民が天皇の尊厳を汚してはならないという事に過ぎない。

その統治権は無制限ではなく、天皇もまた、憲法の条文に従うとされていた。

日本は維新後約二十年をかけて、法整備の点に於いて欧米列強に追いついたのである。

                     (つづく)










 清超先生の御話です。


         百千万歳の自己


 以上の如き考察によって、事物の正当な判断は、「全相

を明智をもって達観する」ことによってのみ得られること

が判ったのですが、これを言うが易し、実行は難しい。し

かし難しいからこそ吾々にとって「やりがいのある仕事だ」と言わなければなりません。

しかもその上、この明智たるものは、何も「時間」と言う

非実在にたよって、その歴史的経過によらなければあらわ

れて来ないと定められたものでもない。時間・空間は本来

ナイのであって吾々の心中の認識形式に過ぎない。とする

と、歴史的に千年以上たたなければ正確な判断が得られないという絶対条件はないのであります。

今でも、吾々が真に「神」に直結しさえすれば、その明智

がわがものとなるのである。しかもそれは、賛成する人間の数や性別や地位には無関係であります。

そこに、現代に生きる我々、一人々々の名状すべからざる

「尊厳さ」がうかがわれるのであって、これを真実の尊き

ものにする唯一の方法が「徹底的神性の自覚」であります。

                    (つづく)

 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/23 (Sat) 07:54:38




 <まず、奉仕団52人が初めて参上したことを奉告する

と、

天皇陛下から「いろいろなところで研修されているんでし

ょうね」とのご下問があり、全国で活動していることを奉

答、続いて、皇后陛下が「谷口先生が亡くなられて何年に

なりますでしょうか」とご下問になり、33年と奉答する

と、天皇陛下が「谷口先生の教えに直接、接しておられない方も増えたでしょうね」とご下問になられた。

最後に、天皇陛下が「それでは皆様お元気で」と仰り、ご会釈を終えた。

参加者はみな感涙にむせび、言葉に尽くせない感動に打ち震えた。・・・>。

 
 昨年12月9日~13日、「学ぶ会」が初めて皇居勤労奉仕団を結成し、練成会を開催した折の報告です。











 「日本国紀」より。


 君が代=憲法作成の頃、作られた。歌詞は、平安時代に

編まれた『古今和歌集』の、詠み人しらずの歌からとられ

た。原歌は「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌

となりて 苔のむすまで」というものだったが、平安時代

末期の本では「我が君」は「君が代」になっている。

歌の意味は、もともと大切な人の長寿を願うものだった

が、後「天皇の御代」(即ち日本国)の永く栄えることを願うものとなった。

江戸時代には、小唄、長唄、浄瑠璃、祭礼歌、盆踊りなど

で「目出度い歌」として広く歌われた。ただ、決まったメロディがある訳ではなかった。

 明治十三年(一八八〇)、前記の歌詞に、宮内省雅楽課が

旋律を付け、楽譜制定顧問のドイツ人音楽教師フランツ・

エッケルトが洋楽風に編曲した。以後、国歌として広まった。

 因みに「君が代」は世界最古の歌詞をもつ国歌である。

悲しきは、大東亜戦争中に国家発揚のため歌われて、戦

後、占領軍によって軍国主義的と見做され、演奏を禁じられたことだ。

然し、昭和五二年(一九七七)、文部省は「学習指導要綱」

で国歌と表記、さらに平成一一年(一九九九)

「国旗・国歌法」が制定され、正式に国歌となった。

尚、昭和四九年(一九七四)、内閣政府広報室が世論調査

を行ったところ、国歌としてふさわしいと答えた人は七

六・六パーセント、ふさわしくないは九・五パーセントであった。

                    (つづく)









 清超先生の御話です。


 吾々は、時間・空間に制約される物質や肉体ではないのである。

だから、歴史的時間を越え、常識的判断や政治的判断を越えて、真実を、今、把握することが出来るのです。

吾々の<今のいのち>は千歳以上であり万歳以上でもある。

この「百千万億那由陀劫歳の自己」を顕わすのが「神想

観」でありますから、これを厳密に実修しなければならない。

現代人の堕落やひ弱さは、すべてこの「基本」が欠けているからであるとも言える。

もしそれが出来れば、吾々は万歳人とも億歳人ともなれるのです。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/24 (Sun) 08:09:16




 <京都の山科にある毘沙門堂>何やら、興味を惹かれま

すね、行ってみたい気もしています。5月に関西に参りま

すので寄れない事はないのですが(^^♪。








 「日本国紀」より。


 日清戦争=明治二七年(一八九四)七月、近代装備にすぐれた日本軍は清を圧倒した。

朝鮮を独立せしめるための戦争だった。

ソウルにある「独立門」はこの時の清からの独立を記念して建てられた。

 今日、多くの韓国人が、大東亜戦争が終って日本から独立した記念に建てられたものと誤解している。

こんな基本的な教育さえ行われていないことには呆れるばかりである。

                    (つづく)






 清超先生の御話です。


        離れた立場をとれ


 かくて一人の人間が万歳人億歳人として、何千何万の

人々と同じ「多数者」としての力を発揮できることは当然ではないでしょうか。

一人の人間と見えていても、真理を自覚し実修している者と、そうでない者とは、月とすっぽん程の違いがある。

その違いを露呈せず、いたずらに民主主義の名におびやか

され、多数者の尻馬にくっついてうろちょろしていて、果たしてよいものでしょうか。

 もし吾々のこの独自性を民主主義がそこなうとすれば、それは民主主義と称する化け物が悪いのです。

もし吾々のこの独自性を、愛国心や忠君愛国がそこなうと

すれば、その愛国心や忠君愛国の方がニセモノの愛国心で
ある。それは真の「愛国心」を騙るところの偽物である。

戦争中にはかかるニセモノが横行して、日本の運命を大戦

へと駆り立てて行ったのであり、今は又かかるニセモノの

民主主義が横行して、共産主義や社会主義体制へと日本を駆り立てようとしている。

このようなニセモノを見破ることが出来ないのは、そのニセモノの時代にあまりのも密着しているからです。

惚れてしまえば、アバタもえくぼ、中共にほれた社会党、

ソ連にくっついた東独、北専にモーションをかける日共、

板切れに食らいついた宗教等々がまさにこれであって、離れた立場から見れば、まことに痴寓の至りです。

                    (つづく) 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/25 (Mon) 07:43:06



 天皇陛下の読み違いを正される皇后陛下、感動的なシーンです。

 誠におめでとうございます。








 「日本国紀」より。


 三国干渉=ロシアとフランスとドイツが「遼東半島の返還」を要求した。

 三国に対して、国力のない日本は干渉を受け入れざるを得なかった。

然し、清から得た二億テールという莫大な賠償金と遼東半島の還付金三千万テールは日本の経済を繁栄させた。

そのため多くの国民が「戦争は金になる」という意識をも

って、後に危険な方向へ導くもととなる。

                                 
                    (つづく)






 清超先生の御話です。


 今はもう亡くなられたが、山本五十六さんの如きは、その点、戦争中左翼から国賊視され、非愛国者とされた。

当時の日本の政治ムードから離れた見識をもっておられた数少ない一人であったようです。

私は昭和四十年に阿川弘之さんの書かれた『山本五十六』

と言う伝記を読んで、その人となりに共感を持っていまし

たが、最近つくられた映画を見て、そこには一つの人間の

理想像が描かれている(必ずしも現実の山本さんではないが)と言う感じを受けました。

 そして映画館を出て、歩きつつ、私は一つの仮説にぶち

当たったのです。というのは皆さんも御存知のように、山

本元帥は連合艦隊司令長官として、強く日本開戦に反対された軍人であります。

そして日独伊協定にも反対された。

これは正しい考えです。であるにも拘らず、当時の日本政

府や軍部は、すべてを日本開戦の方に持って行ってしまった。

山本さんは海軍全艦隊をひきいて、自分の反対するところの日米戦争に突入せざるを得なくなったのです。

これは最大の悲劇で日本の悲劇でもあり、且つ又山本さん個人の悲劇でもありました。

 その時、山本さんはハワイ基地の奇襲攻撃により、一挙

に米艦隊勢力の大半を撃滅し、その間に力のバランスを保

って、日米の早期講和をはかるしかないと考えたのでした。

これも立派な、時流を超越したところの一つの判断です。

当時の歴史の流れに沈溺していた人々にはとても考えつかない立派な考えであった。


                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/26 (Tue) 08:35:19




 武田邦彦先生のお話し「権威と権力」を聞いて、

伝統様の「日本の使命」をみましたら、よ~く、日本の国が判ります(^^♪。








 「日本国紀」」より。


 柴五郎=
 戊辰戦争で祖母・母・兄嫁・姉妹が自決した。

  後、陸軍士官学校を出て、三十九歳の時、北京の公使館に派遣された。

  凶暴な義和団<義和団の乱(北清事変)=明治三十三年(一九〇〇)>

が各国公使館を取り囲む中、英語・フランス語・中国語に精通していた柴は他国軍と協力して公使館を守り通した。

  イギリス公使のクロード・マグドナルドは、柴とその

配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに心動かされ、

  後、彼(マグドナルド)が立ち合って、日英同盟が締結された。
  この日英同盟が後の日露戦争で日本の大きな援護となる。

                    (つづく)








 清超先生の御話です。


 けれども、その立派な考えにも、一つの見落としがあったらしい。

それは、開戦劈頭ハワイ奇襲に成功した場合、

(一) 日本国民が果たして早期講和をやる心になれるかどうか

(二) アメリカ国民がそれによっていかに結束するか、というこの二点であります。
 
これは戦術や戦略の問題ではなく「心理学」の問題、いやそれ以上のもっと広い「人間性」の問題です。

そこに見落としがあったか、或いは又見落としていなく

ても、仕方なくそうせざるを得ない「司令長官として誇

り」があったかして、山本元帥は自ら死への予定されたコースを歩まれたのでした。

                    (つづく) 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/27 (Wed) 08:07:21


    <代表の胸には、「谷口雅春先生を学ぶ会代表 中島省治」の名札が。

その名札を両陛下にご覧いただいて、「生長の家です!」とご挨拶されたそうです。

この中島代表の言葉、本当に嬉しいですね!>・・・。


 破邪顕正様のご感動です(^^)/。









 「日本国紀」より。


 日露戦争=二十世紀に入って初めての大国間戦争。ロシ

アの国家歳入約二十億円に対して日本は二億五千万、常備兵力は約三百万人対約二十万人。

 しかもコサック騎兵は世界最強の部隊と言われ、海軍もまた世界最強と言われていた。

                    (つづく)








 清超先生の御話です。


 そこで、この「真珠湾攻撃」が果たしてよかったか悪か

ったかと云うことが歴史的批判としては出て来る訳です。

戦術としては勿論成功したのであるが、戦略以上の大きな観点からみると、失敗ではなかったか。

そしてその失敗を見越して、「死に装束」で戦った司令長官は、その念願通り悲劇の最後をとげられた。

 けれども、此処により磯王歴史の中にいて時流に流される事
なく、神意に従おうとされた方が一人おられる――。

という事を歴史は明らかに指摘している。

 それは天皇陛下であります。

天皇陛下は開戦に反対であられたし、陸軍の誇りや海軍の

誇りと言った局部観にも拘泥される事なく、

もし天皇が直接海軍を指揮されたなら、真珠湾攻撃はやられなかったのではないであろうか。
                     
                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/02/28 (Thu) 07:27:45



 北海道は、マイナスとプラスの日が交互に来てます(^_-)。

「春よ、来い」です。









 「日本国紀」より。


 高橋是清=日銀副総裁。日露戦争時の資金不足という難

事に、自らロンドンに出向き、「この戦争は自衛のためや

むを得ず始めたもので、日本は万世一系の天皇の下で一致

団結し最後の一人迄戦う」と訴え、中立を主張する

英国から五百万ポンドの外債を得た。→関税での支払いは何と十二年後の昭和六一年完済。

 また、ロンドン滞在中に、帝政ロシアを敵視するアメリ

カのユダヤ人銀行家の知遇を得て、残りの五百万ポンドの外債を引き受けてもらった。

 江戸で町人の庶子として生まれて、幼少時に仙台藩の足軽の養子となり、十三歳の時藩命でアメリカに。

アメリカでは商人に騙され、奴隷として売られ、様々な土地で働かされた。

自由を得て帰国後、文部省で働き、共立学校(今の開成中・高)の初代校長として英語を教える。

教え子に、正岡子規や秋山真之(バルチック艦隊を撃破した名参謀)がいる。

 後、貴族院議員、日銀総裁、大蔵大臣、ついには総理大

臣となった。昭和六年四度目の小倉大臣の時世界恐慌をも克服、世界のどの国よりデフレから脱却させた。

金融に明るく、決断力と判断力に優れた偉大な政治家だっ

たが、昭和十一年二月、六度目の大蔵大臣在任中、

軍備予算縮小を図ったところ、軍部の青年将校らに自宅で射殺された。(二・二六事件)

享年八十一歳。

                     (つづく)










 清超先生の御話です。この回の最終です。


 そしてそれによって「連合艦隊は何をしている」と全国

民につきあげられようとも、その方が早期講和に一層有利であったことはたしからしい。

おそらく天皇陛下以外にあの時、そのように行動できる人

は他に一人もいなかった――という仮説がそれであります。

この仮説を考えた時、私は「一人の人間の力の偉大さ」と

いう事を染々と実感し、それが何処に由来するかを考えざるを得なかった。

その望みは言うまでもなく「神」であります。

「神」以外に正義はなく、明智はない。

そしてその「神」は一人として現われ、又万人として現われ給うのであります。

                     (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/01 (Fri) 08:06:09




(童謡)春よ来い

http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/haruyokoi.htm

春よ来い 早く来い

あるきはじめた みいちゃんが

赤い鼻緒の じょじょはいて

おんもへ出たいと 待っている


春よ来い 早く来い

おうちのまえの 桃の木の

つぼみもみんな ふくらんで

はよ咲きたいと 待っている


       ・・・

 春よ、来い

作詞:松任谷由実 作曲:松任谷由実

https://www.youtube.com/watch?v=gol5dFrv4Ao

 淡(あわ)き光立(た)つ 俄(にわか)雨(あめ)

いとし面影(おもかげ)の沈丁花(じんちょうげ)

溢(あふ)るる涙の蕾(つぼみ)から

ひとつ ひとつ香り始める

それは それは 空を越えて

やがて やがて 迎(むか)えに来(く)る

春よ 遠(とっ)き春よ 瞼(まぶた)閉(と)じればそこに

愛をくれし君の なつかしき声がする


君に預(あず)けし 我(わ)が心は

今でも返事(へんじ)を待っています

どれほど月日(つきひ)が流(なが)れても

ずっと ずっと待っています


それは それは 明日(あす)を越えて

いつか いつか きっと届(とど)く

春よ まだ見ぬ春 迷(まよ)い立(た)ち止(と)まるとき

夢をくれし君の 眼差(まなざ)しが肩(かた)を抱(だ)く

夢よ 浅(あさ)き夢よ 私はここにいます

君を想いながら ひとり歩(ある)いています

流(なが)るる雨のごとく 流(なが)るる花のごとく

春よ 遠き春よ 瞼(まぶた)閉(と)じればそこに

愛をくれし君の なつかしき声がする

春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき

夢をくれし君の 眼差(まなざ)しが肩(かた)を抱(だ)く

春よ、来い 早く、来い

春よ、来い 早く、来い


 伝統様のご投稿より、童謡もいいですけど、ユーミンも

いいですね(^^♪。

 私の「春よ、来い」も切望ものです(*^_^*)。
ご転載有難うございます。










 「日本国紀」より。


  日本海海戦=余談として、「丁字戦法」(T字戦法とも

いう)によって勝利したというのが定説になっていて、

  それは、敵の縦列艦隊に対し、その進行方向を押さえる形に艦隊を配したことから来る。

 最も攻撃的な戦法であるとされたが、実は誤りである。

 実際は並行航行での砲戦であったが、後に秋山が講演な

どで丁字戦法を用いたと言ったことから、定説になってしまった。

真の勝因は水兵たちの練度の高さと、指揮官の勇猛果敢な

精神にあった。また、バルチック艦隊の水兵たちは戦う前

にすでに満身創痍の状態だった。→前年リバロ軍港を出

て、対馬海峡に到達するまで七カ月も船上で過ごし、英国

の妨害で港にも入れず、水兵の多くは飢えや病気に苦しみ、病死も多かった。

                    (つづく)











 今朝よりは、珍しき随筆?をご紹介。



 昭和43年理想世界誌11/1号


     わが青春の記     作家  中河与一


 青春というのは何歳から何歳くらいの間を言うのであろうか。

漠然とはわかっていても誰もハッキリとは言えない。

大体十八九から二十五六までをさすのではあるまいか。も

っと後にずらす人があるかも知れないし、前にさかのぼらす人もあるかも知れない。

或いはそれ等とは別に度はずれた青春と言うものを考える人もあるかも知れない。

 いずれにしても人間が少年から脱して大人になる途中と

いうか、大人になった瞬間と言う位のところが妥当ではあるまいか。

思慮分別が出来てしまえばそれは青春という概念とは少しはずれてくる。

 それだけにそれは純粋であり、やや本能的であり、熱情的であり爆発的である事が多い。

 今は大人も子供も洋服を着ているが、吾々の少年時代に

はみな着物を着ていた。その着物には肩あげと言うものがあって、一カ所肩のところに襞が作ってあった。

大人になると、その襞をとってしまう。

その頃から身長が急に伸び、気持の上でも、少年の世界から脱して急に大人に近づく。

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/02 (Sat) 08:28:55

 


 <国民のことを心から愛している金正恩のことだ、このままズルズルいくとは思えないのだが。

まったく好きではないけれど、金正恩のことが心配になってきた。・・・>。

 キムチパワーなる人?のお説です!(^^)!。





 「日本国紀」より。


 「日比谷焼打ち事件」=私は、この事件が、様々な意味

で日本の分水嶺になった出来事であると見ている。

すなわち、「新聞社が戦争を煽り、国民世論を誘導した」

事件であり、「新聞社に煽動された国民自らが戦争を望ん

だ」そのきっかけとなった事件でもあった。この流れは、

大正に入って鎮火したように見えたが、昭和に入って再燃し、大東亜戦争になだれ込む一因ともなったのである。

                     (つづく)










 中河先生のお話続きです。


 大体中学校(今の高等学校)を卒業するころからそういう自覚が始まるのである。

その時代には誰でも多く空想に囚われる。人生の曙だからである。

殊に身長の大きさが両親と同じ位になるし、力も同じ位になる。

経験というものは殆どないが、それだけに何でも出来そう

な気がする。失敗というものも知らぬから無鉄砲な試みを

平気でする。じっとしていられないような力に突き上げら

れる大人への出発であるだけにいろいろな空想に溢れる。

大抵の人間が夢を持ち、大志を抱き、青雲の志をもつのである。

 然しそんなにも強く夢や欲望に襲われるだけに、それが

思うようにならなかったり、蹉跌すると青春というものは一方では常に憂鬱にとざされる。

一寸した旅行のようなものでも第一彼等は旅行するための財力と方法とを知らない。

欲望が強ければ強いだけにその抑圧や抵抗の気持が深く、それが青春というものを灰色にする。

青春の憂鬱というものはそういう意味でも想像以上に烈しい場合が多い。


                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/03 (Sun) 08:51:07

 


 <この神話は一方では桃太郎の鬼ガ島征伐のお伽話となっております。

 これはお伽話といっても、実は神話であって誰の創作ということはない。

 個人的作者はなくて、古代の日本民族が、ズッと古く大

昔から、霊感によって宇宙の真理を直感して物語りにしているものであります。

 桃太郎のお伽話は、こうであります。

 お爺さんは山に柴刈りに、お婆さんは川に洗濯に行ったのであります。

 この「柴刈り」というのは、心の雑草を刈り取って、そ

して雑草に蔽われて隠されている實相を、ハッキリ現わすことであります。

 そして、「お婆さんは川に洗濯に」ということは、それ

は實相が垢に汚れ覆われて、その光が輝かぬようになって

いるのを、御禊(みそぎ)してそれを綺麗に洗うということです。

 心の雑草即ち、迷いの雑草を刈り取って、清らかな智慧の水で汚れを綺麗に洗ったら、

 其処へドンブリコ、ドンブリコと「桃の實(み)」が流れてきたのです。

 お婆さんはそれを拾って持って帰ったのでした。 

「桃の實(み)」というのは、「生命(せいめい)の樹(き)の實(み)」であります。

 死神に対して「生命(せいめい)の樹(き)の實(み)」を投げると

 死神は消滅して逃げ出すのであります。

 これが、桃太郎の「鬼ガ島征伐」であります。>


 伝統様のご投稿より、「上巳の節句」(^^♪の御話です。<m(__)m>。


今朝はもう一つ、3月の仙厓和尚の書画、紹介です。

 「怡土高祖山 観世音寺 聖徳皇子の彫作也」

 筑前の国怡土郡の聖徳太子像に対した時のものだそうです。







 「日本国紀」より。


 韓国併合=余談になるが、大東亜戦争後に誕生した大韓

民国(韓国)は、併合時代に日本から様々なものを奪われた

と主張しているが、併合前まで百校程しかなかった小学校

を四千二百七十一校に増やし、全国児童に義務教育を施

し、一〇パーセントの識字率を六〇パーセント迄引き上げている。

この時にハングルを普及させている。

また全土がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植

え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の到る所に鉄道網を敷き、工場を建てた。

新たな農地を開拓し、灌漑を行い、耕地面積を倍にした。

それにより米の収穫量を増やし、三十年足らずで人口を約

二倍に増やした。同時に二十四歳だった平均寿命を四十二

歳にまで延ばした。きびしい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰なども廃止した。

これらのどこが収奪だというのだろうか。

ただ結果論ではあるが、百年後の現代まで尾を引いておる

のを見ても、韓国併合は失敗だったと言わざるを得ない。

あくまで、保護国として自立させる道を選ぶべきだった。

韓国の自立や近代化は何十年も遅れたろうが、それが両国にとって最善の道であったと思う。


                    (つづく)









 わが青春、続きです。


 私の青春の初まりも同様であった。私は何でもできるような気がしていた。

何か素晴らしいものや美しいものが何時も心を囚えてい

た。然しそれと同時にそれを果たし得ない悩みに常におそわれていたというのが事実である。

 やって見れば何でも出来そうな気がして、柔道もやった

し、剣道もやったし、また笛を吹いてみたり、絵を描いてみたり、船を漕ぎ、詩や歌を作ってみたりした。

何かの発明まで出来そうな気がして、一寸唾を吐いてもこ

れが何かの診断の手掛かりになりはしないかとという様な事まで空想した。

釋迦やキリストについても興味を持った。

                    (つづき)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/04 (Mon) 07:45:34



 連日、朝からよく晴れています(^^♪。

 雪が降らないのに驚いています。







 「日本国紀」より。


 明治天皇の崩御=不平等条約改正の悲願達成(明治四十

四年)の翌年、崩御された。

 慶応三年(一八六七)、十四歳で皇位についてから、日本

という国が数々の偉業を成し遂げたのを見守ってきた歴史に残る天皇であった。

                    (つづく)






 わが青春、続きです。


 但し私の父は医者であったから私は中学校を卒業すると先ず医者になることを考えなければならなかった。

自分ではそんなことを考えなかったが、兎に角高等学校に入るための試験を受けなければならなかった。

 然し私は中学校を卒業する頃から、絵がやりたくて、海や川や野原に出かけて写生に熱中した。

私はそれをやめて受験準備に一生懸命にならなければならなかったのに、それには余り熱心ではなかった。

 卒業した年、私は岡山の第六高等学校を受験したが、それは見事に失敗した。

当然であったというべきであったと思う。私はゆっくり何処かの高等学校に入るつもりでいた。

 ところがその年の秋、私の青春に思いがけぬ暴風が起こった。

それが私の一生を変えたと言ってもいいかもしれない。

                    (つづく) 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/05 (Tue) 08:09:03



 北海道新幹線の効果、初年度の7割減ですって!(^^)!。

どうしたものですか・・・。






 「日本国紀」より。


 古市公威=帝国大学工科大学の初代学長。内務省土木局

のトップとして全国の河川治水、港湾の修築を行い、
 近代日本土木行政の骨格を作った人物である。

 明治八年(一八七五)にフランス留学時の猛烈な努力は有

名である。猛勉強振りに宿屋の女主人が、休むように言う

と「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えた。

昭和を代表する作家、三島由紀夫の本名は平岡公威だが、

内務官僚だった祖父が尊敬する古市に因んで命名したものだ。

                    (つづく)













 中河先生のお話です。


 異性についての関心はフロイドが言うように、ほんの少年の日から始まるものらしい。

私は幾度か年上の少女を好きになったり、親類のうちの少女に憧れたりした。

然しそれらも前途の夢、何か偉大なものに漠然と憧れるという人生的な気持に較べると比較にならなかった。

 私は先ず偉い医学者にならなければならないと思っていた。そのために勉強しているのだと自分を励ました。

然し一方で私を捉えているものは色彩の魅力という事

で、たまに外へ出て絵を描いていると、その喜びは何とも言えなかった。

それは極めて自然なものでそこにはなんの努力も激励も必

要ではなかった。絵の具が再現してゆく外界の景色や物体が非常な喜びを私の心に与えた。

 そこへ私の従妹が突然現れたのである。

 大正四年十月七日の昼過ぎで、雨もようの日、駅から電

話がかかって来て荷物を取りに来てくれという、それで車夫がそれをとりに出かけた。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/06 (Wed) 08:12:11




 つれづれ草様、やむにやまれず様のご主張に納得の私ではあります!(^^)!。










 「日本国紀」より。


 北里柴三郎・高橋譲吉・鈴木梅太郎=医学の世界的発見

で知られる。でも色々な環境からノーベル賞受賞はなかった。

私が何より感嘆するのは、三人が義務教育のなかった時代

に少年時代を過ごしていることだ。藩校で学び、欧米人の成し得なかった業績を残した。

あらためて、当時の日本人の凄まじいまでの勤勉さと優秀さ、気骨に胸を打たれる。

                    (つづく)








 中河先生です。


 彼女の父は愛媛県の郡中という町で。私の父と同様医者を開業していた。

私自身小学校の頃、そこへ祖父と一緒に遊びに行って蚊帳

の中で寝た記憶もあった。然し私の郷里である香川県の坂
出との間にはまだ汽車がなく船でゆかねばならなかった。

おそらく六七時間かかるところではなかったかと思う。そ

れも船であるから一日に一回とか二日に一回とかいう様な不便さであった。

 今は恐らく二時間か三時間でゆけるのではないかと思う

が、何しろそんな不便な所から従妹がその妹であるたね子というまだ五六歳の少女を連れて遊びに来たのである。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/07 (Thu) 07:56:18




 小池栄子さんのご紹介の、武田先生のお話、すばらしいですけど、ちょっと難解な所が難でしょうか!(^^)!。

 経団連襲撃事件檄文、の理路整然、は特筆ものではないでしょうか?
私は感動しましたが…!(^^)!。









 「日本国紀」より。


 激動の二十世紀=西洋各国ではこれまでに経験したこと

のない大戦争(第一次世界大戦)によって、約一千万人が亡

くなった。新帝国が崩壊し、ロシア革命によって史上初めて共産主義国が誕生した。

                    (つづく)







 わが青春、です。


 そういう事は私の家庭では余りなかったことで珍しい事件に違いなかった。

男ばかりの六人の兄弟の中へ丁度同じ年頃の娘が来たので

あるから、それは匂うように美しく、その動作も言葉も色彩も総てが私たちの心を囚えた。

それは従来の自分たちの生活よりももっと魅力的でハイカラで親和と輝きにみちているように思われた。

彼女の持っている縮緬の袱紗やたね子の着ている赤い絹のチャンチャンコ――それらが何とも言えず心をひいた。

 私はその頃短歌を作って方々へ投書したりしていたの

で、彼女達のことを幾度となく唄ってそれをノートに書きとめていた。

 彼女は九日の日から私の部屋へ毎晩のように来て夜の十二時頃まで話した。二時頃になる時もあった。

その頃はランプであったから十二時といい二時という時間は今よりももっと夜更けの想いであった。

そんな夜が、一ヵ月つづいた。

いくら話しても話が尽きぬほどいろいろな話題が二人の心に湧いて来た。

                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/08 (Fri) 07:41:39




 冬もいよいよバイバイのようです(^^♪。







 「日本国紀」より。


 大正デモクラシー=東京六大学野球や全国中学校優勝大

会(現在の全国高等学校野球大会)や宝塚歌劇団が生まれ

た。また子供向けの娯楽である動物園、遊園地、雑誌、レコード(童謡)、玩具なども多く作られた。

明治維新からひたすら富国強兵に励んできた日本であった

が、大正時代になってようやく国民が娯楽や愉しみを享受できるようになった。

                    (つづく)









 わが青春です。



 私の部屋は二階の八畳間で、両親お部屋は下の一番奥に

あったから幾つかの部屋と薬局や待合室の横にある廊下を通ってこなければならぬようなところにあった。

何を話したか忘れたが、私たちの話は完全に融合していた。

 その従妹はその年の初め婚約したのであったが、その相

手は岡山の医専の学生でその費用を従妹の両親がだしていた。

 然し彼女はこの婚約に承服せず私の家へ逃げて来たというのがその時の心理状態らしかった。

一ヵ月間そんな夜が続いた。

 彼女の心にも何か多くの夢があったらしく、「君語りま

す多き理想を」という様な歌があるところからそれが想像できる。

 然し二人の間には何事も起こらなかった。それほど私達は純粋であり、精神的であった。

人間的欲望というものがどういう作用をし、それがどんな役目を持っているかをさえ知らなかったらしかった。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/09 (Sat) 07:56:16




 <4/30「退位の礼」中止、5/1「譲位、受禅の儀」催行を!>

正しいんですか(*^_^*)。








 「日本国紀」より。


 「ブロック経済」=イギリスを中心とする英連邦グルー

プ内の「ボンド・ブロック」アメリカを中心とした南北ア

メリカの「ドル・ブロック」、フランス、ベルギー、オラ

ンダ及び彼らの植民地グループの「フラン・ブロック」な

どが、グループ内だけの貿易を行い、世界の貿易額は七十パーセントも縮小した。

 昭和十四年(一九三九)に第二次世界大戦が勃発するが、

これはイギリスなど「(資源を)持てる国」と持たざる國

(日本、ドイツ、イタリアなど)の戦争だった。つまり第二

次世界大戦の遠因となったのは、世界恐慌に端を発したブロック経済だったのである。

                    (つづく)











 中河先生のお話です。


 十一月九日の夜、丁度彼女が私の部屋に来出してから一

ヵ月目、

「私はあなたを愛しています」
と彼女が言葉にして言ってくれた。

 それは私自身の言いたかった言葉であった。然し私は歌
としてこれを書きつけるだけで言うことが出来なかった。

ただ彼女はそのノートを幾度か見ていたから私の気持は充分わかっていたのにちがいなかった。

私は彼女にどんなに彼女に同情し、彼女を讃美し、そのことに感激したかしれなかった。

おそらく手をとりあったかもしれなかったが、それ以上の

事は何もなかった。それほど彼女も私も子供であったのにちがいなかった。

然しそれから三日後から彼女は急に私の部屋に来なくなっ

てしまった。そしてその翌日の昼たって岡山県
の親戚の方に行ってしまった。

その原因が何であったか私にはいまだにわからない。恐ら

く母が二人の間を心配して彼女を叱責したのではないかと今から思うと考えられる。

                    (つづく) 

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/10 (Sun) 08:00:55




  <新編108頁、頭注版126頁

また例えば、殺生を罪悪なりと観じて、肉食を禁断する如

きは浮世の欲望を離れたる相(すがた)である。しかし恵ま

れたる肉を歓んで受けること能わざる如きは一つの凝りである。

「凝り」は自在の凝滞であるから超越されなければならな

い。しかしてその恵まれたる肉を歓んで受け且つ食べ、相

手の供養の心を生かすと共に自分の肉体をも養い生かし、

供養を施すものと受ける者との調和した感謝の心をもって

その供養の「犠牲」をも生かす時、はじめてこの「凝り」は解けるのである。・・・>。

 聖経読誦様のご寄稿より<m(__)m>。








 「日本国紀」より。


 南京事件=昭和二年(一九二位七)三月に、蒋介石率いる

国民党が南京を占領した際、日本を含む外国領事館と居留民に対して行った襲撃事件である。

イギリスとアメリカの艦船は砲撃したが、日本は砲撃しなかった。→幣原喜重郎外務大臣の誤判断。

後、弱腰とみられた日本人に対するテロ事件が頻発した。


                    (つづく)









 わが青春、続きです。



 私はすぐ彼女宛に手紙を書いて悲しみを訴え、何とかしてもとの感情をとりかえしてくれと頼んだ。

然しそれに対しては何の返事も来なかった。

幾つ手紙を出しても、それには何の反応もなかった。

恐らく母の注意が余りにも烈しく、彼女の心を余りにも傷つけたのではないかと思われる。

それは今になってもそう考えるだけで、当時は看護婦か誰か嫉妬したか、中傷したかとより考えていなかった。

 従妹の容姿については、「絵よりも美しかった人」という私の嘗ての随筆に書いてある。

それが単なる少年の主観でなかったことは現存している彼女の妹達がみなどんなに美人であるかで証言せられる。

 然しそのために私は烈しい失恋に陥入ってしまったのである。

  天に泣き地に嘆けども奪われしわが喜は帰り来らず

  人もみず外にもいでず廿日経ぬけふ雨の日を泣きて歩めり


 その悲しみほど私を前途を真っ暗にしたものはなかっ

た。それが私を芸術の方へ一気に押しやってしまったと言っていい。アメリカへ渡ることもその頃考えた。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/11 (Mon) 08:20:19




 冬よバイバイ、とは言ったけれども、まだ、寒いです(*^_^*)。








 「日本国紀」より。


 国際連盟脱退=昭和八年(一九三三)、調査団が日本によ

る満州国建国を認めなかったゆえ。

この時点で後戻りできない道へ進んだともいえる。

                    (つづく)








 わが青春、です。



 私は耐えられぬ憂鬱に陥入った。それは一種の人生への拒否の形として私をとらえた。

私は何でも不潔だと思うようになった。私は身辺のものをみな消毒しだした。

その原因が何であったか判らないが、余りにも烈しい悲しみから一種の神経衰弱に陥入ったとより考えられない。

昇こう(工の下に水、コウの漢字の多きこと、その中にも

なかった→謹写者)は言うまでもなく毒薬の中でも最も恐ろ

しい毒薬である。私はそれを身辺から離さなくなってしまった。

それは十年くらい続いた。だから私の青春は失恋と消毒とで塗りつぶされたと言ってもいい。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/12 (Tue) 08:00:19




 日野君と神々の友達。様の論争、興味津々です(^^♪。

 また、奈良のお水取り、若狭の国にまで及ぶのでしょうか?浅学を恥じます(*^_^*)。






 「日本国紀」より。


 五・一五事件=国際連盟脱退の前年。昭和恐慌による経

済的苦境の中で、ロンドン海軍軍縮条約に不満を持った海

軍の急進派青年将校を中心とするクーデターで、首相官

邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、日本銀行、警視庁などを襲撃し、犬養毅首相を射殺した事件である。

 事件後、大正十三年から八年間続いた政党内閣は終わ

り、選挙で選ばれたわけではない軍人や官僚が首相に任命

されるようになる。この時、当時の新聞が犯人らに減刑を

訴えて、量刑が異常に軽いものとなったことから、二・二六事件を後押ししたとも言われている。

                     (つづく)







 わが青春、です。


 私はその間異性の事は殆ど考えず、如何にして自己を清

浄に保つかという事だけに熱中し、ひたすら黴菌の侵入を拒否することに費した。

 それは烈しい慟哭でもあったかもしれない。

私は絵を習うために上京して岡田三郎氏の本郷研究所に通

うようになっても、早稲田大学に入っても、恋愛から結婚

しても、その習癖からは長い間脱することが出来なかった。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/13 (Wed) 08:38:01



 明鏡様の自伝(^^♪、kannon様の新編「生命の實相」最後の

ところの御文章、衛藤晟一先生のご努力など、魅力満載!(^^)!の掲示板ではあります。

 また、「日本国紀」によれば、安重根はテロリストとなっておりますが!(^^)!。










 「日本国紀」より。


 二・二六事件=昭和十一年(一九三六)、陸軍の一部の青

年将校たちが約千四百人の兵士を率いて、首相官邸や警視庁などを襲撃した。

青年将校らは高橋是清(陸軍予算を削ったことで恨みを買

う)、斎藤実内務大臣を殺害した。(岡田啓介首相は難を逃れた)

 彼らは「天皇親政」という名の軍官僚独裁政治を目指し

ていた。これは立憲君主制を謳った大日本帝国憲法を否定するものであった。

 侍従武官長が青年将校たちの心情だけでも理解して貰い

たいと天皇に上奏したが、昭和天皇は

「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴な将校等、其精

神に於いても何の恕すべきものありや」と怒りをあらわにして一蹴した。

そして、軍を批判するとテロの標的にされるという恐怖か
ら、政治家は軍を批判できなくなってしまった。

二・二六事件以降、「統制派」が、統制経済、言論の自由

弾圧といった全体主義的な政策を推進していくという異常事態となったのである。


                    (つづく)








 わが青春、です。



 私はどこかの薬局からこれらの毒物を手に入れてそれを使用していた。

私はキタナイと思う自分のマントを目白から池袋の自分の
下宿まで縄を付けて引いて帰るような嬌態を演じた。

また寒い夜、昇こう水でぬらした蒲団の中にかがまって、寒さに慄えながら眠るようなことをした。

それは真剣な黴菌との戦であった。私はキタナイと思うも
のは何でも捨て、自己の所有物を出来るだけ少なくした。

私は自分自身を極度に痛めつける以外に自分の苦痛を忘れるすべを知らなかった。

 この事について書けばこれもきりがないが、言ってみれ

ば青春とは斯くも烈しく、斯くも恐ろしく、斯くも悲惨
で、斯くも危険な時代であるということを知らされた。

 感じやすい時代であるから、それはその人によってどんな形をとるかもしれない。

だから特攻隊のような捨て身の行動も出来るし、一歩誤れば全学連の様な無法な行動に陥ることもある。


                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。23 - 道産子

2019/03/14 (Thu) 08:23:22




 <なんかへんだなあさん (25894)

日時:2019年03月14日 (木) 01時28分

名前:アメリカ人ですが

    そうでしょうか?>・・・。


 日本人より生命の実相をご存知のようです(^^♪。







 「日本国紀」より。


 ファシズムの嵐=国家による凄まじい粛清が行なわれた。

ムッソリーニの政党ファシスタ党から生まれた言葉。

  暴力革命で政権を強奪したスターリンは別にして、ヒ

トラーやムッソリーニも正当な選挙で政権を取ったこと

は、即ち、国民が選んだ党であり、戦後ドイツ国民はすべ

てナチスのせいにして、自分たち国民も犠牲者であるとの論理を展開したが、これは欺瞞だ。

                    (つづく)









 中河先生の随筆、最終回です。


 それは平穏にたのしい青春を送る人も多いにちがいない。

然し私の青春の記は一口に言って余りにも惨酷なものであった。

余りにも多い憧れと夢と同時にそれを阻止する抵抗の烈しい格闘であったと言ってもいい。

 私にとっては青春は憂鬱な谷間であり、試練の時代であり、内側へ内側へと内攻していく苦痛の時であった。

それは殆ど運命的なもので自分ではどうすることも出来なかった。

然し今からふりかえって私は私の青春を無駄であったとは思っていない。


 その頃の歌に

 悔いごころこれの身にあらしむるなかれいよよすがしく生きて光れよ


というのがある。

そこから起ち上がろうとして決心するところがあったものかと思われる。
                                              (おわり)


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