伝統板・第二

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肉体《無し》 ② - 伝統

2019/01/14 (Mon) 04:47:24

      *伝統板・第二「肉体《無し》」からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7081156

《人間は死なぬ》

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月14日)より

人間は死なぬというのが生長の家の教えである。
それは生死を超越した「実相の本来生」なのである。
生滅は仮の相(すがた)である。

「肉体は本来無い」と説いているのが生長の家の教えである。

「無い」ものには死にようがないのである。
「肉体は無い、人間は本来生であるから《死なぬ》」と説くのである。

われら「久遠生命(せいめい)」と説くといえども、「《死ぬな》」ではない。
「《死なぬ》」である。死にようがない自覚である。
ここに無限の勇気が湧く。

「《死ぬな》」には死の予想がある。
「死ぬかもしれぬ」と思う予想があればこそ「死ぬな」と世人は言おう。
だから予想することは現れるという法則で、「《死ぬな》」と言えば勇気がくだける。

「《死なぬ》」と言えば勇気が湧き出る。
「死ぬな」「死なぬ」 ―― よく似ている言葉だけれども、全然違う。
この言葉の使いようを誤ってはならぬ。

            <感謝合掌 平成30年1月14日 頓首再拝>

肉体無の真理 - 伝統

2019/01/26 (Sat) 03:41:31


           *「光明道中記」(1月26日 万事和する日)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                   (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが
出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を大御親(おおみおや)として
仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

            <感謝合掌 平成31年1月26日 頓首再拝>

「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統

2019/01/28 (Mon) 04:25:08

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より

大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和することによって治る。

この反対の心持は病気を招くが、そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。

そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ ―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。

「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。
「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、もう「死〇」はないのである。

生き通しだぞ!  もう不死だぞ!  こういうしか仕方がない。

ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。

一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。

*〇:ね

            <感謝合掌 平成31年1月28日 頓首再拝>

「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統

2019/03/05 (Tue) 02:12:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 平成31年3月5日 頓首再拝>

無い肉体への執着を放下する - 伝統

2019/03/31 (Sun) 04:38:25


      *「光明道中記」(3月31日 平らかな心の日)より抜粋

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している
               (『人間死んでも死なぬ』)】


「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、一行でも、
御自筆の御返事を戴きたい」と云う意味の手紙を戴くが、
そんな方には『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。
人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。

吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。

            <感謝合掌 平成31年3月31日 頓首再拝>

人体は、相対的な位置から斯(こ)う視えると云うに過ぎない - 伝統

2019/04/04 (Thu) 02:33:36

       *「光明道中記」(4月4日 顛倒妄想を去る日)より抜粋


物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた
裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月4日 頓首再拝>

肉体の有無を超えて《本当にあるもの》(実相)を把む - 伝統

2019/04/05 (Fri) 04:24:14


           *「光明道中記」(4月5日)より抜粋

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、

今視えているような肉体の形は肉体そのものの形ではなく、
吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、
米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも相対的には本当であって、
絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

            <感謝合掌 平成31年4月5日 頓首再拝>

《自己が霊的実在であることに目覚めよ》 - 伝統

2019/06/06 (Thu) 02:31:00


        *「眞理」第9巻生活篇第13章(P351~352) より

人間は単に肉体ではない。
それでは肉体と精神との結合体であるかと云うと、そうでもない。

人間は「霊」である。
「霊」が物質的世界にあるはたらきをせんがためにその直接的道具として
作ったのが肉体であり、「霊」が物質世界に対処せんがために”眼”となり、
レーダーとなるために作ったのが精神である。

肉体は霊の従僕となり、道具としての役目をはたさんがために忠実であるのが、
肉体の使命である。

人間は誤って「肉体」を人間自身だと思いあやまり、
「霊」がアベコベに「肉体」の欲望に奉仕しようとする。
そして「自分がしたいことをするのが何が悪い」などと放言する。

そしてそれを「新しいモラルの追求」だなどと高尚ぶった理論づけをする者が
あるけれども、彼は自己自身が「霊」であると云うことを知らないのだ。

人間が霊であると知るとき人間は始めて行動に倫理性を獲(う)るのである。

         <感謝合掌 令和元年6月6日 頓首再拝>

《肉体は人間ではない》 - 伝統

2019/06/30 (Sun) 04:14:56


        *「眞理」第9巻生活篇第13章(P357~358) より

人間は食物(しょくもつ)を摂取してそれを消化器で消化し、
更にそれを吸収して血液中の養分として全身に搬(はこ)ぶのである。

しかしその栄養分の何元素を何処に搬(はこ)び、如何なる位置に排列して
人体の組織にするかを指導する「知性」は、人間の内部にある「霊」である
のである。

肉体それ自体は一種の自働機械に過ぎない。
それを使用するのは「霊」である。

肉体は一種の煉瓦建築物のようなものである。
煉瓦は搬(はこ)ばれて来る。
それは消化器を通して栄養分が肉体構成の材料として
搬(はこ)ばれて来るようなものだ。

しかし幾ら煉瓦を其処に積み上げても、それは建造物にはならない。
それを一定の設計に従って配列して行くことが必要である。

設計は設計家の知性によって行われ、その指導の下(もと)に
多くの工人(こうにん)が働くのである。

多くの工人(こうにん)は人体に於いては細胞である。
その設計を指導するのは「霊」である。

「霊」が人体である。

         <感謝合掌 令和元年6月30日 頓首再拝>

「肉体無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! - 伝統

2019/07/21 (Sun) 04:28:38


        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。(『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、瓦を研いても鏡にならないとしたならば
一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを
預言されたが、間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」と答えたとある。

         <感謝合掌 令和元年7月21日 頓首再拝>

《肉体は常に新たに造られている》 - 伝統

2019/08/15 (Thu) 04:25:45


      *「眞理」第9巻生活篇第13章(P360~361) より

慢性病があるからとて、肺臓が空洞になっているからとて
恐れることはない。

肉体は、造られつつあるのであって、一度出来てしまったら毀すより
ほかに改造の余地がないと云うような固定したものではない。

どんな固い鉄の棒でも、コンクリートの塊でも、それは吾々の感覚面に
固いとして感じられるだけのものであって、実はその中の分子は
間断なく自由運動しているものであることが物理学によって証明されている。

その自由運動をつづける分子が、ひとたび肉体の中に入り、「霊」の設計の
範囲内に移され、潜在意識の指導のサークル内に置かれると、その分子の
自由運動は、潜在意識の指導の下(もと)に置かれ、肉体を健全に補填し
構造する位置に配置せられ、肺臓の空洞は埋められ
肉体を健全に構造するに役立たない成分や分子は体外に排泄せられる。

先ず心を調(ととの)えて正しき位置に養分を配置するようにすれば
健康体が再生する。

         <感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>

《肉体は永遠に老いないのが原則である》 - 伝統

2019/08/27 (Tue) 03:34:21


        *「眞理」第9巻生活篇第13章(P361~362) より

肉体の古き細胞はそのエネルギーを消耗して死滅し、
常に新しき細胞がそれと交代して正しき位置に配置せられる。

だから、肉体は日に日に新たに造られれると言って好い。

それは皮膚の傷を見ても明らかである。
指先の皮膚に傷をしても、単に新しく皮膚と云う被膜がビニールを
かぶせたように出来るだけではなく、指紋までも元の通りに復旧する。

これは単に新しき栄養分が取って代ると云うだけではなく
微妙なる「知性」が、その栄養分を配置する時に細かい点に至るまで
指導しているのだと云うことが判る。

だからこの指導さえ誤らなかったならば、肉体は常に健全であり、
新しく若々しくあるのが当然であるのである。

生命(せいめい)は神より来たり、
神は永遠に老いないのであるから
生命(せいめい)も永遠に老いないのであう。

肉体も日に新生しつつあるから肉体も永遠に老いないのが原則である。
人間は霊肉ともに若いのである。

         <感謝合掌 令和元年8月27日 頓首再拝>

此の肉体は本来無し、本来寂滅の相(すがた)だと知る - 伝統

2019/09/19 (Thu) 04:09:04


     *「光明道中記」(9月19日《明暗を超えて一つの日》)より

 【唱うれば、仏も吾れもなかりけり、
   南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。一遍上人(『仏教の把握』)】

(歎異抄十五条)

   煩悩具足の身をもて、すでに悟(さとり)を開くといふこと、。
   この条もてのほかのことにさふらふ。
   即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
   (六根清浄はまた法花一乗の所説、)四安楽の行の感徳なり。

   これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
   来生(らいしょう)の開覚(かいがく)
   は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。
   これまた、易行下根(いぎょうげこん)のつとめ、
   不簡善悪(ふけんぜんあく)の法なり。


煩悩だらけの此の身で悟りを開くことは難しいが、
そんな身で悟を開かないで、自分の中に廻施(えせ)せられた信心で
悟をひらくことならば易しい極みであるのである。

悟の邪魔になるのは此の「煩悩具足の身」であり、
その身ありと思えばこそ、肉体が滅してから
浄土へ往生するなどの考え方が必要になって来るのである。

また即身成仏と云うことをここに大変難しい行事のように説かれているが、
それも此の肉体と云うものをアルと思えばこそ
肉体そのままで成仏するのは中々むつかしいと思えるのである。

ところが此の肉体が本来無し、
本来寂滅の相(すがた)だと知ったならば
このままで肉体も何もない、

唯”ある”ものは私の”いのち”だけではないか。

即ち其のまま即身成仏ではないか。

併し肉体”ない”と知り得ない人々は、
臨終を以て往生極楽の機とするのも悪くない。

         <感謝合掌 令和元年9月19日 頓首再拝>

肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ - 伝統

2019/10/06 (Sun) 04:34:32


        *「光明法語(10月6日《肉体を憎む勿れ》)」より

肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。

聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。

聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。

肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。
肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。

       <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>

肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統

2019/11/09 (Sat) 04:56:08

肉体を思い煩うことなかれ!

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より

人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。

思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。

神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。

そしてだれにも責任を負わせないで、
自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。

・・・

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より

人間は「神の子」であるから不死である。

死んだと見える人間は、
それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。

病気が治ったことを悟ったためであるというのは、
自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、
彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。

釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。

       <感謝合掌 令和元年11月9日 頓首再拝>

「肉体の無」の心は、無病息災延命長寿の心 - 伝統

2019/11/19 (Tue) 04:26:07


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月19日)より

「武士たらんものは、正月元日の朝(あした)、雑煮の餅を祝うとて、
箸を取り始めるより、その年の大晦日の夕べに至るまで、
日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、
本意の第一と仕り候。

死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い、
万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り、その徳おおき事に候。

その仔細を申すに、総じて人間の命(いのち)をば、夕べの露、あしたの霜に
なぞえて、随分はかなき物に致し置候中(おきそうろうなか)にも、
ことさら危うきは武士の身命にて候を、人々おのれが心ずましに、
いつまでも長生きをする了簡なるに依(よっ)て、

主君への末永き御奉公、親々への孝養も、
末久しき義なりと存(ぞん)するから事起こりて、
主君へも不奉公を仕(つかまつ)り、親々への孝行も疎略にて罷(まか)り
成るにて候(そうろう)、

今日(きょう)ありて、明日(あす)知らぬ身命(しんめい)とさえ覚悟仕り候
に於ては、主君の御前へ罷り出(い)で、御用を承るも、親々の顔を見上ぐるも、
これをかぎりと罷り成る事もやと、存ずる心あいに相成り候ゆえ、
主君への真実の思い入れと、罷り成らずしてはかなわず候。
さるに依て、忠孝の二つの道にも、相叶うとは申すにて候。」


享保年間の軍学者大道寺友山著『武道初心集』にこんなことが書いてある。
こんな心得は武士でなくとも、およそ大業を成さんとする者には必要な心構えである。


「日々(にちにち)夜々(よよ)、死を常に心にあつるを以て、本意の第一と仕り候」
というのは、生長の家の「人間不死」の真理とは全然反対なことのように思える
かもしれぬが、けっしてそうではないのである。

生長の家で言う「肉体無し」というのは「肉体」に対して
毎日毎時毎分毎秒毎瞬「死」を覚悟していることである。

ただ悪い連鎖を惹き起こす言葉を忌むがゆえに「死」という言葉を使わないで、
「肉体《無し》」と「無」の字を使うのである。

「死」という言葉を使う場合には、戦場とか、病気とか、
何か非常時が来てから初めて肉体が死ぬように思い、常住坐臥の時に
は肉体は死なぬように思い、肉体を《ある》かのように思って執着しやすい。

そこで前記『武道初心集』にも「日々夜々死を常に心にあつるをもって本意とす」と
特に力説しなければならなかったのであろう。

しかしわれわれのように「肉体は無い! 」と端的に表現してしまったら、
非常時でなかろうが、戦場でなかろうが、「肉体の無」が平常心に刻み込まれる
のであるから、日々夜々とり立てて「死」を心に思わずとも、
常住坐臥いかなる場合にも、武士道に協(かな)った生活を生きることになるのである。

「死をさえ常に心になって候えば、忠孝の二つの道にも相叶い」というのは、
肉体本来なしの境地に到れば、肉我に対する執着がなくなるので自然法爾に
天地の道に協(かな)うことを言ったものであって、
自殺などして身を殺すことではないのである。

それどころか、我執なき自然法爾のはたらきは、その生活が道にかなうがゆえに、
『万(よろず)の悪事災難をも遁れ、その身の無病息災にして、寿命長久に、
あまつさえその人柄までもよろしく罷(まか)り成り』と大道寺友山翁が
書いたとおりになるのである。

キリストの生命(いのち)を捨つる者は生命(いのち)を得(う)」と
言った言葉も同じ意味である。

「無病息災になろう」と思って、
日々夜々武士のごとく「死」を心から放さないのではない。
無病息災になどなろうという心はすでに「死」を覚悟している心であって、
かえって寿命短くなる心である。

無病息災になどなろうと思わない心になってこそ、
その人は「肉体の無」を常に心から離さない心であり、
かえって無病息災延命長寿の心なのである。

       <感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>

《自己を死に切る》 - 伝統

2019/12/21 (Sat) 04:08:45


        *「光明法語」(12月21日)より

『悔改め』を佛教では『懺悔』と言い、自己放棄と言い、
パウロは『自己を死に切る』と言った。
一遍、肉体としての自分を死に切ったとき、
霊の自分に復活(よみがえる)るのである。

自分を肉体だと思っている限りに於いて、
人間はエデンの楽園から追放せられなければならない。

自分を肉体だと思う知恵は、地(物質)に執した蛇の知恵である。
蛇は地を這う動物であり、地は物質を表徴し、

物質ありとして執着する五官を『蛇』をもってあらわし、
その蛇に教えられたる知恵を『知恵の樹の果』をもって表徴する。

       <感謝合掌 令和元年12月21日 頓首再拝>

《人間は何であるか》 - 伝統

2020/02/16 (Sun) 03:54:29


           *「光明法語」(2月16日)より

人間は肉体ではない。
肉体は《人間》の肉体である。

それなら人間とは何であるか、人間とは生命である。
『生きる力』であり、『愛する力』であり、『思考する力』である。
肉体は『生きる力』が想念の活動を組み合わせて創造(つく)ったところの産物である。

本当の人間は、その想念し考えるところの本体なのである。

吾々が『悪』を想念することは、吾々自身が『悪』に成ることである。
想念とは生命の波であり、生命そのものが想念することによって
『想念するところのもの』になるのである。

            <感謝合掌 令和2年2月16日 頓首再拝>

《人間は肉体ではないのです》 - 伝統

2020/03/03 (Tue) 03:10:32


          *「真理」第9巻生活篇(P18~19)より

肉体を一定の人間の形につくり出す「知性」 ―― その「知性」によって、
食物から摂取された成分が人間の形に排列せられるのです。

たとい牛の肉を食(く)っても牛の形にならず、鶏(にわとり)の肉を
食っても鶏の形にならず、「人間」の形につくり上げるのは、
この「知性」の働きによるのです。

この「知性」こそ吾々人間の本体であって、
この人間の本体を「生命の実相」と言うのです。

肉体は、この「知性」が自己の理想(理念)のとおりに、
食物(しょくもつ)を素材として造り上げた「道具」なのです。

「道具」は人間ではない、それを使うところの
「目に見えざる知性」こそ「人間そのもの」なのです。

肉体を「人間そのもの」だと間違って考え、肉体を楽しませることが
「人間そのもの」を楽しませることだと考えるところに、
人間の利己主義や、快楽主義や、侵略や、平和を紊(みだ)すものが生ずるのです。

            <感謝合掌 令和2年3月3日 頓首再拝>

「肉体本来なし」「肉体は念(こころ)の影」 - 伝統

2020/03/05 (Thu) 03:46:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 令和2年3月5日 頓首再拝>

生命の純粋波動を現せ - 伝統

2020/03/19 (Thu) 04:59:19


           *「光明法語」(3月19日)より

肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。

生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。

生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。

自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである。

            <感謝合掌 令和2年3月19日 頓首再拝>

無い肉体に執せず、「肉体無し」と執着を放下する - 伝統

2020/03/31 (Tue) 04:57:23


      *「光明道中記」(3月31日《平らかな心の日》)より抜粋

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している(『人間死んでも死なぬ』)】


「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、一行でも、
御自筆の御返事を戴きたい」と云う意味の手紙を戴くが、そんな方には
『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。
人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。

吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。

           <感謝合掌 令和2年3月31日 頓首再拝>

肉体の「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把む - 伝統

2020/04/05 (Sun) 04:44:58


        *「光明道中記」(4月5日《人に宿る美を知る日》)より抜粋

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、今視えているような
肉体の形は肉体そのものの形ではなく、吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも相対的には本当であって、
絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

           <感謝合掌 令和2年4月5日 頓首再拝>

あなたが目覚めるのを待っている存在 - 伝統

2020/04/21 (Tue) 03:10:12


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2019年12月16日)より

人間は霊的目が閉じられて、この世という物質世界の牢獄の中に生まれてきます。

まるで手探りで洞窟の中を進むように、人はこの世で生きているのです。


そして人間というものは物質のみで出来たものであり、
多くの人が世界はこの暗闇の洞窟だけだと信じて生きています。

しかし、洞窟の外には、光の溢れた外の世界があります。

真実の世界は霊的世界であり、
人は洞窟のような物質世界に一時期降りてきているのが実態です。

洞窟で暮らすうちに、私たちは自らの本質をも見失っていきます

まるで機械人形のように、物質だけで作られた存在が人間であり、
機能の停止するのがすなわち死だと思い違いします。

人間とは肉の塊に過ぎないという考えに陥ってしまいます。

ですが、私たち人間の本質というものは、実は、神の光が宿った存在なのです。

全ての人に神の光が宿り、
その光は物質で覆われているため、容易に外に出てこないのです。

硬い甲羅に覆われていて、私たちの本質である光は、
漏れ出ることなく閉じ込められています。

しかし、地上に生きている私たちが、
真実に目覚め、自らの本質が神の光だと知り、光を輝かせ、
さらに広めようと願うなら、その姿を喜んでみている存在がいます。

私たちは地上に生きる孤独な存在だと思いがちですが、
実は目に見えない霊的存在に見守られているのです。

天使たちや高級霊と呼ばれる存在はあなたを見守っていて、
目覚める時を待っています。

そして地上の私たちが真実に目覚めたなら、
それをともに喜び、祝福してくれています。

あなたが真実を知り、使命に目覚めたなら、
「これで本当の人生を歩んでいける」と喜ぶ者たちがいます。

(中略)

どうかあなたが目覚めるのを待っている存在がいる事を知ってください。

そして真実に目覚め、本当の人生を歩むようになってください。

それは特別なものではなく、
自らが神の光を宿した存在に相応しい生き方をする事です。

どのような思いや行動が、
光の本質に相応しく、また相応しくないかを考えてください。

光はあなた方とともにあり、あなたは光と共にあります。

光の道を歩んでください。

それが真実の世界に繋がっていく道なのです。

 (https://www.spacebrothers.jp/2019/12/blog-post_16.html

           <感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>

《人間は肉体ではない、霊である》 - 伝統

2020/05/04 (Mon) 04:09:35

          *「真理」第9巻生活篇第2章(P33~34)より

あなたが30年前に結婚した良人は、かれを肉体的方面から観察しますと、
骨の奥までその分子は交代してしまって、全然結婚した当時のあなたの
良人ではありません。

それでも矢張り、かれは貴女の同じ良人なのです。

何処があなたの同じ良人でしょうか。
肉体でないことは明らかです。
肉体は、もう十数年も昔から別の肉体と掏(す)りかえられているのですもの。

それなのに貴女はやはり彼を終始一貫した一人格なる自分の良人だと考えるのです。
従ってあなたの良人は「肉体」そのものでないことは明らかであります。

あなたの真の良人は、肉体ではなく、その肉体を象徴として立っている
眼に見えない「一人格」(又は「霊」)であるのです。

その霊は肉体が入れ代わっても、変わらない、古き細胞(肉体)が
滅んでしまっても死なないのです。

肉体が死んでも死なないで永遠につづくもの、
即ち「本当の人間」なのです。

           <感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>

肉体は、人間の実相の無限内容を表現するための道具に過ぎない - 伝統

2020/05/17 (Sun) 02:50:25


          *「真理」第9巻生活篇(P26~27)より
           ~《真に生き甲斐ある生き方をいたしましょう》

肉体は人間ではなく、人間の実相の無限内容を表現するための道具に過ぎない
のでありますから、道具であるところの肉体ばかりを可愛がっても
本当の幸福感は得られません。

物質でも肉体でも「実在」ではなく、それは「表現」でありますから、
結局一時的なものであって永遠のものではありません。

肉体が常に若々しく続くのは、肉体が永遠なのではなく、常に死滅する細胞を、
肉体の精神原理(霊なる人間と云う超在意識<スーパー・コンシャスネス>)が
潜在意識と媒介として、新生細胞を以って置き換えて行くからなのです。

物質はどこまでも須臾にして消え、霊のみが永遠なのです。

あなたが永遠に不死となり、永遠なる生き甲斐を感じようと思われるならば、
「霊なる自分」「神の子なる自分」を自覚し、単に肉体を悦ばすためだけに
生活せず、自分の本質たる「神の子」の悦ぶ生活をしなければなりません。

           <感謝合掌 令和2年5月17日 頓首再拝>

「肉体無し」 - 伝統

2020/07/20 (Mon) 03:45:28


        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。(『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より抜粋

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、
瓦を研いても鏡にならないとしたならば一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」


           <感謝合掌 令和2年7月20日 頓首再拝>

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん) - 伝統

2020/07/22 (Wed) 04:53:50

        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死〇ばその病気は治っている。
                         (『生命の實相』第八巻)】

  *〇:ね

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

           <感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝>

「肉体」無し、「本当の自分」のみあり - 伝統

2020/07/23 (Thu) 04:51:03


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが
「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との截然(せつぜん)たる分離は、
南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
やはり死んで四大に復帰するのですか」などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。

           <感謝合掌 令和2年7月23日 頓首再拝>

『肉体なし、物質なし』『大御心のみあり』 - 伝統

2020/09/01 (Tue) 05:10:04

      *「光明道中記」(9月 こころ極まる~【常住戦死の心】) より
          (初出は「生長の家」誌・昭和14年9月巻頭言)

宇宙には唯一(ただひとつ)、大御心のみがある。

天皇の大御心である。

『忠』とは大御心に無我帰一する心である。
すなはち天之御中主大神の心に『中(ちゅう)』する心である。
『中(ちゅう)』とは的に中(あた)るであり、御本質に貫き徹するのである。

宇宙の實相に少しもウラハラなることをせず、
無我になりて宇宙の心に従うのである。

吾らが大御心を行ずるのは、
それによつて幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。

さう云う第二次第三次の事物よりも、
尚々すぐれて無上価値なるものが大御心である。

その大御心を実現することは無上価値であるが故に、
そのやうな第二次、第三次のお蔭などは心に微塵も止(とど)めないで、
大御心を行ずるのが『忠』である。 

そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。
戦場に於て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。

これを『死』と云ふ不吉な連想を伴ひ易き言葉を用いず、
『肉体なし、物質なし』と吾らは言う。

その死に切った心だけでは消極的否定の心である。

そこに『大御心のみあり』の大肯定がなければならぬ。

生長の家ではこれを『神一元』と言う。

天皇獨在とも言う。

           <感謝合掌 令和2年9月1日 頓首再拝>

肉体本来無し、其のまま即身成仏 - 伝統

2020/09/19 (Sat) 04:20:46


      *「光明道中記」(9月19日《明暗を超えて一つの日》) より抜粋

 【唱うれば、仏も吾れもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。一遍上人
                            (『仏教の把握』)】

煩悩だらけの此の身で悟りを開くことは難しいが、
そんな身で悟を開かないで、自分の中に廻施(えせ)せられた信心で
悟をひらくことならば易しい極みであるのである。

悟の邪魔になるのは此の「煩悩具足の身」であり、
その身ありと思えばこそ、肉体が滅してから
浄土へ往生するなどの考え方が必要になって来るのである。

また即身成仏と云うことをここに大変難しい行事のように説かれているが、
それも此の肉体と云うものをアルと思えばこそ
肉体そのままで成仏するのは中々むつかしいと思えるのである。


ところが此の肉体が本来無し、本来寂滅の相(すがた)だと知ったならば
このままで肉体も何もない、唯”ある”ものは私の”いのち”だけではないか。
即ち其のまま即身成仏ではないか。

併し肉体”ない”と知り得ない人々は、
臨終を以て往生極楽の機とするのも悪くない。

           <感謝合掌 令和2年9月19日 頓首再拝>

《五官は番犬に過ぎない》 - 伝統

2020/09/29 (Tue) 04:39:36


       *『 生長の家 』(昭和25年7月2日の法語)より

   五官の心は 「人間自身」 ではなく
   人間の道具である。
   それは 番犬のようなものである。

   五官の喜びは 番犬の喜びであり、
   人間自身には ニセモノであり、迷わしであり、
   それは 幻にすぎないのである。

   幻にすぎない快楽は
   永遠に持続するものではない。

   されば ニセモノに打ち克ち
   本物を現わすために
   決然 克己心をふりおこして

   過去の肉体的欲望の惰力に
   打ち克たなければならないのである。

   肉体の快楽は 一時的に汝を喜ばすかは知れないが、
   汝の魂に深い悩みと淋しさとを残すのである。

   それは 「 本当の自分 」 が
   打ち敗(ま)かされたからである。

   本当の魂を喜ばすのは
   実相智によるほかはないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和2年9月29日 頓首再拝>

《肉體は“被造物”である》 - 伝統

2020/10/10 (Sat) 04:31:37


        *『 生長の家 』(昭和43年7月2日の法語)より

   古い細胞の死も、新しい細胞の新生も、
   その背後に、一層偉大な支配者があって、
   それによって支配されているのでゐるのである。

   それ故に肉體それみずからは被支配者であって主人公ではないのである。

   人體の主人公は、肉體それみずからでなくて、
   「肉體の奥に物質の奥に霊妙きはまりなき霊的存在」として
   “神の子”が存するのである。

   “神の子”とは、神なる大生命の分流が人體に宿って、
   そこに神の叡智をもって人体を支配してゐるところのものを指すのである。

   肉體は、この“神の子”が設計し工作し、
   神の生命を宿すところの「神の宮」としてつくられたものである。

   “肉體”はこのやうにしてつくられたものであるから、
   人間を“肉體”そのものとして観る以上は、
   人間は”被造物”に過ぎないのである。

   それは “つくられたるもの”であり、
   それが、”造られたもの”である限りに於いて、
   それはやがて毀れるものであり、“死すべきもの”であるのである。

   人間が肉體である限りに於いて、“永遠の生命”は無いのである。 

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4307

           <感謝合掌 令和2年10月10日 頓首再拝>

《消ゆる肉体を永遠の存在だと思うな》 - 伝統

2020/11/16 (Mon) 03:35:31


      *『 生長の家 』(昭和25年7月15日の法語)より

   意志強きものは
   やがて神の国に到達することができるのである。

   愛深きものは
   すでに神の国に到達しているのである。

   智慧明らかなるのもは
   神の国へ行く道を知るのである。

   知り且(か)つ行ずるもののみ
   本当に神の国に住むことができるのである。

   愚かなるものは、
   この消ゆる肉体を永遠の存在であると思い、
   それを追求し それを美しく保ち、

   人に好かれ様と思うのであるけれども、
   彼は 魂のみが本当の存在であるということも知らないのである。

   折角(せっかく)手入れをし 美しくし 人に好かれた肉体も
   やがて衰えしなび美を失いて死するのである。

   肉体は一時の影にすぎないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和2年11月16日 頓首再拝>

“真のあなた”の安全な姿を一心不動に見つめる - 伝統

2020/11/30 (Mon) 04:50:45


          *「精神科学」(昭和45年9月号)より
           ~維摩経を語る―承前―    谷口雅春先生

 本当に存在するのは“善”なる実相のみ


維摩は「なにが不生であるか何が不滅であるかを知れ」という。

肉体は本来“不生”であって無いのである、
そんな“無いもの”を把む心を捨てなさい。

本当にあるのは”善なる実相”だけである。

実相は肉眼に見えないけれども、あなたの本体は、肉眼には見えないが、
“完全な実相のあなた”が今此処にいらっしゃる、
それが“真(ほんと)のあなた”である。

その“真(ほんと)のあなた”をじーっと見詰める修行が神想観である。


こうして“真のあなた”の安全な姿を一心不動に見つめると、
その実相の通りの心の波動が此の肉体という楽器に、
完全な音楽を奏することになる。

その心の弦の奏でる音楽が具体化して”肉体の繭”が出来ているんだから、
自然に肉体も健康になるのである。

つまり”肉体”という楽器は自分の奏でる音楽によって、
肉体の其の姿を自己修正するようになっているわけであります。


 “不生不滅を行ずべし”と維摩は説く


何が不生であるか何が不滅であるかをハッキリさせなければならないのです。

“病気は不生であるから本来ナイ”と教えられ、
それは頭で解ったようだけれども、しかし、病床に横たわっている人は、
自分の病気の肉体をアルと思って可愛がっている。

これでは「不生不滅を行じた」のではないんであります。
無いものを“無い”と知り、不滅のものを不滅であると知らなければならない。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594

           <感謝合掌 令和2年11月30日 頓首再拝>

因縁所生の肉体というもの - 伝統

2020/12/15 (Tue) 04:58:30


          *「精神科学」(昭和45年9月号)より
           ~維摩経を語る―承前―    谷口雅春先生

戦後の日本人は、アメリカの民主主義が導入されて来て、
国家よりも個人の福祉を重んずる個人主義になってしまったのであります。

現行憲法によれば個人さえよければいいのであって、
国家も国民が福利を得るための道具であり、
主権は国民にあって国家主義というものはない。

国民が福利を得る為に信託してやらしているのが国政であると、
現行の占領憲法には書いてあるのであるから、
国民の福利にならん国家なら、その信託を解除できる
というような日本国憲法の前文がある。

従って国民の福利を害すると国民が解釈するならば、

自衛隊の行動をも裁判官の判決によって停止できるように
なっているのであります。


 しかしよくよく考えて見ると、人間は単に個人として
存在するんじゃないのであって、個人としても存在しないことはないけれども、
個人だけでは生きられるものじゃないのです。

すべての人間とのつながりによって人間は生かされている。
だから、“ヒト“は単に「人」ではないのであって「人間」である。

また「人」という字も、両方から、もたれ合いで立っている象形文字である。
仏教ではこれを縁起という。

人間は因縁によって生じたものである。

“袖振り合うも他生の縁”という諺があるんですが、
兎もかく一人では生きられない。

こんな洋服だって、これは誰かが、オーストラリアで育った羊が拵えてくれた
羊毛で織られたものであるけれども、その羊は誰が拵えたかというと、
神様が拵えたのである。

神が拵えて、その羊の毛を人間が刈って来て、それをキレイに洗って染めて、
織りなして、やがて洋服屋が寸法を測ってこれを製造した。

その間には数え切れないほどの沢山の人の縁に従って、
ここに姿をあらわしているのであって、ただ一着の洋服を着ようと思っても、
自分の力だけで出来ているのではないのであります。


http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594

           <感謝合掌 令和2年12月15日 頓首再拝>

《キリストの復活》 - 伝統

2020/12/23 (Wed) 04:38:24


       *「光明法語」(12月23日)より

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、
 再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

           <感謝合掌 令和2年12月23日 頓首再拝>

《影を追いて実を求めぬ者は愚かなり》 - 伝統

2021/01/13 (Wed) 03:02:46


       *『 生長の家 』(昭和25年7月14日の法語)より

   肉体も 現象世界も 影であることを知れ。

   汝ら影であるもののみを追いて、
   実なるものを何故(なぜ)かえりみぬか。

   本当の喜びは 「 実 」 なるものからのみ得られるのである。

   影であるものは空(むな)しいのであるから、
   それを得たら幸福であろうかと思って“つかんで”みると、
   それは本来 存在しないのであるから
   その喜びは消えてしまうのである。

   だから肉体の快楽は追求してつかんだ後には
   辛き疲労が淋しさが残るだけである。

   しかも本当のものをつかんでいないから
   益々(ますます)飢えかわいて飽くことを知らないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和3年1月13日 頓首再拝>

肉体無、生命の《ひとつ》流れを把握せよ - 伝統

2021/01/26 (Tue) 03:37:51


           *「光明道中記」(1月26日《万事和する日》)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                   (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに
此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を
大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、
肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

           <感謝合掌 令和3年1月26日 頓首再拝>

「肉体本来なし」の喝は、人を生かす - 伝統

2021/01/28 (Thu) 02:20:17


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月28日)より

大部分の病気は、病気の存在を思わぬこと、恐れぬこと、焦らぬこと、
すべてと仲よくすること、すべてに感謝すること、すべてと調和することによって治る。

この反対の心持は病気を招くが、そういうまちがった心境に導く最第の悪徳は、
利己主義 ―― すなわち自分を守ろうとする観念(かんがえ)である。

そういう人々にはまず「死〇」と喝(かつ)せよ ―― まず「自己」を殺すこと。
「死ぬ」決心ができたら神経衰弱はない。
生長の家で説く「肉体本来なし」の喝は、その「死〇」さえも粉砕する。

「死ぬ」べき「自己」、「死ぬ」べき「肉体」さえも、
もすでに葬(ほうむ)り去られた喝である。

「死〇」の言葉には、まだ「自己」があり、「肉体」がある。
「自己」を滅ぼし、「肉体ありの観念」を滅ぼしたものには、
もう「死〇」はないのである。

   *〇:ね

生き通しだぞ!  もう不死だぞ!  こういうしか仕方がない。

ただし「自己」があり、「肉体」ありと思っている者には、「死〇」の喝が効を奏する。
「喝」は対機(たいき)よく迷妄を打破する摧破(さいは)の武器であるが、
その語義を言語学から考察しても本当の作用はわからぬ。

一剣よく百人を併殺すれど、その剣を分析すれば、微量の炭素およびタングステンまたは
モリブデンを含有せる鍛鉄(たんてつ)にすぎない。

          <感謝合掌 令和3年1月28日 頓首再拝>

肉体は無い、痛みは心にあり、五官はそれを映す - 伝統

2021/02/10 (Wed) 03:16:07


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら
子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。

かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。

「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」

「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」

殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。

と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。

やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者と話していた。

野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのあった。

打つ心は打たれる心である。
打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。
相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。


阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、

釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。

阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。


そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。

「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。

「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。

「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」

『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちにその修行者はどこかへ姿を消してしまった。


野村さんの捌(さば)き方と、わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。
野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。

ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。

相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。

「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、
「指導の最中には相手を指導することきり考えない。
修行者が増えるとか減るとか、損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。

           <感謝合掌 令和3年2月10日 頓首再拝>

《肉体は死んでも人間は死なない 》 - 伝統

2021/02/28 (Sun) 06:41:18


        *『生長の家』(昭和25年7月16日の法語)より

   日々に神想観を行じ、
   日々に聖典をよみ、
   日々に慈悲と愛とを行ずるものは、

   太陽が東より出(いで)て、輝きて西の空に入るが如(ごと)く
   その魂は必ず霊的光輝を発して極楽浄土に沈むのである。

   然(しか)しながらその魂は死するのではないのである。

   太陽が輝きて西の空に没するとも
   太陽は死んだのではないが如く、

   人間の魂も、没したかの如く見えようとも
   決して死んでいるのではない。

   人が死するが如く見えるのは、 「 幻 」 にすぎない。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>

「肉体本来なし」とは - 伝統

2021/03/05 (Fri) 04:13:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月5日)」より

山(やま)山(やま)にあらず、世人(せじん)これを山(やま)という。
物質物質にあらず、世人これを物質という。
肉体肉体にあらず、世人これを肉体という。

『生命の實相』の中に「肉体は物質である」とも「肉体は無い」とも書いてあるのは
この理由である。生長の家の「肉体本来なし」とは、ここに見える肉体が、
われわれが普通考えているような意味での「物質」ではないという意味である。

それでは肉体とは何であるか。
「生命(せいめい)」の放射線(念)の時間空間の鏡面への反映である。
鏡面へのその反映が歪(いびつ)なく完全であれば健康なる肉体という。

その反映が不完全であるのを不健康なる肉体という。
このことを「肉体は念(こころ)の影」と簡単にいう。

鏡面の曇りとは無明(まよい)である。
生命(せいめい)と鏡面との間に「迷い」が介在して時間空間面への反映を曇らし、
不純に屈折するとき不健全なる肉体は現れる。

明るい鏡面には《そのまま》が映る。
曇りのない鏡面には《そのまま》が映る。
《そのまま》は完全であるほかはない。

            <感謝合掌 令和3年3月5日 頓首再拝>

神の国に入るには、肉体なしの自覚に入ることが必要 - 伝統

2021/03/28 (Sun) 04:59:12


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P98~100)より

(八)
   幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。
                     (「マタイ伝」第5章3)


   茲(ここ)にパリサイ人にて名をニコデモという人あり、
   ユダヤ人の宰(つかさ)なり。
   夜イエスの許(もと)に来たりて言う、

   「ラビ、我らは汝の神より来たる師なるを知る、
    神もし偕(とも)に在(いま)さずば、
    汝が行なうこれらの徴(しるし)は誰もなし能わぬなり。」

   イエス答えて言い給う、
   「まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず。」

   ニコデモ言う、
   「人はや老いぬれば、争(いか)で生まるる事を得んや、
   再び母の胎に入りて生まるることを得んや。」

   イエス答え給う。
   「まことに誠に汝に告ぐ、……肉によりて生まるる者は肉なり、霊によりて
    生まるる者は霊なり。なんじら新たに生まるべしと我が汝に言いしを怪しむな。
    風は己が好むところに吹く、汝その声を聞けども、
    何処より来たり何処へ往くを知らず。
    すべて霊によりて生まるる者も斯くの如し。」

   ニコデモ答えて言う、
   「いかで斯かる事どものあり得べき」

   イエス答えて言い給う、
   「なんじはイスラエルの師にして猶かかる事どもを知らぬか。
    誠にまことに汝に告ぐ、
    我ら知ることを語り、また見しことを証(あかし)す、
   
    然るに汝らその証を受けず。われ地のことを言うに汝ら信ぜずば、
    天のことを言わんに争(いか)で信ぜんや。
    天より降りし者、即ち人の子の他には、天に昇りし者なし。」
                     (「ヨハネ伝)第3章1~13)


「肉」によりて生まるる者は肉なり」とイエスは言い給うているのであります。

この肉体を「人間」そのものだと思っていて、
それを新たに生まれ更わらせようと思っても、
依然として肉によりて生まるる者は肉なのであります。

われわれが神の国に入るためには、(神の国に病人などはない)
自己自身が肉でないという自覚に立ち復(かえ)ることが必要なのであります。

「知恵の樹の果」すなわち五官知にまどわされて
「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」と
宣告せられた原罪後の人間から脱却して、

イエスのいわゆる「天より降りし者」
(すなわち神聖降誕なる人間)たる自覚に立ち帰るには

どうしても「肉なる存在」としての
人間の自覚(「肉より生まれし者は肉なり」)から
脱却しなければならないのであります。


それにはなんらかの形式で肉体の否定をしなければならない。

イエスの硺殺(はりつけ)を通してイエスの贖(あがな)いを信じて、
イエスの肉体抹殺と一体につながる自覚によって、
自己の肉体のいっさいの罪が消えたと
信じて、霊なる自分に復活することも一つの方法であります。

あるいは「人間は神の子だ」という直接体験の真理を
そのまま幼児(おさなご)の心になって
信ずることもその一つの方法であります。

あるいは「人間は神の子だ」という
直接体験の真理をそのまま幼児の心になって
信ずることもその一つの方法であります。

あるいは「物質本来無」という新興物理学の理論を基礎として
「肉体本来無」を悟る近代的哲学で悟ることも一つの方法であります。


イエスの説教のしかたは直接体験の直接説法でありましたから
「吾ら知ることを語り、見しことを証(あかし)す」
と言っていられるのであります。

人間が神の子であり、霊的存在であるということは自内証の真理であります。

それは哲学的に理論で追いつめて行く方法(谷口哲学、
またはヘーゲル哲学のごとき)もありますが、

どうしてもそれが単なる哲学に止(とど)まっていては、
富士山の周囲から眺めて行く方法であって、
富士山そのものの頂上を踏破したようにハッキリ、
生命の頂上に出て一点の曇りなき青空を仰ぐようには
生命をつかみえないのであります。

そこで生命の本性の絶対認識には宗教的直接把握が必要なのであります。

              <感謝合掌 令和3年3月28日 頓首再拝>

無い肉体への執着を放下(ほうげ)する - 伝統

2021/03/31 (Wed) 04:52:30


           *「光明道中記」(3月31日《平らかな心の日》)より抜粋

【人間は死なない。悲しんでいるのは遺族ばかりであって、
 死んだ人は却(かえ)って吾々よりも生々と生活している(『人間死んでも死なぬ』)】

「先生に返事を戴いたら屹度此の病人は治ると信じますから、一行でも、
御自筆の御返事を戴きたい」と云う意味の手紙を戴くが、

そんな方には『人間死んでも死なぬ』の本を読んで戴きたい。

生長の家が説いているのは肉体の永生(ながいき)の事ではない。

人から驚疑(きょうぎ)の目を以て見られながらも「肉体無し」と
大胆に説いているのが吾々である。

無い肉体に執するから寿命を縮める。

吾々の所説を素直に信じて、「肉体無し」と一躍超入
執着を放下(ほうげ)したとき病気が速やかに治る事実は《ある》。

              <感謝合掌 令和3年3月31日 頓首再拝>

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん) - 伝統

2021/07/22 (Thu) 04:32:48

        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死〇ばその病気は治っている。
                       (『生命の實相』第八巻)】

   *〇:ね

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 令和3年7月22日 頓首再拝>

「肉体」無し、「本当の自分」のみあり - 伝統

2021/07/23 (Fri) 03:48:46


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが
「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との截然(せつぜん)たる分離は、

南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは

「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
 やはり死んで四大に復帰するのですか」

などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
 また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
 そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

 月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
 没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 令和3年7月23日 頓首再拝>

肉体はない、唯”ある”ものは私の”いのち”だけ - 伝統

2021/09/19 (Sun) 04:54:54


     *「光明道中記」(9月19日《明暗を超えて一つの日》)より抜粋

 【唱うれば、仏も吾れもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
                  一遍上人(『仏教の把握』)】


煩悩だらけの此の身で悟りを開くことは難しいが、
そんな身で悟を開かないで、自分の中に廻施(えせ)せられた信心で
悟をひらくことならば易しい極みであるのである。

悟の邪魔になるのは此の「煩悩具足の身」であり、
その身ありと思えばこそ、肉体が滅してから
浄土へ往生するなどの考え方が必要になって来るのである。

また即身成仏と云うことをここに大変難しい行事のように説かれているが、
それも此の肉体と云うものをアルと思えばこそ
肉体そのままで成仏するのは中々むつかしいと思えるのである。


ところが此の肉体が本来無し、
本来寂滅の相(すがた)だと知ったならば
このままで肉体も何もない、
唯”ある”ものは私の”いのち”だけではないか。

即ち其のまま即身成仏ではないか。

併し肉体”ない”と知り得ない人々は、
臨終を以て往生極楽の機とするのも悪くない。

         <感謝合掌 令和3年9月19日 頓首再拝>

肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ - 伝統

2021/10/06 (Wed) 04:46:51


        *「光明法語」(10月6日《肉体を憎む勿れ》)より
          
肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。

聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。

聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。

肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。
肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。

       <感謝合掌 令和3年10月6日 頓首再拝>

《あなたの肉体は神の顕現です》 - 伝統

2021/11/01 (Mon) 04:35:23


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P248)より

あなたの肉体は霊なる神の実現でありまして、
物質で造られたる唯(ただ)の機械でありませんから、
完全に働くように造られているのです。

物質の分子の平均的大いさは五百万倍顕微鏡で
英字のピリオド点ほどにしか見えない位に小さいのです。

しかし(そんな拡大率をもった顕微鏡はありませんから、
顕微鏡でも絶対見えないものなのです。)それが団結して
大きな塊となったのでしたら、それが物体として見えても
不思議はありませんが、その分子と分子との距離は
分子の直径の千五百倍も離れているのです。

見えない微小なものが互いに離れて散在しているのに
それが見えるのは、物質そのものが見えるのではなく、結局、
そこに存在する心的理念(神の心に描かれた観念)を見るのであります。

だから肉体は、肉体でも物質でもなく、
心に描かれた理念の顕現だと云うことが出来るのであります。

       <感謝合掌 令和3年11月1日 頓首再拝>

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