伝統板・第二

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軍神杉本五郎中佐 - 夕刻版

2019/01/11 (Fri) 18:28:38

出処進退のすべては、もっとも大きな大義(君臣の道)を根本とせよ
・・・軍神杉本五郎中佐の手紙


           *Web:ねずさんのひとりごと(2019/01/05)より

  士道、義より大なるはなく
  義は君臣を以て最大となす。
  出処進退総べて大義を本とせよ。
  大義を以て胸間に掛在せずんば、
  児孫と称することを許さず。


戦いのさなかに、立ったまま絶命した中佐がいます。
それが「軍神・杉本五郎中佐」です。

杉本中佐は、広島の三篠(みささ)町で生まれ、天満小学校に通いました。
広島修道中学を経て、陸軍士官学校(33期)、陸軍戸山学校を卒業し、
昭和12(1937)年8月、第二次上海事変の勃発のときに、
長野部隊第二中隊長として広島の宇品港から上海に向かわれました。

中佐の部隊は、長城山岳戦料子台の戦闘を始めとし、
北支の各地で敵中深く肉弾突入を果たしてたいへんな軍功をあげました。

ついたアダ名が「死之中隊」です。
いかにすさまじい奮迅の戦いをしていたかがわかります。

山西省の要衝である蔚閣山高地の攻略戦では、
杉本中佐は、岩壁をよじ登り、敵兵約600がいる陣地に肉弾突入されました。
そのとき敵が投げた手榴弾が、杉本中佐のすぐ脇で爆発し、
隊長は、爆風で吹き飛ばされました。

ところが杉本中佐は、軍刀を杖にして立ち上がり、皆に号令をかけました。
そして東方の皇居の方角に正対し、挙手敬礼をされると、そのまま動きません。

周りの部下たちが、動かない中佐を見ると、
なんと立って敬礼したままの姿勢で、絶命されていました。
享年38歳でした。


杉本中佐には4人の息子さんがいます。
亡くなる直前まで、その息子さんたちに、20通の手紙を送っています。
まさに遺書ともいえるその手紙に、戦友たちは、手紙を『大義』という名の本にして、
出版するよう、家族に奨めました。

出版は、昭和13(1938)年5月です。

この本は、終戦までのわずかな期間の間に、29版を重ねました。
そして130万部を超える大ベストセラーになっています。


その本の緒言(はじめ)に「父・五郎」の名で、次の文章があります。
現代文に訳してみます。
冒頭のところだけです。
原文は末尾に全文を示します。

 ****

【緒言】

私の子、孫たちに、根本とすべき大道を直接指導する。
名利など、なにするものぞ。
地位が、なんだというのか。
断じて名聞名利のやからとなるな。

武士道は我が身を犠牲にする心(義)である。
義の、もっとも大事なものは、君臣の道である。
出処進退のすべては、
もっとも大きな大義(君臣の道)を根本とせよ。

大義を胸に抱かないなら、
我が子、我が孫と名乗ることを許さない。
たとえ貧乏のどん底暮らしとなったとしても、
ただひたすらに大義を根幹とする心こそ、
私の子孫の根底である。

(原文)
吾児孫の以て依るべき大道を直指す。
名利何するものぞ
地位何物ぞ
断じて名聞利慾の奴となる勿(なか)れ。

士道、義より大なるはなく
義は君臣を以て最大となす。
出処進退総べて大義を本とせよ。
大義を以て胸間に掛在せずんば、
児孫と称することを許さず。

一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て
喫して日を過すとも、
専一に大義を究明する底は、
吾と相見報恩底の児孫なり。
孝たらんとせば、大義に透徹せよ。

 *****


杉本五郎中佐は、勇猛果敢に部隊を指揮し、常に戦いの先頭に立ち、
そして手榴弾を浴びて、これが我が命の最後と悟った時、
皇居に向かって挙手敬礼による遥拝を行って、そのまま、立ったままの姿で絶命されました。

彼も軍人ですから、決して豊かな生活をしていたわけではありません。

それでも杉本五郎中佐は、我が子への遺言に、
「断じて名聞名利のやからとなるな」
と書きました。

杉本中佐は、自らその死の瞬間に、壮絶な姿で、その高い精神性を発揮してみせました。

なぜ、杉本中佐は、それだけの精神性を保ち得たのでしょうか。

その答えが、中佐の遺した『大義』という本の第二章に、記されています。
現代語訳してみます。

=======
第二章 道

天皇の大御心に然うように、
「自分」を捨て去って行動することが、
日本人の道徳である。

天皇の御意志・大御心とはいかなるものか。
その答えは御歴代皇祖皇宗の御詔勅にある。
その詔勅のすべてが、大御心の発露である。

わけても明治天皇の教育勅語は、
最も明白に示された大御心の代表的なるものである。
天皇の御意志は教育勅語に直接明確に示されているのである。

おまえたちは教育勅語の御精神に合うように
「自分」を捨てて行動せよ。
それが、日本人の道徳である。

教育勅語の根本にある精神は、
個人の道徳観の完成ではない。
天壌無窮の皇運扶翼にある。

天皇の御守護のために、
老若男女、貴賤貧富にかかわらず、
ひとしく馳せ参じ、死ぬことさえもいとわない。
これが日本人の道徳の完成した姿である。
つまり天皇の御為めに死ぬことである。

天皇の御前には、
「自分」とか「自己」とか「私」とかは無いことを自覚せよ。
「無い」ということは、
億兆とその心は一体であるということである。

我々は、天皇と同心一体であることによることで、
日々のすべての生活行為が、
ことごとく皇作、皇業となるのである。
これが、日本人の道徳生活である。

ゆえに日本人の道徳生活必須先決の条件は、
「自分というものを捨て去ること」にある。
すなわち「無」なりの自覚に到達することである。



(原文)
天皇の大御心に合ふ如く、
「私」を去りて行為する、
是れ日本人の道徳なり。

天皇の御意志・大御心とは如何なるものなりや。
御歴代皇祖皇宗の御詔勅、
皆これ大御心の発露に外ならず。

別けて明治天皇の教育勅語は、
最も明白に示されたる大御心の
代表的なるものと拝察し奉る。

換言すれば天皇の御意志は
教育勅語に直截簡明に示されある故に、
教育勅語の御精神に合う如く
「私」を去りて行為すること、
即ち日本人の道徳なり。

而してこの御勅語の大精神は
「天壌無窮ノ皇運扶翼」にして、
個人道徳の完成に非ず。

天皇の御守護には、
老若男女を問はず、
貴賤貧富に拘らず、
斉しく馳せ参じ、
以て死を鴻毛の軽きに比すること、
是れ即ち日本人道徳完成の道なり。

天皇の御為めに死すること、
是れ即ち道徳完成なり。

此の理を換言すれば、
天皇の御前には
自己は「無」なりとの自覚なり。

「無」なるが故に億兆は一体なり。
天皇と同心一体なるが故に、
吾々の日々の生活行為は
悉く皇作皇業となる。
是れ日本人の道徳生活なり。
而して日本人の道徳生活必須先決の条件は、
「無」なりの自覚に到達することなり。
===========


ひとつ間違えてはいけないのは、ここでいう我が国の天皇というのは、
戦後の解釈としての象徴人でも、西欧的解釈による現人神でも、
あるいは昭和天皇、今上陛下個人を指しているのはないということです。

私がないということは、天皇を個人としてみるのではなく、
どこまでも天皇という存在そのもののありがたさを、
第一に感じ取ることが大事であるということです。

戦後蔓延した「俺が俺が」という生き方は、本質的に日本人の体質とは異なるものです。
なぜなら日本人は、私心を捨て、無になることによって、
億兆心を一にするということをしてきた民族だからです。

私有民というのは、権力者の私有物であり、奴隷のことです。

日本人がそんな私有物や奴隷にならずに済んだのは、
権力者よりも上位に天皇という権威の存在を誰もが認め、
その天皇が、民衆を天皇のたからと規定してきたことによります。

つまり日本人は、はるか上古の昔から、私有民ではなく、
ひとりひとりに立派な人としての尊厳が与えられてきたのです。
ですからわざわざ「俺が俺が」と自己主張する必要さえなかったのです。


このことを詰めて言うと、
======

天皇の御前に、「自分」とか「自己」とか「私」とかは「無い」

======
となります。


そして「何も無い」ことを自覚することによって、億兆とその心は一体になります。
理由は「ゼロ」だからです。
「ゼロ」は何万個足しても「ゼロ」です。

つまり、日本人の日本人的生き方の先決条件は、
「自分を捨て去ること」、
すなわち「無」なりの自覚に到達することだと杉本中佐は説いています。

杉本五郎中佐は、軍神となられ、その御霊は靖国に祀られています。
墓所は、広島県三原市高坂町にある佛通寺にご安置されています。

私たちは、戦後の「個人主義」に、とてもたくさん汚染されすぎました。
これからの日本人が、もとよりの日本人としての精神性を取り戻すことにあり、
そのためには、日本という国の古くからの国のカタチを、
日本人自身が再認識していくことにあると思います。


少し私事を述べます。

先日、私の悪口を書いているサイトを見て驚いて、
私にご連絡をしてきた方がおいでになります。
その方は、中傷があるなら抗弁、弁解、反論もネットのどこかにあるのではないかと、
探し回ってくださったのだそうです。
それがまったくなくて、ただ一方的に中傷されているだけです。
それで心配されて、ご連絡してこられたわけです。

ご心配いただいたことは、とてもありがたいことです。
しかしこの活動をはじめてから、私への中傷はずっと毎日、執拗に続いていることです。
いまにはじまったことではありません。

「私」が大事なら、その中傷は耐え難い苦痛になろうかと思います。
けれど、そのように感じるのは「私」を可愛いと思う心があるからです。
この活動を初めて以来、自分を捨てることを課し続けてきました。

自分が無ければ、何を言われようが関係ありません。
どのように中傷されようが、馬鹿にされようが、ネタにされようが、
無心に天皇の知らす国を取り戻すために、
億分の1、兆分の1でも、この生命を使うだけです。

それだけのことです。
志をたて、信念に生きるということは、そういうことであろうと思います。


杉本中佐は、ある意味、幸せな男であったと思います。
私心を捨て、信念に生き、そのまま息絶えたからです。

そして彼は、神となりました。
素晴らしいことだと思います。

君臣の道を常に根本に置く。

古典の解釈も、結局はそこを根本としなければ誤った解釈になってしまいます。
同様に、人生もまた、魂を鍛えるための人生であるならば、
やはりその根本には君臣の道をおくべきなのです。

お読みいただき、ありがとうございました。

※この記事は2013年10月の記事のリニューアルです。
      (軍神杉本五郎中佐と日本人的生き方
        http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2040.html#more )

      ( http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3998.html )

           <感謝合掌 平成31年1月11日 頓首再拝>  

軍神杉本五郎中佐遺著 大義  - 伝統

2019/01/12 (Sat) 19:27:46


(1)Web:大 義 研 究 会
    → https://www5.hp-ez.com/hp/taigi2672/page15/index 

(2)Web: 臣民の道
    → http://binder.gozaru.jp/taigi.htm

(3)Web:尊皇・愛國のホームページ「彌榮」~大義と私との出会ひ
    → http://www.kazumitu.sakura.ne.jp/iyasaka/Taigis.htm

(4)Web:大義 杉本五郎中佐遺著
    → https://ch.nicovideo.jp/abeya/blomaga/ar527817


           <感謝合掌 平成31年1月12日 頓首再拝> 

杉本五郎中佐にみる国体認識と彼の生き方 - 伝統

2019/01/13 (Sun) 19:38:14

政治と宗教(杉本五郎中佐にみる国体認識と彼の生き方)

       *Web:木庵先生の独り言(2014/12/26)より抜粋

戦前・戦中には杉本中佐のことは誰でも知っているような有名な人であったようだ。
というのは、彼が息子たちに書いた遺言をまとめて本にした『大義』が、
延べ130万冊売れるようなベストセラーになったからである。

杉本は昭和12(1937)年9月に支那事変の戦闘で戦死している。
弁慶ではないが、立ったまま往生を遂げている。
敵の手榴弾を浴びて倒れた杉本中佐は、軍刀を杖にして、立ち上がり、号令をかけ、
倒れることもなく遙か皇居の方向に正対、挙手敬礼をして絶命したという。

西尾幹二氏は杉本の禅の修行を中心に、
『大義』からみたる杉本の国体に対する考えを述べている。


杉本の国体論は当時の国体論のなかでも極右のものである。
国体論に共通することは万世一系の天皇を中心とする考えであるが、
杉本の天皇観は以下のようになる。

「万物を創造したる創造主の神。天皇は絶対であり、諸道、諸学全て天皇に帰する。
小さい虫からそよかぜまでの森羅万象は、天皇の心の現れである。
だから世界は天皇の所有物である。

釈迦、イエス、孔子の信仰は邪道にして、武士道でさえ、
藩主に対する忠誠に留まるなら邪道になる。

君子への忠誠まで昇華しなければ、本物の武士道とはならない。
全て天皇に帰するのが聖道。
天皇の前には己を無にし、天皇のために命を捧げることが大事である」。


杉本の国体論での天皇は一神教の神と同じである。
狂信的で古来からある天皇信仰とは違う異質のものである。

ところが、このような天皇信仰、国体論がもてはやされ、
杉本の本が130万冊も売れた現実を直視しなければならない。
ただ単なる軍国主義と片付けてしまうと、当時の人々の心が浮かんでこない。

ところが、狂信的な国体論を信じた杉本中佐の生き方は立派であった。
杉本の生き方と間違った国体論のギャップをどう解釈するかが西尾氏のテーマのようである。

西尾氏によれば、戦前には杉本中佐のような極端な国体論がもてはやされた。
そして、戦後GHQによって、これらの考えを跡形もなく壊されてしまった。

現在の我々は、かつての日本国民がある種の妄想宗教にとりつかれたことさえ理解していない。
ただ軍国主義と片付けてしまうことによって、当時の人々の心を覆い被してしまっている。

このことが問題であると西尾氏は力説する。
なぜこのような国体論が隆起したかの考察をしなければならない。
そうしなければ、来るべき未来に当時と同じような狂気がやってくるかもしれない。

狂気の国体論に代って、平和主義という狂気が日本を崩壊の方向に向かわせている。
また新しい形の軍国主義が誕生するかもしれない。


「ねずさんのひとりごと」でも、杉本五郎中佐のことを取り扱っている。
西尾氏は杉本の狂信性を問題にしているが、
ねず氏は杉本の国体論を戦前のごく普通の国体論として扱っている。


ねず氏が『大義』の本の現代語訳をしてくれているので、それを拝借し、
杉本の国体論をもうすこし詳しく探ってみることにする。木庵>

(中略~本スレッド<2019/01/11>内の記事)

ねず氏が引用した文章を見るかぎり、
杉本の国体論は狂信的でもないようなニュアンスが伝わってくる。

しかし、西尾氏が引用した箇所はもっと過激で、狂信的である。

「私たちは、天皇と同心一体であることによって、私たちの日々の生活行為は、
ことごとく皇作、皇業となります。これが、日本人の道徳生活です。

つまり、日本人の道徳生活必須先決の条件は、「自分というものを捨て去ること」、
すなわち、「無」なりの自覚に到達することです」

己を無にするとは、禅の精神である。
「無になり天皇と同一になる」ところは、神道的禅ということになる。

(中略)

杉本は一人の老師(師家)に参禅を請い願ったのだが、断られている。
「軍人が座禅などするより、軍人の職務に全うすることが禅である」と断れれたのである。

ところが、杉本は「山岡鉄舟は禅の修行の結果、解脱して生死を乗り越え、
明治維新において顕著な働きを演じたことを例に出して、
禅の修行をしたいことを老師に説得し、ようやく禅門に入ることを許された。

ウィキペディアでは広島の仏通寺の山崎益州管長のことしか書いてないが、
山崎老師に参禅する前の話である。

杉本は禅の修行を徹底して行った。
土曜、日曜の休日には、仏通寺にやってきて座禅を組んだ。
ほとんで寝ることなく、夜坐をした。

車を利用することなく歩いて寺にやって来た。
片道8キロという道のりを、夜中でも灯りがなく歩いてきた。
ときには暗闇のなか、溝のなかに足を滑らすこともあった。

たとえ大演習のあとでも疲れた様子を見せることなく、座禅、参禅をおこなった。
また、職場である連隊のどこでも座禅をするものだから、
連隊で座禅をすることを禁じられている。


ある時典座(てんぞ)(西尾氏は「てんざ」と読んでしまった。
このことから西尾氏はあまり禅のことを知っていないことを暴露してしまったことになる。
典座とは食事をつくる人のことで、禅道場では重要な役職の一つである)が
老師の提唱を椅子に座って聞いていたので、杉本は典座を殴り飛ばしたという逸話がある。

この雲水は後に僧侶になっているが、杉本の行為に対して憎むどころが感謝したという。

杉本は己の修行に厳しいだけでなく、
雲水や管長と言われるような人に対しても厳しく対処している。

「大悟徹底しているなら、世間に出て、人々の救済をなぜしないのか。
世間は大変なときに安穏と寺で暮らしているのは許せない」と。

このような厳格な杉本にもどこかほんのりとした話がある。
これは本当の話か、山岡荘八が創りだしたフィクションかは定かではないが。
山岡の小説のなかで登場してくる場面である。


杉本は軍務や禅に一生懸命で、身なりを一切構わない無骨な武人であった。
そのこと自身は素晴らしいことであるが、親族が「それでは嫁がきてくれない」
と心配をしだした。

そこで杉本の叔父が杉本に言った。
「嫁を貰い、子孫を残すことは軍人として、お前のよく言う、大君のおぼしめではないのか」。

杉本は意外にもこの申し出をすんなりと受け入れた。
そして言った。「ただし2つの条件があります。1つは嫁は絶対に俺に服従のこと。
2つ目は軍人である俺はいつ死ぬか分からない。
死んだあと子供たちを立派に育ててくれること」。


叔父は困った。
2つ目は軍人の妻になるのだから仕方がないとして、
1つ目のことについて納得して嫁になってくれる女性などいないからである。

時代は大正時代。
男女同権などということまで言われだした時代である。
絶対服従を認める女性がいるだろうかと叔父は思った。

実は叔父は叔父の姉の娘のさざえ(?)のことが頭にあった。
さざえは大人しく、いつも針を動かしているような女性だが、
絶対服従となると、抵抗があるだろう。

杉本とさざえとは親戚であるので、顔をあわすことはよくあった。
しかし、二人が会話するような場面はほとんどなかった。

そこで、叔父は杉本に言った。
「何がなんでも、絶対服従はおかしい」。

杉本は言った。「そのようなことはありません。
天皇に対して我々は絶対服従であり、主人に妻が絶対服従であることが
どこがおかしいのでしょうが。それを認めないことこそ、無責任というものです」。


なんとか結婚式をとりおこなうまでになった。
披露宴は自宅で行われた。親族縁者が集まって宴となった。
その時、花婿である杉本はいつのまにか姿を消してしまった。

そしてある男が客に接待をしだした。実はこの男こそ杉本であるのだが、
だれも杉本であることに気づかない。杉本の接待の仕方は融通無下であった。
相手に応じて接待の仕方を変えるのである。

大きな声で歌っているかと思えば、真面目な態度で議論をしている。
全く普段の杉本とは違っていた。

最後に杉本はさざえの前に進み寄って言った。
「そこではなく、上座に座って下さい」。
それまでに自分が座っていたところにさざえを座らせ、さらに言った。

「いまから一番大切はことを言いますから、よく聞いてください。
これから、貴女に陛下の股肱(ここう)(けらい)をお預けします。
よろしくお願いします」

さざえはそれまでの杉本の客を接待している姿を観察していて、
杉本の普段には見せない、それでいて、杉本の本質的な人間性を見ぬいたのである。

杉本の言葉に少し笑みを浮かべて頷いた。


西尾氏はこの下りの山岡の表現をとても気にいっている。
「今の女性にはほとんど理解できない世界である」と、西尾氏は言う。

(以下略)

 (https://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/41905053.html?__ysp=6LuN56We5p2J5pys5LqU6YOO5Lit5L2Q )

           <感謝合掌 平成31年1月13日 頓首再拝> 

『天皇絶対論とその影響』と『大義』 - 伝統

2019/01/14 (Mon) 19:44:59


日本人として生きる上において、精神的基盤となる本が2冊あるとし、それは、
杉本五郎中佐遺著『大義』と谷口雅春編著『天皇絶対論とその影響』であると
唱える人がいます。


(1)谷口雅春先生編著『天皇絶対論とその影響』
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=20
     (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)


(2)軍神・杉本五郎中佐遺著『大義』
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=227
     (本流宣言掲示板)

           <感謝合掌 平成31年1月14日 頓首再拝>  

永遠の中隊長 - 伝統

2019/01/15 (Tue) 17:15:02


          *Web:高天原3丁目(2016-10-30)より

杉本 五郎(すぎもと ごろう)

明治33年(1900年)5月25日 ~昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。

遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。



広島県安佐郡三篠町(現在の広島市西区打越町)生まれ。
少年期から将校に憧れ、大正2年(1913年)、
質実剛健を伝統とする広島藩の元藩校である
旧制修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)入学。

大正7年(1918年)修道中学校を卒業し陸軍士官候補生として広島の歩兵第11連隊に入隊。
しかし同年起こった米騒動は、日本帝国の内部的危機の開始を告げる大事件となり、
国体安泰の安易な夢が一瞬に打ち破られ、杉本の深刻な思索と悲壮な人生が始まった。

小作争議が激化し日本資本主義の屋台骨は揺らぎ始め、ロシア革命の影響で社会主義が台頭、
また軍事的封建的支配の圧迫が加わり、社会に暗い圧迫感と絶望感が充満した。

兵営の中から混乱した世の中を眺めた杉本は、
危機を直感し自ら救世の先達になる決意を固めたのでは、と言われている。

しかし軍隊に入った杉本には窓は一方にしか開かれておらず、
皇国の精神を発揚し実践するための勉学と修養とに全精神を傾倒していく。



大正8年(1919年)陸軍士官学校(33期)本科入校。
大正10年(1921年)同校卒業。
歩兵少尉に任官、再び歩兵第11連隊附となり、
陸軍戸山学校、陸軍科学研究所で短期間の教育を受ける。

また軍務の傍ら広島から毎週1回は必ず三原市にある
臨済宗大本山・仏通寺に修養に通い出征までの9年間これを続けた。

本来個人の精神的な修養原理である禅を国家論や道法論、
人生論に持ち込み、独自の思想を形成していく。



昭和6年(1931年)、満州事変では第5師団臨時派遣隊第2大隊第8中隊長として出征、
中国天津方面で軍事行動ののち帰還。

この後、出世コースである陸軍大学校受験をしきりに薦められたが

「中隊長という地位が私の気持に一番よく叶っている。これ以上の地位につきたくない」

と拒否

「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」

と願った。

実際は、上官の受験への強い勧めに抗しきれず、一度だけ陸軍大学を受験している。
結果は不合格であった。

息子同然である兵の身上をよく調べ、貧しい兵の家庭へは、
限られた給料の中から送金を欠かさなかった。

昭和11年(1936年)勃発した二・二六事件に対しては「皇軍の恥」として、
共産主義に対すると同様に不忠の汚名をかぶせ非難した。

翌昭和12年(1937年)支那事変(日中戦争)が勃発。
同年8月少佐に昇進、第2中隊長のまま、長野部隊に属し中国激戦地に従軍。

同年9月、山西省広霊県東西加斗閣山の戦闘に於て戦死。

岩壁を登って敵兵約600の陣地へ、号令をかけながら突撃。
手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、
倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。

38歳の生涯であった

(大義 )

死の寸前まで四人の息子への遺書として書き継がれた20通の手紙を妻へ送っている。
これに接した同志らによって、これは私蔵すべきでない、
と20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938年)5月に刊行された。

これが青年将校や士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え
「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ね29版、
130万部を超える大ベストセラーとなった。

本書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、

天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。

本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。

文中、幾ヶ所も伏字があり、これは杉本の思いがあまりにも純粋で、
当時の権力者をも容赦せず、軍部の腐敗や軍規の緩みなども手厳しく批判した箇所といわれる。

あまりに純粋な言行を煙たがれ激戦地に送られた、という噂が戦後出た。

本書にも登場する仏通寺の山崎益州管長は

「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。
中隊長としても、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり
「永遠の中隊長」であった」と述べている。

 ( http://japan-shinto-makoto.hatenablog.jp/entry/2016/10/30/113606 )

           <感謝合掌 平成31年1月15日 頓首再拝>  

杉本五郎中佐の遺言 - 伝統

2019/01/20 (Sun) 19:15:24


       *Web:息抜きの写真部屋 より


   汝吾を見んと欲せば尊皇に生きよ。

         尊皇精神あるところ常に吾在り。


三原市 仏通寺の碑にはこう刻まれていた。


  ( http://hanatatibana.cocolog-nifty.com/photos/photo1/photo_1.html )


広島県・三原市・仏通寺
杉本五郎中佐の書が、仏通寺から見上げられる断崖絶壁に刻まれている。

「尊皇」の二字は、中佐の精神を今に伝えて余すところなしと見る。

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           <感謝合掌 平成31年1月20日 頓首再拝>  

杉本五郎中佐の「尊皇」とは - 伝統

2019/01/21 (Mon) 19:38:59



     *Web:人間禅~広島禅会(2014/8/12)より

「汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、尊皇精神ある処、常に我在り。」

 杉本五郎中佐の辞世である。

参禅の師であった、当時の仏通寺管長、吹毛軒山崎益州老師は、後に
「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。
中隊長として、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり
「永遠の中隊長」であった。」と述べている。

 (杉本五郎は、支那事変出兵後に少佐に昇進しており、
死後、叙従5位陸軍歩兵中佐となっているが、きっと益州老師にとっては、
何時までも陸軍歩兵中隊長の杉本五郎大尉だったのだ。
瞼に入れても痛くない、外弟子だったのであろう。)

 
そして、もはやここには、一片の生死も覗えない。

即ち、杉本五郎中佐の「尊王」とは、ただ単に皇国の武士(もののふ)として、
陛下に真を尽くすということを遥かに超えて、言い換えれば、
宇宙の命、絶対の自己、仏、あるいは本来の面目のことを云っているのである。

 
軍務の傍ら、広島から毎週末には必ず三原の仏通寺に通い、
益州老師に欠かすことなく昼夜に参じ、毎度のように徹宵で夜坐し、
また夏末・臘八の大接心には禁足で詰めていた。

出征までの9年間、これをずっと続けていたそうである。
 
もとより出家の意志などは微塵もなく、ただ一介の歩兵部隊の帝国軍人として、
純粋に国家のために献身することだけが、人生の目標で有ったことは明白な人である。

その為だけの参禅弁道だったのである。

 
昭和12年(1937)9月、支那事変(日中戦争)の戦闘において戦死。
 
手榴弾を浴びて倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がり、
再び倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対し、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。
俗に云う立ち往生、すなわち立亡(りゅうぼう)である。

38歳の生涯であった。
坐脱立亡の立亡であるが、近世では極めて稀だと思う。
常日頃の鍛錬が慮れる一事である。


死の寸前まで、四人の息子達への遺書として書き継がれた、20通の手紙を妻へ送っている。
これは同志らによって、20章からなる遺書形式の文章『大義』として
昭和13年(1938)5月に刊行された。
 
これは、当時の青年将校や士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え
「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ねて29版、
130万部を超える大ベストセラーとなった。
 
本書は、戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、
本書を読んで軍人を志した者も少なくなかったといわれている。


益州老師の法嗣の故青松軒藤井虎山老師や、そのまた法嗣で、
広島禅会の名誉会員であった故関照軒浜田徹道老師が、
たしか「著書の内容からして、おそらく洞山五位の調べも透過した
老居士級の境涯であろう。もしこの人が、戦後まで生きていれば、
もっと視野の広い世界観に成っていたのではないだろうか。」
という意味のことをいっておられた様に思う。

 
三原市の仏通寺の境内に、杉本五郎を記念する小さな碑と、
渓流を隔てた岩壁に杉本五郎が大書した「尊皇」の二文字が今でも残っている。

 (http://www.ningenzen.jp/hiroshima/modules/d3blog/details.php?bid=108&date=201408 )

           <感謝合掌 平成31年1月21日 頓首再拝> 

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