伝統板・第二

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生命の教育 ④ - 伝統

2019/01/03 (Thu) 04:55:00

《生命の法則による新しい天才教育法》(上)~その1

          *「生長の家」創刊号(P28~29)より


  われわれを神が造った。
  神と呼ぶのが嫌やな者は生命と云っても好い。

神の力を疑うものは馬鹿者だ。
神が造った萬物のなかで其の主位にある人間の力を疑うものは
真理を見る目のない者だ。

われわれの内には無限が宿っている。
この無限を掘り出せば人間は皆な天才となるのだ。

天才を、人間は皆なもって生れて来ているのだ、
それに人間は皆な天才にはならない。それは不合理だ。その不合理は誰がするか。
人間が真理を知らないからだ。親たるものが真理を知らないからだ。

ダイヤモンドを有っていながら石だと思って捨てて顧みないからだ。

  人間を信ぜよ、神の創造(みわざ)を信ぜよ。
  生れたまゝの人間を信ぜよ。それは幼児だ。

幼時に宿っている天才はまだ彫琢しないダイヤモンドだ。
瑾(きず)のつかない高貴だ。
表面にまだ何の天才の閃きがないからとて失望するな。表面を見て神の創造(みわざ)を疑うな。

神が天才を造って人間のひとりひとりの中に埋蔵(かく)しておいたのは、
神が人間をして安価な怠惰の中に腐敗せしめないためだ。

人間みづからの努力と発見とを神が喜び給うからだ。

何故なら人間は1個の生命であるから、発見と創造とに生きねばならぬからだ。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「子どもの教育①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463326

(2)伝統板・第二「子どもの教育②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6643544

(3)伝統板・第二「生命の教育 ①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6833626

(4)伝統板・第二「生命の教育 ②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673404

(5)伝統板・第二「生命の教育 ③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7745476


<参考Web>

   谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「『生長の家』創刊号」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yuyu6/&mode=res&log=66


            <感謝合掌 平成31年1月3日 頓首再拝>

《生命の法則による新しい天才教育法》(上)~その2 - 伝統

2019/01/04 (Fri) 04:59:11


          *「生長の家」創刊号(P29~32)より

天才の閃めきが吾が子にあらわれないからとて
吾が子を軽蔑するものは生命を軽蔑するものだ。
神を軽蔑するものだ。

子供をわが子だと思うな。子供の生命の背後には無限生命がある、神がある。
明日火に投げ入れらるべき野の草の小さな花にすら、
神でなければ造られない装いがあることを知るものは幸いだ。

況んや造られたものゝ主位に位いする人間の子供の天才を疑うな。

子供の天才を生長させるために必要な根本事項は神の創造(みわざ)に対する信頼だ。
親はわが子を神の創造だと信じ、出来るだけ子供自身が神の創造だと自覚し
神の創造をはずかしめてはならないと云う魂の高貴(けだか)さを子供に養成するように
努力しなければならない。


子供が6~7歳に達するまで、彼に教育を施しては
脆弱な子供の頭脳に悪影響を与えると云う一般人の考えは『生長の家』では用いない。

この一般の考えにも無論根拠がある。それは或る意味では正しい。
それは現代では心の皮相に矢鱈(やたら)ものを詰め込むことを
教育だと心得ているからである。
こんな教育では大きな心の生長は期待出来ない。

生長の家はもっと偉大なるものを人間の生長に期待し
それを引き出すことを人間の教育だと心得ているのだ。

子供は幾ら幼くとも、適当な教育を施しさえすれば、早ければ早いほど好い。
生命の生長は”毎日”行われると云うことを知らなければならない。
それは毎日生長するのだ。

今日発達すべき筈の生長を明日に延ばすならば、生長はそれだけ遅れる。
遅れるだけではなく、内にきざしている生長のためのエネルギーは
空しく放散してしまうのだ。


1分1秒でも生命の生長をおくらすことをするな。
折角きざしている生命のエネルギーを無駄に放散さすな。
それは生命への反逆である。造り主への反逆である。神への反逆である。

『生長の家』の教育法はいつでも根本を神に立脚する。

子供を礼拝せよ。子供のうちに埋蔵された才能の宝を拝み出せ。
信ぜよ。汝癒えたりと信ぜば、病も癒えるのである。
況や、あなたの子を信じて、あなたの子が善くならないと云うことはないのだ。

子を信ずるのは父を信ずるのである。
神を信ずるのである。

            <感謝合掌 平成31年1月4日 頓首再拝>

《生命の法則による新しい天才教育法》(上)~その3 - 伝統

2019/01/06 (Sun) 04:25:51


          *「生長の家」創刊号(P32~34)より

此の信念が何よりも根本となるのであってその信念から、
色いろの方法(テクニーク)が生まれて来る。

生命の目的は『生長』することである。
そして生命は生命の営みによってのみ生長する。
生命の営みとは『活動』である。

生命はきざしているところの『動』を現実の『動』に変えることによって生長する。
吾が子を弱いとか、まだ発達時期でないと思うな。

吾が子に今あるところのすべての能力を発揮せしめよ。
きざしている芽の全てをすくすくと伸ばしさしめよ。


生命はすこやかに其の”正しい道”に伸ばさしめる事が必要である。
”正しい道”にと云うことが肝腎である。

幼児は生命にみちあふれている。彼はじっとしていられない。
何かせずにはいられない。生命は『動』がその本体だからだ。

その『動』の生命を”正しき道”に乗せる事が必要だ。
”正しき軌道”を走るように導くことが必要だ。
これが教育である。

あまりに満ちあふれた生命は脱線しがちである、
脱線した生命の電車は周囲を傷けると共に自分自身を破壊する。

彼は乱暴をする、いたずらをする。破壊する。
彼にとっては活力の”はけ”場がないために巳むを得ずにした行為が
叱られたり罰せられたりする原因となる。


しかし両親がその子供の溢れでる生命力の正しい使い方を教えないでいながら、
子供が乱暴をはたらくと云って罰するならば、それは生命の完全な生長の妨げとなる。
鞭は指南車ではない。それは正しき方向を決して指し示さない。

活力に充ちあふれてやり場のない幼児の生命は送出と抑止との板挟みとなって浪費される。
                    
子供の悪傾向は叱責で抑止されるかも知れない。しかしそれは積極的な生長とはならない。
生命の動きを圧迫するところに積極的な生長は起こり得ない。

善と真との発達は生命の圧迫から来るのではなく、
正しき道に生命をのせることによって来るのだ。

幼児の充ち溢れる抑圧によって萎縮させるものは生命を尊ばない者のすることだ。

生命を尊べ。

             <感謝合掌 平成31年1月6日 頓首再拝>

《生命の法則による新しい天才教育法》(上)~その4 - 伝統

2019/01/08 (Tue) 04:26:44


          *「生長の家」創刊号(P34~36)より

『子供は子供らしいが好い』と云う人間の常套語に従って、
子供の生命を脱線的な破壊的な状態にあらしめるものは愛深き親ではない。

子供は或る意味では子供らしくて好いであろう。
 ― しかしそれが野蛮な乱暴な破壊的傾向への自由練習となるようでは断じて不可ない。

”生命が一つの傾向を備えるとき、その傾向は永続的なものとなる”
その傾向を変えるには別の大なる力 ― 非常な努力が要る。

はじめより正しき傾向に人間を載せよ。
傾向を転ずるために失われる非常な努力を正しく伸びるために使用させよ。


だが子供の騒がしさを叱るな。
子供に於ては、善とは静かなる調和ではない。
生命にみちあふれた子供が噪(さわ)がしいのは必然である。

生長しつつあるものが喧しいのは当然である。

構造されつつあるものは必ず噪がしい。
工場はものを構造する処であるが故に騒然としている。
大工の家をたてるにも戞々たる響がきこえる。

生長と構成とには必ず騒がしさが要るのだ。

『やかましい、静かにして居れ。』
この心なき叱責が今迄如何に多くの家庭において子供の生長を害して来たことだろう。

子供のさわがしさを叱る者は生命の生長に重大な障碍(さまたげ)を置く者だ。
子供の伸びようとする生命はおさえられて浪費する。
かかる抑圧が永続的に行われるときそれは浪費される以下である。

何故なら生命の発露を常におさえつける習慣をつけるとき生命は萎縮するからである。


   使わない能力は発達しない。
   使わない生命は生長しない。
   否、それ以下である。


抑圧された衝動が子供の成長後いろいろの精神障碍及び肉体的病症となってあらわれて
来ることは、最近の精神分析(サイコアナリシス)が証明しつつある処だ。

             <感謝合掌 平成31年1月8日 頓首再拝>

《生命の法則による新しい天才教育法》(上)~その5 - 伝統

2019/01/09 (Wed) 04:40:16


          *「生長の家」創刊号(P37~40)より



さて、それでは健康な子供の有り余るヂッとしてはいられない生命力を
如何にせば正しい道に乗せ得るか。
このことが重要な問題となって来る。

”正しい道とは”建設的な傾向に生命を使用させることだ。

先ず、子供の有ってうまれた能力を発見する。
即ち其の子が何が器用なかを見出してやるのだ。
そして子供の有り余る生命力を此の方向に使用させる。

はじめは下手で好い。”賞めてやるが好い。言葉の創造力を利用するのだ。”
賞めれば賞める方向に子供は喜んで どんどん生長するものだ。

こうするとき だんだん子供は破壊的遊戯から遠ざかって、
喜んで生命を建設的方向に使用し始める。
子供の生命は正しい道に乗る。


併し、親や、家庭の年長者が自身の高き趣味から割りだして、
子供のうまれつきの器用さ以上のものを強いることは善くない。

建設的な方向へ生命力を使用するのでありさえすれば、
子供がどんな方向に才能があろうとも、それが親の趣味とは反対な才能であろうとも
自然の方向に子供を生長させよ。

自然が与えた才能には宇宙的な生命がバックしている。
宇宙的な生命の法則に従うとき生命は最もよく生長する。

職業の高下を考えて自然の方向以外に才能を延ばそうと計るものは、
生命の法則よりもホカのものに従うものだ。

ある人間にAの才能が与えられてあり、
またある人間にはBの才能があたえられてあるということは実に意味深いことである。
それに従うとき吾らは天地を造った神の大きな計画に参与するのだ。

  生命を礼(らい)し、自然に信頼せよ。そこから無限が生長する。

如何なる方向であろうと子供に天賦の才能がみとめられゝば
全力をあげてその方向に才能を延ばせ。
便宜を与えよ。賞讃せよ。励まし、鞭撻し、喜んでその仕事または遊びに従事させよ。

白百合に薔薇の花をつけさせようと思うな。
白百合の清さは一つの天才である。薔薇の花の美しさも一つの天才である。

諸君は『鈴懸け』の小さな白い花房や、萩の可憐な赤紫の豆のような小花にも、
ほかの花弁とは取りかえることが出来ない、それぞれの美をみとめないであろうか。
どんな小さな花にさへも人工には及ばない。

『ソロモンの栄華の極み』の時の装いだも、
その美しさは野辺に咲く名なし草の小花にも及ばないのだ。
況んや、造られし物の主位にある人間の天才は、
それがどんな種類の才でも自然に曲げたものより高貴であるのだ。

   生命を信じて礼(らい)せよ。

子供の生長、人間の生長は常に此処から始まらなければならない。
大地に根をおろさなければ偉大なる生長はのぞまれない。
大生命に根をおろさなければ、偉大な生長はのぞまれない。


天才は、それが偉大なのは大地に根をおろした生長であるからだ。
大地に根をおろした生長であれば、大工になる時 左甚五郎のような巨匠となるであろう。
粘土細工の好きな鼻垂らしもロダンのような巨匠となるであろう。

             <感謝合掌 平成31年1月9日 頓首再拝>

《生命の法則による新しい天才教育法》(上)~その6 - 伝統

2019/01/10 (Thu) 04:56:29


          *「生長の家」創刊号(P40~44)より



さて、子供をその天賦の才能の方向に伸ばすためには、彼に手負うた仕事を与えねばならない。

子供に仕事をさせては不可ないというのは謬見である。
適当な分量の仕事は子供の生命の生長に缺くべからざるものなのだ。

仕事は生命を建設的に使用する方法を教える。
そして子供の生命のうちに建設的な傾向と創意的な傾向とを生ずる。

建設的傾向 ― これは才能の發達の土臺石となるものだ。
此の傾向が強ければ強いほどその人間は生長する。
幼時に培われた傾向は成長してから養成した傾向よりも力強く根を張るのだ。

だから、幼時より生命を何か建設的な方向へ鍛えることが必要である。
それには大なり小なり仕事を與えなければならぬ。

特に小児自身の好む建設的な仕事を與えるのは好い。
しかし、好きな仕事でもあまり長時間又はあまり多量に與えてはならない。

分量が多すぎるとどんな仕事でも了ひには面白くなくなる
 ― そして仕事というものは退屈なものだという先入觀念を抱かせるやうになる。

善い言葉で暗示を與え、子供を充分信頼してやり、
仕事の種類と時間とを子供の好きにまかしてやるならば、
子供は滅多に仕事の選擇に失敗するものではない。

子供を信ずること、及び善い言葉で『貴方は善い子だから此れが上手だ』
という風に導くことを忘れてはならない。

子供が仕事を嫌がるといふのは嘘だ。無理に命令的にさせないで、
自分の好きな仕事をやらしてやるならば、
子供が仕事をしたがらないということはない。

女の子は特に仕事を好む。生まれつきの愛の性情が手助けを好ませる。
もう四、五歳にもなると母親の仕事の手助けをしたがって仕様がないであろう。
させるが好い。

が、仕事は徐々に慣らすが好い。急いではならぬ。
そして子供の手助けを眞に喜んで感謝してやるやうにすれば、
子供は『愛は感謝を受ける』といふ事実を体験する。

喜ばれることがどんなに嬉しいかといふことを體験する。
これは人間の正しい生長に必要なことだ。

子供に仕事を與える効果は、彼の生命に建設的傾向を與えることが第一で、
手先の技巧の習練が第二である。第二のことも無論重要である。
幼児から手先の技巧が習練されていると、成長後も、実生活上大いに役立つものである。

頭ばかり聰明で実際には何も出来ない人間に子供を造るな。

子供に仕事を與えるのを單に親の手助けをさすという意味ばかりでするのは間違ひである。
親の利益を標準とする時、子供の不完全な仕事は親をイライラさせることがある。
子供は仕事をしたために喜ばれるよりも怒鳴り付けられるやうなことがある。

それはやがて仕事に對する興味を失わすことにもなり、
子供自身は愛の心で手助けしたことが感謝で報われないことにもなり、
情操教育の点から云っても甚だ面白くないであろう。

その上、親の手傳ひを主眼とするとき、必ずしも、子供を天賦の才能の方向に
生命を練習さすことにならないかも知れない。

で、最初に子供の天賦の才能を、その子の器用さによって看破し、
巧に導いて子供自身の選擇によるやうな形にして、
その器用さを發揮するやうな仕事を、與えるのが最も好いのである。

子供は自分の選んだ仕事だから喜んでする、
しかも、それが天賦の才能ある方面の仕事であるから、すればする程上達する。

喜んでする仕事だからエネルギーが浪費されない。
それを親が賞めてやる、感謝してやる。

こうすれば子供の天才を発揮する上からも、
愛の人格を養成する上から云っても實に好い。

近頃一般の小學校などで知育を兼ねた實業教育を混ぜやうとする傾向があるのは、
教育の正しい傾向に進んだものといはねばならない。

しかし、本當の教育は一列一隊式にやられたのでは効果がない。
例へば、数學の不得手な人間で、文壇で大家にまり得るやうな人も澤山ある。

それを無理槍に才能と嗜好のない方面の學科を課することは
人間の生命力の浪費となる。

どうしても本當の教育は獨自の天賦を發揮すべき天才教育となって
進まなねばならぬ。    

             <感謝合掌 平成31年1月10日 頓首再拝>

子供は親の心や言葉によって損(そこ)なわれる - 伝統

2019/01/17 (Thu) 04:39:23

谷口雅春先生のお言葉(平成31年1月号「生命の教育」誌)

子供は親の心の「鏡」である 谷口雅春

《子供は親の心や言葉によって損(そこ)なわれる》

       ( 『生命の實相』頭注版第30巻12~13頁)

多くの子供たちは、親がまちがった心の波を起こし、
まちがった言葉の波を起こしているために非常に損(そこな)われているのであります。
多くの人たちは、子供を愛するあまりに悪(あ)しきことばかりを見つけて、
「お前はここがわるいのだ」ということを始終言うのであります。

そう言われるとその子供は萎縮してしまいます。
そういう子供は、たとい勉強は辛(かろ)うじてよくできたにしましても、
大いに伸びるということはできないのであります。

「勉強しろ、勉強しろ」と言わなければ勉強しないから、やむをえず
「お前はそんなことではできないから勉強せよ」と言うのだという人が
あるかもしれませんけれども、

「勉強せよ、勉強せよ」と口癖(くちぐせ)のように言うと、いくら勉強しても
かえって心に憶(おぼ)えないのであります。

これはまたおかしい現象でありますが、原理は簡単です。
「勉強せよ、勉強せよ」と言うような親は、子供に対してどういう
心の態度をとっているかといいますと、 「お前はできがわるいのだよ」という考えを
懐いているのであります。

できるに定(き)まっておれば、 「勉強せよ」とは申しません。
「できがわるい」と信じているから、 「勉強しろ、勉強しろ」とこう言うのであります。

・・・

<参考>「生命の教育」平成31年1月号 より
    (http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

特集 親が変われば子供は変わる!

   気付いたら、わが子がしゃべっている言葉は、
   自分がいつも口にしている言葉づかいであったり、
   自分と同じようにわが子がふるまっているということがありますね。

   「親の背を見て子は育つ」と言われますが、
   子供は多分に親の影響を受けて育ちます。
 
   私たち親が、子供をどのような眼で観るか、
   どのような言葉や行いをもって接するかで、
   子供の成長は大きく変わります。

   子供は親の「鏡」なのです。
   お父さん、お母さんがまず明るく、朗らかに、心豊かに変わりましょう。


子供は親の心の「鏡」である 谷口雅春

巻頭のことば 「明るい心 明るいコトバが闇を消す」理事長 代田健藏

「親が変われば子が変わる」とは 森田峯好
実践してみよう! 普段からの心がけが子供に伝わります 戸板由美子
実践してみよう! わが子の姿は、親の後ろ姿ですよ 山田裕子
母への感謝に目覚めたら、子供たちも変わった 福岡香奈恵
子供を見る目が変わったとき、子育てが楽になった!! 木村裕子

《特別インタビュー》
天皇国・日本の素晴らしさを若いお母さんに知ってもらいたい
参議院議員 中山 恭子

子育てワンポイント(21) 心を導く 出口正博
子育てQ&A きょうだい喧嘩が絶えない2人 大原和子
新しい友達ができない娘 小林義典
「パパが大好き!」「ママはイヤ!」の娘 杉山紀代子
子育ては母育て(74) 規則正しい生活をしよう 田下昌明
日本人100 の誇り(76) 君が代 岡田幹彦
日本国憲法の問題点(40) 勝岡寛次

日本のしきたり(13) 「成人の日」 辻川牧子
親子で読むものがたり(77) 石長姫ものがたり あべまりあ
子育てひろば 貝坂明美

新教連活動あらかると
◇「生命の教育献資」協賛者祝福祈願祭ならびに記念講演、静岡支部講演会の報告、
会員入会等のご案内など
◇ 1月支部行事

新年名刺広告
事務局短信・編集後記・次号案内

             <感謝合掌 平成31年1月17日 頓首再拝>

子供は親の心や言葉によって損(そこ)なわれる - 伝統

2019/01/19 (Sat) 04:54:02

谷口雅春先生のお言葉(平成31年1月号「生命の教育」誌)

子供は親の心の「鏡」である 谷口雅春

《子供は親の心や言葉によって損(そこ)なわれる》

       ( 『生命の實相』頭注版第30巻12~13頁)

「うちの子供はできが悪い」と、言葉に出さなくとも、
心に念(おも)うだけでも一つの波を起こすことであります。

親または教育者が、心の中で、 「この子供はできがわるい」
という精神波動を起こしまして、その子供をそういう心で見つめているかぎりは、
その子供は決して学習がよくできるものではありません。

勉強室にいまして、勉強しているような真似(まね)をしておっても、
心は親の心で縛られておりますから、勉強が愉快でないのであります。

そういう場合には、勉強室に坐(すわ)っておりますと、なんとなしに
窮屈(きゅうくつ)な、縛られたような感じがいたしますので、その窮屈な中に
いるのではのびのびと生命が生長しませんから、そこでいくら勉強しても深く心に
愉快が刻(きざ)まれるということがないのであります。

そのためにせっかく勉強しても能率が上がらないのであります。

             <感謝合掌 平成31年1月19日 頓首再拝>

親自身がよき心を起こし、よき行ないを - 伝統

2019/01/20 (Sun) 04:08:33

谷口雅春先生のお言葉(平成31年1月号「生命の教育」誌)

子供は親の心の「鏡」である 谷口雅春

《親自身がよき心を起こし、よき行ないを》

       ( 『生命の實相』頭注版第30巻80頁)

われわれの心というものは目には見えませんけれども、
無数無限の印象や観念が心の世界に蓄積されているのでありまして、
それが類似の「縁(えん)」によって引き出されただけが
発現することになるのです。

ですから、親というものは子供の心に種子(たね)を蒔(ま)く人であると同時に、
子供の内に埋蔵された種子(たね)の芽を吹かす「縁」を与える人にもなるのですから、

できるだけ自分がよき念波を起こし、よき行(おこ)ないをして
自然に模倣せしめるという行ないをしなければならないのであります。


             <感謝合掌 平成31年1月20日 頓首再拝>

子供は親の言葉の通りに現れる - 伝統

2019/01/23 (Wed) 04:48:29

谷口雅春先生のお言葉(平成31年1月号「生命の教育」誌)

子供は親の心の「鏡」である 谷口雅春

《子供は親の言葉の通りに現れる》

       ( 新編『生命の實相』第22巻44頁 )

実験心理学の実験に於て、皆さんの前に一様(いちよう)に水を入れたコップを
入れておいて私が水を飲めば、皆さんもその通りに水を飲まれる。

それと同じく親が心に怒(いか)れば、その通り子供の形に現れて来るのです。
これを児童の模倣性(もほうせい)と申しております。

親が夫婦喧嘩をしているのを子供の時に見せておくと、子供が成人して大人になると
同じように夫婦喧嘩をするようになるのであります。

子供を叱る場合などでも、皆さん反省して御覧になれば、きっと、自分が子供の時、
親から叱られた通りの言葉をいって子供を叱りつけている事実に、
みずから愕然(がくぜん)として驚く事があるのであります。

それは知(し)らず識(し)らずの中(うち)に心の中(うち)に蓄積された観念が、
長い年月(としつき)を経(へ)ても失われずに現れて来るのであります。

そう考えると、何事でも悪い手本は迂濶(うかつ)には見せられない
と思わせられるのであります。

             <感謝合掌 平成31年1月23日 頓首再拝>

子供の完全円満な実相を見て賞(ほ)めましょう - 伝統

2019/01/28 (Mon) 04:18:08

谷口雅春先生のお言葉(平成31年1月号「生命の教育」誌)

子供は親の心の「鏡」である 谷口雅春

《子供の完全円満な実相を見て賞(ほ)めましょう》

       ( 新編『生命の實相』第22巻71頁~72頁)

子供は最も多く母親のなすこと、いうことの影響を受けるのでありますから、
母親の性質とか心持(こころもち)、態度というものが子供に最も多く
現(あらわ)れて来るのであります。

でありますから、皆さんがお子さんにもっとよい性質がほしいと思われたら、
先(ま)ず自らを省みて自分がよくなって頂くことが肝腎なのであります。

子供というものは、
「お前は悪い悪い」と叱(しか)ってもなかなかよくなるものではありません。

常に善い方面を見るようにして、悪は見ずに、子供の完全円満な実相を見るようにして、
それを賞(ほ)め言葉で誘導していれば必ずよくなって来るのであります。

それからこれは先程(さきほど)も申しましたが、
私が水を飲むと、皆さんも無意識に一緒に飲まれる、というのと同じことで、

命令や吩咐(いいつけ)よりも、行(おこな)いで手本を示されますと、
子供は直(す)ぐその真似(まね)をするものでありますから、
常に子供によい実例を示し、常によき行為の模範になることが大切であります。

             <感謝合掌 平成31年1月28日 頓首再拝>

子供には大なり小なり仕事を与えなければならない - 伝統

2019/02/06 (Wed) 03:49:25

谷口雅春先生のお言葉(平成31年2月号「生命の教育」誌)

手伝いは子供の生命と愛を引き出す 谷口雅春

《子供には大なり小なり仕事を与えなければならない》

       ( (新編『生命の實相』第22巻86~87頁))

子供に仕事をさせてはいけないというのは謬見(びゅうけん)である。
適当な分量の仕事は子供の生命の生長(せいちょう)に欠くべからざるものなのだ。
仕事は子供の生命の生長に欠くべからざるものなのだ。

仕事は生命を建設的に使用する方法を教える。
そして子供の生命のうちに建設的な傾向と創意的な傾向とを育てあげる。


建設的傾向――これは才能の発達の土台石となるものだ。
この傾向が強ければ強いほどその人間は生長する。

幼時(ようじ)に培(つちか)われた傾向は
生長してから養成した傾向よりも力強く根を張るのだ。

だから、幼時より生命を何か建設的な方向に鍛(きた)えることが必要である。

それには大なり小なり仕事を与えなければならぬ。

・・・

<参考>「生命の教育」平成31年2月号 より
    (http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

特集 家のお手伝いができる子に
   日本の建国をお祝いしましょう
手伝いは子供の生命と愛を引き出す 谷口雅春

子供に幸せな成長を願うならたくさんお手伝いをさせましょう
                     山上裕子
実践してみよう! 無心の幼児期からお手伝いをさせましょう
                     中谷英子

子は親の背中を見て育つ          沼田真弓
お手伝いは親子の絆を強くする       森 冴子
家事全般がこなせる子はたくましく育つ   代田壽範

《特別寄稿》

世界に誇りうる建国の歴史
  同志社大学名誉教授  井上雅夫
日本人として知ってほしい7つのQ

子育ては母育て(75) 連休や来客は育児の大敵  田下昌明
子育てQ&A 息子に早寝早起きの習慣をつけさせたい  大原和子
勉強へのやる気が見られない娘  小林義典

日本人100 の誇り(77) 年中行事  岡田幹彦
子育てワンポイント(22) 的確な対応を  出口正博
親子で読むものがたり(78) 山幸彦と海幸彦  あべまりあ

日本国憲法の問題点(41) 勝岡寛次
日本のしきたり(14) 「立春」  辻川牧子

新教連活動あらかると
◇兵庫支部講演会の報告、皇居一般参賀の報告、「生命の教育」献資のお願いなど

◇ 2月支部行事
事務局短信・編集後記・次号案内

             <感謝合掌 平成31年2月6日 頓首再拝>

《子供の手助けは、喜んで感謝して》 - 伝統

2019/02/08 (Fri) 04:25:08

谷口雅春先生のお言葉(平成31年2月号「生命の教育」誌)

手伝いは子供の生命と愛を引き出す 谷口雅春

《子供の手助けは、喜んで感謝して》

       ( 新編『生命の實相』第22巻87~89頁)

子供が仕事を嫌(いや)がるというのは嘘(うそ)だ。
無理に命令的にさせないで、自分の好きな仕事をやらしてやるならば、
子供が仕事をしたがらないということはない。


女の子は特に仕事を好(この)む。
生(うま)れつきの愛の性状(せいじょう)が手助けを好ませる。
もう三、 四歳にもなると母親の仕事の手助けをしたがって仕様がないであろう。

させるが好(よ)い。
が、仕事は徐々に慣(な)らすが好(よ)い。急いではならぬ。

そして、子供の手助けを真(しん)に喜んで感謝してやるようにすれば、
子供は「愛は感謝を受ける」という事実を体験する。
喜ばれることがどんなに嬉(うれ)しいかということを体験する。

これは人間の正しい生長に必要なことである。

(中略)

子供に仕事を与えるのを単に親の手助けをさすという意味ばかりでするのは
間違いである。

親の利益を標準とする時、子供の不完全な仕事は親をイライラさせるものである。
子供は仕事をしたために喜ばれるよりも呶鳴(どな)り付けられるようなことがある。

それはやがて仕事に対する興味を失わすことにもなり、
子供自身は愛の心で手助けしたことが感謝で報(むく)いられないことにもなり、
情操(じょうそう)教育の点から甚(はなは)だ面白(おもしろ)くない結果を
来(き)たすのである。


             <感謝合掌 平成31年2月8日 頓首再拝>

《子供の手伝いに功利(こうり)や実用を求めてはならない》 - 伝統

2019/02/10 (Sun) 03:36:28

谷口雅春先生のお言葉(平成31年2月号「生命の教育」誌)

手伝いは子供の生命と愛を引き出す 谷口雅春

《子供の手伝いに功利(こうり)や実用を求めてはならない》

       ( 『生命の實相』 頭注版第28巻94~95頁 )

生まれ出たままの続きのように感じられる幼児期では、
本当に吾(わ)れと幼児と一体のような自覚があったために本当の教育が
できたのでありますが、

相当(そうとう)子供の身体(からだ)が大きくなって来ますと、
なんとなしに別個の存在であるような分離の感じを持って来て、
自然にこのコップの転覆(くつがえ)るのを見せて

「そら、コップ。コップが転覆(くつがえ)ったでしょう。
そら、水が零(こぼ)れた。零れた水を拭(ふ)きましょう。そら拭いた」
というような塩梅(あんばい)式のの、

一つ一つ子供が自分の内部から知ろうとし、出そうとしているものを
引き出すような教育ができなくなる。

そして今度は、 「そんなことしていたら、台所がうるさいからあっちへ
行(ゆ)きなさい」と、せっかく、子供が内部にもっていて引き出し
てもらいたいものを、 「うるさい、うるさい」と撥(は)ねつけるようになる。

この撥ねつけるようになるのは、親の方(ほう)が
児童と一体感を失って功利的になってくるからです。

役に立つとか、役に立たぬとか、経済的とか、実用向きとか、そういう標準で
子供を排斥(はいせき)して、子供のまさに芽(め)吹(ぶ)かんとしている生命を
引き出すことを怠(おこた)ることになるのであります。

このせっかく今引き出されたいと子供の生命が内部から溢(あふ)れ出て、
これを手伝いたい、菜(な)っ葉(ぱ)を截(き)りたいというふうな、
内部から溢れ出てくるものを抑(おさ)えて脇(わき)へ除(の)けてしまう
というふうなことになる、これは教育が《手段》に征服されたのであります。

教育が《生活そのもの》にならないで、あることの《手段》になる
―― ここに教育の堕落(だらく)があるのであります。

             <感謝合掌 平成31年2月10日 頓首再拝>

《子供の生命が溢(あふ)れ出している「今」を生かす》 - 伝統

2019/02/18 (Mon) 03:48:35

谷口雅春先生のお言葉(平成31年2月号「生命の教育」誌)

手伝いは子供の生命と愛を引き出す 谷口雅春

《子供の生命が溢(あふ)れ出している「今」を生かす》

       ( 『生命の實相』 頭注版第28巻95~96頁 )

手段でなしに「今」を生きさす ―― 「今」生命が溢(あふ)れ出して
「こうしよう、こうしよう」 「こうしたい、こうしたい」と、樹木の新芽(しんめ)
のようにまさに内部から溢れ出ようとしている時に児童の生命を生かす
というふうにしたならば、人間の内部に流れている能力が十分に発達するのです。

このなんとなく母親の台所仕事の手伝いなんかしたいという時には、
単に能力が発現しているだけではなしに、愛の心が動いている、自分からして、
母親を喜ばしてあげたい、という愛の心が起こっているのだけれども、

親の方(ほう)では実用一点張りで、そんな愛を受けたって時間がかかるばかりである、
邪魔になってかえって仕事が運ばないと、愛の心を功利的価値で計算して、
実用一点張り、経済向き一点張りで片づけてしまおうとする。

こうなると、せっかく愛の心で「親たちの手助けをして上げたい」という
生命の働きが動き出そうとしている時に、その生命を押し込めてしまうということになる。

そして、青年期になってからその子供に「ちょっとわたしの手伝いをしておくれ」といっても、
もうその子供は手伝いをする喜びを、その最初の芽(め)生(ば)えにおいて
摘(つ)まれてしまっているのです。

(中略)

こういうふうに児童の成長の経過中に、その時その時に「今」でないと
発達しないというふうなことがあるのです。

             <感謝合掌 平成31年2月18日 頓首再拝>

《子供は無意識の中で教育される》 - 伝統

2019/02/20 (Wed) 04:35:46


           *「光明法語」(2月20日)より

無意識の心的影響は、親が子供に対して教育する場合には特に著しくあらわれる。

母親が姑に対して物言うまいと決心したりしていると、
時として物言わぬ白雉の子供が出来たりすることがある。

親が人々に対して好悪の感を著しく抱いていると、
子供が食物に対して好き嫌いをするようになったりする。

親がうちの子は間違いないと信じていると間違いない子供になる。
うちの子供は虚弱であると信じていると、実際虚弱になってしまう。

しかし信ずると云うことは捨てて置くことではない。
信じて好(よ)き機会を与えることである。

             <感謝合掌 平成31年2月20日 頓首再拝>

高声、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならない - 伝統

2019/02/25 (Mon) 04:49:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月25日)」より


たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。
そうでなければ極端に反抗的に乱暴である。
 
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、
その人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものである
ということを幼い時から子供に知らすことが肝要である。

子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、
腹立ち声を出すことはなんの益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。

その性質は生長後も時として一生涯つきまとい。
その人の運命の重荷となることがあるものである。
親が子を害していると知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
 
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して
本能的に恐怖の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。

もし子供をよくしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、
普通の話以上の高声を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。

もし相手に訓示を与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、
それは反抗となってせっかく話したことが反対の結果になることがある。
 
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。
高音を出して恐れさせれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。

貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、
物を教えるときに使う荒立った高声(こうせい)である。  

           <感謝合掌 平成31年2月25日 頓首再拝>

《まず自らがよき友となること》 - 伝統

2019/03/04 (Mon) 04:38:14

谷口雅春先生のお言葉(平成31年3月号「生命の教育」誌)

人から好かれ、良き友を得るには 谷口雅春

《まず自らがよき友となること》

        ( 『青年の書』101頁)

よき友達を得ようと思ったならば、ただ「得よう」とばかり思ってはならないのである。
この世界はすべて循環交流の世界であって、一方的なものではあり得ないのである。

吾々は何物も与えないでいて、すべてを得るというようなことはできないのである。
またすべてを与えながら何物も得られないということも断じてあり得ないのである。

よき友を得ようと思うならば、まず自分がまず自らがよき友となること
よき友とならなければならないのである。

深切(しんせつ)を与える友、喜びを与える友、励ましと勇気づけと
賞讃とを惜しみなく与える友、相手の美点を認めてそれをひきだしてやる
友にならなければならないのである。

まず自分が人から愛されるような
そして人をひきつけるようなよき性質を養わなければならない。

それには自分が愛深くならなければならないのである。
もし自分が《けち》であり、利己主義であり、冷酷であり、何人(なんぴと)
をも本当に愛しないでいながら、よき友を得ようと思ってもそれは決して
得られないのである。

与えただけのものが与え返されるのである。

・・・

<参考>「生命の教育」平成31年3月号 より
    (http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59


「生命の教育」平成31年3月号 主な内容

巻頭のことば 「子供の善性を信じる事と個性を生かすこと」
新教育者連盟理事長 代田健藏
特集 わが子のコミュニケーション
能力を高めよう

人から好かれ、良き友を得るには 谷口雅春

読書力と道徳性の育成で国語力を高める 菊池正規

実践してみよう! 何事も自信をもたせる親子の触れ合い 山田裕子

親が子供を認めることで、子供の友達関係がスムーズに 樋渡百合恵

明るい雰囲気の中で家族の絆を深める 山本由美子

生きることは、心を通わせること 執行ひろみ


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《特別インタビュー》
おカネより人の輪と力の素晴らしさ
社会福祉法人 銀河の会 理事長 坂口正子
===========================================
子育てワンポイント(23) 教育とはアラームだ! 出口正博
子育てQ&A カラオケに入り浸る次女が心配です 大原和子
息子の進路問題で夫婦の意見が違う 小林義典
夫が子育てに協力してくれない 杉山紀代子
子育ては母育て(76) 体内時計 田下昌明
日本人100 の誇り(78) 古今和歌集 岡田幹彦
日本国憲法の問題点(42)改元は御代替り後にすべきだった 勝岡寛次
日本のしきたり(15) 「彼岸」 辻川牧子
親子で読むものがたり(79) 天の岩戸開き あべまりあ
子育てひろば 徳永有貴

新教連活動あらかると
◇愛媛の古事記勉強会の紹介、東京乳幼児教室の募集、会員入会の案内など
◇ 3月支部行事
事務局短信・編集後記・次号案内

           <感謝合掌 平成31年3月4日 頓首再拝>

《人に好かれるコツ》 - 伝統

2019/03/05 (Tue) 02:19:15

谷口雅春先生のお言葉(平成31年3月号「生命の教育」誌)

人から好かれ、良き友を得るには 谷口雅春

《人に好かれるコツ》

        (光明思想社版『人生読本』236頁)

人に好かれるコツの一つは表情にあるのです。
表情というのは、その人の顔にあらわれている感じです。
人の顔付(かおつき)、感じです。

その人の顔を見ると何となしに好きになれる人と、
何となしに嫌いになる人とがあるでしょう。
この事は全く不思議な問題です。


皆さんは「私の顔は生(うま)れつきだから仕方がない」とお考えになりますか。
そうお考えになりますならば、それは間違(まちがい)です。

顔の感じは常に変っているものです。
今、あなたのお母さんが死にましたという電報が来ましたら、
あなたは悲しい顔をなさいます。
その悲しい顔の感じはあなたが喜んでいる時の感じとは異(ちが)います。

あなたが不平で膨(ふく)れている時の顔の感じと、
あなたが深切(しんせつ)に赤ん坊をいたわっていられる時の
顔の感じとは異(ちが)います。

           <感謝合掌 平成31年3月5日 頓首再拝>

《何にでも深切な気持の人は人に好かれる》 - 伝統

2019/03/07 (Thu) 04:51:44

谷口雅春先生のお言葉(平成31年3月号「生命の教育」誌)

人から好かれ、良き友を得るには 谷口雅春

《何にでも深切な気持の人は人に好かれる》

        (光明思想社版『人生読本』237~23頁)

あなたが常に人々に対して深切な好意ある表情(かおのようす)を
していられましたならば、あなたに対(むか)った人は常にあなたから
好(よ)い感じを受けましょう。

あなたから好(よ)い感じを受けましたら、その対手(あいて)の人は
あなたを好きにならずにいられないでしょう。

あなたを好きになったら、その人はあなたに深切にもしてくださいましょうし、
また色々とお世話もして、出世に導いてもくださいますでしょう。

           <感謝合掌 平成31年3月6日 頓首再拝>

愛と大調和の日 - 伝統

2019/03/10 (Sun) 06:52:42


           *「光明道中記」(3月10日)より

【自分の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることが出来ない。
                     (『生命の實相』第四巻)】

赤ん坊はお乳を飲みたい時にも泣くし、眠い時にも泣く。

お乳を飲みたい時には、唇の表情はお乳を飲む時の格好に幾分
顫動(せんどう)せしめながら泣くものである。
眠いときには瞼(まぶた)を半ば閉じて眼の表情を眠そうにして泣く。

突然火のつくように泣くのは、どこか急に痛みか痒(かゆ)みが出て来たときである。
針が身体に刺さっていないか、虫が螫(さ)していないか調べて見る必要がある。

お腹が急に痛む場合にも急激に泣く。
その場合、生後1ヵ月以上の赤ん坊なら涙が出るのが普通である。

同じように急激に泣いても、癇癪(かんしゃく)泣きの場合には
涙は出ないで足を踏(ふ)んばらせたり、手を憤ったように頑張らせたりして泣く。

肉体は心の影であるから、表情を観察しておれば
容易に何の感情で泣くのか判るものである。

癇癪泣きの時に愛慰(あや)すような習慣を附けてはならない。
抱いては一層可(い)けない。

癇癪立てて泣きさえすれば何事でも叶うのだと云うよう我儘な習慣は、
泣きさえすれば抱いたり乳を飲ませたりする母親が最初に子供に養成したのである。
何でも最初が肝腎である。

嬰児(あかんぼ)だから何も分らないと思うのは間違である。
最初の我儘の習慣は大抵生れて15日以内に附くのである。

           <感謝合掌 平成31年3月10日 頓首再拝>

随所作主(ずいしょにしゅとなる)の日 - 伝統

2019/03/11 (Mon) 04:40:09


           *「光明道中記」(3月11日)より

【自分の立場からのみ見ずに、相手の立場からも見よ。(『生命の實相』第八巻)】


最初の教育は、赤ん坊が善き態度をとったら、善き感触を与えられると云う経験を通して
行なわれるのである。赤ん坊が悪しき態度を示したときに良き感触を与えられるならば、
その赤ん坊は悪しき態度のみを示すようになるであろう。

泣いたときに抱いて優遇したならば、
その赤ん坊は泣いたら優遇されると知って泣き虫に育つのである。
癇癪を起したときに優遇されるならば、自分の要求をきいて貰えない時に、いつでも
往来の真ん中で大の字に寝そべって泣きわめいて、親を困らす子どもになるだろう。

泣かぬ子に自分の児を育てようと思うならば、
赤ん坊が泣く時にはそれが痛みの表情でない限り、
無関心で放置する習慣をつけるべきである。

そして赤ん坊がにこやかに機嫌の好い時こそ、
お乳をやり、又時には抱いてやっても好い。

泣いている時に「おお、そうかそうか」と言って如何にも可愛気に愛慰(あや)すならば、
泣きさえすれば愛撫(あいぶ)してくれるものだと赤ん坊は思い違いをするであろう。

癇癪を立てている時に機嫌をとるために愛撫するならば、
赤ん坊は愛撫して貰いたくなると癇癪を立てるであろう。

           <感謝合掌 平成31年3月11日 頓首再拝>

時間を大切にする日 - 伝統

2019/03/12 (Tue) 02:33:21


           *「光明道中記」(3月12日)より

【時間は心一つで長くも短くもなるもので、一定した真の存在ではない。
                          (『生命の實相』第十一巻)】

乳飲児(ちのみご)があるので本を読む暇がないと言う母親がある。

子供を有つようになったから、家の掃除も碌々出来ず、家の隅々には埃が積り、
自分の着物さえもどろどろで身躾(みだしな)みなどすっかり出来ずに、
急に老けていく若い母がある。

乳飲児があるので世話がかかって時間が無いと言う母親は本当に時間がないのではなく、
時間を作らないのである。
そんな母親は始終赤ん坊に泣かれて、始終赤ん坊を抱いているか、
始終不規則にお乳を飲ますかし勝ちだ。

乳児に抱き癖をつけると抱かない時は冷遇されたと思って頑固に泣き通すものである。
子供を愛しているようで、子供を泣き虫に我儘に育てる親はこんな母親である。

そしてその子供が成長してから、
「自家(うち)の子は、どうして斯う我儘だろう?」と呟く。
母親よ、御自分が子供をそう作ったのである。

1回にお乳を飲ませる時間は、母親の乳首の状態と、赤ん坊の吸う力との相互関係で
定(き)まるのだから一定し難い。併し1回30分間を超えない方が好い。
少しずつ長時間に亙(わた)って飲ませると間食をしているのと同じ結果となる。

赤ん坊は半ば吸った頃から眠りを催すから、そんな時は赤ん坊の口の縁(ふち)を
指で突(つつ)き乍(なが)ら飲ませると、又強く吸いはじめる。

           <感謝合掌 平成31年3月12日 頓首再拝>

軌道に乗る日 - 伝統

2019/03/13 (Wed) 04:47:42


           *「光明道中記」(3月13日)より

【人生は神の永遠の生命が五官に触れる形式に現わされたものでなければならぬ。
                          (『生命の實相』第七巻)】

赤ん坊に規律正しくお乳をやると云うこと、
規則正しい時間に便通をさせること、
それらは人間に最初の規則正しさを教えることになるのである。

規則正しい授乳と用便とは、人生に一つの法則があり、権威があり、
それに従うときに自由と快感を得るものであることを
赤ん坊に教え込むことになるのである。

即ちそれは「服従は自由なり」の古聖の金言を實生活の上に示し、
周囲と調和することことが、
自分の伸びる道であることを実生活に於いて知ることが出来るようになる。

子供を自主的な立派な人間に育てるのは必要だが、暴君に育てることは禁物である。
実的な立派な人間とは法則を破る人間ではなく、
法則を発見し、法則を利用する人間なのである。

科学者は自然界の法則を発見し、それを利用するとき本当の自由を得る。
自然界の法則を利用するとは法則に違(たが)うことではなく
、法則に従うことなのである。
凡そ、自由とは法則に従うところから来る。

内部の法則が外在の法則と全く一つになって運行するとき、
丁度機関車の内部の力が、軌条(レール)の則(のり)とがぴったり合ったとき、
自由になめらかに運転するのと同じようなものである。

あまり自由に甘やかして育てた子供が墜落するのは、
幼児から法則を無視することを教えたからである。

           <感謝合掌 平成31年3月13日 頓首再拝>

自然を拝む日 - 伝統

2019/03/14 (Thu) 04:49:22


           *「光明道中記」(3月14日)より

【不健康は自然の生命の流れが何かの不自然で塞がれたことである。(『百事如意』)】


人間を造ったのは「自然」である。
自然を静かに観察する時は、何が生命を活(い)かすものであり、
何が生命を抑えるものであるかが判る。

生後7か月程にして幼児に歯が生えて来ることは何を意味するか。

その頃には固形のものを与えても好い証拠である。
併し歯は全部まだ揃っていない。
それは全部の食物がまだ固形物では可けない証拠である。

上部の門歯(もんし)は一体の肉(歯ぐき)から二つだけ先に生える。
それは父母が先に立っていることをあらわしている。

親の家を出たり、親が死んだり、親しく親の家にいない者は
門歯が虫歯になったり折れたりし易いものである。

生後7か月頃から、御飯を十粒ずつ毎日一粒ずつ殖やしながら
食事に混えて与えるのは胃腸の鍛錬法になるものである。

この方法を過(あやまち)なく行なうときは、
離乳時にお粥を特別与える必要はなくして、
直(ただち)に固形物に移り得るものである。

歯の形を見よ。
人間は何を食する生物であるか。

門歯8枚は菜食動物の歯、犬歯(けんし)4枚は肉食動物の歯、
残り20枚は臼歯(きゅうし)であって穀食を搗(つ)きくだくように設計せられている。

人間は菜食が好いか肉食が好いかは、自然を観察すれば好い。
32枚の歯のうち4枚だけが肉食の歯であるから、
肉類は全食量の 1/8 を適量とする。

           <感謝合掌 平成31年3月14日 頓首再拝>

顔は生来(うまれつき)よりも習慣 - 伝統

2019/03/15 (Fri) 04:40:09

谷口雅春先生のお言葉(平成31年3月号「生命の教育」誌)

人から好かれ、良き友を得るには 谷口雅春

《顔は生来(うまれつき)よりも習慣》

        (光明思想社版『人生読本』238~239頁)

では、皆さん、人に対したときには不平そうな膨(ふく)れた表情(かおつき)を
しないで、深切(しんせつ)な、愉快(ゆかい)な相手を歓迎するような
表情(かおのようす)をいたしましょう。

しかし顔の様子というものは、習慣になっているものですから、
今、この人によく思われたいと思って愉快に深切に見せかけようとしましても、
一時は努めて《わざ》とそういう表情ができるでしょうけれども、
すぐ習慣のついた顔付(かおつき)に変るものです。

(中略)

いつも怒っている人はこわい顔になりますし、いつも人に好(よ)い感じを
もっている人は、また自分がよい感じの顔になりましょう。

ですから顔の表情(ようす)をよくするには
一時の付焼刃(つけやきば)では駄目です。

いつもいつも、深切な、やさしい、快活(かいかつ)な、好意のある、
誰(たれ)のためにでも思(おも)い遣(や)りのある心を持っていれば、
そのような顔になるのです。

           <感謝合掌 平成31年3月15日 頓首再拝>

家庭の中から褒(ほ)め言葉を - 伝統

2019/03/21 (Thu) 01:56:26

谷口雅春先生のお言葉(平成31年3月号「生命の教育」誌)

人から好かれ、良き友を得るには 谷口雅春

《家庭の中から褒(ほ)め言葉を》

        (光明思想社版『人生読本』178~180頁)

人の悪口(あっこう)を言う暇(ひま)があれば、良き言葉を発すると、
自分自身がその良き言葉の力によって育てられるのであります。

善(よ)き言葉は空から花びらが降るような、音楽が聞えてくるような
美しい感じがしますが、悪(あ)しき言葉は雷(かみなり)のように
吾々(われわれ)の心を暗黒(まっくら)にするのであります。

(中略)

この世の中を住みよくするのも住み難(にく)くするのも、
皆さん自身の言葉一つできまります。

必ずしも金があるから、それで人間は幸福(しあわせ)だというものではない。
金が幾(いく)らあっても、その家の中が針の筵(むしろ)のように
苦しい世界であって、奥様がヒステリーになったり、子供が疳虫(かんむし)
にになったりしていてはなんにもなりません。


それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、
いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。
皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、
どんな狭い裏長屋(うらながや)におりましても、
そこがこの世の極楽(ごくらくとなり天国となるのであります。

たいてい会社や、工場商店などの勤め先で面白(おもしろ)くないと言う人は、
やはり家庭がどうも面白くない。家庭が面白くないのでそれで勤め先へ行っても
やはり能率がはっきり上(あが)らないで、そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。

(中略)

だから何よりも先(ま)ず家族同士仲よくして互いに褒(ほ)め合う生活をして
『生命の實相』を読む事であります。
褒める言葉ぐらい結構な事はないのであります。

           <感謝合掌 平成31年3月21日 頓首再拝>

赤ん坊の襁褓(おむつ)の取換時期について - 伝統

2019/03/22 (Fri) 01:53:37


           *「光明道中記」(3月22日 注意ぶかき日)より

【殺す者は死に、生かす者は生きる。(『生命の實相』第六巻)】

赤ん坊が泣いた時に時計を見る習慣は好いことである。
それが実際空腹で泣くのか、他の原因で泣くのか
区別する一つの適切な標準となるからである。

授乳後1時間半以内で泣くときには、それは空腹ではない。
用便を催(もよう)して来たか、既に用便して股間が不快なと云うことを
知らせているかしているのである。

寝小便の習慣は、嬰児の最初の用便の訴えを聞き流して、
襁褓(おむつ)の湿った感覚を不便と感じない程慣れさせて了ったところに起因する。
その子供は、小便は寝床で用達するべきものと考えているのである。

だから食事時間でないのに赤ん坊が泣くときは襁褓(おむつ)取換を請求していると
思い、襁褓(おむつ)を取替えてやるべきである。

若し其の時襁褓(おむつ)が濡れていなかったら、3分間下半身を空気浴するつもりで
赤ん坊を便所で支えて「シー」の言霊(コトバ)の力で排尿を誘導して見るべきである。
巧みに習慣をつければ生まれてから数回のほか襁褓(おむつ)を濡らさずに済ませる事
も出来る。

赤ん坊は生後数日間は殆ど小便しない。
2週間後から3ヵ月迄は毎日約14回、6ヵ月迄は16回である。

股間が乾いている事が当り前で、濡れているのが異常だと判り、
採尿は便所であるのは正しいので、寝床でするのが間違だと知れば、夜尿は無くなる。

           <感謝合掌 平成31年3月22日 頓首再拝>

決して赤ん坊が口に指を入れるのを許してはならない - 伝統

2019/03/23 (Sat) 01:42:17


           *「光明道中記」(3月23日 人に深切をする日)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】

赤ん坊はまず口の触覚から発達し、同時に用便の感覚が発達する。
これがなければ生存できないからである。

手の存在を自分自身感覚するのはそれからずっと後らしいが明瞭には判らない。
赤ん坊は手を何に使うものであるかを最初は自覚しないのである。

偶々(たまたま)指が口に触れたとき、
口は触れるものを吸う本能が発達しているので、自分自身の指を吸う。
その時にはじめて口に触れた自分の手を感覚する。

その時の筋肉感覚の記憶によって、そう云う筋肉感覚を起したときに、
吸うものが口に触れると云うことを、もう一遍やって見ようとして手を動かす、
すると又、何物かが(指)口に触れて吸い得る。

それは喜びには違いないが、
指そのものの目的は口によって吸われる為にあるのではない。
それは明らかに目的に背反している。

自分の肉体を玩弄(がんろう)する習慣と云うものは外界に積極的に伸びる人間の
生命力を、内部方向に退嬰(たいえい)せしめる傾向があるもので、
肉体玩弄の習慣を養うときは子供は神経質に育つものである。

決して赤ん坊が口に指を入れるのを許してはならない。
指を口に入れようとする時、指を引いて妨げられることが重なれば、
この方向へは手が行かないものだと思って、手を口の方向へ動かさなくなる。

           <感謝合掌 平成31年3月23日 頓首再拝>

幼児に対する最初の「自他一体」の教育 - 伝統

2019/03/24 (Sun) 04:30:36


           *「光明道中記」(3月24日 小事大切の日)より

【目前の小事をゆるがせにしてはならぬ。(『生命の實相』第十一巻)】

類は類を招(よ)ぶ心の法則からして、
子供部屋には円満な形のものばかりを置くようにしなければならない。

手の運動をただ口へ運ぶだけにのみ発達せしめるのは愚かなことである。
手を動かし足を動かしているうちに自分のみならず、自分に繋(つば)がって
他物が動くと云うことを教えるのは、幼児に対する最初の「自他一体」の教育である。

着衣は出来るだけ運動し易いものを選んで自由に運動し得るようにする事が肝腎である。
自分で物を撮(つま)むことの出来ない頃は、幼児自身の手にゴム風船のようなものを
縛り付けてやって、自分の手の運動につれて他物が動く喜びを味わすのである。

風船の色などは赤とか青とか紫とか黄色とか別々のを併列せしめて、
その色々を各別に指(ゆびさ)して色の名称をハッキリと述べて動かす。
言(ことば)は力であるから、各別の色彩に対して別々に名称を与えられることに
よって、今迄赤、青、紫、黄と雑然としていたものが、各々別々の存在として
印象せしめられる。

この事は色彩の感覚の訓練になり、同時にそれは幼児の心全体の生長に役立つ。

赤ん坊は大きな音を聞かすか周囲の人が恐怖を教え込まない限りは恐怖しない。


           <感謝合掌 平成31年3月24日 頓首再拝>

規律をそれとなく自覚せしむるようにしなければならぬ - 伝統

2019/03/25 (Mon) 02:41:58


     *「光明道中記」(3月25日 断じて心を動揺させぬ日)より

【人が如何なる罪を犯そうとも、わが怒ることはそれにも優(まさ)る悪徳である。
                         (『生命の實相』第四巻)】

驚風(きょうふう)などと言って赤ん坊が夜間突然目を覚まして泣く習慣が
始まったりするのは、屹度親の心の中に驚風が捲(ま)き起っているのである。

親子は一体であるから、親が先ず心の平和を取り戻すことが必要である。

赤ん坊を愛することは必要であるが、赤ん坊自身に対し、彼が家族の中で
特別に重要な存在であって、どんな我儘を言っても肯(き)かれるものであるとの
感じを与えては可(い)けない。

規律が赤ん坊の周囲で厳重に行なわれており、どんなに嘆いても、駄々を捏(こ)ねても、
時間が来なければお乳を貰うことも出来ないし、利己的動機からは規律は決して打ち破る
ことが出来ないことを生活の中でそれとなく自覚せしむるようにしなければならぬ。

併し、愛は深くなければならぬ。
親を冷淡だと思わせてはならない。

愛されてはいるが、すべての人間は平等に愛せられねばならないことを
赤ん坊の時から知らせて置くことは必要である。

大抵の家庭では赤ん坊のときには、彼のみが特別に愛されているような事実を経験
せしめられながら、次第に長ずるに従って其の「特別な寵愛」が一般的な区別ないものに
低下してくるので、それを愛の冷却と取間違えて親を恨むようになるのである。

           <感謝合掌 平成31年3月25日 頓首再拝>

赤ん坊が吐乳した場合は、 - 伝統

2019/03/26 (Tue) 02:19:09


           *「光明道中記」(3月26日 感謝生活の日)より

【憤怒、憎悪、恐怖、罵詈(ばり)―― 其の他すべての悪徳は自分を傷つける。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

赤ん坊がお乳を吐いてもそれは必ずしも病気ではない。

それは赤ん坊の胃袋は真直であって食道から縦に立った御酒徳利(おみきどくり)の
ような形になっていて、胃袋の上を圧(おさ)えたり、身体の位置が悪かったり、
少しく動揺を与えたら溢れ出易くなっているからである。

これは吐乳(とにゅう)と言うよりも溢乳(いつにゅう)と言うべきで病気ではない。
溢乳は大抵まだ飲んだ乳が固まっていないが、本当の吐乳は概(おおむ)ね飲んだ乳が
豆乳状に凝固して出る。吐乳しても、発熱や、便の異状がなければ病気ではない。

併し凝固した吐乳があったら信頼出来る医者に診(み)て貰うが好い。
前日良便があったと云っても次に出る便が不消化で腐敗しているかも知れない。
浣腸をして宿便の良否を調べて貰うが好い。

同時に心の持ち方を正しくしなければならない。
お乳は天の恵(めぐみ)であるのに、それを吐き出すのは
天の恵をおろそかにした象徴があらわれているのである。

何か目上の人と争っていることはないか。
何か人の深切を衝(つ)き戻すようなことをしていることはないか。
夫婦争っているようなことはないか。

深く反省して見て、自分の「逆様(さかさま)に戻す」ような心と生活を
如実に改めなければならぬ。

両親の感情が激動した直後、
子供が疫痢(えきり)や麻疹(はしか)に突然罹(かか)るような実例が度々ある。

           <感謝合掌 平成31年3月26日 頓首再拝>

赤ん坊を叱るのは無意味なこと - 伝統

2019/03/27 (Wed) 03:07:59


        *「光明道中記」(3月27日 生長の喜びの日)より

【与える時はただ与える喜びの為に与えよ。自分は与える程生長する。
                          (『生命の實相』第四巻)】

赤ん坊を叱るのは無意味なことである。
「これをしては可(い)けません」と云う命令が赤ん坊に理解されるのは
生後9ヵ月頃からだと云うことを調べた人が言っている。

親たちが叱るつもりで大きな声を出せば赤ん坊は唯恐怖するだけのことである。
此の世に悪意を抱いている或る敵対者があると云う不快な恐怖的印象は、
幼年時の心の傷としてその児童の潜在意識に残り、その児童を大人になってから
後までも、臆病な身に仕上げるのである。

生後1年までの赤ん坊がしてはならないことを若しするならば、
ただ静かに、そう云う行動の出来ぬように、そう云う行動をすれば、
味わいが苦(にが)いとか、その方向へ手をやろうとすると屹度何物かが来て
その手を止めるとか、何か自動的に作用する法則があることを知らせるのが好い。

叱る代わりに優れたる宗教的音楽を聴かせることは
赤ん坊の情操教育に大変必要なことである。
これには蓄音機を利用するが好い。

また良き書物を読んで聞かせることは、その書物の言葉が、たとい赤ん坊にとって
理解し得ないものであるにしても、内容に伴う読む人の音律や、
その音律に伴う感情やは、結局以心伝心赤ん坊に伝わって、
赤ん坊の感情生活を生かすのである。

           <感謝合掌 平成31年3月27日 頓首再拝>

子供を偏食に誘導してはならない - 伝統

2019/03/28 (Thu) 04:13:43


           *「光明道中記」(3月28日 無我従順の日)より

【その日その日が宗教生活である。自己を生かす事が宗教生活である。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

生後1ヵ年になると離乳して、柔らかいお粥から徐々に固いお粥に移らせても好いが、
7ヵ月頃から少量の固形食で慣らせたる子供ならば大人と同じ食物を与えても好い。

子供に偏食する習慣を養成してはならぬ。
子供の偏食は実は親自身の偏食の反映であるから、親が子供の前であの食物を残し、
此の食物を残しながら、子供にばかり偏食をしてはならぬ強いても無効である。

親が食物を残すまいと思うならば、残る程の分量を食膳に出さないことが適当である。

「これはお好き、お嫌い? 嫌ならこれにしましょう」などと言っている母が、
世の中には沢山あるが、これは親自身が子供を偏食に誘導しているようなものである。

子供は模倣するものであるから、食物は先ず親が口に入れて如何にも美味しい有様を
示し、「サア坊やもお喫(あが)り! 迚(とて)も美味しいわ」と云うように
誘導するのである。

食膳に手を洗う習慣をつけるのは好いが、ただ無邪気に何の意味もなく洗わせるのが好い。
黴菌の話をしたり、手を洗わなかったら此の世の中には眼に見えない恐るべき敵が
充満していて、それが直に吾々を襲って来ると云うような恐怖心にまで子供の心を
駆り立ててはならない。

           <感謝合掌 平成31年3月28日 頓首再拝>

子供が規律を覚えるのは、最初は食習慣による - 伝統

2019/03/29 (Fri) 03:44:44


         *「光明道中記」(3月29日 自己を自覚する日)より

【今幸福でない者は笑いの分量が足りなくないか顧みよ。(『生命の實相』第八巻)】

子供が食物に好き嫌いを示すのは、
時には親の心があまりに事物や人間に対して
好き嫌いな偏り心を有(も)っているときにそうなることがある。

親自身が自己の愛憎好悪の偏り心を捨てねばならぬ。
子供を責めてはならぬ。
みずからがみずからを知るように誘導しなければならぬ。

食物は好悪によってたべるのではなく、
飢えを充たすために食べるのだと云うことを知らせねばならぬ。

食欲がなかったら、偏食であったりするのは病気以外のときは、
過食のために空腹でないからである。

御機嫌をとって欲しさに食物の好悪を言いはじめる。
好悪を示して食べなければサッサと食膳を片付けて、
又次の食事時間に同じ食物を出すのである。
それを食べる迄同じ食物を出す。

我儘を言わせてはならぬ。
子供が規律を覚えるのは、最初は食習慣によるのであるから、お十時を与え、
お三時(やつ)を与えるにしても一定の時間以外には与えてはならぬ。

併し、完全に食欲不振で、元気がなく、
空腹にになっても何も食べようとしない時には、
医者に診(み)せて病気の有無を検(しら)べて適当の処置をとる。

本当に病気かどうかは神想観を常にしている人なら
胃腸部に掌(て)を当てて見れば掌の蟻走感(ぎそうかん)で判る。

           <感謝合掌 平成31年3月29日 頓首再拝>

良き食習慣へと導く - 伝統

2019/03/30 (Sat) 04:59:13


           *「光明道中記」(3月30日 積極進展の日)より

【幼き心に少しでも歪んだ姿を、不快な姿を印象させるな。(『生命の實相』第七巻)】

生後1年頃からは、食物は自分自身で食べるように練習させるが好い。

少しぐらい零(こぼ)すかも知れぬが、それを拾ってやってはならぬ。
零して自分で拾うことが運動感覚の訓練にもなり、
従って児童の精神全体の訓練にもなるのである。

またそれによって依頼心が放(な)げ棄てられ、
自分のことは自分ですると云う良習慣の形成にもなる。

食物を零したときに叱らないで、
零さない時と、上手に拾った時とに賞めてやるようにするが好い。
「零しては可(い)けません」と言ってもまだ運動機能が充分発達しないから
零す方が当り前なのである。

それを余り叱るようにすると、
「自分は劣等者だ」と云う劣等感を児童が有(も)つようになる。
劣等感をもつようになった児童は将来生活上に不利なハンディキャップを
担(にな)わされる。

どこへ往っても「私は駄目だ」と考え易い
 ―― それを成長後矯(た)め直すのは不可能ではないが、
可成(かなり)な努力を要するのである。

「しては可けません」と常に言っている家庭では行為に対する欲望を常に
抑圧せられるから、それが鬱結(うっけつ)して反抗児が養成される。
厳格な家庭で反抗児が出るのはそのためである。

では、子供が悪いことをしたら「XXさん、これして頂戴」と言って、
別の「して欲しい仕事」へ注意を転ずる。

           <感謝合掌 平成31年3月30日 頓首再拝>

偏食児童への対応 - 伝統

2019/03/31 (Sun) 04:36:42


        *「光明道中記」(3月31日 平らかな心の日)より抜粋

潔癖の習慣は不潔の習慣よりも大人になってから強
迫観念に附纏(つきまと)い、
一生涯を恐怖心の中に暮らさせることもあり勝である。

子供の前で親が恐れた態度を示してはならぬ。

偏食の子供、卵を食べれば必ず下痢を起したり、
肉類か野菜かどちらかを嫌って食べない子供、

こんな子供をその家庭から引離して、
林間学校とか、夏期キャンプ生活とかで、児童ばかりの集団で、
ほかに食する物のない共同食事の生活をすると治ることがある。

他の子供が美味しく食べて見せるからである。

           <感謝合掌 平成31年3月31日 頓首再拝>

《わが子に無限の能力を自覚させよう》 - 伝統

2019/04/12 (Fri) 02:33:57

谷口雅春先生のお言葉(平成31年4月号「生命の教育」誌)

子供の美点を褒(ほ)めれば、無限の能力が現れ出る 谷口雅春

《わが子に無限の能力を自覚させよう》

      *(新編『生命の實相』第22巻159~160頁)

人間の内には実に無限の潜在能力が埋蔵せられているのである。
深く穿(うが)つに従ってどれだけでも豊かに
その潜在能力を掘り出すことが出来るのである。

穿(うが)つとは自覚するということである。
自覚しさえすれば埋蔵せる宝は常に掌中(しょうちゅう)
のものとなるのである。

だから表面にある能力だけを自分の全部だと子供に思わすな。
表面にある「自分」は「真の自分」の唯(ただ)の「小(こ)出し」
にしか過(すぎ)ないことを知らせよ。

「小出し」は使うのに便利かもしれないが、
この「小出し」を自分の全部だと思ってしまったならば
大(おお)いなる発達は望めないのである。

常に子供に教えて小成(しょうせい)に安(やす)んずるなといえ。

小成は自分の「小出し」に過ぎないこと、
今ある彼の能力はすべて「小出し」に過ぎないこと、
「小出し」は決して誇るに足(た)らないこと、

つねに「小出し」に満足せず、本源、即(すなわ)ち無限の潜在能力(神)より
汲(く)むように努力すること ―― 

常にかくの如き真理を子供に解る言葉で教えるように心懸(こころが)ければ、
現在の自分に満足する子供の傲慢心(ごうまんしん)は打砕(うちくだ)かれ、
驕傲(きょうごう)は消滅せしめられ、永遠に能力の伸びる
精神的基礎は築かれるのである。

・・・

<参考>「生命の教育」平成31年4月号 より
    (http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59


「生命の教育」平成31年4月号 主な内容

巻頭のことば 「今上陛下に心から感謝――日本の誇りを取り戻そう」  
               新教育者連盟理事長 代田健藏

子供の美点を褒めれば、無限の能力が現れ出る 谷口雅春

褒めることはお世辞ではありません 齋藤千鶴子
実践してみよう! 褒めてやる気を引き出す 根之木拓子
私の褒めコトバでわが子の無限力を引き出す 芝野方予
自分を讃嘆できないと、子供は褒められません 荒井清以
褒める中にも厳しさがあってこそ、能力は引き出される  吉岡光一

《特別インタビュー》
子供は親に抱きしめてもらいたい
        岡山学芸館高校参与 森 美智子

子育てワンポイント(24) 誇りの持てる命名を 出口正博
子育てQ&A 
 中学2年生の娘が親に反発するように 大原和子
 給食で「三角食べ」ができません   小林義典
 準備の遅い娘に毎日イライラ     杉山紀代子

子育ては母育て(77) 乳幼児と体内時計 田下昌明
日本人100 の誇り(79) 神楽 岡田幹彦
日本国憲法の問題点(43)

 グローバル化の中の自己確立 勝岡寛次

日本のしきたり(16) 「花祭り」 辻川牧子
親子で読むものがたり(80)
 八俣の大蛇と須佐之男命 あべまりあ
子育てひろば 高橋千里

新教連活動あらかると
 ◇ 東京多摩支部の講座案内、「生命の教育」献資のお願い他
 ◇ 4月支部行事
事務局短信・編集後記・次号案内


特集 褒めて、褒めて、子供の天才を引き出そう!
  
すべての子供はそれぞれ天賦(てんぷ)の(神様から授かった)
才能をもって生まれてきています。

その“天才”は、認めて、信じて、褒ほめることによって引き出されます。
 
4月は新学年を迎え、子供たちは新たな環境で出発する時期です。
心もリフレッシュされ、希望に胸をふくらませて歩み出す子供たち。

そんなわが子の美点をたくさん見つけ、大いに褒めて、
素晴らしい善性を引き出してまいりましょう。

           <感謝合掌 平成31年4月12日 頓首再拝>

《神の子の「本当の自分」を実現するのが人生の目的》 - 伝統

2019/04/13 (Sat) 04:42:52

谷口雅春先生のお言葉(平成31年4月号「生命の教育」誌)

子供の美点を褒(ほ)めれば、無限の能力が現れ出る 谷口雅春

《神の子の「本当の自分」を実現するのが人生の目的》

      *(新編『生命の實相』第22巻161~162頁)

幼(おさな)き子供に対しては、

「人間は神の子だ。子の顔が親の顔に似(に)ているように、
汝の能力と性質とは神の姿に肖(に)せてつくられているのだ。
神はこの世界の万物をつくられたのであって、人間は神の子として、
神の無限に大きな能力の《あとつぎ》に造られているのだ、

だから神の子は神の子らしく生きねばならぬ。

神から譲(ゆず)られている無限に大きな能力を発現しようと
思わないものは、親から折角(せっかく)頂いた宝の庫(くら)を
開かないで棄(す)ててしまうものだ」

こういう意味の話を時々言葉を変えて子供に話して聞かせることにして、
人間の本性(ほんせい)の尊いこと、その潜在能力の無限であることを
子供の心に吹き込むようにすれば好(よ)いのである。

すると、子供は次第に「本当の自分」が如何(いか)に崇高(けだか)く
霊妙(れいみょう)なものであるかを知りはじめる。

そしてその「本当の自分」を実現することが彼の生涯(しょうがい)の
理想となり、従来の小さな虚栄(きょえい)や、小成(しょうせい)に
安(やす)んずる慢心(まんしん)や狡(ずる)い利己心は消滅して、

本当に彼は謙虚(けんきょ)な心持(こころもち)で生長の本道(ほんどう)
を辿(たど)り得(う)ることになるであろう。


           <感謝合掌 平成31年4月13日 頓首再拝>

子供を賞(ほ)める言葉が大切です - 伝統

2019/04/14 (Sun) 03:44:03

谷口雅春先生のお言葉(平成31年4月号「生命の教育」誌)

子供の美点を褒(ほ)めれば、無限の能力が現れ出る 谷口雅春

《子供を賞(ほ)める言葉が大切です》

      *(新編『生命の實相』第22巻167~168頁)

言葉は種子(たね)を蒔(ま)く。
それは必ず芽(め)を出して実(み)を結ぶのである。

家庭から(中略)罵(ののし)りの声が絶えない限りは、
かかる家庭で育てられた子供が生長して造り上げた社会が
善くならないのは当然の事である。

種子(たね)は、遥(はる)かの幼時(ようじ)に蒔かれている。
詳しくいえば幼児以前の胎教(たいきょう)に於(おい)ても蒔かれている。

胎教以前にその魂(たましい)の前生(ぜんしょう)の経験や、
祖先の遺伝の種子(たね)もあるのである。

因果はめぐる、だから吾々はこれらの悪い種子(たね)の力を奪ってしまうために
反対の種類の種子(たね)を蒔かなければならないのである。

それは賞讃(しょうさん)の種子(たね)である。
讃嘆(さんたん)の種子(たね)である。

如何(いか)に子供の現在の状態が賞(ほ)めるに値(あたい)しなくとも、

「今に善くなる!」

「きっと偉い人物になる!」

こういうふうな漸進(ぜんしん)的進歩の暗示(ことば)を与えるに
相応(ふさ)わしくないことはないのである。

そしてその暗示(あんじ)の力で、漸進(ぜんしん)的にその子供を
良化(りょうか)して行(ゆ)くことは吾々の為(な)し得(う)る、
否(いな)為さねばならない義務であるのだ。

           <感謝合掌 平成31年4月14日 頓首再拝>

《子供の「神性(しんせい)」を認めれば悪はなくなる》 - 伝統

2019/04/15 (Mon) 03:14:20

谷口雅春先生のお言葉(平成31年4月号「生命の教育」誌)

子供の美点を褒(ほ)めれば、無限の能力が現れ出る 谷口雅春

《子供の「神性(しんせい)」を認めれば悪はなくなる》

      *(新編『生命の實相』第22巻170~171頁)

諸君の子供にそして諸君の教え子に宿っているところの
「神性(しんせい)」(神からの大遺伝)を認めることから始めよ。

そして光が暗(やみ)を逐(お)い出(だ)すように、
吾々がありありと彼に宿っている「神性」をば認めさえすれば、
その「認める力」の輝きによって、

如何(いか)なる悪癖(あくへき)も悪遺伝も数年のうちに
根絶することは又(また)難(かた)くはないのである。


           <感謝合掌 平成31年4月15日 頓首再拝>

わが子の美点と長所を賞(ほ)めよう - 伝統

2019/04/17 (Wed) 03:59:07

谷口雅春先生のお言葉(平成31年4月号「生命の教育」誌)

子供の美点を褒(ほ)めれば、無限の能力が現れ出る 谷口雅春

《わが子の美点と長所を賞(ほ)めよう》

      *(新編『生命の實相』第22巻174~175頁)

常に子供を鞭撻(べんたつ)して、彼の善さを力説せよ。
彼の美点を強調せよ、自分自身の有(も)つ長所を自覚せしめよ。

ここに子供を教養する極意があるのである。
美点を強調し、弱点を忘却(ぼうきゃく)せしめ、
失意に枉屈(おうくつ)する時間を希望に躍進する時間に変化せしめよ。

彼もし希望に輝き、美点にのみ躍進を続けるならば、
弱点に執着し、弱点を考え、失敗を悲しんでいる暇(ひま)はないのである。

心を弱点に置かないとき、行いに弱点を繰返す暇(ひま)がないとき、
その弱点を再び繰返す傾向はうすれて来るのである。
ここに彼の美点のみが発揮され、長所のみが生長する。

最初は彼に接する両親や教養係がそれを賞(ほ)める
―― やがては人類全体が、彼の長所を賞揚(しょうよう)し、
美点を讃嘆し、その貢献に拝謝(はいしゃ)する時が来るであろう。

           <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

「理念」があって、日本国家が形づくられた - 伝統

2019/05/03 (Fri) 03:50:59

谷口雅春先生のお言葉(令和元年年5月号「生命の教育」誌)

神話の時代から続いている日本国の精神 谷口雅春

《まず「理念」があって、日本国家が形づくられた》

      *(新装新版『真理』第7巻269~270頁)

国家というものも唯物論的に言えば、小さい個人個人という細胞が契約をして、
そしてこういう国を拵(こしら)えておけば個人に都合が良いというので拵えたのであれば、
これは人民主権だと言えるでしょう。

人民主権と云(い)うことは人体にたとえてみれば細胞主権ということに当ります。
併(しか)し国家が有機的生命体である以上、一つ一つの細胞が主権をもっておる
と云うことは不合理なのであります。

人体は人体として、ある目的をもってつくられたように、
国家も、国そのものに目的とする「理念」があって、
その理念目的の姿に住民が結びついて国家が形成されたのであります。

少くとも日本民族は、国というものを一つの生きものとして、
又(また)体と同じように、一つの理想を有(も)つ一個の「有機的生命体」である
として考えたのであります。

それが日本の民族精神であります。
だから日本人の民族精神の表現である『古事記』には、
人間の生(うま)れるまでに先(ま)ず「国」があるのであります。

「国わかく浮(う)き油(あぶら)の如(ごと)くして暗気(くらげ)なす
ただよえるときに生(あ)れましし神の御名(みな)は……」と書かれております。

先(ま)ず国家の「理念」があって、其(そ)の理念が具象化して
瓊々杵命(ににぎのみこと)なる姿になって天(あま)降(くだ)ってきて、
その理念が沢山(たくさん)人間という細胞をうみ出した。

それが日本民族であって、その民族が、それを生みだした「大和(やまと)」の
理念に従って一大団結して建国したところの国が日本国(やまとのくに)として
実現したのであります。

だから日本民族の「理念」というか「精神」というか「魂(たましい)」というか
「指導理念」というべきか、とも角(かく)、そういう「精神的なもの」が
天降ってきてそれが子孫をうみまして、
そこに一大団結するところの国家が形成されたのであります。

それを譬喩的(ひゆてき)に又(また)は、象徴的象に言うと、
「天孫降臨(てんそんこうりん)」と云うことになるのです。

・・・

<参考>「生命の教育」令和元年5月号 より
    (http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59


「生命の教育」令和元年年5月号 主な内容

特集 御代替わりを迎えて――悠久なる国・日本

神話の時代から続いている日本国の精神 谷口雅春

巻頭のことば 「道義国家・真理国家の再建を目指す」 新教育者連盟理事長 代田健藏

「令和」の意味は、こう教えよう            勝岡寛次
知っておきたい御代替わりに行われる儀式       編集部

御代替わりに決意したいこと             代田健藏

わが国の「国体」を祈りと行動でお護りしていきたい  伊藤八郎
日本に生まれてよかった!              大原和子
世界を「楽園」にする日本の使命           井上雅夫

国民と共に歩まれる「君民同治」の天皇陛下      谷口貴康

御代替わりを奉祝して                久保文剛
陛下・本当にありがとうございました         高木桂藏
天皇と国民の絆の安定に尽力させて戴きます      井関隆文

伝えたい美しい日本の心――古事記の語り部になりましょう 岩倉凉子
皇室の弥栄を祈念し奉る               藤波礼子
君が代は千代に八千代に               野村篤司

子育てワンポイント(25) 何でも話せる関係に  出口正博
子育ては母育て(78) 母はいつも家にいること  田下昌明
子育てQ&A 店の商品を勝手に持ち歩く息子 小林義典
       娘を毎日車で送っています   森田峯好

日本人100 の誇り(80) 教育勅語 岡田幹彦
子育てひろば 野村明子
親子で読むものがたり(81) 大国主命(その1) あべまりあ
日本のしきたり(17) 「八十八夜」 辻川牧子

新教連活動あらかると
 ◇ 代田理事長奉祝委員に就任、アドバイザー養成課程の募集、北見支部の講演会の案内ほか
 ◇ 5月支部行事
事務局短信・編集後記・次号案内

           <感謝合掌 令和元年5月3日 頓首再拝>

子供が不従順な場合は - 伝統

2019/05/07 (Tue) 03:25:33


         *「光明道中記」(5月7日《人の特長を拝む日》)より

【他を自分の型に嵌めようと思う者は躓く。(『生命の實相』第十一巻)】

親の精神状態にそれほどの葛藤(いらいら)も争いも憎みもないのに
子供が不従順な場合は学校に原因があることがある。
学校と連絡し、学校の先生と親しく和解しなければならない。

学校で教師にいじめられたり、仲間にいじめられたりする子供は
家に帰って親に対して不従順になり勝ちである。

子供の生活のうち、最も伸びねばならぬ学校生活の半日が ―― 否(いな)、
その子供にとっては半日ならぬ殆ど全日に感じられる期間、彼はいじめられたり、
不快な眼に逢って来たので、それに対する反抗を表現したいが、
それを学校では表現することが出来ないから、その反抗を家庭で表現しているのである。

それに対して、家庭の親が暴君的に圧迫を加えるならば
子供は内心の犯行を表出する捌け場所を失って、病気になるか、
不快な事を見まいと云う精神力の反映から近視になるか、

それを聞くまいとして中耳炎を起すか、
頑固に鼻の奥にブツクサ言っていて素直に通さないところの蓄膿症を起すか、

親が子供の成績の良くなることを希望しているのに、逆に成績を良くしないことが
親に反する切(せ)めてもの反抗であると云うようなことになることがある。

愛撫して抱きし締めながら学校の模様を聞いてやること。

           <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>

守れるかどうか判らないことは誓わせない - 伝統

2019/05/08 (Wed) 04:02:49


         *「光明道中記」(5月8日《愛して放つ日》)より

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」とも言える。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

子供を無理にあやまらせるものではない。
もう今後一切そんなことはしませんと誓わしてもならない。

大人自身あやまることの不快と、一度禁煙を誓っても幾度でも煙草(たばこ)が
廃(や)められない大人が沢山あることを考えれば
「誓う」と云うことが何にもならないと云うことが判るであろう。

一度誓ってそれを犯したら、それは「自分は誓を破(やぶ)った罪人だ」と云う自覚の念に
いつも付きまとわれた人間になり、自信力を失うか、毒を喰(くら)わば皿まで式に、
「どうせ汚(けが)れた身体(からだ)だからもっとやろう」と云うようになるかする。

また、守れるかどうか判らないことを誓わせるのは嘘つきを奨励しているのと
同じことになる。
あやまるのを好まぬ子供にあやませると、
今度は嘘をついてあやまる不快を免れるようとする。

子供に正直の美徳を教え込もうと思うならば親自身が子供の前で嘘をついてはならぬ。
子供の前で居留守を遣う親は沢山ある。
子供にだけ嘘をついてはならぬと言って自分が嘘を言う親は二重に嘘をついている
のである。

人間は本当のことを言いたいのが本性(ほんしょう)だから、
本当を言っても叱られないとなれば却って本当のことを言う。

           <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

《日本は天皇中心の国家である》 - 伝統

2019/05/09 (Thu) 04:30:31

谷口雅春先生のお言葉(令和元年5月号「生命の教育」誌)

神話の時代から続いている日本国の精神 谷口雅春

《日本は天皇中心の国家である》

      *(新装新版『真理』第1巻64~65頁)

神話的に云(い)いますならば、日本国家は、天照大御神の理念(おおみこころ)の
中に先ず造られて、それが「千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は
世々(よよ)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」と
云う天孫降臨の神敕(しんちょく)となってあらわれております。

神話と云うのは、作者が誰と云う一定の人間ではなくて古代の民族が、
その民族全体の精神によって作られたものであって、民族全体の一致した信念の
協同作品と云うようなものであります。

この民族全体の協同信念によって各人が集団して、日本は天皇中心の国家を
形作(かたちづく)ったのでありますから、日本国家が天皇中心の国家である
と云うことは最も民主的なことであります。

この民族全体の協同精神が謂(い)わば日本国家の設計のようなものであって、
その協同精神の通りに、形の世界の日本国は、家が色々の材料が集められて
徐々に出来上るように、出来たのです。

だから日本国家の本質及び設計は、天皇国家の姿をとるべく日本民族全体の
心の中に既にあったのであります。

それが世の中の進むに従い、形の世界に徐々に出来上って来たのであります。

           <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

子供の心の悩みの表出に動機を与えてやることが必要である。 - 伝統

2019/05/10 (Fri) 04:31:04


       *「光明道中記」(5月10日《三界唯心を悟る日》)より

【全ては自分の心の影であるから目のとどく限り神示とも言える。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

子供は学用品を紛失して、親からひどく叱られるのを恐れて隠していることがある。
何でも子供は《もの》を隠しているときには、強情に陰気に塞ぎ込み勝ちのものである。

「父さん母さんは決して叱らないから、隠していることを心に持っていて、自分ひとりで
苦しまないで、母さんにそれを打明けて一緒に苦しいことは二人で分けましょうね」
こう言って愛撫して、愛を表現しながら、子供の心の悩みの表出に動機を与えてやる
ことが必要である。

幼いときから持ちつづけた感情の悩みが大人(おとな)になってからの
神経的疾患として発病することもある。

子供の怠惰、朝寝、不勉強は権力者に対する無言の抵抗であることがある。
大人でも権力によって拘束せられる場合には、無言の怠惰 ――
飢餓罷業(ハンガー・ストライキ)や怠業(サボタージュ)を行なうことは
誰でも知っている。

ガンジーのような高潔な人格者でも、
ハンガー・ストライキやサボタージュはやるのである。

子供の怠惰も必ずしも人格の低下の標識(しるし)ではない。
それは却って子供の自尊心の強さから、自尊心を傷つけられたことに対する
反抗の顕れであることもあるし、先生や、親や、友達が認めてくれない
絶望からの自暴自棄であることもある。

           <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>

親自身の心の葛藤が子供に病気を現す場合がある - 伝統

2019/05/11 (Sat) 04:34:53


       *「光明道中記」(5月11日《魂の浄(きよ)まる日》)より

【病気は悪くなる行程ではない。浄化の行程である。(『生命の實相』第十一巻)】

子供が病気らしく見える場合や、疲労していると見える場合に、親自身が驚いたり、
周章狼狽した態(さま)を見せては可(い)けない。

親の心や態度は直(ただち)に子供に反映するものである。
それは生みの子だけに反映するのではなく、養子にでも養女にでも反映する。

子供が病気や疲労を現したら、親自身の心がイライラしていないか、
誰かと争いの心持を有(も)っていないか、心配事はないか ―― と、
よく親自身が自分の心を反省して自身の心を落着け争いを解くことである。

12歳以下の子供の病気や疲労は親自身の心の葛藤(いらいら)が反映しているのが
90%以上であろうし、16歳以下の子供の病気や疲労の50%位までは
親自身の心の葛藤(いらいら)の反映であると言っても好い。

17歳以上になると子供も大体人格の独立を得るから
親の精神状態に影響されることは段々少なくなると言い得る。

併し、どんな人でも自他一体
 ―― 一つの生命の波の中に浸って生きているのであるから
他の人の精神波動の影響を受けないと云うことはあり得ない。

夫婦は大人(おとな)であるが互いにその精神波動を感応して
互いの身に病気や事業の失敗を起させる。
況(いわん)や親子の間は大人になっても互に影響し合うものである。

           <感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>

エディポス錯綜(コンプレックス) - 伝統

2019/05/13 (Mon) 03:45:56


       *「光明道中記」(5月13日《善一元を悟る日》)より

【すべて行為を善き動機から来るものとして言葉で賞(ほ)めよ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

父と云うものは厳父であると同時に慈父でなければならない。
父を憎んでいる子供は、児童教育にたずさわって見ると
かなり多数だと云うことが発見される。

父と子との争闘は精神分析の方では
ギリシャのソフォクレスの戯曲「エディポス王」の名を藉(か)りて
エディポス錯綜(コンプレックス)と命名した。

子供と云うものは本能的に母の乳房を吸った記憶から
母を「自分のもの」として見ようと云う傾向のあるものである。

母との一体感はその記憶の上にも明らかであるけれども、
「父」より自分が出たところの記憶はない。

「父」と「自分」とが一体であることが自覚されているならば、
「父」が「母」の上に権力を揮(ふる)っても、それは「自分」と同体であるところの
「父」(自分の延長)が「母」の上に権力を揮うのだと云うことが判るから、
子供自身はそんなに憤激を感じないけれども、
そうでない場合はそんな子供は父を憎むようになり勝である。

父母が子供の前であまりに仲が悪い時にはその子供は結婚忌避症になり勝である。
子供の家庭の紊(みだ)れは此処に芽生える。

精神分析に就いての詳しい説明は拙著『人間性の解剖』及び『精神分析の話』を
読んで戴きたい。

           <感謝合掌 令和元年5月13日 頓首再拝>

《神武天皇の「建国の理想」は今に続いている》 - 伝統

2019/05/14 (Tue) 03:59:07

谷口雅春先生のお言葉(令和元年5月号「生命の教育」誌)

神話の時代から続いている日本国の精神 谷口雅春

《神武天皇の「建国の理想」は今に続いている》

      *(新装新版『真理』第1巻65~66頁)

そして神武天皇が大和(やまと)に都を奠(はじ)め給うたのは、
天皇中心の国と云う日本民族全体の精神が具体化した第一期工事の完成だ
と云うことになります。

最近、日本民族の中にも海外から輸入された思想にかぶれて、
日本が天皇国家の形をとる必要はないと力説する人がありますけれども、

古代の日本の建国のときの日本民族精神の協同製作による日本国が吾々の祖国
であるとすれば、そしてその祖国のつづきが日本国であるとすれば、
吾々が先祖から引継いだ国は、やはり天皇中心の国家でなければならない
のであります。

そうでなければ、もうその国は、吾々が古代の先祖から引きついだ
日本国ではない、別の国だと云うことになります。


ところが、神武天皇の建国も神話であって、
神武天皇は実在の人物でなかったと云う人が、
戦後に日本の歴史家の中にも出て来たのであります。

併(しか)し神武天皇が実在であろうがなかろうが、
その神話を古代の日本民族がつくったと云うこと其(そ)のことが大切であって、
日本の国を建設した古代民族の心の中にある「建国の理想」が、
人格的に表現されて「神武天皇」となったのであります。


そしてその神武天皇が、建国の理想として「八紘(はっこう)を蔽(おお)いて
宇(いえ)と為(な)さん」と仰(おお)せられた。

これを吾々は一口(ひとくち)に「八紘(はっこう)一宇(いちう)」の
建国の理想と申しておりますが、これを、まるで世界侵略思想のように外国人は
巣鴨(すがも)法廷(編註・極東国際軍事裁判=東京裁判)で裁判したのでありますが、

天地間に外国は無い、何処(どこ)も彼処(かしこ)も一家族で兄弟である
と云う理想を表現せられたのであります。

このように、日本国はその建国のはじめから、全世界の人類は互(たがい)に
兄弟であると云う民主主義理想のリーダーとして神武天皇が描かれているところに
日本民族の理想を見るべきであります。

           <感謝合掌 令和元年5月14日 頓首再拝>

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