伝統板・第二
聖経『甘露の法雨』の功徳 ② - 伝統
2019/01/03 (Thu) 04:36:44
《馬の目に涙》
*『ユーモア先生行状記』佐野一郎・著 より
(佐野一郎先生が大学生の時、つまり今からおよそ60年ぐらい前、
そして場所は先生がその頃住んでいた別府でのこと。
先生の義理の父親は獣医をしていた関係で、佐野先生は近所の人から
通称「若先生」と呼ばれていました。)
或る日、大学の授業が休講になった若先生は自宅でのんびりくつろいでいました。
すると、激しく玄関のドア―を叩く音がする。
「すわー、何事か!」と出てみると、ねじり鉢巻きをした大男がただならぬ気配で立っていた。
「先生はいるか」と問うので、「今往診中で留守だ」と答えれば、
さらに「どこへ?」と聞いてくる。
事情を聴くと、荷車に鉄材を山と積んでこの先の国道と県道が交差する三叉路まで来たら、
何が気に入らないのか馬が突然動かなくなってしまって、困り果てている。
ここの獣医先生なら何とかしてくれるというので、頼みに来た」というのだった。
しかし、あいにくその獣医先生はいない。
その馬子は「あんた獣医先生の息子ならなんとかしてくれ」というが、
若先生は医学的知識もなんにもないから「わたしが行ってもどうにもならない」
と再三断るのですが、相手の必死の頼みに断り切れず、若先生はのこのこ出かけました。
現場に到着すると、黒山の人だかり。十重二十重に人垣ができ100人、
いや200人もいるかと思われるほど。
それを見た若先生、「こりゃだめだ」と引き返そうとしたところ、
誰かが、「獣医先生とこの若先生が来た。もう大丈夫だ」と叫んだらしい。
その言葉を合図のように、別の誰かが若先生の手を引っ張って人垣を押し分け、
現場最前列へと押し出されてしまいました。
するとそこに見たのは悲惨な光景。
馬が動かなくなり、交通の邪魔をしているので、
ドライバーたちからさんざんにクラクションを鳴らされ、
「何をもたもたしているんだあ!」と怒声を浴びせられ、
残っていたもう一人の馬子はなんとか必死で馬を動かそうと、
引っ張ったり、鞭で叩いたり、それでも動かない馬に頭にきたのか、
白眼をむき、口から泡を出している馬に向かって、
大声でわめきながら太い角ばった薪で馬をなぐっていた。
辺りには鮮血が飛び散っている。それを見た先生、思わず、
「何をする!殴ったって動くか~!」と叫びながら、その馬子からその薪を取り上げた。
それを見ていたヤジ馬はやんやの大喝采。
そこまでは良かった。が、その後シーンと静まり返りました。
「次に若先生はどうするのか?」と群衆の興味はその一点です。
若先生も瞬時に自分が今おかれている立場に気づいたとのこと。
こんな馬をどうして動かすことが出来るのか、獣医でもないのに分る筈がありません。
かといって、この場から逃げたくても逃げるわけにもいきません。
若先生はどうしようもない窮地に立たされました。
その絶対絶命の時、「神さまあ~、吾が為すべきを知らしめ給え!」と、
生涯でもこれほど必死な気持ちで神の名を呼んだことがないというほど、呼んだとのこと。
するとその時、天来の声というか、言葉ではいいようのない閃きがあり、
「『甘露の法雨』を読もう!」という気持ちがむら雲の如く湧いてきたとのこと。
そして、その『甘露の法雨』を胸から取り出して、馬に近寄り、
その経本で馬の鼻をなでながらこう言ったといいます。
「これアオよ、何が気に入らず立腹しているか知らないけれど、
ここは国道、みんなの迷惑、今から生長の家の有難いお経を読んであげるから、
心落ち着け、平常心に戻っておくれよ」と。
そうして、『甘露の法雨』の冒頭にある「七つの燈台の点燈者の神示」を読み始めました。
それは
○汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、
天地一切のものは汝の味方である。
という書き出しで始まっています。
それを三分の一辺りまで読み進むと、あちらの隅、こちらの隅から
「ブワッ」とか「クスリ」とかの笑い声が聞こえはじめ、さらに誰かの
「アララー、この馬はもうダメばい。先生がお経読み始めたもんね」という
素っ頓狂な声をきっかけにして、どっと笑いが起き、群衆が笑い転げ出したとのこと。
これには若先生も参ってしまい、もともと信念があって
『甘露の法雨』読み始めたわけでもないので、
区切りのよいところでやめようと心に決めます。
ところが、その区切りのよい所へ来ても自分の「もうやめよう」という意思とは関係なく、
声が先行して勝手に先へ先へと読み進んで行ってしまう。
何度区切りのよいところへ来ても同じで、「こんなバカな!」と心があせりながら、
結局最後まで読んでしまったとのことです。
読み終わって気がつくと、あれほど笑いころげ、騒がしかった群衆がシーンと静まり返り、
一点を凝視しているので、若先生もそこへ目を向けました。
すると目をむき、口から泡を出し、足を突っ張り反抗していた馬が、
まるで別人、いや別馬のように温和になっており、
さらには、その両目からナスビぐらいの大きさの大粒の涙を流していたとのことです。
さすがに動物の心に鈍感な私も(ひとの心にも鈍感ですが)、
この時、大粒の涙を流したという馬の気持ちが痛いほど分る気がしました。
そして、牛や馬が涙を流すという話は、「間違いない」と
すっかり疑いが晴れることになりました。
おめでとう!馬のおかけです。いや、若先生のお陰かな。
さて、馬のナスビのような大粒の涙を見てビックリ仰天していると、
また、あの天来の声が聞こえ、「今なら動く、早く動かせ」と言った。
そこで馬の手綱をしっかり握り、願いを込めて「オーラ」と引っ張ると、
馬が動き、さらに「オーラ、オーラ」と声をかけながら引っ張りつづけると、
荷車もガラッガラッと音を立てながら動き出したとのことでした。
(https://blog.goo.ne.jp/suzuhide1123/e/5c9038fe81ca193249d92cdc0b288645 より転載)
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「奇蹟の『甘露の法雨』」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=64
(2)光明掲示板・伝統・第一「聖経『甘露の法雨』の功徳 (91)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=55
(3)伝統板・第二「聖経『甘露の法雨』の功徳 」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463679
<感謝合掌 平成31年1月3日 頓首再拝>
講師になったら 『甘露の法雨』 講義をしなさい - 伝統
2019/01/29 (Tue) 03:36:36
*『生長の家』(昭和63年8月号) より
~生長の家山口教区講師会長 大楽 英夫
私がみ教えを戴いたのは、16歳の時である。
誰に勧められたわけでもなく、生長の家の講演会をポスターを見て、初めて集会に行った。
そこに父がいた。
父も生長の家の話を聴きに来ていたのである。
それは現在もなお、私がずーっとお世話になっている
相愛会の発会式の記念講演会であった。
眼に見えない手に導かれて、発会の当初から、私は参列する事が出来たのである。
それから2.3日してから、仏壇に聖経 『甘露の法雨』 が置かれていた。
今まで、見た事も聞いた事もない、聖経 『甘露の法雨』 の題字を見ながら、
私は限りない懐かしさをおぼえた。
しかし、私はそれを手に執って見ることをしようとしなかった。
この尊いお経を、私如き、罪汚れの多いものが、
手に執っては、畏れ多いと思ったからである。
中味を全然知らないのに、何故そう思ったのか、誠に不思議な事である。
さらに2,3日すると、また仏壇に 『生命の實相』 が置かれていた。
見ると、『甘露の法雨』 の講義の所 〈頭注版 第21巻〉 であった。
「神」 の項で、尊師が、釈迦は創造主としての神を否定し、
生長の家は現象を否定したという真理を説かれた所は、
今でもまざまざと魂に刻みつけられている。
宗教的真理の深さが、私に判るはずもなかったが、
何という、すごいお方であろうかと驚いたものである。
爾来、私は一所懸命 『生命の實相』 を拝読した。
23歳の時、現在の宇治別格本山で林間講習会が開かれた。
まだ、建物は何もなく、屋根のない松林の中で、詳密講習会が開かれたのである。
キリストの山上の垂訓を偲ばせるような、場面であった。
その講習会で、私は地方講師を受験した。
またしても、誰も勧める者はなかったが、
連合会長と、教化主任の了承を得て、受験した。
東山半之助講師が、「大楽頑張れよ!」 と言って、
背中を叩いて下さったのは、懐しい思い出である。
5ヵ月後に、生長の家地方講師補の辞令を戴いた。
早速、伝道を始めた。
1ヶ月間、毎晩地元で、聖経 『甘露の法雨』 の講義をした。
東山半之助講師が、
「講師になったら、実力をつける為に、甘露の法雨の講義をしなさい」
と言われたのを思い出して、実行したのである。
『生命の實相』 の “甘露の法雨講義” は繰返し拝読した。
いよいよ講義を始めようとして、ノートに 『甘露の法雨』 を写経した。
最初の2,3行を写した時、何という、尊いお経であろうか。
何という、崇高なリズムであろうか。
この偉大な聖経の前に、私は呆然として、なす事を知らなかった。
しかし、若いというものは有難いもので、やがて、猛然として、勇を鼓して、
聖経 『甘露の法雨』 の講義に取組んだのである。
講義に取組んだといっても、もっぱら尊師の御講義の拝読である。
それでも、70数歳のおばあちゃんから、10代の人まで、年齢層は広く、
毎晩数名の方達が集まって下さった。
最初に聖経 『甘露の法雨』 を一斉読誦し、それから講義、次に神想観実修、
笑いの練習、最後に座談である。
新米の若い講師補にしては、随分むつかしい質問も出た。
「現象なし、と言われますが、現象なしと悟った自分は、どうなるのでしょうか」
「尊師は
“現象なしと悟った自分もなしと悟って無くなるのである。
すると、現象もなくなって、360度転回して、
有るものは、全て神の生命、仏の生命。
今此処に生きている生命も、神の生命として礼拝出来るのです”
とお教えになっています」
と、お伝えした。
70数歳のおばあちゃんは、ご熱心に来ておられて、
生れてこの方、‘ひたい’にあった長さ2センチ位の黒子がなくなった体験を話された。
1ヶ月間の 『甘露の法雨』 講義を終えて、しばらくした時、
目が覚めて見ると私は、顔面神経麻痺にかかっていた。
有難い事に、現象なし、実相完全円満のみ教えを戴いた私は、うろたえ騒ぐ事は無かった。
仏前で聖経 『甘露の法雨』 を拝誦し、又、神想観を実修して、実相を観じた。
やがて、頬がぴくりと動いた。
ほんの一寸、針の先程動いた。
それでもとても嬉しかった。
当り前の有難さをひしひしと感じた。
夏が来て、また、宇治で詳密講習会が開催された。
受講しようとして、汽車に乗るべく徳山駅頭に立った私は、
全身に生長の家大神の御生命が馳け巡る歓喜を感じた。
2年目の宇治は、木造の建物が一つ建っていた。
全国から集まった幹部達が、ぎっしりと詰めて、
汗だくになりながら、尊師の御講義を受けた。
尊師のご下問に対して、答える事の出来なかった私共は、
その不勉強さに、大目玉を喰らった。
魂の目が覚めた瞬間である。
汗だくの会場の中で、尊師は神想観をして下さった。
みんな一つになる神想観をしましょうと、尊師、輝子先生、清超先生と手をつながれ、
そして清超先生は信徒と手をつながれて、尊師を通じて、神の生命が流れ、
みんな一つになる神想観をして下さったのである。
宇治から帰った時、私の顔面神経麻痺は無くなっていた。
尊師の癒しの聖霊をうけたのである。
み教えを戴きながら、浄まる事のなかった私は、
身心霊ともに浄まりて、つつが無くみ教えを伝えよと、
神の癒しの聖霊をうけたのである。
(http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=157 )
(https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19359170.html )
<感謝合掌 平成31年1月29日 頓首再拝>
『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』である - 伝統
2019/03/02 (Sat) 04:40:33
*『生命の實相』第21巻 經典篇「『甘露の法雨』講義」
~「はしがき」 より
『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんできた思想が
一種詩的なリズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。
後より見るとこの聖経は期せずして、
『生命の實相』全巻の真理を縮約して歌ったものになっている。
それを読誦することによっていろいろの奇跡を演じたので、
ついに聖経と称せられることになったのである。
その英訳をたんに携帯することによって第二次大戦中
ハワイの日本民族第二世の軍隊(第百大隊、四四二部隊)が
イタリーの南端から上陸する際に、機関銃弾がその英訳『甘露の法雨』に命中しながら、
それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸して戦功をたてたような奇跡もあり、
交通事故に遭いながら無事だった実例のごときは数限りもないのである。
この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦を去るばかりでなく、
霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、
迷える障りの霊も守護の霊となることが後に明らかとなったので、
神仏礼拝の際その祭壇に対(むか)いて読誦すべき生長の家の聖経となったのである。
しかし読んで意味の分からないようでは功徳が薄いので、
かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の月光殿において
その大要を講義したものを次に掲げることにした。
主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、
わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。
『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、
この講義を読むだけで生命の実相の大要が掴めることと思う。
第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧としたのである。
昭和三十九年一月十日
著者しるす
<感謝合掌 平成31年3月2日 頓首再拝>
『甘露の法雨』 これが“根本”なんです - 伝統
2019/03/25 (Mon) 02:46:26
*『唯神実相の世界を説く』(P11~12)より
皆さん、有難うございます。
生長の家の教は、唯心論と唯物論を並べると、
唯心論の中に包括されるようでありますけれども、
精しく言うと、体験談の中にも出たようですが、
唯神実相論というところの哲学であります。
唯神とは “唯、神のみ” ―― 唯、神のみが実在であるということであります。
神の造り給うた完全な存在のみが実在であって、悪は本来ないのである
―― というところの根本的な、善なる神の存在を信ずる、
この根本信念から全てのものは出て来ているのであります。
私はこの詳密講習会で、どういう話をしようかと考えておったんです。
詳密というのは詳しく緻密に話をしなければならないが、
しかしこの生長の家の教を根本的に理解しようと思ったならば、
善なる一つの神の実在を本当に信ずるという、これが先ず大切であります。
“善なる神” のみが本当に実在する。
悪意のある神とか、色々の罰を当てたり、呪いをかけたり、
腹立てて復讐する、そういう神を信ずる信仰から完全に自分自身を
脱却させることが必要であります。
さて、テキストとして書物の名前が数冊出ておりますが、
『甘露の法雨』 なんかは出ていないけれども、
『甘露の法雨』 を皆さんはともかく読んでいますですね。
これが ‘根本’ なんですよ。
この 『甘露の法雨』 をずうっと講義する ―― そうすれば
そこに全ての問題が含まれているわけなんです。
ですからこれを講義しながら話をしたいと思うわけであります。
まず、こう書いてありますね。
『神 ―― 或る日天使生長の家に来りて歌い給う ―― 』
何の気もなしに読むと、文字の表面は、解ったようだけれども、
これは非常に深い意味が書かれているのであります。
(https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18892238.html より転写)
<感謝合掌 平成31年3月25日 頓首再拝>
『甘露の法雨』の言葉のリズムに乗って、高級霊の援(たす)けがくる - 伝統
2019/04/14 (Sun) 04:01:06
*『人間無病の原理』 (P212~213)より
人間だけの反省や努力によって、唯単に自分の家庭が良くなったというだけでは、
(病いが)治らん時があるのでありまして、
それを治すには、神からの癒しの霊波を直接受け、
神様からつかわされたところの高級霊に援(たす)けて貰う
ということが必要なのであります。
その為に聖経『甘露の法雨』の読誦をお勧めしているのであります。
『甘露の法雨』を読誦 しますと、『甘露の法雨』の言葉のリズムに乗って、
生長の家の人類光明化運動に携(たずさ)わって居(お)られる所の
観世音菩薩をはじめ、霊界の諸々(もろもろ)の天使・高級霊たちのうちの
病気治しに 特に優(すぐ)れていられる霊がやって来て、
他力的に癒してくれることになるのです。
<感謝合掌 平成31年4月14日 頓首再拝>
生まれつきの聾唖者が、聖経読誦6ヶ月にして癒える - 伝統
2019/05/03 (Fri) 03:47:42
*「光明道中記」(5月3日《縁者の霊を供養する日》)より
【亡者の霊魂が感憑(かんぴょう)するとその念波の影響を受けて股関節の先天的脱臼、
小児麻痺的現象・・・等々を起す。
(『生命の實相』第十四巻、『人生を支配する先祖供養』)】
生後1年2ヶ月乃至15ヶ月を経ても歩行し始めない幼児は、
小児麻痺か何かの神経的疾患であるかも知れぬ。
小児麻痺の後遺症の手足の不随は、現在の医学では治癒の道がないのである。
併し、生長の家では無数に治癒した実例がある。
それは祖先に対して聖経『甘露の法雨』を毎日一定の時間に
「××家先祖代々親族縁族一切之霊」と数回思念を籠(こ)めて唱えて招霊(よびだ)し
「この聖経『甘露の法雨』により霊界に於て本来神子仏子なる実相を成(じょう)じ
たまえ」と恰(あたか)も生ける人に言うが如く唱えてから『甘露の法雨』を
誦するのである。
1回で効果を現した実例もあるが、数ヶ月を要した実例もある。
それは浮かんでいない縁者の霊魂の悟を開く遅速によるのであって、
予(あらかじ)めその治癒の期限を予告することは出来ない。
生まれつきの聾唖(ろうあ)にして聖経読誦6ヶ月にして耳聴えはじめ、
物言い始めし例もある。
神想観を修して、観中、歩行不能ならざる、既に歩行自在なる実相人間の念像を描いて
精神統一するとき、18年間の歩行不能者が歩行し得るようになったとは
藤岡秀信氏の体験談である。
<感謝合掌 令和元年5月3日 頓首再拝>
『甘露の法雨』第一号 - 伝統
2019/05/25 (Sat) 03:29:16
*Web:”亀の子さま”のブログ(2019/1/27)より抜粋
『新講「甘露の法雨」解釋』に最初に經本型に製本して
「聖經」と書いて発行された経緯が書かれていますが、
ネット上では、まだ紹介されていないと思われる
『甘露の法雨』の第一号が出来た時のことを
『生長乃家京都光明化五拾年史』から抜粋して紹介します。
昭和四十七年十一月三日、
京都教化部創立四十周年記念式典の際 尾本 輝三 氏の祝辞から
『甘露の法雨』第一号
< ・・・(前略)・・・ また皆様お持ちの『甘露の法雨』の折本、
あれは小木虎次郎博士が、「尾本はん、あんた明日来る時に本願寺さんの前で
無地の折本が売ってあるはずやから探して買ってこい」とおっしゃる。
探して持って参りましたら、それに『甘露の法雨』を書け、とおっしゃる。
私は「恥はかくけど字はよう書きまへん」と云うて笑ったんですけど、
「書きなさい!」とおっしゃるので書いてみたんですけど全部が書けません。
そのあとを着月先生がお書きになったんですけど書けなかった。
どうしても作れ、とおっしゃるので、誌友の森本という印刷屋にお願いして
第一号の『甘露の法雨』を印刷したのです。無論先生には内緒です。
ですから『甘露の法雨』と云う題字もございません。
大調和の神示もございません。
ただいきなり本文の『甘露の法雨』だげでございました。・・・(中略)・・・ >
註:最初の「折本」の漢字が「析本」、
「無論先生には内緒」の箇所が「内諸」と印字されていますが、
誤字と思われたため「折本」「内緒」としました。
< 着月先生と相談して、先生に叱られるつもりで
谷口先生のところへお伺いに参りました。
幸いに叱られずに先生にお喜こびいただきまして、
「なんぼでも印刷しなさい」とお許しをいただきまして、
今度は大威張りで印刷をやって参りました。
そうすると谷口先生は「もっとせい、もっとせい」と
なんぼでも数を増やしてこられる、資本金がたりません。
そこへ谷口隆之助と云う方が「資本金出してやろう」と出して下さった。
そういうことから始まった『甘露の法雨』でございます。・・・(後略)・・・ >
(https://blogs.yahoo.co.jp/kamenoko159357/35893453.html )
<感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>
聖經『甘露の法雨』の奇蹟~火葬炉の中に残る『甘露の法雨』 - 伝統
2019/07/02 (Tue) 05:07:33
*Web:「則天去私」(2019年06月26日)より抜粋
それは昭和40年8月31日、焼津市の市営焼津焼却場で起こった奇蹟です。
それは現在も発行されている『日刊 焼津港報』(発行所 本社三崎港報社)に
記載された内容であります。(昭和40年9月1日付)
表題に「火葬炉の中に残る教典一冊」
炉内千二百度の高熱を有している焼津火葬場火葬炉の中で生長の家で発行している
『甘露の法雨』という教典が、焼却されずに、原形を残して三十一日午後発見され、
現代では考えられない事実とあって話題をよんでいる。
二度の火葬後に発見
焼津火葬場で奇蹟的と話題
市営焼津火葬場勤務の増田鉄次さんが三十一日午後0時三十分ころ、
三機ある火葬機の中央炉内を清掃すると紙製の長さ十五センチ巾五センチの教典らしい、
未焼却の本がでて来て、主任の松島正臣さんに報らせた。
松島さんと一緒にたしかめると厚紙製のケ-スは、こんがり焼けているが、
形はくずれておらずケ-スから中の本を出すと、完全に原形はとどまっている。
本は生長の家で発行している「甘露の法雨」という同教えの信者間では、
キリスト教のバイブルと同様に、最も大切にする教典。
松島さんは紙製であり、不燃焼物でなく不審をいただいて、
三十一日の午前中に火葬へふした人の経緯を追ってみた。
当日は午前九時三十分に着火して市内関方三八四の一
農業杉本さくさん(明治三十九年九月生れ)を火葬した。
そして中央の炉は同十一時三十分市内小川一二七二の五渡仲昌さんを続いて火葬にした。
火葬の中は耐火レンガでおおわれ、鉄板上に寝棺をのせ重油バ-ナ-で火葬する時は、
千二百度の高温とする装置で炉内の物は完全に焼却できることになっている。
教典は、杉本さんが生長の家の信者で(市立病院で死亡している)
同家の人は、同教典をさくさんの手に握ぎらせ胸の上にくませて寝棺に入れたという。
炉の中でどうして焼けずにいたかはナゾだが、松島さんに聞くと…。
「私も長い間、火葬場をお守りしているが、
紙製の本が未焼却で完全残置されたのははじめてだ。
杉本さんの信仰が通って家族の人にこの教典を残したということでしょうか。
奇跡という言葉があてはまるでしょう」
と一日午前十時に同教典を手にしてつくづくもらした。
またこれを発見した増田鉄次さんはこういう。
「きのうは午前九時と十一時に二体を火葬し、午後一時から三回目の火葬者があって
その前清掃時に発見したのですから、二度も炉の中で焼け残ったことになります
(骨拾い時は炉内にあった)杉本さんの家の方にも知らせたいと思います」
なお、この教典は、生長の家谷口雅春氏が著したもので、昭和二十六年度版。
THE HORY SUIRAとされ、日本国内だけではなく、英訳によって
世界に出版されているもので、市内でも相当な信仰者がある教えである。
( http://tecnopla1011.blog.jp/archives/79485828.html )
(新聞の拡大 → https://livedoor.blogimg.jp/tecnopla1952/imgs/5/d/5dc5a317.jpg )
・・・
(1)若干の誤字脱字については、
「新聞の拡大」に基づき、補正をさせていただきました。
(”山ちゃん1952 さま” のお許しをお願いいたします)
(2)光明掲示板・伝統・第一 において、関連の記事等が残っております。
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=55
①火葬炉の中に残る教典一冊~楠本加美野先生(2015年03月11日 )
②火葬炉の中に残る教典一冊~『生長の家』四十年史(P44~45)(2015年03月11日 )
③「火にも焼けなかった聖経」に関して同様な事例として(2015年03月22日)
④”真理の書”は火にも焼けず~新講『甘露の法雨』解釈(P357~359)(2015年03月22日)
<感謝合掌 令和元年7月2日 頓首再拝>
聖経『甘露の法雨』の由来 - 伝統
2019/07/22 (Mon) 03:37:44
*『光の泉』(昭和33年12月号)
~谷口雅春先生に帰りましょう・第二(2019年03月14日)より
聖経『甘露の法雨』は私の万年筆を通して書かれたのでありますが、
然し私が書いたんじゃないのであります。
だから、『甘露の法雨』は何処にも、谷口雅春著とは書いてないでしょう。
『甘露の法雨』というのは、
ただ観世音菩薩がお作りになった真理を歌った詩でありますから、
私は只それの万年筆になり、スピーカーになっただけであります。…
『甘露の法雨』は観世音菩薩の作品ですから、
観世音菩薩の作られた詩とか歌とかいうものには、
観世音菩薩御自身の、精神のリズムというものが其処にうつっている訳であります。
たれでも詩を作ったら、作者の心のリズムというものが
その詩に現れているのは当然であります。
それと同じに、
『甘露の法雨』には観世音菩薩の心のリズムというものが波動しており、
観世音菩薩のリズムが、常に『甘露の法雨』からは雰囲気となって出ているのであります。
それでこれを持っている人は色々の危害を免れることが出来たことには
無数の体験談があるのです。
( https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2526 )
<感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>
原爆にも犯されない奇蹟の体験 - 伝統
2019/08/09 (Fri) 05:04:23
今から74年前(1945年<昭和20年>)の8月9日に起きた奇蹟の体験。
*光明掲示板・第一「奇蹟の『甘露の法雨』 (126)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=64
(1)原爆にも犯されない奇蹟の体験(1) (193)
日時:2012年08月08日 (水) 13時01分
(2)原爆にも犯されない奇蹟の体験(3) (285)
日時:2012年08月10日 (金) 05時01分
・・・
(3)天辰静雄さんの場合 (神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.47~48))
ところが、まだ生長の家の幹部役員ではなかったが、熱心な生長の家信者で、
毎日、祖先霊に供養のために聖経『甘露の法雨』を怠らず誦(づ)している
天辰(あまたつ)静雄さんという誌友があった。
この人は、原爆をB29が携えて空を飛んで来たとき、
空襲のサイレンを聞いたので防空壕の中に身をひそめていたのであるが、
日本の軍は原子爆弾の事は知らないので、
襲って来たB29が東の空に姿を消し去ると、
空襲は終わったものと見て「空襲解除」のサイレンを鳴らした。
そのサイレンを聞いた天辰静雄さんは防空壕の外に出て
「敵機はどこへ往(い)っただろう?」と思いながら上空に眼をやると、
落下傘にぶらさがって何か黒いものがフラフラしているのである。
「てっきり、あれは、敵の飛行機が日本の高射砲でやられたので、
その飛行士が落下傘で逃げて降りるんだろう」と思って見ていると、
そのぶらさがっている物は、敵の飛行士ではなくて原子爆弾であったのである。
それは至近の距離で(四百メートルとも八百メートルともいう)
突如ピカドンと爆発した。
その一瞬、天辰さんは気を失って倒れた。
それから何時間経ったかよく分からないが、氏は眼を覚ましたのであった。
意識を恢復して顔をさすり、全身を眺めてみるけれども、
何処にもかすり傷も火傷もない。
その付近には、黒焦げの屍体が5つ6つ転がっていた。
当時、近い距離で原子爆発の洗礼を受けた「黒い物体」は
みな火を発して燃えたので、全市が殆ど火事になったのも、そのためだそうだが、
それは、天辰静雄氏同様に、爆発のショックで意識を失ったまま、
黒い衣服を着ていた通行人が火を発して焼けて
黒焦げの死体となっていたのであった。
しかし、天辰氏自身はどんな被害も受けていなかった。
彼が意識を恢復した時、聖経『甘露の法雨』の中身の経文の部分の紙がひらいて、
氏の胸の上に斜めに、覆(おお)うようにかぶさっていたという。
まったく氏が、そのような至近の距離で、
裸の顔を上空に向けて原子爆弾を眺めながら、
その爆発の直撃を受けながら、
聖経が胸を覆うていたために何の被害も受けなかったのは、
観世音菩薩(住吉大神)の降ろしたまえる『甘露の法雨』に
護られていた功徳だというほかはないのである。
その翌年、長崎市に講習があった際、
天辰静雄さんは、私にお礼を言いたいと言って、
帰りの汽車に私に同乗して来られて、
その時の実情を詳しく話されたのであった。
上に書いたのは、そのとき天辰氏自身から聞いた実話であるのである。
その時、私は、
「そのあなたの胸に懸かっていた『甘露の法雨』は何処から来たのですか」
と訊いた。
すると、天辰さんは、
「それは私の家の聖経です。私は毎夜、お仏壇の前で
『甘露の法雨』を誦んで祖先を礼拝することにしているのです。
その前の晩わたしは、誦(よ)み終わると、聖経をサックに入れないで、
どうせまた披いて読むんだからと、ふと思ってサックの上に聖経の折本を
重ねて置いたのでした。
すると、それが原爆の爆風でわたしの胸の上に飛んで来てわたしを
覆(おお)ってくれたのでした。」
もし天辰さんが、先祖供養を怠って
『甘露の法雨』を毎夜読まないでいたとしたら、
氏の運命はどうなっていたか分からないのである。
天辰さんはその後、15年間以上も健康で生きておられた。
何でも愛知県の方に移転して来ておられたが、
亡くなる時も原子関係の病気ではなかった。
原子の“第三の火”も聖経に宿るところの“真理”に
つながる人々を傷つける事は出来ないのである。
<感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>
『甘露の法雨』で赤ちゃんの「胃腸回転閉塞」が癒える - 伝統
2019/11/19 (Tue) 04:12:12
*「光の泉」(昭和45年11月号)谷口清超先生
~御祖先を供養する(”道産子 さま”投稿<2019/10/13> )
【目に見えぬいのち】
私たちはみな御祖先から生まれて来ているのですから、
御祖先を大切にして、よくお祀りしなければなりません。
御祖先のいのちは今もなお生きているから、家族と同じことです。
朝晩御挨拶をするつもりで、お仏前にお詣りをしたり、
神棚にお灯明をあげる。
そんな事を私たちの祖先はしてきたものでした。
これは決して、迷信でもなければ、馬鹿げた事でもない。
当然なすべき事であって大変大切なことなのです。
ところが「唯物論」が盛んになって来ると、人間は死んでしまえば
後は灰になってしまうだけだ、御祖先のいのちなんか何処にもない。
墓の中には骨しかないし、仏壇なんか木切れとねずみの糞だけである。
御祖先祀りなんか馬鹿馬鹿しい、という人が増えて来たのです。
こういう人は自分では「科学的」な考え方をしていると
思っているかも知れないが、決して科学的でも合理的でもない。
なぜなら、「生命」というものはもとから目に見えないものでしょう。
だから肉体があってもなくても、
そんなことはどうこうなるものではないからです。
肉体がある人の「生命」だって目に見えないのですから、
肉体がなくなって骨だけになった人の「生命」が目に見えなくても
ちっともおかしくないのです。
ところがそれを目に見えない「生命」だから、ないのだと単純に考える。
ここに大変非科学的な、不合理な考え方が出ているのです。
私達はこんな錯覚に陥ってはならない。
もっと根本的に「生命」そのものを見詰め、「生命」は決して
消えてなくなるものものであってはならないということをはっきりと知り、
「今ある生命は肉体と共になくなる様な頼りないものではない」と
自覚し、御先祖のいのちが今此処に生きていると思って、
毎日感謝礼拝を怠らずやるのが正しいのです。
そうしないととかく色々困ったことが起ってくる。
別に御祖先が子孫を恨んで、罰を当てるというのではないけれども、
自分の一人よがりの心が悪い結果を現わして来る。
人に感謝しないから、いいことが出て来ない。
御祖先という”親のまた親”に感謝しないから、
「父母に感謝し得ないものは神の心に叶わぬ」
という訳で、変な病気になったり、仕事がうまくいかなくなったり、
子供の病気で苦しんだりするのであります。
【逆回転している】
北海道川上郡弟子屈町屈斜路という所に渡辺昇さんという人が住んで
おられますが、この人には昭和四十七年一月に男の子が生まれました。
登さんは大変喜んで、この子に唯幸という名前をつけた。
処がこの子が乳を飲むことが出来ない。
飲んでは吐き、飲んでは吐くのです。段々痩せて来る。
これは大変だというので、釧路の市立病院に入院させました。
すると詳しい診察の結果、
これは十万人に一人あるかないかの病気だというのです。
「胃腸回転閉塞」と言って、腹の中で腸が逆になっていて、
盲腸が心臓の辺に来ている。腸が逆回転している病気だというのです。
「先生、手術しても治らないでしょうか」
と聞くと、
「いや、治ることは治るけれども、二、三ヵ月したら
又元通りになるから、手術してもだめなんです」
だからあきらめなさいと言われるのでした。
しかしいくら「あきらめなさい」と言われても、
「はい、そうですか」とあきらめる訳には行かない。
そこで無理に頼んで手術してもらった。
とにかく手術がすみ、しばらくして退院した。
がしかし六ヵ月に入ると又変になったのです。
しかたがない、又病院へ連れて行くと、診察の結果、
「もうこれは手遅れです。この病気ではこんなになる」
と言って、再びあきらめなさいと言われました。
「でも先生、どうかお願いだから、もう、一回だけ手術して下さい」
そう熱心に頼み込むと、
「じゃ、もう、一回手術するけれども、命の方は保証できませんよ」
こうして6時間半という長い時間をかけて手術してくれましたが、
その結果は絶望的だというのでした。
「もう手遅れでした。癒着している腸を三十センチほど切り取りましたが、
そのあとがうまくないんです。
腸が殆どくっついてしまっていて、はがすことができない。
腐っているから、ちょっとでもはがすと穴が開いてしまう。
3カ所はがしましたが、あと十数ヵ所ひっついていて、
手の施しようがないから、そのまま縫ってしまいました」
【奇蹟と神様】
こんなひどい事になってしまっては仕方がない。
腸が逆転して裏返しになっているから、食物が通らないし、
腐ってひっついてしまっているのです。
がっかりした渡辺さんは、悲痛な声でお医者さんに言いました。
「じゃ、もうだめですか? あきらめなきゃいけませんか?」
すると、そのお医者さんは、こうおっしゃる。
「医学的に言うと、だめですが、まだ奇蹟ということがあります。
奇蹟を待ちましょう」
この“奇蹟”という言葉を聴いて、渡辺さんはびっくりした。
現代の医学でも、まだ手の付けられぬところに“奇蹟”があるのだろうか。
科学者も、最後は奇蹟”を認めるのか・・・・・。
「しかし」とお医者さんは付け加えて言うのです。
「たとい生命を“奇蹟”にとりとめるとしても、手術のための輸血で、
腸の血管を切り開いたから、この脚はもう動かないかも知れません。
とにかく脚が使えなくても、
いのちさえとりとめればいいんですがね・・・・・」
「いや、いいです、脚はいいです」
渡辺さんは真剣な看病をはじめました。
がしかし、生命は助かりそうにない。
二日たっても、三日たっても、赤ちゃんの腹は膨れる一方だし、
真赤に脹れ上がって、苦しそうで見てはおれない。
三日目の朝には、今にもパンクしそうになって、
素人目にも駄目だと分るのです。
その夜、お医者さんが回診に来られて、言われました。
「渡辺さん、やるだけのことはやりました。
あと、助かるか助からぬかは、神様次第ですね」
渡辺さんは再び驚きました。
お医者さんでも、いのちのことは最後に「神様次第」といわれるのだろうか?
そう思うと、渡辺さんはいつの間にか無意識のうちにポケットに
入れていた『甘露の法雨』をしっかり握りしめていました。
【撫でさする】
何故渡辺さんのポケットの中に『甘露の法雨』のお経が入っていたのか?
渡辺さんは「生長の家」の信仰なんかしたことはありませんでした。
けれども渡辺さんの御両親は、生きておられる頃「生長の家」の信仰をもち、
『甘露の法雨』を御仏前で誦げておられたことがあったのでした。
それを息子の昇さんは横目で見ていたが、
決して「生長の家」をやろうとはしなかった。
迷信だと思っていて、大嫌いだった。
本を開いてもみないし、『甘露の法雨』なんか見向きもしなかったのです。
そのうえ、両親がなくなられてからも両親の御霊をお祀りもしなかった。
形式的なことはやったかもしれないが、
日常の御祖先祀りはほったらかしで、結婚後は奥さんも不信心でした。
その上、人々との争いもあった。
父母にはちっとも感謝していない。
そんな状態でいたものですから、その心が、子供の病気となってあらわれ、
腹の中が逆転していたのでした。
すべて「肉体は心の影」であるという。
心が肉体に、似たような姿をあらわすのです。
だから、腸がネジクレて、ひっくりかえっていたのです。
父母に感謝していない、上のものを上に、下のものを下に、していない
ということが形にあらわれて、赤ちゃんの逆転した腸の病気になって
出ていたのでした。
ところがいよいよ唯幸君があぶなくなった。
いついのちが終るかも分からないということになると、平生は無信仰で、
父母の事なんか考えなかった昇さんも、いつの間にか無意識のうちに
『甘露の法雨』をポケットの中にいれて、病院につめかけて看病していた。
その『甘露の法雨』をじっと握りしめたのでした。
「お医者さんでも、神様を信じているらしい」
そんな気がして、ふと『甘露の法雨』の存在に気が付き、握りしめていると、
ジーンと何か不思議な感じが全身にみなぎりあふれて来る。
そこで思わず『甘露の法雨』を取り出し、
それで赤ちゃんの腹を一所懸命でさすりました。
そのうち、夜の十二時頃になると、子供が非常にあばれ出した。
苦しそうで見ておれない。今にも死にそうだ。
それでも夢中になって撫でていましたが、
「ああ、もうだめか」
という気がしました。が、その瞬間に、ドッとばかり便が出たのです。
見ると、便なんてものじゃない。血まみれの肉の塊だ。
それがドロドロと子供の尻から飛び出した。
これを見て、看護婦さんが、
「ああ、もうだめですね」
と思わずつぶやいた。
がしかし、渡辺さんは、朝まで一心に『甘露の法雨』を読み続けました。
初めて中のコトバをよんだのでした。
或る日天使生長の家に来りて歌い給う――
創造の神は
五官を超越している、
六感も超越している。
聖
至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
智慧
絶対の愛。
【元気づく】
やがて、朝になりました。
奇蹟的に朝までいのちがもったのです。
八時ごろになると、先生が回診に来られました。
そして、こういわれるのでした。
「いゃあー渡辺さん、よかったね! 助かったねぇ!」
渡辺さんはどうも腑に落ちない。あんな血肉の塊のようなものが出て、
死ぬほど苦しんでいたのに、「助かった」とはどういうことであろう?
すると先生はいわれる――
「あの血と肉のような塊は、腸を切った時にその間にたまっていたもので、
あれが出てしまうとよくなるんですよ」
渡辺さんは思わず、
「先生、有難うございます」
と、手を合わせて拝みました。
それから二十分から三十分ほどたつと、子供は目を開いた。
何だか気分が良さそうなので、腹をはぐって見ると、
あんなに脹れ上がっていた腹が、スーッと平らかになっている。
それっきりよくなって行って、どんどん元気になりました。
2週間ほどたつと、もう退院してよいということになった。
その時、先生が来られてこう言われる――
「どうして治ったか、よく判らん。がしかし、脚の方はどうなるか分らないが、
まあ、2、3年はかかるなあ」
脚はどうなってもいい。
とにかくこうして子供のいのちが助かったことが有難い。
お医者さんは“奇蹟”とか“神様”とかおっしゃったが、
やはりこれは『甘露の法雨』をよく読み出したおかげであり、
奇蹟であるという他はないと思いました。
【心があらわれる】
それからというもの、渡辺さんは、毎日毎日『甘露の法雨』を誦げました。
医学ではどうにもならぬところまで行った子供のいのちを、
この『甘露の法雨』が救ってくれたと思うから、
あとはもう『甘露の法雨』を読む以外にすることがない。
何だか知らないが、私は間違っていたと思って、読み続けた。
読んでいるうちに、『天地一切のものと和解せよ』とある言葉で、
ああ、自分たちは和解していなかったのだと気づきました。
父母に感謝し得ないものは神の心に叶わぬといわれているように、
父母を粗末にしてお祀りもせずに、申し訳なかったと、
心から懺悔して、一心不乱に『甘露の法雨』を読んだのです。
すると、1ヵ月たつと、お医者さんから歩けないと
言われていた脚が歩けるようになりました。
2、3年はかかるといわれ、もしかしたらだめになると言われていた脚も
よくなって、全く健康な赤ちゃんとなり、
私が今年の四月に釧路に行った時には、両親に連れられてきていた
唯幸ちゃんは、ドンドン走り廻っていました。
勿論赤ちゃんの腹の中も、いつの間にか
あたり前になって治ってしまっていたのです。
これは渡辺さん御夫婦が、親に感謝し、夫婦仲良くなり、
天地一切のものと和解し、上のものを上に、下のものを下にして、
よく御祖先をお祀りをするようになったので、
その心がハッキリと子供さんの姿にあらわれて来たからである。
本当は“奇蹟”のようであって奇蹟ではない。
ただ当り前のことが当り前になるようになったのです。
御夫婦の心が当り前になられ、御祖先に感謝し、御祖先の御恩に
心から悦ぶようになられたから、その心によって
「神様のおつくりになった世界」の完全円満な姿が、
そのままスッとここにあらわれて来たのであります。
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7914048 )
<感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>
『甘露の法雨』を詠む ~ その1 - 伝統
2019/12/07 (Sat) 04:14:41
*『生長の家』(昭和38年 新年号 73~87P)より
◆欲界といふ世界
『甘露の法雨』の中には「三界」という語(ことば)がでてまいります。
三界とは、欲界、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の
三つの世界をいうのであります。
これはもとは、仏教の用語であります。
吾々が生まれ変わって出る世界を仏教では
大別して三種類あると言うのであります。
吾々人間は「欲界」に棲んで居るのです。
「欲界」の欲という字は「欲しい」という字で、「何々したい、何々したい」
「何が欲しい、何が欲しい」と云う想いをもった者が生まれ出る世界であります。
「お金が欲しい」とか「恋人がほしい」とか、「出世したい」とか、
「試合に勝ちたい」とか云う想いをもった者が生まれている世界です。
その欲の大分清まった霊魂の生まれ変わって行く天人の世界が「色界」であります。
◆《色界》といふ世界
「色・しき」と云うのは、人間界では物質のことを「色」という、
「色」と云うのは《色即是空》の色であります。
詳しく謂うと、人間のみとめる「物質」ばかりを「色」というのではないのであって、
天人の世界は物質の世界ではないけれども、物質の世界みたいに
「念(こころ)の波」に依って現れた一種の材質(マテリアル)がある。
その材質を「色」と云うのであります。
天人の世界では「物質あり」と云うような観念が幾らか残っているので、
その念(こころ)が形に現れて色身(しきしん)という一種の材質でできている
ところの「天人の体(たい)」をもっているのです。
然し欲界の人間みたいにその人の念が執着が強くなく重濁していないから、
吾々のような重濁した物質の体(たい)の様なものは持ってはいないけれども、
軽るやかな一種の《ガス体》のような《色身》を持っている。
そして吾々自身が肉体を確乎とした具体的な体だと思っているように
天人も自分の《色身》を確乎とした具体的な体だと思っているのであります。
◆《無色界》といふ世界
更に欲がなくなり、「物質あり」という想いがなくなり、その結果、
「色身」が全然なくなった天人の住む世界を無色界と言うのであります。
無色界の天人には全然そういう体はない ― もう本当に魂だけの境涯 ―
そういう世界にやがて悟りの程度の進むに従って吾々も生まれて来るのです。
然し大体吾々人間は現在まだ「欲しい、欲しい」の境涯を脱し得ないので、
欲界に生まれて来て居るのであります。
地獄、餓鬼、天人の一部 ― それ等はみな欲界の生命であります。
つまり現象界の生命なのです。
「三界の諸霊」といい、「三界の諸生命」といい、生きているいのちの本体を
「霊」と見れば「三界の諸霊」であり、生きているいのちの本体を「生命」とみれば
三界の諸生命であります。
このように三界と云うのは
吾々の霊魂が生まれ変わって行く先の現象界のことであります。
現象界の上級の方は天人界であります。
謂わば高級の棲む世界なのであります。
◆物質とは何であるか
では、吾々が「物質」とみとめているものは何でありましょうか。
『甘露の法雨』の《物質》の項には次の如く示されています。
汝ら感覚にてみとむる物質を
実在となすこと勿れ。
物質はものの実質にあらず、
生命にあらず、
真理にあらず、
物質そのものには知性(ちしょう)なく
感覚なし。
物質は畢竟『無』にしてそれ自身性質あることなし。
金剛般若経に、「山、山に非ず、これを山と謂う」という語(ことば)がありますが、
物質と云うのはものの実質ではない。
物質でないものを仮に「物質」と呼んでいるのです。
本来、物質と云うものは「無」から出て来たのであります。
星と星との間の空間の、何も無い所から物質元素のもっとも
原始的な水素ガスが生れ来てそれから色々の元素に複合して来たのですね。
水素ガスが生まれるのは、真空の中に、中性子がヒョッコリと生まれて来て、
それが「電子」と「陽子」とに分化しまして、その陽子が「原子核」になって
「電子」がそのまわりを廻るという構造になって、
《最初の物質》即ち《水素》ができたのです。
結局《何もない》ところから、物質のもとが出て来たわけであります。
だから《物質》とは何にもない《真空》の変形だから、
物質と云うものはないのであって、《物質》は《無》である。
従って、物質は存在(もの)の実質ではない。
《真空》即ち《何にもないもの》が動いて《物質》としてあらわれたのは、
物質以外の、肉眼に見えないところの何か不思議な神秘な力が出て来て
これを動かして居るのだと考えるより仕方ないのです。
即ち物質は単なる物質ではなく、
「神秘な力」即ち「神の力」の自己顕現だということになるのです。
~つづく
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18466117.html より転写)
<感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>
『甘露の法雨』を詠む ~ その2 - 伝統
2019/12/09 (Mon) 04:28:05
*『生長の家』(昭和38年 新年号 73~87P)より
◆物質には痛覚がない
「神の力」を抽いてしまったら、物質そのものは「ない」のだから、
「物質そのもの」には何等感覚がない。
だから演壇の机をガンと殴ったところで痛いとも言わんし、
ナイフで削ったところで痛いとも言わん。
結局物質は感覚がないものであって、
その感覚のない物質でできている肉体が、
例えば神経痛で痛いと云うのは、
それは心が痛むので物質が痛むのではない。
だから「物質は畢竟『無』にしてそれ自身の性質あることなし」と
示されているわけですね。
この感覚のない「物質」が「肉体」としてあらわれて「痛む」と感じるのは、
「これに性質を与えるものは『心』にほかならず」と示されているのです。
物質それ自身は痛いも何も無いのに、
それは〃痛い〃と云うような感覚を与えるのは『心』が与えるのである。
従って肉体の健不健は『心』によって左右されるわけであります。
それで『甘露の法雨』は次の如く説いているのです。
◆肉体に心がなければ病気は起らぬ
『心』に健康を思えば健康を生じ
『心』に病を思えば病を生ず。
そのさま恰も
映画の舞台面(スクリーン)に
力士を映せば力士を生じ
病人を映せば病人を生ずれども
映画のフイルムそのものは
無色透明にして本来力士も無く
病人も無く
ただ無色透明の実質(フイルム)の上を蔽える
印画液によりて生じたる色々の模様(くもり)が
或は力士の姿を現じ
或は病人の姿を現ずるが如し。
物質は本来『心』がないから、自分の欲する方向又は欲する処へ、
物質そのものは勝手に或る形をとるために自動して行って列(なら)ぶ
と云うことは出来ないのです。
物質それ自身だけでは動けない。
例えば、此処に紙という物質があって、
それを一定の形の書物なら書物と云う形に纏めるには、
紙という物質以外に心あるものが来て、それを適当に断裁して、
綴じると云うようなことをしなかったら書物にはならないのであります。
勝手に物質が集って、そして本になりましたと云うようなことはない。
だから人間が一遍「健康体」に造られてオギャァーと出て来たならば、
それが病気になるとしたならば、物質が勝手に動き出して
その細胞の配列を紊(みだ)したのではない。
『心』が肉体の物質細胞を列び変えさせて病的症状を配列したのだ、
と云うことに結論されるわけであります。だから
『心』に病を思えば病を生ず。
そのさま恰も
映画の舞台面(スクリーン)に
力士を映せば力士を生じ
と示されている訳であります。
『心』は心のフイルムと称して、フイルムに喩えてありますが、
心のフイルムに描いた通りに形の世界に現像されて来るのであります。
例えば心のフイルムに「私は六十歳で皺苦茶の顔をしているのが当然です」
と心に描いたら、そしたら皺苦茶の顔が現実に出て来るということになる
のであります。
◆容貌に老年を刻むものは何か
大体、皆さんは一家族が全部同じお料理の食物を食べて居られると思いますが、
それにも関らず、
或る人は同じ食べ物を食べながら非常に生々とした
二十歳のお嬢さんみたいな顔の皮膚を造り、
そこのお爺さんは「私の顔の皮膚は七十年前に拵えて、
日光や雨風に七十年も晒しているから、渋紙色になって皺苦茶になるのは
無理はありません」というような皮膚を拵えているのであります。
食べ物が同じですから原料たる成分も同じです。
物質的原料は同じであるが、
物質は自分の意志で動いて形を変化することはない。
それを何が変化するかと云うと、
『心』が変化するのだというわけであります。
一家族が同じ食べ物を食べているのに、
皆んな一つ一つ異なる容貌になり、異なる皮膚の色になり、
異なる皺が出来ると云うことは、
それが『心』によって支配されているからであります。
そういうわけで、生長の家の教えを受けた人は、
大体普通よりも非常に若い身体をしていますね。
「人間は神の子で老いないものである」という信念を多少とも、
普通の人より余計に持っているから、
普通よりも非常に若々しい顔をして居るのです。
心の波が食べ物から摂取した成分を新たに置き列べる時に、
そう思った通りの形にならべるわけなんです。
大体吾々の皮膚は、毎日洗ったり、タオルで拭いたり、
シャボンでこすったりして皮膚の表皮は、毎日少しずつはげていって、
毎日中から新しい皮膚が出来る。
だから七十歳の人でも七十年前の〃面の皮〃なんてありはしない。
みんな赤ん坊の皮膚みたいなものだ。
それなのに、そのように、年寄った姿に現れるのは、
それは心の中に 「私は何歳だからどの位皺が寄らねばならぬ」と
掴んでいるからこそ「自分は何歳だ」と覚えている。
そして多少ともその年齢が肉体に現れずには置かないのであります。
◆人類意識とは何か
大体宇宙には、人類共通の意識 ― 人類意識というのがある。
何歳といえば、どれ位に皺が寄って、どれ位の容貌になるのである
ということを心の奥底に人類の殆どすべてが信じているのです。
この人類全体総計みたいな心が人類意識であって、
人類全体の心の波として拡がって、充ち満ちているんです。
この人類意識の中に吾々は泳いで生活しているのです。
人類意識は〃海の水〃みたいなものである。
その中に夫々の生きた魚がこう泳いでいる。
一つ一つの魚には心があって自分の好むように動いているが、
波の動きに影響されずにはいないのです。
魚に喩えたのは人間です。
一人一人に個人の心がある。
併しその個人の心が泳いでおっても、
人類意識の波に動かされずにはいないと云うわけで、
多少とも動かされる。
だから人類全体が「何歳になれば、どの位人体は老化する」と
信じている限り、その信念に動かされる程度にしたがって
その人の肉体は老化するのです。
けれどもこの波に動かされないようにする程度に従って
老化が防げるのであります。
即ち常に「人間は神の子で、完全である。神は永遠の生命であるから、
神の生命を宿し生まれた人間は老いない」と云う意識を強く持っていると、
人類意識の波に動かされない。
だから神想観をして自己の生命が〃神の生命〃であることを念ずると
長く若く居られるのです。
~ つづく
( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18480296.html より転写)
<感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>
『甘露の法雨』を詠む ~ その3 - 伝統
2019/12/12 (Thu) 03:39:18
*『生長の家』(昭和38年 新年号 73~87P)より
◆神想観のとき手掌から発現する微妙なるもの
神想観をしている姿勢は、合掌を顔の高さにもっていきます。
そうすると手から、細胞に活力゛与える所の放射能が
指先や掌から出るようになるのです。
それはストロンチウム90の放射とは異うから毒になる放射能ではない。
これは生かす働きであります。
大昔はどんな病気でも、怪我しても
手を当て、手から発する放射能で治したんです。
大昔は、薬は発明されとりませんし、
何か他に道具がないものですから、皆手を当てて治したんです。
その習慣が今でも残っておりまして、
「痛い」と云う時には其処に手を当てるようになっている。
「痛い」と思うと痛むところに思わず手を当てる。
怪我をすると「イタタタ・・・」と手をその傷口に当てる。
それは人間の無意識がチャンと手に治す力がある
と云うことを知っているからであります。
知っていても、その力を使わないものですから、
段々と治す力が衰えて行ったのでありますね。
筋肉でも使わぬ時は退歩する。
手掌にあらわれる「治す力」でも長く使わなかったから、
今の人には余り治す力はないけれども、
今でも痛むところに手を当てる習慣は残っている。
また薬を服(の)ますことでも、医者にかかることでも、
皆あれは「手当てをする」と云うのは、
大昔に病気や傷口を治すのは皆「手を当てた」から、
その言葉が残っているのであります。
◆手掌の霊的放射の実験
そのように、この手からは「細胞を賦活(ふかつ)する
不思議な力」が出ているのであります。
ロシアの生理学者のグルウィッチ教授が、
暗室で実験した報告によりますと、
それは、温室に二個の植木鉢がある。
どちらにも玉葱を植えて置いて、
一方の玉葱には数十分間手をかざして、
手の放射能を毎日やるのです。
それからもう一方は暗室においたままで手をかざさずに放って置く。
そうすると、手の放射能を与えた方の玉葱は
早くふっくらと芽が出て来て、早く生長するが、
手の放射能を与えられないもう一方の玉葱は却々(なかなか)生長しない。
この実験によって手掌からでる放射能は細胞を賦活し、
玉葱の発芽力を盛んにし、その生長力を旺盛にすることが判ったのです。
それでしかも、その手掌から出る賦活力のある放射能は、
鉛の板をも透過することが分ったのです。
X線だと鉛の板を隔てたら通らないんですが、
手掌の放射能は鉛の板を中間に介しておいて、手をかざしても、
やはり感ずると云うことが判ったのであります。
だからこれは、レントゲン線よりも、
余程強い透過力ある放射線か磁力線だと考えられるのであります。
放射線か磁力的なるものか、その物理的構成は
唯今のところ良く判らないけれども、ともかく
「不思議な賦活力」が手掌から出るのであります。
グルウィッチ教授はそれを〃ミトゲン線〃と名付けたのであります。
◆掌の治病力を発現さすには
さて我々が手掌を顔の前まで上げて合掌すると、
眠っていたミトゲン線放射の力が復活して来るのであります。
それは以前から多少は放射されていたんだけれども、
不断は使わないから眠ってしまって余り発達しておらないから、
合掌をして神想観をしますと、その機能がすごく復活して来るのであります。
人体は或る程度、一種の電気装置であり、
常に微電流が流れているのであり、
脳波の測定や心電図はそれによってつくられるのです。
これは近頃では誰でも知っているのでありまして、
心臓の機能を検査するのに、心電図をとると云うのは、
心臓の電気的流れを図解に表わす微電流を表示する機械を使うのであります。
また最近には、電子工学の機械を用いて脳の深部に、
小さな鈍端の電極を予定した点まで挿入してそこに電気的刺戟を与えると、
どんな感情が起るかなどということも研究され、
或る種の感情が起るということは同時に脳の内部にある
電気的刺戟が起こっているのだということが発見され、
感情の変化に依って脳の電気的波が変化するということが、
チャンと図解にまで表れるようになって来たのであります。
このように我々が物を思えばその思う内容によって
電気の流れが変化するということが、
最近の物理学、電子工学、生理学等によってハッキリ
させられたわけであります。
◆心は物質を動かすという実証
ところが電気の流れと云うものは何であるかというと、
「電子の流動」であるわけなんですよ。
そして電子と云うものは何かと云うと、
物質を構成している所の素粒子であります。
わかりやすく云えば物質を形づくっている
一番のもとの微粒子が電子ですね。
その物質のもとである微粒子なる電子の流れ即ち電流が
精神の波に依ってその流れを変化すると云うことが、
その脳波の実験等によって判ってきたことは何をあらわすかと言うと
《心の思いは素粒子の位置の変化するものであるということです》
そうすると肉体をつくっている物質というものは
素粒子が集って出来ているものだから、その素粒子の位置が
「心の思い」で変化するとしたならば、「心の思い」が
肉体の細胞を病的にすることができれば、
又病的になっている肉体を「心の思い」で
健康に還元せしめることも出来ると云う事は、
当然の事だと言わなければならないのであります。
普通、今迄、心によって物質を支配することは出来ない
と思われていたのですが、電子工学的な脳髄における実験によって、
チャンと「心の思い」が脳電流の流れを変化するということが解って来、
我々は心によって肉体を健康にも病気にも出来る
ということが科学的に証明されることになったのであります。
~つづく~
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18494952.html より転写)
<感謝合掌 令和元年12月12日 頓首再拝>
『甘露の法雨』を詠む ~ その4 - 伝統
2019/12/14 (Sat) 04:50:47
*『生長の家』(昭和38年 新年号 73~87P)より
◆脳髄の休息という現象の謎
最近、杉靖三郎博士に聞いた話では、
我々はそんなに睡眠時間はいらないのだそうであります。
それは何故であるかと申しますと、我々の脳髄が何も考えない時は、
恰も、あの電飾看板 ― ネオンサインが点滅せずにズーッと
点ったままで動かずに続いているようなものだそうであります。
その文字が消えたり、点ったりして色々の形が次々へと現れるのは、
点滅するからです。
それと同じ様に脳髄が物を考えると、
脳細胞で働くエネルギーが点滅するのです。
点滅したところだけエネルギーが節約になる。
だから点滅しないで何も思っていない時の方が、
脳髄はエネルギーを余計に使っていることになっているのです。
何も思わぬときは、電飾看板の電燈がつきっぱなしで
点滅がなく全部点っているから何のデザインも動かないようなもので、
その時の方が余計エネルギーを使っているという話であります。
杉博士は、臨床医学から生理学に転じられた医博で、
ある大学の実験室で脳髄について実際に電子工学的実験を
していられるのであります。
このように何も考えていないでいるときに、
却って脳髄の全エネルギーは消費されているのです。
考える時の方がエネルギーの点滅があり、
だから一所懸命に物を考えると、却って草臥れるということはないのである、
ということを言っておられるのであります。
我々の脳髄と云うものは、このように結局ラジオ・セットの
真空管みたいなのもで、考えるときには消えたり、点ったりしている
わけでありますが、
考えることによって電気の流れが点滅するということは、
心の思いに依って電気の流れを変化する ― 素粒子の位置を変化する
と云うことになるのであります。
即ち物質の構成要素たる電子の流れが、
心によって変化することが判って参りました為に、
心が実際に肉体を病気にしたり、健康にしたりすると云うことは、
これは当然のことであると考えられるようになって来たのであります。
だから『甘露の法雨』に
『心』に健康を思えば健康を生じ
『心』に病を思えば病を生ず。
と書かれていることは、
科学的にも真理であることが実証されたわけであります。
ところが、更に深く考えて見ますと、心に思って現れた所の、
健康なる力士の姿、と云うようなものは「現象」だということなんです。
「現象」というものは単なる顕れであって、
又別の想念を起せば又別の姿に変化するものなんです。
だから常住のもの ― 確固とした実在ではないから、
『甘露の法雨』の次の一節にはこのように書かれているのです。
されど健康なる力士も
虚弱なる病人も
印画液の作用によりて生じたる
影にして実在に非ず。
汝ら若し活動写真の映写機に
印画液によりて生じたる色々の模様(くもり)なき
無色透明のフイルムをかけて
舞台面(スクリーン)にこれを映写すれば、
やがて老いて死すべき健康なる力士もなく
虚弱なる病人は無論なく
ただ舞台面(スクリーン)にあるものは光明そのもの、
生命そのものにして
赫灼(かくしゃく)として照り輝かん。
汝ら今こそ知れ、
汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。
如何なる健康なる力士も
彼が肉体を実在と観、
肉体即ち彼なりと観る以上は
彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。
真の『健康』は物質に非ず、肉体に非ず
真の『生命』は物質に非ず、肉体に非ず
真の『汝そのもの』は物質に非ず、肉体に非ず。
物質の奥に、肉体の奥に、
霊妙きはまりなく完全なる存在あり。
これこそ神に造られたる侭の完全なる
『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。
汝ら今こそ物質を超越して
汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。
このように書かれているのでありますが、
さて心が電気的流れを変化する。
言い換えると、心が電子の位置、素粒子の位置変化する。
物質に依って出来ている肉体は、心に依って変化を受けて、
健康にも病気にもなるが、然しどんな健康になって、
双葉山みたいに力道山みたいになりましても、
その『肉体』を『人間』そのものだと思っていたならば、
それは間違いであるというのであります。
やがて老い且つ死ぬようなものを、
それを『人間』そのものだと思っているといけないのであります。
それは心の波によって現れている所の
一つの『状態』に過ぎないのであります。
だから『如何なる健康なる力士も彼が肉体を実在と観、
肉体即ち彼なりと観る以上は、彼は滅ぶるものにして
真の『健康』に非ざるなり』と喝破されているのであります。
~つづく~
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18508527.html )
<感謝合掌 令和元年12月14日 頓首再拝>
『甘露の法雨』を詠む ~ その5 - 伝統
2020/01/07 (Tue) 03:28:21
*『生長の家』(昭和38年 新年号 73~87P)より
◆金剛不壊の實相身を自覚せよ
『生長の家』に入って、病気が治った。健康になった。
有難いと思って健康になったから、私は悟ったと思っていると、
それは間違いであります。
肉体が幾ら健康になっても、それは心の影として心が電気的流れを変化して、
素粒子を変化した結果の『心の産物』であって、それは『産物』であって
『人間』そのものではない。
脳髄から出る心以前に、眼に見えない《霊的人間》があるんです。
それが實相の人間で、永遠に老いない病まない壊けない人間であります。
だからこの『肉体』を人間であると思ったら間違いであります。
こんな肉体がいくら健康になっても、肉体そのものが人間だったら
本当の健康とは言えない、それはやがて死すべきものである。
『本当の健康』というものは、『實相の体』にある。
それを悟らねばならない。
玄沙の岑和尚が誤って毒を服して体中に膿が滴々といやらしく流れてもだ、
膿滴々地のそのままに『私は健康であり、金剛不壊の真身がある』
と悟ったのであります。
が、この肉体が病み死に腐乱したら、『私』という本体も腐るんだなんて
考えておったら、それは真理を悟ったものとはいえないのであります。
すべての肉体は土葬すれば腐ってしまうし、火葬すれば灰になる。
併し、肉体が灰になろうと腐ろうと、膿が出ようと、そんなものは、
ただ心が素粒子を変化し、化学作用が分子の配列を変えただけのことであって、
『人間』そのものには関係がない。
その肉体の奥に、物質の奥に、霊妙きわまりなき存在があるのであって、
それこそ『神に造られたる侭の完全なる人間』そのもの『實相人間』である
ということを悟らなければならないのであります。
現象の肉体の生も死もただ夢みたいなもの、舞台上の演出みたいなものであって、
その舞台裏に『實相』という楽屋があり、そこに金剛不壊の『本当の自分』が
存在するのであります。
◆玄沙の師備和尚のこと
ここに、ちょっと岑和尚の話が出ましたが、
支那の玄沙という所に師備和尚という傑僧があったのです。
(岑は師備に通ずる)玄沙に住んでいたので玄沙和尚ともいう。
この岑和尚は悟りをひらいた禅宗の高僧で、何時も
『人間は死なない、堅固法身である、堅固法身だ、堅固法身だ』とか云う風に
弟子に教えて居られたのであります。
ところが、この玄沙和尚が何か食べ物を間違えて毒になるものを食べた。
その結果、体中が蕁麻疹みたいになり、全身にぶつぶつが出来て
更にそれが化膿して膿血がたらたらと流れた。
それを形容して『膿滴々地』と禅宗の本には書いてある。
それにも拘らず和尚は何時も『膿が流れているその侭で堅固法身だ』
と答えたのです。
肉体が堅固になっている間は人間は堅固であるが、
肉体が壊れたらもう堅固だないなどと考えているのでは、
人間は金剛不壊の實相を悟ったのじゃないのであります。
だから肉体などどうでもよい、膿がタラタラと流れているその侭でも、
そのままに自分の實相自身は『堅固法身』であると悟らなければならない
のであります。
それを悟る為には現象がどんなに悪くっても、
〃現象はない〃と先ず知らねばなりません。
月にどんなに叢雲がかかっているように見えても、
叢雲は月にかかっていないのである。
月と叢雲とには非常な距離がある。
また叢雲は月ではないのである。
病気が幾ら現れておっても『病気』は『人間』に非ずだ。
それは心のモヤモヤが雲のように現れているだけであって、
『人間は病気に非ず』を悟るのが本当の悟りであります。
『正月は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』という
一休和尚の歌がありますが、
『實相の人間』には老いることも死することも冥途に行くことのない
永遠に目出度き存在であります。
この事を先ず新年の劈頭に悟りましょう。
https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18523101.html (消滅)
<感謝合掌 令和2年1月7日 頓首再拝>
『続々甘露の法雨』を詠む - 伝統
2020/01/24 (Fri) 04:56:41
*『白鳩』(昭和47年4月号)より
生長の家の経典の一つに『続々甘露の法雨』があります
その一部から・・・
天使(てんのつかい)つづいて説きたまふ。
家庭の争ひ、
嫉妬、
憎悪、
復讐、
憤怒の念(こころ)―
全ての悪念は健康の快復を妨ぐるなり。
若しかかる悪感情起こらば
速やかに『神の子・人間』に本来かかる悪感情
無しと観じて、
かかる感情を断ち切るべし。
『生命の實相』を読み、人間は《神の子》であって、
本来完全圓萬であるから病気は無いという《實相哲学》が
理解できたつもりでいるのに、
どういうのか病気が治らないで悩んでいる人があります。
こんな場合には、家庭の内部に人間関係で不調和がありはしないかを
脚下照顧し、反省し、家庭内に暗黙のうちに争いの精神状態又は、
嫉妬、憎悪、復讐、憤怒その他いろいろの反感や逆念やがもしあれば、
それを解消するために、もし自分があやまった方がよいと思うならば、
素直にあやまり、互に打ち融けて感謝し合い、調和の心境に、
家族中がなることが出来れば、その病気は消えてしまうのであります。
茲に、『家庭の争い、嫉妬、憎悪、復讐、憤怒の念―全ての悪念は
健康の快復を妨げるなり』と示されているのはそのためであります。
何故これらの悪念が家庭にわだかまっていますと、
『人間・神の子』の真理がわかっていながら、病気が治らないかと言いますと、
本当に自分が《神の子》だと悟られているならば、
嫉妬や、憎しみや、恨みや、怒りや、悲しみや、口惜しさなどの感情が
起こる筈はないのであります。
そんな不浄な悪感情や悪想念が起こるのは、
《人間・神の子》の真理が、頭脳(あたま)の表面(うわつら)ではわかっていましても、
潜在意識の底の底まで全身全霊をもって《人間・神の子》の真理を自覚し得ていない
からであります。
それに《人間・神の子》の真理を頭脳で理解していましても、
憎しみや、争いや、恨み、悲しみ又は不平等の感情がありますと、
現象世界というものは、心の所現でありますから、
その心の通りの形が肉体や環境にあらわれて来るのは当然なのであります。
だから心の中に、不平や怒りの《心の固まり》が出来ますと、
その感情を長くもち続けますと、やがてそれが肉体に具象化して、
肉体に癌とか腫瘍とかの固塊があらわれて来るのであります。
だからそんな病気があらわれましたら、『生命の實相』をよく読んで
『人間本来、病なし』の真理を尚一層よく知ると同時に、
《本来ない》ところの病があらわれているのは、
『自分の心の反映(かげ)』であると知り、心を一変して心に感謝の念を満たし、
教えを真剣に行ずるようにすると、
本来無い病なのだから、《無》の實相をあらわして消えてしまうのであります。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18655226.html ~消滅)
<感謝合掌 令和2年1月24日 頓首再拝>
『続々甘露の法雨』を詠む② - 伝統
2020/02/20 (Thu) 04:59:34
神の法則のみ真に一切を支配す。
物質の法則は汝を支配すること能(あた)はず、
罪の法則は汝を支配すること能はず、
迷ひの法則は亦汝を支配すること能はず。
さらば汝らは金剛不壊の實相身にして、
物質的寒冷も、暑熱も、気候風土も、黴菌も、
汝を害すること能はず。
かかる物質が汝を冒したりなどと考ふるこど止めよ。
かかる罪が自分に報いられたりと思ふことを止めよ。
病ひ本来無ければ、
病ひの原因も本来無し。
病ひも無く、罪も無く、迷ひもなく、死も亦なしと知れば
何(いず)れの処にか恐怖存在せん。
この聖経の一節は、生長の家の實相哲学
― 即ち〃唯神實相論〃を端的に縮約しているのであります。
『神の法則は真に一切を支配す』というのは
実相世界のことを指していっているのであります。
実相世界とは、キリスト教で云うならば、
《主の祈り》に『《天》にまします吾らの父よ、《御国》を来らしめ給え、
御心の《天》になるが如く《地》にも成らしめ給え』
とある場合の《天》であり、《天国》であり、《御国》であり、《神の国》であります。
《地》というのは現象世界のことであります。
実相世界にはただ《神の法則》のみ、《愛の法則》のみが
一切を支配しているのでありますから、
生物が互に冒し合い、微生物が人間に作用して病気を起すということもない。
一切の生物、ところを得て相食むものなく、争うものなき世界であります。
こういう大調和の世界がまだ《地》には実現していないから
『御心の《天》になるが如く《地》にも成らせ給え』という
《キリストの祈り》がある訳であります。
しかし、実相直視の大乗的立場から、存在の世界を見渡しますと、
実相世界には、ただ『神の法則』『愛の法則』『調和の法則』『相互扶助の法則』
『中心帰一の法則』のみが支配しており、
釈尊が金波羅華を拈って衆に示して『これが実相無相微妙の世界じゃ』と示されたように、
現象界から見れば無相の如く見ゆれども中心帰一・大調和の金波羅華の象徴するが如き
微妙の世界が実相世界なのであります。
『物質の法則』『罪の法則』『迷いの法則』に支配されないためには、
『汝自身』を今まで五官の感覚にて『物質者』だと思っていたその現象的自覚を超越して、
自己が物質的な肉体ではなく、金剛不壊の真身(実相身)であることを
自覚しなければなりません。
https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18682325.html (消滅)
<感謝合掌 令和2年2月20日 頓首再拝>
聖経『甘露の法雨』の由来 - 伝統
2020/03/10 (Tue) 04:58:41
*神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.38―39)
『甘露の法雨』は、生長の家発祥当時、
しきりに霊感的に私の脳裡(のうり)にひらめいて来たのを
書きつづった自由詩の一つであった。
その頃出てきた私の自由詩は全部『生命の実相』の“聖詩篇”に収められているが、
別に『ひかりの語録』という携帯型の袖珍本(しゅうもんぼん)に、
やはり霊感的短箴言(しんげん)の輯録(しゅうろく)である“智慧の言葉”と共に
収められているのである。
これは私がまだ東京へ出ない前の数年間、ただ一般に
“生長の家の歌”叉は“自由詩”として取り扱われていたのであるが、
私が東京へ移転してから後、京都電燈社長の石川芳次郎氏の外舅(しゅうと)・
工学博士・小木虎次郎氏が、その自由詩の中の一篇『甘露の法雨』を読誦すると、
医界難治の奇病・難病が治癒することがあり、霊界の祖先の霊が救われる
と見えるような奇瑞(きずい)が?々(しばしば)あるので、
それを単に”詩“として詩集の中にのみ収めておいては功徳を知らない人が多いから、
ハッキリとこれは聖経であると明示して折り本型の経本として発行すれば、
功徳を受ける人が多いであろうと、生長の家京都教化部で経本式折本(おりほん)として
発行されたのであった。
折本の紫色の表紙には単に「聖経」という表題が貼り付けてあり、
経文の本文を印刷した紙は、尾本輝三氏のお世話で福井県若狭ですいた
純粋の和紙で作られたものであった。
果たせるかな、それが経本になって頒布されると、陸続(りくぞく)として
功徳を受ける人々が殺到して、
其れを携帯するだけで、交通事故に遭いながら微傷も負わなかった人
出て来たりしたのであった。
京都の教化部では、これは京都で独占すべきものでないと、
その出版権を本部に返還されたのであった。
どうして『甘露の法雨』にこのような偉大な功徳が生ずるのであろうか。
私は、それをただ霊感で詩作する時に、ふと感じてその詩の題を
『甘露の法雨』としたに過ぎないのであって、
別に『法華経』の観世音菩薩の普門(ふもん)の功徳を説いた
“普門品”に連関して詩の題を『甘露の法雨』と題したのでもなかったし、
観世音菩薩が教えの本尊として門脇観次郎氏の霊眼に見(あらわ)れるなど
と言う事も全然予想もしなかった。
ところが私の著書や執筆の雑誌を読んで功徳を得た人に顕れる色々の霊顕や現象が
次第に観世音菩薩が生長の家の本尊であり、
その観世音菩薩が『法華経』の“普門品第二十五”にある通り
「甘露の法雨を注ぎ給うて煩悩(ぼんのう)の炎を滅除し給う」のである事を
証明するようになったのである。
聖経『甘露の法雨』の功徳は
それをお説きになった観世音菩薩の妙智力と引き離して考えてはならないのである。
平成22年2月13日発信
(http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/12983466.html )
<感謝合掌 令和2年3月10日 頓首再拝>
聖経『天使の言葉』~感覚の転移 - 伝統
2020/04/11 (Sat) 03:06:31
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月11日)」より
『天地の言葉』の中に書いてあるイタリアの大医ロンブロゾー博士の取り扱った患者が、
感覚の転移を起こして眼球以外の器官をもって物体を見たということについて、
その事実の出所を知らしてくれという詩友からの手紙が来た。
これは1919年フランス学士院賞を受けた
セブラユー博士の『死後の運命』という本の中に、
ロンブロゾーの言葉が引用してあるのである。
「1891年のこと、予は医学上の経験においてまったく思いがけない患者に遭遇した。
予は一日郷里に住む一高官の令嬢を往診することになった。
この娘は時おり激烈なヒステリーが発作し、しかもその症状は
病理学上よりも、生理学上よりも、説明し難いものであった。
すなわちその発作に臨んではまったく視覚を失うと
同時に耳をもって物を見ることができ、
目には目隠しを施しているにもかかわらず、
耳の前にかざした数行の印刷物を読みうるのである。
試みに拡大鏡をもって耳腔内に日光を反射せしむると、さも眩しげにしながら
『目が潰れてしまう』と叫び、なおこの発作中には自分の周囲に起こるべき
いっさいの事件を予言し、しかもその予断は極めて数理的に正確なものがあった。
なお、この感覚の転移はいたるところに起こったのである。
この事実はむろん現在のことではないが、実に奇怪の症状といわざるをえない。
予は当時心中に思えらく、今日の生理学や病理学ではとうていこの説明はむつかしい。
将来心霊学の発達によって、真理の開発される折を待つの外あるまい。」
ロンブロゾー博士は言っているのである。
ある人はそういう異常現象をもって人間全体に類推してゆくのはいけない
と抗議する場合もあるが、かかる異常現象は常人の域を超えて
心的能力がいっそう強く発現した場合であるから、
しかもやはり人間において発現した実例であるから、
人間を鼓舞して、常人を超ゆる域に達すべき鼓舞鞭撻の言葉として用いる場合には、
人間の成しえたるかぎりの能力の最高限度の実例を挙げて、
われらの能力をできるだけ強き程度に発現する機会を与えることが肝要なのである。
<感謝合掌 令和2年4月11日 頓首再拝>
聖経『甘露の法雨』の由来 - 伝統
2020/06/13 (Sat) 04:53:53
*『光の泉』(昭和33年12月号)より
聖経『甘露の法雨』は私の万年筆を通して書かれたのでありますが、
然し私が書いたんじゃないのであります。
だから、『甘露の法雨』は何処にも、谷口雅春著とは書いてないでしょう。
『甘露の法雨』というのは、ただ観世音菩薩がお作りになった
真理を歌った詩でありますから、
私は只それの万年筆になり、スピーカーになっただけであります。…
『甘露の法雨』は観世音菩薩の作品ですから、
観世音菩薩の作られた詩とか歌とかいうものには、
観世音菩薩御自身の、精神のリズムというものが其処にうつっている訳であります。
たれでも詩を作ったら、作者の心のリズムというものが
その詩に現れているのは当然であります。
それと同じに、『甘露の法雨』には観世音菩薩の心のリズムというものが
波動しており、観世音菩薩のリズムが、常に『甘露の法雨』からは雰囲気
となって出ているのであります。
それでこれを持っている人は色々の危害を免れることが出来たことには
無数の体験談があるのです。…》
(谷口雅春先生に帰りましょう・第二
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=2935(2020年05月22日)より転写)
<感謝合掌 令和2年6月13日 頓首再拝>
生まれつきの聾唖者が、聖経読誦6ヶ月にして癒える - 伝統
2022/05/03 (Tue) 06:39:56
*「光明道中記」(5月3日《縁者の霊を供養する日》)より
【亡者の霊魂が感憑(かんぴょう)するとその念波の影響を受けて股関節の先天的脱臼、
小児麻痺的現象・・・等々を起す。
(『生命の實相』第十四巻、『人生を支配する先祖供養』)】
生後1年2ヶ月乃至15ヶ月を経ても歩行し始めない幼児は、
小児麻痺か何かの神経的疾患であるかも知れぬ。
小児麻痺の後遺症の手足の不随は、現在の医学では治癒の道がないのである。
併し、生長の家では無数に治癒した実例がある。
それは祖先に対して聖経『甘露の法雨』を毎日一定の時間に
「××家先祖代々親族縁族一切之霊」と数回思念を籠(こ)めて唱えて招霊(よびだ)し
「この聖経『甘露の法雨』により霊界に於て本来神子仏子なる実相を成(じょう)じ
たまえ」と恰(あたか)も生ける人に言うが如く唱えてから『甘露の法雨』を
誦するのである。
1回で効果を現した実例もあるが、数ヶ月を要した実例もある。
それは浮かんでいない縁者の霊魂の悟を開く遅速によるのであって、
予(あらかじ)めその治癒の期限を予告することは出来ない。
生まれつきの聾唖(ろうあ)にして聖経読誦6ヶ月にして耳聴えはじめ、
物言い始めし例もある。
神想観を修して、観中、歩行不能ならざる、既に歩行自在なる実相人間の念像を描いて
精神統一するとき、18年間の歩行不能者が歩行し得るようになったとは
藤岡秀信氏の体験談である。
<感謝合掌 令和4年5月3日 頓首再拝>
【聖経 甘露の法雨】 男性読誦 - 伝統
2022/08/06 (Sat) 11:45:17
【聖経 甘露の法雨】 男性読誦
tmr0423(2021/08/07)
https://www.youtube.com/watch?v=DeuQmYq8Jpo
<感謝合掌 令和4年8月6日 頓首再拝>
【体験談】火葬場で焼け残った『甘露の法雨』 - 伝統
2022/09/25 (Sun) 07:59:23
【体験談】火葬場で焼け残った『甘露の法雨』
聖経の言葉に包まれて天に昇った父
seimeinojissoh(2022/09/15)
https://www.youtube.com/watch?v=bTKJosoTu3w
<感謝合掌 令和4年9月23日 頓首再拝>
【斎藤茂吉氏の霊からの委託】 - 伝統
2022/10/28 (Fri) 09:31:35
*『 理想世界 』(昭和43年7月31日の法語)より
四月十九日の生長の家本部での白鳩会の集まりに横浜の伊藤美喜枝さんが
『白鳩』の誌友である加藤さん宅へ招かれて往った時、加藤さんが
短歌創作の師として仰いでいた斎藤茂吉氏の霊に、聖経『甘露の法雨』を
一緒に読誦してその冥福を祈りましょうということになり、
聖経を読誦して差上げている時に、加藤夫人が霊媒状態となり、みずから
歌人斎藤茂吉氏の霊があらわれ、謹厳な姿勢となって、聖経の読誦によって
自分の霊が救われたお礼を述べられ
「国家の危機に際して、谷口先生に頑張って下さいと言い伝えてくれ」
といわれたことを伝えられた。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7756090
<感謝合掌 令和4年10月28日 頓首再拝>
ハワイ日系第二世部隊の奇蹟谷口雅春先生 - 伝統
2022/11/19 (Sat) 07:55:03
ハワイ日系第二世部隊の奇蹟谷口雅春先生
seimeinojissoh(2022/05/16)
https://www.youtube.com/watch?v=JMgCm-jALJE
<参照>
Web:Medal of Honor
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/other_medalofhonor.htm
<感謝合掌 令和4年11月19日 頓首再拝>
《ハワイ日系二世部隊の奇蹟》 - 伝統
2022/11/20 (Sun) 07:47:11
*Web「生長の家「今昔物語」」(消滅)からの転載です。
(神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.52-55))
しかしこのような奇蹟は個人に関する霊験の片鱗(へんりん)であって、
もっと重大な奇蹟は終戦当時及びその後、日本国家の運命に及ぼした『甘露の法雨』の
偉大なる事蹟(じせき)である。
私は終戦の翌々年八月北海道登別温泉の第一滝本舘本館の大広間で、
終戦後の北海道講習の第一声を挙げた。
ホテルの大広間は寿司詰めに坐ると五百人ばかり入れるのである。
集まる人が激減している終戦直後ではこの位の講堂で間にあったのである。
午前の講習を終わって昼食をしたためていると、
係りの人が、「先生、アメリカ軍の将校の人が先生にお目にかかりたいと言って来ています」
というのだった。・・・彼はハワイ生まれの日系第二世の将校であった。
彼は私の顔を見ると、嬉しそうな表情をして、
「先生、今度の戦争でヨーロッパ戦線で勝利を得た民族はどこの民族ですか知っていますか」
と言った。
「知らないよ。それは、何処の民族だろうね」と答えると、
かれは意気軒昂(いきけんこう)というような身振りをしながら、
「それは、日本民族ですよ」と言った。
「それはどういう意味ですか」と私は思わず言った。
するとそのアメリカ軍将校は大体次の様な事を話してくれた。―――
ヒットラー・ドイツを制圧するために連合軍が組織されて多くの船団に各国の兵隊を乗せて
ヨーロッパ戦線に送られて行ったけれどもどこにも適当な上陸地点がないのであった。
そこで、最初に上陸の地点として選ばれたのがイタリーの南端のシチリー島であった。
ところがそこは天然の岩窟(がんくつ)の陰になっているところに要塞(ようさい)が
築かれていて、そこに砲塁(ほうるい)や機関銃座が沢山据えつけてあり、
上陸用舟艇がある距離まで近づいて行くと、其処に、砲弾・機関銃弾が集中して、
どの民族の部隊も全滅して上陸することが出来なかった。
最後に選ばれて上陸を敢行(かんこう)したのが、ハワイの日本民族第二世の部隊であった。
日本民族第二世の部隊が召集されることになると、
当時、ハワイの生長の家白鳩会の会長をしておられた宮川和子さんは、
英訳の『甘露の法雨』をたくさん印刷してそれに神想観して祈りを篭(こ)め、
応召出陣する第二世の兵隊さんのポケットにそれを一部づつ入れてやった。
そこでそれらの日本民族第二世の兵士たちは“われ『甘露の法雨』と倶(とも)なり。
不死身の軍隊なり”という自覚で難攻不落のシチリー島に弾丸雨注する中で勇敢に上陸を
試みた。
ところが、『甘露の法雨』を携帯しているために弾丸が不思議に中(あた)らない。
中には『甘露の法雨』に明らかに機関銃弾が命中しながら、それを貫通することが出来ないで、
そこで弾丸が止まってしまっていて、肉体は傷ついていない人も大分ある。
英訳の『甘露の法雨』は日本文のそれのように硬いサックも表紙もなく、ただ白紙に、
新聞の五号活字位の大きさで印刷されているので、極(ごく)薄い紙片にすぎない。
それを弾丸が貫通しなかったのだから奇蹟というほかはない。
このような奇蹟があって、多勢の日本部隊がシチリー島に上陸することを得て
橋頭堡(きょうとうほ)が築かれ、続々と連合軍が上陸することが出来、
北上してイタリーのムッソリーニを仆(たお)し、さらに北上してヒットラー軍を
制圧して速やかに連合軍が勝利を得ることが出来たのであった。
常にこの日本民族第二世の部隊は、難処に至るほど勇気を鼓して先頭に立って奮戦し
連合軍を有利に導いて偉大なる戦功を樹てたのであった。
これ全く『甘露の法雨』のお蔭であるということであった。
私は、その時にはその報告の事実だけをただ素直に受け取っただけであって、
それがその後に及ぼす驚くべき影響については気がつかなかった。
だいたい大東亜戦争は、真珠湾集結のアメリカ太平洋艦隊に対する日本海軍の先制空襲に
よって始まった。それゆえに、日本に対するアメリカ側の憤(いきどお)りは実に
熾烈(しょくれつ)で、
アメリカ領のハワイ生まれの日本人第二世は、“アメリカ人”として市民権を本来持って
いるのだけれども、風当たりは烈(はげ)しくて色々の差別的な待遇を受けたそうである。
だから宗教でも、日本から往っている宗教の布教や集会は全然禁止せられた。
仏教の僧侶は勿論のこと、キリスト教会ですら、日本から往っている宣教師のいる教会で
は集会は禁止せられた。
生長の家も当然布教が禁止さるべきであったのである。
ところが英訳された『甘露の法雨』を米軍の検閲官が読んでみて、
「この宗教は、どこも悪いところはないではないか、布教しても宜しい」ということになって、
生長の家のみハワイは勿論アメリカ本土に於いても布教が許可されることになったのである。
ここに深謀遠慮(しんぼうえんりょ)の神さまの救済の摂理があったのである。
もし生長の家の布教が許可されていなかったら、ハワイ白鳩会長の宮川和子さんは、
英訳『甘露の法雨』を日本人第二世の兵隊に持たせることは出来なかったであろうし、
日本人第二世の部隊は『甘露の法雨』に敵弾が当たりながら貫通する事が出来ず、
傷つかずに、無事にシチリー島に・・・(以下省略)
<感謝合掌 令和4年11月20日 頓首再拝>
《大東亜戦争に際して》 - 伝統
2022/11/21 (Mon) 07:46:48
*『白鳩』(昭和37年4月号74頁)より
大東亜戦争のときに於いて、
連合軍が欧州戦線を速かに収拾せんがために出動したけれども、
適当な上陸地点がない。
イタリーの南端シチリー島を上陸地点として選んだが、
其処には堅固無類のトーチカ陣があり、
白人の軍隊も黒人の軍隊も皆全滅した後に、最後に選ばれたのが、
ハワイの日本民族第二世の軍隊で、時の生長の家ハワイ白鳩会長たる
宮川和子さんが祈りをこめた生長の家の聖経『甘露の法雨』を
ポケットに入れ、
「我れ『甘露の法雨』と共にあるから敵弾では傷つかない」との
信念をもって上陸に成功し、『甘露の方雨』に機関銃弾が当りながら
傷つかなかった兵隊が沢山あったと云うのである。
その為に連合軍が速やかにヒットラー軍を爽撃して
欧州戦線を収拾することができたのでありました。
このためアメリカでは
「こんな速かにヨーロッパ戦線が片付いたのは日本民族のお陰だ」とて
日本民族に対する尊敬と好意の念がさかんに起ったので、
戦後、内地の日本人が食糧に困窮し産業資金に窮乏している時に、
ガリオア資金の名の下にて食糧を供給してくれたり、
エロア資金の名の下に日本の産業復興資金を供給してくれたりして、
現在のように天之岩戸景気から更に行き過ぎて
レジャーブームを湧き立たせる程になったのも、
日本の重大時期に際して聖経『甘露の法雨』を吾々に授けられた住吉大神が
如何に日本民族に恵福を与えるために活動せられたかが分るのであります。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/61
<感謝合掌 令和4年11月21日 頓首再拝>
「甘露の法雨」講義(その1)~:徳久克己 - 伝統
2023/08/01 (Tue) 13:11:39
「甘露の法雨」講義(その1)~:徳久克己
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/tokuhisa/player/sound001.html
<感謝合掌 令和5年8月1日 頓首再拝>