伝統板・第二
和 ③ - 夕刻版
2018/12/16 (Sun) 19:42:10
《すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる》
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より
なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。
また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)
これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。
薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。
ヨブは 「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。
多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。
何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。
真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。
なんじ知れ 「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。
すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。
誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。
カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)
「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。
わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患が
かく分析してかく導いたら治ったと導き方を多数の実例をあげて
書いておいたのである。この書をメニンジャー博士に捧げたい。
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「「和」 (8455)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1588
(2)伝統板・第二「和」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6612800
(3)伝統板・第二「和 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7537246
<感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>
《他の人と和解するためには》 - 伝統
2018/12/21 (Fri) 19:07:44
*『人生の秘訣365章』第8篇(P199~200) より
人と和解するには怺えたり我慢して
表面だけ仲よくしているような事ではよくないのである。
相手と不調和になっているのは、
相手の立場に立って見る広々とした寛容の精神が乏しく、
自分の立場からのみ一方的に事物を観るためであることが多いのである。
同一のものでも立場が異なると、別の姿に見えるのである。
それは人間でも正面から見るのと横顔を見るのと、後姿を見るのとでは
全然別の姿に見えるのと同じである。
しかしその姿は、いづれも本当にその人の姿であって、別のものではないのである。
自分の立場《だけ》に立って物を見るときそれは一方的な偏狭な観方となるのである。
凡(およ)そ、相手の立場に立って考えてやるならば、
相手に同情できるし、腹の立つこともないのである。
<感謝合掌 平成30年12月21日 頓首再拝>
すべての人と調和することにより神と調和し、神からの叡智が流れ入る - 伝統
2018/12/23 (Sun) 19:25:02
*「光明道中記」(12月23日 明朗歓喜の日)より
【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。(『生命の實相』第四巻)】
人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。
心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。
心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。
失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、調和の心と、強さの心とである。
では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、吾々は神と調和することが出来るのである。
神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。
<感謝合掌 平成30年12月23日 頓首再拝>
「本当の和解」 - 伝統
2019/01/01 (Tue) 18:06:31
*『人生の秘訣365章』第8篇(P200~201) より
《祈りは、このようにしてきかれる》
金光教の高橋正雄先生は、最早故人になられたが懐かしい人のひとりである。
その機関誌『生(せい)』の中に書いておられたが、
或る人が四国遍路をして、もうとっぷり日が暮れて来たが、
田舎道で宿屋など見つからないのである。
一軒の百姓屋のような家を見つけて、そこの戸を叩いて一夜の宿を乞うたのであった。
百姓屋の主人が出て来て
「泊めてあげたいけれども、都合が悪いことがあるので、帰って下さい」
というのであった。
遍路の旅人は仕方なしに家から出て数十メートル程あるき出したが、
何を思ったか、振り返ると、その家の方を向いて合掌した。
そして、こういって祈ったというのである。
「この家の人が私を泊めてくれないのは、
物質的に乏しいか、精神的に乏しいかどちらかに違いありません。
神様どうぞこの家の人たちを、物質的にも精神的にも裕にならせてあげて下さい。
ありがとうございます」
旅人はこのように祈って踵を返して歩き出した。
すると間もなく、後方(うしろ)から旅人を呼ぶ声が聞えた。
旅人は振り返ってみると、先刻、宿を断った主人であった。
主人は「先刻は失礼なことを申しましたが、あなたが、行きかけて振返って私の家を
拝んで下さったのを見ると、どうしても私はあなたを泊めてあげずにはいられない
気がしましたので、どうぞ戻って来て泊まって下さい」というのであった。
「本当の和解」というものはこのようなものである。
冷たくされた相手の人の幸福を神に祈ってあげることである。
本当に祈りが徹底すれば敵と見えた者も強力な味方となるのである。
<感謝合掌 平成31年1月1日 頓首再拝>
《何故、平和を求めながら争いの世界が消えないか》 - 伝統
2019/01/03 (Thu) 18:47:56
*『人生の秘訣365章』第11篇(P281~282) より
何故(なぜ)、多くの人々は平和なる世界 ――
人々互に調和し親睦せる世界を求めながら、かくも互いに闘争し、
虎視眈々として他の人の弱点を見つけて攻撃したがっている世界が
展開しているのだろうか。
それは彼らが“神”を忘れており、“神”は愛であり、
自分自身が神より出でたる“神の子”であるという
實相をわすれているからであるのである。
換言すれば本来“神の子”であるのだけれども、
幼い時に迷い児となって、無宿のヤクザかルンペンになっていて、
自分の生まれた家の家系を知らないようなものである。
そして、互いにヤクザ同志のつもりで喧嘩をするのである。
人間本来“神の子”の系譜をハッキリ全人類に知らせてあげるならば、
神の愛が各々の人々の心を満たし、そんな争いは消えてしまうのではないだろうか。
<感謝合掌 平成31年1月3日 頓首再拝>
争わないこと - 伝統
2019/01/12 (Sat) 19:33:09
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より
苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。
われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。
われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。
真空を超えてさらに高く?翔(こうしょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。
わたしはこれをこう考える ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。
一つの立場に立つかぎり、「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。
球体の眼球(がんきゅう)を有するわれわれは、穹窿(あおぞら<きゅうきゅう>)は
球状であって宇宙も球状であると考える。しかしその考えをわれわれがもし三角ガラスの眼を
もった人種に強(し)いるならばまちがいである。
宗派を立ててはならぬ。偏狭がいっさいの争いの因(もと)である。
神のうちには争いはない。神はいっさの争いを、いっさいの背反を包容している。
釈迦が未(いま)だかつて何々宗という仏教を説いたことはなかったのである。
何々宗という多数の宗派は釈迦滅後に生じたのであって、いっさいの背反を包容する
超越的立場が失われたときに生じたのである。だから釈迦は宗派争いをしたことはない。
ただ後世の仏徒 ―― いな反仏徒が宗派争いをするのである。
宗派ばかりではない。
個人の生活でも争いができるのは、
おおむね超越的立場から墜落した者の挑戦から来るのである。
<感謝合掌 平成31年1月12日 頓首再拝>
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる - 伝統
2019/01/14 (Mon) 19:55:21
*「光明道中記」(1月14日 微笑を楽しむ日)より
【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
(『生命の實相』第一巻)】
優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。
赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。眼の光が澄むようにならなければ、
その人はまだ本物ではないのである。
澄んだ中にも色々の光がある。その光が色々の内容を語っている。
智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、慈愛に輝いている眼、
みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。
争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。
世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。
やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。
人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。
<感謝合掌 平成31年1月14日 頓首再拝>
仲のよい心が日の丸の心である - 伝統
2019/02/03 (Sun) 19:49:17
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より抜粋
人が人と仲よしになれないのは、幸福というものはただ「心の愉快である」ことだという
かくも平明な真理に眼を閉じていて、幸福というものがなんじの心の愉快にあるのでなく、
物の多いということにあると考えたり、虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、
物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。
傲慢ということはかかる心持を云うのである。
謙虚、《へりくだり》の心持は正直に事物をまともに見る心である。
まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。
放たねばならぬ物は素直に放つ心である。
本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、
こちらに隔(へだ)て心があるからである。
隔てのない心。角のない心。仲のよい心。○(まる)い心。○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。
<感謝合掌 平成31年2月3日 頓首再拝>
人・時・処、三相応して調和 - 伝統
2019/02/07 (Thu) 20:13:54
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より
才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても人望を集めえない者は《天の時》を得ることができない。
天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。
なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。
何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。
才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を羨(うらや)んで不平に思ってはならない。
唯物論の人は物質的働きしか見えないから無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。
無為人とは何もしない人ではない。
そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。
諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。
礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。
才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、周囲と調和しない人か、不平の人か、
長上のものに親しく近づいて行くことをおべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、下の人には深切であるが
上の人には恭(うやうや)しくない人かである。
栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の三相応が備わらなければならない。
人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。
下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、
それは人時処(じんじしょ)の三相応を破るものであり、
大調和を毀すものである。
一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。
下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。
ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、落ちるまでは不安なばかりである。
雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、
すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。
<感謝合掌 平成31年2月7日 頓首再拝>
敵は自分の心の中に - 伝統
2019/04/02 (Tue) 19:16:31
《エデンの楽園に還帰する道》
*谷口雅春著『人生の秘訣365章』第2篇(P47) より
青年の非行化、少年の不良化、酒場に於ける乱舞、全学連の騒擾(そうじょう)、
自動車やダンプカーの暴走 ―― 結局、これらを一々取締ろうとしても、
そのもとを刈り取らなければ、源流を浄めずして下流の濁水を清めることが
不可能な訳なのである。
その源流とは何であるか、それは唯物論的人間観なのである。
換言すれば「人間は死すべきもの」という潜在意識の前に震えながら
乱舞を繰返している憐れなる姿なのである。
即(すなわ)ちこれこそ、“蛇の智慧”を食して楽園から追放された
人間の気の毒にも憐れなる姿なのである。
私たちが、この悲惨なる人間苦の世界から再び實相のエデンの楽園に
還帰し来(きた)るためには、「人間は唯物論的存在である」という
迷妄から目覚めて、人間は霊的存在であるという
實相を悟らなければならないのである。
これを佛教的に謂うならば
「衆生、却尽きて大火に焼くると見るときにも、
わが此土(このど)は安穏にして天人常に充満せり」という
「法華経」に示されたる天人充満の實相浄土が、
今既に此処にあるのだと悟らなければならないのである。
・・・
《敵は自分の心の中に》
*谷口雅春著『人生の秘訣365章』第2篇(P47~48) より
「憂怖諸々の苦悩充満せり」(「法華経」自我偈)と見える現象世界に生活しながら、
その地獄的状態から脱出する道は、「その状態から脱出する」のではなくて、
自分自身そのものが自分の迷妄から脱出しなければならないのである。
そして釈尊が仰せられた「わが此土は安穏にして天人常に充満せり」
という世界を自分の心で観なければならないのである。
心に“戦いの世界”を見、心に“敵の存在”を見ながら、
戦争を停止しようという努力は概ね無効に帰するのである。
何故なら“戦争”は外界にあるのではなく自分の心の内にあり、
“敵”は外界にあるのではなく自分の心の内にあるからである。
しかし此の事を悟った後に実際生活上、如何に為すべきかは、
神からの指示によらねば中々むつかしいのである。
やはり神想観を実修して神との一体感を深め、
神の叡智を呼び出さねばならぬのである。
<感謝合掌 平成31年4月2日 頓首再拝>
《平和と調和の神》 - 伝統
2019/04/04 (Thu) 19:50:08
*「光明法語」(4月4日)より
ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。
神は平和にして調和の智慧なるかな。
空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、
調和して運行するかな。
神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちて
すべてのものを調和と平和に導き給うことをわれは知るがゆえに、
わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。
<感謝合掌 平成31年4月4日 頓首再拝>
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である - 伝統
2019/05/17 (Fri) 22:26:27
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より
おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。
「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。
現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。
神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。
調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。
<感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>
「和」のあるところに害はない - 伝統
2019/05/23 (Thu) 18:39:29
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より
一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。
火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。
「和」のあるところに害はない。
いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。
胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。
<感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>
調和とは、柔かい心で一切を受け容れながら、弾ね返す力も有す - 伝統
2019/06/06 (Thu) 19:37:18
*「光明道中記」(6月6日《心やわらかになる日》)より
【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
柔かい心で一切を受け容れること。
上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。
一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。
弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。
先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。
而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。
柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。
調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。弾ね返す力がなければならない。
<感謝合掌 令和元年6月6日 頓首再拝>
一切調和の世界観をもつ - 伝統
2019/07/21 (Sun) 19:23:39
*「光明法語」(7月19日~21日)より
七月十九日の法語 霊は物質を支配す
生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。
ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。
実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。
・・・
七月ニ十日の法語 黴菌の使命
黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。
だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。
それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。
・・・
七月ニ十一日の法語 争闘の世界観を捨てよ
かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。
人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。
<感謝合掌 令和元年7月21日 頓首再拝>
親鸞の大調和な心 - 伝統
2019/09/03 (Tue) 20:41:45
*「光明道中記」(9月3日《争いの自然に消ゆる日》)より
【雑念は心を澄み切らす働き、雲は空気を澄み切らす働き。
(生命の實相第八巻)】
(歎異抄十二条)
学問をむねとするは聖道門(しょうどうもん)なり、難行となづく。
あやまて学問して名聞利養(みょうもんりよう)のおもひに住するひと、
順次の往生いかがあらんずらんといふ証文(しょうもん)もさふらふべきや。
当時、専修念仏のひとと聖道門のひとと、諍論(じょうろん)をくはだてて、
わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵も出できたり、
謗法(ぼうほう)も起こる。
是併(これしか)しながら、
自(みずか)らわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。
親鸞聖人が易行門を立てられたのは、聖道門よりもわが宗旨まさっているとして
それを誇るためではなかったのである。
自分が下根の凡夫である、一文不通のものであって、
一切の蔵経を調べあげ研究しあげたすえに救われるのであったならば、
到底そんな智慧学問は無いところの吾らであるから、
救われようがないからこその易行門の信仰なのである。
聖道門を相手にまわして易行門の優越性(すぐれているところ)を説いて、
ひとの宗教は劣っているなどと説くから法敵も出で来たり、
法を謗(そし)る人も出来て来るのである。
だから他宗を攻撃するのは、天に対(むか)って唾するようなもので、
自宗に対して傷つけることになるのである。――
こう言って親鸞は当時日蓮の「念仏無間(むげん)・禅天魔」の批評をも
黙殺してかかられた。
誠に大調和のお心であった。
<感謝合掌 令和元年9月3日 頓首再拝>
下手に出て諍(あらそ)うこと勿れ - 伝統
2019/09/04 (Wed) 18:51:57
*「光明道中記」(9月4日《有り難く其の儘受ける日》)
【如来は一体である。一仏即多仏である。(生命の實相第六巻)】
(歎異抄十二条)
たとひ諸門こぞりて、念仏は甲斐なきひとのためなり、
その宗あさし卑しといふとも、さらにあらそはずして、
われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの信ずればたすかる由、
うけたまはりて信じさふらへば、更に上根のひとのためには
卑しくとも、われらがためには最上の法にてまします。
たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには、
器量およばざればつとめ難し。
われもひとも生死をはなれんことこそ、
諸仏の御本意にておはしませば、御妨げあるべからずとて、
憎ひ気(げ)せずば、誰のひとかありて、仇をなすべきや。
かつは、諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、
智者遠離すべきよしの証文さふらにこそ。
この一節には当時親鸞聖人の念仏門の教に対して
色々の非難や攻撃があったことが窺われるのである。
親鸞聖人はそれに対して
「われらが如く下根の凡夫は」と
下手に出て諍(あらそ)うこと勿れと諭されたのである。
「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる」とて
智者はかかる諍(あらそ)いより遠ざかるべきを示されたのである。
諍(あらそ)いに勝ちたりとて救われるのではない。
此のまま此の世が阿弥陀仏のお浄土であると、
その実相を拝ませていただくとき救われるのである。
<感謝合掌 令和元年9月4日 頓首再拝>
諍(あらそ)うこころを捨てせしめよ - 伝統
2019/09/05 (Thu) 19:38:21
*「光明道中記」(9月5日《神の慈手に抱かれる日》)
【汝の悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ(生命の實相第十一巻)】
(歎異抄十二条)
故聖人(親鸞)のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、
そしる衆生もあるべしと、仏説き置かせたまひたることなれば、
われはすでに信じたてまつる。
またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。
しかれば往生はいよいよ一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。
あやまつてそしるひとのさふらはざらんにこそ、
いかに信ずるひとはあれども、
そしるひとのなきやらんともおぼえさふひぬべけれ。
かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。
仏のかねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねを知ろしめして、
ひとの疑ひをあらせじと、説きをかせたまふことをまうすなり
とこそさふらひしか。いまの世には、学問してひとのそしりをやめ、
ひとへに論議問答むねとせんと、かまへられさふらふにや。
更に茲には親鸞聖人の法を謗(そし)る法敵さえも仏の予言の中に、
従って仏の摂理(おはからい)の中にある事を示して、
諍(あらそ)うこころを捨てせしめようと云う用意が見られるのである。
学問して他に論(い)い勝とう議(い)い勝とうと思うこころは
余りにも脳髄智識によって人が救われるならば諸々の智者学者は救われた
であろうが、救いは貧しきもの愚かなものに示されるのである。
<感謝合掌 令和元年9月5日 頓首再拝>
《平和と調和の神》 - 伝統
2020/04/04 (Sat) 23:24:46
*「光明法語」(4月4日)より
ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。神は平和にして調和の智慧なるかな。
空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、調和して運行するかな。
神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちてすべてのものを調和と平和に導き給うことを
われは知るがゆえに、わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。
<感謝合掌 令和2年4月4日 頓首再拝>
和解のための祈り - 伝統
2020/04/08 (Wed) 23:58:22
*「生長の家」昭和39年6月号(P14~15)より
・・・・問題が起こって自分の力ではどうすることも出来ない、
右するも左するも助かりようがないと思われる行詰りの状態になった場合にも、
解決の道はない事はないのである。
何故なら実相の世界においては「行詰り」ということもなく、互に矛盾撞着した目的で
争うなどということはあり得ないのである。
神想観を実修して、一切を調和した状態において解決したまう神の慈手にその問題を
ゆだねよ。
そして既に、自分も相手の人たちも互に損することなく悪辣なことをすることもなく、
どちらも正しく道徳的な行動をとりながら一切が調和して解決されている実相大調和
を観ずるようにする事が必要である。
相手が自分に対して悪意ある計画をしている場合には、合掌瞑目して相手の顔を眼の
裏に描きながら・・・
『彼と我は、神において一体である。
神の愛が彼と我とを引き包んでいるのである。
彼のうちにも、神の愛が宿っており、
私のうちにも神の愛が宿っているのである。
愛は互に理解するのであって
決して誤解することはないのである。
愛は相手を憎まない。
愛は調和である。
愛は裏切らない。
愛は自分の利益のために
相手を傷つけようとはしないのである。
神の愛が彼を引き包み、
彼のうちにある愛を引き出したもうが故に
彼の私に対する悪意は消えてしまったのである。
今私は、彼にやどる神を拝み、
彼は私に宿る神を拝むのである。
今や一切の誤解は消え、恨みは消え、
悪意は消え、互に今は相愛し、
好意をもって相手を祝福し得るのである。
私は彼の幸福を祈り、
彼は私も幸福を祈るのである』
( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17949914.html 消滅)
<感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>
《戸締りをせず、相手を誘惑するようなスキを造るのは罪悪である》 - 伝統
2020/04/16 (Thu) 19:04:41
*『白鳩』(昭和47年4月号)より
戸締りの錠が破られて盗賊が侵入しないのは、
やはり 「力のバランスの原理」 によるのである。
“力のバランス” が破れて、盗賊の方の錠前をねじ切ったり、
巧みなる合鍵を操作したりする力がすぐれていたならば、
盗賊は忍び入って、その家の財宝を盗むことになるのである、
戸締りの錠前がチャチな脆弱なものであっては、
強力な錠破りの専門家の賊にかかっては何の役に立たないのである。
それは “力のバランス” の物理的関係である。
さらに、戸締りを全然しないで、玄関の格子戸があいた侭で
外出したりしているような場合には、盗みの常習犯でなくとも、
一寸その格子戸の中を覗いてみたいような誘惑を感じ、
中へ入って見ても誰もいないのに、其処に立派な宝石でも
置いてあるのが眼につくと、思わずそれがほしくなって、
それを懐に入れて走り出すかも知れない。
これは 「戸締りしない人」 の方に
「盗心を誘い出した罪」 を犯した過ちがあるのである。
戸締りをしないことは、そのような業を発動せしめる
環境をつくることになるのであるから、
やはり丈夫な戸締りは必要なのである。
軍備もその意味に於て、
相手に “国土を盗みたくなる” 業 〈空地領有本能〉 を
発動せしめないために必要なのである。
スキを自宅 〈又は自国〉 につくって、そのスキから
侵入したくなるような本能を誘惑することは寧ろ罪悪だと
いわなければならないのである。
単に、一人一人の心の中だけで
「相手国は平和国家だから決して侵入しない」 と念ずるだけの事で
平和が保てるような甘い考えは間違いである。
そう言えば 「念ずる通りにあらわれる」 「想念は現実の母」
などという “心の法則” や “唯心所現の哲学” は単なる
机上の空論なのかと反駁して来る人があるかも知れないが、
これは決して机上の空論ではないのである。
全世界に平和を “心の力” でもち来たすためには、
全世界の殆ど全部が 「この世界は神につくられた世界であり、
人間は皆 “神の子” であって互に兄弟姉妹であるから
決して侵し犯されるような事はない。 敵というものは存在しないのだ」
という深い信念をもつようにならねばならぬ。
全人類のそのような深い信念の具象化によってのみ、
全人類の世界に永久の平和がもち来されるのであって、
全人類がそのような信念に到達するには、まだまだその時期は
今後さらに遠き未来に属することなのである。
全人類がまた心中に仮想敵をもっている限りは、
その信念の具象化として戦争も起り、防衛のための軍備も必要なのである。
全人類の大多数は今も、仮想敵国、又は潜在敵国というものは
存在するのであるから軍備を忘れてはならないという信念
をもち続けて来ているので、
日本を除く世界各国は悉く 「その国の独立と平和のためには
国防のための軍事力を保持することが不可欠である」 という大前提の下に、
防衛の方法や軍備力の規模などが国民的論議の対象となっていて、
それについて国会で予算を計上することを当然のこととしていて、
それを 「軍国主義だ」 などといって、
国内でも国外で批難されることはないのである。
「非武装平和論」 をとなえる社会党にしても、
やはり心の中に 「敵」 とか 「戦争勢力」 の存在をみとめていて、
アメリカを戦争勢力であるといい、ソ連や中共を平和勢力であるという
不可思議な対立抗争の観念をもっているのであるから、
やはりそのような対立抗争の観念又は信念の具象化として、
いつの日か、何処かに戦争が具象化することは “唯心所現” の法則として
避けることは出来ないのである。
そして戦争が不可避であるとするならば、戦力の乏しい方が敗けて、
みじめな目を見るのは当然であるのである。
戦争が将来起る可能性がある限り、防衛のための兵器による戦力が必要であり、
「非武装平和論」 など何の役にも立たないことが明かなのである。
(http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25639827.html 消滅)
<感謝合掌 令和2年4月16日 頓首再拝>
《軍備・戸締り論》 - 伝統
2020/04/17 (Fri) 19:09:52
*『白鳩』(昭和47年4月号)
“敵” と見るから、相手が “敵” としてあらわれて来るのであって、
実相に於ては敵はない、すべての人間はみんな “神の子” で、
互いに兄弟姉妹であるから侵入して来る敵もないから、それを防ぐ軍備は必要ではない。
軍備は必ず敵を仮想しての上であるから、敵を想えば敵が出て来る。
だから敵を想わず従って軍備をつくらず、これが最高の国防である。
それなのに生長の家で軍備の必要を説くのは自己矛盾ではないか
―― という投書もある。
実相観に立てば、いちいち御もっともなことばかりであるが、
それは全世界のすべての人々が敵を観ないで、 「みんな “神の子” の兄弟だ」
という実相だけを観得る境地になり得たときに軍備は不要となる。
そのような時が成るべく早く来るように吾々は
「みんな神の子」 の実相哲学をひろめるのに懸命であるが、
いまは、まだ “時” 到らず、機熟せず、人至らず、所を得ずである。
なかなか日本国内だけでも互に敵視して、
権力の争奪戦、利欲の争奪戦をやっているのである。
もし国内に警察というものが無ければ、治安の維持が出来るかすこぶる疑わしいのである。
たびたび言い古された問題であるが、 「軍備・戸締り論」 というのがある。
もし戸締りがなく、門戸に錠をおろさずに自由に這入れるようにしておいたら、
人は誘惑を感じて戸内に入って見たくなり、其処に財布でもあるのに目がついたら、
ついにその財布を自分のふところに入れて持って来たくなり、
却ってその人に “盗み” の罪を犯さしめるに至るのである。
だから “取締り” をつくらない事が実相の完全さをあらわすことにならず、
取締りを造って、侵入の誘惑を感ぜしめないようにして置くことこそ
実相の完全さをあらわす 「勝方便」 となるのである。
軍備というものは、凡ゆる力と形とがバランスを得て大調和し、
互に侵す者なき実相の世界を現実にあらわすための方便として、
「力のバランス」 を得さしめるために必要なのである。
バランスが崩れるとき、現象界には実相世界の調和が消え、
破壊と混乱が生ずるのである。
実相の調和せる世界は、中枢に統一意識の中心 (神) は在まし、
形のバランスを得、力のバランスを得、
そこに微妙な美しい美を実現せる世界なのである。
その実相世界の美しき構図を現象世界に実現し、
それを現実化するためには、形のバランス、力のバランスを得た構図が
地上に実現することを要するのである。
形と力のバランスが得られたとき、そこに実相的構図の美が展開し出ることは、
生花の構図が、中心があり、中心に帰一しつつ、
枝や花や葉の形と力のバランスが得られて、抜き挿しならぬほどに
精巧なバランスが完成しているとき、その生花は傑作だと言い得るのである。
それと同じく、人間同志の関係や、国際的な国家と国家との関係も、
形と力のバランスが得られてこそ、実相世界 (天) の美を反映した
現実界 (地) として、調和せる世界を実現し得るのである。
これが “御心” が天になるが如く地に成らしめることなのである。
それならば、この現実界も形のバランスと、力のバランスが得られることが
必要なのである。 それは看易き道理である。
国際的に形のバランスと、力のバランスの得られた状態こそ、
実相世界の映し絵としての現実世界だということが出来るのである。
実相世界の映し絵として国際的に形のバランスを得るとは、
国土の形とか、領土の形というよりも、
世界各国の政治形態のバランスが得られることである。
隣国と力のバランスを得しめるための軍備というものは、
このような意味に於て “神の御心” にかなうものであり、
是非その維持が必要なのである。
(http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25635026.html 消滅)
<感謝合掌 令和2年4月17日 頓首再拝>
「和」のあるところに害はない - 伝統
2020/05/23 (Sat) 23:09:53
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より
一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。
火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。
「和」のあるところに害はない。
いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。
胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。
<感謝合掌 令和2年5月23日 頓首再拝>
天下無敵の祈り - 伝統
2020/06/25 (Thu) 23:32:58
*『理想世界ジュニア版』(昭和52年11月号)より
(粟野真弘のblog<2020年05月09日>)
神さま、あなたは天地の万物をお造りになりました。
わたしも神の子としてあなたがお造りになりました。
それだから私は天地万物と兄弟姉妹であります。
だから敵は一つもありません。みんな味方であります。
すべての人も動物も植物も田畑の野菜も、果樹園の果物も
みなわたしの味方であります。
どんなバイキンもビールスも味方でありますから私を害することはできません。
ああ、この世界ぜんたいが私を生かしてくれています。
ありがとうございます。
(http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/54606710.html)
<感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝>
一切調和の世界観をもつ - 伝統
2020/07/21 (Tue) 19:33:39
霊は物質を支配す
*「光明法語」(7月19日)より
生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。
ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。
実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。
・・・
黴菌の使命
*「光明法語」(7月20日)より
黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。
だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。
それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。
・・・
争闘の世界観を捨てよ
*「光明法語」(7月21日)より
かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。
人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。
<感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>
《物質によっては平和は来らず》 - 伝統
2020/07/25 (Sat) 19:00:26
*『人生の秘訣365章』第2篇(P48~49) より
神は愛であり、愛が自分の心のうちに湧いて来るとき、
それが愛行と具体化して人類を救うことができるのである。
愛は復活の力である。
それは性愛のことではないのである。
如来の聖愛であり慈悲の愛である。
一人でも地上の人間を苦しめてはならないという神の無限の愛である。
唯物論的な心を棄て去れ。
「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能わず」
と聖経『甘露の法雨』には示されているのである。
物量にものを言わせて、相手を屈服せしめることによって
平和をもち来そうと思っても、それは「物質に神の国を追い求むる者」
であるから結局その目的を達することはできないのである。
物質的繁栄の国アメリカの悲哀はそこにあるのである。
<感謝合掌 令和2年7月25日 頓首再拝>
《真の平和は、實相を観ずることによって得》 - 伝統
2020/07/27 (Mon) 23:03:27
*『人生の秘訣365章』第2篇(P49~50) より
毎日、そして毎刻、あなたの心の世界に神を念ぜよ。
「神があらわるれば乃ち善となり、義となり・・・調和おのづから備はり、
一切の生物處を得て争ふものなく、相食むものなく・・・」と
聖経は示し給うているのである。
常に神を念(おも)うことなく、常に敵と、戦いとのみを念うことによっては
調和ある平和の世界は実現のしようはないのである。
私たちは常に「敵の無い世界」「争いのない世界」のみを
想見(そうけん)しなければならないのである。
聖経『天使の言葉』には、
『實相世界の住居(すまい)は悉くこれ「生長の家」なれば、
住民(すむひと)に飢ゑなく、悲しみなく、争ひなく、病なく、
萬(よろず)の物ことごとく意(こころ)に従って出現し、用足りておのづから姿を消す。
圓満具足清浄微妙の世界、これ實相世界、これ汝らの世界、このほかに世界あることなし。』
と示されているのである。
この聖句を「法華経」の「衆生劫盡きて大火に焼かるると見る時にも
わが此土は安穏にして天人常に充満せり」と対比してみるとき、
「このほかに世界あることなし」の意が津々(しんしん)として
無限に深い意味をもって感得できるのである。
<感謝合掌 令和2年7月27日 頓首再拝>
《方便と行動を失った信仰は空念仏》 - 伝統
2020/07/28 (Tue) 20:06:51
*『人生の秘訣365章』第2篇(P50) より
「観世音菩薩行法経」には
「無量の勝方便は實相を思うより得」と示されているのである。
實相世界の「一切の生物處を得て争うものなく相食むものなき」永久平和の世界は、
決して毀(やぶ)れることはない常住の世界であるけれども、
その「實相を思う」又は「實相を観ずる」ことだけで、
實相世界の永久平和の世界が実現するのではないのである。
「無量の勝方便は實相を思うより得」という普賢経の意味は、
實相を思うとき、實相の円満完全な姿が
実現するための勝れたる方便、過程、手段が
自然に思い浮かんで来て、それを実行することによって、
實相世界の完全円満な風光が現実化して来るという意味である。
「實相を思う」ことなしに、人間智 ―― 単なる頭脳智によって、
永久平和の世界を来らしめようと思っても、
人間智は、一寸先を予知することのできない
黒闇(くらやみ)の智慧であるから、善と思ってしたことが、
その結果が悪に転ずることが度々あるのである。
<感謝合掌 令和2年7月28日 頓首再拝>
《天地一切のものと和解して神に祈ること 》 - 伝統
2020/07/29 (Wed) 18:44:41
*『人生の秘訣365章』第3篇(P72~73) より
現象界にどんな複雑な問題が起って来たにせよ、
それはすべて自分の“心の影”なのであるから、
自分の心を転ずれば問題は変化して来、
自分の心を解決すれば問題も解決するのである。
先す自分が天地一切のものと和解する神想観をなし、
現象界には敵とみとめられるものにも感謝する心になり、
而して後、その問題を神にゆだねるがよいのである。
神にゆだねることをしても、なお其の問題が解決しないならば、
それは、自分の心が天地一切のものと和解していないからである。
「神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ」
と神示にはしめされているのである。
天地一切のものと和解したのち、神に祈り、
祈りに於いて神にその問題をゆだねた後(のち)に、
自然に催されて来る事物進行の順序のうちに
神の智慧による解決が行われることになるのである。
神を呼ばないで、自力ばかりで解決しようと思うところに
視野の狭い解決法で行き詰ることになるのである。
<感謝合掌 令和2年7月29日 頓首再拝>
《攻撃精神を中和しましょう》 - 伝統
2020/08/03 (Mon) 21:55:45
*「眞理」第9巻生活篇第13章(P364~365) より
他(た)を攻撃する精神を起こす場合には自分も傷つくのである。
度々(たびたび)自動車を衝突させた運転手が生長の家に入信して、
「天地一切のものと和解する」心境になったとき、
少しも自分の操縦する自動車が衝突しなくなった実例もあれば、
いつでも朝の顔剃る時顔を傷つけていた人が『生命の實相』を読んで
心境が一変するとそれ以後、全然カミソリで顔を傷つけなくなった
実例もある。
このようなことは内臓にも同様に起こるのであって、
内臓の粘膜に潰瘍を起こすのも、癌腫を発生するのも、
心の中に何か攻撃精神があって、
それが内臓に具象化して来ることが多いのである。
攻撃精神は色々の形で私たちの潜在意識の中に巣食っているものである。
それは獅子身中の虫のように人間を傷つける。
愛と、同情と深切と、理解と、隣人に対する献身の心とが、
その攻撃精神を中和して人間を健康に引き戻すのである。
<感謝合掌 令和2年8月3日 頓首再拝>
《何故(なぜ)戦争は 止(や)まないか》 - 伝統
2020/08/06 (Thu) 22:31:38
*「真理」第9巻生活篇(P368)より
何故、戦争や馬鹿馬鹿しい闘争が繰返されるのでしょうか。
少し考え深い人なら戦争は引合わぬ商売だと云うことがわかる筈なのです。
此の引合わぬことをするのは 人類の自己処罰意識から来るのです。
人間は “ 神の子 ” であり “ 本来無罪 ” の自覚に到達することができず、
人類の潜在意識の中に “ 自分は罪人(つみびと)だから戦争でもして
自(みずか)ら傷つけることによって自己処罰しなければならない ”
と云うような観念が抜け切らないからなのです。
罪の観念は 罪を招(よ)び、大量殺人と云う
自己処罰の罪悪を犯すことになるのです。
だから根本的な平和運動は、
「人類は互いに神の子として兄弟であるから仲好くしなければならない」
と自覚すると共に
「人類は神の子として本来無罪である。神のみが創造主(つくりぬし)であり、
神は罪をつくらないから、罪は無いのだ 」
という教えを人類に出来るだけ早く弘(ひろ)めるようにしなければならぬのです。
<感謝合掌 令和2年8月6日 頓首再拝>
《世界平和の根本となるもの》 - 伝統
2020/08/20 (Thu) 21:25:25
*『人生の秘訣365章』第12篇(P310~311) より
世界の平和は権勢欲や、自分の属する団体の勢力拡大欲によっては、
得られるものではないのである。
世界のどこかで争いが起り、戦争が起っているところを注意して見よ。
其処には権勢欲と勢力拡大欲によってその目的を達するためには相手を傷つけることを
何とも思わぬ残忍刻薄の人間によって指導されていることを見るのである。
そのような自己拡大欲によっては決して平和は来たらないのである。
平和は、真理によって魂が輝かされ、そのような争いの愚かさを知り、
すべての人間を唯一の神より出でたる兄弟姉妹であると知り、
一人の人でも傷つくことを、自己みずからが傷つくごとく悲しく思う人々の
殖えることによってのみ起るのである。
どの山からも、どの国からも、どの寺院からも、どの教会からも、どの人種からも、
どの民族からも、“唯一の神”のみを拝し“唯一の神”のほかに、
別々の神なきことを知ることによってのみ得られるのである。
釈尊は「山川草木国土悉皆成仏・有情非情同時成道」と悟られたが、
山も川も草も木も国土も、情有るものも情なきものも、
その奥に同時に(今此処に)宇宙本源の神やどると悟られたのが釈尊である。
山や川や草木にすら、同時に神やどるのであるのに、すべての宗教の講堂に、
教会に、寺院に、唯一の普遍的親様なる神が宿らないでいる筈はないではないか。
<感謝合掌 令和2年8月20日 頓首再拝>
調和の念と黴菌 - 伝統
2020/08/21 (Fri) 19:35:26
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より
同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。
「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいることがある」
とルネ・アランデイ博士は言っている。
かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。
黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。
長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。
大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
支那軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、味方の軍勢中
おびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、
出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。
山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、
戦場にいてさえも「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。
伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、
無恐怖の念と、心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。
人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。
また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。
<感謝合掌 令和2年8月21日 頓首再拝>
相手と調和するには - 伝統
2020/09/27 (Sun) 22:08:58
*『 生長の家 』(昭和26年5月24日の法語)より
人間は根本的に「愛されたい」「認められたい」「理解されたい」のである。
愛されたいのに愛して貰(もら)えず、
認められたいのに認めて貰えず、
理解されたいのに理解されない。
そのもどかしさから、その反動から憎みが生ずるのである。
相手と調和したいと思うならば、
相手をみとめてあげ、理解してあげ、而(しか)して愛してあげることによって
相手と調和することが出来るのである。
愛されたい、認められたいのは、
人間は決して「個人」ではなく、全体一つの生命であるからである。
理解されたいのはすべての人には「善」なる神性が宿っておることを
自覚しているのでそれを理解してほしいのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
<感謝合掌 令和2年9月27日 頓首再拝>
《戦争原因の根本を追究して》 - 伝統
2020/10/04 (Sun) 20:00:29
*『人生の秘訣365章』第11篇(P282~283) より
あなたが今日(こんにち)、出逢うところの
すべての人々に愛と信頼と称讃とを与えよ。
それが小さなサークルの人間関係であろうとも、一波万波を呼ぶ譬えの如く、
それが全世界にひろがって世界平和の基礎となるのである。
何故、社会党や、公明党や、共産党は、国会で国政を論ずる時に、
最初から攻撃悪意誹謗の語調で政府に食ってかからなければならないのか。
そのときに醸し出される闘争精神の放送が全世界にひろがって、
それを感受し易い同調の精神をもった者を煽動し示唆して、
一波万波を呼んで世界各地に戦争を惹き起しつつあるのに、
戦争責任者は、現実に戦争しつつある国の政府だけにあるように
批難攻撃の論調で、審判(さば)きつつあるのは、
自分の耳を蔽(おほ)って鈴を盗む類(たぐい)ではないだろうか。
戦争は先ず、小さな個人の闘争精神から起り、その闘争精神の波が集まって
集団的な闘争精神の渦巻きをつくり、その闘争精神の強烈な渦巻きに
捉えられた《ある国》の権力者が、実力をもって闘争をはじめるのである。
現在の段階の人間精神の訓練では、戦争は到る処に止みそうにはないのである。
茲(ここ)に徐々にしか効果を挙げるしか仕方がないが、
そして吾々まことに地味な働きしかできないが、
宗教者の果たすべき役割 ―― 精神的役割があるのである。
<感謝合掌 令和2年10月4日 頓首再拝>
【異なる者の渾一調和】 - 伝統
2020/10/16 (Fri) 23:41:14
*「光明法語(10月1日)」より
異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。
その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。
それと同じく、各民族、各人種も、
各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、
そこに最も美しき文化が建設せられるのである。
<感謝合掌 令和2年10月16日 頓首再拝>
「秋雨(あきさめ)を聴く」 - 伝統
2020/11/01 (Sun) 23:33:24
*「光明道中記」(十一月 もみじ輝く~はじめの言葉)より
しみじみと味えばふかし雨の音轟々(ごうごう)とも聞え淙々(そうそう)とも聴ゆ
夜明に豪雨が物凄いばかり降った。
その音を聴いていると何だか懐かしい気がするのであった。
瀑(たき)のようにも聴えるし、谿川(たにがわ)の流れのようにも聴える。
呟くようにも聴えれば、千万(ちよろず)の唇でさんざめいているようにも聴える。
尚一層激しく降り灑(そそ)ぐときには豪宕(ごうとう)な感じがする。
秋だとひとしお思うのだ。学生時代に国木田独歩の小品集『武蔵野』を抱きながら、
秋の戸山ヶ原を逍遥(しょうよう)して楢の梢(こずえ)に囁いている秋の音に耳を傾けた
ことや、秋風に特有な地を這(は)う息吹(いぶき)に、冬が近づくかと戦(そよ)いでいる
小草に見入っていた頃などを想い出した。
自然に対する眼(まなこ)をもう一度開こう。
其処には無限の宝庫がある。
自然は生きている。素直に生きている。
争ったり、凋落(ちょうらく)しているように見るのは僻目(ひがめ)である。
生かし合い、讃美し合い、献げ合い、譲り合って、悦びの涙と共に生きているのだ。
落葉樹の生命はかすかに眼立たなくなったときに最も深く生きている。
争っているように見えても皆生かし合っているのだ。
<感謝合掌 令和2年11月1日 頓首再拝>
平等にして、差別がある - 伝統
2020/11/18 (Wed) 21:07:18
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月18日)より
仏を知る心が自分にあるのは、自分が仏であるからである。
理を知る心が自分にあるのは、自分が理であるからである。
自分が仏にして、すべての人が仏にして、初めて、
我れ彼を知り、彼(かれ)我(われ)を知る。
彼と我(われ)とは平等同自にして、しかも彼は彼であって我(われ)ではなく、
我(われ)は我(われ)であって彼ではない。
したがって彼と我(われ)とは平等にして、差別がある。
差別がなければ、我(われ)と彼との差別の認識ができないし、
我(われ)と彼と平等でなければ
我(われ)は彼を感ずることも、彼は我(われ)を感ずることもできない。
<感謝合掌 令和2年11月18日 頓首再拝>
一切に調和して仕事をする - 伝統
2020/11/26 (Thu) 23:40:44
*徳久克己 医学博士 『精神科学』誌 より
すばらしい能力をもっていながら、
その能力を充分に発揮できずに一生を終る人があるのは、
まことに残念なことです。
そのような人は、いつも自分が認められないことを嘆きながら、
酒を飲み、グチをこぼし、不平不満の心を持ちつづけて、
なかばヤケ気味の生活をおくっています。
能力をもちながら、認められない人、
また認められても仕事のない人の多くは、
結局、職場で一緒に働いている人たちと調和のとれていない人なのです。
谷口雅春先生の著書 『無門關解釋』 のなかの第二十則に、
「大力量人」というのがあります。
大力量のある人が、それを発揮するための3つの条件が説かれています。
(1)一は、大力量があるとの自覚。
(2)二は、自覚したら百錬千磨といって訓練に訓練をかさねること。
(3)三は、調和
と教えてあります。
一と二はすぐ理解されたのですが、
三が私にはどうも理解できなかったのです。
説明してありますけれども、どうもピンとこなかったのです。
しかし栄えた人や成功した人の体験談を聞きまして、
だんだんとこの調和がいちばん大切であることがわかってきました。
生長の家の教えの根本となっているのは、この調和でありますが、
『七つの燈台の点燈者』の神示” の冒頭に
『汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、
天地一切のものは汝の味方である』
と示されています。
『天地一切のものは汝の味方である』 ということは、
大変なことでありまして、言いかえますと
敵がなくなると言うことであります。
敵がなくなれば、みんな自分の協力者でありますので、
自分のすることに誰も反対しないということです。
そうなれば、自分を認めてくれないとか、
仕事がないなどということは、ないはずであります。
大力量人が、その力量を充分に発揮するためには、
どうしてもその力量を発揮さしてくれる人が、
たくさんいなければならないのです。
私たちは自分ひとりで仕事ができるものではなく、
協力してくれる人が必要なのです。
大きい仕事であればあるほど、より多くの協力者が必要です。
自分にどんな力がありましても、協力してくれる人がありませんと、
自分の力を充分に発揮することができません。
協力してもらうためには、お互いが調和していることによって、
お互いがよく理解しあっていることが、とても必要なのです。
私自身も若い時は、自分の力だけに頼って、
自分でなんでもしてみせると自惚れていましたが、
大きい仕事になればなるほど、
とても自分一人でできるものではないと、
ツクヅク教えられました。
調和することは、和解することであり、
和解することは、感謝することである、
と生長の家で教えられましたが、
協力してくれる人に感謝することを忘れたとき、
必ずといってよいくらい仕事がうまく行かなくなります。
これは私の長い間の体験でハッキリ教えられました。
よく協力してくれている人に慣れてしまって、
ついアタリマエだ、という氣になった時に、
協力がおかしくなることがよくあります。
職場でも、家庭でも、友達でも、
常に感謝を忘れたとき、問題がおこります。
『生命の實相』 に
『感謝は、機械にさす、油のようなものである』
と教えられておりますが、
繰返し体験することによりまして、シミジミと教えられました。
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p8.html
August 21, 2013, 5:50 pm
<感謝合掌 令和2年11月26日 頓首再拝>
自己の心の中に愛と平和を満たせ - 伝統
2020/11/28 (Sat) 23:47:23
*谷口雅春師 『白鳩』 より
誰でも世界に平和が来り、人類互いに殺戮し合うことなく
相睦びて相互繁栄が実現することを希わない人はないであろう。
私たちは地上に天国の平和が実現するよう、
神想観をして実相の平和が地上に天降り来りつつあることを
想念に描いて祈らなければならない。
白鳩会の人たちだけが率先して世界の平和を祈るだけではなく、
この平和運動の同志を全世界にひろげなければならないのである。
外に大きくこの祈りによる平和運動を展開すると共に、
内に自分の心の中に平和を確立しなければならない。
自己の心の中に神の愛を充たせよ。 神の平和を充たせよ。
若しあなたの心の中に神の平和が充たされないで、
争いや、不平や、不調和がまだ残存しているならば、
先ずあなたは神想観中に
『自己の心の中に神の平和と調和とが充満して、
自分全体が神の平和と調和に融合してしまっている』 姿を霊視して、
自己の内に神の愛と平和と調和を確立しなければならぬ。
(http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/27067537.html ~消滅)
<感謝合掌 令和2年11月28日 頓首再拝>
どんな辱(はずかし)めにも興奮しないでいる事は大調和を得る秘訣 - 伝統
2020/11/29 (Sun) 23:58:03
*『人生の秘訣365章』第10篇(P252~253) より
~《忍辱の美徳について》
忍辱は仏教では、布施につぐ覚りに到達するための最も尊き修行である。
忍び難きを忍び、謙遜に自己を顧みる徳が忍辱である。
ひとから侮辱せられるのは、
自分自身にそれらの辱(はずかし)めを受ける何かがあったのである。
現在そのような行為をしていないかも知れない。
併し、過去のいつの時にか、
その辱(はずかし)めを受けるに相応するようなことを
想い又は行為していたのであろう。
それは今世(こんぜ)のことでないかも知れない。
或るいは前世、前々世の出来事であるかも知れない。
併し、原因のないところに結果は現れないのである。
今ひとから悪しざまに言われるのは、悪しざまに言われるような業(ごう)の蓄積があり、
この業(ごう)が形にあらわれて消えて行きつつあるのだと考えれば、どんな辱めも、
どんな悪口雑言も、それを有りがたく受けて感謝することができるのである。
どんな辱(はずかし)めにも興奮しないでいる事は大調和を得る秘訣である。
<感謝合掌 令和2年11月29日 頓首再拝>
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く - 伝統
2020/12/07 (Mon) 23:54:54
*「光明法語」(12月7日《逆らえば順潮も逆潮》)より
一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。
自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。
本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。
波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。
人生の行路もそのようなものである。
<感謝合掌 令和2年12月7日 頓首再拝>
近似を自覚しての動き - 伝統
2020/12/09 (Wed) 19:51:35
*「光明道中記」(12月9日《近くに深切を尽す日》)より
【我(が)を立て通して他(ひと)に喜んで貰えなかった時の魂の淋しさを想像せよ。
(『生命の實相』第四巻)】
支那事変の原因は色々あるであろうが、日本が満州に進出して急発展する民族的嫉妬も
その原因の一つである。日本人が白人種であったら急発展しても中国人民は今まで白人が
中国大陸に進出しても反抗しなかったと同じようだったと思う。
一面から言うと、日中互に争ったと云うのは同族と云う自覚があるからである。
兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。
尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。
親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。
毎日の宗教新聞を読んでいると、大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。
まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、これがやはり本当は互に親しい
からなのである。
同級生のなかでも、首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、
同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。
仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。
争いのように見えていて、本当は争っているのではない。
近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。
そして、「争いではない」と知ったときに、形の上での争いは消えて了うのである。
<感謝合掌 令和2年12月9日 頓首再拝>
苦手な人や嫌いな人と和解する瞑想法 - 伝統
2021/02/11 (Thu) 23:23:41
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月11日)より
《はじめに》
嫌いな人との人間関係の悩みから解放するための瞑想法をお伝えいたします。
これは想像力を利用して、潜在意識に働きかけて現実を引き寄せる方法です。
皆さんにも苦手とする相手がいらっしゃることでしょう。
お勤めの方なら会社の上司であったり、取引先の方であったり。
学生であれば、同級生や先生に嫌な人がいるかもしれません。
身近な人間関係であれば、両親や兄弟との関係もあるでしょう。
お釈迦様も四苦八苦のうちで怨憎会苦と言って、
憎しむ相手との出会いは避けられないと言っています。
そうした避けて通れない苦手な相手と
うまく付き合えるようになる不思議なイマジネーション法を紹介いたします。
《時間帯と準備》
寝る前の深夜か、早朝に起きてすぐの時間が
一番潜在意識と繋がりやすい時間帯なので、
なるべくそうした時間にいたします。
誰にも邪魔されない時間と空間を用意して、
テレビやラジオなどの情報が流れるものは切り、静かにします。
音楽はリラックスできる物なら聞いてもよいです。
身体を締め付けるような衣服や装飾も外して、
なるべくゆるやかなものを着ましょう。
《姿勢と呼吸法》
ベッドやお布団で横になってもよいですが、
寝てしまう可能性がありますので、
座った姿勢で目を閉じながら深呼吸していきます。
鼻からゆっくり息を吸い、肺に空気が満たされたら、
口からゆっくりと吐き出していきます。
深くリラックスできるまで、この呼吸を続けましょう。
《イメージング法の実践》
リラックス出来たら、目の前に自分が苦手とする相手を想像します。
実際に目の前に本人が立っているように想像しましょう。
想像できたら、
相手に対して謝罪の言葉や、もっと仲良くなりたいと伝えます。
そしてホ・オポノポノの言葉である
「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」
と語りかけます
注、ホ・オポノポノはハワイに伝わる癒しの方法で、
自らの問題を引き起こしている記憶に向けて、
「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」
の言葉を繰り返し唱える方法です。
はじめは嫌な感じを相手のイメージから受けると思いますが、
それが和らいで、優しい感じに包まれるまで続けます。
好意的な感覚になったらOKです。
最後に「ありがとうございました。さようなら」と言って別れましょう
《最後に》
一回で効果のないときは、日にちを改めて数回おこないましょう。
これを実践するとあら不思議、
きっと相手の態度も変わってのに気がつくでしょう。
すべての人が和解していけますように。
(https://www.spacebrothers.jp/2016/01/blog-post_15.html)
<感謝合掌 令和3年2月11日 頓首再拝>
《平和と調和の神》 - 伝統
2021/04/05 (Mon) 00:04:31
*「光明法語」(4月4日)より
ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。
神は平和にして調和の智慧なるかな。
空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、
調和して運行するかな。
神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちてすべてのものを
調和と平和に導き給うことをわれは知るがゆえに、
わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。
<感謝合掌 令和3年4月4日 頓首再拝>
《相手が自分を苦しめるのは自分の心の不調和が因(もと)》 - 伝統
2021/04/18 (Sun) 20:25:55
*『 生長の家 』(昭和25年4月18日の法語)より
自分が誰かと不調和な状態になったり、
誰かが自分を苦しめると思えるようになった時には
それは自分の心の影であるから自分の想念感情を振りかえって見て反省せよ。
自分自身の心がおだやかとなり、
自分自身の態度が相手に調和する様になった時、
相手は自分にとって味方となってくれるのである。
相手がたとい利己主義であっても それに対して腹を立て、
攻撃しては 相手の利己主義は治らないのである。
自分が彼を愛してやり、自分が彼に感謝してやることによってのみ
彼の利己主義は治るのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825912.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月18日 頓首再拝>
「和」のあるところに害はない - 伝統
2021/05/23 (Sun) 19:40:19
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より
一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。
火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。
「和」のあるところに害はない。
いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。
胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。
<感謝合掌 令和3年5月23日 頓首再拝>
調和とは、柔かい心で一切を受け容れながら、弾ね返す力も有す - 伝統
2021/06/06 (Sun) 20:36:31
*「光明道中記」(6月6日《心やわらかになる日》)より
【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
柔かい心で一切を受け容れること。
上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。
一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。
弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。
先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。
而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。
柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。
調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。弾ね返す力がなければならない。
<感謝合掌 令和3年6月6日 頓首再拝>
調和の念と黴菌 - 伝統
2021/08/21 (Sat) 13:24:41
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より
同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。
「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいることがある」
とルネ・アランデイ博士は言っている。
かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。
黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。
長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。
大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
支那軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、
出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。
山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、
戦場にいてさえも「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。
伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。
人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。
また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。
<感謝合掌 令和3年8月21日 頓首再拝>
和解の真理 - 伝統
2021/08/28 (Sat) 11:44:00
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月28日)より抜粋
夫婦間の仲がわるいために病気になれば、
胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。
岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは父母が悪いと、
父母を恨んだりすると脊椎カリエスになったり、頭の病気になったりする。
こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。
「ここがわたしの家である。どんな苦しみであろうが
どんな悪いところであろうがわたしの家である。
わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」
そう思って、受くべきものを受けてしまう心境にならせたときに、
そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが
消えてしまうのである。
これが和解の真理の応用である。
和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解しているのじゃ
足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。
痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、
いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。
精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という宗教的心境にまで
誘導することが必要なのである。
神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、一転して
「心臓が動悸しているので血が循(めぐ)っているのである。
ありがとうございます」
と感謝の言葉を唱えさせるだけで、治ってしまった実例がある。
以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは
札幌医大で両腎臓が結核に冒されているから治療の道なしと
宣言せられたのを、
腎臓の疼痛ごとに
「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」と
その疼痛に感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、
戦争中召集されて満州へ3年も従軍していてなんら病気が再発しなかった
と報告せられた実例もある。
腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、
それを調和させたとき治った実例は多い。
<感謝合掌 令和3年8月28日 頓首再拝>