伝統板・第二

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和 ③ - 夕刻版

2018/12/16 (Sun) 19:42:10

《すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる》

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。
 (「イザヤ書」第三十章十五~十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。

多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。


ヨブは 「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。


なんじ知れ 「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患が
かく分析してかく導いたら治ったと導き方を多数の実例をあげて
書いておいたのである。この書をメニンジャー博士に捧げたい。


<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「「和」 (8455)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1588 

(2)伝統板・第二「和」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6612800

(3)伝統板・第二「和 ②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7537246

           <感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>

《他の人と和解するためには》 - 伝統

2018/12/21 (Fri) 19:07:44


       *『人生の秘訣365章』第8篇(P199~200) より

人と和解するには怺えたり我慢して
表面だけ仲よくしているような事ではよくないのである。

相手と不調和になっているのは、
相手の立場に立って見る広々とした寛容の精神が乏しく、
自分の立場からのみ一方的に事物を観るためであることが多いのである。

同一のものでも立場が異なると、別の姿に見えるのである。

それは人間でも正面から見るのと横顔を見るのと、後姿を見るのとでは
全然別の姿に見えるのと同じである。

しかしその姿は、いづれも本当にその人の姿であって、別のものではないのである。
自分の立場《だけ》に立って物を見るときそれは一方的な偏狭な観方となるのである。

凡(およ)そ、相手の立場に立って考えてやるならば、
相手に同情できるし、腹の立つこともないのである。

           <感謝合掌 平成30年12月21日 頓首再拝>

すべての人と調和することにより神と調和し、神からの叡智が流れ入る - 伝統

2018/12/23 (Sun) 19:25:02


           *「光明道中記」(12月23日 明朗歓喜の日)より

【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。(『生命の實相』第四巻)】

人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。

心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。

心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。

失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、調和の心と、強さの心とである。

では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、吾々は神と調和することが出来るのである。

神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。

           <感謝合掌 平成30年12月23日 頓首再拝>

「本当の和解」 - 伝統

2019/01/01 (Tue) 18:06:31


        *『人生の秘訣365章』第8篇(P200~201) より

《祈りは、このようにしてきかれる》

金光教の高橋正雄先生は、最早故人になられたが懐かしい人のひとりである。
その機関誌『生(せい)』の中に書いておられたが、

或る人が四国遍路をして、もうとっぷり日が暮れて来たが、
田舎道で宿屋など見つからないのである。
一軒の百姓屋のような家を見つけて、そこの戸を叩いて一夜の宿を乞うたのであった。

百姓屋の主人が出て来て
「泊めてあげたいけれども、都合が悪いことがあるので、帰って下さい」
というのであった。

遍路の旅人は仕方なしに家から出て数十メートル程あるき出したが、
何を思ったか、振り返ると、その家の方を向いて合掌した。
そして、こういって祈ったというのである。

「この家の人が私を泊めてくれないのは、
物質的に乏しいか、精神的に乏しいかどちらかに違いありません。
神様どうぞこの家の人たちを、物質的にも精神的にも裕にならせてあげて下さい。
ありがとうございます」

旅人はこのように祈って踵を返して歩き出した。

すると間もなく、後方(うしろ)から旅人を呼ぶ声が聞えた。
旅人は振り返ってみると、先刻、宿を断った主人であった。

主人は「先刻は失礼なことを申しましたが、あなたが、行きかけて振返って私の家を
拝んで下さったのを見ると、どうしても私はあなたを泊めてあげずにはいられない
気がしましたので、どうぞ戻って来て泊まって下さい」というのであった。

「本当の和解」というものはこのようなものである。
冷たくされた相手の人の幸福を神に祈ってあげることである。

本当に祈りが徹底すれば敵と見えた者も強力な味方となるのである。

           <感謝合掌 平成31年1月1日 頓首再拝>

《何故、平和を求めながら争いの世界が消えないか》 - 伝統

2019/01/03 (Thu) 18:47:56


          *『人生の秘訣365章』第11篇(P281~282) より

何故(なぜ)、多くの人々は平和なる世界 ―― 
人々互に調和し親睦せる世界を求めながら、かくも互いに闘争し、
虎視眈々として他の人の弱点を見つけて攻撃したがっている世界が
展開しているのだろうか。

それは彼らが“神”を忘れており、“神”は愛であり、
自分自身が神より出でたる“神の子”であるという
實相をわすれているからであるのである。

換言すれば本来“神の子”であるのだけれども、
幼い時に迷い児となって、無宿のヤクザかルンペンになっていて、
自分の生まれた家の家系を知らないようなものである。

そして、互いにヤクザ同志のつもりで喧嘩をするのである。

人間本来“神の子”の系譜をハッキリ全人類に知らせてあげるならば、
神の愛が各々の人々の心を満たし、そんな争いは消えてしまうのではないだろうか。

           <感謝合掌 平成31年1月3日 頓首再拝>

争わないこと - 伝統

2019/01/12 (Sat) 19:33:09


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高く?翔(こうしょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

わたしはこれをこう考える ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。
一つの立場に立つかぎり、「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。

球体の眼球(がんきゅう)を有するわれわれは、穹窿(あおぞら<きゅうきゅう>)は
球状であって宇宙も球状であると考える。しかしその考えをわれわれがもし三角ガラスの眼を
もった人種に強(し)いるならばまちがいである。

宗派を立ててはならぬ。偏狭がいっさいの争いの因(もと)である。
神のうちには争いはない。神はいっさの争いを、いっさいの背反を包容している。
釈迦が未(いま)だかつて何々宗という仏教を説いたことはなかったのである。

何々宗という多数の宗派は釈迦滅後に生じたのであって、いっさいの背反を包容する
超越的立場が失われたときに生じたのである。だから釈迦は宗派争いをしたことはない。
ただ後世の仏徒 ―― いな反仏徒が宗派争いをするのである。

宗派ばかりではない。
個人の生活でも争いができるのは、
おおむね超越的立場から墜落した者の挑戦から来るのである。

            <感謝合掌 平成31年1月12日 頓首再拝>

すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる - 伝統

2019/01/14 (Mon) 19:55:21


           *「光明道中記」(1月14日 微笑を楽しむ日)より

【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
                        (『生命の實相』第一巻)】

優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。

赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。眼の光が澄むようにならなければ、
その人はまだ本物ではないのである。

澄んだ中にも色々の光がある。その光が色々の内容を語っている。
智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、慈愛に輝いている眼、
みんな尊き眼である。


すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。

争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。

世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。

やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。

人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。

            <感謝合掌 平成31年1月14日 頓首再拝>

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