伝統板・第二

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無我 ③ - 伝統

2018/12/02 (Sun) 04:07:34

《神に波長を合わせ》

          *「光明法語」(12月2日の法語)より 

神は善人にも悪人にも、太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。


<関連>

(1)伝統板・第二「無我 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6853330

(2)伝統板・第二「無我 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7616202

          <感謝合掌 平成30年12月2日 頓首再拝>

我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)る - 伝統

2018/12/04 (Tue) 03:25:46


      *「光明道中記」(12月4日 困難を遊戯化する日)より抜粋

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。
何事も魂の生長の養分である。(『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、
その人にとって一つの誘惑であることがある。

通らないことが時にはあるので、
自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、
我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

          <感謝合掌 平成30年12月4日 頓首再拝>

自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである - 伝統

2018/12/07 (Fri) 04:19:56


      *「光明法語」(12月7日の法語 《逆らえば順潮も逆潮》)より

一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。

自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。

本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。

波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。

人生の行路もそのようなものである。

          <感謝合掌 平成30年12月7日 頓首再拝>

無我になる - 伝統

2018/12/09 (Sun) 03:58:41


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。

無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、
その程度に「応じて、神の光は蔽(おお)われるのである。
「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

            <感謝合掌 平成30年12月9日 頓首再拝>

《最早吾生くるに非ず》 - 伝統

2019/01/26 (Sat) 03:35:32


         *「光明法語」(1月26日)より

吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。

あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。

今日より後におこるすべての事件について、吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。

此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。

吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。

            <感謝合掌 平成31年1月26日 頓首再拝>

我(が)を捨てるところに「本当の自分」が生きる - 伝統

2019/02/13 (Wed) 04:35:58


           *『真理』第五巻女性篇(P227~228)より


黒住宗忠のように親が「高足駄(たかあしだ)を穿(は)け」といわれたら
「はい」と高足駄を穿く。
「草履を穿け」といわれたら「はい」と草履を穿く。

それは非科学的な精神のようでありますけれども、
そこに本当の深い真理が現れるのであります。

キリストも同じようなことをいわれました。

「汝の右の頬(ほほ)を打つ者あらば、これに左の頬をもめぐらして打たせよ。
十里の公役(こうえき)を強いられなば、二十里を行け。
上衣(うわぎ)をとる者には下着(したぎ)をも取らせよ」

この素直の精神が、天地のはからいと一致することになるのであります。

素直ということは、凡(あら)ゆる徳の中で一番素晴しい徳であるわけです。

キリストの謂(い)われた 「幼児(おさなご)の心」 です。

「素直」は、すなわち「我(が)」の絶滅です。

「我(が)」を主張することが民主主義だと、こういうように考えて、
到るところに「我(が)」をのさばらしている現代の日本の状態が、
どんなに其(そ)のために、混乱状態に陥っているかということは、
現実の世相(せそう)を見ればはっきり分るのであります。

            <感謝合掌 平成31年2月13日 頓首再拝>

《すべては神の恩寵である》 - 伝統

2019/04/03 (Wed) 03:00:45


       *『眞理』第9巻生活篇(P398~399)より

『生命の實相』を読んで”病気本来無し”と豁然と悟りをひらいて
病気の治る人もある。

しかしそれは、自分が偉いので自分の力で悟りをひらいたのだと
高慢な心を起してはならないのである。

神の恩寵なければ人は何ごとをも為し得ないのであり、
『生命の實相』も、神が人を救いたまう道具として書かしめられたのであり、
その人の”真理を悟る力”も神が与えたもうたのである。

何処(どこ)にも人間だけの力で為し得るところのものは存在しないのである。

神の恩寵を自覚しない人のみが、
自力で何でも出来るなどと高慢な考えを起すのである。

高慢な心を起したところが、恰もパイプの中の沈殿物のように、
神の恩寵の流入を不完全にするのである。
高慢な心を捨てることである。

無我になって神に無条件降伏したときのみ、
神の恩寵は一層ハッキリあらわれるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝>

カラッポのパイプに成り得た程度に従って役目を果たすことができる - 伝統

2019/04/21 (Sun) 04:28:23


        *『 生長の家 』(昭和46年3月27日の法語)より
          ~《“ 神の恵み既に汝に足れり ”》          

   神を信ずることによって、
   神をして吾々に一層深切に仕えせしめようというような
   考えを棄てなければならないのである。

   神が使徒パウロに言いたまいし如く「 吾が恵み汝に足れり 」である。

   既に「 足れり 」即ち「 十全の恵み 」
   「 至らざる処なき完全不欠の恵み 」を
   神は吾々に与えてしまっていられるのである。

   「 それを何故 お前はとらないのか 」と神は仰せ給うているのである。

   神を私たちの祈りによって「 使おう 」と考えてはならないのである。

   私たちは如何にして自分をして神の恵みの流通する
   中カラッポのパイプになればよいかを考えればよいのである。

   私たち自身が、一切の私欲を去り、私心を去り、
   中カラッポに成り得た程度に従って、私たち自身が、
   神の最高の自己実現の役目を果たすことができるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12720463.html

            <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

《神の智慧の流入のパイプとなる》 - 伝統

2019/05/07 (Tue) 03:34:05


        *「光明法語」(5月7日《内在の神の道具となれ》)

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。

自己の内に神が宿っているのであるから、
常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)をなくならせて、
ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

            <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>

無我で、第一創造の世界が出てくる - 伝統

2019/05/09 (Thu) 04:20:10

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

           <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

空っぽになる - 伝統

2019/06/01 (Sat) 03:56:26


        *「光明道中記」(6月1日【素直第一の日】)   

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」
(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

           <感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>

無我の教え - 伝統

2019/06/13 (Thu) 04:29:19


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」と不平に思う人は、
そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という存在はどこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから
神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。

「甲はまだ無我になっていない。
善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」
と祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。

相手の心に「我(が)」を握らせておいて、
神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月13日 頓首再拝>

われは無い、神ばかりである - 伝統

2019/06/15 (Sat) 04:46:06


        *「光明道中記」(6月15日《一人必ず救う日》)

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

           <感謝合掌 令和元年6月15日 頓首再拝>

神が必要とする人物たれ - 伝統

2019/06/24 (Mon) 03:55:24


        *「光明道中記」(6月24日《神我一如となる日》)より 

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に
over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあるとエマソンは言った。
宇宙の心だ。

宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、
全宇宙がその人を護りたまうのである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。

利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)うていることを
私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

           <感謝合掌 令和元年6月24日 頓首再拝>

自分を空しくする - 伝統

2019/06/30 (Sun) 04:12:56


        *「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より

【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
          始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】

若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。

神がすべての渾(すべ)てであるが故に、今、あなたは自分を空しくして神に一致する
が故に、神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、すべての人間を慈愛深き父母兄弟と
拝まなければならない。衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。

           <感謝合掌 令和元年6月30日 頓首再拝>

「わし」は本来無い、自分の功徳と云うものは本来一つもない - 伝統

2019/07/02 (Tue) 05:05:53


      *「光明道中記」(7月2日 偽物(にせもの)を捨てる日)より

【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】 

寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施してその功徳いくばくなどと思うのは凡(おそ)そ
これに過ぎたる愚問はない。そういう問を発する心の中には、「供養誇り」と云うホコリで
醜く充満しているのである。

「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。

その人は「《わし》」と云う愚かにも、本来無いところの自己をつかんで放していないのである。
天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。

何か善いことをして、それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。
《自分の》功徳がないと知るとき、天地間はただ功徳で充満しているのである。

無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。

奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、これが奇蹟である。

或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき一切功徳を蒙(くら)ましているのである。

           <感謝合掌 令和元年7月2日 頓首再拝>

《わし》という形を見、肉体を見ている者には真理は見えない - 伝統

2019/07/05 (Fri) 04:43:58


          *「光明道中記」(7月4日《真理を知る日》)より

【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。(「生命の實相」第六巻)】 
 

「廓然無聖(かくねんむしょう)」と云う達磨の一喝を受けた梁(りょう)の武帝は
それが大肯定のために否定だと云うことが判らない。

悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、
そんな「一定のこんな形」の真理を否定する必要があったのである。

真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。

功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。

そう思い込んでいる際(はな)に、曰く「無功徳」曰く「真理無し」と
否定(うちけ)されて了ったのだから、梁の武帝は、自分の眼の前にいる
真理を悟ったと伝えて聴いている大先輩なる達磨大師は一体何者で、
何を悟ったと言うのだろう。一つそれを聴こうと思ったのだ。

そこで梁の武帝は、

「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。

如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないかと云うような問である。

形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。

そこで、

「識(し)らず」

と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。

・・・

          *「光明道中記」(7月5日《臭味を脱却する日》)より

【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】 

「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。

「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。

「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。まだ病気が治りませぬ」と言うのも
「識(し)る」方の側である。

まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。
功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。

人を救っても無心にして救うようでなければならない。
『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

           <感謝合掌 令和元年7月5日 頓首再拝>

《あなたが 「 神意実現 」 のパイプとなること》 - 伝統

2019/07/23 (Tue) 04:47:16


        *『 生長の家 』(昭和46年3月28日の法語)より

   イエスのゲッセマネの祈りは、「 願わくはこの苦き盃をわれより取り去り給え。
   されどわが意を成さんとには非ず、御心の如く成らしめ給え 」というのであった。

   これが正しい祈りの極致であるのである。

   我意を通すために「 “神”という無限の力を利用しよう 」
   という考えほど不遜な考えはないのである。
   人間はもっと謙遜にならなければならないのである。

   「 我意を通すために 」ではなく「 神意を通すために 」
   「 私心を無にして、私をカラッポのパイプと成らしめ給え 」
   でなければならないのである。

   そのように自己を“ 無 ”にして神に全托するとき、
   神は無限の愛であり無限の智慧であり、
   その全智によって計画されたる「 愛の天国 」は、
   自然に私たちの「 カラッポの無私の心 」を通して現象界に流れ入って来て、
   あなたの身辺が自然に地上天国となるのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12725762.html

           <感謝合掌 令和元年7月23日 頓首再拝>

無我の奥に真我あり - 伝統

2019/08/01 (Thu) 04:30:56


      *「光明道中記」(8月1日 神想観に心浄まる日)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。(生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」と
あらわしているのである。「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、吾々の超空間的な「心」の中に
空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

       <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝>

「“わたし”」なるものは本来無い - 伝統

2019/08/18 (Sun) 04:39:03


       *「光明道中記」(8月18日《無恐怖の心境の日》)より

【自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第三条)

   善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
   しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をやと。
   この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

   そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
   弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、
   他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、
いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。

何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ―― 
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。

ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。

       <感謝合掌 令和元年8月18日 頓首再拝>

「他力をたのみ奉る」 - 伝統

2019/08/19 (Mon) 04:11:49


      *「光明道中記」(8月19日《大安心を得る日》)より

【罪業を浄めんと断食、水行をしても救われない。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第三条)

   煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを
   あはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
   他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
   よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せさふらひき。

「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような
「罪悪誇り」の人間ではないのである。
だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。

「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、
仏力に由るのである」と自己を謙る人を言うのである。

自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて
頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。

       <感謝合掌 令和元年8月19日 頓首再拝>

わがはからいにて行ずる光明思念であってはならない - 伝統

2019/08/25 (Sun) 04:22:30


   *「光明道中記」(8月25日《謙遜になり切る日》)より

【神は祈ったから心を動かし祈らぬから罰を与えるようなものではない。
                     (『生命の實相』第三巻)】

(歎異抄第八条)

   念仏は行者のために、非行非善(ひぎょうひぜん)なり。
   わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
   わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
   ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、
   行者のためには非行・非善なりと、云々。

念仏とは謂わば絶対者の力の廻向(えこう)し来る光明思想である。
吾々の行う光明思念も本当はその極致は、
わがはからいにて行ずる光明思念であってはならないのである。

「わがはからいにて行ずる光明思念」であるならば、
「わたしが光明思念をしてやったから病気が癒(なお)ったのだ」などと
恩に着せがましく、また自力の善をほこりがましく自分が大先生に
なりすましすのであるが、「自力」と云うものはひとつもないのであるから、
「わたしが光明思念をしてやった」と云うこともあり得ないのである。

大宇宙大生命の無辺の光明思念に”はからわれ”て
それが吾々に催し来たりて光明思念するように成るのである。
「念仏は行者のために非行非善なり」とは直に以て
「光明思念は行者のために非行非善なり」である。

この世に如何なる行と雖もわが”はからい”にて成し遂げる行とてなく、
この世に如何なる行もわがはからいにて成し遂げ得る「善」もない。

       <感謝合掌 令和元年8月25日 頓首再拝>

《我(が)の力みが無くなる時 神が働く》 - 伝統

2019/09/06 (Fri) 04:19:26


       *『 生長の家 』(昭和25年4月22日の法語)より

   神は 吾(わ)が内に宿る無限の癒(い)やす力である。
   凡(あら)ゆる病気と凡ゆる不幸と凡ゆる苦しみとを癒やし給う所の
   不思議なる力がわが内に宿っているのである。

   その力は 「 我 」 の力によって何とかしようとあせっている時には
   自分の心が狭く狭窄(きょうさく)しているから
   神の無限の癒やす力が豊かに流れ入らないのである。

   自分の力で 自分の病気を治そうと思うな。
   自分の力で 自分の不幸をなおそうと思うな。

   自分が無くなり、自分の心に少しも力みがなくなって、
   ゆったりとした時に
   神の癒やす力が豊かに流れるのである。


    →  http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836927.html

       <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

我でやれば失敗する - 伝統

2019/09/15 (Sun) 02:53:02


         *「光明法語」(9月15日)より

頭脳の知恵にのみ訴えて、大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、
時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。

吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

           <感謝合掌 令和元年9月15日 頓首再拝>

無我献身 - 伝統

2019/10/02 (Wed) 04:17:55


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月2日《無我献身の日》)より

【生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。(『生命の實相』第十一巻)】


すべて他を制して之を墜(お)とし、それによって自分が利益を得んとする精神力は、
ついには自己を陥れて自己に危害を加えるものである。一時的の成功は斯くして
得られるかも知れないが、結局は自己を奈落に突き落とすに到るのである。

往年のナポレオンいま何処にありや、カイゼル今何処にありや、またヒットラー何処に
ありや、スターリン何処にありや。危いかな、全世界を共産化するまで、その赤カの
手をゆるめない理想をもつマルクス・レーニン主義者の行動を警戒せよ。

『古事記』が八俣の”遠呂智(おろち)”(遠きロシアの智慧)という象徴的名称にて
預言したところのマルキシズムの世界侵略政策が南下して来て、奇稲田姫(瑞穂国)を
侵略し、更にアジア全土に亘ってその赤化より護らんがために起ち上がったのが、
あの大東亜戦争であった。

それ故に日本はこの戦争を大東亜の民族の解放戦争と称したのである。
かくて南方諸民族は白人の支配下から独立し世界に新秩序が生まれたのである。

犠牲を惜しまず護りつづけた日本の無我献身がおのずから世界を此処まで
引摺って行ったのである。

           <感謝合掌 令和元年10月2日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2019/10/30 (Wed) 04:32:34


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 令和元年10月30日 頓首再拝>

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。 - 伝統

2019/11/01 (Fri) 04:13:48


      *「光明道中記」(11月1日《手垢のつかぬ愛行をする日》)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、
それは単に愛行として、深切として、完全なものでありえない
ばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 令和元年11月1日 頓首再拝>

「新たに生れる」とは、旧我の脱落のこと - 伝統

2019/11/02 (Sat) 04:56:46


          *「光明道中記」(11月2日《旧我の消える日》)より

【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
  自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】

「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。

道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、仏法を知れりと言うには
あらずということを」と言っていられる。

悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。

自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。

キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。

「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。

           <感謝合掌 令和元年11月2日 頓首再拝>

我に固執するのが人間の相(すがた) - 伝統

2019/11/06 (Wed) 04:56:54


          *「光明道中記」(11月6日《七たび我を棄てる日》)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。
先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。

私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。

事情をきいて見ると実に可哀相な境遇です。
私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、
可哀相さに同情して
『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』と
申しました。

そんな我を除る位の事何でもない、
素直にすれば好いのだからと仲人が言いますので、
その女を妻に貰い受けました。

ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、
一つも除ってくれません。
そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
それから胸を痛めたらしいのです。

私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

          <感謝合掌 令和元年11月6日 頓首再拝>

「我(が)」は「ニセ者の自分」、「神」が「本物の自分」 - 伝統

2019/11/07 (Thu) 05:00:04


     *「光明道中記」(11月7日《自己を深く見詰める日》)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものはそんなにも握り育てていなければならないものだろうか。
「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところのニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 令和元年11月7日 頓首再拝>

我がなければ天地間の供給みな人類のものである - 伝統

2019/11/08 (Fri) 04:29:21


      *「光明道中記」(11月8日《仕事に愛をそそぐ日》)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。(『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

          <感謝合掌 令和元年11月8日 頓首再拝>

「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる - 伝統

2019/11/11 (Mon) 04:59:12


        *「光明道中記」(11月11日《我慢の消ゆる日》)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                        (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、
「我」の一種の展開である。

人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、
内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、
我が無くなって仏の境界に入るが、
一度悟ったと思ってそのまま放置して置くと、
元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、
元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。

我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 令和元年11月11日 頓首再拝>

傲(たか)ぶる心を捨てよ - 伝統

2019/11/16 (Sat) 04:44:02


       *「光明法語」(11月16日の法語)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 令和元年11月16日 頓首再拝>

無我直心 - 伝統

2019/11/17 (Sun) 04:50:11


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

          <感謝合掌 令和元年11月17日 頓首再拝>

心柔和なる者 - 伝統

2019/11/19 (Tue) 04:23:37


       *「光明法語」(11月19日の法語)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

          <感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである - 伝統

2019/11/28 (Thu) 04:04:17


    *「光明道中記」(11月28日《功成りて功に居らざる日》)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、
押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 令和元年11月28日 頓首再拝>

《去私すなわち神》 - 伝統

2019/12/01 (Sun) 03:52:06


          *「光明法語」(12月1日)より

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

          <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

《神に波長を合わせ》 - 伝統

2019/12/02 (Mon) 04:42:44


          *「光明法語」(12月2日)より

神は善人にも悪人にも、
太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。

それを受けると受けないとは、
自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。

          <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>

無我になる - 伝統

2019/12/09 (Mon) 04:11:39


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、その程度に「応じて、
神の光は蔽(おお)われるのである。
「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

            <感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>

《最早吾生くるに非ず》 - 伝統

2020/01/26 (Sun) 06:25:36


        *「光明法語」(1月26日)より

吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。

あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。

今日より後におこるすべての事件について、吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。

此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。

吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。

            <感謝合掌 令和2年1月26日 頓首再拝>

これ以外のメッセージは戯論だ - 伝統

2020/02/09 (Sun) 02:07:20


         *Web:かんながら(2020年02月08日)より

結局のところあらゆるメッセージは、

全体から分離した個としての「自己」など存在していない

と言うことに尽きる。

それ以外のメッセージは全て「自己」が見ている夢に過ぎない。


これは最近になって出てきた新しいメッセージではなく、
少なくとも2500年前にゴータマ・シッダールタ(釈迦)という
インドの青年が表明している真実である。


彼のメッセージはこの一点に尽きるのだが、
歴史の中で彼自身が神格化されたにもかかわらず、
この最も重要なメッセージが多くの人に広まる事はなかった。

「自己」が存在しないなどという事を誰が受け入れることができるだろう。



しかし釈迦は、「存在していない」と言っているのではない。

いまこうしてあなたや私が存在しているのは疑いようのない事実だが、
この存在は分離した単独の「自己」ではないと言っているのだ。

「自己」とは、ある種のエネルギーの凝縮がもたらしている錯覚であり、
その錯覚をもとにマインドが作り出した幻想だ。


森羅万象の全ては、全体が起こしている戯れであり、
このエネルギーの凝縮も、その凝縮から生まれる「自己」という錯覚も、
全ては全体の表れである。


「自己」が存在していないのならば、一体何が存在しているのか。

そこに名前を付けるのは簡単だが、
名前をつけた途端また新しい誤解が上積みされてしまう。

神とか、宇宙とか、全体とか、どんな単語でも表しきれないが、
言葉で伝達するための手段として仕方なく全体という言葉を使ってきた。


ここで最も重要なのは、この全体こそが本当のあなただということ。


このあなたであるところの全体を、
これからは「意識」という言葉で統一したいと思うようになった。


これまでも

「純粋意識」とか、

「目覚めた純粋意識」とか呼んできたが、

純粋という言葉を使えば純粋でないものを連想してしまう。


しかし純粋でない意識など存在していない。

混乱した意識などありえないのだ。


混乱したマインドは存在する。

と言うより混乱していないマインドなど存在していない。
マインドとは混乱した思考に過ぎないのだから。


それらの混乱した思考、混乱したマインドを知覚している
何らかの存在があり、それが意識だ。


意識はあらゆるものを知覚するが、何を知覚したとしても影響される事はない。

それはちょうど、どんな悲惨な映画を上映したとしても、
その映像を映し出していたスクリーンが何の影響も受けないのと同じだ。


そしてそのスクリーンこそが実体であり、
映し出されていた内容は幻影に過ぎない。


この例えは、存在に関する真実を表す最も近い表現だと思う。

  ( https://abetoshiro.ti-da.net/e11437072.html )

            <感謝合掌 令和2年2月9日 頓首再拝>

天地の生命と一枚になりきる - 伝統

2020/04/19 (Sun) 07:16:29


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。
どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、
いろいろと人間の理屈で考える。

打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が
不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、
性欲が汚れたものに見えてくる。

            <感謝合掌 令和2年4月19日 頓首再拝>

《内在の神の道具となれ》 - 伝統

2020/05/07 (Thu) 03:37:23


       *「光明法語」(5月7日)より

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。

自己の内に神が宿っているのであるから、
常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)をなくならせて、
ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

           <感謝合掌 令和2年5月7日 頓首再拝>

「無我」すなわち「素通し」になる - 伝統

2020/05/09 (Sat) 04:21:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、
第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

           <感謝合掌 令和2年5月9日 頓首再拝>

自分を「公な存在」に常に置き換えること - 伝統

2020/05/19 (Tue) 04:31:23


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日~19日)より

神は自己自身を実現するために「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。
しかしてわが欲することは神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。


我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

           <感謝合掌 令和2年5月19日 頓首再拝>

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃になる - 伝統

2020/06/01 (Mon) 04:43:14


         *「光明道中記」(6月1日《素直第一の日》)より 

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。
み心が「自分」に来るように祈ること。

           <感謝合掌 令和2年6月1日 頓首再拝>

捨我精進 - 伝統

2020/06/09 (Tue) 04:54:21


         *「光明道中記」(6月9日《捨我精進の日》)より 

【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

           <感謝合掌 令和2年6月9日 頓首再拝>

無我の教え - 伝統

2020/06/13 (Sat) 04:49:35


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」と不平に思う人は、
そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という存在はどこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから
神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。

「甲はまだ無我になっていない。
善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」
と祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。

相手の心に「我(が)」を握らせておいて、
神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

           <感謝合掌 令和2年6月13日 頓首再拝>

天の父われに在(い)まして成さしめ給う - 伝統

2020/06/15 (Mon) 04:48:34


       *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 令和2年6月15日 頓首再拝>

完全なる自由 - 伝統

2020/06/20 (Sat) 13:44:39


       *Web:かんながら(2020年06月20日)より抜粋

 >もし自分というものがないのなら人間に自由意志はありますか。

このような質問には何度答えてきたか分かりませんが、
今日は今日の答え方をしてみます。


もし僕が「自由意志などない」と言えば、心に抵抗を持つ人が出てきます。

自分が何も選べないのなら、人間は操り人形かと言うわけです。


しかし操り人形だとしても、そこには分離した「個」があります。

我々は操り人形でさえないのです。


あなたも僕も有機的につながった全体の一部であり、
摩訶不思議な宇宙的生命の現われです。

あなたの思考も感情も行動も、
あなたがやっているのではなく、何もかもが全体の表現です。



「単独に分離した自己はない」という言葉を、
分離した自己が知ることはできません。

これは決して知られないことなのです。


しかし、「自己はいない」という事実だけが人を苦しみから解放します。


だから釈迦は40年以上もかけて、
言葉にできないたったひとつの真理を語り続けたのでしょう。

彼は無我(自己の不在)を説くことで、
人々の苦しみを根底から消し去ろうとしたのです。



 >もし自分というものがないのなら人間に自由意志はありますか。


この質問は、釈迦がいた当時から問われてきました。

そしていまだに明確な言葉による答えは与えられていません。

「Yes」か「No」かの問題ではないからです。


これは体験的に見抜くことであり、知的に解ることではないのです。


自分がいないのなら、いったい誰が見抜くのか。

こうやってマインドはまた新たな問いを作り出しますが、
あえて答えるとしたら、全体が見抜くとしか言いようがありません。


体験した時、言葉にならない答えがあなたに流れ込みます。

そしてあなたは大笑いすることでしょう。


これが、初めて完全なる自由を知る瞬間です。

あなたが自由になったのではなく、あなたという幻影から自由になったのです。

(中略)

・・・・・・・・・


今日は

一粒万倍日であり天赦日でもあります。


一粒万倍日は、蒔いた種が1万倍になって実るという、
願い事を心に描くのに最良の日。

そして天赦日とは、
天がいままでの全ての罪を許してくれる最上級と呼ばれる日。

この二つが重なる日は年に2回ほどです。


そして明日は夏至。

すべてがスタートする新月と重なり、さらに夕方には部分日食が起きます。


時代が大転換するシンボルのような日です


https://abetoshiro.ti-da.net/e11587077.html

        <感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝>

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