伝統板・第二
ひかりの一日一言45~萬教すべて一つの眞理を礼拝す - 伝統
2018/12/01 (Sat) 04:37:46
この「萬教すべて一つの眞理を礼拝す」は先代の掲示板にて、
今は霊界へと、活躍の場を移しました”平賀玄米 さま”によって
投稿されたものですが、現時点では、消滅いたしております。
”平賀玄米 さま”のご遺徳に、心より感謝申し上げます。
ひかりの一日一言《1日》
《1日 人間は一体何者であるか》
ソクラテスは“汝みずからを知れ”といったのであるが、
人間として最も重大な問題は、人間は一体何者であるか、
それは物質で構成されている単なる肉体であるか、
それとも物質を超越した霊的実在であるかという
“人間存在の根本自覚”の問題である。
人間の外見を観ればたしかに、かれは物質の食物をたべ、物質の空気を吸い、
そこから肉体成分の補給をし、肉体的活力を得ているのである。
だから人間は物質の化学的生産品だと普通の人は結論するのである。
けれども果たして人間は肉体という単なる物質的化学生産品であろうか。
否々、決して人間は単なる物質的産物ではないのである。
人間は“神の生命(せいめい)”の地上降誕であり、
肉体はその“神の生命(せいめい)”の地上生活上の道具であり、
地上生活を営む場合の表現体に過ぎないのである。
本体と表現とは異なるのである。
それは画家と、画家の描いた絵画との相異にも似ている。
画家という人間は本体であり、絵画は単なる表現体に過ぎない。
表現体を“人間”そのものと誤解してはならないのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P288~289) より
・・・
<参考:”平賀玄米 さま”ご投稿の数々の記事については、
次のWebにてご確認ください。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7702987 >
<感謝合掌 平成30年12月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2018/12/02 (Sun) 04:04:49
《2日 何故、胃袋の中と試験管の中とでは相異が起るか》
私たちはパンや野菜や色々の肉類を食物として胃袋に入れると、
胃の粘膜からそれに適する消化液が分泌(ぶんぴつ)され、
消化液の化学成分によって其処に化学的な醗酵現象が起って、
食べられた食物は原形を失ってドロドロの粥状(かゆじょう)となる。
それは必ずしも胃の附(ふ)の中に食物を入れないでも
試験管内にそれと同じ食品を入れ、それに適当の水分と消化酵素とを入れ
或る時間経過すると、その食品は胃袋の中の食物と同様に
化学的に消化されて粥状となる。
そこまでは胃袋の中で起る現象も、試験管の中で起る現象も全く同じである。
物質の物理化学現象は、不可不の法則(必ず起る、それ以外はあり得ない
普遍的法則)で行われるのであって、場所や個性の移動変化によって
影響を受けないのである。
それは酸素と水素が集って白金という触媒にふれると
必ず水になるようにである。
ところが試験管の中の食品は粥状のドロドロになった儘で
それ以上に創造的又は造形的な働きは起らないで、
それ以上は腐敗過程に移るだけのことである。
何故(なぜ)なら、試験管の中には、
直接“生命(せいめい)”がその食品に働きかけないからである。
“生命(せいめい)”は“主動者”であり、物質は物理化学的法則によって
機械的に働くだけであるから、“主動者”なる“生命(せいめい)”の
ない所では何ら積極的な創造は起らないのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P289~290) より
<感謝合掌 平成30年12月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2018/12/03 (Mon) 03:16:45
《3日 人間の主体なるもの》
胃袋の中に入れられた食物は粥(かゆ)状にまで消化され、
更に腸内に進行して消化が完全に行われるが、消化するに従って、
単にそれが粥状になるだけではなく次なる発展があるのである。
その栄養分と糟粕(かす)とが選(え)り分けられて、栄養物だけが吸収せられて、
それが個性ある人間の肉体になるのである。
谷口の食した食物は、谷口特有の個性ある体質の肉体となり、
個性ある血液型の血液や唾液その他のホルモンとなり、
個性ある特徴ある容貌の肉体となる。
牛肉を食しても牛の顔にはならず、鶏肉を食しても鶏(とり)の顔にはならず、
谷口特有の個性ある顔の姿に、その食品の物質分子が整列せしめられ、
形成せられるのである。
谷口以外の人が食べれば、その食品は決して谷口の顔にはならないのである。
其処には個性ある創造が行われる。
同一成分の物質でも、同一普遍の化学変化に終始することなく、
異なる個性ある創造が行われる。
この個性ある創造をいとなむところの“生命(せいめい)” ――
それは肉眼には見えないから、それは霊的存在であって、
肉体の奥にある人間の主体なるもの ―― “神の子”なのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P290~291) より
<感謝合掌 平成30年12月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2018/12/04 (Tue) 03:19:34
《4日 あなたは完全に肉体を支配できる》
人間の肉体は、人間の主体である霊的存在の驚くべく完全なる霊的叡智が
物質の原子分子の配列を指導して、ただの物理化学的現象以上に、
個性ある創造力によって創作し出されたる産物であるのである。
肉体の分子原子の配列の具合は、
人間の主体である“霊”によって支配されているのである。
それが如何に霊妙に微細な点に至るまで、
個性ある叡智によって支配されているかは、
同じく人間でありながら、各人の容貌が悉く微妙に異なり、
細かく分類すれば血液型が悉く異なっておる事実によっても、
ただの無個性の物理化学的法則によって出来上がった物が
人間の肉体でないことを証明するのである。
そんなに微妙に肉体の分子・原子の配列を支配する叡智が
人間には宿っているのであるから、
その叡智を完全に発動させて全身の細胞を支配せしめれば
人間は健康になるより仕方がないのであるが
その叡智を“迷いの想念”が充分働かせないようにするため、
恰も妨害電波がテレビの画像を崩してしまうように、
完全な肉体の姿を狂わせてしまう。
これが病気の《もと》である。
しかし私たちは“神の子”であり霊的実在であり、
健康の源泉であるところの霊的叡智をそなえているので、
“迷いの想念”を除き去り、霊的叡智を働かすようにようにすれば
直ちに健康を取り戻すことができるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P291~292) より
<感謝合掌 平成30年12月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2018/12/05 (Wed) 03:08:44
《5日 食物その他の摂生は必要か》
神が“神の子”の生命(せいめい)を吾々人間に降し給いて、物質分子・原子を、
その叡智によって組立てて人体を造らしめられたその過程に於いて、
生命(せいめい)は物理化学的法則をも利用しているのであるから
(例えば呼吸作用や食物の消化過程に於けるが如く)
私たちは、強いて物理化学的法則を破る必要はないのである。
清浄な空気の中に住み、適当な栄養分を有する食物を選んで食し、
適当な運動をすることは、生命(せいめい)が物理化学的法則を利用して、
自己の叡智を現象世界にあらわす過程に正しく協力することになるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P292) より
<感謝合掌 平成30年12月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2018/12/06 (Thu) 02:29:39
《6日 肉体を貫き超えてその奥にある“神の子”を見ること》
物質分子が結合して人間としてあらわれているのは、
神の叡智が主体となって物質分子を支配している結果である。
人間の主体は“神の叡智”であるのである。
“人体”を“人間”そのものと認めていたのは、
吾々の五官の惑わしでしかなかったのである。
私たちは“神の子”であり“霊”であり、完全であり、調和であり、
完全以外、調和以外の状態は、吾々の五官が錯覚によって
そのように見えていたに過ぎないのである。
吾々の本体は“神の叡智”であるから、
叡智というものは物質ではないから肉眼には見えないものである。
ただその叡智の表現としての表現体を、仮に“我(われ)”として観るのである。
それは地上生活及び地上の仕事遂行上の便宜のために五官によって、
仮に自己を肉体として観るのである。
吾々は肉体という表現体を貫き超えて、
その奥にある霊なる自己を観なければならないのである。
それは自個に対してもそうであると同様に他個に対してもそうでなければならない。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P292~293) より
<感謝合掌 平成30年12月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2018/12/07 (Fri) 04:15:52
《7日 悪人は本当は存在しない》
悪人は《無い》のである。
罪を犯した罪人(つみびと)もないのである。
罪そのものを神は造らないのであるから
罪はないのであるから罪の犯しようもない譯である。
だから人が罪を犯したことをみとめ、
自分が寛大にも彼を赦してやったなどと
傲慢なことを考えてはならないのである。
このような「悪なる彼」を《みとめ》た上で、彼を赦すのであったら、
決して彼を善導することはできないのである。
何故なら、現象界には、「みとめたもの」があらわれる
という法則が支配しているからである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P293) より
<感謝合掌 平成30年12月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2018/12/08 (Sat) 04:48:39
《8日 すべての善きものは神より来る》
すべての善きものは、それが、たとい現象人間から発生したように見えても、
実は“存在の本源”即ち“神”から来たのである。
この事を私たちは深く理解しなければならないのである。
人間の生命(せいめい)の、肉体の動きのように見えていても、
実は肉体は単に動かされているだけであって、
内部の“存在の本源”即ち“神”からあらわれて来ているのである。
その“存在の本源”から来る催しを、
少しも歪めることなく行動にそれを顕したとき、
その人は希望を成就し、目的を達成し、成功と繁栄の主人公となるのである。
その聖なる“本源”から来る生きる力を、そのまま歪めずに生理作用に顕すとき、
それは健康なる肉体となるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P294) より
<感謝合掌 平成30年12月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2018/12/09 (Sun) 03:55:17
《9日 “悪”は存在しないのである》
“存在の本源”(神)から顕れて来るものはすべて“善”であるならば、
“悪”は何処から来るのであろうか。
“悪”を神はつくらないのであるから“悪”は本来無いのである。
“無いもの”は何処からも来ることはないのである。
しかし“悪”は在るかのように見える。
それは恰度、夕方になると“闇”が
どこからともなく訪れて来るように見えるのとよく似ている。
しかし“闇”はどこからも訪れて来ることはないのである。
光が欠乏して来ると、その欠乏の状態が”闇”と見えるだけの事である。
それと同じく、“悪”というものはどこにも実在するのではなく
“善”がそこに素直にスラスラと姿を顕さず、善が歪められたり、
中断されたり、欠乏したりする状態に過ぎないのである。
善のあらわれを歪めないように、善のあらわれを抑制しないようにすれば、
顕れるものはすべて“善”のみとなるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P294~295) より
<感謝合掌 平成30年12月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2018/12/10 (Mon) 04:05:06
《10日 何が“善”の顕現を妨げるか》
では、何が“善”のあらわれようとするのを、
歪めたり抑制したりするのであろうか。
現象世界にみとめられるものは、
すべて“心”という“認識の媒介”を通してあらわれて来るのである。
“心”がカメラレンズの働きをし、
迷いの心がフィルターのような働きをするのである。
フィルターの色の濃いのをかければ、かけるほど
カメラの受け入れる光線は弱くなり、
写真にうつる光の程度も弱くなるのである。
それと同じく迷いが濃厚になればなるほど、
“存在の本源”から来る光は抑制せられ、
屈折せしめられて不完全な状態が顕れて来ることになるのである。
その“迷いの心”とは一体何であろうか?
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P295) より
<感謝合掌 平成30年12月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2018/12/11 (Tue) 04:04:57
《11日 完全な感謝は明るいカメラ・レンズである》
“善”の顕現を抑制したり、歪めたりして、
そこに“悪”と称する虚像をつくり出すところの“迷いの心”とは、
神の心に波長の合わない心なのである。
それは“怒り”“憎しみ”“嫉妬”“排斥”“悲しみ”“争い”“貪欲”
“利己心”“恐怖”“憂鬱”-----等の暗い、相互に衝突したり
対立したりする場合に起る想念が、それは対立であるが故に、衝突し、抑制し、
屈折せしめて、本来の完全な相(すがた)を顕すことをできなくさせるのである。
このような心を“迷いの心”というのである。
“迷いの心”を去るには、そのような対立闘争の心を抛棄して、
すべてを感謝してそのまま天地の恵みを完全に受けとる心になればよいのです。
それをカメラに喩えればすべての光を抑制無しに受け入れる
良質の明るいカメラ・レンズを備えるのと同じことです。
これによって、どんな微細な“神の恵み”のすがたでも
現象界に写し出すことができるのである。
「天地一切のものに感謝せよ」の神示はこの真理を示すのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P295) より
<感謝合掌 平成30年12月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2018/12/12 (Wed) 04:32:17
《12日 感謝の心は報恩行によって具体化する》
感謝の心は、それが報恩行となって、
具体的な姿にあらわれた時に完(まっと)うせられるのである。
報恩行を伴わない感謝は、折角立派なF2位の明るいレンズをもちながら、
レンズ・キャップでそれを外に顕さないので、
何も写らないのと同じことなのである。
報恩行として感謝が具体的な行いとなって外にあらわれたとき、
レンズ・キャップが取り外されて、
完全に神の恵みを現象界に写し出すことができるようになるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P296~297) より
<感謝合掌 平成30年12月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2018/12/13 (Thu) 04:21:36
《13日 報恩行の顕現としての致心》
報恩は致心・献資・挺身の三つの相(そう)をもってあらわれる。
致心はあらゆる事物を見てそこに神の愛と智慧と生命(せいめい)とを見出して、
そこに心を致して感謝することで、神に感謝するだけではなく、
神の表現としての天地万物に感謝の心を致し、唯単に感謝するだけではなく、
それに対して行き届いた愛念を起すようにすることである。
一枚の紙にも感謝して、それをおろそかにして浪費しないことである。
すべてに行き届くことである。
愛がすべての事物に行きわたりて偏りなきことである。
そこから生活が自然に整い、無駄がなくなり、
なす事おのずから、その急所にあたり、効を奏することになるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P297) より
<感謝合掌 平成30年12月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2018/12/14 (Fri) 04:39:48
《14日 献資の報恩行について》
報恩行の第二のあらわれは献資となってあらわれる。
献資は旧約聖書では什一献金(Tithing)という名によって呼ばれており、
自分の収入の十分の一を、神様の御用や、慈善事業や、公けの福祉のために
献金することをいうのである。
そしてそれを献金したときには、神様の悦びとなって、
その献金額の数倍になって報いられて来るのであると
時には宣伝せられることがあるのである。
しかし、「数倍になって報いられる」という
最も利廻りのよい貯金のように考えて献金するならば
それは商取引であって、決して報恩でもなければ感謝でもなく、
決して宗教行事ではないのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P297~298) より
<感謝合掌 平成30年12月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2018/12/15 (Sat) 04:06:40
《15日 無功徳こそ本当の功徳である》
梁の武帝は佛教に非常に熱心で、僧に供養し、寺院を建立し、
みずから「放光般若経」を講義したときには、天人がその真理を称えて
天から華を降らせたというほどであったというのである。
その頃、達磨大師が天竺から支那にやって来て武帝に面会した。
武帝は大いに悦んで自分の部屋に達磨大師を迎え入れて、
「自分はこのように、僧に献金供養し、寺院の建立に献金し、
多くの人たちを佛教に導いているが、その功徳はどれ程であるか」とたずねた。
すると、達磨大師は「無功徳」と答えて、
「功徳」いう報酬を目的として行う愛行や善行は
決して純粋の感謝から来る宗教的行事ではない
ということを示されたと伝えられている。
この点よくよく胸に畳み、衿を正して無功徳を目的として献資するのが、
本当の報恩行であるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P298~299) より
<感謝合掌 平成30年12月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2018/12/16 (Sun) 03:44:49
《16日 献資には功徳がある》
しかし「献資に功徳がない」と言ってしまえば、それは嘘になるのである。
この世界には「与えよ、さらば与えられん」の法則があり、
“善き事”に与えておけば、自分がその“善き事”を推進する
動力の一端を担うことになるのであるから、
その“善き事”の結果を穫り取ることになるのである。
しかし、そのような結果を打算して献資することは、
一種の投資であって、悪い投資ではないけれども、純粋な報恩行として
精神界の高い階級に属する善業(ぜんごう)とはならないのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P299) より
<感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2018/12/17 (Mon) 04:18:41
《17日 今、そして永遠に神と一体である》
佛教に於いても、死んでから極楽浄土という荘厳の楽園(パラダイス)に
生まれられるという功徳を目的として念仏する信者がある。
しかしまた“報恩の念仏”という念仏もあるのである。
これは既に佛の慈悲の中に救われていることを報恩の意味で、
佛を憶い起すための念仏であるのである。
キリスト教と佛教とを根本的に異なるように説く人もあるけれども、
人間は一つの神から生命(せいめい)を享けて此世に誕生したのであるから、
何教信者であろうと一つの神によって救われるのである。
その神の名をGodと呼ぼうと、佛(ほとけ)と呼ぼうと、
それは人間が勝手につけるのであって、
神そのものには固有名詞などはないのである。
だから南無阿弥陀仏と“念仏”するということは
「オオ、神よ、あなたは私の父であります。
あなたの内に私は生きており、あなたは私の内に生きています」
と祈ることと同じなのである。
爰(ここ)に注意しなければならないのは、
神は“今”そして“永遠”に“わが内”に在(あ)り、
また“今”そして“永遠”に我(われ)は“神の内”に在るということである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P299~300) より
<感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2018/12/18 (Tue) 04:08:28
《18日 心で神の祝福をみとめることによって、それが実現化する》
神は“今”そして“永遠”にわが内にあり、
われは“今”そして“永遠”に神の内にあるとするならば
すべての富の供給も、幸福も、健康も、平和も“今”そして“永遠”に
既に此処に《ある》という譯であって、什一献金をするから、特別に、
その献金者に幸福が与えられるという譯ではないのである。
だから献金を代償として交換的に幸福が与えられるなどと考えることは、
神を誤解し神を侮辱することになるのである。
唯その既に与えられている幸福を、現実の世界に見出すには、
自分の心の眼がひらかなければならないのである。
何故なら、心でみとめたもののみが
現実界の存在として体験されるものだからである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P300) より
<感謝合掌 平成30年12月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2018/12/19 (Wed) 04:14:35
《19日 心でみとめようとしても現実にそれが実現せぬのは》
心でみとめるものが顕れるというのは、
現象顕現の法則のうちの一つであるけれども、
どんなに幸福を心に描いて認めようと思っても
それが顕現しない場合がある。
たしかにこの時間にはNHKのテレビの第一放送がある。
それは「幸福」という番組であって、その放送番組を見ることが出来れば
幸福を味うことができるのだと思って、テレビにスイッチを入れてみたが、
一向にその「幸福」番組が出て来ないならば、それは何故であろうか。
放送は《ある》し、テレビも《あり》、スイッチも入っている。
そしてそれを視聴したい意欲もある。
―― しかしその番組が現実にあらわれて来ないのは
波長をNHKのチャンネルに合わせていないからである。
既にそこに放送番組が来ているのに
それに波長が合わなければ見ることはできない。
それと同じく、神の恵みと賜物とは、既に与えられているけれども、
それは霊的存在であるから、心の波長を合わした者だけに、
その賜物が視聴し得る形にあらわれて来るのである。
神想観や祈りを続けていると、自然と、自分の心が平和になり、
神に振向き、神の放送する幸福番組に波長が合うことになり、
霊的幸福が物質的形に化して面前にあらわれることになるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P301) より
<感謝合掌 平成30年12月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2018/12/20 (Thu) 04:11:27
《20日 まだ魂の幼い人は先輩の導きを必要とする》
多くの人たちの心はまだ幼児(ようじ)の如く、発達途上にあるのであって、
テレビ・セットを貰っても、それを如何にしてアンテナをつけ
放送電波に波長を合わせればよいかを知らないのである。
やがて、全ての人間の魂は生長して、この幼児(ようじ)の状態を脱して、
神様の「幸福」放送局から放送する祝福の霊波をみずからの工夫によって感受して、
すべての人間が幸福に平和に無病に裕(ゆたか)な供給の世界に現実に住むように
なるであろうが、
それまでは霊的先達の指導を受けて、
「人生テレビ」に幸福を受像する方法を学ぶ必要があるのである。
そのような幸福受像の「人生テレビ技術者」になる人が宗教家であり、
色々の教育に設けられている“人生相談”の係である。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P302) より
<感謝合掌 平成30年12月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2018/12/21 (Fri) 04:31:30
《21日 神と人間との距離を縮める媒介》
神は放送局であり、人間は受信局である。
神は父であり、人間は神の子である。
本来同一生命を内(うち)に有し、本来波長が合う筈であり、
その間(あいあだ)に本来距離はないのであるけれども、
多くの人は、神は高く遠きところに在し、人間は低き地上にあって、
「中々、神に近づき難い」 という意識上の習慣の故に、
神の 「幸福」 放送局の霊波を感受して、具体的に幸福を受像化する
ことができないことがあるのである。
それは、この世界は意識(心)の世界であるから、
神と人間とは本来一体であるけれども、
意識の世界で、神を遠く隔てて想望しているから、そのままでは、
神と自分とを連絡させることが出来ない場合があるのである。
このようなとき、
神と人間との距離を縮める媒介となる宗教教師を必要とするのである。
テレビの放送に於いても、日本とアメリカの如く距離が遠く
その放送番組を受像できない場合、通信衛星というのを飛ばして、
それに放送電波を反射して貰うようにすれば、アメリカの放送でも
日本で現実化して受像して視聴することができるのである。
これと同じように、神と人間との意識上の距離を縮める媒介となるのが、
信仰深き宗教の先輩の祈りなのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P302~303) より
<感謝合掌 平成30年12月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2018/12/22 (Sat) 04:09:19
《22日 神の愛の流通パイプとなる光栄》
吾々が献金しながら、
「《自分》が献金している」と傲慢な心を起してはならないのである。
何故なら、すべての富は神より来(きた)るのであるから、
人間が神に献金する何物もないのである。
神が神に献金するのである。
それは神は愛であるから、神の愛を実現せんがために、
人を通じて、宗教や慈善事業や公共の福祉施設に、その設立費や維持費や
公共の礼拝堂の建設費にそれを循環流通せしめ給うのである。
ただ我々が為し得ることは神の愛の実現の流通パイプとなる
光栄に預ることなのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P303~304) より
<感謝合掌 平成30年12月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2018/12/23 (Sun) 04:15:15
《23日 神の流通パイプの中を詰らせてはならない》
吾々が神の供給の流通パイプと完全になり得たときには、
神は無限の富者であり、無限供給の本源であるから、
吾々の懐の中には、神の無限の富が必要に応じて
常に裕(ゆたか)に流通することになるのである。
自然にそう成るのであって、
無限供給を得ようと思って献金を《自分》がするのではないのである。
神が神の愛の事業に、神の富を無限循環せしめ給う。
吾々はただその流通パイプに成るだけの事である。
その事がわかるならば、神の愛の事業に献金したからとて、
それだけ自分の富が減る譯ではないのであり、
常に神の供給が自分の内に流通する習慣がつくならば、
愈々益々自分の経理内容は裕なものになって来るほかはないのである。
私たちが無限供給を受けることができず、常に貧しき状態であるのは、
「自分の富」だと“有限の富”を握って、それを次に廻すことを忘れて、
富の流通パイプの中を、我(が)の所有欲の塊で閉塞してしまっているからである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P304) より
<感謝合掌 平成30年12月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2018/12/24 (Mon) 03:58:52
《24日 人間は地上に天国を建設するために誕生した》
自分の富を“自分の富”だと思うことは錯覚に過ぎないのである。
“自分の富”などというものは一つもないのである。
「これは自分の富だ」と思ったとき、
無限流通のパイプである自分の意識に、
流通を妨げる塊ができることになるのである。
誰ひとり、自分の富によって自分の生活を支え得る者はなく、
自分の富によって他(た)の貧しき者を救い得る者はなく、
誰ひとり、自分の富によって教会や講堂の建立に献金し得る者もないのである。
神が、唯、神のみが、その愛を実現すべく、
その無限供給を傾けて吾らに注(そそ)ぎ給うのである。
この宇宙は神の宇宙であり、この世界は神の世界であり、
この世界の富は神の富であり、この世界の人間は、皆神の分身であるのである。
神の分身即ち“神の子”が集って、
この地上に天国の美しき光景を再現するために、
吾々は地上に降誕して来たのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P304~305) より
<感謝合掌 平成30年12月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2018/12/25 (Tue) 04:21:34
《25日 自分が環境や条件の主人公である》
人間が貧しくなるのは、自覚の欠乏から、
神の無限供給の流れに「我(が)」の執着の迷いによって
堰(せき)を築いてしまうからである。
供給の流れの本源が神であることに気づかず、小さな現象的自分が
色々苦労して供給を造り上げるのだと錯覚しているからである。
錯覚は意識の中にある。
供給の欠乏は、供給そのものにあるのではなくして意識の中にあるのである。
境遇がどうだとか、環境が悪いとか、条件がどうだとか、
世間一般が不景気だからとか、競争者があらわれたからとか、
流行が変ったからだとか、色々の原因にアリバイを求めてはならないのである。
どんな条件の下(もと)に於いても伸びる人は伸びるのである。
敗戦によって、灰燼の中から起ち上がった日本人は、
いずれも殆ど「無一物」から出発しながら、
或る人は、長者番付の筆頭にあがっているし、
或る人は依然として貧しくて、社会の下積みになっているのである。
それは環境や条件の問題ではなく、皆意識の問題である。
環境も条件も悉く自分自身が造るのである。
自分が環境や条件の主人公であるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P305~306) より
<感謝合掌 平成30年12月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2018/12/26 (Wed) 04:34:12
《26日 基督教も佛教もその神髄は同様である》
“神の子”は決してイエスだけではないのである。
“神の子”は決して一人のユダヤ人だけではないのである。
肉体を裸にし、人間から肉体という衣裳を脱がせてしまい、
その内に宿っている聖霊だけを取り出して見るならば、
すべての人間は“神の子”なのである。
釈尊もこの事を教えた、「一切衆生悉く佛性有り」と。
そして、その「佛性なるもの」「神聖なるもの」「汚れなきもの」
それが本当の人間であるということを釈尊は教えたのである。
そしてすべての人間は“天上天下唯我独尊”的存在であると教えたのである。
そう教えてもよく理解できないで、人間を“罪悪深重の凡夫”としか
感ずることが出来ない者に対しては、「佛(ほとけ)」なる至高のものを意識の頂点に置いて、
それに対して至心廻向(心を専らにして振向く)するように教えた。
「自分ではどうしても救われないから絶対者の存在を想定してその方へ振向き、
絶対者と一体になれ」と教えたのである。
これが佛教の他力の教えである。
この事はイエスが
「われみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在(ましま)して
御業(みわざ)を為さしめ給うのである」
といったのは、釈尊の他力の教えと全く同一なのである。
真理はキリスト教も佛教も結局おなじことなのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P306~307) より
<感謝合掌 平成30年12月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2018/12/27 (Thu) 03:46:10
《27日 “永遠のキリスト”われに宿ると知ること》
私たちが本当に自由人となり、完全に解放されたる人間となるためには、
人間は“神の子”であり
“神の子”とは、まだ“神”に生り切らない小さな存在という意味ではなく、
神《そのもの》が自己に宿っていて、その神《そのもの》こそ
“本当の自分”であるということを意味するのである。
それがパウロの「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」
(「ガラテヤ書」第二章第二十節)の自覚である。
パウロだけにキリストが宿っているのではなく、
すべての人間が、自己の内生を自覚するとき、
「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」
の自覚を得るのである。
吾々は肉体がユダヤ人と見えたるキリストを知るだけではなく
“永遠のキリスト”“普遍的キリスト”を知らなければならないのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P307~308) より
<感謝合掌 平成30年12月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2018/12/28 (Fri) 04:37:35
《28日 “すべての神の奥に唯一の神を観よ》
旧約聖書「出埃及記」第二十章第三節に
「汝 我面(わがかお)の前に我(われ)の外(ほか)何物をも神とすべからず」
とあるのをキリスト教の神のほかの神を拝んだらいけない、
それ以外の教団の信ずる神は邪神である、
そのような邪神を拝んではならないという風に
排他的に解釈するキリスト教の宣教師もあるけれども
「我の外(ほか)、何物も神とすべからず」という聖句の意味は、
「凡そ宇宙に本当の神は唯一つであるから、
他宗の神などというものは《ない》のであって、
どの神も皆、この一つの神の表現であるから、どの神に対しても、
その奥にある唯一の神“われ”を拝め」という意味なのである。
この本当の意味が分ったら、宗派争いなどする必要はなくなるのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P308) より
<感謝合掌 平成30年12月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2018/12/29 (Sat) 04:14:39
《29日 どこの寺院からでも拝める普遍的神》
すべての神の奥にある唯一の“本源の神”を礼拝することが分かれば、
万教は一つの神に帰一することができるのである。
イエスは「ヨハネ伝」第四章第二十一節に於いてサマリヤの女に対して
「おんなよ、我が言うことを信ぜよ、此の山にもエルサレムにもあらで、
汝ら父を拝する時きたるなり」といっている。
“此の山”といい“エルサレム”というのは“キリスト教会”を指すのであり、
キリスト教会だけで“眞(まこと)の神”を拝むのではなく、
どの宗派のどの教会又は寺院からでも“眞(まこと)の神”(唯一の本源神)を
拝むようになるのであるという意味であって、
人種が異なり、その宗教を創始した人が異なるに従って、
神名(しんめい)のつけ方等に色々異なることがあっても、
どの寺院のどの教会からでも、唯一の“眞(まこと)の神”を礼拝することが
できるのだという意味なのである。
キリストは決して排他独善主義の宗教を説いたのではなく、
普遍的な、どこの山からでも、エルサレムでなくとも、
どこの寺院からでも拝める神を説いたのである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P308~309) より
<感謝合掌 平成30年12月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2018/12/30 (Sun) 04:42:56
《30日 宗教家よ口に剣をとること勿れ》
世界の平和は、神を信ずる宗教ですら宗派争いをして
激しく他(た)の教団の悪口(わるぐち)を宣伝して
自分の宗派を拡大しようというような劣悪な教団が幅を利かしている
ような有様では、到底達成することは出来ないのである。
この山にてもあれ、この教会にてもあれ、この寺院にてもあれ、
本尊の名前は異なれども、等しく宇宙本源の唯一の神を礼拝するように
ならなければならないのである。
キリストは「剣(つるぎ)をとる者は剣(つるぎ)にて滅びる」と
ペテロに教えているのであるが、この剣(つるぎ)は決して、
鋼鉄をもってつくった剣(つるぎ)だけのことではないのである。
烈しく他教団を悪口(わるぐち)をもって斬りまくる宗教人は、
やはり剣(つるぎ)をとる者である。
神は愛であるのに、愛をもって一切宗教を包容することができずに、
攻撃をもって自分の勢力圏の増大を願うが如きは結局、
我執と貪欲と権勢欲によって振り廻されているのであって、
そのような者は宗教界の風上にも立つことができないものである。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P309~310) より
<感謝合掌 平成30年12月30日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《31日》 - 伝統
2018/12/31 (Mon) 04:51:16
《31日 世界平和の根本となるもの》
世界の平和は権勢欲や、自分の属する団体の勢力拡大欲によっては、
得られるものではないのである。
世界のどこかで争いが起り、戦争が起っているところを注意して見よ。
其処には権勢欲と勢力拡大欲によってその目的を達するためには相手を傷つけることを
何とも思わぬ残忍刻薄の人間によって指導されていることを見るのである。
そのような自己拡大欲によっては決して平和は来たらないのである。
平和は、真理によって魂が輝かされ、そのような争いの愚かさを知り、
すべての人間を唯一の神より出でたる兄弟姉妹であると知り、
一人の人でも傷つくことを、自己みずからが傷つくごとく悲しく思う人々の
殖えることによってのみ起るのである。
どの山からも、どの国からも、どの寺院からも、どの教会からも、どの人種からも、
どの民族からも、“唯一の神”のみを拝し“唯一の神”のほかに、
別々の神なきことを知ることによってのみ得られるのである。
釈尊は「山川草木国土悉皆成仏・有情非情同時成道」と悟られたが、
山も川も草も木も国土も、情有るものも情なきものも、
その奥に同時に(今此処に)宇宙本源の神やどると悟られたのが釈尊である。
山や川や草木にすら、同時に神やどるのであるのに、すべての宗教の講堂に、
教会に、寺院に、唯一の普遍的親様なる神が宿らないでいる筈はないではないか。
谷口雅春著『人生の秘訣365章』第12篇(P310~311) より
<感謝合掌 平成30年12月31日 頓首再拝>
・・・
<参考Web>
(1)ひかりの一日一言①
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6455552
(2)ひかりの一日一言②
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6479787
(3)ひかりの一日一言③
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6505650
(4)ひかりの一日一言④
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6527684
(5)ひかりの一日一言⑤
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6558249
(6)ひかりの一日一言⑥
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6584563
(7)ひかりの一日一言⑦
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6618774
(8)ひかりの一日一言⑧
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6651661
(9)ひかりの一日一言⑨
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6681257
(10)ひかりの一日一言⑩
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6711243
(11)ひかりの一日一言⑪
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6745089
(12)ひかりの一日一言⑫
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6778844
<以下は、「幸福を招く365章」より」>
(13)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439
(14)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429
(15)ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898754
(16)ひかりの一日一言⑯~心霊への目覚め
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6929870
(17)ひかりの一日一言⑰~健康への招待
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6962847
(18)ひかりの一日一言⑱~寿福への招待
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6990572
(19)ひかりの一日一言⑲~愛を人生に処方して
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7021791
(20)ひかりの一日一言⑳~祈りを生活に処方して
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7058416
(21)ひかりの一日一言21~あなたも神癒が受けられる
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7097406
(22)ひかりの一日一言22~光に向う我が運命
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7149847
(23)ひかりの一日一言23~正しき想念の使い方
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7190605
(24)ひかりの一日一言24~われ肉体以上のもの
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7274701
<以下は、「生活の智慧365章」より」>
(25)ひかりの一日一言25~幸福はどうしてくるか
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7538235
(26)ひかりの一日一言26~悦びはどうしてくるか
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7557795
(27)ひかりの一日一言27~智慧はどうしてくるか
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7575483
(28)ひかりの一日一言28~無限の供給を受ける道
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7590764
(29)ひかりの一日一言29~失敗から立ち上がる道
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7606832
(30)ひかりの一日一言30~豊かさを得る道
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7630690
(31)ひかりの一日一言31~肉体の苦痛はどこからくるか
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7645085
(32)ひかりの一日一言32~治癒する力はどこからくるか
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7658207
(33)ひかりの一日一言33~若さと元気はどこからくるか
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7669112
(34)ひかりの一日一言34~〝神〟を生活の中に生きるには
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7686486
(35)ひかりの一日一言35~自己の本質を知るには
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7703081
(36)ひかりの一日一言36~運命をひらくには
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7724106
<以下は、「人生の秘訣365章」より」>
(37)ひかりの一日一言37~希望実現のための法則
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7732872
(38)ひかりの一日一言38~~心で人生を支配せよ
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7743087
(39)ひかりの一日一言39~あなたは運命の主人公
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7751317
(40)ひかりの一日一言40~繁栄を実現するための根本問題
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7761105
(41)ひかりの一日一言41~祈りに強くなる31章
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7770328
(42)ひかりの一日一言42~天国を地上に実現するには
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7778386
(43)ひかりの一日一言43~”神の子”としての力を出す道
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7787449
(44)ひかりの一日一言44~大宇宙に満つる癒力
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796082
光明日訓(平成26年版)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7732871
光明日訓(平成28年版)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7538248