伝統板・第二

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「ヨガと生長の家」② - 夕刻版

2018/11/18 (Sun) 18:17:43

     *伝統板・第二「ヨガと生長の家」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6919397

《不倫の代償は”死”だった・・・。》

         *Web:Live Well Labo(2018年11月12日)より

パラマハンサ・ヨガナンダが書いた有名な本に
『あるヨギの自叙伝』という本があります。

非常に素晴らしい本でありまして、私の印象を申しますと、
『生命の實相』で書かれていることを確信させてくれる本であるなぁ、
ということです(あくまで個人的な印象です)。

この本には奇跡のようなことがたくさん書かれているのですが、
その事象は『生命の實相』に書かれていることと基本的に同じなんですね。

だから『生命の實相』に慣れ親しんだ私には、すんなりと入り込めました。

あっ、そうなんだ。

ああ、こういうことなんだ・・・。

文章を読んで、放心状態におちいることしばしばでした・・・。


さて、その中で不倫にまつわる非常に興味深い話が紹介されていますので以下紹介します。

もし今不倫をしている方がいましたら、心してお読みください。

決してあなたを罰しようとしている訳ではありません。

いや、これを読んで、ぜひそのような不正をやめる決意をして頂きたいと思います。

以下の話はヨガナンダの師の師である、ラヒリ・マハサヤの一弟子の回想であります。

ここに書いてあることを信じるか、信じないか、それは読む人の自由。

それほど信じがたいこと(奇跡)ではあります。

ではどうぞ。


   ある晩、雇い主は私について来て、厚かましく大師
   (管理人注:ラヒリ・マハサヤのこと)の部屋まで上がり込んで来ました。

   彼は、いつもの放言どおりこの大師を罵倒してやろうと
   意気込んでいるようすでした。

   彼が席に着くやいなや、ラヒリ・マハサヤは、
   居合わせた十人余りの弟子たちに向かって問いかけました。

   『今夜は、映画を見せてあげようと思うがどうだね?』

   われわれがうなずくと、大師は部屋を暗くするよう命じてから言われました。

   『みんなで前後に並んで、一つの輪をつくってすわりなさい。
   そして、後ろの者が前の者の目を手でおおいなさい。』


さて、ここで注意して頂きたいのは、
ラヒリ・マハサヤはこの男が何をしに来たのか何も告げられていない点です。

しかし、彼には全てわかっていて以下のような魔法(奇術)をしてみせます。


   私は、例の雇い主が、不承不承ながらも皆といっしょになって
   大師の命令に従っているのを見ましたが、別に驚きませんでした。

   二、三分すると、大師は私たちに何が見えるかと尋ねました。

   『先生』私は答えました。

   『きれいな女の人が見えます。
   赤い縁取りのサリを着て、ベゴニアの木のそばに立っています。』

   ほかの弟子たちもみな同じように答えました。

   すると大師は、私の雇い主に向かって尋ねました。

   『この女はだれだか分かりますか?』


全くこの男のことを知らないにも関わらず、
ラヒリ・マハサヤが見せた”女性”とは一体誰だったのでしょうか・・・?


   『はい』雇い主は、この思いがけない経験にすっかりろうばいしている
   ようすでしたが、やがて答えました。

   『私はりっぱな妻を持ちながら、愚かにもこの女のために金を使ってきました。
   私は、自分がきょうここへ来た動機をつくづく恥ずかしく思います。

   どうか、この罪深い私をお許しください。
   そしてあなたのお弟子として受け入れてください。』


そうです、ラヒリ・マハサヤは、自分を罵倒しようと乗り込んできた男の
不倫相手を映画にして皆に見せたのです!

そんなことが本当に可能なんでしょうか???

実際に映画を見せられた当人はそりゃー驚愕する訳ですよ。

・・・いや、きっと怖かったでしょうね。

この人は何でこんな自分の誰にも知られたくない秘密を知っていて、
さらにそれを映画にしてみせるような芸当ができるのか!!!

その恐れのあまり、弟子入りを申しでたのでしょう。

さてその弟子入り祈願に対する、ラヒリ・マハサヤの答えがこれです。


   『もしあなたが、今後6か月間、道徳にかなった正しい生活を続けたら、
   あなたの願いをかなえてあげましょう。』

   大師はこう言われると、さらに意味ありげに付け加えました。

   『だがそれができなかったときは、
   わたしがあなたを迎える必要もなくなるでしょう。』


大師は男に試練を与えたのですね。

不倫を我慢して真っ当な生活をしてみろ、と。
まずは6か月やってみろ、そしたら弟子入りを認めてやるよと。
でももしできなかったら、その時は弟子入りする必要はなくなるだろう、言ったのです。

・・・なぜ必要なくなるのでしょうか。



   それから三か月の間、雇い主は女の誘惑をしりぞけていました。
   しかしその後、彼は再びその女と前の関係に戻ってしまったのです。

   そして二か月たつと、突然死んでしまいました。

   私は大師がこの男を弟子にする必要がなくなるだろうと言われた言葉の意味を、
   このときはじめて理解したのでした。

                 (以上、『あるヨギの自叙伝』P289-299)


不倫をやめられない時は彼が死ぬということをラヒリ・マハサヤは知っていた・・・。

だから弟子入りすることもない、ということだったのですね。


この本を読むと分かるのですが、
ラヒリ・マハサヤはイエス・キリストのような、生神の域に達した人であって、
その能力は全能であって、もう全く普通の人間ではありません。

未来を見通すこともできた。

肉体はあっても無いようなものであって、自由に空間移動もできた。

そんな”人”だったのです。

おそらくこの時点で、彼にはこの男が不倫の関係から抜け出ることができない
と分かっていて、死の運命を迎えることも実は”見えて”いたに違いありません。

それを遠回しに、弟子入りするに及ばない、と言ったのでしょう。



この不倫をしていた男は、元々ラヒリ・マハサヤのような
神を宣伝する人物を罵倒したかったのです。

これは自分がやっている不正の非を認めたくない、その想いから、
そんな自分と真反対にいる人間を罵倒したかったのですね。

それがラヒリ・マハサヤの神通力であのような奇跡を目のあたりにされて、
一発で撃沈されてしまった訳です。



神様には全てお見通し、という言葉があります。

誰も見ていないから、自分以外誰も知らないから大丈夫、なんて理屈は通りませんよ。

自分が想ったこと、自分がやったこと全てが記録されている、としたらどうでしょう。

良いことも悪いことも全てです。

そしてその代償(見返り)が後程、必ずあるとしたらどうでしょう。



誰か(ラヒリ・マハサヤ)に指摘されたとかされないとかは関係ないのですね。

全て記録されていますよ。

見えざる目は全てを見ていますよ。



繰り返しますが、自分がやったことは、
意識するしないに関わらず、良きも悪きも全て後程清算される
ということを決して忘れることのないように・・・。


さて今不倫をしている人へ。

今すぐやめましょう。

そして自分の今までの行いを反省して、不倫の相手の幸せを願ってあげましょう。

それが今のあなたにできる最善の償ではないでしょうか。

そうすることで、少なくともこれ以上罪を重ねることもなくなります。

まずはここにあるように6か月、不倫とは無縁の生活を送ってみてはいかがでしょうか。

相手がいくら迫ってきても、毅然として、
また同時に相手の幸せを願って拒否し続けることです。

”道徳にかなった正しい生活”を取り戻すチャンスなのです。

“It’s time to re-born yourself!”

谷口雅春先生著、私の人生に大きな大きな影響を与えてくれた本
『青年の書』を参考に書いた記事です。

   (http://livewelllaboratory.com/2018/11/12/affair-death/

           <感謝合掌 平成30年11月18日 頓首再拝>

『あるヨギの自叙伝』 - 伝統

2018/11/19 (Mon) 18:39:19

パラマハンサ ヨガナンダの生涯
http://www.srf-tokyo.org/paramahansa_yogananda.php

           ・・・

上の記事で、Web:Live Well Labo(2018年11月12日)で紹介されている
『あるヨギの自叙伝』は、大冊です。ページ数は536ページに及びます。

目次としては、


第一章 両親と幼年時代
第二章 母の死と不思議な護符
第三章 二つの肉体をもつ聖者(スワミ・プラナバナンダ)
第四章 ヒマラヤ逃亡計画の失敗
第五章 奇跡を見せ物にする香りの聖者(ガンダ・ババ)
第六章 タイガー・スワミ
第七章 空中に浮揚する聖者(ナゲンドラ・ナート・バドリ)
第八章 インドが生んだ大科学者ジャガディス・チャンドラ・ボース
第九章 宇宙の母と愛を語らう至福の聖者(マスター・マハサヤ)
第十章 わが師スリ・ユクテスワにめぐり会う
第十一章 ブリンダバンへの無銭旅行
第十二章 わが師のもとで
第十三章 眠らぬ聖者(ラム・ゴパール・ムズンダー)
第十四章 宇宙意識を経験する
第十五章 カリフラワー泥棒
第十六章 運星をかわす
第十七章 サシと三つのサファイア
第十八章 回教徒の魔法使い(アフザル・カーン)
第十九章 わが師カルカッタに居てセランポールに姿を現わす
第二十章 カシミール行きの挫折
第二十一章 カシミール旅行
第二十二章 石像の心
第二十三章 大学の学位を受ける
第二十四章 スワミ僧団の僧侶となる
第二十五章 兄アナンタと妹ナリニ
第二十六章 クリヤ・ヨガの科学
第二十七章 ランチにヨガの学校を設立する
第二十八章 カシの生まれ変りと再発見
第二十九章 タゴールと教育の理想を語る
第三十章 奇跡の法則
第三十一章 ラヒリ・マハサヤの未亡人に会う
第三十二章 ラーマ死よりよみがえる
第三十三章 ババジ-現代インドのヨギ・キリスト
第三十四章 ヒマラヤ山中に宮殿を物質化する
第三十五章 ラヒリ・マハサヤのキリストのごとき生涯
第三十六章 西洋に対するババジの関心
第三十七章 アメリカへ渡る
第三十八章 ルーサー・バーバンク(ばらの中の聖者)
第三十九章 カトリックの聖痕女テレーゼ・ノイマン
第四十章 帰国
第四十一章 南インドの田園詩
第四十二章 わが師との最後の日々
第四十三章 スリ・ユクテスワの復活
第四十四章 ワルダーにマハトマ・ガンジーを訪ねる
第四十五章 ベルガルの“至福に浸る聖女”(アナンダモイ・マー)
第四十六章 断食五十年の女ヨギ(ギリバラ)
第四十七章 再びアメリカへ
第四十八章 カリフォルニア州エンシニタスにて
第四十九章 一九四〇年から一九五一年にかけて


この書は、ヨガの聖者、パラマハンサ・ヨガナンダ師が、
波瀾に富んだ自己の生涯、インドの偉大なヨガの聖者たち、
ヨガの数々の奇跡を近代科学の言葉で記述した興味つきぬ自伝の書です。


ジョブズのipad2に唯一ダウンロードされていた本として一躍、
世界的に有名になった著書。

http://guitar-hide.com/yogini-book-jobs

           <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

星運をかわす - 伝統

2018/11/22 (Thu) 19:00:03


     *「『あるヨギの自叙伝』 第十六章 星運をかわす」より

「引力の法則は、ニュートンが発見する以前にも同様に働いていたのだ。
もし法則というものが、人間に信じられなければ働かないとしたら、
宇宙の秩序は混乱してしまうだろう。

(中略)

スリ・ユクテスワはさらに続けた。

「すべての被造物は互いに関連し、影響を与え合っている。
宇宙のリズムのバランスがとれているのは、その相互作用のためだ。
人は、地上に生きている間は、二種類の力と戦わなければならない。
一つは、人間を内的に構成している地水火風空の諸要素が引き起こす混乱で、
今一つは、自然現象から来る外的崩壊力だ。

人は、この無常の肉体に宿って生きている間は、
刻々と変化する天界と地界のさまざまな影響力を受けなければならない。

星学は、星の刺激に対する人間の反応を研究する科学だ。
星には意識的な善意や悪意があるわけではない。
星はただ、陽性または陰性の放射線を放っているにすぎない。

これらの放射線は、それ自体としては人間を助けたり害したりするものではないが、
各人が過去においてまいた行為の種子(因)に、因果の法則による
発芽の機会(縁)を与えるのだ。

子供は、この天からの放射線と、本人の個人的カルマとが数学的に合致したその日、
その時刻に生まれる。
彼の天宮図は、彼のもはや塗り変えることのできない過去と、
それから生ずるであろう未来を予想して見せる、いわば運命の挑戦的肖像画だ。

しかし、この誕生時の天宮図を真に正しく解釈できるのは、
直観的英知の開けたごくわずかな人に限られている。

誕生の瞬間に大空いっぱいに描かれるこの託宣は、
決してその人の運命(過去の所業が原因となってもたらす結果)を
強調するためではなく、むしろ、その束縛から抜け出そうとする
人問の意志を喚起するためのものなのだ。

自分でした事は、自分で元どおりに直すことができる。
現在自分の身のまわりに起こっているいろいろな出来事は、
すべて自分自身が過去においてまいた原因から生じたものだ。

どんな障害でも克服できないものはない。
なぜなら、その障害はそもそも自分自身の行為がつくり出したものであり、
しかも人間は、星の力などには影響されない霊的資産を持っているからだ。

星学というものをただ迷信的に恐れ信ずる者は、
運星の奴隷としてその機械的な法則に巻き込まれてしまうことになる。

賢者は、その信仰の拠りどころを被造物から創造主に転換することによって、
自己の星すなわち過去の因縁に打ち勝つのだ。

人間は、自己の霊性に目覚めれば目覚めるほど、
物質的に支配される度合いが少なくなる。

魂は、もともと永遠に自由なのだ。そ
れは生まれて出来たものではないから、死ぬこともないし、
また、星によって支配されることもないのだ。

人間は魂であって、肉体はその一時的な所有物にすぎない。

人は自己の本性を正しく認識したとき、
いっさいの現象的法則の束縛から自由になることができる。
だが、自己の霊性を忘れて迷妄の中をさまよっている間は、
環境の法則の霊妙な支配から逃れることはできない。

神は調和だ。
神に意識を合わせている者は、何をしても決して間違うことはない。

その人の行為は、自然に星学の法則にもかなうことになる。
人は深い祈りや瞑想によって、自己の内奥に宿る聖なる意識に触れることができる。
そしてこの内的守護こそ、何物にもまさる偉大な力なのだ」



「では、先生はなぜ私に星学の腕輪などはめろとおっしゃるのですか?」
私は初めて耳にする高遠な解説を深くかみしめながら黙って傾聴していたが
ここでこう反問した。

「旅行者に地図が要らなくなるのは、彼が目的地に着いたときだ。
旅行中は、地図があればいろいろと便利な近道をとることができる。

いにしえの聖賢たちは、
人間が迷妄の中を放浪する期間を短縮する多くの方法を発見してくれた。
つまり、因果の法則には、英知の指先によって操作できる
巧妙な調節装置が付いているのだ。

いっさいの人間苦は、宇宙法則に対して何らかの違反を犯したことから生ずる。

人間は神の全能を信ずると同時に自然法則をも満足させなければならない、
と聖典は指摘している。

だから人間は、苦難に直面したときはいつも、
『神よ、私はあなたを信じます。あなたは私をどんな苦難からも
助けてくださることができます。しかし私もまた、
自分の犯した過ちを償うために最善を尽くします』と言わなければならない。

過去の過ちがもたらす悪い結果は、いろいろな方法によって、
すなわち、祈りによって、意志の力によって、ヨガの瞑想によって、
聖者の助けを借りることによって、また、星学の腕輪をはめることによって
最小限度にくい止めたり、あるいはまた、全く避けることもできるのだ。

家を避雷針によって落雷の危険から守ることができるように、
人間の肉体もいろいろな方法によって外的影響から守ることができる。

宇宙にはいろいろな電気的あるいは磁気的放射線がたえず循環しており、
それらは人体に良い影響や悪い影響を与えている。

大昔、われわれの聖賢たちは、人間がそれらの宇宙から来る
霊妙な悪い影響力を征服するにはどうすればよいかという問題に取り組んだ。
そしてついに、純粋な金属から発散している霊的放射線が、
星の陰性の引力を強く打ち消す力をもっていることを発見した。

また、ある種の植物を組み合わせても同様の効果があることや、
二カラット以上の無傷の宝石が特に有効であることも知った。

星学を予防手段として実際に用いることは、
インド以外ではまだ真剣に研究されていない。

また、ほとんど知られていない事だが、
どんなに適当な宝石や金属や植物を用いても、それが必要な重量をもたない場合、
また、直接肌に密着させていない場合には効果がない」

― 『あるヨギの自叙伝』 第十六章 星運をかわす 169P~ より

 (http://indian-vedic-astrology.com/brog-1/2015/01/26/autobiography-of-a-yogi-1/ )

           <感謝合掌 平成30年11月22日 頓首再拝>

宇宙の母と愛を語らう至福の聖者 - 伝統

2018/11/23 (Fri) 18:03:14


     *「『あるヨギの自叙伝』 第九章 宇宙の母と愛を語らう至福の聖者」より


「さあ、そこにお座り、私は今、聖母様とお話をしていたところだ」

部屋に入った私は、激しい感動と畏敬の念に打たれて、ただ言葉もなく彼を見つめた。
マスター・マハーシャヤの天使のような表情は、私の目にまばゆかった。

絹のような白い髭、輝きをおびた大きな目--彼はまさに清純の権化のようであった。
あごを上に向け、手を組んでいた様子から、私は彼の瞑想の最中を邪魔してしまったらしい。

彼の何気ない挨拶の言葉は、私に今までにない衝撃的な感動を与えた。
最大の悲しみであった母との死別以来、ついに聖母様までも見失ってしまった私は、
言いようもない苦悶の日々を送っていたからである。

私は崩れるように床に跪いた。

「気を落ち着けなさい」聖者は優しく私を励ました。

果てしない孤独の海に投げ出されていた私は、
彼こそ唯一の救いの筏と、その足に取りすがった。

「聖なる先生、どうか私を聖母様に取りなしてください! 
もう一度聖母様のお顔が仰げるようお願いしてください!」

聖なる取りなしの約束は、そう簡単に与えられる類のものではない。
私の懇願にもかかわらず、聖者はしばらく黙ったまま何も答えてくれなかった。

しかし私には、マスター・マハーシャヤがそのとき
宇宙の母と密かに会話を交えていることがハッキリとうかがわれた。

私は、聖母様が今、現にこの聖者の曇りなき凝視の前に現われておられるのに、
私にはそれが見えないと思うと、たまらなく情けなかった。

私は、彼の穏やかな叱責にもかかわらず、
その足を厚かましく握りしめては何度も何度も取りなしを懇願した。

「では、愛するお方に取りなしをしてあげよう」
聖者はついに慈愛に満ちた微笑を浮かべてこう答えた。

何という貴重な一言であろう! そ
れは私を苦悶の淵から救い出してくれる千金の一言であった。

「先生、どうかそのお約束を忘れないでください。
聖母様のお言づてをうかがいにまたまいりますから」

今の今まで悲しみの涙につまっていた私の声は、もう喜びの期待にはずんでいた。
 
(中略)

グルパール通りの家に帰る私の足取りは軽かった。
家に着くと、私は屋根裏の小部屋に籠もって瞑想に入った。
夜の十時を回った頃、暑いインドの夜の闇の中に突然輝かしい幻が現われた。

光の輪に包まれて私の前に立たれたのは、紛れもない聖母様だった。
優しい微笑みを浮かべたその御顔は、まさに美そのものであった。

「私はいつもおまえを見守ってきました。これからもいつも見守っています」

天来の声は美しい響きを残して、御姿とともに消えていった。

(中略)

「私を試すつもりかね?」彼の静かに澄んだ眼はすべてを見通していた。
「おまえが昨夜十時、美しい聖母様ご自身から受けた保証に対して、
今更私が何を付け足す必要があろう」

マスター・マハーシャヤは、私の魂の水門を支配する力を持っていたのである。
私は、またもや彼の足下にひれ伏した。
止めどもない涙があふれてきたが、それはもう今までの悲しみの涙ではなかった。

「おまえは自分の祈りが、あの無限に慈愛深いお方の御心に
届いていないと思っていたのかね? おまえがこの世の母の中に、
また、天の母の中に慕い求めてきた神の母性が、
どうしておまえの切ない叫びに答えずにいられよう」

無限なるお方にほんの一言お願いするだけで、
それがすぐにかなえられるこの気高い聖者は、一体どういう人なのだろう! 

私が今までに出会った最も謙遜なこの偉人のこの世における仕事は、
いかにもその人柄にふさわしく地味なものだった。

彼は、このアムハースト通りの家で、少年たちのために小さな高等学校を経営していた。
彼は、生徒たちをしかりつけることもなく、又、厳格な規則や懲罰で強制する
こともしなかった。

静かな教室では高等数学などの学科が教えられていたが、
同時に、教科書にはない“愛の化学”が教えられていたのである。

マスター・マハーシャヤは、少年たちに難しい教訓をたれる代わりに、
霊的感応によって彼自身の叡智を授けたのである。
天の母に幼子のような純真な愛を捧げているこの聖者は、子供と同様、
決して外面的な尊敬を要求するようなことはなかった。

「私はおまえのグルではない。おまえの師はやがておいでになる」
彼は言った
「その師の導きによって、これまでおまえが愛と信仰を通して得ていた神の経験は、
計り知れない叡智を通しての経験へと変わってゆくだろう」

毎日夕刻近くになると、私はアムハースト通りに足を運んだ。
そして、マスター・マハーシャヤの聖なる杯からあふれる甘露の滴を求めた。
今まで私は、無条件の尊敬をもって人の前に跪いた事がなかった。

だが今は、マスター・マハーシャヤの足跡によって清められた土の上に
一緒に立っていることさえ、無上の特権のように思われたのである。

「先生、このチャムパックの花輪をどうぞ先生の首にかけてください。
私が先生のために特別にこしらえたものです」
ある晩、私は花の輪を持ってマスター・マハーシャヤをたずねた。

しかし彼は恥ずかしそうに、そのような光栄を受ける資格はないと言って
辞退するばかりだった。
しかし、私の落胆した様子を見ると、とうとう笑いながら承諾した。

「我々はともに聖母様の弟子だ。だからそれを聖母様への捧げものとして、
この肉体の神殿にかけておくれ」彼の広大な性格の中には、
自己本位な考えが根を下ろす余地は全くなかった。

「明日、ドッキネッショルのカーリー寺院へ行ってみよう。
あそこは、私の先生によって永遠に聖別された場所だ」

マスター・マハーシャヤは、
キリストのような大師シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子であった。

翌朝、我々はガンジス河を船で四マイルさかのぼった。
そして船を降りると、九つの丸屋根の立ち並ぶカーリー寺院に入っていった。

そこには、千枚の花びらを細かく刻んだ輝く銀の蓮のうてなの上に立つ
聖母カーリーとシヴァの像が安置されてあった。

マスター・マハーシャヤの顔は至福に輝いていた。
彼は、宇宙の母との尽きざる愛のささやきに沈潜していた。

彼が聖母様の御名を唱えると、恍惚に酔った私の心は
蓮の花びらのように千々に砕けてしまうかと思われた。

二人はそこを出ると、境内を散歩した。
そしてタマリスクの茂みの脇にしばらくたたずんだ。

この樹の放つ特有の香りは、マスター・マハーシャヤが私に与えてくれる
天のマナを象徴しているかのように思われた。彼は深い祈りを続けた。
私も又、桃色の羽毛の様なタマリスクの花に囲まれて、
草の上に身動きもせずに座っていた。

私の魂は、しばし肉体を離れて天に舞い上がった。

これが、マスター・マハーシャヤと一緒に行った最初のドッキネッショル詣でだった。
そして我々は、その後も何回かそこを訪れた。

私は彼から、母性または慈愛としての神の甘美な優しさを学んだ。
子供のように純真なこの聖者は、父性または正義としての神には
ほとんど魅力を見出さなかった。

厳格な理屈っぽいものの見方は、柔和な彼の心情にはほど遠いものだったのである。

『この人は本当に天使の生き見本のような人だ』
私は、祈りを捧げている彼の姿を眺めながら、つくづくそう思った。
ひたすら至純なるものを見つめ続けてきた彼の目は、この世のすべてを、
一点の非難や批判の影もなく眺めていた。

彼の肉体も、心も、言葉も、行為も、極めて自然にその魂の清純さと調和していた。

「私の先生はそうおっしゃった」常に個人的主張を差し控えたこの聖者は、
必ず師に対するこの賛辞をもってその賢い忠告を結んだ。

マスター・マハーシャヤの意識は深くシュリー・ラーマクリシュナと一致していたので、
彼は自分の思想をもはや自分自身のものとは考えていなかったのである。

(中略)

「しばらくここに腰を下ろそう。私の先生は私に、広々とした水面を見たら
いつでもそこで瞑想するようにとおっしゃた。こうして静かな水の面を見ていると、
神の果てしない静寂の海が思い出される。

万物が水の面に移るように、全宇宙は、宇宙のこころの湖に映っているのだ。
私の先生はよくそうおっしゃった」

(中略)

マスター・マハーシャヤやそのほかの聖者たちの謙虚さは、
自分という存在が、実在する唯一の生命であり審判者である神に完全に依存している、
という認識から出ている。

そして、神の本性は至福であるため、
神と同調するものはその無限の喜びを経験するのである。

(中略)

天の母に子供のようなこころで近づいていった歴代の信仰者たちは、
彼女が常に自分と遊んでくれている事を証言している。

マスター・マハーシャヤの生涯に於いても、
聖母様が、事の大小に関係なく彼と戯れておられる情景がしばしば見られた。

神の眼には、大事も小事もないのである。
もし神が、原子をあのように精巧に作られなかったならば、
大空もあの壮大な天体の構成を誇ることはできなかったであろう。

神は、この宇宙が一本のねじ釘のゆるみのために崩れ去るようなことのないように、
どんな些細な事にも等しくこころを注いでおられるのである。

   (http://blog.goo.ne.jp/yoga-kailas/e/c069d4d13f3e08918af0cbe4526bdb58

           <感謝合掌 平成30年11月23日 頓首再拝>

第三十八章 ルーサー・バーバンク(ばらの中の聖者より)抜粋 - 伝統

2018/11/24 (Sat) 18:55:33

( パラマハンサ・ヨガナンダ著 あるヨギの自叙伝 

第三十八章 ルーサー・バーバンク(ばらの中の聖者より)抜粋  )


「植物の品種改良の秘訣は、化学的知識を別にすれば、それは愛です」

 :

「私は、とげのないサボテンをつくる実験の最中、しばしばサボテンに
向かって、愛の念波を注ぎながら話しかけたものです」


 『ここには、お前のこわがるようなものは何もないよ』

 『だから、とげなど生やして身を守る必要はないのだ。わたしがお前を
 守ってやるからね』と。

 すると、有益な砂漠の植物は、しだいにとげのない状態に変化していったのです。」


この偉大な園芸家は、自分の最初の目覚しい成功は現在彼の名で
呼ばれている大きなじゃがいもであると語った。

彼はその計り知れぬ天賦の才能をもって、数百種にのぼる交配の
新品種を世に贈った。

彼の新しいバーバンク種は、トマト、とうもろこし、かぼちゃ、さくらんぼ、
プラム、ネクタリン、いちご、けし、ゆり、ばら等に及んでいる。

  :

「このくるみの木は、たった十六年の間に、自然のままでは二倍の歳月を
かけなければ実らないほどたくさんの実を着けるようになりました」

 :

「わたしは、いまでは人間も一つの複雑な植物であると考えています。
それを完全に成長させるためには、愛と、戸外の自然の恵みと、
賢明な 交配、淘汰が必要です。

私は、自分の短い一生の間だけでも、植物の進化に驚くべき進化を
見てきましたので、人間についても、もし子供たちに簡素で合理的な生活の
原理を教え込んでやれば、すぐにでも健全で幸福な世界を作り出すことが
できると楽観しているのです。

われわれは自然に帰らなければなりません ー 自然の神に」

 :

「 ‥ 子供を自然から引き離し、その個性を踏みにじって
しまう現代の教育制度には、私は大反対です。・・」

「この世で最も頑固で強制しにくい生き物は、
特定の習性を身に着けてしまった植物である。・・・・・・

この場合忘れてならないことは、この植物が非常に長い年月にわたって
その個性を保ちつづけてきたということである。

その起源を何億年もさかのぼってたどってみれば、
おそらく岩石そのものであったかもしれない。

そして、それ以後膨大な期間ほとんど変化していないのである。

この植物は、その長い歳月のくり返しの結果ついに無類の頑固な意志

 ー もし意志といえるならば ー 

をもつようになってしまった、とは考えられないだろうか。

実際、植物の中には、ある種のしゅろのように、人間の力では
どうしても変化させることができないほど強情なものがある。

人間の意志などは、植物のそれに比べれば、まったく薄情なものがある。

しかし、植物のこの先祖伝来の強情さも、交配によって新しい生命を注入し、
そこに徹底した強力な生命の変化をつくり出してやると、実に容易に
打ち破ることができるのである。

そして、それがいったん破られたならば、幾世代か引きつづき忍耐強い監視と
淘汰を行うことによってそれを固定化させるのである。


こうして、さしもの頑固な意志も完全に破壊され、変化して、
新しい品種はもう元に戻ることはなくなるのである。

これが人間の子供のように、感受性と柔軟性に富んだ生き物の場合は、
問題ははるかに簡単であろう。」

  (http://blog.shop.tenemos.jp/?cid=14 )

           <感謝合掌 平成30年11月24日 頓首再拝>

「あるヨギの自叙伝」パラマハンサ・ヨガナンダ - 伝統

2018/11/25 (Sun) 18:25:34


          *Web:精神世界の叡智 より

【神とは】

宇宙のあらゆる力や形の存在を維持しているものは神の霊だ。

しかも、この神の霊は同時に、波動で構成されたいっさいの現象界から隔絶した
至福の虚空に住する超越的存在でもある。

神は、すべての人間を、ご自身である無限の至福から創造された。

人間は窮屈な肉体の中に閉じ込められているが、
しかし神は、ご自分の似すがたにつくられた人間の魂が、
最後には感覚的自我意識を完全に抜け出して、
再びご自身と一体になることを望んでおられるのだ。



【神は応えてくれる】

神はすべてのものに応え、すべてのもののために働いてくださる。
神は、信ずる者の心からの願いは何でもかなえてくださるのだ。

だが人間は、
神がどんなに自分たちの祈りに耳を傾けていてくださるかをほとんど知らない。

神は、一部の人を編愛されるようなことはない。

ひたすら信じて近づこうとするすべての者の祈りを聞いておられるのだ。

だから子たる者は、
偏在の父の愛に対して、常に絶対の信頼を持っていなければならない。


【魂は自由である】

人間は、自己の霊性に目覚めれば目覚めるほど、
物質的に支配される度合いが少なくなる。

魂は、もともと永遠に自由なのだ。

人間は魂であって、肉体はその一時的な所有物にすぎない。

人は自己の本性を正しく認識したとき、
いっさいの現象的法則の束縛から自由になることができる。


【神は調和】

神は調和だ。

神に意識を合わせている者は、何をしても決して間違うことはない。

人は深い祈りや瞑想によって、自己の内奥に宿る聖なる意識に触れることができる。

そしてこの内的守護こそ、何物にもまさる偉大な力なのだ。

人間は自己の本性を深く悟れば悟るほど、
自分の霊的波動によって全宇宙に働きかける力が増し、
自分自身もまた環境の力の影響を受ける度合いが少なくなる。

人間は、現在のかりそめの生涯において、
社会的に指導的な役割を果たしていようと、無名の存在であろうと、
みな重要な宇宙の構成要素なのである。

人間の究極の自由すなわち解脱は、すでに確定的なものであり、
もし真に望むならばすぐにでも与えられる。

そしてそれは、本人が、外的ではなく
内的な障害に打ち勝てるか否かに掛かっているのである。



【宇宙映画】

ちょうど映画の画像が、真実のごとく見えていながら、
実際は光と陰の合成にすぎないように、宇宙の諸現象もまた単なる幻影にすぎない。

多種多様な生命体を擁するこの天体宇宙は、まさに宇宙映画なのである。

すなわち、神の無限の創造光線によって
人間意識のスクリーンの上に映し出された宇宙ドラマの立体映画を、
人間の五感が真実のものと感じているにすぎないのである。

多彩な宇宙映画もまた同様に、
宇宙の本源から発する一つの無色の光から出来ているのである。

神は、はかり知れぬ巧妙さをもって、その子らである人間を楽しませるために、
彼らを宇宙劇場の俳優兼観客に仕立てた。

万物は光と影で出来ている。

形を表すにはこの両方が必要だ。

もしこの世に喜びばかり続いたら、だれが別の世界を求めよう。

悩みがなかったら、
人間は自分が捨てた永遠のすみかのことをほとんど思い出すことはないだろう。

苦悩は、それを思い出させるための刺激の針なのだ。

苦悩から抜け出す道は、英知によってのみ開かれる。

死の悲劇も、真実ではない。

人は、この世界が単なる巨大な映画にすぎず、
自分の実体はこの画面の中の自分ではなく、
この画面を超越した別のところにあるということを真に悟るようになったとき、
その人の価値は根底から変わってくるのである。



【許しは聖なる行為】

人類の存続は、人間が互いに許しあうことによって可能となる、といわれてきた。

許しは聖なる行為である。

世界は、許しによって共存している。

許しは偉大な力である。

許しは犠牲である。

許しは心の平安である。

許しと柔和は、心の平安をもたらす根源であり、永遠の徳性である。



【宇宙法則】

豊かさは、リタ(宇宙法則)本来の性質であって、
物的富も霊的富も、リタの必然的現われである。

自然は本来、豊かさに満ちあふれたものなのである。

人間がこの地球上に何度も生まれ変わって来る目的は、
その幾生涯の経験を通じて、霊のもつ無限の性質を
物資的条件のもとでできるだけ豊かに表現し、かつ、
物質に対する霊の支配力をより完全に現わすための方法を学ぶためである。



【輪廻転生からの解放】

人間はみな、幾たびも生まれ変わって、それぞれのペースに従い、
自己の神性の実現を目ざして進んでいる。

死は、この進化の旅を中断するものではなく、
旅のよごれを洗い落として幽界という、より快適な環境に導く門にすぎない。

死とは、存在の消滅でもなければ、生からの永遠の逃避でもない。

人間が自己の霊性という不滅の黄金を鍛えあげる場所は、
この荒っぽい地球というかなとこの上でなければならない。

貪欲な死を満足させる唯一の贈り物であるこの得がたい黄金の宝を
手に入れないかぎり、人間は、この世への生まれ変わりから
解放されることはできないのである。



【真実とは】

真理とは、実在との完全な一致をいう。

人が「真理にある」とは、
魂としての自己を片時も見失うことなく自覚していることである。

イエスの生涯におけるあらゆる行為と言葉は、
自己の存在の源泉が神の中にあることを、
彼が常に自覚していたことを物語っている。

偏在するキリスト意識と常に完全に一致していたからこそ、
彼は「だれでも真理にある者は、わたしの声を聞く」と断言することができたのである。

仏陀もまた、人間のこの地上における短い人生は
徳性の完成のために費やすのが最善の生き方である、と割り切った指摘をした。

人間の魂は絶対者から生まれて最後に再び絶対者の中に合一するまでの
それぞれの生涯を通じて、神の無限の属性の中の一部をおのおの独自の形で
表現するように神がおつくりになったのである。

すべての人間はこのように、神の個性の一面を賦与されているがゆえに、
神にとって等しく貴重な存在なのである。



【神は愛】

神は愛である。

それゆえ、神の創造の計画も、ひとえに愛に根ざしているはずである。

この単純な思想こそ、いかなる博識の論理にもまして
人の心に慰めをもたらすものではないだろうか。

神の宇宙計画は現実に存在し、それは美しくまた喜びに満ちたものである。

     (http://spiwisdom.com/spibooks/meditation/paramahansa-yogananda )

           <感謝合掌 平成30年11月25日 頓首再拝>

「パラマハンサ・ヨーガーナンダ」の生涯 - 伝統

2018/12/05 (Wed) 19:07:03


        *Web:ヨーガスクール・カイラス blog(2014-11-18)より
             「あるヨギの自叙伝」要約版

ヨーガーナンダは、「ヨガナンダ」として一般には有名ですが、
正確にはヨーガーナンダ(ヨーガ・アーナンダ=ヨーガの至福)
という発音が正しいですね。

 
彼は一八九三年一月五日、インド東北部のヒマラヤに近いゴーラクプールに生まれ、
そこで最初の八年間を過ごしました。

本名はムクンダ・ラール・ゴーシュといいました。
両親は、ヒマラヤの聖者ババジの弟子であるラヒリ・マハーシャヤの弟子でした。

この両親も偉大な真理の実践者でしたが、ムクンダは子供の頃から、
ラヒリ・マハーシャヤの弟子の、あるいは他の系統の聖者方と、
さまざまな交友をする機会に恵まれていました。

その辺の具体的な描写は、「あるヨギの自叙伝」に詳説されています。

ムクンダが交友を持った聖者の中には、マスター・マハーシャヤもいました。
マスター・マハーシャヤは、ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子で、
「ラーマクリシュナの福音」の著者です。

ラーマクリシュナ自身は一八八六年に亡くなりましたが、
ムクンダはこのマスター・マハーシャヤを通じてラーマクリシュナの教えを聞いたり、
ラーマクリシュナの寺院を訪ねたりしました。

あるとき、神から意識が離れてしまったムクンダに対して、
マスター・マハーシャヤは宇宙の女神のヴィジョンを見せました。

ムクンダはマスター・マハーシャヤを大変尊敬していましたが、
マスター・マハーシャヤは、ムクンダにこう言いました。

「私はお前のグルではない。お前の師はやがておいでになる。
その師の導きによって、これまでお前が愛と信仰を通して得ていた神の経験は、
計り知れない叡智を通しての経験へと変わっていくだろう。」

その予言は、しばらく後に現実のものとなりました。

そのころムクンダは、実家のあるカルカッタを離れ、
ヴァラナシのマハーマンダル僧院というところに住み込んで、
霊的な訓練を受けていました。

しかしムクンダは、考え方の違う僧院の他の生徒達とうまくいかずに悩んでいました。
 
そんなある日、ムクンダは、神の答えが得られるまでは絶対に祈りをやめない
と固く心に決めて、屋根裏部屋に入りました。

「慈悲深い聖母様、あなたご自身の幻か、あなたのおつかわしになる師を通して、
御心をお示しください。」

ムクンダが数時間にわたって祈りを続けると、
神々しい女神の声がどこからともなく聞こえてきました。
「お前の先生は、今日おいでになります。」

その後、おつかいのためにムクンダがヴァラナシの路地を歩いていると、
黄褐色の衣をまとったキリストのような風貌の一人の男がじっと立っていました。
その顔は、一目見ただけで、昔からよく知っている顔のように思われました。

「グルデーヴァ(尊い導師)!」
 
それは、ムクンダの瞑想の中に、これまで何度となく現われていた、
約束された師だったのです。

「おお、わが子よ、とうとう来たか!
 なんと長い年月、お前の来ることを待ったことだろう!」
 
師はこのように言いました。
これがムクンダと、その師ユクテーシュワルとの出会いでした。

学校の勉強が大嫌いで、ただ神だけを求めて修行したがっていたムクンダに対して、
ユクテーシュワルは、大学へ入るための勉強をすることを指示しました。

「お前は将来、西洋へ行くようになる。
そのとき、インドから来た先生をはじめて見るかの地の人々は、
お前が大学の学位を持っていると聞けば、それだけ信頼して、
お前の語るインドの古い叡智の言葉に耳を傾けるだろう。」

ユクテーシュワルは、ムクンダの両親と同じく、
ラヒリ・マハーシャヤの弟子でした。

ムクンダがユクテーシュワルの弟子となったことを知ったムクンダの父は、
ムクンダに言いました。

「息子よ、お前と私の願いがともにかなえられて、こんなにうれしいことはない。
お前は、私がかつて自分の師を見出したときと同じように、
奇跡的ないきさつを経て自分の師にめぐり合った。
これは明らかにラヒリ・マハーシャヤの聖なるみ手が我々を導いてくださった証拠だ。
お前の先生は、遠いヒマラヤに住む聖者ではなく、ごく身近におられる方だった。
私の祈りはかなえられた。」

ムクンダは聖地ヴァラナシで師ユクテーシュワルに出会いましたが、
ユクテーシュワルが普段住んでいるのは、ムクンダの実家と程近い、
セランポールという場所だったのです。

ユクテーシュワルは、セランポールにある僧院に、
若い弟子達を集めて指導していました。

ムクンダもこの僧院で、ババジ、ラヒリ・マハーシャヤから伝わった
修行の伝授を受け、またさまざまな霊的・精神的指導を、
ユクテーシュワルから受ける日々が続きました。
 
しかし半年ほどたった頃、ムクンダは、ヒマラヤに行って修行したい旨を、
ユクテーシュワルに申し出ました。

ムクンダは、幼い頃からのヒマラヤへの憧れがまだ消えていず、
またユクテーシュワルの偉大さに、まだ十分に気付いていなかったのです。
 
ユクテーシュワルは、

「叡智は、鈍重な山よりも、悟りを開いた人間に求める方が、容易に得られるものだ」

と言って、やんわりとそれに反対しましたが、ムクンダは何度も繰り返し嘆願しました。

ユクテーシュワルは沈黙し、それ以上何も言いませんでした。
 
そこでムクンダは、ヒマラヤに行く前に、ラヒリ・マハーシャヤの弟子である
ラム・ゴーパールという聖者を訪ねることにしました。
彼からヒマラヤ行きの同意をもらおうと考えたのです。
 
ムクンダがラム・ゴーパールのもとをたずねると、
この聖者はすでに全てをお見通しでした。

「若いヨーギーよ、お前は先生のもとを飛び出してきたね。
だがお前の先生は、お前に必要なものを全てもっておられる。
すぐにかえりなさい。山はお前の師ではない。
 
えらい大師は山の上に住まねばならぬ、という決まりはない。
ヒマラヤやチベットが聖者の専売特許ではない。

内なる準備を怠って、外ばかりいくら探し回っても無駄なことだ。
霊的開眼のためにはどんな障害も乗り越えて、地の果てまでも
喜んで行くだけの決心が定まれば、
師はすぐ身近なところにでも与えられるものだ。」

「お前の家には、ドアを閉めてひとりになれる部屋があるかね?」

「はい。」

「そこがお前の洞窟だ。そこがお前の聖山だ。
そこが、お前が神の国を見出す場所だ!」

――この聖者の言葉によって、長い間ムクンダに付きまとっていた
ヒマラヤに対する執着は、瞬時に消え去ったのでした。

 
そんなムクンダを、ユクテーシュワルはさまざまな方法で導いていきました。
あるときは神秘的な力で、ムクンダに壮大な「宇宙意識」を経験させ、
その後通常の意識の連れ戻して、言いました。

「あまり恍惚に酔っていてはいけない。
お前にはまだこの世でなすべき仕事がたくさん残っている。
さあ、バルコニーの床を掃除して、ガンジス河の堤を散歩しよう。」

この体験の後、ユクテーシュワルは、
この宇宙意識状態に自在に入ることができる方法をムクンダに伝授し、
ムクンダは毎日のように、この神と一体化した恍惚状態を経験し続けました。

その後ムクンダは、カルカッタ大学の学位を何とか無事にとり、
そしてついに、ユクテーシュワルのもとで、正式に出家した僧侶となりました。
 
ムクンダは、「インド最大の哲学者」「インド三大聖者の一人」と呼ばれる
シャンカラ・アーチャーリヤから連綿と受け継がれてきた「スワーミー僧団」の
僧侶として出家しました。

ユクテーシュワルは出家に際して、
ムクンダに、自分で出家者の名前を考えることを許しました。
ムクンダは少し考えて、「ヨーガーナンダ」と答えました。
こうしてムクンダはこのときから、ヨーガーナンダとなったのでした。

 
その後ヨーガーナンダは、一般教養の科目に加えて
ヨーガの瞑想や体操などを教える学校をインドに設立し、
その生徒は急速に増えていきました。

あるときヨーガーナンダは、ユクテーシュワルにたずねました。

「先生は、今までにババジにお会いになったことがありますか?」

「あるとも」
 
こう言ってユクテーシュワルは、ババジとの邂逅の話を、
ヨーガーナンダに明かしました。

ユクテーシュワルが初めてババジに会ったとき、ババジはこう言ったといいます。

「私は、お前が東洋ばかりでなく、西洋にも同様の関心を持っていることを知っていた。
私には、全ての人々に向けて開かれたお前の心の痛みがよくわかる。
東洋と西洋とは、その霊性と活動力を互いに調和させて、
黄金の中道を作り出すよう協力し合わなければならない。
 
インドは、物質的な面では西洋から多くのことを学ばなければならない。
だがその代わり、西洋に対しては、自分の宗教的信条を
普遍的な法則の上に確立させるヨーガの科学を教えることができる。
 
そこでお前に、来たるべき東西両洋の交流に備えて、ある役割を果たしてもらいたい。
私は、これから数年後、お前に一人の弟子を送るつもりだ。
彼を、将来西洋にヨーガを普及させる人間として仕込んでもらいたいのだ。」

 
ユクテーシュワルは続けて、ヨーガーナンダに言いました。

「私の息子よ。お前こそ、ババジが私に送ると約束されたその弟子なのだ。」

 
そしてこの言葉どおり、一九二〇年、ヨーガーナンダはアメリカにわたり、
講演を始め、またヨーガを教えるためのセンターを設立し、
ヨーガの技法やインドの叡智の伝授と普及に努めたのでした。

一九三五年、ヨーガーナンダはインドに帰国し、
師ユクテーシュワルとも再会しました。

そしてユクテーシュワルはヨーガーナンダに、
パラマハンサという称号を授けました。

パラマハンサとは「至高の白鳥」の意味で、
偉大な聖者にのみつけられる称号です。

こうして彼はパラマハンサ・ヨーガーナンダと呼ばれるようになりました。

一九三六年、ヨーガーナンダは、有名なクンバメーラ祭その他に行くために
師のもとを少し離れ、また師の住むカルカッタに戻ってきました。
しかしそのとき、師はそこにはおらず、プリという地に行っていました。

「すぐにプリに来い」

一九三六年三月八日、カルカッタに住むユクテーシュワルの弟子の一人に、
プリにいる同僚の弟子から電報が届きました。
それを伝え聞いたヨーガーナンダは事態を直感しました。

翌日、ヨーガーナンダは列車でプリへと向かい、その翌朝、
プリ駅のプラットホームに降り立ったヨーガーナンダのもとに、
一人の見知らぬ男が近づいてきて、こう言いました。

「あなたは先生が逝かれたことをご存知ですか?」

こう言うと、その見知らぬ男はどこかへ立ち去っていきました。
 
ヨーガーナンダがユクテーシュワルの部屋に着くと、
ユクテーシュワルはすでに、瞑想の姿勢で座ったまま、亡くなっていました。
 
しかしその三ヶ月後、ヨーガーナンダは復活したユクテーシュワルと会い、
多くの教えを受けたといいます。

 
その後、ヨーガーナンダはインド各地で講演等の仕事を行なった後、
再び西洋に渡って精力的な活動を続けました。
 
ヨーガーナンダよりも少し前に、西洋にヒンドゥー教やヨーガの叡智を広めたのは、
ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子であるスワーミー・ヴィヴェーカーナンダでした。

ヨーガーナンダはその後を継ぐようなかたちで、
アメリカやヨーロッパに、ヨーガやヒンドゥー教の教えと技術を広めました。

そして一九五二年三月七日、ロサンゼルスの晩餐会において最後の演説をした後、
マハーサマーディ(聖者が意識的に肉体を脱ぎ捨てること=死)に入り、
この世での使命を終えたのでした。

  (https://blog.goo.ne.jp/yoga-kailas/e/c9f2f21fb45098540ab17af5587c3f7f

           <感謝合掌 平成30年12月5日 頓首再拝>

上の記事に出ているヴァラナシ(バラナシ)について - 伝統

2018/12/06 (Thu) 18:42:20


聖地バラナシ(ベナレス)に関しては、
最近の映画「ガンジスに還る」でそのロケ地として、映画の中で、
各種の行事とともに盛り込まれていました。


映画「ガンジスに還る」
 → https://eiga.com/movie/88447/


映画「ガンジスに還る」~あらすじと評価
→ https://cinemarche.net/drama/http-bitters-co-jp/


 この映画は、インドのヒンズー教における「終活」を
 少しコメディタッチに描かれており、ヨガの呼吸法や
 ヒンズー教の祭りなども場面場面に撮影されておりました。


ヴァラナシ(バラナシ)について

(1)「あるヨーギーの生涯」に書かれているように、
   パラマハンザ・ヨガナンダは何度もヴァラナシを訪れ、
   多くの聖者と出会っております。

(2)この町は、古くから、ベナーレスやカシとしても知られています。

   この町は、ここの人達にとって最も聖なるガンジス河に沿って横たわっています。

   多くの人達が、火葬してもらうことを望んで、死ぬ間際にここへやって来ます。
   そこには町中からガンジス河に導く大きな石の階段があり、
   人々は聖なる河に入って身を清めます。

(3)ヒンズー教では死んでから人間に生まれ変わる苦の連鎖が続くが、
   聖地であるヴァラナシで荼毘に付されるとその連鎖から逃れられる
   (天界に行ける)という教えより、死期が近い方や、
   お亡くなりになった方の遺体がインド中から集まってくる。

   このため昼夜問わず、火が途絶えることはない。

   ヴァラナシはそもそも火葬場からできた街であるため、
   街の中心にこの火葬場が存在している。

(4)又毎晩母神ガンガに敬意を表して、祭司達によるアルティ、
   光の儀式が行われます。

   この宗教的な祈祷には沢山の人達が集まって来ます。
   ある人達は階段や、その下の広場に腰をおろして、
   又他の人達はボートに乗って、
   ガンジス河からこの儀式を見守っています。

<参考Web>

(1)なんとも刺激的なぶっとび聖地、バラナシ(ベナレス)・タウン
   → https://etours.world/india/features/varanasi

(2)生と死の聖地 ヴァラナシ
   → https://4travel.jp/travelogue/10547480

(3)聖地ヴァラナシへの旅
   → http://vishwananda-japan.blogspot.com/2012/11/blog-post.html

           <感謝合掌 平成30年12月6日 頓首再拝>

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