伝統板・第二

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真理の生活 ④ - 伝統

2018/11/03 (Sat) 03:34:53

濁り水を捨て、真理の水を注げ!

       *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、
われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

         <感謝合掌 平成30年11月3日 頓首再拝>

永遠価値のものを愛し、考え、求めよ! - 伝統

2018/11/06 (Tue) 04:51:44


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より

万事物質的なものは遷りかわるものであり、
その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。

われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。

すべて心を労してもとめても、
やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。

神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。

忠、孝はむろんのこと、
すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。

         <感謝合掌 平成30年11月6日 頓首再拝>

キリストは道標 - 伝統

2018/11/08 (Thu) 02:33:36


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より

キリストに対するユダヤ人の呪いは

「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を涜(けが)すものである」

ということであった。

ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された「土の塵の人間」、
「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」とエホバの宣言したところの
物質人間でしかなかったのである。

キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」 と宣言したのである。

そして 

「我(われ)は道であって、この道を通れば
すべての人間は神の子なることを自覚しえて、
永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」 

と断言したのである。

キリストは道標(みちしるべ)であった。
キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。

         <感謝合掌 平成30年11月8日 頓首再拝>

鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる - 伝統

2018/11/21 (Wed) 04:21:06


          *「光明道中記」(11月21日 味わい深い人になる日)より

【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】

親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。

弟子が下手に音楽を奏するならば、その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。

禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく竹を愛して雪を払ってやるためである。

叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。

何事が起っても、淡々として空言のような顔をして空嘯(そらうそぶ)いている人には
深い味わいは感じられない。味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。

じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、
味方のチームが優勝したといっては歓喜の乱舞をしたい思い、
病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・

現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、
その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。

併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。

          <感謝合掌 平成30年11月21日 頓首再拝>

柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統

2018/11/28 (Wed) 03:24:24


       *「光明法語」(11月28日の法語)より

「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。

それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。

傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。

氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。


          <感謝合掌 平成30年11月28日 頓首再拝>

無条件降伏 - 伝統

2018/11/29 (Thu) 04:56:03


       *「光明法語」(11月29日の法語)より

神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。

それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。

これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。

与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。

          <感謝合掌 平成30年11月29日 頓首再拝>

《気尚(けだか)く生きよう!》 - 伝統

2018/12/01 (Sat) 04:44:32


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

            <感謝合掌 平成30年12月1日 頓首再拝>

真理は自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである - 伝統

2018/12/02 (Sun) 04:12:38


     *「光明道中記」(12月2日 真理を諦(あきら)かにする日)より

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。

人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである
と云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

            <感謝合掌 平成30年12月2日 頓首再拝>

真理は裁きの材料ではない、真理はそれ自身で尊い - 伝統

2018/12/03 (Mon) 03:20:32


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、
それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。
乙の野郎奴(やろうめ)、先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。
甲の野郎奴(やろうめ)、この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。
わたしはただ真理を書くのみであって、
何人(なんぴと)をやっつけるために書いているのではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

            <感謝合掌 平成30年12月3日 頓首再拝>

「迷い」に同情してはならない - 伝統

2018/12/04 (Tue) 03:23:50


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、
むしろ無宗教家と言われている人の
側に真の宗教を体得した人々があるということができるのである。

真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、みずから真理の生活をいとなみ、
自己の生活に真理を実現し、神の智慧と愛と生活とを
具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ
「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、
一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

            <感謝合掌 平成30年12月4日 頓首再拝>

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ - 伝統

2018/12/05 (Wed) 03:15:53


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

値いなしに受けようとしてはならぬ。

肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

            <感謝合掌 平成30年12月5日 頓首再拝>

「公」なものに奉仕する道を通して、栄える - 伝統

2018/12/10 (Mon) 04:16:52


       *「光明道中記」(12月10日 自然に栄える日)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                     (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。
それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

            <感謝合掌 平成30年12月10日 頓首再拝>

常に、後味のよいことを考える - 伝統

2018/12/25 (Tue) 04:26:10


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

            <感謝合掌 平成30年12月25日 頓首再拝>

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2018/12/29 (Sat) 04:17:48


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日)より

「勝てる」という自信はよいが、「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。
「勝てる」という自信はその人を寛大にし、「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうと
するのであるから、その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月29日)より

人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 平成30年12月29日 頓首再拝>

天鼓と曼陀羅華とで飾られたる天国 - 伝統

2019/01/03 (Thu) 04:47:29


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月3日)より

人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。
神の国とは天人常に充満し、絶えず天鼓(てんく)の響きを妙(たえ)に、
摩訶曼陀羅華の花降る世界である。

天鼓(てんく)とは天の鼓ではない。
人間の人を賞(ほ)め讃える声である。

曼陀羅華とはインドにある華(はな)ではない。
華(はな)の笑(え)むように和やかな微笑、深切な言葉、
思いやりのある行ないが天上から降る曼陀羅華である。

これら天鼓(てんく)と曼陀羅華とで飾られたる
妙(たえ)なる世界の姿が天国である。

天国とは別の世界のことではない。
われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。

            <感謝合掌 平成31年1月3日 頓首再拝>

善事をなす習慣 - 伝統

2019/01/05 (Sat) 04:44:24

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月5日)より

一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、何事も成功から墜落する。
つまらないことのようでも小さき善事を継続することによって、
その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。

一日ぐらい懶(なま)けてもいいだろうというような考えから、善事をなす習慣を
たった一日廃絶したことによって堕落した人は世間にたくさんある。

昨日(きのう)きめた、朝起きた時に家族一同に優しい言葉を朗らかな調子で投げかける
ことを今日も続けなければならない。そしてさらに進んでいっそうの善事をつけ加える
ことをしたい。

食膳で感謝することである。
食物の本源である神の生かす力に、それを造ってくれた百姓の労苦に、
それを調理してくれた妻・娘または召使にである。

食物はまずくとも決して小言を言わぬことである。
食物の小言を言ったために終日その家庭が不快になったような経験は、
人類の誰でもが持っていることである。

食物そのものよりも、心の愉快さと、空腹とが食物の味を増すのである。
遠足に行って食べる梅干と握り飯の美味しさを思えば、このとこの真理は解る。

心が愉快でないときどんな食物もまずい、まずいのは自分自身の心の罪であり、
料理をしてくれる他(た)の家族や召使の罪ではない。

空腹でないために、美味しくないのは、
習慣に捉えられて空腹でないのに食事をするためである。

精神的に進歩したい人は、朝食を廃して、
出勤前の2時間を善き読書に費やすがよい。
毎朝2時間の読書の習慣は、その人をかなり向上もさせれば、博学多識にもする。

時間がないという者は、時間を造らない人のことである。
時間は、他の多くの道具などと同じく、人間によって製造せられるものである。

         <感謝合掌 平成31年1月5日 頓首再拝>

仕事の秘訣 - 伝統

2019/01/06 (Sun) 04:19:12

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より抜粋

常に人の《ため》になる仕事、常に世の《ため》になる仕事、
たゆみなくかかる仕事に従事している人には魂の喜びが伴う。
仕事が無上の喜びとなり、仕事の中に休息と慰安とがある。

金(かね)を貰って働いている人も、
金を貰って働くと思えばその時から魂の喜びは消えてしまう。

金(かね)を頂くのは、それが多いにせよ少ないにせよ
神様から恵まれたものであると感謝し、
仕事は仕事で人のため世のためへの自分の魂の献(ささ)げ物であると思って、
人のために尽くすという喜びの中に仕事をするがよいのである。

かかる仕事の中からは不断の喜びが湧く。
金と仕事とを交換的に考えてはならぬ。

仕事はいかなる「金(かね)」よりも尊いものであるがゆえに、
仕事のために「金(かね)」を貰っているという考えが起こるや否や、
仕事の歓びは半減される。

仕事を常に支配すること。
仕事に支配されてはならぬ。
仕事を追い回すことは、仕事から追い回されない秘訣である。

仕事に不平を立てておいて、そのゴールまで突進するのは仕事を捗(はかど)らせる
良き方法である。しかし、ゴールに到着しない日があっても焦(あせ)ってはならぬ。
一日の労は、一日の労で足りるのである。

常に働いていながら、その仕事が捗らないのは、何か神の摂理(おぼしめし)があるので
あろうと、またそのことに感謝するがよい。そこからいらいらした心持(こころもち)が
和(なご)やかになり、平和が魂に戻ってくるであろう。

急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。

         <感謝合掌 平成31年1月6日 頓首再拝>

緩急自在な生活 - 伝統

2019/01/07 (Mon) 03:54:32

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月7日)より

常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
緩急のない生活は、張り切ってばかりいる弓の弦(つる)のように、
次の矢をつがえることができぬ。

一張(ちょう)一弛(し)の交代によって弓の矢は的(まと)を射抜(いぬ)く。
張り切ってばかりいる弦(げん)はついに切れる。

さればといって、仕事をする時に懶(なま)けよと言うのではない。
弓を射るときには一心(しん)でなければならぬ。
仕事をするときにも一心でなければならぬ。

本当に張り切ったとき仕事は前に命中する。

仕事が終わるか、定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族と
うち寛(くつろ)ぐ時が来た等のときには本当に打ち寛(くつろ)がねばならぬ。

仕事は渋面(じゅうめん)をつくるためにあるのではない。
仕事は喜びを感ずるためにあるのである。
仕事を渋面をつくるためにあるように思ったり、
渋面をつくらねば真面目でないと思ったりするのはまちがいである。

団欒のときには楽しくすることが一つの仕事である。
家庭の団欒が忘れられているがために、妻が不平を言ったり、家族が病気になったり、
良人が危険の淵に近づいてゆくことも考えねばならぬ。

人間は金を積んで走る馬車馬のために造られているのではない。

         <感謝合掌 平成31年1月7日 頓首再拝>

団欒と仕事との調和を考える - 伝統

2019/01/08 (Tue) 04:19:37

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月8日)より

あまりに四角四面な余裕のない押しつめられた生活からは幸福な生活は生まれぬ。
曲線と直線とが巧みに調和していなければ美術でも生活でも美しくないのである。

団欒と仕事との調和を考えること、
あたかも美術家が曲線と直線との調和を考えるがごとくでなければならぬ。

         <感謝合掌 平成31年1月8日 頓首再拝>

《目覚めてはかく念ぜよ》 - 伝統

2019/01/10 (Thu) 04:52:36

        *「光明法語」(1月10日)より

朝眼が覚めたときが一日の出発である。
一日の出発を祝福されたるものにしなければならない。

一日の出発を祝福されたるものとするには、
既に与えられている祝福を数え上げることによって
それを感謝することから始めねばならない。

目が覚めると唇に「ありがとうございます」と感謝の言葉から
その日の生活を始めるのである。

眠っている間じゅう心臓を鼓動せしめ、肺臓を呼吸せしめ、胃腸をして消化せしめ、
色々の臓器をして各々の役目を完全に果たしことを神に感謝するのである。

         <感謝合掌 平成31年1月10日 頓首再拝>

八方正面の心境 - 伝統

2019/01/13 (Sun) 04:36:54


           *「光明道中記」(1月13日 八面玲瓏の日)より

【心が柳の枝に雪折れなしの様な状態になったら神経衰弱が治りました。
                           (『生命の實相』第三巻)】

すべての人の立場を認めるとき、吾々は八方正面の心境に到達するのである。
八方正面とは隙がないことである。
凡ゆる立場に於ける相手の位置が、その儘に自分の心の中に映り来るのである。

すべての立場を認めることが出来ず、
一つの立場のみを正しいと思い、その立場にのみ心を執しているとき、
その他の方面は全然隙だらけになって打ち込まれてしまうのである。

あのことに熱中していましたので、つい忘れていました
と言うのは、弁解にはならないのである。

剣も碁も兵法も商道も、すべての方面見て行き届かねば名人ではない。

如何に鋭くとも折れ易い刃は役に立たない。
人間は剃刀(かみそり)の如く鋭い一面も必要ではあるが、
柳の枝のような強靭性も必要である。

世の中は「硬(かと)う柔(やわら)こう、柔こう硬う、円(まる)う四角う、四角う円う」
自由自在に生きなければならないのである。

仏教に通達するには無字の門関を透過しなければならぬ。

無字を透過するは、柳の枝の如く無抵抗に、
そして「我れ地に穏かを出さんが為に来れるに非ず、
剣を投ぜん為に来れるなり」と言った基督のように鋭くならん為である。

            <感謝合掌 平成30年1月13日 頓首再拝>

《その所に於いて生き切れ》 - 伝統

2019/01/15 (Tue) 03:51:14


           *「光明法語」(1月15日)より

すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。

その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。

その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。

全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。

            <感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>

日々、自分は本当に生きているか、と問いかけよ! - 伝統

2019/01/16 (Wed) 04:25:05


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月16日)より

今日(きょう)いちにち自分の生命(せいめい)を生かさないことは自殺である。

「今日(きょう)自分は本当によく生きたか」
とわれわれは毎日自分自身の心に対して問いかけねばならぬ。

自殺はすべての罪悪のうちで最大の罪悪である。

            <感謝合掌 平成31年1月16日 頓首再拝>

《新鮮なる生命感に満ち溢れよ》 - 伝統

2019/01/17 (Thu) 04:34:11


         *「光明法語」(1月17日)より

新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。

新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。

今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。

新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。

如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。

満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。

            <感謝合掌 平成31年1月17日 頓首再拝>

自分の生命(いのち)がどれだけ生きたか? - 伝統

2019/01/18 (Fri) 04:21:26


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月18日)より

毎日何事か《人のためになる》仕事をせよ。
その《ためになる》部分だけが自分の《生きた》生命である。

《ためにならない》部分の生活は死んだ生活である。
自殺の生活である。
日々、自殺の生活を送らないように心がける者だけが大きく生長するのである。

何よりも自分に深切であることである。
そして自分に深切であるには、常に振り返ってみて、人のために何事をなしえたか ――
それによって自分の生命(いのち)がどれだけ生きたかを反省しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成31年1月18日 頓首再拝>

心清き人になる - 伝統

2019/01/19 (Sat) 04:44:51


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月19日)より

心が清くなることを心がけよ。
衣裳や白粉(おしろい)で飾っても、心の清さには及ばない。

心を清くするには悪を思ってはならない。
特に他人(ひと)の悪を思ってはならない。
他人(ひと)の悪を思ったら、他人(ひと)の悪が入って来る。

これは「自分に深切でない」ことである。
心を汚(けが)すのが唯一の罪であり、唯一の穢(きた)ないことである。

それでも他人(ひと)の悪が自分の心の中へ毒薬のように入って来たならば、
その毒薬の害毒を避ける道は、赦すことである。

腹を立てたり、興奮してはならない。
その人が善に立ち戻ることができるように静かに祈り、
かつその人のために考えてやらねばならぬ。

            <感謝合掌 平成31年1月19日 頓首再拝>

すべての人と仲よく交わる - 伝統

2019/01/27 (Sun) 04:16:09


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月27日)より

《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。

しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。

孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。

すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。

            <感謝合掌 平成31年1月27日 頓首再拝>

心朗かになる道 - 伝統

2019/01/30 (Wed) 04:38:34


           *「光明道中記」(1月30日 美点を見る日)より

【憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、
 之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)】

心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが決して存在せぬことを根本に知ることである。
一局部だけを見ずに大局を見る。短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。

冬のうちに春の兆(きざ)していることを知ることである。
陰極は必ず陽転することを知ることである。

心朗かになる道はすべての人を赦すことである。
憎しみを放ち去ること、憤(いきどお)りを含まぬこと。
すべての人の美点を見ること。

相手の立場に自分を置いて考えること。
気にくわぬことは忘れること。
呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。

みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。
他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。

人生の戦いはその人の執(と)る生活の角度で最初にきまるのである。

負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、
既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、
既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って嘆き悲しみ呪い呟く。

呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、
日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

            <感謝合掌 平成31年1月30日 頓首再拝>

時処相応の真善美の生活 - 伝統

2019/01/31 (Thu) 04:28:44


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月31日)より

事件に巻き込まれてはならない。
また時処(じしょ)に超然としてもならない。
生命(せいめい)は時処を超越しながら時処の中に美しき華を開く。

「真(しん)」は時空の外に超越している存在であるが、
「善」と「美」とは真(しん)が時処(じしょ)相応(そうおう)を得たときにあらわれる。

「二二ンガ四」は「真(しん)」であるが、「三三ンガ九」が必要な時処(ときところ)に
「二二ンガ四」が出て来たのでは時処相応でないということでそれは悪である。

数理の「真(しん)」の世界には無限の数の組合せがあるが、
そのうちで時処相応はただ一つである。

生命(せいめい)の「真」の世界においても無数の生命(せいめい)の行き方があるが、
その中で、ただ一つだけ「時処相応」がある。

常に「時処相応」の生活をしている人は生活の名人である。
われわれはこの生活の名人になるべく常に心がけたいものである。

常に神の叡智の導きに耳を傾けよ。
そこから本当の時処相応の真善美の生活が顕われてくるのであろう。

            <感謝合掌 平成31年1月31日 頓首再拝>

どんな事が起っても小言を言わず、小言を思わない - 伝統

2019/02/06 (Wed) 03:11:53


           *「光明道中記」(2月6日 一切に感謝謝する日)より抜粋

【天気に小言を言うな。すべてについて小言を言うな。小言はすべて暗い気分を招く。
 暗い気分は病気と不景気のもとだ。(『生命の實相』第十一巻)】


「あなたは心に不平を持っているから、それを直さなければ、
その病気は治らないでしょう」と、
道場へ来た人に助言してあげることがある。

すると「私は決して不平など心に持ったことはありません」と答える人が多い。
そう云う人は、自分の心に反省がないのである。

負債があるのに負債のあることに気附かず、
借金があるのに借金をしていることに気附かぬ人である。

そんな人は恐らく借金を払おうとしない人だろうし、
自分の悪癖(あくへき)を直そうとしない人で、
最も始末に了(お)えない種類の人間である。

そんな人が道場から帰る時間になって雨でも降って来たなら直ぐ
「チェッ雨が降って来て弱った!」と言って
天気の小言を言う現場を度々見せられているのである。

不平を持たぬ心とは、どんな事が起っても小言を言わぬ、小言を思わぬ心である。

            <感謝合掌 平成31年2月6日 頓首再拝>

《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》 - 伝統

2019/02/10 (Sun) 03:29:05


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、
人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をすることを全然やめた時に、
自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために
神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は

「神と自分との間にある通路は、實に何でもないとおろそかにする小事によって
塞がれてしまうことがある。一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。
一寸した世間話。一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」

と言っている。

            <感謝合掌 平成31年2月10日 頓首再拝>

宇宙の一切の事物に責任ある者だと自覚を持つ - 伝統

2019/02/11 (Mon) 04:33:00


           *「光明道中記」(2月11日 責任を喜ぶ日)より

【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。
                      (『生命の實相』第二巻)】

責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。

自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、
それは既に自己が弱者であることを自己確認したのである。
そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。

弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。

若し自身が不幸であるならば、
自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。

いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。
最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だと自覚を持つ聖者である。

世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、
自分の罪だと私は言いたい。

            <感謝合掌 平成31年2月11日 頓首再拝>

《自己の不運をかこつな》 - 伝統

2019/02/13 (Wed) 04:31:36


           *「光明法語」(2月13日)より

不深切、残忍、卑怯、殺人、盗罪ーそのようなことは神の愛にそむくのである。
神は愛であるから、神の愛にそむく一切の行は神と波長が合わないのである。

吾々が人の悪を決して云わないことに決心し、
それを実行した時に屹度その人は運が向くのである。
更に自分の不運をかこたぬことにしたら一層運が向くだろう。

他人の不運(悪口)を呟くのも、どちらも神の子をけがす罪なのである。
キリストはすべての罪は赦されるけれども聖霊をけがす罪は赦されないと言っている。

聖霊の出生である人間の悪口を言ってはならぬ。

            <感謝合掌 平成31年2月13日 頓首再拝>

弱者の心を捨て、強者の心を持て - 伝統

2019/02/15 (Fri) 04:30:45


           *「光明道中記」(2月15日 卑怯を捨てる日)より

【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、多くの人を病気にしている。
                          (『生命の實相』第四巻)】


同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。

みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。

それは既に病気の心であるが故に、
そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。

すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。

「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。

そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。

彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。

彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。

            <感謝合掌 平成31年2月15日 頓首再拝>

凋落の兆し - 伝統

2019/02/20 (Wed) 04:40:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月20日)」より

伸びることを忘れた時に凋落が始まる。

樹木を見て、その真理を悟れ。

               <感謝合掌 平成31年2月20日 頓首再拝>

善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積む - 伝統

2019/02/22 (Fri) 02:58:25


        *「光明道中記」(2月22日 天の倉に貯える日)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。
                    (「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、
天の倉に貯えられたる善行である。

すべての祝福は斯くの如き種子、
斯くの如き貯えを先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と言われるほどの
不幸不運な人ならば、その人は天の倉に貯えられたる自分の資本(福田)が
少しもないことを現しているのであるから、

その人が自己の運命を改善しようと思うならば、
先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が資本を積むが如く、
福田を積むようにしなければならぬ。


貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、
善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

            <感謝合掌 平成31年2月22日 頓首再拝>

十分合理性を持たせて事件を落着させることが大切である。 - 伝統

2019/02/26 (Tue) 04:26:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月26日)」より

腹を立てることと、相手に対して悪意を抱くことは相手を殺すことになる。

今日(きょう)、中島さんが入って来てこんな話をした。

○○電気局長のN氏、ある婦人と婚約したが、
しばらくの後その婚約した婦人のところへN氏から送られて来たものは、
N氏がすでに別の婦人と結婚したという通知のハガキであった。

あとで聞いてみると、さきの婦人はその時ハッと思っただけで
深く怨みに思ったわけではなかったというが、ともかく重大な問題について
約束を破られたのであるから、強い衝動を受けたということは明らかである。

それからが問題である。――

爾来、N氏の結婚生活は不幸であった。
N氏の新妻は常に病気で、ほとんど健康な日とてはなかった。
その間に一人の女児を儲けたが、N氏の家族は妻の病気のために不快な日がつづいた。

N氏が三回目に逓信省の辞令によって洋行したとき、N氏はどういう考えだか、
その夫人との13年間の結婚生活を解消すべく離縁状を送った。

夫人が結婚生活以来13年間の病気は、
その結婚解消と同時にたちまち完全に治ってしまったのであった。

N氏は今また別の婦人と夫婦生活を営んでいるが、
常に夫婦喧嘩の絶え間がないそうである。
中島さんの話はこれだけである。


あとはわたしの感想である。

第一の約束は先取的特権として最高権威をもち、ぜひとも守られるべきものである。
守らないくらいならば、イエス・キリストも「誓うなかれ」といったように
約束すべきではなかったのである。

やむをえずに約束を破らねばならぬようになったならば、
一片の葉書などで破約すべきではない。

先方が大調和の心持で快諾するまで十分話し合って、
心残りのないように十分合理性を持たせて事件を落着せしむべきものである。

最初の約束を破って、N氏が結婚した二人目の夫人が始終不健康であったのは、
最初の婦人の恨みの念が、二番目の婦人を縛っていたのだとも
解することができるのである。

あるいはN氏自身の自己審判の潜在意識が夫人に移入して
夫人が13年間も病気していたのだとも解せられる。
ともかくとうとうN氏は二番目の婦人を去ることによって、
最初に約束をしたその婦人に申し訳をしたのである。


言葉で十分相手に申し訳をして潜在意識がその行為の合理性に
納得せしめられていたならば、生活や行為に不幸な現象を現わして
最初の夫人に申し訳する必要はなかったに相違ないのである。

           <感謝合掌 平成31年2月26日 頓首再拝>

《自分を見苦しく広告してはならない》 - 伝統

2019/02/27 (Wed) 04:35:38


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。
それは「此処にこんな人がいる」と云うことを広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」と広告をしているのだし、
ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と広告しているのである。
膨れっ面は、不平な人を広告しているし、泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

           <感謝合掌 平成31年2月27日 頓首再拝>

使命感と天分を目的とせよ - 伝統

2019/03/03 (Sun) 04:46:50


自己の使命感を生かせ  

           *「光明法語」(3月2日)より

或る有名な音楽家のところへ一人の娘がたずねて来て、
どうしたら自分は早くラジオに出られるようになりますか。
オペラのシンガーになることが出来ますかとたずねた。

その有名な音楽家は答えた。

「どんな天才でもそのような気持ちで天才を伸ばすことは出来ません。
歌手が歌手として成功するためにはどんな苦労をしてでも歌を立派に歌いたい
と云うような一念にならねばなりません。

かくて其の一念不動の決意によって音楽が自分自身をさえも
魅するような上手さに達した時他の人々をも魅することが出来るのである」と。

・・・

使命感と天分を目的とせよ 

           *「光明法語」(3月3日)より

名声や金儲けを目的にしているのは本道(ほんみち)ではない。
それは天分のない証拠だと言えるのである。

私が早稲田の文科にいたとき、その分科が甲クラス乙クラスとに分かれて、
乙クラスは専門に文学のみを修業して中等学校の英語教師たる資格を抛棄(ほうき)する。

甲クラスは若し文学で飯が食えねば
英語教師に無試験検定でなれる資格を保留することにしたのである。

その時、乙クラスにみずから進んで入学をした者は僅か数名だったが、
彼らは文壇でとも角有名人になった。

西条八十、木村毅、細田民樹、細田源吾、鷲尾雨工・・・・・等々。

           <感謝合掌 平成31年3月3日 頓首再拝>

一事を見て万事を判断してはならぬ - 伝統

2019/03/06 (Wed) 04:39:46


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

           <感謝合掌 平成31年3月6日 頓首再拝>

悪事を断ち切る道 - 伝統

2019/03/07 (Thu) 04:44:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。
そして本当の「私」でない者に、今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 平成31年3月7日 頓首再拝>

《 問題の急所を衝くには 》 - 伝統

2019/03/11 (Mon) 04:43:43


       *『人生の秘訣365章』第8篇(P230~231) より

しかし悪しき相(すがた)が、あらわれて見える場合に、
「そんなものは存在しない」と思って、
そのあらわれている問題に何らの対策をもめぐらさず、
その現象に目を閉じて、ただ放置するだけで好いであろうか。

聖経『甘露の法雨』には「仮相(かりのすがた)に対しては實相を以て相対せよ」
「闇に対しては光を持って相対せよ」という風に示されているのである。

対策を立てないのではなく、対策を立てよ教えられているのである。

現象にあらわれたる危険な状態が、実際に《ある(實在する)》と思って、
その危険なる状態に対するならば、必ずや恐怖心や焦燥の念にかられて、
心が動揺するが故に最も適切なる手段を講ずることに失敗し易い状態となるのである。

ところが、その押し迫り来る危険な状態が、實は實相ではなく、
心の影が反映してあらわれているのだと知るならば、
決して心が動揺することはない訳である。

心が動揺することなくして、それが映画の如く、単に縦横厚みの三次元空間という
スクリーンに映写されている姿であると知るならば、
そしてその映像が不適当であるならば、

映写機を停止するとか、フィルムを取換えるとか、
最も適切な方法が講じられるのであって、その危険なる状態を
「實在」として対処する場合と、対処の仕方が異なって来るのである。

このような現象を停止したり、変化するには、問題の何処の箇所を外したり、
訂正したりしたらよいかの急所がわかるのが、
仮相(かりのすがた)に対して實相の智慧をもって来て処置する解決法なのである。

            <感謝合掌 平成31年3月11日 頓首再拝>

人生を値切るなかれ! - 伝統

2019/03/18 (Mon) 02:12:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 平成31年3月18日 頓首再拝>

人生を花をもって飾り、讃えましょう - 伝統

2019/03/19 (Tue) 04:42:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月19日)」より

人生を花をもって飾りましょう。
縮かんでしまってはなりません。

死人があるからとて、バラの花は咲くように神様から美を与えられているのです。
地上に悲惨があればこそ、われわれはいっそう地上を美しく飾らねばなりません。
委縮するものはついに国を滅ぼすのです。

元気にその日その日を生き、元気に人生を讃(たた)えましょう。

            <感謝合掌 平成31年3月19日 頓首再拝>

憎み、悪口は、殺人に等しい - 伝統

2019/03/22 (Fri) 01:49:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 平成31年3月22日 頓首再拝>

真理とともに立つ - 伝統

2019/03/27 (Wed) 03:06:05


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 平成31年3月27日 頓首再拝>

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ! - 伝統

2019/03/30 (Sat) 04:57:25


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月30日 頓首再拝>

人生と云う食膳に上り来る出来事をありがたく食する - 伝統

2019/03/31 (Sun) 04:32:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月31日)」より

必需物(なくてならのもの)はすべて与えられている。

必需物(なくてならのもの)は一つの事物ではない。
一つの事物にのみ執着する者は、自分の人生に流れ入って来る
「神の与えた必需物(なくてならのもの)」を拒むものである。

世に肥(こ)えることのできない児童に偏食者というのがある。
食膳に上がったものをそのままありがたく受け入れない。
アレかコレかの選択が多すぎる者である。

食膳の食物(しょくもつ)をすべてありがたく拝んで食べる者の
胃腸病は治って肉体が肥えてくるように、

自分の人生に流れ入(い)ってくるいっさいの事件を喜んで受け、
そのすべてから滋味を吸収し、去り行くコースには執着せず、
新たに人生の食膳に上(のぼ)り来るものをまた新たに合掌して受け、
食する者はついには人生の豊かなる肥満者となるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月31日 頓首再拝>

ひっかけ問題をクリアすればごほうびがもらえるよ - 伝統

2019/04/19 (Fri) 04:07:34


        *「斎藤一人 俺の人生」(P20~21)より

愛ってなんですかっていえば、優しくて親切なことなんです。
自分のできる範囲で、人に優しく、親切にすること。

人に優しく親切にってどういうことかって言うと、
悪口や愚痴を言わないとかね。基本的にはそれだけです。

それでうまくいくんですかっていえば、いくんだよ

その証拠に、私はたったそれだけのことで、ずっとうまくいってるんだもの。

言われても言い返さない。
そういう私の人生は、毎日幸せなんだよね。


《ムカッとするようなときでも愚痴や文句を言わないでいると、
 神様がうんとごほうびをくれるんだよ。》

            <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

《一面の立場から人を批評してはならぬ》 - 伝統

2019/04/21 (Sun) 04:22:31


          *「光明法語」(4月21日)より

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

            <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

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