伝統板・第二

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神の美② - 伝統

2018/11/03 (Sat) 03:29:56


       *伝統板・第二「神の美」からの継続です。
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神の子の美を讃美せよ

       *「光明法語」(11月3日の法語)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

           <感謝合掌 平成30年11月3日 頓首再拝>

《そのままの美しさ》 - 伝統

2018/12/03 (Mon) 03:18:59


         *「光明法語」(12月3日の法語)より 

そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。

どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。

どんな人間の顔もそのままが全体として調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と調和しているのである。

若し隆鼻術でも施して、
その鼻を人工的に高くしたら、その顔は全体の調和を失って了う。

           <感謝合掌 平成30年12月3日 頓首再拝>

《不ぞろいの美しさ》  - 伝統

2018/12/04 (Tue) 03:22:10


         *「光明法語」(12月4日の法語)より 

すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。

左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。

活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、美しさなど見られない。

平等でないところに美があるのである。

           <感謝合掌 平成30年12月4日 頓首再拝>

《自然の歪みの美しさ》  - 伝統

2018/12/05 (Wed) 03:11:08


         *「光明法語」(12月5日の法語)より 

茶の湯の茶碗の美も、人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら美しさなどはないであろう。

人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。

大自然のもので、コンパスで書いたような、正円もなければ、
定規で引いた様な直線もないのである。

しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、人間の眼の不揃いも美しいのである。

           <感謝合掌 平成30年12月5日 頓首再拝>

その儘に流れるとき何事も美しく成就する - 伝統

2018/12/06 (Thu) 02:35:30


         *「光明法語」(12月6日の法語 無理にたくむな)より 

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。
迂余曲折しているままで美しいのであり、その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、
我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、
美しい結果が得られないで苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

           <感謝合掌 平成30年12月6日 頓首再拝>

美は、無限相の存在の反影(リフレクション) - 伝統

2019/01/10 (Thu) 04:54:40


           *「光明道中記」(1月10日 自在を得る日)より

【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。
・・・空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋(あや)。
これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】


「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と説かれているが、
空間は心が認識作用を投影する印画幕として外界に仮に展開せしめたる面である。

画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。

画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、
それは寸法を超えたものである。

1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、
その美が投影される「面」の寸法に準(したが)って
無限に多種多様の寸法に現れ出(いで)得るが故に、
それ自身は大いさなきものである。

無寸法にして無限寸法のものであり、無空間にして無限相のものが生命であり、
その美である。

生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、
此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、空間面に
肉体と云う反影(リフレクション)を投げかけているものが生命だと知れるのである。

だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。

            <感謝合掌 平成30年1月10日 頓首再拝>

《さび》と渋味の中には「生命の悠久」の美がある - 伝統

2019/01/26 (Sat) 03:37:19


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より

どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。

《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。

《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。

罪悪があるといっても、「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。

《さび》と渋味の中には生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
五官的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」をツツミ蔽(おお)うばかりである。

            <感謝合掌 平成31年1月26日 頓首再拝>

「大いなる美」が人間に宿っている - 伝統

2019/02/24 (Sun) 04:51:41


           *「光明道中記」(2月24日 心の眼ひらく日)より   

【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
                       (「生命の實相」第十九巻)】

美しく開く春の花を見るにつけても、
その美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。

天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。

天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。

若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような
顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、
吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、そんな美術品も
ただ空間(あき)だらけな分子の機械的な集りとして観たであろう。

機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。

吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。

吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。

ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。

先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。

            <感謝合掌 平成31年2月23日 頓首再拝>

【美的価値と行】 - 伝統

2019/03/01 (Fri) 04:36:48


        *「光明道中記」(P72)より

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

            <感謝合掌 平成31年3月1日 頓首再拝>

人に宿る美を知る - 伝統

2019/04/05 (Fri) 04:21:58

        *「光明道中記」(4月5日 人に宿る美を知る日)より抜粋

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」
なる理念と合致するから、その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

            <感謝合掌 平成31年4月5日 頓首再拝>

美と価値と生命 - 伝統

2019/06/01 (Sat) 03:58:29


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より

柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」といちいち
自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。

褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。

褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

           <感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>

人間に現れる美と荘厳 - 伝統

2019/09/07 (Sat) 04:54:35


       *「光明法語」(9月7日)より

個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが
個別者に現れない理由は本来あり得ないではないか。

大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、渓谷や、
滔々たる大河の流れや、落日などに表現されているのであるが、
万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの
「人間」なる神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。

大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。

           <感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>

美は、愛と叡智の結びの表現 - 伝統

2019/09/28 (Sat) 04:37:56


        *メルマガ「心に響く今日の言葉 (2019年09月10日)」より

【愛の表現形】

美というのは、愛の表現形でもあります。

愛と叡智というものが結び合わさったとき、
美という表現が出てくるのです。

           <感謝合掌 令和元年9月28日 頓首再拝>

協力の美しさ - 伝統

2019/09/30 (Mon) 04:12:56


    *「光明法語」(9月30日)より

個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。

そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが互いに協力する事によってである。

例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。
天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、しかも一つに渾然と調和する。

それが盆栽や生花(いけばな)の美である。

人間も一個人として無論美しいが互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。

           <感謝合掌 令和元年9月30日 頓首再拝>

個性を発揮し、渾然たる調和が発揮されるとき、無限の美があらわれる - 伝統

2019/10/01 (Tue) 04:10:10


        *「光明法語(10月1日)《異なる者の渾一調和》」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

       <感謝合掌 令和元年10月1日 頓首再拝>

健康美を讃賞せよ - 伝統

2019/10/05 (Sat) 03:40:30


        *「光明法語(10月5日)」より

健康美の発現を悦べ。

それが体操であれ、スポーツであれ、舞踊であれ、
健康美の表現されているものを素直に悦ぶ心がなければ、
ただの健康は得られても健康美ある肉体の美しさは得られないのである。

何でも愉快に体操でもスポーツでも舞踊でも、
健康の美の発現を実際に喜んで実践するとき健康美はあらわれる。

何でもそれを讃えてやり賞(ほ)めてやり喜んでやったならば、
それは益々発達しその完全なる姿を現すのだ。


肉体美もその通りである。
肉体を軽蔑してはならぬ。

       <感謝合掌 令和元年10月5日 頓首再拝>

《そのままの美しさ》  - 伝統

2019/12/03 (Tue) 04:46:27


         *「光明法語」(12月3日)より

そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。

どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。

どんな人間の顔もそのままが全体として
調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と調和しているのである。

若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、
その顔は全体の調和を失って了う。

       <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>

《不ぞろいの美しさ》 - 伝統

2019/12/04 (Wed) 03:40:21


         *「光明法語」(12月4日)より

すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。

左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。

活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。

天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、
美しさなど見られない。

平等でないところに美があるのである。

       <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>

《自然の歪みの美しさ》  - 伝統

2019/12/05 (Thu) 04:47:01


         *「光明法語」(12月5日)より

茶の湯の茶碗の美も、人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら
美しさなどはないであろう。

人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。

大自然のもので、コンパスで書いたような、
正円もなければ、定規で引いた様な直線もないのである。
しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、人間の眼の不揃いも美しいのである。

       <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>

美は吾々の観る心によってのみ発掘される - 伝統

2020/02/24 (Mon) 02:49:17


           *「光明道中記」(2月24日《心の眼ひらく日》)より   

【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
                       (「生命の實相」第十九巻)】

美しく開く春の花を見るにつけても、その美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。

天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。

若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、
吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、そんな美術品もただ空間(あき)だらけな
分子の機械的な集りとして観たであろう。

機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。

吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。
吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。

ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。

先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。

       <感謝合掌 令和2年2月24日 頓首再拝>

人の美しさのみを見る - 伝統

2020/02/25 (Tue) 02:56:56


           *「光明道中記」(2月25日《心美しき日》)より   

【心の眼がひらかれなければ実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。  (『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、主観によって、
観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

       <感謝合掌 令和2年2月25日 頓首再拝>

【美的価値と行】 - 伝統

2020/03/11 (Wed) 04:54:50


        *「光明道中記」(P72)より

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

          <感謝合掌 令和2年3月11日 頓首再拝>

美というものは神の本質をなすものの一つである - 伝統

2020/03/28 (Sat) 04:31:00


         *『幸福をひらく鍵』(P16)より

美は生命(せいめい)そのものの本質であるから、
自然界の凡(あら)ゆる事物、樹(き)の葉脈でも年輪でも、
鉱物の結晶でも、貝殻の構造や形態にも、

それぞれの美があり、一見きたなく見える黒い煤(すす)の
結晶でも、レントゲン顕微鏡写真で拡大してみると、
大宮殿の建築美のような美を揃えているのである。

美は生命(せいめい)そのものの本質であるから、
美の表現を願うことは決して悪徳ではないのであるが、
もっと高き美の表現が願わしいのである。

          <感謝合掌 令和2年3月28日 頓首再拝>

人に宿る美を知る日 - 伝統

2020/04/05 (Sun) 04:39:48


           *「光明道中記」(4月5日)より抜粋

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」
なる理念と合致するから、その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

          <感謝合掌 令和2年4月5日 頓首再拝>

美と価値と生命 - 伝統

2020/06/01 (Mon) 04:32:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より

柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

(中略)

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。

褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。

褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

           <感謝合掌 令和2年6月1日 頓首再拝>

生命荘厳の美 - 伝統

2020/07/02 (Thu) 04:18:32


        *「光明法語」(7月2日)より

世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。

困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。

山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。

困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。

           <感謝合掌 令和2年7月2日 頓首再拝>

人間に現れる美と荘厳 - 伝統

2020/09/07 (Mon) 03:15:45


        *「光明法語」(9月7日)より

個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが
個別者に現れない理由は本来あり得ないではないか。

大自然の美や荘厳さは美しい花や
巨大なる瀑布(ばくふ)や、渓谷や、滔々たる大河の流れや、
落日などに表現されているのであるが、万物の霊長であり、
神が自意識をもって顕現したところの「人間」なる神の表現に
美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。

大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。

           <感謝合掌 令和2年9月7日 頓首再拝>

協力の美しさ - 伝統

2020/09/30 (Wed) 03:40:24


    *「光明法語」(9月30日)より

個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。

そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが互いに協力する事によってである。

例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。
天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、しかも一つに渾然と調和する。

それが盆栽や生花(いけばな)の美である。

人間も一個人として無論美しいが互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。

           <感謝合掌 令和2年9月30日 頓首再拝>

【異なる者の渾一調和】に、無限の美があらわれる - 伝統

2020/10/01 (Thu) 04:13:32


        *「光明法語(10月1日《異なる者の渾一調和》)」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

       <感謝合掌 令和2年10月1日 頓首再拝>

神の子の美を讃美せよ - 伝統

2020/11/03 (Tue) 04:56:20


       *「光明法語」(11月3日の法語)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

       <感謝合掌 令和2年11月3日 頓首再拝>

《そのままの美しさ》  - 伝統

2020/12/03 (Thu) 04:41:55


       *「光明法語」(12月3日の法語)より 

そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。

どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。

どんな人間の顔もそのままが全体として調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と調和しているのである。

若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、
その顔は全体の調和を失って了う。

       <感謝合掌 令和2年12月3日 頓首再拝>

《不ぞろいの美しさ》  - 伝統

2020/12/04 (Fri) 04:38:52


       *「光明法語」(12月4日の法語)より 

すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。

左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。

活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。

天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、
美しさなど見られない。

平等でないところに美があるのである。

       <感謝合掌 令和2年12月4日 頓首再拝>

《自然の歪みの美しさ》  - 伝統

2020/12/05 (Sat) 02:54:53


       *「光明法語」(12月5日の法語)より 

茶の湯の茶碗の美も、
人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。

若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら
美しさなどはないであろう。

人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。

大自然のもので、コンパスで書いたような、正円もなければ、
定規で引いた様な直線もないのである。

しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、
人間の眼の不揃いも美しいのである。

       <感謝合掌 令和2年12月5日 頓首再拝>

《さび》と渋味の中には「生命の悠久」の美がある - 伝統

2021/01/26 (Tue) 03:25:40


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より

どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。

《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。

《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。

罪悪があるといっても、「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。

《さび》と渋味の中には生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
五官的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」を
ツツミ蔽(おお)うばかりである。

           <感謝合掌 令和3年1月26日 頓首再拝>

「大いなる美」が人間に宿っている - 伝統

2021/02/24 (Wed) 04:08:05


         *「光明道中記」(2月24日《心の眼ひらく日》)より   

【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
                       (「生命の實相」第十九巻)】

美しく開く春の花を見るにつけても、
その美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。

天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。

天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。

若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような
顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、

吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、
どんな美術品もただ空間(あき)だらけな
分子の機械的な集りとして観たであろう。

機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。

吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。

吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。

ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。

先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。

           <感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。 - 伝統

2021/02/25 (Thu) 01:29:02


           *「光明道中記」(2月25日《心美しき日》)より   

【心の眼がひらかれなければ
 実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。  (『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。

浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、景色などのように思っている人も
あるかも知れぬが、「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、主観によって、
観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、
前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には
此の世界は孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

           <感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝>

【美的価値と行】 - 伝統

2021/03/01 (Mon) 03:30:14


       *「光明道中記」3月はじめの言葉 より

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

           <感謝合掌 令和3年3月1日 頓首再拝>

すべての人間は、神の絶対美 〈超比較美〉 の個別化した自己表現である - 伝統

2021/04/13 (Tue) 02:16:29


        *『白鳩』(昭和40年4月号)より抜粋
         ~ 《“神らしくなる” こと》   

すべての人間は、神の絶対美 〈超比較美〉 の個別化した自己表現であるから、
その人でなければ表現できないところの比較を絶した美しさがあるということである。

たとえば、美空ひばりにも、江利チエミにも、雪村いずみにも、坂本九にさえも
神は、彼又は彼女でなけれならない魅力的な美を与えていられるのである。 
ロダンの 「鼻欠けの像」 にすらすばらしい美が表現されているのである。

“生命” は “神” であるから、“生命” の発現するところ
必ず其処に素晴しい美が輝きいづるのである。

あなたは何よりも自己の “生命” を溌剌と発揮しなければならない。 
妻が生き生きと明るい美を湛えている家庭は常に幸福である。

        http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19195431.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月13日 頓首再拝>

美と価値と生命 - 伝統

2021/06/01 (Tue) 02:56:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より

柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」といちいち
自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。

褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。

褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

           <感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>

生命荘厳の美 - 伝統

2021/07/02 (Fri) 04:09:17


       *「光明法語」(7月2日)より

世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。

困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。

山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。

困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。

           <感謝合掌 令和3年7月2日 頓首再拝>

人間に現れる美と荘厳 - 伝統

2021/09/07 (Tue) 04:49:58


    *「光明法語」(9月7日)より

個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが個別者に現れない理由は
本来あり得ないではないか。

大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、
渓谷や、滔々たる大河の流れや、落日などに
表現されているのであるが、

万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの
「人間」なる神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。

大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。

           <感謝合掌 令和3年9月7日 頓首再拝>

協力の美しさ - 伝統

2021/09/30 (Thu) 04:35:47


    *「光明法語」(9月30日)より

個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。

そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが互いに協力する事によってである。

例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。
天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、しかも一つに渾然と調和する。

それが盆栽や生花(いけばな)の美である。

人間も一個人として無論美しいが互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。

           <感謝合掌 令和3年9月30日 頓首再拝>

【異なる者の渾一調和】 - 伝統

2021/10/01 (Fri) 04:52:57


        *「光明法語(10月1日)」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

       <感謝合掌 令和3年10月1日 頓首再拝>

《そのままの美しさ》  - 伝統

2021/12/03 (Fri) 04:51:50


        *「光明法語(12月3日)」より

そのままの美しさを知らねばならない。

そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。

どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。

どんな人間の顔もそのままが全体として調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と調和しているのである。

若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、
その顔は全体の調和を失って了う。

       <感謝合掌 令和3年12月3日 頓首再拝>

《不ぞろいの美しさ》  - 伝統

2021/12/04 (Sat) 05:02:26


        *「光明法語(12月4日)」より

すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。

左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。

活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、美しさなど見られない。

平等でないところに美があるのである。

       <感謝合掌 令和3年12月4日 頓首再拝>

《自然の歪みの美しさ》 - 伝統

2021/12/05 (Sun) 04:41:25


        *「光明法語(12月5日)」より

茶の湯の茶碗の美も、人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら美しさなどはないであろう。

人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。

大自然のもので、コンパスで書いたような、正円もなければ、
定規で引いた様な直線もないのである。

しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、
人間の眼の不揃いも美しいのである。

       <感謝合掌 令和3年12月5日 頓首再拝>

《さび》と渋味の中には「生命の悠久」の美がある - 伝統

2022/01/26 (Wed) 04:53:42


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より

どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。

《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。

《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。

罪悪があるといっても、「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。

《さび》と渋味の中には生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
五官的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」を
ツツミ蔽(おお)うばかりである。

           <感謝合掌 令和4年1月26日 頓首再拝>

「美しく観える」立場から万象を見る - 伝統

2022/02/24 (Thu) 04:58:09


        *「光明道中記」(2月24日《心の眼ひらく日》)より   

【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
                       (「生命の實相」第十九巻)】

美しく開く春の花を見るにつけても、その美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。

天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。

若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような
顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、
吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、そんな美術品もただ空間(あき)だらけな
分子の機械的な集りとして観たであろう。

機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。

吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。

吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。

ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。

先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。

           <感謝合掌 令和4年2月24日 頓首再拝>

美しさのみを見ることをつとめよう  - 伝統

2022/02/25 (Fri) 03:56:13


        *「光明道中記」(2月25日《心美しき日》)より   

【心の眼がひらかれなければ実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。
・・・ 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。(『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、
主観によって、観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、
前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には
此の世界は孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。

棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。

           <感謝合掌 令和4年2月25日 頓首再拝>

【美的価値と行】 - 伝統

2022/03/01 (Tue) 04:02:59


         *「光明道中記」(P72)より

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

           <感謝合掌 令和4年3月1日 頓首再拝>

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