伝統板・第二

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尊師の言葉(インターネット道場篇)② - 伝統

2018/11/02 (Fri) 04:11:37


《「神はすべてのすべて」》

平成30年8月12日の言葉 より 

『生命の實相』(第38巻)幸福篇下「7月24日」の言葉

  谷口雅春先生

瞑目精神を統一して、
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。

そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、
神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された普遍意識
(すべてに満ちて行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、
自分のうちに宿り給う普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、
われらはこの普遍意識の中に没入し、普遍の智慧と一つになるとき、
知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は普遍の智慧を
知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」

 と繰り返し繰り返し念ぜよ。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/12/8%E6%9C%8812%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

・・・

<関連Web:伝統板・第二「尊師の言葉(インターネット道場篇)
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7772409 >

          <感謝合掌 平成30年11月2日 頓首再拝> 

三界は唯心の所現 - 伝統

2018/11/05 (Mon) 03:45:32

平成30年8月13日の言葉 より 

谷口雅春先生は「三界は唯心の所現」についてはっきりと、こう書かれている。

「生命の實相」第21巻 経典篇P12

    谷口雅春先生

三界は唯心の所現である。
すべてこの感覚に映ずる世界、ことごとくはこれ心の所現の世界である。

つまり(現象界は)、創造主(つくりぬし)というような神様が造り固めた
世界ではないのであって、われわれの「念」というものが造り固めた世界である。

念が創造主(つくりぬし)である、
「三界は唯心の所現である」というのは、
つまり「念」が造り固めた世界である、という意味であります。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/13/%EF%BC%98%E6%9C%8813%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%EF%BC%88%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4%EF%BC%89/


          <感謝合掌 平成30年11月5日 頓首再拝> 

「神はひかりである」 - 伝統

2018/11/06 (Tue) 05:02:35

平成30年8月20日の言葉 より 

『生長の家』昭和26年5月17日の法語より

谷口雅春先生

「神はひかりである」
 
心の明るさと云うことが第一に必要である。
神に祈って効果がない場合、概(おおむ)ねその人に
心の明るさが欠乏している場合が多いのである。

神は光であるから、
神の波長に合うためには先(ま)ず明るい心が必要である。

すべての恐怖や心配や取越苦労などを“かなぐり”捨てて、
神に全的にまか切ることが必要である。

「 私は朗らかである。私は神の子であるから、親様なる神が
私のすべての事を見戍(みまも)り給うから、
私は神にすべてをまかせて、心平和である。

すべての事は必ずよく成就するのである。」

と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/19/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%90%E6%97%A5%E6%9C%88%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年11月6日 頓首再拝> 

「祈り方」について - 伝統

2018/11/11 (Sun) 02:51:50


平成30年8月21日の言葉 より 

「生命の實相」第38巻幸福篇下12月4日

      谷口雅春先生

イエスはラザロの死せるを見たとき、同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人に
ただ「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。
「ああかわいそうに! 」と言って、一緒に倒れふし泣き濡れて
動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/23/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%91%E6%97%A5%E7%81%AB%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年11月11日 頓首再拝> 

「悪は本来無い」 - 伝統

2018/11/14 (Wed) 03:41:20

平成30年8月22日の言葉 より 

「生命の實相」第37巻幸福篇上6月1日

谷口雅春先生

 柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」と
いちいち自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、
悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。

褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。
褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。

それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/23/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%92%E6%97%A5%E6%B0%B4%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年11月14日 頓首再拝> 

「愛(神)を生きる」 - 伝統

2018/11/16 (Fri) 02:49:23


平成30年8月23日の言葉 より 

「生命の實相」 第24巻60p

    谷口雅春先生

不老不死の若返り薬は、物質的薬剤にはないのである。
それはわれらの心のうちにのみある。

永遠の若返り薬は正しき順なる心の向け方にあるのである。

われらの知っている若返りの秘薬のうちで、愛ほど強力な若返り薬はないのである。

仕事に対する愛、隣人に対する愛、あらゆる事物に対する愛。

愛こそ実に最も強力なる起死回生薬、若返りの秘薬となるものである。

愛は人の最も高きものを魂のうちに目覚めさす。
愛は人の最も強きものを情のうちに掻き起こす。
愛は人のうちより神なるものを喚起こすのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/23/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%93%E6%97%A5%E6%B0%B4%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年11月16日 頓首再拝> 

世界を天国にする最も迅速な方法 - 伝統

2018/11/20 (Tue) 04:22:56


平成30年8月24日の言葉 より 

「生命の實相」第38巻 幸福篇下 P47

谷口雅春先生

世界を天国にする最も迅速な方法は、
自分の最も手近な務めを、熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが自分にとって
最も消化しやすい栄養であるのである。

手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

 
古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものはついに天国に到ることができないのである。

「道」は ―― 小なりといえども「道」に背かずんば、
それは偉大なる生活であり、大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、
矮小(わいしょう)なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、太陽は毎朝東から差しのぼって
なんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/25/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%94%E6%97%A5%E9%87%91%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年11月20日 頓首再拝> 

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではない - 伝統

2018/11/30 (Fri) 04:41:19


平成30年8月25日の言葉 より 

「生命の實相」第38巻 幸福篇下 8月11日P47

    谷口雅春先生

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、愛と讃め言葉の中には天国浄土がある
ということを知っていながら、それらの人々は憎み、かつ悪口を
言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。そ

れは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、ある人を排斥するのはまちがっている。
「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。

ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/25/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%95%E6%97%A5%E5%9C%9F%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年11月30日 頓首再拝> 

「甘露の法雨」~人間の項目 - 伝統

2018/12/11 (Tue) 04:18:05


平成30年8月26日の言葉 より 

「甘露の法雨」 谷口雅春先生

人間の項目

地上の人間よ、
われ汝らに告ぐ、
汝ら自身の本性を自覚せよ。
汝ら自身は『真性の人間』にして、
そのほかの如何なるものにも非ず。
されば人間は真理の眼より見る時は
罪を犯す事能わざるものなり、
病に罹る事能わざるものなり、
滅ぶること能わざるものなり。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/28/8%E6%9C%8826%E6%97%A5%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年12月11日 頓首再拝> 

「甘露の法雨」~人間の項目② - 伝統

2018/12/13 (Thu) 04:41:17


平成30年8月27日の言葉 より 

「甘露の法雨」谷口雅春先生

人間の項目

神は人間の光源にして
人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、
光源の無き光はなし。
光と光源とは一体なるが如く
人間と神とは一体なり。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/28/8%E6%9C%8827%E6%97%A5%E6%9C%88%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年12月13日 頓首再拝> 

「甘露の法雨」~人間の項目③ - 伝統

2018/12/14 (Fri) 04:57:11


平成30年8月28日の言葉 より 

「甘露の法雨」谷口雅春先生

  人間の項目

完全なる神の
『心』動き出てコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。
万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心
物質にて成るもの一つもなし。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/28/8%E6%9C%8828%E6%97%A5%E7%81%AB%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年12月14日 頓首再拝> 

「甘露の法雨」~人間の項目④ - 伝統

2018/12/17 (Mon) 04:38:21


平成30年8月29日の言葉 より 


「甘露の法雨」谷口雅春先生

人間の項目

誰か云う『罪人よ、罪人よ』と。
神は罪人を造り給わざるが故に
この世に一人の罪人もあらず。
罪は神の子の本性に反す、
病は生命自身の本性に反す、
死は生命其自身の本性に反す、
罪と病と死とは、
畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想に過ぎず。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/29/8%E6%9C%8829%E6%97%A5%EF%BC%88%E6%B0%B4%EF%BC%89%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝> 

「甘露の法雨」~神の項目 - 伝統

2018/12/29 (Sat) 04:25:34


平成30年8月30日の言葉 より 

「甘露の法雨」谷口雅春先生

 神の項目

感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。
汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも
実在を視たるに非ず、
感覚にて視得るものは
すべて心の影にして第一義的実在にあらず

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/30/8%E6%9C%8830%E6%97%A5%E6%9C%A8%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年12月29日 頓首再拝> 

「甘露の法雨」~霊の項目 - 伝統

2018/12/30 (Sun) 04:56:53


平成30年8月31日の言葉 より 

「甘露の法雨」谷口雅春

 霊の項目

実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。
実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。
真にあらざるものには真をもって相対せよ。
仮相に対しては実相を以て相対せよ。
闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。
仮相を破るものは実相のほかに在らざるなり。
虚妄を壊するものは真理のほかに在らざるなり。
闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。
彼らに生命の實相を教えよ。
彼らに生命の實相が神そのものにして完全なることを教えよ。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/30/8%E6%9C%8831%E6%97%A5%E9%87%91%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年12月30日 頓首再拝> 

「甘露の法雨」~人間の項目 - 伝統

2019/01/02 (Wed) 04:58:15

平成30年9月1日の言葉 より 

「甘露の法雨」谷口雅春

  人間の項より

罪も、
病も、
死も、
畢竟汝らの悪夢に過ぎず。
汝ら生命の実相を自覚せよ。
汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。
『真性の人間』は神人にして
神そのままの姿なり。
滅ぶるものは『真性の人間』に非ず。
罪を犯すものは『真性の人間』に非ず。
病に罹るものは『真性の人間』にあらず。
地上の人間よ、
われ汝らに告ぐ、
汝ら自身の本性を自覚せよ。
汝ら自身は『真性の人間』にして、
そのほかの如何なるものにも非ず。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/01/9%E6%9C%881%E6%97%A5%EF%BC%88%E5%9C%9F%EF%BC%89%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成31年1月2日 頓首再拝> 

『百万人の児童を救う運動を起せ』 - 伝統

2019/01/07 (Mon) 04:01:12

平成30年9月2日の言葉 より 


『百万人の児童を救う運動を起せ』

   谷口雅春先生

世界に一つしかない法律が出来たのである。
それが日本に出来たのである。

人工流産の枠が外されて、一さい優生保護法指定医(開業三年後の産婦人科医)の
自由裁量に任せられる法律である。
産婦人科医に殺人の自由がゆるされた法律である。

医学評論家の石垣純二氏は「こんな法律は世界中に一つもない。
文明国にもないし、後進国にもない」と云っている。

「人工流産は年々ふえる一方で、昭和二十五年は四十九万件であったが、
二十六年は六十二万件以上とうなぎ昇りだ。しかも、これは氷山の一角にすぎない。
全医師の一割にもならない指定医が届け出た数字がこれで、

このかげにどれほどのヤミ流産がかくれていることか。
K市の保健所の調査では合法1につきヤミ3だったという。
これを全国に当てはめてはえらいことだけれど、
まあ表面に出た六十万件のかげに、その二倍ぐらいのヤミ流産がある
と推定される具体的証拠がある。」と。

これによると一年間に二百万人の胎児の殺人が
日本で公然又は黙認して行われていると云うことである。

こうして殺人の上に築かれたる生き残っている人だけで
平和がいつまでも平和でつづき得るかは疑問である。

石垣氏は更に日本全国に千二百万人の適齢母性があるのに
指定医は全国で七千人足らずしかもそれが都会に偏在していることと、
この法律の堕胎公許によって堕胎を罪悪視する心がなくなることとによって
素人による手軽な堕胎が到る処に行われる危険をのべ、
更に(指定医だってピンからキリまである。

指定医が手術したって、本質的には危険な手術に変わりがないのだ。
指定医の手術でも四、五百人に一人は死んでいるし、
死なないまでも大出血や子宮穿孔などの障害のあった例は、その十倍もある。

古屋公衆衛生院長が三百人ほどの指定医をしらべた報告では、
十人につき一人づつ殺している指定医が四人もあったという・・・・
それに流産にくる女性の二割が妊娠三ヶ月以内を過ぎてしまっていることも問題だ。

九ヶ月の人工流産さえ聞く。九ヶ月なら生きて産まれるはず。
そこで頭に穴をあけて引き出すのだ。完全に殺人だ)

まことに石垣氏の云うとおりである。
 
最近私は龍野の婦人誌友で、骨盤の奥行が狭いから人工流産をさせるか、
帝王切開分娩をしなければならぬと専門医から云われたものが
生長の家の教えに触れて三度のシキリ毎に「あゝ好い気持・・・・」と
快感を表現しながら無痛分娩した挙句、

その婦人は股関節の先天的脱臼で右足が短くて跛を引いていたのが
復旧して跛行せずに歩行出来るようになった実例をきいたのである。

これなども医師にまかせておけば、殺人される筈の子供であったのが、
宗教に触れたために救われた一例である。

政治に宗教が入らなければ本当に正しい政治など行えるのではない。

            『白鳩』誌 昭和27年7月号 巻頭言

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/02/9%E6%9C%882%E6%97%A5%EF%BC%88%E6%97%A5%EF%BC%89-%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成31年1月7日 頓首再拝> 

人間を 「 神社 」 として合掌しない人は多い。 - 伝統

2019/01/13 (Sun) 04:40:58

平成30年9月3日~6日の言葉 より 

人間を 「 神社 」 として合掌しない人は多い。

『 生長の家 』昭和26年2月6日の法語

 谷口雅春先生

  一番根本的な問題は

人間の中には、何人(なんぴと)にも 「 神 」 が宿っている。
どんな悪人と烙印を押された人にも 「 神 」 が宿っているのである。

だから、すべての人間は、
一個の 「 神社 」 であると云うことができるのである。

神社に参拝して手を合わす人は沢山(たくさん)あるけれども、
人間を 「 神社 」 として合掌しない人は多い。

若(も)しすべての人類が人間互いに、内に神やどり給う
「 神の宮 」 即ち神社として礼拝することを始めるならば、
世界にはどんな種類の争いも、啀(いが)み合いもなくなり、

すべての家庭は幸福になり、すべての人間は健康になり、
全世界は平和になる。

此の根本的な問題を忘れていては
凡(あら)ゆる計画も画餅(がべい)に等しい。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/06/9%E6%9C%883%E6%97%A5%EF%BD%9E9%E6%9C%886%E6%97%A5%E6%9A%B4%E9%A2%A8%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87/

          <感謝合掌 平成31年1月13日 頓首再拝> 

「師恩」に感謝 - 伝統

2019/01/14 (Mon) 04:53:12


平成30年9月10日の言葉 より 

『理想世界』誌昭和45年12月15日の法語
   谷口雅春先生   

 ”…先日も東京の地方講師や伝道員ばかりの実相研鑽会で、地方講師の一人が
〝七つの燈台の点燈者の神示〟に「皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ」とある
その次に「師恩に感謝せよ」を是非入れて貰いたいという要求が出されたのであるが、

私は「師恩」を書くことを忘れたのではなかったのである。

それは、私自身が「師」という立場に立っているから、
「師恩に感謝せよ」とあったら、「私に感謝せよ」といっていることになるので、
特にそれを消してしまってあったのである。

愛を施す者は、人から感謝されたいと思ってはならないが、
施されて何らかの益を受けつつある者は、
「施される権利が自分にはあるんだ」などと高い姿勢をとることなしに、

感謝の念を起こすようにすることによって、周囲との調和が得られ、
自分自身も幸福感を享受することができるのである。”

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/10/%EF%BC%99%E6%9C%88%EF%BC%97%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%99%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年1月14日 頓首再拝> 

「自己肯定感」を最高にする方法 - 伝統

2019/01/16 (Wed) 04:33:52

平成30年9月11日~14日の言葉 より 

「自己肯定感」を最高にする方法


『生命の實相』(谷口雅春先生)第3巻「はしがき」より。

「人間はなぜ、平和をもとめながら戦争をするのであろうか。
その本当の理由を知る人は少ないのである。

人類は生命に到る道をもとめながら死への道を選んでいるがごとく見える。  

それは、人間が自己の本来清浄(しょうじょう)の霊的実在なる本質を
知らないのと、キリスト教的原罪観(げんざいかん)または
仏教的罪業観(ざいごうかん)で自己処罰、自己破壊をとげつつあるからである。


自己の『霊』なる本質を知らないで、自己を『物』として観(み)、
『肉』であると自覚する人間は、『物』としての自分を持続し、
拡大しようと望まずにはいられない。


しかも『物』は有限であるから、自己を無限に拡大しようとする希望は
互いに衝突したり、奪い合ったりするほかはなくなる。

だから、唯物論的人生観にたつ以上は、人間は平和を欲しながら戦争へと突入し、
生命の完全なる伸展を欲しながら、自己破壊をつづけてゆかなければならないのである」

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/13/9%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%92%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%99%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%94%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年1月16日 頓首再拝> 

「神への反逆」 - 伝統

2019/01/18 (Fri) 04:33:03

平成30年9月15日~19日の言葉 より 

「神への反逆」 谷口雅春先生

無限の個性を内蔵したまう神は、
人間を、自己の個性的延長として他に類例のない特殊な個性を人に与えて、
それぞれ異なる使命を遂行する役割を賦与して地球上に遣わされたのである。

他に類例や類型のあるものなら、その人間的顕現が失われ代用品がある訳だけれども、
類例も類型もない、かけ替えのない生命的顕現をなしているのが各人であるから、
各々の人間は絶対価値ある存在として尊いのである。
 
胎児の生命も、その『かけ替えのない生命的顕現』の途上にあるのであるから、
それを人工中絶によって殺してしまうということは恐るべき『神への反逆』
という大罪を犯すものであるのである。

(『理想世界』誌 昭和48年8月号より)

               ・・・

「人間は 愛の体現者として、その実を失う時、
生きながらも すでにもう死骸となっている。」

(「生命の實相」 谷口雅春先生 第11巻p40より)

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/18/9%E6%9C%8815%E6%97%A5%EF%BD%9E9%E6%9C%8819%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年1月18日 頓首再拝> 

『生長の家立教10周年記念御講演』より - 伝統

2019/01/20 (Sun) 18:25:22

平成30年9月20日~24日の言葉 より 

 『生長の家立教10周年記念御講演』より  

    谷口 雅春先生

親鸞聖人でも南無阿弥陀仏を唱えたら救われると被仰った。
其の信念に依って救われるのです。

吾々も理窟はどうにでも、どういう風にでもつけられるかも知れませんけれども、
吾々は日本人は今『信』に依って立ち上らなければならないのです。

『信』に依って起ち上って、其の信念の力に依って
日本の國を護り活かして行かなければならないのです。

『信』は言葉によって発揮される。
真宗でも『南無阿弥陀仏』ととなえれば救われると云う。

これは名号(ことば)の力によって信が喚起されるからなのです。

吾々は『日本は神国だ』と云う。
是は言葉の力なんです。

言葉の力に依って国民に健康を吹き込み、
日本國體の尊厳を明徴にしなければならない。

此の時代に、吾々は宗教争いをするとか、そんな事は一番悪い事であります。
国内の精神的流れが混乱するからです。

生長の家はそういう宗教争いなどというものを悉く捨ててしまって、
宗教と謂うものは皆兄弟であるのだ、皆一つの真理の救いの放射の光線が、
そういうように別れているのは、色で謂えば、紫とか黄色とか紅とか、
色々に別れて来たけれども、それは一つの太陽光線が七種の虹に別れて居るようなもので、
一寸見ると赤い色と黄色い色と別だと見えるけれども、そうじゃないのだ。


同じ救いの光が別れて居るのだ。凡ゆる宗教は皆手を繋がなければならない
という主張に依って凡ゆる宗派を超越している運動を起して居る訳であります。

そうして此の生長の家の第一の信条になって居るのは何であるかというと、
『汝等一切のものと和解せよ』換言すれば皆仲良しになれという事なのであります。

是は又何も生長の家が始めた訳ではない、
日本の国の日本精神、是が本来大和(だいわ)の精神であり、
八絋一宇の精神であり、皆手を繋ぐ精神である。

 
聖徳太子の憲法一箇条の一番始めに書いてあるのは、『以和為貴』と謂う言葉であります。
皆仲良しになるところに其処に神様の本当の救の力と謂うものが出て来るのであります。

之と同じ事が『生命の實相』の第一頁にも書いてあるのであります。 

『汝ら天地一切のものと和解せよ』
其の和解というのは怺え合ったり自分が我慢をして居るのでは和解して居るのではない。
『感謝せよ』とハッキリ書いてあります。

そして 『皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ。汝の夫、又は妻に感謝せよ。
汝の子に感謝せよ。召使に感謝せよ。天地一切のものに感謝せよ』斯う書いてあるのです。


そうして総てのものを拝むようになって『本当に有難うございます』と
感謝の心になった時に、其処に神の救いが現れる、斯う書いてあるのです。

神は彼処に見よ、此処に見よと云って、斯んな格好をして居るとか、
大仏さんみたいな格好をして居るとか、石仏、金仏で立って居るのではない。

神は、吾々が感謝の心を起した時に、其処に現れる。

自分が感謝の心を起して居る、其の心の中に其処に神の心がある。
拝んでいるときそこに神の心がある。
合掌しているとき自分が仏になって居る、また神になって居る。


病気が治るというのも其処から出て来るのだ。
神や仏が病気をする筈がない。
実に不思議に病気が治って居る実例もあるのです。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/20/9%E6%9C%8820%E6%97%A5%EF%BD%9E9%E6%9C%8824%E6%97%A5/


          <感謝合掌 平成31年1月20日 頓首再拝> 

真理を知り、「真の人間」が表に出てくると完全な自由がえられる - 伝統

2019/01/24 (Thu) 04:38:03


9月25日~29日の言葉 より 

『生命の實相』第1巻P79より

    谷口雅春先生

キリストのいった「真理はなんじを自由ならしめん」というのも、
釈迦がいった「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」というのも、

ひっきょうは自分の生命の本質すなわち実相を知ることで、
これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるのであります。

その人は因縁を超越しますから、
物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。

遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうの――
そんなことに縛られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態――
すなわち「真の人間」が表に出てくる、
そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/09/29/%EF%BC%99%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%95%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%92%EF%BC%99%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年1月24日 頓首再拝> 

自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現する - 伝統

2019/01/25 (Fri) 04:51:06

9月30日~10月6日 の言葉 より 

『生命の實相 幸福篇下 第38巻』8月14日(P51より)

世界を征服することは偉大であるが、
まず自分の心の王国を征服することはいっそう偉大である。

ます自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現すれば、
一家に平和は来たり、一家に平和来たれば近隣相和す。

近隣相和せば、一町一村に平和来たり、一町一村に平和来たれば、一群一県に真理来たる。
一群一県に真理来たれば、国家はじめて正法に立脚し、
国家正法に立脚すれば四隣の国おのずから相和し、四隣の国おのずから相和せば、
もって世界の平和を招くに足るのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/10/09/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%e3%80%80%EF%BC%99%E6%9C%88%EF%BC%93%EF%BC%90%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%9C%88%EF%BC%96%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年1月25日 頓首再拝> 

「 恐怖心を追放するのが「生長の家」の念願 」 - 伝統

2019/01/28 (Mon) 04:27:17


10月7~10月13日 の言葉

 巻頭のことば「生長の家」誌 創刊号 P1より

蛇に睨まれた蛙は恐怖のために動けなくなって蛇にのまれる。 
国が国を恐れるとき莫大な軍費を要する。 
就職試験に臨んで恐怖心を起す青年はその就職に失敗する。 
入学試験に臨んで恐怖する学生はその入学に失敗する。 

恐怖が自己の境遇を支配すること斯くの如く甚だしい。 
更にそれが自己の病気や健康に影響するに至っては云うまでもないのである。 

此の恐るべき恐怖心を人生より駆逐すべき道を示さんとするのが『生長の家』の念願の一つである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/10/09/%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%9C%88%EF%BC%97%EF%BD%9E%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%93%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年1月28日 頓首再拝> 

『生長の家』出現の精神 - 伝統

2019/02/02 (Sat) 04:04:22


10月14日~10月20日 の言葉より 

『生長の家』出現の精神
「生長の家」創刊号

   谷 口 雅 春 先生

自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。
起たざるを得なくなったのである。

友よ助けよ。
同志よ吾に投ぜよ。
人類は今危機に頻している。

生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらわれて
覆没しようとしている小船の如き観はないか。

自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。
自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れていたのだった。

一求道者としていつまでも謙遜でいたかった。
併し今は謙遜でありたいと言うことが自分にとっては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。

自分は此の誘惑に打ち克って人類を救わねばならない。
自分の有っている限りの火で人類を救わねばならない。
自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照らさずにはおかないだろう。

此の火は天上から天降った生長の火である。

火だ! 
自分に触れよ。
自分は必ず触れる者に火を点ずる。
生長の火を彼に移す。

自分は今覚悟して起ち上がった。

見よ!
自分の身体が燃え尽くすまで、蝋燭のようにみづからを焼きつつ
人類の行くべき道を照射する。

自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。
自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。

如何にせば境遇の桎梏から抜け出し得るか、
如何にせば運命を支配し得るか、
如何にせば一切の病気を征服し得るか、
また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、
如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか・・・等々。

今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のように苦しみもがきあせっている。
あらゆる苦難を癒す救いと薬を求めている。

しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。
方向を過っていはしないか。
探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。

自分は今彼らの行手を照す火を有って立つ。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/10/27/10%E6%9C%8814%E6%97%A5%EF%BD%9E10%E6%9C%8820%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年2月2日 頓首再拝> 

「人間は神聖受胎である」 - 伝統

2019/02/05 (Tue) 04:35:48


10月21日~10月27日 の言葉 より 

人間(ひと)は神の子である。
これが「生長の家」の主張する根本自覚で、
この自覚を「中心自覚」と申すのであります。

なぜこの自覚を「中心自覚」と申しますかといいますと、
この根本自覚は円の中心のようなものであって、
この中心から外的な一切の善きものが流れ出でるからであります。

この根本自覚が完全であればあるほど、この根本自覚が強烈であればあるほど、
われわれに発現する知恵はいっそう明らかとなり、愛はますます深くなり、
生きる力はいよいよ豊富となり、万事における能力は層一層旺(さかん)となるのあります。

神われに在(い)まし、われ神の内にあるがゆえに、
すべてのこと、あらゆること、われに不可能なるものはない。

これが「中心自覚」でありまして「不可能という言葉取り去る」
これが生長の家の生きかたの最初の第一であります。

(「生命の實相」頭注版第5巻23p)

https://internetdojo.wordpress.com/2018/10/27/10%E6%9C%8821%E6%97%A5%EF%BD%9E10%E6%9C%8827%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝> 

「徳」は目に見えないが素晴しい救いを与える - 伝統

2019/02/08 (Fri) 04:27:19

平成30年10月28日~11月3日の言葉 より 


「徳」は目に見えないが素晴しい救いを与える

    谷口雅春先生  『真理』 第8巻 信仰篇

 人間の「徳」と云うものは、能力でも腕力でも知力でもない。

 それは内在するその人の身についた善業である。

 その人の身についた善業はおのずから善き雰囲気となってあらわれ、

 何事を成さずとも、唯その人がいると云うだけで、

 周囲の人々に大なる感化を与え、周囲の人々を幸福にすることが出来るのである。

 大事業をする人、大政治家、社会事業家など、いずれも素晴しい人々ではあるが、

 それらの人々は仕事の大いさによって人々を救うのである。

 勿論、かくの如き人々が世を救う力は大であるが、

 唯、天皇がましますことによって、

日本国の平和の度がより多く保たれるとうが如きは、

 能力の力によらず、智慧の力によらず、仕事の力によらず、

 天皇の徳の然らしむる処である。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/10/30/10%E6%9C%8828%E6%97%A5%EF%BD%9E11%E6%9C%883%E6%97%A5/


          <感謝合掌 平成31年2月8日 頓首再拝> 

天照大御神と天皇、そして国民はひとつ。 - 伝統

2019/02/15 (Fri) 04:35:24


平成30年11月11日(日)~17日(土)の言葉 より 


昭和52年11月22日の生長の家秋季記念日の祝賀式にて

谷口雅春先生の御講話

 明日は〈新嘗祭(にいなめさい)〉と、昔の大祭日の名前でいえば……
 そういうように称え奉る日であります。

 新嘗祭というのは、日の大神……太陽の神様が……言い換えると
 天照大御神様のその御いのちを受けて稲穂が育って、
 そして新たなる天照大御神の御いのちを、それが宿っている新穀を、
 天皇陛下が、われわれ国民と共にいのちを新たにするために
 お喫(あが)りになる真に芽出度い日であります。

 言い換えると、新たに、天皇陛下および国民のいのちが更にお生まれ変りになって、
 そして新しく光を輝かし給う尊き日であります。

 その前日に、何が起ったかといいますと、
 宇宙浄化の神であられる住吉(すみのえ)の大神の宇宙浄化が起りまして、
 そしてはじめてこの宇宙が浄まって、

 そして新たなる天照大御神の御いのちの宿ったそのお米を、
 天皇陛下と共に食べさして頂く、真に有難い日なんでありますねえ。(拍手)

 「その新嘗祭の前日に私が生まれたということは、ただの偶然ではない」
 と……いうようなことを、誰れか熱心な誌友の方が手紙に書いて
 送って下さったのであります。(拍手)

 まことに嬉しいと思うのであります。

    『理想世界ジュニア版』昭和53年3月号

https://internetdojo.wordpress.com/2018/11/22/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%97%A5%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%91%EF%BC%97%E6%97%A5%E5%9C%9F/

          <感謝合掌 平成31年2月15日 頓首再拝> 

『神霊降誕譜』 - 伝統

2019/02/19 (Tue) 05:03:45

平成30年11月18日~24日

 『神霊降誕譜』

 作詩:生長の家本部 作曲:小澤 弘
(一)
をしへおや  うまれたまひし
よろこびの  此の日このとき
かみの子と  生まれしわれら
みなひとに  やどれるかみを
ひたすらに  たゝへまつらん。

(ニ)
さちおほき  よろこびのけふ
よろこびの  此の日このとき
かみの子と  をしへられにし
このさちを  わかちつたへて
みなひとに  つたへまつらん。

(三)
をしへおや  うまれたまひて
このせかい  すがたかはりぬ
やみおほき  世かいは消えて
ひかりみつる 此の世浄土と
うちつどひ  かみをたゝへん。

(四)
 ひるも夜も  讃歌みちたり
 降る星は   み空をかぎり
 てんごくの  とりは囀り
 日と月は   ともにかゞやき
 みなうたふ  みおやたゝへて。



「伝道こそ信仰のいのちである。」谷口雅春先生

https://internetdojo.wordpress.com/2018/11/22/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%98%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%92%EF%BC%94%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年2月19日 頓首再拝> 

心理学及び精神分析に新分野の開拓 - 伝統

2019/02/22 (Fri) 03:00:28

平成30年11月25日~12月1日の言葉 より 


生長の家の全貌 より   

  〈昭和30年〉立教25年 

心理学及び精神分析に新分野の開拓
   谷口雅春先生

現代に於いては心理学及び精神分析學の進歩に従って、
それを医療に応用する方法が徐々に日本の医学界にも取り入れられようと
しつつあるのでありますが、

在来の精神分や心理学応用の治療法に於いては、
神経症とも云うべき機能的疾患は、それによって癒ることがあるとせられていて、
既に肉体に大損傷をおこしている器質的疾患は単なる精指導では治らないとされていました。

これに対して如何なる器質的疾患も、精神指導にって癒し得る場合がある
と云う実例をひらいたのが生長の家なのであります。

こう云えばとて生長の家は決して治病宗教と云うのではないのであります。
生長の家根本的に謂えば、久遠不滅の自己の生命を自覚せしむるところの宗教
でありますけれども久遠不滅の自己の生命を本当に自覚せしめ得ることが出来ますならば、

およそ、人生にける精神的悩みは解消する筈でありますから、
精神的な悩みや、抑圧された感情が原因なっているところの病気は
宗教によって悟りを開くことによって治癒せしめ得るのは当でありまして、
それを治癒せしめ得ないような宗教が若しありとするならば、
その宗教抑圧感情一つすら取り除くことの出来ない
 ―― 即ち人生に久遠不滅の悟りを与えず、従って根本的に
魂の大安心を与え得ない宗教だと言わなければならなぬのであります。

だから宗教は、治病そのものが目的ではないにしても、
治病現象はその宗教が正しき「の悟り」を与え得る宗教である限り、
必ず起るべき現象であるのでありまして、

治病現を起し得ないような宗教は、形骸が如何に堂々としており、
教義の理論的体系が如何に備しておりましょうとも、
その宗教は決して「本当の魂の悟り」を与え得ている宗教だは言い得ないのであります。

これによって是を観れば、生長の家に於いて教義の講演を聴いたり、
教義の説明の本読んだりしているうちに起る治病現象をもって、
生長の家を宗教の本質を逸脱せる宗教と考えるのは間違いなのであります。

併し、宗教が単なる宗教と云う限界をつくって人間救済のことを
霊的方面のみに限定る必要は当然ないのであります。

生長の家は人間の久遠不滅の魂の悟りに導いて、
その産物として治病現象が起ると云うことを申しましたが、
その治病現象を単なる宗教の副物たらしめることなく、
その治病の精神的過程を分析し綜合することによって、
如何な病気が如何なる心の悩みから起るものであるかと云う事を発見し、

その心の悩みを指摘しその心の状態を反省し、
懺悔又は悔悟せしめることによって病気が治るとの結論に達し
新しき精神分析学を学界に樹立することになったのであります。

この新しき精神科学は、肉体を実在と見ず、人間を霊的実在と観、
「霊」なる人間は「霊」の意思表示なる「心」の表象として、
肉体に於いて象徴的に自己を表現している云う生長の家の宗教的教義を
科学的に立証する役割をも演じているのでありまして、
宗的教義と精神科学とが表裏一体となりつつ人類から病悩苦の一掃に
力を尽くしつつあるであります。

 
この方面の吾々の研究努力は、『健全の真理』〈基本篇〉、『健全の真理』〈生活応用篇〉
『人間性の解剖』『精神分析の話』等の私の著書となってあらわれ、
尚、その傍証的研書として、日本教文社よりフロイト選集全十ニ巻、
メニンジャーの三部作『人間の心』『憎』『おのれに背くもの』、
アイヒホルンの『手におえない子供』等を出版して、
ともれば唯物論的一面観に陥ろうとする現代人に人間の精神的面を
閑却してはならないこと警告しつつあるのであります。

西欧支配に対する東洋文化の対抗

戦後、日本を襲ったところの民主主義旋風は、その旋風の名にふさわしいように、
上の秩序の混乱を引起しました。権威破壊の民衆の精神的暴風は
一切の特権階級を烈しくさぶり落として、

天皇の権威さえも、風におののく晩秋の櫻の葉のようにいつ落葉するも
知れないような有様となったのであります。

イザナミ文明を核心とする西欧文明は「分割して支配せよ」との原理に従って、
物質細かく分割して原子爆弾、水素爆弾を製作し、それによって
ビキニ環礁を細末に粉砕し死の灰をふらせて問題を惹き起したのではありますが、

「分割して支配せよ」との西欧支配イデオロギーは、日本を弱体化するために
蜘蛛の網のようにあらゆる方面に張り渡れて、著々日本弱体化が実行せられたのであります。

先ずそれは、日本国が「神なる天皇」を中心に国民は天皇の赤子であって、
一大家族家であると云う信念を、細かく分断して日本国民の団結力を
弱からしめようと云う方策用いられたことであった。

そのために、マッカーサーは天皇をしてみづから
「神に非ず人間なり」と云う詔勅を発せしめるなど愚にもつかない
子供だましの策略を行ったり、

古事記及び日本書紀にあ日本上代の歴史のうち、崇神天皇までを、
ただの神話であるとして、瓊々杵尊(ににぎみこと)や神武天皇を
日本建国の歴史から省いてしまうことに努力したのであります。

この西欧の「分割支配」の方策におどらされて、日本の文化人中、
霊感なき唯物論的証主義者の歴史家たちは、瓊々杵尊は勿論、
神武建国の記事を「社会科」の歴史教科書ら省いてしまったのであります。

かくて、日本の建国の理想は曖昧となり、戦後十数年後の学校卒業者には、
神武天皇名さえ知らざる者がその大部分を占めるであろうような教育企画に
乗ぜられてしまったであります。

このため、神武建国を記念するところの、紀元節又は建国節は
今に至るも定の運びとならない現状で、日本は建国なき国として
今も亡国にちかき現状で引続いてるのであります。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/11/25/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%95%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%91%EF%BC%92%E6%9C%88%EF%BC%91%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年2月22日 頓首再拝> 

人間の本質~人間とはなんぞや? - 伝統

2019/02/27 (Wed) 04:51:56

平成30年12月2日~8日の言葉 より 

谷口雅春先生御講話より。

  人間の本質(30分) 人間とはなんぞや?

  わが真実の姿は霊である(肉体・物質ではない)

 實相は神そのものと一体(宇宙と一体)である。
 重要なこと:そこにあるものをここに持ち来たす。
「神と離れていないのである」これを知る事が大事

○人間は全て神聖受胎である。

○青少年の自殺の原因は、「肉の受胎」「汚れた欲望の受胎」と思わされているから。

○ 天から天降った天照大御神の子孫「現人神」天皇の赤子(神の子)であるあなたである。

○教育を変えなければいけない・・そのためには憲法を変えなければならない

https://internetdojo.wordpress.com/2018/12/06/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%92%E6%9C%88%EF%BC%92%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%98%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年2月27日 頓首再拝> 

「全ての人間を”神の子″として拝むこと」 - 伝統

2019/03/07 (Thu) 04:53:55

平成30年12月9日~15日 より 

「全ての人間を”神の子″として拝むこと」

  「如意自在の生活365章」谷口雅春先生P193より

あなたが”神の子″であるだけではなく、
すべての人間が”神の子″であり、
わたしたちと兄弟姉妹であるのであるから、

わたしたちはいかなる人間をも”神の子″として礼拝し、
全ての人間を祝福してあげなければならないのである。

人を軽蔑してはならない。

どんな不完全な状態がその人に現在顧われておろうとも、
その顕われだけを見て、その人間を根本的に蔑視するようなことが
あってはならないのである。

顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するならば、
実相の完全さが、必ずやがて顕われて来るに相違ないのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/12/17/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%92%E6%9C%88%EF%BC%99%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%91%EF%BC%95%E6%97%A5/


          <感謝合掌 平成31年3月7日 頓首再拝> 

「愛こそすべての全て」 - 伝統

2019/03/08 (Fri) 04:57:38


平成30年12月16日~22日 より 

「生命の實相」第37巻 谷口雅春先生



  幸福篇上4月5日より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。

おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、相手を生かすばかりではなく、
自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。
生きるとは愛することである。

国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。


https://internetdojo.wordpress.com/2018/12/18/%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B412%E6%9C%8816%E6%97%A5%EF%BD%9E22%E6%97%A5/


          <感謝合掌 平成31年3月8日 頓首再拝> 

「人間の地上降誕の意義について」 - 伝統

2019/03/09 (Sat) 04:34:13


平成30年12月23日~31日 より 

  谷口雅春先生「白鳩」 昭和48年9月号 31p 32P

人間は、神の生命が天降って来て、そして神の生命の個性的顕現として、
その人で無ければ出来ない特殊な個性を与えられ、
使命を授かって地上に顕現しているのである。 

この事実の内にこそ人間生命の尊重の根拠があるのである。 
唯物論的人間観ではその根拠が失われしまう。

指紋の同じ人間が一人も居ない、それと同じ様に、
全ての人間は、神から与えられた使命が異なるのである。 

だからその人間が出現して来つつあるのを途中で殺す、
言い換えると堕胎する ――― 人工妊娠中絶するということは、
せっかく神が個性を与えて特殊なる使命を与えられて神の生命が
自己実現して来ようとしているのを中断してしまうことになる。 

それは取返しのできない過ちをしたことになるのである。

その人間の魂は、別の人間を以ては代用することの出来ない、
全然違う個性と使命を持って生まれて来るのであるから、彼は絶対価値の生命である。 

かけ換えのない、代用品の無い貴い生命であるのを殺して仕舞うというのは、
神の計画に対する非常なる反逆であるということになるのであります。

https://internetdojo.wordpress.com/2019/01/13/%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E5%9C%B0%E4%B8%8A%E9%99%8D%E8%AA%95%E3%81%AE%E6%84%8F%E7%BE%A9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%8D/

          <感謝合掌 平成31年3月9日 頓首再拝> 

「倶(とも)に泣く」 - 伝統

2019/03/10 (Sun) 06:54:29


平成31年1月12日~18日 より 

  『光明道中記』谷口雅春先生 p.246

「倶(とも)に泣く」と云う感じは、自他一体の感じであるから、
しみじみと有難く感じられる。

「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、有難く感じられないのである。
「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。

自尊は他敬によって養われるのである。
「咎める」言葉が不結果を招く原因は、こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。
「愛」の中にこそ聖泉がある。
それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの聖泉水である。

その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2019/01/16/%E5%B9%B3%E6%88%9031%E5%B9%B41%E6%9C%88%EF%BC%91%EF%BC%92%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%91%EF%BC%98%E6%97%A5/


          <感謝合掌 平成31年3月10日 頓首再拝> 

「堕胎反対運動は生長の家発祥以来の運動である。」 - 伝統

2019/03/11 (Mon) 04:49:44

平成31年1月19日~25日 より 

神命の書

住吉之大神宣り給ふ 汝はわが愛する御子

われ汝に使命を授く 往きて年間三百萬人

の胎児を救ふべきぞ かくて日本人の業 浄まらん

然るとき 天之岩戸開かれ 天照大御神の神靈

出御せられて日本國 の實相あらわれん

神命の書 受嘱 雅春

『生長の家』誌昭和46年6月號より



「堕胎反対運動は生長の家発祥以来の運動である。」

      生長の家創始者 谷口 雅春先生

 毎日新聞の記事の尻馬に乗って、よく調査も研究もしないで
浪速短大助教授と云う鈴木宗憲と云う人が
『毎日新聞などが生長の家を“テロ思想”だと言うものだから、
それを打消す運動として「人命尊重」運動として、
堕胎防止に関する請願をやっているのだ』と云う風に
「中外日報」紙に論評をかかげているが、

大学の先生ともある学者ならば、
もっと、科学的に事実にもとづいて論議をすすめて頂きたいものである。

生長の家の『堕胎罪悪論』は立教の最初から三十二年も前から説いているのであり、
戦後に於いては、今は飛田給練成道場になっている建物を高亀良樹博士から買収したときも、

戦後日本へ進駐した占領軍の兵隊や将校たちとの間に妊娠した混血児を、
アトが面倒であると云うので流産させるのが多いので、

その胎児をたすけたいと思って高亀博士の病院を買収し、
満州から引揚げ後郷里の高知で産科婦人科医院をひらいて
盛業中の徳久克己博士をわざわざ招致して院長とした産院をつくり、

新聞に『私生児を妊娠して人工流産を考えている婦人、一寸待った。 相談に来い。
無痛分娩をさせて、生れた子供は引受けて育ててあげる』と云う広告をして
胎児の人命救助をするつもりで、徳久博士に来て貰ったのであった。

当時そのような大病院は進駐軍指令部の許可がなければ開設できなかったので、
徳久博士にその交渉に当ってもらったのだが、GHQの其の係の医博のアメリカ軍婦人大尉が、
『宗教で無痛分娩、アイドントノ―。医学と宗教 一ショクタ、イケマセン』と言って
どうしても許可してくれなかったのである。

それで私は已むなく産院の開設はやめて、現在のような練成道場に変更したのである。

そのように生長の家の堕胎反対運動は、生長の家発祥以来の歴史的運動であるのであって、
たまたま山口二矢少年の浅沼刺殺事件に生長の家が関係あるが如く書かれたので、
その打消運動として始めたような根の浅い運動ではないのである。

堕胎防止請願の署名運動も浅沼事件のズッと以前から始められていて、
岸内閣時代に既に40万通の署名を得て、議会へ請願書を提出することになっていた。

 (中略)

人間又は団体の一つの行為または運動にしても、それを本当に理解しようと思ったならば、
それがその人間及び団体の継続せる歴史の上に於いて、その行動又は運動が
如何なる位置を占めるかと云うことをよくよく考察してみなければ、
その意義批判又は価値判断はできないものなのである。

吾々の団体の堕胎防止運動なども遥かに三十二年前に遡るその立教の精神から始まり、
終戦直後堕胎さるべき胎児を救うために、産院まで造ってその出産児を無料で育てようと
企図して高亀博士の病院を買収したことや、

戦争中にも、生長の家誌友たりし派遣軍司令官たりし、
将官に一人も残虐行為による戦犯者を出していない事実など、
生長の家の歴史を一貫して存する“生命尊重”の事実を一貫せる系譜の中に、
今回の 『堕胎防止運動』 を見出すとき、はじめて其の真実の価値と意義とが判るのである。           

    『明窓浄机』  昭和36年8月

https://internetdojo.wordpress.com/2019/01/17/%E5%B9%B3%E6%88%9031%E5%B9%B41%E6%9C%8819%E6%97%A5%EF%BD%9E25%E6%97%A5/


          <感謝合掌 平成31年31月11日 頓首再拝> 

悪口、排斥の戒め - 伝統

2019/03/17 (Sun) 04:56:36

平成31年1月26日~2月1日 より 

「生命の實相」幸福篇下 第38巻8月11日 P47

人間たちが互いに憎み合い、
互いに悪口を言い合うのがわたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを
知っていながら、それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。

「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。
ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために人の不快がる装いをして
平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

https://internetdojo.wordpress.com/2019/01/29/%E5%B9%B3%E6%88%9031%E5%B9%B41%E6%9C%8826%E6%97%A5%EF%BD%9E2%E6%9C%881%E6%97%A5/


          <感謝合掌 平成31年3月17日 頓首再拝> 

信じて、善念を送る - 伝統

2019/03/23 (Sat) 01:48:06


平成31年2月2日~8日 より 

  「光明道中記」谷口雅春先生
31日「絶対善を悟る日」)より

「善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。  


 『生命の實相』第7巻

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのは
それは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって
真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも吾々は
その五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。
阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。

子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

https://internetdojo.wordpress.com/2019/02/04/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%91%E5%B9%B4%EF%BC%92%E6%9C%88%EF%BC%92%E6%97%A5%EF%BD%9E%EF%BC%98%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年3月23日 頓首再拝> 

「百万人の赤ちゃんのいのちを救え!!」 - 伝統

2019/03/26 (Tue) 02:24:16

平成31年2月9日~15日 より 

「百万人の赤ちゃんのいのちを救え!!」

「百万人の赤ちゃんのいのちを救え!!」   
  (昭和27年7月号「白鳩」) 谷口雅春先生

堕胎は戦争の原因となる 谷口雅春先生『理想世界』昭和35年7月号より

■ギリシャの古代哲学の時代から現代に至るまで、
その哲学の流れは唯心論・唯物論の二つの流れがズッと続いていて、
或る時代には唯心論が旺(さか)んであり、或る時代には唯物論が盛んであり、
それを交互に繰返して来たのでありますが、
現代の日本では唯物論が旺盛になっているのであります。

そのために、民主主義と言って
人間の基本的人権を尊重する主義でなければならないという時代であるのに、
今ほど人間の生命の尊重せられない時代はないのであります。

■それは何故かというと、人間の生命を尊重すると言いましても、
その根本になるところの「人間」そのものの捉え方が、唯物観でありますから、
「人間」とは「物質の塊」であり、不幸にして物質が偶々複雑精緻に結合して、
脳髄というような塊が出来上がったものだから、苦しいとか、痛いとか、
辛いとか、悲しいとかいうことを感じて悩まなければならない。

「心」というものは脳髄という物質の化学作用の一種だと考えるのが
唯物論でありますから、その「心」が出なくなるように人間を手術すれば、
人間は苦しまなくともよくなるとも考えられる訳で、
その人間の手術とは、人体を破壊してしまえば、もうその人が苦しむことも、
悲しむことも、悩むこともなくなるという訳であります。

■それほどハッキリと、「人を殺せば人間を苦痛から解除してやることができる」
とは考えないにせよ、その人が、人間を単なる「物質的塊」に過ぎない
と考えている限りに於いては、人間を尊重する気持ちが起らない。

まかりまちがえば、最後の手段として人体を破壊してしまえば
万事OKだというような考えが漠然として、殆ど全部の人間の人生観の背後にある。

だから多くの人間は行き詰ったら他の人を殺すことによって、
自分が逃れようとするか、自分が自殺するか、大人が生活上不便になったら、
胎児でも何でも小さい者、弱い者は殺してしまえということになる。

■実際そうなっているのであって、
これでは世界に戦争や闘争の絶えることはないということになるのであります。

だから世界に平和と幸福とを持ち来すためには、
人間自身の人生観・人間観・世界観を根本的に変革しなければならぬのであります。

つまりその人の把持する哲学が変らなければならないのであります。

殺した者が殺されるという原因結果の法則〃動・反動の法則〃は
結局、循り環って戦争となり、多くの人が殺されることになるのであります。

何故「殺したものが殺される」という因果の法則が、
戦争の形をとって来るかと言いますと、そのような胎児虐殺の行為を
敢えてする人の人生観の奥にあるのは、
「この世界はどうせ弱肉強食の世界であって、相手を殺さねば自分が殺される」
という哲学又は世界観があるからであります。

■世界の軍備拡大競争も、この弱肉強食の世界観・人生観が背後にあって
それを動かしているのであります。
「或る個人又は団体が栄えるためには、誰かが犠牲にならなければならない」
――このような世界観・人生観をもっている限り、自国の繁栄を画策するためには
他国を侵略することを辞せないということになるのであります。

■世界に平和を持ち来たそうと思ったならば、
このような弱肉強食の人生観、誰かの繁栄のためには犠牲必要とする
如き人生観を排除して、

調和のある人生観――この世界は神がつくった世界であるから、
完全に調和していて、犠牲などを決して必要としない共存共栄の状態が実相である――
という生長の家式の人生観・世界観を全世界に弘め、

胎児暗殺の如き「殺害の業」を重ねる行為は即時停止するように
しなければならないのであります。

(生長の家創始者 谷口雅春先生御指導 )

https://internetdojo.wordpress.com/2019/02/28/%E5%B9%B3%E6%88%9031%E5%B9%B42%E6%9C%889%E6%97%A5%EF%BD%9E15%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年3月26日 頓首再拝> 

『真理の吟唱』はしがき - 伝統

2019/04/03 (Wed) 03:03:22

平成31年2月16日~22日の言葉より

『真理の吟唱』初版はしがき 

『真理の吟唱』はしがき

「真理の吟唱」は私が毎月『光の泉』誌に
「日々読誦毎月真理経」と題して連載したところの霊感によって書かれたる
〝真理を唱える文章〟である。

それは特に朗々と吟唱するためにふさわしいリズムをもった
文体をもって書かれているので、日々それを朗々と読誦せられることによって、
人生を天国とし、楽園とし、天国の無限の祝福を地上にもち来たす媒介となるものである。 

「真理は汝を自由ならしめん」とキリストはいったが、
真理があなたの潜在意識の底にまで徹して、あなたの生命のリズムとなるとき、
あなたは完全に自由を得、あなたに潜在する無限力が充分に開顕し、
自己の欲するごとく希望を成就し、目的を達成し、

単に自利のためのみならず、利他に貢献し、人類に平和をもたらし、
地上に天国を建設する聖使命を果すべく色々の奇蹟をも実現し得ることも
可能となるのである。

 
仏教の経典は深い真理を蔵し、昔はその意味を知って読誦されたが故に、
宗祖となられた高僧たちは色々の奇蹟的功徳を実現されたけれども、
現代人にはあのような経文の漢文の棒読みでは真理を深く理解することが
できないので、住持、経を読めども功徳あらわれず、寺門はさびれるばかりである。

経文の貴さはその語句に内蔵されたる真理の深さによるのである。
しかし真理を深いと思うばかりで真に理解されなければ役に立たない。

現代に訳された仏教経典もあるけれども文字に執して直訳されているので
複雑難解であって、読んで解釈するのに時間と労力とを要し、
却ってそれに内在する真理をわがものとすることが出来ないで、
哲学者的研究となるばかりで、奇蹟的功徳を体験する人が少ないのである。

しかし本書に収録されたる〝日々読誦〟を目的としたる〝真理経〟は、
古人の著作になる経典ではなく、直接、霊感によって著者が受けたる
真理の啓示を、〝言葉の力〟を自由自在に駆使して読者の潜在意識に
深く印象するように工夫されているので、

繰返し読めば読むほど、真理の潜在意識への印象は深くなり、
自信は深まり、心は明るくなり、生活に悦びが湧き出て来て、
希望に向って勇敢に努力する力がたぎり立って来るのである。

実際心が何らかの理由で暗くなったような時、
試みに本書の数章を朗々と吟唱又は朗読せられるならば
心の憂鬱はふっんでしまい、心に光明が照り輝いて来て、
捲土重来の明るい希望と勇気とが涌き出て来ることを体験せられるであろう。

真理は、単に現世の人間にのみ役立つのではなく物故せる諸霊に対しても、
その悟りを深め、霊界における解脱を一層ふかめるものであるから、
あなたが、先祖の仏前又は霊前で、お経をお読みになる際、

その聖経の前又は後に、毎日本書の一章ずつを順次、
朗々と声をあげて読誦せられるならば、単に霊界の祖先霊に
功徳をもたらすのみならず読誦する人自身が真理の光に照らされて、
必ず生活万般に神の智慧を実現し得て、行くところ可ならざるなき能力を
発揮し得ることになると信ずる。

読誦に際してはその文章をハッキリと思い浮べて、
説かれている真理を完全にわがものとせられることが必要である。

特に、何らかの問題に面せられたり、
ある希望を実現しようと欲せられる場合には、
目次を索引として自己に適する題目を選んで、

その祈りの言葉を朗誦せられ、更に神想観を実修して
その祈りを繰返し瞑目中に念想せられて、その文意の語る真理を
潜在意識に滲透(しんとう)せられるがよいのである。

真理が心の深層に深く印象せられる程度に従って、
あなたの実相の無礙自在性が発揮されるのである。

著者は本書の説く真理を読者と共に日々読誦して、
全人類が皆ともに人間本来の円相を実現せられんことを願わずにはいられない。
合掌

      昭和45年1月25日  著者(谷口雅春)識す

https://internetdojo.wordpress.com/2019/02/28/%E5%B9%B3%E6%88%9031%E5%B9%B416%E6%97%A5%EF%BD%9E22%E6%97%A5/

          <感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝> 

「法悦」とは何か - 伝統

2019/04/28 (Sun) 04:55:22

平成31年2月23日~3月1日 より 


「法悦」とは何か

    生長の家創始者 谷 口 雅 春 先生

『生命の實相』〈頭注版〉の第35巻102頁にですね、その7行目に、こう書いてあります。

「生長の家ではまず内在せる神というものを『われわれの内に宿っているところの無限の善さ』
と定義いたします。

無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさ―そんな尊いものが、
われわれ人間の中には宿っているのであります。
その無限の善さが少しでも余計出ればわれわれは歓びを感ずる。
喜ばすにはおれない。

そしてさらにその善さを一層余計にあらわしたい、
そして遂に無限にまで到達したく希うところの、無限に対する要求というものが、
わがうちに宿っているのであります」

と書いてありまして、その次の頁の3行目の所には、

「無限を発揮するまでは、それを憧れ求めずにはおられない。それはなぜであるか?
それは『無限なるもの』が自分のうちにすでに宿っているからです。そ
して、その無限なるもの―無限の善さ、無限の美しさが、われわれの念のレンズをとおして、
意識なり、観念を指導すべく、ある標準を示した場合、これを理想といいます」

という様なことが書いてあります。

この“法悦”というものは何処から起って来るかといいますと、
法悦の法というのは、あの「妙法蓮華経」の法と同じでありまして宇宙の実相であります。
実相の中から出て来るところの喜びが、これが“法悦”という意味であります。

それで、その実相の中の無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさとか、
色々数え切れない無数の徳がわれわれの内部に在る。

それが、少しでも前より余計に発揮された時に、そこに法悦―実相から湧き出て来る喜び―と
いうものを感ずるんだということになるのであります。

私がいつも申上げるように、人間には五つの根本的願いがあるのであります。 

それは
(1)認められたい
(2)愛されたい
(3)褒められたい
(4)人のお役に立ちたい
(5)自由になりたい 

この五つの願いであります。

この五つの願いが満足された時、人間は本当に生き甲斐を感ずるのであります。
この五つの願いが閉塞されて了ったら人間は生き甲斐が感じられないでスランプに陥る。
信仰も衰退して行くことになる訳です。

そこで折角誌友にしたり、聖使命会員になった人を組織に入れたらですね、
これを認めてあげるということをやらなくちゃいかんのです。

その人達を認めてあげ、褒めてあげ、愛してあげる。
又色々の相談にものってあげる。

そして、その人が生長の家に入って誌友になったら、
本当に世のため人のためお役に立っているんだという喜びを自覚させるように
導いてゆかなければ、折角誌友になったけれども、なっていることが何の役に立つのか
というのでは、これは継続していかんということになるんです。

大は日本国家のためになり、
或は優生保護法改正の運動に参加して、毎年300万人も殺されている胎児が
救われることになるんだというような偉大な運動に自分は参加しているのだという、
そういう喜びを感ぜしめることが必要であると思うんです。 

       ( 昭和43年7月28日 生長の家本部大道場に於ける御指導)  


https://internetdojo.wordpress.com/2019/03/01/%E5%B9%B3%E6%88%9031%E5%B9%B42%E6%9C%8823%E6%97%A5%EF%BD%9E3%E6%9C%881%E6%97%A5/
        
          <感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝> 

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