伝統板・第二

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神示とは ② - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:21:31

        *伝統板・第二「神示とは」からの継続です。
           → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479


「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である

    *「光明道中記」(10月9日 ここに彼岸ありと悟る日)より

【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、
それが二重人格式に他から教えられるだけで、
一重式にその人の生命そのものの自覚となって来ないのは
真理の絶対把握でないから神示ではない。

それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。

併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。

「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。

香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。

ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。

同じ真理でも”外”から来るのと、”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。

”内”からのは真理の直接把握である。
真理の直接把握を「神示」と言い、二重人格的に教えられるのを霊示と言い、
霊媒現象と言うのである。

「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。

           <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

【児童教育に關する神示】 - 伝統

2018/10/23 (Tue) 04:55:05


多くの母親は子供のことを餘りに取越苦勞するために、
却つて子供に惡思念を放送して子供の健康や運命を害してゐる。
或る母親は一瞬間でも自分の眼の前にゐないと心配でたまらないのである。

彼は自分の想像の中(うち)で、躓いて轉んでゐる自分の子供の姿を思ひ浮べる。
自動車にひかれて死にかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。
水に陥(はま)つて溺れかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。

世の母親よ、何故(なぜ)あなたはこの反對をして可(い)けないのか。
こんな取越苦勞が起るのは、子供を神の子だと思はないで人間の子だと思ふからである。

神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。

人間の子だと思ふものは終世(しゅうせい)、取越苦勞をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思ふものは、子供を尊敬して出來るだけその世話をさせては頂くが、
神が守つてゐ給ふと信ずるが故に取越苦勞は必要はないのである。

人間力で子供を生かし得ると思ふなら終日終夜起きて子供の番をしてをれ。
それは出來なかろう。
出來ない間に子供を生かしているのは神の力である。

(日付不明)

           <感謝合掌 平成30年10月23日 頓首再拝>

【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』) - 伝統

2018/11/04 (Sun) 06:26:58


聖書に吾らが祭壇に對して供物(そなえもの)を獻ずるに當つては、
先(ま)ず兄弟と仲直りしなければならないと云(い)ふことが書いてある。

吾らは食事をとるに當つても矢張りこれと同じことをしなければならないのである。
何故(なぜ)なら食事は自己に宿る神に供へ物を獻ずる最も嚴肅な儀式であるからである。

一椀を手にしては是れ今迄過ちて人に對して憎み怒りし自己の罪が神によって
許されんがための供物(そなえもの)であると念(おも)ひて食せよ。

二椀を手にしては是れすべての人の罪が神によりて許されんがための供物(そなえもの)
であると念(おも)ひて食せよ。

三椀を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんが為の供物であると念(おも)ひて食せよ。

而(しか)して一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪をこの水の如く吾が心より
洗ひ流して心にとゞめざらんがための象徴(しるし)と思ひて飲め。

若(も)し病人にして醫藥を服用する者あらんにはそれを四口(よくち)に分けて飲み、
この同じ想念をなして飲めば病(やまい)必ず速(すみやか)に癒えるのである。

すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、吾らの過(あやまち)をも亦大生命なる神より
恕(ゆる)されんがためである。

若(も)し吾等(われら)が心を閉ぢて他(た)を恕(ゆる)さなければ、
大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされて吾等に流れ入ることは出來ないのである。

                   (昭和五年十一月四日神示)

           <感謝合掌 平成30年11月4日 頓首再拝>

【無病常樂の神示】 - 伝統

2018/11/10 (Sat) 04:10:14


病んでゐると云う病は本來ない、苦しんでゐると云う苦しみは本來ない。
『これだけ自分は苦しんでゐる』と、その苦しみを自慢するやうな心は、
却つて病氣を招く心である。

キリストの受難に倣(なら)つて自分も亦苦しまうなどと云ふ心も愚かな心である。
キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。
十字架も受難ではなく受苦ではなく法樂である。

神の子には『難』の受けやうがなく『苦』の受けやうがなく
任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、すべてが惟神(かんながら)の法樂である。

斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭ふ心も
おのづから消え去つてしまひ、苦もなく、艱難もなく、
苦樂を超越した本當の樂想を生じ、吾れが一變し、天地が一變し、
人生はただ歡びの讃歌に滿たされるのである。

實相は苦樂を超越する法樂であって、
實相をもつて苦もなく樂もないと云ふのは謬見である。
汝らが『樂』と稱する『樂』は本当の『樂』ではないから、
『樂』を求むれば必ず苦を生ずるのである。

五官のうちに、感覚の惑はしのうちに「樂」があるのとするのは謬見である。
五官の『樂しみ』はその本性決して『樂』に非ざるが故に『苦』に變ずるのである。

實相はかくの如き假相の苦樂を超越すれども、眞相の『樂』そのものである。
法悦そのものであり法樂そのものである。

その『樂そのもの』が『常住の我』であつて、これが『神の子』である。
『神の子』が『人間そのもの』であつて、その外に『人間』はない。

人間とは常樂を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不惱を言ひ、不懷を言ふ。
肉體は『人間』ではない。人間の心の痕跡(こんせき)であり、足跡(あしあと)である。
破懷すべきものは人間ではない。

汝らよ、汝ら自身の不苦不惱無病の實相を見よ。  
 
                        (昭和七年十一月十日神示)

           <感謝合掌 平成30年11月10日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】 - 伝統

2018/11/25 (Sun) 03:51:19


物質の束縛に縛られざるものを人間と言ふのである。
眞の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉體ではない。
肉體ではないから物質の世界に出入(しゆつにふ)する事もない。

物質の世界に出入(しゆつにふ)する事がないから
物質の世界より見れば人間は不生(ふしやう)である。
不生であるから滅することも亦ないのである。

物質界は念に從つて生ずる念の映像なるが故に、從つてまた滅すれども、
『人間』は本來物質界に生ぜざるを以て又滅すると言ふ事もない。
人間は本來『生(しょう)』である。

『滅』に対する『生』ではなく本來『生(しやう)』であるから、
老なく、病なく、死なく、破壞がないのである。

老とは『生(しやう)』の衰耄(すいもう)を言へども、
人間は本來『生(しやう)』であるから衰耄せず老朽しないのである。

衰耄は『生(しやう)』にあらず、人間に非ず。
衰耄なきを『人間』と言ひ、老朽せざるを『人間』と言ふ。
病なきを『人間』と言ひ、死なきを『人間』と言ふ。

釋迦は『人間』の生老病死の四苦を見て出家したと言へども、
釋迦はそのときまだ『人間』を見てゐたのではない。
念の影を見て『人間』と思ひ違ひしていたに過ぎない。

釋迦が此の世を見て無常と觀じたのも『眞の人間』の世を觀たのではない。
それは無明の投影の世を觀て無常としたのである。

眞の人間は無常の中にあらず、肉體の中にあらず、
人間は永遠不死、金剛身、如來身、實相身、清浄身である。

人間は神の子なるが故に本來『淨(じやう)』にして不淨ではない。
人間を指して不生不滅不垢不淨(ふしやうふめつふくふじやう)と言ふのは眞相ではない。

般若(はんにや)の思想は無常想から實有(じつう)想に到る過渡的思想であるから、
不生不滅不垢不淨を説きたれどもこれは物質に譬喩しての方便説である。

人間は不生不滅ではなく、本來生(しやう)にして不滅がその實相である。
また人間は不垢不淨ではなく眞清淨真無垢(しんしやうじやうしんむく)がその實相である。

本來生(しやう)、不滅、本來清淨眞無垢なる人間の實相を知つたとき
汝らは歡びに滿されて手の舞ひ足の踏む所を知らないであらう。

                   (昭和七年十一月二十五日神示)

           <感謝合掌 平成30年11月25日 頓首再拝>

【終戦後の神示】 - 伝統

2018/11/27 (Tue) 04:03:45


われは七つの燈臺に火を點ずる者である。
われは白髪の老翁である。
白髪とは久遠永劫よりつゞく無量壽の象徴である。

われは彦火火出見尊が魚釣(なつ)らす鈎(つりばり)を失ひ給ひて
憂い泣きたまふ海邊に來りて、尊を龍宮界に導きたる鹽椎神(しほつちのかみ)である。

鹽椎神とは水火土之神(しほつちのかみ)の謂(いひ)である。
靈は水火土と顯れ、一切のものは水火土から生れたのである。
われは靈の海、創造の神である。

水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土(つち)』の働きとがあって
萬物は生ずるのである。

黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鍵を持てり』
と録(しる)されてゐるのがそれである。

われを單に海の神だと思うな。
龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、
龍宮無限供給の神のシンボルである。

われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無盡藏である。

日本の國が貧しくなつたとて嘆くことはない。
日本の國は不幸にして我れを容れなかつたのである。

キリストの教會を閉鎖せしめ、そのほか色々の壓迫を加へた。
『生命の實相』も不當に用紙を配給せぬやにしてその出版を閉鎖したのである。

われは愛の神であるから神罰を當てたのではない。
眞理に目を閉ぢ、『我』を突き貫(とほ)してつひに自壞するときが來たのである。

日本の國民よ、嘆くな。
迷ひの自壞の後には必ず《住みよし》の世界が來るのである。

われを戰ひの神と思ふな。われは平和進駐の神である。
住吉とは平和の理想境と云ふことである。

わが行くところに平和は來り、わが行くところに龍宮無限の供給は來るのである。
キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのがいかぬのである。
陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍(かたはら)に押し込めてある。

軍國主義の神を正座に置いて、平和の神を別座に一段下におとしてあるの
が今までの日本の姿であつたのである。このやうな状態では日本が負けたのも仕方がない。
折角今此處にある無限の供給を閉ぢ込めて置いて、増産を高唱してもそれは空念佛である。
 
まだ日本の眞の姿はあらはれてゐない。今は伊邪那岐神の禊祓のときである。
伊邪那岐神は日本の神、日本の象徴である。

これから八十禍津日神、大禍津日神など色々の禍(まが)が出て來るが、
それは、日本が『穢(きたな)き』心になつてゐたときの汚れが落ちる働きであるから
憂ふることはない。

この禊祓(みそぎはらひ)によつて日本國の業が消え、眞に淨まつた日本國になるのである。
心を明るく持ち、すべてを神直日、大直日に見直して、禍(わざはひ)を傳じて
福となさねばならぬ。

かくて齋女(いづのめ)の神はあらはれ、本當にこの世が齋(いつ)き清められて、
その後(のち)に住吉の神があらはれるのである。
住吉の神はまだ本當にあらはれていぬ。

併(しか)しもうあらはれるに間もないのである。
住吉の神があらはれたら、伊邪那岐神の左の眼が眞に清められて、
日本の實相莊嚴の姿があらはれるのである。

古事記の預言を廢(すた)れりと思ふな。預言は成就しつゝあるのである。
たゞその預言を間違つて解釈する人が多いのである。

                (昭和二十年十一月二十七日未明神示)

           <感謝合掌 平成30年11月27日 頓首再拝>

【信仰生活の神示】 - 伝統

2018/12/05 (Wed) 03:42:45


信仰生活とは、無用意の生活ではない。
すべてに於て完全に用意されてゐる生活である。
凡そ信仰生活ほど完全に用意されてゐる生活はない。

それは心が完全に用意されてゐるだけでなく、
物質にも完全に用意されてゐる生活である。
物質は心の影であるから心が完全に用意されてゐるとき
物質も必要に應じて完全に與へられるのである。

家庭は一つの有機體であるから、
良人が明日の用意をしないときには妻が明日の用意をするやうになる。
妻が明日の用意をしないときには良人が明日の用意をする。

右の手が利かなくなつたら左の手が利くやうに成るのも同じことだ。
それは自然の代償作用でさう成るやうに計らひがあるのである。
それは有難い自然の計らひであるから、夫婦互いに感謝するが好い。

信仰生活とは明日の用意をしない生活だと思つて、
明日の用意をする配偶(つれあひ)を信仰がないと思つて
夫婦が爭ふ信仰深い家庭があれどもみんな誤つた信仰である。

『明日のことを思い煩うな』と云ふ意味は、
『明日の用意をするな』と云ふことではない。
信仰生活とは冬が來てから綿入を縫へと云ふやうな生活ではない。

秋から冬に要る綿入を縫うて置いても、それは『取越苦勞』ではない。
心が整へば秋から冬に要るものがちゃんと判つて、
自然法爾(ひとりで)に其の要る物を用意したくなるのである。

自然法爾(ひとりで)と云ふものは、外から自然に與へられることばかりではない、
内から自然に催して來るこころの中にも自然法爾(ひとりで)がある。

心が亂れて病氣になつたとき心が調へば
その病氣を治すに適當な食物が欲しくなるのも自然法爾(ひとりで)である。

野の鳥も卵を産む前に自然に巣を作りたくなる。
卵を産む前に巣を造つても小鳥は取越苦労をしてゐるのではない。

『生長の家』の生活は物質に捉はれない生活だと言っても、
物質をきたながる生活ではない。

金銭を穢いもののやうに思つてそれを捨てねば氣が安まらぬやうな心も
物質に捉はれてゐるのである。
物質は影であるから綺麗も穢いもない。

卵を産む前に小鳥が巣を造りたくなるやうに自然に用意をしたくなる時には
内からの囁きに導かれて好い、心が調へばその心の展開として用意すべきものは
適當の時に用意したくなる。

すべて用意するものを信仰浅きものと思ふな。
用意しないで取越苦勞をしてゐる生活もあれば、
取越苦勞をしないで自然に用意している生活もある。

(昭和六年十二月五日神示)

           <感謝合掌 平成30年12月5日 頓首再拝>

【君民同治の神示】 - 伝統

2018/12/27 (Thu) 03:57:57


國は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである。
人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覺が、
その外延であるところの國をも神より生れたる國であるとの神聖性を要求するのである。

この要求が神によつてその國が造られたのであるとの神話を創造するのである。
しかも人は自己が無にして絶對であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者
である(民主)との自覺を、生命の外延の世界においても持つことを要請するのである。

觀られる世界は觀る人の心の世界であるからである。

身體も國も共に觀る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
觀る心の要請が身體においては脳髄の存在となり、國に於(おい)ては永遠の元首なる、
無にして絶對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。

天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る。
即ち觀る主體(民)が神聖であるから、觀らるる客體である天皇が神聖なのである。

觀る主体(民)の神聖性が包まれ蔽(おほ)はわれて混濁するとき、
天皇の神聖性は蔽(おほ)はわれて發現しなくなるのは其のためである。
今の状態がそれである。

人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造して
その歴史の中に住む自己を觀るのである。

天孫降臨とは人間自身すなはち民(たみ)自身が天孫であり、
神の子である自覺の反映にほかならない。

かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
されば民が主であり君(きみ)は客(かく)である。

是(これ)を主客合一の立場に於(おい)て把握すれば主客一體であり、
君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む。

民を拝みたまう治(ぢ)は、君を拝むところの事(じ)と一體である。
治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。

天皇は絶對者にましますとは、觀る主體たる人間(民<たみ>)の絶對性より來る。
民が自身の絶對性の把握が破れるとき、その反映として國の絶對性と天皇の絶對性と
は破れるのである。

打ち續く敗戰により、民(たみ)自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、
天皇大權の一時中斷の形をもつて現れたのである。

(一二・二八 午後一二時)

           <感謝合掌 平成30年12月27日 頓首再拝>

【日本の實相顯現の神示】 - 伝統

2018/12/28 (Fri) 04:56:16


敗戰の原因は多々あれども戰爭を始めたから敗けたのである。
これは過去現在未來永劫に變ることなき眞理である。

戰爭を始めねば敗戰もない。
當り前のことが當り前なのである。
眞理というものは簡單で直截明瞭である。

當り前のことがなかなか解らぬ人が多いからこの世界が亂れるのである。
神が戰(たたかひ)をさせているのではない、迷ひと迷ひと打合つて自壞するのだと
教へてある。迷ひの軍隊を皇軍だなどと思つたのが間違だつたのである。

この神の教へは『自給他足・他給自足』と教へてあるのに
独逸(ドイツ)にならつて經済自給圏を確立しようと思ったりしたのが既に相対の心である。

心に相對があらはれ、彼我對立する心は既に戰ひの心、
分裂抗爭を予想しての心であるから、戰爭準備の心である。
世界は一圓相であると云ふうことを知らねばならぬ。

世界一環互に手と手を繋(つな)ぎ合つて、しつかりと和する心になつてゐたらば
戰爭もなく敗戰もなく、實相無限の圓滿調和世界が實現する筈(はず)であつたのに、

當時の日本人は氣が狭くて島國根性であり、排他的精神で、我慢自慢独善精神に陥り、
それを日本精神だと誤解して、一人よがりにいい加減な気持になつて、
遂に世界を敵として戰ふやうになつたのである。

排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、
切る心は切られる心と教へてある通りに自分が切られる事になつのである。

切る心は三日月の心であり、利鎌(とがま)のやうに氣が細く、角だつていて、
空にあらはれてゐる時間も少く、その光も弱く、直(じき)に地平線下に沈んでしまふ心である。

心の通りに日本の國が沈んでしまっても、それは日本人の心みづからの反映であるから、
徒(いたず)らに失望、落膽、放心してしまつてはならない。

『見よ、われすべてのものを新たにするなり』と教へてある。
現象の三日月は沈んでも實相の圓滿玲瓏一圓相の滿月は依然として虚空に輝いている。

それと同じく、心狭くとがりたる排他的な軍國主義の似非日本の國は沈んでしまつても、
實相圓滿の日章旗のやうにまんまるい日本の國は無くなつてはゐないのである。

有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、必ずそれは日本人全體の心が圓滿になり、
實相の波動に日本人全體の心の波動がぴつたりと合ふやうになれば、
現象界にもその不滅圓相のすがたをあらはすのである。

汝等嘆くことはない、滅びしものは本來無きもののみが滅びたのである。
無きものは滅びるほかはない。軍國日本の如きは本來無き國であるから滅びたのである。

神州日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。
滅びたやうに見えてゐるのは實相が蔽ひ隠されてゐるだけである。
實相を蔽ふ心が眼鏡(めがね)をかけている心である。

すべて此の世の中の事物は象徴であるから、その象(かたち)をよく見てゐれば、
世界に何が起りつゝあるかを知ることが出來るのである。

   (昭和二十年十二月二十八日未明神示)

           <感謝合掌 平成30年12月28日 頓首再拝>

【梅の花の神示】(講義) - 伝統

2019/01/05 (Sat) 04:53:28


伝統板・第二「神示とは~梅の花の神示」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/01/12 (Fri) 04:14:49)


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《梅の花の神示》」(P36~54)
にあります。

その要点を紹介いたします。

(1)現象界に起こる事物は、”カゲ”即ち心の世界に既にあることの
   ”象徴”であるから、それを”象徴”として観察するとき、やがて
   何が起こるかの兆候としてそれを判断することも出来るのであります。

(2)この神示において、
   日本国力の伸展には「ポンポンと音をたてる」とあります。

   既に心の世界に於いては、ポンポンと音をたてる大東亜戦争は
   その「国力の伸展」の中(うち)に、その現象化のための
   「心のフィルム」がつくられつつあったと見ることができるのです。

(3)「ヒノモトの軍(いくさ)」とは、「実相実現の内部的動力としての
   ヒカリの摂理の進軍」であります。
   形の上での物質の軍隊のことではないのであります。

(4)「摂理としての内部的動力」が動き出すと、現象界には「迷いと
   迷いとが相打って自壊するという形」があらわれて、その自壊作用を
   通して平和と光明とのみ充満する理想世界が実現するに至るのであります。

(5)物質によって世界を支配する運動に対して、霊によって世界を
   統一する運動の中心をなすのが日本の使命であります。

   東洋の使命、その代表者としての日本国の使命は「霊の使命」であり、
   霊は分割し得べからざるものである。

   分割したる世界を一つにまとめるのが日本の使命であります。

(6)実相に於いては「みんな”神の子”であり、兄弟である」という
   霊的実相を知らしめるための戦いがヒノモトの戦いなのであります。

(7)世界政府に統一された世界連邦のような理想世界が実現する前に、
   釈尊やキリストが揚言したような世界終末の大破壊が来る、という
   ことを暗示した言葉が、この神示の最後の言葉にあります。

   「本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。」

   これを緩和するようにするために、「世界平和を祈る会」に
   参加して頂きたいのであります。

(8)世界平和の祈り

   神の無限の愛われにに流れ入(い)り給(たま)いて、
   愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う

   その光 愈々(いよいよ)輝きを増(ま)して
   全地上を覆(おお)い、
   
   すべての人々の心に愛と平和の思いを満(み)たしたまうのである。

           <感謝合掌 平成31年1月5日 頓首再拝>

【大和(だいわ)の國の神示】(講義) - 伝統

2019/01/06 (Sun) 04:27:49

伝統板・第二「神示とは~大和の國の神示」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/01/13 (Sat) 04:29:47)


この神示は、当時GHQの検閲にあって全文が削除され、没収されて、
そのまま米国に持ち去れてしまい、谷口雅春先生の意識(現在意識)にも
秘されてしまいました。

それが昭和56年に、アメリカで発見されて、谷口雅春先生に送られてきて
世にでることになったものです。   (「大和の国 日本」<はしがき>より)


谷口雅春先生による、この神示の講義は、昭和57年6月2日に行なわれ、
谷口雅春先生・著「大和の国 日本(第一部『大和の國の神示』講義)」(P25~41)
に収録されおります。


この『大和の國の神示』講義をWebにて公開されている尊いお方がおります。
その尊いお方のWebにて、内容をご確認ください。
 → http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65710949.html


その要点を以下に紹介いたします。

(1)「天津日嗣」

  ①〝天津〟とは、天津神すなわち「実相の神」のことでありますが、
   本源の神としては天之御中主神様を申し上げ、これが陰陽二つの働きに分れて見れば
   高御産巣日神(たかみむすびのかみ)様と神産巣日神(かみむすびのかみ)様の
   二柱の神様のことを申し上げているのであります。

  ②〝日嗣〟(ひつぎ)というのは〝日〟は即ち〝霊〟(ひ)であって
   「霊的理念」のことであります。

  ③従って「天津日嗣」とは、天之御中主神の中心帰一の原理であるところの
   「中」(みなか)の理念を承け継ぐということであります。


(2)「天孫降臨」

  ①〝天孫〟の〝孫〟とは子のつぎの三代目になる孫といった意味ではなく、
   「天の御心」(理念)の真子(まこ)即ち「真実の子」(真実の具体化)
   という意味であります。

  ②天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、天の下ことごとくが
   一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらはれると云ふ意味の
   象徴的表現である。

  ③「天の父のみこころ」を受けた真(まこと)の子すなわち、
   皇孫尊(すめみまのみこと)によって全世界を治める時期が来る
   ということであります。


(3)「大日本世界国」(ひかりあまねきせかいのくに)

  ①〝大日本〟とはひかりあまねき国であって、日本列島の如き小日本ではない。
   〝ひかりあまねきせかいのくに〟これが「大日本世界国」であるのであります。

  ②本当の大日本国とはひかりの国であり、
   「ひかりあまねき」日本の国こそ大日本国である。

   それはすなわち「天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来る」
   ことだということであります。


(4)大日本天津日嗣スメラミコト

  ①大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。
   理念の表現である。

  ②「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津」すなわち「天の父の」、
   「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、
   「スメラミコト」すなはち「天降りましたる帝王」と云ふ意味であるから、

   総じて譯せば
   「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる天降りましたる帝王」
   と云ふことである。

   天の父のみこころが全世界に光被してあまねく平和になる世界になれば、
   それが本當の大和の國である。

   それが本當の大日本天津日嗣すめらみことの治しめし給世界である。
   肉體のことではない。


(以降に、アインシュタインの言葉が紹介されておりますが、
 故あって、省略いたします。)

           <感謝合掌 平成31年1月6日 頓首再拝>

【聲字即實相の神示】 (講義) - 伝統

2019/01/11 (Fri) 04:25:04


伝統板・第二「神示とは~聲字即實相の神示」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/01/14 (Sun) 04:01:36)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《聲字即實相の神示》」(P121~141)
にあります。

その要点を紹介いたします。

詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

(1)聖書には、万物の最初の創造 ―― 光の創造は「言ひたまひければ」即ち、
   ”言葉”によって行なわれているのであります。

   弘法大師も「聲字即實相」と仰せられており、
   「聲」即ちコトバ及び「字」即ちコトバが形象化したものは、
   事物の「實相」即ち「本質」であると説いていられるのであります。


(2)第一原因、第一にあるものがコトバであって、
   それが創造力をもっていて、第二、第三と、
   次々に現象が生まれて来るのであります。

  ①宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、
   万物はコトバの創化力によって出現したのであります。
   だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。

  ②コトバは事物の本質でありますから、
   コトバを載せた書物を「本(ほん)」と言うのであり、
   コトバが世界を左右することにもなるのであります。


(3)生長の家はコトバの宗教でありまして
   コトバの力によって人類の心を浄め、地上に起る事件を浄化し、
   この世から一切の不幸を除去し地上に天国浄土を建設しようという運動であります。

  ①日本の国をよくしようと思ったならば、
   是非とも日本人の行為の基準を定めたところの憲法の
   コトバを改正しなければならないのであります。

  ②神様は、『生命の實相』の初版の本が出たとき(昭和7年1月に製本が完成)に、
   「吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の實相」と云ふ。」と、
   宣言せられたのであります。

   『生命の實相』の本は、
   ただの人間たる「私(谷口雅春)」が書きおろした本ではなく、

   「私」を媒介として、或る神秘なる力が書いたればこそ、
   病が治ったり、死刑囚が死刑から免除されたり
   というような神秘的力を発揮するのだと考えられるのであります。


(4)『コトバの宇宙』即ち「神の想念による宇宙」が先ず出来て、
   それが『形の宇宙』即ち「現象の宇宙」として時間的序列を通して
   出現するときには、”数霊(すうれい)”による
   周期率を以て展開して行くのであります。

   大体、生命の発展周期は3と5と7の倍数で展開していくのであります。


(5)「『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐる」というのは、
   人間の想念及び言語が實相の円満さをそのまま讃美し感嘆するようなコトバを
   内容とせず、対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で
   濁っていることなのです。

   現象世界に不調和な事象が頻繁に起こっているのは、
   「實相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於いて、
   人間の「心のレンズ」が曇っていて、實相を同調しない濁った
   想念(コトバ)を発しているからなのであります。


(6)すべて現象世界の善きものは、「實相世界」にあるものの展開でありますから、
   「實相」を心で観ずることによって展(ひら)いたら、
   現象世界にも實相界の円満完全な有様が投影されて実現することになるのであります。

   その象徴として『生命の實相』の本を披(ひら)くことによって、
   現象界にも家庭調和や病気の治癒や色々の功徳が実現するようになっているので、
   そのことをこの神示で示しているのであります。

(7)この神示は、日支事変中に示されたものでありあります。
   實相世界には「戦争」そのものが無いのでありますから、
   戦って敵を傷つける神軍というものは存在しないのであります。

   すべて戦って互いに相傷つくもの「迷い」と「迷い」との衝突であります。

   一時戦争としてあらわれて人類の過去の「迷い」(憎みや、民族的嫉妬、憎悪等)が
   消えるのをケミカライゼーションと言ったのであります。

   日支事変や大東亜戦争も「迷い」と「迷い」とが衝突して消えるための
   自壊作用であったのは言うまでもありません。

   併し私(谷口雅春)は、大東亜戦争中、日本軍が勝つように努力協力致しました。
   当時、日本国内は言葉の力をきわめて「死」を讃美しており、
   ”言葉の力”を知る者として、黙ってはおれませんでした。

   到る処の講習会場で、「皇軍必勝、必勝生還」の標語をつくり、
   その”言葉の力”を強力に日本全土にひろめなければならない
   と講演したのであります。

   しかし、5万枚の「皇軍必勝」の短冊のコトバの力は、
   数千万人の「水漬く屍」のコトバの力に対してはまことに衆寡敵せずでありました。

   こうして、「迷い」と「迷い」とは相博って自壊しましたが、
   「生命の實相をしっかり握って神に委せているもの」は
   その恐るべき自壊作用の中に於いても、何等傷つくことなく、
   原子爆弾の放射を近距離に於いて受けても、少しも傷つくことがなかったのであります。

           <感謝合掌 平成31年1月11日 頓首再拝>

【完成(ななつ)の燈臺(とうだい)の神示】(講義) - 伝統

2019/01/15 (Tue) 04:00:19


伝統板・第二「神示とは~【完成(ななつ)の燈臺(とうだい)の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/01/15 (Mon) 04:49:27)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《完成の燈臺の神示》」(P231~242)
にあります。

その要点を紹介いたします。


(1)この神示は、病人の枕許で厳かな語調で読んで聞かせて上げると、
   信仰心が高まり、それと共に自然良能を高めるのに効果があります。

   この文章のリズムが人の心を打って変化させる力を持っているのです。

(2)『黙示録』にある「人の子の如き者」は「久遠のキリスト」であり、 
   生長の家の神様であるのであります。

(3)この神示にある「エデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの
   『罪』と『病』と『死』との三暗黒」を消尽して、
   光明遍照の天国浄土へ再び人間を復帰せしめるには、
   「生命の實相」とは如何なるものかという
   真理の光によって照らさなければならない。

(4)すなわち、今迄「罪」と「病」と「死」とに悩まされておったところの人間が

   『生命の實相』の本を読んで生命の実の相を知り、

   「ああ人間本来神の子である! 罪は無いのである!」

   ということが解りますと、罪から解放されるのであります。

(5)この真理を教える神聖なる使命を果すのが生長の家の教えなのであります。
   そして、この世界最後の教えをすべき時が来た訳なのであります。

           <感謝合掌 平成31年1月15日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義) - 伝統

2019/01/25 (Fri) 04:57:11

伝統板・第二「神示とは~【自然流通の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/01/25 (Thu) 04:33:57)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」(P311~354)
にあります。

その要点を紹介いたします。

(1)悟りというものは観念の遊戯ではない。
   生活の実践なのです。

(2)行(ぎょう)とは「おこない」ということで
   日常生活のことであります。

   神想観も飯をたくのも同じように尊い行(ぎょう)であります。

(3)日常生活の当たり前のことが当たり前に喜べるようになると
   心が当たり前になるから、間違った心の結果起こっていた病気が治る
   というような事が起こるが、これは奇蹟ではない。

   当たり前のことだというのです。

(4)人間巧者の工夫というものが無くなって、「そのままの工夫」 ―― 
   「実相の催し」というものが出て来なければ本物ではないのであります。

(5)人間智慧の”はからい”というものが消え、”計らわないところの計らい」
   というものが出てくると、それは本来一体なる「実相」からの
   内部的催しでありますから、もうどこにも衝突するということが
   出て来なくなるのであります。

(6)「そのまま」の心で生活する人には
   決して貧乏というものがないのであります。

(7)「そのままの心」になれば、自然に汚(きた)ないものを
   きれいにしたいという衝動が起こって来る。
   その巡り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。

(8)すべての人間は、神の子なんでありますから、裕かなのが実相で
   ありまして、貧乏な状態になっているのは実相ではないのであります。

(9)愛するということは、単に「性」を与えるということではない。
   あらゆることを貴方の望まれることなら何でも致しましょうという
   心であります。

(10)みずから富みたいと思う人は、
   「すでに私は神の子であるから無限の富者だ」という自覚を
   潜在意識に持つ事が、富者になってることの始まりであります。

   ところが多くの人は潜在意識の底に、「富」を「搾取の産物」として
   憎む心をもっております。富豪に対して憤(いきどお)りを感ずる
   というのは、自分にも向けられて自分が貧乏するのであります。

(11)人間は他(ひと)から同情されたいと思うような心を持っていると、
   その人は豊かにもなれないし、大いに伸びる事は出来ないのであります。
   自己憐憫は宜しくない。

   私(谷口雅春)もそうでしたが、皆さんも「我(われ)は《いと》
   優れたものである、神の子である、仏子である。
   我が行く所には如何なる妨礙(ぼうがい)も。ことごとく崩れ去って、
   何者も自分の行く所を妨げる者はないのである」というような、
   そういう素晴らしい信念を持って生活を勇敢に進めて行ったならば
   好い事が出てくるのであります。

(12)「我(われ)は最勝なる者である」と自覚せられたのが、
   仏の悟りであります。

(13)何物も自分のものは無い。
   すべてのものは神様のものであります。

   ありと凡(あら)ゆるもの神様のものならざるはないのであって、
   そして神様の生命(せいめい)の中に融け込んで、任運無作の循環に
   任せて、さからいがなくなって、法爾自然、法のそのままに
   自然に動いて行くというと、そこに本当の流通無限の自由自在の
   生活というものが現れてくるのであります。

           <感謝合掌 平成31年1月25日 頓首再拝>

【自然流通の神示】(講義)② - 伝統

2019/01/26 (Sat) 03:39:08


(14)人間が健康なのは当たり前であって、
   病気になる方が奇蹟なのであります。

   神示すに次のようにあります。

   「怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
   ──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。
   異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。」

(15)病気が治るのは奇蹟じゃないというのは何故であるかと言うと、
   これは心霊科学的な事実であるからであります。

(16)人間の心が当たり前になって迷いが消えたとき病気が消えたのであって、
   奇蹟の如く見えても奇蹟ではないのあります。

(17)『生命の實相』という本は、この現象界の人間を救うだけで無しに、
   霊界に居るところの霊魂の迷いをも救う力があるのです。

           <感謝合掌 平成31年1月26日 頓首再拝>

【自他一體の神示】(講義) - 伝統

2019/02/04 (Mon) 05:02:22

伝統板・第二「神示とは~【自他一體の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/02/04 (Sun) 03:19:34)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

・・・・・・

(1)人間の生命(せいめい)は、神より出で、
   すべての人類は「神の生命(せいめい)」を宿していられるので、
   自己の生命(せいめい)と他己の生命(せいめい)とは一体であります。
   
   だから他の人たち全部が真理を悟らない限り、
   自己は真理を悟っていないのであります。

(2)菩薩たるものは人類全体の苦悩を自己に摂取する結果、
   人類すべてが苦悩を脱しない限りは自己の苦悩が去らないので、
   聖者は永遠に人類救済にその全力を尽すのであります。

(3)”ムスビの力”こそ万物を生々化育する生命発現の力であり、
   一切のものを醸成する力であり、それが愛の力であり、
   慈悲の力であり、神仏の力なのであります。

(4)自他一体なるがゆえに全世界がこの真理によって救われるまでは、
   この真理の宣布を根(こん)かぎり、精力の続くかぎり行なわずにいられない筈です。

   この心境に達したというのでなければ、
   生命の実相を悟り得たなどと口幅ったい事は言われない訳であります。

   そこで先ず『生命の實相』を読み、少しでも真理をわかりかけた人は
   他の人へ伝えることを実践しなければならない訳です。

   真理を伝えた結果、相手が癒やされ、その癒やされた人自身の悦びが
   自分に反照して来るとき、自他一体の実相を自覚することが得られ、
   それによって、『生命の実相(ほんとうのすがた)』
   の本当の悟りが得られるのであります。

(5)この「自他一体」の真理の実践が「結び」と言うのであります。
   「自他一体」をこわして、孤立又は独善に陥ることを、
   「結び」の反対なる「切る」と言うのであります。

(6)「神は道(ことば)である」というのは、
   「道(ことば)」即ち神なのであります。

   単に言語というような簡単な意味での「言(ことば)」が神ではないのであって、
   宇宙の首(はじめ)なるもの、無形の「道理」なるものを神と言ったのである。

(7)大東亜戦争では負けましたが、
   それまで日本が何処の国と戦っても強かったのは忠孝一貫して、
   天皇の恩を忘れず、親の恩を忘れず、天皇のため、両親のために
   誠心(まごころ)を尽して挺身する美徳があったからであります。

(8)神示にある「知恩と忘恩との戰ひ」は対外的な戦争のことではなく、
   天皇や、国家や、祖先や両親に対する恩を知る者と、
   天皇の恩も、国家の恩も、両親の恩も忘れて、

   誰が日本の国を統治しても、個人が幸福になればよいではないかという
   所謂る「赤い思想」の者との戦いのことを指していられるのであります。

   この神示の出た頃には、一時的方便として天皇を金看板に使いながら、
   日本国を焦土とし、結局共産革命にもって行こうとしていた
   所謂る進歩的文化人があったことは明らかであります。

   「天皇のご命令だ」という金看板で我意を遂行しようとしていた
   当時の軍閥の中にも、社会主義革命遂行の前哨戦的手段として
   戦争を煽動していた者もあったのは事実で、

   日本が戦争に負けた一つの原因も、
   そのような背信行為に裏をかかれて戦争すべからざる時期に戦争したことにあります。

   併しやがてはバラバラに分離する働きは自滅して、
   世界全体が一つに融合する時代が来るに相違ないのであります。

           <感謝合掌 平成31年2月4日 頓首再拝>

【上求菩提・下化衆生の神示】(講義) - 伝統

2019/02/09 (Sat) 04:22:50


伝統板・第二「神示とは~【上求菩提・下化衆生の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/02/09 (Fri) 03:31:14)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
《上求菩提(じゃうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ」

  ①釈尊やイエスは、特殊な使命を果すために、實生活を捨てました。
   そのため、釈尊の生活もキリストの生活も、
   家庭生活や、実際生活という面では、
   それを成就したと云うことができません。

   特殊な使命と天才とを持った人のほかには、
   このような家庭生活や国家破壊の道には、ついて行けないのであります。

   そこに彼らの教えの足らない所があるのです。

   その足らない所を補うために、
   そして釈尊の教え、キリストの教えを成就するために
   出現したのが生長の家であります。

  ②「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである」
   と神示に仰せられています。

   家庭も生かさなければならないし、国家も生かさなければならない。
   そこで「捨てずして捨てる生活」「有たずして有つ生活」という
   両方生かす生活が必要になって来るのであります。

  ③生活の必需品は、必需だから「有たねばならない。」
   しかし有っては執着がかかって、心が汚れる。だから「有ってはならない。」

   「有たねばならないが、有ってはならない」ということになり、
   結局「有たずして有つ」「無所有の所有」ということが
   必需になって来るのであります。

   形の上では「有っている」けれども、
   「自分の所有だ」という観念を有たないで、
   「神様からあづからして戴いている」という自覚に立ち還ることであります。

  ④「すべてのものは自分のものでない」と自覚し、それは「神のもの」と知り、
   心の世界で、一切の所有を「自分名義」から「神様名義」に書き換え、

   この「所有」を預からせて頂いているのは、
   神様のものを預からせて頂いているのであるから、
   神様の御用に、神様のみこころに従って使わして頂きましょうと決意する。

   これが「有たずして有つ」であり、そこから、實生活を捨てながら、
   実生活が成就する道がひらけて来るのであります。

(2)「實生活をあまり忙しがるな」

   どんなに忙しい場合にでも悠々乎(ゆうゆうこ)としているべきで、
   あまり「忙しい、忙しい」などとつぶやいてはなりません。

(3)「同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である」

  ①家族それぞれは、その信念に従って、その行動は自由でなければなりません。

  ②自分が充分悟りを開いたつもりになったからとて、
   人それぞれの行動を強制してはなりません。
   あまり強制すると、却って家族の精神が互いに反目するようになったりします。

(4)智慧の神殿と愛の神殿

  ①聖典『生命の實相』は人を真理に導く”智慧の神殿”であるとするならば、
   講師がいて直接愛情をもって指導してあげる”場”となる道場は
   ”愛の神殿”とも称すべきものであり、

   愛は癒やす力であるから、講師たるものは、智慧のハタラキで、
   高座におってただ真理さえ教えたらよいのだというようにあってはならない。

   相手に随って、対機説法自由自在、或いは打ち、あるいは柔げすると同時に、
   「自分の力」が癒やすのではなく、自分を媒介として「神の愛」が
   癒やしたまうのだということを知り、「神の愛」の媒介となるように、
   自分自身、相手の人に対する愛念を深く起すようにしなければならぬ。

   道場を神様は総括して「見信道場(けんしんどうじょう)」となづけられ、
   これを”いのちのゆには”と訓読するように示されているのであります。

  ②『生命の實相』その他の書籍の智的な「真理の柱」と、
   「見眞道場(いのちのゆには)」と謂う道場の愛の「真理(しんり)の柱」とが
   十字に卍字に交叉して、全世界に地上天国建設の 心柱(しんばしら)が
   出来上がるのだと示されているのであります。

   最近続々と各地に道場ができつつあるのは地上天国成就の機運が
   近づきつつある兆候としてまことに有難き極みであると、
   地方の熱意ある同信の諸賢に対して感謝している訳であります。

   因みに、「見眞道場(いのちのゆには)」は
   道場の総括的名称であり普通名詞であります。

   現在“いのちのゆには”を固有名詞的名称として使っているのは
   九州福岡市の道場だけでありますが、

   「いのちのゆには」とは「生命(いのち)の斎庭(ゆには)」という意味で、
   「斎」は“きよめる”といふ意味、「庭」は“場”又は“道場”の意味で、
   生命(いのち)を浄めて、今まで隠覆埋没されていた、
   生命(いのち)の完全な實相を開顕して個人の生活を健全化し、

   更に進んでは地上に天国を建設する拠点となる場を意味するので、
   この建設のために意をつくされる功徳は実に偉大なるものがあるのであります。

           <感謝合掌 平成31年2月9日 頓首再拝>

【いのちのゆにはの神示】 (講義) - 伝統

2019/03/14 (Thu) 04:58:29


伝統板・第二「神示とは~【いのちのゆにはの神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/03/14 (Wed) 05:07:28)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
《いのちのゆにはの神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)『眞(まこと)』とは「現実の人間」の彼方に実在するところの、化して見えざる
   「精髄の人間」即ち『甘露の法雨』に「真性の人間」と書かれているところの
   「《まこと》の相(すがた)の人間」のことであります。

(2)見真とは、その「実相」の完全さをあらわすことであります。
   人間の「実相」の完全さは化して見えないものでありますが、
   それを目に見える象(かたち)にあらわすのが「見真」であります。

   真を見(あら)わせば人間の円満完全なる真実があらわれて、
   一切の不幸、病気、災難等が消えてしまうのであります。

(3)神様の世界では、生長の家の道場はその大小にかかわらず、
   すべて「いのちのゆには」即ち「生命(いのち)の齋(きよ)めの庭」なのです。

(4)『生命の實相』の本を書かしめられたのは神様であります。

(5)人を救う愛の念願を起して、道を伝えようと思えば神の心と波長が合うのでありますから、
   自然に相手を救う適当な言葉が口を衝いて出るようになるのであります。

(6)内部霊魂の導きの催しによって道場に集まった人が、道場で講話をきいていると、
   神の力を示現するための模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

(7)天使の霊の宿っている人々

   そこへ集って来る霊の多くは、肉体の脳髄にも真理を悟らせて人を救いたいという熱願ある
   「高級霊」の方が多いのであります。こういう人を救いたい熱願をもっていられる
   「高級霊」の宿っている人を「天使の霊の宿っている人」と申されているのであります。

   既に真理を悟っている高級霊(菩薩に当たる)でも、
   その宿っている肉体の頭脳が真理を知らないと大変都合が悪い。

   人生に於ける行為は霊と肉体との協同動作によって行なわれるのですから、
   その人の霊魂だけが高級霊で、肉体の脳髄は「真理」を知らないのでは可けないので、
   霊魂は、其処に生長の家の道場が出来たとか、講習講演会が催されるとかいうことが
   肉体の眼にとまると、内部から「何となくその講習会講演会に行きたい」という念を
   起こさせる。

   この場合、肉体の脳髄が「講習に参加しよう」と思ったようだけれども、
   実は内部霊魂の導きによる催しである場合が多いのであります。

   斯ういう人たちが道場に集って講話をきいていると、神の力を至現するための
   模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

   治癒と言っても、単に病気だけのことではありません。
   悟りによって悪い運命が好転に一転するのも治癒であります。
   不調和な家庭生活が調和に一転するのも治癒であります。

   そのような奇蹟が「手本」となって他の人々が神の存在をみとめて悟りに入る媒介と
   なるのであります。このようにして無数の奇蹟的治癒の行われる道場へ来ても、
   何ら神徳を受けることのできない人もないことはありません。

   「愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、審判く心や素見し(ひやかし)心で
   来るものは、神の心と波長が合わぬから其の心が直らぬうちは神徳は受けられぬ」
   とあるのであります。

   即ち心の波長が神の波長に同調すれば、神の御徳が現象界にカゲを映して来るのであります。
   それで「神徳」と書いてオカゲと振仮名することもあります。

    <『到彼岸の神示(いのちのゆには 神示)』174~182頁より部分的に抜粋>

(7)実相に於ては人間は万徳円満でありますが、
   現象界に於てオカゲ(神徳)が得られるか得られないかは、
   その人の心次第ということになるのであります。

           <感謝合掌 平成31年3月14日 頓首再拝>

【使命邁進の神示】(講義) - 伝統

2019/03/15 (Fri) 04:44:12

伝統板・第二「神示とは~【使命邁進の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/03/15 (Thu) 03:53:54)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
《使命邁進の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)人の思わくなどを気にせず、
   「自分がその位愛したか。そればかりを考えるが好い」
   と神さまは仰せられるのである。

(2)神はマコトひとすじであって、無限の叡智と愛とをもって、
   一切のものを正しく見給うのであるが、
   人間の見解は、恰も色々の異なる屈折度のレンズ又はプリズム
   によって色々に見るのである。

(3)人類の危機、国家の危機を目の前に観ながら、
   天皇のことを説いたり、愛国心を説いたり、古事記を講義したら、
   「右翼」と誤認せられて、自分に非難が集中するかもしれないからとて、

   人の思惑に気兼ねをして、この危機から人類及び国家等を
   救おうとしないことはまことに愛なき事だど言うほかはないのである。

(4)この神示を読むとき、「お前はどれだけ人類を愛したか」
   「お前はどれだけ国家を愛したか」「お前はどれだけ愛の仕事を遂行したか」
   と問い詰められるような気がするのである。

   本当に人類を愛し、国家を愛するならば、此の人類及び国家及び
   一人ひとりの人間の破滅の危機が近づいている現代に、
   人の思惑を気にして日和見的態度をとるなどという
   事は決して出来ないことだと思うのであります。

           <感謝合掌 平成31年3月15日 頓首再拝>

【至上者の自覺の神示】(講義) - 伝統

2019/03/16 (Sat) 03:55:32

伝統板・第二「神示とは~【至上者の自覺の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/03/16 (Fri) 03:48:29)

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
《至上者の自覺の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

(1)「人即ち神である」というのは
   「人間の本性又は実相は神である」ということです。

(2)人間に”内在する仏性”こそが人間の実相であり、
   「本当の人間」であり、肉体と見えるのは「人間の仮相(かそう)」に
   過ぎないのであります。

   仮相はそれがアルかの如く見えても、「無い」でありますから、
   「実相」のみがアルのであります。

(3)「神」という語を定義すれば
   「至上者(いとたかきもの)」ということであります。

   「至上者」とは、”至上最高の自由を得た者”ということであります。

(4)実相は完全であっても、現象は、その人の”心の影”として
   唯心所現的にあらわれます。

   その人の心が何を想念するかによって、
   その人の現象界の幸不幸はあらわれてくるのであります。

(5)「人間はみな神の子」であると悟ったならば、
   自分も”神の子”であると同時に、相手のすべての人も
   ”神の子”であるということがわかりますから、
   相互礼拝ということが自然に行なわれるようになります。

(6)自己内在の「神の子」が目覚めていましたら、
   「人間は神の子じゃよ」と言われたら、素直に従順に
   さようでございます。その通りでございます」と、
   少しも剛情に逆らうことなくその真理を受けることができるのであります。

(7)「内在の神」を自覚いたしますと、悠々として人に処し事に処して
   行くことが出来ますから、常に柔和なのであります。

           <感謝合掌 平成31年3月16日 頓首再拝>

【万教帰一の神示】(講義) - 伝統

2019/04/05 (Fri) 04:29:42


【万教帰一の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【万教帰一の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/04/05 (Thu) 04:15:05)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『神ひとに語りたまう』神示講義 教の巻
《万教帰一の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

(1)本源の神は如何なるものか

  ①神は無相にして無限相。
  ②宇宙の中に神様が生まれたのではなく、
   神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。
   宇宙そのものが神様であるわけです。

  ③神は普遍的でありますから、普遍的根本神は、霊媒にはかからぬのであります。
  ④何処にでも到るところに、我の内に、すべての人のうちに、宿ってましますのが
   宇宙の大神であります。

(2)カミの語源について

  ①神というのは「幽かなる身」
   あるいは「隠れている身」、「輝く身」、「翔り身」。

  ②第一義の神
   神様は姿形が見えずして、遍在であり、
   宇宙到る所に、何処にでも充満しておられて、
   吾々の生命となっておられるのであります。

  ③第二義の神
   無相にして無限の姿の本源の神様が、
   無限の姿の一つを化身として現されたものであります。
   例として、観世音菩薩であるとか、
   白髪の老翁の姿をして多くの誌友の霊眼に、生長の家の神様。

  ④第三義の神
   個別霊即ち個々別々の霊魂、神格を得られている人間の霊魂、自然霊・・・。

(3)実相の世界とは

  ①霊界と一口に申しますけれども、
   一番深奥にある実在の世界は実相の世界でありまして、
   これが第一義の世界であります。

  ②既に完全円満に成就せる世界であります。

  ③「天国浄土」、「極楽」、「龍宮」、「天」、
   「真空妙有の世界」等と名づけられている。
   これが実相の世界で、これが「本体界」であって、
   「吾々の本体」が生活しております。

(4)自然霊のこと

  ①地上には一遍も肉体を持って来ないで、初めから霊体だけで、
   「霊の世界」に今もおるのが「自然霊」であります。

  ②天候を司っているのが「自然霊」であります。
   自然霊という「生きもの」が自由意思で(天候を)動かしているのであります。

  ③人間の心が和順して天候を司る自然霊を怒らせぬように、
   調和したような状態になりますと、豊作につながるわけであります。

  ④自然界というものは、生き物(自然霊)で左右せられていますから、
   人間の心が感応して、左右せられます。

  ⑤それにはやっぱり、生長の家の「天地一切に調和する」精神の
   政治の首班が出来まして、その心境が自然霊と調和して、
   自然霊のこころを悦ばすようにして置く必要があると思うのであります。

(5)自然現象を受持つ諸霊

  ①自然現象を受持っている霊は自然霊でありまして、神秘なる力を有して、
   肉眼には見えませんから「カクリミ」即ち神様でありますけれども、
   これは絶対の神様じゃありません。

   それは個別霊でありまして、
   宇宙全体に充ち満ちていられる普遍的な神様じゃないのであります。

  ②大きな自然現象を左右するものだけが自然霊かと言いますと、必ずしもそうではない。
   自然霊にも小さなものもあります。

   龍神に属する自然霊でも、大きく雨を降らしたりする働きのものもあるけれども、
   それほどでないのもある。酒なんか飲ませると、喜んでいるのもあります。

(6)色々の邪霊について

  ①黴菌も、結局自然発生の自然霊なのであります。

  ②大は台風を起し、竜巻を起し、気象を変化するような龍神から、
   人間の体内に症候変化を起さしめる黴菌のようなものに到るまで、
   自然霊にも色々の段階があるのであります。

  ③そういうものがおって色々の禍いをするのです。
   尤も禍いだけじゃない、良い事もするのです。

(7)産土神と氏神

  ①肉体を脱した人間の霊魂の世界を行政的に取り締まっているのが、
   産土の神様であります。

  ②氏神というと、祖先に当る古代の神様のことをいうのであります。

  ③祖先が守護神として、吾々を守護しているのは事実であります。
   生長の家では「××家先祖代々親族縁族一切之霊」として祖先霊をまつりますから、
   その中に氏神も含まれて、別に霊媒を通して、氏神が何某(なにがし)の命という
   古代の神様だということを知らないでもよいということになっております。

(8)産土神の役目に就いて

  ①産土神という神様は霊界に於ける知事とか、市長とかいうのに当ります。

  ②宇宙普遍の神様は遍在しておられて、到る所に充満しておられるために、
   産土神様のように、吾々に対立的には働き掛けられるのではなく、
   直接、吾らの内部から、働き掛けられるのであります。

  ③内在の神から、宇宙普遍の神に通じ、宇宙普遍の神の霊波が産土神に通じ、
   産土神様が中継放送局みたいになって、具体的な人間に働くのであります。

  ④霊界にも色々役目の神様(諸霊)の配置があって分担しているので、
   直接最も関係の深いのは、産土神様であります。
   だから産土神様への毎月一回は参拝ということを忘れてはなりません。

  ⑤住所を変更したり、土地を購入したとかいうようなときには、
   産土神様へ行って報告するのが当然なすべきことで、

   新年には勿論、毎月一回は産土神様にお礼まいりをして、
   日々の御守護をお願いし、御礼を申し上げる
   ということにするのがよいのであります。

(9)守護神

  ①守護神は、その子供が大人になっても、老人になっても、死ぬまで、
   一代のあいだその人間を守るべき役目を与えられて、
   その人に常に付き添うているのであります。

   その守護神というのは、その人の祖先の中の優秀なる霊魂が、
   産土の神の命令により、その役目に当っているのであります。

  ②守護神というのは、私たちが生れると直ぐついて
   一生涯守護してくれるのでありますが、これは正守護神であります。

   ところが、後天的に一時守護する守護神もあります。
   その人がある仕事に就きますと、その仕事の種類に随って、
   ある特別の守護神がつく訳です。

  ③しかしながら、その役柄の守護神が付いても、吾々の心境が低下して、
   その守護神の波長と合わなくなったら、
   守護神がおれども居らぬと同じ状態になるんです。

   だから、吾々の心境が高まなければ、
   良き導きを受けるわけにゆかないという事になるのでありますから、
   やっぱり「自分が」高まるより仕方がないということになるわけであります。

(10)正神界と邪神界

  ①霊魂の中には、(心の波長の)高い霊と、低い世界にフラフラしている霊と、
   非常な罪悪を犯して、地獄のような煉獄のような世界に、
   落ちている霊とがあります。

   それで高き世界に上がっている霊の世界を正神界と称しまして、
   間違って邪道に落ちている霊魂の世界を、
   邪神界ということになっているのであります。

  ②邪神界の頭目を『黙示録』などでは、「赤き龍」と言っているのであります。

  ③正神界と邪神界との中間ともいうべき霊の世界に、天狗界があります。

  ④稲荷(いなり)といわれるのは「稲生り」で、
   五穀豊穣の天地の生成化育の働きをする
   普遍的な神のお働きを人格化して、祭祀したのであります。

   だからこれは実相の普遍的な創造神の方に入るわけであります。

   なのでありますけれども、稲荷の眷(けん)族として、
   稲荷を中心にして集っているところの霊界のグループがある。
   これが伏見稲荷のグループとか、豊川稲荷のグループとかいう風にあります。

   その眷族の神々の中には、色々の階級や種別の霊がいるんです。
   その神々の中には、天狗もおれば、武士の霊などもあります。
   正神邪神の中間階級の親分みたいな霊たちが稲荷の眷族となっております。

           <感謝合掌 平成31年4月5日 頓首再拝>

【無相圓相一切相の神示】(講義) - 伝統

2019/04/10 (Wed) 03:50:39


【無相圓相一切相の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【無相圓相一切相の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/04/10 (Tue) 03:26:16)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《無相圓相一切相の神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)宗教の御利益というのは肉体が治るよりも、心が一変することなのです。

(2)神様は肉体的にもお蔭を与えておられるけれども、
   それは「肉体は心の影である」という真理を知らせるための
   実験みたいなものに過ぎないのであります。

(3)神は、肉体を癒すのはその目的ではない、
   魂が真理に目覚めて向上することであります。

(4)肉体の恢復を契機として、人間は神の子であって、霊的存在であると気付き、
   「永遠の生命」をさとり、現象の消長、盛衰、変遷に引っかからず、
   常に感謝の心境になれることこそ、神から人間に与えられた
   本当の救いなのであります。
  
(5)生長の家に入教されて病気が治るのは、必ずしも患者自身が
   悟りを本当にひらいて自由自在の心境に達して治るのではなく、
   「神が病気を治して見せ」られるのであります。

   この場合の神というのは、実相に於て既に完全に人間をつくっていられる
   神が既に“完全なる人間”を癒すということはあり得ないのですから、
   実相本源の神から使命を受けて人類光明化運動に参加していられる
   高級霊を爰(ここ)では「神」と称するのであります。

   高級霊の強力な光明霊波に照らされると、
   病念の具象化であった肉体の波動が、
   光明の波動に同化されてしまいますから、
   自然に肉体が健康化されてしまうのであります。

(6)肉体は霊魂が地上生活をいとなんで向上するための道具としての被服であります。

   物質は燃えつきて常に変るが、
   その精神的設計の“主体”(生命)は常に変らないので『死は無い』と言い、
   『人間は生き通し』と言うのであります。

   その生き通しの『生命』のみが「本当の自分」であり、諸君自身であり、
   肉体は単なる作業服であるにすぎないのであります。

(7)あらゆる姿を完全に全部そなえているのが神であるから、
   「完全に全部をそなえている」という意味での「円相」であり「みたま」である
   とお示しになっているのであります。

   この神示で大切なところは「汝(なんじ)ら心して真(まこと)を知れ。
   汝たちも神の子であるから我れと同じきものである」というところであります。

   「神」と「神の子」とは一体であり、神が「みたま」であり完全円相であるが如く、
   人間も「みたま」であり、完全円相であると教えられているのであります。

   その神が各人の「生命」であり「真我」であり各人の“I am”なのであります。

           <感謝合掌 平成31年4月10日 頓首再拝>

【無限供給の神示】(講義) - 伝統

2019/05/05 (Sun) 02:55:26

【無限供給の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【無限供給の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/05/05 (Sat) 03:24:50)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《無限供給の神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)生長の家の人類光明化運動をはじめられた神は、
   決して一宗一派の神ではないのでありまして、
   「われは道である」と仰せられております。

(2)「道」とは、一切のものの初めであり始原であり、一切のものに先行して、
   それみずから存在するものであります。

(3)神は遍在し給い、何処にも彼処にも「満ち満ち」ていますから
   ミチと言うのであります。

   「道(みち)」(宇宙に満ちている状態)が動けば、それが「光」となり、
   「生命(せいめい)」となり、「智恵」となってあらわれるので
   ありますが、「道(みち)」の未だ動かない状態が「空(くう)」で
   あります。

(4)宇宙に満つる普遍的実体なる神が動き出せば、「波動」即ち「コトバ」と
   なるのでありまして、「コトバ」というのは動的状態に入(はい)った
   「道(みち)」であります。

(5)あらわれている現象の奥には、「谷(たに)」すなわち凹(へこ)んでいて
   見えない「空(くう)」なるののがある。
   「空(くう)」というのは「有無相対」の「無い」ということではない。

   一切が「空(くう)」のうちに包蔵され、一切が「空(くう)」によって
   支えられているのであります。

   「空(くう)」は一切の本源であり、一切のところに普遍している
   実在であります。その本源普遍の神が「谷神(こくしん)」であります。

   「谷神死せず」というのは、
   その本源普遍の神は不滅の実在であるということです。

(6)現象は無常でありますけれども、「空(くう)」なる実在は不滅である。
   「空(くう)」とは何もないのではなく一切がそのうちに蔵されている
   のであります。

(7)谷神(こくしん)は「空(くう)」であり、一切所に普遍しているので
   ありますけれども、

   普遍神が、応化神として、人格神としてあらわれる場合には、
   「光は東方より」の諺の如く、東方に出現するのであります。

(8)多宝如来とは、本源の神の「無限供給」の面を名称にあらわしたので
   あります。

(9)生長の家は、それが地上に発祥したときに始まったのでhない。
   「久遠の昔」から存在して、世界周期の最後が近づいた今、
   人類救済の瞬刻限に出現したのであります。

(10)この神示には「わが霊身は『生命の実相』そのものである」とあります。
   無量寿の普遍的な本源神の生命(せいめい)が、すべての人間に宿って、
   すべての人間の生命(せいめい)となり、吾々は生かされているので
   ありまして、それが吾々の『生命の実相』なのであります。

   だから吾々自身の生命の実相は、無量寿普遍の本源神の生命(せいめい)
   と一体であり、『生命の實相』が読まれ、説かれ、それが明らかに
   されるところ、

   そこに宇宙の本源神が「幽之幽」なる世界から「顕」の世界にあらわれ、
   無量寿の完全生命(せいめい)が顕われるので、自然に病いは消え、
   一切の不幸も災いも滅することになるのであります。

            <感謝合掌 令和元年5月5日 頓首再拝>

【新天新地の神示】(講義) - 伝統

2019/05/06 (Mon) 03:22:08


【新天新地の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【新天新地の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/05/06 (Sun) 03:54:09)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)宗教の本質は何であるか

  ①自分とは如何なるものか、それを明らかにする所の教えが宗教であります。
   汝自らを知るという事が宗教であります。

  ②「人間というものは、そういう物質の塊ではないのだ」という事を自覚して、
   人間自らは如何なるものであるかという人間の実相を知る事が宗教である訳です。

  ③人間は肉体ではない、久遠の生命であるという事を自覚せしめるのが、
   宗教である訳であります。

   だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるという事を
   自覚する教えが宗教である、という訳であります。

(2)「七つの燈台」の意味するもの

  ①「七つの燈台」という言葉は、『黙示録』第一章にあります。

  ②「吾はαなりωなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり」
   とこう言われたところの白髪の老翁は、生長の家の神様であって、
   「七つの燈台に燈を点ずる者」でありたまうのであります。
   キリスト教的に言えば、「久遠のキリスト」であります。

  ③「本当のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終りなく、
   宇宙に充ちている所の真理そのものである訳なのです。

   その真理そのものは久遠不滅であるから、
   初めであり終りであり、永遠に不滅である、
   というので白髪の老翁の長寿の姿をもって人格化して出て来られている
   ――こういうことになっているわけであります。

(3)内にやどるキリスト

  ①パウロは、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあって生くるなり」
   と言っておりますが、この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。
   肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。

  ②皆さんは、「汝自らを知れ」というソクラテスの言葉を、
   深い意味に於いて如実に知ってですね、

   「自分というものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、
   キリスト我にあって生くるなり」と自覚するんですね。

   これを忘れるから不可(いか)んのですよ。

  ③「人間は神の子である」という事が判りますと、
   人それぞれに「神の子」である実相があらわれて来るのです。
   実相は神の子で完全ですから、その完全さが出て来るのです。


(4)七つの燈台に燈を点ずる者

  ①燈台というのは、世を照らす光であって、
   世の光となる宗教の象徴であります。

  ②生長の家は、凡ゆる宗教に真理の光を点ずるのです。
   その代りにその各々の宗教が光を放って人類を救ってくれたら
   もうそれで宜しいのです。

  ③生長の家は一宗一派ではない、あらゆる宗教は、
   宇宙唯一の救いの本尊からあらわれた七色の放射光線みたいなもので、
   その色は各々異なるけれども、皆それぞれの宗教に救いがあることがわかる。
  
(5)神示に、
   「見よ、吾れ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の覆いをとれ。」
   とあります。

   現在既に、新たなる天地があるというのであります。
   そして、心の眼をひらいて神様の智慧を戴き、生命を目覚めさせて、
   既に今此処にある天国浄土を見ればよいのであります。

(6)神示に、
   「われは新しき智慧である。新しき生命である。
   新しき宇宙である。新しき光明である。」
   とあります。

   神様そのものが宇宙なのです。

   「既にある新しき世界」が、既に常住の天国浄土として、存在しているけれども、
   今まで眼の覆いがしてあって、その存在に気がつかなかったのです。

(7)神示に、「吾れ臨(きた)って此の世界は変貌したのである」とあります。

   七つの燈台に燈を点じて、無明の暗黒を消してしまわれたら、
   この世界の相が変って、至美至妙の"善き世界"が現れて来るのであります。

   それで、その"善き世界"が忽然とあらわれて来るのが、恰も神秘的に奇蹟的に
   見えるのであります。

(8)神示に、

   「既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、悲しみは慰められ、
   苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ。」とあります。

   この無明の暗幕が取り去られた結果、
   信徒や誌友たちに色々の奇蹟みたいな体験があらわれて来るのです。
   神秘というのは、人間智慧では分からぬような不可思議な現象であります。

   そういう神秘が現れて来るから、
   それを見て先ず心の眼を覚ませと仰せられているのです。

(9)神示に、

   「悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。汝の悲しみは
   喜びに変わるであろう。病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。
   われを拒むな。」とあります。

   私たちは悲しみに泣き濡れる必要はないのです。
   ただ眼をあげて、神の光を見れば、喜びに変わるのです。

   既に人間の実相は、自性円満であって、
   既に完全にまんまるく欠くる所がないのです。

(10)神想観をすることが大切であるのです。

  ①皆さんのうちにキリストが宿っている。
   これをキリスト教的に言えば、「内在のキリスト」である。

   しかしそれに気が付かなかったり、
   気が付いていても呼ばなかったら駄目なのであります。

   呼ぶことが必要であります。それが神想観です。

  ②尤も簡単な神想観は、「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」
   という言葉を眼をつむって、精神を統一しながらジーッと念ずるがよいのです。

  ③自分の内から、内在の神を呼び出す歌が、招神歌であります。

(11)皆さんが子供を善くするには

  ①先ず、自分の子供を「神の子」として、その完全さを信ずる事が必要であります。
   また子供は、親の型に嵌めて縛ろうと思うといけません。
   こうしなければいかんと子供を縛るといかんのです。

   しかし、放任してもいかんのであります。

  ②子供を信じてその実相の完全さを信じて、それを観ることが必要であります。
   「観る」ことは「あらわす」ことでありますから、
   観れば観られた通りに現れるのであります。

  ③子供は余り放任するのもいけませんし、縛るのもいけません。
   縛らずに、実相の完全さを信じて、その完全さをじーっと観る、という事ですね。
   これが子供をよくする上に大切なことであります。

(12)人類光明化ということ

  ①神示に、「神の人類光明化運動」と、
   こう書かれていることを看過してはなりません。

  ②この真理で救われた人は勿論、この真理に共鳴する人は、
   この運動(神の人類光明化運動)に協力しなければならないと思うのであります。

(13)運動の拡大につれて

  ①すべての積極的運動というものには、その運動が拡大するにつれ、
   どうしても費用が拡大して来るのであります。

  ②(はじめの頃)私だけの費用だけで弘めていたのですが、
   それでは、宣布の拡大力が減少して、早くひろく人類に普及することが
   できないから、皆と協力してやろうというので、
   「人類光明化のパテントは、皆さんに譲った」という事にしたのであります。

   皆さんも人類光明化に要する費用の幾分を負担して頂くことになったのであります。

  ③人類光明化運動に参加せられた株主たる聖使命菩薩に対しましては、
   もっと素晴らしい功徳が循環して返って来るのであります。
   最近までは私が主として功徳を積んでいたのですが、
   皆さんがそれを分担されることによって、その功徳が、皆さんにも及ぶのです。

   そこにも、幸福のための黄金律「与えよさらば与えられん」が真実であります。

  ④今までは、「私の人類光明化運動」だったのが、今後は皆さんの出資と力に於いて
   人類が光明化されてゆくのですから、救われた人のその功徳というものが、
   皆さんの子々孫々に報いとして伝わります。

   これは天に積まれたる処の配当金でありまして、銀行に預けた遺産のように、
   遺産相続ごとに減って行くようなものではありません。
   それは皆さんのそして皆さんの子々孫々の魂の上に善根功徳として
   蓄えられるのであります。

(14)神示の最後の部分に、
   「七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。
   わが教へはどんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。
   教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。」とあります。

  ①七つは「完成」の数で、すべてを表すのであります。
   「燈台」というのは、「世を照らす光」即ち宗教であります。
   「七つの燈台」で「すべての世を照らす光となる宗教」という意味であり、
   智慧の光によって、迷いの闇を消してしまうところの教えであるということであります。

  ②イスラエルっていうのは、五十鈴の川の流れという意味であります。
   「いすす」というのは、五十(いす)の鈴の音、
   即ちアイウエオ・アカサタナ・ハマヤラワ‐‐の五十音によって、
   全ての言葉のヒビキが代表されますが、

   神はコトバであり、五十音の展開が万物であり、その万物が「統(す)」によって
   統一せられる、それを五十鈴というのであります。

  ③伊勢の大神宮には、宇宙の万物を統一する天照大神をお祀りしてあります。
   そこから五十鈴の流れ、五十音の言葉の流れが展開して、
   万物が成る(鳴る)のであります。

   そこには鈴の言霊(ことたま)が五十音ある。
   その五十を統べるスの音が鈴(スス)であります。

   ここから五十鈴(イスス)の川の流れが出て十二に分かれ、
   そしてこれがすべての諸国の民族の本源となったというのであります。
   だから、イスラエルの十二の支流(わかれ)というのは、五十鈴の流れから発して、
   世界各民族となったすべての人類という意味です。

            <感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>

【久遠天上理想國實現の神示】(講義) - 伝統

2019/05/27 (Mon) 04:41:00


【久遠天上理想國實現の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【久遠天上理想國實現の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/05/27 (Sun) 04:22:25)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《久遠天上理想國實現の神示》」にあります。


参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

(1)久遠天上とは地に対する天ではない。
   実相世界のことである。

(2)「久遠天上の生長の家」というのは、キリストの”主の祈り”にある
   ところの「みこころの天になるが如く地にもならせ給え」の
   ”天(てん)上の生長の家であり、その”天”とは
   「理念の世界」なのであります。

(3)今の時代は、物質的な利害関係に人類の心が支配されているももですから、
   地上に実相世界に既に存する構図のように「一つの極身(きみ)に
   統一された、常楽の浄土」とは中々成らないのであります。

   まことに残念なことなのであります。

   主権国家が沢山あり、それぞれが軍備をもっていて、
   既得権をを主張する限りに於いては、永久平和の世界・常楽の浄土などは
   地上に実現することは望み薄であります。

(4)各国がそれぞれ主権をもちながら、世界連邦政府の統一主権を尊重し、
   中心帰一の世界が実現するまではどうも永久平和の世界は出来上がる
   見込みは薄いのであります。

(5)実相世界にある高天原 ―― 天国 ―― 浄土が地上に顕(うつ)って
   来るときには、天上の中心帰一が地上に反映して、世界連邦中央主権に
   中心帰一する世界が実現しなければならないのであります。

(6)”日の本”は”光の本”であり、それは実相世界にあるのであって、
   イエスが「吾国(わがくに)は此の世の国にあらず」と言われた
   久遠天上の世界であり、その久遠天上の世界は実相世界であります。

(7)実相世界の秩序なる”永久変わらざる中心に帰一されたる状態”が
   最も完全にあらわれている国を地上に求むれば、日本国しかないのであります。

   日本国は実相世界の「光(ひかり)の本」が最も完全にあらわれている国
   であるから、 実相世界の「光(ひ)の本」現象化して「日の本」となり
   「日本」となっているのであります。

(8)この世界は陽陰の結合で出来ています。
   現象界の一切のものは、無形の陽陰の原理が表現されているのであります。
   男女の肉体は、無形の陽陰の原理が象徴的にあらわれたに過ぎません。

(9)神の宇宙創造の根本構図であるところの、一切のものには、
   極微の原子から極大の太陽系に至るまで、変わることなき
   中心があるということであります。

(10)現象界が変化つねなきものであるのは、
   それは真に実在するのではないからであります。

(11)家系の連綿たる存続は実在世界の価値を現象世界に実現する上に
   是非とも必要な事柄なのであります。

   ミロクの世ともなればすべての「家」は家系連綿として不滅に続き、
   実相世界の不滅価値を現象化することになるのであります。

   この家系連綿の価値を国家に於いて実現しているのは万世一系の
   聖天皇を載(いだ)いている日本国のみであります。

(12)全世界の人類が互いに一つの神から生まれた兄弟姉妹であるということを
   自覚して、家長があり、兄弟姉妹が、それぞれの位相に従って、
   その責任と義務とを切実に履行するようにならなければ本当の永久平和
   というものは実現しないのであります。

(13)世界は、《永遠不滅の一つの中心》が渝(かわ)ることなく永続しながら、
   それが君主専制などになることなく、天皇の御心に、万民の心が反映し、
   天皇がそれをあきらかに「知ろしめし」て、中心と周辺とが啐啄同時に
   愛合するというように、相互にピッタリ瞬刻限を同じくして、
   呼べば応えるような国とならなければならないのであります。

            <感謝合掌 令和元年5月27日 頓首再拝>

【“心の法則”と“平和への道”の神示】(講義) - 伝統

2019/05/30 (Thu) 04:40:03


【“心の法則”と“平和への道”の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【“心の法則”と“平和への道”の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/05/30 (Wed) 03:27:11)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《“心の法則”と“平和への道”の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)「治にゐて亂を忘れず」などというようなことは、それは近視眼的に、眼先の現象処置を
   する上での適当な準備をするという準備工作としての智慧であって、或る期間には必要で
   ありますが、適当な準備をした上では、乱に心に描かず、完全なる安心をもって、

   「調和の世界」を心に描くことによって、却って此の世界に平和を持ち来たすことが
   できるのであります。

(2)この神示が発せられたのは満州事変の直前でありますが、
   唯今の世界情勢にもこの神示はピッタリと当て嵌るのであります。

(3)日本の国土は、強国に囲まれおり、
   実力のない中立主義は番人も戸もない羊小屋のようなものであります。

   それでは、強国の餌食となることに甘んじてしまい、
   却って、戦争の原因となるのであって、(そうならないために)
   日本は恐れず猛獣に立ち向かえる実力を蓄えなければならないのです。

   実力を持って猛獣に恐れず立ち向かうとき猛獣も尻尾を巻いて後退すると
   『続々甘露の法雨』には示されているのであります。

(4)「戸締り」をしないで、「いつ猛獣が襲って来るか、襲ってくるか」と戦々恐々と猛獣を
   《恐れて》いるよりも、「戸締り」を厳重にして「これならだいじょうぶ」の態勢をとり、
   《恐れずに》正面から猛獣の眼をみつめている方が、猛獣に咬みつかれないことになる
   のであります。

(5)唯「実相の円満完全」を念じておれば平和が来るのではないか ―― と考えるのは、
   「ただ人間の実相の完全円満を祈っておれば現象的にはどんな処置を講じないでも肉体は
   健康になるのではないか」と言うのと同じであります。

   「実相の既にある完全さ」と、「現象にそれを実現する処置」とを混同するところに、
   現象的な適当な処置を不要とするような間違った論議を生ずるのであります。

(6)「恐るる勿れ」は「永遠に変わらない黄金律」でありますが、
   「恐れない心境」になるためには、「戸締り」がある方がよいか、
   「戸締り」がない方がよいかはその時の現象界の情勢次第であります。

(7)「戸締り」を一層強固にして、「これだけ戸締りがあるから大丈夫だ」と、
   大船に乗った気持ちになって、恐怖心を滅して大安心」の心境である方が
   「心の法則」にかなった平和への道なのであります。

            <感謝合掌 令和元年5月30日 頓首再拝>

【歸幽の神示】(講義) - 伝統

2019/06/26 (Wed) 05:09:24

【歸幽の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【歸幽の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/06/26 (Tue) 03:44:01)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻 《歸幽の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)肉体というのは、『甘露の法雨』には「心の糸を組合せて、肉体の繭を作り」と
   書かれているのであります。

(2)「生命(せいめい)」は空間的広がりの世界には無いのであって、
   その空間的広がりの無い世界から”コトバ”即ち「生命の波」を起すのであります。

   その結果、時間空間というものが生じ、現象界に波が現れて、だんだん振動数の迅い
   小さい波から振動数の大きい波になって、拡がって行く訳です。

(3)「無にして無限相」である人間の本体(神霊)が「振動」を起して、
   その「振動」によって現わしている所(霊体→幽体→エーテル体→肉体)のものが
   肉眼で見える世界であり、人間であるという訳であります。

(4)「無空間の世界」にある所の本体の「生命(せいめい)」が振動を起すと、
   その振動の範囲が空間として吾々に認識され、その振動の持続が時間として
   認識されるという事になっているのであります。

(5)人間はそれぞれその人の心境に従って異なる色の後光(オーラ)を放っている。
   (「生命の謎」参照)

(6)自心の延長としての環境

  ①本体から出たところの心の波が「霊体」となり、「幽体」となり、肉体となり、
   更に「オーラ」となり、更にそれが遠くまで及んで、
   自分の「環境」として現れたのだとみることが出来るのであります。

  ②自分の環境にあらわれて来るものは皆自分自身なんであります。
   「外にあるものは一つもない、一切が自分である」という事になるのであります。

  ③だから環境に何事があらわれて来ても、
   それは自分自身の心の影だと反省しなければなりません。

(7)エーテル体

  ①感覚の「座」であります。

  ②同時に幽体から発する感情の爆発を被覆して
   それを調和ある程度に調節する役目をしているのであります。

  ③エーテル体は全身に満ち満ちておりまして、
   それが神経系統というコードを流れているときに感覚や知覚が起るのです。

  ④エーテル体の一部は精神が集中するところへ集り、また時々体外へ放出されます。
   それは、手の指先、掌、眉間または額から放出されます。
   吐く息と共にも放出されます。

   これをインドのヨガの行者などは、プラナと言っているのであります。

(8)幽体

  ①幽体というのは、
   それは「想念感情の媒体」になっているところの体でありまして、
   感覚や知覚よりも一層複雑な「想念感情」の媒体であります。

  ②悲しい、口惜しい、残念だ、嬉しい、楽しい、腹が立つ・・・。
   このような感情の「媒体」となり、それの「座」となり、「レコード」にもなって、
   感情が其処に印象され、蓄積される「場」であります。

  ③「もの言わぬは腹ふくるる業(わざ)なり」と
   兼好法師が『徒然草』に書いてある様に、
   想念感情を表現することが出来ない場合はふくれるのであります。

   心に想う通りの形に幽体というものは直ぐ姿が変わるのであります。

  ④私たちの起した想念感情のエネルギーは蓄積され残っているのであります。
   これが仏教でいわゆる「業(ごう)」であります。

   この蓄積されているところは、
   その「場」を「体」としてみるとそれは「幽体」であります。

   其の蓄積の「場」を心理学的に言いますと、
   「潜在意識」という事になる訳であります。

(9)人間は現実界と霊界とに二重に生活する

  ①吾々自身の体が、霊界に属する霊(れい)と、
   物質界に属する肉体とがダブっているのですから、
   吾々の霊(たましい)は、霊の世界に住んでおり、肉体は物質の世界――
   この空気の世界に住んでおり、二重の生活をしているのであります。

  ②霊界の区長さんとか町長さん位にあたるのが、産土神様ということになり、
   その区長さんに何の挨拶もしないのは、礼儀に反する訳であります。
    (浅野和三郎さんの例を紹介して)

(10)肉体は”人間”の潜空服である

  ①吾々が現実界に生きている間は、その肉体というものは、現実界で
   ある使命を果す為に必要な道具として肉体は作られているのであります。

   肉体は人間の一つの皮袋であり、
   空気の圧力の下にあって仕事をするための潜空服又は作業服であります。

  ②”人間”は本来”霊的存在”で自由自在なんですけれど、
   その霊的実在なる”人間”が空気の世界に降りて行って、

   或る使命を果さんが為に地上に降りて来る為に必要な「乗物」と言うべきか、
   「作業服」というべきか、ちょう度、潜水夫の”潜水服”にあたるものが
   肉体なのであります。

  ③肉体の創造は、
   肉体分子や細胞を「外」から積み重ねて行くように見えますけれども、

   実は内部から「生命(せいめい)」が「想念」の振動を起しますと、
   その想念の相(すがた)の通りに外界に有機体組織が表現されて行く
   のであります。

   だから、「生命(せいめい)」が内部から起す「想念」の波動が、
   不調和な想念でありますと、肉体にそれが表現されると
   「不調和な肉体」(病気)として表現されることになるのであります。

  ④この肉体はあまりに精巧に出来ているために、
   肉体それ自身に自働的な一種の「心」の働きがあるのであります。

   肉体それ自身が「我(われ)」という意識をもっていて、
   自分で或る肉体的欲望をもち、肉体だけで、
   魂の統制を破って動き出そうとすることがある。

   しかし、肉体の性欲や食欲に霊(たましい)が無統制に引きずられて行くのは、
   逆様事であります。

  ⑤「肉体は人間でない」という根本的に自覚することが、
   「自我の新生」であり、コンヴァーションであります。

           <感謝合掌 令和元年6月26日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】(講義) - 伝統

2019/07/07 (Sun) 04:42:54


【萬教包容の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【萬教包容の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/07/07 (Sat) 04:36:34)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《萬教包容の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)この神示のうち最も注目すべきところは、

   十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。
   『十』もヒノモトと読み、卍もヒノモトと讀む。

   いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相(すがた)を
   形どつたものであるからヒノモトと讀むのである。


   という箇所と、


   『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。
   それは天爾(てんに)の『家』であり『巣』であり『統(す)』であつて
   教ではない。

   その家の中にあって色々の教(おしへ)が生きるのである。


   と書かれてある箇所であります。

(2)「十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。」という
   ”日の本”とは「実相世界にただ一つある国」であると判断できる。

(3)「実相世界」のことを「たかあまはら」とも「生長の家」とも
   解されるのであります。

   実相世界が「日の本」即ち「光りの本」であり、
   「たかあまはら」であり、それが「生長の家」であり、
   それは此の世の国(現象世界)ではない。

   それは現象世界の奥にある世界である。

   現象世界の奥にある世界は、「天爾(てんに)の『家』」
   即ち「天の御心そのままの家」であり、それが一切の生命(せいめい)が
   発現する根元たる「巣」であり、一切のものが統一せられる
   本源の「統(す)」であると教えられているのであります。

   だからすべての魂の救済の本源地は実相世界にある。

(4)この神示に示されている「生長の家」とは、
   「実相世界の家は生長の家なれば」(聖経『天使の言葉』)
   の生長の家であり、それは内在実相の世界であるのである。

(5)【久遠天上理想國實現の神示】で、実相世界の生長の家のことが
   示されているので、対照して頂きたいのであります。

   *(伝統註)【久遠天上理想國實現の神示】

    伝統板・第二「神示とは~【久遠天上理想國實現の神示】 」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/05/27 (Sun) 04:22:25)

    【久遠天上理想國實現の神示】(講義) については、
    本スレッド内(2019/05/27 (Mon) 04:41:00)
   
           <感謝合掌 令和元年7月7日 頓首再拝

【本當の信仰に就いての神示】(講義) - 伝統

2019/08/05 (Mon) 04:51:58


【本當の信仰に就いての神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【本當の信仰に就いての神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/08/05 (Sun) 09:38:16)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
《本當の信仰に就いての神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)現象的な力によって相手に打ち勝つことによって安心を得ようと
   するから、根本的に安心即ち「心の平和」は得られないのあります。

(2)(歴史上及び現代の指導者、強国の)実例は、
   人間は実相を自覚しない限りは、
   どれだけ高い位置にいても安心することはなく、
   「高ければ高いほど不安」であることをあらわしているのであります。

(3)正しい信仰というものは、自己中心的な考えを捨てるというような
   心境にならせて貰うところに「魂の向上」と謂う
   人格的御利益があるのであります。

(4)私たちは、円周線上の回転する物象に目を奪われて動揺しては
   ならない。

   本当に心の平和を得ようと思ったら、この中心に坐すべきである。

   「中心に坐す」というのは「我れ神の子」の自覚に坐すという
   ことなのであります。

   「我れ神の子」の自覚に坐すということは、また同時に他(た)の
   すべての人々も「神の子」であるとして尊敬する心境に坐すこと
   であります。

(5)「我れ神の子なり」という実相に直参せしめて、
   「無恐怖の境地に入(い)らしめるものが本当の宗教である」
   と教えられているのであります。

(6)人間の本性を信ずる信仰こそ本当の信仰であって、
   その信仰に到達したら無恐怖の状態に入(はい)ることができるのだと
   教えられているのであります。

(7)私たちが世界の危機を説くのは決して恐怖心を与えるためではなく、
   時局認識をハッキリさせて、力を結集し、一緒に世界平和を祈る
   同志を一人でも一層多く求めたいからであります。

   これにより、世界人類の終末預言が覆されて平和のうちに
   新しき理想世界の建設が成就すると信ずるのであります。

           <感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝>

【懺悔の神示】(講義) - 伝統

2019/08/12 (Mon) 04:38:36


【懺悔の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【懺悔の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/08/12 (Sun) 03:32:53)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
《懺悔の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)宗教とは罪を解消して人間を自由ならしめるものであります。
   宗派によって罪を解消する方法が異なるのであります。
   罪というものは「本来ない」というのが、生長の家のおしえであります。

(2)『生命の實相』を読んで3年間仰臥の結核が治る。

   福島博さんは、それ(『生命の實相』)をお読みになりまして、
   端的に「人間・神の子、病気は無い」という
   ことをお悟りになりまして、すぐ病床から起ち上がると治ってしまったのです。

(3)人間に本来罪ありや否や

(3)罪というものはどういうものであるかと言いますと、
   ツツミ(包み)という語源から来ているのです。

   人間に「罪」があるんじゃなくって、人間の完全さが
   ツツミ隠されているというのが「罪」の状態であるというのであって、
   「罪」というものが人間そのものと一体なのではない。

   「罪」は如何にあろうとも「人間」そのものとは別のものなのであって、
   人間の完全な神性というものを自覚しないで、
   瞼を塞いだように、光があるのに光を見ないでいる状態が「罪」であります。

   生長の家では、こういうように罪を解釈するのです。

(4)「罪」とは「神性隠蔽」であると『生命の實相』の第七巻倫理扁
   (携帯版では第十三・十四巻)には書かれているのであります。

   「神性隠蔽」とは、神なる本性を隠蔽して覆い隠していること、
   それが罪(ツツミ)であるから、「人間・神の子」を自覚して、
   その実相を露堂々とあらわすと、罪が消えることになるというのであります。

(5)実相を観ずれば罪は消える。

   懺悔とは、狭い意味で言えば、ああ私は悪いんです、済みませんというのも
   懺悔ですけれども、

   もう一つの素晴らしい懺悔というのは、現象を一切捨離して
   実相に向き変る事であります。

(6)「大乗経を誦し」というのは、大乗即ち、
   すべての人間はみな仏であるとして大きく広く人類を救うところの経典、
   生長の家で言えば『生命の實相』とか『真理』とかいう本ですね。

   それを読んで、昼夜六時に十方の仏様を拝する――このことは今申し上げました。

   そして、「一切の人を観ること、悉く仏の想いの如くせよ」と仰せられた。
   即ち凡ての人を観るに、「みんな仏であると思え」という訳です。
   すべての人間を、みんな仏さまだと思って拝まなくちゃあいけません。

(7)法句経には、『生命の實相』に書いてあるのと同じように、
   「まこと、"怨み心を以ってしては、"怨み"を解くことは出来ない。
   "怨みなき心"をもって来たとき、はじめて恨みを解くことができる」
   と書かれているのですね。

(8)懺悔というのは洗い清めるということであって、悪いものを放してしまう。
   心から放してしまえば、「無いもの」は無いとい宇宙の浄化作用で消える。
   それが懺悔であります。

(9)わたしたちは、神の子だから、"神の子たる実相"が顕れるに従って、
   それだけはっきりとホコリが見えるべきはずであります。

   きれいな立派な漆の塗りものなんかには、
   一寸ホコリでもつくと直ぐ分るでしょう。
   穢(きたな)い絨毯の上にホコリがつもっていても分りはしない。

   それと同じく、自分の心が浄まれば淨まるほど、
   「ああ穢い」ということが分るのであります。

   だから「ああ済みません」と過去を詫びる懺悔の心が起りますと、
   そういうときは、過去より自分は一段高まった
   ということになっているのであります。

   それですから、人を憎んだり恨んだったりしとった人が、
   「ああ済みません、私が悪うございました」とあやまり切る気持になりますと、
   病気が"さっと"治ったりします。

(10)我々はいろいろな環境に置かれていますけれども、
   その環境というものは、一つの学校のようなものであります。

   各人の環境というものは、それぞれその人が
   一番魂が進歩するのに必要な環境に置かれている訳であります。

   それで苦しい環境にあるときには、
   その人の魂が苦しみによって鍛えられなければならない様な状態に
   なっているのです。

   それによって、その環境を自己反省のための鏡として、
   「ああ、こういう心を持っているのはいやだなあ」という気持ちになり、
   一段魂が進歩すると、その環境という学校を卒業して、
   環境がスーッと変わるのであります。

           <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>

【實相金剛身の神示】(講義) - 伝統

2019/09/03 (Tue) 04:49:56


【實相金剛身の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【實相金剛身の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/09/02 (Sun) 03:05:51)
にて、ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《實相金剛身の神示》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

 ・・・

(1)”知性”が人間の本体なのであります。
   肉体は”知性”の産物又は結果に過ぎないのであります。

(2)”知性”が人間の”生命(せいめい)”であって、
   肉体の”生理作用”は、”生命(せいめい)が肉体を支配している
   間の有機的ハタラキに過ぎないのであります。

(3)《本当の人間》即ち《実相人間》は金剛身である。
   永遠不壊なる実相身である。

   実相人間は肉体人間よりもまだまだ確かな至微至妙な形を有つが、
   五官六感に触れる形でないから五官六感に触れる現象界の言葉では
   説明のしようがない、それは仮りに肉体人間の姿を
   一層精妙にした姿だと思えば好い。

(4)実相世界と云うのは神が創造せる唯一の実在界であって、
   此の世界のみが実在であり、此の世界に住む人間が実相人間であり、
   至微至妙完全円満金剛不壊の実相身を備えているのである。 


(5)実相世界は一つの神に創造られ一つの神の叡智によって
   支配せられているから、秩序整然たる相である。

   実相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だと思うのは誤りである。
   肉体の智慧には判らぬ。悟ったつもりで間違っているから
   説いて聞かすのである。

   其処には山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もある。
   獅子も羊もあるが皆な仲良く相戯れている。
   一切の人間、動物、諸霊悉く調和して相食むものはない。

   従って病気の人間は一人のない。山の形や、川の形や、植物の形や、
   乃至動物の形なども、仮りに現象界のそれに似ていると思えば好いが、
   一層精妙なのが実相世界の姿である。

   それは既に完成された世界であるが、
   完成したと言えば静止の世界のように思うかも知れぬが、
   不断の創造の世界である。

   不断の創造を続けながら完成した世界である。

(6)実相世界にはたゞ一つの国があるだけである。

   その国は日の本と名附けられ、
   また高天原国(たかあまはら)と名附けられている。
   唯ひとりの君がいまして高天原国を治(しろ)しめている。

(7)実相世界が現象世界に迷ひなく映れば、現実世界もー君に統一せられ、
   悉くの国が大和合して一つの大日本国を顕現し、
   …その時期は近づいている。

(8)『限りなく日本を愛す』には

   「日本の皇位は、天祖の詔勅によつて連綿としてつゞくべき
   宇宙意志によつて定められていますから、”日本敗戦″というような
   古今未曾有の大自壊作用が起こってさえも天皇制は廃止せられず、
   皇位の連綿性は保たれているのであります。

   ここに不思議な天意と言おうか、神のみこゝろと言おうか、
   神聖なる実相世界の”み心の既に成れる”状態の投影として
   日本の皇位は永遠につゞくべきものであり、

   やがて此の皇位に第二の天孫降臨、
   基督教で言うところのキリストの再臨、
   仏説で言ふ弥勒菩薩の下生(げしょう)があるべきであります。

   やがて出来る世界連邦統合の象徴として何か神聖なるもの、
   久遠なるものを求むれば、日本の皇位のほかにはない。

   その皇位の上に神孫が降臨し、キリストが再臨し、彌勒が下生し、
   それが世界連邦の中心象徴としての”神の王”となるとき、
   『黙示録』 に預言されたるキリスト再臨が成就するものであります。
                     (同書287頁)

(9)全世界の大多数の人々が、日本皇位の神聖性を本当に認識して、
   やがて出来るであろう世界連邦の連邦政府の神聖主権の象徴として、
   日本皇位を推戴するよりほかには何処にも神聖なるものはない
   と気付くようになるには、

   幾度の末法末世的な悲惨事を経たのちでないと、迚(とて)も
   現状のままではそのようなことはあり得ないのであります。

   聖書の「マタイ伝」にはキリストの再臨は「ただ父のみ知り給う」と
   書かれているのであります。だから、其の時期を私たちが憶測しても
   どうにもならないのであります。

   私たちはただひたすら「天国現前の準備をして、心を浄め」
   何時、如何なる地上の大変革又は大変動があっても
   傷つかないほどの心境になっていたいものであります。

(10)「日の本(ひのもと)」とは実相世界という“超次元”の
   霊的世界そのものであり、それが現象界に“救いの慈光”の
   放射される光の本(もと)の国であり、

   その中心者たる神は“一つ”であるから、
   「実相世界にはただ一つの国があるだけである。
   その国は日の本と名附けられ」とあることの意味が
   よくわかるのであります。

(11)実相の世界の神は、本来“一つ”であり、
   その神が八百万(やおよろず)の神仏とあらわれていられる
   のであるから、唯ひとりの“主神”がましまして、
   完全なる秩序ある統一が得られていることも当然であります。

(12)キリスト教でいう『天』とは『実相世界』であるとことがわかりますと、
   キリスト教の“主の祈り”の

   「御心の天に成るが如く地にも成らせたまえ」と言うことが
   「既に神の御心が実相世界に成っている。
   その通りに、現象世界にも成らせ給え」ということを
   意味しているのであります。

(13)「御心の天に成るが如く地にも成らせ給え」
   というキリスト教の祈りが実現すれば、現象世界にも、
   “一柱の主神”の投影として地上に“一君”が
   連邦国家の主権の象徴としてあらわれざるを得ないことになります。

   そこで、この連邦国家の主権の象徴として一君を選ぶ場合に、
   どなたを世界連邦国家の中心象徴とすべきかという問題が
   起ってまいります。

   世界連邦の中心象徴となるべき者は、野心ある国々の元首や支配者では
   いけない、其処に何か神聖なるものをもって来なければ
   連邦国家の主権の神聖性を象徴するにふさわしくないのであります。

           <感謝合掌 令和元年9月3日 頓首再拝>

【生死の教】 (講義) - 伝統

2019/09/06 (Fri) 04:27:37

【生死の教】については、
伝統板・第二「神示とは~【生死の教】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/09/05 (Wed) 14:15:05)
にて、ご確認ください。



谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻 《生死の教》」にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)ここで説かれている「生死」というのは、
   必ずしも「肉体の死」というような意味ではなく、
   もっと深い意味での「生命(せいめい)」の生死であります。

(2)ここに「兄弟」というのは、あらゆる人間を「大生命」なる神より出でたる
   「生命(せいめい)の兄弟」と見て、教えていられるのであります。

(3)神さまの教えをひろめるには

   神さまの教えをひろめるには“純粋な献身”が要求されるのでありまして、
   ただの「売れたら好い雑誌」の出版とは異るのであります。

   それがただ「栄える企業」としてはじめるのだったら、
   無論、その企業収入の中から自分の生活費も、休養費も娯楽費も
   出してよいのでありますけれども

   “純粋な献身”が要求されるところの宗教の伝道に於いては、
   少しでも利欲的又は利己的動機が含まれておりますと、
   宗教というものは、その伝道者が神様からの放送を受信するアンテナになり、
   それを発声するラジオ・セットのスピーカーにならねばならぬのでありますから、

   伝道者の精神態度が一寸でも不純になると、
   完全に神さまからの教えの放送を受信できないおそれがあります。
   そして神様からの純粋の放送が受信できないで、他の低い霊魂などからの
   放送を混信することになるならば、
   その宗教は生命なきものとなり崩れ去るのであります。

(4)宗教によって人を救おうと思うものは、
   「一寸でも自分の生活のため」などという職業意識的な利己精神を
   捨てなければならないのであります。

   そして神の受信機となり、テレビのように自己が講話するところに、
   神があらわれるというほどにならなければなりません。

(5)私たちが行動するときには、
   決して自分だけの利益を考えて行動してはならないので、
   自分の行動が他の人にどういう影響を与えるかということを
   充分考慮に入れて行動しなければならないのです。

(6)人間は決して孤立して存在しているものではないのです。
   人間の一つの行為は互いに連関して連鎖反応を起すものである。

   私たちは、一寸自分の気にさわることがあったとて、
   それをすぐ言葉に表現して周囲の人々に投げかけてはならないのである。

   相手の身になって考えてあげるのが本当の「愛」なのであります。

   私たちは常に人の美点を見出し、善き言葉を使って、
   人々を生かすようにしなければならない。
   言葉は人間を生かしも殺しもするのです。

   この点「生死はまゝならぬと云へども生死は心のまゝである」
   と神示にある通りであります。

(7)(私たちは)一般の人類の思いやりを生かすようにしなければならないのですが、
   特に一般の同胞よりも尚大切にしなければならないのは、
   私たちの両親の思い遣りを生かさなければならないのであります。

   親子でも、夫婦の仲でも、その互いの助言が正しいとか、
   正しくないという正邪の問題で争っていては調和は得られないのであって、
   愛情による「思いやり」を大切に受け取って
   それを生かすようにすることが肝腎であります。

(8)主君の本来の姿はその国民を幸福にしてあげたいと
   願われるのが本当の主君の思いやりであります。

   昭和天皇のお歌のなかには、主君としての国民に対する「思いやり」が深く
   あらわれているものが多いのであります。

    【をちこちの民のまゐ来てうれしくぞ宮居のうちに今日もまたあふ】

    【戦にやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる】

   ~これは、戦後荒れはてた皇居内に勤労奉仕にとて参集した国民に対する
    昭和天皇の深い「思いやり」を歌われてたお歌であります。

(9)昭和天皇の世界平和への「思いやり」

   (昭和八年御作「朝海」)
    【天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を】

   (昭和六年「社頭雪」)
    【ふる雪にこころきよめて安らけき世をこそいのれ神のひろまへ】


   この平和への深き御願望を生かさないで戦争をはじめたのは、
   軍部としては当時の成行きで絶体絶命的なものがあったにせよ、
   「汝の主君の思ひやりを殺す者」であったのであります。

   今省みて陛下に対して申訳がなくて
   ただ驚懼(きょうく)し奉るのみであります。

   だからこの神示には

   「本當に汝が、心の殺人を止めて感謝の心に充(み)たされるやうに
   なるまでは、心の波長が違ふから神の救ひの靈波は受けられぬ」

   と示されているのであります。

   この神示が昭和6年9月満州事変の直後に発せられていることにも
   意義があると思われます。

           <感謝合掌 令和元年9月6日 頓首再拝>

【靈魂進化の神示】 (講義) - 伝統

2019/09/15 (Sun) 03:03:14


【靈魂進化の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【靈魂進化の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/09/15 (Sat) 04:32:11)
にて、ご確認ください。



谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《靈魂進化の神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

(1)『神の子』なる人間の實相を現象世界に實現するのが人生の目的である。
   現象世界とは現界、幽界、靈界を通じて呼ぶ言葉である。

  ①霊界には、神界も含まれる。

  ②神界は、修行によって神格に到達された個別霊がいる。

(2)人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子<たね>)が現象界に投影する時、
   時間的空間的に展開するのに、おのづから一定の順序を追うて展開して行くやうに
   大體定められてゐるのを言ふ。

  ①人間には、”神の子”としての原型「精神的カタチ」(理念)というものが、
   人間の生命(いのち)の中に初めから《既に》あるのであります。

  ②「理念の人間」の相(すがた)が、人間の実相でありまして、
   それが現象世界に出て来るときに、時間的空間的に展開してくるので
   あります。

  ③現象世界に映ってくるのには、色々の順序があって出て来るのであって、
   人それぞれに色々の困難な運命に遭うようにみえますけれども、
   それによって「神の子」たる性質が現れてくる過程なのです。

(3)運命の原型となるべき「心のフイルム」にある色々の画像というものは
   「念波の集積」でできているのであります。

   「念波の集積」によって出来ている運命の原型たる画像は、
   これを自分で一層汚すことも出来ますし、その反対にそれを浄(きよ)めて
   もっと楽しい清らかな人生を表すことも出来るのであります。

(4)念を浄めるには、”実相を悟る”ことです。

   そのためには、
   第一には、人間の生命(いのち)というものは、神の生命(いのち)で
   あることを悟ることです。

   第二には、一切は神の愛と智慧との表現であることを知って
   それに感謝し、物質は本来無きことを知って、
   物質欲に捉われないことです。

(5)「物質本来無し」をいうことを悟るのは
   霊魂進化の必須条件であります。

(6)根本的には、神は人間に苦痛を与えることを欲したまわないから。
   苦行は必要ではありません。

   しかし、現象的に言いますと、霊魂進化の或る過程としては、
   必要な時代があるのであります。

           <感謝合掌 令和元年9月15日 頓首再拝>

【大調和の神示】 (講義) - 伝統

2019/09/27 (Fri) 04:10:27


【大調和の神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【大調和の神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/09/27 (Thu) 04:59:46)
にて、ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《大調和の神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。


(1)「合掌の権威」

  ①合掌感謝行は単なる形式的行事ではないのでありまして、
   心の中に本当の感謝が湧きおこることが大切であります。

  ②感謝の感情が自然に湧き出でて、
   私の合掌と「ありがとうございます」の感謝の言葉が
   出て来たのでありますが、

   心身相関の理によりまして、笑えば「おかしくなる」と
   同じように、本当に感謝の格好をして合掌し、感謝の表情をつとめてして
   「ありがとうございます」と言葉で唱えていると、実際心の中にも、
   「ありがたい感謝の念」が湧き出て来るのであります。

  ③「合掌」と「感謝語」の形式からのみで感謝に入るのでは、
   どうしても付焼刃の感謝になりがちであります。

   そこで形式から入るほかに、
   真に吾々が感謝すべき無数のものにとりまかれているということを
   読書、又は講演、座談等によって知らせることが必要なのであります。
 
   そこで、講師は吾々を取りまいているすべての事物が、
   吾々自身製造したものでもないのに、ふんだんに与えられている事実を指摘して
   それに感謝するように誘導するのであります。

  ④心の中に感謝すべき内容を充分思い浮かべて、その感謝の内容の表現として、
   「合掌」して「感謝語」をとなえるとき、その「合掌」がその感謝の言葉が
   生きて来るのであります。

   あなたが合掌して感謝の言葉をとなえて人生の行路を進むとき、
   どんな荊蕀(けいきょく)も切りひらかれ、隘路(あいろ)は広い大道となり、
   調和があなたを取り巻いてくれるのであります。

  ⑤人に見られようと思ってする感謝合掌、形だけを真似てみる感謝合掌、
   それだけで人の心を打つことはできません。

   本当に感謝する心になって合掌して「ありがとうございます 」と唱えるとき、
   そこに無限の功徳があらわれるのであります。

(2)「生命の礼拝」

  ①生長の家の発祥と同時に発表した「七つの光明宣言」というのがあります。
   その第一項に、「我らは宗派を超越し、生命を礼拝し、
   生命の法則に随順して生活せんことを期す」と書かれております。

   生長の家はこの「生命の礼拝」即ち生命を拝むということから出発したので、
   その行事も生命を拝むことが、中心になっているわけであります。

  ②生命を礼拝するのは心で拝んでおったらよいじゃないか、
   何も手を合わさなければならぬことはないじゃないか、
   と考える人もありましょうが、

   本当に礼拝する心になれば、自然に肉体も、礼拝の形をとるのであります。

   また礼拝の形をして合掌しますと、自然に有難い気持ちもわいて来ます。

   こうして生長の家の練成道場における感謝合掌の行持というものは
   始まることになったのであります。

  ③道場や宿泊室でみんなの中に交わっておりますと、互いに拝み拝まれるうちに、
   自分の内に宿っている処の「キリストなるもの」内在の基督(キリスト)
   ―― 内在の仏性が現われてまいりまして、

   「有難うございます、有難うございます」という言葉の力によって、
   ヒロポン中毒も治るし、親不孝も治る、そしてその人に宿っている
   素晴らしい善さが出てくることになるのであります。

(3)「祈り」

  ①病気を見ず、死を見ず、もう一直線に、ひたむきに病気なしの健康の姿を、
   実相を直視する眼でシューッと観る。
   そうすると健康の姿がシューッと出てくるのです。

  ②生長の家では、"現象なし"というのであります。
   現われている象(かたち)を「ある」と思ってはいけない。

   本当にあるものは唯"実相"(実の相・すがた)だけであって、
   現われているのは仮の相だ。
   仮の相はニセモノで、ウソの相で、本当に「ある」のではない。

   本当にあるのでないものは、幾ら現われていても、絶対「ない」んだから、
   無いものは唯"無い"でよろしいんだ。

   それを遠回しにいろいろ説明せねばならぬことはない。
   そんなものはない。悪い病気も、放蕩の親爺もいくらあるように見えても、
   そんなものは絶対無い、無いものをアルと掴むからいかぬ。

  ③"憎んでいる人と和解する"時に念ずる言葉

   眼をつむりまして、眼の裏に、相手の姿を思い浮かべて、名前を唱えて
   その相手を呼び出す気持ちになります。そうして、こう念ずるのです。

   「私はあなたを赦(ゆる)しました。貴方も私を赦しました。
   貴方と私とは神に於いて一体でございます。

   私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
   私と貴方は神に於いて一体であります。

   私は貴方に感謝しております。貴方も私に感謝しております。
   貴方と私は神に於いて一体であります。

   有難うございます。有難うございます。」

   こう一通り念じましたら、また始めに返って、

   「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。‐‐‐‐」こう繰り返して、
   一回二十分ばかり念じます。

   その念ずるときには、眼の前にその人が居られるかの如くに、精神を統一して、
   相手を赦し、相手と既に愛し合って、相手と既に感謝し合っているその相を、
   一心に思い浮かべるのであります。

(3)「放つものは生きる」

  ①心の世界にいつまでも過去を負んぶしている様な事ではいかんということです。

  ②心の世界では、こうして"つかむ"というこが罪なのであります。
   ともかく、つかむという事は、
   病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。

   「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。

   放てば生きる!

  ③吾々がこの世に生まれて、苦しい悲しい悩ましい思いを起し、
   いろいろの悩みの種になるのは何かというと、「掴む」ことです。

   何を掴むかというと、「現象」を掴むんです。
   「現象」を掴んで、どこそこで、誰が、何時、何をした、何を言ったと掴む。

   それは悉(ことごと)く過ぎ去ってしまった時の事なのに、
   何時までもそれを掴んで、
   それでああだ、こうだ、ああだこうだ、こう言っているんですね。

   そのために自分も苦しいし、それによって人も攻撃するから、人も苦しい。
   そして修羅場を演じている――という事になっている。

   だから過去は過ぎ去るものであって無いのだ。
   過去は無いんだ。「今」しか無いのだ。

   「今」"しか"と言ったっても、
   今見えている「現在の悪」があるというのではない。
   
   その「今」は、過去・現在・未来に非ざる処の、時間空間を超えたところの、
   もう一つ奥にある「今」なんです。

(4)「今」新たに生まれ更る

  ①「今」その一切の現象的な時間空間を超えて、
   吾れ今五官の世界を去って実相の世界に在る。今此処が実相の世界である。

  ②現象に、どんな相が現れておっても、
   その悪い相は「影」であって、本来無いんだ――
   という訳で、一遍その悪い相に目をつむって、
   そして、新たなる眼を開くんです。
   これが新たに生まれ更るでありますね。

   「汝の目のおおいをとれ」と神様は仰せられているのでありまして、
   目のおおいをとってみると、すると今まで嘆き悲しみの充ち満ちていた世界が、
   新天新地となって現れて見えるのです。

   病気は消え、貧しさは消え、
   ここが実に豊かな天国浄土になっている相が現れるのです。

  ③それにはどうしても「現象の抹殺」という事が必要なんです。
   「現象の抹殺」といっても、
   原子爆弾でみんな吹き飛ばしてしまうというのではないのであって、
   心の世界で、どんな悪しき相があらわれていても、
   そんなものは実は「幻」であって、本当は無いんだ。

   「無」だと悟るんですね。

  ④「無」を知ることが大切なんです。
   「無」の関所を一遍超えなくては、
   実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。

   「無」は何も無いんじゃないのであって、その「無」の関所を超えたときに、
   無尽蔵のよきものの充つる世界が出て来る。

   それにはやはり一切の現象を一応「無い」と断ち切らんといかん。

  ⑤肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟ったときに、
   そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを
   発見することが出来る事になるのであります。

   これが「新たに生まれる」ということです。
   人新たに生まれずば神の国を得る事能(あた)わず」と
   キリストはニコデモに教えているのであります。

   肉体を放ち捨て、肉体の利益を放ち棄てたときでないと、
   神の国を見出すことはできないのであります。

          <感謝合掌 令和元年9月27日 頓首再拝>

【最後の審判に就いての神示】 (講義) - 伝統

2019/09/28 (Sat) 04:56:40


【最後の審判に就いての神示】については、
伝統板・第二「神示とは~【最後の審判に就いての神示】 」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479
     (2018/09/28 (Fri) 03:37:30)
にて、ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《最後の審判に就いての神示》」にあります。


参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

(1)この神示の特徴は漢字に特殊なフリ仮名が附してあることであります。

(2)(聖書には、キリストの再臨を種々示されているが)
   ここに示されている神示は、キリストの再臨を
   「イエスの再生」として見ずにキリストを「真理」そのものとして、
   超越的な意義をお示しになっているのであります。

(3)「真理」は既に諸賢(みなさん)の内に宿っているのです。
   しかし「虚妄(まよい)」の妄心(もうしん)によってくらまされていて、
   自覚しないのであります。

   超越的内在的に「キリストの再臨」ということを解釈しますと、
   真理を告げるラッパの声によって皆さんの内に宿る真理(キリスト)が
   目を覚まして顕現するのが「キリストの再臨」であります。

(4)超越的内在的意味に於ける”キリストの再臨”による”最後の審判”は、
   本来無いところの「虚妄(まよい)」の無を「無」として判決宣告して、
   永遠に出て来られない世界に堕獄し、

   本来人間の実相たる「完全人間」を実在なりと判決宣言して、
   それを如実にあらわすところの審判でありますから、

   「吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず、
   虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き、
   暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。
   病ひは癒やされ、惱みは消えん」とあるのであります。

   「燒かるる者は『汝』にあらずして
   『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。

   『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるに非ず、
   神より出(い)でざる汝は實在にあらず」と示されております通り、

   「病んだり、悩んだりしている汝」は、真に実在するのではなく、
   夢の中の人物のようなもので、「本来無い」のであります。

(6)「真理の光」に照らして、「汝らは、神より出でざるが故に、
   如何に実在の仮面を被るとも実在にあらず」と、
   最後の最高裁判所的裁決を下すのが、
   真理(キリスト)の再臨による「最後の審判」なのであります。

          <感謝合掌 令和元年9月28日 頓首再拝>

真の「神示」は「生命」の黙示の顕れ - 伝統

2019/10/07 (Mon) 04:24:19


      *「光明道中記」(10月7日 黙示を受くる日)より


【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで「生命」の黙示そのままが
 精神に顕れて来る状態である。           (『生命の實相』第十一巻)】

「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、
民間市井の巫女的現象、口寄現象、二重人格として出て来るのは、
いずれも霊示であって、その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて
一(ピン)から十(キリ)まであって、悉くは信ずべからずと云うことである。

国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。

と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、
(『生命の實相』霊界篇参照)霊媒的現象によって高級霊又は神が来(きた)った
と思って、思いあがってはいけないのである。

普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、
その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の悪戯(いたずら)である。
斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。

「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。

それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。

普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。

           <感謝合掌 令和元年10月7日 頓首再拝>

内部的自覚は神示の一種である - 伝統

2019/10/08 (Tue) 04:32:17


       *「光明道中記」(10月8日《神は善のみと知る日》)より

【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。
                    (『生命の實相』第一巻)】

「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。

理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、
パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。

そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。

直観は純粋であれば神示だと思っても好い。
併し要は純粋度の問題である。

利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。

そこで宇宙の絶対実在を悟るために、
仏教では般若波羅蜜多の行があり、五蘊皆空と観じ、
色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、

それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、
・・・斯くの如くして一切の引っかかりを無くして初めて、
「ここに彼岸あり」と悟る。

その内部的自覚は神示の一種である。

波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。

           <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>

神示は、”内”からの真理の直接把握である - 伝統

2019/10/09 (Wed) 04:20:10


    *「光明道中記」(10月9日《ここに彼岸ありと悟る日》)より

【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、
それが二重人格式に他から教えられるだけで、一重式にその人の生命
そのものの自覚となって来ないのは真理の絶対把握でないから神示ではない。

それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。

併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。

「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。

香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。

ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。

同じ真理でも”外”から来るのと、
”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。

”内”からのは真理の直接把握である。

真理の直接把握を「神示」と言い、
二重人格的に教えられるのを霊示と言い、
霊媒現象と言うのである。

「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。

           <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>

【児童教育に關する神示】 (講義) - 伝統

2019/10/22 (Tue) 03:31:03


【児童教育に關する神示】については、
当スレッド内【児童教育に關する神示】(2018/10/23)にて
ご確認ください。


谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《児童教育に關する神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にて、ご確認をお願いいたします。

(1)教育の根本は、
   「人間神の子」は実は「人間の子」ではなくして
   「神の子」であということであります。

(2)「神の子は神を育てる」のである。

(3)教育の根本は、人間を単なる肉体的存在だと思わず、
   ”神の自己実現”であると尊敬して、人のうちに内在する
   神性・仏性な”無限の可能性”を拝み顕(いだ)すところに
   あるのであります。

(4)教育に最も大切なのは”観”をかえることであります。

   人間を”無限の可能性”を内に蔵する”神の子”として観じ、
   その”無限の可能性”を愛語と讃嘆の言葉の力にて
   引き出すことが本当の教育なのであります。

(5)両親の心配は”精神波動”の放送となり、それを子供は受像して、
   心配した通りの状態をテレビの受像機のように
   眼に見える象(かたち)にあらわす事になるのであります。

   だから子供を愛する親たるものは、「常に子供が”神の子”で
   あって神に護られている」ということを念じて、平和と調和と
   幸福の”精神波動”を子供に対して放送するようにしなければ
   なりません。

(6)子供の姿は、親の心の姿の投影(かげ)なのであります。

          <感謝合掌 令和元年10月22日 頓首再拝>

【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』)講義 - 伝統

2019/11/04 (Mon) 04:51:08


【生長の家の食事の神示】については、
当スレッド内【生長の家の食事の神示】(『和解の神示』) (2018/11/04 )にて
ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《食事の神示》」にあります。


参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にてご確認をお願いいたします。

(1)現在は『生長の家の食事』ですが、
   昭和24年4月の『生長の家』誌において
   『和解の神示』として書かれてあります。
   その点をふまえて谷口雅春先生の御講義をお読みください。

(2)食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるのです。

(3)大生命の癒能(ゆるすちから)を流れ入らしめるには、
   すべての他の人の罪を恕(ゆる)すことが必要なのです。

(4)着衣喫飯みな仏法。

  ①生活の作法というものは其の儘精神に影響するものでありますから、
   非常に大切な事なのであります。

  ②しかし、型から入りながら、型を行じながら型を超えて、
   自然そのままになっている境地を目指すのです。

(5)食物は、その奥にある霊的生命を観て、それに感謝して食物をいただくとき、
   内在価値が展開してくるのであります。

(6)人間は、「聖霊なる神の生命」の顕現であり、その「聖霊なる神の生命」に
   供え物を献納するところの行事が、三度の食事であるというのであります。

(7)神示にある通りの神聖なる行事(罪を「洗い流す」象徴的行事)を通して、
   「心の世界」に潜在化している罪を洗い流し、一層ハッキリと罪を消すことが
   出来るのであります。

(8)肉体の病気なんか、たとい治っても、その肉体は十年先か二十年先か知らぬが、
   やがて死んでしまう。

   けれども、人を怨んだり憎んだりしておったら、其の人の肉体は死んでも、
   魂が霊界に行ってからも、まだ怨んだり憎んだりしておって、それこそ、
   其の人の霊魂は地縛の亡者になって彷徨(さまよ)わなければならんということに
   なるのであります。

   ですから、肉体の病気が治るということよりも、「人を憎む」という心の病気の
   治ることの方がよっぽど素晴らしい功徳なのであります。

(9)眠りしなに心の重荷を卸(おろ)すための祈りの言葉

   「私は今、神の無限の愛の御手に抱かれているのである。
   神が全ての私の罪を恕し給うごとく、私も亦全ての人の罪を恕すのである。
   私が全ての人の罪を恕すかの如く、神は吾が全ての罪を恕し給い、
   愛の御手を以て、私を抱き給うのである。」

(10)私たちの怒り憎みというものを人類全体から無くする運動こそ
   本当の平和運動だと言うことができるのであります。

          <感謝合掌 令和元年11月4日 頓首再拝>

【無病常樂の神示】(講義) - 伝統

2019/11/10 (Sun) 05:00:59


【無病常樂の神示】については、
当スレッド内【無病常樂の神示】 (2018/11/10 )にて
ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《無病常樂の神示》」にあります。


参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にてご確認をお願いいたします。


(1)神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく、
   任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、すべてが惟神(かむながら)の法楽である。

(2)「苦楽を超越した本当の法楽」でないと本物ではない。

(3)先ず自分がなくなることが必要である。

   「自分」がなくなり、カラッポのパイプの中へ水が流れ入るように
   「神」を流れ入らしめたら、「吾れが一変し、天地が一変し、
   人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。

   実相は苦楽を超越する法楽であって、
   実相をもって苦もなく楽もないというのは謬見である。

(4)実相というものは、相対の「楽」ではなくて、「絶対楽」であり、
   その「楽」そのものが「本当の人間」だと言うのであります。

   「本当の我」と「楽」とは一体てであるというので、
   爰には涅槃経の"常楽我浄"の大乗仏教思想と同じものがあらわれているのです。

   苦しんでいるのは「本当の我」ではないのであって、
   「本当の人間」とは常楽即ち常に楽しいのであります。
   「人間」とは本来無病のものなのです。

(5)本当の人間は「神の子」ですから、
   絶対に病気もしないし苦しみもしないのであります。

   だから神示には
   「人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊を言う」
   とあるのであります。

(6)肉体の現在の状態は心の足跡でありますから、
   心がどこを歩むかということによって、
   肉体の健、不健の状態の現れようが変って来るのであります。

   肉体は人間じゃなくて「心の痕跡」であるとは巧みな形容であります。
   だから、病気が現れておっても、それは「人間」が病気をしているのではなくて、
   「心の足跡」がそんな姿にあらわれているのに過ぎないものですから、
   「病気は無い!」とはっきり言えるのであります。

(7)生長の家の神様は罰を与えないけれども、
   自分自身で自己処罰して罰を与えるのです。

(8)人間は「肉体」ではないのですから
   霊であったら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、
   他を生かすようにしていれば、自分が生きて来るようになるのです。

(9)「人間は神の子である」ということを本当に自覚したら、
   自然に他の人にも、その真理を伝えたくなるのです。

   他に伝えたくならないようだったら、
   「人間・神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。

(10)人間は「全体」の中にいるところの「一人」であって、
   全体とのつながりに於いて生かされているのであるということが、
   神の子の自覚であるということを忘れてしまって、

   自分だけの力で神様と直通だ! というような考えを起しているから、
   そういう間違った考えを起すことになるのであります。

          <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>

【本來生、不滅の神示】 (講義) - 伝統

2019/11/25 (Mon) 04:12:32


【本來生、不滅の神示】 については、
当スレッド内【本來生、不滅の神示】 (2018/11/25 )にて
ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《本來生、不滅の神示》」にあります。


参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にてご確認をお願いいたします。


(1)「物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。
   真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。
   肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。

   物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。
   不生であるから滅することも亦ないのである。」

(2)「不生」とは「生れぬ」と書いてありますが、
   人間は肉体がオギャーと生まれた時に生れたのではないのでありまして、
   それ以前からおるのであります。

   久遠不滅の神の「いのち」が
   今此処に生きているのが人間ですから、人間は「不生」である。
   不生であるから死ぬこともないというわけであります。

(3)吾々の五感による感覚には人間はオギャーと生れた時に
   「生れたいのち」を知るのですけれども、生れたものは亡びなければならない。
   生じたものは滅しなければならない。

   これは永久に変わることなき真理であります。

   だからこの「生じたところの肉体」を「自分」だと思っている限りに於いては、
   人間は死ななければならないのであります。

   「不生」を得るには、その考えをクラリと換えることが必要なんであります。

(4)人間は物質に非ず、肉体に非ずと生長の家で教えられる。

   今迄物質だと思っていた世界が、物質じゃないのであって、
   霊であるということが判るわけであります。

   即ち釈迦が悟られた時のように山川草木国土悉皆成仏
   ――みんな仏の「いのち」の「現れ」であるということが判るのであります。

   そして一切のものが「物質」ではなく、人間も「肉体」ではなく、
   「物質」ではないということがわかります。

   そうしますと、人間の"rebirth"即ち「新たに生れる」「生れ更り」
   というものが成就するのであります。

   その「生れ更り」が成就すれば、世界そのものが変貌するのであります。

(5)本来『生』というところが注目すべき焦点であります。
   人間は「不生」なんですけれども、本来『生』なんです。
   つまり始めなき初めから"生きて"いるのです。

   人間は生命"そのもの"なのです。
   現象界に生れたり滅したりするのではなくて、永遠に「生」なのであります。

(6)肉体というのは念の影であって、
   「人間ではない」というのが神様の教えであります。

   そして「念」というものが形に現れる。
   「念があらわれる」いうのは、私だけの念があらわれるのじゃなくて、
   〇〇億の人類というものはみんな「肉体というものは老いるものである」
   という念波を起しているのであります。

   それでその人類の念が、誰の肉体にもあらわれるのであります。

   それを人類の念(即ち人類意識)の具象化と申します。
   その人類意識の具象化に逆らって、多少でも若いのは、
   私の特殊の精神波動という面が形に現れて、
   割合若く見えているというだけのものであって、
   その若く見えている肉体が人間ではない。

   それは人間の念の影で出来た皮袋であって、
   「人間を見ない」ものであるということになるわけであります。

   だから「老朽せざるを人間といい、病なきを人間といい、
   死せざるを人間というのである」と神様は宣言せられた。

   何という素晴らしい宣言ではありませんか。
   これ一つを聴くだけでも、素晴らしい大真理を知らされたものだと
   歓喜勇躍すべきものであります。

(7)私たちは常にこの久遠滅びざる人間を見ることが必要なのであります。
   この久遠病まず、老いず、滅びざる人間を観るとき、
   現象的には病気しておっても「病気していないのだ。病気なんて無いぞーッ!」
   と言うことが出来るのです。

   現象的には老人になっていても、
   「老いるってことは無いぞーッ!」と言えるんです。
           
(8)人間を観れば、「人間<そのもの>」人間の実相を観ることが必要なのです。
   実相を観るのです。実相です。
               
   自分の実相というものは、神の「いのち」そのものであるのです。

(9)自己の中に「無常」でないところの、
   本来「常恒不変」なる実在が自分に宿っておって、
   その「常恒不変なるもの」が自分の本質であり、
   本当の「いのち」であるから、
   「無常」というものに満足出来なくなるのであります。

   即ち私たちの「いのち」の本質は「本来常恒」
   ――常に在って滅びないところのものであるわけであります。

(10)本当の救いというものは、

   「人間は神の子である。老朽せざるを人間という。
   病まざるを人間という。死せざるを人間という。
   真清浄真無垢なるところの神の『いのちそのもの』が人間だ」

   ということを自覚させて、

   永遠に朽ちざる生命の自覚を与える宗教が一番素晴らしい宗教であり、
   この最も高い救いを与えるのが、生長の家であるのであります。

   そういう真理がこの神示には示されているのであります。

   すなわち、

   「本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき
   汝らは歓びに満たされて、手の舞い足の踏む所を知らないであろう」

   と示されている所以であります。

          <感謝合掌 令和元年11月25日 頓首再拝>

【終戦後の神示】 (講義) - 伝統

2019/11/27 (Wed) 05:04:58

【終戦後の神示】 については、
当スレッド内【終戦後の神示】 (2018/11/27 )にて
ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《終戦後の神示》」にあります。


参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にてご確認をお願いいたします。


(1)水火土之神(しほつちのかみ)は創造の本源の神であるから
   「無にして無尽蔵の神である」から この神の御意(みこころ)の
   ままに波長を合して実践すれば、其処には龍宮無限の供給が
   現実にあらわれ来るのだと教えていられるのであります。

(2)敗戦や敗戦後の日本は、それまでの自壊作用が具象化したのであります。
   併し自壊作用として病気のような状態があらわれた後(あと)には
   必ず恢復期が来るのであります。

   何故なら現象界に事物があらわれるのは、内部にある想念感情又は
   業の蓄積が象(かたち)にあらわれることによってそのエネルギーが
   消滅するのですから、屹度その次には良き事が来るのであります。

(3)作者不明の年代不詳の古代から伝わっておりますお伽話(とぎばなし)
   というものは、一種の神話でありまして、真理の童話の形をもって
   表現されているのであります。

   「桃の実」というのは、桃は「生命の樹(き)」の象徴であります。

   「生命の河」を流れ下る「桃の実」は、生命の河の両岸に茂っている
   ”生命の樹(き)の実」(略して生命の実)であります。

   「その樹(き)の葉は諸国の民を医(いや)すなり」というのは、
   「生命(せいめい)の実(じつ)の相(すがた)を語る”言の葉”」
   は諸国の民を医(いや)すということであります。

(4)まだ住吉大神の本当の宇宙浄化のおはたらきは
   あらわれていないのであります。

   住吉大神ののみおしえは既にあらわれているけれど
   宇宙浄化の御働きがあらわれていない。

   或いは今後キリストの最後の審判としてあらわれるかも知れないので
   ありますが、愈々住吉大神(キリスト)宇宙浄化(最後の審判)の
   おはたらきが顕れて来て、

   伊邪那岐(日本国の象徴)の左の眼が真に浄(きよ)められると、
   天照大御神(日本の実相)がその左眼からお生まれになる、
   即ち「左」は日足りで、光輝く日本の実相荘厳の姿があらわれるので
   あります。

          <感謝合掌 令和元年11月27日 頓首再拝>

【信仰生活の神示】 (講義) - 伝統

2019/12/05 (Thu) 06:25:06


【信仰生活の神示】 については、
当スレッド内【信仰生活の神示】 (2018/12/05 )にて
ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《信仰生活の神示》」
にあります。


参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にてご確認をお願いいたします。


(1)受験勉強

   入学試験に際してでも、
   「神まかせ」といって勉強しないのがよいのではなくて、
   神に導かれながら勉強するのがよいのであります。

(2)夫婦補完の作用

   夫婦は互いに一体でありますから、
   妻が明日の用意をしないときには夫が明日の用意をします。
   右の手が利かなくなったら左の手が利くように成るのも同じことであります。

   それは自然の代償作用でそう成るように計らいがあるのであります。
   それは有難い自然の計らいであるから、夫婦互いに反対の性質をもっていて、
   足らぬ所を補ってくれるのを感謝するが好いのであります。

(3)「取越苦労するなかれ」とは

   「取越苦労するなかれ」ということが
   『生命の實相』の生活篇に教えられていますが、

   「取越苦労しない」ということを、将来のことについて
   「何もしない」ということになってはならないのであります。

   信仰生活を送っているものは、神様の智慧に導かれ、内からの催しに動かされて
   自然に準備が出来て来るようになるのであって、
   夏のうちに冬の用意をちゃんとして置いても、
   それは取越苦労の生活ではなく、信仰ある者の正しい準備の生活であります。

(4)自然法爾

  ①心が整えば自然の摂理で、先見の明がひらいて来て、
   何でもあらかじめ自然に準備されることになるのであります。

   小鳥が卵を産む前に、巣を造りたくなるように、自然に用意したくなる時には、
   内からの囁きに人間も導かれるようになると、失敗がないのであります。

  ②心が整えば、その心の展開として、
   用意すべきものは適当な時に用意したくなるのであります。

   だからすべて用意すべきものを適時に用意する者を、
   信仰浅きものと思ってはならないのであります。

   用意しないで物が乏しくなって、取越し苦労をしている生活もあれば、
   取越し苦労をしないで、自然にゆたかに用意している生活もあるのであります。

(5)捉われない生活

  ①物質を用意しても、必ずしも物質に執着しているとは限らないのであります。
   物質でもお金でも、物質そのもの、お金そのものがきたないのではありません。

  ②物質やお金を利己的目的のために執着するのがいかんのであります。
   財というものは、それ自体は綺麗も穢いもないのです。

   それを何に対して如何なる心境で使うかという事によって、
   それが綺麗にも穢くもなるのであります。

  ③だから生長の家の生活は物質に捉われない生活だと言っても、
   物質を穢ながる生活じゃない。

   物質に執着しないが、却って自由自在につかえるのであります。

  ④物質というものは影であるから、綺麗も穢いもない。
   心が調うたら、影が自然と整うようになるのであります。

  ⑤併し、また宗教に対する献金は清浄なものですから、
   苟(いやしく)も無駄に使ってはならないのであります。

   清らかな心で出された献金は清らかであります。
   清らかな心で使う金は清らかであります。

   清らかな献金を利己的目的に使ってはならないから、
   私は出来るだけ本部の経費もきりつめて、
   自動車なども整理したのであります。

   これが信仰生活であります。

   無限供給であっても傲(おご)ってはならないのです。

(6)無限供給とは

  ①「一千万円もらったら何に使おうか」と考えて、
   自分の家を建てて、立派な着物を着て、
   楽をして酒をのんで、遊び女を買ってなどと思うような人は、
   中々一千万円は集まらないのであります。

   もし一千万円が出来たときに、それを何に使おうという立派な使い道があり、
   それにふさわしい能力がチャンと出来たときに、
   「神よ、この目的のために、一千万円を与えたまえ」と念じたら、
   一千万円集まって来ます。

  ②だから、人類のために或いは神様のために、
   この世を光明化するためにという目標が定まって、
   しかも、それを無駄なく有効に使う力が出来てこそ、
   初めて富を祈れば、富が来るということになるのであります。

   若し集まって来た富を使いこなす事が出来ない人に、
   偶然多額の富が集まって来たら、
   小人はそれに振り廻され、その富に翻弄されて、
   自分が危険な所に放り込まれるという事になるのであります。

  ③先ず自分自身の魂が清らかになること、
   自分の心が利己的にケチでなく豊かになること、
   そして心にそれを何に使うかという完全な理想が描かれること、

   その上その理想を実現する能力が研(みが)かれたならば、
   その理想実現に必要なものは、自ずから集まってくるのであります。

          <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>

【日本の實相顯現の神示】(講義) - 伝統

2019/12/27 (Fri) 03:24:45


【日本の實相顯現の神示】 については、
当スレッド内【日本の實相顯現の神示】 (2018/12/28 )にて
ご確認ください。

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《日本の實相顯現の神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にてご確認をお願いいたします。


(1)神が戦(たたかい)をさせているのではない、
   迷いと迷いと打合って自壊するのだと教えてある。

   迷いの軍隊を皇軍だなどと思ったが間違だったのである。

(2)業の自壊・自己解除の”巻き戻し”の過程として
   あの戦争は起こったのである。

   英米の業と、日本国の業との衝突となってあらわれて来たのである。

(3)「排他精神は切り分ける心であるから」結局、自分も切られて
   三日月のように「直(じき)に地平線下に沈んでしまふ」
   ということを教えているのである。

(4)世界に平和を来らすのは、「結び合わす」働きがなければならない。

   私たちは今後余程、
   言語、行動に慎み深くならなければならないのであります。

(5)軍国日本は本来無いのであります。
   本来無いから消える。

   消えても本来あるところの
   円相の大和(だいわ)の日本は消えやしない。

   実相の大和(だいわ)日本のみが独在であるから、
   それをあらわすようにすればよい。

   それが”日本国の実相顕現”だと教えられているのであります。

(6)神州日本が滅びたように見えているのは、
   「実相が覆い隠されている」だけのことである。

   実相不敗の日本国は永遠に滅びることはないのである。

          <感謝合掌 令和元年12月27日 頓首再拝>

【君民同治の神示】 (講義) - 伝統

2019/12/28 (Sat) 04:59:35


【君民同治の神示】 については、
当スレッド内【君民同治の神示】 (2018/12/27 )にて
ご確認ください。



谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《君民同治の神示》」
にあります。

参考に、そのポイントを以下に箇条書きしておきます。
詳細については、上記の著書にてご確認をお願いいたします。


(1)この神示は、先ず、国とは如何なるものかという解明から始まっているのである。

   「国は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである」
   としめされている。

   人間の生命は、神より来たり、神の自己実現として地上に「生」を保つのである。
   その「生命の波動」が外部に具象化したものが「肉体」である。

   その「生命の波動」は、人間に於いては想念感情となってあらわれるのであるが、
   想念感情の変化にしたがって、肉体に健・不健の状態があらわれるのは、
   生長の家誌友に無数の実例があるのであって、それは既に読者諸君が充分知悉
   していられるところである。

   肉体が「人間生命の外延」として想念感情の変動を容易にその健・不健にあらわす
   とするならば、國家が「人間生命の外延」である限りに於いて、
   国民自身の想念感情が、国家の状態に具象化することは当然の事だと
   言わねばならないのであります。

   国家の事を述べるに先立って順序として「環境」について考えて見るならば、
   「心が変われば環境が変わる」という事実は随分沢山あるのであります。
   それを先ず述べて理解の基礎を築いて置きたいと思います。

(2)自己の心が「神より生れたる神聖なもの」だという自覚が得られると、
   その「外延である肉体」が、神らしく健康なものとなる実例は沢山ありますし、
   また心が一変すれば、上記のように環境が一変するという実例も沢山あるのであります。

   「生命の外延」というものを、生命を包む一種の「肉体」としてみとめるならば、
   環境や境遇は広い意味に於いて、人間の「肉体」であり、

   国家というものは、「多くの国民の心」の外延として多くの国民の心を反映している
   全国民の「肉体」みたいなもので、国民大多数の心の状態が国家の状態を決定する
   のであります。

   だから、その国の人民が、自分が「神の子」であり、“ミコト”であるという
   自覚がある場合には、その人民の生命の外延(肉体)としての国家は、「神の国」だ
   という国民自覚を生ずるのであります。

(3)では、神とは何であるかというと、
   「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者である」
   とあります。

   従って神の生命を分かち有つところの「神の子・人間」も「無にして絶対であり、
   一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者」でなければならない。

   その「久遠の主宰者」たる自覚を「生命の外延の世界(社会及び国家)に於いても
   持つことを要請する」主義が民主主義なのであります。

   そこで、その民主主義なるものは天皇制と背反するものであるかの如く
   説く人もありますが、天皇制そのものが、「久遠の中心者」又は「久遠の主宰者」を
   要請する「人民の心」の反映として、日本民族の「生命の外延」として存在することを
   此の神示には次の如く示されているのであります。

   「身體も國も共に、観る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
   観る心の要請が身體に於いては脳髄の存在となり、國に於いては永遠の元首なる、
   無にして絶對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。
   天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る……」


   この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、
   その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、対象をそのように感ずるので
   ありますから、吾々が国家に於いても、「変わらざる永遠の中心者」を要請するのは、
   人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念があるからであります。

   人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がやどっているのは、
   人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する
   根本要求があるためであって、そのためにすべての造られたる物には
   「変わらざる永遠の中心」が備わっているのであります。

   だから、「観る心の要請が、身体に於いては脳髄の存在となり、
   国に於いては永遠の元首なる、無にして絶対であり、一切の主であるところの
   天皇の存在を要請するのである」と示されているのであります。

(4)この神示に於いて注目すべき点は
   「無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇」とあることであります。
   天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、「無にして絶対」なのであります。

(5)しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって
   謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。

   傲慢に天皇を批判している者にとって、
   天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。

   だから、

   「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、
   天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。
   今の状態がそれである」

   と示されているのである。

   自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、
   天皇の神聖性は蔽われて発現しない。


   自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、
   国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、
   神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。

(6)神示には、「人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を
   創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身
   すなはち民自身が、天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。

   かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
   されば民が主であり、君は客である」

   と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、
   天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。

(7)神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、
   「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、君民一體であり、
   民は君を拝み、君は民を拝む」と説かれ、

   天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、   
   次のように示されているのである。

   「民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と
   一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。
   ……」

(8)神示によれば、政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、
   「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」
   ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。

(9)併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は
   残念ながらきわめて少ないのであります。

   それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、
   自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。
   そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を「基本人権」だ
   などと信じているのですから、「人民自身の絶対性の把握」など殆どない。

   そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、
   天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。

   そのことを此の神示には、

   「天皇は絶對者にましますとは、観る主體たる人間(民)の絶對性より來る。
   民が自身の絶對性の把握が破れるとき、その反映として國の絶對性と
   天皇の絶對性とは破れるのである。

   打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、
   天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」

   という風に諭されているのであります。

          <感謝合掌 令和元年12月28日 頓首再拝>

【新天新地の神示】 - 伝統

2020/01/03 (Fri) 04:58:13


見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。
新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に變貌したのである。
既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、
悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神祕を見て人々よ、目覺めよ、覺めてわが新しき光に照らして存在の眞實を見よ。
われは存在の實相を照らし出す完成(ななつ)の燈臺に燈(ひ)を點ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
汝の悲しみは喜びに變るであろう。

病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命(せいめい)を受けよ。
われを拒(こば)むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。
われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。
われ汝等に「神想觀」 と云ふ觀行を教へたれば、それを爲せ。

われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾は常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを輕からしめる。

なんぢ一人なれば吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。
なんぢら二人ならば、われを念じて吾と倶(とも)に三人なりと思へ。

惱める者よ、わが言葉を讀めば苦しめる魂も輕くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫(ふびん)であるが助けやうがないのである。
汝の心の疑(うたがい)がわが救ひの波長に合はないからである。

遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もつと兄弟たちに『生長の家』を傳へよ。
神の愛は貰ひ切りではならぬ。
頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好い。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命(せいめい)を得るのだ。
わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。
教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

(昭和六年五月六日神示)

           ・・・

谷口雅春先生による、この神示の講義については、
谷口雅春先生・著「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」
にあります。

要点を箇条書きにしたものが、
本スレッド内「【新天新地の神示】(講義)」2019/05/06 (Mon) にあります。

詳細については、上記の著書もしくは、
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱【新天新地の神示】
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=140
にて、ご確認ください。

          <感謝合掌 令和2年1月3日 頓首再拝>

もっと神示を繰り返し読んで、その真意を味読(みどく)すべきである - 伝統

2020/01/21 (Tue) 04:32:01


      *《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》「月ごとの神示」より

(1)33の神示(月毎の神示と冒頭部分)

(2)谷 口 雅 春 先 生 『 如意自在の生活365章 』 36頁

   「 わたしたちは、もっと神示を繰り返し読んで
     その真意を味読(みどく)すべきである。 」

  (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1090 )

          <感謝合掌 令和2年1月21日 頓首再拝>

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