伝統板・第二

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主人公 ② - 伝統

2018/10/06 (Sat) 04:49:48

      *伝統板・第二「主人公」からの継続です
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6870991


《人間は運命の主人公である》

    *「光明道中記(その身まったし)」(10月6日 自己解放の日)より

【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば貧乏や不幸はなくなる。
                          (『生命の實相』第九巻)】

幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある
 ―― 斯う云う偶然論者も、彼が経験する生活範囲に於いては
まことにその偶然論者の言う通りである筈である。

何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。
彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、惨めにも人生に敗退するのは、
それは彼のみずから招くところではあるけれども、彼は神が与えた「神の子」の権利を
抛棄したものだと言わなければならないのである。

神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。

運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。

与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。

吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。

           <感謝合掌 平成30年10月6日 頓首再拝>

自己が自己の主人公となる - 伝統

2018/10/15 (Mon) 04:22:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月15日>(P100)より

自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。

自分の想念が癒されるまでは、人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。
むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。

しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。

それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、薬剤の奴隷状態となってしまうのである。
真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。

           <感謝合掌 平成30年10月15日 頓首再拝>

あなたは自分の運命の主人公 - 伝統

2018/10/28 (Sun) 02:47:25

        *「栄える生活365章」(P116)より

自分に波長が合う心がなければ、どんな悪も、あなたの側(そば)にあっても、
それがあなたの肉体又は身辺にあらわれるものではないのである。

それは恰(あたか)も、其処にラジオやテレビの電波が来ておっても、
あなたの受像セットのチャンネルが波長に合うところに来ていなければ、
その放送番組が視聴し得るようには、あらわれないのと同じことである。

そしてあなた自身の想念は、あなたのみが支配しているのであるから、
あなたの身辺や境遇に何が起こって来ても、その責任を他(た)に帰して、
他(た)を恨んだりしてはならないのである。


あなたはあなたの運命の主人公であり、あなたの境遇の支配者なのであるから、
あなた自身の想念で、あなたがあなた独特の運命を造るのを何人(なんぴと)も
妨げることはできないのである。

あなたはあなたの運命を如何につくるのかを意識的に決定して、
それに必要な想念を毎日持続するようにして御覧なさい。

あなたが想念に描くものが、
あなたの運命及び境遇として展開してくるに違いないのである。

           <感謝合掌 平成30年10月28日 頓首再拝>

「本当の汝」を呼び戻せ! - 伝統

2018/11/04 (Sun) 06:19:28


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より

なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。

真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をしてなんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。

「本当の汝」はいずこにいるぞ。

それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。

いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。

「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。

         <感謝合掌 平成30年11月4日 頓首再拝>

「本当の自分」 - 伝統

2018/11/21 (Wed) 04:25:16


      *「女性の幸福365章」(P30 神の喜び給う道を)より抜粋

真に「自己に克つ」ものは、自己というものに、
色々の「自分」があることに気がつかねばならない。

「本当の自分」と「ニセモノの自分」があるのである。

「本能の自分」「感情に駆られている自分」などはニセモノである。

「神なる自分」「霊なる自分」が「本当の自分」である。

今自分が「欲している」のは、その自分が欲しているのかみずから反省せよ。

         <感謝合掌 平成30年11月21日 頓首再拝>

自分が自分の環境の主人公 - 伝統

2018/12/06 (Thu) 02:37:32


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より

自分が自分の環境の中心者とならなければならない。

周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。

周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。
まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、周囲がなんじを屈従せしめるのである。

奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。

素直に周囲の事情を感受するすることは、周囲を支配する王者となる道である。
噛みしめればどんなものにも味が出る。
周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、
周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。

            <感謝合掌 平成30年12月6日 頓首再拝>

《“わが心の王国”の主権者を“神の子”とせよ》 - 伝統

2018/12/20 (Thu) 04:29:35


        *『人生の秘訣365章』第11篇(P267~268) より

先ず神の霊波と自分の精神との波長を合わすために、
常に寛大な青空のような心を持たなければならない。

他(た)の人からの挑戦的行為や言辞に対して、
直ぐ腹を立てたり、恐怖したり、闘争の念を起したりしてはならない。

吾々が腹を立てたり、恐怖したり、闘争の念を起すのは、
その人が「自分の實相は“神の子”であって何者にも害されない素晴らしい存在である」
という信念を、周囲から挑戦を受けた瞬間に、忘れてしまうからである。

だから誰かがあなたの怒りを挑発するような行為をしたときに、
すぐ行動に移ったり、直ぐ荒々しい言葉を出してはならない。


「私は“神の子”であり、何物にも害されたり、他の人の誤った評価で
値打ちのさがったりするような存在ではない」

ということを心の中で数回念じて、
自分が“神の子”であるという自覚を恢復してから
発言をするなり行動をとるなりするとよいのである。

自分の“心”を怒りや悲しみや恐怖によって占領させるな。

“神の子”を喚び出して、自分の“心の領域”の主人公たらしめよ。

            <感謝合掌 平成30年12月20日 頓首再拝>

《自分が環境や条件の主人公である》 - 伝統

2019/01/11 (Fri) 04:21:51


        *『人生の秘訣365章』第12篇(P305~306) より

人間が貧しくなるのは、自覚の欠乏から、
神の無限供給の流れに「我(が)」の執着の迷いによって
堰(せき)を築いてしまうからである。

供給の流れの本源が神であることに気づかず、小さな現象的自分が
色々苦労して供給を造り上げるのだと錯覚しているからである。

錯覚は意識の中にある。
供給の欠乏は、供給そのものにあるのではなくして意識の中にあるのである。


境遇がどうだとか、環境が悪いとか、条件がどうだとか、
世間一般が不景気だからとか、競争者があらわれたからとか、
流行が変ったからだとか、色々の原因にアリバイを求めてはならないのである。

どんな条件の下(もと)に於いても伸びる人は伸びるのである。

敗戦によって、灰燼の中から起ち上がった日本人は、
いずれも殆ど「無一物」から出発しながら、
或る人は、長者番付の筆頭にあがっているし、
或る人は依然として貧しくて、社会の下積みになっているのである。

それは環境や条件の問題ではなく、皆意識の問題である。
環境も条件も悉く自分自身が造るのである。

自分が環境や条件の主人公であるのである。

            <感謝合掌 平成31年1月11日 頓首再拝>

「本物の自己」 - 伝統

2019/03/08 (Fri) 04:50:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 平成31年3月8日 頓首再拝>

《五官の奴隷になってはならぬ》 - 伝統

2019/04/02 (Tue) 04:27:30


       *『 生長の家 』(昭和24年3月20日の法語)より

   一体、人生を 「 享楽(きょうらく)する 」 とは
   如何なることであるか。

   真に神から与えられたる天分を享(う)け楽しみ、
   それを伸ばして行く喜びこそ
   本当に 「 人生を享楽する 」 ことである。

   徒(いたずら)に官能の喜びに魅惑され
   自分の天分を遂行し得べきエネルギーを浪費してしまうのは、
   人生を享楽することではなく、人生を浪費することである。

   それは人間が五官を支配するのではなくして、
   五官の奴隷になることである。

   いやしくもこの世界に於て、群をぬいて、
   神の子の完全なる姿を実現せんとするものは、
   五官の奴隷になってはならぬ。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/85b12df2e85c7c6a75e0cd30e10a5f61

            <感謝合掌 平成31年4月2日 頓首再拝>

《自己に宿る“善き人”を喚び出すこと》 - 伝統

2019/04/20 (Sat) 00:52:26


        *『人生の秘訣365章』第3篇(P85~86) より

すべての人の中には“善き人”が宿っているのである。
その“善き人”を佛教では「佛性」と言い、
キリスト教では“内在のキリスト”又は“神の子”と言うのである。

それはすべての人々の内に宿る“永遠に消えざる光”なのである。

その“永遠に消えざる光”を晦まさない限りは、人間は幸福であるのである。
その光に対して眼をとじて、他(た)の誘惑に眼を転ずるとき、
光はあれども人生が暗黒となるのである。

若し難問題が起ったならば、
光に眼を向けなかった結果、躓いたのであるから、
光に心を転ずるようにすればよいのである。

「神の無限の智慧の光、われに流れ入りて、わが人生を照らし給う。
われは常に神の智慧に導かれてもっとも幸福となる道を歩むのである」

と念ずるがよいのである。また

「われは“神の子”である。
神の子には無限の善き智慧が宿っているのである。
どんな問題でも必ず其の智慧の光が解決して下さるのである」

と念じて、自己に宿る“善き人”を喚び出すがよい。

            <感謝合掌 平成31年4月20日 頓首再拝>

《自己の煩悩を克服する者が真の勇者である》 - 伝統

2019/05/08 (Wed) 04:06:43


       *『 生長の家 』(昭和24年3月21日の法語)より

   奴隷は主人になることはできぬ。
   いわんや神の子たる資格はない。

   まず 「 自己 」 の煩悩を克服するもののみが
   真の勇者であり、勝利者である。

   この世に於て、なすあらんと欲する者は、
   その目標を定めて 吾 必ず これをなさんと決意せよ。

   而してその目標に到達せんがための邪魔物になるすべてのものを
   勇敢に切りすてねばならないのである。

   まず第一にその目標到達の障礙物になるものは、
   健康の法則にそむく所の凡ゆる不規則なる生活である。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2e7878132963d2752305f67c4761ed4f

            <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

《自分は画家、環境は画布である》 - 伝統

2019/06/09 (Sun) 03:32:34


        *『 生長の家 』(昭和25年4月13日の法語)より 

   吾は 神の生命の自己実現の中心である。

   吾々の周囲に自分を妨げる様に現われている所の事物は、
   決して自分を妨げるためにあるのではなく、
   それは画家のカンバスが画家の前に現われて 画家をして美しき絵を
   その上に描かしめんがためにあるのと同じことである。

   吾々は自分の前に立ちふさがるすべてのものを 自分を表現する所の
   カンバスであると思って 感謝すればいいのである。

   自分の心が美しくなれば そのカンバスには美しき境遇が描かれ、
   自分の心が豊かになれば 豊かなる境遇が描かれるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13804727.html

            <感謝合掌 令和元年6月9日 頓首再拝>

《相手に従う者が相手を支配する》 - 伝統

2019/06/30 (Sun) 04:17:15


         *『 生長の家 』(昭和25年4月15日の法語)より

   人間が現在のように環境を支配することができたのは
   環境に対して その他の生物よりも適性をもっていたからであるのである。

   適性をもつということは
   自分が すなおに相手に従って適して行くということである。

   即(すなわ)ち
   すなおに相手に対して従うもののみが 相手を支配し得る実例である。


   喬木(きょうぼく)は 風に弱く、柳の枝は 風に折れないのである。
   かたいものが弱く、軟いものが強いのである。

   悪に抗せず、環境に逆わず、そのまますなおに
   凡(あら)ゆる環境に従い乍(なが)ら、
   その環境が与うる所のよきものを吸収する時、
   その人は 遂に環境を支配して主人公となるのである。


   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817799.html

            <感謝合掌 令和元年6月30日 頓首再拝>

王様ともう一人の玉様 というお話 - 伝統

2019/07/20 (Sat) 04:13:15


      *Web より


王様=意識、自分。

王様が、命令する。

妄想して
ステキな世界を見て
命令する。

つまり、想像する。
想像主。


で、もう一人、自分の中にいらっしゃる

玉様=創造主。


多くの人は
自分を王だとも思ってないし
想像主を使いこなしてないし


玉様という創造主がいるのも知らんし、


想像主とも知らないし
王だとも思ってないから
命令を無意識で、変な方向にして


例えば貧乏になりたくないとかね、

否定形はそのまま創造されたり
他人の悪口も、自分に創造される。


もうすでに自分の中にいることに気づくだけ、使いこなして遊ぶだけかな。

            <感謝合掌 令和元年7月20日 頓首再拝>

あなたはその両方だ - 伝統

2019/08/06 (Tue) 04:31:00


        *Web:かんながら(2019年05月31日)


僕の活動と、伝えたいことの全ては、たったひとつの真実に基づいています。

存在には変わり続けるものと、決して変わらないものの両側面があるということです。


変わり続けるものとは、
我々が現象界とか物質界とか呼んでいるこの次元にあるものすべてです。


一方決して変わらないものとは、我々の本質である所の空(くう)の次元です。
空を、純粋意識と呼ぶこともできます。


大抵の人の人生は変わり続けるものの中だけで終わってしまいます。

そこには根っこがなく、
何かから切り離されている不安感と孤独感が根底に流れ、
多くの摩擦を生きることになります。


空(くう)の発見とともに、人は心の荷物をすっかり下ろします。

本当の自分は、生まれることも死ぬこともなく、
いつもいまここに永遠に存在していたことに気づくのです。


この発見は突然偶発的に起きることもありますが、
少しずつ理解が深まっていくこともあります。

まずはこの空(くう)こそが本当の自分だと知ることです。


このブログでも多くのページを、空の解説に使ってきました。

大昔から伝えられてきたメッセージではありますが、
今の言葉で今の人たちにダイレクトに語りかけることは可能だと思っています。

複雑な社会でストレスを抱える現代人にも、
空の発見は根本からの救いになることができます


あなたはその両方だ

そして大切なのはここからです。

空の次元を知った後、どのように生きるのか。

空を知ったからこそ使えるメソッドもあります。

その一つが引き寄せの法則ですが、
引き寄せについては誤ったイメージを持つ人も多く、
そのあたりから壊していけたらと思います。

(中略)

自分が生きたい人生に素直になって、思い通りに生きていく。

やりたいことがあればやり、欲しいものがあれば手に入れていく。


その方法もチャンスもいつだって用意されていて、
なにより自分はどんな現実でも自由自在に創りだせる宇宙の王だということ。


巨大な神エネルギーを、小さな瓶の中に詰めてしまった。

それが僕たちなのかもしれませんね。


神パワー!炸裂!!

     (https://abetoshiro.ti-da.net/e11122229.html )

            <感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝>

いっさいの原因を自分自身に帰する - 伝統

2019/08/12 (Mon) 04:33:07


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月12日)より

列車に乗ってその列車が転覆したからといって、
その列車に乗せた駅員が悪いのではない。

転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身に
その列車に乗るようになっている「心」があったからである。

「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、
他を憎んだり恨んだりするものではない。
自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。

列車に乗って不慮の災難に逢うことも、人の口車に乗って不幸に陥ったり
物事が失敗に終わるということも、「乗る」のは、
自分がその乗物に引きつけられて乗ったのだから、
自分自身の「心」の中に原因があるのである。

他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、
要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者のことである。

人間は強くなるにしたがって、いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、衆生の一人でもまだ苦しんでいる者があると
自分自身の責任だと感ずるものである。

世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、
わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。

         <感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>

人が創造者になる時 - 伝統

2019/08/25 (Sun) 04:11:05


        *Web:かんながら(2019年07月20日)より

人生に困難なことが続くと、
まるで人生自体が何かの試練のような気がしてきます。

壁を乗り越えて、
強い自分になれるかを試されているような気になります。

だとすると人生はあまりにも強制的で、
我々は大いなる存在が与えた試練に向かって生きるしかなくなってしまいます。

私たちは本当に試されているのでしょうか。

どこかで誰かが、この生き方をジャッジしているのでしょうか。


いえいえ、そんな事はありません。

困難な出来事を作ったのも自分自身であり、
自分以外は誰も存在せず、何から何まで全ては自分の作品なのです。

もしこの真実を受け入れることができたら、
その時あなたは本当の自分を思い出したことになります。

自分こそが創造者であり、大いなる存在だということを認めたのです。



もしそうでなければ、我々は出来事の被害者であり、
気まぐれな出来事の風次第で幸せ不幸せが決まっていく
無力な存在になってしまいます。

世の中を見てみると、
極めて多くの人がこのような人生観を根底に抱えているようです。


真実は、

あなたが創造者であり、

あなたが宇宙の主です。


真実の自分を忘れてしまう忘却のゲームを自分に仕掛けることで、
至上の喜びを探し求め、新しく何かを創造し、自らを拡大させるために、
まさにいまも、そうやってそこにいるのです。


まずは己の絶対的価値を思い出すことです。
あなたという存在は、あなたが考えているよりも、
億万倍すごい存在なのだから。

努力してその存在になろうという話ではありません。
最初からずっと、もちろんいまも「それ」だと言っています。

この真実を認めた時から、
人は初めて引き寄せの法則(創造の法則)を意図的に使い始めるのでしょう。

そうやって創造の人生が始まっていくのです。


ほらほら、昨日も言ったでしょ。

だからと言って力まなくてもいいんですよ。

    ( https://abetoshiro.ti-da.net/e11192474.html )

            <感謝合掌 令和元年8月25日 頓首再拝>

【変えてゆく主人公は私】 - 伝統

2019/09/10 (Tue) 04:43:08


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.08.4)より


   (正法寺住職、愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の心に響く言葉より…)

   京都駅で拾ったタクシーの運転手が語りかけてきました。

   「ご出家さんですね。お話をさせていただいてもよろしゅうございますか」と。

   「どうぞ」と私は答えました。


   「私は高校3年生の3学期に両親を亡くしました。

   町会で河豚(ふぐ)を食べに行き、
   その毒にあたって一晩で亡くなりました。

   いつもなら母親が早く起きてお弁当を作ってくださるはずなのに、
   いつまで経っても音一つしないので、“おかしいなあ?”と思って、
   両親の部屋の戸を開けてみました。

   二人ともさんざん苦しんだあとを止めて息が絶えておりました。


   驚いて電話に走り、親戚の者が駆けつけて葬式は出してくれました。

   借金はありませんでしたが、一銭の貯えもありませんでした。

   私の下に5歳の妹がおりました。

   父が出征しておりましたから、年はなれて妹ができた訳です。

   高校3年の私と5歳の妹では家賃がとりたてられないであろう
   というので、家主が追い出した。

   私は5歳の妹を連れ、最小限度の荷物を持ち、
   安い6畳一部屋を借りて出ました。


   両親に代わって妹を育てなきゃならないと思って、
   私は夢中になって働きました。

   朝は新聞配達、昼は勤め、夜はアルバイトとメチャクチャ働いて、
   二十二、三歳のときには、安いアパートを買うほどの金は作りました。

   その間、私は働くことしか考えていませんでしたから、
   洗濯も炊事も掃除も何もしませんでした。

   5歳の妹がしたことになります。


   妹に勉強机の一つも買ってやりたかったのですが、
   6畳一部屋に食卓と勉強机と2つおくと寝るところがなくなるから、
   妹はかわいそうだけれど食卓を勉強机に兼ねてもらいました。

   狭い家で育ったから妹は整理の名人になり、
   今大きな家にご縁をいただいておりますが、
   きれいに整頓されております。


   考えてみましたら私なんか、もし両親が元気でいてくれたら、
   今ごろ暴走族か突っ張り族か、
   ろくな人間にしかなっていなかったと思います。

   もし両親が死んでくれても、金を残してくれたら今の私はなく、
   また妹がいなかったら淋しくでぐれていたでしょう。


   両親はいない、金はない、幼い妹がいる。

   私は本気にならざるを得ませんでした。

   私を本気にしてくれ、一人前の大人にしてくれ、
   男にしてくれたのは、両親が死んでくれたお陰、
 
   金を残してくれなかったお陰、
   家主が追い出してくれたお陰、
   幼い妹をつけてくれたお陰と思い、
 
   毎日両親の位牌(いはい)に感謝の線香をあげております。

   何もかも私を一人前の大人にするためのおはからい
   と感謝しております。


   ただ一つ、妹がよいご縁をいただいて
   花嫁衣裳を着たときは泣けました。

   両親に見せたかった。

   それで私は一つだけ頼んでいることがあるのです。

   “自分の子供が一人前になるまでは命をください”と」


   わずか30分ほどの間の話でしたが、
   どんな立派な方の話よりもすばらしい話を聞くことができ、
   心から「ありがとう」といって車を降りました。



   お釈迦さまは、この世の中には4種類の人がある、と説かれました。

   「闇から闇へゆく人、闇から光へゆく人、
    光から闇へゆく人、光から光へゆく人」と。


   人生の幸、不幸を、
   光とか闇という言葉で表現することができるでしょう。

   一般的にいって闇としか思えないことを、

   両親が死んでくれたお陰、
   金を残してくれなかったお陰、
   家主が追い出してくれたお陰、
   幼い妹をつけてくれたお陰で、
 
   本気になれた、一人前の大人になれた、と
   全部「幸い」と受けとめ、光へと転じているよい例といえましょう。


   この4種類の人の話から2つの教えを学ぶことができる、と、
   唯識学の泰斗の太田久紀先生は語ります。

   一つは「人生、変えてゆくことができる」ということ。

   ただし闇から光へと変えるのはよいが、
   光から闇へは変えたくありません。
 

   二つめは「変えてゆく主人公は私であり、
   その私の今日只今をどう生きるかにかかる」ということです。

   親子、兄弟、夫婦、どこかに代わってもらえるような
   甘えがありますが、人生は絶対に代わってもらうことも
   助けてもらうこともできません。

   私の人生をどう築きあげてゆくか、
   どう変えてゆくかの主人公は私でしかないのです。

   心して自分自分の人生を光あるものへと転じてゆきたいと思います。

          <『泥があるから、花は咲く』幻冬舎>

           ・・・

松下幸之助氏の有名な話がある。

『家が貧しかったために、丁稚(でっち)奉公に出されたけれど、
 そのおかげで幼いうちから商人としてのしつけを受け、
 世の辛酸を多少なりとも味わうことができた。

 生来体が弱かったがために、
 人に頼んで仕事をしてもらうことを覚えた。

 学歴がなかったので、常に人に教えを請うことができた。

 あるいは何度かの九死に一生を得た経験を通じて、
 自分の強運を信じることができた。』

                  (人生心得帖)より


貧しかったから、身体が弱かったから、学歴がなかったから、
九死に一生を得た経験があるから、自分は運がよかった、と。

100人いれば100人ともが、
悲惨だ、不運だと思えるようなことに対しても、

「そのお陰で今の自分がある、ありがたい」

とお陰さまと感謝の気持ちで生きている人は、
とてつもなく徳を積んでいる。


生まれながらにして豊かな人は、その幸せに気づかない人が多い。

だから、少しでもそれが不足すると、
不平不満や愚痴、泣き言が出てしまう。


今ある幸せに感謝できるのか、
不足しているものをあげつらい文句を言うのか。

「変えてゆく主人公は私」と思い定め、
人生を、お陰さまと感謝の気持ちで生きてゆきたい。

            <感謝合掌 令和元年9月10日 頓首再拝>

自己が自己の主人公となる - 伝統

2019/10/15 (Tue) 03:30:41


     *『生命の實相』幸福篇下 第三十八巻(10月15日)より

自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。

自分の想念が癒されるまでは、
人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。

むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、
覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。

しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、
薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、
薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。

それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、
薬剤の奴隷状態となってしまうのである。

真に人間が苦痛から解放されるためには、
人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。

           <感謝合掌 令和元年10月15日 頓首再拝>

「本当の汝」を呼び戻せ! - 伝統

2019/11/04 (Mon) 04:41:48


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より

なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。

真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。

本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をして
なんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。

なんじの物質精神を嘆け。

「本当の汝」はいずこにいるぞ。

それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。

いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。

「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。

           <感謝合掌 令和元年11月4日 頓首再拝>

自分が自分の環境の中心者 - 伝統

2019/12/06 (Fri) 04:47:46


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より

自分が自分の環境の中心者とならなければならない。

周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。

周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。
まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、周囲がなんじを屈従せしめるのである。

奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。

素直に周囲の事情を感受するすることは、周囲を支配する王者となる道である。
噛みしめればどんなものにも味が出る。

周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、
周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。

            <感謝合掌 令和元年12月6日 頓首再拝>

正しい信仰とは 「天上天下唯我独尊」 の自覚 - 伝統

2019/12/29 (Sun) 04:22:15

 
           *『生長の家』(昭和44年12月号)より

正しい信仰というものは、釈尊が尼蓮禅河畔で迷いを去って悟りをひらかれた時のように、 
「天上天下唯我独尊」 と知ることであり、

キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り 
「われ神の子」 と宣言されたように、

あなたも亦、 「われ神の子、天上天下唯我独尊」 と悟ることなのである。

この 「天上天下唯我独尊」 の自覚は、決して利己主義でも個人主義でもないのである。 
自己 〈自個〉 の内に “独尊” の絶対価値をみとめるとき、
はじめて “他個” の中にもある “独尊” の絶対価値を見ることが出来るのである。

自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、
どうして “他個” のうちに絶対価値をみとめて、
それを礼拝することができるであろうか。

「天上天下唯我独尊」 の自覚は、 
「有情・非情同時成道」 の悟りに連なるのである。 

自分だけが “独尊” であって、他のものは悉く自分より下等なものである
というような “自己” 中心的な “他個” 軽蔑的なものの考え方は
凡そ悟りから遠いものなのである。

“有情” 即ち “情(こころ)あるもの” も、 
“非情” 即ち “情(こころ)なきもの”〈無機物〉 に至るまで悉く、 
同時に “道” の現成であるということが 「有情・非情同時成道」 である。

“道(コトバ)” は天地に満つる “法” であり、
「太始(はじめ)に道(コトバ)あり」 〈ヨハネ伝」 の  “道(コトバ)” であり、 
“仏性” であり、 “法身の如来” であり、天地の理法であり、“神” である。

かくして有情・非情を “法身の如来” がそこに姿を顕わされたものである
として見るとき、天上天下唯我独尊の自覚は、何処にも傲慢のかげもなく、
その独尊の絶対価値を天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。

万物に内在する絶対価値を見出すには、浮雲のように去来する現象の不調和な姿に、
心を引っかからせてはならないのである。 

浮動変化して常なき有様が ―― 時には現象の表面に不完全な様相をあらわすような事が
あっても、それは唯、外見であって、内には完全円満な “如来” を蔵するものである。

その内に埋没せる “如来” は、外面の不完全さのみを見ていては現れて来ないのである。 
どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
実相の完全さを見るとき、それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、 
“内在の如来” の完全さがあらわれて来るのである。

    ( https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18604961.html 消滅)

            <感謝合掌 令和元年12月29日 頓首再拝>

《すべての人間は「王」である》 - 伝統

2020/02/27 (Thu) 02:36:46


      *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P119) より

自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己の宿る普遍者、自己に宿る無限者、
有限の内に宿る無限なる者、相対者の如くあらわれている絶対者、
現象のあらわれている奥にある超越者、今このままに久遠なる者、
有限即無限、個性即普遍

――それが私であり、あなたであり、一切の人々である。
それを自覚するとき相互礼拝が自然に行われるようになるのである。

自己を単に物質的存在たる肉体だと観る限りに於て、
人間は「制約」から超越することはできない。
即ち自由を完全に享受することができないのである。

その制約から超越して自由を得るためには、「真理は汝を自由ならしめん」と
イエスが言ったように、真理を知らなければならないのである。

「真理とは何ぞや」とピラトがイエスに訊いたとき、
イエスは黙然として答えなかったが、

ピラトが再び「汝は王なるか」と訊いたときに、
イエスは、「汝が言えるが如し」と答えているのである。

王とは「神聖にして犯すべかざる絶対者だ」と云う意味である。

すべての人間は法制上では王ではないけれども、
宗教的意味に於ては王であり、絶対の自由者であるのである。
これが真理なのである。

この真理を知るとき何人も本当の自由を得るのである。

            <感謝合掌 令和2年2月27日 頓首再拝>

人間は環境にも遺伝にも支配されない - 伝統

2020/03/05 (Thu) 03:49:05


           *「光明法語」(3月5日)より

人間は環境に支配されると言うが、真の環境は自分自身の想念である。
人間は自己選択の自由に与えられているのであって、如何なる環境からでも、
自分の想念によって其の波長に合うものだけを吸収するのである。

縦には無限の遺伝の中から、自分の想念に合うものだけを表現するのである。
人間の遺伝を遡(さかのぼ)れば神に達するのであるから、吾らは中間の遺伝を無視して、
神に波長を合わせさえしたら、神の完全さが今此処に実現するのである。

神に波長を合わすのが神想観である。

            <感謝合掌 令和2年3月5日 頓首再拝>

随所作主の生活 - 伝統

2020/03/21 (Sat) 06:52:15


        *『明窓浄机』「戦後篇」(P21)より

或る女中は便所の床を掃除することに屈辱と自卑を感じたと告白した。

私は其の女中に「僕は貴女の便所を汲んで畑に肥料を施し、
その結果出来た野菜を貴方に献げているのですが、
貴女はそれに礼も云わずに食べているのですよ」と云ったことがある。

同じ労働でもみずから権利として行う《それ》は自主的であるから苦痛を感じないが、
強制されたと《思って》なせば苦痛を感ずるのである。

苦楽は心のうちにあるのである。

随所作主の生活――即ち至る所で何をしても主人公になれる人間でなければ
真の民主主義者ではない。

            <感謝合掌 令和2年3月21日 頓首再拝>

《「天上天下唯我独尊」の意味と自覚 》 - 伝統

2020/04/10 (Fri) 02:50:32


       *『光の泉』(昭和33年4月号)より 

   人間というものは、“オギァー”と産まれた時に、生じて来たものであると、
   こう思っている限りには、“死すべきところのもの”なのであります。 
   生じたものは滅しなければならないというのが、自然の法則であります。

   だから吾々が“死なない道”を発見しようと思ったならば
   “生れない道”というものを発見しなければならないわけであります。

   その “生れない道” を釈尊が発見されたのが 「生すでに尽きたり」 であります。 
   その時に 『天上天下唯我独尊』 と言われた。

   『天上天下唯我独尊』 というのは、
   わしが一番偉くなって他の奴は皆馬鹿だという意味ではないのであります。

   それは、総ての時間空間の、そういう束縛の世界から解放されて了って
   何物にも縛られない完全自由のものになったのだから、 

   『天上天下何物も私を縛るものがない、実に素晴らしき尊い存在が私である』 
   のであるということをお悟りになって、その境地を 『天上天下唯我独尊』 という語で
   表現なさったわけであります。

   その語を自分だけの 『独尊』 という意味にとるといけません。

   キリストでも 『自分は神の子の一人子』 と言って居りますけれども、
   一人という名辞がついているから、キリストだけが “神の子” で、
   他の人は皆「罪人」 だといわれているように思う人もあるかも知れませんけれども、
   そうじゃないのであります。

   釈尊が 『独尊』 と言われたその一人というのも矢張り決して 
   “わたしひとりだけが尊い” というのでは決してないのであります。

   『人間は神の子であって、総ての人間が尊い』 という自覚のお持ちになった上での、
   その『一人』は、結局生きとし生ける者を蔽い包んで居るところの 
   『全体者』 としての自覚ですから、釈尊の 『独尊』 ということも、

   キリストの 『神の一人子』 ということも、自分だけが一人尊い
   ということじゃないのであって、自分が一切のものである。 

   自分が悟れば一切が悟るというような自他包容の 『独尊』 の自覚であります。

   だから釈尊が悟りを開かれた時に、
   『山川草木国土悉皆成仏』 とこう仰せられたのであります。 
   山も川も草も木も、国土も、悉皆、悉くみな “成れる仏” であるというのであります。

   『独尊』 といわれたのだから 『一人だけ尊い』 のかと思ったら、そうじゃないのであって、
   万物が皆 “成れる仏” であるという自覚があります。 
   これが本当の 『独尊』 の自覚であります。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19577838.html 消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月10日 頓首再拝>

《相手に従う者が相手を支配する》 - 伝統

2020/04/15 (Wed) 04:29:44


       *『 生長の家 』(昭和25年4月15日の法語)より 

   人間が現在のように環境を支配することができたのは
   環境に対して その他の生物よりも適性をもっていたからであるのである。

   適性をもつということは
   自分が すなおに相手に従って適して行くということである。

   即(すなわ)ち
   すなおに相手に対して従うもののみが 相手を支配し得る実例である。


   喬木(きょうぼく)は 風に弱く、柳の枝は 風に折れないのである。
   かたいものが弱く、軟いものが強いのである。

   悪に抗せず、環境に逆わず、そのまますなおに
   凡(あら)ゆる環境に従い乍(なが)ら、
   その環境が与うる所のよきものを吸収する時、
   その人は 遂に環境を支配して主人公となるのである。


   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817799.html (消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月15日 頓首再拝>

《“ 霊 ” と “ 心 ” と “ 肉体 ” と》 - 伝統

2020/05/01 (Fri) 04:50:17


         *『 生長の家 』(昭和46年3月22日の法語)より

   人間が“神の子”であるということは、神は“霊”であるから、
   人間は“霊”であるということである。

   “霊”と“心”とをひとつに考えて、“心霊”と熟語する場合もあるけれども、
   “心”は“霊”の謂わば“道具”であり、触手であり、
   それは恰も、蜘蛛(くも)が自分の本体から吐き出した糸みたいなものである。

   それによって外界を捕捉するのである。

   そしてそれが何であるかを知り、更に“心”のはたらきが具体化して、
   肉体という一層固形的な道具となって外界を捕捉するのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12702694.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年5月1日 頓首再拝>

《自己が自己の運命の創造者である》 - 伝統

2020/06/30 (Tue) 04:48:57


       *『 生長の家 』(昭和32年5月28日の法語)より

あなたの現在の境遇は、あなたの今までの想念感情の集積の具象化です。
あなた自身の現状はあなたの今までの想念感情の集積の具象化です。

あなた自身が如何に《ある》かは
あなたの想念感情が今如何に《ある》かと云うことです。
あなたが《今ある》ところに、あなた自身は今立っているのです。

そしてそれを境遇だとか運命だとか名づけて、
恰も自分の「外部の出来事」が「自分」を強制してあるかの如く
錯覚しているに過ぎません。

たとえば、
「病気はバイキンが侵入して来たので自分は運が悪いのだ」と
考えます。併しバイキンは到る処に存在するのです。

しかもそれに冒される人と冒されない人とがあるのは
その人自身に誘因があるからです。
その誘因とは自己の持つ想念感情です。

最近、発達して来た「精神身体医学」によれば想念感情の変化によって
脳下垂体 → 副腎皮質 → 系統のホルモンの性質や量が変わり、
それによって細菌に対する抵抗力が変化することが
生理学的に明瞭になって来たのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <311~312>に収載)

            <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>

《各人はそれぞれ自己の創作した“天地”に住む》 - 伝統

2020/07/21 (Tue) 04:37:26


        *『 生長の家 』(昭和52年5月8日の法語)より

   創造神による天地創造はこのようにしてコトバによって行なわれたが、
   “人間の住む天地”は神の創造し給える天地の中に、
   人間みずからが心に描いた想念(コトバ・アイディア・発想)が、
   それみずからを具体化してつくられる。
 
   それゆえに、四十億の人類はそれぞれ個性ある“自己の天地”に住むのである。

   それぞれ個性ある“自己の天地”のうちには
   極楽世界をあらわしているものもあるが、
   地獄相をあらわしているものもある。
 
   それらの差別不同は神が人間に課したものではなく、
   人間みずからが、自由意志によって創作顕現した世界である。  
 
   各人は各自の創作した天地に住んでいて、彼らは皆その天地の“主人公”である。

   (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

            <感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>

《受働を転じて主働とせよ》 - 伝統

2020/08/21 (Fri) 04:31:53


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P162~163)より

「悟りの生活」と云うものは、
みずからがみずからの主働者となると云うことである。

キリストの「汝の右の頬を打つ者あらば、左の頬をもめぐらせて打たせよ」
と云う教えは、決して柔弱に手向かう力なく受け身になっておれ
と云う意味ではない。

「汝の右の頬を打つ者」が出て来ただけでは、そこまでは受身(受働)である。
自ら「左の頬をもめぐらせる」ところになって、
受働が主働(主人公としての働き)に変って来るのである。

最早、彼に《打たれる》(受け身)ではなくして、
《みずから打たせる》(主働)のである。

賃金を貰って、仕事は嫌だけれどもやっている状態は、
仕事を賃金でさせられている「受働」である。

賃金以上に働いた部分だけがみずから生きたので「主働」である。

            <感謝合掌 令和2年8月21日 頓首再拝>

「命の炎を燃やして生きる」 - 伝統

2020/09/11 (Fri) 03:33:12


     *メルマガ「致知BOOK」(2020年08月30日)より

「足なし禅師」と呼ばれた禅僧がいた。

小沢道雄師。大正九年生まれ。

幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。

二十歳で召集を受け満州へ。

昭和二十年、二十五歳で敗戦。

シベリアに抑留され強制労働。

だが、肩に受けた銃創が悪化し、
役立たずは不要とばかり無蓋の貨車で
牡丹江の旧日本陸軍病院に後送される。

氷点下四、五十度の酷寒に夏服のままで、
支給された食料は黒パン一個、飲み水もままならず、
3日間を費やした行程で死者が続出した。

小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に冒された。

膝から切断しなければ助からない。

その手術の担当軍医は内科医で外科手術はそれが初めて。

麻酔薬もない。

メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、
小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。

想像を絶する激痛。歯がギリギリ噛み合い、
全身がギシッと軋んで硬直した。

すさまじい痛みは1か月余続いた。

八月に突然の帰国命令。

歩けない者は担架に担がれ、
牡丹江からハルピン、奉天を経て胡廬島まで、
千五百キロを徒歩で行くことになった。

だが、出発して3日目の朝、
目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。

あらん限りの大声で叫んだ。

折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の
開拓団に救われたのは、僥倖というほかはなかった。

崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、
福岡で再手術を受け、故郷相模原の病院に送られた。
母と弟が面会に来た。


「こんな体になって帰ってきました。
 いっそのこと死のうと思いましたが、帰ってきました」


言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、
小さく言った。


「よう帰ってきたなあ」


母と弟が帰ったあと、小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。


懊悩の日は続いた。

気持ちはどうしても死に傾く。

その果てに湧き上がってきた思いがあった。


比べるから苦しむのだ。

比べる元は27年前に生まれたことにある。

27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。

両足切断の姿で今日生まれたのだ。

そうだ、本日たったいま誕生したのだ。

足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、
痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、
生まれてきたのだから、何も言うことなし。

本日ただいま誕生!

深い深い覚悟である。


一、微笑を絶やさない

一、人の話を素直に聞こう

一、親切にしよう

一、絶対に怒らない


小沢師はこの四つを心に決め、58年の生涯を貫いた。

命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。

「主」という字の
「丶」はロウソクの炎。
「王」は台のこと。


自分のいる環境を照らして生きる人のことを、
主という。

命の炎を燃やして生きるとは、
自分が自分の人生の主人公となって生きることである。

            <感謝合掌 令和2年9月11日 頓首再拝>

神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうた - 伝統

2020/10/06 (Tue) 04:38:38


    *「光明道中記」(10月6日《自己解放の日》)より

【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば
 貧乏や不幸はなくなる。    (『生命の實相』第九巻)】

幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある ―― 

斯う云う偶然論者も、彼が経験する生活範囲に於いては
まことにその偶然論者の言う通りである筈である。
何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。

彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、
惨めにも人生に敗退するのは、それは彼のみずから招くところ
ではあるけれども、彼は神が与えた「神の子」の権利を抛棄したものだ
と言わなければならないのである。


神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。

運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。

与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。

吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。

           <感謝合掌 令和2年10月6日 頓首再拝>

自己が自己の主人公となる - 伝統

2020/10/15 (Thu) 04:45:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月15日)より

自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。

自分の想念が癒されるまでは、人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。

むろん一時的な元気回復や、
一時的な健康は、覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。

しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、
薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、
薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。

それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、
薬剤の奴隷状態となってしまうのである。

真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。

           <感謝合掌 令和2年10月15日 頓首再拝>

「本当の汝」を呼び戻せ! - 伝統

2020/11/04 (Wed) 04:57:20


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より

なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。

真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をして
なんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。

「本当の汝」はいずこにいるぞ。

それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。

いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。

「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。

           <感謝合掌 令和2年11月4日 頓首再拝>

自分が自分の環境の中心者 - 伝統

2020/12/06 (Sun) 02:16:44


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より

自分が自分の環境の中心者とならなければならない。

周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。

周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。

まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、
周囲がなんじを屈従せしめるのである。

奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。

素直に周囲の事情を感受するすることは、
周囲を支配する王者となる道である。

噛みしめればどんなものにも味が出る。

周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、
周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。

            <感謝合掌 令和2年12月6日 頓首再拝>

自分が自分の運命の主人公である - 伝統

2020/12/17 (Thu) 04:49:38


        *『 生長の家 』(昭和24年1月8日の法語)より

どこまでも 「 自分 」 というものが主体である。
自分とは如何なるものであるかそれを知ることがまず第一である。

ソクラテスの教の第一は 「 汝自らを知れ 」 ということであった。

釈迦は、自己の本質を自覚せるものを仏(ほとけ)といったのである。

自己自身をまず知らなければならない。

自己とは肉体ではないのである。
肉体はただの物質であって、それ自身は知性がない。
肉体はただ単に霊が操縦するところの道具にすぎない。
それは霊を取り去ったならば間もなく崩壊して無機物になってしまう。

https://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12025014.html (消滅)
http://meikyou123.livedoor.blog/archives/4983082.html

            <感謝合掌 令和2年12月17日 頓首再拝>

環境は自分の思うとおりのものである - 伝統

2020/12/20 (Sun) 05:04:39


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月20日)より

この世はままならぬと思う者には、まことにこの世はままならぬ世界である。
これに反して、この世は思うとおりになる世界だと思う者には、
まことにこの世は思うとおりになる世界である。

環境は人間に支配されると思う者には、環境は人間に支配されるが、
人間は環境に支配されると思う者には、
環境は頑としてその人の上に暴君的力を揮うであろう。

そのこと自身が環境は自分の思うとおりのものであること表している。

            <感謝合掌 令和2年12月20日 頓首再拝>

主人公(神の心、実相心)の前に無条件降伏 - 伝統

2021/01/08 (Fri) 04:20:22


        *「人間無病の原理」(P7~10)より
          『生命の實相』新修版第一巻より再録

宗教の自由が叫ばれ、それが認められるようになってから、
ある種の術を施して病気を治すいわゆる「霊術的宗教」の中には、
意識的なると無意識的なるとを問わず、

一種の催眠術暗示によって信者を永久に自己の奴隷として
屈従せしめてしまってその宗教から脱退することに
恐怖心を感じるに到らしめるものが多いのである。

しかし、かかる宗教は、その名称は「宗教」と云われるが、
一種の「人格侵害」又は「人格の独立蹂躙」を行うのであって、
それが宗教として甘んじてその横行が許されているのは、

その取締当局が「宗教とは、人間内在の神性、仏性を開顕して、
大宇宙の生命と一体なるところの無限性及び自主性を
自覚せしめるものなり」と云う根本定義に想到せず

「医者以外の方法で病気が治るのが宗教だ」とか
「何でも信ずるものが宗教だ」とか漠然と考えているから、
どんな事でも人を信ぜしめて人を集めさえすれば、
そしてその信じた人たちが運営する結社をつくって登記さえすれば、
直ちに宗教法人となると云うのであるから、

あらゆる心霊療法やプラナ療法や催眠術は「宗教」と登記して、
税金をまぬがれたり「信仰は自由なり」の標語の下に
百鬼夜行の現状を呈するようになったのである。

しかし法人は登記によって成立するが、
宗教と云うものは登記によって成立するものではなく、
その内容によって成立するものだと云うことを知らなければならないのである。

 
すべての癒す力は自己に宿る「生命」から来るのであり、他から来るのではない。
他に頼るものは自己を視ないものである。
生命は自己に宿る神であり霊であり、物質ではないのである。

生命はその主観的道具として霊智心を、知性を、感情を、意欲を、
想念を、本能を使用し、客観的道具として肉体を使用するが、
その道具には色々の分限があるのである。

それらのものは道具としてある働きを有するが
「生命」がそれに働く力を与えないときには
それは何の働きをもあらわすことが出来ないのである。

それは主人公から食物を与えられないで
餓死しているシェパードのようなものである。

しかし「生命」がそれに動く力を与えている限りは、
これらの肉体や心はシェパードのように主人公(生命)と
独立した働きをあらわすことが出来る。

 
しかしこれらの「道具」であるところの肉体や想念が、
みずからの独立性のゆえに、主人公(神又は生命)を忘れ、
みずからを主人公の意識に反して動き出すことがあるのであります。

キリストが放蕩息子の例え話をもってしたのは主人公を忘れ、
自分の我の心で勝手なことを想念するこれらの
「道具」のことを述べたのである。

道具が主人公の指導のもとに働かないで
勝手気ままでいる限りは、自滅するほかない。
それが病気である。

すべての道具であるところの「心」及び肉体は
主人公(神の心、実相心)の前に無条件降伏しなければならない。

絶対無条件に従順に神の前にひれ伏してしまうとき病気は治る。
すべての病気は、「道具」であり「従僕」であるところの肉体や、
それを操作する色々の従僕たる「心」が、神(生命)から離れて
自治独立してしまった結果である。

従ってすべての病気は神の前に無条件に降伏し、
神の統治が完全に行われるようになったとき自然に消滅するのである。
それ以外に真に病気の根治する道はないのである。

シェパードがシェパードを呼び、路傍で拾った物質的又は精神療法
と云う食物を互いに分け合っている間は、
主人公から食物を貰わないでも兎も角も生きているように見えるであろうが、
やがては本当に主人公(神生命)から食物(生きる力)を
頂かねば生きられない時が来るのである。

そして主人公に無条件降伏するほかに道がないことを知るのである。

イエスは「しもべは主人の為すことを知らざるなり」と教えているのである。

            <感謝合掌 令和3年1月8日 頓首再拝>

自分は自分の主人公 - 伝統

2021/02/11 (Thu) 04:40:29

 
     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2013-01-19)より

   (東井義雄先生の心に響く言葉より…)

   自分は自分の主人公

   世界でただ一人の自分を創っていく責任者


   九(苦)をのりこえなければ
   100のよろこびはつかめない

   九九を通らなければ
   100のしあわせは得られない


   ほんものと にせものとは
   見えないところのあり方で決まる

   ほんものはつづく
   つづけるとほんものになる

   すべて見える世界は、それの幾層倍もの
   見えない世界にささえられて、そこに存在している


   尊いもの 美しいもの 善なるものも
   みんな謙虚な人のところへ集まってきて
   その人のものとなる

   二度とない人生。二度とない今日ただ今。

   生きているということは

   どんなにすばらしいことなのか
   どんなにただごとではないことなのか

   いちばん身近な人のおかげが見えないようでは
   しあわせにはめぐりあえない

   亀は兎になれない
 
   しかしそのつもりになって努力すれば
   日本一の亀になれる

   君は 君をりっぱにする

   世界でただ一人の責任者なんだね

     <『森信三先生講述 中・高生のための「人間の生き方」-人間学小門-』
      (寺田清一編)親子教育叢書 >

            ・・・

自分の責任者は自分。

だから、失敗も挫折も、不運も、起きてしまったすべての結果は、
人のせいにすることはできない。

自分自身を一個の会社とするなら、自分は社長だ。

全ての決定と、その結果の責任は自分が取らなければならない。


氷山の見える部分は全体の10%に過ぎないという。

これはヒット商品や成長している会社とも似ていて、
見えている部分は華々しいが、実は、見えない部分にこそ
ノウハウや努力の結果が隠れているということになる。


「ほんものはつづく つづけるとほんものになる」

努力の積み重ねなしに、本物に近づくことはできない

・・・

伊勢ー白山 道(2021-01-09)
自分を「主人公」にして、生きているかい?
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/e9426c6db67b1377e322227bc34f3124

            <感謝合掌 令和3年2月11日 頓首再拝>

正しい信仰 ― 天上天下唯我独尊の自覚 - 伝統

2021/03/02 (Tue) 02:58:10


       * 『生長の家(昭和44年12月号)より

正しい信仰というものは、釈尊が尼蓮禅河畔で迷いを去って
悟りのひらかれた時のように 「天上天下唯我独尊」 と知ることであり、

キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り
「われ神の子」 と宣言されたように、

あなたも亦、「われ神の子、天上天下唯我独尊」 と悟ることなのである。


この 「天上天下唯我独尊」 の自覚は、
決して利己主義でも個人主義でもないのである。 

自己〈自個〉の内に “独尊” の絶対価値をみとめるとき、
はじめて “他個” の中にある “独尊” の絶対価値を
見ることができるのである。 

自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、
どうして、“他個” のうちに絶対価値をみとめて、
それを礼拝することができるであろうか。

「天上天下唯我独尊」 の自覚は、
「有情・非情同時成道」 の悟りに連なるのである。 

自分だけが “独尊” であって、他のものは悉く
自分より下等なものであるというような “自己”中心的な 
“他個”軽蔑的なものの考え方は凡そ悟りから遠いものなのである。

“有情” 即ち “情(こころ)あるもの” も、
“非情” 即ち “情なきもの”〈無機物〉 に至るまでも悉く、
同時に “道” の現成であるということが 「有情・非情同時成道」 である。 

“道(コトバ)” は天地に満つる “法(ほう)” であり、 
「太初に道あり」〈ヨハネ伝〉の “道(コトバ)” であり、
“法身の如来” であり、天地の理法であり、 “神” なのである。

かくして有情・非情を “法身の如来” がそこに姿を顕されものである
として見るとき、天上天下唯我独尊の自覚は、何処にも傲慢のかげもなく、
その独尊の絶対価値を天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/mode=res&log=116

            <感謝合掌 令和3年3月2日 頓首再拝>

あなたが人生の主人公 - 伝統

2021/04/07 (Wed) 04:49:15


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年4月3日)より

見晴らしの良い眼下に多くの街並みを見渡せる場所にいくと、
不思議な感銘を受ける事があります。

「見渡す限りの家々の中には、それぞれに人の営みがあって、
 各自が独自の人生を歩んでいる」

という事についてすごいと思うのです

地球には70億人の人間が生きているとされますが、
その一人一人が違った人生を送り、
しかもその人が主役のドラマを演じているのです。

人間はすべての人が主役です。

他の人からすれば、脇役に感じられても、
自分自身にとっては自分が主役のドラマを演じています。

ある人は通勤電車に揺られて会社に出勤し、
ある人はお家で子育てをしています。

またある人は船に乗って荒い海に乗り出し、
ある人は砂漠でオアシスを求めて歩いています。

またある人はスラム街で暮らして飢えに苦しみ、
ある人は戦場で戦っています。

地球に様々な人々が暮らし、
そしてすべての人が主役のドラマが流れているのです。

そのすべてのドラマを観ているのが神様と呼ばれる存在です

私たちが演じているドラマは、
筋書きがすべて決まっているのではなく、
自身の手で変更することも可能です。

自分で別なシナリオに書き換えることも出来るのです。

共に共演する仲間たちも、大切なドラマの構成要素です。

ドラマの中には時には泣いたり落ち込んだりするシーンもあります。

喜びにあふれたり、楽しいシーンだけでは飽きてしまうでしょう。

私たちは何も起こらないようなドラマは退屈して見ていられないはずです。

そのためいろんな出来事が人生には起こりますが、
そのなかで最後には素敵な物語とすべく努力していく事が大切です。

たとえ途中で転んだり、傷ついたとしても、
最後には起き上がり、ドラマを観ていてくれる方が
感動するような人生を生み出していきましょう。

  (https://www.spacebrothers.jp/2021/04/blog-post_3.html

            <感謝合掌 令和3年4月7日 頓首再拝>

《自分は画家、環境は画布である》 - 伝統

2021/04/13 (Tue) 02:13:58


         *『 生長の家 』(昭和25年4月13日の法語)より

   吾は 神の生命の自己実現の中心である。

   吾々の周囲に自分を妨げる様に現われている所の事物は、
   決して自分を妨げるためにあるのではなく、
   それは画家のカンバスが画家の前に現われて 画家をして美しき絵を
   その上に描かしめんがためにあるのと同じことである。

   吾々は自分の前に立ちふさがるすべてのものを 自分を表現する所の
   カンバスであると思って 感謝すればいいのである。

   自分の心が美しくなれば そのカンバスには美しき境遇が描かれ、
   自分の心が豊かになれば 豊かなる境遇が描かれるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13804727.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月13日 頓首再拝>

環境を支配して主人公となる - 伝統

2021/04/16 (Fri) 04:07:32


       *『 生長の家 』(昭和25年4月15日の法語)より
          ~《相手に従う者が相手を支配する》

   人間が現在のように環境を支配することができたのは
   環境に対して その他の生物よりも適性をもっていたからであるのである。

   適性をもつということは
   自分が すなおに相手に従って適して行くということである。

   即(すなわ)ち
   すなおに相手に対して従うもののみが 相手を支配し得る実例である。


   喬木(きょうぼく)は 風に弱く、柳の枝は 風に折れないのである。
   かたいものが弱く、軟いものが強いのである。

   悪に抗せず、環境に逆わず、そのまますなおに
   凡(あら)ゆる環境に従い乍(なが)ら、
   その環境が与うる所のよきものを吸収する時、
   その人は 遂に環境を支配して主人公となるのである。


   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817799.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月16日 頓首再拝>

自分は自分の主人公 - 伝統

2021/06/25 (Fri) 02:53:41


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021-05-24)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   東井義雄(とういよしお)さんは
   明治45年、兵庫県の担東(たんとう)町に生まれた。

   昭和7年、姫路師範学校卒業。
   故郷の小学校に勤務。

   以来、その生涯を小中学生の教育に捧げた人である。


   東井さんは語る。

   人間は5千通りの可能性を持って生まれてくる。

   死刑囚になる可能性も泥棒になる可能性もある。

   その5千通りの可能性から、どんな自分を取り出していくか。


   「世界でただ一人の私を、どんな自分に仕上げていくか。
    その責任者が私であり、皆さん一人ひとりです」


   「バカにはなるまい」…講演の中で東井さんはそう繰り返し、
   一人の知的障害を持った中学生の詩を紹介している。


      私は一本のローソクです

      もえつきてしまうまでに

      なにか一ついいことがしたい

      人の心に

      よろこびの灯をともしてからに死にたい


   彼は勉強はできないが、何か一ついいことをしたいと頑張っている。

   これが賢い生徒。


   ところが、少し勉強ができてもバカがいる。

   ある中学生が下校の途中、通せんぼをした保育園の幼児に腹を立て、
   刺殺する事件が起きた。

   一度家に帰って刃物を持って引き返しての犯行。


   なぜ、やめとけとブレーキがきかなんだのか。
   
   彼は自分で自分を人殺しにした…東井さんの涙を流して発した痛憤である。



   木村ひろ子さんは生後間もなく脳性マヒになった。
   
   手足は左足が少し動くだけ。
   ものも言えない。

   しかも3歳で父が、13歳で母が亡くなった。

   小学校にも中学校にも行けなかった。

   わずかに動く左足に鉛筆を挟んで、母に字を習った。

   彼女の詠んだ短歌がある。

   『不就学(ふしゅうがく)なげかず左足に辞書めくり漢字暗記す雨の一日を』


   左足で米をといでご飯を炊き、
   墨をすって絵を描き、その絵を売って生計を立てた。

   自分のためにだけ生きるなら芋虫も同じと、
   絵の収入から毎月身体の不自由な人のために寄付をした。

   彼女はいう。

   「わたしのような女は、脳性マヒにかからなかったら、
    生きるということのただごとでない尊さを知らずにすごしたであろうに、
    脳性マヒにかかったおかげさまで、生きるということが、
    どんなにすばらしいことかを、知らしていただきました」




   私たちは眠っている間も息をしている。
   心臓の鼓動も自分が動かしているわけではない。

   死ぬほど辛いことがあっても、
   胸に手を当てた時、ドキドキしていたら、
   「辛かろうが、しっかり生きてくれよ」と
   仏さまの願いが働いていてくれる、と考え直してほしい。


   願われて生きている自分であることを忘れないでほしい

      …東井さんがすべての人に託した心願である。


   最後に、東井さんの言葉をもう一つ。

   「自分は自分の主人公、世界でただひとりの自分を創っていく責任者」

     <『小さな人生論・4 (小さな人生論シリーズ)』致知出版社>

             ・・・

五体満足なのに、人を殺めたり犯罪を犯す者がいる。

反対に、目が見えず、耳がきこえず、話せないという
三重苦のヘレン・ケラーのように感謝の心を持って、
他人のために生きた人もいる。

彼女はこう語っている。

「私は自分の障害に感謝しています。
 自分を見出し、生涯の仕事に出会えたのもこの障害のおかげだからです。」


「人生がもっとも面白くなるのは、他人のために生きている時です。」


「悲しみと苦痛は、やがて人のために尽くす心という
 美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。
 心を優しく持ち、耐え抜くことを学びましょう。」


「自分は自分の主人公、世界でただひとりの自分を創っていく責任者」


どんな境遇にあっても、
目の前にいる人を大事にし、感謝の心で生きる人でありたい。

            <感謝合掌 令和3年6月25日 頓首再拝>

多くの人が本来の自己より低い状態にいる理由 - 伝統

2021/08/12 (Thu) 04:52:02


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年8月10日)より

多くの人が、本人の持っている可能性よりも、
ずっと低い状態にい続けています。

本来であればもっと高い次元にある人が、
低次に囚われて暮らしているのです。

これを読んでいるあなたもそうかも知れません。

本来の可能性の扉を閉ざして、
低い次元にい続けているのではないでしょうか?

その理由は、本来の自分を魂の中に閉じ込めていて、
他人の価値観や尺度や考え方、命令や指示に囚われているからです。

外からメガネを渡され、それをかけてずっと生きているのです。

その与えられたメガネをかけていると、
周囲から浮いてしまわなくて済みますが、
幾つかの色が失われていってしまいます。

赤が見えなくなったと思っていたら、
次第に青色も見えなくなってきます。

お花の美しさも、空の青さも次第に色あせて感じてきます。

そのメガネをかけて、世界を表現しようと筆を取っても、
ほんとうの能力を発揮できないでしょう。

なぜなら本当の世界の色とは失われている部分があるからです。

あなたが世間の価値観や考え方に迎合するのも、
このメガネをかけているようなもので、
周りから奇異の目で見られないで済むかも知れませんが、
本来の才能は発揮できないのです。

世界に向けて自身を発揮したかったら、
もっと自分自身でいなくてはいけません。

自分の中にある崇高な部分、
仏性や神性と言われている部分に忠実であるべきです。

周りの人は参考になる意見を言ってくれますが、
本来の自分を発揮するためには、
時には足を引っ張るものにもなります。

            <感謝合掌 令和3年8月12日 頓首再拝>

【 責任を自己にもとめよ 】 - 伝統

2021/09/10 (Fri) 04:57:05


         *『生長の家』(昭和25年8月6日の法語)より

神の子とは 責任を最も多く自覚する者のことである。

神が一切万事を造りたまう如(ごと)く、
人間も一切万事を自分の身辺につくるのであるから、
自分の運命も環境も 結局 自分の責任なのである。

その責任の所在を明らかにしないで、人が悪いと思っている間は、
原因を誤った点に求めているのであるから原因を正しくする事が出来ないで、
いつまでも不幸や災難や病気が伴って来るのである。

人生は 類は類を招(よ)ぶ法則によって支配されているのであるから、
不幸を心に描いて呟(つぶや)いている様では、
不幸は次から次へと出て来るのである。

            <感謝合掌 令和3年9月10日 頓首再拝>

人間は運命の主人公である - 伝統

2021/10/06 (Wed) 04:53:56


    *「光明道中記」(10月6日《自己解放の日》)より

【貧乏や不幸がなくとも
 霊魂が進化し得るような状態になれば貧乏や不幸はなくなる。
                  (『生命の實相』第九巻)】

幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。

神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある
 ―― 斯う云う偶然論者も、彼が経験する生活範囲に於いては
まことにその偶然論者の言う通りである筈である。

何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。

彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、惨めにも
人生に敗退するのは、それは彼のみずから招くところではあるけれども、
彼は神が与えた「神の子」の権利を抛棄したものだ
と言わなければならないのである。

神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。

運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。

与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。

吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。

           <感謝合掌 令和3年10月6日 頓首再拝>

自己が自己の主人公となる - 伝統

2021/10/15 (Fri) 05:02:53


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月15日))より

自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。

自分の想念が癒されるまでは、人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。
むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。

しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。

それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、薬剤の奴隷状態となってしまうのである。
真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。

           <感謝合掌 令和3年10月15日 頓首再拝>

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