伝統板・第二

382692
「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

十月の法語 - 伝統

2018/10/01 (Mon) 04:37:02

このスレッドでは、他の掲示板等から、次の5つの法語を紹介してまいります。


(1)『 生長の家 』 昭和十六年十月号法語

   *Web「光明掲示板・第一」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346


(2)『 生長の家 』 昭和二十五年 十月号法語

   *Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85
       

(3)『 生長の家 』 昭和四十六年十月の法語

   *Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32


(4)『 理想世界 』 昭和四十ニ年十月の法語
   *本掲示板(伝統板・第二)内
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7162032

(5)『 理想世界 』 昭和四十七年十月の法語

   *Web「生長の家「本流復活」について考える」からの転載です。
    なお、1日~5日のみの紹介となります。

                ・・・

【一日の法語(10月1日)】

(1)《日本民族の使命を知る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   日本神随(にっぽんかんなが)らの道は、
   宇宙と與(とも)に立つ道である。

   宇宙と與(とも)に立ち、宇宙にミチる精神が、
   そのまま日本民族を通してあらわれたる道である。

   随ってそれは日本民族精神であるとともに宇宙精神である。
   神の‘そのまま’のみこころであり、
   宇宙にミチているから道とも称するのである。

   そこで日本民族が‘そのまま’の心になるとき、
   其処に最も完全に『道』があらわれる。

   それは『神さながらの道』であるから、『神(かん)ながらの道』
   と云うのであるが、同時に日本民族の‘そのまま’の精神であるから、
   日本民族精神とも、また簡単に日本精神とも云うのである。

   論(い)うまでもなく、外国民族にも、その精神はやどっている
   のであるから、‘そのまま’の心になったときには
   外国人でも日本精神は理解出来る。

   単に理解出来るだけではなく、日本精神に成り得るのであり、
   それが理解出来、日本精神に成り得たとき、
   六合(りくごう)一都・八絋一宇の神武天皇様の御理想が
   実現するのである。

・・・

(2)《別時の念仏に就いて》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   静かに坐(ざ)して祈る時間は、恰(あたか)も 「 別時の念仏 」
   のように特に全身全霊を神の方へ振向ける行事として必要である。

   それを神想観というのである。

   或る一定の時間には五官の目を閉じて、
   実相円満の相(すがた)を心に強く感ずることが必要なのである。

   南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と云うのは、
   「 阿弥陀仏と私とは命が一体だ 」 と云う思念である。

・・・

(3)《感謝、到る処に天国を生み出す》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   その人の幸福の大小は、
   その人を取り巻く物質の大小によるのではないのであり、
   その人自身の感謝の感情の大小によって定まるのである。

   それゆえに常に万物に感謝せよ。
   見るもの聞くもの、触れるもの、その悉(ことごと)くに感謝せよ、

   念々 感謝の中から天国は生み出され、浄土は誕生するのである。

・・・

(4)《微笑(ほほえみ)をもって困難を征服せよ》

   避けることの出来ない壁にぶつかったとき、毅然として挫折することなく、
   微笑みをもってこれに対し、勇敢にその壁に攀じ登るものは者は勇者である。

   強き信念と決意の前には、いかなる高き障壁も平かになるのである。

   環境がどうの、条件がどうの、といって
   自己の失敗を弁護するような卑怯者になってはならない。

・・・

(5)《本当の人間は肉体人間ではない》

   (全文は)

    → http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2708

   (抜粋として)

   「わたくしたちが通常「人間」と呼ぶ者・・・つまり食べたり、飲んだり、
   栽培をしたり、取引の 勘定をしたりしている人間は、わたくしたちが
   自覚しているようには、人間そものものを表さず、人間を歪めて表現しているのである。

   そのような肉体人間を私どもは尊敬しない。

   しかしながらその肉体人間が魂の器官となって、その行為を通して、
   内なる魂を表現せしめるならば 、わたしはその前に跪かずにはいられないのである」

   (これはエマソンの「The Over Soul」という エッセイの一節である。)

   明らかにエマソンは「肉体人間」と「本当の人 間」とを区別して、
   飲んだり食ったり田を耕し たり商売勘定をしている「肉体人間」を、
   そのまま「本当の人間」だと思ったら間違いである ということを書いているのである。

   それだから 、私はエマソンを近代における光明思想の幽祖であるといっているのである。
   しかし釈尊は2千数百年前の古代においてそれを説いていられるのである。

・・・

<参考>

(1)『 光明法語<道の巻> 』(十月の法語「神の国の義(ただ)しきを観る」)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=330 
      (光明掲示板・第二)

(2)『 生命の實相 』第三十八巻幸福篇(十月「円満具足」)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=434
      (光明掲示板・第一)                    

(3)『 光明道中記 』(十月の法語「その身まったし」)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=435 
      (光明掲示板・第一)

            <感謝合掌 平成30年10月1日 頓首再拝>

【ニ日の法語(10月2日)】 - 伝統

2018/10/02 (Tue) 03:56:39


(1)《何事にも神々しき心持を持つ日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   日本民族は何事にも神々しき心持を持っていたのである。

   いたるところに神を観たのであって、八百萬神々の思想は、
   その到る処に神を観たところの日本民族の聖なる心の反映である。

   自分が神性を自覚したから、
   萬物にそのまま神性を観ることが出来、
   萬物に八百萬神々を見たのである。

   萬物を神であるとして拝した。
   その四方拝の精神こそ日本精神である。

・・・

(2)《不完全の状態はただ迷いの影である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   迷いの心は、実相完全円満の状態とは全然異る状態を
   空想してつくり上げる。

   吾々の迷いの心は 「 時間空間 」 の銀幕上に、
   始終感覚にて暗示され連想される妄想を描いて
   それをあらわすのである。

   ただ神のみが創造者であるのである。

   それにも拘(かかわ)らず、
   この世界に「悪」が「病気」が現れて出ているのは、
   それは真に実在するのではなく、唯、迷いの心の反映である。

・・・

(3)《感謝している時、天国を製造しているのである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   私たちは眼に見えない多くの物の恩恵に感謝を忘れ勝ちであるのである。

   わたしたちは常にあまりに多くの御恩の中に生かされているので、
   却ってそれを忘れ勝ちであるのである。

   私たちは常に多くの恩恵に取り巻かれ、とり囲まれ、
   それによって生かされていることを思い出して感謝するがよい。

   あなたが感謝の念を起しているとき、
   あなたは天国を製造しつつあるのである。

・・・

(4)《出来る以上の事を為せ》

   「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは葉隠れ武士道の第一カ条であるけれども、
   職責の上に立って、全生命を賭ける勇気と誠心(まごころ)のない者は、
   凡そ何事をやらせても一流の仕事を成し遂げることはできないのである。

   「出来るだけの事をしたんですが・・・・・」というような弁解は
   卑怯者のすることである。

   出来る以上の事を成し遂げるもののみが、
   世の中に傑出して大事を成就する資格があるのである。

・・・

(5)《涅槃経にあらわれたる人間の実相》

   (全文は)

    → http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2710

   (抜粋として)

   涅槃経の ”金剛身品” に、
   金剛不壊の実相身(本当の人間の身)のことが説かれている。

   「如来の身は、現象界の人間や天人のもつ身ではない。
   恐怖によって病気を起こすような身ではない。
   雑食で栄養を摂らなかったら死ぬような身ではない。

   如来の身は ”非身是身(ひしんぜしん)” だ
   (この身に 非らざる身が是こそ実相の身なのだ)

   それは不生不滅だ。習わずして知り、修めずして一切に通達して残すところなく、
   有限の身ではなく無 量無辺にして限りがないから、

   去って去ることなく、来たって来ることなく、
   去来を超えているから足跡もない。

   鳥の飛んだ後の青空にその翼の跡をのこさない如く、
   ”知” という ” 知” はなく、”形” という形はない。

   ”知”があって ”形” を把(つか)めば 汚れるということもあろうが、
   ”知”がなく 、”形” がなく、青空そのもののように
   畢竟 清浄なのが如来の身だ・・・・・・・」

            <感謝合掌 平成30年10月2日 頓首再拝>

【三日の法語(10月3日)】 - 伝統

2018/10/03 (Wed) 03:09:16


(1)《明治天皇の御聖徳を偲び奉る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (全文紹介)


     みる人はなきものにしてしづがやの籬の花は咲きならひけむ


   畏くも此の明治天皇御製の中(うち)にあらわれている
   「しづがやの籬(まがき)の花」の心が日本精神である。

   見られるために何事をも成すのではない。
   すこしも衒うこころもなければ、人に見せびらかす心もない。
   ただありのままに、‘いのち’のありのままに咲いているのである。

   それは、説教するような心でもなく、他に打ち勝ちたい心でもない。
   争う心でもない。絶対が其処にあらわれている。
   刻々瞬々が無限の‘いのち’である。

   明日炉に投げ入れられようと、
   賎(しづ)が屋のまがきの花は『今』絶対生活を生きているのである。
   『今』久遠の生命(いのち)を生きているのである。
   一字不説である。しかも久遠現成(げんじょう)である。
   久遠の生命が『今』現に成就しているのである。


   同じく四十四年の御製に ――


     なつかしき朧月夜のかげふみてたたずむ袖にちる櫻かな


   単に叙景の御歌としてもまことに素晴らしく拝せられるのでありますが、
   『散る櫻』が散る瞬間に『久遠の生命』を生きているのであり、
   その瞬間と久遠との一致、『今』と『久遠』との現成を
   いみじくも捉えたまうて表現したまうたのであります。

 
   この『今』と『久遠』との一致、
   散る一瞬に『久遠なるもの』を見る精神が日本精神なのであります。

・・・

(2)《神癒の根本は愛にある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   神癒の根本原理は「愛」である。神は愛であるからである。

   真理の書を浴びる程読んでも、
   若し自分の心の中に愛の心が喚起されなかったならば、
   それはただ真理の外形だけを掴(つか)んでいることになるのである。

   感謝と云(い)うことも、愛をしみじみ感ずるところから湧(わ)いて
   来るので、神の愛を先(ま)ず感じ、神の子である人類を先ず愛する
   ことから始めよ。

・・・

(3)《全世界に平和をもち来す道》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   心の波はラジオの波のように、
   宇宙空間に迅速(じんそく)にひろがるものであるから、

   あなたの感謝の念が、電波の如く達し得る限り、
   それは、多くの人々の 「 脳髄・受信機 」 に感応し、
   それらの人々の脳髄に感謝の念を起こさしめつつあるのであり、

   従って そこにも亦、
   天国・浄土が製造されつつあることになっているのである。


   そして世界ぜんたいの人間の大部分が
   感謝の念に満たされるようになると、

   全人類が互恵互譲(ごけいごじょう)・相互合掌の心にみたされ、
   全世界に本当の平和がもち来されることになるのである。

・・・

(4)《その場にあって死〇》

   「全員、自己の立てる場にあって死〇。沈着に行動せよ」

   これはパラクラヴァの戦いで、
   第九十三高地部隊を率いるコリン・キャンベル将軍が、
   圧倒的に優勢なるロシアのコサック騎兵部隊に襲撃された時に、
   自己の率いる全部隊に対して発せられた命令である。

   私が言いたいのはパラクラヴァの戦いのことでもなければ、
   コサック騎兵の襲撃を撃退することでもないのである。

   全ての人間は

   「今自己の立てるその場にあって死ぬ覚悟をもって
   全力を出し切らねばならぬ」

   ということである。

   これほどの覚悟があって職務の上に立つものが少ないのを私は嘆くのである。

    (*〇:ね)

・・・

(5)《人間の生命の本質について》

   (全文は)

    → http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2711

   (抜粋として)

   エマソンに於いては、Soul という語を、生命の奥の奥にある
   人間の ”本質” 又は ” 魂” という意味で使っているのである。

   「人間の生命の本質である魂は一つの器官ではなく、
   あらゆる器官を生かし働かせるものであり、
   記憶、判断、比較の力のような一機能ではなくて、

   これらを手足のように使うもの、一能力ではなくて一つの光であり、
   知力または意志ではなくて知力、意志の主であり、
   それらを含む私どもの存在の背景をなすものである。

   つまり、Soul(魂)は何物にも属さない、
   また何物にも所有されることのあり得ない
   無際限のもの である」というのである。

   このエマソンの人間のSoulの無際限を説くところは、
   涅槃経の

   「それは不生不滅だ、習わずして知り、修めずして一切に通達し、
   有限の身 ではなく、無量無辺にして限りがない」

   と説かれているのと同じ意義なのである。

            <感謝合掌 平成30年10月3日 頓首再拝>

【四日の法語(10月4日)】 - 伝統

2018/10/04 (Thu) 04:17:02


(1)《散らないものを把握する日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   花は散る。
   人は現世の船を乗り降りするけれども、
   そこに散らないものがあり、乗り降りしないものがある

   ―― そこに『久遠不滅』のものがあることを悟ることが
   必要なのである。


   明治天皇御製に宣わく
  
     ちる花をのせてかへりぬ渡舟むかひの岸に人はおろして

     さむしとてこもるべしや枝くちし老木のうめも花さきにけり


   人間不老不死である。
   老衰と復古と新生とが『一』になっているところの『生命』を
   把握したまいし御表現にましますのである。

   『老即新生』の把握、死即生の把握が日本精神である。

   日本に於ては『死』は単なる『死』ではない。
   〈随って『死』は無いとも云い得る〉

   『死』することが『生』きることである。

・・・

(2)《神の愛はすべての渾(すべ)て》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   神はすべてのすべてである。
   これが神癒の原理の第二の根本である。

   神は愛であるから、愛の展開としての世界に、
   人間に不幸感を与えるような病気や災難や貧乏が
   存在しようがないのである。

   先ずこれを信ぜよ。「 信 」 が茲(ここ)に必要である。

   神の創造(つく)りたもうた世界に悪が決して存在し得ない
   ことを信ずることが出来るものは、
   神癒の根本原理を把握したものである。

・・・

(3)《わが受けし恩恵のうち最大なるもの》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   私たちは、もっともっと感謝すべきものを
   神から与えられていたのである。

   それは、今、此処に 自分が生きている‘ いのち ’ が、
   神の神聖な‘ いのち ' を与えられている
   という事実であるのである。


   即ち 自分のいのちが
   神のいのちの最高の自己顕現であるということである。

   それを発見したとき 本当に歓喜が充満し、
   手の舞い、足の踏むところを知らず、
   有頂(うちょう)に昇る思いがせずにはいられない筈(はず)である。

・・・

(4)《剣の妙境を生活に生きて》

   「その場にあって〇ね」といわれたとき、「はい!!」と答えて一歩も退かない。

   それが日本精神であり、単なる死の讃美ではなく
   「大死一番大活現前」の剣の妙境である。

   疲れたからブラブラ、遊びたくなったからノラノラ、
   そして一生を半分眠ったような懶けた気持ちで暮らす――

   そんな下らない人間は生涯、
   何の大事も成し遂げ得ない卑怯者であるのである。

       (*〇=死)

・・・

(5)《超越的自己を自覚するために》

   (全文は)

    → http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2713

   (抜粋として)

   わたし達は「本当の自分」ではないところの
   単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、
   肉体が生活している「物質と見えている環境」の有様にのみ

   心を集中して生活している時には、この内在の「本当の自分」
   ―― Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

   しかし或る瞬間―― それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や―― 
   兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみ
   ひたすら心を振り向けた機会に、
   自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。

   そのとき、イエスが
   「われはアブラハムの生まれぬ前 (さき)より在るものなり」
   と自覚された時のような、肉体の年齢や時間を超越して
   実在するところの自分を自覚するのである

   ―― 諸君もそれを自覚するときが 来るのだ―― 
   そのためには毎日怠らずに 神想観を実修するがよい。

            <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝>

【五日の法語(10月5日)】 - 伝統

2018/10/05 (Fri) 04:39:34


(1)《天地一切のものを礼拝する日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (全文紹介)

   『平法は天地神明の発動にして無敵なる者也。
   空々として清霊幽微を感じ明々として不通(つうぜず)と云う所なし。
   其の性を全うして是を行ふに難無し』と山内蓮心翁は云う。

   平法と云いて、兵法と云わざるところに翁の深き慮りがあるのである。
   敵と我と本来一体なることを見極めて、敵なく我なく、
   従って天下無敵なる道を平法と云うのである。

   生長の家の神示に『汝ら天地一切のものと和解せよ。
   天地一切のものと和解が成立するとき、
   天地一切のものは汝の味方である。

   天地一切のものが汝の味方となるとき、
   天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ』
   とあるのと全く同一である。

   全く無我となり、全く我がなくなったとき自然に敵もない、
   敵なく我なき境地が、『空々』の境地である。

   『清霊』は宇宙の清まりたる澄み切りの霊である。

   『空々』の境地に入れば、宇宙の清霊の幽微なる囁きをも感じ、
   天人合一の境地あらわれ、天人互に一体となりて、
   吾が念ずること、そのまま神明の念ずるところと一つである
   から必ず成就するのである。

   何物にも傷けられることがなきゆえに
   『其の性を全うして是を行ふに難なし』である。

   無敵流平法の剣法をただ手先の技と思っている人が多いので、
   『吾が平法の剣術心法の深奥を玩味する人稀にして
   疎かに所作行動を学び得るを本意と思へり。
   其術の奥妙を見る事を待たずして半途にして捨つる人多し。
   宝の山に入りて空しく帰るが如し』と嘆かれている。

・・・

(2)《無きものを無きとせよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   神のみが実在であり、神の世界のみが実在であるから、
   そして神は善であるから、実在の世界に悪は存在しないのである。

   実在の世界に於いては苦痛は存在しないのである。
   病気は存在しないのである。

   迷いの心も存在しないし、苦病を感ずる感覚も存在しない。

   般若心経(はんにゃしんぎょう)の 「 五蘊皆空(ごうんかいくう) 」
   であり、眼耳鼻舌身意無(げんにびぜっしんいなし)である。

   唯(ただ)あるものは実相のみ、彼岸のみ、極楽のみである。

・・・

(3)《黒住教祖の霊的自覚について》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (全文紹介)

   黒住教の教祖・黒住宗忠(くろずみむねただ)は、
   自分の‘ いのち ’ が物質的肉体の朽ち果てるべき‘ いのち ’であり、
   最早、ここ五日しか生きない‘ いのち ’だと
   医師から診断されていたとき、

   自分の‘ いのち ’が肉体の化学作用で生きているのではない、
   天照大御神の御(お)‘ いのち ’が此処に生きているのであるという
   自覚を得ると共に、

   有頂に昇る歓喜法悦にみたされ、一週間は、眠ることもせず、
   ただうれしさに笑いつづけていたが、

   やがてその歓喜が静かなる法悦に変って、気がついてみたら、
   その瀕死の重症であった肺結核が治っていたというのである。


   そして人間のいのちは、「 吾が生くるに非ず、
   天照大御神の御いのちによって生かされているのだ 」 という
   自覚によって自分の重症が癒(い)えたのだという体験を
   人に話(はなし)すると、

   その自覚が他(た)の人に喚(よ)び覚(さま)されて、
   またその人の病気が治るというような体験が次から次へと
   あらわれて来て、

   ついに一大教団をなすということになったのが黒住教なのである。

・・・

(4)《剣の精神は”ハイ”の精神である》

   昭和アルミニューム社長の原田富一氏は、日経新聞の“交遊抄”欄、
   自分が一高に入学して撃剣部に入ったとき、師範席にあって原田氏を指導して
   下さった佐々木保蔵先生の愛情ある指導のことについて述べている。

   「先生の平素の言動にはまことに掬すべきものが多かった。
   ある先輩は『君たち先生の側にいるものは先生の言葉を記録しておくがよい。
   後日必ず得るところはある』と言われたが、
   ついにそれはできず今になって残念に思う。

   先生はよく名前を呼ばれたら即座に『はい』と答えるべきで
   『何ですか』と聞くのは心のわだかまりのある証拠だと言われた。

   また『剣は人の体(たい)を表わす。しかしこっちが鏡にならなければ、
   ほんとうのものは映らない』と言われた。」


   「はい」の精神こそが、純一無雑の、澄み切った日本刀の精神であるのである。

   民主主義と称して、事毎に言挙げして「はい」を失った時、
   天下騒然として治まらないのである。

・・・

(5)《”生命は”常に前向きに前進する》

   (全文は)

    → http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2731

   (抜粋として)

   エマソンは言う。

   「Soul(魂)は じっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し 、
   背後にいくつも世界を捨てていく。

   Soul(魂 )には日付けもなく、儀式もなく、からだもなく、
   専門もなく、人間もないのだ。

   Soul(魂) はSoul(魂)のみを知る。
   森羅万象はSoul(魂 )が包まれている外装に過ぎないのだ。」


   森羅万象は、(それは自分の肉体も引っくるめて)
   Soul(魂)が創造した外皮なのである。

   それは蚕の生命が創造した繭のようなものであり、
   蛇が生長して行く毎に脱皮する“皮”(蛇 の抜け殻)みたいなものである。

   脱け殻は蛇の 一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創造せられ、
   用終わりて棄て去られ消え行くべきものなのである。

   生命は嘗て創造して、用を果したところのものを棄てて行くが、
   ”生命”は死ぬのではなく、常に前向きに前進するのである。

   その”生命”がただの生きる力でなく、叡智を備えた
   普遍的なものであるとみとめたとき 、それをSoul(魂)
   とエマソンは呼んでいるの である。

            <感謝合掌 平成30年10月5日 頓首再拝>

【六日の法語(10月6日)】 - 伝統

2018/10/06 (Sat) 04:40:51


(1)《敵を向うに廻さぬ日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   生長の家の教は、敵を向うに廻して戦う
   闘病者でも災難消除の加持でもない。

   空々として心の技巧なくなりて、天地一切のものと調和せよ
   と云うのが住吉大神のみ教である。

   そのとき、天地一切がスミヨシの世界になるなり。
   天地一切が洗い清められて、我がなく敵がなくなるなり。
   これが禊ぎ祓である。

   形式儀礼にあらず、所作行動にあらず、
   伊邪那岐大神の大身祓と一つとなるのである。

   その時龍宮海ひらかれ、
   綿津見神、塩筒之男神・住吉大神現れたまう。

   鱗の如く作れる龍宮海の甍眼の前に聳え〈古事記〉、
   宝の山眼の前にあらわれるのである。

   それは利己主義的現世利益にあらず、
   あたらしき天と地とを見出すのである。
   悔い改めなり。三百六十度回転なり。

   新しき神都が花婿のために飾りたる花嫁の如き姿にて
   天降り来る〈黙示録〉のである。

   先ず身を剥ぐことが必要なり。身ソギ祓なり。

・・・

(2)《実相は仮相ではない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   生命の中には生命のみがあるのである。

   生命にとっては「物質の腐食」(病)と
   云うようなことは存在しないのである。

   物質肉体は生命(せいめい)でなく、
   生命(人間)は物質ではない。

   実相は仮相ではない、仮相は実相ではない。
   実相の中に仮相はなく、仮相の中に実相はない。


   人間は神の子であり、霊的実在であり、
   未(いま)だ曾(かつ)て病人だと云うこともなく、
   これからも病むと云うことはないのである。

・・・

(3)《一冊の 『 生命の實相 』 が塚田氏の心を革命した》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   塚田忠五郎さんは、それ(『 聖道へ 』)を繰返し読んで、
   仏教の無明縁起(むみょうえんぎ)の真理が現代語で
   分りやすく巧(たく)みに書かれているので、この著者に
   お目にかかって教えを受けたいと思って来たという
   意味のことを言われるので、私は、

   「 あの本は大本教をやめて創造神を否定し仏教的な世界観に
   なった時の論文を纂(あつ)めたものですが、

   現在は百尺更に一歩を進めて無明(むみょう)の彼方(かなた)
   に超出した心境になって、その真理を伝えるために
   『 生長の家 』 という雑誌を出して宣伝しているんです。

   ここにその真理の中枢をまとめた 『 生命の實相 』 という本
   がありますから、どうぞこれを持って帰ってお読み下さい 」

   こういって私は当時、自費で出版した最初の 『 生命の實相 』
   の部厚い革表紙三方金の聖書型の本を差出した。


   「 本代は今持って来ていませんのですが 」
   と塚田さんは遠慮勝ちに言われるのであった。

   「 いや、いいですよ。ついでにお持ち下さったら結構です 」
   こういって私は塚田さんにその本を持って帰って貰った。

   そしたら氏の心境に驚天動地の変化が起ったのであった。


   というのは黒住宗忠師が 「 もはや宗忠生くるに非ず、
   天照大御神の‘いのち’我にあって生くるなり 」 の
   心境になったとき、歓喜法悦・一週間も眠らずに
   笑いつづけたと同様に、

   半月間も笑いつづけてその笑いがやまなかったのであった。

・・・

(4)《ある蛙の愛について》

   愛と県鳳来町町立鳳来寺山自然科学博物館の鈴木新一氏が、
   モリアオガエルの不思議な産卵の知恵について日経新聞に書いていた。

   「産卵の場所が決まると、おすはめすの背中におぶさって
   前足でめすをかかえ、うしろ足でめすの腹をさすってやる。そうすると、
   めすは卵と同時に、透明なねばっこい液を分泌する。

   おすは、この粘液を後ろ足で一心不乱にかきまぜる。

   粘液はブクブクあわ立ち、白っぽくなり、しだいに
   大きなシャボン玉のようなあわのかたまりになり、
   ついには人間のこぶし大にふくれ上がる。

   このかたまりが木の小枝や葉っぱにくっついて
   ぶらりと垂れ下がるのである。

   あわの中には黄白色の直径三ミリほどの卵が二百個から四百個ぐらい
   封じ込められている・・・・・・

   卵は気温の高いときは一週間、低いときは十日ぐらいで孵化し、
   針のようなおたまじゃくしになる。・・・・・・

   こうしてかたまりの中の卵が全部孵化し終わったころ、
   塊はすっかりなえしぼんでポタリと水の上に落ちる。

   水の中へ若し落ちないで陸地に落ちたら、おたまじゃくしは
   そのまま死ぬ訳で是非水中に自然落下する位置にある樹の枝に
   卵を産まねばならぬのである。

   「だから親蛙は必ず水の上にさし出した枝の上で産卵する。
   ところが普通の状態では水の上に届かない枝も、
   卵塊をぶら下げるとその重みで水の上まで垂れ下がって来る。

   母蛙はそうした計算をたくみにやってのけ、
   そんなすれすれの枝先にまで産みつける。

   卵塊が地上に落ちることは絶対にない。
   本能とはいえ、不思議な力に感心させられる。」

   私もこれを読んで感動したのである。

   親というものがどんなに、
   その子の繁栄を願っているかがわかるのである。

   父蛙が母蛙のお腹をさすってやって助産婦の役目をしたり、
   おたまじゃくしが一人立ちできるようになるまで棲むことに
   必要な粘液の泡で出来た揺籃をこしらえてやる知恵、

   そして、その揺籃からとび出した幼児がちょうど水中に落ちて
   泳げる位置に、しかも、泡の揺籃の重味によって枝が垂れさがって
   水面に近づく位置を計算して揺籃をつくる知恵は何処から来るか、

   それは生物には“宇宙の知恵”が宿っている証拠でもあるが、
   その“宇宙の知恵”は、親たるものの“愛”によって
   呼び出されて来ることに注意しなければならない。

   蛙でさえも親は子をこんなに愛するのである。

   親の愛というものが切実に感じられるのである。

   神の愛を実現した人間の親はどんなに子供を愛していることであろうか。

            <感謝合掌 平成30年10月6日 頓首再拝>

【七日の法語(10月7日)】 - 伝統

2018/10/07 (Sun) 04:27:01


(1)《自己を顧みる日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   天地は『一』である。『神の創造った世界』と『悪魔の創造った世界』
   対立するような二元的世界観ではない。

   我なく敵なく、天地ただ『一』なることを悟るとき天下無敵となる。


   『愚(それがし)おもへらく、天何ぞ天、我何ぞ我、
   同根一体にして其の性を一にす。天地無敵なれば、即ち我も亦無敵。
   是を以ての故に、我「一」の道を名づけて平常無敵と号す。
   平は平にして中也。常(じょう)は庸にして中庸の理なり』


   中庸に『喜怒哀楽の未だ発せざる、之れを中(ちゅう)と云う。
   発して節に当る、之れを和と云う。
   中とは天下の大本、和とは天下の達道。
   中和を発して天地位し、万物育つ。』

   心『中』ならば、発して必ず節に当り、万物育ちて天下無敵となる。

・・・

(2)《「 迷いの心 」 はない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   ただあるものは「実相の心」のみである。

   慧可禅師(えかぜんじ)が『この心迷って仕方が御座いませぬ』
   と云ったときに、達磨大師(だるまだいし)が
   『その迷いの心を持って来い』と云った。
   慧可は「その『迷いの心』を探したが見つからない」と答えた。


   「迷いの心は無い」これが達磨の悟りであり、慧可の悟りであった。

・・・

(3)《忘れてもよいこと、憶(おぼ)えねばならぬこと》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   憶えている必要のないものはきれいに忘れてしまうことが
   “心の衛生”である。併しー


   教訓。

   物に頼り、人に頼ると、自分自身の能力は眠って働かなくなる。

   中風の治りかけの人など、杖(つえ)に頼って歩いていると、
   いつまでたっても完全にひとりで歩行できない。

   杖を棄てる決意と実行とによって
   完全な能力をとり戻すことができるのである。

・・・

(4)《直感智の不思議さ》

   いつか新聞の科学欄で読んだことがあるが、海亀の一種は

   「干潮時に海岸の砂の上にあがって来て、
   砂に窪みをつくってその中に産卵する。

   その卵が孵化して稚亀が這い出て来る時が、
   ちょうど最高の満潮時になって満ちてくる潮に乗って海に帰るように、
   時期を見はからって産卵して置くのである。

   卵から稚亀が這い出さないうちに潮がそこまであがると
   卵は波にさらわれて孵化しないで死んでしまうので、
   それまではその砂の窪みに潮が満ちて来ない“位置を測定して“
   と書いたけれども、人間のように頭脳智で測定するのではない。

   それは本能智によって直感するのである。

   直感というものは分析と綜合とによって
   結論を辛うじて得るような面倒くさい間接智ではなく、
   全体をそのままズバリと知る直覚である。

   あまり頭脳智にたけていて、分析や総合のみに頼っていると、
   使わない能力は退化するという原則によって、
   直感智が失われてしまうので、

   直感智を退化させず、益々直感智を発達せしめて、
   分析綜合の頭脳智の働く余地のない危急の場合に、
   直感智を利用して安全なることを得るよう
   自己訓練をなしておくことが賢明である。

           <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>

【八日の法語(10月8日)】 - 伝統

2018/10/08 (Mon) 02:59:07


(1)《『中』の徳を得る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   一切の徳は『中』に発する。
   『中』は天之御中主神の『御中主』の理念に発する。
 
   中にして主なのである。
   中にして主なるが故に、あまねく一切のところに現じて
   庸(つね)の道となるのである。

   すなわち心が『中』を得るときには盡十方そのまま味方となりて、
   『和』を成ずるのである。盡十方がことごとく我が心となる
   のである。

   盡十方がわが心となるとは、心が一箇所にとらえられぬことであり、
   宮本武蔵の所謂る無構の構えである。

   寂然不動にして一箇所に片寄らぬのである。
   一箇所に片寄らずして中を得ているから、相手の動きにつれて
   千変万化し得ること影の形に添うが如きである。

・・・

(2)《月は常に円相である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   皎々(こうこう)と輝く月にとっては、雲は存在しないのである。
   雲は下界(げかい)の心から見るから存在するのである。

   月そのものにとっては存在しないのである。

   月そのものにとっては、月は常に円相である。

   そのように下界の心(五官の心)にとっては、
   人間が病み苦しみ不幸になるように見えても、
   人間そのものにとっては人間は円満完全であり健康である。

・・・

(3)《真理の自覚から来る法悦状態》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (全文の紹介)

   ある日曜日の誌友会であった。
   塚田忠五郎さんの奥さんがやって来られてこう言われた。

   「先生、塚田が先生の御本を読んでから、
   どうも気が変になったようなんでございます。」

   「どう変なのですか」

   「わしは永久に死なぬ人間になってしまった。
   嬉しい、嬉しいといって笑ってばかりいるのです。

   それもその時だけ笑って物言うのなら何も変でないんです
   けれども、夜徹(よどう)し眠らないで嬉しいといって、
   もう一週間以上も笑ってばかりいるんですから変なんです、

   “あなた、そんなに笑ってばかりいて眠らなかったら、
   気が狂ってしまいますから、
   お眠(やす)みなさいよ“と言いますと、

   “わしは前から気が狂いたいと思っていたのに、
   今度こそ本当に気が狂った。本望(ほんもう)を遂げたのだ、
   悦べ、悦べ!!こんな嬉しいことはないぞ”と言うんです。

   それで私は心配で仕方がないんです。
   先生どうしたら塚田の状態は治るでしょうか」

   
   「そのまま、ほっといたら治りますよ。それは黒住教祖が、
   もう寿命が5日間しかないと医師に宣言された後に、

   “最早、宗忠生くるに非ず、天照大御神の‘いのち’
   我にあって生くるなり”

   という自覚に到達されたときに、1週間も眠らずに
   笑いつづけていられたのと同じ状態ですよ。

   誰でも人間が単に肉体であって、有限のいのちしかないと
   思っていたのが、神の無限の‘いのち’こそ自分の‘いのち’
   だったのだと知ったとき、眠らずに笑いが止らぬほどに
   悦べるのが当然でありませんか。


   しかし黒住宗忠も1週間ほど眠らずに笑いつづけていたが、
   そのうちにその悦びが静かなる悦びに変って来たとき、
   重症の結核がいつの間にか治っていたのに気づいたと同じように、

   御主人も静かなる悦びに還って来たとき、
   前より一層よい事が起って来ますよ、安心しなさい」と、

   私は塚田夫人にいったのであった。


   そしてその通り塚田忠五郎氏は間もなく平常通りの人間となり、
   唯 異なるのは、“肉体的存在としての人間”から
   “霊的実在としての人間”に自覚が変って、
   多くの人たちにこの真理を伝え始められたことであった。

・・・

(4)《蛇の直覚本能と人間の霊感》

   もう十数年も前のことで筑後川が氾濫して、発電所が水浸しになり、
   停電となり、電気が通じなくなったので、電力で開閉する
   筑後川のダムの閘門が開かないで、閘門が閉じて水が下流に流れるのを
   堰きとめたまま集中豪雨の水量が筑後川両岸の山々に集注して、
   その流域は二階の高さ以上に水嵩が増したことがあった。

   そのとき附近の人家は悉く流失してしまったが、
   そこに生長の家の一誌友が住んでいた。

   彼の家も次第に増してくる水量によって
   二階の屋根の上まで浸水して来たのであった。

   彼はこれ以上は水嵩がふえて来ては家の中にいるのは
   危険であると感じたので、そのあたりにある立樹の一本を選んで
   その上方の枝まで登っていった。

   洪水は益々水嵩を増して来る。

   轟々と音をたてて流れる水に
   その辺の樹木は悉く倒れ流されてしまうのに、
   その誌友の登って行った一本の樹だけが倒れないで
   高く聳えているのであった。

   水嵩が増すに従って彼の腰かけている枝は水に侵って来るので、
   彼は更にのぼって梢まであがると、其処に数十匹の青大将(蛇)が
   梢に群を成していたのであった。

   蛇はその本能的直感認識によって、
   その樹一本だけが流されないことを知っていて、
   群を成して梢まで登っていたのである。

   そして生長の家誌友も毎日神想観を励んでいる人なので、
   ”宇宙の知恵”と常に波長が合い直感認識の能力が発達していたので、
   その流されない唯一本のその大樹を選んでのぼることができ、
   生命が救かったのであった。

   常に神想観して”宇宙の知恵”に導かれる
   準備のできている人は幸いなるかな。

            <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

【九日の法語(10月9日)】 - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:13:22


(1)《力みを捨てる日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   何事にも力まぬ心が平法である。
   『‘ねばならぬ’に縛られたら可かぬ』と
   生長の家で云うのと全く同じである。

   ‘そのまま’の心を『直心』と云う。
   心が‘そのまま’になれば、心身がそのまま素直に動く。

   心が『平』を取戻せば身体おのづから健となるのである。

・・・

(2)《人間の病気は夢である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   神癒の根本は神はすべての渾(すべ)てであり、
   神は霊であり、神は愛であり、神は善であると云うことである。

   従って霊ならざるものは何一つ存在しないと云うことである。
   そして「人間は神より出でたる霊的放射である」と云うことである。

   従って人間が病気になったり、
   不幸になったりすると云うことは唯「夢」である。

   見ゆれども実在ではないのである。

・・・

(3)《“ 無明縁起(むみょうえんぎ)説 ” より “ 神の宇宙創造説 ” へ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (全文の紹介)

   その頃、私は たびたび京都へ講演に招かれて往(い)ったものだった。
   いつだったか同志社の創立者 新島襄(にいじまじょう)先生の記念館
   “ 新島会館 ” で講演会をひらいたら会場が狭いので二階の講堂には満員で
   階段から街路まで聴衆がはみ出していた。

   それから私は自宅へ帰って数日した。
   私は大野法道(おおのほうどう)と ー 法堂かも知れない。

   ハッキリ漢字名を憶えていないが今、増上寺の管主にこれと同じ
   名前の暑中見舞広告が出ているので、同名異人かも知れない
    ー いう僧侶から御手紙を頂いたのであった。

   それには次のような意味が認(したた)めてあった。

   「 私は大正十一年頃、東京にいて、ある仏教大学の学生でした。
   その時、先生の著書『 聖道へ 』 という本を読んで、実に現代語で
   仏教の無明縁起の哲理が平明に書かれているので愛読したものでした。

   唯今、京都の××寺の住職をしておりますが、偶々(たまたま)町を
   通りかかると先生の講演会が新島会館であるというポスターを拝見いたしましたので、
   懐(なつか)しく思い、どういう話をされるかと思って会場にまいりましたら、
   先生は 『 聖道へ 』 の本に書いてあるのと反対の話をなさいました。


   『 聖道へ 』 の本には“ 此世は 神の創造ではなく、無明を縁として
   生じたものである ”ということをお書きになっていたのに、

   その講演では “ 此の世界は 神がお創造(つく)りになったので、
   病気も不幸も一切の悪は存在しないのだ ” と声を励まして仰言(おっしゃ)いました。


   私は 『 聖道へ 』 とは全然 異る話なので自分の耳を疑いました。
   聞きちがいではないかと思いました。

   そしたら再び、先生は “ 此の世界は神がお創造(つく)りになったので、
   病気も不幸も一切の悪は存在しないのだ ” と仰言いました。
   私の聞き違いではありませんでした。


   前には “ 此の世界は無明(むみょう)を縁として生じたものである ”
   とお書きになり、今は “ 此の世界は 神の創造である ” と仰言る、
   どうして全然異る世界観にお変りになりましたのですか。

   その世界観の変化のよって来るところを承(うけたまわ)りたいと存じますので、
   この手紙を差上げます。・・・云々。」

・・・

(4)《困難はあなたの向上の師である》

   人は直面する困難を打開する努力のうちにその意志を鍛錬し、
   能力を向上させるのである。

   国と国との戦争は国民全体の運命を含むところの一国の運命を賭けての総努力
   であるから、戦争の殺人行為は好ましくないけれども、人間は戦争を通して、
   今までの能力の限界だと思われていたものを超えて能力を発達させる。

   原子力の開発、音速を超えるジェット機や、ロケットや人工衛星などの発明も、
   いつ熱い戦争が起こるかも知れないという冷戦下に於て発明されたのである。

   困難を避ける卑怯者には進歩はないのである。

   困難に直面してこれを克服しようという努力を続ける者のみが真に向上し、
   発達するのである。

           <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

【十日の法語(10月10日)】 - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:15:17


(1)《そのままの心に成る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   ‘そのまま’の心とは、天地は本体『一』であるから、
   天地一切と調和したる心である。

   人は生れたるままの心 ―― 即ち『實相の心』 ―― 
   になることが必要である。
   ‘そのまま’が天衣無縫である。どこにも隙がないのである。

   天衣無縫が無敵であり、うまれたる侭さながらである。

   ひろびろと‘そのまま’の心になる時、天地は‘わがもの’。
   ‘わがもの’となる時、もう何処にも敵がないのである。

・・・

(2)《妄想(もうぞう)から病気が起る》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (全文紹介)

   悪が存在するという妄想、激情、邪慾(じゃよく)、邪恋、
   害心、恐怖、嫉妬(しっと)、猜疑(さいぎ)、羨望(せんぼう)、
   憎悪、復讐(ふくしゅう)の念、増上慢、憤怒、悲哀、
   寂寥(せきりょう)の感、罪ありとの観念・・・・・・

   これらはいずれも、円満な月を蔽(おお)う
   叢雲(むらくも)のようなものである。


   それは悪が存在すると云う最初の妄想、換言すれば、
   神以外のものが存在すると云う第一の神性隠蔽(いんぺい)
   (迷い)から生じたものである。


   第一の最初の神性隠蔽から、恰度(ちょうど)、
   月の光が叢雲に蔽われた暗夜(やみよ)に不詳の事件が起るように、

   「悪が存在する」という迷いの下に暗くなった心の中に
   上記のような色々の妄想があらわれ、
   それが病気や不幸を表現さす原因になるのである。

・・・

(3)《“ 現象世界 ” と “ 実相世界 ”》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (全文紹介)

   私は次のような意味を書いた返事を
   書いたのを憶(おも)い出すのである。

   《 法華経の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)に
   “ 衆生、劫(こう)尽きて、大火に焼かるると見る時も、
   我が此土(このど)は安穏(あんのん)にして天人常に充満せり ”
   と釈尊は仰(おお)せられているのでありますが、
   “ 劫(こう)尽きて大火に焼かるると見える此の世 ” は
   無明(むみょう)のあらわす世界であります。

   『 聖道へ』 に於いて、 “ 此の世界は神の創造ではなく
   無明縁起だ ” と書いた時の、「 この世界 」 は “
   劫尽きて大火に焼かるると見える此の世
   ” 即ち “ 現象世界 ” であります。

   そして釈尊が仰せられた
   “ 我が此土は安穏にして 天人常に充満せり ” という世界は、
   “ 神の創造し給える 壊(くだ)けることのない
   常住幸福の実相世界 ” のことであります。

   「 此の世界 」 という語(ことば)は、同じ語(ことば)のようで
   ありますが、その人の自覚の程度に従って、 “ 此の世界 ” と
   いって指す世界の内容が異って来るのであります。 》

・・・

(4)《イエスとノーとをはっきりせよ》

   吾々は返事を曖昧にしてはならないのである。

   相手の申し出に対しては“イエス”か、“ノー”かを
   はっきり表現しなければならない。

   相手の申し出を、自分の意志が共鳴することができない場合に”ノー”を
   はっきり言わなかったために、承認したものと誤解されて、
   一生涯その尾を引く問題で苦しんでいる人もあるのである。

   誰の要求に対しても、それが理不尽な要求に対しても
   “ノー”をはっきりしない時は、相手に対する降伏を意味するのである。

   吾々が常にハイと従順に答えてよいのは、
   両親からの命令と、実相からの催しに対してのみである。

   両親も時には間違うこともあれば、
   無理をいうことがあるかも知れないけれども、
   両親の子供に対する言葉は“愛”から発しているために、
   一見その命令や助言が間違っている場合でも、

   素直にそれを実行しているうちに、事情が好転して来て、
   「やはり両親の言う通りにしてよかった」という時が来るのである。

   それが愛の権威というものであり、愛は神の知恵を内に含むからである。

            <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

【十一日の法語(10月11日)】 - 伝統

2018/10/11 (Thu) 04:38:50


(1)《萬人を赦す日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   敵を憎めば、心が『平』を失うが故に、
   心の中に隙が出来て負けるのである。

   嘗て某寺の住職、先住の亡くなるとき自分に遺産相続の遺言を
   したにも拘らず、先住の兄弟子が、その遺産数万円を横取りたり
   とて、兄弟子を憎むこと甚だしく、
   毎日その兄弟子に対して呪いを掛けたのである。

   ところが兄弟子は一向病気にもならず、
   不幸にも陥らず、洒蛙々々として栄ゆ。

   兄弟子を怨める某寺の住職、その頃生長の家の思想に触れて、
   自分の病気になっていることは、兄弟子を怨める心が『平』を欠き、
   『中』を失った結果、そこに隙が出来ていることが自分の病い
   であることを知って、心を『平』をやしなう。

   この時病い次第によくなり、先に呪っている間には健康であった
   兄弟子が、呪うことをこちらから止めた頃に病気になって
   斃れたと云う事実がある。

   これなどは自分の心に人を呪う心あれば自分が討たれ、
   自分の心が『平』に還りて、‘もの’があるべきところに、
   あるがように定(き)まるとき敵が敵みづから邪念によって
   傷ついたと云うことになる。

・・・

(2)《懺悔(ざんげ)によって心を浄めよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   すべての妄想、邪念、激情・・・・・その他
   病気不幸を来す想念感情は、懺悔によって消えるのである。

   迷いの心が五官の世界に、
   どんな不完全な相(すがた)を投影しておろうがいまいが、
   人間の本当の姿は、円月のように完全であるにちがいないが、

   しかし下界の世界(肉眼の世界)にも、
   人間の本当の完全な相があらわれるためには迷いの心を
   懺悔の心によって「ああ済まなかった」と洗い流す事が
   必要なのである。

・・・

(3)《真の愛は 肉に即(つ)いた欲情ではない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   真の愛は、肉体の欲望を満足させたい所謂(いわゆ)る
   「 肉に即いた欲情 」 ではないのである。

   真の愛は、愛と見える “ 混合物 ” の中から
   欲情を浄め去るのである。

   だから真の愛は “ 魂の浄化 ” である。

   真の愛が起って来るとき彼は、
   自分を他(ひと)に与えようと願うのである。

   与えること、奉仕することに悦びを感ずるようになるのである。

・・・

(4)《屈辱の平和よりも更に尊いのは自立の精神である。》

   アメリカの愛国者にして雄弁な政治家として知られている
   パトリック・ヘンリー(Patrich Henry-1736~1799)或る日の演説の中で、

   「いのちがそんなに尊いか、平和がそんなに甘いものか。
   それを得るために鎖と奴隷の価を支払ってさえもそれを得る価値があるか。
   そんな卑怯な考えを棄てよ。

   他の人はどの道を選ぶか知らないが、
   吾れに自由を与えよ、然らざれば死を与えよ」

   と叫んだということである。

   ヴェトナムでアメリカが、あのような「引き合わぬ戦争」を続けているのも、
   このパトリック・ヘンリーの叫んだ精神にほかならぬのではあるまいか。

   敗戦後の日本では平和ノイローゼにかかって、国内では同胞相闘うために
   旺んに闘争精神をあおりながら、外に対しては、防衛の武器も持たずに、
   奴隷の如く外国にお辞儀をして平和を守りたいと言う
   卑怯な人が随分多いのに驚くのである。

   このような人たちに対しては、評論家、村松剛氏が『週刊読売』
   (昭和)42年2月3日号に書いた次の如き平和論が参考になると思う。

   「もし万一、奴隷状態におかれるようなことが起こったら、
   革命戦争を起こしたほうがいいと思っている。・・・・・
   平和なら、どんな平和でもいいというぐあいにはゆかない。
   問題は、幸福と名誉を裏づける平和を、いかにして築くかということである」

   という言葉は示唆に富んでいる。

   この言葉は前掲のパトリック・ヘンリーの演説に全く同じことである。

   平和という偶像が尊いのではないのである。

   各国の威嚇の前に奴隷の如く跪いて平和を希うのは
   日本民族の自尊心が許さないのである。

           <感謝合掌 平成30年10月11日 頓首再拝>

【十ニ日の法語(10月12日)】 - 伝統

2018/10/12 (Fri) 03:08:20


(1)《如意自在の日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   だから山内蓮心翁は、極意伝授の書に曰く、
   『人を悪(にく)む者は、自を悪(にく)む。
   人を敬する者は却って己を敬す。悪言を吐く者は悪言を蒙る。
   人を討つ者は必ず己が身を討つ事あり。

   是(ここ)を以て、無敵を知るべし。仮初(かりそめ)にも、
   人我(ひとわれ)の隔心(へだてごころ)を以て敵を求むる
   事勿れ。』と云い、

   また『汝は汝たれ、我は我たれ。山は谷を守って、以て山たり。
   谷は山を守って、深きを以て谷たり。是を以て、無敵の用を
   知るべし』と云っている。

   『汝は汝たれ』とは相手を縛らぬことである。
   あるがままにあらしめることである。
   相手の本然に還らしむることである。

   縛ろうとする相手は反動的に逆って来る。
   山を山たらしめるとき、谷は谷として自分も亦生きるのである。
   天地一切のもの所を得るのである。

・・・

(2)《いつまでも心で「闇(やみ)」をつかんではならぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   懺悔によって、雲を涙の雨で洗い流した後に必要なのは、
   いつまでも過去の罪に捉(とら)われない事である。

   吾々(われわれ)は手掌(てのひら)を返すように、
   迷いから悟りの方へ、闇から光の方へクラリと
   心を転向しなければならない。

   光の方を振向けば、既に闇は消えて無いのである。

   いつまでも、罪や、迷いや、悪をあり
   と思ってはならないのである。

・・・

(3)《愛は立ち佇(とま)ってはならない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   愛は人生と同じものである。
   人生に於いて人間は常に進歩しなければ、
   その人は必ず退歩しているのである。

   愛も、常により一層愛しなければ、
   その人の愛は退歩してしまうのである。

   愛を後退させないためには、常に一層多く愛して
   その愛を前進せしめなければならない。

・・・

(4)《何よりも大切なのは国力の充実》

   作家の伊藤桂一氏は『論争ジャーナル』6月号で、

   「……打ちつづく戦争への出血や出費に、一言の弱音を吐かないアメリカと、
   すでに終ってしまった戦争について未だにグチや泣き言をいいつづける日本。

   こうした対照を公平に検討してみると、
   おのずから日本という国の姿がうかびあがってくる。

   戦争とか平和を論議する以前に、
   もっと考えねばならぬ問題があるのではないか・・・・・。

   ついこの間まで吹けばとぶような韓国艦艇に追い廻され、
   泣き泣き拉致される漁船を、指をくわえてみているしかなかった

   日本が、国家利益の追求に眼の色を変えている世界の列強に向けて、
   いかに平和を説いてみたとして、蚊の鳴くほどにも受けとって
   もらえはしなかったはずである。

   大事なことは何よりも、日本それ自身の、
   国力の充実でしかないことは自明の理であったのだ」

            <感謝合掌 平成30年10月12日 頓首再拝>

【十三日の法語(10月13日)】 - 伝統

2018/10/13 (Sat) 03:27:32


(1)《自在を得(う)る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   そのまま『中』と『一』になってはじめて
   『中』が如何なるものであるかが判るのである。

   そのまま『中』と一つになるのは『我』を捨て、
   『我』を捨て、捨て切らねばならぬ。

   『我』の心で、その中間を行けば好い
   と云うようなことでは『中』ではない。

   『中』は未発であるから、無構えである。
   その無構さえも捨て切ったとき、直に『中』を得るのである。


   人間心で、構えて見たり、構えを捨てて見たりしても、
   『我』の心でやることは皆隙がある。我を捨て『中』に中して、
   はじめて自在を得る。

・・・

(2)《物質に健不健はない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   健康と云うのは物質の問題ではない。
   物質には物理化学的性質があるだけあって、
   健不健はないのである。

   人間は霊的実在であって 「 神より出でたる光 」 であるから、
   物質の法則によって冒されるものではないのである。

・・・

(3)《本当の愛の実践はどうするか》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   愛は人の罪をあばかない。
   それを暖かい愛情の布で覆(おお)い隠してあげるのである。

   そして彼の完全な実相があらわれるように神に祈る。
   これが本当の愛の実践である。

・・・

(4)《国力の充実を無視して個人の享楽を謳歌する憲法》

   「しかし国力の充実などを考えるな」と甘い考えの平和論者は言う。

   自分の国の平和は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
   われらの安全と生存を保持しようと決意した」という、

   まことに虫のよい憲法のもとで「すべての国民は、個人として尊重される、
   生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に
   反しない限り、立法その他の国政に上で、最大の尊重を必要とする」と、

   現法憲法が保証してくれるではないかというのである。

   そして個人の幸福追求の欲望を最大に尊重して、それが充たされない時には
   「請願権」や「団体争議権」があるのであるから、「公共の福祉に反しない限り」
   といってもそれは名称だけで

   「公共」とは「主権の存する国民の集まり」であるから、それらの
   幸福追求のためにあばれるのは、まことに以って公共の福祉にかなうところの
   処置であるから、いくらあばれても、いくら享楽にふけってもよいのである。

   だから、国会の周辺デモを規制することが違憲であるとの判決が裁判所から出る
   のも当然のことであるという。

   こんな憲法を改めない限りは、利己主義の人間ばかり殖えて、
   国家を思う国民は益々減って日本の現状は決してよくなる気遣いはないのである。


           <感謝合掌 平成30年10月13日 頓首再拝>

【十四日の法語(10月14日)】 - 伝統

2018/10/14 (Sun) 04:30:27


(1)《病いの本(もと)を知る日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   天地はただ一息であって、万物一体である。
   その万物一体の自覚あるところに善悪の煩いはない。
   従って病苦も無い。

   ただ人身の形を生ずるに到って、その形、その現象に捉えられ、
   自分と彼と、人と我との差別が出来、自他一体の自覚が崩れて来る。

   自他一体の自覚が崩れて来たときに、
   そこに隙が出来、そこに煩いが出来て来ると云うのである。


   一陰一陽是道と云う。
   ミチは水火(ミチ)である。

   陰陽は本来不二一体にして、陰陽の破れたるところが
   道の欠けたるところとなって病気を生ずる。
   だから夫婦が真に調和しているところに病気はないのである。

・・・

(2)《人間は霊である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   人間は神の子である。
   神は霊である。従って人間は霊である。

   霊的存在である人間は物質ではなく、肉体でもないのである。

・・・

(3)《“ 実相の祈り ” について》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   イエスは、祈りについて 幾つかの範例を示していられるのである。

   『 マタイ伝 』 第六章七節には、

   「 また祈るとき、異邦人のごとく徒(いたず)らに
   言(ことば)を反復(くりかえ)すな。

   彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり、
   さらば彼らに倣(なら)うな、

   汝らの父は 求めぬ前(さき)に、なんじらの必要なる物を知りたまう 」

   とイエスは教えていられるのである。


   神は、我らが求めぬ前(さき)に、
   必要なるものを知っていられる ー これが実相なのである。

   単に知っていられるだけではなく、
   既に与えていられるのである ー それが実相なのである。

   本当の祈りは、既に 我らのなくてならぬものを
   悉(ことごと)く完全に与えたまうている実相を確認する
   “ 感謝の言葉 ” を唱えるのが最も完全な祈りなのである。
   
・・・

(4)《若し中共が五百億弗の賠償を要求したら》

   伊藤桂一氏はつづけて言う。

   「考えてみれば私たちには、敗戦にからまる負債を、
   いつか何らかの形で返済を迫られる危惧がある。
   それを要求されたとき、拒否する立場も、力も、われわれにはない。

   いってみれば日本及び日本人は、平和と呼ぶ檻の中で、
   ある飼い主によって飼われているにすぎないのかも知れないのである。

   これをまず明瞭に認識しておくことが必要である。

   いつか何らかの形で返済を迫られる惧れのある敗戦にからまる負債とは何であろうか。
   それはサンフランシスコ平和条約に参加していない中共への賠償のことであると思う。

   「平和」と呼ぶ檻の中から引き摺り出す権利をもっている飼い主とは一体誰であるか。

   それは中共である。

   中国と日本国の関係は、台湾省の国民政府とは、「怨(うらみ)に報いるに
   怨をもってせず」という?総統の宣言によって賠償要求は抛棄せられて
   平和条約が完了しているけれども、中国本土に政権を握っている中共とは
   平和条約が結ばれていないのである。

   愈々日本が中共と平和条約を締結する時には日本に対して
   「五百億弗の賠償を要求する」と中共はいったことがあるのである。

   「それを要求されたとき、拒否する立場も、力もわれわれにはない」
   と伊藤桂一氏はいうのであるが、

   「それを要求されたときそれを支払う国力もないのである」
   と私は付け加えておきたいのである。

   五百億弗を要求されたときのことを思うと、日本国民は「平和という檻」な中で、
   今のように歌ったり踊ったり、ウィスキーやブランデーに酔い痴れて、
   性あそびの享楽にふけっていてよいものだろうか。

   「平和という檻」の外へ引き摺り出されて「五百億弗の賠償を支払え、
   でないと中共の水爆が強制執行するぞ」といわれたら拒絶する力も支払う力も、
   戦う力も何もなくてどうするつもりであろうか。

   ドイツは第一次世界大戦に敗れて永久に支払っても支払い切れない多額の賠償を
   背負わされた結果、ヒットラーが出現して国力を充実し賠償拒否を宣言して
   やがて欧州全土を席巻する一大強国となった。

   その後、ヒットラーの独裁政権があまりにも強力になり過ぎたので、
   ヒットラーは気が狂ったのであろう、常識から見て到底なすべからざる虐殺を
   はじめたのであるが、それは別の話である。

   日本の現状では中共に対して五百億弗の賠償拒否能力も、支払い能力もない。

   それではお辞儀をして奴隷となるほかはないのではないか。

   賠償ができなければ、賠償の代償に日本の全工業力を差押えるといわれたら
   青年諸君どうしたらよいと思うか。

   そんなことを要求されないためには日本は強くなっていなければならないのである。

            <感謝合掌 平成30年10月14日 頓首再拝>

【十五日の法語(10月15日)】 - 伝統

2018/10/15 (Mon) 04:11:36


(1)《大陸の将兵の労苦を偲ぶ日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   天地一切のものと調和して無敵となるには、
   天地一切のものが本来、神なる『圓相』から生まれて
   来たものであることを知らなければならないのである。

   だから山内翁は一円相を描いて図解して説明して
   「一息一我なり〈他我なしとの意〉」故に主一無敵と云う。

・・・

(2)《五官の世界は象徴である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   吾々は人間の本質を自覚するには、
   五官的認識から飛躍しなければならない。

   五官に見える状態は一種の象徴として
   取扱わなければならないのである。

   象徴とは 「 象(かたち)」 として捉えがたきものを
    「 象 」 をもって徴(しるし)として
   あらわしたものである。

   だから、私は、「肉体も環境も吾が心の象徴(かげ)」と
   云うのである。

・・・
(3)《神は 「 天国 」 というテレビ番組を放送中》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   「 実相に於いては、既に 吾らに必要なものは 与えられている 」

   それは 放送番組みたいなものである。
   神は 放送番組のプロデューサみたいなものである。

   そして人間は、神の 「 天国 」 という放送番組を
   受像する 「 人間テレビ 」 なのである。

   テレビはあり、天国番組の放送中であるのである。

   その時に、その 「 天国 」 の華麗にして豊富絢爛(けんらん)・
   光明燦然(さんぜん)として 万人常楽の光景を、地上に、
   自己の身辺に 実現するには どうすればよいのであろうか。

   先ず、スイッチを入れることである。
   そのスイッチを入れることが “ 祈る ” ということである。

・・・

(4)《共産国は強国には手出しをしない》

   東京新聞七月十三日号京大教授の猪木正道氏が三木外相の「中国との平和共存」
   演説を批評した文章の中に次のようなことをいっている。

   「中国ばかりでなく、ソ連など共産主義国の外交をふりかえると、政治的に
   不安定な国に対して、共産国の指導者たちがどれほど無遠慮な内政干渉を
   試みたかは、だれの目にも明らかであろう。

   共産主義者は力の信者である。相手が強ければ、保守政権であろうと、
   反動政権であろうと、事実上の共存政策をとる。

   たとえ口先では敵視していても、決して行動では挑発しない。

   スターリンがヒットラー・ドイツとの共存にどれほど苦心したか、毛沢東が
   アメリカとの戦争に巻き込まれないようにいかに苦心しているかを想起しよう。

   これに反して、相手が弱体だと見れば、スターリンも、毛沢東も
   ためらうことなく武力を用いた。

   この意味で、中国との平和共存政策を発展させてゆくためには、
   わが国の経済的繁栄を保持し、政治的安定を強化することが
   不可欠の条件となる・・・・・」と。

   単に政治的安定を得るだけでなく、防衛力に於いても
   中国に対等の強さを堅持しなければならないのである。

           <感謝合掌 平成30年10月15日 頓首再拝>

【十六日の法語(10月16日)】 - 伝統

2018/10/16 (Tue) 03:35:44


(1)《天地の中心を知る日 》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   山内翁は、その剣法の極意の中に天地始元の唯
   『一息(いっそく)』を説き、
   更に万教の畢竟帰一すべきことを明らかにしている 

   即ち山内蓮心翁に云わせれば、各宗派色々にわかれているが、
   『我れ惟ふに一息の外に他なし』であって、
   宇宙最始元の、天之御中主神の『中(みなか)』の
   一息のほかには何もないのである。

   諸宗は結局、天之御中主神を礼拝すべきものであって、
   諸道を分ち、諸宗を立てているけれども、
   それはその真髄に触れざること、
   まことに衣を隔てて肌に触れるようなものであると云うのである

    ―― 『一息の中に諸法万法を包束し、一息万宝に同じ』
   その一息を拝むこと大切である。

・・・

(2)《物質の法則は実は想念の法則である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   物質の法則というものは
   【本来の意味で謂(い)えば】 「 無い 」 のである。

   何故なら、物質は影であって実在ではないからである。

   物質の法則と見ゆるものはすべて想念の法則である。
   心の法則である。

   自然界の法則は「神の想念の法則」の上に
   「人間の心の法則」を二重映ししたものである。

   神の想念の法則は不変でありただ善のみ生ずるが、
   人間の心がその上に印(いん)する法則はその人の心に従って
   二重映し的に、善のみの状態を不完全に
   現像して病気等があるかの如くあらわすのであるが、

   病気は【心の相(すがた)の現像であって本来】無いのである。

・・・

(3)《“ 神 ” と “ 自分 ” とを結ぶために》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   神は決して “ 地獄 ” と題する番組など制作せられないし、
   また放送もせられないのである。

   既に “ 天国 ” 番組を放送中なのである。

   だからイエスは、次のように祈れと教えていられるのである。
   所謂(いわゆ)る模範的祈りと謂(い)われている
   “ 主の祈り ” である。 ―

   「 天にいます我らの父よ、願わくは、
   御名(みな)を崇(あが)められん事を 」 と

   先ず神に呼びかけるのである。

   この場合には、 「 天にいます我らの父 」 という放送局へ
   自分の心を向けたのである。


   ここで、放送局と受信者との間に
   自覚的に連絡関係が結ばれたことになるのである。

・・・

(4)《一切のものその実相を見れば美しい》

   どんなに醜(みぐる)しく見えるものでも、
   その電子顕微鏡写真を見れば、実に美しい秩序整然たる構図をもつ
   組織を備えていることに驚嘆するのである。

   吾々が何かの事実を見て、それをよくないと見えるのは
   充分その組織の奥に深く穿ち入らないからなのである。

   すべてのものを恰も電子顕微鏡写真で見るように、
   その奥にある実相を見るならば、天地一切のもの、
   全ての人間を含めて、悪いもの醜しきものはないのである。

   内在の“善”を見、内在の“美”を見て、
   それを讃美し、あらわそうとする者は、
   常に自分の人生に天国を築くことができるのである。

            <感謝合掌 平成30年10月16日 頓首再拝>

【十七日の法語(10月17日)】 - 伝統

2018/10/17 (Wed) 04:31:49


(1)《堅忍持久の計(はかりごと)を成す日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)


   何事を成すにも堅忍持久と云うことが大切である。
   堅忍持久のないところには物事は成就しないのである。

   堅忍持久と口には云い易いけれども、これを実践するに於て
   ただ一所懸命に‘あり切り’の力で怺えていると云うだけでは
   本当の堅忍持久には覚束ないのである。

   ‘ある’切りの力ではなく、有る以上の力を混々と
   喚び出して来なければならないのである。

   常に益々力の増大を内に感じ、
   それを外にあらわさなけれならないのである。

   そのためには『無限の力の源泉』に触れなければならないのである。

   その『無限の力の源泉』が、
   天之御中主神の『中』であり、『平』であり、そのままである。

   心が『中』を得るに最も達し易き方法は神想観なのである。

・・・

(2)《自然の法則も心で変化する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (全文の紹介)

   京都府舞鶴市に有名な外科の医学博士があった。

   常にレントゲンで患部を診察して執刀施術をするのであったが、
   ついに自分の右の手にレントゲン潰瘍を生じて手指(しゅし)を
   3本切除しなければならなくなったのである。


   あと残った拇指(おやゆび)と人差指の2本も
   切除するほかはないと云う時に
   その医者は 『 生命の實相 』 を読んだのである。


   そして人間は神の子であり、自然界の法則の主人公であり、
   自然界の法則を駆使することは出来るが自然界の法則は人間を
   害することは出来ないと悟った。

   すると潰瘍の進行は止って、手指の切断は不要となり
   今では残った二本の手指で自由に外科手術を
   行っているのである。

・・・

(3)《御名(みな)の崇められんことを》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   神は尊敬しなければならないのである。

   あなたは祈るとき、神の名(みな)を唱え、
   それを尊崇する敬虔(けいけん)な心を
   起さなければならないのである。

   これが“御名の崇められん事を・・・”である。

   “ 御名を崇める ” とは、
   名はコトバであり、コトバは実相である。

   「 神の御名を崇める 」とは、
   神の実相の素晴しさを尊崇することなのである。

   それで生長の家の神想観においては、
   神の御徳(おんとく)の展開として実在する実相世界の光景を、

   無限の智慧の海
   無限の愛の海
   無限の生命の海

   無限の供給の海
   無限の歓喜(よろこび)の海
   無限の調和の海


   と念じて、神と神の世界の素晴しさを
   尊崇する言葉を念じるのである。

   神は、神を尊敬した程度に
   その力を顕現したまうのである。

・・・

(4)《常にイライラする者は短命である》

   七月十四日の朝日新聞の“海外トピックス”欄に
   「S~Zは短命説」という姓名判断が出ている。

   曰く「姓の頭文字がアルファベットの終りに近いところ、
   特にSからZの間の寿命は、他の人に比べて十二年も短い
   とのショッキングな研究結果が十二日、英国で公表された。

   トレーバー・ウェストン医博(三九歳)が英国医学協会に報告したもので、
   S~Zグループの人は、A~Rグループの人に比べて2倍も潰瘍ができやすく、
   3倍も心臓発作に襲われやすいという。

   その理由が面白いのであって、S~Zの姓名をもっている人は
   「名前を呼ばれるのがいつもあとなので、いらいらして待つ度合いが大きく、
   試験の結果なども、ほかの者が合格とわかって喜んでいるときに、
   自分の番はまだかと気をもまなければならないから」だそうで、
   この研究はロンドンの病院での十年にわたる調査が裏付けになっている。

   諸君は常に雄大な気魂をもって人生に臨み、小さな失敗や栄進に
   こだわることなく大海洋に掉さすが如く悠然と生活せよ。

   或る先輩は入学試験に失敗してクヨクヨしている青年にいった。

   「何を1年くらい入学が遅れたことをクヨクヨするか。
   ノンビリと生活して2年間寿命が延びたらその方が有利でもあるし、
   人格形成に役立つではないか」と。

   まことに至言である。

   入学者名簿のビリに姓名があるからとてクヨクヨするような愚かな人間にはなるな。

           <感謝合掌 平成30年10月17日 頓首再拝>

【十八日の法語(10月18日)】 - 伝統

2018/10/18 (Thu) 03:30:35


(1)《全力を尽す日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   明治天皇御製 ――

     身にはよしはかずなるとも剣太刀とぎな忘れそ大和心を


   毎日進歩する者は遂に偉大に到達する。
   油断をすればあとへもどるのである。

   進歩は累進的なよろこびであり、
   これだけ進歩して終りと云うことは無きものである。
   『点滴石を穿つ』と云う諺もある。

   人間は力が無いのではない、持続しないだけのことである。

   神は吾々が力を出せば出す程、それを補い給うのである。
   力を出すことは神の子の特権である。

   力を出した時には悦びを感ずる。
   兄弟が力を出した時には賞賛したくなる。
   同胞が力を出した時には喝采せずにはいわれない。

   力を出すことは人類の願いであり、神が人間に与えた理想である。

・・・

(2)《実相人間には法則は害し得ぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   ところがその患者が 「 人間は神の子であり、自然界の法則は
   人間を益するためにのみ作用することが出来るのであって、
   人間を害するために作用するように見えるのは
   自己の迷いだ 」 と悟ると

   自然界の法則が人間を害しなくなくなるのは、
   法則が不確実原理のものであって
   人間の信念によって左右せられる証拠である。

・・・

(3)《天国は 既に 実相に於いて実在する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   その次にイエスは 「 御国(みくに)の来(きた)らんことを。
   御意(みこころ)の天の如く地にも行われんことを 」
   という風に祈れと教えていられるのである。

   その天国の状態の如く、地上もそのようになるように ー
   という願いが、この祈りであり、

   「 実相の天国 」 を既成の天国とし、
   地上にその写象(しゃしょう)として地上天国を来(きた)らす
   ために心の波長を合わすための祈りがこの祈りである。
   
・・・

(4)《自己信頼と自己尊敬》

   人間が自己の人格を向上させるのに三つの条件がある。

   第一に自己信頼又は自己尊敬である。
   これは自己劣等感の反対である。
   自己を劣等視する者は常に自己の進歩を自己抑制して
   大きく伸びることができない。

   これに反して”神の子”として自己を尊敬し信頼できるものは、
   自己の内に”無限の能力”と”無限の善”とがある事を自覚して、
   その”無限”を常に発掘し表現することに自信と歓喜とを感ずるが故に、
   常に毎日進歩することが出来るのである。


            <感謝合掌 平成30年10月18日 頓首再拝>

【十九日の法語(10月19日)】 - 伝統

2018/10/19 (Fri) 04:32:30


(1)《心の鏡をみがく日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   しづかに坐して自己の中(うち)なる『中(ちゅう)』に触れよ。
   ‘そのまま’の心になるのである。偏らぬ心になるのである。

   天之御中主神なる宇宙本源の大神の生命の
   『中(みなか)』とひとつになるのである。
   ひとつになっただけのものが其処に現れて来る。

   無限の力と一つになる者には無限の力が現れて来るのである。

   その活力は神から来るのである。
   神と波長を合わすこと。

   それには人を憎まぬこと、憤らぬこと、争わぬこと、
   人の悪を思わぬこと、嫉妬せぬこと、羨ましいと思わぬこと、
   今自分に与えられたものを、唯有難いと素直に受けること。

   『今』を生かすこと。すべての人を、物を、拝むことである。


     明治天皇御製 ――

         われもまたさらにみがかむ曇なき人の心を鏡にして

・・・

(2)《実相人間は物質や黴菌には害されぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   実相に於ては、人間は霊的存在であるから
   物質に支配されることはないのである。

   実相に於ては、人間は万物の霊長であるから
   黴菌に支配されると云うことはないのである。

   実相に於いては 『 甘露の法雨 』 にあるように
   「 一切の生物処を得て争うものなく相食(あいは)むものなく」
   互に害する状態は存在しないが故に黴菌に冒される
   と云うこともないのである。

   「 絶対そんなことはない。ない。ない。神の子の勝利だ 」
   と三万遍繰返して思念せよ。

・・・

(3)《日用の糧(かて)を与え給え ” と祈る所以(ゆえん)》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   その次にイエスは 「 我らの日用の糧を今日もあたえ給え 」
   と祈るように教えている。

   日用の糧というのは表面は食物(たべもの)のことであるけれども、
   衣食住ぜんたいを含んでいるのであるし、
   更に、精神の糧、魂の栄養となる真理も含んでいるのである。

   愛児がお父さんに
   「 お父ちゃん、これ買って頂戴(ちようだい) 」 といっては
   悪いということはないのである。

   親は寧(むし)ろ、子供から、そういって
   求められることを嬉しくさえ思うであろう。

   しかし言葉多くクドクドと子供から言われたら、
   親も面倒くさくなって「 うるさい!! 」 といって
   撥(は)ねつけるかも知れないのである。

   それゆえに イエスは

   「 祈るとき徒(いたず)らに言(ことば)を反復(くりかえ)すな 」

   と教えているのである。

・・・

(4)《己に克つものは最大の勇者である》

   ”神の子”としての自己尊敬が自己の内に確立したならば、
   その自己尊敬を裏切るような事はしてはならないのである。

   それには“神の子”たる者が為すのにふさわしくないような
   低卑な思いを起こさず、低卑な行為をしないように
   自己訓練をしなければならないのである。

   しかし人間は”内在の神の子“たる本性と、それを包むに”肉体“という
   他の哺乳動物と同様な本能をもつ”衣裳“又は”作業服“を有するのである。

   したがって”肉体”の欲望が”神の子”たる本性の要求に優先するならば、
   ”神の子”たる尊敬すべき資質を表現する機会を失い、その人は単なる
   哺乳動物の欲望を満足させる動物の境涯に堕落してしまうことになるのである。

   終戦後、日本弱体化のために押付け的に制定されたる日本憲法は
   この哺乳動物的欲望を基本的人権として強調しているので、

   戦後育った若い人たちは動物的欲望の主張とその満足を当然権利として要求して
   “神の子”たる魂の願いを軽んじる傾向があるのであるが、
   それでは魂の乗馬であるべき肉体を、魂の上において、馬が人間の上に乗って
   主人公になっているのと同様である。

   これでは高貴なる人格形成はできないのである。

   魂の願い適わない肉体の欲望を克服して、肉体をして完全に魂の願望遂行に
   従属せしめること、これによってのみ高貴な人格が形成され得るのである。

   だから高貴な人格形成の条件の第二は肉体の動物的欲望に打ち克つこと、
   即ち「克己」ということである。

   古来、己に克つものは最大の強者であるといわれている所以である。


           <感謝合掌 平成30年10月19日 頓首再拝>

【ニ十日の法語(10月20日)】 - 伝統

2018/10/20 (Sat) 04:19:12


(1)《精神を『今』に集中する日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   善と波長を合わし、心の律(リズム)が本当に清まったならば
   病気と云うものは大抵禦ぎ得るのである。

   大抵の人は今出している力の数倍もの力を内に蔵している
   のであるが、一心不乱になり切らないから、
   折角持ち合わせている偉大の力も出て来ないのである。

   絶体絶命のときになると、今迄よりも数倍の力が出る。
   出るのは、その力が内部にあった証拠であって、吾々が普段にでも
   その力を出そうと‘真に決心すれば’出る筈なのである。

   一処に集中しさえすれば力は出るのである。

・・・

(2)《愛に背く法則は存在しない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   物質は人間を害する力であると云う古き皮袋の中に、
   真理の新しき酒を注ぐことは出来ないのである。

   在来の物質観を捨て去り、宇宙には唯一つの大法がある。

   それは神である。

   神の大法は愛であり、調和である。
   愛にそむく法則、調和に背く法則などはあり得ようがない、
   従って、人間に苦痛をもたらす法則などはあり得ようがない
   と云うことを知ることである。

・・・

(3)《素直に神に求めるがよい》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   だから、 “ 神の子 ” たる人間も、親様(おやさま)なる神様に、
   何を求めても、求め過ぎるということはない。

   されば、 “ 求めよ、さらば与えられん ” と
   神様は 素直に神に求めることの無邪気さを
   愛(め)でていられるのである。

・・・

(4)《己れに克つためには意志の強固が要請せられる》

   「己れに克つ」ためには、何が「真の自己」の願いであり、
   何が「ニセモノの自己」(肉体的欲望)の願いであるかを知らねばならぬ。

   即ちソクラテスの「汝みずからを知れ」ということである。

   そして、「真の自己」の願いを成就するためには、
   「真の自己」の本源の願いを生かすために
   派生せる肉体の欲望を剪定し摘果しなければならない。

   それは恰も、美味の大きな果実を実らせるためには、不要の枝を剪定し、
   不必要に多くの果実を実らせないで選りすぐった果実だけを残して
   他の小果実を摘みとることが必要なのと同様である。

   このようにしたとき、吾らの人格の最も尊貴なるもののみが果を結び、
   低卑なるものが影を消すのである。

   それには意志の強固ということが必要な条件となるのである。

   戦後、新聞雑誌で見ると、「意志」という語が全く見当らず
   「意思」という字が専ら使われているようであるが、

   人間の意識活動を知・情・意に分類すると
   「思」というのは寧ろ「知」に属するのであって、
   意欲し志向する心の働きとしては「意志」という語
   が私は適切であると思っている。

            <感謝合掌 平成30年10月20日 頓首再拝>

【ニ十一日の法語(10月21日)】 - 伝統

2018/10/21 (Sun) 03:58:48


(1)《神想観を励む日 》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   だから働けば働くほど力が出ると云っても、それには
   出し方があるのだと云うことを知らねばならぬ。

   無限精力を以て仕事をつづけようと思うものは、
   血液が頭に凝ったり、肩に凝ったりしないように、
   血液を下腹部に又は脚部へ自由に集める練習をすることが
   必要である。


   それには神想観の基本的練習法が最も効果がある。
   即ち正しく坐して静かに『神の生命流れ入る、流れ入る・・・・』
   と観じ、その神の生命が、後頭部から自己の背骨へ、背骨を伝わって
   ずっと腰へ、脚へ、足先へと流れ入るように観ずる。

   意志の力で血液を一定のところへ集中しようとしても無駄である。
   観の力である。心に描くのである。

   神の生命が自分を今癒してくれつつあるように観ずるのである。

・・・

(2)《最初に 「 心 」 あり、万物あらわる》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

   非物質の叡智(えいち)が素粒子の根元であり、
   その素粒子が物質を構成する法則も非物質の叡智である。

   非物質の叡智とは 「 心 」 である。

   心が物質に先立つのである。
   物質にもある働きがあるが、それは 「 内在の心 」 である。
   心は物質を造り、物質を支配するのである。

・・・

(3)《人を赦さないとき、祈っても神と波長が合わぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   人の過失(あやまち)を免(ゆる)すことなく、
   常に憎みつづけているときには、神の恵みと波長が合わないので、

   祈るに先立って、人を憎んだり、人と争ったりしている場合には、
   先ずその人を赦す神想観をして、

   自分が “ 愛 ” と “ 赦し ” に満たされた
   心の情態になってから神に祈るのがよいのである。

・・・

(4)《あなたの意志の力を強固ならしめるには》

   何でも、使わない力は退歩するのである。
   意志の力も使わなければ退歩する。

   筋肉の力が、ボディ・ビルに見るように、
   少し自分の現在の力では重荷に過ぎると思えるほどの重量を持ち上げたり、
   引っぱったりする練習をつづけることによって、
   前よりも一層発達するのと同じように、

   意志の力も、耐えがたきを忍び、なかなか抑えがたき欲望を抑える
   練習をつづけることによって、今より一層発達するのである。

   一人では肉体の欲望に負けてしまいそうな時にも、
   集団訓練又は集団練成に於ては
   肉体の欲望に打ち克つための集団精神があらわれてきて、

   兎もすれば安易を欲する肉体の欲望に魂の自分が屈服しそうになる時にも、
   己に克つ練成ができるのである。

   集団練成を行う練成会が必要な所以である。

           <感謝合掌 平成30年10月21日 頓首再拝>

【ニ十ニ日の法語(10月22日)】 - 伝統

2018/10/22 (Mon) 04:36:11


(1)《熱意を以て事に臨む日》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

   (抜粋として)

   吾等は偉大な仕事をするには、
   内部に偉大なる爆発力を必要とするのである。

   吾々は燃えなければならない。
   先ず内に燃える力乏しきことを恥じよ。

   而して何事にも燃える熱意を持て。

   燃えよ、燃えよ、燃えること少なきを恥よ。
   燃えるところに人を引摺って行く力が出るのである。

   人のことを羨む時間に、自分の成すべきことを成せ。
   機会は常にあるのである。
   自分の成すべきことを成しつつある『今』が機会なのである。

   『今』が久遠につながっている。
   『今』の他に『久遠』はない。
   『今』生きることが『久遠』を生きることになる。

   諸君は『今』燃えよ。国家の為に今燃えよ。

・・・

(2)《「 心 」 は偉大なる創造者》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (抜粋として)

    「 心 」 は偉大なる創造者である。

    「 心 」 は空間的存在ではないから、
   物質の入り込み得ない処へも侵入して、
   それを適当に処置し得るのである。

   脊椎(せきつい)カリエスで骨質の中へ結核菌が入り込んで
   骨質がボロボロになっているものでも
   「 心 」 が真理を悟ると治ってしまうのである。

・・・

(3)《誘惑に打ち勝つための祈り》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

   (抜粋として)

   「 我らを嘗試(こころみ)に遇わせず、悪より救い出し給え 」
   という “ 主の祈り ” の最後の句は何を意味するのであろうか。

   嘗試(こころみ)とは “ 悪への誘惑 ” である。

   吾々は肉体的快楽を目の前に置かれるとき、
   肉体の快楽に心を奪われて、
   心が神に向うことが妨げられるのである。

   そんな時に、神に祈って神の他力(たりき)のめぐり来りによって、
   誘惑に抵抗することが出来るのである。

   神は、吾らが求むる時、何物でも与え給うのである。
   それは物質的なものを求めて与えられるだけではなく、
   精神的なもの、人を赦す力、煩悩的欲望に打ち勝つ力等
   ・・・如何(いか)なるものでも、

   本当に神に心を振り向けて求むれば、必ず与えられるのである。

・・・

(4)《魂の進軍と勝利の戦い》

   汝の「ニセモノ」を監獄に投じ、汝の「ホンモノ」を獄舎より解放せよ。

   それが根本的な人間革命である。

   「ニセモノの自分」を自由に解放しておきながら、
   高貴なる人格を形成しようと思っても、そこには唯、
   「ニセモノの自分」のジグザグ行進が始まるだけである。

   この意味に於て人間の生活は、常に「ニセモノ」を克服する
   「ホンモノ」の進軍と勝利の戦いだということができるのである。

   勇気ある者は、いつも「ホンモノ」が「ニセモノ」に負け続けている
   戦いに満足していてはならないのである。

            <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.